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2007年3月の8件の記事

2007年3月31日 (土)

【時習26回3-7の会 0078】~〔中山君からのe-mail address変更のお知らせ〕&〔漢詩「杜牧『清明』」「杜牧『江南の春』」「李白『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』」「薛濤『海棠渓』」「劉希夷『白髪を悲しむの翁に代る』」〕&〔城山三郎『指揮官たちの特攻』〕

■今泉悟です。「今週の【3-7の会】はちょっとお休み・・と書き出すのかなぁ」と思っていたらタイ国在住の中山Y敬君からmail address変更のお知らせmailが届きましたので、皆さんにご紹介致します。 では、Y敬君、どうぞ・・!
▼From: Yxxxx [mailto:naxxxxxx]
Sent: Friday, March 30, 2007 11:40 PM To: si8864@nifty.com Subject: 中山です メールアドレスが変わりました
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▼中山です。 このたびアパートを替わり、メールアドレスが「このメールのアドレス」に変更になりました。
新しいアパートは以前のところから3kmほど離れたところで、隣には日本人向スーパー、食堂、飲屋があり、生活が便利になりました。 ただし、食材がすぐに買えるので、しっかり自炊をしようと思っていたのですが、ついつい食堂、飲屋に行ってしまい、見込み違いもありますが。
間取りは、日本人向に作られています。特に風呂はホテルのバス・トイレと違い、独立してバスタブ、洗い場があります。のびのびと体を洗うことができ、日焼けの黒さも多少落ちたような気がします。
学生時代、6年間で下宿を4回変わりましたが、この気まぐれは年をとっても変わらないようです。
PS このメールは、yahooメールを使っているので、最後に変なおまけが付くと   思いますが、ご容赦ください
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【筆者comment】◆中山君、mailありがとう。 貴君からのmailが小生に届いたのが3月31日 01:40 PM でしたので、タイ国と日本の時差は現在2時間ということになりますか・・。 それにしても瞬時にe-mailは届くのですね。 光(e-mail)の速さはホント凄い・・。 
◆それから中山君も引越し魔ですねぇ・・。 小生も、転勤等の仕方なくの引越でしたが、【時習3-7】の学び舎を去り、大学進学してから、現在の実家に家を建てるまで13回の引越し(含む「単身」)を行っています。 転居は新しい知人を得、いい経験になりましたが、引越し自体は大変でした・・。
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■ところで、今夏8月11日の同窓会に参加される皆さんへ朗報。 「青春のうた(Part2)」を準備する予定です。 ご期待下さい!
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■さて、来週4月5日は二十四節気でいう「清明」。 この清明は陰暦3月。この丁度菜の花が盛りの頃に降り続く雨を「菜種梅雨」というが、小生の大好きな唐の詩人杜牧の作品にまさに今の時節にピッタリの作品「清明」がある。 前にもご紹介したが、いい詩なので再び紹介します。
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   清明        杜牧
清明時節雨紛紛   清明の時節 雨紛紛
路上行人欲断魂   路上の行人 
                          魂(こん)を断たんと欲す
借問酒家何處有   借問す 
                          酒家は何れの処にか有る
牧童遙指杏花村   牧童遥かに指さす 
                          杏花(きょうか)
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【意】春の盛りの清明節だというのに、折からこぬか雨がしきりに降っている。 その雨は、道行く旅人である私の心をすっかり滅入らしてしまう。 「すまんが、酒を売る店は、とちらの方にあるのかな。」 すると牛飼いの子が「あっちの方だよ」と指さした。その彼方には、白い杏(あんず)の花咲く村が。
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■続いては、同じく杜牧『江南の春』です。 この詩は高校時代の漢文の授業で習ったことをよく覚えている。 小生、高校時代、この詩と次に紹介する李白の『黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る』の二作品が大好きで、何度も口ずさんだ記憶がある。
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   江南の春      杜牧
千里鶯啼緑映紅   千里鶯啼いて 緑 紅に映ず
水村山郭酒旗風   水村山郭 酒旗の風
南朝四百八十寺   南朝 四百八十寺(はっしんじ)
多少楼台煙雨中   多少の楼台 煙雨の中(うち)
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【意】見はるかす千里の彼方、鶯は啼き、草木の新緑は紅の花に映える。 水辺の村、山沿いの村には、酒屋ののぼりが春風にゆれている。 かつてここに栄えた南朝の世、四百八十とも言われる多くの寺院が、その隆盛を競っていた。 数知れぬ堂塔が、今もなお、けむるような春雨のなかにかすんでいる。
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李白「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」・・
◇永遠に流れ続ける長江の水と、そこに浮んで遠ざかる孤帆の影とが、別れの心情の表象として精巧な効果をあげている。 永遠に流れて尽きぬ姿は、断ち切りがたい別れの心情と憂愁の象徴であり、一たび流れて尽きぬ姿は、断ち切りがたい別れの心情と憂愁の象徴であり、一たび流れ去って返ることのない姿は、別れの永遠性を象徴する。 伝統的な詩語としての流水とその心象は、この詩において一つの典型を示しているようである。
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 黄鶴樓送孟浩然之廣陵   黄鶴楼にて
                                 孟浩然の広陵に之くを送る
故人西辭黄鶴樓   故人 西のかた黄鶴楼を辞し
煙火三月下揚州   煙火三月 揚州に下る
孤帆遠影碧空盡   孤帆の遠影 碧空に尽き
惟見長江天際流   惟だ見る長江の
             天際に流るるを
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【意】わが親しき友、孟浩然は、ここ西のかた黄鶴楼に別れを告げ、花さえもかすむ麗らかな三月、遠く揚州に下ってゆく。 ぽつんと、ただ一つ遠ざかる帆影は、やがて碧空のかなたに消えた。 茫然と広がる視界のうちを、いまはただ長江の水だけが、遠く天空の果てへと流れつづける。
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Aa070331 ■次ぎは、中唐の女流詩人薛濤(せっとう)「海棠渓(かいどうけい)をお贈りします。 『赤』の色彩を歌った女性ならではの詩です。 因みに、小生、この詩に感化され『海棠』を庭に植えました。 その花が今咲いていますので、添付しました。 ご覧下さい。 「仙霞」とは仙人世界の夕(朝)焼けの気を言います。 「赤い海棠の花霞」を背景に「赤い花びらの斑点を帯びた魚」と白い砂浜に干した「紅纈(=赤いしぼり)・・。 どうですっ?『海棠』の花は・・? 綺麗でしょう?
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   海棠渓        薛濤
春教風景駐仙霞   春は風景をして
             仙霞を駐(とど)めしめ
水面魚身総帯花   水面の魚身 
             総て花を帯ぶ
人世不思霊卉異   人世(じんせい)思わず
             霊卉(れいき)の異(い)
競将紅纈染軽沙   競って紅纈を将(も)って
             軽沙を染む
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【意】春の神様は、風と光に、谷いっぱいの花がすみを送り届けさせたもうた。 清らかな谷川の水に映る花影、泳ぐ魚はまるで花模様を帯びたかのよう。 世間では、この海棠の霊妙なわざに気がつきもせず、競って赤いしぼりを河原の砂の上に干している。
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Aa070331_1Aa070331_2■続いては、春の詠った唐詩の古体詩で「春江花月の夜」と並び古来より愛唱され続けて来た傑作、劉希夷「白頭を悲しむの翁に代る」をお贈りします。 小生、大好きな詩です。七言で二十六句もある長文ですが、大変解かり易い良い詩です。 とは言え、長文なので有名なところだけ抜粋してお贈りします。
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   代悲白頭翁   白頭を悲しむの翁に代る
洛陽城東桃李花   洛陽城東 桃李(とうり)の花
飛來飛去落誰家   飛び来たり飛び去って
             誰か家にか落つる
   ***        ***
古人無復洛城東   古人復た洛城の東になく
今人還對落花風   今人還って対す落花の風
年年歳歳花相似   年年歳歳 花相似たり
歳歳年年人不同   歳歳年年 人同じからず
   ***        ***
此翁白頭眞可憐   此の翁 白頭 真に憐れむべし
伊昔紅顔美少年   伊れ昔 紅顔の美少年
   ***        ***
但看古來歌舞地   但だ看る 古来 歌舞の地
惟有黄昏鳥雀悲   惟だ 黄昏(こうこん)
             鳥雀の悲しむ有るのみ
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【意】洛陽の城(まち)の東に咲く桃の花、李(すもも)の花。 風に誘われて、あちこちに飛び交い、はては、何処に散ってゆくのだろうか。(中略) 昔この洛陽の城東で、この花を眺めた人は、もはやいない。 そしてまた今の世の人々が、こうして風に舞う落花を眺めているのだ。 年々歳々、花は同じように咲きながら、歳々年々、それを見る人は変わるのである。(中略)この老人こそ、まことに痛ましい。 だがこの人も、かつては、涼やかな紅顔の美少年だったのだ。(中略)見たまえ、その昔華やかに歌舞を繰り広げた辺り、今はただ、黄昏の光の中に、悲しくさえずる小鳥の声を聞くだけだ・・。
【筆者comment】▼長くなるので詳しく言わないが、「華麗」と「寂寞」とを、①過去の栄華と現在の衰退(此の翁 白頭・・)、②現在の栄華と未来の衰退(洛陽城東 桃李の・・)、の二つの情況設定で表し、「年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず」で巧みに統一している。 「一度しかない人生観」を見事に表した傑作である。
▼この詩の冒頭に描かれている、「『落花の風景』を見てみたい・・」という想いから、小生、『花桃』と『李(すもも)』を我が家の庭に植えた。 その花が咲きましたのでご高覧下さい。
Aapresident_roosevelt070331Aa070331_3Aa070331_4A070331_1▼さらに、拙宅の庭に咲いた「シャクナゲ」「スナック豌豆」「馬酔木」と近隣の春日北公園の八分咲きの「ソメイヨシノ」をblogに掲載しましたので、ご興味のある方はご覧下さい。
 ここをクリックして下さい → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

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【後記】■3月27日、植木等氏が逝った。享年80歳。 22日の城山三郎氏(同79歳)と一つ違い。 まさに我々の両親の世代が摂理とは言え次々と鬼籍に入ってゆく・・。
▼今日も城山三郎氏の作品を一つご紹介します。 前【0077】号で辻井喬氏が紹介していた「指揮官たちの特攻」(新潮文庫)です。 以下「本文」「あとがき」からの抜粋です(添付写真ご参照)。
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▼関行男と仲津留達雄。
▼兵学校同期であり、宇佐航空隊での実用機教程を共にした数少ない仲間。 そして、共に新妻を残し、若き指揮官として部下を率いて出撃。 同じ二十三歳で世を去った。
▼一人は神風特攻の幕開けをし、いま一人は神風特攻に幕を下ろして。
▼彼等の幸福は花びらのようにはかなかった・・
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▼関大尉(だいい)の本音ともいうべき最後の言葉を聞き取っている。それは、
▼「日本はおしまいだよ。 ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。 僕なら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に五〇番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」という無念の言葉であり、そのあと冗談めかしてだが、
▼「ぼくは天皇陛下とか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。 最愛のKA(ケーエー:家内)のために行くんだ。 命令とあれば止むを得ない。 ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。 最愛の者のために死ぬ。 どうだすばらしいだろう!」と言い、さらに、
▼「ぼくは短い生涯だったが、とにかく幸せだった。 しかし、列機の若い搭乗員は・・」と、花びらのような幸福さえ味わうことなく死んで行く部下たちのことを思いやる。(以下略)
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Aa▼(あとがき)(前略)表紙カバーの右が、最後の特攻隊長中津留大尉。左が最初の特攻隊長関大尉(【筆者注】写真をクリックすると写真が拡大します・・)。 見る度に胸が痛む勇姿である。 平成十六年五月下旬  城山三郎
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【筆者comment】■この本を読み進むうち、若くして散った特攻隊員たちの痛切な思いが小生の胸を締め付けた。 彼等の短い生涯・・。 彼らに手向ける言葉も見当たらない。 心からご冥福を祈ります。(合掌)
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■最後は日本の和歌の中から「春爛漫」を詠んだ代表作紀友則『桜の花の散るをよめる』をお贈りします。 この歌は小生の大好きな歌です。百人一首(33)の作品ですが、井上宗雄著「百人一首を楽しくよむ」で次のように評されています。
▼音はなく、色は淡く、動きはかすかな、こうした繊細に素材の取り合わせによって生まれる情緒が、中世の人の心には、のぞましい王朝の雅びとして映ったのであろう。 さらにこの歌を繰り返し口ずさむと、永遠に、悠久に流れてゆく時間の中に浮んだ一つの美しい事象、しかもそれは毎年くりかえされてゆくのに、それを見ることのできる有限な人間の命のはかなさ  といったさまざまな思いまでもが湧いてくる 不可思議絶妙な秀歌である。  
【筆者comment】▼本当に素晴らしい歌であると思います。 この歌を思い出すたび、前述した唐詩の「劉希夷『白髪を悲しむ翁に代る』」の中の著名な句年年歳歳花相似 歳歳年年人不同を連想します・・。 散るのは「花びら」だけであることを切に望みます・・。
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古今集(84)
       ひさかたの 光のどけき 春の日に
        しづ心なく 花の散るらむ  紀 友則  
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【意】日の光がのどかに輝いている春の日に、なぜ、あわただしく花は散るのであろうか。
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▼いい歌って、いつ聞いてもいいですね・・。(了)

2007年3月25日 (日)

【時習26回3-7の会 0077】~「白洲正子『名人は危うきに遊ぶ~《さくら》(つづき)』」「太田光『憲法九条を世界遺産に』」「城山三郎『落日燃ゆ』」

■今泉悟です。 今日は3月25日日曜日です。 一昨日(23日)、先日出した今夏の同窓会案内のうち、横田君宛の往復葉書が「あて所に尋ねあたりません」として戻って来てしまいました。 昨年出状したとき(住所:西高師町)は返戻されなかったのですが・・。 そこで小生、卒業アルバムにある彼の実家宛に今日再出状しました。 連絡がとれれば良いのですが・・。 【3-7の会】の諸兄で横田君の現住所をご存知の方がいらっしゃいましたら、小生までご連絡頂ければ幸甚です。 小生の記憶に間違いがなければ、横田君は確か豊橋のオーケストラでcontrabass奏者として活躍していたと記憶していますが・・。
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■さて、今日は前号で途中で終ってしまった白洲正子の「名人は危うきに遊ぶ」の続きからお伝えします。
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■白洲正子著「名人は・・」~「さくら」(新潮文庫)・・(つづき)
▼筆者注:前号で「世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」と在原業平が『伊勢物語』で詠んだ後、この歌のすぐ後に、
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  散ればこそ いとど桜は めでたけれ うき世になにか 久しかるべき
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▼散るからこそ桜はめでたい花なのだ、この憂き世の中に、何が永遠に止どまっていられようか、いられはしない、という反歌のようなものが附されている。 以上の二首によって、薄幸の皇子(筆者注:【惟喬親王(844~897)】文徳天皇の第一皇子。第四皇子惟仁親王(のちの清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承はならなかった・・)を桜に擬して慰めたことはわかるが、そんな裏話を知らなくても、桜というものの普遍的な美しさ―そのめでたさとはかなさを、同時に歌いあげたところに業平の天才がある。
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■つづいて、桜と言えば、前にもご紹介しましたがこの歌がすぐ浮びます・・。
■本居宣長「敷島の・・」~「特攻隊」
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  敷島の 大和ごころを 人問はば 朝日に匂ふ山桜花
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▼【意】日本人の心とは朝日に照らされた桜のようだ・・この歌は、桜の散り際の潔さを賛美している。 だが、太平洋戦争では、これを武士道と重ね合せ、神風特攻隊の最初の四部隊がこの歌から『敷島隊』『大和隊』『朝日隊』『山桜隊』と名付けられ、桜の散り際の美しさを死ぬ潔さに擬して美化されるに到った。
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■「特攻隊」→「戦争放棄」となると、以前ご紹介した太田光の次の作品が印象的ですのでご紹介します。
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■太田光・中沢新一共著「憲法九条を世界遺産に」・・(集英社新書)
死の表現をめぐって・・
【太田】(前略)▼私はかつて日本人が表現していた死の表現とは何だろうと頭の片隅で引っかかりながら(中略)家に帰った。 ▼家でパソコンを開くと、妻からメールが届いていた。 その時期妻は体調を崩して病院にいたのだが、その日の昼間、花見で桜を見て更に体調を崩し精神的にも不安定になったと書かれていた。 桜にあてられたという感じだろうか。 それで、近所の花屋で元々自分が好きな花である薔薇を買って病室に飾ったらようやく気持ちが落ち着いた、というものだった。 ▼妻からのメールを読んで、私もその日の昼間の花見の場面を思い出した。
満開の桜の下で・・
【太田】▼その日、(中略)私は、「小泉首相と桜を見る会」というのに出席した。新宿御苑に1万人以上の小泉首相支持者が集まっていた。(中略) ▼その後、集合写真を撮った。(中略)首相の立っている後ろの桜だけは見事に満開であった。 ▼一万人の熱狂、恍惚とした首相、そこだけ満開に咲いた桜。 それはある種、異常な光景に見え、確かにバランスを失いそうな感覚を持った。(中略) ▼「かつて日本人が表現していた死」 それこそがあの満開の桜なのではないだろうか。 ▼「満開の桜の下」。坂口安吾のその小説『桜の森の満開の下』は満開の桜が人間を狂気に導き、殺人へいたるという物語だった。 そこにはたしかに殺人による恍惚が描かれていた。(中略) ▼日本人が愛する桜という花は戦さの象徴でもあった。美しい桜の散り際。 そこに重なるのは武士道という言葉。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」(『葉隠』山本常朝)。その後ろには桜が咲いている。 ▼桜は死の花ではないか。(中略) ▼桜は狂気も、毒も、その美しさの中に含んでいて、その表現は隠している。 しかし我々の潜在意識はその狂気と毒を感じ取ってしまうのではないか。 だからこそ妻は桜を見てバランスを失ったのではないか。 ▼それでは何故、妻は薔薇を部屋に飾って落ち着いたのだろう。 それを考えて私は再びハッとした。 薔薇がその棘(とげ)によって、自分の中の毒をきちんと表現しているということに思い当たったからだ。 薔薇は正直に自分の毒を提示している。 美しいだけでなく、人を傷つける危険性があることを示している。 だからこそ妻は薔薇を信頼し、桜によって失ったバランスを取り戻すことができたのではないだろうか。
生きることに意味はあるか・・
【太田】▼チャップリン演じる落ちぶれたコメディアンが、足を怪我してもう踊れなくなり、生きる希望を失ったバレリーナの少女を説得する場面。 「私の生きる意味はもうない」と嘆く少女にチャップリンは説く。 人生に意味など始めから無いと。 薔薇はなぜ美しいか。 薔薇は決して美しく咲こうなどとは思っていない。 ただ生きようと。 そして更に「日本の松だってそうだ」と言う。 ただ生きようとしている結果があの形になっている。 だからこそ美しいのだと。 (中略)・・なぜ松なんだろう・・ ▼松のあの棘、攻撃性が必要だったのではないだろうか。 (中略)チャップリンは天才の勘で、自分の毒をきちんと表現している二つ(~筆者注:「薔薇」と「松」~)を選んだのではないだろうか。 「生きる」という行為を何かで象徴しようとする時、それは自分の毒、危険性を表現して、人目に晒して生きているものである必要があったのではないだろうか。 チャップリンにとって「生きる」ということは、美しいだけでなく、自分の愚かさ、不完全さを表現しながら生きている必要があったのではないか。 私は長年の謎が解けたような思いで、その日はなかなか眠れなかった。
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▼【筆者comment】太田光の哲学的思考は、なかなか鋭いものがありますね。 勉強になります。「生きる」ということ・・、それはいったい何を意味するのか・・。 改めて考えてみたが、大変難しい問題だと思う。 
▼以下にご紹介する特攻隊員の若く散った「いのち」。 唯一人の文民A級戦犯として東京裁判で一切弁明せず「死刑判決」を敢えて望むようにして「死」を選んだ廣田弘毅の「生き様」。 ・・ 我々は、今を生きているが「精一杯」悔いなく生きて行くべきなのだろう・・。 (沈黙)
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「知覧特攻平和会館」~旧陸軍特攻隊基地は薩摩半島にある「鹿児島県知覧町」・・因みに旧海軍特攻隊基地は大隈半島にある「鹿児島県鹿屋市」
▼先週、父が妹夫婦と鹿児島県知覧町にある「知覧特効平和会館」を訪ねた。 父は旧陸軍特別操縦見習士官第4期生【特操四期生】であったため、前から是非訪問したいと言っていた場所である。 父は浜松師範時代、大変仲の良かった一年先輩が【特操三期生】として昭和20年5月、沖縄方面に特攻出撃。 特操では三期生までは大半が戦死しているという。 その先輩の遺影をそこで発見した時、父は「感極まり絶句した」という。 「この知覧から400名以上の隊員が飛び立って行った。 あんなチャチなプロペラ機に250キロ爆弾を搭載して・・。 特攻隊で成功したのは最初だけで、後は、ほとんど敵艦隊に突っ込む前に打ち落とされてしまった。 当時からみんな解かっていたが、みんな死を覚悟していた・・。 自分は最初navigatorをやり、特攻機を戦場近く迄誘導する訓練をやった。 いつ自分に出撃命令が出るかと覚悟を決めて待っていた。」と・・。
【筆者comment】いつもは寡黙である父が「特攻隊」の話になると、いつもtensionが高くなる・・。 これも今は昔、今年83歳を迎える父が20歳の若き時代の出来事だが、我々はこの戦争の悲惨さを、父達の話から疑似体験して後の世代に繋いで行かねばならないと思う。 一方で、イラクへの自衛隊派兵のように軍事面での国際貢献も重要である。 「憲法九条問題」は真剣に考えなければならない時期に来ていると思いますが、皆さんはどうお考えでしょうか???
▼我々の親の時代は、大半の人が悲惨な戦争を経験している。 そう、戦争体験と言えば、昔、守田君から彼の父君が太平洋戦争時代、南方戦線(ビルマ(現ミャンマー)だったかな)で大変苦労されたということを伺ったことがある・・。 守田君、小生にお話してくれたこと覚えていますか・・。 先日、取引先のお爺さんも太平洋戦争の話になり、「インパール作戦に参加して本当に命からがら撤退した」と当時を思い出し熱く語られたことを思い出す。 まさに彼等戦争体験者には忘れられない苦難の時代であった・・。 そんな「戦争」は絶対に起こしてはならない・・。
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城山三郎著「落日燃ゆ」~「廣田弘毅」 (新潮文庫)
▼3月22日午前6時50分、作家城山三郎氏が亡くなった。享年79歳。 彼の作品は幾つか読んだが、中でも首相「廣田弘毅」を描いた「落日燃ゆ」が今も印象深く記憶にある。 この2日間でこの作品を読み返してみた。 死刑判決を受け執行された7人のA級戦犯のうちただ一人の文民(残り6名は全て旧陸軍の将官)。
Photo_1Photo_2【靖国合祀問題と廣田家】▼靖国神社は、廣田家の合意を得ずに、東条英機元首相等A級戦犯7名を合祀しているが、このことについて、弘毅の孫の元会社役員は、「広田家として合祀に合意した覚えはない」と、廣田元首相の靖国合祀に反対の立場であることを明らかにした。 また1955年4月、旧厚生省は横浜で火葬されたA級戦犯7名の遺灰を各家族に引き渡そうとしたが、廣田家だけは受け取らなかった。 廣田家の菩提寺は故郷の福岡にあるが、遺族は元首相の遺髪を分けて鎌倉の寺に納め、参拝している(2006年7月27日付朝日新聞)。 
▼・・以下、「落日燃ゆ」から抜粋でご紹介します・・
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▼(中略)母タケの自殺同然の断食による死、次男忠雄の自殺、そして、いま、妻静子が・・。
▼広田は、断乎として死を選び死に急ぐ肉親たちに取り巻かれているのを感じた。 そして、その落ちて行く日輪の中で、かんじんの広田ひとりが取り残されている。 広田は死と向い合い、声をかけて呼び込みたい気さえするのであった。 死刑を恐れぬどころか、むしろ望むところである―。
▼11月4日木曜日。 よく晴れた朝であった。(中略)
▼広田は六人目に現われ、平沼の終身刑宣告を聞いてから、壇上に立った。 イヤホンをつけ、いつものように、うすく目を閉じてきく。
▼「絞首刑( death by hanging)」
▼広田はイヤホンをはずし、退廷するときの癖であるが、記者席の隅の娘二人に微笑を送って立ち去った。(中略)
▼絞首刑の判決を受けた7人中、6人までが軍人で、いずれも判事団の票は、7対4で死刑に決した。 ただ一人の例外が、文官である広田で、票決は6対5の僅か一票差による死刑であった。(中略)
▼広田の死刑は、検事団にとってさえ意外であり、キーナン首席検事が「なんというバカげた判決か。 絞首刑は不当だ。 どんな重い刑罰を考えても、終身刑ではないか」と慨嘆する有様であった。
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【筆者comment】▼「落日燃ゆ」を読んで、廣田弘毅の死刑が惜しまれてならない。 廣田の死刑判決はやはり不当なものであると確信した。 靖国・合祀問題でも廣田家のとった態度は大変考えさせるものがある・・。 廣田弘毅、城山三郎両氏のご冥福をお祈りする・・。
▼そう言えば、今日3月25日の日経新聞に辻井喬(堤清二)氏が「城山三郎さんを悼む『サムライとして生きた男』」と題して寄稿しているので、その一部をご紹介する。
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▼もし、城山三郎に好き嫌いがあったとしたら、それはその人物が清潔か卑しいか、ということだけだったように僕(=辻井喬)は思う。
▼彼は主義主張ではなく、サムライかどうかで人物を見ていたのだという気がする。(中略)国鉄総裁石田禮助の「粗にして野だが卑ではない」という言葉が城山三郎は好きだった。この態度は、特攻隊員の生死を描いた「指揮官たちの特攻」(新潮社)にも貫かれている。(以下略)
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070323_1538 【後記】■最後は、愛知県と岐阜県にしか自生していない「シデコブシ」をご紹介します。 田原市内の滝頭公園近くの路上沿いにありましたので携帯電話のcameraに収めましたので添付写真をご覧下さい。薄いピンク色のコブシです。 可憐なとっても綺麗な花ですね・・。 まるで廣田弘毅元首相や若くして散った特攻隊員への手向けのようでもありました。 凛として美しく・・。(了)

2007年3月21日 (水)

【時習26回3-7の会 0076】~「夏目漱石『それから』」「白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』」「和辻哲郎『古寺巡礼』」「梅原猛『隠された十字架』」

■今泉悟です。 今日は3月21日。二十四節気でいう春分の日。お彼岸の中日です。我が家でも亡母の墓参に行って来ました。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、昨日までの寒さが嘘のように暖かな一日でした。
   *   *   *
■e-mail登録のない14名のclassmatesのうち太田君に続き、昨日、内藤S君からも返信葉書が来ました。e-mail連絡はなく、また8月11日【3-7】同窓会も「欠席」の回答でした。今回は残念ですが、来年の参加を期待しています。
▼尚、内藤君から次の通り「住所変更」のmessageがありましたので、皆さんにお伝えします。個人情報なのでblogには掲載しません。 皆さんのお手許にある【3-7】の名簿にある内藤S君の住所を変更願います。 彼の現住所は昨年の葉書にも記されていましたが、小生の不注意で見落としていました。内藤君ゴメンなさい。
   *   *   *
《内藤君からのmessage》
◆引越ししましたのでこちらの住所にお願いします。
  【新住所】( 以下住所・電話番号は省略します )
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■前【0075】号で神楽坂に因んだ漱石の作品で『それから』の該当箇所をご紹介していなかったので今日ご紹介させて頂きます。 小生も『それから』に出て来る「藁店(わらだな)(=牛込神楽坂袋町)」は17日には訪れていませんが、作品の中でも印象的なsceneですのでご紹介します。
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「それから」・・
(10)蟻の座敷へ上がる時候になった。(中略)
▼美千代の頬に漸く色が出て来た。袂(たもと)から手帛(ハンケチ)を取り出して、口の辺(あたり)を拭きながら話を始めた。 ― 大抵は(中略)本郷まで買い物に出るんだが、(中略)本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方(こっち)の方へ出てみた。 この前も寄る筈であったが、つい遅くなったので急いで帰った。 今日はその積りで早く宅(うち)を出た。 が、御息(おやす)み中であったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。 ところが天気模様が悪くなって、藁店(【筆者注:添付(航空)地図ご参照~前号でご紹介した善國寺(毘沙門天)から西南西へ100m程に位置する「日本出版クラブ会館」と「光照寺」に挟まれた坂道】)を上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。 傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体(からだ)に障って、息が苦しくなって困った。―
「けれども、慣れっこに為(なっ)てるんだから、驚きゃしません」と云って、代助を見て淋しい笑い方をした。
「心臓の方は、まだすっかり善くないんですか」と代助は気の毒そうな顔で尋ねた。
「すっかり善くなるなんて、生涯駄目ですわ」
▼意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでいなかった。(以下略)
【筆者comment】諸兄もご存知の通り、代助は、最終的には親友平岡の妻女であるこの三千代と一緒になる・・。 この『それから』の続編は宗助と御米(およね)に名前を変えて『門』で描かれていく。 親友どうしが一人の女性を愛した結果、自分が身をひいたのに拘わらず、親友の妻となったその女性との愛を貫く・・。 いつの時代も男と女の関係は難しい・・。 文豪夏目漱石ならではの文学的力量が作品を気品あるものにしていますが、一つ間違えば「連ドラ」ものですね・・(笑)。
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■小生、最近白洲正子(1910~1998没)の作品群が面白く読んでいる。 彼女は、薩摩隼人の海軍軍人樺山資紀伯爵の孫娘。14歳で米国留学。昭和3(1928)年帰国。翌年、実業家白洲次郎と結婚。 戦後、小林秀雄、青山二郎らと親交を重ね、1962年「能面」で、1972年「かくれ里」でともに読売文学賞を受賞している。
▼以下に「白洲正子~和辻哲郎~梅原猛」の順に三作品をご紹介します。
白洲正子著「名人は危うきに遊ぶ」から「わが青春の愛読書」~和辻哲郎『古寺巡礼』~
▼子供の頃から私には乱読の癖があり、(中略)すぐには答えることは出来ない。 その上十四歳から四年間アメリカに留学していたので、(中略)
▼日本に帰ってから私は(中略)何をしたらいいかわからない。わからないままやたらに旅に出たくなり、奈良や飛鳥のあたりをがむしゃらに歩き廻っていた。 そんな時に出会ったのが、和辻哲郎の『古寺巡礼』であった。 当時は今のように便利な案内書なんか一つもなく、地獄で仏に会ったような気がしたといっても言いすぎではない。(中略)
私の中で『古寺巡礼』が「精緻な歴史的理解」や「理論」に発展することはなかったが、日本の文化や歴史が知識としてではなく、肌身で感じる「芽」となったのは確かである
▼とにもかくにもいい時代であった。 観光客はひとりもいず、交通も不便で、どこの寺へ行くのにも長い道中を歩かねばならない。 斑鳩のあたりは菜の花とれんげの畑で、遠くの方に法起寺と法輪寺、つづいて法隆寺の塔が見えて来る。(以下略)
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「和辻哲郎『古寺巡礼』」・・(24)夢殿 ― 夢殿秘仏 ― フェノロサの見方・・ 
▼【筆者注】この作品は著者和辻哲郎が大正7年5月に奈良付近の寺々を巡り、大正8年(1919年)彼が31歳の時、岩波書店から上梓された。
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▼ひるから夢殿に行った。天平時代に建てられたこの美しい八角の殿堂は、西の入り口から見ると、惜しいことに周囲が狭すぎて、十分の美しさを発揮しないように思われる。(中略)
Photo_36▼わたくしたちは廚子(ずし(=厨子):仏像・舎利・経典を安置する仏具【広辞苑】)の左側に立った。(中略)秘仏のあの奇妙な、神秘的な、何ともいえぬ横顔がわれわれの目に飛びついて来た。
▼わたくしたちは引きよせられるように近々と廚子の垂れ幕に近づいてその顔を見上げた。 われわれ自身の体に光線がさえぎられて、薄暗くなっている廚子のなかに、悠然として異様な生気を帯びた顔が浮かんでいる。 その眉にも眼にも、また特に頬にも唇にも、幽(かす)かな、しかし刺すように印象の鋭い、変な美しさを持った微笑が漂うている。それは謎めいているが、しかし暗さがない。 愛に充ちているが、しかしインド的な蠱惑(こわく:人の心をひきつけ惑わすこと【広辞苑】)はない。(以下略)
【筆者comment】和辻は救世観音(~添付写真「救世観音」をご覧下さい~)を夢殿の秘仏(=夢殿観音)として紹介している。 そして、この救世観音こそ「怨霊としての『聖徳太子』」としているのが次にご紹介する梅原猛の「隠された十字架」である。
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■「救世観音」~梅原猛著「隠された十字架」・・「背面の空洞と頭に打ちつけた光背」
▼【筆者comment】添付写真「『救世観音』と『百済観音』の横面」をご覧下さい。
Photo_37▼(中略)救世観音と百済観音に(中略)決定的な違いが二つある。 一つは、救世観音の体は空洞であることである。 (中略)そしてもう一つは、(筆者注:救世観音の)光背(=仏像の背後につける光明を表す装飾)が大きな釘によって頭に直接うちつけられていることである。 この二点に、まさに太子像である救世観音像の本質があると私(=梅原)は思う。
▼(中略)なぜ、他ならぬ聖徳太子等身の像の中身を空にしたのか。 それは明らかに、人間としての太子ではなく、怨霊としての太子を表現しとうとしたからであろう。(中略)
▼しかもこの仏像(筆者注:救世観音像)の意味をもっとも深く考えさせるのは光背である。 光背が直接、太い大きな釘で、仏像の頭の真後ろにうちつけられている。 日本ではふつう光背は百済観音のように、支え木で止められているのが常である。(中略)釘をうつのは呪詛の行為であり、殺意の表現なのである。(中略)
▼フェノロサは、この仏像の単なる美術史家の眼でだけ見た。 それゆえ彼は、自分が一つのすぐれた日本美術の傑作を発見した喜びに夢中で、なぜこの仏像が秘仏になり、なぜあのような白布をまかれ、しかも「天変地異」の寺伝によってこの秘密が保護されなくてはならなかったを、少しも問おうとはしなかった。(以下略)
【筆者comment】梅原猛による「救世観音像=聖徳太子怨霊説」は、大変uniqueであるが、洞察力あるものと言えると思います。それにしても、小生にとって「救世観音像」は少々grotesqueなオブジェ(objet)として見えますね。
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【後記】話が何だか暗くおどろおどろしくなってしまったので、最後は、お口直しに、また白洲正子著「名人は危うきに遊ぶ」に戻り、その中から「さくら」からその一部をご紹介して締め括りと致します。
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▼(53) 世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし  (古今和歌集 巻第一 春歌上)
 【意】世の中に、桜というものが全くなかったなら、春はどんなにのどかな気分でいられるだろうに。
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と歌ったのは在原業平だが、千年を経た今日でも、それは桜を愛する人に共通のおもいであろう。 近頃はテレビでも、南から北へ上っていく桜前線を、克明に報告してくれるが、桜は気まぐれな花だから、お天気次第で当ったり当らなかったりで、はらはらしながら済んでしまうのが常である。 そのはらはらした気持ちを、業平は美しく表現しているが、この歌には、「渚の院にてよめる」という詞書(ことばがき)があり、それによって、作者はただ桜を詠んだのではなかったことがわかる。
【筆者comment】この歌の背景も、やはりちょっと暗いかなぁ・・。(反省)(以下詳細は次号にて・・) (了)

2007年3月18日 (日)

【時習26回3-7の会 0075】~「『夏目漱石の生誕&終焉の地』探訪」「オール1のおちこぼれ、教師になる」

■今泉悟です。【3-7の会 0075】号をお贈りします。
■先週、e-mail未送信先のclassmates14名に同窓会開催案内の往復葉書を出状しましたら、太田M宏君から返信葉書が到着しました。同窓会の出欠は「ギリギリまでわからない」とのことです。e-mail addressの連絡はなく残念でしたが・・。太田君へ、時間はまだ十分ありますから調整して8月11日は是非参加して下さい。朗報をお待ちしています。
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■さて、昨日3月17日は、小生、東京大手町本部で会議があり日帰り出張してきました。会議終了が16時40分過ぎ。それから地下鉄東西線で早稲田駅に・・。
▼地下鉄早稲田駅を出たところは新宿区喜久井町。ここは夏目漱石の生誕の地でもあります。今日は、小生の好きな作家漱石に因んだ早稲田から神楽坂にかけて散策しました。
▼今回も写真撮影分は、容量の関係から【時習26回3-7の会】blogにのみ掲載するものと、当該blogとこのe-mailの両方に掲載するものがあることをご承知置き願います。
▼早大OBの市川君や原田君にとって懐かしいエリアですね・・(?)。
▼小生にとっても、神楽坂一帯は平成7年6月から平成10年2月までの国分寺支店時代に単身生活していた飯田橋寮に近く、大変懐かしいエリア(area)です。後に出てくる新潮社のほか音楽の友の社、箪笥町には旺文社と、雑誌の老舗本社が集まっている地域でもあります。
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硝子戸の中(うち)」で漱石自身が幼少時代過ごしたこの早稲田周辺について次のように述べています・・。
(19)私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。(中略)それから坂を下

り切った所に、間口の広い小倉屋(こくらや)という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛が高田の馬場で敵(かたき)を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒を飲んで行ったという履歴のある家柄であった。
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0703171717_2▼この小倉屋はblogに写真を載せておきました。写真がピンボケで大変申し訳ありません。 この小倉屋の南隣りに、「漱石生誕之地碑」というオベリスク(obelisk)があるのでご紹介します。
Photo_17Photo_34▼さらに「夏目坂」の由来について漱石はこう述べています。 夏目坂の写真もご覧下さい。 blogはここをクリックして下さい→ URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

 
(23)今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。 (中略)私の家の定紋が井桁

に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教(おそ)

わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主

がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由も利(き)いたかも知れないが、それを誇(ほこり)

にした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、(中略)

ただ微笑したくなるだけである。
 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた
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0703171730▼「漱石誕生の地」から地下鉄東西線の通りより一本南の道を東へ・・。 道すがら早稲田小学校の瀟洒な佇まいに感心した。 
▼早稲田南町7番地に「漱石公園」がある。公園にあった漱石の胸像を添付します。 blogには「漱石公園」の石碑と胸像の写真。そして「夏目漱石終焉の地」解説板を添付しました。ご覧下さい。 
0703171733Photo_350703171735 ▼胸像の横の碑には有名な漱石の銘「則天去私(=小さな私を去って自然に委ね生きること)」が刻まれています。
▼「漱石終焉の地」解説板に記されているように、漱石は明治40年9月29日から亡くなる大正5年12月9日までをここで過ごし、「三四郎」「それから」「門」をはじめ数々の名作を世に出した。
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0703171748▼それから小生は、新潮社本社前(ここは夏目漱石の妻鏡子の実家中根家があった場所(これもblogに添付しました))を経由して、神楽坂へ。
0703171757▼そして神楽坂の黄昏時の喧騒の風景もblogに掲載しました。ご覧下さい。
0703171759 ▼写真は、善國寺(毘沙門天)です(小生が撮影した写真にはcoupleのうち女性が小生同様に毘沙門天をcameraに納めている光景が載っています)。ここは、漱石が幼少の頃、よく遊んだところとして有名で、彼の作品には「坊ちゃん」「それから」に出て来ます。今日は「坊ちゃん」をご紹介します。
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(五) 君釣りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。(中略) おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅

の釣堀

で鮒を三匹

釣った事がある。それから神楽坂の毘沙門

の縁日

で八寸ばかりの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えても惜しいと云

ったら、赤シャツは顎(あご)を前の方へ突

き出してホホホホと笑った。
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▼【英訳】"Would you like to come fishing?" asked Redshrt.( ・・・ )  I made some reply that wasn't calculated to sound enthusiastic, at which Redshirt had the cheek to ask me if I'd ever been fishing. As a matter of fact, I hadn't very often. But once when I was a boy I caught three silver carp in the fishing pond at Koume in Tokyo. On another occasion―it was at a fair held in front of the Bishamon shrine in the Zenkokuji temple in Kagurazaka―I managed to hook a carp about eight inches long, but just when I thought I had it, it fell back into the water with a splash. I still have a sense of disappointment when I think about it, even now. I told Redshirt about this, but he just thrust his chin forward and gave his simpering laugh.
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【後記】■昨日、東京に向かう新幹線の中で、同行した友人の豊川支店長のN氏と小生(I)との会話をご紹介します。

N:「最近、豊川は二つのことでちょっと有名になってね・・。」

I:「それは何?」

N:「『山本勘助』と『宮本延春(まさはる)』だよ。」

I:「山本勘助」は牛久保の長谷(ちょうこく)寺にある遺髪塚と摩利支天で有名だけど、「宮本何某」とはいったい誰なんだ???」

N:「『オール1の落ちこぼれ、教師になる』の著者のことだよ。 彼は、中1のときオール1。 弱者としていじめも経験している・・。 その彼がその後、中卒で大工になった後、23歳のとき一念発起。 豊川高校定時制・通信制高校に入学後努力して三年間で卒業。 豊川高校の先生等や彼女の励ましに支えられながらstraightで名古屋大学理学部物理学科に合格。 さらに後年、同大学院にも合格。 現在は豊川高校の数学の教師をやっている。 とっても元気が出る本だよ。」

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▼と言う彼の薦めで早速その本を買い、今日読了しましたが、なかなかの「感動もの」でした。 「目標を失って元気のない人」や、「やる気を失っている人」にはきっと役立つ本です。 一読を薦めます。その彼の本から気に入ったところの一部をご紹介します。小生等より一回り以上も若い彼ですが、考え方は大変確りしていて勉強させられました。

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「学ぶ」ことの意味・・

▼(前略)人生、学歴が全てではありません。 お金が全てでもありません。 そして、夢が全てでもありません。 それぞれをバランスよく全部備えていることが必要です。

▼具体的に言えば、生活のためにはお金を稼がなければいけないが、ただお金を稼いでいればそれでいいというわけではなく、仕事や日々の暮らしの中で生き甲斐を持たなければ良い人生とはいえません。 その生き甲斐を持ちながら生活するために学習が必要であれば、学ぶ以外に方法はないのです。

今の時代に人間として生まれてきたのならば、この人間社会以外で生きていくことは不可能なのです。 ならば、この時代に生まれたことを嘆くのではなく、いかにこの社会の中でより良く生きていくか、そのことを考えなければいけません

その根本となる道しるべ価値観です。 人生において何が一番大事か、それにどれだけの価値を見出すか。 それを決めるのは一人ひとりの個人です。 (中略)人生をより良く生きていくことは、人それぞれで違います。 それぞれが自分で見つけるしかないのです。

▼では、この価値観はどうやって手に入れるものなのでしょうか。 それは家庭や学校などの教育を柱にして、本人の経験値、社会からの情報、人との出会い、が作ってくれるのです。

▼そして、価値観は年齢を重ねることにつれて変化していくものです。(中略)

▼「学ぶ意味」とは何でしょうか。 (中略)答えるのが難しい質問です。 (中略)その意味を問うているのですから。そこで逆の発想をしてみます。

▼私のように学ぶことそのものに目的を見つけた者は、学ぶことの意味など問いかけません。 つまり、このような質問をする人は、学ぶことに意味を感じていない、感じることができない人だということです。 (中略)「(中略)その目標を達成させるための努力こそが、『学ぶ』という行為そのものなのです」(中略)目標を持ち努力することに意味があるのであり、その過程に「学ぶ」ことが付随してくるのです。(中略)

▼厳しく言えば、人間として生きるためには、基礎学力は絶対に必要なのです。

基礎学力・・

▼(前略)人間が何か新しい知識を「解かった」と感じるときは、必ず自分の中にある既存の知識や経験と結びついて初めて、「解かった」と納得することになるのです。 この「既存の知識」「基礎学力」なのです。(中略)

▼この既存の知識が多ければ多いほど、解かる世界が広がっていく

▼山でいえば、見晴らしのいい、裾野の広い山に立っていることになり、遠くまで見渡すことがでいるのです。 (中略)それぞれの個人が、自分の目標に見合った山を選び、必要とされる高さまで登ればいいのです。 (中略)この「既存の知識」は、それに新しい知識を積み上げて形成されたものなのです。 人は必要に迫られて知識を獲得するものなのです。 

▼しかし、正直言って、これだけでは足りません。

▼必要に応じて場当たり的に獲得する知識以前に、さらにその基礎の知識を身につけておくことが、文化の成熟した社会で生きていくための必須の条件なのです。(中略)

▼目標を見つけたときすぐに走り出せるようにし、しっかり準備を整えておくことが必要なのです。 それが学校で勉強する意味であり、学校の役目なのです。(中略)

▼シチ面倒くさい数学を学ぶことに何の意味があるかといえば、これによって、論理的な思考方法が脳に刻みつけられるのです。

人生のどんな難事にぶかったときでも、自分の次の行動を判断するのは論理的な推理力でしょう。 そのときに役立つのが、数学の勉強で培った論理的な考え方なのです。シェフを目指してフランスに修行に行った若者だって、(中略)学校で学んだ数学の思考方式が無意識のうちに力を発揮するのです。

▼英語や国語、社会など、知識の量がものを言う科目では、この基礎知識が、社会に出てから、なおさら試されます。(中略)

▼知識の長所は・・(中略)勉強は人を裏切りません。 本人が努力した分だけ、その人の能力として蓄積されていくのです。 それに知識は、なくて困ることはあっても、有りすぎて邪魔になることはありません。 知らない者が知っている者に勝ることもありません。

▼さらに、この素晴らしいさまざまな知識は、仕事に役立つだけでなく、人間を理解する上で、豊かな眼力を持たせてくれるのです。 なんと神秘的で、素敵なことなのでしょう。(中略)

人の生きる意味とは、目標・夢を持つことです。

▼その夢を実現するには、必ず「学ぶ」という行為がどこかで必要になります。 夢を現実に変える、その来る日のために、「学び方」を学ぶのが、私の考える「学ぶ意味」であり、勉強なのです。(中略)

▼小学生のときに何度も言われた母の言葉通り「死ぬまで勉強だよ」を心に刻みながら・・。

■【筆者注】重ねて言います・・。 我々より一回り以上も若い彼ですが、苦労を数多く経験している分、「小生より確りした考え方を持っているなぁ」と感じ入った次第。 また、小生、もう少し自分を厳しく鍛え一段と大きい人間にしなければ・・(要反省)。(了)

2007年3月11日 (日)

【時習26回3-7の会 0074】~「【『同窓会』開催のご案内】と【『e-mail address』のお願い】」「弘前公園~太宰治『津軽』・司馬遼太郎『北のまほろば』」「瀬戸内寂聴『孤独を生ききる』その2」

■今泉悟です。【0074】号をお贈りします。今日は、まず、今夏の【3-7の会】同窓会を開催するにあたってまだ連絡のつかない、即ちまだ小生がe-mail addressを知らないclassmates14名の方々に【『同窓会』開催のご案内】と【『e-mail address』のお願い】の2つのthemeにて往復葉書を出状致しました。その原稿をご参考に添付します。ご覧下さい。

Email_address070311▼e-mail addressある皆さんへは出状しませんので悪しからずご了承下さい。会費もまだ詰めていませんが、T三先生をご招待することを念頭に予算を考えますと、一次会が6,000円程度になる模様です。二次会も開催したいと思いますが、その分別途費用がかかります。場所も「司」が無難なのですが、収容人数が前回でもお分かりのように10名そこそこで満杯になってしまうため、参加人数により場所は別途考える必要が出て来ます。皆さん、好い所があれば教えて下さい。

▼現在、小生が配信出来ていない旧【3-7】のclassmatesの方々14名は以下の通りです。(名簿順、敬称略)~飯田G司、内山K三、大木T之、太田M宏、河合K典、小久保K明、鈴木Y次、内藤S、夏目Y弘、平井K生、横田Y成、牧原(金子)M○子、鈴木い、林K子。

070310■続いて、昨日の日経新聞朝刊「NIKKEIプラス1」に「花見が楽しめる都市公園」BEST10が紹介されていましたのでご紹介致します。第十位に岡崎市の「岡崎公園」が次のように紹介されている。添付写真はranking表だけ写っています(尚、当該写真は容量の関係からblogにのみ載せました。ご了承下さい。ブログへは最下段を参照下さい)。

▼愛知県・岡崎公園(十位)では、城跡と土手の双方で桜が楽しめる。近くの川の土手と合わせ、ソメイヨシノが二千本以上ある。繁華街に近く、食事をしたあと酔いざましに土手を歩いても気持ちよさそうだ。

第一位は【弘前公園】です。 ここは小生が昨年2006年4月3日付【時習26回3-7の会 0019】号で次のように紹介しています。 

▼以下にまずその美しいhome pageをご紹介します。

【青森「弘前城」の桜】http://www.jomon.ne.jp/~ja7bal/info.htm  ←ここをクリックして下さい→   http://www.jomon.ne.jp/~ja7bal/info.htm 

▼「小生、今は昔、陸奥仙台在勤4年間に東北各地を旅行しましたが、桜と言えば、青森県弘前市にある弘前城址の桜が最高でした。」と記してあります。

▼【筆者comment】厳しい津軽の冬が明け、梅・桜・辛夷(コブシ)の花が一斉に百花繚乱する『北国の春』・・。津軽の人々にとって本当に待ち遠しかった『春』でしょう。

Photo_3919850504_1▼さらに今日は、1985年(昭和60年)5月4日に仙台市から弘前城までドライブした時の「絶景の『弘前公園の桜』」をご紹介します。今から22年も前の昔日の出来事ですが、今も鮮明に覚えています。albumの写真の保存状態も予想以上に変色せず綺麗でした。

弘前城のお堀を桜の花びらで埋め尽くしてピンク色の絨毯を敷き詰めた情景はまさに絶景・・筆舌に尽くし難い美しさです。お堀がピンク色に染まり、白雪を抱いた岩木山を遠望すると、あまりの美しさで暫く体が震えたことを思い出します。

Photo_40Photo_41北国の遅い春なので、golden weekも押し迫った5月4日。ソメイヨシノと枝垂桜が同時に咲きます(添付写真をご覧下さい)。これに辛夷の花の白色も加わり、素晴らしいの一言です

Photo_43Photo_42▼小生、当時仙台支店で融資折衝を担当し一日3箱喫煙する heavy smokerであったのですが、その時弘前城で買った煙草「MILD SEVEN」の表紙にも美しい弘前城の写真が載っていましたのでalbumに写真と一緒に貼ってありました。

19850504_4▼おしまいの写真は、白雪を頂いた秀麗な山は岩木山です。弘前市内から岩木山へ向かう道から撮影したものです。天気は快晴でしたが、風はやはり冷たかったです。

■作家司馬遼太郎も【街道をゆく41】『北のまほろば』~「弘前城」と「津軽の作家たち」で以下のように評しています。

▼「弘前城」:(前略)季節になれば、堀も石垣も、天女が舞い降りたように、桜の羅衣(うすごろも)になる。(中略)弘前城は築城早々には五層の天守閣がそびえていたが、建造後わずか十七年目の寛永四年(1627年)に落雷焼失した。記録を見ると、九月五日の夜のことである。(中略)当時幕府は五層の天守閣の新築を諸藩に対して禁じていたため、(筆者注:津軽藩は)三層の角櫓の一つを改築して天守閣のかわりにした。だからいまの天守閣はこぶりなのである。それがかえって全体との調和がよく、ふしぎなやさしさを帯びた名城になっている。(以下略)

▼「津軽の作家たち」:(前略)津軽人の太宰治(1909~48)が旧制弘前高校に入ったのは、(中略)昭和二年(1927年)十八歳のときだった。(中略)そのころ弘前高校にG・P・ブルールという若い英国人教師がいた。かれは、入学早々の生徒に”ほんとうの幸福とは何か”という英作文を書かせた。太宰の英作文は、この先生が激賞したほどに出来がよかったらしい。その英文の書き出しが、(中略)「ほんたうの幸福とは、外から得られぬものであって、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構へこそほんたうの幸福に接近する鍵である」十八歳の太宰が、英雄か受難者か(西洋風にいえば、聖者か殉教者か)という二枚にカードしか用いずに幸福を論じたのは、(中略)太宰論にとっても、暗喩的である。(以下略)

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■次に(その司馬遼太郎が評した)「太宰治」の紀行文「津軽」です。この作品は、津軽が生地の俊英である彼の最高傑作との評価も高い。その「津軽」から弘前城辺りの一部をご紹介します。

(前略)桜の頃の弘前公園は、日本一と田山花袋が折紙をつけてくれているそうだ。(中略)

▼弘前の決定的な美点、弘前城の独特の強さを描写することはついに出来なかった。重ねていう。ここは津軽人の魂の拠りどころである。何かあるはずである。日本全国、どこを捜しても見つからぬ特異の見事な伝統があるはずである。私はそれをたしかに予感しているのであるが、それが何であるか、形にあらわして、はっきりこれと読者に誇示できないのが、くやしくてたまらない。この、もどかしさ。

▼あれは、春の夕暮れだったと記憶しているが、弘前高等学校の文科生であった私は、ひとりで弘前城を訪れ、お城の広場の一隅に立って、岩木山を眺望したとき、ふと脚下に、夢の町がひっそりと展開しているのに気がつき、ぞっとしたことがある。(中略)お城のすぐ下に、私のいままで見たこともない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持ちで思わず深いため息をもらしたのである。万葉集などによく出てくる「隠沼(こもりぬ)(筆者注:草木などに隠れて見えない沼【広辞苑】)」というような感じである。私は、なぜだか、その時、弘前を、津軽を、理解したような気がした。(中略)隠沼のほとりに万朶(ばんだ(筆者注:多くの垂れ下がった枝))の花が咲いて、そうして白壁の天守閣が無言で立っているとしたら、その城は必ず天下の名城にちがいない。(中略)私はこの愛する弘前城と訣別することにしよう。思えば、おのれの肉親を語ることが至難の業であると同様に、故郷の核心を語ることも容易に出来る業ではない。(以下略)

■【筆者comment】▼太宰治は弘前市より岩木川を北に下った北津軽郡金木(かなぎ)村に生まれた。本名津島修治。作品「津軽」は、太宰が玉川上水に入水自殺する(昭和23年6月13日~14日未明)4年前の昭和19年、5月12日に東京を出発、6月5日帰京するまで津軽地方を探訪。11月に上梓された。この作品で太宰が見せる「津軽」についての語り口は「郷土を深く愛してやまない熱い想い」が確りと伝わって来て心地よい。

▼彼は次の言葉で締め括っている。4年後を予感させる風でもある。

▼さて、古聖人の獲麟(かくりん)(筆者注:孔子が春秋を著し、「西狩獲麟」の句を以て筆を絶ち死んだことに基づく。絶筆。物事の終末。誤用されて、孔子の死をいい、更に転じて、臨終または臨終の辞世の意となった【広辞苑】)を気取るわけでもないけれど、新津軽風土記も、作者のこの獲友告白を以て、ひとまずペンをとどめて大過ないかと思われる。まだまだ書きたいことが、あれこれとあったのだが、津軽に生きている雰囲気は、以上でだいたい語り尽くしたようにも思われる。私は虚飾を行わなかった。読者をだましはしなかった。さらば読者よ。いのちあらば他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。

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■今日の締め括りは、前回にご紹介した瀬戸内寂聴著「孤独を生ききる」の中から引き続きお贈りします。今回は第五夜 失った愛の中の孤独 です。

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男女のことはフィフティフィフティ・・

▼(前略)こちらのお友達は同級生? いいですね。学生時代に得た友情が一番打算もまじり気もなくて長続きするものです。(筆者注:小生が【3-7の会】を立ち上げたのも「学生時代に得た友情が一番・・長続きする」からです・・。)(中略)信じていた夫に裏切られたというのですか。もうそういう妻は地球上に数え切れないくらいいるのですよ。

▼大切なことは、裏切られた事実ではなく、それを知った後の心の持ち方や身の処し方でしょう。

▼私はいつの場合も、男と女のことはフィフティフィフティだと考えているのです。被害者も加害者もないのです。両方とも加害者と被害者の両面を持っているのです。たとえば、わかり難いかもしれないけれど、誰でもほめる貞淑なでつつましやかで、美しい奥さんがいるとしましょう。そんな時、夫が外で愛人をつくったり、放蕩にふけったりすれば、誰だって無頼の夫を非難するでしょう。でも夫婦や、愛人どうしの仲は、他人にはわからない面があって、どうともいえないのです。

▼世の中には、妻が貞淑すぎて圧迫を感じる夫も、聡明すぎてコンプレックスにとりつかれる夫もあるのです。いくら表面上申し分なくっても、冷感症の女だって世の中にはあるのです。

▼その上、一番困ることは、人間の心は、すべての現象と同じで無常で、いつ変るかわからないのです。一方が変らなく、他方だけが変ってしまうことだってよくある例です。

▼私の友人に、結婚前のご主人の恋文をカステラの箱にリボンで縛って入れ、そんな箱を、五つも六つも持っていて、

「こんなに私に夢中で、一日に二度もラブレターをよこしたのよ」と自慢している人がいました。その夫が外に女をつくっていて、妻の知らない間に子供まで出来ていたと知った時も、裏切られた妻は、「だって、こんなに恋文を書いたのよ」と、現実の事態を認めたがらず、もしそれが現実だとすれば、夫はよほど性悪な女にひっかかったのだと、一途に夫の愛人を憎みました。

夫を信じ続ける純情と素直さは、彼女の美徳には違いないけれど、ふつうの男にとっては、やがて、それが退屈になり、単純さと素直さが、鈍感に見えてくることだってあるのわけです。そこへ反応の早い手応えのしっかりした女が出現すれば、そってへ惹かれるのも無理はない。人間は肉体だけではなく心が具わっています。

▼仏教では五蘊(ごうん)という言葉があります。蘊というのは、包むという意味です。又は蓄える、含むなど。かたまりと訳される人もいます。五つの包んだもの、身体の中に包んだものといえば、まず内臓ですね。

▼でも人間は肉体だけで出来ているわけではありません。肉体の中に心も包まれています。つまり私たち人間を形成しているもの、それがです。

五つとは、色、受、想、行、識のことです。、仏教ではもの、物質をさします。人間でいえば肉体です。人間の中にはもあります。これです。受、想、行は、色と識の間の作用です。

は、たとえばここにリンゴがありますね。あ、リンゴだなと思う。感受作用といいます。赤くてきれいだと思う。美味しそうだなと思う。これがです。食べたいなと思う意志の作用、それ念がです。さて食べてみるとやっぱり美味しかったとか、思ったよりすっぱかったとか認識する。それがです。

▼私たち人間は、この五蘊の結合と調和において成り立っているのです。もっと、簡単に言えば、肉体と精神で成り立っているといえます。

色は目に見える世界、受、想、行、識は見えない主観の世界、自分の心の中です。

▼長々こんなことを言うのは、人間が肉体と心で出来ているということを言いたかったのです。この心というのが自分のものでありながら思うようにならない。実は自分の肉体だって、本当は思うようにならないのです。だから、人は病気をします。いつのまにかガンにかかっているなどというのは、自分で自分の体が思いどおりにならない証拠でしょう。

心では妻だけを夫だけを愛さなければと思っていても、他の魅力ある肉体や精神にふれると、受、想、行、識の順序で、そっちの方が、自分の妻や夫より素晴らしいと認識して、惹かれてしまうのもまた仕方のないことです。意志が強ければそこで踏み止まって、自分の熱望をねじふせますが、大抵の人は心の誘惑に負けてしまうのです。感受性の強い人間ほど、その誘惑の力に勝てません

だからといって、妻や、夫を嫌いになっているのではないというのが正直な本音ですが、そういえば、ずるいとか、優柔不断だと叱られるので、心ならずも、どっちかへ決着をつけなければならないのです。本来の人間の弱さからいえば、妻も欲しい、恋人とも別れたくない、夫も必要だ、両方うまくやれないものかというのが本音でしょう。

▼ご主人にはじめて裏切られたということで、あなたはもう絶望的になって世の中のすべてが信じられなくなったと言っているけれど、もしか裏切られたのは、今度がはじめてではなくて、今まではご主人が細心の注意をして、かくしおおせてきたのかもしれないとは思いませんか。万一、そうだったとしたら、ご主人は決してあなたと別れ、家庭を壊そうなどと思っているわけでないのです。今度はつい油断して、細心の注意に水が洩れたということかもしれないのです。

人の心だって変るものなのだから結婚して十八年も過ぎていたら、結婚当初と全く変らない気持ちを持ち続けている方が気持ち悪いくらいです。

お互いに相手に失望したり幻滅したりした上で、それでも夫婦になった縁を大切にして許しあって共棲を続けようとするのが夫婦じゃないでしょうか。 (以下次号)

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■【筆者comment】『人間の心は、すべての現象と同じで無常で、いつ変るかわからない』という言葉は小生の胸にも重くズシンときましたね。確り噛み締めてじっくり考えてみたいと思います。

  (了)

2007年3月 6日 (火)

【時習26回3-7の会 0073】~「中山Y敬君からのmailと写真」「瀬戸内寂聴『孤独を生ききる』」

■今泉悟です。 本来なら【0073】号は明日辺りに出状しようと考えていましたが、タイ国に住む中山Y敬君からmailが届きましたので、急遽、本日配信させて頂くことにしました。
▼なお、前【0072】号で予告しました。雑誌「選択」2007年3月~「『知性』の梅『情動』の桜(抜粋)」をお贈りしようと思いましたが、取り止めます。 理由は、面白くないと感じたからです。 また【0072】号は、ちょっと話題が偏りすぎましたね。皆さんから抗議のmailがあった訳ではありません。が、やはり、ちょっと・・、「何か変だな」と・・反省しています。
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■でも、【3-7の会】の皆さん、喜んで下さい!! 冒頭に申し上げましたように・・、今日は「Thailand在住の中山Y敬君から」の久し振りのmailをご紹介させて頂きます。しかもY敬君の現在の写真入りで・・!! 
▼現代の科学技術は本当に素晴らしいですね・・。 タイ国のY敬君とup-to-dateにcommunicateできる訳ですから・・。 その彼からの近況mailと写真を早速皆さんにお届けします。 彼からは、毎回、witに富んだ大変興味深いessayを頂戴しています。 今回は「タイ式『結婚披露宴』」です。
Photo_30▼30年有余年ぶりにみるY敬君・・。 流石に貫禄が出て来ましたね・・。 添付写真をご覧下さい。 最初の写真が、彼が送ってくれた写真。 一番左側に背広姿で何か喋っているのがY敬君です。 
Photo_31 ▼ご参考に添付写真の二枚目は、昭和48年当時の彼の【3-7】教室における写真です。 よく見ると、昔も今も変わっていないですねぇ。 「Y敬君!なかなか若々しいですよ!」
▼因みに、昭和48年当時の写真に映っている、彼の後方右手御仁が鈴木J司君、左奥の御仁が二橋君だと思います。
▼では、Y敬君によるThailandからのmailを早速ご紹介致します。
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▼From: Yoxxxx Nakayama [mailto:xxxx.com]  Sent: Sunday, March 04, 2007 11:32 PM To: sxxxxx.com Subject: Re: FW: お久し振りです、今泉悟です・・
中山です。ご無沙汰しています。 時々日本を思い出すために、ブログを見ています(←Y敬君、有難う。海外からblogを見てくれているんですね・・。嬉しい限りです。
▼クラス会のある8/11は日本への移動日になる見込みなので、残念ながらクラス会は欠席の可能性大です。
(←無理にとは言いません。来年も同窓会はあるのですから・・。でも、予定変更となり8月11日に都合がつくようになったら是非参加して下さい。お待ちしています。)
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▼では、今回も近況報告させていただきます。
▼こちらに来て間もなく1年半になりますが、この間、結婚披露宴に4回出席しました。
▼一口で言うとタイの披露宴はカラオケ&ダンスパーティのようです。暑いためか夕方から行われますが、開始が18:00となっていても出席者はその頃にパラパラとやって来ます。そして大体集まった頃に開始です。 従って30分~1時間過ぎが実際の開始時間で、それを見越してゆっくり来るのでしょうか? 最後まで人がいないテーブルもあり、出欠は自由のようです。 始まるまでは、飲み物を飲みながらステージで歌手(?)が歌っているのを聴いたり、ダンスを見たりしています。 そうこうしているうちに始まるわけですが、儀式としては、まず新婦側の主賓が新郎新婦に花輪を掛けてあげ、そしてスピーチを行い、最後に乾杯の音頭をとります。 次に新郎側の主賓も同様に行います。そのあとウェディングケーキ入刀が行われます。 デジカメや携帯を持った人がワッと集まる様は日本と同じです。 切取った(?)ケーキは新郎新婦で主賓のところまで持って行き、差し上げます。 以上でセレモニーは終わりです。あとはステージでは再び歌が始まります。 私はいつもこの頃に退席しますが、その後は延々と参加者のカラオケ、ステージ前でのダンスが続くようです。
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▼添付した写真は、新郎側の主賓として挨拶しているところです。(筆者注:Y敬君、なかなか・・もう堂に入っていますね。) 横にいるのは私の通訳です。実はこの披露宴には日本人は私1人しかいなくて、原稿を日本語で読むと、予め翻訳した原稿を通訳が読んでいました。 ですから、私が何を喋っているのか誰も理解できないし、何を喋っても予め決められた話がされるという、何とも存在感のない立場でした。ただし、客寄せパンダとしての価値はあったのでしょうが。(こんなことを3回の披露宴でやりました)
▼スピーチは、「日本でよく言われるのですが」を枕詞にして、「二人でいると喜びは2倍に、苦しさは半分に・・・」というような簡単なものです。

しかしあとで、「感動した。中山さんにスピーチをやってもらって、もう一度結婚したくなった。」なんて言う人がいたそうで、タイ人の心は訳が分かりません
■Y敬君、mailをありがとう。そして、写真もありがとう。新婦と通訳の女性はタイ系、新郎はインド・スリランカ系の方ですか・・。 貴君もお元気そうで何よりです。 8月11日の【3-7の会】同窓会には、日程の都合がついたら是非参加して下さい。 出席が不可能であることが確定するまで、pendingにさせて頂きます。 時間はまだ十分ありますから・・。
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■続いて、今日お届けするのは、瀬戸内寂聴著「孤独を生ききる」(光文社)です。 この作品はいろいろ考えさせてくれるessayです。これから数回に亘り徒然なるままにご案内したいと思います。 それにしても、最近小生「西行」づいています。とくに意識していないのですが、読む本いずれも「西行」の歌に遭遇するのです。何か因縁めいたものを感じます・・。
西行の孤独、松はひとりに・・
▼西行は、23歳で出家遁世して、(中略)西行は出家した後、方々で庵を結んだり、放浪の旅に出たりしていますが、孤独を身にも心にも感じながら、孤独を楽しんでいるようなむきもあります。
(山家集513・新古今集627)  さびしさに たへたる人の またもあれな 庵ならべん 冬の山里
【意】この閑居の寂しさに堪えている人が他にもあってほしいものだ。そうしたら冬の寂しい山里に庵を並べて住まうものを。
(山家集1359) ここをまた 我が住み憂くて 浮かれなば 松はひとりに ならむとすらむ
【意】この地をまた自分が住み憂く思って、心一所に留まらず旅に出たならば、松は独りになってしまうのだろうなあ。
(新古今集987) 年たけてまた越ゆべしと思ひきや いのちなりけり 小夜の中山
【意】東国へ知人を訪ねていく時に、佐夜の中山を越えたことが昔になってしまったと思い起こされて ~ こんなに年老いて、再び越えるだろうと思っても見ただろうか。それなのにこうして佐夜の中山を越えることができるのは、やはり命があってのことだなぁ。
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▼この三つは孤独を歌った西行の絶唱だと思い、私(筆者注:瀬戸内寂聴)の大好きな歌です。
愛も心も無常・・
▼(前略)人とのつきあいもそうでしょう。現実に逢って互いを見、触れ、話していた時よりも、別れて目の前から居なくなって、かえって、様々な時の様々なしぐさや、表情や、言葉などがくっきり思いだされて、ずっと身近に感じられることがあるでしょう。(中略)常に、世の中のすべては移り変わっています。 私たちが生まれた瞬間から、老いと死に向かって毎日変っていくように。
▼それを仏教では「無常」という言葉であらわしています。この世に起こるすべてのことは移り変わる、一時も同じ状態はないということです。心もまた無常です。(中略)
空閨(筆者注:夫や妻のいない独り寝の寂しい寝室【広辞苑】)の孤独 ~ 五十代の女の焦りとさびしさ・・
▼(前略)おいくつですか、五十一(筆者注:まさに我々の今の歳です・・)ですって、じゃ、私(=寂聴)の得度した年ですよ。(中略)日本の女の人はずいぶん若返りましたね。(中略)あなたたちの五十代の若さを見る度、こんなに若い時出家したのかなぁって自分でもびっくりするんですよ。
▼四十七、八から五十二、三なんていう年代が、女の一番きつい年頃じゃないでしょうか。
▼四十代の終りっていうのは、もう女の瑞々しい年はお終いになったという焦りと淋しさがあるし、五十になれば、いよいよ下り坂に入ったなって覚悟みたいなものが出てくるし・・それに大体、女の閉経はその辺りで、心身のバランスも崩れがちで、よくノイローゼになる人もいるんですよ。
経済的なゆとりはあるけれど・・
▼(前略)昔は人生五十年だったのに。でも私はこの頃は女四十花ざかりってよくいうんですよ。じゃ五十代はって訊かれると、働きざかりといってやるんです。(中略)女が少しゆとりを見せてきたのは、四十代でしょう。だから何を着ても華やぐし女ざかりですよ。子供も大きくなって手を離れ、夫は社会的地位が固まり、出世の早い人はもう役づきでしょう。経済的ゆとりも出来ているし、カルチャーセンター、アスレチックセンター、ヨガにツァーとその気になればなんでも首をつっこむことができる。一番お金持はあなたちの世代の女の人ですよ。
▼(中略)彼女たちのフラストレーションの原因はつまるところ、これまで家のため夫や子供のため尽くしてきたのに、ふと気づくと、子供は全く自分の世界を持っていて、夫は夫で自分の仕事の上で成功していて、これも今更内助の妻の手など必要としなくなっている。
▼子供は、自分の心のうちなどもはや母に話そうとしないし、夫は仕事づきあいで忙しく、家で夕飯を食べることさえほとんどなくなっている。
▼「なんでも行きたい所へ行けばいいじゃないか。カルチャーセンターでも、エアロビクスでも、どうしていちいちおれにそんなつまらないことまで相談するんだね。金はあるだろう。」 夫はうるさそうにいう。
妻とのセックスに興味を示さない夫・・
▼孤独をまぎらわせるため、衝動買いをしたり、無意識のうちに誘ってくれる誰かを待ち望んだりします。(中略)
▼今は、性は老後になっても要求はあるものだと通説になっていて、昔のように恥しがらずあけっぴろげになった分、以前には考えられなかった性的な失敗をおかしてしまう人が多くなったのです。 (中略)女としての終りだと勝手にきめこんで淋しがっている上、ほとんどの五十代の人妻は、夫との性生活がなくなっているというのです。 多忙な夫は、刺戟のない古女房との性生活にもはや興味を示さなくなっているし、日本の男というのは、義務として性生活を妻とするという考え方がほとんどありません。
▼五十代の主婦が、戦前の五十代とは比較出来ないほど若くなり、家事の繁雑さからは電機製品の普及で解放され、外出も会合も自由になったのに、空虚と倦怠を内蔵し、決して幸せでない人が多いのはほんとに痛ましいことです。
▼かりそめのよろめきに身をゆだねて、不倫の逢い引きをしている間だけは、別人になって生きかえったように思ってみても、そんな自分が浅ましいと見る別の目を持っているのが五十代の成熟というものです。
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【筆者comment】■瀬戸内寂聴氏のcommentは、ときに過激なところもありますが、真実をある意味で誠実に語っているものと思います。彼女のessayはまだまだ続きます。以後、次回以降をお楽しみに・・。
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【後記】■ここまで「西行」づいているのなら、今日の締め括りも小倉百人一首から86番の「西行」の歌をお贈りします。
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▼(『千載集』恋五(929)) 嘆けとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな
【意】嘆けといって月が私にもの思いをさせるのか、いやそうではない。それなのに、月のせいだとばかりに言いがかりをつけるように、流れる私の涙であるよ。
【筆者注】西行は出家者でありながら、不思議と恋の歌が多い。 月に相対していると、自ずと溢れ出る涙。 その涙を「かこち顔(=うらめしそうな顔つき)」なると巧みに擬人化しながら、落涙の原因を月のせいであるかのように、その罪を押しつけてみる。 「わが涙」という言い方も、自分と涙との間に距離を置いた表現。 しかしその実、叶わぬ恋の嘆き故の悲しみの涙がこみあげている・・。 ほんと、なかなか味のあるいい歌ですねぇ・・。(了)

2007年3月 3日 (土)

【時習26回3-7の会 0072】~「三夕の歌」「芭蕉の句碑」

■今泉悟です。【0072】号をお贈りします。季節が移ろい行くのは本当に早いものです。今日3月3日は桃の節句。3日後の3月6日は二十四節気でいう「啓蟄」です。陰暦2月の節。「蟄虫(すごもりむし)戸を啓(ひら)く」の日。地中で冬眠していた虫たちが姿を現わす頃と言われています。が、2~3日前の地元新聞で「もうヒキガエルが冬眠から目覚め産卵を始めた」と写真入りで伝えられていました。今年はやはり異常気象・・?
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■さて、【時習26回3-7の会】同窓会(2007年8月11日)の出席表明状況ですが、金子君がJ司君に宛てたmailに以下の通りcommentされていましたことは皆さんもc.c.でご承知のことと思います。 ということで・・、
「J司君へ ご無沙汰です。返事をしなかったばかりに寂しい思い(?)をさせてしまったようで申し訳ない。 性格は多少は変わったと思いますが・・・、まあ今度同窓会で会った時にでも判断してください。(以下略) 金子T久
▼金子君へ、貴兄も参加表明されたものと理解致します。宜しいですね・・。8月11日の再会、楽しみにしています。 ありがとう。J司(かつての・・)級長殿!(喜)(笑)
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■これで【時習26回3-7の会】同窓会参加表明者は10名(市川、伊東、井上、今泉、金子、菰田、白井、鈴木(淳)、彦坂、峯田(以上敬称略・五十音順))+鉄三先生11名になりました。ありがとう。 ますます幹事の仕事に力が入ります・・。
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■前【0071】号の【後記】で小林秀雄の「西行」をお伝えしましたが、ちょっと難しく解かりづらいところもありましたので、今日もうすこしbreak downしてみたいと思います。
■何か、古文か国文学の時間になってしまったようで申し訳ありませんが・・、薀蓄の一つですので・・。 興味ない方はどうぞ聞き流して、いや読み飛ばして下さい。(笑)
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▼西行(新古今集「秋歌上362」)、藤原定家(同「同363」)及び寂蓮法師の作品(同「同361」)の3作品を『三夕(せき)の歌』と言います。この「三夕」については、白洲正子著「西行」~『鴫立沢』~で、大変平易に解説してありますのでご紹介します。ここでは小林秀雄の「西行」を引用しながら次のように紹介されています。その抜粋をご覧下さい。
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▼千載集から、二十年ほど経つ間に、歌の評価は変って来た。新古今集巻四秋歌上には、西行を中心に、寂蓮と定家の「秋の夕暮れ」の歌が並んでいる(【意】【注】は小生)。
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▼【筆者注】次の四首は、いずれも「新古今和歌集 秋歌」に掲載されているものです。
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▼(秋歌上361) さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ 【寂蓮法師】
 【意】寂しさはとり立ててその色と言うこともできないなぁ。けれども何処となく寂しさが漂うよ。檜や杉の群れ立つ山の秋の夕暮れは。
Hinoki1 Photo_4Photo_5 【注】真木:杉や檜や槇など常緑樹の総称(添付写真は檜・杉・イヌ槇です)。
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▼(秋歌上362) 心なき 身にもあはれは しられけり しぎ立つ沢の秋の夕暮れ 【西行法師】
 【意】もののあわれを解しないわたしのような身にも、この趣にはしみじみと心うたれるなぁ。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れ時の・・。
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▼(秋歌上363) 見わたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとま屋の 秋の夕暮れ 【藤 原定家朝臣】
 【意】見わたすと、春の花はもとより、秋に相応しい紅葉すら何一つないよ。苫葺きの海人(あま)の仮小屋が散らばるこの浦の秋の夕暮れは(~源氏物語「明石」に拠る~)。
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▼世に「三夕の歌」と呼ばれるもので、新古今集が成った時、西行はもうこの世にはいなかったが、草葉の蔭で、それ見たことか、とせせら笑っていたかも知れない。上の句で一旦切って、名詞で止めることを、専門用語では「三句切れの体言止め」というらしいが、この三首をめぐって、似たような歌が並んでいるのをみると、よほどはやったもののようである。
▼中でも西行の詠は、俊成(筆者注:定家の父)が「鴫立つ沢と言へる心幽玄に、姿及びがたし」((注)御裳濯川歌合)と評したように、新古今に選ばれる前から有名で、寂蓮も、定家も、それを下敷きにしているとは疑えない。
【注】御裳濯川(みもすそがわ)は五十鈴川の異称。
▼(中略)定家は西行より四十四歳も年下であったから、この歌道の大先輩に対して、絶大の敬意を払っていたのであろう。
▼そうはいっても、この二つの歌は、詞が似ているだけで、その発想には大きな違いがある。単に老若の差ではなく、西行と定家が生涯を通じて、相容れることのなかった個性の相違といえようか。小林秀雄は『西行』の中で、それについて実に適確な批評を下している。
▼「外見はどうあらうとも、(定家の歌は)もはや西行の詩境とは殆ど関係がない。新古今集で、この二つの歌が肩を並べてゐるのを見ると、詩人の傍らで、美食家があゝでもないかうでもないと言つている様に見える。寂蓮の歌は挙げるまでもあるまい。三夕の歌なぞと出鱈目を言ひ習はしたものである」
▼だが、いつも世間を闊歩しているのはその出鱈目な方で、茶道では、定家の「見わたせば・・」の歌がわびの極致とされている。そういわれるとそのように見えなくもないが、定家は純粋にレトリック(筆者注:rhetoric=修辞学(=読者に感動を与えるように最も有効に表現する方法を研究する学問【広辞苑】))の世界に生きた人で、この歌も源氏物語「明石」の巻その他に典拠があり、いってみれば机上で作られた作品なのである。定家の人生とも生活とも関係がない。
▼それにひきかえ西行の歌は、肺腑の底からしぼり出たような調べで、小林秀雄が、上三句に「作者の心の疼きが隠れている」といったのは、そういう意味である。(以下略)
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▼【筆者comment】一方、寂蓮には「村雨の・・」が、新古今集巻四秋下(491)に掲載されているが、この歌は「小倉百人一首」にも載っている余りに有名な歌でもある・・。 でも、理屈抜きで「良い歌は良い」ですね・・。
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▼(秋歌下491) 村雨の 露もまだひぬ 真木の葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ  【寂蓮】
 【意】降り過ぎていった村雨(にわか雨)の露もまだ乾いていない真木の葉のあたりに、霧がほの白くわきあがってくる秋の夕暮れであるよ。
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■続いて、雑誌「選択」2007年3月号に「『知性』の梅「情動」の桜」というthemeで面白いessayがありましたのでご紹介方々お話したい・・と思いましたが、これは結構中身が濃くなり容量がかなり増えそうですので、次回【0073】号に譲ります。綺麗に纏めたいと思いますので、お楽しみに・・。
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070228_8070228_9070228_10259070228_2070228_11 【後記】■2月28日、仕事で伊良湖岬付近 まで行く機会がありました。その道すがら、「芭蕉の句碑」と伊良湖岬手前の「菜の花満開の国道259号線」「荒波の伊良湖港」の写真を添付しました。「天気晴朗ナレドモ浪高シ」の伊良湖港から遠くに小さく見える箱型の2隻の舟が自動車運搬船です。レクサスを載せ海外へ向かうのか、それともベンツかワーゲンを載せて三河港に入るのか、どちらかの船であることに間違いはありません。・・また、渥美半島は陽射しも明るく暖かいのですが、風はやたらに強い。・・だから風力発電が機能しているのですが・・。尚、携帯電話のcameraでの撮影ですので小さく且つ綺麗に撮れていませんが、悪しからず・・。
   *   *   *
▼芭蕉の句碑は何と書いてあるかわかりませんでしたが、(芭蕉が)伊良湖岬で詠んだ句は、
   *   *   *
  鷹一つ 見付けてうれし いらご崎   芭蕉
【注】伊良湖岬の骨山(古山)の頂の彼方、歌枕の鷹が一羽、悠々と天翔(がけ)るのが見られた。西行の『山家(さんか・さんが)集』の次の歌を踏んでいる。
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  巣鷹渡る 伊良胡が崎を 疑ひて なほ木に帰る 山帰りかな  西行
   *   *   *
▼この歌については、白洲正子著「西行」~『富士の煙』~からご紹介します。
   *   *   *
▼たしか伊良湖岬の鷹渡りは九月下旬から十月上旬へかけて行われると聞いている。とたんに、それまで忘れていた西行の歌が胸に浮んだ。
▼この歌には、「二つありける鷹の、伊良胡渡りをすると申けるが、一つの鷹は留まりて、木の末に掛りて侍ると申しけるをきゝて」という枕詞があり、鷹渡りにくわしい土地の人が説明するのを聞いて詠んだのであろう。「巣鷹」は若鳥、「山帰り」は成鳥のことを指すそうで、若い鷹が上昇気流に乗って勢いよく飛び立って行くのを、不安げに見送った親鳥は山へ帰り、風待ちをしているという意味である。
■句碑一つ見るだけでも、奥の深い日本文学の歴史を想うことができますね。芭蕉が西行を偲ぶ・・、その芭蕉に僕らも想いを馳せる・・、そうした『一風景』~少しは絵になるかもネ・・。(笑)
   *   *   *
■これも前『0071』号でお話した旧【3-10】の手塚T君の件ですが、昨日3月2日付の辞令で新城支店に栄転されました。今朝の中日新聞(9面)、日経新聞(14面)に彼の異動記事が載っています。彼は、これでまた東京在住のお子さんたちとの別居が暫く確定してしまいましたが、目出度いことでもあります。 小生、お祝いを兼ねて近々彼と一献傾けようと思います。(了)

2007年3月 1日 (木)

【時習26回3-7の会 0071】~「J司君からのmail」「金子君からのmail」他

■今泉悟です。【0071】号をお贈りします。
■今日は、J司君の大活躍で、J司君のmailとともに金子君からのmailも皆さんの許に届いたと思います。J司君、金子君、【3ー7の会】の仲間へのmail配信ありがとう。幹事として大変嬉しいです。
■それではお二人のmailをご紹介致します。お二人ともmailをありがとう。まずはJ司君からのmailです。
From: 鈴木 [mailto:suzukixxxx.jp]  Sent: Wednesday, February 28, 2007  2:58 PM To: 今泉悟;
▼2637の会のみなさんへ
▼小生、現在は早朝、トレーニングを兼ねて郵便局で区分けの作業をし、日中はちょっとのんびりし、夜、中学生相手に教育活動という毎日を送っています。牧野君や菰田君、彦坂君や市川君など懐かしい名前ばかりです。
▼人間も50歳前後になると社会的責任も重い中、皆さんご活躍の旨、大変うれしく思います。時習館を巣立ってから33年、皆さん悲喜こもごもいろいろな事があったと思います。25周年までいろいろお世話くださった伊東君はじめ、筆舌には尽くせません。8月11日には是非、一同に会して旧交を温めましょう。今泉君の言うように時が重要です。私は2007年を特別な年と位置づけています。個人的にですが。名前の挙がらなかった二橋君たち御免。今の姿が思い浮かばないからです。思い出は蘇りますが。
写真を見てもどちらが原田君でどちらが二橋君か戸惑います。失礼。
それやこれや声を聞けば、と思います。
▼私は世捨て人になったつもりはありませんが、自由気ままに21世紀を生きています。
▼ざっくばらんにいい旧盆を迎えましょう。まずは、つれづれなるままに。
▼ところで、全員に返信という便利なものがあるのに、金子T久君からメールがこないのは、彼の性格が変わったんですか。スゥェーデンリレーのピンチヒッターをしてくれたことなど、とても懐かしい思い出です。だれか、お便りください。では。
■ついで、金子君からのmailです。
▼From: t_kaxxx.jp [mailto:t_kanekoxxx.jp]  Sent: Wednesday, February 28, 2007 3:18 PM To: 鈴木 
▼J司君へ
▼ご無沙汰です。返事をしなかったばかりに寂しい思い(?)をさせてしまったようで申し訳ない。
▼性格は多少は変わったと思いますが・・・、まあ今度同窓会で会った時にでも判断してください。
▼少なくとも変わっていないのは、筆不精であるという性格でしょうか。
▼連絡先のメールアドレスとして会社のアドレスを使用しているため、ゆっくり返信メールを打つ時間が取れないというのも言い訳とさせてください。
▼家では毎日メールをのぞく習慣がないのと、女房との共有アドレスしか設定していないので、確実に受信を確認できる会社のアドレスを使っています。まあ音信不通の言い訳はこれ位にしておきます。
▼J司君のメールに捨て置けない一文があったので、仕事中ですが思わず反応してしまいました。(思惑どおり?)
▼現在は下の署名のごとく工場勤務で、毎日工場内を歩き回っています。
今日のところはここまで。 ではまた
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      (株)マ○○   第1製造部     金子T久
             TEL : 05xx-xx-xxxx(代表)
                    ( Ext : xxxx )
             FAX : 05xx-xx-xxxx
        E-mail :
t_xxxxx.jp
******************************************** 
■ところで、前号【0070】で申し忘れましたが、2月24日のミニミニ同窓会に参加して下さった二橋君と原田君にこのmailにて改めてお礼申し上げます。 本来ならば【0070】号にてお礼を申し上げなければならないところ、幹事の不行き届きで・・、大変申し訳ありません。二橋君は藤沢市から、原田君は柏市から、休日にも拘わらず、わざわざミニミニ同窓会のために会いに来て下さった訳ですから・・。改めて、この場を借りまして厚くお礼申し上げます。ホント、持つべきは友ですね。 お二人ともいみじくも同級生は何の遠慮もせず気楽に話ができるからいいなぁ。」と言ってくれました。本当にその通りだと思います。こういうfrankな関係をこれからもず~~っと大切にして行きたいと思います。
■昨日27日夕刻、小生は名古屋栄にある名古屋本部で開催されたセミナーに参加して来ました。その帰り、【時習26回3-10】で同窓の手塚T君と会い、一緒に豊橋まで帰って来ました。彼は、現在お母上と二人住まい。 3人のお子さんを東京に残したまま、小生と同じ銀行の岡崎支店で№2をやっています。一身上の都合でご苦労された彼も「最近ようやく落ち着いた」と言っていました。事情をご存知の諸兄、彼に連絡してやって下さい。 きっと喜びますよ。小生が、【時習26回3-7の会】の近況を話したら「大変いいことだね」と逆に励まされてしまいました。
■人間、誰しも「社会人」としての人生が終了したら、「一人間」として神様からお迎えがあるまで確り生きて行かねばなりません。そんなとき、頼りになるのは、「気が置けない仲間たち」・・それが【時習26回3-7の会】の仲間であったら、こんな嬉しいことはありません。
■今日の日経新聞のcolumn「私の履歴書」でダイキン工業会長 井上礼之(のりゆき)氏のcommentが大変印象深ったのでご紹介させて頂きます。今日が同氏の最終回「可能性を信じて」~副題「人は心の持ち方次第~若者へ『行動から道開ける』」~後半の文章のほぼ全文をご紹介致します。
▼京都大学大学院の中西輝政教授は「自由とは『個』や『私』の確立を意味しているが、そもそも『帰属』する対象がなければ『個』も『私』も生まれない」という趣旨の発言をされているが、私も同感だ。共感できる仲間と一緒にいたい、どこかに帰属したいという気持ちがあって初めて本当の自由は生まれる
人間は集団で生きる動物であり、何らかの形で集団への帰属意識を求めている個人主義が確立している欧米でも家庭、地域、カントリークラブ、協会など社会の隅々で帰属意識が大切にされている
▼人事部長のころ、若い部下や他部門の人たちから「会社を辞めたい」と相談されたが、原因のほとんどは仕事の悩みではなく、職場の人間関係だった。人の良いところを見つめ、人と人との間でたくましく行き、成長する人間が増えればよいと願っている。
▼とりわけ若者たちには企業でなくてもいい、自分の居場所と仲間をどこかに見つけて欲しい。そこで夢中になれる対象を発見できれば、いつの日か自分の持ち味と個性を生かして目標と夢に向かって進めると思う。若い人は「夢を持ちたくても持てない」と言うかもしれない。その気持ちもわかるが、自分の可能性を信じて遊びでも何でもいいからまず、行動してみたらどうか。案外そこから道が開ける気がする。 将来を担う若者たちに「人は心の持ち方で変わる」と最後にエールを送りたい。
【後記】■今日、最後にお贈りするのは、【0070】号でもお示しした小林秀雄(1903.4.11生~1983.3.1没)の作品です。参考までに3月1日生まれの有名人は、Frederic Francois Chopin(1810.3.1生)、和辻哲郎(1889.3.1生)、芥川龍之介(1892.3.1生)らがいる。
■今日、お届けする小林秀雄の作品は「西行(抜粋)」です。ご覧下さい・・。ちょっと渋く古臭いかもしれませんが、良い文章だと想います。
▼(前略) 心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫(しぎ)立沢の 秋の夕暮れ (新古今集362) (筆者注:西行)
▼この有名な歌は、当時から有名だったらしく、俊成は「鴫立沢のといへる心、幽玄にすがた及びがたく」という判詞(はんし(注))を遺している。歌のすがたというものに就いて思案を重ねてた俊成の眼には、下二句の姿が鮮やかに映ったのは当然であろうが、どういう人間のどういう発想からこういう歌が生まれたかに注意すれば、この自ら鼓動している様な歌の心臓の在りかは、上三句にあるのが感じられるのであり、其処に作者の心の疼きが隠れている、という風に歌が見えて来るだろう。そして、これは、作者自讃の歌の一つだが、俊成の自讃歌「夕されば 野べの秋風 身にしみて うづらなくなり 深草の里」を挙げれば、生活人の歌と審美家の歌との微妙だが紛れ様のない調べの相違が現れて来るだろう。定家の「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ(新古今集363)」となると、外見はどうあろうとも、もはや西行の詩境とは殆ど関係ない。「新古今集」で、この二つの歌が肩を並べているのを見ると、詩人の傍らで、美食家がああでもないこうでもないと言っている様に見える。寂蓮の歌(筆者注:「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ(新古今集361)」)は挙げるまでもあるまい。三夕(さんせき)の歌なぞと出鱈目を言い習わしたものである。(中略)
▼ 風なびく 富士の煙の 空にきえて 行方も知らぬ 我が思ひかな
▼これも同じ年の行脚のうちに詠まれた歌だ。 彼が、これを、自讃歌の第一に推したという伝説を、僕は信ずる。ここまで歩いて来た事を、彼自身はよく知っていた筈である。「いかにすべき我心」の呪文が、どうして遂にこういう驚くほど平明な純粋な一楽句と化して了(しま)ったかを。この歌が通俗と映る歌人の心は汚れている。一西行の苦しみは純化し、「読人知らず」の調べを奏でる。人々は、幾時(いつ)とはなく、ここに「富士見西行」の絵姿を想い描き、知らず知らずのうちに、めいめいの胸の嘆きを通わせる。西行は遂に自分の思想の行方を見定め得なかった。併(しか)し、彼にしてみれば、それは、自分の肉体の行方ははっきりと見定めた事に他ならなかった。
▼ 願はくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
▼彼は、間もなく、その願いを安らかに遂げた。  (「文學界」昭和十七年十一月号―十二月号) 
▼判詞 歌合(うたあわせ)において、判者が二首の歌の優劣を述べた言葉。(了)

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