« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2007年6月の7件の記事

2007年6月23日 (土)

【時習26回3-7の会 0101】~「横田君からの返信はがきとe-mail【2637の会】参加」

1973blog_3Blog070622■今泉悟です。 お待たせ致しました(・・「なに?お待ちしていない」~これは失礼致しました・・)。(笑) 前【0100】号から丁度一週間ぶりの会報の出状です。
▼今日は、また嬉しいお知らせがあります。 掲題のとおり、横田君から「返信はがき」が到着しました。 そして、mail-addressを教えてくれました。 実は、横田君は、時習26回同窓会名簿の登録住所では、転居先不明で戻って来てしまい、やむを得ず卒業albumにあるご実家宛に再度送信したのです。 これが奏功して、今般、彼から返信はがきを頂戴した次第です。 e-mail-addressと携帯電話を教えて頂きました。 以下をご覧下さい。 添付写真も併せご参照下さい。
 【e-mail-address】 yxxxxxxxjp       【携帯電話番号】   0xx-xxxx-xxxx
▼横田君へ、返信はがき出状、そしてe-mail-address を教えてくれたこと、本当にありがとう。 これで貴君も【2637の会】e-mail版の正式memberです。 今後とも宜しくお願いします。 【2637の会】の会報はe-mailにてご登録のmail-address宛に送信させて頂きます。 ご気軽に返信mail等でご意見頂戴できれば幸甚です。 それから毎度のことですが、幹事の特権で1973年版の貴君のsnap-shotを添付することをご容赦賜り度。 最近はお会いしていないので、「最近版」は残念ながらありません(為念)。 
▼また、【2637の会】は、ブログでも閲覧できるよう掲載していますのでご覧下さい。 とくに【2637の会】のback namberは、ブログ(ここをclickして下さい。 【時習26回3-7の会】のブログに繋がります→ URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog )をご覧下さい。 ブログの右欄外のcalendarやバックナンバーを月別で選択してご覧頂けます。
▼8月11日の同窓会は横田君は「欠席」ということで大変残念ですが、来年以降、ご都合がついたら是非参加して下さい。 お待ちしています。
【幹事comment】▼嬉しいですねぇ・・。 これでe-mail登録者が鉄三先生と小生を含め33名となり、cover率も7割を越えました。(^-^;)/
【後記】■昨日6月22日は二十四節気でいう「夏至」でしたね。 陰暦5月の中。 最近、ようやく梅雨らしいぐずついた日が続いていますが、皆さん、体調は如何ですか。 我々の歳になると、気分は若くても油断は禁物・・。 体調には充分気をつけて参りましょう。 慎重になり過ぎることはありませんが、体を気遣うことは大切です。 健康維持に努めて向暑の候を乗り切りましょう。
■さて、小生の私事ですが・・、
▼株式会社○○□□機構の役員として、小生の職業上の第二の人生が一昨日6月21日(木)から正式にスタート致しました。 当日の総会には、旧【3-9】のK野さんの父君にも社外役員として出席賜りました。 新しい会社の概要等につきましては、追々お話していくつもりです。
■さて、今日のお別れは、最近読んだ瀬戸内寂聴著「寂聴 古寺巡礼」から「三井寺」ご案内します。 では、どうぞ・・
1070430_4▼まだ仏縁に恵まれなかった頃から、なぜか私は三井寺が好きでよく訪れていた。 それはもしかしたら、琵琶湖の見えるこの寺の広々とした、いつでも森閑とした清浄な雰囲気に魅せられていたのかもしれない。(中略)
2070430_3▼その頃、私は三井寺が西国三十三ヶ所の第十四番札所だということも知らなかった。(中略)
▼私が三井寺に惹かれるのは、この寺が琵琶湖を見下ろす位置に隣接しているせいかもしれない。 そして私が琵琶湖にひかれて度々大津を訪3070430_2 4070430 5070430 6070430 れるようになったのは、近江遷都から壬申の乱までの歴史の舞台となった志賀の都の哀史に心がさざなみたつからである。
 志賀を都とした近江朝に心ひかれた源は、
  あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
  紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
という額田王と大海人皇子の相聞歌であった。 少女の頃、女学校の教室で、美しい未亡人の国語教師から、朗々とこの歌を聞かされた時、私の目の中にかげろうのたつ青草の蒲生野が幻に顕(た)ち、その彼方に光るはてしもなくひろがる湖が縹渺と光りながらせり上ってきたのであった。
▼まだ恋を知らぬ少女の私に、その瞬間、恋の甘いエッセンスをのみ下したような不思議な酩酊感があった。(中略)
▼私の小学校の頃は、
「みいでらのかねのねは・・・」
 と、小学校唱歌で、教わって、耳にもなつかしいひびきである。
▼近江八景の三井の晩鐘は、もちろんこの寺の鐘だが、三井寺にはいくつもあってとまどってしまう。
▼有名な三井寺の鐘というのは、金堂の前にある鐘楼の中の鐘のことで、
  七景は 霧にかくれて 三井の鐘
 と詠まれた日本三名鐘の一つである。 現在のは慶長七(1602)年の鋳造だが、姿も美しい。 この鐘の音の生んだ土地の伝説もまたあわれに美しい。(中略)
▼参詣を終えて観月台から見下ろす琵琶湖と大津の風景は、現実の猥雑さをかくして、まだどこか遠い昔につながる夢に似た美しさが光り輝いていた。
  花散りて 又しづかなり 園城寺  鬼貫(おにづら 1661-1738 )
 好きな鬼貫(おにつら)の句が、自然に口にのぼってくる。 目にしみる青葉の三井寺であった。
【筆者comment】▼三井寺は4月30日に訪れましたが、ほんと、新緑が素晴らしい三井寺でありました。 また訪れたい古刹です・・。 次回は石山寺についてお話してみたいと思います。
▼小生の第二の人生startにあたって稚拙な歌を一首・・
  新緑と 薫風を背に いさ行かむ 我が新天地 強き決意で
                                                              悟空
(了)

2007年6月16日 (土)

【時習26回3-7の会 0100】~「石田君・太田君・山田君から【2637の会】同窓会・返信はがきが来ました・・」「当麻寺中之坊庭園と国宝三重塔」

■今泉悟です。 【2637の会】会報の号数も【0100】と、100号となりました。 昨年1月19日に【0000】号を立ち上げ、爾来、一年五ヶ月で100号まで来ました。 【2637の会】のブログについて、現在の使用済容量が6%強ですので、この調子で行っても、あと20年程持ちます。 これからも頑張りますので応援をお願いします。
*
■掲題の件、ご報告致します。 15(金)~16(土)にかけて、石田Y博君、太田君、山田君から【2637の会】同窓会・出欠確認用返信はがきが到着しました。 三人の皆さん返信はがきをありがとうございます。 それによりますと、
石田君3.ギリギリまでわからない1973blog_1 石田君は、1973年版snap-shotも小生が撮影したものがなく、小生のalbumにありませんので卒業albumのものを転載させて頂きました。Blog_2写真を左clickすると写真が拡大します(為念))  
太田君1973_111_10(太田君のsnap-shotも小生のalbumにはいいものがstockされておらず、太田君ゴメンなさい)
と ・ ・ ・
山田君は、今回は残念ながら お二人とも 2.欠席 ということです(残念です・・)。
*
1973_122006_61_11山田君からは、【近況】をcommentして頂いていますので、お伝えします。 
▼山田君へ、昨年のプレ同窓会に参加下さったときにお話してくれた通り、お盆は奥様のご実家に行かれるということでしたね。 同窓会でお会いできないのは残念ですが、「奥様やご家族第一」が家庭円満の根幹です。 来年以降、また参加できる状況になったら気軽に参加して下さい。 
▼それから、山田君の現住所が変りましたので、【2637の会】の皆様、同窓会名簿の登録住所を変更願います。
*
  【新住所】〒xxx-xxxx ○○市○○町○○xx-x 【電話番号】0xxx-xx-xxxx
*
【近況】8月11日~お盆は長野県で毎年過ごすため残念ながら参加できません。
*
▼石田君、太田君、山田君へ、皆さんの1973年版の写真(山田君は2006年版も・・)掲載させて頂く件、幹事の特権にてご容赦賜りたく・・。
▼石田君へ、8月11日までまだ日が沢山ありますので、何とか都合をつけて出席下さい。 朗報をお待ちしています。
*
▼そして、まだ返事を出していない皆さん、同窓会を賑やかに執り行ないたいと思いますので、万障お繰り合わせのうえご参加下されば幸甚です・・ハイ。
*
Album■小生が皆さんにお示ししている、【2637の会】memberのsnap-shotは、ここに添付した卒業アルバム【3年7組】の皆さんの顔写真用として撮影したものですが、小生の他にも分担して撮影してくれたclassmateがいて小生が持っていないsnap-shotはその御仁が所有している筈ですが、それがどなたか不明です。 贔屓目に見てですが・・、今見てもなかなかよくできた卒業アルバム【3-7】だと思いますヨッ。(笑)
*
■さて、今日は、去る6月2~3日に賢人会にて「大和七福神八宝廻り」をした際に、立ち寄った当麻寺中之坊庭園国宝の三重塔の風景をご覧下さい。 中之坊庭園は、「香藕園(こうぐうえん)」とよばれ、池泉回遊式兼観賞式庭園。 吉野の竹林院慈光院と並び、大和三名園に上げられています。 どうぞ、添付写真をご覧下さい。 ブログには写真をより多く掲載しましたのでご高覧下されは幸いです。 添付写真の真ん中の列一行目に写っている小生の後背の二瘤(こぶ)の山が二上山(にじょうざん・または(ふたかみやま))です。 当麻寺日本最古の木造建築物である三重塔が東西両塔現存している(いずれも国宝)寺院です。 なお、東塔は、添付写真でいうと、左の列の2行目(小生が写っている写真の左斜め下)にある紅葉したモミジの上に見える塔です。 そして、西塔は、添付写真の最後(最下段)の2枚です。 東塔・西塔ともに大変風情がありますね、庭園と東西両塔をとくとご覧あれ・・。
*
*
070603_7
070603_8
Photo_28
Photo_29
Photo_30
Photo_31
Photo_32
Photo_36
Photo_37
Photo_38
Photo_39
Photo_40
Photo_41
Photo_42
Photo_43
*
▼ここをクリックして下さい。ブログへ繋がります
                                   以上

2007年6月12日 (火)

【時習26回3-7の会 0099】~「牧野君から「同窓会『出席』表明はがき」が到着しました!」

■今泉悟です。 今日は、皆さんに10日にmailを送信したばかりなので、本来ならばもう少し後に送信する予定でしたが、とっても嬉しいニュースがありましたので、急遽配信を早めさせて頂きました(小生も、6月21日以降は、新会社での勤務がいよいよ始まりますので、現在のように週に2~3回もmailを出状することはまず困難になると思います。残された時間も僅かになって来ましたが、できるうちにドンドン配信しておこうと思います。
■【2637の会】同窓会関連で、早速吉報をご報告させて頂きます。 実は、掲題にあるように、牧野M孝君から8月11日開催の【2637の会】同窓会に参加の返事が来ました。 幸先の良いスタートになりました!!! これで参加予定者は先生を含め12名になりました。
Maila牧野君へ、早速の「返信はがき」そして【出席】の回答をどうもありがとう。 幹事としてこんな嬉しいことはありません。 8月11日の再会を楽しみにしています。 会場の「ブラウンズ(browns1htm(14KB))(←【筆者注】ブログでは割愛しました・・)」の地図も添付しました。 ご覧下さい。 そして、貴君の事前諒解なく、貴君の1973年版と2006年版の写真を添付することをご容赦賜りたく・・。 
1973_82006_4▼因みに、1973年版(モノクロmonochrome)の写真に右側に一緒に映っているのは飯田君、2006年版(カラーcolor)の写真に左側手前に写っているのは井上君です。 添付写真をご覧下さい。 
▼それから、牧野君ゴメンなさい。返信メールについて送信方法の案内が不十分だったようです。 反省します。
▼それでは、ご参考までに、牧野君からの返信はがき【近況】をご紹介します。
▼【近況】メールを見て参加申し込みをする予定でしたが、どのようにメールするのか分からなかったので返事できず、迷惑をかけました。 元気です。
Photo_25■さて、前【0098】号で、塩野七生女史が▼歴史について・・で以下の様に述べていましたが、彼女とよく似た意見を江戸時代の儒学者佐藤一斎(1772-1859)(添付写真ご参照)の著書『言志四録(言志録・言志後録・)言志晩録・言志耊録のなかの一つ『言志後録』の中に見つけましたのでご紹介します。
塩野七生
歴史に学ぶということは、知識の集積に力点を置くのではなく、人間の行為の原因を探ることのほうに、重点を置くべきです。 だから、歴史はまさに人間学の宝庫。
一人の人間が一生涯で経験できることには限りがある、。 そして、現代は過剰なまでに情報が氾濫している。 この現代で、必要な情報を見分けることは難しい。 歴史という長い縦軸をもつことが、自分という器の容量を増やすことにつながると私は思いますよ。
【佐藤一斎】
▼人の一生の履歴は、幼児と老後とを除けば、率(おおむ)ね四五十年間に過ぎず、其の見聞する所は、殆(ほとん)ど一史だにも足らず。 故に宜しく歴代の史書を読むべし。 上下(しょうか)数千年の事迹(じせき)、羅(つら)ねて胸臆(きょうおく)に在らば、亦(また)(かい)たらざらんや。 著眼(ちゃくがん)の処は、最も人情事変の上に在れ。(『言志後録』(四八))
【訳】人間の一生の経歴は、幼少時と老後を除けば、だいたい四、五十年に過ぎない。その見聞する事柄は、ほどんど歴史の一部にも及ばない。 だからこそ、歴史書を読むべきなのだ。 そうすれば、古(いにしえ)から今に至る上下数千年の事跡が、自分の胸の中に羅列されることになって、なんとも愉快なものである。 そして歴史書を読むときには、その年代を追うのではなく、人の心の動きと事物の変化に目をつけるがよい。
 ―― 【渡辺五郎三郎=監修 『佐藤一斎一日一言~「言志四録」を読む~』(致知出版社)
Photo_26【筆者comment】▼添付写真中央の人物が画家としても超一流であった渡辺崋山(1793-1841)作「佐藤一斎像」(文政四(1821)年~重文)である。 添付写真にある椿椿山(1801-1854)作「佐藤一斎七十歳像(天保12年(1841))」は、画家崋山の一番弟子である椿椿山の極めて写実的な佐藤一斎の肖像画である。
■続いて永井政之監修「ふっと心がかるくなる禅の言葉(永岡書店)」から
 一切有為法  いっさいのういのほう
 如夢幻泡影  むげんほうようのごとし
                    『金剛般若経』
▼この世のすべては夢幻(まぼろし)、水泡や影の如くはかないもの・・。
▼一切のものは実体のない仮のすがた(仮相)で無常であるのに、まことのもの(実相)で永遠だと錯覚しているから、とらわれ、執着する心が起こる、すべては夢幻泡影の如しという観念に立つこと― という教えです。(中略)
▼良寛の詩にも「回首(こうべをめぐらす)五十有余年 人間(じんかん)是非一夢中(いちむのうち)」という一節があります。
▼五十余年生きてみたが、人間界で是非や善悪を問うのも夢のうちのこと、人が行う価値判断などにどれほどの意味があろうか・・というのです。
すべては無常の風の中にあります。 しかし、(中略)良寛もその生き方(中略)が虚無的になることなく、夢幻であるからこそ精一杯にその生を生きました。 夢と消え泡と消えても、生ある限り美しい夢を描きましょう
*
■そして、今日最後は、安岡正篤著「活眼活字PHPから・・
▼素というもの 素心規
▼(前略)素心といえば、つまり浮世のいろいろな汚れ、いろいろな巧み、そういったようなものの始まらない純真、自然な心である。(中略)人間の交わりも、いろいろと利害打算で交わるようなのは利交という。 そうでなく、地位だ、名誉だ、利益だ、そんなものを抜きにして、人間の素地・素心で交わる。 これを素交という。 人間は何年になっても、いかなる境地に臨んでも、失うべからざるものはこの素心である。 利害や利権や、年齢や地位、身分など、そういうさまざまな世間の着色の染まない、生地のままの純真な心 素心、これはである。
一、禍が福か、福が禍か、人間の私心で分かるものではない。 長い目で見て、正義を守り、陰徳を積もう(密かに徳をつもう)。(中略)
二、窮困に処するほど快活にしよう。 窮すれば通ずる、また通ぜしめるのが、自然と人生の真理であり教えである。(中略)
三、乱世ほど余裕が大切である。 余裕は心を養うより生ずる。 風雅も却ってこのところに存する。(中略)
四、世俗の文は心を傷めることが少なくない。 良き師友を得て素心を心掛けよう。(中略)
五、世事に忙しい間にも、寸暇を偸(ぬす)んで、書を読み道を学び、心胸を開拓しよう。(中略)
 最後に、我々日本人の腹底になければならぬ、否、必ず内在するものは、次の一事である。
六、我々はこれを燈照燈照と謂(い)っておる。 我々のささやかな一燈は一隅を照らすにすぎぬものであっても、千燈萬燈と遍照すれば、國を照らすことを確信する。
【筆者comment】■安岡氏のいう「素心」「素交を実践出来るのが、classmatesのいいところだと思います。 【2637の会】を「素心」「素交」の実践の場として活用・発展させましょう。(笑)(了)

2007年6月10日 (日)

【時習26回3-7の会 0098】~「『時習26回ゴルフコンペ』開催報告」「塩野七生『日本人と日本人への10の質問』」

■今泉悟です。 今週からは、【2637の会】の皆さんからの『返信はがき』の到着を楽しみにお待ちしています。 皆さん、「出席」に○を付けて【近況】を書いて送って下さいね
m(_ _)m 
*
▼そうしましたら、早速鈴木J司君から応援のmailが到着しました。ありがとう。ご紹介します。
*
From: 鈴木 [mailto:sxxxx]  Sent: Sunday, June 10, 2007 11:39 PM  To: 今泉悟 etc
*
▼2637の会のみなさん 鈴木J司です。私の最近の様子はお知らせ済みなので、取り立てて申し上げることはないのですが全員に返信をクリックしてしまいました。皆さんお元気なようなので何よりです。一週間の正味労働時間が10時間という閑職にあるので、暇はありますが、先立つものにかけるので好きだったゴルフにも行けない日々が続いています。現在の一番の趣味は旅行のつもりですが、暇なようですが、なかなか長期の旅行は出来ないでいる有様です。また、いつごろからかドライブが趣味になり、市内の道路をサーキットに見立てて制限速度以内でぐるぐる回るのがちょっとした気分転換になっています。あと、16年前から多言語で多国の人々と交流するサークルに家族で参加しています。後は今やっているインターネット。この歳になり、酒場で憂さを晴らすほどのつらいこともなければ、ドンちゃん騒ぎするほどの楽しいこともなく、私の周りでは平穏に時が流れています。もうすぐ娘も19歳です。親としては交友関係がちょっと気になりますが、学業とアルバイトに明け暮れるまじめな学生になったので、ちょっと安心です。油断は出来ませんが、まだ子供なので。そんなこんなで大学で教えるわけでもないのに学生時代の復習を暇に任せてやっています。ここのところさぼり気味ですが。これでも、収入は妻や娘に抜かれていません、かろうじて。労働時間は一番少ないですが。志を果たし、故郷に錦を飾る級友も現れるでしょうが、どうか2637の会に出席してください。私の思いが届いていれば。では皆さん、明日、朝からまた、頑張りましょう。Have a good sleep。再見。
*
26070610a_1■ところで、今日6月10日は、「題20回-時習26回ゴルフコンペ」が12人の仲間を集め、額田ゴルフ倶楽部にて挙行されました。 優勝はN末君の連覇です。 グロスも彼一人だけ90を切っての文句なしの優勝でした。 お見事!! この模様は、「時習26回『不老荘』」に掲示しました。 その記事をここでもご披露します。
*
■今日は時習26回ゴルフコンペの20回記念大会が額田ゴルフ倶楽部で挙行されました。
▼スタート時点は、雷雨&霧というBad Conditionでしたが、数hole過ぎた時点で、雨も止み、後半は晴天に迄回復しました。
▼「晴れ男」の小生も、流石に今日こそはJinxが崩れたかと観念しましたが、後半の天候の回復によりまだ「『晴れ男』は健在なり」と確信しました。(笑)
▼優勝は前回優勝者のN君が連覇しました。お見事でした。m(_ _)m
▼次回開催は、11月11日(日)、今日と同じ額田ゴルフ倶楽部を予定とのこと。
▼常任幹事のY君、NNIのN君、宜しく!
▼額田ゴルフ倶楽部は、西コースを回ったのですが、大変広々としていいゴルフ場でした。
▼予算もビジターで16千円内外とお徳感ありましたヨ。
▼ゴルフ会も盛況に続けたいと思いますので、皆さんの積極的なご参加を期待しています。
▼▼▼写真をclickすると拡大します(為念)。
(添付写真をご覧下さい)
*
07060910_1■さて、今日は文藝春秋2007年7月号に掲題「副題」にある「塩野七生『日本人と日本人への10の質問』」という大変面白いessayがありましたのでご紹介します。 副題として、「この国に活力を取り戻すために」と題して『格差社会』『働き方』『教育』『老い』『エリート』『リーダーシップ』『経済』『愛国心』『中国と米国』『歴史』の10の質問に対しての彼女なりの解答です。 ローマ帝国とヴェネツィア共和国という歴史の先例を参考にした彼女の解説は大変説得力があり、現代社会の日本にも確り活用できますね・・。 7つのitemに絞りそのessenceをご紹介します。 ではどうぞ・・。 添付写真をご覧下さい・・。
*
▼格差社会について・・
▲(前略)古今東西の別なく、人間社会があるところすべてに格差は存在したのです。 格差のない社会とういう発想は、幻想にすぎない。(中略)それなのにこの「差」は、戦後六十年近くも問題にされてこなかった。 なぜ?
▲日本社会特有の「緩和剤」ともいうべきものがこの格差を覆ってきたからではないかと思う。(中略)
▲たとえ、大臣でも息子の教師には、「先生」と呼んで敬意を払います。
▲これは、欧米社会では感じることのない、日本特有の文化的な「緩和剤」ではないでしょうか。
▲もし現在の日本人が格差を実感し始めたのならば、この緩和剤が失われたことが最大の原因ではないか。(中略)
▲政治に携わる人々は、所詮は不可能な格差の完全解消よりも、格差が露わにならないような「緩和剤」について配慮されてはどうでしょう。
▼働き方について・・
▲(前略)「失業とは何を意味するのか」を考えあぐねていたとき、英国人作家のケン・フォレットがテレビで発言しているのを偶然耳にしたんですね。 彼はこういったのです。 「失業とは、生活の手段を奪われるだけではない。 その対策ならば、福祉政策でカバーできる。 最大の問題は、仕事を失うことによって、人間が自分に自信を築くチャンスまで奪われてしまうことだ」。(中略)人間の本質をついた一言でした。
Marius1_2▲それで全てが腑に落ちたのです。 平民の権利を守るのが職務の護民官だったグラックス兄弟が、農地改革に積極的だったり、公共事業を拡充したり、そして執政官マリウス(【筆者注】添付写真ご参照) による徴兵制から志願制への軍制改革に至るまでが、この時代のローマが直面していた失業対策だったと考えることができたのです。
Caesar1_1▲その後、カエサル(【筆者注】添付写真ご参照)の時代に、ローマ軍は満期除隊した兵士には土地を与える、一種の退職金制度を始め、
Augustus11_1初代皇帝アウグストゥス(【筆者注】添付写真ご参照)によって正式に法制化されていきます。 結果はどうだったでしょう。 戦勝国による敗戦国への略奪が鎮まっただけでなく、兵士に対して長期雇用に手厚く報いる経済的保障を与えることになりました。 つまり、軍で働くことによって、一度は職を失った者たちのプライドを保つことも可能になったのです。 そして最大の成果は、ローマ社会の安定した成長路線の確立。(中略)
▲日本では、(中略)高度成長期(中略)の大量採用の末のリストラ、こんな連鎖を続けるようでは、企業も責任を問われてしまう。 今後、日本経済力も景気も好転し続けるとは限らない。
▲そこで現実なのは、契約社員と終身雇用社員に分けて雇用するというやり方です。 そして終身雇用社員には、長期雇用を保証する代わりに、給料は抑える。 逆に、契約社員は高い成績を上げれば報酬も高額になるようにすればよい。(中略)
▲いずれにせよ、「上下」ではなくて「併立」になるこの枠組みが機能するようになれば、これまでは一つの会社、一つの業種のなかで沈滞していた労働力が、流動性をもつようになる。 ローマでは人材を活用するために重要視されていた社会全体の流動性が、二千年後の日本でも再現されることになる。(以下略)
*
▼教育について・・
▲(前略)日本の若者には覇気が無い、元気がないと言われています。
▲なかでも若い世代にその傾向が顕著だとすれば、その原因は「子どもの自主性、個性を尊重する教育」という時代の風潮にあったのではないでしょうか。
▲個性重視は結構なことですが、ただしそれも、理(ことわり)を理解できる年頃になってからのことです。 それまでは、問答無用の躾が必要。(中略)善し悪しの判断を、理屈ではなく丸ごと身につけル時期が、子どもには絶対に必要です。(中略)
▲よく教育問題が議論の俎上に載せられたとき、(中略)根っこには家庭教育があるのです。(中略)「ローマの鑑(かがみ)」と謳われたグラックス兄弟の母コルネリアは「子は、母の胎内で育つだけでなく、母親のとりしきる食卓の会話でも育つ」と言っています。
▲こうした幼少期を通過しなかった世代が、おそらく今の若者の多くではないか。 そして彼らの親の世代は、八百万人とも一千万人ともいわれる団塊の世代。 彼らが教育を間違えたからではないか。(中略)世界中で家庭教育を誤ったことの代償を、今の若者たちは払わされているのです。
▲では、この若者たちはどうすればいいのか。 「二十代までは何だってやれる。 だから迷え」と、私なら、こうアドバイスします。 迷うことができるのは、若さの特権です。 ただし、迷うにしても、何でも経験しながら迷うこと。 未知のことでも何でもいいから、引きこもらずに全身で取り込むことです。 失敗しても、まだ若いのだからチャンスはいくらでもあるんですよ。
*
▼老いについて・・
老いるとは、端的に言えば、自分が自信をもってできることを選んでいき、それ以外のことは潔く捨てていく過程なのです。 二十代は何でもできると思うからかえって迷う。 なにしろ何もまだやっていないから、できると思えるんですが、三十代になると、それでも一応は起(た)つ。 でもまだ確定はできない。 それが四十にして惑わずとなるのは、四十歳になってもまだ迷っていてはサマにならないからというだけにすぎません。
▲こんなふうにして人間は、一つ一つ枝葉を切り捨てていく。 だってエネルギー、つまり体力は少しずつ減少していくんですから、必要でないものは切り捨てでもしないかぎりは樹自体が倒れてしまうから。(中略)
他の人の老いまでを考える精神的余裕があるくらいなら、六十歳までの人生で培った自分の個性に磨きをかける時間を送るべきです。 それがボランティアでもいいし、趣味でもいい。 仕事でもかまわない。(中略)老いなんて考えずに、それまで生きてきた自分に自信をもって、やりたいことをやればいいのです。
*
【筆者注】そうです・・塩野さんの仰る通りです。 これに体力増強を加えれば、加齢による肉体的老化はグッと進度が抑制されます。 小生、毎日800~1000回(時間にして30分から50分間)腹筋をやるようになったら、体力がつき、腰痛とは無縁になりました。 『百歳まで現役』を標榜するには丁度良い健康増進術であると確信しています。(^-^;)/
*
▼エリートについて・・
▲(前略)日本に活力がないのは、高齢化のせいではなく、日本のエリートとされる人々の自覚と気概に関わりがあるように私には思えます。(中略)日本の高度成長期は、頂点にきた時期にもその昂ぶりがなかった。(中略)稼いだお金を使って、世界の運命の一翼をこの日本が、そして自分たちが担うんだ、という気概が彼らに感じられなかった。 この、一種の腰が引けた精神状態は、国民の間にまで伝播していったのです。(中略)
▲日本の指導層にないものは何か、と考えたとき、それは「ノーブレス・オブリージュ(・・【筆者注】noblesse oblige(仏):高い地位に伴う道徳的・精神的義務 → マイクロソフト社のビル・ゲイツ氏が巨額の個人資産を寄付したことなどはこれに該当する・・)」の精神ではないかと思う。(中略)
▲ローマのリーダーたちが好んだストア派の哲学が説いたのがこの考え方でした。
▲ヨーロッパでは貴族や騎士階級は、支配階級であると同時に、国民への責務を負っていました。 その最たるものが、武力をもってさえも国民の安全や財産を守ることです。 「体を張って」いるのです。
▲ハンニバルとのたび重なる戦いに負けてばかりいた時代のローマはどう対応したのか、(中略)ローマは我を忘れませんでした。 兵役義務のない十七歳未満の少年や、奴隷や「プロレターリ」と呼ばれていた下層の市民を徴用することはなかった。(中略)その代わり、エリート階級が文字どおり第一線に立ち続けたのです。 ハンニバル一人に、ローマの執政官が十人くらいは討たれてしまったのです。 それくらい、国を守ることに責任を負っていたのです。(中略)
▲では、(中略)日本のエリートたちは、「体を張った」のでしょうか。 彼らは何もせずに、ただ自信を失っただけではないでしょうか。
*
▼愛国心について・・
▲(前略)スポーツを馬鹿にしてはいけません。 こういった個人的体験の積み重ねで、日本人は自然と愛国者になっていくのです。(中略)そもそも政治家は抽象的なことは言わない方がいいですよ。 愛国心教育は政治家の仕事ではないし、教育できるものでもありません。
Cicero1▼それよりも、キケロ(添付写真ご参照)の言葉をもう一度、読み直すべきです。
*
 「人間にとって最高に名誉ある行為は、祖国のために役立つことである」
*
文化でもスポーツでも、役立つことでは同じなのですから。
*
▼歴史について・・
▲私はこれまで、ルネサンス時代のイタリアを書き、ヴェネツィアという海洋国家の歴史を書き、そして『ローマ人の物語』では一千年の古代ローマを書きました。
▲この間、歴史に親しむことの必要性を痛感したことはいうまでもありません。(中略)
▲私はよく、二つの座標軸で物事を考えます。 現在の状況を横軸にとり、縦軸に歴史をとる。 この二つの軸を前後左右に自在に動かすことで、現在の状況を過去の歴史に照らし合わせながら考えることができるのです。(中略)
▲(中略)日本が世界史のなかにプレイヤーとして登場するのは、日露戦争になってから。 世界史の中での経験不足という点ならば、アメリカに似た存在です。
だからこそ、世界史を学び、歴史という縦軸を長くとることで、現在の出来事についてどう考えればいいのかも、適切に判断を下せるようになるのではないか。
「歴史は繰り返す」といいますが、これは半分正しく、半分正しくない。 同じ事象が繰り返すわけではない。 ただし、人々のその事象への対応の仕方ならば繰り返す。 石油ショックとトイレット・ペーパーが、古代になるとエジプトでの政情不安とローマ市場での小麦の値の高騰、という具合に。 繰り返すのは「不安に駆られた大衆」だったのですから。
歴史に学ぶということは、知識の集積に力点を置くのではなく、人間の行為の原因を探ることのほうに、重点を置くべきです。 だから、歴史はまさに人間学の宝庫。(中略)
▲では、どうやって歴史を学べばよいのか、とよく聞かれます。 大事なのは「歴史のif」を持つことです。
▲よく「歴史にif」はご法度だといわれますが、それは歴史学者の話です。(中略)「もし信長が本能寺の変で殺されずに、あと二十年長生きしていたら・・」(中略)こういう問いを設定して、自分の頭で考える訓練をするのです。 そのためにも、基本的な歴史の骨格づくりだけは学校教育でしなければなりません。 その上で、「歴史のif」を、頭の体操と考えてやればよい。
「ifの活用」で想像力をもって歴史を考えることが、ひいては現代社会を考える上での指針になるとさえ思います。
「イラク戦争でアメリカはフセイン逮捕には成功したものの戦況は泥沼化した。 こんなとき、カエサルならば、どういう戦略を立てただろうか?」――第一、こういった問いを考えること自体が楽しいではありませんか。
一人の人間が一生涯で経験できることには限りがある。 そして、現代は過剰なまでに情報が氾濫している。 この現代で、必要な情報を見分けることは難しい。 歴史という長い縦軸をもつことが、自分という器の容量を増やすことにつながると私は思いますよ。
*
【筆者注】塩野七生女史の、この卓見・・、大変勉強になりました。 最後の彼女の「一人の人間が・・」の言葉が、ズシリと重く小生の心に響きました。(了)

2007年6月 8日 (金)

【時習26回3-7の会 0097】~「2007年【時習26回3-7の会同窓会】開催のご案内状況を出状しました・・」「『芒種』の時節」

■今泉悟です。 掲題の通り、本日今夏8月11日(土)18時より、豊橋市松葉町の「ブラウンズ」におきまして、【時習26回3-7の会】同窓会を開催致します。

本日、【2637の会】のmemberの皆さん宛に、出席表明して下さっている市川・伊東・井上・金子(哲久)・菰田・白井・鈴木(淳司)・彦坂・峯田(五十音順・敬称略)の9名の各氏には【案内状】を、そして、既に欠席を表明されている(住所不明で連絡がつかない井沢さんを含む)4名(井沢・夏目・牧原(金子)・守田(五十音順・敬称略))を除く31名の皆さんには、出席確認用の【案内状 兼 出席回答用】の往復はがきを出状させて頂きました。 先程、豊橋郵便局のポストに投函して来ましたので、早い人で明日には【案内状(または兼回答用)】はがきがお手許に届くと思います。
060812060812_1060812_2会場の「ブラウンズ」の地図は、添付の「Yahoo!地図情報 - ボレロ吾妻家「yahoo.htm」をダウンロード ・ブラウンズhtm」をご覧下さい。 ブラウンズの写真も添付しました。 これから開催日まで折にふれ会場の地図はお示ししていく予定です。 また、案内状送付先一覧及び同窓会の【案内状(兼回答用)】の原稿をご参考までに添付して置きました。
【筆者注】■「案内状送付先一覧」は、ブログでは割愛させて頂きました。
26372007070608_1
▼自称、万年幹事として、一人でも多くの【2637の会】の皆さんのご参加を心よりお待ちしております。m(_ _)m
*
Photo_20Photo_21Photo_22【後記】■季節の移ろいは早いもので一昨日はもう二十四節気でいう芒種を迎えました。 芒種とは、稲や麦など穂の出る穀物の種のことをいう。 種まきの時期で農家は田植えに追われる。 拙宅でも夏の訪れを告げる、「紫陽花」や「南天」の花が咲き出しました。 「南天の花」は、予想以上に沢山咲きました。 今年の冬は真っ赤な実をきっと撓(たわわ)につけてくれるでしょう。 今から楽しみです。 添付写真をご覧下さい。 
▼ここで、「紫陽花」と「南天の花」に因んだ小生の稚拙な句を・・。
  あじさいの 花鮮(あざ)やかに 梅雨(つゆ)は来ぬ  悟空
  南天花(なんてんか) 白き姿で を呼ぶ  悟空
                         ・・・ お粗末でした ・・・
▼ここをclickして下さい。【2637の会】のブログに繋がります。
(了)(笑)

 ↓↓▼▼▼↓↓

 URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog   

 

2007年6月 4日 (月)

【時習26回3-7の会 0096】~「中山君からのmail」「信貴山『朝護孫子寺』の思い出」「新緑の高取城址の風景(2年前の晩秋の高取城址と比較して・・)」

■今泉悟です。 今日は、タイ国在住の中山君からの【近況】報告です。 classmateからの便りがなくなり困ったときにこのようにちゃんと便りをくれる【2637の会】のmember・・。 本当に素晴らしい仲間ばかりで、万年幹事の小生、大袈裟ではなく、本当に涙が出るほど嬉しいです。 中山君、ありがとう。 今回の中山君をはじめここ何ヶ月間mailをくれたclassmatesの皆さん、衷心より厚くお礼申し上げます。 m(_ _)m
【筆者注】各写真の上にカーソル(cursor)を当て左クリック(click)すると、写真が拡大します。
1973_72007▼それでは、早速、中山君(【筆者注】中山君の写真は、左側が1973年版、右側が2007年版です・・)からの写真入りmailをご紹介致します。 添付写真を参照(「2007 0602出家」「image088」「同086」「同084」)しつつ、ご高覧下さい。 では、中山君どうぞ・・。
From: Yxxx Nakayama @BKK [mailto:nxxxx]  Sent: Sunday, June 03, 2007 12:13 AM To: xxxx
Subject: Re: 【時習26回3-7の回 0095】~「守田君からのmail」「中原中也(後編)」「東郷平八郎」
中山です。最近チョッとしたことがあったので、報告します
2007_06020002Image088Image086Image084▼会社の人が出家をするということで、その出家式に呼ばれました。 タイ人男性は二十歳になると1回は出家をします。 (タイ人の出家については、私の拙い知識よりもネットなどで調べてもらうのが良いと思います)
▼今回出家したのは、会社の人とその親族3人です。期間は3週間。 突然言い出すので、仕事が困るじゃないかと言ったら、いつでも携帯に電話しても良いという答えで、思わず怒りが萎んでしまいました。 (タイ人と話していると予期せぬ答えがよくあります)
▼さて招待状ですが、何が書いてあるのかさっぱり分かりませんが、上に4人の名前があります。 それから時刻らしき文字もあります(@:00のようなもの)。 通訳に聞いたら、初日は皆が集まってパーティーをやり、2日目は何やら儀式があるようなことを言っていました。
▼私が行ったのは初日です。タイ人にとって出家は非常に大切な行事ということで、少々厳かな気持ちで行きました。会場入り口に出家した4人がいました。 (写真は帰りに撮ったので、皆バラバラですが、最初はきちんと並んでました) 4人とも剃髪し、眉毛も剃り、白い衣装をまとい、頭には白い粉を付けていました。 2日前まで会社で見た姿と違い、正直なところ薄暮の中で薄気味悪い姿で、益々厳かな気持ちになりました。
ところが、数歩足を進めたところで、野外ステージを見てびっくり。 いつものパーティーと同じです。当日は雨が降っていたので、皆まだテーブルには着いていませんが、ステージの上ではいつもと同じように、女性が歌っていました。
▼そうしている内に、主催者(これも会社の人)が私を見つけて、雨も降っていたので家の中に案内してくれました。 親族でしょうか、友人でしょうか。車座になって酒を呑んでいました。 私も少しお酒をもらい、暫くして帰りました。ちなみに野外ステージはこの主催者の家の敷地内です。意外と金持ちでした。 それから、この出家式には500人以上が出席したそうです。
出家式も結婚式もニューイヤーパーティーも、タイのイベントは全て同じように思えて仕方ありません。
▼8月11日の【2637の会】同窓会の出欠確認を近日中に出状したいと思います。 まだ出欠表明をなさっていいない方々には『往復葉書』を、既に「出席」表明を下さっている10名の方々にはご案内状の『葉書』を出状する予定です。 出状の際には、また皆さんにmailでご連絡させて頂きます。
070603_4051204_3【後記】■今日の締め括りは、『新緑の諸寺・城址の風景・・』をお贈りします・・。 大変良かったですよ。 小生、6月2~3日、例の「賢人会」のmember(谷山君【旧3-3】・中嶋君【旧3-2】)と大和七福神・八宝廻りと、大和郡山城址と高取城址を見てきました。 詳細は、また追ってご報告させて頂きます。 
070603_2051204_1▼今日は第一弾として、『高取城址の風景』を、一昨年12月4日に観た晩秋の同城址の杠葉の絶景と対比してお贈りします。
070603_3051204_2 高取城址の杠葉は、小生の人生の中でも最も素晴らしいものでしたので、今回「『新緑』の高取城址」も見てみようということで企画しましたが、期待に違わぬ美しい風景でした・・。
Cimg1638_2
Cimg1639_1
Cimg1641_2
▼その前に・・、一泊した真言密教寺院、信貴山朝護孫子寺の「宿坊」千手院での楽しかった思い出を一つご報告致します・・。 
070603▼「宿坊」での夕食の時でした。 「宿坊」の当日の宿泊者は、我々「賢人会」の谷山・中嶋・今泉のおじさん達三人組。 某大手旅行会社社員の瀬尾君という33歳の青年。 そして、今回、知り合ったうら若き女性の皆さん4名(宿坊入口には谷山君・瀬尾君の他に浅田さんの名前が見えます・・)の全員で8名でした。 
▼夕食がご覧(添付写真ご参照)のように同じ部屋で、我々三人のおじさん達と、瀬尾君の男性4人組と、女性4人がお膳を前にしての「ご対面」形式の食事・・。 
Photo_18Photo_19▼彼女たちは、神戸の大学時代の同級生OGのgroupで年齢は二十△歳。 当寺への参詣は、お寺(朝護孫子寺)での修行体験が目的の小旅行だそうで、小生達が宿に到着したときには、もう『座禅』を済ませ、翌日は『写経』をする・・、とのことでした。 若いのに大変礼儀正しく、殊勝な心掛けのいい娘(こ)たちでした・・。
070603group_1070603group_2▼予想外の展開に、小生、年甲斐もなく少し緊張しました。 ・・でも、とっても楽しいひとときでした・・。(笑)
(了)
  *  *  *

2007年6月 1日 (金)

【時習26回3-7の会 0095】~「守田君からのmail」「中原中也(後篇)」「東郷平八郎」

■今泉悟です。 昨日、守田君からmailが届きました。 守田君、返信mailをありがとう。
▼守田君へ、8月11日の同窓会欠席とのこと・・、残念です。 が、 来年もあります。 その時は是非出席して下さい。
1973_62005110626golf_compe▼それから、貴君の1973年版と2005年版(2005年11月06日開催の「時習26回ゴルフコンペ」懇親会での1コマ)の写真掲載の件、万年幹事の特権にて事前諒解なく執行させて頂きますことをご容赦賜り度。
*
▼From: 守田 T洋 [mailto:t-mxxxx]  Sent: Thursday, May 31, 2007 11:55 AM To: 今泉悟
RE ( 6月10日の時習26回 )ゴルフ会へは偶々都合悪く出られません、残念です。
8/11の件は以前メールにてご連絡させて頂きました通りです。 申し訳有りません。
:*(

******************************************
守田 T洋  (
t-mxxxx
******************************************

*
■小生、今朝、銀行からの電話で、正式に出向辞令を頂戴しました。 赴任先を漸くご報告できます。 
▼実は、三日前の5月29日に当該会社本社で開催された決算役員会に行ってました。 その会社とは、豊橋駅前にある株式会社総○○○○○です。 正式就任は今月21日開催予定の同社株主総会においてです。 なので、まだ半月余り休みです・・。
*
■さて今日は、前【0094】号でお約束した通り、「中原中也(後篇)」をお贈りします。
Photo_30▼まずは、お詫びと訂正を・・。 全【0094】号で「Xへの手紙」の「「X」を中原中也とすると・・」と申し上げましたが、改めて調べてみますと、「X」は河上徹太郎( 1902-1980 (添付写真ご参照))である由。 ご容赦賜りたく。
*
中原中也の作品が今日評価されているのは、小林秀雄の尽力に負うところが大きい、と小生も思います。 以下、小林が中原について書いた文章のessenceを幾つかご紹介して行きます。
*
昭和9(1934)年8月『文學界』 中原中也の「骨」
「紀元」六月号に載っていた中原中也の詩、近頃感服した詩であった。 友達に聞いたが読んでいた人が一人もなかったのでここにうつして置こうと思う。
*
 「『骨』 //ホラホラ、これが僕の骨だ、/生きていた時の苦労にみちた/あのけがらわしい肉を破って、/しらじらと雨に洗われ、/ヌックと出た、骨の尖(さき)*/ それは光沢もない、/ただいたずらにしらじらと、/雨を吸収する、/風に吹かれる、/幾分空を反映する。/*(中略)*/故郷(ふるさと)の小川のへりに、/半ばは枯れた草に立って/見ているのは、――僕?/恰度(ちょうど)立札ほどの高さに、/骨はしらじらととんがっている。
*
  こういう詩は古いという人もあるかもしれないが、僕は中原君のいままでの仕事、そこでは所謂新しい詩の技法というものが非常な才能をもって氾濫していた、そのことを知っているので古いとは思わない。(以下略)
*
▼昭和10(1935)年1月『文學界』 中原中也の「山羊の歌」
中原中也の詩集が、こんど文圃堂から出版されることに決まった。 なにか広告文めいたものでも書けたら書けと彼が言った。 言われなくても喜んで推薦の辞を書くのである。
中原はずい分ふるくからの友達で、廿歳前から彼の真似もしないいい詩を書いていたので、もういいかげん詩集も出ていて、有名になっていていい男なのだが、根が怠け者で人づき合いが並みはずれて不器用且つ不気味であったが為に、やっと今日その処女詩集が出るという始末である。 やれやれと思って僕は大変嬉しい。
【筆者注】・・と、辛口の批評が真骨頂の小林が、中也にはすごく甘い。 まさに中也の応援団長って感じである・・。 さらに小林の中也賞賛(いや絶賛と言ってもいい)は続く・・。
彼の詩は見事である、というよりも彼の詩心は見事である。 現代のように言葉が混乱した時に時代の感覚から逃亡せず純粋な詩心を失わぬという事は至難な事だ。 中原はそれをやっている詩人だ、努めてやっているというより、そうしなければ生きて行けない様に生れついたのでそうやっている。 稀有な光景だと思っている。(中略)
ともあれ中原の詩は傷ついた抒情精神というものを大胆率直に歌っているという点で稀有なものである。    
*
 「『汚れちまった悲しみに・・・』 //汚れちまった悲しみに/今日も小雪の降りかかる/汚れちまった悲しみに/今日も風さえ吹きすぎる/(以下略)
*
中原の詩はいつもこういう場所から歌われている。 彼はどこにも逃げない、理智にも、心理にも、感覚にも。 逃げられなく生れついた苦しみがそのまま歌になっている。 語法は乱れていて、屡々(しばしば)ぎこちない。 併し影像(えいぞう)は飽くまでも詩的である、又影像は屡々不純だが飽くまでも生活的である。 僕はそういう詩を好むのだ。 彼には殆んど審美的な何かが欠けているのではないかと思われるくらい、彼の詩は生ま生ましい生活感情にあふれている。(中略)彼は言葉の秩序を全く軽蔑しながら、その表現は愛情或は悔恨そのものが元来精妙であるが如き精妙さに達している点、僕は驚嘆している。
まあこんな事をいくら書いたって実物を読まぬ人には通じようがない。 嘘だと思ったら詩集を買って読んでごらん。 彼が当代稀有の詩人である事がわかるだろう。
【筆者注】・・とまぁ、こんな具合である・・。 小林秀雄の作品をもう一つご紹介します。
▼昭和24(1949)年8月『文藝』 中原中也の思い出
▽(前略)大学時代、初めて中原と会った当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。 尤も、誰も、青年期の心に堪えた経験は、後になってからそんな風に思い出し度がるものだ。 中原と会って間もなく、私は彼の情人(【筆者注】長谷川泰子のこと)に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によっても協力する)、奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。 この忌わしい出来事は、私と中原の間を目茶々々にした。 言うまでもなく、中原に対する思い出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思い出という創作も信ずる気にはなれない。 驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。 ただ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜(くや)しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。(中略)
▽中原の心の中には、実に深い哀しみがあって、それは彼自身の手にも余るものであったと私は思っている。 彼の驚くべき詩人たる天資も、これを手なずけるに足りなかった。 彼はそれを「三つの時に見た、稚厠(おかわ)の浅瀬を動く蛔虫(むし)」と言ってみたり、「十二の冬に見た港の汽笛の湯気」と言ってみたり、果ては、「ホラホラ、これが僕の骨だ」と突き付けてみたりしたが駄目だった。 言いようのない悲しみが果しなくあった。 私はそんな風に思う。(中略)
▽彼の詩は、彼の生活に密着していた。 痛ましい程。 笑おうとして彼の笑いが歪んだそのままの形で、歌おうとして詩は歪んだ。 これは詩人が創り出した調和ではない。 中原は、言わば人生に衝突するように、詩にも衝突した。(中略)
▼彼も亦(また)叙事(【筆者注】事実をありのままにのべること)性の欠如という近代詩人の毒を充分に呑んでいた。 彼の誠実が、彼を疲労させ、憔悴させる。 彼は悲し気に放心の歌を歌う。 川原が見える、蝶々が見える。 だが、中原は首をふる。 いや、いや、これは「一つのメルヘン」だと。 私には、彼の最も美しい遺品に思われるのだが。
(【筆者注】小林が以下に紹介した詩は「在りし日の歌」から『一つのメルヘン』全文である)
*
  秋の夜は、はるかの彼方に
  小石ばかりの、河原があって、
  それに陽(ひ)は、さらさらと、
  さらさらと射(さ)しているのでありました。
*
  陽といっても、まるで硅石(けいせき)か何かのようで、
  非常な固体の粉末のようで、
  さればこそ、さらさらと
  かすかな音を立ててもいるのでした
*
  さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
  淡い、それでいてくっきりとした
  影を落としているのでした。
*
  やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
  今迄流れてもいなかった川床に、水は
  さらさらと、さらさらと流れているのでありました・・・・
*
▼小生は、前【0095】号で、三好達治著「詩を読む人のために」から「『数人の詩人について』~『中原中也』」をご紹介することをお約束しましたが、中原の最も近しい友小林秀雄の上記のcommentには、流石の三好達治の解説も霞んでしまうと思うので取り止めます。 変わりに彼の遺作詩集『在りし日の歌』から「後記」の最後の行(くだり)をご紹介します。 彼は「後記」を書いた一ヵ月後の10月22日結核性脳膜炎で亡くなった。享年30歳。 ダダイスト『中原中也』・・皆さんはどのように感じられましたか・・。
*
▼私(【筆者注】=中原中也は今、此の詩集の原稿を纏め、友人小林秀雄に託し、東京十三年間の生活に別れて、郷里に引籠るのである。 別に新しい計画があるのでもないが、いよいよ詩生活に沈潜しようと思つている。 扨(さて)、此の後どうなることか・・・それを思へば茫洋(【筆者注】果てしなく広く、目当てのつかないさま)とする。 さらば東京! さらば青春!〔1937.9.23〕
*
*
【後記】■今日、6月1日は、歴史上有名な偉人3人の命日です。 徳川 家康 (1616年6月1日元和2年4月17日)、杉田 玄白 (1817年6月1日文化4年4月17日)、ヘレン=ケラー (Helen Adams Keller 1968年6月1日)です。 
Photo_16Photo_29Zflag1■しかし今日は、一昨日5月30日が命日の偉人・・日露戦争「日本海会戦」の提督・・東郷 平八郎(弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9(1934)年5月30日)をご紹介したい。 因みにさらに3日前の今週初5月27日は、1905年「皇国の興廃、此の一戦に在り各員一層奮励努力せよ」の旗旒信号(黄・黒・赤・青からなる『Z旗』(添付写真ご参照))で有名な「日本海海戦」で日本が勝利した日であり、戦前は「海軍記念日」として休日であった。 添付写真は東郷の英国留学時代と晩年の写真です。 ご覧の通り若い頃の東郷は映画俳優のような美男子でしたネ・・。
【筆者注】「Z旗」の「Z」はアルファベットの最後の文字で「もう、あとがない」という意味に使われた。 「皇国の・・」の名文は、有名な秋山真之参謀(中佐)が起草。 これも余談だが、井上成美が一等大将と評価した加藤友三郎は、この日本海海戦で連合艦隊参謀長を務め、東郷とともに戦艦三笠にいた。 東郷・加藤・秋山の3人は、安全な司令塔に入らずに交戦中も艦橋から一歩も動かなかったという。
*
【運も実力のうち・・・???(~◆「運」を切り開く「縁(えにし)」◆東郷と山本権兵衛(嘉永5年10月15日(1852年11月26日) - 昭和8年(1933年)12月8日)第16代・22代内閣総理大臣
*
▼【余談:東郷平八郎山本権兵衛】東郷にとって山本権兵衛は同郷の後輩にあたる。 (中略)山本は、軍事官僚として軍政に辣腕をふるい、1898(明治31)年の第二次山県有朋内閣時代から海軍大臣を務めた。 東郷が中尉、山本が少尉で「扶桑」に乗り込んでいた1878(明治11=【筆者注】西南戦争の翌)年当時、ふたりは一軒の家を共同で借りたほどの仲だった。 東郷の新婚家庭にも山本は再三押しかけ、深夜まで酒を酌み交わしていたという。 傲岸不遜な山本だったが、東郷には心を許し兄とも慕っていた。 また、海軍にリストラの嵐が吹いた1893(明治26)年春、整理候補名簿案には長期療養でブランクのできた東郷の名もあったが、「この男は様子をみましょう」と当時海軍省官房主事だった山本が名簿から外したという逸話も残っている。
*
2▼【山本権兵衛(添付写真ご参照)の判断力『連合艦隊司令長官に東郷が抜擢された理由』】・・◆日露開戦を控えて山本権兵衛(ごんべえ【筆者注】山本はこの読み方が嫌いで、「ごんのひょうえ」と称した)海軍大臣が人事において大きな賭けに出た。 日本艦隊を戦時対応に編成替えし、第一艦隊長官兼務の連合艦隊司令長官に、当時舞鶴鎮守府長官だった東郷平八郎中将を抜擢したのである。(中略)驚きの声は明治天皇にも伝わり、天皇は山本を呼び出してその理由を質したが、それに対し山本東郷は運のよい男ですからと答えたという逸話が残っている。 実は山本は、東郷の隠れた実力を3つのポイントから見抜いていた。
*
 第一は、日清戦争の緒戦、「浪速」艦長として、清の兵や武器弾薬を積載した英国商船に遭遇した折、国際法に則り交渉、警告の上これを砲撃し撃沈したが、その冷静かつ果断な指揮ぶりから、暴走しない意思の強い人物であること。
 第二は、国際情勢判断と対ロシア海戦作戦方針について、各鎮守府や艦隊の司令官に諮問した際、東郷の答申は客観的、具体的、合理的、精神論や抽象論が多かった中で群を抜いていたこと。
 第三は、いよいよ日露開戦が切迫した旨を各地の長官に副官を派遣して伝えたところ、山本が予想したとおり、多くはアレコレ繰り返し質問してきたのに対し、独り東郷は一切質問せず心得ました一言だけ答えたこと。
*
 これにより、山本権兵衛は、東郷こそ真の勝負師として、私心を交えず本部の指令を忠実かつ確実に実現する最適任者であることを確信したのである。 そして東郷は、山本のの期待に十二分に応えた。 それに山本が天皇に奏上したとおり、東郷は素晴らしい強運をも味方にしたのだ。
*
Photo_31【筆者comment】▼こういう山本の言動・・。 東郷の能力もさることながら人徳というか・・、東郷と山本の絆というか・・、人の一生は、他人が決めることが沢山あるが、運命的なものを感じざるを得ない。 山本権兵衛は確かに情に流される柔な人間ではない。 山本をして日本の命運を東郷に託さしめたものはいったい何か? 東郷の実力だけか・・、いや、東郷はこういう星の下に生れた人なのであろう・・。 太平洋戦争で、マッカーサーとともに日本攻略の責任者(=米国海軍太平洋艦隊司令長官)であった米国海軍の二ミッツ提督(添付写真ご参照)は、若き日、日露戦争で勝利した後の東郷に接し感動し、「真の提督(admiral)」と生涯に亘り尊敬していたという。
人と人との不思議な「縁」・・。 山本と東郷の強い絆、そして山本の冷徹な洞察力が結実して「日本海海戦」は勝利した・・とでもいうべきか。 過日ご紹介した最後の海軍大将井上成美が山本権兵衛を一等大将として高く評価したのは、東郷を連合艦隊司令長官に選んだ、山本のその眼力の確かさとその実行力が大きな理由の一つであろう。
▼小生、「人と人との不思議な「縁」」を身にしみて沁み沁みと感じる・・、そして・・、
『【時習26回3-7の会】の皆さんとの絆』もずっと大切にして行きたいと思う・・今日この頃です・・。(了)

« 2007年5月 | トップページ | 2007年7月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト

最近の記事

05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

  • Dsc_0217
    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

  • Cimg1428
    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

最近のコメント

無料ブログはココログ