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2008年4月 5日 (土)

【時習26回3-7の会 0166】~「4月4日:『清明』」「我が家の『海棠』の花」「4月5日:『カラヤン』生誕百周年」「4月5日:『三好達治』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0166】号をお送りします。平成20年度も始まり、会社・学校では新入社員や新入生が入って来て初々しく、清々しい気分になりますね。8月の【2637の会】【同窓会】もあと四ヶ月余りになりました。皆さん、予定に入れておいて下さい。お願いします。m(_ _)m 
▼それでは、今日も、場つなぎでお話を始めたいと思います。(笑)

■さて日付変わって・・、昨日日4月4日は二十四節気でいう『清明』の日。いよいよ春本番です。桜も満開。昨日4日、東京出張して気づいたのですが、東京ではすでに散り出していました。我が家の花も、先日ご紹介した杏(アンズ)は散り、李(スモモ)も盛りを過ぎ、いよいよ「海棠」の花が咲き出しました。ただまだ満開ではありません。でも、鮮やかなピンク色で桜とは一味違った風情がありいいですね。添付写真をご覧下さい。今回と次回の二回に分けてご覧に入れますが、今日は昨日夕刻撮影した「海棠」の花です。時間が日暮れ間際なので背景が暗くて恐縮ですが、その分、「『海棠』の花」が浮き出て見えます。(笑)

010203040506▼『海棠』の花に因んで俳句を集めてみました。

 海棠や 白粉に紅を あやまてる  蕪村

 海棠に 障子明けたる 化粧哉(かな)  正岡子規

 海棠や 旅籠の名さへ 元酒屋  水原秋櫻子

 海棠の 雨あがらむとして涼し  長谷川浪々子

 海棠に 乙女の朝の 素顔立つ  赤尾兜子

▼続けて、「『春』の夕暮れ~夜(=『春宵』)」に因んだ名句をいくつか拾ってみました。春の夕暮れどきの余韻・・。春宵のなんとなく艶めいた風情・・。一方で、春の夜寒むの雰囲気・・。夫々が持つ、「春宵」の魅力を堪能して下さい。

 しろがねの やがてむらさき 春の暮  草間時彦
【解説】春の夕暮れが刻一刻と深まってゆくところである。それを空の色の変化で捉えた。何処かで”春宵一刻値千金”の”金”には銀(しろがね)が通じている様で、艶やかな雰囲気が漂う。一日が終わり、夜の歓楽が始まる前の夕方の気分。句集『櫻山』所収。

 菜の花の 暮れてなほある 水明り  長谷川素逝(そせい)
【解説】菜の花と言えば南房総の風景が浮ぶが、「水明り」とあるので、水郷の辺りかもしれない。昼は黄色が眩しいほどだったが、日が沈むと、菜の花は夕闇の中に溶けてゆき、水面だけにほの明りが残る。それもやがて闇一色に包まれてゆく。「なほ」の働きに注目。句集『暦日』所収。

 春寒の 社頭に鶴を 夢みけり  夏目漱石
【解説】▼これは『京に着ける夕』の末尾に添えられた句。春になっても寒い神社の境内に寝て、鶴の夢を見た、というのだが、鶴は未来の幸せとか成功を意味しているだろう。寒い寒いと震えながら、京都の漱石は、未来へ向かって大きく踏み出そうとしていた。
  (「俳句で歩く京都」(淡交社))
▼明治40年3月28日から4月10日まで、漱石は京阪に遊んだ。朝8時に東京を出て、夜、京都七条に着いて、人力車に乗って下賀茂に行き、糺(ただす)の森の中の宿屋に入った。京都の第一印象は寒いということだと日記に書き、そしてこの句を記した。
 糺の森は賀茂神社の森である。(中略)
 鶴の凍てた姿、寒くて夢まどかでなかった漱石の姿も眼に浮ぶ・・。
『漱石俳句集』に、次の様な前書がある。「京都は寒く候。加茂の社は尚寒く候。糺の森の中に寝る人は夢まで寒く候」。(中略)漱石らしい品格のある句である。
  (山口青邨「日本秀句5『明治秀句』」(春秋社))

 春の灯(ひ)や 女は持たぬ のどぼとけ  日野草城

 春の夜や 都踊は よういやさ  日野草城

 春の日の 晩照のなかに なほ勤む  山口誓子
【解説】病癒えて、会社の勤務に復帰した。(中略)春の一日の終る頃、太陽の光は西からさして、私は、春の日の晩照の中で仕事を続けていたのである。


Karajan01Karajan02Karajan03Karajan04■さて続いては、今日4月5日が誕生日で、生誕百周年になる大指揮者『カラヤン』についてである。クラシック音楽が好きな小生、最初に自分から能動的に聴いた曲は、カラヤン指揮ベルリンフィルによるベートーベン交響曲第六番へ長調作品68「田園(Pastoral)」であった。今年、『カラヤン生誕百年』が、話題になっていることは、”NHK知るを楽しむ「私のこだわり人物伝」”の4月号でカラヤンを取り上げていることからもその一端が窺える。コラムニスト天野祐吉氏のessay「誰のための音楽『カラヤンの功罪』」からその一部をご紹介します。

▼1989年7月、カラヤンが81歳で死んだとき、西ドイツの代表的週刊誌「ディ・ツァイト」に、大要、こんな記事が載ったそうです。「この人ほど音の美しさに敏感で、それを極点まで追い、実現する力量を持った人はいなかった。その点、彼が今世紀きっての大指揮者だったことを疑うものはいない。だが、この稀有の才能も結局音楽を袋小路に導いてしまった。それに彼が真剣な関心を持ち続けた音楽の複製工学の進歩も、音楽の民主化に役立つよりも、彼個人のあくなき権力志向、音楽市場に君臨しようという欲望の手段に成り下った」。・・・カラヤンは音楽の偉大な伝統を金貨に変え、音楽経験を高価な消費財の享楽に摩り替えたとして、猛烈な非難攻撃を受けたが、それを通じて、他のだれよりも時代の動向、現代社会の性格を象徴する芸術家になったのだ。 当時、この記事を紹介しながら、吉田秀和さんはこう言っています。「私はこれに大筋で賛成する。逆にみれば、文句の余地のない名指揮者で終わったら、カラヤンはカラヤンではなかったことになる」(吉田秀和「カラヤンの死」)
 因みに、同じ日、イギリスの名優ローレンス・オリヴィエも死んでいます。で、それを扱った記事のほうは、称賛に終始していたそうです。
 それはそうでしょう。なぜって、オリヴィエはイギリス劇壇の伝統の継承者ですが、カラヤンのほうはヨーロッパ楽壇の伝統の破壊者です。破壊者は、それが優れた破壊者であればあるほど、称賛も大きいが非難も大きい。(中略)
 カラヤンのオペラについて、吉田秀和さんはこう言っています。
「オペラでもよく独裁的だとかオーケストラを歌手の前に押し出しすぎるとか言われるが、彼本来の姿はベルカント(【注】bel canto(伊)美しい歌唱の意味。オペラ用語では、イタリア式の明快な発声法を指し、滑らかで軟らかい響きを持つ)の壺を完全に押さえ、その美質を最高に発揮さすために行き届いた指揮にある。フレーズの切り方一つみても、よくわかる。1955年、ベルリンでカラスが『ルチア』を歌った時、後でカーテンコールに出て、感激の余りカラヤンの前に跪き、手に接吻して名指揮者に感謝し讃美した逸話一つとっても十分ではないか」(吉田秀和『前掲』)
02_2 1987年、ザルツブルクの夏の音楽祭でカラヤンに招かれ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から「愛の死」を歌ったジェシー・ノーマン(添付写真ご参照)も、カラヤンの指揮について、こう語っています。
「このアリアは50以上もピアノやピアニッシモの指示があるんですが、彼の様に指揮してくれて初めてピアノで歌うことが出来るんです。彼の指揮なら、自分がいいと思う歌い方だと客席に聞こえないんじゃないかなんて心配する必要もないし、本当に素晴らしい。こういうふうにオーケストラに支えて貰ってこそ、この役を歌うことが出来るんです」
 カラヤンは、1989年の7月16日、ザルツブルク近郊の自宅で突然倒れ、81年の生涯を終えました。(以下略)
【筆者comment】
▼1989年7月16日、カラヤンは突然倒れたのですが、その場にいたのがソニーの元会長の大賀氏であった。
▼ジャンル別では、交響曲だけを見ても、カラヤンの全集では、ベートーベン交響曲1~9番、ブラームス交響曲1~4番などが定番の名曲。このほか、マーラーの交響曲第9番、ブルックナーの交響曲8番、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」、ショスタコーヴィチの交響曲第10番、モーツァルトの後期交響曲35,36,38~41番、パッと思いついただけですが、いずれも珠玉の名盤ばかりです。まだ聴いたことがない方は是非一度聴いてみて下さい。いいですよ~。(笑)

01_2■さらに「カラヤン」を師と仰ぐ小澤征爾が武満徹と対談したことを共著とした『音楽』(新潮社)(添付写真ご参照)で、「僕の先生=斎藤秀雄、ミュンシュ、カラヤン」のところでカラヤンを次の様に語っています。

▼僕はその斎藤先生にしぼられてからフランスに行ったでしょう。ブランソンの国際指揮者コンクールに優勝してミュンシュに会ったわけ。ミュンシュはさっきも言ったけど長い棒を持ってリラックスしてサーッとやるのね。それをパリのシャンゼリゼ劇場ではじめて見てね。なるほど指揮者にはこんな芸当ができるのかと思ったんですよ。あのくらいびっくりしたことはなかったね。プランソンの、優勝したあとのパーティでミュンシュ先生に偶然会って、弟子入りを申し入れて、断わられ、ボストン交響楽団のタングルウッド音楽祭のコンクールに受かれば教えると言われたの。そのコンクールにも優勝して、漸く念願の先生の弟子になれたわけ。 その後カラヤン先生の弟子になるためのテストにも受かって半年間教えられたの。カラヤン先生は内的でね。棒なんかどうでもいいというようなことを言うわけよ。本当に。僕が立っている指揮台の真下の椅子に腰掛けて、背後から睨む様にして。シベリウスのシンフォニーの終り、ターリーラー、ラーリーラーがあるでしょう。僕が一生懸命に振っていると「セイジ! 振りすぎる」棒なんかどうでもいい、流れがあればいい。精神が終りまで持続すればいい、じーいっと立っていればいい、そういう禅問答みたいなことを半年間ぐらいやられたんだよ。彼からは手の動かし方、スコアの読み方は勿論、音楽のキャラクターの作り方を教えられた。そして演奏を盛り上がらせるには、演奏家の立場よりも聴衆の心理状態になれ、理性的に少しずつ盛り上げてゆき、最後の土壇場に来たら、全精神と肉体をぶっつけろ!そうすれば客もオーケストラも自分自身も満足する、ということを教えられた。 だから僕は、幸いにも、全く違う三人の先生に教えられたわけだ。斎藤先生は、底辺のための、明快にして精妙な、世界にその類をみないほどの完璧な指揮のメソードを発明して指導してくれた。指揮者の手を動かす運動を細かく分類して。シャルル・ミュンシュ先生からは、練習ではなにも注意されなかったけど、「スープル(【筆者注】「しなやか(フランス語)という意味」)、スープル、力を抜け、頭の力も体の力も手の力も全部抜け!」と言われたのを覚えている。シャルル・ミュンシュの指揮はファンタスティックな天才的な神技で、カラヤンの指揮は観客をあっと言う間に引きつける魔法の杖だった。それが1958年か1958~960年位の話だ。だから僕は本当に幸運だった。(以下略)

01_302_303_2■続いては、こちらは今日4月5日が詩人三好達治(1900.08.23-1964.04.05)の命日である。彼は、和歌・俳句の素養の上にボードレール(Charles Baudelaire(1821-1867))やジャム(Francis James(1868-1938))の詩を学び、日本伝統詩の精神を継承しつつ、新しい抒情詩を開拓、現代詩を古典的完成まで高めた詩人と評されている。
【経歴】
1900(明治33)年08月23日 大阪市東区南久宝町に父政吉、母タツの9人兄弟(うち5人は夭折)の長男として生まれた。父は印刷業を営む。
1914(大正03)年(14歳) 大阪府立市岡中学校入学。 
1915(大正04)年(15歳) 市岡中学を退学し、大阪陸軍幼年学校入学。
1918(大正07)年(18歳) 東京陸軍中央幼年学校本科入学。翌年、北朝鮮会寧の工兵第一九大隊に士官候補生として赴任。後、脱走事件を起こし、(1921(大正10)年)退校処分に。
1922(大正11)年(22歳) 第三高等学校文科丙類に入学。同級生に桑原武夫(後掲【三好達治のepisode】〔2〕参照)、丸山薫(同【同】〔4〕参照)、貝塚茂樹ら、上級生に梶井基次郎らがいる。この頃より萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫らの詩に心酔。丸山薫の影響で詩作を開始。後、「乳母車」「甃(いし)のうへ」等を発表して好評を博す。
1925(大正14)年(25歳) 東京帝国大学文学部仏文科に入学。同級に小林秀雄、中嶋健蔵がおり、堀辰雄を知る。
1926(大正15)年(26歳) 梶井基次郎、外村繁らの同人誌「青空」の同人となる。
1928(昭和03)年(28歳) 東大仏文科卒業。ボードレール『巴里の憂鬱』の翻訳を完成。
1930(昭和05)年(30歳) 「作品」の同人となり、井伏鱒二、大岡昇平らと親交。処女詩集『測量船』を上梓。知的な抒情や古典的な表現などにより一躍詩人としての名声を獲得。
1934(昭和09)年(34歳) 佐藤智恵子(佐藤春夫の姪)と結婚。処女歌集『日まはり』、詩集『聞花集』を刊行。堀辰雄、丸山薫とともに同人となって詩誌『四季』(第二次)を創刊。中心的存在として活躍。
1935(昭和10)年(35歳) ボードレール『悪の華』を翻訳。『山果集』を刊行。
1939(昭和14)年(39歳) 『春の岬』『艸千里』を刊行。
1943(昭和18)年(43歳) 詩集『朝菜集』『寒訴』を出版。智恵子と離婚。
1944(昭和19)年(44歳) 萩原アイ(萩原朔太郎の妹)と結婚。『一点鐘』『花筐』を刊行。『四季』を81号にて終刊する。
1945(昭和20)年(45歳) 萩原アイと離別。『干戈永言』を刊行。福井市三国に転居。
1946(昭和21)年(46歳) 「新潮」に「なつかしい日本」を連載。『故郷の花』『砂の砦』を刊行。
1949(昭和24)年(49歳) 東京都世田谷区代田に転居。『詩人の生涯 ― 萩原朔太郎』を連載。
1950(昭和25)年(50歳) 『朝の旅人』を刊行。日夏耿之介、中野重治らと『日本現代詩体系』を共同編集。
1952(昭和27)年(52歳) 詩集『駱駝の瘤にまたがって』、詩論集『卓上の花』を刊行。谷川俊太郎詩集『二十億光年の孤独』の序詩を書く。吉川幸次郎と共著で『新唐詩選』を岩波書店より刊行。
1953(昭和28)年(53歳) 芸術院賞受賞。金子光晴、西脇順三郎らと『現代日本詩人全集』を共同編集。
1963(昭和38)年(63歳) 評論『萩原朔太郎』、随筆集『草上記』を刊行。
1964(昭和39)年 中野重治、伊藤信吉らと『室生犀星全集』を編纂。3月狭心症を発病。4月5日死去。享年63歳。

▼それでは、三好達治の作品から二つ「雪」「甃(いし)のうへ」(『測量船』(昭和5年刊))をご紹介します。

     

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。



     甃のうへ

 あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音
(あしおと)空にながれ
 をりふしに瞳あげて
 翳
(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍
(いらか)みどりにうるほひ
 廂
(ひさし)々に
 風鐸
(ふうたく)のすがたしづかなれば
 ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃のうへ


【訳】
  ( 逝く春よ、過ぎ行く青春よ・・ )
 ああ花びらは流れる( 様に散りかかり、学校を卒業した )
 彼女等の髪の肩に、そして胸の辺りに散りしきり
 彼女等もしんみりと語らいながら通り過ぎてゆく
 ( 境内の石畳を踏む )
 長閑(のどか)な履物の音は晴れ上がった空に響き
 ( 咲き満ちた桜の花に ) 時々瞳を上げては( 話を続けながら )
 春日の照り亘る寺の屋根の瓦は古色蒼然と緑青色に潤い
 軒の四隅には( 黒ずんだ )
 風鐸が揺らぎもせず、しーんとしているので
 ( 街の人ごみを好かない自分は憂悶を抱き )
 一人孤独な
 我が身の黒い影が石畳の上に落ちているのを見つめながら
 うつむいているのである。

【筆者comment】▼大正15年(達治26歳、東大仏文科在学中)の作品。東京の護国寺の境内を詠んだものだが、三高時代を過ごした京都の寺々の幻想が付け加えられているという。桜の花の散りかかる晩春の頃の、大寺の境内に漂う「春愁の趣」と「過ぎ去ろうとする青春への愛惜」を詠っている。時節は、まさに今日この頃。桜の舞い散る大寺の境内・・。学校を卒業したばかりの若々しい乙女・・。確かに絵になる情景である。

【三好達治episode】
〔1〕▼はじめて三好さんの姿をみたのは、六、七年前、渋谷のとん平という居酒屋であつた。ぼくは『測量船』の詩人、三好達治とはどんなスマートな人かと想像していたが、はじめて会つた第一印象は、異様なほど茶色い顔に、古びたソフトを被つた、のんだくれの西洋乞食みたいな、甚だ風采のあがらぬ姿であつた。(中略)その時、三好さんはたまたま居合わせた詩人の大木惇夫氏に向つて烈しい罵声をつらね壮絶なからみかたをしていた。
 洋服を着ると甚だ風采のあがらぬ三好さんであるが、和服を着た三好さんは別人のように粋で美男子である。室生犀星のお通夜にかけつけ、羽織袴で霊前になきながらまいつていられた三好さんの姿は立派だつた。萩原朔太郎全集の編集の時、おたがいに朔太郎を愛する余り喧嘩別れし、そのまま生前絶交状態にあつた師犀星に対し、三好さんは無限の感慨を抱いていられたのだろう。二日続いたお通夜のあと、三好さんは家にも帰らず、とん平でいつまでも飲み続けていられた。そしてたまたま隣りの席に坐つたぼくに、自分がどの位犀星に決定的な影響を受けたか、詩人として完成したのは朔太郎だがそのそもそもは犀星の『抒情小曲集』の革命的な詩表現にあることを、何度となく繰り返し述べ、惜しい詩人を喪つたと言つては絶句し、涙をぬぐわれるのであつた。
  奥野健男「三好達治と最後に飲んだかなしさ」 (昭和39年6月)

〔2〕▼『測量船』によって詩壇には確実な地歩を築いたが、三好は依然として貧乏だった。とくに結婚して金がいる。そこで私は落合太郎先生のお口添えを得て、すでに『赤と黒』などの翻訳で知合いになっていた岩波書店で、なにか翻訳を出してはどうかと口をきいた。
 三好はフィリップの『母への手紙』を訳したいという。岩波文庫星一つの分量だ。話がほぼまとまって、最後の打合わせに三好は私といっしょにはじめて書店をたずねた。すベて話がまとまったとき、最後に三好が言った。
「それで、前借りとして、どれほどいただけますかね」
 驚きをうかべて主任が答えた。
「岩波では、どなたさまにも前借はしていただかないことになっています。店是といたしまして、どのような先生方にも、前借はいたさないことになっておりますので……」
「岩波の店是はそうかもしれない。しかし、三好家の家憲では、前借なしには、いっさい仕事はしないということになってます」
 まさに電光石火の反撃であった。そのあと私がどうとりなしたか、こまかなことは忘れたが、ともかく三好は若干の妥協をしつつも家憲を守り、そして『母への手紙』は昭和十年にたしかに刊行されている。
 彼は私が前借なしに仕事をするのを度々とがめた。もしある仕事の中途で死んだとすれば何のとくにもならない。ところが毎回前借をしておけば、死んだときに一回分か二回分の前借金だけとくになるはずだというのである。
  桑原武夫「借金の天才・三好達治」 (昭和39年10月)

〔3〕▼たしか昭和四、五年ごろの晩秋か初冬のことだったと記憶しますが、ある夜もうかなり遅くなってから、三好さんがひょっくり訪ねてみえました。そして部屋へ通るなり、オーバーの両方のポケットから一合瓶を一本づつ取出した三好さんは、さっそくその口を私にあけさせて、冷やのまま飲みだしました。何やらいらいらしている様子が、ありありと感じられましたが、そのうちに三好さんは思い余った様子で、
「中谷ッ! おれの詩は古いか。古くはないだろう。はっきりいってくれ」
 と訴えるように叫び、涙を流して泣き出しました。いままで堪えに堪えていたくやしさが堰を切ってあふれ出したようです。酒を一滴も飲まない中谷は、あきれたように黙って三好さんを見つめていましたが、三好さんが何度も同じことをくり返し訴えるので、
「どうしておれにそんなことをきくんだい。何かあったのか」
 その方を先に聞きたい様子を見せますと、
「こんどの『詩と詩論』のおれの詩、君も読んでくれただろう。萩原さんがあれを古いというんだ。いやもっとひどいことをいった。あんなものは無意味だといったよ。古くて、無意味とは、あんまりじゃないか」
 そういって三好さんは、ポタポタと涙を流し、それを平手で拭うのでしたが、拭ったあとからまた涙は溢れてくるのでした。そんな三好さんを、中谷はことばをつくして慰めたり励ましたりしていましたが、師と頼む萩原朔太郎さんの批評は、よほど三好さんにこたえたらしく、容易にきげんは直りそうもありませんでした。
  平林英子「三好さんのこと」 (昭和40年12月)

〔4〕▼三好はひどく酒が好きで、この点もウマが合って、よく一緒に呑みに行った。そんな場合、至って無策な僕とはちがって、巧みに呑み代を工面してきた。またその金をパッパッと使い果した。(中略)
 そんな三好とのつき合いで、たった一つだけウマの合わない面があつた。三好が映画ぎらいであって寄席が好きな事だった。そんな彼を無理に映画館にひっぱって行くと、終始、彼は浮かぬ顔付になり、見終ってからもむっつりと押し黙ってしまうのだった。逆に彼にひきずられて僕が寄席にはいると、坐布団や火鉢の運ばれてくるふんい気の中でキョロキョロと落ちつかない僕の耳元に、彼は生き生きとして口数が多くなり、いかにも居心地よさそうに、高座に登る芸人達について、彼一流の東西(江戸と大阪)文明比較論をささやきつづけるのだった。
 或るとき映画館の中で、彼は映画を好まない理由を釈明して、スクリーンにうつる外人の俳優を見ていると、自分の褐色をした手や顔がさびしく思えてくるからだと云った。そして「僕はやっぱり日本人なんだ」と結んだ。言葉はしょんぼりした小声だったが、我ながら意外なほどはっきりと憶えている。
  丸山薫「ウマの合った三好達治」 (昭和39年10月)

【筆者comment】▼詩人三好達治は、四季派の代表的詩人として著名だが、達治の詩は、Ⅰ期:『測量船』を中心として国民詩人、自然詩人としての立場を築き上げた時期、Ⅱ期:『捷報いたる』『寒折』『一点鐘』など、戦争詩を書いていた時期、Ⅲ期:敗戦後、『故郷の花』『砂の砦』『駱駝の瘤にまたがって』に見られる様な自嘲ともユーモアともつかぬ作品を書いていた時期、に分けられるとされる。詩人鮎川信夫は、詩人三好達治を痛烈に批判している。この辺りの話は大変興味深いが紙面の都合もあるので後日またゆっくりとしてみたいと思う。

【後記】▼昨日、仕事で上京した。目的地は渋谷の某社。駅前の桜並木は満開を過ぎ、風が吹くたびに桜吹雪となりなんとも言えず美しかった。
 仕事を済ませた後、今日も時間が出来たので、乃木坂の国立新美術館で現在開催中の「モディリアーニ展」を観て来ました。この模様については、次回ご覧に入れたいと思います。
 では、また・・。
(了)

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