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2008年2月の7件の記事

2008年2月27日 (水)

【時習26回3-7の会 0158】~「『遺伝子を味方にする生き方(後編)』」「『自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる』」「福山諦法『イチローさんと帽子』~〔朝の一筆(東愛知新聞社)〕より~」「25日:『飯田龍太』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0158】号をお送りします。前【0157】号でお話しました様にやり残したことがありますので、今回はまずそれから・・。 なお、今回は、宗像教授の話を理解して頂くために、添付ファイルを3種類用意しました。そちらも参照して頂きながら会報をご覧下さい。会報本文だけでは、確り理解できないと思います。例えば、会報本文中に『イチロー選手』の話が突然出て来ますが、これは、添付ファイル〔jibun-no-DNA-wo-shitte-yoriyoku-ikiru.doc〕をご覧頂くと、筋道が通ります。

■さて今日は、前号に引き続き、宗像恒次著『遺伝子を味方にする生き方(後編)』&『自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる』をご紹介します。長い文章となりますが、内容を理解して頂くため必要と考えますので、ご承知置き下さい。

③【遺伝子を味方にする生き方(後編)】

〔SATの定義〕・・▼SATとは、「構造化された(Structured)」問いかけによって問題解決脳である右脳を活性化し、通常意識下或は変性意識(催眠状態)での「閃き、連想(Association)」を用いて、問題の解決法や新しい生き方への気づきを促す「技法(Technique)」のこと。この方法ににより、扁桃体やDNAなどにある潜在情報にアクセスし、それをOFFにするために、心的外傷の元となっている前世代期や進化生物期や宇宙期に迄時間を遡及してそのイメージの終生を行い、あたかも「ドミノ倒し」の様に今日迄の悪しき情報やそのイメージを良いものに変えることを試みるもの。

(3)『気づき』があなたを変える
◎初期段階であれば、自己イメージ法でほとんど解決できる
▼・・〔 ある企業の管理職が、「ストレスで眠れない、下痢が続く」と訴えてきた。話を聞くと、遅刻や早退を繰り返し、勤務態度が悪い部下を叱責した時、「あんたにそんなこと言われたくない」と逆襲された、というのである。その管理職は、体調不良で一時期よく会社を休んでいたが、そのことを部下は知っていたのだ。「職場に行くのが重たくなってきまして」と自嘲するその管理職に、自己イメージ法を施してみた。自分を客観視させ、そういう自分の姿をどう思うか、イメージさせるのである。すると、その管理職は「情けない自分」と感じた。否定的な自己イメージ脚本に基づいたのだ。すぐに「自分は酒が飲めないから、今度食事にでも誘って話を聞いてみます」と表明してくれた。・・人は、起こった事実より、それをどう感じ、どう受け止めたかというイメージに動機づけられて行動する。事実はどうあれ、受け止めたイメージを変えれば、行動も変わるのである。(中略)否定的な自己イメージ脚本は、その存在を自覚するだけで、それを変えたいという意思に繋がり、さらに肯定的な自己イメージ脚本に書き換える事情作用に繋がる。(中略)自己イメージ脚本の変更は、本人の人格に成長を齎す。 〕 

◎他者報酬追求型では、つねに環境の変化に振り回される・・〔 略 〕 

◎約三百万人と言われる心の病の推定患者数
▼・・〔 日本の自殺者は九年連続で三万人を超えた。(中略)現在日本でのストレスによる心の病の推定患者数は約300万人(中略)。バブル崩壊後 (中略)日本的雇用慣行が否定されて「成果主義」が跋扈。(中略)社会の仕組みが急激に変化したことが、この異常な自殺者数の背景にあるのは間違いない。自殺者に占めるのは、四〇代以上の働き盛りの男性が圧倒的に多いからである。では、どうすれば抜け出せるのだろうか。結論を言えば、「他者報酬追求型」の生き方から、「自己報酬追求型」の生き方へ変更することだ。〕 

◎自己報酬追求型の生き方へ
▼・・〔 「他者報酬追求型」は、本来の自分の生き方を抑えて、周囲に認められようとすること。「自己報酬追求型」は、本来の自分を楽しむことを追い求めること。例えで言うと、「恋人の誕生日にプレゼントを贈ったとする」。その時、自分がプレゼントを「した」という事実だけで満足できるのが、「自己報酬追求型」。一方、「他者報酬追求型」は、恋人から、贈ったプレゼントについてどう思ったか、気に入ったかどうか、さらに、プレゼントしたことで自分をさらに好きになったかどうか迄確認しないと気がすまない。(中略)「他者報酬追求型」は、周囲に人がいないとやっていけない。「自己チュ―」はその一類型。ここで、あなたの「対人依存度」「自己抑制(イイコ)度をチェックしてみて欲しい。(【筆者注】添付ファイル「iikodocheck」をお開き下さい。) 〕 
Photo
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◎上手に自己主張をするスキル「アサーション(assertion)」
▼・・〔 いかがであっただろうか。私(【筆者注】=宗像)は、周りの期待に応えようとして自分の本音を抑える人達を「イイコ」と呼んでいるが、うつ病に罹る人はまず例外なくこのイイコ度が15点以上ある。(中略)この対人依存度、自己抑制度を変容させるのに大きな効果があるコミュニケーション・スキルがある。「アサーション(Assertion)」である。アサーションとは、沈黙や受身ではなく、攻撃でもない、その中間に位置する、わたし表現で上手に自己主張する態度をいう。「わたし表現で、ただ言うだけ」のスタンスに徹し、「相手がそれを認めなくても良しとする」。(中略)相手から認められないとわかっていても、自分が満足するためだけに言う。だから、主語は「わたし」。「わたしはこう思う」という表現で何度も繰り返していうだけである。それをどう思うかは、相手の判断に委ねる。アサーションを上手に使いこなすためには、次の三つの基本姿勢が必要。~ (i)本当の気持ちを抑圧しないで、上手に伝える「率直さ」 (ii)お互いの気持ちや感情を大切にし合う「誠実さ」 (iii)諦めたり引いたりしないで、いいアイデアが閃くまで努力する ~ 【筆者注】ただ実際、この基本姿勢でアサーションを行なうのは簡単ではない。宗像氏は三つの基本姿勢を身につけるコツを7つあげているが、紙面の都合で割愛する。ご興味ある方は本書をお読み下さい。(笑) 〕 

◎主語は、「わたし」
▼・・〔 【例】テレビをつけっぱなしで居間のソファで居眠りしている夫に対する妻の声かけ 【悪い声かけ】「あなた、寝るんだったらテレビを消して寝室に行ったら?」 【良い(=アサーション)声かけ】「ソファで寝ていると、湯冷めして風邪でも引くんじゃないかと、(私、)心配なの」 
【筆者comment】▼皆さん、如何ですか?言われるほうから見ると、確かに違いますね。〕 

◎相手の気持ちへの「気づき」が重要なポイント
▼・・〔 (前略)アサーションでは、相手の気持ちへの「気づき」が大切なポイント。(中略)相手の気持ちに気づくためには、相手のあるがままを受容する気持ちになって、思いを「傾聴」して確認すること。夫が「今日は会社に行く気がしない」と言ったら、「会社に行く気がしないのね」と繰り返して、その言葉の背景にある思いを乗せた次の言葉を待つ。そう繰り返しされれば、夫も「なんだか最近、上司と上手くいかなくてさ」と自分の思いを吐露し易くなるだろう。この会話を繰り返していけば、コミュニケーションは深まり、この場合、夫はどうすべきか自分で答えを出すことに繋がるのである。(中略)相手の話を聞く時は、自分の中に生じる意見、評価、追体験、弁解、比較など様々な自分の思いは、傾聴を妨げる要素となる。「だらしがない」とか「困ったものだ」という気持ちがあっても、それは意識的に脇におき、相手の立場になりきる様に努めることが肝心。 〕 

◎本来の自分=DNA気質を知る
▼・・〔 (中略)人はいくつかの性格気質に分けることができ(中略)、その性格気質は、その人の外見で見分けることができる。自分の気質を知ることで、自己イメージ脚本をより客観視できるだろう。また、相手の気質を知れば、コミュニケーションを良好にすることに役立つ。例えば、ベストカップルは、「似たもの同士」(同質性)ばかりとはいえない。お互いが成長していくためには補完し合い、矛盾し合う(異質性)相手に惹かれ合うこともあるだろう。以下に挙げるので参考にして欲しい。なお、気質を単独で持つ人もいれば、複数の気質を併せ持つ人もいる。【筆者注】詳細は添付ファイル「6bunnrui-seikakukishitsu.doc」をお開き下さい。)また、宗像氏の「【講演】<自分のDMA気質を知って、より良く生きる>」から概要のレジュメ(「jibun-no-DNA-wo-shitte-yoriyoku-ikiru.doc」)も添付しましたので、ご参照願います。 〕

(4)『思考』ではなく『感情』を重視する・・〔 略 〕 

(5)『愛』が健康遺伝子を目覚めさせる

(前略)

◎妻に先立たれた夫のリンパ球を調べてみると
▼・・〔 私達の体内では、毎日二千から三千個以上のがん細胞が生まれている。そもそも、がんの遺伝子は組織の上皮細胞を再生する働きを担っていて、それ自体は悪者どころか、人体には必要不可欠なものなのだ。ところが、この上皮細胞遺伝子が活性酸素などによって傷つけられて正常な働きがきなくなり、さらに免疫力が低下してその異常増殖を食い止められなくなった時、その存在が困ったものとなる。
▼体内に侵入した細菌やウィルスをやっつけてくれるのは、白血球であることはご存知だろう。この白血球は、好中球を主とする顆粒球が約60%、リンパ球が約35%、マクロファージが約5%という比率を維持している時が、免疫力を最も発揮できるとされている。これらのうち、がん細胞を破壊してくれるのが、NK細胞やキラーT細胞などを含むリンパ球。体内をパトロールして増殖したがん細胞を見つけ出しては、パーフォリンやグランザイムなどの分泌物を浴びせかけて殺す。
▼ところが、ストレスを感じて交感神経が緊張すると、ノルアドレナリンの分泌が促進され、それによって好中球は活性酸素の生みの親であり、それで細菌を殺しているのだが、好中球の増多症は活性酸素の過剰産生に繋がる。さらに、交感神経の緊張は、抹消血管における血流障害を起こす要因ともなり、それによって起こる虚血(極度の貧血状態)と、虚血から再び血流が戻る再灌流の繰り返しが、また活性酸素を大量発生させる。この過剰な活性酸素が、組織の粘膜や蛋白質、DNAを傷つけてしまい、悪性腫瘍を生じさせてしまう元ともなるのである。(中略)妻に先立たれた夫のリンパ球を調べたところ、妻が亡くなった八週間後は、二週間後に比べ、その増殖率が低下していることがわかったという。リンパ球の増殖率が低下しているということは、がん細胞を破壊する力が低下していることを意味する。(以下略)〕 

◎愛が免疫力を高める
▼・・〔 (前略)末期がん患者のリンパ球の数は、たいてい1千個/mlを下回っている。配偶者を失うということは、多くの場合、愛するものを失うということ。(中略)「愛」という因子がリンパ球の増減に影響を与えるという、紛れもない事実である。研究報告にある様に、「愛」を喪失すると自然治癒力が低下することもあれば、逆に「愛」によってがんに打ち勝つこともあるのだ。実際、わたしがSAT療法を施してきたがん患者でも、「家族から愛されている」、「家族を愛している」、「自分を愛している」という様に、重要な他者や自分に対してプラスイメージをもつことで、NK細胞やキラーT細胞を含むリンパ球が増加して免疫力が高まったというケースは枚挙にいとまがない。 〕 

(以下略)

(6)『喜びの微振動』が遺伝子を目覚めさせる・・

(前略)

◎あるがままの自分を愛し、人を愛し、人生を愉しむ
▼・・〔 (前略)わるがままの自分を愛し、人を愛し、人生を楽しむ。そんな生き方をしている時に、免疫防衛力や遺伝子防衛力が上がる。私達は、6年間に亘る研究プロジェクトの中で、この驚くべき法則を発見したのだ。
▼人は、自分がこの世に生まれてきた意味を生涯にわたって探し続ける生き物の様である。そして、運命愛の関係にある存在との関係そのものは、人間として生まれてきたことの存在証明ということもできよう。(中略)(【筆者注】あるがん患者はこう言っている。)「いつも笑っていたい。本当の自分は笑うのが好き、愉快なことが好きなのです。(中略)今は心が暗くなっても、すぐ切り替える習慣が身につきました。自分で自分の心をコントロールする、これも訓練次第で可能なのだと今は感じています。(以下略)
【結論】幸せな人生を送るためには、遺伝子のスイッチをオンさせる様に物事をポジティブに考える。生き生きさせる。それに越したことはないのである。そして、そのためには、「愛」を大切にすることである。〕

【筆者comment】▼④『自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる』については、上記③『遺伝子を味方にする生き方(後編)』とかなりの部分が重複するため、③の本文中に織り込んだ。また、添付資料に〔宗像氏の【講演】<自分のDMA気質を知って、より良く生きる>〕も、関係するところを抜粋して添付(「jibun-no-DNA-wo-shitte-yoriyoku-ikiru.doc」)したので、ご参照下さい。

▼前号と今回でご紹介した4冊を通して、『残された人生を元気に生き抜く』ためには、
 ①何事にも明るく、Positive(前向き)に捕らえ、取り組むこと、
 ②人を愛し、自分を愛し、人から愛される様に「愛(=慈しむ心)」を持ち続けること、  そして、
 ③正しい食事と適度な運動を継続して行うこと、
 これらに収斂されると思いますね。

▼次に、イチロー選手についてである。最近、東愛知新聞社から〔『朝の一筆』その2〕という本が刊行された。その中に今年、永平寺七十九世貫主に就任した、豊川閣妙巌寺住職、福山諦法氏(添付写真ご参照)のエッセーが掲載されていたが、その中の一つに『イチローさんと帽子』という面白い一節があったので、ご紹介する。ご覧下さい。上記の宗像教授が説明しているイチロー選手の気質であるという【自閉気質】の特徴が、そのまま言動に表れている。大変興味深いと感じた次第。まず、福山諦法禅師のプロフィール、そして、エピソード『イチローさんと帽子』の順です。では、どうぞ・・(笑)

Photo_3■福山諦法(たいほう)
 豊川中学(豊川高校)駒澤大学卒。同大大学院修了。1972年12月から豊川閣妙巌寺(豊川稲荷)の住職。曹洞宗宗務庁参議、永平寺顧問などを歴任し、2000年8月から同寺副貫主。豊川閣妙巌寺豊川学園理事長。平成20年1月5日に106歳で永眠された、大本山永平寺七十八世貫主【宮崎奕保(みやざきえきほ)禅師】の後を受け、同寺七十九世貫主に就任。

■    『イチローさんと帽子』

 有名なイチローさんは、野球が上手になります様にと、高校生の時から豊川稲荷へ初詣に来ていたという。近頃では本当に超一流の選手となり、御本殿に上ってご祈祷を修し、相間之間(応接室)で私と会うようになって五、六年がたつ。
 一年目、もちろん初対面である。初対面の挨拶の後は一般の雑談。話をしているうちに何か変だな―と感じる様になった。それは彼が野球帽をかぶったまんまでいる様なのである。様なのである、というとおかしいのだが、背は高いし黒の野球帽を前と後ろを逆さにし、おまけに超アミダにかぶり(【筆者注】「阿弥陀被り」:阿弥陀仏が光背を負うた様に、帽子などを後頭部に傾けてかぶること。)、その上後ろの三日月形の裂け目がとても大きいやつで、そこから頭髪がつくんつくんと出ているので、何か変だなと感じつつも初めは気が付かなかった。初対面のせいであろう。気が付いた時には、注意をするタイミングを逃していまい、そのまま別れてしまった。
 二年目、正月二日午前十時、今年は薄茶色の野球帽を、はなからきちんと前後正しくかぶって来た。注意をしようとした矢先『これが俺流だから・・』と言って脱がない。超一流の選手だし、礼儀も人なのであろうが、やはり世代の相違を感じさせられた。しかし『日本間に入ったなら帽子は脱ぐものですよ。それがマナーというものです』と注意をした。
 三年目、やはり正月二日午前十時、時間は正確である。今年は手に持って来た。昨年、一昨年のことを覚えていたのであろう。以後毎年会っていたが、帽子をかぶらない。やはり一味違う人は違うものだとつくづく感じた。お嫁さんもつれて来た。帰り際に、もう会えませんね、と一言。彼はアメリカへ行くし、私はいついくかわからないが、永平寺へ登ることを知っていたらしい。
                   (平成15年2月17日)

【後記】■今日の締め括りは、俳人『飯田龍太』である。平成19年2月25日逝去。享年86歳。大正10年、俳人『飯田蛇笏』の四男として生まれる。
▼今日は、彼の作品から、「春」に因んだ句を一つご紹介したい。

 春の鳶(とび) 寄りわかれては 高みつつ  (百戸の谿)
                                                                  飯田龍太

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【解説】①昭和23年作。春の鳶の飛ぶさまは、群れて別れてを繰り返しているものの、高さは変えない。単純な自然を詠んでいる様に見えるが、一句の文体や詠み方は、どこか戦後的な明るさを漂わせている。【季語】春の鳶 〔 『三省堂 名歌名句辞典』 〕

②飯田龍太の句の大きな特徴の一つは、句が描き出す世界に、もってまわった気取った言いまわしなど全くない代わりに、使われている語句の一つひとつに対する作者の直感的計算・判断が実に的確であり、読者に鮮明な視覚的映像を与えるところにある。春の鳶の動きを描いているこの句について言えば―。「春の鳶」「寄り」「わかれ」「ては」「高み」「つつ」という形に句を分解してみると、作者が如何にきめ細かに、語句によって鳶の動作を追いかけ、視線を細分化させつつ、しかも全体を淀みなく一つの流れに乗せて、真っすぐに詠み切っているかがわかるだろう。そこでは、作者の鋭い眼の働きを、同様に鋭い耳の感覚が支え、一句に快い統一感を齎しているのであろう。そのため、龍太の句は他の同時代の俳人たちの句に比べ、常に切れ味の良さにおいて抜群という印象を与える。しかも、この俳人には、簡単に手で触り、眼で確かめることを許さないような、一種の幽かで遠い世界への、生まれついての憧れとでも言えそうな一つの性向があって、それがこの人の強い魅力となっている。句の奥行きが深いのである。 〔 大岡信『百人百句』(講談社) 〕

③次兄は昭和16年に病死。長兄・三兄は戦死してしまった。帰郷して専ら農耕に従った。60円で牛車を新調した。黒の和牛と、赤の朝鮮牛と、二頭飼った。そんなある日、野路で見かけぬ青年に声をかけられた。よく見ると20年ぶりで会う中学の同級生で、いまこの村の小学校の先生をしているという。工科を専攻し、天龍川の奥で現場監督をしたり、日活映画の助手をしたり、その他、いろいろの職に就いたが、身体をこわして田舎に帰ったという。中学生の頃から琴を弾いた。「お嬢さん」という綽名(あだな)にしては、すっかり頭が禿げて、最早美少年の面影はないが、自分の来し方を語りつつ、傍らの菫(すみれ)を摘んで、山村暮鳥の詩が大好きだと言った。そんな二人の上を二羽の鳶が、弧をを描きながら鳴いた。暫く甲府にいたことのある野尻抱影氏が、この句を見て、明治の頃は、甲州に鳶を見かけなかったが・・・と、どこかに記していた。いまも数は少ない様だ。それでも早春、晴れた日には時折見かけることがある。 昭和21年3月作/『百戸の谿』所収 〔 『飯田龍太自選自解句集』(講談社) 〕

【筆者comment】▼それでは、二羽の鳶の写真を添付写真でご覧に入れながら、筆を起きます。いや、PCの蓋を閉じます。 では、また・・。

(了)

2008年2月24日 (日)

【時習26回3-7の会 0157】~「23日:時習26回『〔35周年記念旅行〕打合せ会』開催報告」「新谷弘美著『病気にならない生き方3:若返り編』」「日野原重明・劉影共著『病気にならない15の食習慣~楽しく生きる長寿の秘訣』」「宗像恒次著『遺伝子を味方にする生き方(前編)』」「25日:『斉藤茂吉』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0157】号をお送りします。

0126080223▼まずは、昨日23日に豊橋駅西口すぐの「串ビストロ バードスペース」にて開催された「時習26回〔35周年記念旅行〕打合せ会」開催報告から・・。今回は、来年予定されている時習26回〔35周年記念旅行〕の意見を聞く打合せの会ということで、22名が集いました。旧【3-7】からは、小生のほかに竹内君が参加してくれました。竹内君ありがとう。参加者全員の集合写真を添付しましたのでご覧下さい。コンパクトカメラで撮影しましたがフラッシュ撮影が機能しなかったため、少しピントがぼけています。ご容赦下さい。
▼〔時習26回『35周年記念旅行』〕の幹事支部である名古屋支部の取り纏め者、旧【3-8】の矢野君が急遽仕事で海外出張となり不在。今回の取り纏めは臨時に豊橋在住の旧【3-6】の大谷さんが取り纏めてくれました。打合せ会は、同じく名古屋支部幹事の旧【3-5】の平田(倉内)さんの乾杯で始まりました。打合せ会の内容は、専ら旧交を温めること、その合間に旅行の行き先と、交通手段のアンケートが回覧された位。小生、空腹であったところに生ビールばかり飲んでいましたので、一次会は良かったのですが、二次会はほとんど寝ており記憶にございません。(笑) でも、楽しいひとときでした・・。

Photo■さて、続いての話題・・。実は、この一週間で小生、4冊の本を読みました。それらを簡単にご紹介します。添付写真をご覧下さい。

①新谷弘美(しんやひろみ)著『病気にならない生き方3:若返り編』(サンマーク出版)
②日野原重明・劉影(りゅういん)共著『病気にならない15の食習慣~楽しく生きる長寿の秘訣』(青春出版社)
③宗像恒次(つねつぐ)著『遺伝子を味方にする生き方』(きこ書房)
④宗像恒次著『自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる』(講談社α文庫)

▼これから、まだ四半世紀以上は生きて行くことが予想される我々は、どうせ生きて行くのであれば『ず~っと元気に明るく』ありたい。その処方箋にこれらの本が役立たないか、という問題意識で読んでみました。それなりに参考になりましたので、そのエッセンスをご紹介致します。ただ、取り纏めるとなると、4冊分は結構なボリュームになってしまいましたので、今回は③④については途中迄で切り上げ、完結は次号に譲ることにしました。悪しからずご了承下さい。

【病気にならない生き方3:若返り編】~心の若さとみずみずしい体を手に入れる方法~

(1)「若く見える人」と「老けて見える人」の違い・・▼人を見て「若い」と判断する最大のポイントは「皮膚」にある。腸相が悪化したとき、外見で大きく変化するのは「肌」。▼便秘によって起きる肌のトラブルの原因は、腸内にたまった毒素。▼腸が年齢以上に老けてしまうと、その人の寿命は短くなる。▼中年を過ぎ(中略)抗酸化エンザイムの生産量が低下してくると、腸の老化は(中略)進行し、老化が一気に全身に広がっていく。▼老化を進めている最大の要因は「酸化」だと私(=新谷)は考えている。エンザイムの体内保有量が多いほど、体は酸化しにくい、つまり老化しにくい。▼腸相の悪化はもう一つの理由で老化をさらに促す。それは免疫機能の低下。腸は人体最大の免疫器官。(中略)がん細胞すら食い殺してくれる免疫細胞として知られるNK細胞や、マクロファージ、T細胞、B細胞といった「リンパ球」は、その60~70%が、じつは腸内に存在。(中略)腸は、脳の支配下に位置しない不思議な臓器。(中略)胃腸は副交感神経が優位になったとき、つまり、寝ている間やリラックスしているときに活発に働く。▼きれいな腸相を保つには(中略)「正しい食事」「よい水」「正しい排泄」「正しい呼吸」「適度な運動」「上手な休息・睡眠」「笑いと幸福感」。(中略)「まず、食事と水から改めてください」(中略)いつまでも若々しくありたいと望むなら、腸が若々しくいられる様な食事を心がけることが必要。(中略)▼心が体に与える影響力は、私たちが考えている以上に大きなもの。(中略)「気力」や「ポジティブなモチベーション」には病気に打ち勝つパワーがある。(中略)女優さんや有名人には、若く見える人が沢山いる。(中略)彼らの若さは、「若々しくありたい」「人よりもきれいでいたい」という強い思いが作りだしているもの。
〔結論〕▼腸に良い食生活、生活習慣を実践しながら「若々しくありたい」という思いを強く持つこと。
(2)みずみずしい体を取り戻す方法・・(略) 
(3)エンザイムパワーを高める生き方・・(略)
(4)心が若返れば、体も若返る・・▼「心力」は心を開き、自分の中の愛情を周囲の人たちに注ぐことで大きくなる「愛のパワー」。▼誰かのために願うこと、人と理解し合おうとすること、愛と思いやりがあって初めて「心力」は発動する。(中略)恋をした女の子が、みるみる綺麗になっていくのも「心力」。(中略)絶望視されていた病気の人が、奇跡的な回復を見せることがあるが、それには(中略)その人の「心力」をかきたてる、周囲からの愛、または周囲への愛が存在。(中略)恐らく、愛の力によって、エンザイムが活性化し、その人の体が秘めていた治癒力、回復力が極限まで引き出されるのでしょう。
〔注目〕▼リタイアをポジティブにとらえる人は若返る~リタイアする場合(中略)家族のため、自分のため、誰かのために新しいことが始められる時機が来たと、「愛」と「思いやり」の心をもってポジティブに捉える様にしましょう。そうすれば、老け込むことなく、むしろ若返ることさえできるのです。

【病気にならない15の食習慣~楽しく生きる長寿の秘訣】
①「一日3食の間違い」・・▼大切なのは食事の回数ではなく、「質」。栄養素は偏っていないか、その量は自分の生活に見合ったものか。
②寝る前に食べても大丈夫・・▼遅く食べるのは仕方ないとしても、過食には十分注意。過食予防としては、スープや野菜サラダなど、低カロリーjのもので空腹を満たし、そのあとで少量の炭水化物や蛋白質等を摂る。動物性蛋白質を摂取する場合は、胃腸に負担の少ない魚を選ぶ様に。
③脳を鍛える「かむ」習慣・・▼よく噛むと、消化吸収が高まるだけでなく、脳が活性化する。あごの筋肉を動かすと脳の血行がよくなって、頭の働きがよくなるという仕組み。(中略)脳の活性化には、さばやあじなどの青魚に含まれている油が良い。(中略)もう一つ、幸いしたのは、30年以上飲み続けているオリーブ油。(中略)毎朝、茶さじ一杯の植物油を飲む様になったきっかけは、高めのコレステロール値を下げるためでしたが、それが脳の潤滑油になっていたということを後に知りました。

④「楽しい食事」が健康をつくる・・▼人間の身体は、持って生まれた遺伝子の影響ばかりでなく、その人の環境も大きく影響してくるのではないか。私は、その境を50歳と考えます。一般的に見て、丁度老化が始まる年齢です。50歳を過ぎた頃から急に衰えの目立つ人もいますし、反対に、50歳を過ぎても元気な人もいます。(中略)それは30代後半から40代の頃の習慣に関わっていると考えられます。元気な人は10年も前から健康維持に注意を払っています。つまり、遺伝子に守られている間に、次なるステージを考えて行動した、言わば健康の預貯金に努力した結果なのです。▼第二の遺伝子とは、良き習慣をさすのです。このためには、毎日生き生きと暮らすこと、人生を楽しむことが大前提です。笑いは免疫力を上げ、(中略)明るい気持ちが健康の礎であることに間違いはないでしょう。ですから、食に関しても、まず楽しんで食べることが重要です。

⑤「油抜き」ではやせられない・・(略)
⑥間食にはくだものを食べましょう・・(略)
⑦植物油が若さと美肌のもと・・(略)
⑧食事を残せば病気にならない・・▼私の場合も、お寿司が好きだからといって、たらふく食べるわけではありません。ご飯を半分残すことは先述しましたが、(中略)まず、たっぷりとサラダを頂き、ある程度空腹を満たしてから、好物のお寿司を頂く様にしています。こうすれば、食欲をコントロールでき、カロリー制限にもなります。▼私の経験からすると、3千円の会費を払って、4千円分以上食べようとする人は、あまり長生きしない様ですから、注意してください。
⑨コレステロール値は少し高めのほうがいい・・(略)
⑩外食がちな人は野菜ジュースを・・(略)
⑪レシチンとビタミンをサプリで補給・・(略)
⑫肉を食べれば体がサビない・・▼「もう年だから」と身体を甘やかしてはいけません。年をとったからこそ、毎日、きちんと身体を使ってあげないと、運動能力はどんどん低下してしまいます。
⑬和食の落とし穴「塩分」に注意・・(略)
⑭ウェストを測るだけで肥満は防げる・・▼私は、肥満に対しては、もっと大雑把に捉えています。誰にでも簡単にできる方法としては、身長から100を引いた数字を最高体重として、それを超えない様にすること。(中略)これまでを振り返ってみて、一番身体が軽く、フットワークが良かった頃のことを思い出してみて、(中略)その時の腹囲が、自分にとっての目標とすべき腹囲だと思います。
⑮効率よくカロリーを消費する・・▼高齢者の場合は、(中略)最低でも週に3、4回は運動をする様にしたいもの。一週間に一度、いきなり身体を動かすというペースでは、かえって身体に負担をかけたり、故障の原因になります。短い時間でもかまいませんから、できれば毎日動かすのが基本です。激しい運動は避けて、早足で30分ほど歩くくらいが丁度良いでしょう。

【遺伝子を味方にする生き方〔人に愛があるとき、生命がある〕】&【自分のDNA気質を知れば人生が科学的に変わる】

〔生命より大切なものがあるとすれば、それは自分への愛であり、人への愛である。それが生きる意味であり、人はそのために生死を体験する〕

(1)胎児期退行催眠の奇跡・・(略)
(2)世代間伝達される情報・・▼〔人間の脳は、つねに矛盾し合う欲求をもっている〕人は皆、こうありたいという理想の自己イメージを持っている。しかし、(中略)ではなぜ、理想とする自分になかなかなれないのだろうか。その結論は、人間の脳の三層構造に、求めることができる。(中略)人間には一つの脳に、『爬虫類脳』、その上層に『(旧)哺乳類脳』、さらにその上層に『霊長類脳』という、三種類の異なる脳が、進化の過程で統合されることなく共存しているため、人間はつねに矛盾し合う欲求を持ち、それらを統合しようとする「自己成長」感情と、それらを阻もうとするサバイバルのための「自己防衛」感情との葛藤に悩まされてきた。この葛藤こそが「真猿類ヒト科ヒト」の宿命ともいえ、葛藤によるストレスが、人間ならではの様々な問題や心身の疾患を招く要因となっている。▼霊長類脳と旧哺乳類脳や爬虫類脳との違い、また左脳と右脳の違いが齎す思考や感情の矛盾がより少なくなることを、「人格成長」ということができる。▼人は、人格成長の必要性を理屈では理解できても、実際には自己のあり方や行動をそう簡単に変えることはできない。それはなぜか。自分の意思ではコントロールできない、もう一つの意思が潜在意識下に存在するからである。例えば、暗くて狭いところに入ると、幼い子供の頃、いたずらをして親に叱られ、一日中押入れに閉じ込められて怖い思いをした記憶が急に蘇ったりする。この、音声、空間、温度などの信号の条件づけによる扁桃体反応である「フラッシュバック」は、自分の意思ではコントロールできない現象の一つだ。

▼では、どうすれば人は自己のあり方と行動を変え、人格成長を遂げることができるのだろうか。結論を言えば、次に挙げる条件のいずれかを満たしたときである。

①人に本当に共感され、愛された実感や確信を持てたとき
②なぜ自分がこれまで苦しんできたかの意味が理解でき、過去の苦しみから再学習することによって希望ある未来予知をもつことができ、その結果、自分を信頼する力を回復させたとき
③自分に重大にかかわる他者に共感でき、かつ愛せたとき

(3)「気づき」があなたを変える・・〔自己イメージとは、過去の記憶情報の寄せ集め〕▼人は如何に「思い込み」によって感情や行動が支配されているか、そして、そのことに気づけば自分を変えることができる、という話をしよう。俗に「恋は盲目」という。人を好きになったら、その人のことはとかく好意的に解釈し、信じ込んでしまう。(中略)恋に入れあげている時期。人生はバラ色に輝き、希望に満ち溢れ、力が全身に漲る様な充実感を味わうことができるだろう。ところが一転、相手の欠点に気づくと、恋から覚めてしまう。(中略)それだけ「思い込み」の力は凄まじいものがある。(中略)一方の相手からすれば、フラれたことで大きなショックを受けるだろう。(中略)そのうち、他に気になる存在が現れると、(中略)自分は、フラれた相手が好きで好きでたまらないと「思い込んで」いたことに気づくのだ。そうなれば、失恋の痛手はサッと消え失せてしまい、「次の相手と上手くやろう」と切り替えることができるであろう。(中略)恋をした相手という「存在そのもの」は変わらなくても、その相手を見るイメージ脚本を書き換え、相手を思う自己イメージ脚本を変えることで、失恋の心的外傷は解消できるのだ。▼あなたが描いている自己イメージは、あなたの主観がつくり出す「思い込み」にすぎない。(中略)そして、あなたは、自分で思い込んでいる自己イメージ脚本によって、様々な状況において自分の振る舞いを(無)意識的に期待・予想し、決めているのだ。▼脳とは本来、バーチャルなものなのである。だから、過去の事実は変えようがなくても、その事実の意味やイメージを変え、思い込みを解消させることができるのだ。

( (3)の後半から(4)(5)(6)は、紙面の都合で次回に・・ to be continued ・・ したがって、【筆者comment】もその時に・・。)
 (4)「思考」でなく「感情」を重視する・・( to be continued )
 (5)愛が健康遺伝子を目覚めさせる・・( to be continued ) 
 (6)喜びの微振動が遺伝子を目覚めさせる・・( to be continued )

022903904256■次は、1953年2月25日  斎藤 茂吉 (さいとう・もきち)(1882..5.14 - 1953.02.25)についてである。彼の長男が作家で精神科医である斉藤茂太(故人)、次男が作家北杜夫である。
【年譜】
1882年(明治15年):5月14日、山形県南村山郡堀田村大字金瓶に出生
1896年(明治29年):上山尋常高等小学校高等科卒業。東京府開成中学校(現・開成高校)に編入し卒業。正則英語学校(現・正則学園高校)に入学し卒業
1905年(明治38年):正岡子規『竹の里歌』に出会い、作歌を志す。旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)第三部卒業
1906年(明治39年):伊藤左千夫の門下となる。
1910年(明治43年):東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)医学科卒業
1911年(明治44年):東大教室と巣鴨病院勤務。「アララギ」の編集を担当
1913年(大正2年):5月、生母いく死去。7月、師・伊藤左千夫死去
1917年(大正6年):官立長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)教授
1921年(大正10年):10月、欧州留学に出発(ウィーン大学およびミュンヘン大学に4年間留学)
1924年(大正13年):10月、医学博士の学位を得て帰国の途に就く。12月、青山脳病院全焼
1925年(大正14年):1月、帰国
1926年(大正15年):青山脳病院復興
1940年(昭和15年):『柿本人麿』で帝国学士院賞受賞
1945年(昭和20年):太平洋戦争の悪化を理由に院長を辞職(病院は東京都に移管され、現在の都立梅ヶ丘病院に連なる)。4月、山形県上ノ山町金瓶に疎開。5月、青山脳病院および自宅が空襲により全焼
1946年(昭和21年):昭和22年度以降26年度迄歌会始選者
1951年(昭和26年):文化勲章受章
1953年(昭和28年):2月25日死去

▼今日は、茂吉の代表作の中から次の二首をご紹介します。ご高覧下さい。
【代表歌】

 死に近き母に添寢のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる (『赤光』)

【解説】まさに死のうとしている母親に、添い寝をして、足をさすってやったりしている。茂吉は医者である。当然病気の予後についても承知していた筈である。家から離れたところにある田圃で、丁度五月、繁殖期の蛙が一斉に鳴いている。その声が雲に反射して、天から降る様に聞こえて来る。「しんしんと」は「添い寝」と「遠田のかはづ」の声の両方にかかる。添い寝をしている時の自分のしーんとした、突き詰めた心境と、天に反響して聞こえて来る「遠田のかはづ」が「しんしんと」という言葉で結びついている。情景が目に浮び、茂吉の心境が読者に強く訴えて来る。真に秀歌である。

 あはれあはれここは肥前の長崎か唐寺の甍にふる寒き雨 (『あらたま』)

【解説】西の果て長崎には今日も雨が降っている。石畳の上にも、唐寺の甍にも。冷たい雨。

【茂吉のこぼれ話】
▼明治三十五年の九月に一高の三部二組へ入つて来た二十七名の秀才の中に茂吉も居た。その時は守谷茂吉で、素朴な、田舎くさい青年であつた。
 当時の一高三部二組というのは天下の最大難関で、同じ三部(医科)志望でも最も優秀な成績の者が一高に入り、残りが地方の高等学校へ配当される仕組であつた。だから一高へ入れた茂吉も天下秀才の一人に相違なく、あの時もし地方の高等学校へやられていたら、歌人茂吉の発芽が滞りなく行つたかどうか問題になる。ともかく、入学試験に関するかぎり、茂吉は頭がずばぬけてよかつたことは事実である。
 茂吉も中学校では優等生だつたに相違ないが、一高の同級生は粒ぞろいだつたためか、一高生時代の茂吉は格別出色の存在でもなかつた。学校の成績はだいたい中ぐらいで、ときどき注意点ももらつたようである。注意点をいくつか持つてると落第するという厄介な点である。(中略)
 スポーツにも縁がなかつた。正課の体操だけは仕方がなく出たが運動部へはどこへも入つていなかつた。要するに彼は筋骨薄弱型であつた。ストームもやつたことはあるまい。
 文学青年のタイプでもなかつた。そのころ晶子の「乱れ髪」だの、晩翠の「天地有情」だのが青年の間に愛読されたが、同級生で茂吉とそんな話をしあつた者もなかつたようである。卒業まぎわの頃になつて、茂吉が歌を作るそうだと聞いて、人は見かけによらぬものだなあと感じ入つたような情況である。
 一高短歌会というのはまだなかつた。他のクラスの学生で、新詩社へ入つて相当に活動してるのもその方の雑誌で知られて居た。そんなグループの中にも茂吉の名は見られない。一高俳句会は可なり盛んで、虚子、碧梧桐、鳴雪などが毎回出てくれ、僕らのクラスからも二三の常連が行つたが、こんな所へも茂吉は行かなかつた。
 茂吉の山形弁は著しかつた。茂吉の風貌も何となく山形弁的である。どう見ても颯爽たる一高生型ではなかつた。しかしこれは茂吉の生涯を通じての特色であつたのだから、一高生時代ににわかに脱皮するわけがなかつたのである。
            高野六郎「一高時代の茂吉」 昭和28年10月

【後記】■今日の締め括りは、二十四節気の『雨水』に因んだ小生の稚拙な俳句を一句・・。

 陽射(ひざし)映え 木々の芽萌ゆる 雨水かな  悟空

【意】寒風吹く中でも陽射しは一段と明るさを増し、猫柳等の木々が芽吹いて春の訪れを教えてくれる。時節はまさに『雨水』。因みに『雨水』を七十二候で3分した末候(3月01~05日)を『草木萠(萌)動(そうもく(ほうどうす)きざしうごく)』という。まさに字のごとくである。お粗末でした。(笑) では、また・・。

(了)

2008年2月16日 (土)

【時習26会3-7の会 0156】~「18日:『バルテュス』命日」「22日:『高浜虚子』誕生日」「豊橋向山梅林公園の紅白梅(2月11日撮影)」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0156】号をお送りします。

■今日はまず、19日は二十四節気でいう『雨水』のお話。会報をこの様に綴っていきながらふと気付く・・。「この間『立春』を話題にしたばかりだと思ったのに、もう『雨水』・・」。時の移ろいの速さに驚きを禁じ得ない。これも年をとった証拠であろうか。

■さて、今日最初の話題は、2月18日が命日である、フランスの画家『バルテュス』についてである。
▼バルテュス(Balthus 本名:Balthasar Klossowski de Rola(1908.02.29 - 2001.02.18))は、20世紀のフランスの画家。ポーランド貴族の出身で母親はユダヤ人。また実兄のピエール・クロソウスキーはマルキ・ド・サドの研究者として著名な作家である。バルテュスは、20世紀のもっとも優れた人物画家のひとりに数えられる。ほとんど独学であった彼は、ルーヴル美術館で古典絵画の巨匠たちの作品を模写したが、なかでもピエロ・デラ・フランチェスカの影響が大きいとされる(添付写真[24,25]ご参照)。
2425_battesimo_di_cristo_14481450古典を消化した、堅固な構成と繊細な描法でモニュメンタルな女性、少女像を多く描いた。
▼1937年にアントワネット・ド・ワットヴィル(Antoinette de Watteville)と最初の結婚をし、息子スタニスラス(Stanislas)をもうけるが、後に離婚。しかしこの先妻とは生涯友人であり続けた。息子であるスタニスラス・クロソウスキー・ド・ローラは、後にバルテュスの作品集出版に当たって執筆を担当している。
▼1962年、パリでの日本美術展の選定のために訪れた東京で、当時20歳だった出田節子(添付写真[06,07]ご参照)と運命的な出会いをし、1967年に結婚した。節子夫人も画家であり、二人の間には1973年に誕生した娘春美(ハルミ・クロソフスカ=ド=ローラ、ジュエリーデザイナー)がいる。勝新太郎はバルテュスの山荘に招かれ、居合い抜きや三味線を演奏したことがある(ドキュメンタリー映画「バルテュス(原題:Balthus the Painter)」監督:マーク・カイデル)。 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

01balthus01161924_02balthus03471922_03balthus05192324_04balthus06portrait_▼添付写真の中の鉛筆画の「自画像」はバルテュス16歳(1924年)の頃の作品。ドイツ詩人リルケはバルテュスの母の恋人でもあった(添付写真『母と詩人リルケに挟まれたバルテュス(1922年)』『ミュゾットのリルケの家にて(1923-24年)』『バルテュスが終生手許に置いていた若き日の自身のportrait』ご参照)。リルケはバルテュスに深い愛情を注いだ。彼はリルケの勧めもあり、画家の道を歩み出すことを決意。リルケについて、バルテュスは後年こう回想している。

「とても優しい人だったのを覚えています。まるでわたしが一人前の大人であるかの様に話しかけてきました」

▼一方、リルケも《リルケからバルテュスへの手紙(1922年)》でバルテュスに愛情ある言葉を次の様にかけている。
「愛しいバルテュス。こんなに若くして、芸術の本能を心の奥に秘めているとは! 毎晩の様に、君の絵を見ています。どうして、そのたびに心が躍らされるのか、ようやくわかりました。君には、題材を選び、絵画を構成する眼があるからです。二人一緒に、君の絵を眺めることができたら、このうえない幸せを分かち合えるでしょう。」

05balthus07321940_▼添付写真[05]は1940年、バルテュス32歳の時の自画像。彼は前年戦争に召集され、アルザスの前線で負傷、パリに戻った時の作品。

【筆者comment】▼若き日にバルテュスは、添付写真[01,03,04]をご覧になれば納得されると思いますが、かなりの美少年。

06balthus081990_07balthus10_▼続いて、家族三人(バルテュス、節子夫人、晴美)の写真と、着物を着たバルテュス夫妻(自宅にて)である。夫人の節子・クロソフスカ・ド・ローラが語った『音楽のように、空気のように 夫バルテュスとの40年間(夏目典子・芸術新潮編集部編「バルテュスの優雅な生活」)』から抜粋をご覧頂きたいと思います。

【そのとき私は20歳、バルテュスは54歳でした(1962年)】
▼バルテュスと初めて会いましたのは、1962年7月のことです。当時彼はローマのアカデミー・ド・フランスの館長を務めていましたが、当時のフランス文化大臣、アンドレ・マルロー氏の依頼で初来日いたしました。(中略)私はその頃上智大学のフランス語科の学生で、その時はたまたま大阪の叔母の家で夏休みを過ごしておりました。(中略)
▼(【筆者注】バルテュスと)ご一緒するのは一日だけでしたけれどお話する機会があって、(中略)
▼私は東京に帰りました。そうしましたらバルテュスが私のデッサンをしたいとのお話で、まだ大学もお休みでしたし、お引き受けしたわけです。10回ほどモデルになりましたでしょうか。(中略)
▼何度か会ってお話しているうちに、バルテュスの人物そのものに惹かれてゆきました。(中略)彼は東洋、特に日本に大変造詣が深く、私の中に、かねてイメージしていた日本女性のひとつの典型を見出し、興味を抱いた様です。私は最初びっくりしてしまって・・。歳が違いすぎますし、まだそうした具体的なことを全然考えてもいない、夢多き20歳の学生でしたから、でも今から考えますと理性的な行動というよりは、勘といいますか、何も知らぬまま、純粋にこの人ならと自分の人生を決めるのに迷いはありませんでした。結局のところ、誘拐された様なものですが(笑)。(中略)1967年に東京のフランス領事館で結婚式をあげ、そのままインドを経由して、あわただしくローマのヴィラ・メディチでの生活に入ったのです。(中略)
▼バルテュスは日々の生活の中で、私自身も気つかなかった日本の美を、私の中から引き出してくれました。例えば着物のこと。まだ主人と結婚する前でしたが、「なぜ、日本独自のあの素晴らしい着物を着ないのですか?」と問われました。お茶のお稽古しか着ることがなかったものですから。でもバルテュスの好みはあくまで着物姿ですし、私もローマ時代にはいつも着る様になったのです。(中略)
▼お客様だけでなく、バルテュス自身、英語、ドイツ語、フランス語などに翻訳された東洋の古典を読みますので、質問がすぐ飛んで来ました。例えば、ドイツ語に訳された『万葉仮名』という本を読んだ時とか。恐ろしいでしょ(笑)。ですから私がきちんと日本の古典を勉強しましたのは、彼と結婚してからです。日本人として常に求められる日本文化や精神についての教養を身に着けざるを得なかったのです。そんな結婚生活の中で、バルテュス自身の美の観点が、私が生まれ育って来た日本の文化、特に茶道の精神にあい通じるものがあることをつくづく感じる様になりました。勿論そこにはバルテュスの日本に対する深い憧憬が根底にあった訳ですが、お互いの美の価値観が同じであったということは本当に幸せだったと思います。(中略)
▼バルテュスが亡くなりまして、はやくも4年の歳月が流れましたが、生前と没後、彼に対する見方は少しも変わりません。(中略)
▼夫婦としての年齢差をよく言われましたけれど、気になりませんでした。私は強い性格ですけれど、バルテュスは私の何倍もの強さを持つ男性でした。そういう方だからこそ盲目的に尊敬し、お仕えできたのだと思います。歳が離れていて、自分よりいろいろなことを理解している方だからこそ、よかったのです。
▼これまで、私は彼の作品であり、彼の絵の中の人物だった様な気が致します。亡くなって、絵から外に出て、ようやく一人立ちし始めたのが現在の私です。それでも、やはりどこかで彼と繋がっている。天上で彼が指揮棒を振っている様な。「ちょっと、引っ込んでいて下さる」などと思ってしまうことがあるほど、今も一緒にいる、一体なのだと感じます。
▼バルテュスとの40年間の生活は、ほんとうに幸せでした。

【筆者comment】▼節子夫人に「ほんとうに幸せでした」と言わしめたバルテュス。彼は、本当に立派な人間であり、画家であり、夫であったのであろう。小生も、細君に「かく言わしめたい」と思うのだが、200%無理な様だ・・。(涙)(笑)

【ピエロ・デラ・フランチェスカ】について・・
▼ピエロ・デラ・フランチェスカ(Piero della Francesca, 1415/20年 - 1492年)は、イタリアルネサンス期の画家。イタリア中部トスカーナ州のアレッツォ近郊の山間の町、ボルゴ・サンセポルクロに靴職人の子として生まれる。フィレンツェ派の巨匠、ドメニコ・ヴェネツィアーノに師事した。イタリア各地で制作しているが、生涯のかなりの部分を郷里とその周辺で過ごしている。晩年には数学の研究を深め、『算術論』『遠近法論』『五正多面体論』の3冊の著作を残している。ボッティチェッリなどより一世代前の、イタリア初期ルネサンスを代表する画家である。

【筆者comment】▼バルテュスの画風は、確かにフランチェスカの影響を色濃く受けている。中世のフレスコ画に似た硬さが、バルテュスの作品をして、強いインパクトとして観る者を魅了していると言える。添付写真は彼の傑作選を13枚添付[11~23]しましたのでご覧下さい。
11balthus199093
20balthus21balthus22balthus23balthus195112balthus193813balthus193714balthus198015balthus198017balthus19424718balthus19balthus193316balthus193335
■さて、続いては高浜 虚子(1874(明治07).02.22 - 1959(昭和34).04.08)についてである。2月22日が彼の誕生日。彼は、明治~昭和期の俳人、小説家。本名・高濱 清(たかはま きよし)。ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。
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【略歴】
▼愛媛県松山市長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。
▼明治21年(1888年)伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。明治24年(1891年)子規より虚子の号を受ける。
▼明治26年(1893年)碧梧桐と共に京都の第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)に進学。この当時の虚子と碧梧桐は非常に仲が良く、寝食を共にしその下宿を「虚桐庵」と名付けるほどだった。明治27年(1894年)三高の学科改変により碧梧桐と共に第二高等学校(後の東北大学教養部)に転入、のち中退し、上京して東京都台東区根岸にあった子規庵に転がり込んだ。
▼明治30年(1897年)柳原極堂が松山で創刊した俳誌「ほとゝぎす」に参加。翌年、虚子がこれを引き継ぎ東京に移転し俳句だけでなく、和歌、散文などを加えて俳句文 芸誌として再出発し、夏目漱石なども寄稿している。明治35年(1902年)、子規の没 年、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭している。
▼明治43年(1910年)一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住した。以来、亡くなるまでの50年間をここで過ごした。大正2年(1913年)碧梧桐に対抗するため俳壇に復帰。このとき碧梧桐の新傾向俳句との対決の決意表明とも言える句を詠んでいる。
▼昭和29年(1954年)文化勲章受章。昭和34年(1959年)4月8日、85歳で永眠。墓所は鎌倉市扇ヶ谷の寿福寺。戒名は虚子庵高吟椿寿居士。その生涯に20万句を超える俳句を残した。(同『ウィキペディア(Wikipedia)』)

▼さて、『花鳥諷詠』についてである。聞きなれた言葉なのだが、詳しくは知らなかったので今回改めて調べてみた。

▼「花鳥諷詠」は、高浜虚子が唱えた俳句理念である。「花鳥」は花鳥風月、すなわち人事を含む自然の意味で、「諷詠」はそれを高らかに詠みあげることです。この理念の実践が、やがて客観写生となるのです。
 虚子は、俳句は、滑稽を目的にするものでも、閑寂を目的とするものでもなく、純粋に「花鳥風月」を吟詠するもので、人事の葛藤は戯曲や小説に譲り、花鳥諷詠とし て自立すべきである、と主張し、これを「ホトトギス」の指導理念としました。
 この「花鳥諷詠」が初めて公にされたのは、昭和三年六月刊の『虚子句集』の「自序」の中です。この講演筆記で、虚子は「花鳥諷詠」と題して、次のように述べています。まず、
「私はごく短い感想を申し上げます。講演といふ程のものではありません」
と前置きし、そのあと、
「花鳥諷詠と申しますのは、花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密にいへば、春夏秋冬四時の移り変りに依って起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります」「四時」は、春夏秋冬の移り変わりということであり、春夏秋冬は規則正しくめぐり去り、めぐり来るもの、四時は変化でありながら不変です。そういう季節の移り変わりによって起る自然界の現象と、それに伴う人事の現象が「花鳥風月」です。それを「花鳥」とよんでいたことが、よくわかりますね。(中略) 「花鳥諷詠」の関連用語に「客観写生」があります。これは、大正期に提唱されたものですが、「客観」とは後にいう「花鳥」と同じ意で、感情の直接表現を抑え、季節のもたらす自然を描くことに徹する努力を重ねてゆけば、感情は自然を通しておのずからあらわれ、やがて「花鳥諷詠」の自在の世界に心を置けるようになる、というのです。昭和期の「客観写生」は、「花鳥諷詠」を実践する方法論として説かれました。
   (以下略)(石寒太『これだけは知っておきたい・現代俳句基礎用語』)
■今日の締め括りは、また「梅の花」である。服部嵐雪が晩唐の詩人杜牧の「江南の春」を、鯊釣(はぜつり)(【季語】=秋)として、自然を詠んだ句があるのでご紹介する。さらに、それを捩った小生の句もついでにどうぞ・・。(笑)
 沙魚(はぜ)釣(つる)や 水村山郭 酒旗の風  服部嵐雪
 梅の香や 水村山郭 酒旗の風  悟空
【意】何処からか梅の仄かに甘い香りが春を告げる様に漂って来る。ふと気がついて周りを見ると、川辺の村にも、彼方の山村にも居酒屋の旗が翻っていることだ。(『仮想現実の世界』で詠んでみました)
【後記】■今日の締め括りは、掲題の副題の最後、「豊橋向山梅林公園の紅白梅」です。添付写真(10枚[0110~0191])は鬼祭りの日2月11日に撮影したものです。全体ではまだ七分咲きでしたが、樹によっては満開のものもあり美しかったですよ。梅の花は、桜とはまた違った清楚な美しさが魅力ですね。10枚添付しました覧下さい。
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では、また・・。(了)

2008年2月11日 (月)

【時習26回3-7の会 0155】~「9日:『豊橋に今年の初雪』」「12日:『司馬遼太郎』命日」「青春のうた『太陽がくれた季節』」「『青春とはなんだ』『これが青春だ』『でっかい青春』『飛び出せ!青春』の想い出」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0155】号をお送りします。

PhotoPhoto_2■今日はまず、9日の雪のお話。我が街豊橋に今年初めての雪が降りました。会報【0149】号で、昔日の想い出として「不思議と『鬼祭り』には雪が舞ったことを覚えている」とお伝えしましたが、今年も御多分に洩れず雪が降りました。拙宅玄関前の雪がつもる南天木のシーンをご覧下さい。(笑)撮影日時は2月9日16時52分です。

Photo_3■続いては、掲題にある様に12日が小生の最も好きな「作家『司馬遼太郎』の命日」についてである。
▼「司馬 遼太郎(しば りょうたろう、1923年8月7日-1996年2月12日) は、日本の小説家。本名、福田 定一(ふくだ ていいち)。大阪市生まれ。ペンネームは、「(史家の)司馬遷に遼(はるか)に及ばず」という意味。しかし一般には「日本大衆文学の巨匠」と位置づけられている。
▼1993年 - 文化勲章受章。
▼1996年 - 2月12日、腹部大動脈瘤破裂のため国立大阪病院にて死去(享年72)。(以上「出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」)」
▼歴史が好きであった小生、司馬遼太郎の作品との出会いは、決して早くない。社会人になり、東京大手町勤務時代、ふとしたきっかけで、通勤電車で読む本として乃木希典を扱った『殉死』を文春文庫で読んだのが始まりである。爾来、彼の作品の素晴らしさに魅了され「坂の上雲」「翔ぶがごとく」「菜の花の沖」「功名が辻」と、長編物を次々に読んだ。また、「この国のかたち」「街道をゆく」という随筆・紀行文も、時代、地政学の観点からの解説を簡潔明瞭にするなどして、読者を楽しませてくれる。小生、両作品とも大好きであるが、「街道をゆく」全43巻は流石に読了できず、半分近くの20冊で頓挫してしまっている。(笑)
【作風】
▼特徴としては、常に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物しか取りあげない。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。「余談だが…」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内に散りばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬遼太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。(以上「前述(Wikipedia)」)

【筆者comment】▼乃木希典を扱った『殉死』以来の司馬良太郎ファンである小生、自分の半生の人格形成にも少なからず影響を受けた。彼が亡くなった平成8年2月は、小生二度目の東京(その時は「国分寺支店」)勤務時代。都内の飯田橋寮に単身赴任していた。日本橋丸善、八重洲ブックセンター、新宿紀伊国屋書店、神田の三省堂本店等の店頭に堆(うずたか)く詰まれた彼の追悼記念書籍の多かったこと。国民的人気作家であったことを今も鮮明に記憶している。

▼添付資料に、You Tube『司馬遼太郎に会いたい』を添付しましたのでご覧下さい。NHK『あの人に会いたい』から、司馬遼太郎氏の映像を10分近くご覧頂けます。この映像の最後の部分に出て来る『二十一世紀を生きる君たちへ』を添付しましたのでご覧下さい。これは、もともと小学6年生の国語の教科書のために司馬氏が書いたもの。平成11年1月19日、故小渕首相(当時)が第145回国会開催に当たり、この一説を引用。小学生向きですが、名文です。その一節をご紹介します。
「21century_ni_ikiru_kimitachi_he.doc」をダウンロード ←ここをclickして下さい。


 君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。
――自分に厳しく、相手にはやさしく。
という自己を。
 そして、すなおでかしこい自己を。

▼映像で氏は、またこうも言っている。

 日本の規範は「武士道」であった。その「侍」として「自立的な意味の微弱なる電流をもう少し強くした方が良い。」

【筆者comment】▼氏は、最近の即物的で視野の狭いという弱点をもつ日本人の精神的脆弱性を鋭く突いている。日本人の心のあり方を「日本人の規範は『武士道』であった」といい、日本人はその自己の確立を「武士道」の良い点を、「微弱なる電流」に例え、それを持つべきだと述べている。共感できるcommentである、と思う。

■続いては、「青春のうた」である。前々回、ビリー・バンバンの「さよならをするために」をご紹介したが、それの同じCDに青い三角定規の「太陽がくれた季節」がありましたのでご紹介します。
▼今年の【2637の会】「同窓会」にご出席の方々に「青春のうた Part3」をご用意する予定ですが、その候補曲にこの「青い三角定規『太陽がくれた季節』」もnominate。この曲は、日本テレビ系列で昭和40年代に放映されて「青春ものシリーズ(seriese)」1つ、「飛び出せ!青春」のテーマソング(Theme song)。このシリーズは次の通りです。ご記憶の諸兄も多いと思います。小生はこれらのなかでも第2作「これが青春だ」が一番記憶にあります。布施明の主題歌も 「 大きな空に梯子をかけて 真っ赤な太陽両手で掴もう 誇り一つを 胸にかかげて 怖れ知らない これが若さだ そうとも これが青春だ 」。 今でも諳んじられるほどよく覚えている名曲である、と思う。主人公の竜雷太、女学生の岡田可愛(『サインはV』主演)、松本めぐみ(=彼女は加山雄三の奥さん)は、今でも懐かしく思い出される。
▼いや、今日は「青い三角定規の『太陽がくれた季節』〔飛び出せ!青春〕の主題歌」でした。さすがにこの頃になると、「青春もの」も食傷気味になって来ましたことを記憶しています。ただ、この曲はとても新鮮でよく覚えています。これも名曲だと思います。ご紹介します。

 君は何を今 見つめているの 
 若い悲しみに 濡れたひとみで
 逃げてゆく白い鳩 それとも愛
 君も今日からは ぼくらの仲間
 とびだそう 青空の下へ
 (  以下略  )


【筆者comment】▼「君も今日からは ぼくらの仲間 燃やそうよ 二度とない日々を」という、「友を迎え入れる『仲間意識』」と「燃焼させよう!素晴らしい青春という『青春賛歌』」。今だからこそ、その取り戻すことができない『青春の尊さ』を改めて反芻する。ただ現在の我々も、気分だけは若い時分を忘れず「若々しく」生きて生きたいですね・・。(笑)

■「青春とはなんだ」(昭和40年10月24日~41年11月13日(全41回))(出演:夏木陽介(野々村健介)、藤山陽子、寺田農、矢野間啓治、木村豊幸、岡田可愛、藤木悠、十朱久雄、宮口精二、平田昭彦、有島一郎、三井弘次)

■「これが青春だ」(昭和41年11月20日~42年10月22日(全39回))(出演:竜雷太(大岩雷太)、藤木悠(左右作教頭)、弓恵子(松代優子)、結城美栄子(伊集院治子)、矢野間啓治、木村豊幸、岡田可愛、松本めぐみ、藤山陽子、宮口精二、三井弘次(川村甚平)、沢村貞子(杉山はな)、西村晃(伊集院校長))

■「でっかい青春」(昭和42年10月29日~43年10月13日(全41回))(出演:竜雷太(巌雷太)、広瀬みさ(高見紀美)、寺田農、柴田昌宏、土屋靖雄、木村豊幸、岡田可愛、宮口精二、藤田進、名古屋章、十朱久雄)

■「飛び出せ!青春」(昭和47年2月20日 ~ 昭和48年2月18日(全43回))


【後記】■皆さん、如何でした。「青春もの」seriese。ほんと、懐かしかったですね。「我々は今年53歳になる訳ですが、気持ちだけはあの「青春時代」の純粋な心を持ち続けて行きたいですね」・・と、思います。

では、また・・。(了)

2008年2月 9日 (土)

【時習26回3-7の会 0154】~~「6日:ユーミンソング・ミュージカル『ガールフレンズ』」「9日:『夏目漱石』誕生日」「10日:画家『杉本健吉』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0154】号をお送りします。毎度、毎度同じお願いで大変恐縮ですが、再来週2月23日(土)の「時習26回『35周年旅行』打合せ会」の件、【2637の会】membersの皆さんに是非出席の程、お願いします。旧【3-7】の出席者が小生だけという事態だけは正直避けたいですね。ご協力頂ける方はいらっしゃいませんか? m(_ _)m

■さて、一作昨日2月6日、小生、仕事を終えた後、名古屋に行く機会があり、「ユーミンソング・ミュージカル『ガールフレンズ』」を視聴して参りましたので、ご報告させて頂きます。
PhotoPhoto_3Photo_4Photo_5Photo_6▼このミュージカルは、松任谷由実の曲だけを使った2組(4人)のラブロマンス。この作品は、全てユーミンの作品で綴られており、オペラで言うところのジングシュピール(singspiel(独):歌と台詞が交互に演じられる、即ち台詞の部分=音楽のない『会話』だけのところ)がなく、レシタティーヴォ(recitativo(伊):オペラ等で筋の説明や対話のために用いられる朗読調の独唱歌曲)に相当するところも「グループ」という曲が、全39曲中4曲採用されているだけである。
▼ユーミンのメロディーは聴く者にとっては本当に心地良い。且つ、彼女の歌詞は平易だが、とても気が利いている。
▼また、今回のヒロイン、真理子役の鈴木爛々、裕子役の島谷ひとみの歌唱力も十分。そして、彼女等の相手役、加治将樹、中村昌也、脇役の女性4人、大橋明日香、植木理奈子、吉岡麻由子、谷古宇千尋らが演技・ダンスを恰好良く決めて、なかなかいいミュージカル・タイム2時間10分(15分間の休憩を含む)であった。

1912■さて続いては・・、実は今日2月9日は、「文豪『夏目漱石』の誕生日」のお話。漱石は、詳しく説明することもないほどの著名な小説家。本名、夏目金之助。1867(慶応3)年2月9日(旧暦1月5日)~1916(大正5)年12月9日。江戸牛込馬場下横町生まれ。
【略歴】
1889(明治22)年 正岡子規と初めて出会う。子規は、漱石に多大な文学的、人間的に多大な影響を与えることになる。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧された際、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから本格的な友情が始まる。漱石は、この時から「漱石」を号として使い出したという。
1893(明治26)年 東京帝大文科大学英文科を卒業。
1900(明治33)年 文部省留学生として英語研究のため英国留学。明治36年、東京に帰り一高、東大の講師を兼任。
1905(明治38)年 高浜虚子に薦められ風刺小説「吾輩は猫である」を執筆。
1906(明治39)年 4月「坊っちゃん」、9月「草枕」等発表し、一躍人気作家に。
1907(明治40)年 朝日新聞社に入社。以後の小説は朝日新聞紙上に発表されることになる。明治43年、胃潰瘍の療養のため修善寺温泉に滞在中、大量に吐血し危篤状態に陥る。この体験は漱石の人間観、死生観に大きな影響を与えた。
1909(明治42)年05月 三四郎
1910(明治43)年01月 それから 
1911(明治44)年01月 門 
1912(大正元)年09月 彼岸過迄 
1914(大正03)年01月 行人  9月 こころ
1915(大正04)年10月 道草(初の自伝的小説)
1916(大正05)年12月9日 胃潰瘍の発作により死去。享年49歳。最後の小説「明暗」は未完のまま遺された(1917年1月上梓)。

【筆者comment】▼以下に夏目漱石のエピソードを探して参りました。(笑)
▼漱石が絶賛した弟子「芥川龍之介」と「中勘助」。そして、漱石の子供達の【回想録】から漱石の人となりを垣間見て下さい。漱石に対する見方が多少変るかも知れませんよ・・。まずは、「芥川龍之介」と「中勘助」です。どうぞ・・

【芥川龍之介】『漱石先生の話』(昭和2年5月)
 先生の書斎は先生自慢の一つだつたに拘らず、こんなことがあつた。 ~ ある時、アメリカの女(もう少し尊敬して言へば、御婦人)が二人連名で、先生へ訪問を申し込んだことがある。その女と言ふのは観光団か何かで日本に来たアメリカの ~文学者とまで行かなくとも詩など好んで読んでゐる女らしく、勿論英語で申込の手紙を先生に寄せたのです。それに対し先生は訪問を断られた。断りの手紙は矢張り英文で認めたのですが小説を一篇書くよりもその方が骨が折れたと申されました。……アメリカの女の訪問を断られたことは如何にも不審に思はれたので、おそるおそる先生に「どうしてまた、アメリカの女が折角会ひたいといふのを、断られたんです」ときくと「夏目漱石ともあらうものが、こんなうすきたない書斎で鼠の小便の下に住んでゐる所を、あいつ等に見せられるか、アメリカに帰つて日本の文学者なんて実に悲惨なものだなんと吹聴されて見ろ、日本の国辱だ」といかつい顔をしました。先生は実にかうした一面が多かつた人であります。  

【筆者comment】▼芥川は、「鼻」を漱石から絶賛され、若年ながら一躍文壇の寵児となった。これがため、芥川は後年「亢龍の悔い」の道を歩むこととなる・・。

【中勘助】『漱石先生と私』(大正6年11月)
 大学の英文科へはひつてからは始終先生の授業をうけるやうになつた。(中略)先生は身体の小さいに似合はない、わるく底力のあるかなり大きな声で講義をした。先生は講義中に今まで知らなかつた奇癖を数々見せた。片つぱうの口もとをへんてこに捩ぢあげたり、へんに首をくねくねやつて草稿を見たり、下唇を口の中へ曲げ込んで口をあきながら天井を見あげてゐたり、何かいひながら机の上に白く積つてゐる埃を人さし指の先へ二度も三度もくつゝけてみたり、むちやくちやに顔をしかめて頭をかいたあとで、指を鼻先へもつてつて丁度犬が非常な臭いものをかいだ時のやうに、鼻を噴かないばかりに鼻の上へ皺をよせてみたり……よく皆をくすくす笑はせることがあつた。そんな時に先生は気がついて一緒に笑ひだすこともあつたし、真面目な顔で講義を続けることもあつた。  
【筆者comment】▼中勘助は、小説「銀の匙(さじ)」を発表した時、漱石がその作品を絶賛している。

【筆者comment】▼漱石の子供達が抱いている漱石の思い出については、彼が神経衰弱、即ち今の医学でいう『躁鬱病』に罹ったがために、酷い扱いを受けた記憶がトラウマとなっているという複雑な感情が表れている。以下に3人の子供達による父親漱石の追想記をご覧下さい。

【夏目純一】『父の病気』(昭和44年2月)
 世間一般に伝わっている父は、たいてい無理解な母に悩まされ、家庭的にはあまり恵まれなかった人のように考えられている。今までそれについてずいぶん語られたり、また書かれたりしているのだが、それらについて私達が発言する機会はあまりなかった。そこで父について少し言うと、ふだんの父はとても温和な、よい人であった。すぐ上の姉は、父と散歩などに行った帰りはかならずおんぶしてもらって家まで帰って来たと、父のやさしかった面を私達に話してくれた。また晩年の母も時々トンチンカンなことを言って皆に笑われると、よく私達に言ったものだった。「お前達は何かというと私を笑うけれど、お父さまはそんなときけっして笑ったりはしないで、いつも親切に教えてくれたよ」と。この親切な父が突然機嫌が悪くなり、ヒステリーのようになって、近よることが出来なくなるのである。要するに、よい時と悪い時との差があまりにもひどいため、とうてい同じ人と思えないくらい変ってしまうのだ。残念なことに私などは、その悪い方の記憶が多く頭に残っていて、やさしかった父のことはあまりおぼえていない。  

【夏目伸六】『父夏目漱石』(初出未詳)
 恐らくまだ私が小学校へあがらない、小さい時分の事だつたらう。丁度薄ら寒い曇つた冬の夕方だつた。私は兄と父と三人で散歩に出た事を覚えて居る。(中略)私等はいつの間にか、色々と見世物小屋の立並んだ神社の境内へ入つて居た。親の因果が子に報いた薄気味悪いろくろつ首や、看板を見た丈でも怖気をふるふ安達ヶ原の鬼婆など、沢山並んだ小屋がけのうちに、当時としてはかなり珍しい軍艦の射的場があり、私の兄が其前に立ち止つてしきりと撃ちたい、撃ちたいとせがんで居た。恐らく私も同様、兄と一緒にそれを一生懸命父にねだつて居た事だらう。父は私等に引張られて、むつつりと小屋の中へ入つて来た。(中略)
「おい?」 突然父の鋭い声が頭の上に響いた。
「純一、撃つなら早く撃たないか」 私は思はず兄の顔へ眼を移した。兄はその声に怖気づいたのか急に後込みしながら、
「羞かしいからいやだあ」と、父の背後にへばりつく様に隠れて仕舞つた。私は兄から父の顔へ眼を転じた。父の顔は幾分上気をおびて、妙にてらてらと赤かつた。
「それぢや伸六お前うて」 さういはれた時、私も咄嗟に気おくれがして、
「羞かしい……僕も……」 私は思はず兄と同様、父の二重外套の袖の下に隠れようとした。
「馬鹿つ」 その瞬間、私は突然怖ろしい父の怒号を耳にした。が、はつとした時には、私は既に父の一撃を割れるやうに頭にくらつて、湿つた地面の上に打倒れてゐた。その私を、父は下駄ばきの儘で踏む、蹴る、頭といはず足といはず、手に持つたステッキを滅茶苦茶に振廻して、私の全身へ打ちおろす。兄は驚愕のあまり、どうしたらよいのか解らないといつた様に、ただわくわくしながら、夢中になつてこの有様を眺めてゐた。その場に居合せた他の人達も、皆呆つ気にとられて茫然とこの光景を見つめて居た。私はありつたけの声を振絞つて泣き喚きながら、どういう訳か、かう
したすべてを夢現の様に意識して居た。また自分自身地面の上を、大声あげてのたうちながら、衆人環視の中に曝されたかうした自分の惨めな姿を、私は子供ながらに羞かしく思はずに居られなかつた。  

【松岡筆子】『夏目漱石の『猫』の娘』(昭和41年3月)
 神経衰弱といえば、そのために父自身がどれ程悩み、家族全体がどれ程、脅かされ、苦しめられたか、それは計り知れないことでございました。(当時精神病(狂気)とその道の大家によって診断され、母も生涯それを信じていたのでしたが、近年それは誤診であって、鬱病の発作であったことが千谷七郎先生によって証明されたと聞き、本当に安心いたしました。)
 たとえば、帰国後まもない事だったと思いますが、ある日、私は突然、父に書斎にすぐ来る様にいいつけられ、そして訳もなく私は正座させられて、父に睨みつけられました。その只ならぬ父の形相に怯えて、私は火をつけた様に泣き出してしまいました。
 父はいきなり力まかせに私の額を押し飛ばします。私は引っくり返って、そのままの姿勢で、恐ろしさと突然ぶたれた悲しさ、くやしさで、手足をばたばたさせて一層激しく泣きじゃくりました。しかし、こういう時は触らぬ神に崇りなしで、家中がひっそりと息をひそめ、母もお手伝いさんも救いには来てくれないのです。
 それで父はといえば、今こづいた事も、私が側で泣き喚いている事もそれきりで忘れてしまったようで、そ知らぬ顔で机に向って、読書に耽っているのでした。  

【漱石・鏡子夫妻】~「『仲の悪い夫婦』が離婚しなかった真相」(「日本史を変えた夫の戦い妻の戦い」(青春出版社))
 (前略)漱石は、1896(明治29)年、熊本の第五高等学校教授に就任したのを機に、中根鏡子と結婚した。漱石30歳、鏡子19歳である。仲の悪い夫婦の典型としてよく引き合いに出される漱石夫妻だが、なぜ仲が悪かったのだろうか。
 二人は見合い結婚だが、性格はかなり違っていた。漱石は(中略)帝大出の英語教師で、見合いした頃、松山中学校で教鞭をとっていた。鏡子は貴族院書記官中根重一(じゅういち)の娘である。
 鏡子は漱石の写真を見たとき、上品でゆったりとしており、おだやかな、確りした顔立ちだと、好ましく思ったらしい。それで見合いを承諾したのだという。
 漱石は見合い後、相手の印象を尋ねられて、「歯並びが悪いし、黄ばんでいるのに、それを隠そうともしないで、平気でいるところが気に入った」と答えたところ、「妙なところが気に入る人だ」と笑われたという。
 鏡子という女性は、些細なことを気にせず、しかも豪胆なところがあった。しかし、朝寝坊だし、家事は苦手。漱石に朝食を食べさせぬまま、出勤させたこともある。
 漱石は漱石で、最初から「俺は学者だから勉強をしなければならない。おまえにかまっていられないのだ」といって憚らなかった。だが、漱石には神経質で見栄っ張りなところもある。だから鏡子の大雑把な態度にイライラした。
 その後、漱石は文部省留学生として、四年間、イギリスに留学する。帰国したのは1903(明治36)年だが、漱石はその直後から神経衰弱となり、異常な行動が目立つ様になった。
 漱石は怒ると、妻や女中の髪の毛を掴み、引き倒すこともあったというから尋常ではない。鏡子はそんな漱石に離婚を迫ったのである。子供をつれて、実家に帰ったことさえあった。
 さらに鏡子は漱石の精神状態を疑い、医者に相談したほどだ。鏡子は夫を狂人扱いしたが、実際に漱石が精神を患っていたのか、よくわかっていない。ともあれ、結局は離婚もせずに漱石を支え、二男五女の子供達を育てたのだから、鏡子は賢く、強靭な母性の持ち主だったのだろう。
 漱石は1916(大正5)年、49歳で死んだが、鏡子はさらに長生きをし、1963(昭和38)年、86歳で生涯を終えた。

【筆者comment】▼昭和38年というと、ケネディ米国大統領がダラスで暗殺された年、東京五輪、東海道新幹線開通の前年。我々【2637の会】membersが小学校二年生の時だ。その時まで、漱石の奥様はご存命であったのだ・・。漱石は、歴史上の、過去の人になってしまったが、彼の奥様は我々が物心をつけた時分になってもご健在でいた、と思うだけで、「左程、昔の人ではなかったんだ」と、不思議な気持ちになる。

Photo_7Photo_8 ■続いて今日最後の話題は、【杉本健吉】(1905.09.20 - 2004.02.10)画伯である。彼の略歴を記すと以下の通り・・。
▼1925年に岸田劉生の門下に入る。絵画作品は極力売ることをせず、生活はイラスト、商業用ポスター等の副業で賄い、特に吉川英治作の『新・平家物語』・『私本太平記』等の挿絵を担当し絶賛を得た。1949年(昭和24年)奈良 東大寺観音院 住職上司海雲師の知遇を受け、観音院の古土蔵をアトリエにしてもらい、奈良の風物を描く。奈良では志賀直哉、入江泰吉らと交流する。 1987年 名古屋鉄道により、愛知県知多郡美浜町美浜緑
苑に杉本美術館が開館し、売らずにいた絵画が収蔵された。晩年まで毎週、同美術館に足を運び、美術館内に設けられたアトリエで、デッサンや来館者との歓談を楽しんでいたが、2004年肺炎のため死去。享年98[編集] 主な作品名鉄7000系 パノラマカーの塗色を決めたり、中部電力・名鉄百貨店の社章(いずれも初代)、名古屋市営地下鉄のマークのデザインを手掛けた。また、東大寺が経営する東大寺学園(奈良市山陵町)において、中学棟・高校棟を繋ぐ「転心殿」を榊莫山と合作し、同校へ寄贈した。

【後記】Photo_9■今日の締め括りは、「豊橋『鬼祭り』」である。添付写真をご覧下さい。この写真は2月6日に豊橋駅在来線改札口前に展示されていたものを撮影したものである。2月10日・11日が『鬼祭り』である、と写真の看板にも記されている。この祭は日本建国神話の田楽の舞で豊年と厄除の祭として約千年から毎年行われた尊い神事である、と由来について記されていた。

(了)

2008年2月 4日 (月)

【時習26回3-7の会 0153】~「丸山茂徳:『CO2地球温暖化主犯説』に物申す」「週刊ダイヤモンド〔年収が20倍増えた仕事術『グーグル化』知的生産革命〕」「ビリー・バンバン『さよならをするために』」「バルダザール・グラシアンの『賢人の知恵』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0153】号をお送りします。2月23日の「時習26回『35周年記念旅行』打合せ会」の件、是非ご参加下さい。お願いします。m(_ _)m

■さて、今日は二月四日。時節は『立春』。我が家の白梅・紅梅の木のいずれも蕾が大きくなり、『白梅』はあと2~3日で開花が予想されます(『紅梅』はまだ先の様ですが・・)。
▼昨日の二月三日は節分の日、皆さんのお宅では「豆撒き」や「恵方を向いて『太巻き』を食」された方も少なからずおいでと思われます。因みに、今年2008年(干支:【戊子(つちのえ ね)】 )の恵方は、南南東(巳と午の間)です。拙宅も、豆まき、恵方巻寿司の両方を実施しました。(為念)(笑)

      恵方の方角 西暦年
      甲・己の年→寅と卯の間(東北東) 2009年、2014年、2019年
      乙・庚の年→申と酉の間(西南西) 2005年、2010年、2015年、2020年
   ●丙・辛・【戊】・癸の年→ 【 巳と午の間(南南東)】  2006年、【
2008 】、2011年、2013年、2016年、2018年
      丁・壬の年→亥と子の間(北北西) 2007年、2012年、2017年

▼昨日の節分の日、豊橋は、生憎の雨・・。TVニュースを見て驚きましたが、関東地方は雪。東京都心で積雪3cm。「大寒」最終日の記念でしょうか・・。雪にならない豊橋は、やはり暖かいんですね。暖かいことはありがたいのですが、「暖冬」は「地球温暖化」を連想します。ところが、面白い記事を見つけました。2月号の雑誌「選択」の巻頭インタビューです。その抜粋をご覧に入れます。
▼題目は「『CO2地球温暖化主犯説』に物申す」。ゲストは東京工業大学教授丸山茂徳氏。氏は1949年生まれ。名古屋大学大学院博士課程修了。地球変動や惑星科学などの分野で業績をあげ、2002年に日本地質学会賞、06年紫綬褒章受賞。インタビューの内容は以下の通り・・。

Q:CO2が温暖化の大きな要因との見解が定説になりつつありますが・・
丸山:CO2問題と地球温暖化は切り離すべきです。確かにのこの百年間温暖化傾向にあったが0.5度Cに過ぎず、地球の歴史上、全く異常ではない。化石燃料も最も焚いた1940年から80年に気温は下降しており、CO2主犯説は崩壊しています。大気の気温を決める最大の要因は雲である。雲が1%多ければ気温は1度C下がります。

Q:雲の量を決めるのは何ですか?
丸山:最大の要因は宇宙線の飛来量。宇宙線が雲の凝縮核となる。これに最も影響を与えるのは太陽の活動です。活動が活発だと宇宙線は地球内に入って来なくなる。活発だった太陽の活動は2年前から減衰しています。もう一方で宇宙線飛来量を強い地球の磁場が遮断する。地球の磁場が弱くなると飛来する宇宙線量が増えるが、この磁場も弱くなっている。したがって温暖化ではなく、これから寒冷化が始まるでしょう。

Q:気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の見解をどうみますか?
丸山:今後の温暖化はないし、CO2の温室効果は微小です。IPCCの見解の歪みは評価報告書を出すたびに大きくなり、昨年の第四次評価報告書では、温室効果ガスとしてCO2の十倍以上の効果を持つ水蒸気の記述が消えました。そして「過去一千年の気候は一定だ」と論じています。しかし地球の気温は変動を繰り返している。この説はスペンスマークが提案しましたが、「生成のメカニズムがわからない」とIPCCは却下しました。

Q:誤解の原因は?
丸山:組織ができると、構成員は個人の幸せを求め始めます。IPCCも健全な目的で生まれたが、CO2主犯説で食っていこうという方針を守り始めた。「CO2は固定できる」「コンピュータを使えば解決策も出せる」と訴えれば研究費も下りる。科学はしばしば政治に利用されます。「地球のために」というのは受けが良い。アル・ゴアはそれを知っています。組織がある方向に走り出すと止まれない。社会が科学の質を変えてしまう。ガリレオやダーウィンへの迫害と同じ現象です。(中略)

Q:エネルギー危機に関する覚醒効果はありました・・・
丸山:確かに低炭素社会に移行する必要があります。それは温暖化するからではなく、人口増に耐えられないからです。2050年に世界人口は百億に近づき、人類史で最大の悲劇の時代が始まるでしょう。60億以上の人口を現在賄えるのは化石燃料という貯金を食い潰しているからです。石油はどんどん掘りにくくなる。それ以前に食糧が足りなくなる。人口を計画的に減らして食料を増やす必要があります。日本は諸外国に省エネの技術援助を行い、人口減少社会のお手本となるべきです。地球温暖化の狂想曲に踊らされれば本質を見誤ります。

【筆者comemmnt】▼丸山氏の言う「『化石燃料』という貯金を食い潰している」「人口問題」は確かにその通りであると思う。ただ前半の「1940年から80年に気温は下降しており」「これから寒冷化が始まる」というところは俄かには信じられない・・。もし、ここら辺りのこと詳しい方がいらしたら教えて頂ければ幸甚です。お便り(e-mail)をお待ちしています。m(_ _)m

■さて、今日の続いての話題は、先週の金曜日の新聞で、米国の話ですが、マイクロソフト社(以下MS社という)がヤフーに対して公開買い付けのオファーがあった旨ニュースになったことをご存知の皆さんも多いかと思います。
▼ヤフー・ジャパンも米国ヤフーの関連会社として、今日の株式市場で大量の買いが入り、前日比4000円高のストップ高で市場が終始しました。このビッグ・ニュースの最大の原因は、インターネット検索サイト市場でのグーグル社の伸張が著しく、現在同市場1位。これに危機感を募らせた同3位のMS社が同2位のヤフーとの合併を申し入れたという次第です。
200829▼偶然だと思いますが、本日発売の週刊ダイヤモンドに「年収が20倍増えた仕事術『グーグル化』知的生産革命」という記事がありましたので、早速読んでみました。ご参考となると思いましたので、面白いところを抜粋してご覧に入れます。「グーグル」はやはり、優れもの!?

【Step1 グーグルを使い倒す!】
▼(前略)四十代以上の皆さんは、まずはグーグルの使い方から学んだほうがいい。グーグルを使えば、(中略)インターネット上に転がっている膨大な情報が瞬時に手に入ることは確か(中略)。知的生産術の最初の一歩だ。まずはグーグルとヤフーの違い、そして検索術の基本をたたき込もう。
▼(中略)ヤフー設立が1995年、グーグルが1998年。(中略)ヤフーの特徴は、一言で言えば既存メディア・コンテンツの整理・編集力にある。あらゆる情報を収集し、整理し、編集することで、ユーザーが見やすい様に工夫されてある。(中略)かたや、(中略)「知の再生産」を繰り返すのがグーグルのビジネスモデル。だからこそ、「知的生産力を高めたいなら、グーグルを使うべき」(勝間)。(中略)知的生産力を上げるため(中略)情報を収集し、整理し、それを積極的に発信することで、自分自身がグーグルの様な情報収集拠点になる、というのが(中略)「グーグル化」の含意でもある。
▼初心者は、まず検索から初めてみよう。(中略)
▼グーグルの「醍醐味」Gmailを使おう。(中略)
【Step2 1%の本質を見極める!】
▼世の中に氾濫している情報の99%はゴミの山(中略)。情報整理の技法を学ぼう。
▼その基本技術として最も重要なのは①「フレームワーク力」。これは、目的に沿って整理された思考の枠組みを指す。(中略)「戦略の3C」「マーケティングの4P]と呼ばれるものだ。(中略)
▼他人のいいところはどんどん取り入れる。(中略)例えば、環境技術を搭載した新車の値付けをどうするか。環境問題に対する関心が高まっているのは確かだが、さりとて高い価格設定で本当に売れるのか。このあたりは、フレームワークだけでは、なかなか整理がつかない。こんなとき、頼りになるのは②「ディープスマート力」である。「経験からくる勘」と言い換えても良い。(中略)現実の意思決定は常に合理的思考に基づいて割り切れるものではない。最後は勘とういう局面も多いのだ。(中略)フレームワーク力、ディープスマート力についで重要なのが③「失敗力」である。失敗することで何が失敗でないのか絞り込むことができるからだ。(中略)フレームワーク力とディープスマート力でできるだけ本質に近づけておき、少ない失敗回数で1%の本質を探り当てる努力をしよう。
▼情報整理に関しては、④「ベストプラティクス」を学ぶこともお勧めだ。これは、ある分野で成功している人の方法を学び、自分に取り入れられるものは取り入れ、1%の本質を見極めるための道筋をつくってしまおうという考え方である。(中略)(【筆者注】「ベストプラティクス」とは、よく言うことばで「いいとこ取り」のことか・・)
▼不必要な情報を⑤「捨てる」技術。(中略)「自分の得意分野に集中し、自分の価値を出せないところはあえて捨てる」こと。(中略)
▼情報源はインターネットだけではないし、むしろネットだけに頼るべきではない。⑥「本をよもう」。街に出よう。
【Step 3すきま時間を上手に使う】
(省略)
【Step4 人脈づくりの基礎技術】
▼①情報収集、②情報整理する思考術、③すきま時間の活用、に続き、④「情報発信」の技法を学ばなければならない。
▼カネは天下の回りもの、と言われる。使えば使っただけ、大きく殖えて還ってくる。貯め込むだけでは、決して殖えない。(中略)情報を貯め込み、整理し、そしてどんどん発信する。それこそが、最大の知的財産といえる人脈づくりの決め手なのだ。
▼千里の道もブログから。メールもひと工夫を。(中略)「ブログを書くということは、路上ミュージシャンと同じ。内容が魅力的でないと人が集まってこない。(中略)
▼ネットコミュニティの活用も有効だ。(中略)「一つや二つくらいは自分がリーダーとなって運営してみる」ことを勧めたい。(中略)とにかく、情報を発信しなければなにも始まらない。やってみなはれ、だ。(中略)人脈とは、ネットの構造と極めてよく似ている。膨大なノード(人)が無数のリンク(人間関係)で結ばれ、多数のリンクを獲得するハブ(人間関係の要となる人物)がある。(中略)情報発信を根強く続けていけば、いずれ人脈づくりの「ハブ」になれる・・。

【筆者comment】▼小生も、グーグルはこの【2637の会】を立ち上げる以前から確り活用させて頂いている。大変便利な検索サイトである。ブログも然り。【2637の会】は、まさに「ブログ」だ。ただ、グーグルの「Gmail」は使っていなかったので、今日、早速開設してみた。が、その効用の是非についてはこれからじっくり考えていきたい。
▼なお、詳細をお知りになりたい方は、添付写真にある様に、週刊ダイヤモンド2月9日(今週)号を購入の上ご覧下さい。(笑)

■続いては、また「青春のうた」である。今、小生の手許にある作品は1970年代前期⑭。懐かしい曲を1曲ご紹介したい。
19722▼曲目は、ビリー・バンバンの『さよならをするために』である(添付写真ご参照)。この曲は、ヒットチャート1位、70万枚以上を売上げ、数字的には、彼らの代表作「白いブランコ」を上回るヒットを記録した。もともとは、TVドラマ石坂浩二・浅岡ルリ子主演『3丁目4番地』の主題歌としてつくられたもの。1972年2月発表。作詞は石坂浩二、作曲は坂田晃一が担当。では、どうぞ・・
【解説】『3丁目4番地』は、1972年日本テレビ系列で放映されたホームドラマ。下宿屋を経営する森光子とその子供に浅岡ルリ子と岡崎由紀、下宿人役で石坂浩二、原田芳雄などが出演した。哀愁あるメロディーが印象的な佳品である・・。

 過ぎた日の 微笑みを
 みんな 君にあげる
 ゆうべ 枯れてた花が
 今は咲いているよ
 (・・以下略・・)

【後記】■今日の締め括りは、久し振りに、「バルダザール・グラシアンの『賢人の知恵』」。今日は「2.駆け引きについて」と、「7.成功について」から夫々3題ずつ、合計で6つご紹介します。『権謀術数』と『誠意』が同居する「グラシアンの教え」人間という生き物は奥が深い・・か。(笑)

2.駆け引きについて
(56)貸しをつくる : 
▼すぐれた策略家ならばよくわかっていることだが、先に願いごとをきくことが、その相手に恩義を売ることになる。今すぐ見返りがなくても喜んで親切にすることは、あなたの真価を物語り、相手も本当にありがたいと思うだろう。
▼これは、貸し借りの釣り合いをとるための絶妙な手口だが、使うのは信用のおける人だけに留めておくこと。自分本位な人は、先に親切にされることを足枷になるとしか考えないからだ。
(57)相手の弱点を探す : 
▼人の考えを変えたければ、その人の弱点を探すこと。相手の心の奥深くに辿り着きたいなら、力づくではなく頭を使うのだ。
▼誰でも、快楽か名誉どちらかへの願望があるもの。相手を動かしている強い願望がわかれば、その相手の考えを変える鍵はもう手にしたも同然だ。この世に聖人は少なく、大抵の人は俗人だ。相手が夢中になるものが何かわかれば、そこが攻め所。一番の願望は弱点でもあるからだ。
(58)秘密を上手に聞き出す : 
▼人を言葉で攻め立て、その胸中の秘密を白状させるコツがある。相手の本心や意図を巧妙に探り、何気なく口にしたことでも抜かりなく問い質し、漠然とした疑念を表明するのだ。そうすれば、相手が心の奥深くに隠していることさえ探り出すことができる。
▼この方法を使えば、相手の口から秘密はふと漏れ、本人の正体が明らかになる。他の方法では絶対に心を明かさない様な場合でもだ。疑惑の目で見ることは、隠された情報の鍵をこじあける一番の方法だ。学ぶ人は、教える人を挑発する技をみにつけるといい。節度を保った討論は一番効果的な学習方法だ。

7.成功について
(187)努力する : 
▼人生の目的は、自分の歩むべき道を見つけて、できるかぎり完璧な人間になろうと努力することにある。
(188)こつこつ働く : 
▼「勤勉さ」と「才能」。その両方がそろえば頂点に達することができるが、どちらかを選べといわれれば、才能は普通でも勤勉な人の方が、頭は切れても怠惰な人よりも多くのことを成し遂げる。
▼名声は骨身を惜しまず働いて手に入れるもの。たいして労力のかかっていないことは価値も低い。高い地位に到達できないのは、たいてい単にこつこつと働く意欲に欠けているからだ。才能や能力が足りないわけではない。
(189)善意をもって取り組む : 
▼知識と善意をもって努力すれば、どんなことからも建設的な結果が得られる。一方で才能や能力に悪意があれば、とんでもない結果になる。悪意はそれだけで有害であり、知識と結託すればさらに何をしでかすかわからない。善悪の観念なく学問を利用すれば、とんでもない人間がどんどん増えるだけだ。

【筆者comment】▼『賢者の知恵』・・、皆さんはどのように感じられましたか?
▼小生は、「7.成功について」で、(187)努力する、(188)こつこつ働く、(189)善意をもって取り組む、という言葉が大変好きである。小生の好きなことば、3つあげろと言われれば、「努力」「誠実」「愛(アガペー)」と答える。
では、また・・。(了)

2008年2月 1日 (金)

【時習26回3-7の会 0152】~「2月4日:『立春』」「2月1日:『河東碧梧桐』命日」「15年連続日本一を続ける『三河港自動車輸入台数』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0152】号をお送りします。

■さて日付は変わり、今日は二月(如月)一日・・。

■2月23日(土)開催予定「『時習26回35周年旅行』打合せの会」の件、【2637の会】の皆さんの参加状況は如何ですか? 今のところ【2637の会】の皆さんのreactionはない様ですが・・。2月10日までに大谷さん宛にmailを差し上げて下さい。宜しくお願いします。m(_ _)m

■ところで、週明け2月4日は『立春』。暦の上での「春」はやはりまだまだ寒い日が続く。そうは言っても、部分的とは言え「春の息吹」を森羅万象の中に見出すことができ、その度、心は何故か晴れやかになる。これから「早春」に因んだ俳句を幾つかご紹介する。次にあげる3句は、いずれも春まだ早く冷気が肌を刺す雰囲気の中で詠まれたものである。

 立春の 竹一幹の 目覚めかな  野澤節子

 万燈(まんどう)の またゝき合ひて 春立てり  沢木欣一
 (【万燈】仏前にともす多くの燈火)

 (こ)の間(ま)とぶ 雲のはやさや 春浅き  三好達治

▼これらの秀句を踏まえ、小生も俳句と短歌を稚拙ながら詠んでみた・・。

 早春の 光注し込む 窓辺かな  悟空  

【 春立つ日詠める 】
  (き)ぬ春を 冷たき風が 遮るも
        円
(まろ)き光が そっと囁く  悟空


【解説】▼時節は『立春』。春が来た筈なのに、冷風がその春の到来を遮ろうとする。それを、安らかで暖かい陽の光が「春が来たよ」とそっと囁いて教えてくれる。 まるで、イソップ物語の「北風と太陽」
の様に・・。

【本歌】
  【 秋立つ日よめる 】
    秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 
        風の音にぞ おどろかれぬる
                    藤原敏行朝臣

       〔古今集 巻第四 秋歌・上 (169)〕

▼さらに、「春」に因んだ俳句を二つ。これらになると陽光の量も増し、気温も大分暖かくなり春めいて来た頃の作品・・

 紅梅の りんりんとして 蕾かな  杉田久女

A080127a【解説】紅梅の蕾が確り膨らみ、たわわに、そして凛として枝いっぱいに広がっている姿は実にあでやかで美しい。(添付写真(2枚)は「向山梅林公園の紅梅」です。(1月27日撮影))

 紅梅や 枝々は空 奪ひあひ  鷹羽狩行

【解説】季節は仲春(旧暦二月)、紅梅が枝々いっぱいに真っ赤な花を咲かせている。その花々は梅の木全体に広がり、互いに日の光、即ち空を奪い合っている様にも見える。

 春暁や ひとこそ知らね 木々の雨  日野草城

【解説】春の早朝、目覚めた床で耳を澄ますと、外は雨の様だ。微かな雨音を聞き乍らまだ誰も気付かず眠っているに違いない。時節は、『立春』から『雨水』→『啓蟄』→『春分』→『清明』→『穀雨』へと、『春』は段々と深まって行く・・。

Photo44Photo_2■今日2月1日は、俳人河東碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873(明治6)年2月-1937(昭和12)年2月1日)の命日。碧梧桐は、日本の俳人・随筆家。
▼愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。本名・秉五郎(へいごろう)。少年の頃は正岡子規の友人で海軍参謀秋山真之を「淳さん」と敬愛していた。
1888年(明治21年)伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1889年(明治22年)帰郷した正岡子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。
1893年(明治26年)京都の第三高等学校入学。第二高等学校に編入の後、中退。
1902年(明治35年)子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。1905年(明治38年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始め、1906年(明治39年)より1911年(明治44年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。その時の紀行文が「三千里」である。
1933年(昭和8年)3月25日還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。1937年(昭和12年)1月腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日65歳にて永眠。墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されている。〔以上、出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』〕
▼『五七五調の形にとらわれない【新傾向】俳句』という形は、碧梧桐が俳句を始めた初期段階から表れている。以下にあげる彼の代表作は所謂『字余り』の句である。勿論、秀句であることに変わりはないが。

 赤い椿 白い椿と 落ちにけり  碧梧桐
* 
 【解説】▼子規が取り上げ、印象明瞭を好む句の一例としたので、碧梧桐の代表句となった。1896年(24歳)の作。椿の木のある庭に赤い椿の花と白い椿の花が落ちている。ただそれだけの俳句だが、その場面をその儘写真に撮りアルバムに貼った様に、読者の頭にすっと映し出される。写実性の高い句。    

 春寒し 水田の上の 根なし雲  碧梧桐

【解説】▼「春寒し」は、「水田」と「根なし雲」によって、一気に真実味を帯びた。水の張られた春田の上に浮かぶ雲は、どこへ行くともしれない根なし雲。春寒い風に流れる雲の身の上も哀れである。水田の水も風が水皺(しわ)を作ってまだ寒そうである。

▼さて、碧梧桐に対して、虚子についてである。

 春風や 闘志抱きて 丘に立つ  虚子

【筆者注】▼この俳句について、虚子の孫娘、稲畑汀子(昭和54年虚子の次男年尾の後を受け、「ホトトギス」主宰になる)が彼女の著作「虚子百句」で次の様に述べているのでご紹介する。

 この句は大正2年2月11日、三田俳句会において作られた。虚子39歳の時である。
 この句を理解するためには、どうしても当時の俳句界の潮流に触れなければならない。
 明治42年から44年にかけての西日本を行脚する「続三千里」の旅を終え意気軒昂な碧梧桐は当時の自然主義文学思潮を取り入れ、子規の写生を離れ現実描写に徹することで俳句の新天地を切り開こうとした。(中略)
 44年の碧派機関紙「層雲」の創刊が新傾向運動のピークであった。ところが、彼らの俳句革新運動は、あまりにも性急でとどまるところを知らず、俳句の形式破壊にまで進んでいった。明治44年一碧楼は無季、非定型を主張、大正2年井泉水は自由律俳句を唱え、大正3年碧梧桐は井泉水と袂を分かち「層雲」を去って一碧楼と「海虹」を創刊。(中略)
 思えば明治末から大正初めにかけては俳句界激動の時代であった。
 虚子は明治40年朝日新聞に漱石が入社した後も「ホトトギス」を文芸誌たらしめんと三年間小説に専念するが、発行部数はどんどん減っていった。ついに虚子は明治44年において「本誌刷新に就いて」を書き、「ホトトギス」の大革新を行い明治45(大正元)年7月号から雑詠を再会する。
 虚子は後年『進むべき俳句の道』の序文で次のように述懐している。

「聞くともなしに聞く俳句会の消息は私をして黙止するに忍びざらしめるものがあった。そこでホトトギス誌上に俳句に対する短い所感を並べ始め、同時にかつて一度志して果たせなかった雑詠(【筆者注】詩歌・俳句で、題を決めないで自由に詠むこと。また、その作品)を再考して、最初の希望通り我等の進むべき新しき道を実際的に見出して行こうとした」

 虚子の小説路線には背を向けたがそうかと言って碧梧桐の新傾向にはついて行けず、作品発表の場を得られなかった一般の俳句愛好家達は渇いた人が水を求めるように「ホトトギス」雑詠への投句を始めた。虚子は読者の熱い期待の中に立って初めて自分の進むべき俳句の道を教えられたとも言える。「自分こそ子規によって選ばれた唯一の後継者なのだ」というプライドと自負心が戻ってきた。虚子は精根を込めて雑詠の選に打ち込み、作家を発掘していった。(中略)虚子は大正3年から始まる新傾向運動の分裂を見通していたのかも知れない。
 この句はまさにこのような時に作られたのであった。
 鑑賞する場合、「春風」という季題が動かせない。春風駘蕩(【筆者注】春風がのどかに吹くさま)という言葉があるように春風はのどかに吹く風のイメージである。闘志ということばの持つ激しさを内に秘め、暖かく穏やかに吹く春風に包まれて丘に立つ虚子。そうであればこそ人々が心豊かに集うことができたのだと思う。しかしのどかな春風は、実は冷たく厳しい冬を越えて吹くのである。

▼そして、昭和12年、碧梧桐への弔句は、次の様に前書のあとに続く・・

「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」

 たとふれば 独楽(こま)のはぢける 如くなり  虚子

【解説】▼虚子は俳壇復帰後、着々と地盤を固め、「ホトトギス」を繁栄させたが、碧梧桐は作品上の行き詰まりを覚え、不遇な晩年を過ごした。

2007■続いては、15年連続日本一を続ける『三河港自動車輸入台数』である。29日付の東愛知新聞に掲載された記事から抜粋してご報告致します。
▼名古屋税関豊橋税関支署は1月28日、2007年「三河港貿易概況速報」を発表。それによると、輸出総額は過去最高の3兆5804億円(前年比7.7%増)で、10年連続の全国7位を記録。輸入総額は5088億円(同7.0%減)で、昨年より2つ順位を下げ25位。輸出入総額では全国9位(同5.6%増)。
▼メインの自動車では、輸出数量が143万3181台で10年連続の全国2位、金額は3兆4437億円で三年ぶりに2位へ(1位は共に名古屋)。輸入では、台数が11万4334台で15年連続1位、金額でも3487億円で1位を堅持。輸入の全国シェアを見ると、数量が前年比6.8ポイント減少し、38.3%にまで落ち込んだ。シェアが40%を切ったのは8年ぶり。千葉や苅田(かんだ(福岡県))の伸びが顕著なことが要因。因みにピークは2001年にシェア49.2%を記録している。
【筆者comment】▼三河港が自動車輸出入で全国2位と1位にあるのは、輸出がトヨタ自動車田原工場のレクサス、輸入がフォルクスワーゲン・ジャパン社のフォルクス・ワーゲン、アウディ車等の輸入による。因みにトヨタ自動車田原工場の工業出荷高だけで2兆円を超える。これは政令指定都市浜松市の工業出荷高総額に匹敵。豊橋市、同1.1兆円、静岡県湖西市、同1.2兆円である。これからみても、トヨタ自動車の高級自動車レクサスの付加価値の高さを改めて認識させられる。

【後記】■今日の締め括りは、梅尽くしと参りましょう。西行が「梅」を詠んだ歌を二首ご紹介したい。いずれも出典は「山家集」。

 「嵯峨に住みけるに、道を隔てて房(ぼう)の侍りけるより、梅の風に散りけるを」

 (ぬし)いかに 風わたるとて いとふらん
           よそにうれしき 梅の匂ひを  西行


【意】▼僧房の主はどんなに厭わしく思っていることだろう、そこの梅の花を散らす風が吹きわたることを。道を隔てた自分の所へはそれによって梅の香が運ばれて来て嬉しく思われるけれど。「嵯峨」=洛西。西行は久しくここに住んだ。「よそ」=房の主より見て他所である西行の庵をいう。

 「庵の前なりける梅を見てよみける」                                             *
 梅が香を 谷ふところに 吹きためて
       入り来ん人に 染
(し)めよ春風  西行


【意】春風よ、お前の運んで来る梅の香を、自分の庵のある谷ふところに吹きためて、訪れて来る人の衣に染み込ませてくれ。「谷ふところ」=山に囲まれて懐(ふところ)の様になった谷間。「染めよ」=染み込ませよ。

▼西行の歌は、情緒があってほんと、素晴らしい・・。 では、また・・。(了)

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