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2008年3月の7件の記事

2008年3月30日 (日)

【時習26回3-7の会 0165】~「時習26回生の訃報」「30日:『ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ』誕生日」「旧暦二月十六日:『西行』の入寂」「繚乱す『スモモ(李)の花』と『桜の花』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0165】号をお送りします。

■さて、29日付の「不老荘」掲示板をご覧になった方はすでにご存知のことと思いますが、時習26回同期の訃報が一件ありましたので、お知らせします。掲示板の内容をそのまま転記します。報告者は、旧【3-6】の山本Y和君です。

【同級生の訃報】投稿者:6組 山本Y和  投稿日:2008年 3月29日(土)10時49分42秒

 豊橋市役所に勤務していました同級生 小野田T宏君(9組)が3月23日ご逝去されました。ガンだったそうです。
通 夜:3月24日(月)午後7時~ 葬儀会館 ティア豊橋南
告別式:3月25日(火)午前9時30分~ 同所
                        にて仏式で営まれました。
私自身、高校時代、職場を通して一緒になったことがなく、同級生と気付くのが遅れ、皆様へのご報告が遅れましたこと、誠に申し訳ありませんでした。
ご冥福をお祈りいたします・・・。
【筆者comment】▼小生も、小野田君は名前くらいしか存知上げないのですが、謹んでご冥福をお祈り致します。(合掌)


■さて・・、【2637の会】についてです。
▼8月16日の同窓会まであと、139日です。待ち遠しいですね。因みに、北京五輪開会式までは131日。
 皆さんのお便りをお待ちしています。何でも宜しいですから、近況でもお伝え頂ければ有り難いです。それから、【2637の会】の皆さんにお伝えしても良いところと、伝えたくないところは、小生宛のmailにてその旨教えて頂ければ、如何様にも対応させて頂きます。
 皆さんのお声をお聞かせ下さい。m(_ _)m


0017■さて、今日30日は、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(添付「ゴッホ『自画像』00」ご参照)の誕生日です。そこで今日は、ゴッホの評論としては定評のある小林秀雄の作品から三つ、その抜粋をご紹介したいと思います。ご覧下さい。
 ゴッホは、37歳で自分の命を絶つまでの直前3年間に満たない期間(1888年02月~1890年07月)に、彼の代表作となる色彩の豊かな作品群が集中的に作製されている。まさにその作品の多さは驚異的である。またゴッホが罹患している精神病について、極めて興味深いのは、彼がそのことを彼自身が確り認識しいることだ。そして彼が、その病と闘い続け自死を選ぶというところだ。周囲の誰もが彼を狂人として理解を示さなかった中で、ゴッホの天才をいち早く見抜き、唯一人敬愛の念で献身的に尽くした弟のテオ・・(勿論、テオ以外にもテオの新妻ヨハンナ(通称「ヨー」)や、タンギー親爺やベルナールという理解者はいたが)・・。 その辺りの経緯について、今日は考察してみたい。
 偉大な印象派画家ゴッホに経緯を評しつつ、彼の一生について、その略歴と、次いで彼について、小林秀雄が書いた「ゴッホの手紙」「近代絵画~『ゴッホ』」「ゴッホの病気」という傑作評論を読みながらご紹介したいと思います。抜粋と言っても、三作品を一挙にご紹介しますので、ちょっと長い文章になりますがお赦し下さい。小林秀雄の評論は、難しいので、簡単に纏めにくいですね。過日、中原中也をご紹介して以来、久し振りに小林秀雄の作品を読んだのですが、彼の評論を読み進む度に、小生の脳ミソがチリチリと火花を散らす様な感じがしました。まるで衰えていたシナプスが再生するかの様に・・。勿論、簡単に纏められない小生の読解力の乏しさが主因ですが・・。(笑)
 尚、ゴッホの絵は沢山掲載するため、一部を除き画面を小さく(=容量を少なく)してあります。ご了承下さい。また、この会報【0165】号でご紹介しきれないゴッホの絵画作品を、ブログに掲載しましたので、末尾記載の【2637の会】URLにアクセスしてご高覧下さい。それではごゆっくり『ゴッホの世界』をどうぞ・・。

【略歴】
▼1853年03月30日 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh) は、父、牧師テオドルス(Theodorus,1822-1885)、母、アンナ(Anna Carbentus,1819-1907)の次男として、オランダ、ブラバント地方フロート・ズンデルト(Groot Zundert, Brabant Holland)に生まれた。
 父は1849年同地に赴任。1851年に結婚。翌年長男を得たが死産。故に画家ヴィンセントは実質上の長男。
 1857年05月01日 次男テオドルス(Theodorus) (通称テオ)誕生(添付写真ご参照)。
Photoテオは生涯に亘り、兄ゴッホに精神的、物質的支援を与えた。後、長女アンナ、次女エリザベト、三女ウィルヘルミーネ、三男コルネリスが生まれた。
 1864年10月01日 フロート・ズンデルトの小学校卒業。後、フェンベルヘンの学校で、仏、英、独語を学ぶ。
 1866年09月 ティルブルフの中学校に進む。
 1868年03月 同校を中退。
 1869年07月 グーピル商会ハーグ支店に就職。グーピル商会は、パリに本店、ハーグ、ブリッュセル、ロンドンに支店を置く大美術商。
 1873年01月 弟テオ、グーピル商会のブリュッセル支店に就職。
 1876年04月 ゴッホにグービル商会解雇を通告。ゴッホはエッテンへ戻る。
 1878年07月 大学入学を断念し、エッテンへ戻る。
 1879年08月 ボリナージュのクエムへ。貧困と絶望の中、鉱夫達の間で生活。
 1880年07月 テオとの文通を再開。
 0118881028 ゴッホは、ここで画家になる決意を表明。猛烈な素描の練習を開始。
02_1890723Photo_2 1886年03月 ゴッホはパリ・ラヴァル街のテオの住居に転がり込む。当1885a時テオは、グーピル商会のモンマルトル通りの支店の支配人。
1887a1887a_2Bridge_in_the_rain1887a 1887年02月頃 「ル・タンブラン」で日本の浮世絵版画の展覧会開催。ゴッホは、浮世絵版画の模写(添付写真ご参照)。モネやピサロの作風 、ドガやロートレックの作風、さらにはシニャックを通じて知った 新印象派の点描技法等、多くのものを吸収。
 1888年02月 アルル(Arles)に到着。

1888a1888a_21888a_3  同年05月 ラマルティーヌ広場に「黄色い家」(添付写真ご参照)を借り、アトリエ兼住居としての整備。
011888a021888a031888a  同年06月 この頃の作品は風景画がほとんど。アルルのはね橋(添付写真ご参照)、春の果樹園風景(添付写真ご参照)、夏の麦畑の風景(添付写真ご参照)が主。
011888Farmhouses_in_a_wheat_field_near_arOrchard_with_peach_trees_in_blossom  同年07月 この頃から肖像画が増加。以後、アルルでの彼の友人達、郵便局員ルーラン一家(添付写真ご参照)、「カフェ・ド・ラ・ガール」の経営者であるジヌー夫人(アルルの女)等がカンヴァスのモデルの登場。
Wheat_field_with_sheaves1888a
Wheat_stacks_with_reaper1888a
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  同年10月23日 ゴーガンがアルルに到着。二人の共同生活は、強い個性が衝突。
1888a_51888a_61888a_70318888a1888a_81888a_9
1888a_10021888a_21889a_2   同年12月23日 ゴーガンとの激しい喧嘩の後、彼は自分の 左耳の下部を切り取り、翌朝、意識不明のままアルルの病院入院。
 1889年01月07日 退院。
  同年02月07日 再び発作。再入院。
18890417Photo_3  同年04月17日 テオはオランダで、ヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)(添付写真ご参照)と結婚。
  同年05月08日 サン・レミの精神療養院(添付写真ご参照)へ。同院の建物の中にゴッホは、自室の他に制作室を与えられた。
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1889a_51889a_61889011889a_2021889a   同年06月 この頃には、戸外で自由に制作することが許された。夏の日差しの中で彼は、オリーブ園、麦畑、糸杉(添付写真ご参照)などをモティーフとする傑作を次々と制作。彼の生涯の中でも最も充実した創作期。作品数も非常に多い。
  同年07月10日頃 激しい発作に襲われ、7月一杯錯乱状態が続く。
1889a_8  同年09月 この頃、ゴッホは他の画家の作品(ミレー(添付写真ご参照)、レンブラント、ドラクロワなど)を模写し制作再開。
 1890年02月~4月 発作により制作中断。
  同年03月20日 開催の第6回「アンダパンダン展」に出品された10点のゴッホの作品は大好評を得る。
  同年05月 オーヴェール・シュル・オワーズ(Auvers Sur Oise)に到着。精神科の医師ポール・ガッシェを訪問。
1890  同年07月06日 パリを訪問。オーリエや、ロートレックに出会う。が、当日中にオーヴ1890_2ェールに戻る。その後、「烏のいる麦畑」(添付写真ご参照)や「ドービニーの庭」(添付写真ご参照)を制作。
  同年07月27日 自らの胸部に向けてピストルを発射。ガッシェが呼ばれ、翌朝パリからテオがかけつける。一旦、様態は持ち直したかに見えたが、夜に入って悪化。
  同年07月29日 午前1時半、 テオに看取られて死去。オーヴェールでの葬儀には、テオやガッシェの他、011887aタンギー親爺(添付写真ご参照)、ベルナール、ピサロ等が参列。
 1890年10月 テオは精神に錯乱。
 1891年01月25日 ユトレヒトの病院で没。
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201952【ゴッホの手紙】(昭和27年6月、新潮社刊)(添付写真ご参照)(【筆者注】この作品は次の様に始まる・・)
1890aa▼先年、上野で読売新聞社主催の泰西名画展覧会(【注】昭和22年3月10日~25日上野の東京都美術館で開催。「泰西」は西洋諸国の意。)が開かれ、それを見に行った時の事であった。折からの遠足日和で、どの部屋も生徒さんが充満していて、喧騒と埃とで、とても見る事が適わぬ。仕方なく、原色版の複製画を陳列した閑散な広間をぶらついていたところ、ゴッホの画の前に来て、愕然としたのである。それは、麦畑から沢山の烏が飛び立っている画(添付写真ご参照)で、彼が自殺する直前に描いた有名な画の見事な複製であった。(中略)ただ一種異様な画面が突如として現われ、僕はとうとうその前にしゃがみ込んで了(しま)った。(中略)
 ゴッホが、パリからアルルに着いたのは1888年の2月であった。(中略)
 七月廿一日の午後、オーヴェルの丘で、一通行人は、木に登っているゴッホの姿を見た。彼が「とても駄目だ、とても駄目だ」と言っている声を聞いたという。自殺の現場を見た人はいない。彼は心臓を狙ったが、弾は外れた。彼は下宿の自分の部屋まで辿りつき、寝台に倒れた。食事を知らせに二階の部屋に上った主人が、これを発見した。急報によって、ガッシェは、息子のポールと馳(は)せつけたが、もう手段はなかった。(中略)彼(【注】ゴッホ)は極めて平静な様子で、ガッシェに煙草を求めた。(中略)ゴッホは、一晩中一睡もせず、絶え間なく煙草をのみ、一と言も発しなかった。(中略)
 翌日、勤先きで報せを見て馳せつけた弟に看取られ、廿九日の午前一時半、ゴッホは死んだ。最後の言葉は「さてもう死ねそうだよ」という言葉だった、とテオからの手紙にあった、とボンゲル夫人(【注】テオの妻)は記している。(中略)遺骸はオーヴェルの共同墓地に埋葬された。
 テオより母親宛の手紙の一節・・「(中略)この悲しみは続くでしょう、私の生きている限り屹度(きっと)忘れることが出来ますまい。唯一つ言える事は、彼は、彼が望んでいた休息を、今は得たという事です。・・・人生の荷物は、彼にはあんまり重かった。併(しか)し、よくある事だが、今になって皆彼の才能を讃(ほ)め上げているのです。・・・ああ、お母さん、実に大事な、大事な兄貴だったのです。」
 兄の自殺という荷は、テオには重過ぎた。彼はオランダに帰省すると間もなく発狂し、ユトレヒトの精神病院で翌年の一月に死んだ。

 私は、こんなに長くなる積り(【注】単行本で167頁)で書き出したわけではなかった。それよりも意外だったのは書き進んで行くにつれ、論評を加えようが為に予め思いめぐらしていた諸観念が、次第に崩れて行くのを覚えたの事である。手紙の苦しい気分は、私の心を領し、批評的言辞は私を去ったのである。手紙の主の死期が近付くにつれ、私はもう所謂「述べて作らず」の方法より他にない事を悟った。読者は、これを諒とされたい。(中略)さて次の引用は、葬式の当日、遺骸のポケットから出て来たテオ宛の手紙の最後の部分である。
「さて、僕の仕事の事だが、僕は仕事に命を賭している。そして既に僕の理性は、その中で半ば崩壊した。それはそれでよろしい。だが、君は、僕の知る限り、そこいらにいる商人どもの仲間ではない。君は未だ人間らしく行動する方を選ぶ事が出来る、と僕は思う。そうではないか」(No.652【注】№はゴッホの手紙の通数番号。ゴッホは短い一生の中で7百通近くの手紙を残している。驚くべき通数である・・。(嘆息))

【近代絵画~『ゴッホ』】(昭和33年4月)から(人文書院刊)
▼ゴッホが、絵のほかに、沢山の書簡を遺して死んだのは、よく知られている。私はかつて、彼の書簡全集を読んで、非常に心を動かされ、この画家の生涯について、評伝的な文を書いた事がある(【注】上記「ゴッホの手紙」のことを言っている)。当時、私は、ゴッホの絵を、複製を通じてしか知らなかったが、そんな事を気にする余裕はなかった。(中略)
 ゴッホは、二十七歳の時(【注】上記【略歴】1880年07月の欄ご参照)まで、一度も画家になろうなどと思った事はなかった。画家生活と言っても、弟を除いた誰も彼を画家と認めなかったし、絵の一枚も売れない絵かきを、職業画家とも言えぬわけだが、そういう画家生活も、十年しかなかったのであり、その三分の二は、独学による暗中模索である。後世を驚かす様な絵を描いた期間は、僅か三年。これだけでもかなり異様な事である。絵は、ゴッホを駆り立てた大きな飢渇が強いた最後の手段であったが、どういう目的の為の手段であったかを、恐らく彼は明答出来なかったであろう。(中略)
 ゴッホが、大色彩画家として現れるのは、アルル以後の制作によってである。それは、誰も知る通りだ。彼がアルルに来たのは、1888年の2月、春を告げる西北風(ミストラル)が荒れ狂い、雪は、見る見る消えて、巴旦杏(アーモンド)の花が咲く。彼の色彩の目覚めは、まるで季節に強迫される様に起った。(中略)
 ゴッホという人間を恐らく最もよく理解していた弟のテオは、兄を評して「彼は彼自身の敵であった」と言っている。「まるで彼のなかには二人の人間が棲んでいる様だ。優しい細かい心を持った人と利己的な頑固な人と。二人は交(かわ)る交(がわ)る顔を見せる」とテオの言う通り、結末は一人が一人を殺す事に終ったのである。テオは、ゴッホの画家としての天才を、最も早くから確信していた人だ。
 かつて、ゴッホについて書いた動機となったものは、彼が自殺する直前に描いた麦畠の絵(「烏の群飛ぶ麦畑」(添付写真(既出)ご参照))の複製を見たときの大きな衝撃であったが、クレーラー・ミューラーの会場で実物を見た。絵の衝撃については、心の準備は出来ている積りでいたが、やはりうまくいかなかったのである。色は昨日描き上げた様に生ま生ましかった。(中略)この絵の生ま生ましさは、堪え難いものであった。これはもう絵ではない。彼は表現しているというより寧ろ破壊している。(中略)この絵が、既に自殺行為ではあるまいか。(以下略)

【ゴッホの病気】(昭和33年11月『芸術新潮』に発表)
▼(前略)
 ゴッホは、サン・レミイの精神病院に監禁され、病室の窓ごしに見える病院の石垣で区切られた麦畠を、何枚も描いています。(中略)その当時、弟宛の手紙のなかで、麦畠を死の影が歩いて行くのが見えると言っている。少しも悲しい影ではない、死は、純金の光を漲(みなぎ)らす太陽と一緒に、白昼、己の道を進んで行く。人間とは、やがて刈りとられる麦かも知れぬ、と書いています。(中略)
 彼の絵は、決して普通の意味で美しい絵ではありませぬ。だから、ルノアールの様に、普通の意味で美しい絵を描き、大家(たいか)となるのが絵の大道(だいどう)であると信じた人は、ゴッホの作を認めなかった。絵というものは、これを見る人が、この画家は、自分の絵の機嫌をとっているという事が感じられる様なものでなくてはならないが、ゴッホの絵には、それがない。そういう事をルノワールは人に語っています。そんなものは、ゴッホの絵にはない、ないどころか、見る人を何か不安にさせる様なものがある。ゴッホの絵を、人々が容易に認めなかったのは、確かに彼の絵のそういう性質だったでありましょうが、時がたつにつれて、人々を否応(いやおう)なく引きつける様になったのも、この同じ性質に違いない。(中略)
 ゴッホという人間の最大の不幸が、彼の精神病にあったという事は疑う余地がない。彼が、彼の真面目(しんめんもく)を発揮したと言われている作品を制作したのは、パリから南仏のアルルに定住した1888年2月から、1890年7月、オーヴェル・シュル・オワズで自殺するまで、三年に満たぬ期間であるが、この間に、彼が精神病院から自由だったのは合計して一年ほどしかない。これは驚くべき事実です。芸術は環境の産物であるという考え方があるが、精神病は、ゴッホの作品が生まれた一種の環境であろうか。(中略)ともあれ、彼の芸術と彼の精神病とは深い関係がある事は否定できないのであるから、多くの学者によって、ゴッホの精神病に関する研究がなされています。(中略)
 ゴッホの病気が、学問的には全く曖昧なものにせよ、争う事の出来ぬのは、彼が、自分の病気を、はっきり知っていた病人だった、鋭敏な精神病医の様に、常に、自身の病気の兆候を観察していた病人だった、という事です。これは、彼の書簡集が証明している。彼の書簡集は、仮借のない自己批判の連続であって、告白文学と見ても、比類のないものである。(以下略)

【筆者comment】▼天才画家ゴッホ。今回、彼の生き様を再確認できた様な気がするが、天才が持つ「感性」は、狂人になるギリギリの処でないと持ち得ないのか、とも感じた次第・・。短命の天才は、モーツァルト、芥川龍之介を見てもその様な匂いがする。
【我が家のスモモ(李)の花】   
02080329a03080329a
【春日北公園の桜】04080329aa 05080329aa
【豊橋競輪場近くの朝倉川岸の桜】
01080329aa 02080329a_3【後記】■今日の締め括りは、昨日29日、我が家に咲いた「スモモ(李)の花」(添付写真ご参照)と我が家近くの「春日北公園の桜」(添付写真ご参照)と「豊橋競輪場近くの朝倉川岸の桜」(添付写真ご参照)です。ここ3~4日で急に満開に近くなりました。綺麗です。ほんと・・。
▼仲春の花となると『桜』。そして、西行の入寂の話が有名ですね。西行が歌に歌った如くに、二月十六日の望月に往生を遂げたことは、藤原俊成をはじめとする当時の人々に、大きな衝撃と感動を与えた。

 願はくは 花のしたにて 春死なん
      そのきさらぎの 望月の頃    西行  【山家集】

【意】どうか、春の、桜の花の咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が入滅なさった二月十五日の頃に。
Photo_4【筆者注】因みに、今年の旧暦二月の望月の日は十六日。3月23日に当たる。西行の入寂は、1190(文治六)年二月十六日。河内弘川寺(添付写真ご参照)であった。

02080329a_4▼また、我が家の庭にある「海棠」の蕾である。次回の会報をお届けする4月5日頃には、開花した綺麗な花をご覧に入れることが出来ると思います。
▼春の甲子園、地元田原の成章高校の二回戦は残念でしたね。夏の甲子園もあるし頑張って・・。いや、夏の甲子園は我等が時習館高校も出場の可能性が高いという話が出ています。というのは、今年の夏の愛知県は、名古屋・尾張地区(除く知多半島)と、三河・尾張の知多半島から夫々1校出場できる由。皆さん、今年の夏の甲子園予選は「時習館は期待大」ですよ!!
では、また・・。

(了)

2008年3月25日 (火)

【時習26回3-7の会 0164】~「元気な愛知 !!『浅田真央が優勝!』『琴光喜が朝青龍に勝利29連敗を阻止!』『春の選抜高校野球:成章高校が初戦を飾る』」「『仕事が10倍速くなるすごい!法』」「すぐにできるアンチエイジング生活『見逃せない「生きがい」』」「白澤卓二:あなたは何歳まで生きられる?『寿命セルフチェック』」「25日:『アルトゥール・トスカニーニ』誕生日」「杏に因んだ俳句・漢詩」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0164】号をお送りします。【2637の会】同窓会まであと144日。因みに北京五輪は8日前の8月8日ですから、あと136日です。まぁ、関係ないですかぁ・・。(笑)

■さて、前【0163】号以降に起きた愛知県に関連した個人と団体のニュースを3件をお送りします。それは・・
▼「元気な愛知 !!
①『「フィギュアスケートの世界選手権で浅田真央(名古屋市出身)が優勝!」』
②『琴光喜(岡崎市出身)が朝青龍に勝利し対戦成績29連敗を阻止!』
③『春の選抜高校野球:成章高校(田原市)が駒沢大岩見沢に「3-2」で初戦を飾る』」

【フィギュアスケートの世界選手権】(添付写真ご参照)
01▼【イエーテボリ(スウェーデン)】フィギュアスケートの世界選手権第3日は20日、女子フリーを行い、昨年2位の浅田真央(中京大中京高)が初優勝した。日本人女王は1989年伊藤みどり、94年佐藤有香、04年荒川静香、前年の安藤美姫に続き5人目。
▼浅田真央は愛知県名古屋市生まれ。名古屋市立高針小学校、名古屋市立高針台中学校卒業。現在は中京大学附属中京高等学校に在籍中。才能と実績から一部マスコミから「氷上の妖精」「ミラクルマオ」と称された。真央という名前は、父親が女優の大地真央のファンであったことからそう名付けられた由。5歳の時、友人に誘われてスケートリンクに遊びに行ったことがきっかけで、初めてスケート靴を履く。その後、姉の舞と共に門奈裕子コーチが教える名東フィギュアスケートクラブに入会。同クラブには安藤美姫がいた。3歳から9歳まではバレエのレッスンも受けていた。

【琴光喜が朝青龍に勝利24連敗を阻止!】(添付写真ご参照)
28080321▼<大相撲春場所>◇13日目◇21日◇大阪府立体育会館
 大関琴光喜(31)が先場所まで28連敗中の横綱朝青龍(27=高砂)を破った。負ければ栃光が横綱北の湖相手につくった最多連敗29に並ぶところだった。
▼琴光喜 啓司(ことみつき けいじ、本名:田宮 啓司(たみや けいじ)、1976年4月11日 - )は愛知県岡崎市出身(生まれは、同県豊田市)で佐渡ケ嶽部屋所属の現役大相撲力士。得意手は右四つ、寄り、押し、上手出し投げ、下手投げ、内無双。最高位は東大関(2007年11月場所)。血液型はA型。身長181cm、体重149kg。
▼トヨタ自動車相撲部監督の次男で、小学生から相撲を始め、高校は強豪鳥取城北高校へ相撲留学、2年生で高校横綱。さらに日本大学に進学。日大時代のチームメイト高見盛は中学生時代からのライバル。日大相撲部在籍中に27個のタイトルを獲得。

【春の選抜高校野球:成章高校が初戦を飾る】(添付ファイルご参照)
080322▼詳細はここをクリックして下さい。↓↓↓
http://sports.yahoo.co.jp/baseball/hs/game/2008032201/ 
【筆者comment】▼ここ数日間、愛知県民としては嬉しいニュースが続きましたね。ただ惜しむらくはご当地「豊橋」のgood newsがないこと。(涙)(笑)

■続いては、「『仕事が10倍速くなるすごい!法』(三笠書房)」です。
▼仕事の効率化を進め、自分がやりたいことの自由な時間を創出する。そのために参考となる本はないか探していた。そこで取り敢えず、ハウツー本を一冊買って読んでみましたのでその概略をご紹介します。その本の名は「松本幸夫著『仕事が10倍速くなるすごい!法』」です。「人生を変える”大きなきっかけ”になる本」という catch-copy(= catch-phrase )に惹かれて購入しました。ある意味当たり前のことを書いてあり、特筆することは特にありませんが、箇条書きコンパクトに纏めてあるので、自分の頭を整理するのに好都合でもあります。そこで、当該本の中から幾つかをご紹介します。詳細を知りたい方は購読のほどを・・。(笑)

▼「仕事が速い人に変わるのにむずかしいことはいらない!」~・その方法は、誰でも今日から実践でき、無理なく続けられることばかりだ。特殊なことは書いていない。あなたの願望がいかに大きなものでも、必ずその夢は叶えられる。最も大切なことはこの「効果のある方法」を一つでも早く実践すること。(中略)そうすれば、変わりだす気持ちよさに目覚め、人生に”いい循環”がめぐりだすだろう。(「はじめに」・・より)

02.お尻に火のついた人ほど早くゴールに辿り着ける。
03.”そこそこでいい”と望むとそこそこの人生が始まる。”極上の人生を!”と望むと極上の人生が始まる。
06.成功者は「未来は明るい」と信じたから、成功者になれた。(中略)・・”やれば出来る”は本当なのだ。
08.「完璧を目指しすぎない」というのが完璧を目指すコツ。
18.自腹を切ると「勉強」になる。~身銭を切った分だけ「人は元をとろうとする。」
19.成功者は成功するまで挑戦し続ける。その他大勢は途中で諦める。
23.試練は”さらなるチャンス”に繋がっている。~プラス思考の恩恵はもの凄い。特に寝る前に「成功イメージ」を思い浮かべると効果抜群。
24.”最高のイメージ”を心に描けば、成功しかやって来ない。~明確で具体的な”結果のイメージ”があれば、普段の2倍の力が出る!
26.諦めなければ、夢は絶対に叶う!~「できる人」には夢や願望への執着心がある。
27.「一日5分」それを続けられれば、何でも続けられる!~すごく些細な前進の積み重ねが、大きな進歩に繋がる。
30.夢は逃げない。あなたが逃げない限り。
34.強運は”準備して待っている人”にやってくる!
36.人を誉めるたびに、あなたは人からどんどん好かれている。~おだてず、媚びず、心をこめて具体的に誉める。
49.「いいもの」を沢山見る。~感性を磨いておけば、「いいもの」により敏感になれる。
68.笑顔と挨拶は先にする。~人は魅力ある人と、また会いたくなり、また仕事がしたいものだ
92.身体と頭に「いい刺激」を与えることを”惜しまない”ことが能力以上の成果を引き出す秘訣である。
94.「見かけ」に気を配ると”やる気”が溢れ出す。~人は「服装」で「中身」を判断する。あなたは「服装」で「中身」を判断されている。
95.何歳からでも”若返り”は可能!~頑張れば”嬉しいごほうび”があなたを待っている。
96.困ったときは「ユーモア」の力を借りる。~ユーモアは強運・スパイラルのきっかけを生む。
97.人に教えると、記憶の定着率は9倍高まる。~人に説明し、教えると、驚くほど頭が整理され、理解が深まる。
98.「緊張→リラックス」のリズムを大切に。~「緊張→リラックス→緊張→リラックス」という波をつくる。
100.”今”を心から楽しむこと。
【筆者comment】▼以上、つらつら書き留めてみても、目新しいものはとくにない。「要は、大きな夢を抱き、その夢の実現に向けた具体的目標に向け前向きに真摯に取り組み、自分に投資し、周囲の人との人間関係を大切にする」。至極当たり前のことを、きっちりと実践していく不断の実行力が大切だということですね・・。(笑)

■次は、「すぐにできるアンチエイジング生活『見逃せない「生きがい」(順天堂大学大学院医学研究科教授白澤卓二)』(PHPほんとうの時代2008年4月号)」です。
《付録》「あなたは何歳まで生きられる?『寿命セルフチェック』」
「jumyo-sefl-check-hyo.xls」をダウンロード


▼長寿遺伝子の働きを活発にする食事と運動を紹介して来ましたが、もう一つ見逃せないのが「生きがいを持つこと」です。
 生きがいが失われていると、せっかく食事や運動で得られたアンチエイジング効果もその力を発揮できません。但し、心の問題を解決するのは易しいことではありません。
 ストレスからうつ病など心の病気になる人もいますが、心がブルーになったとき、なりそうなときに私がお薦めしているのが「転地療養」です。都会生活の毒を解毒(デトックス)するには転地して気分転換を図ることが何よりです。(中略)
 さて、長寿遺伝子を活発にするヒントを紹介してきましたが、基本は毎日の生活を「ずっと若く生きる生活」に変えることにあります。女性は「ずっと綺麗でいたい」、男性は「ずっともてるオヤジでいたい」というのが共通の願いと見受けますが、その願いを現実に叶えてみては如何でしょうか。
【筆者comment】▼小生も、「『いつまでも若々しく生きる生活』がしてみたい」と最近思い続けています。「腹筋1200回・・?」「・・はい、続けてますよぉっ!(笑) 毎朝40~45分間1,200から1,500回。相変わらず皮下脂肪は取れませんが、体脂肪率は20~21を維持しています。」
▼また《付録》「あなたは何歳まで生きられる?添付ファイルを開いて『寿命セルフチェック』」で、皆さんご自身の寿命を占ってみてください。
 これはアングロサクソン人種の平均寿命76歳をベースにしてあります。一方、我々日本人の場合は、男性の平均寿命が79歳、女性85歳です。したがって、表で出た寿命に3歳(79歳-76歳)を加えた数値がより正確であると思います。
 また、Q8.の年収5万ドル(約6百万円)以上というのも、金額の多寡ではなく、管理責任の寿命に与えるリスク増加が年収に比例するという考え方によるものとみている様です。
 因みに小生は「+8歳」+「+3歳」で「89歳」と出ました。これで行くと、小生の目標100歳現役まで11年も足りません。(>_<;)(涙)(涙)(笑)

Toscanini01■続いては、3月25日は、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867年3月25日 - 1957年1月16日)の誕生日です。彼は、イタリア出身。20世紀前半から央の最も偉大な指揮者の一人である。ファシズムを嫌い渡米。1957年、同地にて生涯を終える。ヨーロッパのフルトヴェングラー、アメリカのトスカニーニとクラシック音楽界で人気を二分したマエストロ(maestro)。カラヤンの演奏時間の速いことは有名であったが、トスカニーニはカラヤン以上に速い。故に、今でも録音が劣ることを除くと、彼の演奏作品はいずれも現代的な瑞々しさを損なわない。そして、モーツアルト、ベートーベン、ブラームス、ワグナー、のドイツの作曲家は勿論のこと、ドヴォルザーク、チャイコフスキーや、フランス音楽、全ての分野において、聞き手を唸らせる芸術性の高さを備えている。本当に素晴らしい大指揮者である。mailやblogでは、【2637の会】の皆さんに彼の魅力を実感して頂けないのが大変残念である。今、ブラームスの交響曲第一番を聞いている。本当に素晴らしい演奏ですよ!!!(笑)

【後記】■今日の締め括りは、添付写真をご覧下さい。我が家に咲いた「杏の花」です。
花杏は、桜と同じバラ科で、とても良く似ていますね。今日お別れは杏の花に因んだ俳句をご紹介します。
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 山間や村は杏の花曇り  正岡子規
 一村は杏の花に眠るなり  星野立子
 北国の雨に風添ふ花杏  森澄雄

▼そして、「杏の花」というと、晩唐の詩人杜牧の『清明』が浮ぶ。

   清明        杜牧
 清明時節雨紛紛   清明の時節 雨紛紛
 路上行人欲断魂   路上の行人 魂(こん)を断たんと欲す
 借問酒家何處有   借問す 酒家は何れの処にか有る
 牧童遙指杏花村   牧童遥かに指さす 杏花(きょうか)村
   *   *   *
【解釈】時節は春、清明節。折から小糠(こぬか)雨が降りしきる。その雨のせいで、道行く旅人である私の心はすっかり滅入ってしまった。そこへ偶然通りかかった牛飼いの童に訊ねた、「酒屋は何処にあるのかね?」と。童が指さしたその彼方には「白い杏(あんず)の花咲く村」が見える。

▼杜牧の『清明』を詠んで、小生の稚拙な一句・・。 

 清明の 雨に煙るは 花杏(はなあんず)  悟空

▼ついでにもう一句・・(笑)

 三河路に 咲く花杏 冴えわたる  悟空

▼そして、ここのところ急に暖かさが増し、桜の花も一部には七部咲きのところも出て来ました。昨日小生の拙宅に程近い「東田仲の町公園」の「ソメイヨシノ」の花をご覧に入れながらお別れしたいと思います。どうぞご覧下さい・・。

01_20203(了)

2008年3月20日 (木)

【時習26回3-7の会 0163】~「郷土を代表するホトトギス派俳人『冨安風生』」「バルダザール・グラシアン『賢人の知恵』から《61-62》」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0163】号をお送りします。
▼今年8月16日の【2637の会】同窓会まで、あと5ヶ月を切りました。北京オリンピックの開会式が8月8日。同五輪の最中での開催となりますが、【2637の会】memberの皆さん、万障お繰り合わせの上ご参加賜ります様、宜しくお願い申し上げます。ハイ。m(_ _)m
▼今日は3月20日『春分の日』。豊橋地方は生憎の雨。小生、春のお彼岸の中日でもあり、昼下がり、家族と亡母の墓参に行って来ましたが、寒さは全く感じられず、いよいよSpring has come.ですね。時節は、「春分」の次の「清明」の「杜牧の詩《清明》・・「清明の時節、雨紛々」」がピッタリの小糠雨でした。

01■さて、今日は前【0162】号で冨安昌也先生のお話をしましたが、先生のお話をすると、先生のお祖父上の末弟にあたる『冨安風生』氏(添付写真ご参照)についてご紹介をしてみたいと思います。会報前々号の【0161】号で以下にお示しした氏の沈丁花の俳句をご紹介しました。

 庭石に 花こぼしおり 沈丁花  冨安風生

▼ご存知の方も少なくないかも知れませんが、冨安風生(本名冨安謙次)氏(以下敬称略)は豊川市、厳密に言うと旧一宮町金澤の出身。郷土の名士であります。彼は、東大在学中に医学部生の水原秋桜子らと東大俳句会を興しました。氏は、冨安昌也先生のお祖父上と18歳離れた末弟にあたられる由。俳人としての同氏は、高浜虚子の直系の弟子として著名であります。次に氏の略歴をご紹介します。昭和54年に他界されていますから、我等が旧【3-7】に在籍中は卒寿の高齢ではありましたが、ご存命でいらした訳ですね。

【略歴】
1885年04月16日 愛知県八名郡金澤村(現・豊川市金沢町)生。
      旧制愛知四中,一高,東京帝大法学部を経て逓信省入省。
1918年 逓信省福岡支局長。
1919年 福岡来遊の高浜虚子と初めて会う。爾来、虚子に師事。
1928年 「若葉」を創刊、主宰。
1929年 『ホトトギス』同人となる。
1933年 第一句集「草の花」刊。
1937年 (逓信省事務次官に栄進の後)同省退官。その後、電波監理委員会委員長に就任。
1971年 日本芸術院賞受賞、芸術院会員となる。
1979年02月22日 没。享年94歳。 

▼文芸評論家の山本健吉氏は、著書『定本現代俳句』(角川書店)の「冨安風生」の項で次の様に述べている。少々長いけれどご紹介します。

▼風生は当代の代表的な『ホトトギス』派俳人である。だが彼が俳句を始めたのは、大正七年、34歳で為替貯金支局長として福岡に赴任した時、吉岡禅寺洞(ぜんじどう)の手引きによるものであるから大変晩学な訳だ。逓信省官吏として出世街道にあった途中に始めたのである。このことは例えば、水原秋桜子が医の傍ら俳句をやり、山口誓子が会社員の傍ら俳句に打ち込み、中村草田男が教師として句を作っているのと、少し違った色合いを持っているのだ。この三人は俳句への打ち込み方が余技の域を脱しているが、風生は何処迄行っても、余技として嗜(たしな)む遊俳の感じが付き纏う。つまり彼の全面的な生活が俳句に打ち込まれているのでなく、生活のごく一部において彼の俳句の世界が存在しているということだ。それは芭蕉の様に人生に深く相渉(あいわた)るものではないのだ。だが考えてみると、この様な俳句生活の在り方は、俳句大衆の俳句の愛し方を代表しているのである。この様な俳句生活が可能なところに俳句の驚くべき大衆性があるのだと言えよう。そしてそのことが風生の句にまた大衆性を賦与し、延いては『ホトトギス』の代表作家たらしめている所以なのだ。

▼以下に風生の俳句を幾つかご紹介致します。

 みちのくの 伊達の郡の 春田かな  (『草の花』所収)

【解説】みちのくの伊達も懐かしい土地の名前。福島市一帯の穀倉地帯が伊達の郡(こおり)。伊達家の先祖が源頼朝から拝領した土地である。残雪の山々に囲まれた盆地を阿武隈川は北へ流れる。やがて田圃に水が張られ、夏には一面の青田に変わる。
   (長谷川櫂著『四季のうた』)

 大藁家 辛夷(こぶし)がくれに なき如し  (『古稀春風』所収)
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【解説】埼玉県安行((あんぎょう)川口市)は江戸時代から植木の産地。安行流の枝ぶりや根回しの枝で知られる。農家の藁屋根をすっぽり覆ってしまうくらい大きなコブシ(添付写真ご参照)の木が無数の白い花をつけている。昔はこんなコブシが方々にあって関東平野の春を彩った。
   (長谷川櫂著『四季のうた 第二集』)

 薩埵富士 雪縞あらき 雨水かな
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【筆者注】「薩埵富士」とは静岡県庵原郡由比町にある薩埵(さった)峠からみた富士山で、安藤広重の東海道五十三次『由比』の版画がまさに薩埵峠から見た富士山のアングルと同じもの(添付写真ご参照)。
   (辻桃子・安部元気共著『美しい日本語 季語の勉強』)

 かげろふと 字にかくやうに かげろへ

   (昭和25年『晩涼』所収)

【解説】麗かな春の日にチラチラと立ち上る陽炎は、「糸遊」とも呼ばれる。そのはかなげな、たよりなげな現象は、例えるならば平仮名の「かげろふ」の字の様だという。言われてみればその通りで、かげろうに対する作者の遊び心をも表現。(『鷹羽狩行の名句案内』)

 まさをなる空よりしだれざくらかな

【解説】枝垂桜(しだれざくら)の大木である。見上げる梢(こずえ)から垂れ下がる花が満開である。葉はまだ出ていない。仰いで見ても、離れてみても、樹全体が花なので、青空からいきなり花の枝が垂れて来た様に感じた。枝垂桜を写生した句とも言えるが、省略が効いていて、(【筆者注】尾形)光琳の絵の様な鮮やかさがある。完成した芸の力を思わせる句である。空だけが漢字で、あとは平仮名で書いてあるのも、その感じを計算した効果で、仮に「真青なる空より枝垂桜かな」と書くと、春風にさらさらとゆれる枝垂桜の枝のたおやかさは感じられない。
   (草間時彦著『俳句十二か月』) 
【筆者注】「しだれざくらかな」は「句またがり」。「空」以外全て平仮名とすることで、真っ青な「空」が強調される。また、平仮名だけの句、飯田蛇笏の「をりとりてはらりとおもきすすきかな」を連想した・・。心に響くいい句である。

 一蝶に草木海のごと深し

【解説】この蝶は一匹の蝶という意で「初蝶」のことだろう。あえて「初蝶」と取らなくてもいいが、「初蝶」としたほうが意味合いがずっと深くなる。「草木」に紛れ込んだ一匹の「初蝶」には、眼下の草木はまるで「海のごと深」く感じられたに違いない。いわば「蝶」の身になって初体験の思いを詠んだ句である。「草木」は植物の総称と言ってよく、限りなくイメージが広がる。
   (宗内数雄著『昭和の名句』)

【筆者comment】▼冨安風生の句をご覧になって如何でしたか。今回は、季題を「春」に絞ってお贈りしましたが、流石に「ホトトギス」の同人らしく、「客観写生」・『花鳥諷詠』を実践していると言えますね。『花鳥諷詠』についての詳細は、会報【0156】号の「22日:『高浜虚子』誕生日」をご覧下さい。

■続いては、久し振りにバルダザール・グラシアンの『賢人の知恵』をお送りします。

【61 風向きを調べる】
▼ことに乗り出す前に、それがどの様に受け止められるか考えてみよう。やろうとしている新しいことが安全だと確信できれば、新たな自身が得られて、さらに元気付けられる筈だ。
 前進も白紙撤回もまだ可能なうちに、関係者に打診すること。これは、法律でも愛でも政治でも、いずれにも同じ様に役立つ知恵だ。
【筆者comment】これを今風の流行語で言えば、『KY(ケー・ワイ)』ですか・・。(笑)

【62 利口さを隠す】
▼賢く器用に物事を考えることは大切だが、計算していることを人に悟られてはいけない。目先のきくやり手であることは強みではあるが、そういう小技を駆使していることが知られると、敬遠され軽蔑されるかもしれないからだ。
 人に疑われない様、そつのなさは隠しておこう。こちらの心づもりは秘密の儘で、どう進めるか十分に検討しよう。そして、確信を持って計画を実行すればいい。
【筆者comment】これも日本の格言でいうと、「能ある鷹は爪を隠す」ですね。

01_302_2【後記】■さて、今日の締め括りは、風生の俳句のところにコブシの花が出てきましたが、コブシと言えば、モクレン科の樹木。コブシの花(【筆者注】花の様に見えるのは萼(がく))を大きくした感じが白モクレン。この花に因んだ俳句をご紹介してお別れしたいと思います。

 木蓮や 読書の窓の 外側に  正岡子規
 木蓮に 日強くて風 さだまらず  飯田蛇笏
 はくれんの ひらくとくもり そめにけり  星野麥丘人
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では、また・・。(了)

2008年3月15日 (土)

【時習26回3-7の会 0162】~「15日:『堀口大學』命日」「19日:『藤島武二』命日」「冨安昌也先生の師『藤島武二』」「20日:『春分』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0162】号をお送りします。
▼昨日14日に、J司君より励ましのmailが届きました。J司君ありがとう。
 【2637の会】の皆さんからご協力のmailを頂戴出来れば、勝手幹事の小生としては幸甚です。皆さんの、忌憚ないご意見・近況等をお待ちしています。 m(_ _)m。

01■さて、今日初めの話題は、今日15日が命日に当たる「堀口大學((ほりぐち だいがく、1892.01.08 - 1981.03.15) 詩人、仏文学者)」です。彼の作品につきましては、会報【0093】号にて、三好達治著「詩を読む人のために」においてご紹介しました。その時の紹介作品は『夕ぐれの時はよい時』と『彼等』でした・・。今日は、『砂の枕』をご紹介します。ではその前に、氏の略歴から・・
【略歴】
1892年 東大生堀口九萬一(のち外交官)の長男。東京・本郷に生まれ。「大學」という名前は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が東大の近所であることに由来する。4歳で母を失う。幼児期~少年期は、新潟県長岡在住。旧制長岡中学校卒。
1910年 慶應義塾大学文学部予科に入学。この頃から、『スバル』『三田文学』などに詩歌の発表を開始。
1911年 夏、慶大を中退し、父の任地メキシコに従う。以後、父の赴任に従い、ベルギー、スペイン、スイス、ブラジル、ルーマニア等に滞在。
1919年 処女詩集『月光とピエロ』、処女歌集『パンの笛』を刊行。
1957年 芸術院会員
1979年 文化勲章を受章。
1981年 歿。享年89歳。

   砂の枕

 砂の枕はくづれ易い
 少女
(をとめ)よ お行儀よくしませう
 澤山な星が見てゐますれば
 あらはな膝はかくしませう

        「『砂の枕』(1926年刊)」

【解説】▼掲出詩は海辺の恋を上品に、ちょっとエロティックにうたった短唱である。現今の若い女性たちは「あらはな膝」どころではなくて、おへそまで出しているが、着物が着崩れて膝が見えてしまった方がエロティックかもしれない。(中略)「砂の枕は崩れ易い」、その様に恋もくずれやすい、という気分が感じられる。(高橋順子編著『日本の現代詩101』)

【筆者注】読み手によって、詩の捕らえ方はかくも違う。次の解説をご覧下さい。・・だから「詩」は面白く、また難しい・・(笑)

▼作者が「少女」とよんで想いの中に呼び込んできた女の子は、おそらく作者の幼年期の追憶の全ての、柔和で美しく、壊れやすい繊細さの象徴でしょう。
 勿論、少年であった作者自身に宿る追憶も含めてです。
 幼年の日の枕が「砂の枕」だとは、何と卓抜な比喩でしょう。砂上の楼閣とか(中略)色々に言われて来ましたが、少女のまどろみを乗せるものとして、砂の枕ほど適切なものはありません。
 しかも、夜空一面に鏤(ちりば)めたような星屑が、その姿を見ているのです。天の星と地の砂。誰も計算した訳ではありませんが、そんな”無限”に取り囲まれながら、少女は目を瞑(つむ)いでいます。
 そんなに美しい少女の時間は、淫(みだ)らな中年へとたちまち移って行きます。その哀しみに堪え難く、作者は言うのです。「お行儀よくしませう」、とりわけ、「あらはな膝はかくしませう」と。(中西進著『詩をよむ喜び』)

1902190809Photo19081908_2■続いてご紹介するのは、藤島 武二(ふじしまたけじ、(1867.10.15(慶応3年9月18日) - 1943.03.19)である。彼は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要な画家。浪漫主義的な作風の作品を多く残している。(添付写真をご覧参照)
【経歴】
1867年 薩摩藩藤島賢方、たけ子の三男として生まれる。幼名猶熊。幼年時代から画才を発揮。北斎漫画や油絵を模写する。
1893年 三重県尋常中学校助教諭となり、津に赴任。
1896年 白馬会創立。会員となる。東京美術学校の西洋画科新設に際し、1歳年長の黒田清輝の推薦で同科助教授に就任。
1902年 白馬会第7回展に「天平の面影」を発表。
1904年 白馬会第9回展に「蝶」を発表。
1905年 文部省から絵画研究のため4年間の仏・伊留学を命じられる。年末に渡欧。
1906年 パリに滞在。私立アカデミー・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学ぶ。
1908年 イタリアに移る。
1910年 帰国。東京美術学校教授就任。
1912年 岡田三郎助とともに本郷洋画研究所を設立。
1918年 東京美術学校に「藤島教室」誕生。
1937年 岡田三郎助、横山大観、竹内栖鳳とともに第1回文化勲章受章。
1943年 3月19日、脳溢血のため本郷の自宅にて死去。享年75歳。

【代表作】
「天平の面影」(1902年)石橋美術館所蔵(重要文化財)/「蝶」(1904年)/「黒扇」(1908-09年)ブリヂストン美術館所蔵(重要文化財)」

【冨安昌也先生の師『藤島武二』(冨安昌也著『続草木虫魚』~「二人の師」より抜粋(平成12.08.01 「豊橋文化」に掲載))】
▼運命といえば、私の生涯で最も大きな影響を受けた二人の良き師に巡り会えたことである。
 私は小学校時代から絵が好きだった。(【筆者注】この後、冨安先生は豊橋中学に入学し、一人目の師である美術科教師細嶋昇一先生に出会うが省略する)
 昭和十二年四月、東京美術学校に入学できた時の上野の桜の美しかったことが忘れられない。
 美校では予科一年を過ごすと、本科が四年あって、自分が希望する教授の教室を選ぶことになる。
 私は文句なしに憧れの藤島武二教室を選んだ。
 先生は週二回、火、金の二日教室へ来られた。寡黙でしゃべらない。それだけに先生の一挙手一投足に注意し、生徒の絵を直す先生の筆先を見据えたものだ。
 筆はどんなものがいいか、絵具は何を使ったらいいか何も言われない。
 そんな抹消なことよりも、「絵かきは正直でなければいかん」といった。
 何故か。自然が如何に美しくとも、絵かきの心が曲がっていれば曲がって映る。だから心を磨けと云うことだ。その時は真意が悟れなかった。

【筆者comment】添付写真の藤島武二の絵画作品のうち、『天平の面影』と『黒扇』が国の重要文化財に指定されている傑作である。このうち、『黒扇』を先日東京の「ブリヂストン美術館」で観たことは会報【0149】号でご案内済であるが、感動ものの、本当に素晴らしい絵であった。

【後記】■今日の締め括りは、三月二十日の『春分』についてである。「春分」から連想して、俳句・短歌を綴ってみた。

「春分」→「春のお彼岸」→「法事」
*
 春愁のまぼろしにたつ仏かな  飯田蛇笏
*
【解説】蛇笏が、父を亡くした人に追善の句を求められて詠んだ句。
  (長谷川櫂「四季のうた第三集」)


「春分」→「春のお彼岸」→「今年は22日が満月である」
*
 外にも出よ触るるばかりに春の月  中村汀女

                                     (昭和21年『花影』所収)
*
【解説】「外にも出よ」という呼びかけが溌剌としている。(中略)りんりんと明るい春の月が思い浮かぶ。
  (『鑑賞 女性俳句の世界 第2巻 個性派の登場』)

「満月」→「月影」→「唐招提寺」
*
 おほてらの まろきはしらの つきかげを
     つちにふみつつ ものをこそ おもへ
  會津八一

大寺の円き柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ
*
【解説】唐招提寺のエンタシスの円い列柱が春の月の光で、大地にくっきりと影を落としている、その影を踏みながら、深い物思いに耽っている。
  (原田清著『會津八一鹿鳴集評釈』)

「唐招提寺」→「春」
*
 蛇いでゝすぐに女人に会ひにけり  橋本多佳子
*
【解説】絵巻物の様な場面。穴を出た美しい蛇が野道をするする滑ってゆくと、紅い着物をほっそりと着こなした女人とすれ違う。互いにちらと振り返ったかどうか。絵巻は何処までも春の野道が続いているばかり。奈良の唐招提寺で詠まれた句。
  (長谷川櫂「四季のうた第三集」)

▼「春分」を前に、今日などはとても暖かな一日でした。いよいよ春本番の到来ですね・・。
 重ねてお願いです。J司君がyellを送ってくれましたが、【2637の会】の皆さんのお便りをお待ちしております。(了)

2008年3月10日 (月)

【時習26回3-7の会 0161】~「名古屋市美術館『北斎展』・愛知県美術館『木村定三コレクション・名作展』・名古屋ボストン美術館『浮世絵・名品展』を見て・・」「9日:『梅原龍三郎』誕生日」「『沈丁花』に因んだ俳句」

■皆さん、お変わりありませんか。今泉悟です。今日も会報【2637の会 0161】号をお送り致します。暦も「啓蟄」を過ぎ、急に春めいてきました。『 春暁や ひとこそ知らね 木々の雨 (日野草城) 』の様な今朝のにわか雨でした。寒さも緩み、めっきり春らしくなって参りましたね・・。

010102020304■昨日9日は、昼前、絵画の好きな今年84歳になる親父を連れて、久し振りに父子二人で名古屋の美術館巡りをして来ました。「名古屋市美術館『北斎展』(添付写真をご参照)」「愛知県美術館『木村定三コレクション・名作展』(同)」「名古屋ボストン美術館『浮世絵名品展』(同)」の三つです。この中では、『北斎展』が「一押し」です。(笑) 北斎は、やはり天才ですね。富嶽三十六景の「赤富士(凱風快晴)」や「神奈川沖浪裏」など、広く知られた名作が綺羅、星のごとく陳列されていて、大変良かったです。「現物を見た!」とういう感動はあったのですが、版画であったこともあり、正直なところ西洋絵画の本物を直接見るほどには感動しなかったことはちょっぴり残念に思いました・・。
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08▼ところで、浮世絵で言うと、名古屋ボストン美術館の鈴木晴信、喜多川歌麿、東洲斎写楽の作品群も傑作で良かったことは間違いないのですが、構図の構成力、迫力、絵画・版画の技術力、全ての点で北斎の作品が抜きん出ていた様に感じました。もし『浮世絵名品展』だけ見に行ったらもっと深い感銘を受けた筈ですが、それほど北斎の作品の魅力が勝っていたということですね。

091921▼一方、愛知県美術館の木村定三コレクション・名品展は、同氏が存命中に収集した古今東西の文化遺産を一括して愛知県美術館に寄贈した作品から、その傑作群の展覧会です。小生は、昨年同美術館にて開催された「ロートレック展」を観た際に、同時開催されていたので、今回が初めてではないのですが、氏が集めた絵画は今回展示されていた西洋画だけとってみても、ピカソ、モディリアー二、クレー(添付写真ご参照)、ボナール、クリムト、等なかなか素晴らしい、と思いました。

【筆者comment】▼『北斎展』に展示されている作品のうち、かなりの点数がオランダからの借り物。シーボルトが買い集めて故国オランダに持ち帰ったこととか、米国のボストン美術館がこれほど多くの浮世絵を保有していること、はたまたゴッホやルノアール等のフランス印象派の画家たちが浮世絵から強い影響を受けたこと等、「浮世絵」が、海外の有名画家や識者に高い評価を受けていたと言うことを今回改めて認識した次第・・。鎖国時代の日本がこれほど海外から評価・注目されていたとは、日本の、そして日本の先人達の絵画芸術の水準の高さを、我々は誇りにして良いと思う。
▼また昨日は、新聞ニュースで皆さんすでにご承知の名古屋国際女子マラソンの日。小生、丁度その時間は『北斎展』と『木村定三コレクション』を観ていた時間でした。昨日は、時折寒気が混じりながらも、陽射は春の到来を告げる様な典型的な仲春の陽気。これではマラソン選手には暑すぎるのでは・・、と心配になるくらいの暖かさでした。 Qちゃんこと、高橋尚子の27位は残念でした。過去に余りに素晴らしい栄誉を勝ち取っていると、現在の結果がそれに相応しくない場合、とても空しく寂しい気持ちになるのは小生だけでしょうか・・。本人はまだ諦めずに頑張る様ですが、その姿勢は評価したいと思いますね。頑張れ!Qちゃん!でも、あまり無理せずに・・。

■さて、話変わってまた絵画の話題・・。
1011121908▼昨日3月9日は、日本を代表する西洋画家の巨匠、梅原 龍三郎(以下敬称略)(うめはら・りゅうざぶろう(1888.03.09 - 1986.01.16))の誕生日である。異論はあろうが、「戦前戦後の昭和
期の日本を代表する洋画家二人を挙げよ」と言えば、安井曾太郎と梅原龍三郎を挙げる人が多いのではなかろうか。
131915141937151938161940▼梅原の作品は、色彩が鮮やかで、太筆の豪快なタッチ、そしてデフォルメされた様な絵が特徴。但し、彼の初期の段階である、渡仏してルノアールに師事する前の頃の作品は、京都時代の師が浅井忠であったからかどうかはわからないが、大人しい絵が多い。また当然ながらルノアールに師事した直後は印象派の影響を強く受けている。
171956181959191975211913▼真偽は確かめていないが、梅原はもともと右利きであったが、絵画を豪快なタッチにする(或いは、わざと稚拙な絵の様に見せる)ためか、筆を左に持ち替えて描いたという(確かに梅原は、添付写真では左手に筆を持って絵を描いている)エピソードめいた話を聞いたことがある。また、梅原は色弱で、赤と緑の区別が付かなかったとも言われている。添付写真の裸婦像をご覧下さい。裸婦像には、赤色で描いたものと、緑色で描いたものがあるが、これはその影響なのであろうか。緑色が極めて印象的である。
2223192124193525▼彼の作品は、一見稚拙な感じを与えるが、見るほどに豪放磊落な作品の大きさ、雄大さに魅入られる味わい深い傑作が多い。彼の作品と接する度にどんどんと好きになっていく・・、そんな魅力をもっている。素晴らしいと小生は思う・・。
271962261958▼以下に、梅原の経歴をお示しします。そして、彼の絵を存分にご堪能下さい。添付写真をご覧下さい。
【経歴】
1888年3月 京都府京都市下京区に生まれる。生家は染物問屋。京都府立第二中学校(現在の京都府立鳥羽高等学校)を中退し、伊藤快彦に絵を学んだ後、浅井忠が主催する聖護院洋画研究所(現在の関西美術院)に入る。同時期に安井曾太郎(1888年5月生まれ)も学んでいた。
1908年 田中喜作(後に美術史家となる)と共にフランスに留学。パリに滞在。
1909年 ピエール・オーギュスト・ルノワールの指導を受ける機会を得。
1913年 帰国。東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を白樺社の主催で開催。この時、白樺社同人の武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦との知遇を得。後1914年(大正3年)の二科会の設立に関わる。同年結婚し長女と長男が生まれた。
1935年 帝国美術院(現在の日本芸術院)会員。
1944年 帝室技芸員、東京美術学校(現・東京芸術大学)教授就任。
1952年 東京芸術大学教授を辞任。渡欧しベネチア・ビエンナーレの国際審査員を務めた。同年文化勲章を受章。
1953年 軽井沢にアトリエを設置。1957年(昭和32年)に日本芸術院会員を辞任。

01【後記】■今日のお別れは・・、芳しい香りで春の到来を告げる花「沈丁花(じんちょうげ)(添付写真ご参照)」に因んだ俳句をご紹介します。

 冴えかえる 二三日あり 沈丁花  高野素十

【解説】陽光は春の訪れを知らせるが、寒気の中で沈丁花がひっそりと咲き、甘く芳しい香りが漂って来る。時節はまさに「春」・・。

 古庭の 古き匂ひや 沈丁花  正岡子規
 庭石に 花こぼしおり 沈丁花  冨安風生
 沈丁の 四五花はじけて ひらきけり  中村草田男

▼沈丁花で、小生の稚拙な句を一句・・

 春の使者 香り仄(ほの)かに 沈丁花  悟空
 ・・・ お粗末でした ・・・ (笑)  (了)

2008年3月 5日 (水)

【時習26回3-7の会 0160】~「【遺稿】城山三郎『そうか、もう君はいないのか』」「3月6日:『菊池寛』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0160】号をお送りします。

PhotoPhoto_3■さて、前【0159】号で、ご紹介した城山三郎(以下敬称略)について、『そうか、君はもういないのか』を読んでみたいと申し上げたが、早速一昨日読んでみて、なかなか良かったのでご紹介したい。この作品は、城山三郎が、亡くなる半年前から書き始められ絶筆となるが、氏の次女井上紀子(前号にてご紹介)氏が新潮社に取り纏めを依頼 し、本年2008年1月、上梓されたもの。当該本は、変形B6版で「あとがき」に代えて井上紀子氏の「父が残してくれたもの ― 最後の黄金の日日」を加えても156頁と短いため、2時間余りで読み切れる。この作品は、氏が容子夫人との馴初めから夫人が亡くなるまでの半生を微笑ましく語っている。そして巻末では、紀子氏による「母(容子さん)が亡くなる直前から父(城山三郎氏)が亡くなるまで」の経緯(いきさつ)の機微を父母への敬愛の念を込めて語ったものが掲載されている。『そうか、君は・・』の本文では、氏の夫人への深い愛(=慈しみ)が、「実直」「誠実」「家庭人としてはある意味『不器用』」という氏の虚飾のない人柄で綴られている佳品である。文中には、「逸話」として、以前【2637の会】会報でご紹介した我が時習館の大先輩の詩人『丸山薫』氏や作家『杉浦明平』氏の実名も登場し、ちょっとしたsurpriseであっ た。正直感動した。城山氏が、愛教大の前身、愛知学芸大で教鞭を執っていたことも、愛知県人としてIdentityを共有できた感じがして何故か嬉しさを覚える。ところで、今月22日が氏の一周忌である。月日が経つのは本当に早いものだ、とつくづく感じ入った次第。
▼さて、まずは本文ご紹介の前に城山三郎の略歴から・・。

【経歴】
▼城山 三郎(1927.08.18 - 2007.03.22)は小説家。経済小説の開拓者、伝記小説作家。本名、杉浦 英一(えいいち)。
 1927年 愛知県名古屋市中区生まれ。 名古屋市立名古屋商業学校(現・名古屋市立名古屋商業高等学校)を経て・・
 1945年 愛知県立工業専門学校(現・名古屋工業大学)に入学。後、海軍特別幹部候補生。特攻隊に配属、訓練中に終戦。
 1946年 東京商科大学予科入学。
 1952年 一橋大卒業。愛知学芸大(現・愛知教育大)商業科専任講師(景気論・経済原論)に。金城学院大学にも出講。
 1957年3月 名古屋市千種区の城山に転居。
  同 12月 茅ヶ崎に再び転居。
 1963年6月 愛知学芸大を退職。作家業に専念。
 2007年3月22日 午前6時50分、間質性肺炎のため、神奈川県茅ケ崎市の病院で死去。享年79歳。

【そうか、もう君はいないのか】(城山三郎著)
▼二人の出会いは学生時代にさかのぼる。 それは昭和26年早春のある朝の何でもない偶然、そして、誤解から始まった。五分、いや三分でも時間が行き違ったら、初対面もなく、二人は生涯会うこともない運命であった。
 当時まだ学生の私は、何か用があって、名古屋の実家に戻っていたが、近くに名古屋公衆図書館なる古びた建物があった。(中略)
 ところが、その朝出かけてみると、規定の休館日でもないのに扉は閉ざされ、「本日休館」の札がぶら下がっている。(中略)
(― おかしいな)
 とまどって佇んでいると、オレンジ色がかった明るい赤のワンピースの娘がやって来た。くすんだ図書館の建物には不似合いな華やかさで、間違って、天から妖精が落ちて来た感じ。
「あら、どうして今日お休みなんでしょう」
 小首をかしげた妖精に訊かれても、私にも答えようがないし、ずっとそこに立っているわけにもいかない。仕方なく、私は家へ戻ることに決めた。
 近くに、「栄町」という市電の交差点があって、そこから私の家は徒歩で七、八分の距離。(中略)
「とにかく、栄町にでも出ましょうか」
 とりあえず二人は歩き出した。(中略)
(【筆者注】この後二人は映画を見た後喫茶店に入り、彼女を気に入った氏は彼女のアドレスと電話番号を訊ねて、本を貸して別れる。後日、彼女は本を返して貰う際に再会するが、彼女の父親に書かされたらしい「絶交状」を氏に手渡し別れた。)
 昭和27年春、大学を卒業。大病をした父親から「店を継がなくてよいから、名古屋へ戻るように」と促され、私は岡崎市にある愛知学芸大学の専任講師となり、名古屋の実家から通勤するようになった。(中略)
 当時はダンスブームであった。ホールには、(中略)ダンス上手もいれば、全くの初心者もいて、それぞれがそれなりに踊っている。その男女たちを何気なく酔眼で追っていて、私は声を立てそうになった。
 一種の奇跡であった。
 妖精 ― 彼女がいて、私と同年輩の男と踊っている。そして、私と眼が合ったとき、笑顔で懐かしそうに会釈してくれた。(中略)
 私が二十六歳、容子は二十二歳のときのこと。

(【筆者注】再会を果たした二人はその後目出度くゴールイン。その後、「新婚旅行」「新婚生活」「『城山三郎』というペンネーム」の由来などのエピソードが続く。その中から幾つかをご紹介する)

 私は愛知学芸大学商業科の専任講師であったが、英文科のスタッフたちと月一回、文学書の勉強会を持つようになった。
 豊橋市にある愛知大学の教授をしていた詩人の丸山薫さんの知遇を得、「文学好き同士で勉強会をもったら」と、すすめて下さったことがきっかけ。さいわい良い仲間四人を紹介して貰い、以後、日曜日の午後を潰しての読書会が始まった。(中略)
 私たち夫婦に長女が生まれ、喜んだのもつかの間、その子は生後三ヶ月で亡くなり、続けて母も急逝した。
 母の死後すぐ、私と容子の間に、今度は男の子が授かった。(中略)昭和三十二年春三月(中略)引越した。名古屋市の東郊、織田信長の出城の一つがあったことから、通称「城山」と呼ばれる地域(【筆者注】現在の地下鉄覚王山駅から北東へ3~400mの辺り)。
 私は、その三月を転機にしようと、本格的に小説に取り組み、『輸出』と題して、書き始めた。(中略)『輸出』を書き上げると、「文學界」誌に投稿した。城山へ三月に引越ししたから、ペンネームは「城山三郎」として。
 本名の「杉浦英一」のままでよかったのだが、県下には杉浦姓が珍しくなく、たとえば、杉浦明平さんがすでに作家として活躍しておられる。
 そこへ、万々一、私が何かのはずみで打って出ることになっては、民平さんが迷惑なさるかもしれなぬなどと、大それた心配までして、ペンネームの急拵(ごしら)え。
 投稿して二、三ヶ月たったある夜、文藝春秋社から「『文學界』新人賞に決定しました」という電報が来た。
 ちょうど私は風呂に入っており、容子が電報配達の男性に、「シロヤマ? うちにはそんな人いませんけど」と応えている声が聞こえた。あっと思っていたら、風呂の戸が開いて、容子が不審そうな顔つき・・(中略) 容子は私がそんな名前で小説を書いたこともしらなかったわけで、いくぶん呆れ顔になった。(以下略)

【父が残してくれたもの ― 最後の黄金の日日】(井上紀子著)
▼二〇〇〇年二月二十四日、母が桜を待たずに逝ってから、父は半身を削がれたまま生きていた。暗い病室で静かに手を重ね合い、最後の一瞬まで二人は一つだった。(中略)
 通夜も葬式もしない、したとしても出ない、出たとしても喪服は着ない。お墓は決めても、墓参りはしない。駄々っ子のように、現実の母の死は拒絶し続けた。(中略)喪主である筈の父に代わり、あれこれ手配を進める私達に、「悪いねえ」と言いながらも、心はどこかに置かれたまま。(中略)メモ魔の父の手帳には、”その日”の空欄に、
冴え返る 青いシグナル 妻は逝く
 とだけ記されていた。
 母は母で、父に看取られ幸福であったに違いない。亡くなる前日、夜間の付き添いを珍しく頑なに、私でなく父に頼んだのも、自分の最期を察し、自らの幕は二人だけのセレモニーの中で下ろしたかったからだろう。母の死後、数日経って、父は独り言のように、
「看取ることができて幸せだった」とぽつりと言った。(中略)
 しかし、以後の七年間、父はどんなに辛かったか、計り知れない。想像以上の心の傷。その大きさ、深さにこちらの方が戸惑った。(中略)
「一睡もできないって初めて知ったよ」
 この言葉は衝撃だった。(中略)
「今まで眠れない、眠れないなんて言っていたけれど、そう言いながらも実は気付かぬうちに、うとうとしていたんだと思うよ。でも、今回は違うんだよ。本当に一瞬も瞼を下ろすことができなかったんだよ」
 と、机の一点を見つめながらボソボソ言った。(中略)
 それからは、父の日常から赤ワインが手放せなくなった。眠れず、食べられぬ日々。大げさなようだが、赤ワインのみで命を繋ぎとめていたような状態。(中略)
 体はすぐに悲鳴をあげ始めた。体重激減、肝臓数値の悪化、極度の心的ストレスが引き金とは言え、これ以上見過ごすわけにはいかなかった。(中略)

「ママのことを書いてくれって言われているんだけれど、困っちゃうよ」 母が亡くなって間もなく来始めた依頼。その後、何度も右の言葉を繰り返していた。 それがある日、
「ママがね、夢に出てきて『私のこと書いてくださるの?』って言うんだよ」
 と、照れ笑いとも苦笑いともとれる表情で言って来た。当初は書きたくなかった母のことが、いつしか父の中で書くべきものに変わってきていた。客観的に振り返れるまでは書くものではないし、書けないものだと言い続けていたのが、亡くなる半年ほど前から、漸く本腰を入れ始めたところだった。
「今年こそは書き上げたい」
 と言っていた矢先の入院。今思うに、母がこれ以上書かれるのを拒み、本になる前に父を連れて行ってしまったのかもしれない。
「やっぱり恥しいんですもの」
 という母の声が聞こえて来そうな気がする。(以下略)

【筆者comment】▼この本は、家庭人「杉浦英一(城山三郎)」氏を描いた貴重な作品。氏の様なインテリでも、細君を亡くすとガックリ来るのだ・・。小生の場合ならどうなるか・・???( no comment )

010203■さて次は、明日3月6日が命日の『菊池 寛(きくち かん、1888(明治21).12.26 - 1948(昭和23).03.06)』である。
 彼は、小説家、劇作家、ジャーナリスト。文藝春秋社を創設した実業家。

【略歴】
▼香川県高松市生まれ。本名は同一表記で「きくちひろし」。菊池家は江戸時代、高松藩の儒学者の家柄だったという。
 高松中学校を首席で卒業した後、家庭の経済的事情により、学費免除の東京高等師範学校に進学。後、授業をサボタージュが原因で除籍処分。
 しかし地元の素封家から頭脳を見込まれて経済支援を受け、明治大学に入学。後、一高入学を志し中退。後、早稲田大学入学。
 1910年、早稲田を中退し第一高等学校第一部乙類入学。後、退学。
 後、京都帝国大学文学部英文科選科入学。
 京大卒業後、時事新報社会部記者を経て小説家。
 後、雑誌『文藝春秋』を創刊し大成功を収める。
 日本文藝家協会を設立。芥川賞、直木賞の設立者。
 大映初代社長を務む。
 川端康成、横光利一、小林秀雄ら新進の文学者を金銭的に援助。
 1927年、第16回衆議院議員総選挙に、東京1区から社会民衆党公認で立候補し落選。

【筆者comment】
▼菊池寛については、魅力ある人物だったせいか逸話が多い。その中からとくに興味深いものをご紹介する。夫人の回想の中で、「将棋好きの菊池寛が、駒をしゃぶった儘気付かずにいた」というところは、小生も昔聞いたことがあり、懐かしい。芥川や川端など将来性ある若手(当時)文人から頼りにされる菊池寛・・。人格的に懐の深い人柄だったのであろう。

〔『菊池寛』こぼれ話【回想録】〕
▼自分は菊池寛と一しょにいて、気づまりを感じた事は一度もない。と同時に退屈した覚えも皆無である。
 菊池となら一日ぶらぶらしていても、飽きるような事はなかろうと思う。(尤も菊池は飽きるかも知れないが、)それと云うのは、菊池と一しょにいると、何時も兄貴と一しょにいるような心もちがする。こっちの善い所は勿論了解してくれるし、よしんば悪い所を出しても同情してくれそうな心もちがする。
 又実際、過去の記憶に照して見ても、そうでなかった事は一度もない。唯、この弟たるべき自分が、時々向うの好意にもたれかゝって、あるまじき勝手な熱を吹く事もあるが、それさえ自分に云わせると、兄貴らしい気がすればこそである。
 この兄貴らしい心もちは、勿論一部は菊池の学殖(【筆者注】=深い学識。学問の素養)が然(しから)しめる所にも相違ない。彼のカルテュアは多方面で、しかもそれぞれに理解が行き届いている。が、菊池が兄貴らしい心もちを起させるのは、主として彼の人間の出来上っている結果だろうと思う。
 ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その議論に勝った時でさえ、どうもこっちの云い分に空疎な所があるような気がして、一向勝ち映えのある心もちになれない。ましてこっちが負けた時は、ものゝ分った伯父さんに重々御尤な意見をされたような、甚(はなはだ)憫然(びんぜん)な心もちになる。いずれにしてもその原因は、思想なり感情なりの上で、自分よりも菊池の方が、余計苦労をしているからだろうと思う。
   芥川龍之介「兄貴のような心持」 大正8年1月

▼私は音楽を聞くと、立身したいと発奮してゐた少年の立志時代の気待を、必ず思ひ出す。音楽と菊池寛は、妙な取合せだが、菊池氏は私にそのやうな効果がある。菊池氏のことを考へたり菊池氏に会ふと、何時も、これではならぬと、碌々としてゐる自分を恥ぢ、発奮する。一つには、三四年来に受けた限りない恩恵を、無駄にしてしまつてゐるかのやうに心が責められるからである。(中略)
 四年前、私が二十二三で、同人雑誌に小説を一二出しただけで、菊池氏と数へる程しか会つてゐない頃、私は三四ヶ月ぶりで、恐る恐る菊池氏を富坂の家に訪ねた。私に一寸した結婚の話があつて、生活に困るらしいので、翻訳の口でも紹介してもらはうと思つたのである。しかし、それも断はられる覚悟で行った。ところが、私が一言二言云ひ出すと、菊池氏は「うん。」と大きくうなづいて、僕が洋行中はこの家を君に只で貸してやる、そして月々五十円補助してやる、当座の費用は出してやる、小説の書いたのがあれば直ぐ持つて来い紹介してやる、洋行中は君の原稿の世話を芥川か誰かに頼んで置いてやる、なぞと、菊池氏が立てつづけに云ひ出したので、私は寧ろ阿然としてしまつた。その返礼として、洋行中の用事を少しすればいいのであつた。私の結婚の話は直ぐおぢやんになつたが、菊池氏は嘗て一度も、その成行を訊ねはしなかつた。これは、私が受けてゐる恩恵の一例である。
  川端康成「若い者を甘やかせる」 大正13年4月

▼主人は新婚当時も晩年も終始一貫して、人の世話をするのは好きでしたけれど、自分の世話をされるのが大嫌いなほうでした。
 たしか、新婚間もないことでしたが、今度は眼鏡でなくつて、あまり袴が変なので、私は主人につい無断でセルの袴を買いました。すると『そんな贅沢なことはしなくてもいゝ』と叱られましたので、着物でも何んでもあまり差し出がましいことをしないのがいゝのだと、私には段々、主人の気持が呑み込めるようになりました。あのように風采を構わない人でも、人から注意されることが嫌いだつたと見えて、夜など家へ帰りますと『××君はあまり世話を焼くからいやだ』と言うことをはつきり申しておりました。多分どこかのボタンがはずれているか、ネクタイがまがつているとかして、親切な方が、注意して下さつたことが、ずぼらなあの人の神経を刺戟したのでしよう。ですから自然とわたしたちも放任主義にならざるを得ない状態にさせられてしまいました。よく、お客さまの前で、単衣の着物を裏がえしに着てシヤアシヤア煙草を喫つているのを、ハラハラして見ていたこともありますけれど、他人に注意されて、いやにプンプンしているのを知つてますので、わざと知らんふりをしたものでした。
  菊池包子「わが夫菊池寛を語る」 昭和23年5月

▼将棋の話になりますが、これは又好きで好きで、「三度のめしを一度」にしてもいゝほど好きでした。学生の時には二段だつたそうですが、今はどの位の段になつていたのでしようか。とにかく、将棋でおつき合いの方は、二十歳位の時から一等最初に来られた木村さんをはじめ升田さん、塚田さん、梶さん、土居さん、死ぬ一日か二日前に指した倉島さん、萩原さんなど沢山のお友達を持つて居りました。
 この話はいつ頃のことか忘れましたが、ある日お友達と将棋を指して居りました。私は口やすめにと思ひ海苔巻の花あられを出して台所へもどり、しばらくすると、応接間で笑ひ声がしますので、あとで、『何かおありだつたのですか』ときゝますと、主人が、花あられと将棋の駒を間違えて口へ入れたまではいゝのですが、さあ決戦となつて駒が一つ足りない。自分の口に入れたのをまさか将棋の駒だと思はないからあたりをグルグル探して、結局、口にしやぶつていたのは、将棋の駒だつたと言うような、落し話みたいな話もありました。相手がない日は応接間で何をしているのかと、傍へ寄つてみると、古今の名局を一人で指している姿が、今でも眼の前にちらついています。
  菊池包子「 同上 」

▼全く菊池や僕たちの高等学校時代は、忘れる事の出来ない程出鱈目な、呑気な、又焦々した、愉快な生活をしたものだ。其時分彼は同性恋愛の熱心な宣伝者だつた。彼の言に依れば、同性恋愛こそは最も神聖な、最高なる恋愛の極致であり、其関係は最も進歩したる、最も文明的なるものであつた。此の見地に学問的背景を与へるため、彼は独逸のある六ヶ敷い研究を読んだり、同性恋愛に関する日本の古今の著書は、悉く渉猟し尽したりした。此点に於ては彼は恐らく日本で唯一の専門家であらう。彼はよく夕食の後などに、寄宿寮のスチームに足を暖め乍ら、そんな事にはまるで小供の僕たちを捉へて、諄々として其福音を説いた。(中略)
 その彼も、去年細君を貰ふてから、立派に変節をして了つた。「父の模型」を見ても解るやうに、全く彼の家庭は円満で、他(はた)で見る目も羨ましい。今僕が彼の旧悪を露(あば)くと、彼は苦笑する以上に、憤慨するかも知れないけれど、僕は菊池の此の昔話が、彼の人格の汚点になるやうな事は、絶対に無かるべきを信ずるから、敢て天下に公表するのだ。同性恋愛で無理心中をさせれば、芥川にも随分その分子がある。亜米利加から帰りつゝある成瀬にも、より多くの分子がある。この二人に比較すれば、菊池は寧ろ此点の純真なる夢想家で、ロマンチシストたるに過ぎない。
  久米正雄「同性恋愛の宣伝者」 大正8年1月

【後記】
■今日の締め括りは、梅を題材にした俳句の総仕上げ・・。三句ご紹介する。

 白梅のあと紅梅の深空(みそら)あり  
         飯田龍太 【山の木】所収(昭和48年作)
【解説】眼前には紅梅が真っ青な空を背景に艶やかに咲いている・・。梅の別名「春告草」は白梅が相応しい。紅梅はその白梅に少し遅れて咲く。先日来ご紹介している豊橋向山梅林公園の梅は白梅・紅梅ほぼ同時に咲いているが・・(笑)。

 梅が香にのつと日の出る山路かな  
         芭蕉【炭俵】所収(元禄七年作)
【大意】山径(みち)を歩いて行くと、梅の香りが漂う中で、朝日が急に差し込んで来た。「のつと」は「ぬっと」の意。寒気の中で、日の出時の清々しさと梅の香りの芳(かぐわ)しさ。秀句である。

 暮れそめてにはかに暮れぬ梅林
         日野草城【昨日の花】所収(昭和7年作)
【大意】まだ寒い早春の夕暮れ近く・・。梅林のあちこちを散策しているうちに俄かに暗くなってしまった。まだ早春の日は長くない。

【筆者comment】▼いい句は、やっぱりいいですね・・。 では、また・・。
(了)

2008年3月 2日 (日)

【時習26回3-7の会 0159】~「3月3日:『星野立子(1903-1984)』命日」「星野立子と三橋鷹女の『鞦韆』」「井上紀子『城山三郎の本懐』」「5日:二十四節気『啓蟄』」「福山諦法『人生とは・・』〔朝の一筆〕より」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0159】号をお送りします。

■月が変わり、今年も弥生三月になりました。この【時習26回3-7の会】も、【同窓会】を今年8月16日(土)18時から、恒例となりました『ブラウンズ』(豊橋市松葉町3-70 Tel.0532-54-8255)にて開催を予定しておりますので、昨年まで参加してくれた方々、まだ参加されていない方々、是非予定に入れておいて下さい。案内状(出欠確認)の出状時期につきましては、あまり早すぎても忙しい皆さんのことですから予定が立たない方も少なくないと思いますので、5月中・下旬を考えています。宜しくお願いします。m(_ _)m

■さて、三月三日は「桃の節句」。しかし今日は、節句のお話ではなく、3月3日が命日の著名な女流俳人がいますのでその方をご紹介させて頂きます。

【星野立子】
0102a▼その人の名は、星野立子(1903-1984)。1903(明治36)年11月15日東京富士見町生まれ。昭和59年3月3日死去。80歳。本名、立子。
▼高浜虚子の次女。昭和5年俳誌『玉藻』を創刊主宰。女流俳人としては中村汀女とともに双璧と称される。また、三橋鷹女、橋本多佳子を加え、4Tとも称された(『4T』の夫々の写真を添付しましたのでご参照下さい)。著書に、『立子句集』(昭和21)、句集『笹目』(昭和25)、随筆集『俳小屋』(昭和33)などがある。

▼それでは、数ある彼女の作品の中から、春に因んだ代表作の幾つかをご紹介します。


 ままごとの 飯もおさいも 土筆かな  
   【季語】土筆(春)(大正15年作)『立子句集』所収

【解説】▼立子23歳の春に、父虚子の勧めで作った初めての俳句。立子は「ありの儘を叙してみた」と自注に記している。立子が実際に眼にしたのは、小さな男の子が一人で、玄関の敷居に箱の蓋を置き俎板として遊んでいた情景。【筆者注】おさい=お菜。副食物。おかず。

【中村汀女】03a_204a                

【橋本多佳子】01_203a_3


 (ひかげ)れば 春水の心 あともどり  
   【季語】春水(春)(昭和8年作)『立子句集』所収

【解説】▼長女を産んだ立子が、多忙のため俳句を離れがちになるのを懼れ、虚子は女流を中心とする俳誌の創刊を立子に慫慂(しょうよう【筆者注】傍らから誘い勧めること)し、俳誌「玉葉」が昭和5年に誕生した。昭和7年には、畢生(ひっせい【筆者注】終生)のライバルとなる中村汀女との出会いもあり、立子は佳句を生み出して行く。この作品は、彼女の初期の頂点を成す作品と言えよう。
▼立春を過ぎると、日の光に満ちた池・川の眩(まばゆ)い煌(きら)めきや、岸辺の瑞々しい草々に、心ときめかせ、春の麗らかさを喜んでいるうちに、さっと日が翳ったことで、気持ち迄もが冬へと後戻りしてしまった様に感じられる。どんよりとして暗い。

 鞦韆に腰かけて読む手紙かな   
   【季語】鞦韆(春)『立子句集』所収

【解説】▼鞦韆はブランコのことで、殿上人の中国伝来の大人用の遊具。長く綱を垂れ、ゆっくりと揺れて楽しませるもの。ブランコに腰掛けて楽しい便りを読む場面を明るく詠んでいる。
▼「鞦韆」と言うと、北宋の詩人・政治家である蘇軾(そしょく)(東坡(とうぱ)(1036-1101))の有名な漢詩「春夜」が頭に浮ぶ。

          蘇軾
  春夜  
春宵一刻直千金
花有清香月有陰
歌管楼臺聲細細
鞦韆院落夜沈沈


春宵(しゅんしょう)一刻 直(あたい)千金
花に清香(せいこう)有り 月に陰有り
歌管 楼台 声細細(こえさいさい)
鞦韆(しゅうせん) 院落(いんらく) 夜沈沈

【訳】春の夜は、一刻千金の値打ちがある。花は清々しい香りを放ち、月は朧(おぼろ)に霞んでいる。先程迄、歌声や管弦で賑わっていた楼台も、今やひっそり静まり返り、ブランコに乗る人もいない中庭に夜はしんしんと更けて行く。

【三橋鷹女】
02■同じブランコ(鞦韆)を題材にした俳句でも、『三橋鷹女((1899-1972・明治32年-昭和47年4月7日歿)72歳 (善福院佳詠鷹大))』の作品は「『女』の凄み」がある。

 鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし
   【季語】鞦韆(春)(昭和26年作))『白骨』(昭和27年)所収

03a【解説】▼詩歌のレトリック(修辞法)の一つに、対句があります。「万丈の山、千仞(せんじん)の谷」「花は紅、柳は緑」の様に一対のものを対比させる方法で、漢詩では頻繁に用いられます。この句はその対句法によっていますが、それは形の上だけで、内容は対を成すとは言えません。「鞦韆」はブランコのことで、「鞦韆は漕ぐべし」はわかりますが、「愛は奪うべし」は鞦韆とは全く無関係です。にもかかわらずこの句が人をひきつけるのは、「鞦韆は漕ぐべし」にことよせて「愛は奪うべし」と言ってのけた強引さに、思わず納得してしまうところがあるからでしょう。有島武郎の『惜しみなく愛は奪う』を踏まえていると思われますが、(中略)鷹女の発想は非凡で、情念と自己愛の絡み合った独特の俳句を生み出しました。(NHK出版「諳んじたい俳句88」より)
【筆者comment】▼この作品は昭和26年の作であるから鷹女五十二歳前後の作品。丁度、現在の我々の歳に作ったもの。彼女の元気さと迫力に脱帽である。因みに添付した鷹女の写真をご覧下さい。彼女が若き時代のものであるが、この句の作者らしい、個性の強い青春を大正デモクラシーの中で謳歌した女性の様に見受けました。(実際はどうであったかは小生は知りませんが・・。(笑))

 老いながら椿となつて踊りけり
   【季語】椿(春:三春)(昭和25年作)『白骨』所収

【解説】▼歳をとっても平凡に老いたくない。「老い」は、美しくあらねばならなかった。老いの臭いを発せず、清潔に楚々として美しくなければならなかった。深緑の葉の中に咲く艶やかな「真っ赤な椿」の様に美しく元気でありたい。そして、妖艶に踊りもしようというのである。鷹女の個性の強さを「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」と同様に強く感じさせる句である。

▼「老いながら・・」の句を詠むと、次の句がすぐ浮んでくる。季語の白露(秋)であるが、いい句なのでご紹介したい。上記二作に優るともとも劣らない三橋鷹女の代表作である。【解説】も幾つかご覧に入れたい。

 白露や死んでゆく日も帯締めて
   【季語】白露(秋)(昭和25年作)『白骨』所収

【解説】①秋になった。庭先にはびっしりと露が降りている。袷(あわせ【筆者注】裏地付きの着物)を着る。帯をきりりと締める。― そうだ、死んでゆく日もこうやって帯を締めよう。凛と生き、凛と死にのぞむ明治女の心意気。(金子兜太監修『声にして味わう日本の名俳句100選』)
②鷹女は50代に入る頃から、盛んに「死」をテーマにする様になる。最期も凛とした正装でありたいと願うこの句は、明治生まれの女性の一典型を表している。「白露」という命の儚さを表す季語もまた、伝統に則ったもの。(復本一郎・佐々木幸綱監修『三省堂名歌名句辞典』)
③女性のナルシズムの極致とも思える句である。「白露や」という冷たく透明感のある上五(かみご)もよい。「死んでゆく日も帯締めて」には、身だしなみを重んじた女性が、同時に女として死ぬときまで美しさを保つという決意を示していて、気品と寂寥の結びついた澄んだ悲しみがある。鷹女は実際に美人だった。女性俳人の中でも特別に気位の高い人としても知られ、なまくらの俳人は側(そば)によることもできないと思われていた人だったので、その鷹女が詠んでいるからますますこの句が印象的である。鷹女ファンにとっては、こたえられない句であろう。(中略)一人我が道を行く態度なので、自分の生き方を絶えず俳句で表に押し立てていく。花鳥諷詠的な俳句の正反対であった。花鳥諷詠なら対象の花鳥に寄り添う訳だが、この人の場合は、花鳥でも何でも自分の個性を表現するための道具として使う。気が強い人だが、それを最後まで貫き通したのが立派である。鷹女の句は、他の俳人たちの句が人をゆったりと遊ばせてくれるのに対して、おいそれとは安楽に楽しませてくれない。鷹女の目標は、死んで行くときも帯を締めている様な孤絶の清らかさといったものにあっただろう。(以下略)(大岡信『百人百句』)
④「白露」は「露」と同じ意だが、わざわざ「白」と言うからには意図するところがあるからである。清々しく、さっぱりといつもの様に着物の「帯」をきちんと「締めて」 ― 。誰でも自分の死に際を一度や二度は想像することだろうが、こういう心境にはなかなかなれまい。虚飾のない真摯な生き方をしている人にこそ適えられる死に際である。(宗内数雄『昭和の名句』)
【筆者comment】▼三橋鷹女は、明治女性の枠には収まりきれない個性豊かな、教養ある女性であった。ある意味、気高い明治女の一典型であったのであろう。彼女の作品は、今も我々に訴えかける魅力ある傑作が多い。が、彼女は、きっと強烈な個性故に、日常的には少々付き合いにくい女性だったかもしれない、と小生は思う。

■さて話変わって、時節はまた移ろい、3月5日は、二十四節気でいう『啓蟄』。冬眠していた蛙などの小動物が土の中で動き出す。春本番がすぐそこにまで来ている。七十二候で言うと、初候(3月05日~09日):蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)、次候(10日~14):桃始笑(ももはじめてさく)、末候(15日~19日):菜虫化蝶(なむしちょうとなる)、である。因みに、お隣りの国、中国では、「【初候】桃始華(ももはじめてはなさく:桃の花が咲き始める」「【次候】倉庚鳴(そうこう なく):山里で鶯が鳴き始める」「【末候】鷹化為鳩(たか けして はとと なる):鷹が郭公に姿を変える」と言い、日本より季節の進み方が若干早い様だ。
* 
01_3▼晩唐の詩人、杜牧の漢詩『山行』にある「二月花」とは、旧暦二月に咲く「桃の花」。「桃始笑」の「桃」のことである。確かに「霜葉(紅葉したモミジの葉)」は桃の花より「紅色」が鮮やかである、 と改めて感心した次第。添付写真(「花桃の花」2枚)をご覧下さい。

           杜牧
  山行     
遠上寒山石径斜
白雲生処有人家
停車坐愛楓林晩
霜葉紅於二月花


遠く寒山に上れば 石径斜なり
白雲生ずる処 人家有り
車を停(とど)めて坐(そぞろ)に愛す 楓林の晩(くれ)
霜葉は二月の花よりも紅なり


02_2【訳】晩秋の日暮れ、寒々とした石畳の山道を何処までも上って行くと、白雲の湧いている辺りになんと人家があった。車を止めてうっとりと楓(カエデ)の林の景色を愛(め)で眺めた。霜で紅葉したカエデの葉は、(旧暦)二月頃咲く花(【筆者注】「桃の花」のこと)より、尚一層紅い。

PhotoPhoto_2Photo_3■続いては、PHP月刊「ほんとうの時代」3月号から、特別企画『城山三郎の本懐』です。これは城山三郎氏の次女井上紀子氏の「父の回想」という随筆です。城山三郎氏(以下敬称略)は昭和2年生まれ。ほぼ我々の親の世代になるので、紀子氏の回想文を読むと、何故か共感を呼ぶと感じるのは小生だけでしょうか。では、ご覧下さい。添付写真「氏の書斎」「城山三郎氏、奥様、次女紀子さん」「城山三郎氏と藤沢周平氏(二人とも昭和2年生まれで仲が良かった由)」もどうぞ。

【本と旅を大切にした城山家の教育方針】
▼父との思い出というと、私が小学校に上がる前だったと思いますが、庭にゴザを敷いて、飯ごうでお米を炊いて食べたことが不思議と懐かしく思い出されます。(中略)どうしてそんなことをやったのかわからないのですが、今思うとその場には母もお手伝いさんの姿もなかたので、おそらく父が二人を休ませるために外出させ、その間に父なりのアイデアと方法で子供達と楽しく食事をしようとしていたのだと思います。(中略)父は読書と旅、自然と動物が好きで、私達にも本と旅はしきりにすすめました。こうしなさいというのではなくて、何をすべきで、どういうふうに考えるかは自分の目で捉え、肌で感じ、自ら決めなさいというのが、父の教育方針でした。(以下略)
【あまりに大きかった妻を喪った痛手】
▼2000年の二月末に母が亡くなったのですが、それから父は一睡もできなくなって、一人でいる時はほとんど物が喉を通らない状態で、みるみる痩せていきました。食べられない日々が暫く続き、「ピカソもね、赤ワインのお蔭で長生きしたらしいよ」と言って、赤ワインで命を繋ぎ止めていた様な状態でした。
▼そんな風に、母が亡くなった直後は本当にガクッときていたのですが、その頃は『指揮官たちの特攻』の執筆の真っ只中。辛かったと思うのですが、執筆にエネルギーを注ぎ、集中できたことはかえって良かったのではなかったかと思います。母がなくなったことで、それまでは死んでいく者の視点で書き進めていたものが、残されてしまった者の身に主眼が移って、より深みのある作品として完成させることができた様に思います。(中略)
▼それで、最後に取り組んだ作品が母のことを綴った『そうか、もう君はいないのか』でした。母が亡くなった直後から執筆依頼があったのですが、(中略)亡くなる半年ほど前から漸く本腰を入れたところでした。出版社には未完でお渡しすることになったのですが、(中略)こうして出版されて、天空で無所属の時間を満喫している父もほっとして、ありがたく思っているに違いありません。傍らではにかむ母とともに。
【筆者comment】
▼城山三郎は、小生、司馬遼太郎と共に好きな作家である。同氏が「読書・旅・自然・動物」が好きであったことを知り、同氏への共感を従来に増して覚えた。「『赤ワインが長生きにいい』とピカソが言っていた」というこの逸話は初めて知った。愛飲家の小生としては「赤ワイン」が身体にいいのは勿論心強いことですが・・。(笑) それから、同氏の晩年の姿がげっそり痩せていたので何か大病でもしたのかと思っていたが、奥様を亡くされたことがその原因と初めて知った。今、書店の店頭に『そうか、もう君はいないのか』が出ている。小生はまだ読んでいないが、また一度読んでみようかと思っている。
▼因みに、「指揮官達の特攻」については、小生昨年3月31日付会報【0078】号で取り上げていますのでご興味ある方は以下のURLをご覧下さい。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/26_0078email_ad_8b8f.html

【後記】■さて今日の締め括りは、前【0158】号でご紹介した、福山諦法禅師のエッセーをもう一つご紹介したい。禅師の説法は非常に庶民的で親近感が湧く。「人生は、その生涯全てが如何に生きるべきかを捜し求めていく『修行』。」なのですねぇ。

■『人生とは・・』
 今から十五年ほど前のことになるが、アメリカの医学者の論文に、『両親の若い時の子供は、両親の若い生命力を、そのまま授かっているから、長生きすることが多い。それに比べて両親の晩年に生まれた子供は、そうはいかない』と、言ったものを読んだ覚えがある。
 また、日本の学者の説によると、『昭和一桁生まれは、その大切な成長期に戦争などでロクなものを食べていないから血管がもろく、病気になると、すぐに倒れてしまう』と、いったことも覚えている。
 さて、私個人のことになるが、私にはこの両方とも、あてはまる。即ち、五人兄弟の末っ子で両親の晩年の子供であり、昭和一桁生まれで、ことに小学生の時は、東京に住んでいたせいか、食べ物には、随分苦労した。それでも何とか、かんとか今日まで生きている。生きている、というよりも、生かされていると、言った方が本当だろう。世の中の有形無形のお蔭様によって生かされている。有難い限りである。が、この様に気付く迄には、随分時間がかかった。若い頃は『人生とは何ぞや、私ごとき者の存在価値など、何一つないのではないか』などなど、拗ねてみたり、悩んでみたりしたものである。
 現在では、やや肩の力を抜いて、自然体になろうと心がけているのであるが、そんなことを思えば、かえって力が入ってしまう。古希になったというのに、未だ情けない次第である。
 ある偉いお坊さんは、若い修行僧の『人生如何に生きるべきか、教えて下さい』の真摯な問いに『二十歳そこそこの若僧にわかってたまるか、八十歳を越えたわしでも、わからないのに』と、言ったという話がある。これがわかったら仏さまであろう。
                   (平成15年3月31日)

■春を詠(うた)う、星野立子の作品をまた一つご紹介します。いよいよ、これからが春本番です・・。

 囀(さえずり)を こぼさじと抱く 大樹かな   
   【季語】囀:(春)(昭和14年作)『続立子句集 第一』所収

【解説】春は、鳥たちの「囀り」の季節。春を迎える賛歌の様に聞こえる。が、時はまさに繁殖期。命を殖やすために相手を求める恋の叫びでもある。この句は、樹齢何百年という大樹に、沢山の小鳥が群がって鳴き競っている場面を詠んだもの。「こぼさじと抱く」という擬人法が上手い。

■春は明るい陽射しと心地良い春風、そして花の香。気分を爽快にしてくれる。最近は原油高や原材料・食品の値上げ等、憂鬱な話も多いが、明るく前向きに考えて元気に参りましょう。では、また・・。

(了)

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