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2007年10月の6件の記事

2007年10月31日 (水)

【時習26回3-7の会 0132】~「立冬」「青春のうたから「石川ひとみ『まちぶせ』」「H2O『想い出がいっぱい』」」「Diana Ross"If We Hold on Together"」「食糧をエネルギーに、この転換は正しいのか」「原油価格上昇で深刻化するガソリンと灯油の店頭価格の高騰!!」

■今泉悟です。 流石に秋本番を迎え、日中でも素肌を出していると、陽射しが蔭ると少し肌寒さを感じる今日この頃ですが、皆さん如何お過ごしですか。

▼暦の上では、118日は二十四節気でいう「立冬」です。 「冬の気立ち初めて、いよいよ冷ゆればなり(暦便覧)」という節ですが、上記のcommentと矛盾する様ですが最近は地球温暖化なのか、暦が丁度一月後方へシフトしている様に感じるのは小生だけでしょうか。(笑)

▼ただ聞くところによると、田原市内の小学校ではインフルエンザのため学級閉鎖した小学校があるとか・・。 風邪にかからぬ様努々油断なさらぬ様、お互い気をつけ元気に毎日を過ごして参りましょう。 さぁ、今日も【2637の会】会報をお送りします。 今回は【0132】号です。

■今日は、秋の夜長に相応しい、懐かしいポピュラーな名(迷?)曲を3曲ご紹介致します。 「青春のうた」シリーズから2曲と、アメリカの曲1曲です。

▼今回ご紹介する内外の曲3曲は、いずれも1980年代から90年代初頭にヒットした曲なので、我々も青春を過ぎ、社会人となり、家庭生活を始めた頃の作品群です。 懐かしい歌詞を見ながらメロディーを思い出し見て下さい。 これら国内の2曲は、は来年の【2637の会】同窓会に『青春のうた Part3』に載せる方向で今のところ考えています。

▼まず第一曲目です。 それは・・、

Photo石川ひとみ・・まちぶせ19814月発表)】・・です。

▼この曲の作詞/作曲は荒井由実である。 荒井由実の歌は、詩もメロディーも彼女のオリジナリティーがあり、魅力的な作品が多い。 この曲もそうだ。 ある女性が愛する男性への熱い片想いを胸に秘め、その男性から「自分を好きだ言わせて見せる」という強い決意(=プライド)を巧みに描写している。 「女性って、こういうものなのかぁ・・」と、この曲を初めて聴いたとき、変に感心したものだった。(笑) ・・では、その歌詞をご紹介します。 

▼石川ひとみ(添付写真ご参照)は、名古屋市出身。 フジテレビのオーディション番組『君こそスターだ』で優勝し1978年にデビュー。 10枚目のシングルがこの「まちぶせ」で初のトップ10入りした。 作詞・作曲者のユーミン自身、1997年に発表したアルバム『Cowgirl Dreamin'』で self-cover している。

 夕暮れの街角 のぞいた喫茶店

 微笑み見つめ合う

 見覚えある二人

 あのこが急になぜか

 きれいになったのは

 あなたとこんなふうに

 会ってるからなのね

 ( 以下略 )

【筆者comment】この曲が発表された19814月は、我々は26歳になる年の春。 小生は就職した銀行の2か店目の得意先係として預金集めをやっていた。 よくサボったとき寄った喫茶店では、アバやビリー・ジョエルなどの曲が流れていた・・。

▼第二曲目は・・、

HO・・想い出がいっぱい』(19833月発表)】・・です。

▼阿木燿子作曲 鈴木キサブロー作曲

Tv▼この曲は、あだち充原作のTVアニメ『みゆき』(添付写真ご参照)の ending theme としてオンエアされ大ヒット。 しっとりした main melody は忘れがたい魅力に溢れている。 HOは、中沢堅司と赤塩正樹とのデュオ(1976年結成~1985年解散)。 今(2007)年には、キャノン・プリンターのCM曲に彼らが再録してオンエアされている。 ホント、ホッとさせてくれる歌である・・。

* 

 古いアルバムの中に隠れて想い出がいっぱい

 無邪気な笑顔の下の 日付は遥かなメロディー

 時は無限のつながりで 終わりを思いもしないね

 手に届く宇宙は 限りなく澄んで 君を包んでいた

 ( 以下略 )

【筆者comment】▼この曲が発表された1983(昭和58)年3月は、我々は満27歳。 小生は、陸奥(みちのく)仙台の支店に転勤して1年弱。 仕事は仙台市以南の宮城県下(名取市、岩沼市、角田市、亘理町)の取引先担当の得意先係として、毎日ホンダ・シビックに乗り、90100kmを走り回っていた。  時々、亘理町の阿武隈川の畔(ほとり)まで来ると、辺り一帯、大自然と大田園風景がつづく・・。 当時の宮城県は、同県民の方々には悪いが、仙台市を除くと本当に田舎であり(・・自然がいっぱいであったということ・・)、孤独感を感じたものである。

▼そして第三曲目は・・、

Diana Ross・・If We Hold on Together』(1988"The Land Before Time(リトルフットの大冒険)"(添付写真ご参照))(1991"The Force behind the Power")】・・です。

The_land_before_time1988▼この曲は、Steven Spielberg George Lucas の製作総指揮によるアニメ映画 The Land Before Time (「リトルフットの大冒険/謎の恐竜大陸」1988年)の挿入歌。 Diana Ross 1991年にリリースしたアルバム The Force behind the Power にも収録され、日本でも大ヒットした。 一度聴くと忘れられない名曲である。

Don't lose your way

  With each passing day

  You've come so far

 (  以下略  )

【訳】

 道に迷わないで

 日々少しずつ前に進んで

 あなたはやっとここまで来たのだから

 (  以下略  )

【後記】■さて、週刊東洋経済(2007.10.27)に興味深い記事が出ていましたのでご存知の方も多いと思いますが、小生も最近強い関心を持っていますので、一部ご紹介させて頂きながら、今日の会報を締め括りたい思います。

【食糧をエネルギーに、この転換は正しいのか】〔ジェフリー・サックス(コロンビア大学地球研究所所長)〕(・・抜粋・・)

▼現在、世界的な傾向となっているのが自然資源の枯渇である。 石油と天然ガス価格の上昇が進み、食糧価格が急騰、貧困国は厳しい状況に。 国家間の問題に加え、都市・農村間でも所得移転が惹起されている。

▼こうした一次産品の価格上昇は世界経済の成長、なかでも中国・インドの高成長が主因。 この為、土地、木材、石油、天然ガス、水の供給等が物理的な限界に直面。 その結果、エネルギー・食糧等の一次産品価格が世界市場で上昇中。 大気汚染という環境問題も引き起こしている。

▼世界の食糧価格の劇的な値上がりの背景・要因は食糧の消費量が急速な増加にある。 中国人が(経済成長に伴い)以前より多くの肉を消費。 その結果、大豆やトウモロコシを飼料として飼育された家畜の肉を大量に輸入。 食糧価格の上昇は、食糧生産のコスト上昇を招く。 食糧生産の係る輸送や肥料生産には大量のエネルギーが必要だからである。 同時に、エネルギー価格の上昇は、農家の食糧生産からエネルギー生産へのシフトを促進させている。

米国では20067年に生産されたトウモロコシの総収穫120億ブッシェル(【筆者注】(bushel : 〔記号〕bsh,bu 〔系〕ヤード・ポンド法) 〔量〕体積 〔定義〕8ガロン 〔1bsh = 35.24ℓ(米), = 36.37ℓ(英)〕)のうち、20bsh.が燃料用エタノールに使用されている。 そして0708年には、メタノール生産に使われるトウモロコシの量は35bsh.に増えると予想される。 さらに現在、70以上のエタノール製造工場が建設中で、食糧用トウモロコシを生産する農家は今後さらに減少が見込まれる。

天災も食糧生産抑制要因として大きく作用。 気候変動が要因となって引き起こされた災害に世界は何度も襲われ、小麦供給は0506年に62200万トンであったが、0607年には59300万トンまで減少している。

①世界の食糧需要の増加、②トウモロコシ等の食糧用から燃料用への転換、③大きな気候変動、とうい『三つの脅威』が夫々重なり合って、食糧需給逼迫による価格上昇を招いている。

【筆者comment

①「中国・インドを中心にBRICsの経済成長」が、「需要増加」を引き起こし、「世界的な景気拡大」を現出している。 

②一方、「米国は、『脱物づくり』の体質に消費・浪費が加わり」、世界最大の消費国として、世界経済の成長を、需要増加の面から支えて来ている。 「サブプライム問題」が世界中で、とくに投資家筋に暗い影を投げかけているが、その影響度は致命的にはならないであろう、という識者の意見が多い。

③「日本の輸出産業は、素材型産業を中心に、また米国・中国向け等を中心に活況を呈し(新日本製鉄をはじめ素材型産業は史上空前最高決算を現出)。 このこと自体は「円高要因」となっている。 「中国向け輸出拡大」が結果として、「中国産としてアメリカへ輸出」というパターンが定着し、日本の景気自体も、「10年間で6%増という超低空の経済成長(→5年を超える景気拡大、しかし、戦後最長の景気拡大であるのにその成長実感が乏しいという状況)」を現出している。

日本国内では、全国的に見た景況感は景気拡大を実感出来ていない。 即ち、トヨタ自動車に代表されるご当地愛知をはじめ太平洋ベルト地帯の景気は製造業を中心に好調を続けているのに対し、その他産業は景気浮揚に程遠い状況の分野が依然多い。 したがって、景気の先行きは、まだ不透明。

⑤「日本の超低金利外国大手企業円建て大型資金調達(=円買い)→円高要因」という動きもある。 ←◆ドイツ銀行やバンカメの日本金融市場での千億円超規模の円建て起債がその代表例。

⑥一方で、「原油、食糧等の一次産品輸入価格の上昇円安要因」という動きもある(一次産品の輸入価格の上昇が続けば、インフレ懸念が出てくる筈が、足許ではガソリンや一部食品に値上げがあったものの、小売価格の上昇に至っていない)。 原油・エネルギー等の一次産品価格の上昇は、「資源や技術力を持つ国と持たざる国との富の格差を一層拡大させる」という忌々しい事態を生じさせている。 今後、貧困国の窮状は益々深刻さを増していく。

⑦米国に先行き大幅な景気回復が期待できなくとも、これだけ一次産品価格が上昇してくると、資源大国の国力増大。 所謂BRICsの中のロシアや、中東諸国の国富はかなりのものとなり、購買力は極めては旺盛なものとなっている。 今後、中国・インドの景気拡大に多少の軌道修正がかかるにせよ、両国を中心にBRICsの経済成長はまだまだ持続すると見る方が理解し易い様である。

【原油価格上昇で深刻化するガソリンと灯油の店頭価格の高騰!!】

▼参考までに、原油価格の歴史的変遷を平成元年から、①原油価格(円/kl)、②原油価格(米$/B(バーレル(159)))、③円相場(=1米$)を示すと以下の通りである。

     〔 輸入原油価格の推移 〕

                        /kl    米$/B  円相場(円)

平成19(2007)8月 54,040  72.19   119.02

18(2006)年通年 46,638  63.46   116.83

17(2005)年 〃  39,728  55.80   113.19

15(2003)年 〃   20,955  29.43   113.21

10(1998)年 〃   10,316  12.76   128.55

07(1995)年 〃   11,057  18.27    96.23

05(1993)年 〃   11,407  16.73   108.36

03(1991)年 〃   15,796  18.89   132.68

02(1990)年 〃   20,296  23.35   138.28

01(1989)年 〃   14,453  16.71   142.22

Photo▼添付資料『日本の商品別輸入構造の推移』(経済産業省)によれば、日本の輸入総額に占める鉱物性燃料(鉱物燃料に占める石油のシェアは約9割)のシェアは、第一次石油危機以前の1960年~70年代は約2割であったものが、第二次石油危機の1980年には5割(・・故に、輸入総額に占める原油は45%・・)に達した。 その後、天然ガスや原子力等、エネルギー資源の多様化を促進し、2000年には再び2割の水準に戻った。 しかし、その後の原油価格の再上昇により平成17(2005)年には鉱物性燃料のシェアは2割5分強に達している。 今年はそのシェアはさらに上昇を続けている。 上記の〔輸入原油価格の推移〕をご覧の通り、平成10年対比今年8月実績では原油価格は日本円で5倍強、米ドルでは6倍弱の上昇となっている。 これはやはり異常と言える価格上昇である。

▼さらに薀蓄を追加すると、「ガソリン・スタンドは値上げに躍起だが、競争が厳しく56円値上げしてもなかなか儲からない」というお話を一つ・・。

▼上記〔 輸入原油価格の推移 〕表で、今年8月の原油輸入価格を見ると、1キロリットル当たり54,040円。 

▼故に→1ℓ換算では54円(a)が【原油代金】。 

そして目的税の【揮発油税】が53.8/ (b)。 

さらに【石油精製コスト】が約25/ (c) 

▼故に→ (a)+(b)+(c) = 133.8/ (d) *一方、最近のガソリン店頭価格は、145/(e) 

▼故に→(e)-(d) = 11.2/ℓ ←*この11.2/ℓのマージンを、「精製会社」「石油元売」「SS(ガソリン・スタンド)」各社が奪い合うという構図。 競争激化で利益確保は大変厳しい状況。 ガソリン・スタンド経営者は、不採算スタンドの閉鎖を推進したり、セルフ・スタンドに形を変え、生き残りに必死である・・。

▼また、政策的に割安に設定されている暖房用の灯油はどうかというと・・

▼灯油には、税金がかかっていない。 したがって、【原油価格+精製コスト+適正マージン】を加えた価格=【灯油の店頭販売価格】と考えてよいので、

今年8月の価格で販売価格を積算すると

【原油価格】54円+【石油精製コスト】25円+【適正マージン】15円=94/ℓ 

→ ∴【18リットル缶】 94/ℓ×18ℓ=1,692 

に石油会社がマージンゼロとしても

  ∴【18リットル缶】 79/ℓ×18ℓ=1,422円 

が店頭価格となる。

▼これがもし、原油価格が90米$/バーレル、円相場が118円と仮定すると、1バーレル≒159ℓ なので、66,792/kℓ 同様に18リットル缶換算で

  ∴【18リットル缶】 106.7/ℓ×18ℓ=1,920

マージンゼロでも 

∴【18リットル缶】   91.7/ℓ×18ℓ=1,650 

へと価格は跳ね上がってしまう。 原油価格は世界的に下落する要素が少ないため、今後も引き続き上昇することが予想され、一層高い灯油代を覚悟しなければならなくなりそうである。 となれば暖冬を歓迎するしかない・・・か???(笑)

▼最後に、ご参考までに最近のガソリンと灯油の店頭価格のインターネットでご覧下さい。

↓↓ ホント、憂鬱になりますネェ・・。

◆ここをクリックして下さい → http://ameblo.jp/musicsalad/theme-10003262047.html ← ここをclickして下さい。

了)

2007年10月28日 (日)

【時習26回3-7の会 0131】~「『立原道造』と『杉浦明平』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0131】号をお送りします。

▼今回の【2637】号【0131】号は、もう少し後に送信しようと考えていましたが、副題にある様に立原道造と時習館OBの杉浦民平氏との関係が浅からぬことが判り、そのことだけで今回、皆さんに送信することにしました。 毎度まいど勝手にmail配信させて頂き申し訳ありません。 m(_ _)m (笑)

■さて、杉浦明平氏(以下敬称略 )は191369日、愛知県渥美郡清田村(現、田原市古田(こだ)町)に生まれ(2001年3月14日没)、我らが母校旧制豊橋中学を卒業し、東大文学部国文科卒業。 在学中、一年後輩の立原道造と神田の古本屋街で知り合い、親しい交友を結ぶ。 彼らの親密さの一端を、立原が著した随筆「夏秋表」にて杉浦明平の名をあげ紹介していることからも窺える。 立原は、昭和十四(1939)年に24歳の若さでこの世を去ったが、彼の残された詩を編纂して『立原道造詩集』(岩波文庫)として世に出したのは杉浦明平である。 杉浦はまた『立原道造全集(全6巻)』の編纂にも携わっている。 それでは、以下にその「夏秋表」をご紹介する。 そこには、前【0130】号にて紹介させて頂いた『ゆふすげびと』に登場する「ユウスゲ」や「クサヒバリ」についての立原のコメントが素直に語られている。 参考になるものと思います。 ではご覧下さい。

    『夏秋表』   ・・・   〔立原道造 〕

  その一

 私はふたつのさびしい虫のいのちと交感を持った。

 信濃路に夏の訪れのあわただしい日、私は先生の山荘の庭に先生とならんで季節の会話のひまにその虫の声を聞いたのである。春蝉と言った。七月なかば、五日か七日をかぎって、林のなかに啼いて、あとは行方も知らない。その日々の高原の空にはほととぎす、やぶうぐいす、閑古鳥などの唄がひびいていた。そのなかに、春蝉は彼のかなしい感傷の小曲をうたいあげたのである。

 夏のあいだ、私は忘れるとなしに彼のことを忘れていた。幾たびも物がなしい夕ぐれに出会い、そのようなおりに私は彼のことを思い出さねばならなかった筈である。しかし私はすっかり忘れ果てていた。

 やがて夏も逝き、秋も定まった一日、私はふたたび先生の庭に客となった。そのとき先生は虫籠を示され、その虫を草ひばりと教えられ、その姿に「仄か」という言葉で註せられることを怠られなかった。座には高名な抒情の小説をものされる人が居あわせ、先生のその紹介も実はその小説家に向いてであったのだが、私はそれを盗んだ。夜に入って、それがその年の夏のおわりの一夜となったのだが、私は先生の書斎じゅうにせいいっぱいの魂を傾けつくしてうたい上げる草ひばりの唄を聞いた。私のもっとも潤沢のこの一刻に、私は、忘れていた春蝉のことを思い出し、この虫とあれと考え比べた。比べずともよい啼き声だったのである。草ひばりの声は、純粋な白金で造られた精巧な楽器を稚拙な幼童がもてあそんでいるような、ぎりぎりのイロニイであった。これをイロニイと聞いたのは私の歪みであったとおもうゆえ、私はそのことにひとつも触れず、そっと耳ばかりで彼の透明なうたい口を噛みしめていたのである。

 次の朝、草ひばりは籠を逃れ去った。私はこの叛いた虫を叢に追う愚行を敢てした。私だけのみれんである。叢では、昨夜の冴えと張りを忘れた虫らが、しらべのみはおなじ唄を繰りかえしていた。私は索然とした嫌悪を覚えた。しかし手は徒らに草の葉の向うをさぐりつづけた。

 夏のはじめと夏のおわりと――。

 私はこの虫らのいのちに交感を持った記憶をきょう忘れつくすことをねがっている。

    その二

 私はひとつの花を誹謗しよう。

 信濃路の村でその花を私は田中一三にたいへんたのしく教えた。淡いかなしい黄の花びらを五つ、山百合のように、しかしあのように力強くなく寧ろ諦めきったすがすがしさで、夕ぐれ近い高原の叢に、夏のはじめから夏のなかばまで日ごとのつとめとしてひらく花である。ゆうすげという名を或るひとから習った。そのあと植物学ぶ人から萱草わすれぐさきすげと習い、また時経てその花びらを食用にすることまでも習った。私は習いおぼえたかぎりを田中一三に教えた。

 きょう私は最初にその花を教えてくれたひとに向って愚痴を繰返すことを情ない慰さめとして持っている。この誹謗もまたその輪のほかを出られない。恥を知るまえに、ただ私はさびしい。私はいまもあんなにありありと心に帰るあの高原のイメージのために頬を濡らした。

 夏の逝くころ、私はゆえもなく紀の国の外側の輪廓を海岸や浪の上を辿りいちばん慌しくめぐった。信濃路ではすでにそのころ秋雨のようなものが降っていたのに、私のめぐった線は明るく白じらしく晴れていた。帰るさ、私は伊良湖岬に杉浦明平を訪ねた。すると、杉浦明平が僕にゆうすげの花を岩かげに教えるような運命になっていた。信濃路を別れて十日あまり、明るい海光に曝されつづけた私の眼に、おなじ名の花とおもえない、みすぼらしいみじめな花の姿が強いられた。田中一三に私が教えたようには杉浦明平が私に教えるわけはなかった。その花は橙色に近い黄の花びらを一枚一枚ずうずうしい位に厚ぼったくふくらませ、一茎に幾花もむらがっていた。

 私の持つふたつのゆうすげの絵は一体どうなることだろうか。互にあらがうであろう。そして、どちらかは跡方なく消えるであろう。

〔 底本の親本:「立原道造全集 第三巻」角川書店 1971(昭和46)年8月 〕

【筆者comment】▼我らの大先輩にあたる杉浦明平氏が旧渥美町福江の出身で有名な文筆家であることを、小生、恥ずかしながら、田原支店勤務のときに初めて知った。 その杉浦明平氏と立原道造がこんなに親密な関係であったとは、さらにビックリした。 また新しい発見をしたというちょっと嬉しい驚きでした。

◆立原道造の「友への手紙」(田中一三あて)

東京では、大学の銀杏の美しい新緑です。このアーチを胸に金釦をつけてくぐつて行くのもこの一年かぎりかとおもふと、その下をいくたびも歩きながら嫁ぐ日を待つ少女ほどの心のときめきをおぼえます。煤煙にじむ大都会の窓にも、春の雲が、ながれてをります。「花が雲のやうに」といふのがもしあなたの世界なら「雲が花のやうに」といふのが僕の世界なのでせう。花びらのやうに、ながれて行くものや、灰色の羊のやうに黙つて蟠つてゐるのもあります。そして今日僕の眺めてゐる雲は、おそらく物語のなかの少年少女、オオカッサンとニコレットの眺めてゐた雲とちがつてゐないのでせう。

十二世紀のその青空にはげしいあこがれを感じてをります。 なぜ自然科学など、僕たちは信じるのでせう。雲が水蒸気の滴りから組み立てられてゐるといふ伝説も信じたくない。雲は、だが何なのだらうとたづねながら、あまりにも真理をたづねたがる僕らのかなしい性質を見てゐます。

大学では、何を勉強してゐますか。僕は、ゴチックを勉強してゐます。怠け怠けながらで、卒業までに、何がわかるかどうかわかりませんけれど、中世紀の美しい建築──写真のほかは知るよすがもないが──には、いちばんはげしい共感を強ひられます。この国の美しい中世の建築にも心ひかれながらやはりとほい西洋に余計にあこがれを感じてゐるのです。

そのほか学校では月にひとつづついろいろな建物を設計します。いまホテルをつくつてゐます。それが僕たちの学校勉強なのです。設計は現代建築なので、ヘラス・ゴチックなどの憶ひを、どう表現するか考へるのはむづかしいのです。今日、目に触れる建築には、ただ近代の意匠だけあつて、何の表現もないやうにおもひます。銀行などの、ギリシャの列柱を並べた、復興式建築以外に、あたらしくヘラス・ゴチックのいのちを現代に表現する新古典派の道こそ今日以後の建築家に課せられた問題ではないかと考へてゐます。

建築家は、文学家のやうに恵まれた条件ではない条件の下で、仕事をしなくてはならないが、決して良心を失つてはならないと信じます。これは僕の半身です。僕の分身は、かうして日夜、ひとりの僕が文学の道に生きてゐるとき、おなじ熱情で、建築の道に生きてゐます。熱情だけはあるが、懶惰がすきなので、寝そべりながら建築の幻想ばかりして、紙の上にする建築も、寡い作品しか持つてゐません。

そのふたつの分身のすべてをあはせても、もうひとつの大きな分身には及ばない、それは、青年である分身です。この分身だけがほんたうで、あとはディレッタント(【筆者注】しろうと芸の・・)だと考へるのかもしれません。実は、この文章書きながら、あまりディレッタント風な思考にいやきがさしてゐるのです。思考といふもの自身が、僕の身にとつてはディレッタントの感慨にすぎないのかも知れません。僕にあるのは、歌と憧憬と遍歴と願望だけで、その他の場所で僕は死に絶えてゐるのかも知れません。そして人生にさへ僕は憧憬によつてしか触れてゐなかつたにちがひありません。人生はとほくにしかないものだと! 

事実、これが人生だと知つたのは、つい近頃でした。人生とはとほくにはない、いつも僕といつしよにしかゐないのだと!

このころの読んでゐる本は、ノヴァリスです。「青い花」のはじめの方をよんでゐます。うつくしい本です。

先夜、リリイ・クラウスとゴオルトベルクの演奏でクロイツェルソナタをきき、きらひだつたベエトオヴヹンに親しみを感じました。明夜、フォイアマンがバッハやモツァルトやストラヴィンスキイを奏きます。お金の都合がついたら聞きに行きます。バッハといへば、ブランデンブルグのいいレコードが出ましたね。トラムペットを吹いてゐる美しい部分涙がながれました。

ピカソの回顧展が、この間小画廊でありました。写真が、年代順に並べられ、そのなかにまざつて、珠玉のやうな版画がありました。それを見た日のいろいろな出来事が哀しい人生に触れてゐたため、あのピカソの展覧会はいつまでもきびしい熱い記憶になるでせう。

* 

またあとでおたよりします。けふはをはり。さよなら。

(注)1.この「友への手紙」は、昭和11422日(想定)、田中一三(かずみ)あてのもの。

   2.(1)オオカッサンとニコレット Aucassin et Nicolette … 13世紀フランスの作者不明の歌物語。

     (2)「青い花」Heinrich von OfterdingenDie Blaue Blume1802

          (3)フォイアマン Emanuel Feuermann ……アメリカのチェリスト。 晩年のカザルス・トリオに参加。

         4)ブランデンブルグ……協奏曲第2番ヘ長調。演奏は、アドルフ・ブッシュ指揮、ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)、ほか

       3.田中一三は立原の一高時代の友人で、当時京都大学仏文科に在学中でした。

           田中は昭和131938)年1月に召集され、昭和1512月、ソ満国境で自決した由。

【筆者comment】▼この田中一三への「友への手紙」を読み、彼の教養の高さに敬服したが、昭和111936)年という、今から71年以上も昔ながら、ベートーベンのヴァイオリンソナタをリリー・クラウスとゴルトベルクで聞いたとか、バッハのブランデンブルク協奏曲第二番をブッシュとゼルキンの演奏をレコードで聴いたとか、はたまた、ピカソの回顧展を「あのピカソの展覧会はいつまでもきびしい熱い記憶になるでせう」と感激している・・。 立原は、当時としては飛びぬけて先進的なセンスを持っていたのだと改めて感心した次第・・。(笑)

【立原道造の最期と果たされぬ『愛』】

13_2 Photo_2▼三ヶ月の水戸部アサイの献身的な看護に見守られるなかで、第一回中原中也賞の受賞を喜び、一度ずつでおしまいになる小さな缶詰や五月のそよ風をゼリーにして食べたいと言っていた立原は、「三月に僕は親しかった人はみな死んでゐる。僕も三月に死ねばいい」とメリメの歌について語ったところで書いたそのままに、三月二十九日午前二時二十分江古田の東京私立療養所で息を引き取った。享年二四歳。四月六日、自宅で告別式。戒名「温恭院紫雲道範清信士」。墓所は谷中の多宝院である。
▼一月後、四月二十九日は中原の誕生日でもあり、中也賞発表開催の日であったが、発表と立原追悼とを兼ねた四季社主催の会合が開かれた。
▼七月号の「四季」(四七号・五月二十日発行)は立原の追悼号となった

▼立原の死後、十九才のアサイは立原をめぐる文壇の知己達のもとから、一切姿を消してしまう。一度だけ、信濃追分の駅のホームに、ひとり佇むアサイの後姿を、中村真一郎は目撃したという。   ・・・   〔 立原道造記念館 Home page より(・・詳細は当該Home pageをご高覧下さい・・) 〕

【筆者comment】▼立原の美しい抒情詩の背景には、水戸部アサイへの熱い想いが少なからずあったものと思います。・・ 「ゆうすげびと」 ・・

(了)

2007年10月25日 (木)

【時習26回3-7の会 0130】~「ピカソ生誕125周年」「夭折の抒情詩人『立原道造』の世界 その2」「バルタザール・グラシアン『賢者の知恵』48.52.54.」

■今泉悟です。【2637の会 0130】を配信致します。 残念ながら今回も【2637の会】memberの皆さんからの頼りはありません。 【2637の会】memberの皆さんからのmail & お便りをお待ちしています・・。

▼ところで、前【0129】号は、小生、私用で多忙につき会報作成の時間がほとんど作れず仕舞いでしたので、 正直不満足な内容の会報となって仕舞い、申し訳なく思っています。 そこで、今回「その2」でお伝えする「夭折の抒情詩人『立原道造』の世界」では彼と彼の詩について確りとお伝えしたいと思います。 立原道造をご存知の方にとっては当たり前のことですが、ご存じない方には全く「聞いたこともない」詩人であろうかと思います。 流石に第一回「中原中也賞」受賞者だけあって、彼の詩は読者に感動を与える珠玉の名品が目白押しです。 この後、ゆっくりご報告致したいと思います。

■さて、今日はまず、副題1つ目の「ピカソ生誕125周年」についてである。 パブロ・ピカソ1881.10.25-1973.4.8)は今日10月25日が誕生日。 彼は、西洋絵画史上、最も偉大な画家の一人である、と私も思う。 彼は多作家でも有名で、油絵と素描だけでも13,000点を優に超える。 画風も時代とともに大きく変わっていく・・。

Picasso189514Picasso189615▼特に、驚嘆すべきは、彼の幼少時代の作品群である。 それらを見ると、彼が本当の『天才画家』であることを証明してくれる。 Picassoが僅か14歳の時に描いた油彩画「愛犬『クリッペル』」と、15歳の時に描いた同画『初聖体拝受』を添付しました。 後者の絵など、その卓越した写実力を実感頂けると思います。 とても15歳の少年の作品とは思えない完成度の高さ・・。 Picassoは十代半ばでアングルやダヴィッド、ドラクロア辺りの画家としての実力に達していると言っても過言ではないと思う。 『百聞は一見にしかず』です。 まずは添付写真(『愛犬・クリッペル』『初聖体拝受』)をご覧下さい。 ホント「絶句・・、そして脱帽」です。 ハイ・・。(笑)

▼以下に、ピカソの作風の変遷を記しました。 ご参考までにご覧下さい。

◆「幼少時代」(19世紀末まで):ピカソ10代の習作時代(上述『愛犬・クリッペル』『初聖体拝受』)

Picasso◆「青の時代」(1901-1904年):青く暗い色調で芸術家などを描いた(添付写真『シュミーズ姿の女性』)

◆「バラ色の時代」(1904-1907年):フェルナンド・オリヴィエという恋人を得て、明るい色調でサーカスの芸人などを描いた

Picasso_2◆「アフリカ彫刻の時代」(1907-1908年):アフリカ彫刻の影響を強く受けた(添付写真『アヴィニョンの娘たち』)

Picasso_3◆「分析的キュビスムの時代」(1909-1912年):ブラックと二人でキュビスムを突き詰めていった(添付写真『ヴァイオリンとギター』)

◆「総合的キュビスムの時代」(1912-1918年):コラージュ技法を発明した

Picasso_4◆「新古典主義の時代」(1918-1925年):古典的かつ量感のある母子像を描いた(添付写真『母と子』)

Picasso_2 ◇因みに、有名な「ゲルニカ」は1937年の作。(添付写真『ゲルニカ』)

■続いては、「夭折の抒情詩人『立原道造』の世界 その2」です。 立原道造の略年譜を示すと以下の通り。 彼はパステル画にもその才能の確かさを示している(添付写真ご参照)。

1914(大正3)年 ・730日、旧東京市日本橋橘町に生まれる。 立原家の先祖は水戸藩の儒者と言われる。

1927(昭和2)年 ・(13歳)4月、府立第三中学校(現・両国高校)に入学。

1931(昭和6)年 ・(17歳)3月、府立第三中学校4年修了。 4月、第一高等学校理科甲類に入学。 11月頃、生涯兄事することとなる堀辰雄の面識を得る。

1934(昭和9)年 ・(20歳)3月、第一高等学校卒業。 4月、東京帝国大学工学部建築学科に入学。 6月、沢西健らと同人雑誌「偽画」を創刊。 7月、軽井沢や信濃追分に滞在、軽井沢では室生犀星を識る。 10月、三好達治、堀辰雄、丸山薫、津村信夫らとともに、第二次四季」を創刊。 11月、「四季」に初めて詩「村ぐらし」「詩は」を発表。

1935(昭和10)年 ・(21歳)5月、小住宅の設計で辰野賞((注)東京(帝国)大学建築学科が明治10年に発足した時の最初の卒業生である辰野金吾先生を記念して、優績者に授与される)を受賞。 寺田透らと同人雑誌「未成年」を創刊。 この頃、ソネット形式の抒情詩を確立する。 8月、信濃追分滞在中に深沢紅子、今井春枝、横田ケイ子らを識り、また初めて浅間山の噴火を体験。

1936(昭和11)年 ・(22歳)3月、再び辰野賞を受賞。 12月、萩原朔太郎を囲む座談会に出席。 卒業論文「方法論」を提出。

1937(昭和12)年 ・(23歳)3月、卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」を提出し、辰野賞を受賞。 石本建築事務所に就職。 7月、第一詩集萱草(わすれぐさ)に寄す(注)』を刊行。 大森の室生犀星宅から事務所に出勤。 10月、肋膜炎を発症。 12月、『暁と夕の歌』を刊行。

(【筆者注】(添付写真は「野萱草」と「藪萱草」。ユリ科の多年草。夏、大きなユリに似た橙赤色の花を一日だけ開く。また、藪萱草やニッコウキスゲ、ユウスゲ(添付写真ご参照)などを総称して萱草ということもある。「忘れ草」とも。)(前号でご紹介した「はじめてのものに」はこの『萱草に寄す』の中にある作品)

1938(昭和13)年 ・(24歳)1月、銀座で『暁と夕の歌』出版記念会。 7月、設計事務所を病気休職。 8月、追分に滞在。 年末にかけて東北、関西、九州などに旅行。 12月、長崎で喀血。

1939(昭和14)年 ・(24歳)2月、第一回中原中也賞の受賞が決定。 329日、血啖による喀啖不能のため死去。享年満248ヶ月。1940(昭和15)年 ・2月、丸山薫編『暁と夕の歌』が河出書房から刊行。

1997(平成9)年 ・329日、東京都文京区弥生に立原道三記念館が開館。

   ◆ゆふすげびと

Photo_2

かなしみではなかつた日のながれる雲の下に

僕はあなたの口にする言葉をおぼえた

それはひとつの花の名であるつた

それは黄いろの淡いあはい花だつた、

Photo_3

僕はなんにも知つてはゐなかつた

なにかを知りたく うつとりしてゐた、

そしてときどき思ふのだが 一体なにを

だれを待つてゐるのだらうかと

Photo_8

昨日の風は鳴つてゐた、林を透いた青空に

かうばしい さびしい光のまんなかに

あの叢(くさむら)に咲いてゐた、さうしてけふもその花は

思ひなしだか 悔ゐのやうに―。

しかし僕は老いすぎた 若い身空で

あなたを悔ゐなく去らせたほどに!

【訳】

   かなしみをとおり過ぎて

   漸く平静な心になったが、そんな

かなしみを経験しない楽しい日の ― 山の上、

ながれる雲の下で、

ぼくはあなたのいつも口にすることばをおぼえた。

Photo_4   〔ユウスゲ(注)〕なんと優しい名であろう。

   (添付写真『夕萱』ご参照)

それはひとつの花の名であった。

それは黄色の淡いあわい花だった。

   〔ユウスゲ〕と口にし、

   その花を思い浮かべるたびに、

   〔ゆうすげびと〕となって、その花に

   あなたの面影が重なるのだ。 

   そのとき、

僕はなんにも知っていなかった。

   花の名をきいていながら、あなたの心の内側の

なにかを知りたくてうっとりしていた

   上のそらだった。

そしてときどき思うのだった、いったい、なにを

   言い出すのか

だれが待っているのだろうかと。

   あの時、僕は待っていた。

   それをあなたが言い出すのを・・・。

   あなたも待ってはいなかったかしら、

   ぼくがなにかを言い出すのを。

あのとき風に鳴っていた 林を透いた青空に

   輝いていた日の光、その

かぐわしい、さびしい光をまともに受け、

あの草むらに咲いていた

   あぁ、懐かしい〔ユウスゲ〕びと。

そうして、今日もその花は

   そのときの様に咲いている。

   本当はそうではなかったのか、

思いなしかもしれないが、

   そのまま過ぎてしまったことが、

悔いの様に ―も、思い出される・・・。

しかし、とにかく僕は老いすぎた。 ― まだまだ若い身空で

あなたを悔いなく去らせたために、

   果てしない悔いに身を焼いて・・・。

【解説】▼昭和117月下旬、立原23歳の作。 この時も浅間山は噴火している。 前号でご紹介した「はじめてのものに」が作られた時から一年が経過している。

▼キスゲの花咲く林の中で、その人が口にする〔ユウスゲ〕という言葉を聞きながら、私はその人の心の中を思っていた。 その人も私と同じことを考えていたのかもしれないが、私たちは何も言わないでそっと別れてしまった。 若い身空で私は老い過ぎてしまった様だ。

■立原と同じ「四季」派の三好達治は「詩を読む人のために」にて彼を以下の様に紹介している。

   ◆のちのおもひに(『萱草に寄す』から)

夢はいつもかへつて行つた 山の麓(ふもと)のさびしい村に

Photo_5Photo_6水引草に風が立ち          (水引草:添付写真ご参照)

Photo_7草びばりのうたひやまない   (草雲雀:添付写真ご参照)

しづまりかへつた午(ひる)さがりの林道を

うららかに青い空には陽(ひ)がてり 火山は眠ってゐた

―― そして私は

見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を

だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた・・・・・

夢は そのさきには もうゆかない

なにもかも 忘れ果てようとおもひ

忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう

そして それは戸をあけて 寂寥のなかに

星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

▼三好達治は・・、〔 立原の詩にはいつも、孤独な若者らしい愛情とその青春の絶望とが、ないまぜになって美しい彼の歌を支えている。 若者は求めるところが大きいから、彼はともすれば傷つきやすく、ともすれば孤独の闇につき放される。 その嘆かいは愚かしく、痛ましく、美しい。 愚かしさ、―― その単純な、ひたむきな、一本木な勇気こそ、歌の支えでなくて何であろう。 「のちのおもひに」はそういう若者の心理を、その歌において細緻に写しとっている。 「―― そして私は/見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を/だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた・・・・・」彼はそれをそのようにいう。 そしてまた「夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう」という。 彼はやさしげに、弱々しげに、実は圭角(【筆者注】・玉のとがったかど。・転じて、言語・行動のかどだって、円満でないさま)を少しも表さないでしかし凛然とそれを歌い放つ。〕と、賞賛する。

▼鮎川信夫は「近代詩から現代詩へ~明治、大正、昭和の詩人~(詩の森文庫)」にて、次の様にいう。

▼〔 立原道造は、中原中也とともに昭和十年代の青春を代表する夭折詩人の双璧と言われる。 しかし、ダダイズムから出発した中原が、青春の放肆(【筆者注】放恣。我儘でしまりがないこと)や倦怠や虚無を、様々な形式を用いて奔放にうたったのに対し、立原は青春の美しさ、優しさ、虔しさといった感情を、行儀のよいソネット形式でうたい、およそ中原とは対照的な詩風を示している。〕

やがて 秋が 来るだらう

夕ぐれが親しげに僕らにはなしかけ

樹木が老いた人たちの身ぶりのやうに

あらはなかげをくらく夜の方に投げ

すべてが不確かにゆらいでゐる

かへつてしづかなあさい吐息のやうに・・・・・

(昨日でないばかりに それは明日)と

僕らのほもひは ささやきかはすであらう

―― 秋が かうして かへつて来た

さうして 秋がまた たたずむ と

ゆるしを乞ふ人のやうに・・・・・

やがて忘れなかったことのかたみに

しかし かたみなく 過ぎて行くであらう

秋は・・・・・さうして・・・・・ふたたびある夕ぐれに・・・・・

「やがて秋・・・・・」 ~ 『暁と夕の詩』より ~

立原は、現実の人生から独立した美意識を持って詩的イデアを追求した様で、その結果、古典的で優雅な表現形態を完成することができた。 三好達治とは違った、もっと自然な意味で、最も「四季」的な詩人と言えよう。 彼は、昭和十四年、いわば四季派の最盛期に第一回中原中也賞を受賞後間もなく、二十四歳の若さで病没した。

【筆者comment】▼立原はフェミニストだった様ですね。 想いを寄せている人に直接自分の想いを伝えず、その人も多分自分のことを想っているかもしれない・・、でも、何を言わずに別れてしまった・・。 何かやるせない気持ちにさせられる美しい詩である。 

Photo_14Photo_15▼この詩もソネット形式で書かれている。 英語詩のソネットは14行の詩が脚韻を踏んでいるが、彼の作品は、夫々規則性を持たせて詩にリズム感を持たせている。 詠んでいて心地よい。 〔ゆふすげびと〕では、第二連で「なんにも」「なにかを」「なにを」「だれが」と一行ずつ疑問の言葉を付している。 前号でご紹介した〔はじめてのものに〕では、「灰を・降らした」「灰は・かなしい」「樹木の・梢に」「窓に・凭れて」と、三・四調でリズム感を表している。 確り計算されている。 流石に優秀な建築士の構成力の面目躍如である。添付写真は、芝生に寝そべる立原道造と彼の描いたパステル画「二匹の魚(仮題)」である。 パステル絵はなかなかsenseある作品であると思う。 それにつけても、彼の才能を考えると二十四歳での人生の終焉は早すぎる・・。 惜しまれてならない。(嘆息)

【後記】■今日の締め括りは、バルタザール・グラシアン『賢人の知恵』から、今回は48.言葉を飼いならす、52.期待を持たせる、54.相手の望みは少しずつかなえる、です。 今回もなかなか辛口な表現である。(笑)

48.言葉を飼いならす

▼言葉は飼いならされていない野獣と同じ。 一度解き放つと戻ってこない。 賢人は言葉遣いを上手く制御している。 言葉は心の窓であり、そこから心理状態が相手に見えるからだ。

52.期待を持たせる

▼いつも相手に期待を持たせよう。 そして、その期待以上を目指すのだ。 相手に期待されなくなってしまわないよう、計算しながら節度を保とう。

54.相手の望みは少しずつかなえる

▼人に頼られる様にしよう。 感謝され丁寧に話しかけられても、決して困ることはないのだから。 偶像は、崇められてはじめて「神」になる。 逆に頼りにされなくなると、次第に失礼な態度をとられる様になるだろう。

▼ただし望みを持たせながらも、決して全てをかなえてしまわないこと。 望みがあるうちは、人はあなたを覚えているが、全てが終わってしまうと、あなたへの感謝の念ははかなく、すぐに忘れられてしまうものだ。

(了)

2007年10月22日 (月)

【時習26回3-7の会 0129】~「霜降」「詩人『立原道造』の世界」「バルタザール・グラシアン『賢人の知恵』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0129】号をお送りします。 この会報は【2637の会】memberの皆さんのものですので、どんどんmailを下さい。 お待ちしております。 m(_ _)m

▼一昨日・昨日は豊橋祭りで街中はさぞ賑わったことでしょう。 小生はと言いますと、所用があり、禁欲的(?)な一週間を過ごしました。

▼一週間という時の流れは、少ない様で決して少なくない・・。 毎日の出来事をニューズや新聞で見ているだけで、世の中では本当に様々な事象が生じては消えていく・・。 忙しさに振り回されても、また、時間に余裕があって漫然として時の過ぎ行く儘にこの身を任せても、時(とき)は整斉と刻んで往く。恰も「方丈記」や「平家物語」のイントロで表現される様な世界で・・。 であれば、前向きに考え能動的に動いた方がいい・・。

▼・・で、この12週間をスポーツ界に限って振り返って見ても、プロボクシングの亀田三兄弟の次男(大)のタイトルマッチ挑戦での呆れた不祥事、そして、中日ドラゴンズがCSでの対阪神戦、対巨人戦での5連勝無敗で日本シリーズ進出。 名古屋ブランパスへのストイコヴィチ監督就任観測。 アメリカ大リーグではロッキーズの松井の活躍etc・・。 実にいろいろなことが起きています。

■さて、1024日は、二十四節気でいう「霜降」。 「霜降」とは、寒露に続いて、霜が降りる頃、という意味で、まさに霜が降りる朝晩寒さを実感できる時節。 次の二十四節気は「立冬」です。 地球温暖化とは言うものの、流石に夜は窓を閉め、寝巻きも半袖から長袖に、蒲団も夏物から秋冬用にチェンジしました。 こういう処にも季節の移ろいを肌身で感じますね。

■ところで今日10月22日は、詩人「中原中也(1907.4.29-1937.10.22)」の命日。 彼については、この会報で何回かご紹介していますので、今日皆さんにまずお届けするは、中原とほぼ同時代に中原以上若くしてこの世を去った「抒情詩人『立原道造(大正3(1914)730 - 昭和14(1939)329日))』の世界」です。

191439 ▼添付写真をご覧ください。 立原道造23歳のときの写真です。 銀座ニュー・トーキョウでの一齣とある。 東京大手町に勤務していた小生には馴染みがあり「ニュー・トーキョー」も懐かしく感じられる・・。

▼立原の出立ち(と言っても写真では座っていますが(笑))を見ると、何処となく「さだまさし」風の、やさしい雰囲気をもった若者という感じ・・。 彼の略歴をご紹介する前に、彼の美しい『詩』をご賞味下さい。 ソネット形式(十四行の詩)の素晴らしい詩です。

◆     はじめてのものに

 ささやかな地異は そのかたみに

 灰を降らした この村に ひとしきり

 灰はかなしい追憶のように 音立てて

 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきった

 その夜 月は明かつたが 私はひとと

 窓に凭(もた)れて 語りあった(その窓からは山の姿が見えた)

 部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と

 よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

 ― 人の心を知ることは・・・・・人の心とは・・・・・

 私は そのひとが 蛾を追ふ手つきを あれは蛾を

 把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

 いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか

 火の山の物語と・・・・・また幾夜さかは 果たして夢に

 その夜習ったエリーザベトの物語を織った

【訳】

    今朝、浅間の爆発に初めて立ち会った。

 ほんの些細な地球の異変は、そのなごりとして灰を降らした、

 この村里(信濃追分)に、ひとしきり

    さらさらと軽やかに、その

 火山灰は ― 遠い日の

 悲しい過去を思い出させる様な、

    ひそやかにかわいた

 音を立てて ― 山麓の

 樹木の梢に、家々の屋根に 降りしきった。

    旅の私は身に染み入る様な想いで その音を聞いていた。

 その夜は月が明るかった ― 私はある人と

    楽しい思い出、夜の

 窓に凭(もた)れて、お互いに話し合っていた。

    高原の夜は水の様に澄んで

 (その窓からは浅間の山容が夜目にしろく見えた)。

    しいんとして暗い山中の寂しさにひきかえ、

    私の部屋一箇所だけ華やぎ、まるでお伽(とぎ)の

 谷の底にある一軒家の様に部屋の隅々まで暖かい電灯の輝きと、

 若々しく弾んだ笑い声とが満ち溢れていた。 

 ― 私は限りない幸福感に包まれていた。

    それにしても

 人の心を知るということは ―なんと難しく、人の心とは ―なんとはかりがたい

 ものなのであろう。

    そのときに、

 私は、その人が ― ちょうどそのときに

    暗闇から灯を慕って飛んできた

 蛾を追い払う手つきを ― それとは反対に

 あれは蛾をとらえようとするのだろうか ― とも思い

 その意味がくみ取れなかった。 ― その夜の私を訪ね、

    さりげなくふるまっていたその人は

    心の中で何を思っていたのだろう。

    情熱を追い払おうとしたのか。

    それとも情熱をもとめていたのか。

    私は、ただいぶかっていただけだった。

 いったい、いつの日に浅間は噴きはじめたのだろう。

    その人との楽しい語らいに、その夜はじめて

    私の胸の中にもそのような異変が起こったが

    この山麓には昔からいろいろ悲しい物語が

    秘められているのであろう。

 火の山の悲しい物語と、

 果たして、― その晩予感したはかなく切ない慕情を

    繰り広げた

    エリーザベトの物語とが

    また幾夜続けて見た夢に織り成されていた。

【筆者comment】■この「はじめてのものに」をはじめ、彼の作品はソネット形式の詩が多く、詠んでいると何処か、ほのかに甘く切ないものが多い。 それが彼の作品の魅力の一つでもあると思う。 彼の作品も、今後、折に触れていくつかご紹介して参りたいと思います。

■続いては、1025日は、パブロ・ピカソの誕生日。 今年は生誕125周年になります。 彼についてお話しようと思っていたのですが、今回は時間がなく、次回以降とさせて頂きます。 

【後記】■今日も締め括りは、バルタザール・グラシアンの『賢人の知恵』からお贈りします。 今回の3つは結構辛辣です。 だから(?)、参考にはなるかも・・。

39.貸しはとっておく

▼友人に貸しがあるなら、つまらないことで返してもらわないこと。 折角の宝をドブに捨てるようなものだ。 この頼みの綱は緊急時のためにとっておこう。 運命の嵐にもまれたとき、そのお蔭で助かるだろう。

▼価値あることを些細なことで費やしていては、後に何も残らない。 支えてくれる人がいることは大変重要なことで、好意には大抵大きな犠牲が伴う。 重要な局面で恩返しして貰うことは、一生に関わること。 勢力ある人が味方についてくれているということは、幸運を持っているよりずっと頼もしいことなのだ。

45.助けてくれた人に感謝する

▼こちらを助けてくれる人に、得をしたと思って貰える様にしよう。 さすれば、与えてくれた相手はまるで自分が報酬を受け取ったかの様に感じる。

▼大事なことは、こちらに都合の良いことが相手にとっても好都合と映ることだ。 このコツを上手く使えば、何かした人も、お返しに何かして貰った様な気になる。 誰かと誰かのやりとりで、どちらが何処から得をしたかといったことを有耶無耶にすることで、感謝の気持ちと満足感を引き起こすのだ。

47.誰にも借りをつくらない

▼一人で何もかも責任を負うと、齷齪(あくせく)働かなくてはならなくなる。 人夫々に宿命があり、他人に良いことをする人もいれば、逆に、それを甘受してばかりの人もいる。 後者の方が楽だと思うかもしれないが、それではいけない。 相手に借りをつくることになるからだ。

▼束縛がないということは何にもかえがたいものだ。 大勢から頼られながらも、自分は誰にも依存しないことである。

▼但し、義務と好意を混同してはいけない。 力があればもっと他人の役に立てるかもしれないと思ったとしても、それはあくまで義務ではないのだ。 相手はあなたに義務を押し付けて来るだろうけれど。

■今回は、内容の乏しい会報ですみませんでした。 m(_ _)m では、また・・。(了)

2007年10月14日 (日)

【時習26回3-7の会 0128】~「秋の夜長に俳句と短歌をどうぞ・・〔①秋の七草から『萩』」「②秋夜の美酒『若山牧水』」〔③自由律詩人 『種田山頭火』〕〔④四万十とサラダ『俵万智』〕」「バルタザール・グラシアン『賢人の知恵』から34~36」

060918【 萩 】 * * * * * * * * * * *

(・・添付写真は、昨年918日に旧【3-2】中島君と旧【3-3】谷山君との城址・史跡巡りで訪ねた豊田市松平郷にある「高月院」脇で撮影した「の花彼岸花」です。昨年もご紹介しましたが、とても綺麗なので再度添付しました。是非ご覧になって下さい。)

 一家(ひとついへ)に遊女もねたり萩と月  芭蕉

 しら萩は咲くよりこぼすけしき哉(かな)   蕪村

 さをしかの喰こぼしけりの花   一茶

 首をあげて折々見るや庭の   正岡子規

 三日月やこの頃の咲きこぼれ  河東碧梧桐

 の風ほつほつと花咲きそめし  高浜虚子

 の風なにか急かるる何ならむ  水原秋櫻子 

 低くたれその上に垂れの花   高橋素十

 りんりんと白萩しろし木戸に錠   三橋鷹女

        * * * * * * * * * * *

■皆さん、こんにちは、今泉悟です。【2637の会 0128】号をお贈りします。 今日も【2637の会】memberの皆さんからの便りがないので小生のくだらない話に暫しお付き合いください。(笑)

▼時節は移ろい、紅葉こそまだですが、秋はゆっくりと着実に深まって来ています。 今日はご覧の通り冒頭に「秋の七草」の筆頭に挙げられる「萩」に因んだ俳句を選んで見ました。萩は「七草」と言いながら実は木。 草冠に秋と書く、その名の通り寂寥感が伴う可憐な花として日本古来から愛されて来ました。 『万葉集』には、花の中で最多の141首が見られます。 この花を愛でた俳句も、ご覧頂いている通り、芭蕉以降の著名な俳人の秀品が綺羅、星の如くです。

■そこで今日は、俳句と短歌にちょっと拘ってみました・・。 まずは、この秋の夜長に美味しい酒を静かに飲みつつ、若山牧水のあの有名な歌をお贈りします。

白玉の 歯にしみとほる 秋の夜の

     酒はしづかに 飲むべかりけり

     若山牧水1885-1928)(『路上』1911

【解説】▼その真っ白な歯の一本一本の芯まで染み込む様な酒。 それは、しんと涼しい秋の夜長に飲む酒である。 ひんやりとした透明感ある夜の空気の中で、しみじみと口に含み、歯に染みとおるまでその味わいを楽しむ。 こういう酒は「しづかに飲むべかりけり」なのである。 愛飲家にとっては「さもありなむ」と頷ける秀歌である。 声に出して朗誦したい歌である。

■次は、秋をthemeにした、大和路の法隆寺と薬師寺東塔を歌った傑作をご紹介します。 誰でも知っている正岡子規の作品と、一度詠んだら二度と忘れないほど覚えやすい佐佐木信綱の作品です(信綱の作品は会報【0104】号にて既に掲出済ですが、良い歌なので再度ご紹介させて頂きます)

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 くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

         正岡子規1867-1902

Photo_2【解説】▼悠久の鐘の音・・。 法隆寺の鐘の音が聞こえてくる。 そのとき私は柿を頬張っていた。 大和の国の古都の風景と歴史を頬張っていた。(添付写真は、一昨年12月に訪れた奈良県五條市、吉野への入口にある藤原氏菩提寺栄山寺付近の柿の木と柿、そして法隆寺五重塔です。)

 ゆくの 大和の国の 薬師寺

        塔の上なる 一ひらの雲

                 佐佐木信綱(『新月』)

Photo_3【解説】▼大和の国の秋は深まりゆく。 薬師寺の東塔(三重塔)の上に一片の白雲が浮んでいる。 澄み切った空気の中で、大和の国に今いる私。 その私の視線が「薬師寺の寺院」→「東塔」→「九輪」→「白い雲」へと、マクロからミクロへと、塔の下から上へと移っていく。 朗誦すると、この歌の「の」で繋ぐ伸びやかな調べが心地よく耳元に聞こえ、詠み手の頭にスーッと入っていく。 平明にして高貴な傑作である、と思う。(丁度良い写真がなかったので添付写真で想像逞しくこの歌を朗誦して見て下さい。 薬師寺東塔を見ながら九輪の上にぽっかり浮んだ白雲を・・。 郷愁を感じさせ、何故かホッとする一瞬です。)

1012日には、北海道の稚内や旭川で初雪が降ったとTVニュースでやっていました。 例年より10日早い雪であるという。 「寒露」も過ぎ、朝晩めっきり涼しくなって来ました。 今朝(13日)も結構冷気を感じました。 皆さんも、油断してお風邪など召しませぬ様に・・。 健康第一です(笑)。

■さて次は、種田山頭火の作品をいくつかご覧下さい。 1011日は山頭火(1882123日~19401011日)の命日です。 享年五十七歳。

▼彼の「自由律」の俳句は、その光景がすぐに目に浮かぶ絵画的な、且つ、どこか泥臭い味が特徴。 

▼彼は山口県西佐波令村に生まれ。 旧制山口中学から早稲田大学文学部に入学するも、神経衰弱のため中退。以後、苦渋の人生が彼を翻弄する。 終に自殺まで試みた・・。 その後、得度し、1926(大正15)年、四十四歳のとき、家族・家・自分を取り巻く全てを捨て一笠一鉢の、放浪の旅に出た・・。

▼今日は、山頭火の一代句集『草木塔』からその一部をご紹介致します。

‥‥◆大正154月、解くすべもなく惑ひを背負うて、行乞((ぎょうこつ)【筆者注】乞食(こつじき)に歩くこと。托鉢。)流転の旅に出た。

 分け入っても分け入っても青い山

 (・・青い山々の写真を添付してみました・・)

 (・・高取城址から大和の山々を望む'05年12月撮影・・)

Photo_4Photo_5

‥‥◆放哉(ほうさい)居士(注)の作に和して―。(注)尾崎放哉(18851926年) 流浪の生涯を送った代表的自由律詩人。句誌「層雲」同人。

 鴉啼いてわたしも一人

‥‥◆昭和二年三年、或は山陽道、或は山陰道、或は四国九州をあてもなくさまよふ。

Photo_6 (・・【添付写真】すすきは秋を彩る代表的な風物詩・・)

 踏みわけるすすき

 この旅、果てもない旅のつくつくぼうし

 落ちかかるを見てゐる一人

 笠にとんぼをとまらせてあるく

 歩きつづける彼岸花咲きつづける

 まつすぐな道でさみしい

 ほろほろ酔うて木の葉ふる

‥‥◆昭和四年も五年もまた歩きつづけるより他なかった。あなたこなたと九州地方を流浪したことである。

 わかれきてつくつくぼうし

 また見ることもない山が遠ざかる

 こほろぎに鳴かれてばかり

 百舌鳥(もず)啼いて身の捨てどころなし

 どうしようもないわたしが歩いてゐる

 ぶらさがってゐる烏瓜(からすうり)は二つ

Photo_7(・・添付写真は、赤く色づいた烏瓜の実です・・)

▼大観峰

すすきのひかりさえぎるものなし   (以下略)

【筆者comment】▼これらの山頭火の俳句は、第一句集『鉢の子(昭和7(1932)年)』冒頭あたりからの抜粋である。 自由律なので、この様に句を連ねていくと、恰も叙景詩のごときである。 上記句集は、PCの容量の関係から小生がいくつか抜粋したのでオリジナルの叙景詩的な雰囲気を正確にはお伝えできないのは残念であるが・・。

▼山頭火の歌には彼独特の風情があり、自由律が醸し出す『自然美』と、芭蕉とは違った『侘び・寂び』に『貧・泥臭さ』を加えた素朴な趣を感じさせる。 だから、彼の俳句はときとして少し暗い雰囲気を漂わせる・・。

▼彼の人生と比較すると、申し訳ないくらい現代に生きる自分がずっと物質的に恵まれている。時代が下り世相が違うと言えばそれまでだが、もう少し自らの生き方に厳しくあらねばと少し反省したた次第。

■続いては、現代の女流歌人俵万智の短歌から二首をご紹介します。

 四万十光の粒を まきながら

     川面をなでる の手のひら

      俵万智(第二歌集『かぜのてのひら』1991

Photo_8【解説】「四万十(しまんと)」という音の響きや字面(じづら)が、極めて印象的に存在感を示して、この歌をどっしりとした骨格を持ったものとして創り出している。 一方で、詩集の題目にもなっている「風」がメイン・テーマである。 この歌の世界を、たっぷりと量感に満ちた風が川を吹き抜けていく。 風が川面を手のひらでなでて、光の粒をまいている。 豊かな四万十川の流れにたっぷりと吹き付ける、やさしい風。 光の粒という綺麗なおまけをプレゼントしながら・・。 女性歌人らしい好感のもてる秀作であると思う。

 「この味がいいね」が言ったから

       七月六日は サラダ記念日

      俵万智(第一歌集『サラダ記念日』1987

【解説】この俵万智の第一歌集『サラダ記念日』は、彼女24歳、歌壇デビューのときの作品。 三百万部という大ベストセラーとなった。

▼今を生きる若いカップルの、二人だけの時間。 一緒に食事をする。 「このサラダ、味がいいね」。 もうこれだけで、二人の熱い関係は深まり合う。 何気ないこの一言が二人の世界の記念碑。 もう、幸せいっぱい・・。

【筆者comment】▼この作品は作者二十代の作品なので、歌の主人公達もきっと若いカップルであろうと思われる。 でも、我々の世代にもこういう場面があってもいいと思う。 「ウン? 気持ち悪い?」 ・・そうかもね。(笑)

▼種田山頭火の俳句と、趣がガラッと異なる。 山頭火の句の後に俵万智の歌を詠むと、現代人の都会派の明るさや清涼感が伝わって来て、俵の作品の良さが一層引き立つ様な気がする。 でも、山頭火と万智・・、夫々が夫々の魅力を持っている。 だから俳句や短歌はいいですね。

【後記】■さて、今日の締め括りは、先週に引き続きバルタザール・グラシアンの『賢人の知恵』から、今日は、34.相手の欠点を受け入れる、35.他人のあら探しをしない、36.他人に寛大でいる、の3つです。 『賢人の知恵』は、少々辛目の処世術の手引書でもあり、確かに参考になる点が多いと小生は思います。

34.相手の欠点を受け入れる

■醜い顔でも毎日見ていれば気にならなくなるように、仲間の欠点も受け入れよう。

▼人はみな助けあって生きている。 折りあうのが難しく、しかも避けて通れない人というのはいつでもいるものだ。 それなら、頭を切り替えて忍耐力を養おう。 そうすれば、嫌な人とかかわりを持たなくてならなくなったときに、あわてて忍耐力を身につけようなどとしなくてすむ。

▼はじめはうんざりするかもしれない。 しかし時がたつにつれ、どんな厄介な人もそれほど気にならなくなるものだ。

35.他人のあら探しをしない

■他人の欠点を指摘することは、実は自分自身への指摘にほかならない。 自分の欠点を隠そうとして人のあら探しをするのはばかばかしいことだ。 誰かれとなく悪口を言う人は口からひどい悪臭を放ち、人のスキャンダルを掘り返せば自分の足元をもっと汚すことになる。

▼人の悪い行いをいつまでも覚えておくようなまねはしないこと。 人に嫌われ、不人情と思われるだけだ。 意識するしないにかかわらず、罪をひとつも犯していない人はまずいない。 すねに傷ある者は、他人の批評などしないほうがよいのである

36.他人に寛大でいる

■利口な人はつまらない傾向に陥りがちだ。 知恵がつけばつくほど、無知な人に対して我慢ができなくなっていく。 いったん英知の味を覚えると、知の不足に満足しがたくなるのだ。

▼しかし、寛大さは重要な美徳であり、どのような愚かなことでも辛抱できるように訓練されなくてはならない。 耐えることで結局は平和と喜びがもたらされるので、我慢も報われる。 周りの人の欠点に我慢ができなくない人は、たいてい自分自身にも我慢ができないものだ。

(了)

2007年10月 7日 (日)

【時習26回3-7の会 0127】~「『寒露』~大江千里〔月見れば・・〕」「開港に向かう『富士山静岡空港』」「詩人『丸山薫』その3〔不利の中に〕」「Balatazar Gracian『賢人の知恵』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0127】号をお送りします。 とは言え、今週も【2637の会】memberからのお便りはありませんので、また暫くの間小生のつまらない話にお付き合いください。 ・・・ m(_ _)m ←最近、この顔文字が多くてすみません。(笑)

■それでは、本題に入ります。(笑)

■まず最初(副題の一つ目)は・・、10月9日は、二十四節気でいう寒露。 朝露も一段と冷たく感じられ、秋が深まってくる頃で、朝晩は寒気さえ感じることもある。 

陰寒の気に合って、露のむすび凝らんとすればなり と『暦便覧』にある。 「暑い、暑い」と言っているうちに、紅葉こそまだですがすっかり秋本番の到来です。

▼ここで、秋に因んだ歌を「小倉百人一首」から一首ご紹介致します。 秋をthemeにした作品は、「小倉百人一首」には沢山ありますが、今日はその中から、大江千里(生没年不詳)の作品をお贈りします。 この作品は、前々号の会報【0125】で「中秋の名月」についてお話しましたが、「月」を愛でて「来る(或いは来た)『秋』」を客観的かつ主観的に「実感」させてくれる歌です。 現代語訳を詩風に、そして英訳も付しました。 併せてご覧ください。 

 月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ 

      わが身ひとつの 秋にはあらねど

          (古今和歌集・巻四・秋上(193)

【訳詩】〔 月 / 眺めていれば/ 千々に物悲し / わが身一つの / 秋ではないが / わが身一つに / 訪れたような / 秋 

【英訳】〔 How oft' my glance upon the moon hath dwelt, Her secret power my soul subdued--- Her sadd'ning influence I alone have felt, Though all men autumn's moon have viewed. 〕

【解説】▼「是貞の親王の家の歌合に詠める」題詠。 「月みればちぢ(千々)」と「わが身一つ」は対句になっている。 対句は漢詩の技法である。 作者は、この技法を和歌的技巧として消化し、係り結び(ものこそ→かなしけれ)を用いた三句切れ倒置の技法で詠嘆を強調。 さらにこの一首は、『白氏文集』の「燕子樓」の結句を踏まえている。

〔 満窓明月満簾霜 / 被冷燈残払臥床 / 燕子樓中霜月夜 / 秋来只為一人長 〕

▼大江千里は優れた学者であった。 『群書要覧』や、古い漢詩の句を題材にして作詩した『句題和歌』の選者。 後者を纏め宇多天皇に献上したり、文章博士として彼の業績は特筆に価する。 彼の作品を本歌取りした定家の一首がある。

 いく秋を 千々にくだけて 過ぎぬらむ 

      我が身ひとつを 月に憂へて  定家

■続いて副題の2つ目、「開港に向かう『富士山静岡空港』」です。 同空港は、再来年春の平成21年3月開港を目指して、今急ピッチで建設工事が進んでいます。 管理面積190ha。 滑走路は全長2,500mのものが一本。 総工費1,900億円。

▼実は小生、先週央、仕事で建設が進む『静岡空港』と『御前崎港』への視察会に参加して来ました。 中部新国際空港が二年前に開港し、成田や関空があるのに、また「今何故『静岡空港』なのか」という疑問を抱きつつ見て来ましたが、解説してくれた静岡県の方は、空港の必要性を熱く語ってくれました。まずは、添付写真をご覧ください。

A▼まず静岡県が作成したleafletから「空港へのアクセス」ですが、現状静岡県民は最寄りの空港までは、西が「浜松から中部新国際空港まで2時間」、「東が沼津から羽田空港まで80分」かかる。 即ち、一時間以内に行ける空港が一つもない。 「富士山静岡空港」ができると、静岡市から40分、浜松から50分で空港に行ける様になる。 「富士山静岡空港」の場所は、島田市と牧之原市の境にあり、東名高速道路の牧之原ICと吉田ICの中間に位置する。

A2000_2▼建設地は、遠州灘に向かって掌の様に広がった山の一つ(260m)を崩し、谷を埋め、標高130mの平坦な高台にして空港を建設。 建築残土を自家消費する(即ち、山を削り谷を埋め、空港予定地外に土を持ち出さないという、環境に配慮)。 また、駐車場2000台が無料で、長期出張者には極めて経済的。 就航の内容はまだこれからだが、利用の仕方では豊橋市の住民にとっては、中部新国際空港よりお得(割安)な場合もありそうである。 そういう意味では、東三河の住民にとっては同空港の開港は、welcomeかもしれない。

Photo_8Photo_9Photo_10Photo_11▼次の添付写真4枚は、建設中の「富士山静岡空港」の全景です。 将来的には、空港ターミナルの下を東海道新幹線がトンネルで通っており、新幹線の静岡空港駅とする構想もあるという。 ただ、場所が掛川駅に近いということと、建設費用が数百億円(通常の新幹線駅で同100億円の数倍)要するとかで実現可能性は現状極めて低い様である。

A_2▼最後の写真は、「静岡県の現状と県民の豊かさ」を示したleafletである。 太字でしるされたところが静岡県。 同県は、浜松に「スズキ」「ヤマハ」「KAWAI(河合楽器製作所)」等の日本を代表する企業があり、愛知県の「トヨタ自動車」の様に、「物づくり」の質実剛健な県である。 添付写真にある様に、「静岡県」は大変豊かで元気な県であることを改めて実感できましたね。 静岡県民の峯田君、犬飼(石田)さんは如何お考えですか? ご意見を頂戴できれば幸甚です。 でも、愛知県も流石ですね。 添付資料の黄色いマーカーで塗ったところをご覧下さい。 静岡県が自慢する項目のほとんど全てにおいて静岡県を凌駕する優等生ぶり・・。 豊かな県に住まわせて頂いていることに感謝しなければ、と再認識しました。 とは言え、これも少し拗ねた見方をすると、同じ愛知県でも、そして、同じ三河でも、「西高東低!」であるということも認識しておく必要があると思いますが・・。 「いけない、いけない、贅沢を言っては・・」。(笑)

■副題3つ目は、「詩人『丸山薫』」の三回目です。 丸山薫は当面これで最後にします。 『青春』をthemeにした詩を見つけましたので、郷愁を感じ三回連続ですが掲載しました。

▼今日は、彼の第十三詩集『青春不在』(昭和27年刊)より、青春について歌った「不利の中に」をお贈りします。 53歳のときの作品です。 彼が、概ね現在の我々と同じ頃の作品で、愛大で教鞭をとっていた時代の作品です。 五十路を過ぎると、みな若かりし日々を回顧する心境になるのでしょうか・・。 なかなか良い作品であると思います。 では、ご覧ください。

     不利の中に

青春は髪が伸びすぎている

青春は垢によごれている

青春は吃(ども)ってばかりいる

青春は靴の底に釘が出ている

 (悔いの痛い釘が)

青春はポケットが抜けている

青春は腕が燃えている

なお そのうえ

青春は

青春は

青春は

以上の不利の中に

青春は青春であることを知らずにいる

【訳】〔 青春は色々な「不利の中」にいる。/しかも、その不利の中にいることさえ、気がつかない。/第一、青春は髪が伸びすぎている。床屋へ行くのも億劫だ。/青春は垢に汚れている。それが人に嫌がられていることも気がつかない。/青春はどもってばかりいる。言いたいことが沢山あってせっかちに言おうとするから。/青春は靴の底に釘が出ている。(失敗しては後悔し、しかもその痛さに鈍感でない、それは柔らかい心を持っているから)/青春はポケットが抜けている。しかもそれに気づかず探す純朴さがある。/青春は腕が燃えている。何かをやりたいのだ。/青春は、青春は、青春は・・その不利は数え切れない。/以上の不利の中にあって/青春は青春であることを知らずにいる。青春はいじらしい。 〕

【解説】▼作者は、昭和23年(五十歳)豊橋市に転住。以来同市に居住。 この詩集の後記に「詩集に憑かれて過ごした私のいつの時代に果たして青春があっただろうか。齢五十の所産であるこれらの抒情詩を編むにあたって、漠然と、けれど絶えまなく胸中に往来するものは、ついぞあえなく飛び去っていったそれらの青春というものの行衛を追うこころである」と記している。

▼いちずで、間が抜け、あらゆる「不利の中に」在る青春がいじらしい。 飛び去っていった私の青春よ。 そして今、青春のただなかにいる若人たちよ。

【筆者comment】▼丸山薫・・。 小生、時習館の大先輩と知るまでは、名前程度しか知らなかった。 昔、現代国語の教科書に前号にてご紹介した「未来へ」があった様な気がする(・・が、その記憶は定かではない・・。)。 ここ半月位、彼の作品を詠んでみたが、なかなかいい作品が少なくない。 以前、小林秀雄のお話をさせて頂いた折り、中原中也や萩原朔太郎、三好達治の話に話題が発展して行ったと思うが、その人の輪の一角に丸山薫もいる。 そうした文学史上の偉人が、我々のかつての学び舎の近くに存在していたことを知った。 彼は、叙情詩の中に覚めた感覚での活眼を持っている詩人である、と思う。

▼この詩は、詩人丸山薫が齢五十三の時に、自らの『青春』を回顧しつつ、可能性や若々しさという「『青春』がもつ素晴らしさ」を、平易な言葉で鮮明にそしてリズミカルに表現して、『青春』の真只中にいる若人たちに伝えようとする詩・・、と言える。 なかなかいい詩であると思う。 我々の『青春』も、齢だけの話であれば、遠い過去の話ではある・・。 が、せめて気持ちだけは「今も『青春』」であり続けたい。 そのためには、心の持ち方をもっと若々しくしなければなるまい。  物事、何をやるにつけ、前向きに、「『ときめき』を抱き続ける」様な直向(ひたむ)きさが大切なのであろう。 小生もかくありたい・・。(笑)

【後記】■今日の締め括りの一つ前に、ニュースがあります。

105日の日経新聞朝刊の最終頁「文化」欄に、時習26回旧【3-9】の福井英輔君が「サッカーアシスト”色々”」という題目で、写真入りで載っていましたので、ご覧になった方も多いかもしれませんが、お知らせします。 

▼記事の内容は、彼が経営する会社で、製品としてJリーグ等に提供している「六角形カラー・ネット」を上梓するまでの過程について、彼がヤマハ発動機勤務時代にサッカー選手であった時代から今日に至るまでを苦労談を交えて彼自身が書いているもの。

▼彼の会社が製造するサッカーゴール用の六角形ネットの話は、小生も従前から知ってはいたが、この様に日経新聞「文化」欄と言う全国版に掲載されるとは少なからず驚いた。 どういうきっかけで日経新聞の「文化」欄に載ったのか一度本人から聞いてみたいものである。 でも、同窓同期がこのように各界で活躍している勇姿を見ると、羨望とともに正直なところ嬉しい気分になる。(笑)

■今日の締め括りは(これで今日はほんとにお仕舞いです(笑))、久しぶりにバルタザール・グラシアン(Baltazar Gracian)の『賢人の知恵(The Manual of Prudence)』から、31.友情を育む 32.友人は慎重に選ぶ 33.真の友を見つける、をお贈りします。

▼『友情』という言葉・・小生は好きですね。 『真の友情』は、ある意味「自分の命」や「恋愛」より強いときがある。 太宰治の「走れメロス」なんか、その典型だと思う。 一方、夏目漱石の「それから」の場合は、逆に主人公の代助が、愛する女性を巡る三角関係で一度は親友平岡との「友情」のために身を引いたが、最終的に「友情」と決別し、三千代との「愛」を貫いた。 「アガペー(agape)(=「博愛」)」とは次元が違うと思うが、『真の友情』の純粋性、一途さは「大切にしたい」と、五十路を過ぎた小生、改めて思った次第である。 

31.友情を育む

▼友は自分の一部であり、分身である。 友人同士、積極的に知恵を分かちあおう。

▼人は、他人が望むとおりになるものだ。 良い人だと思ってもらえるように、周りの人を味方につけよう。 人生は持ちつ持たれつ。 敵に囲まれているより、友に囲まれて生きるほうがいい。 日々友情を探し求めよう。 友情の種をまき、新しい友を増やすのだ。

32.友人は慎重に選ぶ

▼人はつきあう人によって判断される。 だから、よく吟味してから注意深く選ぼう。 分別に欠ける人の仲間だと決して思われないように。

▼多くの友人があなたの味方をしてくれるのは、あなたがうまくいっている間かけかもしれない。 しかし、そのなかには真の友情もある。 喜んでつきあってくれる友人もいるだろう。 そのような本当の友人だったら、あなたが苦労するときも、その労苦を一緒に背負って、おおいに助けてくれるにちがいない。

▼友人関係は、たまたまできるのを待つのではなく、自分たちで選びとって作っていくものなのだ。

33.真の友を見つける

▼そばにいると便利な友人か、距離を保ったほうがいい友人かを見分けられるようになろう。 話し下手でも、文章によるコミュニケーションは抜群な人もいる。 友人は、ただ楽しむためにいるのではなく、まさに自分の役に立つためにいてくれるもの。 調和のとれた、善良で誠実な人を友人にしよう。

▼真の友に値する人はそうたくさんはいない。 しかも、その価値ある少数を見分けられない人が多い。 今ある友情を保つほうが、新たに友人をつくるよりはるかに大切なことだ。 何年にもわたって長くつきあえる友人を選ぼう。 新しい友もやがては長年の友となる。 個性のしっかりした友人を選ぶといいだろう。

▼真の友がいれば、楽しいときはもっと楽しくなり、悲しいときは悲しみが薄らぐ。 友人は魂にさわやかな風をもたらし、逆境から救ってくれる唯一の存在だ。

■では、また・・。(了)

■【2637の会】ブログへは、 URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog  ← ここをclickして下さい。

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