2009年11月 8日 (日)

【時習26回3-7の会 0263】~「11月08日:『時習26回ゴルフ・コンペ』開催報告」「秋の夜長に俳句はいかが・・『四T』〔その2〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0263】号をお送りします。
 昨日、11月07日は、二十四節気でいう『立冬』。最近、朝は肌寒さを感じる程、秋も深まって来たと実感できる時節となりました。
 さてまず今日は、掲題・副題にあります様に、額田ゴルフ倶楽部で行なわれました「『時習26回ゴルフ・コンペ』開催報告」です。
 今日は、天気にも恵まれ絶好のゴルフ日和でした。参加者は先日お伝えした通りの15名。
 【2637の会】からは小生1名のみの参加でしたので、その点がちょっと寂しかったです。
 でもやっぱり同期っていいですね。大変楽しい一日を過ごすことができました。とても良かったです。
 ところで、戦績はというと、見事、壁谷(柴田)N輔君〔旧【3-5】〕が優勝しました。添付写真をご覧下さい。表彰式会場での全体写真です。
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 来年は、壁谷君が優勝幹事で、11月の14日か07日を予定しています。奮ってご参加下さい。


■さて今日の話題は、前号に続き、俳句の話題です。前号が「四S」でしたから、今回は「四T」をご紹介させて頂きます。
 森澄雄著『俳句への旅』~〔八 女流俳句の興隆〕に、次の様に紹介されています。

 昭和に入って女流俳人が多くなったが、中でも、男性の四Sに対して、所謂四T――星野立子(たつこ)(虚子の娘)、中村汀女(ていじょ)、三橋(みつはし)鷹女(たかじょ)、橋本多佳子(たかこ)――の女流作家がことに活躍した。大正時代の(長谷川)かな女、(阿部)みどり女らのしとやかで家庭的な作品に比べて、いっそう自由に、感覚も繊細に、しかも大胆になっているのが特色といえる。
 〔【小生注】森澄雄は、この後、四Tの作品を3句ずつ紹介している。「四T」について、村山古郷+山下一海編『俳句用語の基礎知識』(角川選書)にて、詳しく説明しているのでその一部をご覧に入れます。どうぞ・・〕

 四Tは山本健吉の命名による。『昭和俳句』(角川新書)に掲載された「女流俳句について」の項に《私は四Sという呼称にならって、女流俳人の四Tと呼んだことがあります》と述べている。昭和三十三年に刊行されたものである。しかし、四Sほどには、一般化されていない。〔中略〕
 昭和二年頃より「ホトトギス」婦人句会が成長、進出し始めたが、《主婦として家庭的な日常茶飯事の中に抒情の憩いを見出すといった境地である。そしてこの抒情の日常性を突き進めて、そこに清新繊細な女の感性を滲み出させたのが、星野立子と中村汀女とである》と述べている。
 〔【同注】山本健吉は〕星野立子を、虚子の娘であり、《客観写生の立場を代表し、作風はナイーブ》〔【同注】であると、そして中村汀女を、〕《女流俳句の第一人者であろう》〔【同注】と紹介している。〕〔中略〕
 橋本多佳子は、杉田久女についで、山口誓子についたが、《誓子の知的・構成的な作風の跡を追っている様であったが、次第に脱却して、独自の個性をはっきり示すに至った》と述べ、〔中略〕
 三橋鷹女は《小野蕪子(ぶし)の「鶏頭陣」の中にあって始めから個性的であった。・・・・女性としての意識を強く句の中に持ち込み、かなり大胆に官能的なものを持ち、久女の句の一面をさらに近代的に発展させている》とした。〔了〕

 それでは、四Tの作品を順次ご紹介して参ります。


 鳰がゆく水尾(みを)見えぬ程(ほど)夕ぐれぬ  星野立子(1903.11.15.-1984.03.03.)〔80歳03月〕

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【解説】〔秋元不死男『昭和秀句Ⅱ』(春秋社)より〕
 昭和12年作。句集『続立子句集』所収。〔立子34歳〕
 星野立子は高浜虚子の次女として明治36年、東京で生まれた。『ホトトギス』の婦人十句欄で腕を磨いた。あたかも虚子が花鳥諷詠を提唱した時期に当っているので、その教えに従い、写生を根底に広い幅をもって花鳥諷詠を忠実に実践した。作風は軽妙にして淡白、女性特有の繊細な感覚を駆使するところに特長がある。〔中略〕
 鳰(ニオ)はカイツブリで、鴨(カモ)より小型な冬の水鳥。湖沼等に浮かんで泳ぎ回り、長く水に潜っては魚等を巧みに捕食する。鈴をふる様な鳴き声も懐かしい。
 この句は静かな水面をニオが滑って行く景を句にした。さっきまではニオの描く水尾がはっきり見えていたが、今はあたりが暮れかかっているのでよくわからない。が、暮色はまだ濃いのではなく「水尾見えぬ程」に暮れている。その状況をさりげなく「程」と軽妙にうたいあげた。一秒毎に暮色のヴェールが沼か湖の一刻を覆うて行く様を、噛みしめる様に惜しんでいる心持が軟らかく打ち出されている。

【小生comment】
 水尾〔=澪・水脈〕とは、水の流れ。ここではニオが水面を滑っていく跡に残る水脈のこと。この句は秋元不死男氏が解説している通りである。この句は冬の句であるが、どこか今時分の秋の夕暮れにも相応しく思われるから不思議だ。


 時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ  中村汀女(1900.04.11.- 1988.09.20.)〔88歳05月〕

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【解説】〔現代の俳句6『自選自解/中村汀女句集』(白凰社)より〕
 ぐっと一押しに水をいっぱい出してくれるポンプ井戸のありがたき満足さを知らぬ人はあるまい。時雨は妙に私たちをいじけさせるが、その中の夕仕度のわびしさを、一押しずつに、どっと水を吐くポンプは打ち消しもする様だった。(昭和12年作)『汀女句集』所載〔汀女37歳〕

【小生comment】
 山本健吉は、著書『定本 現代俳句』の中村汀女の項で、次の様に紹介している。

 『ホトトギス』にはもと「婦人十句集」という欄があって、長谷川かな女や高浜家の縁者の集まりがあり、長く続いてその中から阿部みどり女、本田あふひ、杉田久女等が輩出した。昭和二年頃から『ホトトギス』婦人句会となり、それが基盤となって星野立子の『玉藻』が生まれ、汀女・立子という二人の女流俳人の名が浮かび上がってきた。〔中略〕所謂台所俳句の境地〔中略〕その様な雰囲気の中から抜きん出て女らしさの俳句の典型を示したのが汀女・立子の二人である。〔中略〕「秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸(マッチ)かな」「蜩(ひぐらし)や暗しと思ふ厨(くりや)ごと」「春暁や水ほとばしり瓦斯燃ゆる」等、気の利いた表現の典型的な主婦俳句であり、台所俳句である。だがこの様な凡人性の中に、細(こま)やかで清新な女の感性が沁み透っていることにおいて、彼女に如(し)く者はない。

 そう言う意味から言えば、この「時雨るるや・・」の作品もこの主婦俳句・台所俳句の典型である。
 井戸ポンプは、昭和30年代頃まで、小生父方の実家にあった。この句を詠んで懐かしい想い出がふと甦った。真夏の夕暮れ近く、盥(たらい)いっぱいにポンプ井戸の冷たい水を入れ確り冷した西瓜(スイカ)を従兄弟・従姉妹たちと争う様に頬張った想い出だ。井戸水は年中15度C前後なので夏は冷たく、冬は水道水よりずっと暖かく感じたものだ。
 昭和初期の頃、どこの家庭にも井戸ポンプがあり、一家の主婦はその井戸ポンプで汲み上げた井戸水で炊事・洗濯をしていた。
 時雨れると寒く、そして水は冷たい。現代の様に瞬間湯沸かし器やセントラル・ヒーティングのない時代だ。そんな悪環境の下、手押しポンプで汲み上げた井戸水が、ドッとと水を吐く勢いに、冷たい水仕事の辛さを暫し忘れさせて「元気」をくれるのだ。
 昭和30年中頃迄だったろうか、小生も厳冬に水洗いを続けると皸(あかぎれ)や霜焼(しもやけ)がよく出来たものだった。
 それにしても、現代の我々は幸せだ。科学の進歩と、日本の経済発展に感謝したい。

 勿論、汀女の俳句には、以前ご紹介した「外(と)にも出よ触るゝばかりに春の月」の「目がさめるばかり明るい抒情的作品〔山本健吉【前掲】〕」や「とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな」の「何か幼い子供時代に立ち返った様な心の弾みが出ている〔同【同】〕」という傑作がある。


 祭笛(まつりぶえ)吹くとき男佳かりける  橋本多佳子(1899.01.15.-1963.05.29.)〔63歳04月〕

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【解説】〔大岡信『百人百句』(講談社)より〕
 『紅絲(こうし)』(昭和26年)所収。日本敗戦直後〔昭和24年〔多佳子50歳〕〕の作。男達は戦後のつらい生活をしているが、祭で笛を吹いている時ばかりは、男らしいいなせな姿がよく似合う。この瞬間をとらえた多佳子には、男を意識した女の眼がある。美貌の女流俳人と評判され、絶えずそれを自覚していたのであろう多佳子が男を誉める句には、全体に艶めかしい良さがある。祭の句は多いが、この句は時と場所と心得て女が男のよさを上手くとらえた句だと思う。
 この句には前書があり、「戦後はじめて京都祇園祭を観る」とされた十句のうちの一句。〔中略〕祖父は琴の山田流の家元で、清風と号し黒田家に出仕して琴を教えていた。誇り高き家柄で美女だったこともあり、戦前から戦後亡くなってからも、抜群に人気が高く、女性俳人の人気投票が俳句雑誌で行なわれた時も、橋本多佳子は一位にランクされていた。〔以下略〕

【小生comment】
 谷口桂子『愛の俳句 愛の人生』~橋本多佳子~の中では、以下の様な紹介で始まっている。

 多佳子というと、まずその美貌が思い浮かぶ。
 実際に多佳子に会った作家、松本清張は、彼女が五十代の時に「まるで三十代の若さと美しさ」と思い、暗い部屋がぱっと輝いたような姿に「私は額に汗をにじませた」と書いている。〔中略〕
 多佳子に関して、私は背筋が伸びた人という印象を持っていた。〔中略〕いつも着物姿で、長身の立ち姿が凛としていた。それは人生への処し方にも繋がる様で、どんな境遇に陥っても毅然と相手を見つめている。

 橋本多佳子は、はじめ杉田久女に、ついで山口誓子に師事しただけあって、作風も構成力に富んだ歯切れの良さに、女性の持つ艶やかさが加わり魅力的だ。「戦後はじめて京都祇園祭を観る」とされた十句のうちの他の句に「ゆくもまたかへるも祇園囃子の中」「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣」「堪ゆることばかり朝顔日々に紺」があるが、皆秀句である。


 白露や死んでゆく日も帯締めて  三橋鷹女(1899.12.24.- 1972.04.07.)〔72歳03月〕

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【解説】〔大岡信『百人百句』(講談社)より〕
 『白骨』(昭和27年〔鷹女54歳〕)所収。女性のナルシズムの極致とも思える句である。「白露や」という冷たく透明感のある上五(かみご)もよい。「死んでゆく日も帯締めて」には、身だしなみを重んじた女性が、同時に女として死ぬときまで美しさを保つという決意を示していて、気品と寂寥の結びついた澄んだ悲しみがある。鷹女は実際に美人だった。女性俳人の中でも特別に気位の高い人としても知られ、なまくらの俳人は側(そば)に寄ることも出来ないと思われていた人だったので、その鷹女が詠んでいるからますますこの句が印象的である。鷹女ファンにとってはこたえられない句であろう。〔中略〕
 三橋家は歌人が多く出ており、兄が若山牧水に師事していたので、はじめ鷹女は牧水や与謝野晶子らに私淑して短歌を作っていた。東剣三に嫁いでから俳句に転じ、夫と共に原石鼎の「鹿火屋(かびや)」に学んだ。〔中略〕流れとしては新興俳句系統に近づいたが、この人は誰かに師事したという感じはしない。同伴者はいるにはいるが、いつでも一人ぼっちで立っている。つまりそれだけ誇りが高かったのだろう。
 一人我が道を行く態度なので、自分の生き方を絶えず俳句で表に押し立てていく。花鳥諷詠的な俳句の正反対であった。花鳥諷詠なら対象の花鳥に寄り添う訳だが、この人の場合は、花鳥でも何でも自分の個性を表現するための道具として使う。気が強い人だが、それを最後まで貫き通したのが立派である。〔以下略〕

【小生comment】
 この句は、従前【2637の会】《会報》でもご紹介している。が、三橋鷹女を紹介する作品として最適と思い、大岡信氏の名解説と共にお届けした。
 「鞦韆(しゅうせん)【注】は漕ぐべし愛は奪うべし」「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」「緑陰にわれや人の友もなく」「燕来て夫の句下手知れわたる」
 以上の句は、谷口桂子『愛の俳句 愛の人生』~三橋鷹女~の中で紹介された鷹女の句である。そして谷口氏は次の様に締め括っている。
【注】「鞦韆」=ブランコ。

 年を重ねていくと、その過程で否応なく心の襞(ひだ)に澱(よどみ)が溜まっていく。鷹女の体質はそれを受け付けなかった。よくも悪くも潔癖である彼女は、自分を大切にするあまり自らの身心を汚したくなかった。最愛の自分自身を永遠に透明に、純粋に保ちたかったのだ。
 それが鷹女の己の愛し方だったのだろう。

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (昭和16年『魚の鰭』)  〔了〕


【後記】■今日の締め括りは、『立冬』を過ぎた頃、「冬菊」を詠んだ水原秋櫻子の代表作の一つをご紹介してお別れしたい。
 この作品については、石田波郷が「秋櫻子の六千の全作品から一句あげよと言われたら、この句を選ぶ」と言い、「この句の洗練された叙法、清澄な気品」は秋櫻子の「あらゆる面に共通するもののエッセンスだからである」といっている。では、どうぞ・・

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ  秋櫻子

【解説】〔『水原秋櫻子自選自解句集』(講談社)より〕(昭和23年作)『霜林』所収。
 菊は、立冬を過ぎても咲き続けた。中菊は既に終わって小菊だけである。しかし残り少なくなる程大切にしたので、来る日の来る日も、白や黄の花が眼を楽しませてくれた。
 つい十日程前迄は、まだ鶏頭等も残っていたし、柿の木の梢には渋柿も眺められた。そういうものがお互い光を持ち、その光をかわし合って、晩秋の趣を成していたのに、今では全てが無くなって、残っているのはこの冬菊だけである。白には白の光、黄には黄の光があるけれど、それはただ自分のまとう光だけで、まことに寂しい感じである。しかし寂しい中にも、どこか凛としたところがあって、澄み透っている。私は時々庭に下りては、その一輪を剪(き)り取り、「鶴の首」と言われる白磁の瓶に活けて床の間に置いた。やがて朝毎に霜が降り、ついには霜柱さえ立つ様になったが、それでも小菊は咲き続けていた。八王子時代の良い思い出の一つである。

(了)

2009年11月 1日 (日)

【時習26回3-7の会 0262】~「秋の夜長に俳句はいかが・・」


 今泉悟です。 大分日が短くなり秋も深まって参りましたが、皆さん如何お過ごしですか。
 当地豊橋は、10月08日に東三河地方を襲った台風18号の影響で、街中(なか)のポプラ、銀杏等、いつもは紅葉が美しい街路樹の葉が塩害で茶色に枯れてしまい、改めて台風の凄さを感じています。
 さぁ、今日も【2637の会】会報【0262】号をお送りします。
 今日も【2637の会】関連のニュースはありません。
 ただ【時習26回】関連のニュースを二つお伝えします。

 〔1〕最初の話題は、【時習26回ゴルフコンペ(時習26会)】開催のご案内です。
 関係者には既にご案内済ですが、毎年秋に年1回の定例開催となっていますゴルフ・コンペのご案内です。
 来る11月08日(日)09時03分から、岡崎市額田町にある額田ゴルフ倶楽部西コースにて、現状参加予定者4組15名で開催する運びです。
 あと1名の空き枠がありますので、もしご興味ある方は、小生宛にご連絡下さい。

 〔2〕二つ目の話題は、先週10月28日の新聞各紙朝刊に、日本郵政の新役員人事が発表されましたが、その社外取締役の一人に、我等が同期神野T子さん〔旧【3-9】〕の弟、神野吾郎氏〔中部ガス(株)代表取締役、(株)サーラコーポレーション代表取締役社長〕が就任することが27日ほぼ固まったと報じられました。「人選は郵政事業の公共性に配慮。電力や電話、ガスといった公共性の高い業種の出身者や、中小企業や地域経済の実情に詳しい人材を中心に選んだ。」として、九州電力会長等と共に選ばれた様です。
    ↓ ↓ ↓ 
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920018&sid=ay8ZOwvcGPtY ←ここをクリック願います。

             *   *   *

 さて、話題はかわって、昨年10月31日【時習26会3-7の会 0209】号では、以下の様に紹介させて頂いてました。


 敢えて思ふ 燈火親しむべきの候  久保田万太郎〔添付写真〔01〕ご参照〕

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【解説】「燈火親しむ」とは、秋の夜、書物に親しむことを言う。中唐の政治家・詩人、韓愈「 符読書城南 」(全唐詩341巻)の「・・ 時、秋にして積雨霽(は)れ、新涼郊墟(こうきょ)に入(い)る。灯火稍(ようや)く親しむ可(べ)く、簡編(かんべん) 卷舒(けんじょ)す可(べ)し ・・」が出典。

 灯(ひ)のともるまでのくらさや秋の暮  久保田万太郎

【意】秋の夕暮れ、灯がともって、その灯の明るさ、眩しさに驚く。それほど、闇の暗さが際立つ。実感できる俳句である。

 これらに触発され、小生も拙句を一つ・・。句またがりの一気呵成の十七句。読書しながら想うは君のこと・・

 燈火したしみながらきみおもひけり  悟空


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 流石に現代では燈火ではないが、デスクの蛍光灯の灯りの下で、小生は今、俳人森澄雄著「俳句への旅」〔角川選書〕〔添付写真〔02〕ご参照〕を読んでいる。
 そしてまず、今日ここでご紹介する7名の高名な俳人の生年・没年〔森澄雄氏は今もご壮健である(為念)〕をご覧下さい。
 長命順に並べてみたが、驚く勿れ、7名中5名が卒寿以上。最短命の高野素十〔以下、敬称略〕でも満83歳。
 俳人は現代の画家同様、極めて長命な人が多い。因みに、青邨、風生、誓子、秋櫻子、素十は東大俳句会出身。
 秋櫻子、素十は医者。青邨は大学教授。澄雄は高校教諭。風生は郵政事務次官。
 青畝は幼少時、難聴を煩い進学を断念した銀行員。妻を二度亡くしている。
 誓子は大学卒業後、住友合資に17年勤めるも胸部疾患の病状悪化で退職し、以後文筆活動に専念。
 7人は、7人夫々の一生を送った(送っている)が、花鳥諷詠のごとく、身辺での出来事の機微を逃さず十七文字に纏めうたい上げていく日々が、老いを遠ざけているのであろう。
 小生も、立派な先人達を見習い、俳句を勉強して元気に長生きしたいものである。〔笑〕


 山口青邨 〔 1892.05.10.- 1988.12.15.〕(96歳07月)〔添付写真〔03〕〕
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 阿波野青畝〔 1899.02.10.- 1992.12.22.〕(93歳10月12日)〔同〔04〕〕
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 冨安風生〔 1885.04.16.- 1979.02.22.〕(93歳10月06日)〔同〔05〕〕
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 山口誓子〔 1901.11.03.- 1994.03.16.〕(92歳04月)〔同〔06〕〕
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 森澄雄〔 1919.02.28.- 〕(90歳08月)〔2009.11.01.現在〕〔同〔07〕〕
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 水原秋櫻子〔 1892.10.09.- 1981.07.17.〕(88歳09月)〔同〔08〕〕
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 高野素十〔 1893.03.13.- 1976.10.04.〕(83歳06月)〔同〔09〕〕
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 それでは、「俳句への旅」の中から一つ「七 四Sの台頭――抒情の回復と近代的素材」をご紹介します。では、どうぞ・・

 〔七〕 四Sの台頭――抒情の回復と近代的素材

 「客観写生」の主張の下に、暫く沈滞していた『ホトトギス』は四Sの台頭によって、昭和初期再び黄金期を迎える。四Sとは、東の水原秋櫻子、高野素十、西の山口誓子、阿波野青畝の四作家の俳号の発音から、山口青邨がつけた呼称である。大正初めの飯田蛇笏、前田普羅たちによる第一期の興隆期が、聳え立つ山脈の時代とすれば、この四Sの時代は、平原の時代と言えよう。そこに咲くとりどりの草花、またそこに立った都市の近代的風物に新しい光を当てた時代である。
 水原秋櫻子は初め窪田空穂に短歌を学び、万葉風の言葉や調べを取り入れて、今迄の「わび」「さび」といった、やや暗い室内的芸術から俳句を明るい外光の中に引き出し、絵画で言えば印象派風の明るい叙情句を、そして山口誓子は、今迄俳句に詠まれることのなかったスポーツや都市の風物に素材を広げ、虚子より「辺境に鉾を進める征夷大将軍」と呼ばれた。
 高野素十は虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」の使徒としてそれを守りつつも、自然の機微に触れる的確な作風を形成し、阿波野青畝は庶民的で温かく、品位のある自在な詠風を開いた。このふたりも共に調べを大切にしたことは言うまでもない。『ホトトギス』の客観写生の歴史の中で、四Sの時代もまたある意味で主観の高揚期であったと言えよう。
 【小生注】以下四Sの代表作を5句ずつ森澄雄は紹介しているが、ここでは夫々1句ずつ、代表作とされる以下の4句をご紹介する。
 そして、全作品とも、自選自解の解説、或いは山本健吉の「定本/現代俳句」での解説をご紹介する。森澄雄の四Sの評価は蓋し的確で、彼の述べた特長がその代表作によく表れている。その妙を堪能して見て下さい。

 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋櫻子

【解説】〔「水原秋櫻子自選自解句集」より〕
 翌日の正午近く、大洞を出発して、敷島口から下りることにした。上越線の敷島駅に達する道で、六里ほどある。
 昨日と同じく麗しい日和であった。前橋口との別れ路に近く、大きな水楢(みずなら)が立っていたので、その樹蔭に休憩した。附近の木に啄木鳥(きつつき)が来ていて、幹を叩く音が静かな山気の中でよくきこえた。
 その時は、詠んでみる気もなくて捨てておいたのだが、翌年の夏のことと思う。ふと、それを詠みたくなって、なんの苦もなく詠みあげた。苦労がなかったので、自分でも特に気にとめていなかったが、後にいろいろ褒めてくれる人があったので、次第に愛着を覚える様になった。明治時代の俳句と違って、明るい外光を採り入れたのがよかったのであろう。印象派風の油彩画が好きで、展覧会を見ては勉強していた効果が、「桑の葉の」の句や、この句に至って現れた訳である。どこも推敲していないから、すらすら読むことの出来るのも気持がよい。〔昭和二年作『葛飾』所収〕
【小生comment】
 「印象画風の油彩画」とはよくこの作品の妙を言い当てていると思う。ピサロやシスレー、ゴッホの風景画を思い浮かべこの句を詠むと、場所は晩秋の上州の落葉樹林。風が吹くたびに紅葉した樹々の葉がはらはらと落ちていく。そのとき啄木鳥のコンコンコンと樹を叩く音が聞こえて来る。これ等の情景が、まるで額縁の中で動く印象派油彩画の様に輝いて見える。極めて明るい絵画的な秀句である、と思う。

【解説】〔山本健吉「定本 現代俳句」より〕
 秋櫻子の代表句の一つとして知られている。赤城山での五句連句の一。「コスモスを離れし蝶に峪(たに)落し」「白樺に月照りつゝも馬柵(ませ)の霧」「月明や山彦湖をかえし来る」「二の湖に鷹まい澄める紅葉(もみぢ)かな」が同時の作である。
 これ等の句を見ても感じられるのは、彼の作品が在来の俳句的情緒から抜け出て如何に斬新な明るい西洋絵画風な境地を開いているかと言うことだ。これ等の新鮮な感触に満ちた風景画が、それ以後の俳句の近代化に一つの方向を齎したことは、特筆しておかなければならない。在来の寂び・しほり〔(しおり)【小生注】蕉風俳諧の根本理念の一。人間や自然を哀憐を以って眺める心から流露したものが自ずから句の姿に現れたもの〕では捉えられない高原地帯の風光を印象画風に描き出したのは彼であった。これは一つの変革であって、影響するところは単なる風景俳句の問題ではなかったのである。
 この句の感触には、いつまでも色褪(あ)せない瑞々しさがある。このような句で「牧」と言うと、日本流の牧場よりも西洋流の meadow といった印象を受けるから不思議である。高爽な清澄な晩秋の空気さながらに美しい風景句として現出する。「落葉をいそぐ」というのも美しい言葉だ。葉を落とした樹肌(きはだ)に、啄木鳥が叩いている姿が露(あらわ)なのである。

 スケートの紐(ひも)むすぶ間も逸(はや)りつつ  山口誓子

【解説】〔「山口誓子自選自解句集」より〕
 天然のスケート場ではない。大阪のアサヒビルの屋上にあったスケートリンクである。小学生の私は樺太の豊原で下駄スケートを得意としていたから、靴スケートはすぐうまくなった。
 私の勤めている住友ビルからアサヒビルはすぐ近くだった。勤めが終ると、その足でよくスケートに行った。
 ロッカーに預けてあるスケート靴を取り出し、長椅子に腰を卸して靴を穿(は)くのである。足にぴったり合っているその靴を穿いて、きっちり紐を結ぶ。そのときすでに、こころは氷上にあって、はずんでいる。まるで少年のようだ。私は昔の少年に帰ったようだ。〔昭和七年作『凍港』所収〕
【小生comment】
 詠み手の心情を素直に表現した現代俳句と言えば山口誓子の真骨頂である。十七文字の中からはち切れんばかりに逸る気持ちが読み手に伝わって来る。極めて口語的だが、俳句としての品格を備えているから素晴らしい。

 方丈の大庇(おおひさし)より春の蝶  高野素十

【解説】〔山本健吉「定本 現代俳句」より〕
 彼の代表作として喧伝(けんでん)されるものであり、四Sの一人として彼の地位を確実にした作品。石庭で名高い龍安寺での作と言う。
 恐らく作者は方丈の前の廊下にあって庭を眺める位置にあったのだろう。庭に突き出た深い庇の上から、ひらひろと小さな蝶が下りて来た。蝶は春の季物である。この場合何故作者はわざわざ「春の蝶」と言わねばならなかったか。春先の小形の蝶だろうなぞと言ってみても始まらぬ。だがこの「春の蝶」の語は不思議によく利いているのである。言ってみようなら、それは大庇の上に麗(うら)らかな春の空を想い浮かばせる。蝶の来(こ)し方であり、蝶が今そこから庇へ下りて来たところの春の空である。ひっそりと静まった冷たい庭に、それは一点麗かな大空の気を運んで来る。
「より」と言い「春の」と言った曲節に伸びやかな調べがある。春でなければならない調べである。
 以上は「春の蝶」の不思議な効果をちょっと敷衍(ふえん【小生注】押し広げること)してみたまでだ。「大庇より春の蝶」――読者は夫々この美しい措辞(そじ【同注】ことばの使い方)を百誦して、独自の感動を受け取ったらよかろう。
【小生comment】
 この句を読むと、版画で描かれた、「龍安寺の石庭と大庇、そこから舞い出る蝶」をふっと思い浮かべる。極めて絵画風な絵である。しかも前述した秋櫻子の作品が印象派油彩画風に対して、素十のほうは純和風で対照的である。花鳥諷詠を標榜した虚子が「一番!」と褒め称える気持ちがよく解る。蛇足だが、素十の句には蝶だとか、虫や蛙、草花が具体的によく詠まれている。

 緋連雀(ひれんじゃく)一斉に立ってもれもなし  阿波野青畝

【解説】〔「阿波野青畝自選自解句集」より〕
 悪性感冒が全国に大流行した。医者は手を下す術もなかった。死んだ医者もあるほどの悪い年であった。京都にいた私は忽ち兄二人を喪(うしな)ったので、郷里高取に呼び戻された。
 京を離れるとなれば名残がある。落柿舎辺りを歩いてみたく、ただぶらぶらと細い藪のみちを拾う。そして誰にもあわぬ孤独をしみじみ味わった。つめたく熟れた烏瓜を引きちぎった。そのとき小鳥が忙しく渡っていった。目の前に一群の緋連雀が来た。敏捷な挙動をとりながら統率がとれている。赤い冠毛がとても可憐だ。しかし、次の一瞬には一羽もいなくなった。掃き捨てたように本当に見えない。この句がいいのかどうか、自身がわからない初心者である。ただ勢いの感じられるところが他の句よりも良いかなと思う程度だった。〔(1918年作)『万両』所載〕

【解説】〔山本健吉「定本 現代俳句」より〕

 しかし、虚子が客観写生を遵守する高野素十を称揚したため、予てから「客観写生」「花鳥諷詠」に飽き足らなさを感じていた秋櫻子は、素十の「甘草(かんぞう)の芽のとびとびのひとならび」等の俳句を瑣末〔さまつ【小生注】取るに足らないこと〕主義的な「草の芽俳句」と称し、昭和六年、主宰誌『馬酔木(あしび)』に「自然の真」はそのままではまだ掘り出された儘の鉱(あらがね)で、その鉱を頭の中で鍛錬し、加工して、個性の表現としての「文芸上の真」に到達しなければならない、と説き、客観写生の『ホトトギス』に反旗を翻して独立、やがて山口誓子も『馬酔木』に加盟するに至った。ここに大きく俳壇は分裂し、以後俳壇は秋櫻子、誓子らを中心として動き、彼等の新しい俳句の革新によって、現代俳句はここから出発することになった。
 一方、虚子の『ホトトギス』も依然として強い勢力を保ち乍ら、次の様な作家が以後の『ホトトギス』を支えることになった。松本たかし、川端茅舎、冨安風生、山口青邨といった作家達である。〔以下略〕

【後記】
 何か、高校現代国語の俳句の授業の様になってしまいましたネ。〔笑〕
 でも、『ホトトギス』から『馬酔木』が分離独立した辺りの俳壇の歴史的流れが森澄雄の解説でよくお解りになったと思います。
 因みに、今日、最初のほうでご案内した久保田万太郎〔1889.11.07.- 1963.05.06.〕の寿命は(73歳06月)です。
 尚、先ほどご紹介した山口青邨はじめ7人は確かに長命ですが、俳人には、正岡子規〔1867.10.14.-1902.09.19.〕(34歳11月)、川端茅舎〔1897.08.17.-1941.7.17.〕(43歳11月)、石田波郷〔1913.03.18.-1969.11.21.〕(56歳08月)等の様に結核で(比較的)短い生涯を終えた人達も勿論いますので、必ずしも、俳人が全て長命でないことは言うまでもないことです。
 が、いずれの俳人も人生の幕を下ろす直前まで、俳句をつくっており、所謂老人性痴呆症とは無縁の方々であったと思います。
 いずれにせよ、健康は自分自身の毎日の管理の積み重ねです。
 その健康維持・増進のため、俳句も一つの有力な tool となるものと確信しました。
 ところで、最近のニュースでは、新型インフルエンザの患者総数が百万人を超えたとか・・。
 皆さんも、外出や人ごみの中でのマスク着用、外出から帰った際の、うがい、手のアルコール消毒の励行等に心掛け注意して参りましょう。
 では、また・・。(了)

2009年10月25日 (日)

【時習26回3-7の会 0261】~「寺島実郎『われら戦後世代の「坂の上の雲」を読んで』」「ほんとうの時代2009年11月号~小川有里『〔ストレスをためずに仲良く暮らすコツ〕夫婦は”ひとり遊び”ときどき”ふたり遊び”』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0261】号をお送りします。

 さて今日皆さんにお届けするのは、先週に引続き「坂の上の雲」についてである。しかもこの「坂の上ノ雲」は、最近ずっとご紹介させて頂いている寺島実郎氏の著書「われら戦後世代の『坂の上の雲』」である。
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 それでは早速ご紹介する。

「【第二章】 一九八〇年五月――社会参加して十年の団塊の世代として 『われら戦後世代の「坂の上の雲」』」~

 【二、戦後世代を形成したもの ◆――戦後民主教育について】
 戦後の急激な「社会的価値転換」によって教科書に墨を塗ることから始まった戦後教育は、昭和二十二年の教育基本法によって「民主主義教育」の原則を宣言している。その第一章は、教育の目的として「教育は、人格の形成を目指し、平和的な国家および社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわなければならない」ことを定めている。
 戦後世代は、共通与件として戦後民主教育を受けて育ったのであり、それは、戦前の「教育勅語」を基軸にした教育とは様々な意味で異なる教育効果を戦後世代に与えたといえる。それは、私自身の体験の中で、二つの意味として残っている。
 一つは、「歴史」と「価値」に対して、できる限り距離をとろうとする姿勢である。戦後教育においては、戦前から戦争〔=【小生注】第二次世界大戦〕にかけての歴史においては、戦争の悲惨な思い出を意識するあまり、歴史自体を倫理的に検討することを拒否するという姿勢がとられ、歴史を直視し、継続性の中で歴史を止揚〔=【小生注】低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を、一層高次の段階に高め、新しい調和と秩序の下に統一すること〕し乍ら進むということは許されなかった。私の記憶の中で、教育の現場で、戦争をを挟んだ日本現代史に関し、自分の思索と言葉で責任ある伝承をしようとした教師は、あまりにも少ない。
 そうした中で、戦後世代は、一つの時代を支配する「社会的価値」なるものが如何に相対的なものであり、与件の変更によって「国家主義から民主主義へ」と如何に巧妙に変化するものであるかを大人達の生活態度に見て取り、社会的価値そのものを「胡散(うさん)臭いもの」として拒否し、冷笑することへと傾いていった。つまり、戦後民主教育の所産は、まずそれが何かを形成したからではなく、何ものも形成し得なかったことにおいて、相対感覚を戦後世代に残したのである。
 二つは「平等主義」「平和主義」を選好する姿勢である。私が小学生の高学年の頃、在学した学校では、「級長その他各委員のバッジの廃止」が実施された。「特権意識を持たせない」ための措置だとの説明があった。その頃から運動会も入賞賞品を出さなくなり、参加賞方式へと移り始めた。「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」という価値が重視されていった。それは、「機会の均等」から更に「結果の平等」を求める方向へと進み、所得、門地、家柄、性別、能力による「差別」を後退させると同時に、「区別」さえ不当なものとする土壌が形成されていったのである。
 この様に、区別のメルクマール〔=【小生注】目印〕が次々と不明確になっていく中で、即ち、「平等化」の背後で、むしろ陰湿な形で「差をつける」という志向が生まれていったという面も忘れてはならいない。平等化志向の戦後教育の「誰もが機会均等に教育を受けられる」という原則が、全般的富裕化を背景にしていつの間にか「誰もが高等教育を受けられる」という現象を生み、激烈な「受験戦争」を現出し、友情を裏切っても何らかの形で「差をつけよう」とする傾向を齎しているのである。いや、正確に言えば、「差をつける」ことさえ本人の主体的意図ではなく、「○○を買って差をつけよう」といったCMに象徴される様なファッションの一環としての行動であり、それほどまでに「平等化」という名の下での平準化、均質化、画一化が進んでいるのかもしれない。〔以下略〕

「【終章】 二〇〇六年三月――団塊世代の正念場」~

 【◆――最後に想うこと――結局、われわれの「坂の上の雲」とは】
 結局、戦後世代の「坂の上の雲」とは何だったのだろうか。〔中略〕
 昭和25年生まれの畏友残間里江子が『それでいいのか蕎麦打ち男』〔2005年、新潮社〕と題する本を出版した。老け込み気味の団塊男に活を入れる手厳しい内容であるが、考えさせられた。確かに、我々の周りには、定年を前にして、蕎麦打ちや陶芸に打ち込んだり、急に家庭的な生き方に回帰する人間が増えた。悪いこととは思わないし、内省から生まれるものへの期待もある。だが、私生活主義から一歩も出ない老成ならば問題である。団塊の世代が「笠の雪」となって後代世代にのしかかるのか、社会を支える側に回るのかによって高齢化社会の様相が変わるといっても過言ではない。
 それを「新しい公共」と呼ぶべきだろうが、国家や権力による強制ではなく、主体的参画によって公的分野を支える行動を志向することが鍵となろう。官対民という構図だけで議論することが多いが、実は如何なる社会においても、官と民の間の「公共」という分野を誰かが支えないと、人間社会は成り立たない。団塊の世代が、地域社会の文化・教育・福祉から地球環境まで、もう一度眼を向け直して、自らの関心と適性を判断して、何らかの形で公共という分野で汗を流す方向に向かうならば、高齢化社会は暗い展望に引き込まれる必要はない。カセギ〔社会的安定〕とツトメ〔貢献〕は大人が大人である要件であり、そのことを担う団塊の世代の最後の転機における覚悟が問われている。

【小生comment】
 この作品の【終章】が執筆された2006年03月時点では、寺島氏〔昭和22年8月生〕は58歳。サラリーマンでは言えば確かに定年間際の歳である。
 団塊世代とは、一般的に狭義では昭和22年~24年に、広義では昭和21年~昭和29年に生まれた人達〔フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』〕を言うが、我等昭和30年04月~31年03月生まれの世代は団塊世代の直ぐ後の世代であり、あと数年で還暦となる。
 寺島氏が最後のところで述べている様に「官と民の間の「公共」という分野を誰かが支えないと、人間社会は成り立たない」という言葉はまさにその通りであるし、「団塊の世代が「笠の雪」となって後代世代にのしかかるのか、社会を支える側に回るのかによって高齢化社会の様相が変わるといっても過言ではない」のは、「団塊の世代」を「我々の世代」と読み替えても全く同じである。
 氏の言葉を重く受け止め、「公共」で役立てる様に、今から準備をしておきたいと思う。

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【後記】■今日の締め括りは、掲題の二つ目の話題。「ほんとうの時代2009年11月号~小川有里『〔ストレスをためずに仲良く暮らすコツ〕夫婦は”ひとり遊び”ときどき”ふたり遊び”』」をご紹介してお別れしたいと思います。では、どうぞ・・

〔まえがき〕
◆妻が遊びに出かけると夫は不機嫌、一方、妻の外出に一緒に行きたがる夫に妻は不機嫌――夫と妻、そのどちらもが楽しい時間を過ごすにはどうすればいいのでしょうか。
 【どちらかが出かければ「おうちでひとり」が楽しめる】
 定年後の夫をもつ妻たちに「あなたが一番嬉しいことは?」と質問すると異口同音にこういう答えが返って来る。
 「夫の外出!」
 定年後の夫たちは基本的に家にいる。テレビの前から動かない「置物タイプ」でも、家の中を繕ったり、片付けたりとマメに働く「独楽鼠(コマネズミ)タイプ」でも一日中「家にいる」という点では同じだ。夫と一日中顔を合わせ続ける日々。どういうことになるのだろうか。
 ある妻は「ああ、週に一日でいい。何処かへ行ってくれないかしら」と夫の留守を切に願っていた。或る日、夫に言われた。
 「おまえ、一週間くらい一人で何処かへ行ったらどうだ?」
 失礼よね、と彼女は怒るが、聞いて思わず笑ってしまった。夫のほうも妻と同じ心境だったのだ。
 別のある夫婦。一日、妻の行動を眺めては「それはこうしたほうが早い」「それは効率が悪い」等と言う監視夫に或る日、とうとう妻が切れた。
 「あなたがいつも家にいてうるさく言うから私はストレスがたまってイライラする」と。
 はっきりこう言われてショックだったのだろう。夫はぷいと家を出て行き、夜まで帰って来なかった。帰宅した後も夫婦は数日間口をきかなかった。
 〔中略〕
 いつも家に二人でいるとイライラや冷戦を誘発する場合が多く、互いの精神衛生によくないのだ。どうしたらいいのだろうか。
 夫婦が夫々別々な時間を持って顔を合わせる時間を減らす。これに限る。自由時間は喜びの時間でもある。定年後、夫婦はどんな遊び方をしているのか、友人・知人十組の夫婦に聞いてみた。
 夫――水泳、筋トレ、ウォーキング、テニス。元の会社仲間とゴルフ。畑を借りて野菜づくり。尺八、日本舞踊、陶芸等の公民館活動。因みに我が家の夫は複数の公民館ダンスクラブに所属して、社交ダンス三昧である。
 妻――水泳、体操、ヨガ等。友人達との旅行。料理、陶芸、コーラス等の公民館活動。幾つもの講座やクラブに入って「家にいるより公民館にいるほうが多い」という人もいる。
 どんな遊び方をするにしてもポイントは「夫と妻が時間をずらすこと」。同じスポーツクラブ、公民館等に通う場合にも時間をずらす、違う曜日にすることだ。〔中略〕
 別々に遊ぶメリットはまだある。夫婦でいると緊張感も刺激もお洒落心もなくなるが、別々に他の人達と関われば、これ等を持ち続けることが出来る。つまり、若々しさを保てるのである。更に夫婦の会話の材料も増える。「今日はこんなことがあったよ」「私のほうはね」と。
 【ときどきは二人遊びで親睦を図るべし】
 定年後、夫婦にとって夫、妻、夫々が自由時間を楽しむことは「いつも一緒」の摩擦を避けるために絶対必要なことだ。かと言って年がら年中別々、すれ違いではいけない。すれ違い過ぎると互いに無関心になり、夫婦の絆が弱まるのである。〔中略〕
 基本的は夫婦夫々ひとり遊び。でも、時々は二人遊び。これこそ定年後、夫婦がストレスを溜めずに仲良く暮らすコツだと信じている。

【筆者comment】
 小川有里氏のいうのも尤もである。〔笑〕
 人生の先輩の助言を十分活用させて頂き、所謂、老後においてはストレスを溜めない様に上手に生きてiいきたいものである。〔笑〕
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【追伸】
 〔お別れ~【その2】〕
 先週末、気分転換に長篠城跡に行って来ました。その情景を早速スケッチしてみました。下手ですが、写真の見比べて見て下さい。
 これから相当修練する必要があるなぁ、と実感しました。でも、「気分は爽快!」。気分転換としては最高なひとときでした。〔笑〕 
 では、また・・。(了)

2009年10月18日 (日)

【時習26回3-7の会 0260】~「いよいよ「司馬遼太郎『坂之上の雲』」が11月29日(日)より放映される・・」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0260】号をお送りします。
 今日は、小生、個人的に疲労気味です。〔笑〕
 そのため、今日の《会報》のお話も、来月11月29日から12月27日までの5週連続〔午後8時00分から9時30分までの90分間〕放映されるNHKスペシャルドラマ「司馬遼太郎『坂の上の雲』」についての《お知らせ》1点にさせて頂きます。
 司馬遼太郎著『坂の上の雲』は、既にお読みになった方々には説明するまでもないほど有名な、司馬氏の作品の中でも最高傑作の一つと言われている作品。
 言うまでもなく、この作品は、時を同じくして四国松山から青雲の志を胸に上京した三人の青年、正岡子規、秋山好古、秋山真之が日露戦争に勝利するまでの半生を描いた作品である。
 最近、時を同じくして、文藝春秋社から「文藝春秋12月臨時増刊号〔特別企画〕『坂の上の雲』と司馬遼太郎」、そして、新人物往来社から「『坂の上の雲』への招待~秋山好古・真之兄弟と正岡子規らが生きた時代~日露戦争と明治の青春群像〔100年前の日本人の姿〕」が出ましたので、これらをご紹介したいと思います。
 まずは、添付写真をご覧下さい。〔01〕~〔11〕までお示しします。
 詳細をお知りになりたい方は、是非書店にてお求め下さい。前者1,000円、後者1,890円〔いずれも税込み〕。二冊とも永久保存版にして置きたいいい本です。ハイ。〔笑〕

〔01〕文藝春秋12月臨時増刊号
            〔02〕新人物往来社「坂の上の雲」への招待
                       〔03〕石川県テーマパークに実物大で建造された戦艦三笠と秋山真之役の本木雅弘
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〔04〕「坂の上の雲」への招待巻頭写真~左から「真之」「子規」「好古」
            〔05〕陸軍騎兵少尉時代の秋山好古〔明治12~16年頃〕
                        〔06〕日露戦争時代の秋山真之〔海軍中佐〕
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〔07〕真之役の本木雅弘〔上〕と好古役の阿部寛
            〔08〕子規役の香川照之と子規の妹律役の菅野美穂
07
08








〔09〕64年ぶりに開放された要塞都市『旅順』
            〔10〕28センチ榴弾砲と日本兵
                        〔11〕旅順の乃木希典大将と幕僚達
0964
1028
11


 因みに、〔10〕〔11〕のカラー写真は、白黒写真を当時の日本の技術で着色して天然色としたものである。
 当時から日本は、こういう細かい技術力には素晴らしいものがあったのですね。

 現代人の中で、司馬氏の『坂の上の雲』を好む人が多いのは、この作品には、今では稀有となった正真正銘の大人(=大人物)が沢山いることが大きな魅力となっているからだと思う。そういう大人を尊敬し、かくありたいと思うのは、いつの時代になっても人間の本源的な欲求でもある。
 明治維新初期の戊辰戦争、西南の役、佐賀の乱等の波乱が一段落し、日本が欧米の列強に追いつこうとして、富国強兵に注力し、近代化に邁進した時代・・。まさにその時代に「日本人かくあるべし」と、強い意思と責任感を胸に、日本国を背負って立った人達が、子規、秋山兄弟だけでなく、綺羅、星のごとくいたのである。
 先にご紹介した文藝春秋〔特別企画〕~大特集『阪の上の雲』~私はこう読んだ~の中で、最近ご紹介している寺島実郎氏が『常に心を刺激し続ける作品』と題して、次の様に述べているので、今回もご紹介したいと思います。

1.最も好きな登場人物
 ワシントンで六年間仕事をした頃、私のオフィスは、ホワイトハウスの斜め前にあって、目の前に大統領府が入るオールドエグゼクティブ・ビルが立っていた。秋山真之がワシントンで活動していた頃は海軍省のビルであった。このビルの三階にあった海軍文庫に秋山は通いつめ、古今東西の海軍戦略・戦術に関する文献を読破した。
 「海上権力史論(1890年)」を書いたマハン大佐をニューヨークに訪ねたり、米国勤務時代の真之の行動力は驚くべきものがある。「自分が一日怠ければ、日本が一日遅れる」という言葉を彼は残している。こんな言葉が言える人間が、今いるだろうか。私は残業で疲れた時、灯りがともる海軍文庫があった向かいのビルの三階を見つめたものである。〔以下略〕
2.最も印象に残った言葉
 何故、秋山真之はかくも集中し、頑張れたのか。国家の命運を担うことが迷いなく個人の人生目標と一致していた時代ということもできる。だが、心に背負っていたものの深さと重さを描ききったのが「坂の上の雲」の価値だと思う。真之の親友、正岡子規が病床に伏せりながら、海外に国運を担って展開した真之に詠んだ二つの俳句が紹介されているが、胸を打つ。死の病に伏す同郷の親友の思いが真之の心にあったのだと思う。
 「暑い日は思ひ出(いだ)せよふじの山」
 「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」

〔小生注〕寺島氏は、次の様に述べて締め括っている。

 「無目標社会」といわれる現在、国家の呪縛から解放され、「自分のためだけに生きてよい」という自由を手に入れた戦後なる時代を生きてきた我々は、これからの日本をどう創造していくのか。司馬遼太郎という人は、途方もない重いテーマを設定していったものである。〔以下略〕

 また、NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で秋山真之役を演じる本木雅弘氏は「三年間、秋山真之の役に打ち込んでいます」と題して次の様に述べている。

 秋山真之を演じませんかと誘われたのは、今から五年ほど前になります。真之には明敏で豪放磊落な軍人というイメージがあったので、「自分には向いていないのではないか」と迷いました。ところが司馬さんの原作などを読むと、真之には繊細な一面もある。戦艦上で兵の死に直面するたび、真之は深く傷つき、人の生の儚さについて考えるのです。既製の器からはみ出すわんぱくさと、軍人とは思えない多感さとの矛盾という、真之の人間らしさに惹かれました。〔中略〕
 「坂の上の雲」の面白さは、人間を描く一方、日本という国の資質と魅力を、再認識出来るところにあります。世界史の大きなうねりの中で、大国を相手に真之達も、国と兵一人ひとりの命を預かりながら、純粋に、勇ましく、且つ労わりを持って立ち振る舞います。きっと誰もが、物語のそこここに、かくありたいと思う日本人像を発見することでしょう。〔中略〕
 スタッフの力による、見事なセットは勿論、約九割がロケなので、眩しい明治の時代を想わせる、穏やかな日本の空気や光が、映像の中にぎゅっと凝縮されています。そんなところもぜひ見て頂きたいですね。

【後記】■このNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』は、今年、来年、再来年と三年間に亘り続く long run の大河ドラマです。しかも一回の放送時間が通常の大河ドラマの二回分あり、一回毎映画を見る感じですね。
 それにしても、モッ君の秋山真之、阿部寛の秋山好古、香川照之の正岡子規、実際、本人によく似た俳優さんを選んだものです。
 小生、『坂の上の雲』は大好きな作品で、【2637の会】《会報》でも以前にご紹介させて頂いています。
 来月29日が大変楽しみです。
 あ、それから別件ですが、小生、今日宅建の試験を済ませました。これで合否の結果はともかく、暫く受験勉強から離れ、今迄やりたくてやれなかったこと、さしあたり「スケッチ&水彩画」を始めようと思っています。
 では、また・・。

(了)

2009年10月11日 (日)

【時習26回3-7の会 0259】~「10月6日:『小林研一郎指揮名フィル・コンサート』を聴いて」「寺島実郎『脳力のレッスン』から「脳力」について――現代における教養」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0259】号をお送りします。
 10月08日の台風18号は、何十年ぶりかの非常に強い「風」台風でしたね。「八日未明、知多半島に上陸」〔・・「台風の目」の直ぐ東側が一番強い風が吹く・・〕という、東三河にとっては最悪のケース。潮位も名古屋港で08時18分が満潮という、これまた最悪のタイミング。
 拙宅も、07日夜遅くから相当な強風に見舞われ、08日未明、何年ぶりかの停電を経験。復旧したのは午前10時半。
 停電については、豊橋市内ではエリア毎かなりばらつきがあり、例えば自宅近くの西岩田町では停電はなかったそうだが、東田坂上辺りでは08日夕刻まで停電が続いたという。また停電は、我が家に思わぬ不便を齎した。オール電化でなかったので炊事用のガスは使えたが、浴室の制御装置やトイレのウォシュレットは使用不能。普段、電気があるのが当たり前の毎日を過ごしている我々にとって、停電の不便さが身に沁みた一日となった。
 さて、08日の朝小生は、暴風警報の中を会社へは毎日使っている自転車ではなく、緊急避難的に自家用車で出向いたのであるが、交差点は国道1号線の信号が2~3箇所ランプがついた他はほとんど停電の儘。恐るおそる前後左右を確認しながら微速前進というスタイルで何とか会社に到着。
 駅前近くの会社のビル及びその周辺一帯は停電もなく無事であったが、港事務所のある三河港方面は、建物の床下浸水や商用車が何台か海水に浸る等、物的被害が少なくなかった。でも、人的被害がゼロであったのが不幸中の幸いであったと
positive に解釈したい。
 皆さんのお宅は大丈夫でしたしょうか。

■さて話変わって、日にちは前後しますが・・。
 小生、10月06日夜、仕事の関係で社長の名代で名古屋へ。そして小林研一郎指揮名フィル・コンサートを聴く機会を得ました。添付写真〔01〕〔02〕をご覧下さい。
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 曲目は、ハンガリーの作曲家コダーイ作曲「ガランタ組曲」、フランク作曲「交響的変奏曲」、リムスキー・コルサコフ作曲「交響組曲『シェエラザード』」、そしてアンコール曲は、指揮者小林研一郎のピアノ伴奏、コンサートマスターのヴァイオリニスト日比浩一のデュエットでモンティ作曲「チャルダーシュ」。
 中でも圧巻は、曲目第三曲目の『シェエラザード』であった。
 名フィルの演奏は、小生昭和50年代に聴いて以来三十有余年間聞いていなかった。その頃の名フィルの演奏と言えば、正直なところ技術的にも今一つだった。当時は、ヴァイオリン合奏等を聴いていると、音がこもってしまい、いつもレコードでウィーンフィルやベルリンフィルの素晴らしい音色に聞き慣れていた小生には、お世辞にも上手いと感じることはなかった。
 しかし、三十年以上の歳月でこうも演奏技術が変わるものだろうかと感心するくらい各段に level up していた。
 現在の名フィルは、一流の演奏家集団であると断言できる。
 この交響組曲『シェエラザード』という曲は、指揮者コバ・ケン自身も言っていましたが、オーケストレーションの巧みな作曲家リムスキー・コルサコフの面目躍如たる名曲で、全ての楽器奏者が独奏者となって曲を奏でると言っても過言でないくらいの難曲である。それをこの日の名フィルのメンバー達は確りと見せて、いや、魅せてくれた。
 聴いた席が、二階席5列目のほぼ中央であったため、全ての楽器奏者の演奏が手に取る様に見え、そして聞こえた。
 久し振りに心から感動できた演奏会であった。
 リムスキー・コルサコフの交響組曲『シェエラザード』が如何に素晴らしい曲であるかは、ご存知の方には説明するまでもないが、もし、【2637の会】membersの皆さんでまだ聴いたことがない方がいらっしゃったら是非一度聴いてみて下さい。
 参考までに、You Tubeからヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮による『シェエラザード』を添付しますので、聞いてみて下さい。
 四楽章形式の全曲の演奏時間が45分程かかりますが、その長さを感じないほど素晴らしい曲です。
 でも、長い曲が嫌だという方には第三楽章〔4/6〕「若い王子と王女」だけでもお聞き下さい。←小生のおススメ!〔笑〕
 何か映画音楽を聴いているみたいな名曲です。カラヤンの演奏では〔4/6〕のところです。

〔1/6〕http://www.youtube.com/watch?v=FR36PRgBFzA&feature=related 第一楽章〔海とシンドバッドの船〕
〔2/6〕http://www.youtube.com/watch?v=58U1cwPivbM&feature=related 第二楽章〔カランダール王子の物語〕
〔3/6〕http://www.youtube.com/watch?v=cNAdQpM8TNg&feature=related

◆◇◆〔4/6〕http://www.youtube.com/watch?v=IdBmgCXktZQ&feature=related 第三楽章〔若い王子と王女〕◆◇◆
  ↑↑↑▲△▲ここをclickして下さい!▲△▲↑↑↑
  ※第三楽章〔若い王子と王女〕の美しい調べが聴こえてきます。
  ※〔1/6〕~〔6/6〕を順番に聴いていくと交響組曲『シェエラザード』の全曲をお楽しむことができます。
   ホント、素晴らしい名曲をどうぞ・・

〔5/6〕http://www.youtube.com/watch?v=yBQEpFfVIXQ&feature=related 第四楽章〔バクダッドの祭り、青銅の闘士のある岩で難破、終曲〕
〔6/6〕http://www.youtube.com/watch?v=_Ct7S6zGGzs&feature=related

【後記】■さて今日の締め括りは、お約束の寺島実郎「魯迅と藤野先生〔―なぜ日本人は脳力を失ったのか―〕」から第三弾〔最終回〕「脳力」について――現代における教養」をお送りします。ご覧下さい。

 「脳力」について――現代における教養」

 「脳力(のうりき)」という言葉がある。物事の本質を考え抜く力という意味である。米国で10年以上の生活を終えて帰国し、幾つかの大学で講座を持った。印象づけられたのは、日本の学生がいかに幼稚かであった。パソコンや携帯電話を駆使した意思疎通の密度など、我々の学生時代にはない優れた部分もあるが、思考を纏めさせたり、事象への判断を求めると、あきれるほど幼稚な反応しかない。つまり、脳力が決定的に弱いのである。
 それでいて、「自分らしく」とか「自分なりに」という言葉が好きで、とても自分へのこだわりを語りうる程の自己を練磨しているとも思えない人間が自己を主張する。「パンが好きかクレープが好きか」程度のことを個性だと思い込み、ささやかなライフスタイルへのこだわりが重大事であるかの錯覚の中に生きている。そんなことにこだわることのできる恵まれた自分を取り巻く環境がどう成り立っているのかに問題意識が向かわない。つまり、自分が相対化できていないのである。
 衝撃的な資料がある。日本青年研究所の「日本・米国・中国の高校生の規範意識」の調査結果である。一目瞭然なのは日本の高校生の規範意識の極端な欠如である。「先生に反抗すること」「親に反抗すること」「学校をずる休みすること」「パソコンで性的画面をみること」等の項目で、実に七割以上の日本の高校生が「本人の自由でよい」という判断を示し、米国、中国の高校生において二割以下なのと比較し、際立った差異があるということである。
 こうした日本の現実をどう評価すればよいのか。若者の目線で考えてみれば、大人社会の規範を共有できないということであり、つまるところ大人社会を尊敬できないということである。学生達と話して気づくのは、これまでの人生で圧倒される様な大人に出会っていないということである。親兄弟・親類や先生、隣人を含めて、自分が目指したいと思える様な厳粛な大人に巡り合っていない。その結果が、自分を一角(ひとかど)の存在と誤認した「大人社会をなめきった若者」の姿に象徴される。
 しかし、これを若者の問題とするのは早計である。また、学校教育の現場の問題とするのも本質を捉えていない。本質は、日本の大人社会が、若者にとって目指したいモデルを提示する力を失っているということである。そういう大人になりたいと思うモデルがないのである。他方、なりたくないと思うモデルだけは沢山存在しているのである。人間が自らの未熟さを悟り、克己心(【注】こっきしん=自制心)を持って頑張ろうとする契機は、圧倒されるほどの先達との出会いである。その瞬間、若者は謙虚な気持ちになり、大人の言葉に耳を傾け、自分を磨かねばと覚醒するのである。
 〔中略〕
 立花隆は、その著『東大生はバカになったか』で、「教養」について次の様に定義する。「教養とは何かを象徴的に論ずるならば、それは『人類社会の遺産相続』の問題であるということができます。そして大学の使命というのは、その様な遺産相続を時間をかけて育てることであり、学生の側からすれば、その遺産を相続するに足りる資格を大学の教育を通じて得るということです。」彼の指摘は正しいであろう。ただ、現実的に「知的な遺産相続」とは、生身の人間として生身の人間に出会うことによって触発されるものである。誰と出会うかが決定的なのである。
 教養とは、知の断片化を避け、体系的・総合的知性を身につけることだと、象徴的に論ずるのもいい。「和漢洋のバランスのとれた知性」を身につけることの必要を主張するのも重要である。しかし、最も大切なのは、体系的教養を身につけたとする大人が、現実に生きている社会の現場で如何なる存在感を持っているかということであり、重要な意思決定の局面で体系化された知性を凝縮して、如何なる判断と行動選択をしているかである。
 機会は急にありという。いざ判断を迫られる局面で、蓄積した教養を凝縮し、脳力を振り絞って、どう行動するのか。直近では、同時多発テロという衝撃を受け、この国の社会科学の学者が、対案提示力の欠落を露呈し、時代の空気に迎合して米国の軍事行動支持の路線に吸収されていくのを目撃した。脳力に収斂しない知性など、何程の意味もないことを示したのである。〔中略〕
 この半世紀の日本は、如何なる地域紛争にも武力介入したことはない。また、植民地主義を放棄したことによって、近隣の中国や朝鮮半島から民族独立闘争のターゲットとされることも、憎悪と敵対を受けることもなく、国造りに専心できた。このことの幸福を大切に踏み固めなければならない。間違っても、大国主義的問題解決にのめり込む米国の思惑で、この基軸を歪めてはならないのであり、新しい世紀に相応しい日本の主体性の回復に問題意識を研ぎ澄ますべきなのである。「馬々虎々(いいかげんさ)」を拒否する、それこそが魯迅を読む者が少なくとも共有すべき気概である。
 つい、現在進行中の熱いテーマに引き込まれがちとなるが、改めて確認しておきたいことは、藤野厳九郎という市井の人が存在し、彼のごく自然な日常的判断が、一人の中国人留学生の心を支えたという事実の重さである。本人の記憶にも残らない程の些細な配慮なのであるが、そうした些細な判断に、民族の理性や品格が滲み出るのであり、それを民族の脳力、つまり民力というのである。〔了〕

【小生comment】
 寺島実郎氏は、別の著書「二十世紀から何を学ぶか」の中でも魯迅を取り上げ、次の様にも述べている。

 魯迅には四歳違いの弟周作人と、七歳下の三弟周建人がいた。〔中略〕とくに周作人は、兄魯迅に続いて日本に留学、辛亥革命後に帰国し、中国の新文化運動の旗手として活躍した。1917年以後は北京大学の教授として、海外文学の翻訳や随筆に冴えをみせた。〔中略〕
 魯迅は、夏目漱石を意識していた様で、仙台から東京に戻ってから、ある期間、本郷西片町十番地の夏目漱石旧宅に周作人等五人と住んでいる。魯迅はこの家を伍舎と名付け、和服での生活を続けた。不幸にして「抗日運動」の側の思想的リーダーとなっていった魯迅であるが、日本人の良い面も最期まで評価していた。また内山書店の内山完造等日本人の友人を大切にし、「日本の全部を排斥しても、あの真面目という薬だけは買わねばならぬ」と魯迅は内山に語っていたという。

 我々も歳だけで言えば、五十路半ばになる立派な大人である。が、情けないことに小生はまさに、寺島氏が嘆いてられた「頼りない大人」の代表である。しかし、今からでも遅くはない。若者達から「手本」となる様な立派な大人になるべく、研鑽と鍛錬を重ねて行きたい、と今日改めて心に誓った。〔←「本当かなぁ・・?〕
 では、また・・。(了)

2009年10月 4日 (日)

【時習26回3-7の会 0258】~「10月03日:黄檗宗『萬福寺』にて」「寺島実郎『脳力』から第二回目」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0258】号をお送りします。
 まずは添付写真〔01〕〔02〕の2枚をご覧下さい。

〔03〕我が家の彼岸花
             〔02〕我が家の白彼岸花[090922撮影]
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 ちょっと前ですが、我が家の庭に咲いた彼岸花です。〔9月22日撮影〕
 白い彼岸花もなかなかいいでしょ・・。

■さて、今日は掲題・副題にあります様に、黄檗宗『萬福寺』についてご案内させて頂きます。
 実は、小生、勤務先の社内旅行が10月03~04日にかけてあり、京都へ行って参りました。
 と言っても、小生自身は今月10月18日にある宅建試験の事前模試が今日ありましたので、夕食の途中に一人だけ中座して帰って来ましたが・・。
 今回の社員旅行の目的は、第一は、「美味しい『松茸料理』を堪能すること」でしたので、その模様につきましては《会報》の次号に譲ることにして、今日はその旅行のうち最初に訪れた『萬福寺』についてお伝えします。

〔03〕萬福寺「総門」
             〔04〕「総門」前にて社員のみんなと
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 この寺院は、承応三(1654)年に中国明から弟子20人を連れてやって来た禅僧「隠元禅師」が開いた寺。禅師はその時既に63歳。
 禅師が中国から持ち込んだものの中には、新しい仏教だけでなく、新しい音楽や、普茶〔ふちゃ〕と呼ばれる精進料理がある。木魚〔もくぎょ〕もそうだ〔添付写真06〕。

〔05〕萬福寺「大雄寶殿」 
             〔06〕開版(木魚の原形) 
                         〔07〕弥勒菩薩(布袋)坐像
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 また、皆さんよくご存知のインゲンマメがそうである。
 ところで、この寺の弥勒菩薩は、布袋様〔添付写真07〕である。なかなかユニークですね。
 隠元禅師が渡来された17世紀中葉と言えば、明が清に滅ぼされた直後で、中国が混乱していた時代である。




【後記】■今日も【2637の会】関連のニュースはありませんので、これにて締め括りたいと思います。
 今日お届けするのは、前回お約束していた「寺島実郎『脳力』から第二回目・・魯迅と藤野先生〔― なぜ日本人は脳力を失ったか ―〕・・【藤野先生の足跡を訪ねて】」です。では、どうぞ・・

【藤野先生の足跡を訪ねて】

 その疑問に解答を見出す経験をした。福井県芦原〔あわら〕町を訪れ、この地で生涯を終えた藤田厳九郎の足跡と人物の全体像を確認することができたのである。藤野厳九郎記念館は、芦原温泉の町はずれの丘にひっそりと存在していた。記念館の隣には、診療所を兼ねた藤野厳九郎の旧居が移築されていた。〔中略〕気持のこもった管理がなされていることがよく分った。それでも、福井の気質というべきなのか、地元はこの記念館を観光資源として利用するでもなく、関心のある人にしか、その存在すら分からないだろうと思われるほど地味な記念館で、それがいかにもこの土地らしく微笑ましかった。
 今回の訪問では、〔中略〕藤野厳九郎の研究者である泉彪之助氏、藤野厳九郎の親戚で少年時代に厳九郎宅の隣に居住していたという藤野恒男氏とも面談することができた。〔中略〕
 泉彪之助氏が北京の魯迅博物館の許可を得て撮影して来た仙台留学時代の魯迅のノート〔魯迅医学筆記〕の写真を見て、まず驚いた。六冊に装丁されたノートの記述の緻密さは驚嘆すべきものであり、藤野先生が添削したという赤ペンの記述も、若干の加筆修正程度のものではなく、相当な時間を費やして書き入れたものだということがよく分った。また、内臓や器官等のスケッチが数多く描かれているのだが、その図の詳細さは、この分野での魯迅の才能を示していた。〔中略〕
 藤野厳九郎記念館の展示で、とりわけ印象づけられたのは、医者であった藤野がいかに深い漢籍への造詣を有していたかである。1874(明治7)年生まれの藤野は、八歳の頃から旧福井藩士だった野坂源三郎の私塾に通い、漢籍、算術、習字を習ったという。野坂源三郎の墓が残っていたが、側に門弟一同が恩師への謝意を込めた顕彰碑を建てていた。日本の田舎には、こうした教育システムが機能していたのである。1936年、魯迅逝去の報を受け、インタビューを受けた藤野厳九郎は、「何故、若き魯迅のノートを添削してあげたのか」を聞かれ「少年時代に野坂源三郎から教えを受けた漢学によって、中国文化への尊敬と中国人への親しみを持つ様になり、それを魯迅が親切と感じたのだろう」と答えている。
 実際に藤野厳九郎と親交のあった人達の回想を読むと、厳九郎の人となりについて、一様に「気難しく頑固、偏屈」という表現が目につき、患者に対しても厳しく叱責していた姿が浮かぶ。決して温厚で篤実な人という訳ではなかった様だが、それでも貧乏な患者からは診療費をとらなかったという。雨の中を「笠とゴザを着て往診の途中に倒れて、翌朝になくなった」という話が、この人の人生を象徴するものだと思う。かつて日本には、こういう人物が数多く存在していた。「一隅を照らすもの、国の宝なり」という。こういう大人が若者の前に屹立していた。

【小生comment】
■「一隅を照らすもの、国の宝なり」とは、伝教大師最澄の言葉である。古来より日本人の心に脈々と受け継がれてきた美徳である、と思う。
 それでは次号「「脳力」について ― 現代における教養」をお楽しみに。
  *  *  *
 それから、訃報をお伝えします。
 昨年から《クラス会》会場として利用している「トライアゲイン」のママの息子さん純君が一昨日の10月02日亡くなった。若すぎる29歳の突然の訃報である。先程、通夜式に参列して帰ってきたところだ。心からご冥福をお祈りする。(合掌)
 また、TVでは、中川昭一元財務大臣〔56歳〕も今朝自宅で亡くなっていた、と報道していた。(合掌)
 人生、やはり一寸先は闇だろうか・・。
 みなさんもお身体を大事に毎日を生きて参りましょう。
 では、また・・。(了)

2009年9月28日 (月)

【時習26回3-7の会 0257】~「寺島実郎『脳力』の中から」「冨安風生『大正秀句』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0257】号をお送りします。
 時節は、「秋分」。彼岸も過ぎ、朝夕は本当に涼しくなって参りましたが、皆さんお元気でお暮らしですか?
 「一週間位じゃ変わらん!」・・そう、毎日大きな変化がないことは幸せなことかもしれませんね。
 世界、日本国内に眼を転じて見ると、それなりに大きな事象が起きています。
 今月に入ってから、主だったニュースを振り返って見ますと、

9月13日:
◆マリナーズのイチロー選手、レンジャースとのダブルヘッダー第2戦、2回の第2打席で遊撃へ内野安打を放ち、メジャー史上初となる9年連続200安打を達成。因みにイチロー選手は1973年10月22日生まれ。まさに我等【2637の会】が【3-7】現役時代の昭和48年10月生まれなんですね。そして、身長180cm、体重77kgとのこと。
9月24日:〔 因みに、この日は、小生54歳の誕生日。←こんなこと、どうでもいい・・。〔笑〕 〕
◆〔1〕鳩山首相、国連で演説。最近の日本の首相の国連演説の中では、内容が簡潔で解り易くなかなか良かった。首相の英語も大変聞き取り易く、小生は、好印象を持った。以下にその関連記事を添付しましたので、ご興味ある方はご覧下さい。

http://www.asahi.com/politics/update/0925/TKY200909240356.html 

◆〔2〕経営不振に陥った日本航空の再建問題がヤマ場を迎えた。銀行団とともに前原誠司国土交通相と24日面談した日航の西松社長は、政府に公的資金を使った資本注入を要請。
【小生comment】
■自民党政権の瓦解、日本航空の公的資金要請。 両者は、今迄、日本国をリードして来た政権、National Flag Carrier である。日本という国が今、旧体制から新体制へ、パラダイム〔 paradigm 〕が大きな変革を求められている。

■さて今日は、【2637の会】関連のニュースはありませんので、上記に関連したことで、小生が今読んでいる本からご紹介させて頂きます。
 その本の名は、寺島実郎著『脳力(のうりき)のレッスン〔正気の時代のために〕』です。
 実は小生、今月16日、名古屋であった寺島実郎氏の講演を聞いて来ました。
 氏の記事は、文藝春秋2009年10月号にも載っていますので、お読みになられた方も少なくないと思います。
 寺島氏は、正確なdataに基づいた鋭い政治・経済の分析で有名ですね。現在、日本総合研究所会長、多摩大学学長、三井物産戦略研究所会長。
 氏の講演がなかなか良かったので【2637の会】《会報》でご紹介したかったのですが、精緻なdataに基づく鋭い分析で、声も低音でサッサと早めに進んで行く語り口に小生の耳と手、即ち take note がついて行けず、その講演内容をお伝えできませんでした。そこで、氏の最近の著作を探していましたら、少し前の著作ですが『脳力のレッスン』&『脳力のレッスンⅡ』を見つけました。
[01]寺島実郎著『脳力のレッスン』
            [02]寺島実郎氏のサイン
01
02sign

 今日は、そのうち、『脳力のレッスン』〔添付写真[01]&[02]ご参照〕の中から、ごく一部の essence をお伝えします。では、どうぞ・・

〔はじめに〕
 狂気に満ちた時代に正気を保つことは容易ではない。個人ではどうすることもできない時代の空気のようなものがある。後で冷静に考えれば、何故あのような流れを拒否できなかったのか不思議に思える様な流行病に冒される時がある。
 ナチの台頭を許したワイマールのドイツにおいても、馬鹿馬鹿しいほど単純化されたヒトラーの攻撃的メッセージを冷笑しているうちに、抑えがたい潮流に多くの知性が身を沈めることとなった。真珠湾に向かった時代の日本もそうだった。理性的判断を打ち砕く狂気が蔓延していくことを抑制することはいかに困難か、歴史の教訓が語りかけてくる。
 九・一一から三年の世界を覆い尽くした空気、とりわけそれを受け止めた日本の選択は、正に「思考停止」とでもいうべき状態であった。襲いかかったテロへの恐怖心が「力の論理」に結びつきアフガン攻撃からイラク戦争へと突き進む米国に対して、二一世紀の世界秩序のために条理を尽くして向き合うのではなく、「この国を守ってくれるのはアメリカだけだ」という貧困な固定観念の中で、「他に選択肢はない。仕方ないじゃないか」と自ら言い聞かせアメリカを支持して自衛隊をイラクに派遣するという選択をしてしまった。〔以下略〕

〔Ⅳ 文化と歴史の波間に 〕
 不条理に満ち溢れた時代にこそ文化が問われ、歴史への視界が求められる。それこそが我々の思考の重心を下げ、心を静かにするからである。〔中略〕
 生身の人間として時代と向き合うとき、こころに文化の花束を抱くことなく、さらに歴史を振り返って道筋を辿ることなくして元気に生き抜けるものではない。生きているとはそういうことなのである。〔←【小生注】全く同感である。そして、この章の巻頭に紹介されている「魯迅と藤野先生」を、《会報》にて今回から〔1〕魯迅「藤野先生」再読、〔2〕藤野先生の足跡を訪ねて、〔3〕「脳力」について――現代における教養、以上3回シリーズにてご紹介します〕

〔魯迅と藤野先生 ― なぜ日本人は脳力を失ったのか ―〕
〔1〕魯迅「藤野先生」再読
 岩波文庫から『魯迅選集』が出版されたのは、意外なほど早く、1935年(昭和10年)の6月である。つまり、真珠湾攻撃の六年も前に、魯迅の文学は日本に紹介されていたことになる。魯迅が上海で死去したのが1936年であるから、その一年前のことである。詩人の佐藤春夫と中国文学者増田渉が翻訳にあたり、魯迅に手紙を書いて、どの作品を収めるべきか問い合わせたところ、「『藤野先生』だけは入れてほしい」と返事があったという。
 魯迅の「藤野先生」は心を打つ短編であり、日本人として考えさせられる作品である。この作品には魯迅が作家になることを決意した若き日の原点の様なものが語られている。1904年から翌年にかけて、魯迅はその本名である周樹人として、仙台の医科専門学校に留学していた。丁度、日露戦争期であり、魯迅の日本での生活は悲しい思い出に満ちたものとなった。日清・日露戦争を通じた民族意識の高揚が、中国人への蔑視となって魯迅にのしかかった。その中で、仙台医科専門学校の解剖学の藤野厳九郎という先生が寄せた配慮が魯迅の日本留学にとってキラリと輝きを放つものとなった。魯迅の日本語が覚束ないのをみてとった藤野先生は、「講義ノートを持ってくるように」と指示し、授業の度に魯迅のノートに朱筆を入れて添削してくれたというのである。
 ある日、日露戦争の写真を幻灯で見る集会があり、ロシアのスパイという嫌疑をかけられた中国人が群集の前で銃殺されるシーンに、魯迅は衝撃を受けた。同胞が辱められているという思いだけでなく、銃殺を見世物の様に見つめる中国人の虚ろな表情に深い悲しみを覚えたのである。そうした気持ちが、次第に魯迅の気持ちを「医学でなく、文学運動を通じた中国の覚醒」へと向かわせる。「あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことでない様な気がした。愚弱な国民は、体格が如何に健全であろうとも、如何に長生きしようとも、結局くだらない見せしめの材料と見物人になるだけではないか」と魯迅は述べている。
 仙台を去ることを決意した魯迅に、藤野先生は「惜別 藤野 謹呈 周君」と書いた自分の写真を贈る。この写真を、魯迅は中国に帰ってからも机の前に貼って、終生手放さなかった。「夜ごと、仕事に倦(う)んで怠けたくなる時、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚の酷い口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる」と魯迅は書いている。
 魯迅が藤野先生を書いたのは、1926年であり45歳になってからのことであった。したがって、「藤野先生」の話は、正確な事実というよりも、魯迅の作家としての脚色も加わったものであろう。しかし、「藤野先生」という作品は、魯迅が現実に巡り合った一人の誠実で生真面目な日本人の存在を際立たせ、今日においても日中両国における高校の教科書に採用されることを通じて、百万回の「日中友好」のスローガンよりも心を熱くする素材となり続けているのである。魯迅は、日本の中国への侵攻を批判し、中国の覚醒と「抗日運動」をリードする存在であったが、終生の友人であった上海の日本書籍店主、内山完造には、「日本の全部を排斥しても、あの真面目という薬だけは買わねばならぬ」と語っていたという。その時、魯迅の脳裏をよぎっていたのは藤野厳九郎の表情だったことは想像に難くない。
 藤野厳九郎について、私は何回か新聞・雑誌に書いてきたが、関心を惹かれるのは、藤野厳九郎が「市井の人」だということである。彼は歴史に名を残した偉人ではない。41歳の時に、仙台の医科専門学校が東北帝国大学の医科となり、愛知医学校しか出ていなかった藤野は教授に認定されず、やむなく故郷福井に帰り、一生を村医者として送った人である。そして、終戦の年の1945年夏、往診の途中で倒れ、71歳の生涯を終えた市井の人である。そんな人が、一人の中国人留学生に示した配慮が日中間の温もりとなって残っているのである。1998年秋に来日した、江沢民国家主席はあえて仙台を訪問し、東北大学医学部に残る古い教室に立って、魯迅と藤野先生を偲んだ。
 魯迅と藤野厳九郎の話を追いながら、北京や上海の魯迅博物館にも足を運んだが、絶えず気持ちの中にあった疑問は、何故「藤野厳九郎は藤野先生になったのか」ということであった。つまり、どうして市井の人が、日常性の中で一人の中国人に温かい思いやりを示す人物たりえたのかという疑問であった。
〔 以下《会報》次号に つづく 〕

【後記】■今日の締め括りは、《会報》前号でご紹介した飯田蛇笏の作品「芋の露連山影を正しうす」についての続きである。
 小生の愛読書である「新版 日本秀句」シリーズの中に「6 大正秀句〔冨安風生著〕」というのがある(添付写真[03]ご参照)。
[03]冨安風生著『大正秀句』 
             [04]冨安風生    [05]飯田蛇笏
03
04
05

 冨安風生氏は、【2637の会】《会報》【0163】号〔2008.03.20掲載〕他で何回かご紹介している、我等が母校時習館〔旧制愛知四中、豊橋中学校第4回〔明治36(1903)年卒〕〕の大先輩。本名冨安謙次。1929年「ホトトギス」同人。時習館高校美術科教諭であった冨安昌也先生のお祖父上の末弟にあたる。
 この本で風生氏は、「飯田蛇笏」のところで、「俳句作家が〔【小生注】芥川龍之介という〕文学の専門家からこれほどの理解をもたれる例はザラにはない」と讃えた後、次の様に述べている。

 蛇笏の遺した大きな句業績のうちから、強いて一句を挙げねばならぬとしたら

  芋の露 連山影を正しうす  蛇笏

とすることに、何人も異存はないであろうし、全く頭の下がる一代の秀句である。あたかもそれは大正三年の作でもある。〔中略〕
 蛇笏は明治37年、19歳の時、志を文学に立てて早稲田の文科に入学した。学問を捨てて郷里に帰ったのは24歳の時である。遊学中早稲田においては高田蝶衣の後を受けて早稲田吟社の首脳であったが、詩も熱心であったし、小説にも関心があった。一口に言って思想的に当時の自然主義の影響の下にある一文学青年だったのである。〔中略〕〔【小生注】・・と紹介して次の様に締め括る・・〕
 ――わたしは蛇笏と同庚〔(どうこう)=おないどし〕であり、わたしがわずかに十日早く生まれているだけである。
 飯田蛇笏。明治18年4月、山梨県生。昭和37年病歿。77歳。
〔【小生注】「大正秀句」執筆時、風生氏は80歳〔昭和39年刊行〕。風生(1885-1979)氏享年94歳。冨安昌也(1918年生)先生も今年御歳91歳、ご壮健でいらっしゃる。〕

では、また・・。(了)

2009年9月21日 (月)

【時習26回3-7の会 0256】~「9月18日:『時習26回卒業35周年記念旅行』~渡辺さんから『記念DVD集』の感想を頂戴しました・・」「9月18日:『アンドレ・ワッツ、ピアノ・リサイタル』を聴いて」「飯田蛇笏&原石鼎の『露』の句」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0256】号をお送りします。
 今日は、小生にとってまずは大変嬉しいニュースを一つお伝えします。
 実は、9月18日夜、【2637の会】memberの渡辺S○子さんから、去る6月13~14日に挙行された『時習26回卒業35周年記念旅行』の『記念DVD集』について、ご覧頂いた感想mailを頂戴しました。
 それでは、早速ですが、渡辺さんからのmailをご紹介させて頂きます。

 渡辺さんへ
 感想mailをありがとうございます。
 DVD制作者として、報われた気持ちで嬉しく思います。
 〔 尚、この記事をアップすることについて、渡辺さんのご了解を得ております〔為念〕 〕

 Sent: Friday, September 18, 2009 11:08 PM
 Subject: 感動しました

 今日拝見させていただきました。
 素晴らしいですね。
 想像してたのと全く違ってビックリです。
 どうやったらあんな風に写真が次から次へと変わっていくのですか?
 凄いですね。
 かなりパソコンの腕も上がりましたね。
 特に良かったのが、2部で、解説付きで分かりやすかったです。

 新居の関所は以前から近くを通ることはあるのですが、まだ行ったことがないのです。
 吉田藩の管轄になっていたなんて知りませんでした。
 三ケ日では新城方面からお嫁に来た人が多いと聞いた事があります。
 関所が絡んでいたんですね。
 そうそう、「お食事処『魚あら』」に行って来ました。
 「活海老天丼」食べました。
 美味しいですね。

 それにしてもあんなに沢山の写真撮ってたら、食べる時間無いのも分かります。
 みんなの笑顔良かったですね。
 ご苦労様でした。
            ・・渡辺・・
【小生comment】
 渡辺さん、本当にありがとう。
 折角の『卒業記念旅行』ですから、いい想い出にしたいと思って、『DVD制作』、拘ってみました。〔笑〕
 渡辺さんが・・
 「どうやったらあんな風に写真が次から次へと変わっていくのですか? 凄いですね。」
 ・・のところは、今は、とても便利なDVD作成ソフトがあるのですよ。
 基本的には、それを活用させて頂いただけなんですけど・・。
 折角なので、旅情や郷愁を呼び起こす様に工夫はしてみました。
 それが、渡辺さんが次の様に仰っていた・・
 「特に良かったのが、2部で、解説付きで分かりやすかった」のところの・・「walking course 旧東海道をゆく~『舞坂宿から新居宿へ』」です。
 これについては、従前よりこの【2637の会】《会報》でちょくちょくご紹介させて頂いています・・、谷山君〔旧【3-3】〕と中嶋君〔旧【3-2】〕とでやっている、分不相応に『賢人会』〔=かみさん等は『変人会』と=〕と称している「『城址&史跡&温泉巡り』の会」の模様と同じ感覚でご紹介させて頂きました。小生が創った俳句「夏霞 舞坂を発ち 新居宿 」を挿入したりして・・。〔笑〕
 「そうそう、「お食事処『魚あら』」に行って来ました。 活海老天丼食べました。 美味しいですね。」
 ・・『魚あら』の天丼・・これは本当に美味しい天丼でしたネッ。
 【【2637の会】membersの皆さんへ】
 舞阪に行かれたら、是非お立ち寄り下さい。〔笑〕
 菰田君、竹内君は、『魚あら』の天丼の味は如何でした?

 そして・・、
【豊橋市内と豊橋近郊にお住まいの【2637の会】membersの皆さんへのお願い】・・です。 
 5年後の次回は、豊橋組で小生が取纏め役の幹事を仰せつかっていますので、【2637の会】membersの皆さんで、是非とも豊橋と豊橋近郊にお住まいの方々にお手伝い頂きたいと思います。 その時期が近づいた時は、改めてお願いしますので、宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m

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■さて続いては、小生、先週末18日の夜、名古屋にある愛知県芸術劇場コンサートホールで開催された「アンドレ・ワッツ『ピアノ・リサイタル』」に行って来ましたので、その模様をお伝えします。
 その日購入したprogramに掲載されている萩谷由喜子氏のessay「連鎖の中のアンドレ・ワッツ」が印象的でしたので、その抜粋をご紹介します。

 1963年1月31日、ニューヨーク・フィルハーモニックのサーズディ・イブニング・コンサートには、絶頂期のグレン・グールドの出演が予定されていた。
 ところが、当日になって「急病につき出演不能!」との連絡が入る。けれども、ニューヨーク・フィルの音楽監督レナード・バーンスタインは些かも慌てなかった。彼の頭には、一人の精悍な少年の顔が浮かんだからである。二週間前、バーンスタインは自ら企画している「青少年の為のコンサート」のsolisteにその少年を抜擢したばかりで、その時から、彼が将来、世界のTop pianist10指に入る存在になることを確信していたのだ。
 「よし、彼を呼ぼう!」
 〔中略〕
 開演間際に駆けつけて来た少年こそ、16歳7ヶ月のアンドレ・ワッツ。〔中略〕 ワッツ少年は、目の覚める様なリストのピアノ協奏曲1番の演奏でorchestra 、聴衆を圧倒する。〔中略〕 彼はこの日を境に「世界のヴィルトゥオーゾ」の階段を上がって行く。
 〔中略〕
 今から10年前、1999年にもこんな話がある。
 舞台はシカゴ交響楽団の夏の本拠地、シカゴ近郊ハイランドのラヴィ二ア公園。
 この野外コンサート・ラヴィ二ア音楽祭の或る日、音楽監督クリストフ・エッシェンバッハのもとに17歳の中国人少年が audition を受けにやって来た。人なつこい童顔のその中国少年は、古典から近代まで難曲を次々と鮮やかに弾き、エッシェンバッハを瞠目させた。〔【小生注】その中国人少年が弾ける協奏曲数は30曲。うち20曲は暗譜しているという。そして、高熱で倒れたピアニストの代役をエッシェンバッハがこの中国人少年に頼んだのである。〕
 〔中略〕
 それからの24時間は Cinderella story そのものだった。チャイコフスキーの協奏曲を快演したその少年ラン・ランは、演奏が終わるや、3万人の聴衆の standing ovation を受ける。〔中略〕〔【小生注】その演奏会終了後の partyで、エッシェンバッハはラン・ランに J.S.Bach の『ゴルトベルク協奏曲』を request した。この曲と言えば・・〕あのグレン・グールドの代名詞。そして、そのグレン・グールドの pinch hitter を務めたことから国際的な career が始まった pianist こそ、今夜、急病に倒れたアンドレ・ワッツだったのだ。
 〔中略〕
 4年後の2003年、かつてホロヴィッツが愛奏した古いピアノを弾いていたラン・ランは、薄くなった鍵盤をいつもより力を込めて打鍵していたところ、指の腱を損傷して、医者から1ヶ月間の安静を命じられてしまった。
 無念のコンサート・キャンセル。打ちひしがれた彼のもとに一本の電話が入った。
 「君の代役を頼まれた。今度は君の代わりを務める番だ。十分に養生してくれたまえ!」
 受話器から聞こえてきたのは、あの伝説的代演から40年間に亘って、しなやかなヴィルトゥオジティと独特の elegance で世界を魅了し続ける巨匠アンドレ・ワッツ〔 Andre Watts 〕の温かな励ましだった。〔了〕

【筆者comment】
 添付写真の program 〔曲目一覧〕をご覧下さい。
02piano_recital_090918

*
 モーツァルト ロンド二長調K.485 & イ短調K.511
 シューベルト 楽興の時 第5番、2番、3番
 シューベルト 幻想曲ハ長調「さすらい人[ Wandererfantasie ]」
      ◇ 〔休憩〕 ◇
 リスト 巡礼の年 第3年 から 「エステ荘の噴水」
 リスト 3つの演奏会用練習曲 から 第3番変ニ長調「溜息」
 ショパン 練習曲 op.10-9、op.25-7、op25-1「エオリンハープ」、op.25-12「革命」
 ショパン バラード第1番 ト短調 op.23

 今回の演奏会は、まずアンドレ・ワッツ〔 Andre Watts 〕の選曲の良さに魅せられた。
 彼は、確かな技術力を base に、骨太の演奏を見せてくれ、ピアノの名曲を堪能出来た。
 まず最初の2曲、W.A.Mozart の生演奏は、 《会報》【0222】号でご案内した「2009年1月23日:愛知県芸術劇場『ランラン・ピアノリサイタル』以来であったが、ワッツの演奏は、名曲の聴き所を確りと聴衆に伝えてくれて素晴らしかった。
 そして、続いての曲・・、大変有名な Schubert の小品「楽興の時 第3番」や幻想曲「さすらい人」を聴き、暫し夢見心地に・・。〔笑〕
 更に、recital 後半の曲目は全て名曲ばかりで、印象派音楽の先駆けとなった、まさに Debussy や Ravel の曲を彷彿とさせる Liszt の「エステ荘の噴水」。そして、同じく Liszt の練習曲第3番「溜息」。この「溜息」を聴いてこちらも感動して思わず「溜息」を漏らした。・・〔笑〕
 続いての Chopin の練習曲も「エオリアのハープ」「革命」で感動し、終曲は同じく Chopin の究めつけの名曲「バラード[ Ballade ]第1番」。
 この日は、ワッツによる、至れり尽くせりの数々の名曲の生演奏を、彼の演奏する piano から7~8mの至近距離で聴けたため、会場を後にしても暫くの間、感動を胸に載せた儘帰ることが出来た。〔笑〕

【後記】■さて今日の締め括りは、前号にてご紹介した『露』を theme にした第二弾。飯田蛇笏〔1885-1962〕と原石鼎〔せきてい〕〔1886-1951〕の作品をご紹介する。2作とも溜息が出るほどの名句である。

 芋の露 連山影を正しうす  飯田蛇笏

【解説】山本健吉は、著書『定本 現代俳句』で次の様に述べている。
 大正3年作。作者が数え年三十歳の時の句である。
 現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は、蛇笏をもって最とすると、誰かが書いていたのを読んだことがあるが、そのことは、何よりもまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである。
〔中略〕
 この句は初期の代表作であるが、若年にして確乎たる蛇笏調を打ち立てているのを見るのである。里芋の畑は近景であり連山は遠景である。爽やかな秋天の下、遠くくっきりと山脈の起伏が、形をくずさず正しく連なっている。倒影する山脈の姿も正しく起伏を描き出しているのであるが、「影」はまた「姿」にも通ずるのである。澄み切った秋空に、連山が姿を正すかの様に、はっきりと、いささかの晦冥〔かいめい(【小生注】くらがり)〕さをとどめず、浮かび上がっているのである。「芋の露」は眼前の平地の光景であり、かなりの拡がりを持った眺めである。広葉の露に、秋の季節の爽涼を感じ取ったのである。
 秋の山容を表現して遺憾がないと言うべきであろう。「影を正しうす」とは、また彼自身の心の姿でもあったのである。

【小生comment】
 この句は、本当に格調が高い名句である、と思う。眼前に見える里芋の広葉の上の「露」と、遠くにくっきりと晴れ上がった秋空の下に姿を見せる連山との巧みな contrast。この絵画的な色調の美しさと、遠近感を間近に実感できる立体感の妙。そして、秋の季節の爽涼感を感じた作者自身の凛とした心境・・。詠み手に「俳句の素晴らしさとはかくなるものぞ」と教えてくれる。

 蔓〔つる〕踏んで 一山〔いちざん〕の露 動きけり  原石鼎

【解説】水原秋櫻子著『近代の俳句』では、次の様に紹介している。
 暁まだ暗いうちに山に登りはじめた。提灯も持たず、薄明かりに細道を求めながら辿ってゆくのである。山気〔(さんき)【小生注】山中特有の冷えびえとして冷たい空気〕が非常に冷えているのは、恐らく木々にも草にも一面に露が降りているためであろう。あたりは実にひそかで鳥の鳴く音も聞こえない。それでも木の間を透かして見える空が次第に白んで来て、今日も好い天気になるらしい。
 一つの蔓を踏んだだけで山全体の露が動く――ということは、考えようによっては大なる誇張と見られるかもしれぬ。しかし私はこれを誇張とは感じない。それは作者が本当に受けた感動をそのままに詠んでいるからで、作者としては微塵も嘘はなかったのである。
 これだけの小さな事から、秋山全体の鼓動を聞き得るところに俳句の面白さがある。簡素ながら大きな力を持つ句で、当時の俳壇に強い感銘を与えたであろうと思われる。

【小生comment】
 大正2年作。吉野山時代の句で、作者はその時数え27~8歳。俳壇に屹立した水原秋櫻子の言葉であるからではないが、この句も、僅か十七文字で、「蔓を踏む」という些事から「一山の露〔の全て〕が動く」と表現して、詠む者に不思議な共感を与える、俳句が持つ面白さを素直に表した秀句である、と思う。
 それにしても、蛇笏といい、石鼎といい、大正2~3年の、まだ数え年で若干30歳、27~8歳の頃の作品だと知り、やはり著名な俳人は若い時分から名作を世に出しているのだなぁ、と感心した次第・・。
 では、また・・。(了)

2009年9月13日 (日)

【時習26回3-7の会 0255】~「『時習26回卒業35周年記念旅行』記念DVD集配送完了のご報告」「【2637の会】《クラス会》会計報告」「『時習館高校数学選手権日本一、二連覇!』」「白露の時節に合う露の俳人『川端茅舎』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0255】号をお送りします。
 今日最初の話題は、掲題・副題にあります通り「『時習26回卒業35周年記念旅行』記念DVD集配送完了のご報告」です。名古屋幹事の黒柳M利君から、昨日〔9月12日〕夕方小生宛に、同日昼、DVD配送完了した旨の連絡mailが来ました。「卒業35周年記念旅行」に参加された、菰田君、竹内君、山中(高木)さん、渡辺さん、大変お待たせしました。
 皆さんのご自宅には、先週お伝えした様に14(月)~16(水)に届く予定です。
 到着したら是非一度はご覧頂いて感想を下さい。お願いします。m(_ _)m

 以下に、「記念DVD集」発送の件で、時習26回生掲示板「不老荘」に本日アップした内容を転記します。ご覧下さい。

◆◇◆時習26回卒業35周年記念旅行参加者79名の皆様へ◆◇◆

 私は「記念DVD集」の制作者です。
 昨日、去る6月13~14日にかけて舘山寺山水館欣龍他にて開催された「卒業記念旅行&懇親会」につきまして、名古屋幹事のK柳君〔旧【3-6】〕から連絡があり、掲題の通り「記念DVD集」を出席者全員の皆様宛に配送手続きが完了した旨連絡を頂戴しました。
 参加者の皆様のお手許には、早い方で明日9月14日(月)、遅い方でも16日(水)には届く予定です。
 制作者の独断により、撮影・編集させて頂いた全900枚強のsnap shotsと、名古屋幹事の諸氏からお預かりした写真を編集し、重複分を含め、950枚強のsnap shots、そして、青春時代の名曲14曲をBGMとして全五章形式に編成しました。総収録時間は56分強になります。
 1時間近い時間も、名曲と皆さんの笑顔等を見聞きしているうちにあっと言う間に過ぎ去ること受け合いと思われます。〔笑〕〔汗〕
 当初は、第四章形式にて編集しましたので第四章が終了すると一度〔完〕の案内が出ます。
 しかし、名古屋幹事の皆さんに、先月8月初旬に視聴して頂いた際、追加でいいから二日目の模様を第五章に入れて欲しい旨依頼があり、
 ~〔DVD制作者の私は、所用があり二日目の早朝には帰宅させて頂き、同日のsnap
shotsを撮影しておりませんでした〕~
 第五章〔追補〕を追加させて頂きましたので、第四章が終わっても、引続いてご覧下さい。因みに、Indexは以下の通りです。
〔01〕最近の時習館高校と我等が卒業アルバムから〔05分〕
〔02〕optional course / walking course / 旧東海道をゆく~『舞坂宿から新居宿へ』〔16分〕
〔03〕懇親会~一次会&二次会〔13分〕
〔04〕懇親会~三次会〔15分〕
〔05〕記念旅行二日目~奥山半僧坊&旅行初日のバドミントン組&みんなの笑顔〔07分〕

 尚、「記念DVD集」の説明書にも記しましたが、このDVDは、DVD-R仕様のDVDデッキか、パソコンを使用〔=再生〕願います。また、たまに第三章が終了した段階で最初のIndex画面に戻ってしまう場合があります。
 ~〔巻頭のIndexは、全五章のうちの第01・02・03しかdisplayされていません。〕~
 その場合は、巻頭のIndexの第三章をクリックした後、〔>>|〕ボタンで第四章まで進んで下さい。あとは自動的に最後の第五章まで進みます。
 それから、
 【今回の卒業記念旅行に参加されていない時習26回の皆さんへのお知らせ】です・・
 この「DVD集」を欲しい方は、名古屋幹事のK君〔旧【3-6】〕までご一報下さい。
 ~〔K君に了解をとってありますので〕~
 準備ができ次第、可及的速やかにご希望の皆さんのご自宅にお送りさせて頂く様、記念DVD制作者が増刷でも何でもしてしかるべく対応させて頂きます。
 さて、添付写真3枚は・・
〔左〕「記念DVD集」巻頭のIndex
 ※「記念DVD集」の本物でこの場面が出てきましたら、一番左の窓〔001〕をクリックして下さい。「記念DVD集」がstartします。
〔中〕第四章の終わり近くに表れる Ending roll です。
〔右〕第五章〔追補〕:記念旅行二日目~巻頭の画面です。
2635
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 ※この「記念DVD集」では、懇親会参加者79名のお顔の直ぐ側にご芳名を記してありますので、参加者全員の皆さんの顔と名前が即座に解ります。楽しみにしていて下さい。
◇◆◇「記念DVD集」をご覧になられた方々へのお願い◇◆◇
 ※是非、感想をお寄せ下さい。この不老荘へのアップで・・
  お待ちしております・・m(_ _)m

■さて、今日続いての話題は、掲題・副題にあります様に先月開催した【時習26回3-7の会】《クラス会》の会計報告です。
 厳密に言いますと、参加者皆さんにお送りする予定の写真DVD〔or CD〕集をまだ制作&送付しておりませんので、仮の会計報告となりますが・・。(笑)

   〔 詳細は省略させて頂きます 〕
〔1〕収入の部 ******円 〔①〕 < 〔2〕支出の部 ******円 〔②〕
 以上の様に、会費は使い切りました。 ∴繰越金額はゼロ円です。(^o^)/

■続いては、「『時習館高校数学選手権日本一、二連覇!』」のニュースです。
2009

8月19日、21日、27日に開催された〔全国数学選手権大会の団体戦『マスバトル部門』」で時習館高校SSH数学部が大会第一回目の昨年に引き続き連続優勝を成し遂げた、と9月5日付の地元新聞に掲載されました。
 ホント、凄いですねぇ・・。 我等が後輩の奮闘に心より敬意を表したいと思います。我等の後輩達の栄えある姿を添付写真でご覧下さい。





【後記】
■さて今日は、「露」をthemeにした俳人の話をお伝えして締め括りとしたいと思います。
 このところ、朝晩、めっきり涼しくなって来ました。時節の移ろいの確かさ、速さを感じます。
 暦の上では、5日前の9月7日が二十四節気でいう『白露』。 通勤途上、清々しい秋風に誘われて空を見上げると、羊雲やうろこ雲が浮かんでいる・・。その情景は、まるで青く澄み切った大きなカンバス〔canvas〕に描かれたセザンヌやピサロの絵の様だ。
 一方、道端のススキの葉先に眼を転じると、「露の玉」が一つ・・。
 秋の風物詩となる「露」は、二十四節気には『白露』と『寒露』と二度も出て来る秋の季語の定番である。
 そして、この「露」で思い浮かべる俳人と言えば、「川端茅舎(ぼうしゃ)(1897.08.14-1941.07.17)」。齢43歳でこの世を去ったが、ホトトギス派の同人として、高浜虚子からも愛された風流人〔添付写真ご参照〕。以下に彼の略歴を記す。
Photo

【略歴】
1897(明治30)年 8月14日、東京都日本橋蛎殻町に生まれる。本名は信一(のぶかず)。異母兄は画家川端龍子〔りゅうし〕。父は紀州藩下級武士。
1903(明治36)年 (06歳)私立有隣代用小学校入学。
1909(明治42)年 (12歳)独逸学協会学校〔後の独協中学校〕入学。
1914(大正03)年 (17歳)この頃より自らの俳号を「茅舎」と名乗る。俳句雑誌『キララ(後の『雲母』)』に度々投稿を始める。西洋絵画も始める。
1916(大正05)年 (19歳)武者小路実篤の「新しき村」の第二種(村外)会員となり、白樺派にも接する。同派の関係から岸田劉生と知り合い、劉生の絵に感動して師事するが、病気の為画業を断念、俳句一本に絞る。
1924(大正13)年 (27歳)11月「ホトトギス」雑詠の巻頭となる。当時、「ホトトギス」の巻頭欄は大変な権威があった。この頃より、京都東福寺正覚庵に参禅し東洋思想を探求。
1934(昭和09)年 (37歳)「ホトトギス」同人となる。同年第一句集『川端茅舎句集』刊行。
1939(昭和14)年 (42歳)『華厳』刊行。この句集の序で、虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」と評され、茅舎の異名となった。この頃より左肺に苦痛を覚える。
1940(昭和15)年 (43歳)09月に新潟医大で検診。同医大には当時高野素十(すじゅう)がいた。
1941(昭和16)年 (43歳11ヵ月)『白痴』刊行。7月17日、東京大森にて病没。

 43歳という早過ぎる死。しかし、その歳にして老成した句を作り得たのは、やはり病気を通じて自分の行方を見つめ続けていたため〔大岡信『百人百句』〕、という。
 話を「露」に戻そう。山本健吉『定本 現代俳句』の川端茅舎の項では次の様に紹介している。

 金剛の 露ひとつぶや 石の上  川端茅舎

 茅舎の処女句集である『川端茅舎句集』は四季別に編纂され、秋の部を最初に据えているが、冒頭露の句二十六がずらりと並んで、まず偉容を呈する。茅舎は生涯にわたって多数の露の句を詠み、露は最も愛着した句材でもあったが、『茅舎句集』の巻頭に秋の部を持ってきたのも言わば開巻露の句を並べたかったからと思え、『猿蓑』における時雨と同じく、露はこの句集の美目を為している。
 岸田劉生門の画家として、彼は静物にじっと見入る眼の忍耐を獲得した。何かとの配合においてものを見るのではなく、ものそのものの形・色・光・重み・位置・大きさ等への凝視が深い感動を導き出すのである。〔中略〕
 茅舎も露の一粒一粒に赤子の姿を見た。茅舎は比喩の天才と言われているが、それはありきたりのものではない。人には見えぬものを見る心眼が彼に比喩を吐かせるのであって、言わば林檎〔【小生注】=の実〕に赤子を見てしまう無垢の眼を持っているだけの話だ。〔中略〕彼は石の上に置いた一粒の大きな露の玉を見つめる。何か造化〔【小生注】天地間の万物が生滅変転して、無窮に〔=果てし無く〕存在していくこと〕の精錬の力が一粒の露に凝集されている様であり、露は渾身の力を以ってその存在に耐えている。露はもはや生まれたばかりの赤子である。「金剛の粒」という比喩がぴったりと言い出され、さらに「露ひとつぶや」と強調され具象化される。石上に凝ったたった一粒の露の玉が豊かな浄土世界を現出する。露と言い石と言い、茅舎が創り出すものは木思石語〔【小生注】=もくし せきご=木が思いを廻らし石が語る汎神論(の世界)・・〕の摩訶不思議の世界だ。〔以下略〕

 草間時彦『俳句十二か月』では、茅舎のこの作品を次の様に紹介している。
 〔前略〕石の上の一粒の露の玉を凝視した茅舎は、その露が朝日を受けて光るのを、宝玉のごとくに見た。その光りが千里を照らす様に観たのである。金剛は梵語から転じた仏教語で、金剛界の諸仏に冠する語である。また、「堅固で破れない」という意もあり、金剛不壊(ふえ)という言葉がある。もっとも果敢(はか)ない散り易い露の玉を金剛不壊と見た茅舎の眼にはその露が生きているものの様に見えたのだった。天地の生命が凝って、露の玉になった様に見えた。それを支えるのは石であり、石も茅舎の好きな題材。露が生きて動くものの象徴であれば、石は不動の象徴。〔中略〕
 石田波郷はこの句の短冊を書斎の柱に掛け「時に心迷ふとき、この短冊を見てゐると、迷の雲はうちはれてくる思ひがする」と述べている。

【小生comment】
▼茅舎の物を見る眼の確かさは、天賦の才であるに違いない。それに加えて、彼が病弱であったこととも無縁ではあるまい。
 実は小生も、茅舎が罹患した結核に良く似た病気である、結核性肺門リンパ腺炎を小学二年のとき患い、以後数年自宅療養と通院とを続けたことがある。身体中がだるく、空咳を繰り返し、一日の大半を寝たきりで何日も過ごしていると、眼力や聴力が異常に鋭敏になり、例えて言えば、寝ている布団のすぐ横の畳の上にとまっている蝿が顔を前足で擦る様子や、家の窓の外を飛び回る雀の囀りが異常に大きく耳元に響いて来たりする。
 そういう敏感になった感覚で物を見て、感じた気持ちを俳句に表現したのかもしれない・・。
 いずれにしても、名句であることに違いはない。 では、また・・。 

(了)

2009年9月 6日 (日)

【時習26回3-7の会 0254】~「9月4日:『レオナール・フジタ』展を観て」「9月4日:『名古屋平成中村座』公演初日を観て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0254】号をお送りします。
 まず、今日最初の話題は、去る6月13(土)~14(日)に開催された「時習26回卒業35周年記念旅行」関連のニュースから・・。
 今回の名古屋幹事の黒柳M利君〔旧【3-6】〕に連絡をとり、先月20日、黒柳君に手交した「記念DVD集」がいつ頃出状されるか確認しました。
 彼曰く「今、送付状を揃えて、準備も佳境。今週末までには発送する予定。送付状には「記念旅行も終わり3ヶ月経ちました・・」という書き出しにしてある」との由。記念旅行参加者全員宛に「記念DVD集」のほか、参加者の最新の「住所録」や、各人の名前入りの「全体写真」も同封されると聞いています。
 【 菰田君、竹内君、山中(高木)さん、渡辺さんへ 】
 「卒業記念旅行・懇親会」に参加された皆さんのご自宅には来週早々〔9月15(月)~16(火)〕には「記念DVD集」が到着すると思います。お楽しみに・・。それから、
 【 先日の【2637の会】《クラス会》に参加された皆さんへ 】
 会計報告は、もう少しお待ち下さい。 小生、最近、結構忙しくて、なかなかこのブログを週一回のペースで配信することも大変・・。(笑)
 次号か次々号にて報告させて頂く予定です。(汗)
 それから、「記念DVD集」や「青春のうた Part4」は如何でしたでしょうか? 石田(Y)君以外の皆さんからもご感想を頂戴できると嬉しいです。m(_ _)m

■さて今日は、掲題・副題にあります様に、先週末4日に、名古屋へ行く機会があり、松坂屋本店南館7階で13日まで開催中の『レオナール・フジタ』展を観て来ましたので、早速ご報告させて頂きます。

〔01〕レオナール・フジタ展 
・・・・・・・・・・・・・・・〔02〕藤田嗣治『裸婦と猫』〔1923年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔03〕藤田嗣治『二人の友達』〔1926年〕
01090904
021923
0331926
 まずは、図録巻頭の「ごあいさつ」の抜粋をお届けして、今回の展覧会の目的等をご紹介します。








〔04〕藤田嗣治1927年
・・・・・・・・・・・・・・・〔05〕藤田嗣治『[ライオンのいる構図〔部分〕』〔1928年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔06〕藤田嗣治『犬のいる構図〔部分〕』〔1928年〕
041927
051928
061928

 藤田嗣治〔洗礼名:レオナール・フジタ〕は、20世紀初頭、フランス・パリで活躍し、当時から同国絵画界で高い評価を得ていました。小生が好きな画家であるモディリアーニは、フジタとの親交が厚く、「フジタの肖像」〔1919年〕を残しています。







〔07〕藤田嗣治『争闘Ⅰ〔部分〕』〔1928年〕
・・・・・・・・・・・・・・・〔08〕藤田嗣治『争闘Ⅱ〔部分〕』〔1928年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔09〕藤田嗣治『仰臥裸婦』〔1931年〕
071928
081928
091931
 「 渡仏した藤田は様々な芸術家と出会い、交遊を結んでいる。とりわけモディリアーニとは「最後の日迄私は交際して居った」と語るほど、親密な間柄にあった。」と言います。 ではどうぞ・・






〔10〕藤田嗣治『野あそび』〔1936年〕
・・・・・・・・・・・・・・・〔11〕藤田嗣治『ノルマンディーの春』〔1936年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔12〕藤田嗣治『優美神』〔1946-48年〕
101936
111936
12194648




〔13〕藤田嗣治『アージュ・メカニック』〔1958-59年〕
・・・・・・・・・・・・・・・〔14〕藤田嗣治『ヴィリエ=ル=バクルの私たちの家』〔1960年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔15〕藤田嗣治・君代夫妻の終の棲家『ヴィリエ=ル=バクルのラ・メゾン=アトリエ・フジタ』
13195859
141960
15




〔16〕ヴィリエ=ル=バクル最上階にあるフジタのアトリエ
・・・・・・・・・・・・・・・〔17〕ヴィリエ=ル=バクル~暖炉のあるリビング
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔18〕ヴィリエ=ル=バクル~古いスペイン製家具で統一されたダイニング
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17
18




〔19〕晩年の藤田夫妻
・・・・・・・・・・・・・・・〔20〕藤田嗣治『花の洗礼』〔1959年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔21〕藤田嗣治『イヴ』〔1959年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔22〕藤田嗣治『「平和の聖母礼拝堂」フレスコ壁画:磔刑』
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 《ごあいさつ》
 1992年、フランス・オルリー空港近くの倉庫で発見された、縦横3mの大作4点「構図」と「争闘」。それらは一部が1929年に日本で公開されたものの、その後所在が不明になっていた、レオナール・フジタ〔藤田嗣治1886-1968〕の幻の作品です。この4点はフジタが晩年を過ごしたアトリエの建物とともにエソンヌ県の所蔵となり、フランス第一級の修復チームによる本格的な修復作業が6年の歳月をかけて行われました。〔中略〕本展覧会は、〔中略〕これらの大作群を中心に据え、新たに今まで纏まった形で紹介されることのなかったフジタの「壁画」をキーワードに、この類稀なる世紀の天才画家の実像を再検証しようとするものです。
 〔中略〕
 本展は、画家の最初のフランス時代(1913-1931)の集大成である「構図」と「争闘」、その後の日本における壁画の制作を経て、最後のフランス時代(1950-1968)の帰結である「平和の聖母礼拝堂」を軸に、貴重な作品と資料で藤田嗣治=レオナール・フジタの画業を展覧するものです。〔以下略〕

 以下に藤田嗣治の経歴をご紹介します。

1886(明治19)年 11月27日、東京府牛込区(現新宿区)に、陸軍軍医の父嗣章、母政の間に、四人姉弟の末っ子として生まれる。
1893(明治23)年 東京高等師範附属尋常小学校入学
1900(明治33)年 (14歳)同附属中学校入学
1905(明治38)年 (19歳)4月、東京美術学校予備科入学。9月、西洋画科本科入学。黒田清輝に師事。
1910(明治43)年 (24歳)10月、最初の妻となる鴇田とみと結納。
1913(大正02)年 (27歳)6月18日、門司出航の日本郵船三島丸で渡仏。
1915(大正04)年 (29歳)鴇田とみと離婚。
1917(大正06)年 (31歳)3月27日、フェルナンド・バレーと結婚。
1918(大正07)年 (32歳)春、スボロフスキー、スーチン、モディリアーニと共にカーニュで過ごし、ルノワールを訪問。
1919(大正08)年 (33歳)サロン・ドートンヌに初出品し、6点全て入選。サロン・ドートンヌ会員に推薦される。「モンパルナスのキキ」と呼ばれたアリス・プランやキスリングとの交遊が始まる。
1923(大正12)年 (37歳)サロン・デ・チュイルリーの招待作家に選ばれ、2点出品。会員となる。
1924(大正13)年 (38歳)別居中のフェルナンド・バレーと離婚。リュシー・バドゥー〔ユキ〕と結婚。日本不在の儘帝展委員に。
1925(大正14)年 (39歳)フランス、ベルギーから叙勲。岡鹿之助等、この前後に渡仏した日本人と交流。
1926(大正15)年 (40歳)「アミティエ(友情)」がフランス政府買い上げ、リュクサンブール美術館に収められる。
1927(昭和02)年 (41歳)11月、ルーブル美術館銅版画室に、銅版画1点収蔵される。
1929(昭和04)年 (43歳)9月28日、16年ぶりにユキを伴い帰国。
1930(昭和05)年 (44歳)1月、横浜から出航し、米国経由しパリへ帰る。
1931(昭和06)年 (45歳)秋、ユキと別れ、マドレーヌ・ルクーと共に10月より南米へ。
1933(昭和08)年 (47歳)11月17日、マドレーヌを伴い日本へ帰国。
1936(昭和11)年 (50歳)6月ジャン・コクトー来日し、帝国ホテルで再会。6月29日、マドレーヌ急死。12月、堀内君代と結婚。
1937(昭和12)年 (51歳)《自画像》〔1928年〕がパリ国立近代美術館収蔵となる。
1938(昭和13)年 (52歳)10月、海軍省嘱託として中国中部に派遣される。漢口攻略戦に従軍。
1940(昭和15)年 (54歳)前年9月に第二次世界大戦勃発したため、渡米、渡仏を繰り返し、5月23日陥落寸前のパリを脱出。マルセイユから最後の帰国船であった伏見丸で地中海を通り、7月7日に日本帰国。9月、陸軍省嘱託として新京に向かい、ノモンハンに取材する。10月帰国。
1942(昭和17)年 (56歳)3月、戦争記録画制作のため、陸軍省よりシンガポールに、海軍省よりインドネシアに派遣される。
1945(昭和20)年 (59歳)8月、疎開先で終戦。自分の戦争画や資料を自ら焼く。 
1947(昭和22)年 (61歳)2月、正式に戦争容疑が晴れる。
1950(昭和25)年 (64歳)1月 渡仏の許可が下りる。ニューヨークから出航、英国経由、アーブル入港、パリへ。
1951(昭和26)年 (65歳)3月、ポール・ペトリデス画廊で帰国後初の個展を開き、出点50品全品売約。
1954(昭和29)年 (68歳)10月、14区教会にて君代夫人と結婚式を挙げる
1955(昭和30)年 (69歳)2月28日、藤田夫妻フランスに帰化し国籍取得。5月日本国籍を抜く。
1957(昭和32)年 (71歳)オフィシェ・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章受章。
1959(昭和34)年 (73歳)10月14日、ランス大聖堂にて君代夫人と共にカトリックの洗礼を受ける。洗礼名:レオナール。君代夫人:マリー・アンジュ・クレール。
1961(昭和36)年 (75歳)11月、パリ郊外ヴィリエ・ル・バクルに農家を購入し改造、住まい兼アトリエとする。〔添付写真№14~18ご参照〕
1966(昭和41)年 (80歳)2年の準備を費やし自ら設計した「平和の聖母礼拝堂」着工(2月)。6~8月、フレスコ画を仕上げる。〔添付写真№22ご参照〕10月、礼拝堂がランス市に献呈される。
1968(昭和43)年 (81歳2ヵ月)1月29日、チューリッヒ州立病院にて死去。「平和の聖母礼拝堂」に眠る。
2009(平成21)年 4月2日、君代夫人永眠(98歳)。フジタと共に「平和の礼拝堂」に眠る。

【小生comment】
 以上の様に、経歴を眺めただけで、レオナール・フジタの波瀾万丈の人生が、衝撃波の様に迫って来ます。
 レオナール・フジタ関連の添付写真全〔22枚〕をご覧頂いて、皆さんはどの様に感じられましたか?
 フジタが描く女性像は、彼のオリジナリティーが良く表れていると、小生は思います。   
 彼の画風は、観る側にとって評価が二分される画家ではないかと思います。天才画家が持つオリジナリティーという面では、日本の西洋画家では彼を凌駕する者はいないと言って過言ではありません。 フジタの「乳白色」は、最初のフランス時代から大変有名ですね。
 一方、藤田の作品は、感覚的に肌に合わないと感じる方もいると思います。
 でも、blogに添付した、藤田嗣治・君代夫妻の終の棲家『ヴィリエ=ル=バクルのラ・メゾン=アトリエ・フジタ』なんかをみると、小生もこの様なアトリエで絵が描けたらいいな、と羨望の眼で写真を眺めました。古風なスペイン製の家具で揃えたダイニングや、落ち着いた雰囲気のリビング等も、観る者に安らぎを与えます。


■続いては、同じく9月4日の夜、名古屋城内でその4日を初日として9月26日まで開催される『名古屋平成中村座』公演を見て来ました。
〔23〕名古屋平成中村坐090904
・・・・・・・・・・・・・・・〔24〕名古屋平成中村座すじがき01
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔25〕名古屋平成中村座すじがき02
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔26〕名古屋平成中村座『演題』
23090904
2401
2502
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〔27〕中村勘三郎
・・・・・・・・・・・・・・・〔28〕中村橋之助
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔29〕中村勘太郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔30〕中村七之助
27
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29
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 小生、急遽この公演を見ることができなくなった方からチケットを譲り受けたもので、「歌舞伎」というものを実際見たのは、今回が初めてでした。
 「歌舞伎」は、ある意味オペラに似ている様に思います。
 日本語でありながら、解説をイヤホンで聞かないと、筋書きそのものは勿論、見せ場などがよくわからない。
 逆に言えば、イヤホンで解説を聞いていると、非常に解り易い。
 舞台が綺麗で、謡や囃が聞ける。浄瑠璃・義太夫が身近に感じる。
 イヤホン解説があれば、謡の歌詞まで説明してくれるのでありがたい。
 そして、歌舞伎俳優である、勘太郎や七之助の出で立ちがまた恰好よく、美しい。
 「歌舞伎」は、総合的にみて、まさに、日本の伝統芸能の極致であると言えまいか。
 また、ミーハー的ではありますが、我々と同年の中村勘三郎を中心に中村橋之助や、勘三郎の二人の息子である、勘太郎、七之助を、すぐ近くに観ることが出来たのは、何か儲けた様な気になりました。(笑)
 添付写真は、会場入口の『名古屋平成中村座』公演の看板と、あらすじ、演目一覧、そして、勘三郎、橋之助、勘太郎、七之助の横顔、を添付しました。
 因みに、演目は「①極付〔いわめつき〕 幡随長兵衛〔ばんずいちょうべえ〕「公平法問諍〔きんぴらほうもんあらそい〕」 ②傾城反魂香〔けいせいはんごんこう〕 ③元禄花見踊」ですが、実際の演目の順番は、演目一覧の①と②が入れ替わっていました。(笑)
 以下に勘三郎、橋之助、勘太郎、七之助の生年月日を記しました。
 勘三郎〔1955年5月30日生〕、橋之助〔1965年8月31日生〕、勘太郎〔1981年10月31日生〕、七之助〔1983年5月18日生〕。
 当然と言えば当然ですが、我等と同じ年の勘三郎の二人の息子、勘太郎、七之助は、まさに我等の子供たちの世代。
 二人は実に若々しく、そして、プロの芸人としての矜持を彼等の演技から感じることが出来ました。爽快な気分になれた4時間でした。
 それにしても、観客の7割は女性。ご年配の女性はわかりますが、若い女性も沢山いました。勘太郎や七之助がお目当てかも・・。(笑)

 では、また来週・・。

(了)

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