【時習26回3-7の会 0169】~「4月20日:『穀雨』」「4月16日:『川端康成』命日」
■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0169】号をお送りします。8月16日の【2637の会】同窓会まで、あと119日です。待ち遠しいですねえ。小生は、3月~4月は、勤務先の期末・期初の雑務、決算・株主総会準備等で結構ハードで、【2637の会】会報を満足なレベルで皆さんに提供しにくくなって来ており、後ろめたい気持ちがします。お赦し下さい。・・でも、愚痴っていても仕様がないので、さぁっ、今日も張り切って参りましょう。皆さんからの便りを心からお待ちしています。気軽にmailを下さいね。
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■さて、今日、最初の話題は、明日4月20日は二十四節気でいう『穀雨』。この時期は雨が多く、作物が育つ素地が出来上がる大切なときです。今年の4月は、例年よりも雨が多い感じがしますね。一昨日から昨日にかけて確りと雨が降りました。夏の水不足のことを考えると、必要なこととは思いますがやはり鬱陶しいというのが正直な感想です。・・が、この点、気分を変えて文学的に捉えてみると、なかなかいい感じがするので不思議です。
春のこの時期の長雨を昔から『春霖(しゅんりん)』と言いますが、この名前の響きからして奥ゆかしく情感の豊かさを感じます、と小生は思います。
『穀雨』とは、穀物の芽に注ぐ雨が百穀を育む、「暖かな雨が地を潤し、穀物(→延いては、『万物』)を育む」雨と理解していい。
そこで、『穀雨』に因んだ俳句を二句ご紹介します。
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掘り返す 塊光る 穀雨かな 西山泊雲
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【意】畑仕事での一コマ・・。土を掘り返すと、黒々と肥えた土の香りが、そしてその土塊は穀雨で潤いきらりと光る。
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まつすぐに 草立ち上がる 穀雨かな 岬 雪夫
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【意】草の芽が真っすぐに立ち、素直に伸びて行く。「穀雨」という天の恵みの証左だ。
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毎日、小生、会社まで、健康を考えて、自転車通勤していますが、広小路五丁目辺りの街路樹の『花水木(ハナミズキ)』が木々毎に、枝いっぱいに紅色や純白の可憐な花を咲かせて大変綺麗です。添付写真をご覧下さい。携帯電話のカメラですのでキッチリ撮影出来ていませんが、綺麗でしょっ?
『花水木』を詠った水原秋櫻子の俳句を一つご紹介します。
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花みづき 十あまり咲けり けふも咲く 水原秋櫻子
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続いて、小生の拙句を一つ・・
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彼(か)の女(ひと)の 想い出遥か 花みづき 悟空
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【意】可憐な『花水木』を見て、昔日のvirtual realな世界を想像してみました・・。(笑)
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■続いては、話変わって、ノーベル賞作家「川端康成」についてである。『伊豆の踊子』『雪国』はあまりに有名である。『伊豆の踊子』は実に6回も映画化されている。ヒロイン「薫」役は、初代が①田中絹代(1933年)、②美空ひばり(1954年)、③鰐淵晴子(1960年)、④吉永小百合(1963年)、⑤内藤洋子(1967年)、⑥山口百恵(1974年)と錚々たる顔ぶれである。ある本では、「山口百恵が歴代の薫役の中で最も踊子らしい女優」と評している。そのせいかどうか、彼女の後は、34年経つというのに未だに映画化されていない。流石は百恵ちゃん。(笑)
川端康成は、ノーベル賞作家であり、知らない日本人は少ないと思うが、彼の作品を『雪国』『伊豆の踊子』以外に読んだことがある人はどの位いるだろうか。かく言う小生、大変恥ずかしながら、『雪国』『伊豆の踊子』共に、本は持っているが彼の作品は一冊も読了していない。恥ずかしい限りである。
そこで、数ヶ月前に購入してあった、「文藝ナビ『川端康成』(新潮文庫)」を改めて読んでみた。そして解ったことは、川端の作品は、谷崎潤一郎とはちょっと趣きが違うものの、『眠れる美女』にしても『山の音』にしても、前述の『雪国』にしても、敢えて言うと「健全でない男女関係」を描いているのであるが、彼の才能により「文学作品」に仕立て上げているだけだ、と単純な小生は思う。(笑)
『伊豆の踊子』にしたってそうだ。川端の冒頭の描き方は流石だが、そもそも一人で伊豆に温泉旅行に行く「主人公の大学生の『私』」自体が「変人」である、と思いませんか。暗~~い、青年ですね。
これらは、多分に、川端康成の人となりが、作品に反映されている訳で、川端自身の生まれついての不幸な境遇がその源泉である、と思います。
そこで、彼の境遇を知って頂くために、まず【経歴】からご紹介します。
【経歴】
1899(明治32)年6月14日 大阪市北区此花町に、父栄吉、母ゲンの長男として出生。父は医師。漢詩文、文人画を嗜む。姉は四歳上の芳子。
1901(明治34)年(02歳) 1月、父死去。母の実家黒田家のある大阪府西成郡豊里村転居。
1902(明治35)年(03歳) 1月、母死去。祖父三八郎、祖母カネ(やはり黒田家)住居(大阪府三島郡豊川村)に転居。
1906(明治39)年(07歳) 豊川尋常高等小学校に入学。病弱で欠席が多い。成績よく、作文に才能を示す。9月祖母死去。
1909(明治42)年(10歳) 7月、姉芳子死去。康成は病気のため葬儀に行けなかった。姉とは明治35年以来一度しか会っていなかった。
1912(明治45)年(13歳) 4月、大阪府立茨木中学校に入学。
1914(大正03)年(15歳) 5月、祖父死去、孤児となる。豊里村の母の実家に引きとられる。
1917(大正06)年(18歳) 3月、茨木中学校卒業。浅草蔵前の従兄を頼り上京。9月、第一高等学校文科乙類に入学。
1918(大正07)年(19歳) 10月末、初めて伊豆旅行。旅芸人の一行と道連れに。以後約10年間、湯ケ島に行く。
1920(大正09)年(21歳) 7月、第一高等学校卒業。東京帝国大学文学部英文学科入学。今東光らと同人誌(第6次「新思潮」)の発行を計画し菊池寛を訪ね了解を得る。以後、菊池寛の恩顧を受ける。
1921(大正10)年(22歳) 2月、第6次「新思潮」発刊。4月、伊藤ハツヨとの恋愛、婚約・破談。菊池寛宅で、芥川龍之介、久米正雄、横光利一を紹介される。
1922(大正11)年(23歳) 6月、国文学科に転科。
1924(大正13)年(25歳) 3月、東京帝国大学国文学科卒業。
1926(大正15)年(26歳) 松林秀子との生活が始まる。
1927(昭和02)年(28歳) 元旦に梶井基次郎が訪ねて来る。3月、第二作品集『伊豆の踊子』刊行。
1934(昭和09)年(35歳) 6月、初めて越後湯沢に行く。この年湯沢で『雪国』連作を書き始める。
1935(昭和10)年(36歳) 芥川賞の銓衡委員に。『雪国』の分載発表。12月、鎌倉町浄明寺に転居。
1937(昭和12)年(38歳) 6月、初の単行本『雪国』刊行。9月、軽井沢に別荘を購入。以後、昭和20年まで毎夏を過ごす。
1948(昭和23)年(49歳) 1月、横光利一の弔辞を読む。6月、志賀直哉の後を継ぎ、ペンクラブ第4代会長就任。
1949(昭和24)年(50歳) 5月、『千羽鶴』、8月、『山の音』の連作分載が開始。
1951(昭和26)年(52歳) 6月、林芙美子の死、葬儀委員長を務む。
1952(昭和27)年(53歳) 2月、『千羽鶴』刊行。芸術院賞受賞。
1953(昭和28)年(54歳) 5月、堀辰雄死去、葬儀委員長を務む。11月、永井荷風らと芸術院会員就任。
1954(昭和29)年(55歳) 1月、『みづうみ』(「新潮」)の連載開始。4月、『山の音』完結刊行。野間文芸賞受賞。
1961(昭和36)年(62歳) 『古都』『美しさと哀しみと』執筆のため京都に家を借りる。11月、文化勲章受賞。
1962(昭和37)年(63歳) 2月、睡眠薬の禁断症状を起し入院。11月、『眠れる美女』で毎日出版文化賞受賞。
1968(昭和43)年(69歳) 7月、参議院に立候補した今東光の選挙事務長を務む。10月、ノーベル文学賞受賞決定。12月ストックホルム授賞式へ。
1971(昭和46)年(72歳) 1月、三島由紀夫葬の葬儀委員長を務む。。3月、東京都知事選で秦野章の応援を引き受ける。
1972(昭和47)年 3月、盲腸炎のため入院。以後健康不調続く。4月16日夜、逗子マリーナの仕事部屋でガス自殺。享年72歳。
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そこで、今日は、嵐山光三郎著『文人悪食』(新潮文庫)から「川端康成」の項を抜粋してご紹介します。では、どうぞ・・
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▼川端康成はやせて躰(からだ)は小さく小食であった。(中略) ところが、こういう人ほど、(中略)食が細いゆえに、食へのこだわりが強く、食への興味と洞察は生涯の作品に見え隠れして通底し、七十二歳でガス管をくわえて自殺する道程にまで、それが見える。(中略)
康成ほど生涯を通じて風貌の変わらぬ文士は珍しく、頬骨が張り、キリギリスのようにギョロリとした目玉は一高生の頃から変わらない。
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【筆者注】添付写真の「東京帝大時代」の川端康成の写真をご覧下さい。痩せたスマップの香取慎吾君みたいですね。(笑)昭和13年(川端康成37~38歳)の添付写真では、嵐山氏の言う通りですねぇ・・。(溜息)
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若い頃は、額から霊気を発しているかのような妖気があり、眼は虚空を見つめている。晩年になると、妖気は内向し、白髪と皺がノーベル文学賞受賞の老大家としての風格を強めたものの、よく見れば尋常の顔つきではないことがわかるだろう。異様に耳が大きく、人を射る視線でありながら、相手を直視することはなく、SF映画に登場する謎の異星怪人といった面容である。(中略)
こういう人が何を食って生きていたのか。晩年は睡眠薬である。若い頃は他人の家の飯である。(中略)
康成の出世作『伊豆の踊子』は、日本を代表する青春小説であり、何度も映画化されている。映画化されることによって、淡く切ない恋物語としての側面が強調され、『雪国』とともに康成の代表作として定着したのだが、・・(中略)
この小説は、一見すると青春小説の体裁をとっているけれど、通底するものは、孤絶した自我である。まず、二十歳の「私」が一人で温泉旅行に行くことじたいが孤絶している。
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【筆者comment】嵐山氏の言う通りである。二十歳の若造が一人で温泉旅行するなんて、「ホント、ネクラ」である。(笑)
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そして旅先でであった踊子に、ほのかな恋心を抱くのは、孤絶した時下からの脱却であり、旅する以前からの予感である。恋を期待しながらも、その恋が成就しないことは最初からわかっている。踊子は、最初から「成就しない恋の対象」として「私」のなかにある架空の「物」でしかない。(中略)
この構図は、晩年の康成が書いた小説『眠れる美女』(こちらのほうが名作)(【筆者注】・・と嵐山氏は言う)で、性的機能を失った老人が、睡眠薬で眠っている少女と一夜をすごし、危うい誘惑に駆られながら添い寝を繰り返すことと、構造は同じである。ここにおいて少女は、満たされぬ欲望の対象としての「物」にすぎず、「物」としての女に反射されるかたちで、主人公の孤絶がまぶしく鮮明になる。康成の小説が、女たちにとって侮蔑と感じられるのは、そのためである。(中略)
(【筆者注】『伊豆の踊子』の)小説の終りで、「私」は船室であった、入学の準備に東京に行く少年が差し出す海苔巻を、泣きながら食う。「私はそれが人の物であることを忘れたかのやうに海苔巻のすしなぞを食つた」のであり、そのうえ「少年のマントの中にもぐりこんだ」のであり、「私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるやうな美しい空虚な気持ち」になり、涙を出まかせにするのである。(中略)
晩年、六十二歳のときの小説『古都』は、睡眠薬を飲みながら書いた、とあとがきで告白している。「眠り薬に酔つて、うつつないありさまで書いた。眠り薬が書かせたやうなものであつたらうか」として、小説『古都』を「私の異常な所産」としている。書き終えて十日ほど後、康成は睡眠薬の禁断症状をおこして入院する。
「伊豆の海苔巻」に始まった悲しい喜びは、晩年は、睡眠薬をかじる苦く悲しい喜びにつながっていく。行きつく先は自殺しかない。それも、ガスの悪臭を含んだ痙攣するほどの悲しい喜びである。(中略)
小食で美食家であった康成は、最後はマンションの一室で、シューシューと鳴るガスをたっぷりと吸い、極限の悲しい喜びの味を満喫しながら死んだ。(了)
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【川端康成のepisode】
〔1〕▼こんな話を聞いたことがあった。――
ある若い女性編集者が初めて川端康成氏を訪れたときのことである。この有名な文学者との初対面に緊張しながら、さだめしおずおずと執筆依頼か何かの用件を切り出したのであろう。ところが川端康成氏は黙って彼女の言葉を聞くだけで、何の応答もない。寡黙な川端氏にはよくあることだ。彼女は身を固くしてひたすら川端氏の口が開かれるのを待った。だが沈黙が続くばかりである。そのうちに、彼女の顔がだんだん紅潮しだした。それでも川端氏は一言も口をきかない。真っ赤になった彼女の顔面がやがて蒼白に変っていった。そして突然、わーっ、と大声をあげて泣き伏した。すると川端氏は怪訝そうな顔を向けて、「どうしたのですか」と初めて口をきいた。
――というのである。
この話を聞いて私は腹を抱えた。いかにも川端氏らしいと。しかし同時に、その若い女性編集者に大いに同情した。彼女が赤くなり青くなったあげくにわっと泣いた胸のうちが手にとるようにわかり、身につまされたからである。つまり、私が初めて川端さんに会いに行ったときも、ほとんどこれと同じだったのである。
木村徳三「文芸編集者 その跫音」(昭和57年6月)
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〔2〕▼彼は、それが高価だから諦めるなんてことはしない男でしてねえ。それはもう法外な男でしたよ。
ノーベル賞にきまったというニュースを聞くと同時に、川端は富岡鉄斎の七千万円の屏風を買いおった。
それだけじゃない。埴輪の首一千万円で買うやら、他に何点か買って、結局一億以上になりましてねえ、それでノーベル賞の賞金は二千万足らずでしょう? どうなりまんねん、これは。まったく計算外の男だった。珍しい男でした。
ノーベル賞の二千万足らずというのは、知らないわけではなくて、先例があるからわかっているくせに、受賞したとたん、それもニュースを聞いただけで、“よっしゃ”と億という買物を平気でする。
しかも、いよいよ授賞式となってストックホルムヘ行くとき、ぼくの弟の日出海が文化庁長官やってたから、日出海のところへ来て言ったそうだ。
フランスに絵の売物が出た。とてもいいものだ。日本に買っておいた方がいい――と言ってね、自分の貰うことになっているノーベル賞の小切手を担保にしてその絵を日本に送ってもらうように頼めんだろうか、と言ったんだ、あいつは。いままでの買物は、無茶とはいってもまだ値段を知った上でのことでしょう? ところが、これは値もわからぬうちにだから、大変な男です。
今東光「川端康成との五十年」(昭和47年6月)
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〔3〕▼川端さんはコワイ人だと言う人がいる。とても優しい人だと言う人がいる。
私の場合はどうであるかというと、それはもう、いたたまれないほどに怖かった。神経がピリピリしてしまって、まるで、歯医者の椅子に坐っているようだった。
私は、川端さんは優しい人であると言う人は、昭和三十年代の半ば過ぎから交際した人だと思う。あるいは、ごくお若いときから親交のあった人だと思う。
実に怖い。
川端さんは私を叱ったり説教したりするのではない。そんなことは一度もなかった。そうではなくて黙っておられるのである。どこかを見ていて、不意に、ぎらっと光る目で私を見るのである。こちらが何かを話しかけると、顔をあげて注視される。唇が動いて何かを言いそうになる。そのままで時が過ぎる。しかし何も言われない。そうして、そっぽを向かれてしまう。そういう感じが、実に実に、こわい。腹の底まですっかり見透かされている気がする。そうかといって、これも多くの人が書いているように、私が帰ろうとすると、まだいいじゃないですかと一言言ってひきとめられる。かくして無言の対座が延々と続く。
山口瞳「創意の人」(昭和47年7月)
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【後記】■さて、【2637の会】membersの皆さんは、文豪『川端康成』について、どの様な感想をお持ちですか。文豪は、読者を納得させるだけの文章表現力をはじめとする文学的技量が絶対的な条件であることは確かです。そういう意味で言えば、『川端康成』は文句なしの「文豪」と言えます。彼が28歳のとき上梓した『伊豆の踊子』の冒頭をご覧に入れます。一瞬にして情景が浮んでくる、その卓越した川端の表現力は流石だ。
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道がつづら折りになって、いよいよ天城(あまぎ)峠に近づいたと思う頃、雨脚(あまあし)が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓(ふもと)から私を追って来た。
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▼今日のmailは、『春』を噛み締め乍らしたためました。BGMはWolfgang Amadeus Mozart(1756-1792)の弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387『春』。この作品は、Mozartが尊敬するヨーゼフ・ハイドンに捧げた6曲の連作、所謂《ハイドン・セット(第14番~19番)》の第1曲です。『春』という副題はMozart自身も、また彼の作品編集をしたケッヘルも付けていませんが、『青春』や季節『春』で連想する晴れやかさ、清々しさがいっぱい実感できる傑作です。《ハイドン・セット》は、この曲のほか、第15番二単調K.421、第17番変ロ長調K.458『狩』、第19番ハ長調K.465『不協和音』という傑作が揃っている名曲選です。
では、また・・。
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(了)

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