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2007年11月の6件の記事

2007年11月30日 (金)

【時習26回3-7の会 0138】~「『宮路山』のつづき」「姫野友美『男はなぜ急に女にフラれるのか?』『女はなぜ突然怒り出すのか?』から」「『キスリング展』を見て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 今日も小生の「ひとりごち」を辛抱してご覧ください。 それでは【2637の会】会報【0138】号をお送りします。

20071126■さて、最初の話題は『宮路山』です。前【0137】号を出状した翌26日の地元紙東日新聞の第一面に『色づく宮路山』(添付写真ご参照)という題で、25日同山で開催されて「もみじまつり」の模様が紹介されていました。小生のinspirationが閃いたのでしょうか?(笑) 記事の一部をご紹介しますと・・、

PhotoPhoto_2▼(前略)宮路山は藤原盛忠の和歌にもある様に昔から「もみじ」の名所として知られ、毎年この時期は紅葉狩りを楽しむ登山客でにぎわう。

▼山頂近くの北側斜面一帯では、「ドウダン」と呼ばれる「コアブラツツジ」が山肌を赤く染め、登山客に秋の深まりを感じさせていた。今年は暖かく色づきが遅れていたが、紅葉は来月初めぐらいまで楽しめるという。(以下略)

Photo_3【筆者comment】▼26日は、偶然であるが、公用で来年115日に御津町とともに豊川市となる、音羽町役場を訪問する機会があり、その帰る道すがら旧東海道赤坂宿の史跡『赤坂宿公園』を訪れた。江戸時代、東海道五十三次ぎの宿場町の中で「赤坂」と「御油」との間隔は最も短く、約2km。関川神社(音羽町大字赤坂字関川)には、「夏の月 御油より出でて 赤坂や」(~【訳】夏の夜は明けやすく、空ゆく月も、恰も東海道の御油宿を出て赤坂宿に入るほどの短い距離しか渡らない~)という芭蕉の句碑がある。

▼豊川市の合併により、音羽町の名前は消えてしまう。田原市と合併した渥美町もそうであった。しかし、御津町の名前は残るという。万葉の時代からの由緒ある名前だからだろうか・・。合併に係る何らかの力関係で町名が残ったり消えたりする・・。子孫のためにも由緒ある名前は残したいものである。(笑)

■続いては、最近立て続けに2冊一気呵成に読んだ大変面白い本があるのでご紹介します。その本の名は、医学博士、心療内科医である姫野友美著「女はなぜ突然怒り出すのか?」と「男はなぜ急に女にフラれるのか?」。女史の話は、医学的根拠と心療内科医の豊富な経験に裏打ちされている(と思う)ので、大変説得力ある明快な説明が続き、久々に楽しく読ませて貰った。換言すると、男と女の心理・行動形態を「深層心理学」と「医学的根拠」で立証していくと言ってもいい。試しに、以下の面白い二題について、その概要をご紹介します。

1.女はなぜいきなり「もう別れましょう」と言い出すのか?

男は何が理由なのかもわからない

▼「私たち、もうおしまいね。いっそ別れましょう」。

妙に深刻な顔をして、あなたの妻や彼女がこう言い放ったとしよう。あなたには、その言葉が咄嗟に理解できない。昨日まで何の問題もなく一緒に日常を営んできたのに、この女はいきなり何を言い出すのか。(中略)

「おいおい、質(たち)の悪い冗談はやめろよ。(中略)」(中略)。

「冗談じゃないわよ。私、本気よ。もう我慢の限界なのよ」(中略)。

あなたは(中略)別れを切り出されるほどの理由は思いつかない。

「いったい、何が不満だっていうんだよ」。

「わからないって言うの? 私はあなたのそういうところが嫌なの。(中略)もう何を言ったって無駄。だから別れようと言っているのよ」(中略)。

男にとっては、まさに青天の霹靂だ。(中略)何が不満で別れたいのか、その理由さえわからない。(後略)

女はバケツ、男はザル

▼(前略)男女の感情の擦れ違いがこれほどまで大きくなってしまう理由は(中略)男と女の脳の違いに目を向けなければならない。男と女とでは、感情に対する処理の仕方がまるで違っている。

▼カップルの間で何かしらの感情のトラブルが生じたとき、男はその場しのぎでトラブルから逃れようとするが、女はそのトラブルを不快な記憶としてため込んでしまう傾向が強い。男のほうは一度やり過ごしてしまえば、そのトラブルの原因が何だったかなんてすぐに忘れてしまう。だが、女のほうは、そのことを決して忘れない。

言われてみれば、あなたにも思い当たるフシがあるのでは・・(中略)妻や彼女が頻繁に口にしている言葉を思い出してみてほしい。《・(前略)何かを買ってほしい(中略) ・たまには映画にでも連れていって(中略) ・お隣さんともめごとがあって、ちょっと助けてほしい(中略) ・子供のことで相談があるんだけど(中略)》 そうした言葉に対して、あなたは「ああ、わかった、わかった。いま忙しいからまた今度な」などといって適当にやり過ごしてしまってはいないだろうか。

▼それではいけない。そうした生返事を繰り返しているうちに、女はいつの間にか不満を大きく膨らませてしまう。そして、男がいつもと同じパターンでその場をしのいでいると、「この人は全然反省してない」「この人は何を言ってもわかってくれない」ということに(中略)。その不満は時間の経過とともに着実にたまっていく。

▼女の中には、そうした不満や不平などの感情をためる「バケツ」がある。(中略)不満の目盛りは1ミリ、また1ミリと嵩を増していく。(中略)

▼この女のバケツに対して、男は「ザル」(中略)。男はもともと相手の情動に関する察知能力が女よりも低い。(中略)女が訴えてくる面倒事を決まって先延ばしにしたり聞き流したりしてしまう。(中略)感情を網目から素通りさせてしまうザル(中略)。ザルがそうやって呑気に面倒事を通過させていると、バケツにたまった不平不満はいつの間にかとんでもない量になる。やがて、その不平不満という水はバケツから溢れ出し、ついにバケツはひっくり返る。その日が女が別れを切り出すときなのだ。

5.女が別れを切り出すのはすべて計算尽く?

やっぱりカネの切れ目は縁の切れ目?(【筆者comment】・・↓↓↓以下に述べられているのは姫野女史であり、小生ではありませんので。(為念)(笑)・・)

▼(前略)女とは生来的に計算高い生き物だ。どんなに強い愛で心が結ばれていようとも、(中略)経済的な安定がなければ女は男の胸に飛び込みはしない。(中略)口では甘いことをささやいていても、その裏ではパチパチと損得を計算しているものだからだ。(中略)女が別れ話を持ち出す際にも(中略)女の頭ではもうすでに損得の収支計算がきっちりと出されている。(中略)「このままでは損だ」という判断を下したから「別れる」(中略)。つき合うのも別れるのも計算尽く(中略)。計算高いことは別に悪いことではない。生きていくため、子供を育てていくためには、経済の基礎が安定していることが必要不可欠だ。女はより安定した生活環境を築くために、より稼げる遺伝子を選ぼうとする。(中略)「孕む性」である女の脳は、妊娠、出産、子育ての期間は「自分では稼げない」という前提のもとに設定されている。自分で稼げない以上、オスに経済的な支えを求めるのは当然(中略)。

「なんとかなるさ」は女には通用しない

▼(前略)経済にシビアな女脳は「いつかはなんとかなる」などというアテにならない話には興味がない。一年後の100万円より今日の一万円。男と違って、自分の目に見える範囲に幸せが転がっていないとドーパミンをなかなか分泌しないようにできている。(中略)女は生理が始まって以来、約40年間、月に一回その肉体の一部が破壊される。(中略)生理の前後で女の体調は大きく異なる。(中略)今日一日を無事に、できればハッピーに過ごすことのほうが重要だ。だから自分に自信がない。男には信じられないかもしれないが、一定でない体と心を抱えて何とか日常を正常にこなすことにエネルギーの大半を費やしてしまう。女が「癒し」を好むのもここにある。一方男の肉体はいつも一定だ。だから精神も一定であり(中略)未知の世界に飛び込むことに躊躇しないし、「いつか必ず・・」という設計もできる。(中略)女だって将来設計は立てる。しかし、それはまず、安全かつ安定設計が最優先(中略)、男のような誇大妄想的荒唐無稽な夢やロマンは持たない。不安定な体と心を抱え、子供にその自由を奪われる身としては男のような夢やロマンは持ちづらい(中略)。だから、更年期以降、体が出血という「肉体の破壊」から解放され、子育てを終えて自由になったとき、一気に「はばたき」たくなるのである。(中略)いつも「いつかは何とかなる」と聞かされながら、「いつまでたっても何ともならない」様な状況があまり長く続くと女はどうなるだろう。そう。「より稼げる遺伝子」を探そうとする女の本能が目を覚ます。そして、女の頭の中に組み込まれた計算シミュレーターがパチパチと音を立てて稼動し始めるのである。

女の中には天秤がある

▼(前略)20074月から離婚時の年金分割制度がスタートした。(中略)妻たちが(中略)経済的に生きていける見込みが立ったなら、もうリタイアした夫に用はない。それよりも、もらえるだけの年金を受け取って、後はやり残した自分の人生を生きようという訳だ。「はばたきたい」女たちには恰好の制度。(中略)女を甘く見てはいけない。

▼女の中には常に「天秤」が存在する。それは、「安定」と「刺激」の天秤である。「安定」は、産み育てる性の女にとっては何より不可欠だ。だから、その先に経済や生活の安定が見込めない限り、女はいまの生活を守ろうとする。だが、それでは欲求不満がたまるばかりである。女は自分の欲求を満たしてくれる「刺激」をいつも心の底で求めている。具体的には(中略)「もっといい生活をしたい」「もっと遊びたい」「もっとときめきたい」といった類の刺激である。(中略)(【筆者注】「安定」と「刺激」という)天秤によって「打って出るチャンス」を窺っているのである。

▼つまり、女とは本来的に「安心して楽しみたい」生き物なのだ。(中略)安定の基盤に立った変化を求めている。(中略)「安定」にさえ保証されているのであれば、女はチャンス到来とばかりにいまの生活を捨て、鞍替えをすることに躊躇しない。しかもそういうとき、女はシミュレーターを働かせ、どっちが得かをかなりシビアにシミュレートしている。(中略)しかも、頭ではそんな計算をしながら、何食わぬ顔をして口では全く別のことを言ったり普通に家事をしたりしている。男が呑気に構えている間に、空恐ろしくなるような計算結果がそこで弾き出されている可能性は大きい。(中略)

▼もし、ちょっとでも不安になったのなら、とにかく彼女の抱いている「損失感」を早く埋め合わさなければならない。そして、「やっぱりあなたといるほうが得だ」ということを彼女に植えつけなくてはならない。(中略)別に大幅に黒字回復しなくても、トントンかちょい赤字くらいの状態にまでもどしておけば十分だ。それくらいであれば、たいていの女は現状維持を選んでいまの生活を守る。

▼とにかく、天秤のバランスをキープしておこう。少なくとも、そうやって普段から気にかけていれば、女の計算シミュレーターがあなたといることに対して「大赤字」だと計算することはまずないだろう。

【筆者comment】▼どうです?皆さん。男性諸氏は心あたりがありますか・・?ある方はいまからでも遅くはありません。善後策を立て「彼女の抱いている『損失感』の埋め合わせ」を実践していきましょう。ところで、【2637の会】の女性の皆さんにお伺いします。姫野先生の説明に、あなたは共感できますか? ご意見を頂戴できればありがたいです。 mailをお待ちしております。 m(_ _)m (笑)

▼小生、この本を読んで、自分に当てはまる点が多いので正直怖くなった。(笑) 熟年離婚のリスクは、全く他人事と考えていたが、イヤイヤとんでもない。自分が一番ヤバイのではと思う様になった。これから地道に失地回復作業に入らねば・・。Privateの面でも、仕事同様、滅私奉公しないとアカンのかなぁ? ウン?!でも『今さら・・』という羞恥心、プライド、なかなか捨てることができないかも・・。←これでは、やっぱり『ヤ・バ・イ』・・か・・。困ったなぁ・・。(苦笑)

▼これらの本は、上記以外にも面白い話が盛り沢山・・。機会があれば後日ご紹介したいと思います。ご興味ある方は是非ご一読をお薦めします。(笑)

Moise_kisling【後記】■今日、最後にお届けするのは、『キスリング』の作品です。

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 1930  1925  1932  1922  1930_2  1931  1932_ ▼実は小生、昨日(29日)中経連主催のセミナー聴講のため訪名。その帰り、19時半まで会館しているということで、閉館時間にまだ時間があったことを幸いに、急遽松坂屋へ。今開催中の『キスリング』展を見て来ました。

モイズ・キスリング( Moise Kisling1891.1.22 - 1953.4.29 )は、エコール・ド・パリ(パリ派)のポーランド人画家。彼は、20代後半には画家として成功。性格は陽気で『モンパルナスの帝王』と呼ばれたリーダー的存在。パスキン(自殺)、モディリアーニ(アルコール中毒)、ユトリロ等、悲運の印象の強いエコール・ド・パリの画家等の中で幸福な一生を送った稀有な画家。彼の作風は、若い時ピカソやブラックと親交し、一時キュービズム的な絵も書いたが、彼の生来の自然主義的作風を発展させ、彼独自の新古典主義的な画風を確立。描かれる対象は、静物と女性(少女)像が多く、それらに魅力的な作品が多い。今日は、その中から展覧会に展示されていた作品から秀作を幾つかご紹介しながらお別れします。

▼彼の肖像画は、目が大きく、何処かしらアニメ風に見えなくもないが、はっきりとした鮮やかな色彩と構図が確りしていて、小生は好きな画家の一人です。ご高覧下さい。

A001130a 【追伸】■さらに「おまけ」です。今朝、小生の家の庭(正確に言うと親父宅の裏庭)にある「紅葉した『ドウダンツツジ』」を撮影しました。添付写真をご覧頂いてお別れしようと思います。

▼では、また・・。(了)

2007年11月25日 (日)

【時習26回3-7の会 0137】~「芭蕉〔奥の細道『二一松嶋』〕つづき」「『更級日記』『十六夜日記』(平安・鎌倉時代の女性日記)に登場する東三河」「三島由紀夫の忌日」「モンゴルでも地球温暖化」「晩秋の『永平寺』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0137】号をお送りします。 最近、【2637の会】memberの皆さんからのお便りがなくてとても残念ですが、【2637の会】会報は、この様に週1回程のペースで皆さんにお届けして行こうと思いますので、引き続きご贔屓にお願いします。(笑)(汗)(涙)

■さて、前【0136】号にてご紹介した「奥の細道」のつづきの件である・・。 嵐山光三郎は、著書「芭蕉紀行」で次の様に解説しているのでご紹介したい。

▼「句が浮かばず眠ろうとしたが眠れない」と芭蕉は告白している。あまりに絶景のため句が生まれないというのである。それで、曾良の句として、

 松嶋や 鶴に身をかれ ほとゝぎす

を書き留めたのであるが、これも芭蕉の句である。松嶋では、鶴の姿に身を借りて鳴き渡ってくれ、ほととぎすよ、という呼びかけの句で、松に鶴は付合いである。松島では芭蕉は嶋々や千々(ちぢ)にくだけて夏の海」(芭蕉文集)の句を得ており、これは島が幾千も海にくだけ散っているという動きのある景観で、句もまた千々にくだけて散り、「松嶋や・・」の句よりもこちらのほうが雄渾である。にもかかわらずこの句を捨てたのは、松島の章では、意図的に、地(じ)の文(【筆者注】説明の文章)だけで詠ませようとしたためと思われる。

▼『細道』は句文融合の歌仙形式(【筆者注】和歌の三十六歌仙に因んで三十六句から成る連歌・俳諧の形式。蕉風以来俳諧の代表的形態となった)をとり、松島では地の文だけで風景を立体化させようという気魄があった。句を詠めなかったという独白は地の文を主舞台にあげる仕掛けであり、「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ」と言って見せるのである。(以下略)

【筆者comment】▼「『松島や・・』の句を曾良の句としているが、実は芭蕉自身の作」とする嵐山説。 そう言われれば、そうとも思えて来るが、皆さんはどうお考えですか・・。(?)(笑)

■続いては、先日、ある会合で更級日記の作者が、当地三河を紹介しているところの話があり、大変面白く聞いたのであるが、この更級日記と、これより時代は二世紀程下り、鎌倉時代に書かれた十六夜日記にも、当地三河について記してあるので、これら二つの作品の当該箇所について、皆さんとご一緒に詠み進めたいと思います。

▼まず、更級日記(さらしなにっき、さらしなのにき)です。この作品は、菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ、寛弘51008)年~康平21059)年以降?)によって平安時代中期に書かれた日記。作者13歳の寛仁41020)年~、52歳頃の康平21059)年迄の約40年間の回想録。全1巻。

▼作者は菅原道真の5世孫にあたる菅原孝標の次女。母方の伯母は、蜻蛉日記の作者である藤原道綱母。日記文学の形式をとるが、纏めて書かれた様だ。東国・上総(現・千葉県)の国府に任官していた父と共に寛仁49月京の都へ帰国するところから書き出し、源氏物語を読みふけり、物語世界への憧憬に過ごした少女時代、度重なる身内の死去によって見た厳しい現実、祐子内親王家への出仕、三十代での橘俊通との結婚と仲俊らの出産、夫の単身赴任そして康平元年秋の病死などを経て、子供たちが巣立った後の孤独の中で次第に深まった仏教への傾斜までが平明な文体で描かれている。

▼因みに書名の更級は、古今集の一首「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」に由来する。それでは「一一.三河より尾張へ」をご紹介する。

▼それよりかみはゐのはなといふ坂の、えもいはずわびしきをのぼりぬれば、三河の国の高師の浜といふ。

▼八橋のみして端の方もなく、なにの見所ももなし。

▼ふたむらの山の中にとまりたる夜、大きなる柿の木のしたに庵(いほ)をつくりたれば、夜一夜(ひとよ)の上に柿の落ちかかりたるを、人々拾ひなどす。

宮路の山といふ所こゆるほど、十月つごもりなるに、紅葉ちらでさかりなり。

  嵐こそ 吹きこざりけれ 宮路山 

       まだもみぢばの ちらでのこれる

▼参河と尾張となるしかすがのわたり、げに思ひわづらひぬべくをかし。(以下略)

【現代語訳】

▼浜名の橋から上手は「ゐのはな(=現・白須賀町・新居町辺り)」という坂で、なんとも言えず苦しい坂を上ってしまったら、そこは三河の国の『高師の浜(注)』だという。

▼有名な(知立の三河)八橋(やつはし)は今は名ばかりで橋の跡形もなく、何の見所もない。

▼二村の山の中に泊まった夜、大きな柿の木の下に仮屋をつくったので、一晩中その屋根の上に柿が落ちて来るのを、人々は拾ったりする。

Photo宮路の山という所を越える頃は、十月末であるのに、紅葉はまだ散らないで真っ盛りだ。

  宮路山(注)では、まだ紅葉が散らないで残っている。(ということは)この山には嵐が吹いて来なかったのだなぁ。

▼三河と尾張との間の「しかすがのわたり(注)」は、成る程、(中務の歌の様に)渡ろうかどうしようか、と思い悩んでしまいそうに面白い風景である。

【筆者comment】(注)

高師の浜:『大日本地名辞書』によれば、大川町、高師村、野依村、細谷村、高塚村などの地で、豊橋市の東南、南は海で東は遠江浜名郡に続く。この地に高師山があり、歌枕として知られた。

宮路山:現・宝飯郡御津町と音羽町の境にある山。古くから歌枕として詠まれている(添付写真ご参照)。

しらすがのわたり:『地名辞書』の三河・宝飯郡・然菅の条に「今吉田川の下・・五井、津田などをば合せ然菅と称す。古の然菅の渡の跡なれば也」とある。『枕草子』「わたりは」の条にも見え、『万葉』以来の歌枕で有名。しらすが・・」は三河と尾張の間にはなく、宮路山の東南に位置する。作者の間違い・・。

▼次は、十六夜日記(いざよいにっき)である。この作品は藤原為家(【筆者注】((11981275.5.27)。鎌倉時代中期の公家・歌人。父は藤原定家。官位は権大納言・正二位。)の側室、阿仏尼(あぶつに)によって記された紀行文日記。建治31277)年~弘安元(78)年、或いは弘安21279)~380)年にかけ、実子藤原(冷泉)為相と彼の異母兄、藤原(二条)為氏との間の京都では解決出来ない所領紛争を鎌倉幕府に訴えるために京都から鎌倉へ下った際の道中、及び鎌倉滞在の間の出来事を綴る。阿仏尼の夫、為家は播磨国細川荘を当初は長男為氏に譲るとしていたが、後に翻意して遺言で為相へ譲ると変更。(公家法では悔返しは認められないが、武家法では認められる)。しかし為氏が遺言に従わず細川荘を譲らないため阿仏尼は訴訟を決心し、60歳近くという当時としては高齢にも拘らず我が子を残し鎌倉へ向かう(武家法による判決を得るため)。その間の道中、女流歌人でもある阿仏尼は各地で風物、名所・旧跡や感慨を日記に書き、和歌を詠む。鎌倉到着後は、目的の所領紛争解決を見ることなく阿仏尼は死去、日記も終わる。 平易で簡潔な記述の中にも母の子を思う愛と強い信念が窺える。 ・・それでは、「九.ありあけの影」からご紹介します。

▼(前略)高師の山も越えつ、海見ゆるほど、いとおもしろし。浦風あれて、松の響きすごく、浪(なみ)いと高し。

  わがためや 浪もたかしの 浜ならん 

                          袖の湊の 浪はやすまで

▼いと白き洲崎に、黒き鳥の群れゐたるは、鵜といふ鳥なりけり。

  白浜にすみの色なる島つ鳥 

                          筆のおよばば 絵にかきてまし

【現代語訳】

高師の山も越えた。海が見える具合は、実に風情がある。浦風が荒れて、松の響きがごうごうと寂しく、波はたうそう高い。

  わたしのために、高師の浜の波も高いのかしら・・、後からあとから涙が出て袖を濡らすまでに。

▼真っ白な洲崎に、黒い鳥が群がっているのは、鵜という鳥であった。

  白い浜に黒色の島の鳥たち。絵筆がとれるなら、私も絵に描くだろうに。
【筆者comment】▼更級日記は東国から京へ帰るとき、十六夜日記は、京から鎌倉(東国)へ向かう、という様に丁度進行方向が逆である。

▼両作品が書かれた11世紀から13世紀にかけての豊橋周辺の模様を、二人の女性の筆で表現された高師の浜といわれる場所は・・、豊橋の東南部から潮見坂にかけて辺り一帯を指している様だ。「白須賀の辺りから豊橋にかけての坂道がとてもきつかった」と孝標女が言っているが、宿場町も整備されていなかったであろう平安時代、女性にとっては、旅は相当大変であったことであろう。

Photo_2「gekibunyukio_mishima.doc」をダウンロード ■話し変わって、三島由紀夫についてである。三島由紀夫は、昭和451125日、つまり37年前の今日、東京の陸上自衛隊市谷駐屯地、東部方面総監部の総監室に立て籠もり、自らが結成した私兵隊『盾の会』の副長、森田必勝と二人で割腹自殺を遂げた。今のインター・ネットは凄い。 三島由紀夫の生首まで見ることができる・・。 三島が書いた「潮騒」「金閣寺」「仮面の告白」「禁色」「永すぎた春」「豊穣の海四部作」等は、いずれも名作揃いの珠玉の作品群と言える。が、それに引き換え、三島が自殺当日、陸上自衛隊市谷駐屯地でばら撒いた「檄文(添付資料ご参照)」を読むと、正直幻滅する。まるで躁鬱病患者の、下手なアジテート演説文と言ったら言い過ぎであろうか。 三島の小説の質の高さから、俄には信じられない、小生はそう思う。享年45歳。「永すぎた春」ならぬ『早すぎた死』である・・。(合掌) ついでと言っては、なんだが、三島の忌日より遡ること7年と2日前(19631122日、日本時間では1123日)は、ジョン・F・ケネディが暗殺された日である。

■続いては、今日の日経新聞の記事から、「温暖化の影響、モンゴルで拡大~ 凍土2m減:寒冷地でも砂漠化の恐れ」をお伝えします。

▼モンゴルの首都ウランバートル市周辺の永久凍土が20年後には消滅、草原が砂漠になる可能性が高いことが、国立環境研究所などの調査でわかった、という。過去8年間で凍土は最大2m減少、温暖化が原因とみられる。(中略)同市の平均気温は過去60年間で2.3度上昇、冬季の気温は3.4度も上がったという。 

【筆者comment】▼地球温暖化の問題は、本当に怖いですねぇ・・。 京都議定書の忠実なる履行を進めないと、人類の将来は由々しい事態が・・。

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 0092_4 0093  0094_2  0095 0096  0098   0100 0101  0102 【後記】▼今日、締めくくりは、「晩秋の『永平寺』」の紅葉をご覧に入れて仕上げたいと思います。 実は、小生、一昨日・昨日、社員旅行で「福井」へ、旅行して来ました。「長浜の黒壁スクウェア」→「小浜(越前蟹を堪能)泊」→「日本海さかな街」→「越前竹人形の里」→「晩秋の大伽藍『永平寺』」のコースである。添付写真をご覧下さい。 そして、小生の稚拙な俳句を一句・・。

  霜葉が 伽藍一面 永平寺   悟空

では、また・・。

(了)

2007年11月19日 (月)

【時習26回3-7の会 0136】~「小雪」「みちのく『仙台小旅行』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0136】号をお送りします。  今回も、【2637の会】memberからのお便りは、残念ながらありません。 と言う訳で、今回も小生のつまらない話に暫しの間お付き合い下さい。 m(_ _)m

■さて、時節も巡り、今週1123日は二十四節気でいう「小雪」。 冷ゆるが故に雨も雪となりてくだるがゆへ也(暦便覧)とある。 18(日)の午後から寒波到来で急に寒くなりましたが、皆さん如何お過ごしでしたでしょうか。

■実は小生、17(土)~18(日)の二日間、愚息が下宿しているみちのく仙台へ陣中見舞いに行って来ました。 愚息が今年大学院二年生で、来春の就職もなんとか決まり、学生時代最後の年となるため一度は行ってやらねばという思いと、昭和575月~614月まで銀行の仙台支店にいたという懐かしさも加わり、急遽出かけて来ました。

Privateの小旅行であり、【2637の会】会報に載せることにつき、少なからず躊躇しましたが、最近の仙台の生の情報を皆さんにお伝えしたら、少しは興味を持って頂けるかなと考えお届けすることにしました。 悪しからずご了承下さい。

17日の朝、豊橋を642分の東海道新幹線「ひかり」号に乗り、東京駅(820分着)で、東北新幹線「はやて」号に乗り換え(828分)、1011分には仙台に到着。 豊橋駅~仙台駅の所要時間が3時間半に満たない、時間的に仙台もかなり近くなったというのが実感でした。

▼それから、東北新幹線「はやて」は、「全車両禁煙、デッキやトイレを含め全面的に禁煙」となっていました。 ついでに言えば、豊橋市内のタクシーも今月1日から、全面的に禁煙。 時代の趨勢とは言え、愛煙家にはホント肩身が狭い時代になりましたね。 小生も禁煙を開始して13年、完全禁煙してからでも満8年が経ちました。 禁煙できて本当に良かった・・。 それから東北新幹線の終点は、今では「八戸」。東北新幹線が開通した昭和576月には、「大宮」~「盛岡」までしかなかったことを思うと、これも隔世の感がある。(嘆息)

A▼仙台の17日の天気は快晴。 仙台東口至近でレンタカーを借りた後、まず向かったのは青葉城址。 小生が銀行の仙台支店に勤務していた4年間の前半の昭和5758年、得意先係として、毎週月水金と、青葉城址にある青葉城本丸会館に集金に通っていた。 その時、いつも眺めていたのが、伊達政宗の銅像である(添付写真ご参照)。 この像は、昭和614月以来、22年ぶりに見たが少しも変わっていなかった。 小生、とても好きな貫禄ある立派な政宗の騎馬像である。

PhotoPhoto_2▼続いて、昔日の懐かしい想い出に惹かれ、紅葉した欅並木が美しい定禅寺通り、一番町、青葉通り等の繁華街。 これらの街並み散策を楽しんだ後、次に訪れたのは、牛タンの食事処として当地で結構有名な『太助』。 愚息のお薦めの場所である。 畳に長テーブルということで、すし詰めで狭かったが、牛タン定食(1,260円。添付写真ご参照。牛タンの味付けは塩ではなくタレ。写真は2人前)はボリューム満点で大変美味であった。 スープも大変グー。

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Photo_5Photo_6▼食後に向かったのが、宮城蔵王山の御釜。 仙台市内から東北自動車道、村田J.C.経由山形自動車道宮城川崎I.C.下車で、蔵王エコーラインを一路蔵王山頂を目指した。 ところが・・、である。 終点まであと6km余りのところ迄来たところ「冬期通行止め」と、道路がゲートで閉鎖されているではないか(添付写真ご参照。ゲートの脇にはご覧の通り残雪がある)。 小生の情報収集不足であった。 蔵王山頂、御釜へは、先週の土曜日11日から来年425日まで閉鎖。 我々の後にも、我々同様、閉鎖を知らない車が次々にやって来ていた。 仕方なく、Uターンし、やや下ったところにある滝見台で、「不動の滝」と「三階の滝」を見たが、そこで「玉こんにゃく」を売っていたおじさんに「あのゲートを越えて歩いていったら御釜に行けるか」訊いたところ、「とんでもない。おととい雪がかなり積もって、前に進めん」とのことであった。

Photo_7▼仕方なく、宿泊予定の、遠刈田温泉とともに宮城蔵王の温泉として知られている『青根温泉』の旅館に向かった。 ここは、古賀政男(19041118 - 1978725日)が、昭和の流行歌の名作「影を慕いて」の曲を着想したところである。 そして、「影を慕いて」歌碑がここにあり、次の様に顕彰している。

▼(前略)古賀政男は、激動の昭和初期 不況のどん底に明治大学を卒業した 前進にはこれといった確かな希望もなく 苦学に疲れ 失恋傷心 煩悩やる方ない心のよりどころを求めてここ青根温泉に投宿した 山中をさまよい谷間に降り 峰をかすめて流れゆく雲を追いつつ 放心状態にあるとき 友人の大沼氏の呼ぶ声に我にかえった 折しも蔵王の山の消え入ろうとする夕日の輝きが美しかった その夜は泥酔するほど飲んだ この青根山中での胸の奥にうっ積した絶望感 とざ折した思いが結晶して「影を慕いて」の詩と曲を完成したのがその年の秋であった(後略)。

Photo_8【筆者comment】▼宿泊した青根温泉・旅館「とだや」の翌朝での出来事・・。朝食時に窓から山際にかけてとても綺麗な虹が出て、私たちを魅了した。 これも何かの縁なのだろうか・・。その日が奇しくも古賀政男の誕生日(1118日)であった(添付写真ご参照)。 

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Photo_10Photo_159時すぎに宿を後にして仙台市へ。 愚息の下宿に立ち寄る前に街中にある『勾当台公園』の紅葉を堪能した。 赤・黄・緑の樹木のharmony・・。 晩秋の仙台の秋の美しい一情景である。 『勾当台公園』の写真を3枚添付した。 ご覧下さい。 綺麗ですね。

Photo_12▼下宿を覘いた後、今度は一路松島へ。 まずは、腹ごしらえということで、当地では大変有名なお食事処「田利津庵」へ。 松島の牡蠣(かき)をメインにした鍋物と懐石料理を堪能。 その後、海に浮かぶ松島の数々を見る。 昔の儘の趣きある美しい姿であった・・。(添付写真ご参照)

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Photo_14▼その後、松島一の観光スポットである国宝『瑞巌寺』を訪れた。(添付写真ご参照)

【筆者comment】▼ほんと、あっという間であったが、楽しい二日間であった。

【後記】■今日の締め括りは、松尾芭蕉の『おくのほそ道』から「二一『松島』」の一部をご紹介する。

▼抑(そもそも)ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にて、凡そ洞庭(とうてい)・西湖(せいこ)を恥ぢず。(中略)其の景色窅然(ようぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそお)ふ。(中略)江上(こうしょう)に帰りて宿を求むれば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中(うち)に旅寐(ね)することこそ、あやしきまで妙(たえ)なる心地はせらるれ。

 松嶋や 鶴に身をかれ ほととぎす     曾良

▼予は口をとぢて眠らんとしていねられず。 旧庵(きゅうあん)をわかるる時、素堂松嶋の詩あり、原安適松がうらしまの和哥(わか)を贈らる。 袋を解きてこよひの友とす。 且、杉風(さんぷう)・濁子(しょくし)が発句(ほっく)あり。

【現代語訳】▼さて、先人達によって言いふるされていることではあるが、松島は日本第一の優れた風景であって、まず中国の洞庭湖や西湖の眺めに比べても恥ずかしくないほどである。(中略)松島の景色は、見る人をうっとりさせる様な美しさで、美人がその顔に化粧を施した様な趣きがある。(中略)松島の海辺に帰って宿を借りたところ、海に向かって窓を開き、二階造りになっていて、大自然の風光の中で旅寝をするのは、不思議なほど素晴らしい気分がするのであった。

 松島は素晴らしく景色の良い所であるなあ。 折から鳴き過ぎるほととぎすよ。 鳴き声はそれでよいが、この松島の絶景には鶴が最も相応しいから、鶴の姿を借りて松島を鳴き渡れよ。 ― 曾良

▼私は句作を諦めて眠ろうとしたが、眠られない。 もと住んでいた草庵を離れる時に、(山口)素堂が松島の漢詩を作ってくれ、原安適は松が浦島の和歌を贈って下さった。 私は袋の口をといて、これらの作品を、眠れぬ今宵(こよい)の慰みの友とした。 袋の中には、ほかに杉風や濁子から贈られた発句もあった。

【筆者comment】▼「松島」はみちのくの歌枕を代表する語である。 また、「平泉」「象潟」と並び「おくのほそ道」紀行文の3つの頂点を形成する。 しかしながら、「松島」には、「平泉」における「夏草や 兵(つはもの)どもが 夢の跡」や、「象潟」における「象潟や 雨に西施(せいし)がねぶの花」の様な、華となる句がない。 芭蕉は、「松島」の景観の素晴らしさに圧倒されて句をつくれなかったと言うのは本当であろうか。 そうかもしれないし、真意はほかにあるのかもしれない・・。 いずれにせよ、今となっては知る由もない。 

▼では、また・・。(了)

2007年11月14日 (水)

【時習26回3-7の会 0135】~「14日:毎日新聞『家計凍える灯油高』」「13日:『神様、仏様、稲尾様』逝く」「小太り体形の健康・長生き術」「12日:『草野心平』忌日」「14日:印象派画家『クロード・モネ』生誕日」「高浜虚子の句『桐一葉・・』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0135】号をお送りします。

■さて、日付は若干前後しますが、副題の掲載順に5つほどご案内したいと思います。

■まずは、今日1114日の毎日新聞のニュースから・・。 先日【0134】号にてご紹介させて頂いた灯油価格高騰のお話に関連しますが、「くらしナビ」に、読者から以下の様な質問が寄せられた。

Q:灯油代が去年よりずいぶん上がりました。暖房費は電気、ガスと比べてどうなのでしょう?

▼記事では、「石油情報センターによると、(【筆者注】11月)5日現在の灯油価格(18㍑、店頭販売)は全国平均1,594円で、過去最高値」と紹介している。 同センターでは「このまま高騰が続けば、12月もさらなる値上げは避けられない」と予想している。 20044月に850円(同、同)前後であったことを考えると、2年半で1.9倍に販売価格は跳ね上がってしまっている。

▼家電店では、「燃料費が今冬一番安いのは①ガス・ファンヒーター、次いで②エアコン、③石油ファンヒーターが最も高価(現在の灯油価格だと、5,5007,000/月)になる」という。 但し、エアコンは最新式の機種の場合。エアコンはここ数年で省エネ性能が大幅に違うので旧式であると割高とも。

▼新聞では、「何を使うにせよ、部屋の暖房効率を上げておくことが節約のポイント」。ということで、省エネルギーセンターで聞いた暖房効率アップのための暖房器具の使い方を次の様に紹介している。

①設定温度は20度Cが基本。

②エアコンは風向きを下に。それでも暖まった空気が上にたまるので、扇風機を上向きにして回し空気を攪拌すると、同じ設定温度でも暖かく感じられる。

③石油やガスのファンヒーターは、窓際に置く(冷えた外気をファンヒーターで暖め、部屋に送るため)。

④電気カーペットは、カーペットの下に断熱マットを敷く(床にじかに敷くと熱が床に逃げ暖房効率が下がるため)。

⑤電気コタツは、敷布団、掛け布団を暑くする(熱が逃げない様に)。

⑥着る物の工夫も(カーディガン1枚で2.2度、膝掛け1枚で2.5度、ソックスを履くと0.6度、体感温度が上がるという)。

【筆者comment】▼生活防衛は、これらを参考に地道な努力していくことから始めましょう。(笑)

■次の話題は、元西鉄ライオンズ稲尾和久投手の訃報である。

13日未明、癌のため福岡市内の病院で死去した(享年70歳)。

▼彼は、1958年の日本シリーズでは巨人に3連敗しながら、稲尾の4連投で4連勝。奇跡の逆転日本一の主役を演じ「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれたことはとくに有名。

▼西鉄ライオンズの主力として、黄金時代の7年間をともにした豊田泰光氏による「稲生さんに今――」のコメントが14日の日経新聞に掲載されたのでご紹介する。

▼「日本一短い戦評」というのが流行ったっけ。「稲尾が投げ、中西が打って西鉄が勝った」。ライオンズはそのまんまのチームだった。 ピンチを迎え、秘策ありげにベンチから出てくる三原脩監督も、君の肩ができるのを待つのみだった。 最初は線が細く、高校を出て訪ねてきたときに「ここは野球の寮で、電鉄の寮は別だよ」と言ってしまった。ごめん。(中略)キャンプが進むにつれ、(【筆者注】打撃ピッチャーとして入団した稲尾投手の投球を受けて練習していた・・)我々の球が前に飛ばなくなったのは確かで、稽古台になったのは打撃投手の君ではなく我々だったと言う訳だ。(中略)

▼「コントロールは指先の記憶ですよ」と話したのは5、6年目のことだったか。(中略)「私(稲尾)と杉浦さん(南海)の対戦は2929敗なんです」と話していた。 ただ勝つだけでなく、マウンドに立っただけで風格漂う、本当のエース同士の対戦成績として納得できる数字じゃないか。

▼稲尾よ。君がいなくなって一体だれが「指先の記憶」を伝えるんだろう。(談)

【筆者comment】▼一シーズン42勝という大記録保持者でもある大投手・・。 昭和の野球史を彩った傑物がまた鬼籍に入った。 「昭和は遠くなりにけり」か・・。それにしても、70歳は若すぎる死である。 天寿とは言え、せめて80歳以上は元気に生きたいものである。 スポーツ界の一流選手は一流だからこそ、体を極限までいじめ抜いて鍛えるため、「太く短い」人生になってしまうのであろうか。 氏の冥福をお祈りします。(合掌)

11日の日経新聞に『小太り体形の健康・長生き術』という、結構我々中高年者にとって嬉しい健康管理術の記事が掲載されていましたので、ご紹介いたします。 その記事では「太りすぎは心筋梗塞などの発症リスクを高くするが、肥満に対してはあまり神経質になる必要もない」という。 少し詳しく見ていくと・・。

▼『小太り体形・・』の記事は、BMI(体重を身長の二乗で割った数値〔体重(kg)÷身長(m)÷身長(m)〕)に着目。

▼肥満の判定(日本肥満学会の基準)

・【やせ】BMI18.5未満

・【正常】BMI18.5~25未満〔ちょい太だと26未満までOK!〕

・【肥満】BMI25以上

 〔ご参考〕小生の現在の体重と身長を計算式に当て嵌めると・・、

  75.0(kg)÷1.775身長(m)÷1.775身長(m)≒23.80

 となり『ちょい太』を意識しなくても一応【正常】のrangeなので、一安心・・(?)。

▼『がんばらない』等の著書がある諏訪中央病院の鎌田実名誉院長曰く。「食べたいものを好きなだけ食べる」が鎌田流。これを実践するため、①食べ過ぎたと思ったらそのあと少し節制する ②空腹を防ぐため寒天を愛用する ③夜食や間食は避ける ④早歩きとゆっくり歩きを30m毎繰り返す―等を心がけているという。

▼高カロリーの欧米スタイルの食事が(中略)高血圧症や糖尿病など様々な生活習慣病の元凶となる(中略)。 二年前に診断基準ができたメタボリック症候群も太っている様に見えなくても内臓に脂肪がついた中高年をあぶりだすという予防医学の考え方が根底にある。 BMIも22が理想とされる。

▼ただこうした「医学上の常識」に待ったをかける様な研究結果も出ている。

▼厚生労働省の研究班が秋田、岩手、長野、沖縄で4~50代の男女約4万人を十年間追跡調査したところ、男性で最も死亡率が低かったのはBMI「23-25未満」で、「25-27」が続いた。健康上理想的とされてきた「19-23未満」に比べて成績が良かった。「19未満」のやせと、「30以上」の極端な太りすぎは死亡率が高かった。 女性では「19-25未満」で死亡率に大きな差はなかった。 こうした結果を踏まえ蒲田医師は「太りすぎは健康によくないが、小太りは長生きできる」と力説する。(中略)

▼「メタボリック症候群ではなく運動不足症候群と呼ぶべきだ」というのは富山大学和漢医薬学総合研究所の浜崎教授だ。 日本人に肥満が増えたのは車の普及による運動不足が主な原因だという。

▼高齢者になると肉を控える人が増えるが、食が細くなってやせ過ぎると肺炎など感染症への抵抗力も弱まる。浜崎教授は「肉や魚、牛乳など動物性たんぱく質も含め、満遍なく食べる。特に魚はお薦め」とアドバイスする。

【筆者comment】▼これも、【0133】号で90歳以上の健常な高齢者は例外なく『食が太い』というか、『食が細い人はいない』」とお話したことと符合しますね。

■続いては、12日に忌日を迎えた「草野心平(1903.5.12-1988.11.12)」についてである。 草野心平氏の名は皆さんよくご存知であると思いますが、彼の経歴をご存知の方は意外と少ないかもしれません。 嵐山光三郎著「文人暴食」の「草野心平」から略歴をご紹介します。

1903(明治36)年5月、福島県上小川村(現・いわき市小川町)生まれ。 1916(大正5)年4月、福島県立磐城中学校入学。 17歳で慶応義塾に編入するが半年程で退学。18歳で中国広州に渡り、嶺南大学(現・中山大学)に入学、22歳(大正14年)の時、排日運動が勃発して帰国。 宮沢賢治、萩原朔太郎と交遊する。 28歳で上京、麻布十番に焼き鳥屋屋台「いわき」を開店し、その後、新宿十二社に住んで、新宿紀伊国屋裏へ焼き鳥屋屋台を移した。 30歳の時、賢治が死んだ。 心平が出版した『宮沢賢治追悼』が横光利一の目に留まり、後の『賢治全集』刊行の機縁となった。 それまで花巻に住む一無名詩人であった賢治をこの世に出したのは、ひとえに心平の努力によるものであった。 心平は、人間の存在と死を見つめ、富士山を讃え、蛙の詩を多く書き、居酒屋「火の車」を経営し、筑摩書房版『高村光太郎全集』を編集する一方で『わが光太郎』(昭和44年度読売文学賞)という文芸評論を書き、昭和62年(84歳)には文化勲章を受章した。 翌昭和631112日逝去。

▼彼の詩は『蛙』と『富士山』が代表的。 とくに「蛙」は彼のライフワークと言って過言ではあるまい。 従前【2637の会】会報にて二回ほどご紹介させて頂いた『春殖』〔るるるるる・・と「る」が縦29字連なり、恰も蛙の卵を連想させる作品〕は、ご記憶がある方も少なくないと思う。 また、『冬眠』と題する詩は本文はたった一つ「   ●   」と、●が一つ書いてあるだけ・・。 ●は、まるで真っ暗闇の丸い穴を寝座(ねぐら)・・。蛙が冬眠をするイメージが湧いてきませんか・・?

▼今日は、その『蛙』とともに心平の代表作シリーズ『富士山』作品4をご紹介します。

  『富士山』 作品4  第七集『富士山』(昭和18年刊)より

 川面に春の光はまぶしくあふれ。そよ風が吹けば光たちの鬼ごっこ あしの葉のささやき。よしきりの舌にも春の光。

 どての下のうまごやしの原に。

 自分の顔は両手のなかに。

 ふりそそぐ春の光にかえってものうく。

 ながめていた。

 少女たちはうまごやしの花を摘んで巧みな手さばきで花輪をつくる。それをなわにしてなわとびをする。花輪が円を描くとそのなかに富士がはいる。そのたびに富士は近づき。遠くにすわる。

 耳にはよしきり。

 ほおにはひかり。

【訳】

   ( 東京の荒川堤の草原に寝そべっている麗らかな日。 水量たっぷりの )

 川面に春の光は眩しく溢れ( 目の前の葦の葉は )そよ風が吹くと光と影の子供たちが鬼ごっこ( している様にちらちらし、 )さやさやと囁(ささや)く様に音をたてて( いるし、澄んだ空気を劈(つんざ)く様に )よしきり(【筆者注】うぐいす科の小鳥)の声は鋭く( 隈なく行き渡る日光に )よしきりの( ほんの僅かに小さい )舌にも春の光( が煌めき、川面の眩しい光にも、葦の葉のささやきにもよしきりの囀(さえず)りにも、すべて瑞々しい春の生命が脈打ち、躍動している。 )

 土手の下のクローバの原に( 寝そべって )

 自分の顔は両手の中に( 頬杖をつき、人生にやや疲れた私は、あまりにも明るく )

 降り注ぐ春の光にかえって物憂く( それらを眺めていた。 すると、少しもじっとしていることのない )

 少女たちはクローバの花を摘んでは手を器用に動かして花輪をつくる。( そして疲れを知らない彼女らは )それを縄にして縄跳びを始める。( くるめく腕、跳躍する足、上下に回転する花輪。振り上げた )

 花輪が円を描くと( 額縁に嵌め込んだ様に )その中に富士山が入る。( パッ、パッと )その度に富士山は近づき( 浮き上がり、円から外れると遥か彼方の )遠くに座る。( その遠近運動の動的な映像! あぁ、春はいい、元気なのはいい。少女たちも、富士山も、それ自身、何も知らないが、私は溌剌とした若い生命に、疼くような郷愁を胸に翳らせながら、子気味良い少女たちの運動を眺めている。静かだ、麗らかだ。 )

 耳にはよしきりの声。

 ほおには光。

【補訳】▼瑞々しく若い命の躍動・・『富士山』という題目よりも、むしろ『春』若しくは『青春』という言葉によって象徴されそうな、生き生きとした「新鮮な、生命の顕現(【筆者注】はっきり現れること、明らかに表し示すこと)に対する賛嘆」、或いは、「若さに対する微かな郷愁に似た様なものを翳らせている憧憬」がこの詩の感動の中心である。

Monetwaterlilies1906_3Monet1916_2Monet1923続いては、今日1114日は、印象派を代表するフランスの画家クロード・モネ(Claude Monet 1840.11.14 - 1926.12.5没)の生誕日である。

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▼第一回印象派展に出品された『印象、日の出』(1872年)が『印象派』の名称の由来となったことはつとに有名であるが、異説もある。 とにもかくにも、「百聞は一見に如かず」、モネの傑作群を堪能下さい。 月並みとは言え、いいものはいつ見てもいいですねぇ・・。(笑)

【後記】■今日の締め括りは、時節は少し逆戻りしますが、初秋の風物詩、高浜虚子の詩を一つご紹介します。 大変有名で皆さんもご存知ですね。

 桐一葉 日当たりながら 落ちにけり

【訳】虚子の孫娘稲畑汀子著「虚子百句」の解説から抜粋してご紹介します。 明治39827日、虚子32歳の作である。

▼一句を具体的に鑑賞してみよう。「桐一葉」は万象の秋を先駆けて知らしめる初秋の雰囲気に溢れた季題である。「一葉落ちて天下の秋を知る」(文禄)という中国の古典より出た言葉であって、そこには万象の衰えゆく淋しさ、秋の寂寞感が根源的に含まれている。(中略)

▼広い大きな桐の葉が枝を離れ、ゆっくりと落ちて行く。この短い時間の間に葉は光線を得て枯れ色をきらきらと輝かす。大きい一枚の葉が風もなく枝を離れ、落ちる無常と、それを一瞬鮮やかに輝かせる秋日。それは終(つい)の命への自然の優しさを感じさせ、天地有情ということを考えさせずにはおかぬであろう。

▼「日当たりながら」という措辞(そじ【筆者注】言葉の使い方)の不思議な効果についても言及しなければならない。こう言われることによって一枚の桐の葉が落ちていく短い時間の中で、葉が空中にある時間があたかもこの部分だけが高速度撮影されたスローモーションの画面を見る様に延長拡大されるのである。そして、「落ちにけり」と着地して深い沈黙に到る。

【筆者comment】▼流石は孫娘・・、的確な解釈であると思う。 この句は、小生、小学校時代か中学校時代に詠んだ覚えがある。それ程有名な作品なのである、・・か。

■では、また・・。(了)

2007年11月 9日 (金)

【時習26回3-7の会 0134】~「『竹中平蔵』の講演を聴いて」「伊勢物語(123段)」「画家『アンリ・マチス』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0134】号をお送りします。 今日も【2637の会】memberの皆さんからの便りはございません。 ・・と言う訳で、また暫く小生のつまらない話にお付き合い下さい。(笑)

■実は小生、115日に、某住宅ビルダー主催の掲題の講演会今後の改革と日本経済』を聴いてきました。 氏の話は、大変歯切れ良く、軽快なピッチであっという間の1時間余りが過ぎました。 ご参考までに、小生が聴いたところの概略を其の儘お伝えしたいと思います。 ではどうぞ・・。

【竹中】

1030日(火)午前中に民主党・自民党のトップ会談が行なわれ、「とんでもないことがある・・」と噂が流れた。 午後になり「ひょっとして『大連立』の話では?!」と聞こえて来た。 読売新聞のナベツネ氏は、従来より「大連立派」で知られており、これまでにも「森・ナベツネ会談」が10回程開催されている。 112日(金)会談で大連立の話が公に。 福田氏から「大連立」の申入れが小沢氏にあり、小沢氏が民主党に持ち帰り協議。 民主党では拒否し、小沢氏が民主党代表辞任表明した。 このことは皆さんご承知の通り。

▼この結果、どういうことが起きたか? 

自民党の株(【筆者注】=評価)が上がり民主党の株(=評価が下がった。 これが大きなこと。 これで、自民党はタイミングを見て衆議院解散への道が開いた。 そもそも、前回の参院選で自民党が惨敗したのは、①社会保険庁の年金問題、と、②バンソウコウ、が原因。 株(=評価)を下げた民主党が、2割位の可能性で株を上げる策がある。 それは、①ニュー・リーダーの登場、と、②良い政策、の二つだ。 小泉元首相は安倍晋三前首相の退陣劇に触れ以前こう言っている。「人生には3つの坂がある上り坂下り坂と『まさか。まさかあのような形で退陣するとは思っていなかった。これからの政局もいつまさかがあるか分からない」・・と。
▼私(竹中)は、昨年、日経新聞社から「構造改革の真実」という本を出した。 私は小泉首相(当時)とは5年5か月付き合った。 その中で、『改革についての話をご紹介する

▼「郵政民営化」、これは、2005年の春から夏にかけて、自民党が強い圧力で修正を迫ってきた。 与党幹部が小泉首相に迫って来た。 そのとき小泉首相が発した言葉が凄かった。「わかっただったら否決しろ。 あとの責任は一切オレがとる。」 同席した私は小泉氏のパッションを感じた。 これは会社経営にも通じるものがある。 経営には2つポイントがある。 一つは、「経営者がどの位熱い想いで取り組んでいるかを部下は見ている」ということ。 もう一つは、「戦略は細部に宿る

▼私が尊敬する経営者に日本マクドナルドを世界一のマクドナルドにした名経営者藤田田氏の言葉を思い出す。 彼はこう言った。「経営者はホームランを狙ってはダメ。何がなんでも一塁に出ること。これを重ねて初めて得点できる」。 この姿勢を忘れてはダメだ。 社会保険庁の金集めを、強制徴収に変更するために、国税庁に移管することになった。 ところが、最後の土壇場になって『移管する』が『委託する』にするりと掏りかえられ骨抜きにされた。 これについては、安倍内閣も、マスコミを気付かなかった。 これなんか「戦略は細部に宿る」の典型である。

1980年代、日本経済はGDPが年率4.5%で成長していた。 それが1990年代には1%代にダウン。 失われた10年間に投入された公共投資額は130兆円。 これは東京都23区と大阪市内の建物全部を立て替える位の規模に相当。 この1990年代に、日本国のB/Sは歪んでしまった。 例えると、50百万円借金して50百万円の家(建物)を建てた。→ 当該建物価格が25百万円に下落したが借金は50百万円の儘。→ 銀行が不良債権を抱え込む。→「貸し渋り」、延いては「貸し剥がし」が発生。→ 危機的状況が現出。

▼ロンドン・エコノミスト誌は、「日本は1990年代不良債権償却して来なかった。この儘では日本を償却することになる」と警告。 日本はピーク8.4%の不良債権比率があった。 今は1.5%に下がっている。 

日本は現在やっと日常生活ができる様になった。 10年前、中国のGDPは日本の10%。 ところが、今は50%の水準にある。 何年か後には中国は日本のGDPを超える。

【筆者注】▼新生銀行元社長の八城政基氏によれば、2003年外国から中国への直接投資額は535億ドル。2006年には866億ドル(11兆円)に増加。 日本の場合、戦後50年間で、外国からの投資額はせいぜい1011兆円だから、中国は昨年1年間で日本の50年分の外国投資が入って来たことになる。 貿易収支の黒字額も、2004年の328億ドルから、20061,775億ドル、2007年は最初の5か月で858億ドルに達している。 経常収支は4,000億ドルに(50兆円/年)達していると言われている。 その結果、外貨準備額はこれまで日本が世界一であったが、2006年に日本を抜き、20073月には、約120兆円に達し、世界最大規模になっている。

▼今、日本に超高層ビルは200本あるが、中国では上海だけで1,000本以上あることをご存知か?

この10年間で世界経済は様変わりした。 これからは高い経済成長が必要。 今、GDP2%成長から3%成長に変われば10年後は10%違って来る。 現在、日本のGDP500兆円。 故に(【筆者注】10年で)50兆円のマーケットの差となる。 そうすれば消費税の増税がなくても(【同】税収は)10兆円増える。 この10兆円は消費税8%に相当。 消費税は上げない方がいいに決まっている。

日本に高成長は可能か?→「可能」である。 『改革』の配当の例を示そう。

▼名古屋駅前に中央郵便局がある。5階建で。 駅前に中央郵便局があるのは、かつて鉄道で運んでいたからだが、国営であったため有効活用が図られていない。 これからは従来の「郵便」「貯金」「保険」以外に、不動産開発・同賃貸事業が可能となる。 藤田田氏が言っていた。「1階をマクドナルドに、2階を郵便局に」と。 郵便局は全国に24千か所。 英国の郵便局では色々なものを販売している。 また、郵政は、今運用は国債だけ。 これからは各種ローンが取扱い可能となる。

▼一方で、「反・改革」の機運も出て来ている。 それは「格差の拡大」だ。 私は断言できる、「それは違う」と。 自分は和歌山県出身だが、今の日本が苦しいのはグローバル化のためなのである。 例えば、農業。 これは農地法、農地改革が必要である。 また、地方分権こそ改革が必要。 でないと、日本は中国にもっと早く抜かれてしまう。

▼「貧困対策」ならば解る。 サッチャー(英国元首相)も言っていた。「金持ちを貧乏人にしたところで、貧乏人が金持ちにはなれない」と。

▼【IT革命】~日本はブロードバンドで最安価・最速で、完全デジタル化で世界一。 これは2000年に森内閣(当時)が『ITの国家戦略』として、当時の慶応大学湘南キャンパスの村井教授の研究室でスタートした。 これは森首相自身どれだけ理解できていたかは解らないが彼の功績である。 コンテンツが不十分。これを今NHKが持っている。 放送と通信が違うが、今は同じになって来ている。 確りやれば日本経済は良くなる。 今、非常に重要な分かれ道に来ている。

▼今、世界は不動産ファンドに興味を持っている。 中でも日本の不動産価格は割安(大都市中心部でのことだが・・)である。 現在、東京の再開発地域のほとんどは、汐留や新宿等、旧国鉄跡地。 日本郵政は、不動産を沢山持っている。 そして、いい不動産は郵政公社が持っている。 私は日本郵政の西川社長に不動産活用しただけで大きな成果が期待できる」と申し上げた

これからの日本が発展していくためには、『文化』と『観光』が経済成長の目玉となろう。

▼『観光』に着目すると、日本では、観光業に従事するのは就業者の6%。 一方、米国12%、欧州10%超。 また、日本から海外渡航者は1,700万人、一方、海外から日本への渡航者は6700万人。 今後、高齢化社会になっていく中で、彼ら高齢者たちは「旅行をしたい」と考えている。 

▼また、観光の中心は『文化』。ニューヨークを見ても、オペラ、ミュージカル、食事等充実している。 文化については、日本も沢山持っているが、十分に開発されていない。

▼【マイニング・ザ・マイナーズ】~米国の西部開拓史時代、ゴールドラッシュ時に儲けたのは、金脈を見つけた人でだけはなく、金脈を掘る人を相手にビジネスをしたリーバイスや通信会社であった。

▼東大の民営化も重要だ。 東大を文部科学省の縛りから開放することが必要である。

▼日本は、非常に高い可能性を持っているが、今、世界は厳しい目で日本を見ている。

▼小泉元首相は、確かに変人であった。 でも、彼は私に毎日電話をくれた。 彼曰く「自分の考えを絶対に曲げるな。」と。

▼小泉元首相は、面白いし、明るい。

【筆者comment】▼1時間の講演で、内容は面白かったが、正直、纏まりはなかったかな・・、という感じもあった。 

▼とは言え竹中氏は、小泉元首相に乞われて大臣になり、それにある意味で見事に応えた。 小泉内閣における看板の『改革の名コンビ』であっただけに、氏の小泉に対する評価は最後に言っていた通り高いものであったと思う。 即ち「小泉首相は変人だったが、改革に向けたパッションがあり、それは一国のリーダーに相応しいものであった。 それに氏は付け加えた。 小泉は「面白い」し「明るい」・・。 だから憎めないし、竹中氏をして「よ~し、やってやろう」という気概を生じせしめた」のであろう。(了)

* 

■続いては、前【0133】号の【後記】の補足を致します。 藤原俊成の歌の解説補足です。 伊勢物語・・、古文で習いましたね。 でもここの一二三段は記憶にはなかったなぁ・・。(笑) では、どうぞ・・。

【原文】

    百二十三 年を経て

 昔、男ありけり、深草にすみける女をやうやうあきがきたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。

   年を経て 住みこし里を 出(い)でていなば いとど深草 野とやなりなむ (206

女 返し、

   野とならば 鶉となりて 鳴きをらむ かりにだにやは 君は来(こ)ざらむ

よめりけるにめでて行かむと思ふ心なくなりにけり

【現代語訳】

 昔、ある男がいた。 山城の国の深草に住んでいた女を、しだいにあきた様な気持ちに感じたのであろうか、次の様な歌を詠んだ。

   長年の間、住み馴れて来たこの里を私が出て行ってしまったら、今でさえ草深い深草(【筆者注】京都市伏見区北部の地。 旧山城国紀伊郡深草郷)の里が一層酷く荒れて草茫々の野となってしまうであろうか

女が返しの歌を、

   おっしゃる様にここが荒れた草深い野となるのなら私は悲しい顔をして泣きながら鶉になって鳴いていることでしょう。 そうすれば、あなたはせめて、ちょっと狩りにだけでもおいでにならないでしょうか。 いやきっといらっしゃるでしょうもの。

詠んだのに感心して男は去って行こうと思う気持ちがなくなってしまったのだった

《補訳》

 山城の国、深草の里に住んでいた女。 返歌から見ても性格の優しい、男に愛情を捧げて尽くす献身的な女性であったのであろう。 それで、長く通い住んでいるうちに男になんとない浮気心が生じ、なんとなく飽きた様になり、嫌と言うので程でもないが面白くもなく、離縁しようかと思い、歌を詠みかけて見た。 女は素直に、そうなったら、たまのお越しを待ち続けてここで泣いていると詠んだ。 外連味のない(=正直な)優しさを、知的な技巧をも加え、深草の里の鶉になって泣いて待っていると言われては、流石に男の心もあわれを感じ、愛しいと思わずにはいられなかったという・・ある意味、微笑ましいお話。

Portrait_of_henri_matisse_1933_ma_2Karnevalinnizza_2Photo

Photo_3【 後記】■さて、今日の締め括りは、去る113日が命日の、画家アンリ・マチス(Henri Matisse)( 1969.12.31. - 1954.11.3.没 )です。▼マチスは、1869年、フランスのル・カトー・カンブレジ生まれ。 野獣( Fauvisme )派の中心的存在。 

HarmonierougeRedinteriorstilllifeonbluetablec1941942Photo_4▼優れた色彩感覚が彼の持ち味である、と小生は思います。 まぁ、理屈抜きに、彼の作品群をご覧下さい。 初期の頃の作品は、ゴッホやセザンヌ、ゴーギャンなど、印象派の影響を受けた作風だった様である。

Photo_7Photo_6

(了)

2007年11月 4日 (日)

【時習26回3-7の会 0133】~「『立原道造』と『杉浦明平』その2」「北原白秋『この道』」「三木露風『赤とんぼ』『ふるさとの』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0133】号をお送りします。

■さて、今回も【2637の会】memberからのお便りは残念ながらございません。 ・・で、また暫らく小生のつまらないお話にお付き合い下さい。

▼暦も11月、昨日、今日は本当に清々しい秋晴れの一日でした。 一年中、今日の様な日ばかりですといいのですが・・。(笑)

■【0131】号にて、「『立原道造』と『杉浦明平』」の話をさせて頂きましたが、その後、杉浦氏が「立原」との学生時代のこぼれ話を回想しているのを見つけましたので、今日はまず、「『立原道造』と『杉浦明平』その2」として、これからご紹介します。 では、どうぞ・・。

*     * * *

 一方、立原道造は生まれつき詩人であった。一・七〇メートルで四〇キロそこそこのからだには肉らしい盛上りがなく、皮膚も灰色で、赤い血液が通っていないみたいだった。そういう体のせいか、はじめからわたしたちのような肉欲とか食欲とか権力欲とかいう世俗的な欲望をほとんどもっていないようだった。一しょに上野や浅草や池袋の古本屋を歩きまわったあと、わたしたちは食べもののことでいつも衝突した。わたしは焼鳥と称する豚の腸とか牛丼とかを食べたいのに、立原はおしるこか蜜豆を食べようと主張した。むろんアルコール類は一滴もやらない。それが晩飯なのである。だから蜜豆屋に入ると、ぜんざいを三杯も食べた。わたしは辛抱して田舎じるこ一杯をつついているより仕方なかった。もし食堂に入っても、甘いケチャップをかけたハンバーグステーキか、せいぜいチキンライスくらいしか食べない。「何だい、女学生みたいに」とわたしは腹を立ててののしることが多かった。が、今にしておもうと、譲歩したのは、たいていわたしの方だった。

・・・ 杉浦明平立原道造」昭和398

【筆者comment】▼杉浦氏の回顧談によれば、立原は所謂「食が細い」人物であった様だ。 小生、従前の職業柄、沢山の人間と接し、会食する機会を持ったが、卒寿(90歳)以上の健常者の皆さんは、総じて「食が太い」。 大食漢とまでは行かないが、確り咀嚼し、偏食せず適量をキッチリ食する。 見ていて見事なほどに「成程」と頷かせる「高齢者健常者の皆さんの『共通点』」である。 ここら辺りに「健康で長生きする『秘訣』」があるのではないかと思われます。

*     * * *

Kitahara_hakushu1▼さて、一昨日112は、詩人北原白秋の命日です。 北原白秋(1885(明治18)年125 - 1942(昭和17)年112))は、福岡県沖端(おきのはた)村生まれ。 早稲田大学で若山牧水、土岐善麿らと親交。「明星」に短歌を発表。さらに「スバル」に参加し、詩や短歌を発表。『桐の花』で高い評価を得る。 以下に白秋の弟鉄雄が、兄白秋について、彼が早稲田大学に入学する際のエピソードを回想しているのでご紹介します。

*     * * *

殆んど学校へは行かず、家で詩や歌ばかり作つてゐるので父の心配は大きかつた。そして早稲田の文科へ入学するといつてがんばるので、父は酒屋の息子が文学をやつたんでは酒はだれが作るかといつて、どうしても希望をゆるしてくれなかつた。そのうち中学のある先生と衝突して、卒業試験を目の前にひかへて、突然退学届を出して中学をやめてしまつたのである。さうして、どうしても早稲田へ行くといつて暴れる、父はどうしても駄目だといつて怒る、そんな修羅場がつゞいたのである。母と私は何んとかして兄の希望通りにしてやりたくて、いろいろ仲に立つて苦労したのであるが、どうしても父は頑として許してくれないので、遂にひそかに蒲団夜具衣類や書物などを荷作りして、一足先きに番頭へいひふくめて駅にもたせてやり、兄の家出を成功さしてしまつた。その代り私は父にひどく叱られたのであるが、全くの泣訴哀願で父の心も祈れ、兄の遊学が正式に認められることになつた。兄は上京後間もなく、早稲田学報に「全都覚醒賦」を出して一等当選の栄誉をかち得て、私たちを狂喜させたのである。兄の詩の生活はこれより開けていつたのである。

・・・ 北原鉄雄「上京前後」 昭和186

▼次に、白秋の短歌で、少々艶っぽい秀作を一つご紹介します。

 どくだみの 花のにほひを 思ふとき 

            青みて迫る 君がまなざし 

                   (『桐の花』 明治457月)

【解説】▼「どくだみ」は別名十薬。独特の強い匂いを持つ。 蒼白なまなざしが、切羽詰った恋愛の場面を思わせる。 一旦恋人と別れて木挽町へ転居した頃の作品。 回想の中にも、不穏な官能的な雰囲気がある。 この後、俊子が白秋のもとへ走って、二人は姦通罪で告訴され、収監される・・。

▼また、白秋というと、山田耕筰との童謡に数多くの名曲を残している。 今日は、その中から「この道」をご紹介する。 郷愁を感じる名曲である。

  「この道」 (北原白秋作詞、山田耕筰作曲)

この道はいつか來た道

 ああ、さうだよ

Acacia_2あかしやの花が咲いてる

あの丘はいつか見た丘

 ああ、さうだよ

白い時計臺だよ

この道はいつか來た道

 ああ、さうだよ

お母さまと馬車で行ったよ

あの雲もいつか見た雲

 ああ、さうだよ

Photo山査子(サンザシ)の枝も垂れてる

■続いては、白秋と同様に、小生が思うに、白秋以上に、山田耕筰と日本の童謡の傑作沢山創作した三木露風の作品から、ほとんど全てと言って過言でないほど日本人に「日本人」である誇りと郷愁を呼び起こさせる作品「赤とんぼ」をご紹介する。

Photo_2三木露風1889623- 19641229日)は兵庫県揖西郡龍野町(後の龍野市現在のたつの市)出身の詩人。本名は三木操(みき みさお)。 早稲田・慶応の文科をともに中退した。 相馬御風、野口雨情らと早稲田詩社を結成。 詩集『誌園』が、北原白秋の『邪宗門』と並び称され「白露時代」を現出。 童謡は「赤とんぼ」のほか、「かっこう」「十五夜」「春が来た」などがある。

*     * * *

  「赤とんぼ」 (三木露風作詞、山田耕筰作曲)

夕焼小焼の赤とんぼ

負われて見たのは、いつの日か

山の畑の桑の実を

小籠に摘んだは まぼろしか

十五で姐やは、嫁に行き

お里のたよりも、絶えはてた

夕焼小焼の赤とんぼ

とまっているよ、竿(さお)の先

【解説】▼母と祖父、露風はこの二人から大きな影響を受け成長していく。 母が家を出て行ったのは、露風が7歳の時。 原因は父が仕事をせずにだらしがない生活。 両親は離婚し,露風は祖父の家に引き取られる。 この出来事は、生涯、露風のトラウマとなった。 「母」への想いはつのるばかりだったが、母は二度と帰っては来なかった。

▼赤とんぼは、そんな露風のさびしい幼年時代を歌った詞だ。 見霽(みは)るかす平野に無数の赤とんぼが飛ぶ夕暮れ。 母が去った後、露風をかわいがってくれた姐や。 この歌はこうした実体験から生まれたものであった。

▼「赤とんぼの思ひ出」で三木露風は、次の様に、述懐している・・。

*     * * *

▼私の作った童謡「赤とんぼ」はなつかしい心持から書いた。それは童話の題材として適当であると思ったので赤とんぼを選び、さうしてそこに伴ふ思ひ出を内容にしたのである。その私の思ひ出は、実に深いものである。ふりかへって見て、幼い時の自己をいとほしむといふ気持であった。まことに真実であり、感情を含めたものであった。思ふに、だれにとってもなつかしいのは幼い時の思ひ出であり、また故郷であらう。幼年の時故郷にいない者は稀である。幼年と故郷、それは結合している。であるから、その頃に見たり聞いたりしたことは懐旧の情をそそるとともに、また故郷が誰の胸にも浮かんでくるのである。私は多くの思ひ出を持っている。「赤とんぼ」は作った時の気持ちと幼い時にあったことを童謡に表現したのであった。

 「赤とんぼ」の中に姐やとあるのは、子守娘のことである。私の子守娘が、私を背に負ふて広場で遊んでいた。その時、私が背の上で見たのが赤とんぼである。 「赤とんぼ」を子供に聞かせる時の私の希望は、言葉に就ての注意である。さうして各説に就て一々それを説明して聞かせ、全曲の心持もわからせるやうにすることである。それらのことは必要事項で、あとは子供の有する感受性で感得するといふことにしたいのである。

(日本童謡全集 昭和12年 日本蓄音器商会より)

▼今日、三木露風というと、小生、いつもこの詩が思い起こされます。 

▼青春の淡く儚い、甘酸っぱい想い出。 今となっては遠い、昔日の懐かしい想い出。 きっと皆さんも、夫々に懐かしい想い出がおありのことと思います。 それでは、三木露風の「ふるさとの」をご紹介します。 どうぞ・・

 ふるさとの」  三木露風

ふるさとの

小野の木立に

笛の音の

うるむ月夜や

少女子(おとめご)

熱きこころに

そをば聞き

涙ながしき

十年(ととせ)經ぬ

おなじ心に

君泣くや

母となりても

【解説】▼二人の初々しい恋は実らず、十年の歳月が過ぎ去って行った・・。 少女子は人妻となり、母となった。 少年は風の便りにそのことを知った。 歳月は、「方丈記」に出て来る川の流れのごとく、人間の感傷を流し去っていく。 少女子が妻となり母となることを彼女自身拒むことはできなかった。 笛の音は、少年と少女子の心の片隅に、十年、二十年となり続けているであろう。 就中(なかん)ずく、それを響かせ続けるのが故郷(ふるさと)である。

Photo_5 Photo_3Photo_4

Photo_3Photo_4▼秋を実感できる写真を二年前に訪れた「高取城址」の風景で実感してみて下さい。 従前、時習26回「不老壮」に掲示したものですが、綺麗ですよ。

【後記】■今日、お別れは晩秋の歌を一つ。 藤原俊成の作。 《出典》千載和歌集 巻第四 秋歌上(259)

 夕されば 野辺の秋風 身にしみて うづらなくなり 深草のさと

【訳】夕暮が迫ると、野面を渡ってくる風が身にしみて感じて、鶉が鳴いているのが聞こえる、この深草の里では。 〈深草〉は山城国の歌枕。

《本歌》 野とならば 鶉となりて 鳴きをらむ かりにだにやは君は来ざらむ 〈伊勢物語一二三段、古今・雑下・読み人知らず〉 と言って、捨てて行こうとする男を引き止めた、女の化身である鶉の鳴き声・・。 作者(俊成)は、現実と物語世界を往反しつつそれを聞く。 

では、また・・。 (了)

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