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2007年7月の11件の記事

2007年7月30日 (月)

【時習26回3-7の会 0112】~「犬飼さんからの返信mail」「鉄三先生の同窓会『出席』最終確認」「イビチャ・オシム著『日本人よ!』」

■今泉悟です。 大変暑い日が続いていますが、皆さんご健勝でいらっしゃいますか? 今回は、同窓会関連のみのご案内です。
▼8月11日の同窓会まで、あと12日となりました。
■同窓会出欠確認「返信はがき」が犬飼(石田)さんから27日に届きました。
▼犬飼さんへ、「返信はがき」をありがとう。 今年は欠席とのことで大変残念ですが、次回の参加を楽しみにしています。
Blog_81973_252006_9▼【2637の会】classmatesの今昔をご覧頂くべく、1973年版と最近(2006年)版の添付を万年幹事の特権として、今回も犬飼(石田)さんもご紹介させて頂きます。 犬飼さん、ご容赦を・・。
▼写真掲載の件は、「今泉のヤツ、『幹事の特権』と言って個人の肖像権を侵害してるぞ!」と言うご意見が飛んで来そうな・・、忸怩たる思いも正直感じますが、「明るく自然に【2637の会】memberの『過去と現在』を受け止め、classmatesの皆さんに知って貰おう」と始めました。 他意はありません。 折角の機会ですので、皆さんのご理解とご協力を是非ともお願いします。
▼でも、もし、写真等の掲載を「やめて欲しい」場合はご気軽に連絡下さい。 その際は、個人の意思は尊重致し掲載は差し控えますので・・。 
■それから、今日正午頃、鈴木鉄三先生に電話を入れ、8月11日【同窓会】出席ご諒解の最終確認をさせて頂きました。
 先生曰く、「皆さんとの再会を楽しみにしています。」とのことでした。(^-^)/
060812_3060812_8060812_9■【時習26回3-7の会】同窓会
▼開催日時 平成19年8月11日(土)18時00分~20時00分
▼開催場所 ブラウンズ(愛知県豊橋市松葉町3丁目70 0532-54-8255 )
▼会費 6,000円
* 
▼同窓会二次会
▼開催日時 平成19年8月11日(土)20時30分~
▼開催場所 マイアミ(愛知県豊橋市松葉町2丁目36 0532-55-5489 )
■そして、まだお返事を頂戴していない皆さん、【2637の会】同窓会出欠のお返事をお待ちしています。 まだ、間に合いますので・・。 出欠状況表も添付しましたので、ご参照下さい。
【後記】■今日(日付が変わり7月30日)の締め括りは、一昨日サッカー・アジアカップの3位決定戦で日本は、韓国にPK戦で惜敗しました。 残念でしたね。 日本は気迫で韓国負けていました・・。 
Photo_54▼ところで、オシム監督著「日本人よ!を、日経新聞のコラム「春秋」で知り、最近読み出しました(正確には、今、読み進めています)。 その中から、印象的なところをご紹介します。
■第一章 日本人とサッカー 
【巻頭】「今の日本人が勤勉であるかどうかは疑問だ。 現在、日本人は非常に高い生活水準を保っているが、それは勤勉だった先代が作ってきた生活水準を享受しているだけなのではないか
▼「日本人は勤勉だと言われるが、サッカーにおいても勤勉と言えるか?」との質問に対して、彼は「十から十二時間働くことが勤勉であるという意味ではない。十二時間オフィスに座っているより、一時間だけ勤勉に働いていた方が良いって時もある」とも語った。
■第二章 代表が意味するもの
【日本人には「いつ、どうやって反応するか」が欠けている】
▼必要なのは、選手達が「いつ」「何を」「どこで」やるかを自分で意識する姿勢を成長させていくことである。
▼とりわけ日本人選手には「いつ、どうやって反応するか」が欠けている。 なぜなら、長期にわたってほとんど自分の頭で考えることなく、むしろ監督の頭に頼って育ってきたからだ。 今、少しでも自分の頭で考えるという自由を手にすると、彼らは何をやればいいのかがわかっていないようなところが頻繁に見受けられる。 もしくは、いま何をやればいいのか分からず、「誰かに聞かねば」となるシーンすら見られる。 それではサッカーを続けることができない。
▼私はトルシエとジーコに敬意を払っている。 彼らは素晴らしい。 問題なのは選手個々の責任感だ。
▼もちろん、自由と規律の両方を完璧に兼ね備えたチームが理想だが、実際にはそんなチームを作るのは難しいし、まだ誰も作り上げてはいない。 だから、理想に近づいた者がより優れていると言えるだろう。
▼だがその一方で、理想に最も近づいたチームに対しても、他のチームは勝てる可能性を見つけようとし、何かしら欠点を見つけ、機能不全にする何かを見つけようとするものである。 要するに、理想に近づいたチームであっても負けてしまうのだ。
▼バルセロナは一時、理想的なチーム、理想的に作り上げられたチームとして賞賛された。 しかし、もう今ではそのように捉えられていない。 彼らの弱点がどこかを握られてしまったのだ。 誰にだって弱点はある。 つまり、理想は存在しないというわけだ。 サッカーにおいて完璧なものへ近づくことは難しいのである。
▼私のような年老いた者は、すべてに完璧を求めようとする。 しかしながら、それは無理なことだと、私自身も分かっている。 けれども、目標とはそういうものなのだ。 できるだけより良いものを作ろうと突き進むのが人生である。 もし私にできないのならば、誰か別の人間がやるだろう。 より良いもの、より理想的なものを常に求めるのが人間だからだ。 サッカーにおいても同じことが言えるだろう。
▼そして、常に後を付きまとう者が存在する。 理想に向かって進んでいる時にも、それを壊そうとする者が存在するのだ。 それは、すべて破壊しようとする対戦相手だ。 組み立てるよりも、壊すことの方がずっと簡単だからだが、それはしばしばシシュフォス(ギリシア神話で、コリントの王。ゼウスに背き、死神を騙したため、死後絶えず転落する大岩を永久に山頂に押し上げるという罰を受ける)の仕事となる。 成功したと思った途端に壊されてしまう。 最も単純なやり方で誰かが壊してしまうのだ。
【筆者comment】■サッカーは人生の縮図とも言える。 オシム監督の言葉は、豊富な経験を元に、リーダーとしての識見と洞察力に裏打ちされた含蓄あるものと思料する。(了)

2007年7月26日 (木)

【時習26回3-7の会 0111】~「田中君・山中(高木)さんからの返信はがきと山中(高木)さんの同窓会『出席表明』」「夏の甲子園愛知県予選~時習館四回戦で無念の敗退」「7月24日は『河童忌』」

■今泉悟です。 皆さん、今日は大変嬉しいお知らせです。 田中君、そして山中(高木)さんから8月11日開催の【2637の会】同窓会への出欠確認の「返信はがき」が届きました。 
▼そして、田中君山中(高木)さん、ありがとう! 以下に1973年版田中君のsnap-shotと、田中君・山中(高木)さんからの「返信はがき」を添付しました。 ご高覧下さい。 

Blog_7▼そして、山中(高木)さんから8月11日の【2637の会】同窓会への『出席表明』を頂戴しました。 山中(高木)さん、ありがとう!!幹事として大変嬉しいです。 そして、昨年に引き続き同窓会で再会できることを楽しみにしております。
▼これで、同窓会参加予定者は鉄三先生を含め15名になり、当初目標としていました人数が集まりました。 幹事として大変嬉しいです。(^-^)/

▼それでは、お二人の返信はがきをお披露目します。 添付写真をご覧下さい。 田中君は卒業アルバムからsnap-shotを添付してみました。 ご覧下さい。 最近の写真は拝顔していないのでありません。 それから、山中(高木)さんの写真は【0090】号にてご紹介済ですので、今回は割愛させて頂きます。 そして、まだお返事を頂戴していない【2637の会】の皆さん!朗報をお待ちしています・・。
「0707262637nokaiannaijosohusakiblog.xls」をダウンロード


【田中君からの『返信はがき』の内容】
Blog070725_31973_24▼先月、5年越しでアプローチしてきた big project を受注でき、2年後の商用開始に向け、早朝出勤、終電帰宅、土日なしの入社以来一番過酷な生活状況となってしまい、全く生活に余裕がありません。 身体がもたないかも。

【田中君からの「返信はがき」を読んで一言】
▼ところで田中君へ・・、今泉ごときが差し出がましいことを申し上げて恐縮ですが・・、「『命あっての物種(=人生)』ですよ、仕事も大切ですが、我々は五十路を過ぎ、もう若くないのですから、決して無理をなさらないように・・!!」。 
▼小生の拙い経験で恐縮ですが、今は昔(平成3~4年当時)、30代半ばのまだ充分体力があった(筈・・(笑))頃でしたが、本部スタッフとして、MOF検・日銀考査対応で、毎日深夜勤務(=午前2時~4時までのdesk work)が一か月程続いたことがありました。 その前段として、約一年間、「月・月・火・水・木・金・金」で働いておりました。 深夜勤務が連続して4週間目に入った頃、慢性的睡眠不足による疲労感で、流石に意識も朦朧として、しかもさらに不健康なことにその頃は喫煙を毎日60本(=3箱)程していましたから、ついに狭心症の兆候が出てしまいました。 その時は、本当に正直な話、「自分の命もそんなに長くないのではないか」という恐怖感が脳裏をよぎったことを覚えています。 今、同じことをやったら1週間も経たないうちにきっとあの世行きでしょう・・(笑)。 気持ちだけは若い時とは変わらないけれど、間違いなく体力が低下している50歳代・・。 五十路の無理は絶対に命を縮めます。 『百歳まで現役』を目指す小生、今では命を粗末にしないよう肝に銘じています。 
▼田中君も、実行されているとは思いますが、ご家族のことや、ご自分の将来のことを考えて、体を酷使しない方策を工夫して是非考えてみて下さい。 田中君に万が一のことがあっても、会社は「慰労金」等を事務的に弔意を表してくれるだけ・・。 親しい同僚も『憐憫の情』は示してくれるでしょうけれど、命までは代ってくれません(当然ですよね・・)。 そして、じきに忘れられてしまいます。 これが厳しい現実だと思いますヨッ。 『自分の命は自分でまもらなければ・・』。 こういう悩みを【2637の会】のみんなで意見交換して、自分の人生を実り深いものにすべく活用しましょう。 医学的見地から助言してくれる仲間もきっと沢山いますし・・。 ネッ!お医者さんの皆さん!!

■さて、掲題の副題にも記しましたが、母校時習館野球部が、昨日「夏の甲子園愛知県予選」で豊川高校に4対1で破れ、五回戦(ベスト16校)進出を果たせませんでした。 残念でしたね。


Photo_53Photo_52■続いて、一昨日7月24日は、芥川龍之介(1892.3.1 - 1927.7.24)の命日(『河童忌』)です。 昔から芥川の自殺については、いろいろ論じられていますが、改めて調べてみると興味深いことが沢山出て来ます。 そこで今回は、文豪ナビ「芥川龍之介」と嵐山光三郎著「追悼の達人~『芥川龍之介』」(いずれも新潮文庫)から、その一部をご紹介致します。 本来ならば、タイムリーに7月24日の芥川の命日当日にお送りしたかったのですが、小生の夏バテはじめ諸般の都合で二日程配信が遅れました。 それでは、ご覧下さい。

【捨て子、そして母との別れ】(文豪ナビ「芥川龍之介」)
▼(前略)芥川が生まれた明治25年3月1日の暦は、辰の年の辰の月の辰の日! 干支は年だけにではなく、月や日もあるのだ。 何とも不思議なことに、「辰」のトリプルというか、揃い踏みだ。 しかも、辰の刻(午前八時)に産声を上げたという説まである。 それで、辰に因んで「龍之介」と名付けられた。 龍の化身、龍の申し子という訳だ。
▼確かに、芥川の人生は龍に似ている。 まず、「昇龍の勢い」の猛スピードで、無名の青年が文壇の絶頂へと登り詰めた。 しかし、どんな龍であっても、無限に上昇することはできない。 いつかは上昇が停止し、横ばいになり、一転してストンと急降下し始める。 これを、高く昇り過ぎた龍の後悔という意味で、「亢龍(こうりょう)の悔い」と言う。(中略)芥川の人生も、まさにそれ。 晩年の彼の心は、人生の敗北者のものだった。
▼父は新原敏三(にいはらとしぞう)と言って、山口県出身の平民。 明治財界の巨頭・渋沢栄一が経営する耕牧舎の牛乳販売業者だった。 息子が生まれた時に、父の年齢は数えの四二歳で、「男の大厄」。 母のフクは、江戸城で十数代も「数奇屋坊主=奥坊主」を勤めた士族・芥川家の出身だったが、息子を産んだ時は数え年の三三歳で、これまた「女の大厄」。 両親がダブル大厄の年に生まれた子なので、形だけ捨て子にして、それを知人に拾って来て貰った。 「拾い子」として育てられたのだ。 龍之介は長男だったから、生まれるのを待ち望まれた。 その一方で、捨てられねばならぬ「親にたたりをなす子」でもあったのだ。 どこか、ギリシア神話のオイディプス王の話を連想させる。 オイディプス王は父を殺したが、芥川は母の運命を暗転させた。
▼芥川が生まれて数ヵ月後に、母のフクが精神を病んだ。 「僕の母は狂人だった」と『点鬼簿(注)』にはある。 彼は、すぐに母の乳房から引き離された。(中略)龍之介は、発狂し「生きた死者」となった母を、「自分の犠牲となって母が死んだ」という罪悪感の代わりに、「自分もいつかは母のようになる」という恐怖感に死ぬまで苦しめられた。

□■□【点鬼簿(芥川龍之介)】から 一 □■□僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻(くしま)きにし、いつも芝の実家にたった一人坐りながら、長煙管(ながぎせる)ですぱすぱ煙草を吸っている。顔も小さければ体も小さい。その又顔はどう云う訳か、少しも生気のない灰色をしている。僕はいつか西廂記(せいそうき)を読み、土口気泥臭味の語に出合った時に忽(たちま)ち僕の母の顔を、――痩せ細った横顔を思い出した。(以下略)

▼龍之介は、母の実家の芥川家に引き取られた。(中略)「芥川龍之介」という戸籍上の名前を手に入れたのは、一二歳の夏のこと。
【漱石に絶賛され、大学生にして人気作家になる】
▼(前略)芥川も、学生作家として超一流だった。 大正二年、二一歳の年に、東京帝国大学に入学。(中略)二三歳で、『帝国文学』に名作『羅生門』を発表。(中略)
▼大正四年11月に(中略)芥川は初めて漱石山房を訪ねる。 翌大正五年2月、第四次『新思潮』を創刊。 その創刊号に発表した『鼻』が、漱石の「ほめすぎ」とも思われる賞賛の言葉を貰った。(中略) この年の7月に大学を卒業したが、芥川は確りと「新進作家」の仲間入りを果たしていた。(中略)漱石の「お墨付き」のお陰である。

【嵐山光三郎著「追悼の達人~『芥川龍之介「お父さん、よかったですね」』」】
▼芥川の自殺は用意周到で、自殺したときに机の上に置かれていた「或旧友へ送る手記」は、三五歳で自殺に至る死の弁明、解説で自殺考証学でもあった。 こういうものを書かれると、追悼するほうは、ただその死を理解、追従して、惜しむしかない。 自殺する側に力があり、これを自殺アリバイ力という。
▼芥川の自殺は芝居がかっていて、絶頂期の芸術至上主義的のどんでん返しのような仕掛けがあり、「手記」をはじめ夫人あての遺書、子供あての遺書、小穴隆一、菊池寛あての遺書など五通が残されており、これらの「手記」、遺書は、追悼文へのヒントのようなものだ。 追悼文が生き残った者の解答文ならば、芥川は、なみいる作家たちへ追悼という宿題を残して死んだことになる。(中略)
▼芥川の「手記」は、自殺の分析、目的、方法、死に場所を論じている。(中略【筆者注】長くなるので、論旨が解る程度に抜粋してご紹介する)

▼誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつ きりこの心理を伝へたいと思つてゐる。尤(もっと)も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善(い)い。(中略)
▼僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデル(=【筆者注】(1841-76)独の素人哲学者。ショーペンハウエルを研究し、自殺礼賛の書『救済の哲学』2巻を残して35歳にして自殺を決行した人物~)を読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずには措(お)かないであらう。けれども若(も)し(非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。
▼僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。(中略))
――僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。縊死(いし【筆者注】首をくくって死ぬこと)は勿論この目的に最も合する手段である。が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢にも美的嫌悪を感じた。(僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だつた為に急に愛を失つたのを覚えてゐる。)溺死も亦水泳の出来る僕には到底目的を達する筈はない。のみならず万一成就(するとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。轢死(れきし【筆者注】(列車などの)車輪に轢(ひ)かれて死ぬこと)も僕には何よりも先に美的嫌悪を与へずにはゐなかつた。ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。ビルデイングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした。薬品を用ひて死ぬことは縊死することよりも苦しいであらう。しかし縊死することよりも美的嫌悪を与へない外に蘇生する危険のない利益を持つてゐる。唯この薬品を求めることは勿論僕には容易ではない。僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品を手に入れようとした。同時に又毒物学の知識を得ようとした。
▼それから僕の考へたのは僕の自殺する場所である。僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手(た)よらなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺した為に僕の家の売れないことを苦にした。従つて別荘の一つもあるブルヂヨアたちに羨ましさを感じた。君はかう云ふ僕の言葉に或可笑(おか)しさを感じるであらう。僕も亦今は僕自身の言葉に或可笑しさを感じてゐる。が、このことを考へた時には事実上しみじみ不便を感じた。この不便は到底避けるわけには行かない。僕は唯家族たちの外に出来るだけ死体を見られないやうに自殺したいと思つてゐる。
▼しかし僕は手段を定めた後も半ばは生に執着してゐた。従つて死に飛び入る為のスプリング・ボオドを必要とした。((中略)仏陀は現に阿含経(あごんきょう)の中に)彼の弟子の自殺を肯定してゐる。(中略)誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。その前に敢然と自殺するものは寧(むし)ろ勇気に富んでゐなければならぬ。)このスプリング・ボオドの役に立つものは何と言つても女人である。(中略)ラシイヌもモリエエルやボアロオと一しよにセエヌ河に投身しようとしてゐる。しかし僕は不幸にもかう云ふ友だちを持つてゐない。唯僕の知つてゐる女人は僕と一しよに死なうとした。が、それは僕等の為には出来ない相談になつてしまつた。そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。それは誰も一しよに死ぬもののないことに絶望した為に起つた為ではない。寧ろ次第に感傷的になつた僕はたとひ死別するにもしろ、僕の妻を劬(いたは)りたいと思つたからである。同時に又僕一人自殺することは二人一しよに自殺するよりも容易であることを知つたからである。そこには又僕の自殺する時を自由に選ぶことの出来ると云ふ便宜もあつたのに違ひない。
▼最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。(中略)▼我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦(あ)いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生き
る為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措(お)いてくれ給へ。僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。
▼附記。(中略)            (昭和二年七月、遺稿)

■嵐山光三郎氏は、文壇諸氏のcommemtを丹念に拾い集めました。 以下に、主だったところをご紹介します。
▼この「手記」を、芥川と親しかった久米正雄は、「事実上の遺書」とする・・
▼主治医の下島勲は、「氏の神経衰弱はほとんど持病であったが春からは非常に良好でめきめき快方に向かった。従って病気が死を急がせたというようなことはない」と弁明している。
▽また、芥川の実母が精神分裂病にかかっていたため、正常な母子関係が成立せず、芥川は自分も分裂病になるという恐怖にとらわれていたという側面もあった。しかし、追悼する作家たちは芥川の自殺を病気ととらえる論はとらない。
▼中野重治が、追悼文「ふるい人やさしい人」のなかで、「この人(=【筆者注】芥川)は湯などはいらぬのか、じつにきたない手をしていた。顔なども洗わなかったかもしれない。その手が顔同様、もともとは美しい手なのだったから、よごれ加減がいっそう目立って私には不思議だった(以下略)」(中略)
▼芥川と高校、大学を通じて同級生だった藤森成吉は「従来の文学者中、氏は最も聡明で、又敏感だった」、「氏の遺書を読めば、もう何者の手を以てしても氏を止めることは出来
なかったと思える」と追悼した。(中略)
▼歌人の佐佐木信綱は「その死因も、その死も、まったく実に美しかった」と追悼した。(中略)
▽自殺してこれだけ賛美される人も珍しいが、そうほめられるばかりでもなかった。まず、白樺派が手厳しい。(中略)
▼志賀直哉は、芥川との交流を回想しつつ、芥川の自殺には否定的だ。「芥川君のような人は創作で行きづまると研究とか考証という方向に外れて行くのではないか」と考えていたとし、「芥川君のものには仕舞いで読者に読者に背負投げを食わすようなもの」があるので、それは好きではない、とした。(中略)芥川に同情しつつも、「芥川君は少々気取りすぎだ」と論じた。(中略)
▼武者小路実篤は、芥川を「時に才がこきざみに出すぎてうるさい時もあるが、趣味も頭もいいと思う」と評し、「同君がなぜ死んだかわからない。又わからないところがいいと思う。
同君にも恐らくわからなかったと思う。(以下略)」(中略)
▼芥川がいう「ぼんやりとした不安」を「ブルジョワ文学の敗北」と規定する宮本顕治の論文は、芥川を超克すべき対象としてとらえる政治主義で、自然主義の作家からは、芥川は「人生をよく観察しない」として不評であったのも確かである。(中略)
▼西田幾多郎は「神経衰弱の結果の厭世であると解釈したい」と評し、(中略)
▼斉藤茂吉は、「悼芥川一首」と題して、「むしあつくふけわたりたるさ夜なかの ねむりにつぎし死(しに)をおもはむ」と詠じ、
▼飯田蛇笏は「芥川龍之介を弔う」と題して「たまむしのたとえば秋のほたるかな」と詠んだ。
▼芥川の辞世の句は「自嘲」と題して「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」である。
▽芥川を追悼しつつ、本質的批判を展開したのは谷崎潤一郎であり、(中略)芥川への思いいれは、(中略)激しく、霊界の芥川を震撼せしめたはずである。
▼谷崎は、「改造」追悼号で芥川が亡くなった七月二十四日という日は自分の誕生日である、という因縁を述べ、「私は君に対して佐藤春夫に対する如くザックバランなれなかった」と
反省し、中学、高校、大学も同じで、「先輩扱いされながら私は一向頼みがいのない先輩であったことを恥じる」と哀悼した。と同時に同じ「改造」の別の欄「饒舌録」では、「『手記』に発表されたところだけでは、哲学的であるとは言えない」と切り捨て「故人の死に方は矢張り筋のない小説であった」と、死してなお芥川との論争(谷崎が<筋の面白さ>を主張し、芥川は<話らしい話のない小説>を主張した)にけりをつけようとした。(中略)
【筆者comment】▼嵐山氏が紹介する芥川への追悼文は、以上以外にも相当数に上るが、長文となったため、以上で紹介は終わります。 いかがでしたでしょうか。
▼芥川の自殺は、20歳代前半で文壇の頂点に上り詰めた俊英作家が35歳という働き盛りで「漠然とした不安」から逃れるために選択した結論だった・・。 彼は、仕事で行き詰まり将来を悲観
してとか、再起不能の病気に罹患した訳ではない、ある意味贅沢な選択としての死・・。 小生なんかは、生にまだ沢山未練があります。 精神的にも、肉体的にも、健全であり続けたい・・、凡人です。 まだ、動物力は衰えていません(・・そのつもりです・・)。

【後記】■最後に、【26737の会】同窓会の出欠確認期限は過ぎましたが、まだ、出状されていない方は、このe-mailの返信でも決行ですから、お返事を頂戴できれば幸甚です。
▼ 【2637の会】blogへは、こちらをclickして下さい。
     →→ URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog
(了)

2007年7月23日 (月)

【時習26回3-7の会 0110】~「大暑」「明治日本救国の軍師『児玉源太郎』」

■今泉悟です。 今日7月23日は、二十四節気でいう「大暑」。 夏の土用の時期。 極熱の盛んなる時で、この最も暑い時期を乗り切るために、土用の丑の日にウナギを食べる風習が生まれました。 今日あたり、【2637の会】のclassmatesから8月11日の同窓会出欠「返信はがき」がいくつか到着するかと期待していたのですが、残念ながらはがきはありませんでした。
▼万年幹事として、今が辛抱のし処ですねぇ・・。(嘆息)
▼【2637の会】のmemberで、出欠表明をまだなさっていいない皆さん!!  出欠確認の「返信はがき」か「e-mail」を締切日7月25日が明後日に迫って来ました。 朗報をお待ちしています。
犬飼(石田)さん、下浦さん、雄次君、千賀君、竹内君、田中君、中山君、君、原田君、藤川君、村田君、お返事をお待ちしています。
▼それから、ギリギリまでわからないとお返事を頂戴している、石田(義)君、伊庭さん、今井(土方)さん、山中(高木)さん、都合がつき次第、ご連絡下さい。 お待ちしています!!
▼皆さんからの朗報を心よりお待ちしております!!!!! 
   m(_ _)m~!!最敬礼!!
「0707232637nokaiannaijosohusakiblog.xls」をダウンロード

Photo_50■今日は、日露戦争を勝利に導いた明治日本救国の軍師、児玉源太郎の命日( 1852.4.14 - 1906.7.23)である。 伊勢氏が書いた文章がちょっと長いが大変よく表されていましたのでご紹介します。 【2637の会】の皆さん宛への限定転載とさせて頂きます。 司馬遼太郎の「坂の上の雲」に出て来る「児玉源太郎」像を彷彿とさせる小気味好い語り口で、一気呵成に読み通せます。 是非、ご高覧下さい。

1.「誓って旅順を落としてごらんに入れます」
▼「乃木と一緒に死ぬ覚悟で行って参ります。誓って旅順を落としてごらんに入れます。」
▼児玉が大山巌・満洲軍総司令官に言った。「乃木の手に余るようじゃ。 旅順の面倒をみてやってたもんせ」という大山に答えた言葉だった。 「死ぬ覚悟」は本物だった。 妻の松子に「今日迄尽くしてくれた御身に心から感謝す。子供達の事を頼む」という短い遺書を書いた。
▼この儘乃木の第3軍が旅順港を落とせなければ、そこに潜む太平洋艦隊は、やがてやって来るバルチック艦隊と合流する。 そうすれば日本海軍の勝ち目はほとんどなくなる。 日本海の制海権を奪われれば、陸軍も糧食・弾薬が尽きて、大陸で立ち枯れてしまう。 それで日本は終わりである。
▼明治37(1904)年11月27日、第3回の総攻撃も失敗すると、乃木司令官は、今迄言いなりになっていた参謀を初めてて抑え、正面からの攻撃を中止させて203高地に的を絞った。
▼旅順攻撃はようやく合理的な作戦を得た。 28センチ砲18門が203高地に巨弾を次々に撃ち込み、突撃隊が夥しい死傷者を出しながら山肌を登って行った。

2.「陛下の赤子をいたずらに死なせてきたのは誰か」
▼児玉は旅順に向かう途中の金州駅で、「203高地が落ちた」という報告を聞き、随行の下士官たちとともに祝杯を挙げたが、翌朝大連のホテルで朝食をとっていると、「203高地は今未明、敵に奪還された」という知らせが届いた。憤激した児玉はナイフとフォークを投げ出し、立ち上がった。
▼乃木軍司令部についた児玉は乃木と二人だけで話し合った。 二人は明治初年の頃から、かれこれ30年以上もの親友である。 明治10(1877)年の西南戦争で軍旗を奪われた乃木が自決しようとした際には、児玉が「死んで責任が果たせるか、卑怯者」と言って軍刀を奪ったこともあった。
▼乃木は一時的に児玉に指揮権を預ける事に同意した。 児玉は乃木司令部の幕僚たちを集め、「203高地の占領を確実にするために、28センチ砲を15分毎に1発発射し、一昼夜連続射撃して、敵の逆襲を阻止すべし」と命じた。
▼幕僚の一人が、「そうすれば、味方を撃つ公算も大であります。 陛下の赤子を、陛下の砲をもって撃つことはできません」と反論した。 児玉は怒鳴った。 その眼には涙があふれた。
▼「陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのは誰か。 わしは、これ以上、兵の命を無益に失わせぬよう作戦を変更しろと言っているのだ。」
▼「203高地の西南の一角に、百名たらずの兵が昨夜から張りついているという。 彼らは歩兵の増援どころか、砲兵の援護もなく、寒風にさらされて死守している。 その姿を見てきた者がいるか。 陛下の赤子の死が迫っているのに、それを救おうともせず、彼等の占領地域を拡大しようともしないのはどういう訳だ。 参謀が前線を見に行きもせず、それで戦(いくさ)ができるか。」
▼一同は静まりかえった。 児玉のひたすらに国家の勝利と兵の命を思う無私の一喝が、乃木司令部の幕僚たちを目覚ませた。

3.「俺の用は済んだ」
▼12月5日、朝から28センチ砲ほか重砲数十門が、203高地と隣接する山々を猛射し続けた。 児玉は乃木とその幕僚達とともに、203高地近くの丘に登り、双眼鏡で戦況を見た。 西南の一角を守って奮戦する百人たらずの日本軍将兵たちの姿が見えた。 「あれを見て、心を動かさぬやつは人間ではない」と児玉は言った。
▼日本軍の数時間の猛射で、203高地とその周辺からのロシア軍の砲火がめっきり衰えた。 そこに第十四師団が、203高地の西南山頂に突撃を開始し、ロシア軍と血みどろの死闘を演じて、10時半頃、ついに制圧した。 数日間、山頂を死守していた百人足らずの将兵がようやく救われた。 第十四師団はさらに東北山頂にも突撃し、わずか30分で陥落させた。
▼203高地からは港内のロシア艦隊が望めた。 児玉は時を移さずに、西南山頂に派遣していた弾着観測将校に命じて、28センチ砲以下重砲群で巨弾の雨を降らせた。 その後の3日間の砲撃で、ロシア艦隊はほとんどが沈められた。
▼「俺の用は済んだ」と言って、児玉は満洲軍総司令部に帰っていった。 乃木軍の幕僚たちには、今回の自分の言動が越権行為として悪い先例と誤解されないよう、堅く口止めをした。
▼旅順艦隊の全滅によって、日本海軍はバルチック艦隊との決戦に備えて、艦船を日本に戻し補修に掛かることができた。乃木軍は北上して、ロシア陸軍との決戦を控える満洲軍に合流した。

4.日の出に国運を祈る
▼奉天(現在の瀋陽)は、満洲南部の交通の要衝である。 ここでロシア軍32万、日本軍の25万の日露戦争中最大の会戦が行われた。 時に明治38(1905)年3月、今から丁度百年前である。
▼ロシア軍の総司令官はクロパトキン。 ロシア皇帝に取り入ったベゾラフゾフ一派に陸軍大臣からは更迭されたが、戦術家としては欧州屈指と名高い。 そのクロパトキンと児玉との戦いであった。
▼先の遼陽会戦ではロシア軍は優勢に攻撃しながら、黒木軍による3万人の大夜襲を受けて撤退した。 しかし広大な土地を利用して、後退しながら敵の補給線が伸びきった所で一気に反撃に出るというのが、対ナポレオン戦争でも奏功したロシアの伝統的戦術である。 奉天で体制を立て直し、日本軍を引きつけて叩こうというのが、クロパトキンの戦術であった。
▼逆に、児玉はクロパトキンのこの慎重さが弱点だと読んでいた。 完璧な戦術を追求するあまり、奇襲など予想外の事態が起こると弱気となり、撤退して体制を立て直そうとする。 児玉はそこに唯一の勝機を窺っていた。
▼決戦を前に、児玉は毎朝、一人で朝日を拝むようになった。 その姿を見た人に、こう洩らした。
▼わしはいままで宗教心がなかった。 ところが倍に近い敵を迎え、決戦に臨むと、勝敗が気がかりで、夜もおちおち眠れなくなった。 日一日、ロシアの兵はふえている。 その間、考えるべき事、やるべきことはみなやった。 それ以上は、我々の力に余る事だ。 人事を尽くしたのだから、天命を待てばいい。 しかしわしは心配で、何かに祈らずにはいられなくなった。 遼陽戦のときに、兵が朝日を拝んでいる姿を見たが、あれが胸に沁みこんでいた。 それでわしも、毎朝ここに来て日の出に国運を祈っているのだ。

5.奉天会戦
▼3月1日、大山総司令官が総攻撃を命じた。 兵力でも砲数でも劣勢な日本軍が、堅固な陣地に立て籠もるロシア軍を攻め立てるのである。 猛攻をかけたが、損害も大きく苦戦に陥った。
▼同時に児玉の作戦で、旅順から合流した乃木率いる第三軍が奉天の西側から迂回して、ロシア軍の後背をつこうとした。 乃木軍の先鋒3千の支隊は、10万のロシア軍右翼に向かって尺取り虫のように前進していった。
▼「奉天北方20キロに、約6千の日本軍が進出中」という報告を聞いたクロパトキンは慌てた。 あの難攻不落の旅順要塞を攻略した「ノギ軍」というだけで、兵は震え上がる。 それが背後に回って、シベリア鉄道を遮断したら、ロシア軍は孤立する。
▼6千が事実かどうか確認する余裕もなく、クロパトキンは全軍に退却を命じた。 各地で日本軍の猛攻をはねのけて優勢に戦っていたロシア軍が堅固な陣地から不可解な退却を始めた。 猛烈な烈風砂塵の中を、ロシア軍はひたすら退却し、日本軍は勢いに乗って追撃した。
▼3月10日、日本軍は奉天を占領した。 のちに戦勝を記念してこの日が陸軍記念日とされた。 日本軍の死傷者約7万。 ロシア軍は約9万の死傷者と2万余の捕虜を出した。 クロパトキンは降格され、ロシア軍はハルピンに退いて、そこで新たに50個師団を集結する作業にかかった。
▼しかし、日本軍は、すでに第一線で戦う精強な将兵の多くを失い、弾薬も底をついた。もはや北上して、再度の会戦を行う力は残されていなかった。

6.「火をつけたら消さなゃならんぞ」
▼実情を知らない東京の大本営は、退却するロシア軍をハルビンまで追撃し、さらにウラジオストックまで追いつめて殲滅せよ、と督促してきた。 児玉は急いで東京に戻った。 新橋駅に出迎えた参謀本部次長の長岡外資少将を児玉はどやしつけた。
▼「長岡あ、バカあ、おまえ、何をぼやぼやしとる。 火をつけたら消さにゃならんぞ。 消すのが肝心ちゅうに、何もしとらんのは、バカの証拠じゃないか。」
▼参謀本部も陸軍省も終戦工作を始めていないのに腹を立て、長岡に八つ当たりしたのである。 児玉が山県・参謀総長と寺内陸相に実情を詳しく説明すると、二人は児玉に同意した。
▼元老・伊藤博文を訪問して説くと、伊藤は「これ以上戦えない、などと軍人としては言いにくいことを勇気をもってよく言ってくれた。 わしたちも君にならい勇気をふるって発言しよう」と、アメリカで世論工作を行っている金子堅太郎に打電し、ルーズベルト大統領に対する働きかけを積極化するよう指示した。
▼児玉の根回しで4月8日の閣議では、アメリカに仲介を頼んで講和を急ぐ、という基本方針は固まったが、桂首相と小村外相は、ロシアからの賠償金をとるべきだと主張し、講和条件については纏まらなかった。
▼児玉は「桂の馬鹿が賠償金を取るつもりでいる」と聞こえよがしに言いながら、満洲に戻った。 実際、後の講和会議では、ロシア皇帝は「一握りの土地も一ルーブルの金も日本に与えてはならない」と命じている。 外交面でも児玉の読みは誰よりも鋭かったと言える。

7.ロシア皇帝をいかに講和のテーブルにつけるか
▼余力を残しているロシアを講和に追い込むためにも、児玉は手を打っていた。 まず開戦時に明石元二郎大佐に百万円の工作資金を渡し、ロシアの後方を攪乱せよ、と命令していたのである。 今日の貨幣価値で言えば数千億円の資金を投じて、ロシア帝政を倒そうとする革命勢力、独立を目指すフィンランドやポーランドの勢力を支援し、背後からロシア帝国を脅かそうとした。
▼この年の1月、ペテルブルグの王宮に数万の労働者が待遇改善を要求してデモを行い、コザック騎兵が馬上から剣をふるって数百人の死傷者を出すという事件が起きた。 「血の日曜日」事件である。 これも明石が裏で糸を引いていた。 これを機にロシア全土に暴動やサボタージュが広がっていった。 日本との戦争を続けている間に、ロシア帝政そのものが危なくなると、ロシア皇帝は怯えた。
▼もうひとつの手は、樺太占領である。 児玉は「戦争継続は望まないが、今弱気を見せては講和もむつかしくなるので、陸軍としては樺太を占領して余力のあるところを誇示しておくことが必要だ」と山県に吹き込んでおいた。
▼児玉は、「ロシア皇帝が樺太を日本軍にとられるのではないか、と危惧している」という情報を得て、ロシアを講和のテーブルにつかせるには、これが決め手となる、と思った。 これまでの戦いはロシアにとっては、自国領土外の戦いであり、そこで戦闘に負けたと言っても、領土までとられた訳ではない。 しかし、樺太を奪われたら、次は沿海州などロシアの領土も次々と奪われるかもしれない。
▼この作戦は、講和会議の直前、7月に実施された。 結局、講和条件として日本が勝ち取ったのは、占領した樺太の南半分だけであった。 もし樺太占領をしていなかったら、これすらも不可能であったろう。 ここでも児玉の読みは当たっていた。
▼革命勢力を支援して皇帝の足元を揺るがし、樺太を占領して先行きを脅かす。 あの手この手で、勝っているうちに講和会議に持ち込もうと、軍師・児玉の政戦略はシベリアの向こう側のロシア皇帝をゆさぶり続けていた。

8.一生一度の男泣き
▼5月27日、地球を半周して、日本海にやってきたロシアのバルチック艦隊は、東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊と遭遇し、日本海海戦が行われた。ロシア皇帝の最後の希望を担っていたバルチック艦隊のほとんどは撃沈または捕獲され、かろうじて数隻がウラジオストックに逃げ込んだのみであった。 ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はロシア皇帝に、「今やロシアが日本に勝つか負けるかを問題にするときは過ぎた。 ロシアそのものが亡くなるかどうかの岐路に立つときである」との親書を送った。
▼ロシアは講和会議のテーブルについた。 8月29日、アメリカ・ポーツマスで行われていた講和会議で日本全権の小村外相が苦心惨憺の交渉の結果、なんとか講和の合意をとりつけた。 その報を奉天の総司令部で聞いた児玉は男泣きに泣いた。 共に泣いた少将・福島安正は「児玉源太郎、一生一度の男泣きであった」と後に語っている。

9.天が遣わした軍師
▼12月7日、大山巌元帥以下、満洲軍総司令部は東京に凱旋した。 新橋駅から皇居に向かう沿道には数十万人の市民が出迎えた。 「大山元帥、万歳」の声が響く中、児玉は大山の陰に静かに従っていた。
▼翌明治39(1906)年7月23日朝、児玉がベッドの中で眠ったような顔のまま、こときれているのを、家政婦が見つけた。 駆けつけた医者は死因を脳溢血と診断した。
▼児玉が参謀次長についたのは開戦のわずか4ヶ月前、前任者が肺炎で急死した後だった。 そして苦心惨憺の末、大国ロシア相手になんとか辛勝を収めて、1年も経たないうちに忽然と世を去った。 まさに児玉は国を救うために、天が遣わした軍師であった。   (文責:伊勢)

【筆者comment】▼風林火山の「山本勘助」よりスケールの大きい軍師、明治日本を救った「児玉源太郎」。 我々に清々しい感動を与えてくれましたね・・。

【後期】■暑い季節には暑い詩をということで、丁度一年前の7月20日【0039】号で柳宗元の夏昼偶作をお贈りしましたが、今一度どうぞ・・。

  夏昼偶作(かちゅうぐうさく)    柳宗元
南州溽暑酔如酒  南州の溽(じょく)暑 酔うて酒の如し
隠几熟眠開北牖  几(き)に隠(よ)り熟眠して 北牖(ゆう)を開く
日午独覚無余声  日午(にちご)独り覚めて 余声(よせい)無し
山童隔竹敲茶臼  山童(さんどう)竹を隔てて 茶臼(さきゅう)を敲く

【大意】南国のこの暑さは、酒に酔ったように体が火照る。北の窓を開け放って、机によりかかってぐっすりと眠る。目が覚めてみると丁度正午頃、あたりはひっそりとしている。竹林の向こうで、童が臼で茶をついている音だけが聞こえるだけだ・・。

■今日も、締め括りはバルダザール・グラシアンの「賢者の」の1.人とのかかわりについて・・です。

020.備える

▼頑固、生意気、ぶしつけ、無分別な人に出くわしてもいいように、前もって心がまえしておくこと。 こういうタイプに立ち向かうための教えはない。 たまたま出会うことを想定し、不毛な衝突に巻き込まれないようにすることだ。
▼ばかばかしいやりとりに引き込まれないよう、また相手への振る舞いが横柄にならないよう気をつけよう。 頭を使って、人という障害のある急流を乗り越えるのだ。 こういう人の傍を通るときは、その愚かさに気付かないふりをして礼儀正しく接するといい。 これでみんながきまりの悪い思いをしなくてすむ。

021.神経質な人とは用心深くつきあう

▼神経な性質は、友人や仲間と付き合うのには適さない。 直ぐに挫ける人は、ムラがあって意気地がないことを自ら示しているようなものだ。 
▼こういう人は、自分に対して何か悪いことが企まれているといつも思い込んでいて、会う人みんなが悪意を持っていると考える。 まるで、ちょっと触れるだけで直ぐに傷ついてしまう眼のようなもなだ。
▼こういう人と付き合う時は、用心に用心を重ねて行動すること。 動揺させたり気を悪くさせたりすることのないよう気をつけよう。 たいていは自分本位で、自我を満たせるためならどんなことでもするだろうし、自分さえ良ければどんな危険でも冒すからだ。
▼対するこちらは、ダイヤモンドのような人を目指そう。 辛抱強く確固とした、丈夫で長持ちする人になるのだ。

(了)

2007年7月22日 (日)

【時習26回3-7の会 0109】~「サッカー全日本!アジアカップ準々決勝で豪州に勝利」「宮本顕治と河合隼雄の訃報」

■今泉悟です。 さぁ、愈々【2637の会】同窓会の出欠の期限(7月25日)が迫って参りました。 ・・という訳で、日付も今日は7月22日(日)。 昨日辺りclassmatesから「返信はがき」か「e-mail」が届くかなぁと思いましたが、残念ながらありませんでした。 皆さ~~ん!! 朗報をお待ちしていま~~す!! m(_ _)m (^o^)/(笑)

Goal070720Pkgoaviedol070720Pkgoal070720Interview070720_1070720_1Interview070720_2 ▼さて、昨日のサッカー・アジアカップの全日本の勝利、良かったですねぇ・・。 本当なら豪州が退場処分で10名となった時点で速攻で逆転と行きたかったところですが、PK戦で川口が相手のシュートを連続2本防ぎ出鼻を挫き、最後は中沢が決め、準決勝進出を決めました。 久しぶりにスカッとしましたね。 その関連写真をTVからdigital cameraに収めましたのでご覧下さい。
13070720▼また、スポーツと言えば、岡崎出身の大相撲の関脇琴光喜も13勝して大関昇進を確実にした様ですね。 日本人の大関昇進としては6年ぶりの、これも嬉しいニュースです・・。 添付写真は「栃乃洋(左)を送り倒しで下し、大関昇進を確実にした琴光喜」です。 良かったですね。
■さて次は、7月20日の日経新聞の春秋に、元日本共産党議長の宮本顕治(1908.10.17-2007.7.18 1931年東大経済学部卒)氏の訃報に関する記事が出ていましたので、その一部をご紹介します。
▼1929年に雑誌の懸賞で、芥川龍之介の文学を論評した『敗北の文学』が題一席で入選して宮本氏は世に出た。 第二席は小林秀雄の『様々なる意匠』だった。 そのころを振り返って「私は、まだプロレタリア前衛として全生活を革命運動に投げ込むには至っていなかった」と戦後に書いている。
▼もう一つ宮本氏の名が世間に知られる契機になった、九歳年上の作家・中条百合子との結婚のときには「お互いの運命が党と労働者階級の波瀾と苦難にみちた道にむすびつけられていることを覚悟していた」(『百合子追想』)。 政治信条で結ばれた夫婦の愛情物語は共産主義のこわもてのイメージを随分和らげた。
【筆者comment】▼上記に言う雑誌とは「雑誌『改造』」である。 小林秀雄は、この『様々なる意匠』で文壇デビューを飾った。 昭和四(1929)年九月号が初出。
▼小生は、宮本氏の『敗北の文学』を読んだことはないが、その書き出し部分を第二席の小林秀雄の『様々なる意匠』と読み比べても、確かに流麗で解り易い上品な作品と思う。  但し、小生は『敗北の文学』は読んでいないので、キチンとした比較は出来ないが、ご参考に両作品の書き出しと最後のところを比較すべくご紹介します。 
▼『敗北の文学』(宮本顕治)
▼「文人」という古典的な文学に相応しいとされていた芥川氏の住んだ世界は、永い間、私にとってかなり縁遠いものに思えていた。 この作家の「透徹した理智の世界」に、私は漠然、繊細な神経と人生に対する冷眼を感じるだけであった。(中略)
▼だが我々はいかなる時も、芥川氏の文学を批判しきる野蛮な情熱を持たねばならない。 我々は我々を逞しくするために、氏の文学の敗北的行程を究明してきたではないか。 「敗北」の文学を ― そしてその階級的土壌を我々は踏み越えて行かねばならない。
▼『様々なる意匠』(小林秀雄)~懐疑は、恐らくは叡智の始めかも知れない、然し、叡智の知る処に芸術は終るのだ。  アンドレ・ジイド
▼吾々にとって幸福な事か不幸な事か知らないが、世に一つとして簡単に片付く問題はない。 遠い昔、人間が意識と共に与えられた言葉と吾々の思索の唯一の武器は、依然として昔乍らの魔術を止めない。 劣悪を指嗾(しそう【筆者注】そそのかすこと。けしかけること)しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない。 而も、若し言葉がその人心の眩惑の魔術を捨てたら恐らく影にすぎまい。
▼私は、ここで問題を提出したり解決したり仕様とは思わぬ。 私はただ世の騒然たる文藝批評家等が、騒然と行動する必要の為に見ぬ振りをした種々な事実を拾い上げ度いと思う。 私は、ただ、彼等が何故にあらゆる意匠(【筆者注】趣向。工夫)を、少々不審に思う計りである。 私には常に舞台より楽屋の方が面白い。 この様な私にも、やっぱり軍略は必要だとするなら、「搦手(からめて【筆者注】城の裏門、敵の後面。 転じて物事の裏側、背後)から」、これが私には最も人性論的法則に適(かな)った軍略に見えるのだ。(中略)
▼私は、今日日本文壇の様々な意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。 私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。 ただ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧(むし)ろあらゆる意匠を信用しようと努めたにすぎない。
【筆者comment】▼以上が、雑誌『改造』の懸賞作品の第一席と第二席の作品の導入部と最後の行(くだり)である。両者を比較して、内容はともかく、文体はあきらかに宮本氏の方が、流麗でわかり易く、且つ気品もある・・、と小生は思います。 皆さんは、どう感じましたか・・。
▼尚、宮本氏は、晩年は多摩市聖蹟桜ヶ丘の私邸で隠遁生活を送りっていた。 2007年7月18日14時33分、老衰のため都内の病院で死去。享年98歳。 氏の冥福をお祈り致します。 因みに、現在の日本共産党委員長志位和夫は宮本家の家庭教師で、その教え子は現在北海道大学大学院教授で民主党の宮本太郎氏である。
070720_2■さらにまた翌7月19日、河合隼雄氏が亡くなった(1928.6.23-2007.7.19)。 享年79歳。 添付写真をご覧下さい。 河合氏については、【2637の会】の【号外15(070106)】【0060(070107)】【号外16(070109)】と三回に亘りご紹介させて頂いていますので、バックナンバーをご参照下さい。 氏の冥福をお祈り致します。
【後記】■今日も、最後にお届けするのは、バルダザール・グラシアンの「賢人の知恵」から、1.人とのかかわりについて・・
018.名誉に関わることには踏み込まない
▼分別に従い、地に足をしっかりとつけるべきだ。 人のささいな意見で簡単にぐらついてはいけない。 名誉にかかわることで勝つのは至難の業。 だから口論は避けるのが賢明だ。 
▼名誉を汚されたと感じると、すぐにかんかんになって反論したくなるようなことを興奮のあまり口走るタイプがいる。 その手に乗らないこと。 その場から去ればすむことだ。 わざわざ衝突を受けて立つ愚かな人もいるが、そうならないようにするのは、自分次第である。
019.萎縮しない
▼人に対する概念を少しずつ緩めてみよう。 恐れなければならないほどの高尚な人などいない。 誰に対しても、高貴な人だなどと思い込まないように。 そうでないと、自分の心が畏縮してしまうからだ。 いったん話をしてみれば、その偉大さは錯覚だったことがわかるだろう。
▼誰でも生身の人間で、夫々欠点もあれば言い訳もする。 人情味に欠ける人もいれば、勇気が足りない人もいる。 高い地位の人は、優れているように見えても実質が伴っている人はめったにいないもの。 冷静に判断してその思い違いが解れば、このような人に対しても節度を保って大胆に対応できる。
■最後に、もう一回お願い・・です。 「【2637の会】のmemberで、まだお返事を頂戴していない皆さん、お返事をお待ちしていますよ~~!!!」m(_ _)m
*(了)

2007年7月19日 (木)

【時習26回3-7の会 0108】~「今井(土方)さんからのmail」「西田小夜子『妻と夫の定年塾(第3回)』~『無口な二人』」

■今泉悟です。 今日は、とっても嬉しいお知らせがあります。 今井(土方)さんからのmailが届きました。 小生も男です。 先日来、伊庭さん、渡辺さん、今井さんといい、女性からのmailは大変嬉しいものです。
070718blog1973_20▼今井さん、mailをありがとう。 そして、8月11日の【2637の会】同窓会には万障お繰り合わせのうえ、是非参加して下さい。 鉄三先生もご出席頂けますし、渡辺さんも女性一人では寂しいと仰ってます。 今井さんの朗報を心よりお待ちしています。
▼それでは、今井さんの「返信はがき」をご紹介させて頂きます。 そして、今井さんの1973年版を今井さんのご諒解なしに掲載させて頂くことを万年幹事の特権でご容赦下さい。 尚、今井さんの最近版はありませんので、悪しからずご了承ください。
3.ギリギリまでわからないので判り次第別途連絡する ・・・ 今回は鉄三先生もご参加ということで出席するいい機会ではありますね
今泉さんのメール配信ただただ感心して読ませて頂いています。 この3年続けて主人の両親を亡くし、この5月に2回実家のあとかたづけ等で2回帰ったり何かと大変でした。 私自身のこれからの人生考えさせられました。 東京支部の方もずっとご無沙汰状態です。
【筆者comment】■今井(土方)さんへ、光栄です。 【2637の会】のmailを読んで下さって恐縮の極みです。 8月11日の同窓会での再会を心からお待ちしています。 m(_ _)m
*
▼小生も一昨年実母の亡くし、人生の無常観を実感しました。 ・・だからこそ、何の利害もない【2637の会】のclassmatesとのcommunicationをこれからもずっと大切にして行きたいと考えています。 我々の人生、上手く行けば、本当に100歳まで生きなければならない「長生きのリスク」があるのも事実です。 そのリスクを幸福に変える・・これこそ、【2637の会のclassmates】だと思うのです。 物理的には、「我孫子・柏・東京・横浜・厚木・藤沢・磐田・浜松・豊橋・蒲郡・御津・西尾・安城・日進・尾張旭・名古屋・多治見・大津・大阪・吹田・神戸&タイ国」と全国津々浦々に散らばっている【2637の会】の皆さんですが、現在はこのようにe-mailで瞬時にcommunicateできるんです。 タイ国在住の中山君にup-to-dateに連絡できるのですから・・。 この【2637の会】を気軽に利用して交流の場にしようじゃありませんか!!!
▼さて、掲題にもありますように、「西田小夜子『妻と夫の定年塾(第3回)』~『無口な二人』」をご案内させて頂きす。 こういう素敵な友達を作りたいと思っています。 では、ご紹介させて頂きます。 どうぞ・・・
「無口な二人」
▼定年前、林さんは、図書館やデパートの椅子にじっと坐り続ける高齢男性を見かけたことがる。 なぜあれほど無為に暮らすのかわかったのは、退職してからだ。 半年ばかりは会社の同僚とつきあったが、今は途絶えている。
▼妻は友達がたくさんいて、めったに遊んでくれなかった。 日課は読書と散歩だ。 一時間歩く。 駅前でコーヒーを飲んでランチを食べる。
▼その日は店がいっぱいで、同年配の男性と相席になった。 彼はニコッと笑いかけてきた。 感じのいい人だなあと、林さんは嬉しくなる。 
▼同じランチを前にポツリポツリ話した。 相手の中村さんも無口だが、人嫌いではなさそうだ。 二人はコーヒー店で落ち合うようになった。 現役時代は技術畑で、趣味が読書のところもそっくりである。
▼林さんは歴史が好きだが、中村さんはミステリーファンだ。 歴史だってミステリー満ちている。 林さんは、温和な中村さんが事件に夢中なのがおかしかった。 仙台の人で、生家に兄夫婦がいるという。
「来月仙台に行くんですよ、いかがです、ご一緒に」
▼東京人の林さんは、頭の中でパッと花火が弾けるような喜びに満たされた。 小学生みたいに、素直に嬉しかった。 
▼ゆかいな旅であった。 無口な二人は、新幹線景の窓をぐんぐん過ぎる風景を黙って眺める。 歴史を尋ねる旅から松本清張の世界へ、やがて外国の歴史、イギリスミステリーの旅へと広がっていった。
「六十代で生涯の友達に出会えました」
「こちらこそ、ありがたいことです。」
▼感謝のせりふも二人は控えめだった。
Photo_49【後記】■今日、最後にお届けするのは、バルダザール・グラシアンの「賢人の知恵」から、1.人とのかかわりについて・・
015.嫌われないようにする
■わざわざ嫌われるような真似をしないこと。 何もした覚えがないのに嫌われてしまうことだってあるのだ。 これといった理由もなく、ただ何となくあなたが嫌いだという人はいるもの。 反感は好意より力が強い。
▼人の本質には相手を傷つけたいという欲求がある。 周りはみな敵、人を傷つけることだけが楽しみという人もいるのだ。 一度反感を買ってしまうと拭い去るのは難しい。 だから、なるべく相手の良い面に目を向けること、そうすれば自分も正しく評価されるようになる。 そしてなるべく親愛の情を示すことだ。
016.醜聞を避ける
■大衆は一人ひとりから成り立っている。 それぞれに目があって悪事に気づき、それぞれに口があって各自のやり方で見たことを伝えるものだ。
▼自分に対する中傷が広まれば、信用に傷がつくおそれがある。 とるに足らないような欠点が、誰かの羨望や不信感から噂の発端となり、話が伝わるたびにその噂が大きくなっていくのだ。 悪意のある噂話のせいで名声が台無しになることもある。
▼そういう事態はなるべく避けるよう努めよう。 中傷の及ばない場所にいるほうが、すでに起こってしまった災難から抜け出すよりはるかにたやすいのだから。
017.目の上の人をたてる
■どんな勝利にも衝突はつきものだが、上に立つ人を負かすことはまったく愚かな行為であり、取り返しのつかないことになる
▼宝を隠しておくのと同じように、自分の強みも隠すようにしよう。 飾らない言動や服装で隠して平然としていればいい
賢人は相手が誰であれ忠告はありがたく受けとめ、忠告してくれた相手に対して便宜をはかる。 星を見習おう。 星はどんなに明るく輝こうとも、太陽より目立つことは断じてない。 立場をわきまえるのだ
*(了)

2007年7月16日 (月)

【時習26回3-7の回 0107】~「私の履歴書『長嶋茂雄』」「水原秋桜子」「西田小夜子『妻と夫の定年塾』(第2回)」「糸トンボ」

■今泉悟です。 今日は7月16日。 漸く天気もよくなりました。 折角の三連休も台風到来で確り羽を伸ばせなかった方も少なくなかったかと思いますが、如何お過ごしでしたでしょうか。 小生は、昨日15日は、昼から庭の草取りでつぶれました。 午前中までの降雨で地面が確り水分を含み、雑草も掘り起こし易く効率良く作業は進みました。 しかし、最近の雨天続きで除草を怠っていたため、雑草が当たり一面に生え放題となり、作業時間も4時間近くかかり結構な重労働となりました・・。(笑) ここで一句・・。
 ▼草取りも 台風一過で 重労働  悟空  (【季語】草取り=「夏」)
▼さて、【2637の会】同窓会まであと26となりました。 出席を予定している皆さん、市川君伊東君井上君金子君菰田君白井君淳司君二橋君彦坂君牧野君峯田君渡辺さんそして鉄三先生、8月11日は18時00分に松葉町の「ブラウンズ」での再会を楽しみにしています。
▼そして、まだ、日程調整に腐心されている e-mail addressある皆さん、石田君犬飼さん伊庭さん今井さん下浦さん雄次君千賀君竹内君田中君中山君林君原田君藤川君村田君山中さん皆さんからの朗報を心よりお待ちしています。
▼まだ、お返事を出されていない方々は、諸般の事情で、出欠の日程繰りに腐心されている方も少なくないと思います。 いろいろ工夫され、万障お繰り合わせ頂き、参加頂ければ幸甚です。 まだ、時間はあります。 熟考してベストの結論を出して下さい。 宜しくお願いします。 m(_ _)m
■話変わって・・、今回は、【2637の会】の仲間からはお便りがありませんので、昨今の話題からお届けしたいと思います・・。
Photo_48▼今、「私の履歴書『長嶋茂雄』」が面白い・・!! 現在、日経新聞に連載中である長島茂雄氏の私の履歴書から、昨日15日掲載分の一部をご紹介します。詳細は添付写真をご参照下さい。 伝説の男「長島茂雄」氏本人の口から出る「伝説」の数々・・。 実に面白いですねぇ・・(笑)。 では、どうぞ・・。
プロは命懸けで練習・・
▼マスコミに「長島は野球の天才である。動物的勘の男だ」と書かれて、いわゆる長島像として定着する。(中略)
私は天才肌でもなんでもない。 夜中の一時二時に苦闘してバットを振っている。(中略)
▼・・孤独な汗を流した。 そういう隠れた部分はファンの皆さんに見せるべきじゃない。 それがプロの姿勢、というのが私の考えだ。(中略)
▼「四番の座を守るために朝から晩まで命懸けの練習をやり抜いた。 一切表には見せず世間にはいつも笑みを絶やすことがない。 これは結構苦しい。(中略)
いったん精神をその一点に集中するとほかのことが見えなくなってしまうことがしばしばであった。(中略)
▼スランプのどん底で(中略)試合の前に特打のスペシャルメニューを行った。 八十個入り三カゴを空にしシャワールームに向かった。 バスタオルを腰に巻いてロッカーにやってきてシャツを着だした。
▼牧野コーチが「これから試合だというのに何やってんだ」「えっ?」と絶句した。 熱中のあまり試合前を試合後と勘違いしてしまったのだ。
一茂が幼稚園のころ後楽園球場に連れて行った 試合は2三振で四タコ、おまけに守備でトンネルをして最悪の状態。 怒り狂った状態でカッカしながらそのまま家に帰ってしまった。 家内に「一茂は」と聞かれて気が付いた。 うっかりチョーさん伝説とか、ずいぶん笑い話にされた
絶好調のときは怖いものなし。 どんな球でもいらっしゃい。 インコースだろうがアウトコースだろうが、この状態になると、「来た球を打つ」だけ。 私が「来た」と思えば、それは私のストライクゾーンとなる。(中略)
そんな時、投げた球がソフトボールくらいに見え打てない気がしなかった。(以下略)
【筆者comment】■天才は、エジソンの名言「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」にあるように、努力なしには成り得ないのは事実であると思います。 とは言え、「絶好調のときは、怖いものなし。 ・・打てない気がしなかった。」というところが長嶋茂雄が天才の「天才」たる所以なのでしょう。 我等凡人にはそのような境地に遭遇すること自体滅多にないことも事実・・。
▼天才作曲家の誉れ高いW.A.Mozartにしても、物心付いた時から両親や姉の音楽のexpert達に教育され、刺戟を受けて、彼の天賦の才を開花させて行った・・。 
▼一つ間違いないと言えることは、「我々凡人が凡人のごとく努力を怠れば、凡人以下の成果しか現出できない」・・厳然たる事実です。(笑)
* 
■ところで、明日7月17日は、歴史上の多くの著名人の命日に当たりますので、ご紹介致します。
1918年7月17日  ニコライ2世 (Nikolai II)
                  ( 1868.5.18 - 1918.7.17 )( 50歳 )【王族】 〔ロシア〕
1959年7月17日  ビリー=ホリデイ (Billie Holiday)
                  ( 1915.4.7 - 1959.7.17 )( 44歳 )【歌手】 〔アメリカ〕
1961年7月17日  タイ=カッブ (Ty Cobb)
               ( 1886.12.18 - 1961.7.17 )( 74歳 )【野球】 〔アメリカ〕
1967年7月17日  ジョン=コルトレーン (John William Coltrane)
    ( 1926.9.23 - 1967.7.17 )( 40歳 )【ミュージシャン】 〔アメリカ〕
1969年7月17日  市川 雷蔵 (いちかわ・らいぞう)
                 ( 1931.8.29 - 1969.7.17 )( 37歳 )【俳優】 〔京都府〕
1981年7月17日  水原 秋桜子 (みずはら・しゅうおうし)
        ( 1892.10.9 - 1981.7.17 )( 88歳 )【俳人(俳句)】 〔東京都〕
1987年7月17日  石原 裕次郎 (いしはら・ゆうじろう)
                  ( 1934.12.28 - 1987.7.17 )( 52歳 )【俳優】〔兵庫県〕
Nicholas_ii_Billie_holiday_19491Ty_cubbJohn_coltranePhoto_460707016_1Photo_48▼ご覧の通りです。 ロシア革命で処刑されたニコライ2世(50歳)や、70歳以上生きたタイカップや水原秋桜子はともかく、残りの人達は30代~50代で人生を終えています。
▼ジャズ・ミュージシャンのビリー・ホリデイやジョン・コルトレーンは40代で人生のエネルギーを燃焼し尽したのでしょうか。
▼石原裕次郎が逝って、もう二十年が経過するのですね。 我々も歳を取ったものです・・ハイ。 彼の享年が満52歳。 今年の我々の歳ですゾッ。 健康に気をつけましょうネッ、お互いに・・!!!
■折角、俳人水原秋桜子(本名:水原豊)が出て来ましたので、彼の作品をいくつかご紹介します。 最初の5つの俳句は、「夏」の季語を使ったものです・・。
 ▼麦秋(ばくしゅう)の 中なるが悲し 聖廃墟
 ▼池さびし 菖蒲の少し 生ひたれど
 ▼日焼け顔 見合ひてうまし 氷水
 ▼跳躍台 人なしプール 真青なり
 ▼桑の葉の 照るに堪へゆく 帰省かな
岩礁(昭和12年12月)から
 ▼向日葵の空かがやけり波の群
 ▼大和なる夢殿にきたり春日暮る
 ▼琵琶の湖の入江しづかに田を植える
【筆者comment】▼秋桜子は、その(昭和12年)頃、無季俳句の方向へ急展開を示していた新興俳句とは明らかに一線を画していた。 彼の俳句は、有季定型の伝統を堅持しつつ、これまでの俳句に見られなかった瑞々しい近代味を展開した。 上記三作など、浪漫的、叙情的、且つ叙景の美しさが際立つ秀作群である。
▼秋桜子は、文人かと思いきや、彼は東京大学医学部卒なんですね・・。
■また話題変わって、今日も前【0106】号に続いて、西田小夜子著『妻と夫の定年塾』の中から一つご紹介します。 我々より十歳程年長の先輩達の夫婦関係で、我々の世代とチョッピリ違和感がありますが、類似点もあるので参考になると思います。
妻の病気
▼いつも元気な麻美さんが風邪で寝込んだ。 熱が高く、とても仕事に行けない。 市役所でパートの仕事をしているのだ。 夫の伸一さんは、退職後も元の会社で働いている。 嘱託なのでぐっと楽になった。 健康な間は働くつもりだ。
▼妻が病気するなんて、伸一さんは考えたことがない。 寝込んだ姿も初めて見た。 大丈夫かいと声をかけると、
「ええ。風邪だから寝れば治ると思うの」と言う。
▼伸一さんはほっとして自分の朝食を作った。 パンを焼き、レタスをバリバリとチーズに巻く。 たっぷり牛乳を飲む。 おれだって一人で朝めしくらい食えるんだと、彼はちょっと得意である。 もう一度大丈夫? と聞いて彼はそそくさと会社へ出かけた。
▼麻美さんは熱いお茶が飲みたかった。 大丈夫かと聞くだけの夫にお茶が欲しいといいにくく、遠慮もあった。 伸一さんは悪い人ではないのだが昔から気が利かない。 ぐらぐらする体を起こし、どうにか薬と水を飲んだ。
▼夕方帰宅した夫は「弁当を買ってきてやったぞ」と言う。 握り寿司のパックだ。 麻美さんは朝から何も食べず空腹だったが、生ものは欲しくない。
▼八時過ぎに息子が勤めから帰る。
「何やってんだ。 父さんが風邪をひいた時こんなもん母さん食わせるかよ。 自分だけお茶飲んで」
▼息子はてきぱきとそうめんを茹で、卵とネギを入れて温かい「にゅうめん」を作る。 熱いお茶を飲み、にゅうめんを食べながら麻美さんはポロポロないた。 はっきり言ってくれればいいのにと伸一さんは思う。 しかし息子の手際のよさに感心し、少し反省したのだった。
【筆者comment】■小生なら、伸一さんとは違い、息子のようにてきぱき・や・れ・る・・!? ・・と断言い切れる??  ・・簡単な食事くらいは作れるけど・・。(苦笑)
■続いては、夏の風物詩について・・
070716▼今朝、早朝のこと・・、ふと我が家の庭先を眺めると、網戸に針の様な物体がくっ付いている。 「何だろう」と近づいて見ると、糸トンボだ・・っ。 もう何十年とお目にかかっていなかった可愛い虫である。 早速、写真に収めた。 添付写真をご覧下さい。 実物は写真の三分の一以下の3cm弱の本当に可愛いらしい大きさであった。 
▼写真を撮ったら、撮影終了を待っていたかのようにサッと何処かへ飛び去って行ってしまった・・。 と、すると、クマゼミのあのうるさい鳴き声が聞えて来た。 今年初めて聞く蝉の声である。
▼流石、『海の日』・・。 夏本番の到来である。 ここで、また小生の稚拙な俳句を・・。
 ▼海の日に夏を誘(いざな)う糸蜻蛉(トンボ)  悟空 
 ▼蝉時雨我が家に暑き夏来る  悟空
【後記】■今日も最後にお届けするのは、バルダザール・グラシアンの『賢者の知恵』から、1.人とのかかわりあい・・ の続きです。 ご覧下さい。 
012.明るい話題を話す
■「いつも明るい知らせを持ってきてくれる人と認められたということは、つまり、良いものを探し出してみんなに知らせる能力が評価されたということだ。 悪いことをあざ笑うのではなく、良いことを褒める習慣がある人は、引く手数多(あまた)となってみんながその意見を是非聞きたいと思うだろう。
▼反対に、悪い知らせばかり持ってきて、なかでも一番悪いことを本人のいないところで言うような人は、しばらくはうまくいったとしても、そのうち周囲から相手にされなくなる。 話し相手によってその陰口を変えていることがわかるからだ。
▼第三者の悪口を言うのは、やはり下手な駆け引きなのである。
013.悪口を言いふらさない
■人をだしにして面白がったりしてはいけない。 悪口を言う人という評判が立ってしまうと、みんなに嫌われるからだ。 多勢に無勢で、相手は数を優位に、いつでもこちらを圧倒することができる。
▼唾棄(だき)すべきゴシップ屋が立派な人と一緒にいることがあるが、、実際にはただ面白がられているだけなのだ。 悪口をたたけばやがてそれが自分に返ってくるということを忘れないように。 因果応報なのだ
014.下品にならない
■紳士たるもの、おどけてもいいとき、人気取りのためにちょっと礼を失してもいい時を心得ているものだ。
▼時には大衆に同調することもあるだろうが、決して下品に溺れてしまうことはない。 みんなの前で一度でも馬鹿な真似をすれば、その後ずっと陰でそう思われてしまうからだ。 人前で笑いも者になれば失うものは大きく、一生かかっても取り返しがつかない。
▼だからといって、たまに冗談を言うのも思いとどまってしまわないように。 距離を置けば人への非難と受け取られ、お堅い奴(ヤツ)と決め付けられる。 いつでもあまりにも敬虔な人はかえって滑稽に見えるもの。
▼ただし冗談を言う時、女性が男性を演じるのは構わないが、男性は断じて女性を演じるべきではない。
*(了)

2007年7月11日 (水)

【時習26回3-7の会 0106】~「伊東君が『二次会』会場を教えてくれました」「J司君からの励ましmail」「昭和の海軍エリート集団の栄光と失墜」「西田小夜子著『妻と夫の定年塾』」

■今泉悟です。 【0106】号を配信します。 8月11日の【2637の会】同窓会まで、あと丁度一ヶ月になりました。 皆さんとお会いするのがとても待ち遠しいですね。
▼さて、今日も嬉しいことを二つお知らせします。 一つはJ司君からの励ましのmail、そしてもう一つは伊東君からの「二次会」会場の推薦の電話、を夫々頂戴したことです。 淳司君、そして、伊東君、ありがとう。
▼それではまず、J司君からのmailをご紹介させて頂きます。 J司君へ、8月11日の再会を楽しみにしています。
From: 鈴木 [mailto:s xxxx p]  Sent: Sunday, July 08, 2007 5:36 PM To: 今泉悟 Subject: Re: 【時習26回3-7の会 0105】
悟君へ
▼新天地でもご活躍の由、何よりと思います。同級生のほとんどが家庭を持つ身である事を考えれば、この時期、これだけ出席者が確定していることはすごいことだと思います。
▼私も無謀にも大学のOB会の幹事をしたことがありますが、大変な労力だと思います。当日は楽しみにしています。 出席者も年々増えるのが理想かと思います。 息の長い会を目指してご尽力いただければと思います。私はすっかり健康を取り戻し、元気でやっております。      鈴木淳司
▼続いて、伊東君から電話を頂戴したことをお伝えします。 前にも【2637の会】会報にて、小生が二次会会場の選定に困っているとお話ししました。 
1973_192006_8▼そんな中、伊東君が8日の夕刻に電話をくれました。 そして、掲題の件名「副題」にありますように二次会会場を推薦してくれたのです。 伊東君ありがとう。 これこそまさに干天の慈雨です。 添付写真( double click して下さい )は、伊東君の1973年版と2006年版です。 これもご本人の事前諒解なしであることを万年幹事の特権でお赦しし下さい(因みにすでにご紹介済の淳司君の写真は、今回は割愛させて頂きます)。
 ↓↓マイアミの地図
 ↓↓ブラウンズの地図
▼二次会会場は「マイアミ」という処です。 住所は、豊橋市松葉町2-36 ( 0532-55-5489 )。 場所は二次会会場としては絶好の位置にあります。 一次会会場のブラウンズと同じ通りを南へ徒歩1~2分の至近距離にあります。 添付資料「Yahoo!地図情報  マイアミ」をご覧下さい(添付ファイルを double click して、URL を click して下さい。 一次会(ボレロ吾妻家・)【ブラウンズ】の地図( 縮尺「1/3000」をclick願います )も併せて添付しておきます。 如何に至近かご納得頂けると思います。(^-^)/
▼前号から3日しか経っていませんが、同窓会一ヶ月前になると、流石に動きが出て来ますね。
■話変わって、2007年8月号の文藝春秋に「昭和の海軍エリート集団の栄光と失墜( 日本最高の組織と人材を蝕んだものは何か? )」というなかなか面白い記事が載っていました。 そこで、その一部をご紹介します。 全文45ページ一挙掲載を一気呵成に読み通していまうくらい面白い記事でした。 東郷平八郎と加藤友三郎、米内光政・山本五十六・井上成美、永野修身と嶋田繁太郎・・。 いろいろ参考になりました。 その中から、加藤友三郎と平民宰相原敬の項目のところをご紹介します。 ご覧下さい。
12_11_12_2加藤の二人三脚(【筆者注】文頭のアルファベットは、commentatorの頭文字です
▼H.:(中略)ワシントン条約を締結にこぎつけた条約派のトップが加藤友三郎でした。 明治海軍を代表するのが、退役間近でくすぶっていた東郷を連合艦隊司令長官に抜擢し、日露戦争を指導した山本権兵衛なら、大正海軍の代表は間違いなく加藤でしょう。  じつは加藤は海軍大臣として「(【筆者注】戦艦・巡洋戦艦各八隻からなる)八八艦隊」を推進した中心人物でもあったのです。 自ら行なった大軍拡プロジェクトを廃棄してでもより大きな国益のために軍縮を成功させた。 まさに高度な政治判断のできる人物でした。
▼T.:加藤友三郎がいなければ条約そのものが締結されなかったでしょう。 他の参加国からも加藤は、「アドミラル・ステイツマン(一流の政治センスを持つ提督)」と賞賛されています。
H2:見た目は貧相で、燃え残りのロウソクみたいだから「残燭(ざんしょく)大臣(添付写真「1加藤友三郎」ご参照)」なんていうあだ名がつけられた。 もっとも戦歴は大したもので、日清戦争では第一遊撃隊の旗艦「吉野」の砲術長として、清国の最新鋭艦「定遠」「鎮遠」を相手にばりばり撃ちまくり、日本海海戦では東郷を助け連合艦隊参謀長を務めました。
▼F:そもそも加藤がアメリカの呼びかけに応じてワシントン会議に参加したのは、日本側の台所事情が大きかった。
▼H2:海軍はとにかく金がかかりますからね。 ピーク時には軍艦の建造費が国家予算の三割を超えたという。 八八艦隊が実現していたら維持費だけでも国家予算の全額を投じても足りない、という試算もありましたから、国力からいってやはり無理だったのでしょう。
H:加藤友三郎は、ワシントン会議の後に海軍省への伝言として、「国防は軍人の専有物にあらず」という国防論を披露しています。 平たくいえば金がなければ戦争はできない。 第一次大戦後の情勢をみると日本と戦争する可能性があるのはアメリカだけだが戦費を調達するため日本の外債を引き受ける余力があるのもアメリカしかない。 結論として日米戦争は不可能だということです。
F:日露戦争のときには日本はきわめて合理的な戦争運営を行なっていたんですね。 政治のトップには伊藤博文が立ち、陸軍は山県有朋が、海軍の軍政は山本権兵衛が取り仕切っていた。 財政的には高橋是清がイギリスに飛んで外債を募り、外交的にも旅順戦、日本海海戦と並行して、アメリカに和平の仲介を依頼していた。
T:東郷元帥は現場からしか日露戦争をみていませんからね。
▼H2:その意味では、東郷元帥が戦後も日本海軍のシンボルとして君臨してしまったことが不幸でした。 旅順を攻略した満州軍総参謀長の児玉源太郎は、出迎えに来た部下に「こんなところで何をしているんだ。和平だ」と叱咤していますが、現場一筋の東郷にその政治的センスを期待するのは酷というものでしょう。
F:なぜ加藤友三郎条約締結に成功したかという点で見落としてはならないのは当時の首相であった原敬(添付写真ご参照)による全面的バックアップがあった、ということです。 加藤は出発する際に、原首相から「国内のことは自分がまとめるから、あなたはワシントンで思う存分やってください」という確約を得ています。 ワシントン会議の前年、八八艦隊の莫大な予算を認めているのですが、あそこで海軍の無理を聞いて信頼関係を築いていたから、ワシントン会議で大きな妥協が可能になった。 その意味では、ワシントン会議日本の政治と軍事のバランスが取れていた最後の局面だったのかもしれません。
▼H:その原はワシントン会議の開催直前に東京駅で凶刃に倒れ、山県有朋もこの翌年に亡くなっています。 加藤友三郎も翌々年の大正十二(1923)年に大腸がんで早世してしまいます。
F:関東大震災の八日前ですね。 政界の原、陸軍の山県、海軍の加藤という大局が見えたリーダーを日本は相次いで亡くし、昭和を迎えるわけです。(中略)
H:昭和の海軍は、たとえてみればエクセレント・カンパニーの悲劇だったと思います。 栄光の日本海海戦があって、世界の三大海軍の一角を占めるようになった。 大和やゼロ戦、酸素魚雷のように、世界に冠たる兵器を自前で開発できるようにもなってた。 しかも、日露戦争から日米開戦までの三十年以上もの間、全力を投じなくてはならない戦争もなく、負けることを意識せずに済んできたわけです。 その結果、長老が人事を壟断(ろうだん)し老害がはびこり、年功序列と学校の成績が幅をきかせて、内輪で固まり、外の目を意識できなくなった。 これは成功した組織には、ある程度共通する病弊だと思います。
F:(中略)日本海軍はかなり人工的に造り上げたエリート集団でした。 日本のベスト&ブライテストを目指したはずなのに、気付いてみればムラの論理で組織が回っていたんですね。 ムラの論理は既得権擁護だから強い。 それをくつがえすだけの行動力と説得力そして勇気を兼ね備えたリーダーをもてるかどうか。 これは、こんにち我々に課せられた課題でもあります。
T:同一性の高い集団主義というのは日本人の長所でもあります。 それは今の製造業そ成功などによくあらわれている。 しかし一歩間違うと、結局は組織そのものを滅亡させてしまう危険があることを、日本人は肝に銘じるべきでしょう。
■続いて、またまた面白い本を買いましたので、ご紹介します。 それは西田小夜子著「妻と夫の定年塾」(中日新聞社刊)です。 まずは、イントロから・・
▼「定年落語」― まえがきにかえて
▼(前略)昔のアルバム、久しぶりで見てごらんなさい。 信じられない光景が! 夫の頭は黒々フサフサ、妻の目方は今のちょうど半分です。 あのころはいくらしゃべってもあきなかったのに、どうです六十才、石のように押し黙るだけのふたり。 お互いに、口は食べる時と文句を言う時しか使いません。
▼「夫婦なんだ。 いちいち言わなくてもわかるだろ!」
と夫は怒りますが、口に出して言わなければ絶対通じません。 というわけで「話せばわかる。 話せばわかるのじゃああああ」と力入ってしまうあたしです。
▼「もう一度あなたにラブコール」やりましょうよ。 だめなんです。 うちの夫はガッチガチの石頭。 足かけ二十年しゃべってませんと泣いてるあなた。 石地蔵夫は庭のすみなんぞにちょいと置いて、しみじみ拝んでみる。 頑固男は意外に、こんなのに弱いんですな。
▼あれ、こちらは「妻にいじめられて胃が痛む」ですか。 いじわる妻は頭から袋かぶしてくすぐっちゃう。 ゴニャゴニャ喜ぶかもしれませんよ。 効きそうなもんは全部ためしてみるこってす。 熟年離婚はその後考えることで、おあとがよろしいようで。  あらら亭 お小夜
▼第一回 「ダブルベッド
▼大きな声では言えないが、征二さん夫婦は今もダブルベッドで寝ている。 結婚以来なのでもう三十五年になる計算だ。 最近妻の孝美さんはそれを人に知られるのがいやだ。
▼友達の中には、夫の定年を機に寝室を別にした人がいる。 妻がふとんをかついで、下の部屋に逃げ出したというのもある。 老夫婦が二十四時間いっしょに暮らすことになるのが定年だ。 眠る時くらい、安らかに一人になりたいという女性はたくさんいる。
▼男にだっているだろう。 そんな話をすると、征二さんはとたんに機嫌が悪くなった。
「夜中におれの心臓が止まっちまったらどうすんだよ。 孝美さん苦しい、とさけんでもおめえは別の部屋で知らん顔なんて、さびしい話じゃねえか。 その逆もあるんだぜ、おめえの心臓が」
「心臓が止まった時はいさぎよくあきらめるのよ。 ダブルベッドなら安心て保証はないわ。 あなたなんか私が息してなくても、朝まで高いびきの男でしょうに」
▼ダブルベッドは征二さんの趣味である。 アメリカ映画にあこがれて、結婚したらダブルベッドと誓ったのだ。
▼仲が悪い夫婦ではないが、たまにはケンカする。 原を立てた征二さんは、女房の枕を床に投げ落とした。 そんな時だけはダブルベッドがいやになる。 
▼孝美さんも怒って、わざとベッドの足元にふとんを敷いた。 夜中にトイレへ起きる夫をじゃましてやるのだ。
▼征二さんは女房を踏んづけないよう、こわごわ注意してベッドを降りる。 とても安眠なんかできない。 緊迫の一夜が明けると、ヘロヘロに疲れた二人は「おはようごじゃりまする」とあいさつして、仲直りするのだった。 (FIN
【後記】■今日、最後にお届けするのは、バルダザール・グラシアンの『賢人の知恵』から、1.人とのかかわりについて・・ の続きです。 ご覧下さい。            
010. 愛想をよくする
親切で心の広い人は、大勢の人々から善意を引き出すことができる。 人の上に立つ人はこのことを覚えておこう。
■大勢を動かす力があれば、それだけ多くの善を引き起こす力もあるが、仲間が欲しければ自分から仲間にならなければいけない。 けちな根性で親切や思いやりを示そうとしない人は、気高さや正義の対極そのものだ。
011. 人に好かれる
■賢人は、人の好意という後押しが全くなければ、人生は長く厳しいものだと知っている。 多くの人に好かれよう。 引き立ててもらったり手助けしてもらったりして、人生という航海の追い風になってもらうのだ。
■第一印象が良ければ高い評価を得ることができる。 そしてひとたび好意が得られれば、いろいろなものがもたらされる。 たとえば勇気、知恵、分別、そして意欲。 好意を持ってくれた人はあら探しをしたりしないから、欠点も気にならない。
■好意は、家族、同僚など共通の立場にあることから生れるもの。 同じ国籍や民族、性格などがきっかけとなることもある。 一度好感を得れば維持するのは簡単だが、難しいのは好意を抱いてもらうこと。 まずは人に好かれる努力をしよう。 そして、いったん好意を手にしたら、忘れずに活用しよう。

■【2637の会】ブログへは、ここをクリックして下さい  URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

(了)

2007年7月 8日 (日)

【時習26回3-7の会 0105】~「渡辺さんからの同窓会参加表明mail」「【本郷界隈】散策~『鷗外記念室』~『根津神社』」

■今泉悟です。【2637の会 0105】号をお贈りします。先週も 「終わり良ければ全てよし」 で、大変嬉しい一週間になりました。

8月11日の同窓会に渡辺S○子さんが参加して下さることになりました。 渡辺さん、ありがとう!!!
▼これで、今日7月8日現在、同窓会参加表明者は14名なりました。 嬉しいですネッ!!  ↓↓↓【同窓会】出欠表↓↓↓
▼以下に、渡辺さんからのmailを掲載します。 ご覧下さい。 そう、渡辺さんの仰るとおり、現在は渡辺さんが紅一点の女性の参加者であります。
▼女性(犬飼・伊庭・今井・下浦・鈴木・林・山中(以上五十音順・敬称略))の皆さん!! 8月11日の【2637の会】同窓会に是非参加をお願いします。 女性の皆さんは、ご家庭の夏季休暇の日程繰りに腐心されてお返事が遅れているものと思われます。 返信葉書の締め切りが今月25日となっていますが、その時点ではっきりしない方は「ギリギリまでわからないので判り次第別途連絡する」でお返事を下さい。 e-mail addressある方には、後日別途e-mailで、e-mail addressのない方にはお電話等で確認させて頂きますので、万障お繰り合わせのうえ出席頂ければ幸甚です。
▼尚、添付資料に皆さんの出欠状況をexcelにて一覧表にしてありますので、ご高覧下さい。 参加者が増えて来ると、幹事をやっていて本当に良かったと実感しています。(^-^:)/
* 
From: watanabe [mailto:xxxxxxp]  Sent: Saturday, July 07, 2007 12:07 AM To: 今泉悟 Subject: クラス会
蒸し暑い日が続いてますね。  新しいお仕事はいかがですか?
▼クラス会の出席者が増えているようで嬉しいですね。 私も出席させていただきます。
▼まだはっきり決まった訳ではないのですが、主人の夏休みが11日から取れそうです。
今のところ紅一点みたいだから寂しい。 女性陣の出席を呼びかけて下さい。
▼さて、小生、新会社の企画管理部・総務部担任として、一昨日7月6日、担当部長と前任の担当常務と三人で東京にある取引銀行2行に19年3月期決算報告に行って来ました。 その二行とは旧長期信用銀行の雄旧K銀(現在はM銀に名称変更)。 もう一行は政府系金融機関のN銀。 両方とも丸の内にあり、三月以来の東京丸の内訪問でした。
▼決算説明のトンボ帰りの一日になると思っていたら、意外に早く終わり、14時に現地解散となり、急遽、東京散策を一人ですることにしました。 最初からこうなるのであれば、もっと事前準備して置けば良かったと後悔しましたが、まぁ、楽観的且つ単純な小生のこと、「3月に『漱石』だったから、今回は鷗外行こう!」と、即時に決め、丸の内にある紀伊国屋書店で地図を見て、地下鉄千代田線に乗り「千駄木」へ・・。 
▼因みに(【2637の会】会報ではお伝えすることを失念しましたが)、明日7月9日は鷗外の命日(1922.7.9没)です。 享年60歳。 
▼添付写真は、千駄木駅を出た所にある団子坂下交差点」「『文京区本郷図書館鷗外記念室看板」「『観潮楼址石碑」「『観潮楼址外観」「『観潮楼址説明碑文」「19歳東京医学校卒業時の鷗外」「数え51歳の鷗外」「鷗外の遺言書」「鷗外宛の夏目漱石の葉書です。 ここのところを、司馬遼太郎街道をゆく(37)本郷界隈(朝日新聞社刊)から抜粋してご紹介します。 彼の作品はいつ読んでもなかなかいい文章ですね。 ご高覧下さい。 なお、添付写真は、送信容量の関係から8枚ですが、blogにはもっと多くの写真を掲載しましたので、興味ある方は末尾にあるブログのURLをクリックしてご覧下さい。 さらになお、当該写真群は携帯電話で撮影した写真なのでいつもの写真より画質が悪いことをご容赦下さい(「4.19歳頃の森鴎外(1881年)」「5.数え51歳の鷗外(1912年)」を除く)。
1070706_12070706_131070706_331070706_43070706_14191881_15511912_16_17070706_1
藪下の道」から・・
▼漱石の『三四郎』についてふれておく。 主人公たちが団子坂に菊人形を見物にゆくくだりが出てくる。
▼迷子が出るほどの雑踏であった。
▼漱石は、団子坂について、このようにいう。
  坂の上から見ると、坂は曲がっている。 刀の切先(きっさき)の様である。 幅は無論狭い。
▼(前略)雑踏で気分がわるくなった美禰子(みねこ)が、三四郎を人気(ひとけ)のない小みちにさそう。 美禰子は三四郎を弄(もてあそ)んでいるかのようである。
▼小川が、流れている。 やがて根津にぬける石橋のあたりまできた。
▼さて、鷗外の団子坂にもどす。 団子坂の男女も、この橋のあたりまで歩く。 女が、いった。
「おや。 もう橋の処へ来ましたのね」
 男が受けて、
「三四郎が何とかという、綺麗なお嬢さんと此所から曲がったのです」
 というのである。
▼べつに私がおかしがることはないが、観潮楼主人の鷗外がどんな顔つきでこのくだりを書いていたのかを思うと、意味なくおかしい。(以下略)
根津権現」から・・
(添付写真は、「根津神社入口付近の情景」「根津神社表参道入口」「『根津神社略記碑文」「楼門」「唐門前の茅の輪くぐりの説明立札」「唐門と茅の輪」「根津神社説明碑文」「社殿と狛犬」「社殿」「『東京十社めぐり案内看板
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▼(前略)根津というのは江戸中期の宝永年間(1704~11)、幕府の造営によって根津権現ができるまで、文献にはこの地名はなかったそうである。 神社も、千駄木に鎮座していたものが、この中腹に移された。 移されたとき、根津という固有名詞がついた。(中略)
▼この境内は、もとは六代将軍家宣(1662~1712)の甲府中納言時代の旧邸があったところである。
▼家宣が、叔父綱吉(五代将軍)の養嗣子になったあと、綱吉の命で邸趾に神社が営まれ、社領五百石が寄進された。
無縁坂」から・・
▼(前略)鷗外・森林太郎のことである。
▼石見の山峡(やまあい)の小藩(四万三千石)の典医の家に生れた。 家格は低くなかったが、家禄は五十石にすぎなかった。
▼津和野は亀井氏十一代の城下で、文でふかく耕された藩であった。 漢学だけでなく、江戸後期には国学もさかんで、さらに蘭学がくわわった。
▼典医としては、森家の縁戚の西家もきこえた家で、西家から西周(あまね)(1829~1897)が出る。 鷗外にとってはつねに先達というべき存在だった。(中略)
▼明治五年、十歳のときに父とともに東京に出た。(中略)
▼(【筆者注】東京医学校予科(現東京大学医学部))入校は、明治七年(1874年)、十二歳のとしであった。
▼十二歳では若すぎるというので、父や西周たちが二つ鯖を読ませ、万延元年(1860年)うまれということになった。(中略)
▼晩年、陸軍軍医総監から帝室博物館長になり、六十二歳(実際は六十歳)のとき死の床に就き、有名な遺言を書くことになる。
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何(イカ)ナル官権威力ト雖(イエドモ)、(コレ)ニ反抗スル事ヲ得ズト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス
▼この禅的な解放感のなかに、官歴の年齢から解放されるという気分がふくまれていたにちがいない。(以下略)
【筆者comment】■団子坂と言えば、上記のように漱石の「三四郎」や鷗外の「団子坂」に登場する。 根津神社は大都会東京の中にありながら昔ながらの情緒と静寂を保っていた。
▼本郷界隈というと、J司君や夏目君、彦坂君の母校東大がすぐ傍にありましたね・・。
【後記】■今、8日の午後五時を回ったところ・・。 Anton Bruckner の Synphony No.6 の第二楽章Adagio. Sehr feierlichを聴いている。 この曲も彼の作品として御多分に漏れず、一楽章だけで18分と長い。 ブルックナー(Bruckner)というと、荘厳なOrgan的な音響とある意味単調な曲調が特徴の大作曲家と言えるが、このアダージョは、ラフマニノフの交響曲第二番に優るとも劣らない映画音楽的な聴き易い名曲です。 まだ聴いていない方がいらしたら、騙されたと思って是非一度聴いてみて下さい。 ほんと、いいですよ。 気だるく鬱陶しいこの季節、気分を爽快にしてくれる一曲だと思います。
*
■さて今日、最後にお贈りするのは、恒例となりましたバルダザール・グラシアンの「賢人の知恵」から、1.人とのかかわりについて です。
007. 自分と対極にある人とつきあう
■見習いたいと思える人を手本にしよう。 尊敬する人に常に接し、その判断力や態度、ふるまいを学びとろう。 自分の欠点と対極にある人とつきあうこと。 自分が大酒のみなら酒はたしなむ程度という人たちの仲間に加わり、粗野なら温和な仲間を選ぶのだ。
■森羅万象は対比から成っている。 対比があるから世界は持続し、しかも美しい。 このことを頭に入れて友人を選ぼう。 両極端が集まることで、中庸をうまく守ることができるかもしれない。
008. 平凡な人とつきあう
■自分より光っている人は、それがその人の長所のためであっても、意地悪なものであっても、一緒にいるべき相手ではない。 相手のほうが常に注目や栄光を集め、こちらはそのおこぼれにありつくだけだ。
■月が明るく輝くのは太陽が出ていないときだけ。 同じように、自分をしのぐような才能ある人と同じ土俵に立つことは避けよう。 反対に、自分よりも輝きが弱い人とだけつきあうようにするのだ。 世渡りのコツは、自分より優れた人とではなく、平凡な人と肩を並べて歩くこと。
【筆者注】この「008.平凡な人とつきあう」は「004.聡明な人とつきあう」「005.信頼できる人とつきあう」「006.優れた人とつきあう」と矛盾すると思われるかもしれない。 でも実は、そうではないのだ。 case by case で平凡な人とつきあうことも大切なのである。 とくに「004.聡明な人と・・」「006.優れた人と・・」だけつきあっていては、自分のraison d'etre(=レーゾン・デートル存在価値)がないように思われて自信喪失に陥る懸念が生じる。 蓋し、「時に応じて色々な人と付き合い、自分の幅を広げて行け」 ということである。
009. 八方美人になる
■学ある人と一緒なら、自分自身も博学になろう。 信心深い人と一緒なら、こちらも信心深くなろう。 好感を持ってもらう秘訣は同類であることだ。 仲間内の主流となる特徴をよく観察し、自分もその場ではそういう人間になるのだ。 生真面目な仲間なら、おごそかにうなずいてみせる。 陽気な仲間なら、気持ちよく笑う。
■あなたが下っ端のうちは、特にこの態度が大切となる。 理解が深まり、精神的に成長するにつれ、この才能を磨くことあがたやすくなってくるはずだ。
■ここをclickして下さい。【2637の会】のblogに繋がります。→  URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

*(了)

2007年7月 5日 (木)

【時習26回3-7の会 0104】~「二橋君と中村君からの返信はがき&二橋君からの同窓会参加表明」「佐佐木信綱」

Blog_3「0707052637nokaiannaijosohusakiblog.xls」をダウンロード ■今泉悟です。 【2637の会】の皆さん、また嬉しいお知らせです。 掲題にありますように、7月3日中村君二橋君両氏から同窓会出欠返信はがきが同時に到着し、二橋君から「出席表明」を頂戴しました。 これで8月11日の同窓会参加予定者は、鉄三先生を含め13名になりました。 嬉しいですね。 添付写真と「出欠状況表(070705-2637nokai-annaijo-sohusakixls(34KB))」をご覧下さい。 以下にお二人が書いてくれた【近況】をお示しします。 残念ながら中村君は「欠席」ですが、・・
中村君 【2637の会】同窓会は、来年も開催しますので、都合がついたら是非来年はお会いましょう。 中村君の1973年当時のsnap-shotをご本人のご諒解なく添付することをご容赦賜り度(中村君は残念ながら直近の写真がありません)。 二橋君の写真も同じく、そして一緒に写っている飯田君(1973年版[モノクロ]右奥から二橋君、飯田君)、原田君(2007年版[カラー]:右から二橋君、原田君、今泉の順)もご容赦下さい。
1973_15【中村】 ・・・ 忙しいばかりの毎日です
二橋君は、「出席」してくれます。 二橋君、本当にありがとう。 8月11日の再会を楽しみにしています。 それから貴兄からの依頼のホテルの件、当社がdiscountできるホテルは残念ながらありませんが、お手頃なホテルをご紹介させて頂きました。 それで良かったようですね。(^-^;)/ 
1973_182007_4【二橋】 ・・・ 元気です。 当日快適で貴兄の会社のDiscount効くHotelはないですか?
■明後日7月7日は二十四節気でいう小暑。陰暦6月の節。 いよいよ暑さも本格的になり「温風至」の候。 
■ところで、翌7月8日は、歌人佐佐木信綱(1872.7.8)と日本画家東山魁夷(1908.7.8)の誕生日。 と言う訳で、今日はまず、佐佐木信綱について一言お話します。 彼は、小生が今住んでいる隣り町の名家N家と懇意で、彼が身罷る昭和38年近くまでよく立ち寄ったということである。 彼の歌は、碩学に裏打ちされた奥行きのある、それでいて解り易い歌が多く、小生は大変好きな歌人である。
Photo_44Photo_45▼彼は1872(明治5)年三重県鈴鹿市の生まれ。 国学者佐々木弘綱の独自の英才教育を受けて、早くから才能を開花させ、明治維新当時とは言え、若干12歳で東京大学古典科に入学し、僅か16歳で帝大を卒業。 その後、彼は短歌の実作と万葉集の基礎的研究に従事し不朽の業績を残す。 1937年文化勲章受賞。 ここに彼の代表作の幾つかをご紹介します(江田浩司著「60歳からの楽しい短歌入門」(実業之日本社)より)。
  ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲
  【解説】「の」の多用による流れるような韻律と、「や」の配合の素晴らしさ。 晩秋の情景を視覚の移動により、大から小に視点を移し、最後に一片の白雲に完結させる鮮やかな技法。 一読して覚えられ、忘れ難い名歌と言われる。
  春ここに 生るる朝の 日をうけて 山河草木(さんかさうもく) みな光あり
  【解説】1951年刊行の歌集『山と水と』に収録。 この歌は、新春のめでたさを称揚している。 余分な装飾の全くない、韻律の素晴らしい、何度でも読み返したくなるような秀歌である。
  ありがたし 今日の一日(ひとひ)が命 めぐみたまへり (あめ)と地(つち)と人と  [遺詠]
  西上人(さいしょうにん) 長明大人(うし) 山ごもり いかなりけむ年の ゆふべに思ふ  [遺詠]
  【解説】これら二首は辞世の句である。 一首目は今日一日の命を恵んで頂いた天と地と人に感謝している歌。 一日一日の命を愛(いつく)しむ信綱の心情がしみじみと伝わってくる。 二首目は、敬愛する西行と鴨長明の山中の隠遁生活に思いを馳せている歌である。 西行、長明・・、彼らの生き方は人を惹き付ける魅力に満ちている・・。
【後期】■今日も、最後にバルタザール・グラシアン著「賢者の知恵(The manual of Prudence」から、今日は、004~006の三篇をお贈りします。
1.人とのかかわりについて
004.聡明な人とつきあう
■聡明な人とつきあえることは実に幸運なことだ。 無知や誤解といった危険から身を守り、災難から救ってくれる。 野蛮人のように敵国兵士を片端から捕らえては家来にするよりも、聡明な人に仕えてもらうほうがどうれほどいいか! 自分より優れている人に尽くしてもらえるようになれば最高だ。
■知識は後々まで残るが、人生はあっという間。 知識のない人は滅びる。 だから、多くの人から学び教わることを厭ってはいけない。
■人は自分が学んだすべての賢人の言葉を語り、その努力を通じて自らも賢人となる。 これが達成できるのは優れた人物だけだ。 まず学び、次に自分の得た知識のエッセンスを教えるのだから。 そこまでの知識を身につけるのは無理でも、せめて知識に親しむ努力はしよう。
005.信頼できる人とつきあう
■信頼しあえる人とだけ行動をともにしよう。 相手が信用に価する人物なら、万が一意見の相違が生じてしまったときでも、その人の行動を予測することができる。 信用できる人と議論するほうが、信用できない人を言い負かすよりもずっといい。
■落ちぶれた人は失うものが何もなく、守るべき信用もない。 こういう人と真の協力関係は築けないから、かかわりを持たないほうがいい。 信用されるからこそ、人は行いを正すもの。 信用されない人は美徳も持ちあわせていないのだ。
006.優れた人とつきあう
人は、誰と一緒にいるかで判断される。 名高く尊敬されるような人と肩を並べるのは畏れ多い世才ではあるが、たいへん役に立つ才略でもある。 敬愛される立派な人と行動をともにしていれば、その威光のおかげで、こちらまで輝いて見えるのだ。
■【2837の会】blogへはここをclickして下さい → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog  (了)

2007年7月 2日 (月)

【時習26回3-7の会 0103】~「彦坂君からのmail」&「長谷川泰子『中原中也との愛』」&「白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』より」

■今泉悟です。 今日は、大変嬉しいお知らせです。 彦坂君よりmailが届きました。 彦坂君ありがとう。
▼今日は、最近mailが来なくて意気消沈していたところに、彦坂君からmailを頂戴し、とても嬉しくなって【0103】号を配信することにしました。 早速ご紹介致します。
▼----Original Message----- From: 彦坂T孔 [mailto:xxxxxxm]  Sent: Monday, July 02, 2007 9:02 PM To: '今泉悟' 
Subject: 暑中見舞い 
                                                2007/07/02
今泉悟様
                   彦 坂 T 孔
 暑中お見舞い申し上げます。
7月に入り夏本番という季節ですが,お元気ですか。 新たな職場で,何かと気苦労が多かろうと思いますが,精力的な2637の会の会報作りには毎回感心するしだいです。
 古くは小林秀雄から,瀬戸内寂聴や塩野七生(こちらもそれほど新しくはないですけど。)へとそういう本もあったんだ,という感じで読ませてもらっていますが,
今は少し忙しくてたまに斜め読みですが,これからも無理のない範囲で,続けてほしいものですね。
 8月11日は,今のところ,1次会は出席できそうな予定ですので来月またよろしくお願いします。
 それでは暑さ厳しき折,ご自愛下さい。
1973_142006_7【筆者comment】■彦坂君 mailをありがとう。 嬉しいです。 8月11日の再会を楽しみにしております。 それからまた万年幹事と特権で貴君の1973年版と2006年版の写真を添付することを事後ながらご容赦賜り度(添付写真をご覧下さい)。
Greta_garbo1924_1905901Photo_46Photo_47■さて、また、面白い本を見つけました。 一連の小林秀雄、中原中也関連で、彼ら二人の共通の女性、長谷川泰子(村上護編)『中原中也との愛』(角川ソフィア文庫)です。 その中の一部をご紹介します。
▼潔癖症のことを、くどくどいうようですが、小林(【筆者注:小林秀雄】)とは、私(【筆者注:長谷川泰子】)が潔癖症だったために、かえってしっかり結びついていたといえましょう。 小林はそのことをまるでシベリア流刑だと、といっておりました。(中略)
▼私はなんでも、ある意味で完璧にしなきゃ、気分がおさまらない性格なんです。 そう意識しだすと、神経がどうしようもなく高ぶります。 途中、自分の思わくと違って、ちょっとでも曲がると、もう大変になるんです。
▼「わたしはどこにいるの」
▼たとえば、私は小林にこう質問するんです。 小林はそれに応じて、「どこそこだ」というわけです。 そんなとき、私は自分だけの妄想の世界のなかにいて、その妄想の世界での私のいる場所を、小林にいい当ててもらいたいんです。 小林は答えるべきことばをこしらえて待っておりました。 だけど、妄想のなかの私の場所を、小林はいい当てられるはずがありません。
▼まるでパズルみたいなもんですが、私の出す質問にパッと答えが出なければ、もうワーワーになってしまうんです。 そして、気持ちはますます難解になっていきました。(中略)
▼小林にいわせれば、これは質問病なんですが、(中略)私の質問病では、さんざん小林を困らせ、思いどおりの答えが返ってこないときは、私は泣きわめき地団駄ふんで、赤ん坊と同じになりました。 小林は私の病気が肺病かなんかだったら、いくらでも介抱してやるんだけど、ことばがこんなんじゃどうしようもない、とよくいっておりました。 いま思うと二人の生活はちょっと想像できないくらい凄絶なものでした。
【筆者comment】■長谷川泰子の小林・中原との思い出話をこのように、つらつらと話していくのであるが、まぁ、端的に言えば、彼女は自己中心的な女性だったのですねぇ。 男と女の関係は、当人同士でないとわからない・・。 これは、古今東西、普遍的な心理でしょうねぇ・・(笑)。
■長谷川泰子について、白洲正子はまた手厳しい・・。 「いまなぜ青山二郎なのか(新潮文庫)」で次ぎのように言っている。
▼(前略)ひと口でいえば、彼女(【筆者注:長谷川泰子】)は過去に生きている女性で、現実のことは目に見えない。 「小林小林とお咲(【筆者注:長谷川泰子】)はいふが、小林は昔お咲が見た小林ではない。」そういってジィちゃん(【筆者注:青山二郎】)がたしなめると、そのときばかりは色をなしたという。「小林小林が、睡り女の唯一の幅の利かし処だったのである」
【後記】■今日の締め括りは、前【0102】号から始めた「バルタザール・グラシアン著『賢人の知恵』」から、第2回目をお贈りします。
1.人とのかかわりあいについて  002.運のいい人を見分ける
▼運のいい人と悪い人を見分ける能力を磨こう。 ついている人たちのそばにいて、その恩恵にあやかるのだ。
▼一方、ついていない人からは逃げるにかぎる。 悪運は無分別な本人の身から出た錆、しかもその災難は伝染するかもしれないのだ。 小さな不運ひとつたりとも入り込ませてはいけない。 もっと大きな不運をさらに引き寄せてしまう。
▼トランプでどれを捨て札にするかが勝負の鍵であるのと同じように、人生においては、避けるべき人物を心得ていることが非常に重要だ。 聡明な人、思慮深い人に出会ったら、そのそばを離れないこと。 幸運はまちがいなくそのあたりにある。
003.人を見きわめる
▼自分の人生にかかわる人をしっかりと見きわめよう。 相手の考えを、用心深く探るのだ。
▼人生で大切なことは、植物や岩の構造を証明することにより、人の中身を理解することだ。 人を、その話す内容で判断しよう。 また言葉だけでなく、行動を見ればもっとその人の真価がわかる。
▼ブログをご覧になりたい方はここをclickして下さい→ URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog 

*(了)

2007年7月 1日 (日)

【時習26回3-7の会 0102】~「瀬戸内寂聴『寂聴古寺巡礼』~石山寺」&「道綱の母『蜻蛉日記』」

■今泉悟です。 一週間ぶりのmailです。 大変蒸し暑い毎日が続いていますが、お元気でお過ごしですか?
▼一昨日29日の朝、8時40分~9時00分まで、小生が勤める現在の会社が、昔から自主的に実施している月例の社会奉仕活動、当社ビル周辺の『530(ゴミゼロ)運動』という街の清掃活動をやりました。 朝だというのに、気温は30度近くあったように感じられ、さらに湿度は相当高かったと思います。 作業開始からほんの2~3分で汗がポトポト出て来る始末・・。 今年はラニーニャ現象もあり、猛暑が予想されるとか・・、お互い健康維持に充分留意して行きましょう。
■前【0101】号を出状以来、ここ一週間は、残念ながら【2637の会】の皆さんからの情報がございません。 「まぁ、そう言う時だってあるものさ・・。」と気楽に考えていますが、皆さんからのお便りがあった方がいいに決まっていますので、ドンドンお便り(e-mail)をお寄せ下さい。 お願い致します。
▼ところで、8月11日の同窓会二次会の件ですが、一次会会場のブラウンズ(松葉町)の終了時間が20時ですので、是非、二次会を開催したいと思っているのですが、昨年会場となりました「司」はspaceの関係から10名が限度ということで、今回は別の場所を考えています。
▼しかしながら、小生、豊橋の住人でいながら、まだ自信をもってお薦めできる「安心・安全・安価」かつ駅に至近の二次会会場を知りません。 もし、【2637の会】の皆さんの中で、推薦頂ける場所をご存じの方がいらっしゃいましたらお教え頂ければ幸甚です。 小生も一応、今お世話になっている会社の人から上伝馬町57-2チャームビル2Fにある「スナック花」というところを教えて貰っています。 そこならば「安心・安全・安価」であることは間違いないとのadviceを頂戴してはありますが、まだ小生行ったことがありませんので、近々踏査して確かめて来る予定です。 欠点は、所在地がブラウンズから徒歩4~5分北東に位置するということで・・、「豊橋駅から遠くなるのがちょっと難点かな・・」と思案しているところです。 繰り返しますが、【2637の会】の地元在住の皆さん、もし二次会会場としていいところがありましたら是非ご紹介下さい。 お願い致します。
■さて、今日は前【0101】号でご案内しましたように、瀬戸内寂聴寂聴古寺巡礼から石山寺です。 石山寺も、前号と同様旧【3-2】中嶋Y行君と旧【3-3】谷山K君と三人で4月30日に日帰り旅行で行って来ました。 天候にも恵まれ、新緑が目に沁みる感動的な古刹でした。 では、「寂聴古寺巡礼」から石山寺の一部をご紹介致します。
石山寺の名が私の記憶に沈み込んだのは、紫式部石山寺源氏物語を書いたといる伝説よりも先に、蜻蛉日記の著者の道綱の母が、夫兼家との間に不安を感じた頃、いてもたってもいられなくて石山詣でをして、一晩参籠した寺としてであった。
道綱の母は、その頃本朝第一美人の三人の一人と謳われた人で、才女で、歌が上手で、プライドの高い女だった。(中略)彼女は夜離(よが)れする男(【筆者注】=後摂政太政大臣となる藤原兼家)への嫉妬のほむらで胸をこがす。(中略)兼家の冷淡さにプライドを傷つけられながらも、男の訪れを待つしかない平安時代の貴女は、孤閨にもだえ、嫉妬に狂いそうになる自分をなだめかねて、思いきって物詣でに出発する。 平安の貴女が、物詣でに出ることは、唯一の気晴しでもあった。 それはまた自分の力ではどうすることも出来ない嘆きや不如意(【筆者注】思いのままにならないこと)を、神仏にすがって祈ることでもあった。
道綱の母は、陰暦七月半ばすぎ、暑さのきびしいころに、誰にもつげず、思いきって石山寺に向う。(中略)彼女は未明に、徒歩で出発している。 そこに彼女の切迫した気分が感じられる。(中略)
石山寺が、私(【筆者注】寂聴)の心に強く印象づけられたのは、平安の昔にひとりの女が嘆きをこめて書いたこの日記体私小説の文章のせいであった。 道綱の母石山寺に参詣したのは、三十五歳頃で、天禄元(970)年の夏であった。
▼それから三十四年後の寛弘元(1004)年八月紫式部石山寺に七日間参籠をして、源氏物語の構想を練り、ここで書きはじめたという伝説が流布している。(中略)紫式部が、石山寺に参籠し、物語の成功を祈り、自分より三十四年前に、すでに素晴らしい日記文学を書き残した道綱の母の天才にあやかろうとしなかったとはいえいないだろう。
▼八月十五日の月を仰いだ時、式部はおそらく蜻蛉日記の作者が七月の月を仰いで、泣きむせんだことを想いだしただろうと想像される。(中略)
石山寺はいつ詣っても参詣客で賑わっている。(中略)西国巡礼の札所の中でも、有数の大寺で信仰を集めているからでもあろう。(中略) 01a070430_1▼行く手には石山寺の大提灯が02070430_2 03070430 左右の門柱に下った東大門がそびえていて、運慶湛慶(たんけい)の作といわれる仁王が迎えてくれる。(【筆者注】添付写真ご参照)
040704300507043006070430▼門をくぐると、石畳がつづき、両側は石山つづじの名で有名なつつじの植込が連る。 ここのつつじは背が高いのが珍しく参詣者の目を愉しませてくれる。 花時の鮮やかさもいいが、青葉の頃も美しい。(【筆者注】添付写真ご参照)(中略)
▼本堂は真言密教の様式で、御本尊の如意輪観世音は秘仏として公開されない。(中略)
石山寺は本来、東大寺との関わりから、同じ華厳宗で、その道場となっていたが、後に真言密教の道場となり、小野派の密教を伝えていて、加持祈祷の霊験(れいげん)もあらたかなところとなっている。
0707043008070430092070430▼源頼朝の寄進によるという多宝塔((【筆者注】添付写真ご参照)は、我国最古のものといわれ、優美でしかも力強く見事だ。(中略)
▼このあたりは、国分寺跡にも近いが芭蕉の棲んだ幻住庵(げんじゅうあん)も近い。 芭蕉が日夜来て拝んだという仏を石山寺は今も安置している。
  あけぼのは まだ紫に ほととぎす  ((【筆者注】添付写真「芭蕉の句碑」ご参照)
11070430 10070430
 というのは、「勢田に泊まりて暁に石山寺詣で源氏の間をみる」という題がついて詠まれている。(以下略)
【筆者comment】■道綱の母は、小倉百人一首53で、「右大将道綱母」として次の歌が載っている。(拾遺集恋四(912))
  嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜(よ)の 明くる間は 
                  いかに久しき ものとかは知る
 【意】あなたを待ちわび、嘆きながら独りで寝る私にとって、夜が明けるまでがどんなに長いものか、あなたはご存じないしょうね。
【筆者comment】■この歌は蜻蛉日記にも載っている。 そこでは詠作事情が拾遺集と違ったsituationで記されている。 ・・夫(兼家)が近頃、別の女のもとに通っていることを知った作者が、夫の訪れを知りながらけっして門を開けようとせず、朝方になってからあらためて贈った歌とある。 ひとり寝の長さとわびしさを訴えかけた歌であり、「いかに・・・・かは知る」という強い口調からは、夫の不実に対する強い抵抗の姿勢を読みとることができる。
■この歌を白洲正子は「私の百人一首」(新潮文庫)で次のように評しています。
▼「かげろふの日記」の作者である。 承平七(937)年藤原倫寧(ともやす)の女に生れ、藤原兼家と結婚し、道綱を生んだ。「かげろふの日記」は、兼家と会って捨てられるまでのいきさつを、回想的に記した散文で、孤独の辛さと、愛欲の苦しみを、しっかりと見据えて書いている。 そういう自分をかげろうにたとえて、「あるかなきかの心ちする、かげろふのにき(日記)といふべし」と、自ら命名しているのは、その名に似合わず気丈な女性であったことを示している。(中略)道綱の母は、特別内交的な性格のように見うけられる。 だから名作が書けたのであろう。 が、男の身になってみると、うっとうしい女性だったのではあるまいか。 兼家がつまらぬ町の女にひかれたのも、息ぬきを必要としたに違いない。 そういうことが重なって、兼家はほんとうに離れてしまうのだが、どちらかといえば、男の方に私(【筆者注】白洲正子)は同情したい気持である。(以下略)
【後記】■最近、とってもいい本を見つけました。バルタザール・グラシアン(1601-58)著(齋藤慎子訳)賢人の知恵(Baltazar Gracian "The Manual of Prudence")((株)Discover21)だ。 これから毎回順を追ってご紹介して参ります。  欧米ではマキヤべり『君主論』と並ぶ不朽の名著として読み継がれているそうです(―「はじめに」から―)。
1.人とのかかわりについて ~ 001. 好ましい人とつきあう
 ◆何かしら得るところや、学べるところのある人とつきあおう。人づきあいを、相手から学び、お互いの知恵や意見を交換する場にしていこう。持ちつ持たれつの関係であれば、与えることで感謝され、また自分も新しい情報を得て視野を広げることができる。
 ◆もののわかった人は高潔な人とつきあい、見栄だけで行動するような人を避ける。有能な人は、偉大さを発揮する人、学術学問に足跡を残すような人とつきあいたいと思うもの。大事なのは知識より知人なのだ
【筆者comment】■【2637の会】の皆さんは、「好ましい人」達のばかりであることは言うまでもありません。まさに「大事なのは知識より知人(=【2637の会】の皆さん)」ですね。
(了)

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05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

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    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

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    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

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