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2008年4月の6件の記事

2008年4月30日 (水)

【時習26回3-7の会 0171】~「二橋君からのmail」「『彦根城・蒲生野』紀行」「4月26日『ドラクロア』誕生日」

《今日のブログは日付が変わり4月30日になってしまいましたが、29日の夜に【2637の会】membersの皆さんにお送りしたもの(mail)です。それから、「添付写真」を左クリックして頂ければ相応に拡大して見易くなります。(為念)》

■今泉悟です。 いよいよ2008年もGWがスタートしました。家庭サービスや、何やかやとお忙しいと存じますが、皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0171】号をお送りします。8月16日の【2637の会】〔同窓会〕開催まで、あと109日になりました。

 大変嬉しいお知らせです。久し振りに【2637の会】memberである二橋君からmailをくれました。この【2637の会】会報へのmail文掲載も了解してくれました。
 (【筆者注】この会報への掲載は、会報を掲載し始めて暫く経ってからですが、ご本人のご了解を得た上で掲載することにしておりますので、安心してmailをお送り下さい。(笑))
 それでは、二橋君からのmailをご紹介します。

 今泉君

 いつもいつもご苦労様です。 貴兄の熱意には頭が下がる思いです。
 かかる人物がいないと同窓会は纏まらないと思います。
 名古屋方面には月1度は行くのですが帰りの新幹線の車窓を見ながらで豊橋には悟が居るなと思いつつビール飲んでます。
 今週水曜日には久々に「ヤマサのちくわ」を買いました。
 「知立の大あんまき」も名古屋駅周辺で売ってましたが最近売り場がなくなりました。 どこかに行ったか調べて下さい。
 貴兄の長い長いレポートは正直10%程度しか目を通してません。
 (中略) 過去のレポート積みあがったら製本したらどうですか?

二橋

【筆者comment】▼二橋君mailをありがとう。知立の「大あんまき」はJR名古屋駅では何処に売っているのでしょうか、小生も解りません。今度一度調べておきます。名古屋在住の【2637の会】membersの皆さん、ご存知でしたらmailで教え頂ければ幸甚です。

■さて今日は、小生4月26日(土)、『賢人会』と不遜な同好会名を付けた中嶋良行君(旧【3-2】)、谷山健君(旧【3-3】)との城址・社寺・温泉巡りの会は、半年ぶりに、そして新たに、青木さんという三人の共通の友人で人生の先輩である方を仲間に加え四人で、〔『彦根城』『蒲生野・万葉の里』〕巡りに日帰りで行って来ましたので、勝手乍ら、その模様をお伝えします。

▼前回は昨年12月1日~2日の「湖東三山・大津日吉大社・比叡山『延暦寺』」紀行であったので、約5か月ぶりの城址・社寺・温泉巡りである。 今回は、「蒲生野・万葉の里」と「彦根城と城下町」、「磯崎神社」、「須賀谷温泉(→当日、長浜太閤温泉に変更)」巡り。 最初に訪れたのが『蒲生野・万葉の里』。添付写真にある「万葉の森・船岡山」である。名神高速道路「八日市IC」を出てほどなく到着。この地は、これも添付写真で解説してある様に、額田王と大海人皇子との恋物語は、万葉集の中でも特に有名なepisodeである。後に争った兄弟、天智天皇と天武天皇に愛された女性、額田王(ぬかたのおおきみ)の歌は・・

 茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る  額田王

 【意】紫野を行き、標野を行き、狩をして、野守は見咎めないのでしょうか、あなたが私に袖を振るのを

 この歌には、かつての夫、大海人皇子(後の天武天皇)の返歌・・

 紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも

 【意】紫草の様に艶やかな貴女を憎いと思うなら、何故人妻である貴女に、恋焦がれることがありましょうか

 額田王の咎め立てに対して、「人妻であっても恋しい」と反語で強く訴える。

【筆者comment】

01020304▼添付写真の(八日市市指定)文化財『船岡山』案内看板にある様に、額田王は大海人皇子との間に十市皇女(とおちのひめみこ)を儲けていた(皇女は大友皇子(後の弘文天皇)に妃)が、この時額田王は、天智天皇の寵愛を受けていた。しかも40歳を超えていた。故に、二人の関係は周知の事実としての宴席での座興というのが定説となっている。でも、小生は、この歌が1300年以上経った今も新鮮に聞こえる、万葉人(びと)のおおらかさを微笑ましく感じる。

05 万葉の森・船岡山には紫草ではないが、満点星躑躅(ドウダンツツジ)が満開(添付写真ご参照)で美しかった。高浜虚子の娘、星野立子の句が浮び、ついで即興でつくった小生の拙歌をご覧下さい。

 触れてみし どうだんの花 かたきかな  星野立子

 蒲生野に 咲く満天星(どうだん)の 可憐さも

           すずしき君に 色褪せて見ゆ  悟空

 【注】すずしき=涼しき=鈴(欄)しき(スズラン花の様な)

 この万葉の詩情を胸に抱いたまま、彦根城へと向かった。

0708 06 彦根城に着いて、我々がまず向かったのは、幕末の大09老井伊直弼が部屋住みの時代の十五年間を過ごした『埋木舎(うもれぎのや)』である。

 直弼は、庶子で、17歳から32歳までの15年間を部屋住み(三百俵の捨扶持)として、彦根城至近にある『埋木舎(うもれぎのや)』で過ごした。この間、長野主膳と師弟関係となり国学を学ぶ。この頃茶道(石州流)の奥義を究める。茶名を「宗観」「無根水」と号した。

 世の中を よそに見つつも 埋れ木の

       埋もれておらむ 心なき身は  井伊直弼

*

 茶の湯とて なにか求めん いさぎよさ

       心の水を ともにこそ汲め  同

*

 むっとして もどれば 庭に柳かな  同

10011102120313 35歳で井伊家を継ぎ、安政5(1858)年、大老に就任。日米修好通商条約を孝明天皇の勅許ないまま締結。安政7(1860)年3月3日、桜田門外にて水戸藩浪士により暗殺された(享年満45歳)。

【筆者注】▼因みに、江戸時代、大老は一人の再任を除くと四家(井伊・土井・堀田・酒井)12名。うち譜代筆頭の井伊家から直弼を含め6名を輩出。次いで、酒井家4名。後は土井利勝と堀田正俊だけである。

141516011702 『彦根城』は、井伊家35万石の居城。世界遺産の『姫路城』と、『松本城』『犬山城』とともに国宝四城の一つである。

1803 19 20

 次に目指したのは、磯崎神社。ここは日本武尊の終焉の地とされる伊勢・鈴鹿とは異説の地。添付写真の磯崎神社の祭礼をご覧下さい。

2122 武市連黒人がこの磯崎の地を詠んだ歌があるのでご紹介する。

磯崎を 漕ぎ廻(た)みゆけば あふ美乃海(おうみのみ) 

八十(やそ)のみ奈登(など)に 鵠(たず)さはになく  武市連黒人

 一時雨に降られたが、いにしへの萬葉の時代と、幕末の動乱時代に思いを馳せながらの、楽しい一日の旅であった。

■今日の締め括りは、4月26日が誕生日となるフランス・ロマン派絵画の巨匠フェルディナン=ドラクロア (Ferdinand Victor Eugene Delacroix)(1798.04.26-1863.08.13)についてである。

Photo_3*【ドラクロア】

011830 恰も美術の授業の様であるが、18世紀末から19世紀初頭のフランスは、フランス革命からナポレオン帝政時代。『新古典主義』の旗手ジャック・ルイ・ダヴィッド(添付写真ご参照)と、その後継者ジャン・アントワーヌ・グロ(同)とドミニク・アングル(同)。彼らの絵画を見ると、皆さん思い出しませんか世界史の授業を。フランス革命で浴槽で女性に刺されたマラーやナポレオンの絵を・・。アングルの絵、『泉』を中学の美術の時間に見た時、思わず赤面した位ショッキングであったことを思い出す。うぶな少年であった一こま・・。(笑)

 そして、グロやテオドール・ジェリコーの影響を受け出てきたのが、『ロマン主義』の巨匠、(フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・)ドラクロア。音楽の時間に見た、ショパンの躍動的な肖像画や、そして、余りにも著名な画『民衆を導く自由の女神』。感受性の豊かな時代に見たドラクロアの絵は、今も鮮烈な記憶として脳裏に焼きついている。

 ドラクロアの後、ミレー・コロー・クールベの『写実主義』・『バルビゾン派』。そして、マネ、モネ、ルノアール、シスレーらの『印象派』へと続いていく。

 ドラクロアの簡単な経歴を以下に記す。

【経歴】

1798年4月26日 フランスのシャラントン・サン・モーリスに生まれる。

1815年(17歳) 新古典主義の画家ゲランに学ぶ。ここでジェリコーと出会う。

1816年(18歳) 国立美術学校に入学。

1822年(24歳) 『ダンテの小舟』をサロンに出品。初出品で初入選。1825年(27歳) イギリス、ロンドンに渡る。

1830年(32歳) 『民衆を導く自由の女神』をサロンに出品。新古典主義者からやり玉に上がるが国家買取作品に。

1849年(51歳)  アカデミー会員に立候補するも四度目の落選

1855年(57歳) パリ万博でアングルとともに出品画家に選出。レジオン・ドヌール勲章を受賞。

1857年(59歳) アカデミー・デ・ボザールの会員に選出

1863年08月13日 死去(享年65歳)

【筆者comment】▼ドラクロアの一生はロマン派の巨匠に相応しい波乱万丈であった。でも、彼が後世に残した遺産は偉大である。そして、日本人の我々が青春時代、西洋美術を学んだ時、彼ほど身近に感じた画家も少ないのではないかと、小生は思う。

 そこで、『新古典主義』→『ロマン主義』の流れを、「ダヴィッド」「グロ」「アングル」「ジェリコー」「ドラクロア」と時代的に並べてお送りしながらお別れしたい。では、また・・。

【ダヴィッド】

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【グロ】                  【ジェリコー】

17711835179617911824 Gericault17911824

【アングル】

17808671806182056

【ドラクロア】

1837

1822

011824

1824

183032_2 1838_2 1840

*(了)

2008年4月24日 (木)

【時習26回3-7の会 0170】~「石浦章一著『いつまでも「老いない脳」をつくる10の生活習慣』」「4月23日:『上村松園』誕生日」「4月25日:『東郷青児』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0170】号をお送りします。8月16日の【2637の会】〔同窓会〕開催まで、あと114日になりました

■今日、最初の話題は、石浦章一著『いつまでも「老いない脳」をつくる10の生活習慣』をご紹介します。今日は、その中から《あとがき》(抜粋)をお届けします。

▼老化は、すべての人がもつリスクです。すべての病気の中で、人間である限り100%リスクがあるものは、老化しかありません。生物である限り避けることのできない老化を回避し、健康的な生活を送るためには、若いときからの積み重ねが必要です。知能が高い人ほど老化しないという言葉は、肝に銘じておきましょう。
 本書で私(【筆者注】石浦章一氏)は、長い研究者生活で得た老化に打ち克ついくつかの方法を述べました。多分これが最新のしかも最良の方法であることは間違いありません。(中略)
 自分の健康は自分しか守るものがいないということを十分考えて、これからの長い人生を送っていくことにしましょう。
 そのためには、まず、ほんとうのことを知ることが大切です。遺伝子がかかわる病気の素因のこと、運動の大切さ、ストレスが体に及ぼす影響、などはぜひ知っておいていただきたいと思います。
 私(【筆者注】石浦氏)の専門であるアルツハイマー病のことはかなり詳しくご説明しましたが、十数年前まで治療もできないと思っていた難病も、もはや完全治療も夢でない時代に入ってきたのです。
 また本書では、皆さんに無視されがちな運動と脳の関係について、かなりページを割いたつもりです。軽い運動を続けることこそ、健康で文化的な生活を維持させる基なのです。
 (中略)意欲的な生活は老化を防ぎ、目標を持って生きることは非常に大切なことになります。(中略)
 本書をお読みになって、このままの生活を続けていったときのご自分の身体のことと、何らかの生活を変えていったときの健やかな老化を比較してみてください。自分の命は自分で守る、というのは戦争のときの標語ではありません。そのような意識の人が多い国こそ、二十一世紀のリーダーとなるべき運命にあるといえるでしょう。(以下略)

10【脳も体も健康で長生きできるかどうかは、10の生活習慣で決まる】
▼脳の働きについても、(中略)アインシュタインのような天才になることはできないとしても、その使い方次第で、脳はいくらでも力を発揮するようにできているのです。
 それはこれからお話していくように、体の健康を維持して脳がフルに力を発揮できるような土台を整え、頭を使う習慣にすることで可能になります。
 科学的な根拠をもとにして、具体的にどのような生活を心がければいいのかを、誰でもできる10の基本を、まず挙げておきましょう。

①週に2~3回以上、1回30分以上運動をする
 →・運動といっても有酸素運動と筋力運動を療法バランスよくしたいもの。まずは有酸素運動を習慣づけて。ジョギングがお薦めですが、速歩でも十分。健康なひとならば五〇代までは、腹筋、背筋などの筋力運動も織り交ぜるように。ただ高齢者の方は無理は禁物。有酸素運動や筋力運動が、体にも脳にもいい根拠は、血流をよくすること。体内の血流がよくなれば脳の血流もよくなり、体の働きも脳の働きも活発に。さらに血圧を下げ、カロリーも消費するので太りすぎを防ぐ。定期的に有酸素運動をすることで最大酸素摂取量の維持につながり、酸素を体に送り込む力が維持され、体も脳も若い状態が保たれることにもなる。

②食生活のbalanceに気をつけ、食べ過ぎない
 →・昔から「腹八分目」と、多少もの足りない程度が健康にいい。(中略)最近では、空腹のときに出る消化管ホルモンである「グレリン」が出ると、脳に作用して、脳の働きがよくなる。

③ストレスをうまく受け流す
 →・楽観的で、あまり悩まない人はそれだけでトクをしている。百歳以上の方の調査では、一つだけ「長寿の秘訣」を挙げてもらったところ、もっとも多かったのが「ものごとにこだわらない」(15%)、第三番目が「マイペース・自由気まま」(8%)という。(中略)本書でとくに強調したいことは「運動の重要性」です。(【筆者注】運動が)脳の活性化に大きくかかわっているからです。

④人とのコミュニケーションのある生活
 →・もっとも大切なのは家族との会話です。(中略)さらに、趣味などのサークル活動を広げて、近所の人たちなどとのつき合い、コミュニケーションをはかることも大切。

⑤好奇心をもって新たなことに挑戦する
 →・年をとるとともに、(中略)経験を積み重ねていくので、あまりものごとに驚かなくなり、新鮮さも失われがち。好奇心を抱くことは、(中略)脳内物質のドーパミンに関係しますが、それがものごとを成し遂げる集中力を発揮させることにもなる。(中略)面白そうなことはいくらでもあるはず。(中略)うまくならなくても楽しければいい。(中略)いろいろ挑戦してみればいい。(中略)挑戦するだけでも、脳は苦労して活動している。脳が一生懸命に働いていれば、いつまでも脳は活発に働きます。

⑥学習習慣を続ければ記録力は保たれる
 →・経験だけで何とかこなしているという仕事ぶりでは、だんだん脳が怠けて働かなくなる。(中略)趣味で勉強していると、八〇歳を過ぎた今でも、事細かに覚えている。記憶力抜群です。(中略)年をとればとるほど、なかなか暗記できなくなりますが、それでも辛抱強く五回、十回と繰り返せば覚えることはできる。それを根気よく繰り返せば、だんだん少ない回数で覚えることができるようになる。

⑦目標をもつ
 →・何かやろうと思ったら、締め切りを設定する、目標を設定することが必要です。(中略)目標をもつことが、やる気を起こさせ、脳を活性化させる。(【筆者注】定年などにより)仕事をやめた途端に、目標を失いがち。(中略)ですから、趣味や学習習慣が必要なのです。そうした習慣があれば、その中で目標をもつことができる。

⑧自分に報酬を与える
 →・報酬を期待することで、ドーパミン神経が活発になる。(中略)何かを達成したら、自分で自分に報酬を与えて、モチベーションを高める。(中略)できれば、つねに自分の気分をいい状態にもっていって、やる気が起こり、脳も活性化するようにしましょう。

⑨本を読む習慣を維持する
 →・本を読めば脳の言語野(げんごや)が活動し、脳の各部位が活動する。言語は脳の活動の基本です。(中略)普通の人であれば、黙読で充分に脳が活動する。仕事に関した本しか読んでこなかった人は、仕事をやめた途端に、本を読まなくなり、テレビばかり見ていたら、脳は怠けて活動しなくなってしまう。読書というのも習慣です。(中略)ジャンルはなんでもいい。(中略)本を読めば、いろいろなことが刺激されるだけでなく、知識も蓄えられる。

⑩意識的に段取りする
 →・意識的に段取りを考えること、それが脳にとってはいいことなのです。ときには脳にも負担をかける必要もある。(中略)健康な状態でも、やらなければならないことを忘れてしまうということは起こる。それを防ぐには、例えば、朝起きたら仕事の段取りを考える、それをメモしてみるなど、意識的にやるようにすればいい。

【100歳まで生きた人は長生きするような生活をしてきた】
《体を動かす仕事》▼100歳以上の人は、2007年9月の厚生労働省の発表では、32,295人(男4,613人、女27,682人)で、初めて3万人を突破。10年間で3.8倍に増え、前年比では過去最多の3,900人増であった。
▼長寿者の特徴は、①住んでいるところがほとんど変わっていない=環境が変わらない=安定した生活、②70~80歳まで働いていた=運動をしていた、③腹八分目の食事、④ものごとにこだわらない、⑤規則正しい生活をしていた、⑥睡眠・休養を充分にとる、です。

【筆者comment】
▼当たり前のこと(適度の睡眠・休養、運動、頭を使う)を、当たり前の様に、こだわらず「生活習慣」にして実践すること、これが『長寿の秘訣』です。我々なら、まだ遅くはありません。早速実践して、明るい未来を切り開きましょう。(笑)

02191801191802■続いては、昨日が誕生日となる、女流の日本画家の大家『上村松園』(1875(明治8)年4月23日 - 1949(昭和24)年8月27日)についてである。
 京都出身。本名津禰(つね)。父は生れる二ヶ月前に他界。家は葉茶屋。子どもの頃から絵かきが得意で、小学校卒業後、京都にある日本最初の画学校に12歳で入学。 翌年退学後、鈴木松年に師事(1888年)。この時ら“松園”の号を名乗る。その後、松園は、27歳で妊娠。相手は最初の師匠松年と言われている。彼女は未婚の母の道を選ぶ。その子、長男松篁(しょうこう)は成長して画家になり文化勲章を受章。
 各地の展覧会等で作品が高く評価され、活躍する松園は、ライバルの男性画家たちから嫉妬と憎しみの対象とされた。「戦場の軍人と同じ血みどろな戦いでした」と晩年に松園が記している。
 松園が描く女性達は何れも凛として気品に満ち、画風は格調高い。1907年(32歳)に始まった文部省美術展覧会(文展)では、ほぼ毎回入選。第10回からは“永久無鑑査”に。後、帝展、新文展、日展の審査員となる。
 しかし、40代に年下の男性に大失恋、スランプに陥る。1918年(43歳)、その時代の作品に問題作『焔(ほのお)』がある(添付写真ご参照)。『女の怨念』の世界。題材は、光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上に嫉妬し生霊となった姿。能面では白目に金泥を入れると「嫉妬」を表現する面になるもので、この絵でも金泥を使い、乱れた髪を口で噛む姿は如何にもおどろおどろしい。「なぜこのような凄絶な作品を描いたのか自分でも分からない」と松園も語っている。
 1934年、彼女を支えてくれていた母が死去。
011936 02_1936 1936(61歳)年、松園の代表作『序の舞』(【重要文化財】添付写真ご参照)が完成。「何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかった。一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香り高い珠玉のような絵こそ、私の念願するものなのです」と松園はいう。
 1948年(73歳)、女性として初めて文化勲章受章。その翌年74歳で逝去。現代の画壇では「松園の前に松園なく、松園の後に松園なし」とまで言われている。
【筆者comment】
▼松園の絵は、『序の舞』を知らない人がいないくらい著名な作品。「これぞ『日本画』」と誰もが認める、気品があり美しい作品である。彼女の日本画家としての卓越した才能は、ライバルの男性の日本画家から妬まれたことも、「さもありなん」と頷ける。以下に、彼女の【経歴】を記した。
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【経歴】
1875(明治80)年 京都に生まれる。
1887(明治20)年 京都府画学校に入学。
1890(明治23)年 第三回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品。来日中の英国コンノート殿下の買い上げとなり評判に。
1892(明治25)年 農商務省より米国シカゴ万国博覧会に「四季美人」の出品要請があり制作。
1895(明治28)年 竹内栖鳳に師事。
1900(明治33)年 第九回日本絵画協会・日本美術院連合展で「花ざかり」で銀牌。画壇での地位を固む。パリ万博に「母子」を出品。
1903(明治36)年 第五回内国勧業博覧会に「姉妹三人」を出品。
1907(明治40)年 文展(文部省美術展覧会)が開設され、第一回展に「長夜」を出品。
1909(明治42)年 「松園美人画譜」を出版。第十四回新古美術品展に「虫の音」出品。
1911(明治44)年 はローマ万博に「上苑賞秋」「人形づかい」(旧作)を出品。
1916(大正05)年 第10回文展に「月蝕の宵」を出品。
1924(大正13)年 第六回帝展審査員となる。
1930(昭和05)年 徳川喜久子姫・高松宮家御興入御依頼画「春秋」を制作。ローマ日本美術展に「伊勢大輔」を出品。
1931(昭和06)年 ベルリン日本美術展に「虫干」を出品。ドイツ政府の希望により同作品を国立美術館に寄贈、赤十字賞を受賞。
1934(昭和09)年 第十五回帝展に「母子」、大礼記念京都美術展に「青眉」を出品。帝展参与となる。
1935(昭和10)年 竹内栖鳳、土田麦僊ら17名によるグループ春虹会に参加。第一回展に「天保歌妓」を出品。第一回三越日本画展に「鴛鴦髷」を出品。
1936(昭和11)年 新文展(文部省美術展覧会)の招待展に「序の舞」を出品。第二回春虹展に「春宵」を出品。
1940(昭和15)年 ニューヨーク万博に「鼓の音」を出品。第六回珊々会展に「若葉」を出品。
1944(昭和19)年 帝室技芸員となる。
1946(昭和21)年 第一回日展審査員となる。
1948(昭和23)年 文化勲章受賞。白寿会展に「庭の雪」を出品。
1949(昭和24)年 逝去。松坂屋芸大美術巨匠展出品作の「初夏の夕」が上村松園絶筆となる
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02191916Photo_11■続いては、4月25日が命日にあたる『東郷青児』(1897(明治30)年4月28日-1978(昭和53)年4月25日)についてである。彼の半生も波乱万丈である。本名鉄春。1919(大正8)年に渡欧。キュービズム、シュールレアリズムなどの影響を受けた(添付写真ご参照)。親しみのある画風で大衆から専門家まで幅広く支持を得た。二科会会長、日本芸術院会員で、仏政府から芸術文化勲章、没後文化功労賞等受賞。
【筆者comment】
1923191519291929_21933▼彼の作品は、若い頃は、確かにキュビズムやシュールレアリズム的な絵を描いたが、1930年代以降、目が極端に大きく、女体をデフォルメした彼特有の作風が定着する。この様な彼の作風に対して、評価は分かれるところであるが、人気の高さは彼の作品数の多さを見れば頷ける。「通俗的過ぎる」と見るか、「近代的な洗練された」と見るか、皆さんはどちらですか? 
 それから、東郷青児と竹久夢二が、夢路の妻たまきをめぐって三角関係になっていた、ということは、小生最近まで知りませんでした。まあ、それはともかく、東郷青児の絵画の世界を添付写真でお楽しみ下さい。
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1897(明治30年)年 4月28日 鹿児島市に生まれる。
1902(明治35年)年 一家で東京へ移住。
1915(大正 4年)年 日比谷美術館で第一回個展を開催。
1916(大正 5年)年 第三回二科展に《パラソルさせる女》を初出品し、二科賞受賞。
1921(大正10年)年 渡欧。イタリア未来派のマリネッテイらと会う。
1928(昭和 3年)年 帰国。二科展に滞欧作品23点を特別陳列。
1931(昭和 6年)年 二科会会員となる。
1945(昭和20年)年 二科会再建に挺身。翌年、第31回二科展を開催。
1957(昭和32年)年 第13回日本芸術院賞を授与される。第4回日本国際美術展で大衆賞を受賞。
1960(昭和35年)年 日本芸術院会員となる。
1961(昭和36年)年 二科会会長・理事長となる。
1976(昭和51年)年 安田火災東郷青児美術館が開設。
1978(昭和53年)年 4月25日 第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため熊本へ行き、急性心不全のため死去。 享年80歳。
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Photo_17Modigliani191516Modigliani1918Modigliani1919Modigliani1919_2【後記】■今日の締め括りは、4月9日【0167】号でお伝えした「ModiglianiとJanneとジャンヌ・エビュテルヌとの愛」をthemeにした映画をDVDで手に入れることが出来ましたので、ご案内させて頂きます。添付写真をご覧下さい。映画では、モディリアーニとピカソをライバルに設定して、エコール・ド・パリでおなじみの面々、キスリング、ユトリロ、そして印象派の大御所ルノアールも出て来て、なかなか面白い映画でした。映画では、画商で親友のズボロフスキや、ジャン・コクトーまで出て来て、事実を織り交ぜたフィクションとして描かれていました。アンディ・ガルシア演じるモディリアーニとエルザ・ジルベスタインが熱演したジャンヌ、良かったですよ。ただ、ライバルピカソがメタボっぽかったことと、ユトリロが若い頃アル中だったとは言え、精神病院で縛り付けられた場面が出て来たり、史実と結構異なると思われる点が幾つかあった。この作品は、あくまでもフィクションとして観ないとね・・。

(了)

2008年4月19日 (土)

【時習26回3-7の会 0169】~「4月20日:『穀雨』」「4月16日:『川端康成』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0169】号をお送りします。8月16日の【2637の会】同窓会まで、あと119日です。待ち遠しいですねえ。小生は、3月~4月は、勤務先の期末・期初の雑務、決算・株主総会準備等で結構ハードで、【2637の会】会報を満足なレベルで皆さんに提供しにくくなって来ており、後ろめたい気持ちがします。お赦し下さい。・・でも、愚痴っていても仕様がないので、さぁっ、今日も張り切って参りましょう。皆さんからの便りを心からお待ちしています。気軽にmailを下さいね。

■さて、今日、最初の話題は、明日4月20日は二十四節気でいう『穀雨』。この時期は雨が多く、作物が育つ素地が出来上がる大切なときです。今年の4月は、例年よりも雨が多い感じがしますね。一昨日から昨日にかけて確りと雨が降りました。夏の水不足のことを考えると、必要なこととは思いますがやはり鬱陶しいというのが正直な感想です。・・が、この点、気分を変えて文学的に捉えてみると、なかなかいい感じがするので不思議です。
 春のこの時期の長雨を昔から『春霖(しゅんりん)』と言いますが、この名前の響きからして奥ゆかしく情感の豊かさを感じます、と小生は思います。
 『穀雨』とは、穀物の芽に注ぐ雨が百穀を育む、「暖かな雨が地を潤し、穀物(→延いては、『万物』)を育む」雨と理解していい。
 そこで、『穀雨』に因んだ俳句を二句ご紹介します。

 掘り返す 塊光る 穀雨かな  西山泊雲

【意】畑仕事での一コマ・・。土を掘り返すと、黒々と肥えた土の香りが、そしてその土塊は穀雨で潤いきらりと光る。

 まつすぐに 草立ち上がる 穀雨かな  岬 雪夫

【意】草の芽が真っすぐに立ち、素直に伸びて行く。「穀雨」という天の恵みの証左だ。

080416080416_2 毎日、小生、会社まで、健康を考えて、自転車通勤していますが、広小路五丁目辺りの街路樹の『花水木(ハナミズキ)』が木々毎に、枝いっぱいに紅色や純白の可憐な花を咲かせて大変綺麗です。添付写真をご覧下さい。携帯電話のカメラですのでキッチリ撮影出来ていませんが、綺麗でしょっ?
 『花水木』を詠った水原秋櫻子の俳句を一つご紹介します。

 花みづき 十あまり咲けり けふも咲く  水原秋櫻子

 続いて、小生の拙句を一つ・・

 彼(か)の女(ひと)の 想い出遥か 花みづき  悟空

【意】可憐な『花水木』を見て、昔日のvirtual realな世界を想像してみました・・。(笑)


0102■続いては、話変わって、ノーベル賞作家「川端康成」についてである。『伊豆の踊子』『雪国』はあまりに有名である。『伊豆の踊子』は実に6回も映画化されている。ヒロイン「薫」役は、初代が①田中絹代(1933年)、②美空ひばり(1954年)、③鰐淵晴子(1960年)、④吉永小百合(1963年)、⑤内藤洋子(1967年)、⑥山口百恵(1974年)と錚々たる顔ぶれである。ある本では、「山口百恵が歴代の薫役の中で最も踊子らしい女優」と評している。そのせいかどうか、彼女の後は、34年経つというのに未だに映画化されていない。流石は百恵ちゃん。(笑)
 川端康成は、ノーベル賞作家であり、知らない日本人は少ないと思うが、彼の作品を『雪国』『伊豆の踊子』以外に読んだことがある人はどの位いるだろうか。かく言う小生、大変恥ずかしながら、『雪国』『伊豆の踊子』共に、本は持っているが彼の作品は一冊も読了していない。恥ずかしい限りである。
 そこで、数ヶ月前に購入してあった、「文藝ナビ『川端康成』(新潮文庫)」を改めて読んでみた。そして解ったことは、川端の作品は、谷崎潤一郎とはちょっと趣きが違うものの、『眠れる美女』にしても『山の音』にしても、前述の『雪国』にしても、敢えて言うと「健全でない男女関係」を描いているのであるが、彼の才能により「文学作品」に仕立て上げているだけだ、と単純な小生は思う。(笑)
 『伊豆の踊子』にしたってそうだ。川端の冒頭の描き方は流石だが、そもそも一人で伊豆に温泉旅行に行く「主人公の大学生の『私』」自体が「変人」である、と思いませんか。暗~~い、青年ですね。
 これらは、多分に、川端康成の人となりが、作品に反映されている訳で、川端自身の生まれついての不幸な境遇がその源泉である、と思います。
 そこで、彼の境遇を知って頂くために、まず【経歴】からご紹介します。
【経歴】
1899(明治32)年6月14日 大阪市北区此花町に、父栄吉、母ゲンの長男として出生。父は医師。漢詩文、文人画を嗜む。姉は四歳上の芳子。
1901(明治34)年(02歳) 1月、父死去。母の実家黒田家のある大阪府西成郡豊里村転居。
1902(明治35)年(03歳) 1月、母死去。祖父三八郎、祖母カネ(やはり黒田家)住居(大阪府三島郡豊川村)に転居。
1906(明治39)年(07歳) 豊川尋常高等小学校に入学。病弱で欠席が多い。成績よく、作文に才能を示す。9月祖母死去。
1909(明治42)年(10歳) 7月、姉芳子死去。康成は病気のため葬儀に行けなかった。姉とは明治35年以来一度しか会っていなかった。
1912(明治45)年(13歳) 4月、大阪府立茨木中学校に入学。
1914(大正03)年(15歳) 5月、祖父死去、孤児となる。豊里村の母の実家に引きとられる。
1917(大正06)年(18歳) 3月、茨木中学校卒業。浅草蔵前の従兄を頼り上京。9月、第一高等学校文科乙類に入学。
1918(大正07)年(19歳) 10月末、初めて伊豆旅行。旅芸人の一行と道連れに。以後約10年間、湯ケ島に行く。
1920(大正09)年(21歳) 7月、第一高等学校卒業。東京帝国大学文学部英文学科入学。今東光らと同人誌(第6次「新思潮」)の発行を計画し菊池寛を訪ね了解を得る。以後、菊池寛の恩顧を受ける。
1921(大正10)年(22歳) 2月、第6次「新思潮」発刊。4月、伊藤ハツヨとの恋愛、婚約・破談。菊池寛宅で、芥川龍之介、久米正雄、横光利一を紹介される。
1922(大正11)年(23歳) 6月、国文学科に転科。
1924(大正13)年(25歳) 3月、東京帝国大学国文学科卒業。
1926(大正15)年(26歳) 松林秀子との生活が始まる。
1927(昭和02)年(28歳) 元旦に梶井基次郎が訪ねて来る。3月、第二作品集『伊豆の踊子』刊行。
1934(昭和09)年(35歳) 6月、初めて越後湯沢に行く。この年湯沢で『雪国』連作を書き始める。
1935(昭和10)年(36歳) 芥川賞の銓衡委員に。『雪国』の分載発表。12月、鎌倉町浄明寺に転居。
1937(昭和12)年(38歳) 6月、初の単行本『雪国』刊行。9月、軽井沢に別荘を購入。以後、昭和20年まで毎夏を過ごす。
1948(昭和23)年(49歳) 1月、横光利一の弔辞を読む。6月、志賀直哉の後を継ぎ、ペンクラブ第4代会長就任。
1949(昭和24)年(50歳) 5月、『千羽鶴』、8月、『山の音』の連作分載が開始。
1951(昭和26)年(52歳) 6月、林芙美子の死、葬儀委員長を務む。
1952(昭和27)年(53歳) 2月、『千羽鶴』刊行。芸術院賞受賞。
1953(昭和28)年(54歳) 5月、堀辰雄死去、葬儀委員長を務む。11月、永井荷風らと芸術院会員就任。
1954(昭和29)年(55歳) 1月、『みづうみ』(「新潮」)の連載開始。4月、『山の音』完結刊行。野間文芸賞受賞。
1961(昭和36)年(62歳) 『古都』『美しさと哀しみと』執筆のため京都に家を借りる。11月、文化勲章受賞。
1962(昭和37)年(63歳) 2月、睡眠薬の禁断症状を起し入院。11月、『眠れる美女』で毎日出版文化賞受賞。
1968(昭和43)年(69歳) 7月、参議院に立候補した今東光の選挙事務長を務む。10月、ノーベル文学賞受賞決定。12月ストックホルム授賞式へ。
1971(昭和46)年(72歳) 1月、三島由紀夫葬の葬儀委員長を務む。。3月、東京都知事選で秦野章の応援を引き受ける。
1972(昭和47)年 3月、盲腸炎のため入院。以後健康不調続く。4月16日夜、逗子マリーナの仕事部屋でガス自殺。享年72歳。

 そこで、今日は、嵐山光三郎著『文人悪食』(新潮文庫)から「川端康成」の項を抜粋してご紹介します。では、どうぞ・・

▼川端康成はやせて躰(からだ)は小さく小食であった。(中略) ところが、こういう人ほど、(中略)食が細いゆえに、食へのこだわりが強く、食への興味と洞察は生涯の作品に見え隠れして通底し、七十二歳でガス管をくわえて自殺する道程にまで、それが見える。(中略)
 康成ほど生涯を通じて風貌の変わらぬ文士は珍しく、頬骨が張り、キリギリスのようにギョロリとした目玉は一高生の頃から変わらない。

030413【筆者注】添付写真の「東京帝大時代」の川端康成の写真をご覧下さい。痩せたスマップの香取慎吾君みたいですね。(笑)昭和13年(川端康成37~38歳)の添付写真では、嵐山氏の言う通りですねぇ・・。(溜息)

 若い頃は、額から霊気を発しているかのような妖気があり、眼は虚空を見つめている。晩年になると、妖気は内向し、白髪と皺がノーベル文学賞受賞の老大家としての風格を強めたものの、よく見れば尋常の顔つきではないことがわかるだろう。異様に耳が大きく、人を射る視線でありながら、相手を直視することはなく、SF映画に登場する謎の異星怪人といった面容である。(中略)
 こういう人が何を食って生きていたのか。晩年は睡眠薬である。若い頃は他人の家の飯である。(中略)
 康成の出世作『伊豆の踊子』は、日本を代表する青春小説であり、何度も映画化されている。映画化されることによって、淡く切ない恋物語としての側面が強調され、『雪国』とともに康成の代表作として定着したのだが、・・(中略)
 この小説は、一見すると青春小説の体裁をとっているけれど、通底するものは、孤絶した自我である。まず、二十歳の「私」が一人で温泉旅行に行くことじたいが孤絶している。

【筆者comment】嵐山氏の言う通りである。二十歳の若造が一人で温泉旅行するなんて、「ホント、ネクラ」である。(笑)

 そして旅先でであった踊子に、ほのかな恋心を抱くのは、孤絶した時下からの脱却であり、旅する以前からの予感である。恋を期待しながらも、その恋が成就しないことは最初からわかっている。踊子は、最初から「成就しない恋の対象」として「私」のなかにある架空の「物」でしかない。(中略)
 この構図は、晩年の康成が書いた小説『眠れる美女』(こちらのほうが名作)(【筆者注】・・と嵐山氏は言う)で、性的機能を失った老人が、睡眠薬で眠っている少女と一夜をすごし、危うい誘惑に駆られながら添い寝を繰り返すことと、構造は同じである。ここにおいて少女は、満たされぬ欲望の対象としての「物」にすぎず、「物」としての女に反射されるかたちで、主人公の孤絶がまぶしく鮮明になる。康成の小説が、女たちにとって侮蔑と感じられるのは、そのためである。(中略)
 (【筆者注】『伊豆の踊子』の)小説の終りで、「私」は船室であった、入学の準備に東京に行く少年が差し出す海苔巻を、泣きながら食う。「私はそれが人の物であることを忘れたかのやうに海苔巻のすしなぞを食つた」のであり、そのうえ「少年のマントの中にもぐりこんだ」のであり、「私はどんなに親切にされても、それを大変自然に受け入れられるやうな美しい空虚な気持ち」になり、涙を出まかせにするのである。(中略)
 晩年、六十二歳のときの小説『古都』は、睡眠薬を飲みながら書いた、とあとがきで告白している。「眠り薬に酔つて、うつつないありさまで書いた。眠り薬が書かせたやうなものであつたらうか」として、小説『古都』を「私の異常な所産」としている。書き終えて十日ほど後、康成は睡眠薬の禁断症状をおこして入院する。
「伊豆の海苔巻」に始まった悲しい喜びは、晩年は、睡眠薬をかじる苦く悲しい喜びにつながっていく。行きつく先は自殺しかない。それも、ガスの悪臭を含んだ痙攣するほどの悲しい喜びである。(中略)
 小食で美食家であった康成は、最後はマンションの一室で、シューシューと鳴るガスをたっぷりと吸い、極限の悲しい喜びの味を満喫しながら死んだ。(了)

【川端康成のepisode】
〔1〕▼こんな話を聞いたことがあった。――
 ある若い女性編集者が初めて川端康成氏を訪れたときのことである。この有名な文学者との初対面に緊張しながら、さだめしおずおずと執筆依頼か何かの用件を切り出したのであろう。ところが川端康成氏は黙って彼女の言葉を聞くだけで、何の応答もない。寡黙な川端氏にはよくあることだ。彼女は身を固くしてひたすら川端氏の口が開かれるのを待った。だが沈黙が続くばかりである。そのうちに、彼女の顔がだんだん紅潮しだした。それでも川端氏は一言も口をきかない。真っ赤になった彼女の顔面がやがて蒼白に変っていった。そして突然、わーっ、と大声をあげて泣き伏した。すると川端氏は怪訝そうな顔を向けて、「どうしたのですか」と初めて口をきいた。
 ――というのである。
 この話を聞いて私は腹を抱えた。いかにも川端氏らしいと。しかし同時に、その若い女性編集者に大いに同情した。彼女が赤くなり青くなったあげくにわっと泣いた胸のうちが手にとるようにわかり、身につまされたからである。つまり、私が初めて川端さんに会いに行ったときも、ほとんどこれと同じだったのである。
  木村徳三「文芸編集者 その跫音」(昭和57年6月)

〔2〕▼彼は、それが高価だから諦めるなんてことはしない男でしてねえ。それはもう法外な男でしたよ。
 ノーベル賞にきまったというニュースを聞くと同時に、川端は富岡鉄斎の七千万円の屏風を買いおった。
 それだけじゃない。埴輪の首一千万円で買うやら、他に何点か買って、結局一億以上になりましてねえ、それでノーベル賞の賞金は二千万足らずでしょう? どうなりまんねん、これは。まったく計算外の男だった。珍しい男でした。
 ノーベル賞の二千万足らずというのは、知らないわけではなくて、先例があるからわかっているくせに、受賞したとたん、それもニュースを聞いただけで、“よっしゃ”と億という買物を平気でする。
 しかも、いよいよ授賞式となってストックホルムヘ行くとき、ぼくの弟の日出海が文化庁長官やってたから、日出海のところへ来て言ったそうだ。
 フランスに絵の売物が出た。とてもいいものだ。日本に買っておいた方がいい――と言ってね、自分の貰うことになっているノーベル賞の小切手を担保にしてその絵を日本に送ってもらうように頼めんだろうか、と言ったんだ、あいつは。いままでの買物は、無茶とはいってもまだ値段を知った上でのことでしょう? ところが、これは値もわからぬうちにだから、大変な男です。
  今東光「川端康成との五十年」(昭和47年6月)

〔3〕▼川端さんはコワイ人だと言う人がいる。とても優しい人だと言う人がいる。
 私の場合はどうであるかというと、それはもう、いたたまれないほどに怖かった。神経がピリピリしてしまって、まるで、歯医者の椅子に坐っているようだった。
 私は、川端さんは優しい人であると言う人は、昭和三十年代の半ば過ぎから交際した人だと思う。あるいは、ごくお若いときから親交のあった人だと思う。
 実に怖い。
 川端さんは私を叱ったり説教したりするのではない。そんなことは一度もなかった。そうではなくて黙っておられるのである。どこかを見ていて、不意に、ぎらっと光る目で私を見るのである。こちらが何かを話しかけると、顔をあげて注視される。唇が動いて何かを言いそうになる。そのままで時が過ぎる。しかし何も言われない。そうして、そっぽを向かれてしまう。そういう感じが、実に実に、こわい。腹の底まですっかり見透かされている気がする。そうかといって、これも多くの人が書いているように、私が帰ろうとすると、まだいいじゃないですかと一言言ってひきとめられる。かくして無言の対座が延々と続く。
  山口瞳「創意の人」(昭和47年7月)

【後記】■さて、【2637の会】membersの皆さんは、文豪『川端康成』について、どの様な感想をお持ちですか。文豪は、読者を納得させるだけの文章表現力をはじめとする文学的技量が絶対的な条件であることは確かです。そういう意味で言えば、『川端康成』は文句なしの「文豪」と言えます。彼が28歳のとき上梓した『伊豆の踊子』の冒頭をご覧に入れます。一瞬にして情景が浮んでくる、その卓越した川端の表現力は流石だ。

 道がつづら折りになって、いよいよ天城(あまぎ)峠に近づいたと思う頃、雨脚(あまあし)が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓(ふもと)から私を追って来た。

▼今日のmailは、『春』を噛み締め乍らしたためました。BGMはWolfgang Amadeus Mozart(1756-1792)の弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387『春』。この作品は、Mozartが尊敬するヨーゼフ・ハイドンに捧げた6曲の連作、所謂《ハイドン・セット(第14番~19番)》の第1曲です。『春』という副題はMozart自身も、また彼の作品編集をしたケッヘルも付けていませんが、『青春』や季節『春』で連想する晴れやかさ、清々しさがいっぱい実感できる傑作です。《ハイドン・セット》は、この曲のほか、第15番二単調K.421、第17番変ロ長調K.458『狩』、第19番ハ長調K.465『不協和音』という傑作が揃っている名曲選です。
では、また・・。

(了)

2008年4月14日 (月)

【時習26回3-7の会 0168】~「4月13日:『後藤新平』命日」「司馬遼太郎著〔『台湾紀行』~《児玉・後藤・新渡戸》から〕&〔『坂の上の雲』~《二〇三高地》から〕」「桑原嶽著『名将 乃木希典』~《あとがき》から」「乃木希典『金州城下作』」

■今泉悟です。 日付が変わって4月14日となりました。皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0168】号をお送りします。あれよあれよと思っているうちに四月も中旬。【2637の会】『同窓会』まで、あと4か月と二日です。皆さんの近況をお知らせ頂くと有り難いのですが・・。

 小生の通勤途上にある中部中学校近くを流れている牟呂用水脇にある柳の木々の綺麗な新緑も日一日とボリュームを増し、身に沁みる様な美しさです。即興ですが、小生の拙句が浮びました・・(笑)

 風そよぎ 楊柳(やうりう)の緑(あお) 鮮やかに  悟空


01■さて、それでは昨日4月13日に因んだ事柄から、まずは、後藤新平(1857.07.24~1929.4.13)(添付写真ご参照)である。13日は彼の命日である。と言っても、彼をご存知の方とご存知でない方が相半ばするくらいの知名度かもしれませんね。司馬遼太郎のファンである方はよくご存知かも・・。また同じ後藤でも、土佐藩士の後藤象二郎と混同されている方もいらっしゃるかもしれません。後藤象二郎、後藤新平いずれも逓信大臣を経験しており、象二郎は大阪府知事、新平は東京市長と大都市の首長も経験。4月13日が、後藤新平の命日である一方、後藤象二郎の誕生日であるからややこしい。また、爵位は二人とも伯爵まで昇り詰めるなど、共通点・類似点が多いので無理からぬことと思います。小生も時々混同します。(笑)

▼まあ、何はともあれ、URLのここ〔↓↓↓〕をクリックして頂けますか? 当時大変貴重であったレコードに吹き込んだ後藤新平の声を聞くことができます。
   http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/voice.html 

40▼さて、後藤新平については、やはり司馬遼太郎の言葉を借りよう。司馬遼太郎著「街道をゆく40『台湾紀行』(添付写真ご参照)」~「児玉・後藤・新渡戸」の項からその抜粋をお贈りする。

04▼児玉源太郎(添付写真ご参照)と後藤新平が、日本領時代五十年間の台湾の行政の基礎をつくったといっていい。
 他国を自国領にする営みは、基本的におかしい。
 そういうことからいえば、いま台湾における児玉・後藤をあらためて考えることは、死児の齢(よわい)を数えるにも似ている。
 ただこの二人は、人間としておもしろかった。
 二人を語ることによって、明治のにおいの一端をうかがうことができるかもしれない。

 (中略)
 新渡戸稲造にも、児玉源太郎と後藤新平の両者を比較した感想がある。

 頭の宜(い)いことを言うたならば、寧ろ児玉さんの方がずっと上だと思う。例えは技術の点のことでも、港湾の修築のことでも、或は私の殊に与(あずか)って居(お)った殖産のことでも、台湾の製糖のことなどでも、藍(あい)の栽培のことに付いても、そう云うような技術的な話をしても、まあ児玉さんに話をすれば10分で分ることならば、後藤さんは矢張り20分位は掛ったようである。尤(もっと)もそう云うような話を私が聞いたならば、どうしても、二時間位は掛ると思う。
 児玉と云う人は其の点は偉いものだ。まるで電光のようにピカピカする鋭さを呈して居て、身体全体が火花でもあるかの如くピカピカして居(お)って、・・其の整然としていること驚く程であった。

以下、後藤新平についてふれる。
(中略)
 後藤新平は奥州水沢藩士の家に生まれた。
 水沢藩は仙台藩伊達家の支藩で、一万六千余石である。
(中略)
 明治維新のあと、水沢藩領に胆沢(いざわ)県が設置され、権知事以下の役人が中央から派遣されてきた。
 それも薩長人でさえなく、薩長に加担した諸藩の出身者が、いわば占領者としてやってきた。(中略)旧藩士は、県の役人には採用されなかった。
 後藤新平は、維新のとき11歳(中略)。
 新政府の役人たちは、「小使いの果(はて)まで伴れて来たのです」と、当時後藤とおなじく旧水沢藩士の子弟だった斉藤実(まこと)が回顧している。斉藤はのち、海軍大将、朝鮮総督、内閣総理大臣などをつとめ、二・二六事件でいわゆる青年将校に殺害された。
 やがて、”占領者”は、旧藩士の子弟から秀才をえらんで、県庁の給仕として採用した。後藤も斉藤も、その仲間にえらばれた。
 後藤は官員たちに愛され、東京にやってもらった。(中略【筆者注】後藤はその後、福島県須賀川にできた須賀川医学校に入学)
 以後、名古屋の愛知病院につとめ、やがて26歳で病院長兼医学校長(【筆者注】名古屋大学医学部の前身)になったりした。(後藤は、この時代に、板垣退助が暗殺されかけて傷ついたのを治療し治したたことで有名になる)

 児玉源太郎は、後藤新平より五つ年上であった。
 児玉が台湾総督を引き受けるにあたって、女房役の民政局長(のち民政長官)に後藤新平を選んだとき、世間は驚いたらしい。
(中略)
 児玉は、着任早々、後藤に対し、施政方針の演説草稿をつくることを命じた。歴代総督が就任したときの慣例だったからである。
「そんなもの、やらんほうがいいでしょう」
 後藤は、一笑に付した。さらに、言う。
「なぜやらんのか、とひとがききにきたら、おれは生物学の原則に従ってやる、と答えて下さい」
「生物学とは何じゃ」
 児玉は長州弁できいた。
「生物は慣習の中で生きています。生物学的とは、慣習を重んずる、ということです。こんなものは施政演説にはできませんよ」
 後藤新平は、日本ふうの法律万能が現地の不評を買っていることを知っていた。のちのち台湾が法治国家の一部として熟するにせよ、いまは”科学的(生物学的)にやる”と言い、また”無方針でゆく”ともいった。
「わかった」
 と、児玉は言ったという。
 後年、後藤新平が児玉を追慕する述懐を、鶴見祐輔の『後藤新平』第二巻のなかで述べている。
「児玉さんは実にえらい人だった。新総督の統治の方針は無方針、という俺の意見を、即座に理解して、それを終(しま)いまで貫いたからね」
 児玉の生涯は五十四年でしかなかった。
 日露戦争では、作戦案ができるごとに薄氷を踏む思いだったのか、朝日を毎朝拝んでいたという。戦争が終った翌年(明治39=1906年)、精根が尽きたようにして死んだ。

■以下に後藤新平の経歴をご紹介する。「板垣死すとも、自由は死せず」の名言で有名な板垣退助が岐阜で暴漢に刺された時、名古屋の愛知医学校から駆けつけ、命を救った医師がこの後藤新平である、と司馬(【筆者注】前掲『台湾紀行』参照)。そして名古屋大学付属病院の前身、愛知県病院院長に24歳の若さで就いている。後藤新平は愛知県とも関係があるのですね。
【系譜】
1857年7月24日(安政4年6月4日) 仙台藩陸中国胆沢郡塩釜村(岩手県水沢市)に生れる
1873(明治06)年(15歳) 福島第一洋学校
1874(明治07)年(16歳) 須賀川医学校入学
1876(明治09)年(19歳) 愛知県病院
1877(明治10)年(20歳) 大阪陸軍臨時病院
1881(明治14)年(24歳) 愛知県病院院長
1882(明治15)年(25歳) 板垣退助を治療
1883(明治16)年(26歳) 内務省衛生局
1890(明治23)年(33歳) ドイツ留学
1892(明治25)年(35歳) 帰国 内務省衛生局長明治26年 相馬事件で収監、非職(内務省衛生局長時代、相馬事件(最後の相馬藩主相馬誠胤が精神病を発症したとして居室監禁されたことがきっかけで、病か旧臣らの陰謀かで訴訟騒動になった事件)し、一時入獄。
1894(明治27)年(37歳) 出獄、無罪
1895(明治28)年(38歳) 臨時陸軍検疫部事務官長 内務省衛生局長(日清戦争で検疫を担当、その関係で台湾総督児玉源太郎に見いだされ、総督民政局長となった。民政局長時代に、台湾島民の反乱を鎮圧する一方、殖産興業に努めて、業績を上げた。)
1898(明治31)年(41歳) 台湾総督府民生長官
1906(明治39)年(49歳) 南満洲鉄道初代総裁 同年男爵
1908(明治41)年(51歳) 第2次桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁
1912(明治45)年(55歳) 第3次桂内閣逓信大臣兼鉄道院総裁
1916(大正05)年(59歳) 寺内内閣内務大臣兼鉄道院総裁
1918(大正07)年(61歳) 寺内内閣外務大臣(シベリア出兵を唱えて実現)兼鉄道院総裁
1920(大正09)年(63歳) 東京市長(~大正12年)
1921(大正10)年(64歳) 8億円計画
1922(大正11)年(65歳) 少年団日本連盟(現ボーイスカウト)総裁となる 同年子爵
1923(大正12)年(66歳) 関東大震災、第2次山本権兵衛内閣内務大臣兼帝都復興院総裁 同年ソ連極東代表のヨッフェを私的に招き、日ソ国交などについて会談
1924(大正13)年(67歳) 東京放送局総裁
1928(昭和03)年(71歳) 伯爵
1929(昭和04)年4月13日(71歳) 午前5時30分逝去 正二位に叙位

【後藤新平の医学校時代】
▼明治維新の“賊軍”の地、東北・水沢で、質素乍ら学識ある武家に生まれた。遠縁に渡辺崋山とともに蛮社の獄に連座した高野長英がいる。幼少時から漢学を学ぶ。1869年、胆沢県大参事に赴任して来た安場保和に才能を見出される。安場の支援により須賀川医学校へ。
 1876年、安場が転任した愛知県に、後藤新平も追う様に赴任する。愛知県病院(【筆者注】「名古屋大学医学部付属病院」に前身)へである。彼はここで、社会全体の「衛生」(生を衛ること)に関心が向けらる様になる。一時彼は、西南戦争凱旋兵の検疫に従事。病院復帰後は次々と建白書を提出。私立衛生会の前身・愛衆社の創設にも着手。中央政府の内務省衛生局長、長与専斎の目に止った。また後藤は、1882年、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助を治療。「医者にしておくには惜しい」と板垣に言わしめたと聞く。
 1883年、長与専斎の命で衛生局に採用。また同年、安場の次女・和子と結婚。1888年、彼の代表作『国家衛生原理』纏めた。更に1890年、ドイツ留学へ。北里柴三郎らと共にコッホとも知り合う。最新の医学と、ビスマルクの社会政策を実感。帰国後、後藤は、内務省衛生局長就任。
 そして、1898(明治31)年、台湾総督児玉源太郎の下、40歳の若さで民政長官に就任。その時代の逸話が上記の司馬の話へと繋がっていく。

【筆者comment】▼後藤新平が名古屋大学付属病院の前身である愛知県病院の院長になったのが24歳、板垣退助を救ったのが25歳、そして台湾総督府の民政長官に就任したのが41歳。時が、明治維新時代という近代日本草創期であった特殊事情を勘案しても、若い時分から重責を担い、その職務を全うして来たという後藤新平の立派な功績には脱帽する。


Photo■さて、続いて次にお届けするのは、司馬遼太郎著『坂の上の雲』(添付写真ご参照)第5巻から「二〇三高地」の一部である。児玉源太郎というと、この作品があまりにも有名である。その一コマをご紹介したい。

▼作戦会議が、ひらかれた。
 はじめの三十分、児玉に対して状況報告がおこなわれた。(中略)
 児玉はやがて報告を打ち切らせ、立ち上がった。
「以下は、命令である」
 と言いだしたから、一座の者は動揺した。(中略)要するに(【筆者注】児玉は陸軍大将・満州軍総参謀長であるが、)大山(【筆者注】大山巌満州軍総司令官)の幕僚にすぎない。(中略)
 このため児玉は、自分の立場については、
「大山閣下の指示により、乃木軍司令官の相談にあずかることになった」
 と、いっただけである。(中略)(【筆者注】児玉は)
「攻撃計画の修正を要求する」
 と、いってしまった。
 乃木がいうべき言葉であった。一同、児玉の横にすわっている乃木の顔をみた。乃木はことさらに表情を消し、一個の置物に化したように沈黙していた。
 児玉の命令は、これまでの第三軍の戦術思想からいえば、驚天動地のものであった。
「まず、一つ」
(【筆者注】と、児玉は二〇三高地の占領を確保するために、速やかなる重砲隊の移動を命じ、それを実現してしまったのであった。)(以下略)

【余談ですが・・】
▼因みに、児玉源太郎の身長は五尺。源義経や豊臣秀吉と同じという。身長は150cm内外ということになろうか。坂本竜馬の身長は175cm、児玉の親友乃木希典は162cmである。

03■続いては、桑原嶽著『名将 乃木希典(添付写真ご参照)』から「あとがき」である。この本は4月4日東京乃木坂にある国立新美術館に立ち寄った帰り、地下鉄乃木坂駅入口至近にある乃木神社で購入した本である。今日は、乃木希典の名誉回復のため(?)その一端をご紹介しようと思い掲載した次第。

▼上記『二〇三高地』をご覧になってお解かり頂けると思うが、司馬遼太郎が描いた乃木希典像は、はっきり言って良くは書いていない(そう悪くも書いていないのであるが・・)。
 「名将 乃木希典」という本は、その著者桑原嶽氏が、かつて産経新聞に連載した『坂の上の雲』において、司馬氏が乃木希典を凡将の様に描いたことに憤り、乃木希典の名誉回復のために書いたものである。そこでその「あとがき」を以下にご紹介する。
 桑原氏は、「附 司馬遼太郎氏を偲ぶ」でも大変興味深いことを述べているが、紙面の都合により今回は割愛する。

▼作家司馬遼太郎氏はその著書の中で次のように述べている。
「乃木という人物は、すでに日本でも亡びようとしている武士道の最後の信奉者であった。この武士道的教養主義者は、近代国家の将軍として必要な軍事知識や国際的な情報感覚に乏しかったが、江戸期が三百年かかって作りあげた倫理を蒸留してその純粋部分でもって自分を教育しあげたような人物だった。」
 なるほど乃木という人物をなかなかうまく表現しているが、この中で「近代国家の将軍として必要な軍事的知識や国際的な情報感覚に乏しかった」という部分は、全く司馬氏の先入観から生まれた独断偏見であると言えよう。
 併し乍ら、このような偏見の存在は何も司馬氏に限らず、他の人々にも見られることは否めない事実である。
ではこのような偏見が何故生まれたのであろうか。それは、乃木が余りにも純粋な武士道精神の持ち主であったからである。
 世の多くの人々は、西欧から輸入された近代の合理的精神は、従来の日本武士道とは全く相容れないものと考えている。そこで乃木も多分非合理的な人間だろうと決めつけてしまった。併しそれは全くの誤りだ。
 そもそも近代の日本文化は東洋と西洋の両文化の渾然融合したものである。従って近代的日本人は東洋の倫理と西洋の教養とを兼ね備えた者でなければならない。その意味からしても乃木こそ最も典型的な近代の日本人と称し得るであろう。
 この拙文が、巷間にはびこる偏見誤解を解くことに役立つならば、筆者の望外の喜びである。

【筆者comment】▼確かに、司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読了の前と後では、小生も乃木希典への好印象が若干減退したことは否定できない。何処かにも書いてあったが、司馬遼太郎は彼の著作の対象となる人物像を、彼の好き嫌いで極端に表現する傾向がある。
 児玉源太郎に対しての、司馬遼太郎の惚れ込み様をみても今日の『台湾紀行』と『坂の上の雲』をご覧になった通りである。

【後記】■では今日の締め括りは、文人としても一流である乃木希典の漢詩『金州城』をご紹介致します。
 金州城は、今の中国の遼寧省大連市の北東にある日露戦争の激戦地。乃木大将の長男勝典中尉もここで戦死した。乃木は、明治37年6月7日にここへ来て、我が子を含む戦死者の霊を弔いこの詩をつくった。

   金州城下作   金州城下の作  乃木希典

 山川草木転荒涼  山川草木 転(うた)た荒涼
 十里風腥新戦場  十里 風腥(なまぐさ)し 新戦場
 征馬不前人不語  征馬前(すす)まず 人語らず
 金州城外立斜陽  金州城外 斜陽に立つ


【解説】▼山・川・草・木も、いよいよもの悲しく荒涼としてみえる。十里四方生臭い風が吹いている。沢山の戦死者を出した新しい戦場。馬も進まず、人も押し黙った儘・・、この金州城の城外、斜めに傾き沈もうとしている夕日の前に立ち尽くしている。
 この詩は、詠む者に、この詩の情景を思い浮かべる時、言い知れぬ深い悲しみを与える。

 話題が暗くなってしまいましたが、今日はこれにて失礼させて頂きます。m(_ _)m
(了)

2008年4月 9日 (水)

【時習26回3-7の会 0167】~「東京、国立新美術館『モディリアーニ展』」「4月9日:『田中冬二』命日」「拙宅の満開の『海棠の花』」「『春』に因んだ俳句三選」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0167】号をお送りします。

■今日は4月9日。満開の桜も散り、代わって萌える新緑の樹々が日毎に眼に沁みる様になりました。若葉は本当に気持ちを和ませてくれます。新緑を見ていい気分になるということは、遥か遠い昔、我々人類、ホモサピエンスが樹々に囲まれた森林・ジャングルで生活していたことをDNAが現代の我々に伝えているからでしょうか・・。(笑)
▼さて、8月16日の【2637の会】『同窓会』まで、あと129日になりました。
 因みに、最近TVで聖火リレー妨害のニュースが話題になっていました8月8日の北京五輪の開会式までは121日です。
 『同窓会』が待ち遠しいですね。出欠のご案内は来月中旬以降に出状しようかと考えています。【2637の会】会報を充実したものとしたいので、【2637の会】membersの皆さんからのお便りを心よりお待ちしております。それまでは、暫く小生の拙ない話で繋いで行きますので我慢してお付合い下さい。

■そこでまず最初の話題は、前号にて予告しました、東京乃木坂、国立新美術館にて開催中の『モディリアー二(Amedeo Modigliani)展』ついてです。
 小生、先週4月4日(金)に社用で東京渋谷の某社を訪れる機会があり、昼過ぎに仕事を終えることが出来ましたので、『Modigliani展』を観て来ました。

Amedeo_modigliani18841920a2216▼モディリアーニ(1884.07.12-1920.01.24)(添付写真ご参照)は、イタリア、トスカナ地方のリヴォルノ生まれ。イタリアの美術学校を卒業後、1906年にパリに出て、最初はアフリカの民族美術に影響を受けた彫刻を手がけたが、その後、人からの薦めもあり、1915年頃より絵画を積極的に描く様になる。
 彼は、ユトリロ、キスリングらと並ぶエコール・ド・パリ(パリ派)の代表的画家である。彼らの多くはキスリングを除くと存命中は押し並べて苦しい生活を送ることを余儀なくされていた。モディリアーニについては、過日【0150】号でご紹介しましたが、35歳の若さでの死と、彼を追う様に自殺した内縁の妻ジャンヌ・エビュテルヌ(添付写真ご参照)の悲劇性が、彼の名声と相俟ってドラマティックな彼の人生をより一層引き立てている・・。
 小生も、学生時代からエコール・ド・パリの画家たち、中でもユトリロとモディリアーニは好きな画家であった。
01modigliania02modigliani1919a03modigliani1918a

04modigliani1916a ただ添付写真をご覧頂ければ解る様に、彼の作品は、背景にダーク・ブルー、服装は茶系というかセピア系の色を多用し、描かれた絵は何処となく暗い。「そこがまたいい」という人も沢山いますが・・。それから彼の作品は人物画、とくに女性を描いた作品が多い。そして、彼がアフリカ民族芸術の影響を受けているせいか、作品の人物像は、トーテムポールの様に顔、首、胴がいずれも流れる様に細長い形であることが特徴。何処となく倦怠感(メランコリー(melancholy))を感じさせる不思議な魅力を持った作品が多く、観る者の心を捉えて離さない。
05modigliani1919a06modigliani1918a07modigliani1918a08modiglianicd1916a 今回の展覧会にも、彼の「人物画」とくに女性の画が数多く出品されている。そして、それらは殆どが1916年から死ぬ直前の1919年の4年間に集中している。これは、先日ご紹介したゴッホも死ぬ直前の2年半の間に作品が集中していたとお伝えしたが、Modiglianiも同様である。若くして死ぬ芸術家たちは、精魂尽き果てるまで作品を作り続けてしまう運命の下にいるのか・・。小生にはわからない。(嘆息)
09modigliani1918a10modigliani1919a11modigliani1916a12modigliani1918a 話は脱線するが、20~30歳代でこの世を去った芸術家は以下の通り彼以外にも少なくない。思いつく儘拾ってみた(ただ画家のほうが作曲家より長命の様であるが・・)。
 クラシック音楽界の作曲家では、シューベルト31歳、モーツァルト35歳、歌劇『カルメン』他を作曲したビゼー36歳、同『ノルマ』他のベッリー二34歳、メンデルスゾーン37歳、ショパン38歳etc・・。
13modigliani1919a14modigliani1919a15modigliani1918a16modigliani1917a

17modigliani1918a18modigliani1918a19modigliani1917a20modigliani1916a 画家では、ロートレック36歳、岸田劉生37歳、佐伯祐三30歳、青木繁29歳。思い付いただけでもご覧の通りである・・。


▼続いて話変わって・・、前号で四季派の詩人三好達治をご紹介したが、四季派で忘れてならない同人がまだいる。「田中冬二」である。今日、4月9日が冬二に命日に当たる。
01 田中冬二(ふゆじ)(1894.10.13-1980.04.09)は、本名を吉之助と言う。銀行員(第三銀行(→安田銀行→富士銀行→現みずほ銀行))としてサラリーマン生活を送りつつ、郷愁を主題に優れた現代詩を沢山世に送り出した。1929(昭和4)年、叙情詩集『青い夜道』を上梓。復刊本を小生も持っているが、冬二の詩は、庶民の日常生活、北国、山国の自然を抒情的に詠い上げ、読者の琴線に触れ、郷愁を誘う。魅力的な秀品が多い。小生は、彼が小生と同じ職業の銀行員であったということを比較的最近知り、急に親近感を持つに到ったが、彼の作風は、同じ四季派の詩人、三好達治、丸山薫、立原道造、伊東静雄らとはまた違う。第一詩集『青い夜道』に代表される様に、冬二の詩の世界は、日常生活の姿、事象を純粋に叙情的に詠う。正確な表現ではないが、俳句ホトトギス派の理念『花鳥諷詠』『客観写生』に通じるものもある、と小生は思う。また、冬二の作品と比べると、三好、丸山、伊東らの作風は、同じ抒情詩人でも何故か作為的に感じるのは小生だけだろうか。
【年譜】
1894年10月 福島県福島市に生まれる。父は銀行員。
1901年    父逝去。
1906年11月(12歳) 母やゑ過労に基づく結核で死去。冬二は母の弟安田善助に引き取られる。
1913年03月(19歳) 立教中学卒業。早稲田大学英文科高等予科志望を断念し、5月安田財閥の第三銀行に就職。
1922年04月(28歳) 04月、「詩聖」に投稿した最初の詩「蚊帳」が長谷川巳之吉に注目され、掲載される。8月、銀座支店に転勤。秋、銀座支店に長谷川が訪れ、詩作について励まされる。
1925年02月(31歳) 安田善助の妻寅の遠縁にあたる今井俊太郎の長女ノブと結婚。
1929年12月(35歳) 第一詩集『青い夜道』を刊行。
1930年12月(36歳) 深沢支店長代理に昇進。
1939年02月(45歳) 長野支店副長となり転勤。
1942年01月(48歳) 諏訪支店長となり転勤。6月、日本文学報国会詩部会幹事に就任(詩部会長は高村光太郎)。
1946年05月(52歳) 立川支店長となり転勤。10月、日野市豊田に家を購入し家族揃って転居。
1980年04月(86歳) 9日、老衰のため自宅で死去。

Photo 今日は、田中冬二の代表作品から二つ、『皿』と『冬』をご紹介してみたい。『冬』は、題材として取り上げる季節が違うが、彼の代表作であり、その【解説】を併せお読み頂くと、彼の作風がよく解ると思うので掲載させて頂いた。ではご覧下さい。


     皿   (第一詩集『青い夜道』(昭和4年刊)より)

 しろい一枚の皿を見ていることはかなしいことだ。
 そこに季節の果物が 燈火のようにもりあがり、
 あたたかい よい 女性の肉があふれ、
 まずしい みずいろの わたしの思想がみち・・・
 ああ 一枚の
 からの皿を じっとながめていることは かなしいことだ。

* 
【意】 ( 暗く、寒く、侘しい粗末な部屋に帰り、)
    ( 硬い木の椅子に腰掛け、頬杖を付きながら、)
    ( テーブルの上に薄青い影を持つ )
 白い一枚の皿を見ていることはかなしいことだ
    ( それをじっと見つめていると、)
 そこに黄色い蜜柑や赤いリンゴが明るい燈火に映えて堆く盛られ、
 匂やかで、瑞々しい美しい女性の肌が現れ、( そしてまた、)
 慎ましく、高貴な私の思想が語られ・・・
    ( しかし、これらは私の幻影。・・この部屋には美しい女性、)
    ( 果物など一つもなく、それに私の思想も貧弱・・ )
 ああ いつになれば美しい幸福を手に入れることができるのだろうか
 一枚しかない からの皿を じっと眺めていることは かなしい・・

【解説】この詩集の『青い夜道』という題名について、冬二は「星明りのして麦の匂う様な夜道 ― 私の好みと、詩集の中にある作品の名から採った」(『現代詩の体験』)と語っている。
 自伝に「大正11年(29歳)、私は銀座支店勤務となり上京した」。この詩は昭和4年(36歳)4月、堀口大学編集の詩誌「オルフェオン」創刊号に発表。
 青春の夢と侘しさ。華やかな色彩の何一つない下宿の、寒々とした部屋に「一枚の空(から)の皿をじっと眺めていることはかなしいことだ」。種々華やかなイメージが浮かび上がって来るので、一層かなしい。こうして自分の青春の日々も過ぎ去ってゆく・・。
 冬二は、「詩精神の真髄は純粋性である。清冽性である。不純であっては詩精神ではない。霞んでいては詩精神ではない。澄み切っていてはじめて詩精神である」(「抒情の彼岸」)と言う詩観を持つ。この詩はまさにその代表作。

        (第一詩集『青い夜道』(昭和4年刊)より)

 白い石の上に 冬はある
 うつくしきひとよ
 私のつめたい靴をふんでください


【意】 ( 草木は枯れ、寒々とした冬の到来である )
    ( 曇り日、私は庭に下り )
 白っぽく乾いた庭石の上に ( ― 目をやると )
    ( 如何にもそこに )
 冬があ(存在す)る ( ― という感じがする )
    ( 全てのものが干からび侘しい )
    ( あぁ、やりきれない気持ちだ。 瑞々しく )
 うつくしきひとよ ( ― 突然、ここに現れて )
    ( 侘しさに堪え切れない )
 私の冷たい靴を ( ― いや、私の心を、思い切り強く )
 踏んで下さい( ― そうすれば )
    ( 老いぼれ老人の様に干からびた私の心も )
    ( きっと生き生きと若返るであろうに )

【解説】これらの初期の作品について、田中冬二は「誰の影響も受けていない、私独自のものから出発している。それ故、たとえ私の作品が単純で、スタイルも平易で、或る試論家から、小学生の作文の様だと酷評されようとも、この点からは敢えて誇り得る」(『現代詩の体験』)と述べている。
 この詩は、「私(=作者)が冬枯れの庭に佇み、やり切れぬ侘しい思いで、埃っぽく干からびた庭石の上に目を落としている。そして、ここに元気が出て来る様な、素晴らしい事象が訪れないか思い描いている」とでも解釈すればいいのであろうか・・。
 作者は、詩の表現について「言葉から感受するニュアンス・重量・硬度・デテールというようなものは周到な考慮を要するのである。詩の一行二行には散文の何十行のカラットがあるのである」「私は私のたのしみから詩をつくる。・・が、それは安易につくっているという意味ではない。私は苦心に苦心してつくっている。推敲に推敲を重ねる。一行二行の詩にも数か月要することさえある。私は誰にでもわかるようなやさしい言葉を用いて、格調の高いものを目指している。真の詩というものは、わかりやすくて、しかも最も洗練され、色調を有し、香りを有するものと思う」(『ポエムライブラリーⅡ』)と言っている。

【筆者comment】▼田中冬二の詩には、極めて純粋な詩心がある。この純粋さが彼の作品の真骨頂である。小生は彼の多くの作品が好きだ。ただ、純粋すぎて面白くないと感じる人も少なくない、とも思う。
 皆さんは田中冬二の詩は好きですか、嫌いですか? どう感じられましたか? 感想を返信mailで頂戴出来れば幸甚です。お便りをお待ちしています。m(_ _)m


04080406050804060608040603080406■さて続いては、前号でお約束した「拙宅の満開の『海棠の花』」です。4月6日に撮影しました。まさに満開。今日4月9日にはすでに色褪せて盛りを過ぎてしまいました。小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに・・」そのものですね。ご覧下さい。


【後記】■そして今日の締め括りは、「春」に因んだ俳句を三つ。「春の月」を二つ、「春の小鳥」を一つお届けします。

 春の月 さはらば雫(しずく) たりぬべし  小林一茶

【解説】明るい秋の月、凄みのある冬の月、涼しげな夏の月に対し、しっとりと豊満な感じのする春の月。それは手を触れれば雫が垂れて落ちてきそうな美しさで、官能的ですらる。そのことは中村汀女の「外(と)にも出よ触るるばかりに春の月」にもいえよう。
  1805(文化2)年『文化句帖所収』
  (鷹羽狩行の「名句案内」(NHK出版))

 外にも出よ 触るるばかりに 春の月  中村汀女

【解説】「外にも出よ」という呼びかけが溌剌としている。何という開放感溢れる情景であろうか。読者の気持ちまで弾んでくる。まるで夕日のような、凛々と明るい春の月が思い浮ぶ。「触るるばかりに」という表現に、月への親近感と、春の月の瑞々しさ、そして月に魅了されている作者の感受性の柔軟さがこもごもに託されている。
  1946(昭和21)年『花影』所収。季語は春の月(春)
  鑑賞「女性俳句の世界」第2巻(角川学芸出版)

 やはらかく 山河はありぬ 鳥の恋  井上弘美


【解説】春、繁殖期の小鳥たちは独特の美しい声で囀(さえず)る。囀りは、縄張り宣言と同種の雌への恋歌である。「鳥の恋」は「鳥交(さか)る」の比較的新しい言い換え季語。折りから「風光る」「山笑ふ」季節であり、小鳥たちの営みを天地が見守っているかのよう。
  2004(平成15)年『俳句研究年鑑』2004年版所収
  (鷹羽狩行の「名句案内」(NHK出版))

【筆者comment】▼三つの俳句は19世紀初頭、20世紀央、21世紀初頭と、作句の時期こそ異なるが、「春」のよさを詠ったいずれも秀句と言える。
俳句って、いつ詠んでもいいですねぇ・・。(笑)
 では、また・・。

(了)

2008年4月 5日 (土)

【時習26回3-7の会 0166】~「4月4日:『清明』」「我が家の『海棠』の花」「4月5日:『カラヤン』生誕百周年」「4月5日:『三好達治』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0166】号をお送りします。平成20年度も始まり、会社・学校では新入社員や新入生が入って来て初々しく、清々しい気分になりますね。8月の【2637の会】【同窓会】もあと四ヶ月余りになりました。皆さん、予定に入れておいて下さい。お願いします。m(_ _)m 
▼それでは、今日も、場つなぎでお話を始めたいと思います。(笑)

■さて日付変わって・・、昨日日4月4日は二十四節気でいう『清明』の日。いよいよ春本番です。桜も満開。昨日4日、東京出張して気づいたのですが、東京ではすでに散り出していました。我が家の花も、先日ご紹介した杏(アンズ)は散り、李(スモモ)も盛りを過ぎ、いよいよ「海棠」の花が咲き出しました。ただまだ満開ではありません。でも、鮮やかなピンク色で桜とは一味違った風情がありいいですね。添付写真をご覧下さい。今回と次回の二回に分けてご覧に入れますが、今日は昨日夕刻撮影した「海棠」の花です。時間が日暮れ間際なので背景が暗くて恐縮ですが、その分、「『海棠』の花」が浮き出て見えます。(笑)

010203040506▼『海棠』の花に因んで俳句を集めてみました。

 海棠や 白粉に紅を あやまてる  蕪村

 海棠に 障子明けたる 化粧哉(かな)  正岡子規

 海棠や 旅籠の名さへ 元酒屋  水原秋櫻子

 海棠の 雨あがらむとして涼し  長谷川浪々子

 海棠に 乙女の朝の 素顔立つ  赤尾兜子

▼続けて、「『春』の夕暮れ~夜(=『春宵』)」に因んだ名句をいくつか拾ってみました。春の夕暮れどきの余韻・・。春宵のなんとなく艶めいた風情・・。一方で、春の夜寒むの雰囲気・・。夫々が持つ、「春宵」の魅力を堪能して下さい。

 しろがねの やがてむらさき 春の暮  草間時彦
【解説】春の夕暮れが刻一刻と深まってゆくところである。それを空の色の変化で捉えた。何処かで”春宵一刻値千金”の”金”には銀(しろがね)が通じている様で、艶やかな雰囲気が漂う。一日が終わり、夜の歓楽が始まる前の夕方の気分。句集『櫻山』所収。

 菜の花の 暮れてなほある 水明り  長谷川素逝(そせい)
【解説】菜の花と言えば南房総の風景が浮ぶが、「水明り」とあるので、水郷の辺りかもしれない。昼は黄色が眩しいほどだったが、日が沈むと、菜の花は夕闇の中に溶けてゆき、水面だけにほの明りが残る。それもやがて闇一色に包まれてゆく。「なほ」の働きに注目。句集『暦日』所収。

 春寒の 社頭に鶴を 夢みけり  夏目漱石
【解説】▼これは『京に着ける夕』の末尾に添えられた句。春になっても寒い神社の境内に寝て、鶴の夢を見た、というのだが、鶴は未来の幸せとか成功を意味しているだろう。寒い寒いと震えながら、京都の漱石は、未来へ向かって大きく踏み出そうとしていた。
  (「俳句で歩く京都」(淡交社))
▼明治40年3月28日から4月10日まで、漱石は京阪に遊んだ。朝8時に東京を出て、夜、京都七条に着いて、人力車に乗って下賀茂に行き、糺(ただす)の森の中の宿屋に入った。京都の第一印象は寒いということだと日記に書き、そしてこの句を記した。
 糺の森は賀茂神社の森である。(中略)
 鶴の凍てた姿、寒くて夢まどかでなかった漱石の姿も眼に浮ぶ・・。
『漱石俳句集』に、次の様な前書がある。「京都は寒く候。加茂の社は尚寒く候。糺の森の中に寝る人は夢まで寒く候」。(中略)漱石らしい品格のある句である。
  (山口青邨「日本秀句5『明治秀句』」(春秋社))

 春の灯(ひ)や 女は持たぬ のどぼとけ  日野草城

 春の夜や 都踊は よういやさ  日野草城

 春の日の 晩照のなかに なほ勤む  山口誓子
【解説】病癒えて、会社の勤務に復帰した。(中略)春の一日の終る頃、太陽の光は西からさして、私は、春の日の晩照の中で仕事を続けていたのである。


Karajan01Karajan02Karajan03Karajan04■さて続いては、今日4月5日が誕生日で、生誕百周年になる大指揮者『カラヤン』についてである。クラシック音楽が好きな小生、最初に自分から能動的に聴いた曲は、カラヤン指揮ベルリンフィルによるベートーベン交響曲第六番へ長調作品68「田園(Pastoral)」であった。今年、『カラヤン生誕百年』が、話題になっていることは、”NHK知るを楽しむ「私のこだわり人物伝」”の4月号でカラヤンを取り上げていることからもその一端が窺える。コラムニスト天野祐吉氏のessay「誰のための音楽『カラヤンの功罪』」からその一部をご紹介します。

▼1989年7月、カラヤンが81歳で死んだとき、西ドイツの代表的週刊誌「ディ・ツァイト」に、大要、こんな記事が載ったそうです。「この人ほど音の美しさに敏感で、それを極点まで追い、実現する力量を持った人はいなかった。その点、彼が今世紀きっての大指揮者だったことを疑うものはいない。だが、この稀有の才能も結局音楽を袋小路に導いてしまった。それに彼が真剣な関心を持ち続けた音楽の複製工学の進歩も、音楽の民主化に役立つよりも、彼個人のあくなき権力志向、音楽市場に君臨しようという欲望の手段に成り下った」。・・・カラヤンは音楽の偉大な伝統を金貨に変え、音楽経験を高価な消費財の享楽に摩り替えたとして、猛烈な非難攻撃を受けたが、それを通じて、他のだれよりも時代の動向、現代社会の性格を象徴する芸術家になったのだ。 当時、この記事を紹介しながら、吉田秀和さんはこう言っています。「私はこれに大筋で賛成する。逆にみれば、文句の余地のない名指揮者で終わったら、カラヤンはカラヤンではなかったことになる」(吉田秀和「カラヤンの死」)
 因みに、同じ日、イギリスの名優ローレンス・オリヴィエも死んでいます。で、それを扱った記事のほうは、称賛に終始していたそうです。
 それはそうでしょう。なぜって、オリヴィエはイギリス劇壇の伝統の継承者ですが、カラヤンのほうはヨーロッパ楽壇の伝統の破壊者です。破壊者は、それが優れた破壊者であればあるほど、称賛も大きいが非難も大きい。(中略)
 カラヤンのオペラについて、吉田秀和さんはこう言っています。
「オペラでもよく独裁的だとかオーケストラを歌手の前に押し出しすぎるとか言われるが、彼本来の姿はベルカント(【注】bel canto(伊)美しい歌唱の意味。オペラ用語では、イタリア式の明快な発声法を指し、滑らかで軟らかい響きを持つ)の壺を完全に押さえ、その美質を最高に発揮さすために行き届いた指揮にある。フレーズの切り方一つみても、よくわかる。1955年、ベルリンでカラスが『ルチア』を歌った時、後でカーテンコールに出て、感激の余りカラヤンの前に跪き、手に接吻して名指揮者に感謝し讃美した逸話一つとっても十分ではないか」(吉田秀和『前掲』)
02_2 1987年、ザルツブルクの夏の音楽祭でカラヤンに招かれ、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」から「愛の死」を歌ったジェシー・ノーマン(添付写真ご参照)も、カラヤンの指揮について、こう語っています。
「このアリアは50以上もピアノやピアニッシモの指示があるんですが、彼の様に指揮してくれて初めてピアノで歌うことが出来るんです。彼の指揮なら、自分がいいと思う歌い方だと客席に聞こえないんじゃないかなんて心配する必要もないし、本当に素晴らしい。こういうふうにオーケストラに支えて貰ってこそ、この役を歌うことが出来るんです」
 カラヤンは、1989年の7月16日、ザルツブルク近郊の自宅で突然倒れ、81年の生涯を終えました。(以下略)
【筆者comment】
▼1989年7月16日、カラヤンは突然倒れたのですが、その場にいたのがソニーの元会長の大賀氏であった。
▼ジャンル別では、交響曲だけを見ても、カラヤンの全集では、ベートーベン交響曲1~9番、ブラームス交響曲1~4番などが定番の名曲。このほか、マーラーの交響曲第9番、ブルックナーの交響曲8番、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」、ショスタコーヴィチの交響曲第10番、モーツァルトの後期交響曲35,36,38~41番、パッと思いついただけですが、いずれも珠玉の名盤ばかりです。まだ聴いたことがない方は是非一度聴いてみて下さい。いいですよ~。(笑)

01_2■さらに「カラヤン」を師と仰ぐ小澤征爾が武満徹と対談したことを共著とした『音楽』(新潮社)(添付写真ご参照)で、「僕の先生=斎藤秀雄、ミュンシュ、カラヤン」のところでカラヤンを次の様に語っています。

▼僕はその斎藤先生にしぼられてからフランスに行ったでしょう。ブランソンの国際指揮者コンクールに優勝してミュンシュに会ったわけ。ミュンシュはさっきも言ったけど長い棒を持ってリラックスしてサーッとやるのね。それをパリのシャンゼリゼ劇場ではじめて見てね。なるほど指揮者にはこんな芸当ができるのかと思ったんですよ。あのくらいびっくりしたことはなかったね。プランソンの、優勝したあとのパーティでミュンシュ先生に偶然会って、弟子入りを申し入れて、断わられ、ボストン交響楽団のタングルウッド音楽祭のコンクールに受かれば教えると言われたの。そのコンクールにも優勝して、漸く念願の先生の弟子になれたわけ。 その後カラヤン先生の弟子になるためのテストにも受かって半年間教えられたの。カラヤン先生は内的でね。棒なんかどうでもいいというようなことを言うわけよ。本当に。僕が立っている指揮台の真下の椅子に腰掛けて、背後から睨む様にして。シベリウスのシンフォニーの終り、ターリーラー、ラーリーラーがあるでしょう。僕が一生懸命に振っていると「セイジ! 振りすぎる」棒なんかどうでもいい、流れがあればいい。精神が終りまで持続すればいい、じーいっと立っていればいい、そういう禅問答みたいなことを半年間ぐらいやられたんだよ。彼からは手の動かし方、スコアの読み方は勿論、音楽のキャラクターの作り方を教えられた。そして演奏を盛り上がらせるには、演奏家の立場よりも聴衆の心理状態になれ、理性的に少しずつ盛り上げてゆき、最後の土壇場に来たら、全精神と肉体をぶっつけろ!そうすれば客もオーケストラも自分自身も満足する、ということを教えられた。 だから僕は、幸いにも、全く違う三人の先生に教えられたわけだ。斎藤先生は、底辺のための、明快にして精妙な、世界にその類をみないほどの完璧な指揮のメソードを発明して指導してくれた。指揮者の手を動かす運動を細かく分類して。シャルル・ミュンシュ先生からは、練習ではなにも注意されなかったけど、「スープル(【筆者注】「しなやか(フランス語)という意味」)、スープル、力を抜け、頭の力も体の力も手の力も全部抜け!」と言われたのを覚えている。シャルル・ミュンシュの指揮はファンタスティックな天才的な神技で、カラヤンの指揮は観客をあっと言う間に引きつける魔法の杖だった。それが1958年か1958~960年位の話だ。だから僕は本当に幸運だった。(以下略)

01_302_303_2■続いては、こちらは今日4月5日が詩人三好達治(1900.08.23-1964.04.05)の命日である。彼は、和歌・俳句の素養の上にボードレール(Charles Baudelaire(1821-1867))やジャム(Francis James(1868-1938))の詩を学び、日本伝統詩の精神を継承しつつ、新しい抒情詩を開拓、現代詩を古典的完成まで高めた詩人と評されている。
【経歴】
1900(明治33)年08月23日 大阪市東区南久宝町に父政吉、母タツの9人兄弟(うち5人は夭折)の長男として生まれた。父は印刷業を営む。
1914(大正03)年(14歳) 大阪府立市岡中学校入学。 
1915(大正04)年(15歳) 市岡中学を退学し、大阪陸軍幼年学校入学。
1918(大正07)年(18歳) 東京陸軍中央幼年学校本科入学。翌年、北朝鮮会寧の工兵第一九大隊に士官候補生として赴任。後、脱走事件を起こし、(1921(大正10)年)退校処分に。
1922(大正11)年(22歳) 第三高等学校文科丙類に入学。同級生に桑原武夫(後掲【三好達治のepisode】〔2〕参照)、丸山薫(同【同】〔4〕参照)、貝塚茂樹ら、上級生に梶井基次郎らがいる。この頃より萩原朔太郎、室生犀星、佐藤春夫らの詩に心酔。丸山薫の影響で詩作を開始。後、「乳母車」「甃(いし)のうへ」等を発表して好評を博す。
1925(大正14)年(25歳) 東京帝国大学文学部仏文科に入学。同級に小林秀雄、中嶋健蔵がおり、堀辰雄を知る。
1926(大正15)年(26歳) 梶井基次郎、外村繁らの同人誌「青空」の同人となる。
1928(昭和03)年(28歳) 東大仏文科卒業。ボードレール『巴里の憂鬱』の翻訳を完成。
1930(昭和05)年(30歳) 「作品」の同人となり、井伏鱒二、大岡昇平らと親交。処女詩集『測量船』を上梓。知的な抒情や古典的な表現などにより一躍詩人としての名声を獲得。
1934(昭和09)年(34歳) 佐藤智恵子(佐藤春夫の姪)と結婚。処女歌集『日まはり』、詩集『聞花集』を刊行。堀辰雄、丸山薫とともに同人となって詩誌『四季』(第二次)を創刊。中心的存在として活躍。
1935(昭和10)年(35歳) ボードレール『悪の華』を翻訳。『山果集』を刊行。
1939(昭和14)年(39歳) 『春の岬』『艸千里』を刊行。
1943(昭和18)年(43歳) 詩集『朝菜集』『寒訴』を出版。智恵子と離婚。
1944(昭和19)年(44歳) 萩原アイ(萩原朔太郎の妹)と結婚。『一点鐘』『花筐』を刊行。『四季』を81号にて終刊する。
1945(昭和20)年(45歳) 萩原アイと離別。『干戈永言』を刊行。福井市三国に転居。
1946(昭和21)年(46歳) 「新潮」に「なつかしい日本」を連載。『故郷の花』『砂の砦』を刊行。
1949(昭和24)年(49歳) 東京都世田谷区代田に転居。『詩人の生涯 ― 萩原朔太郎』を連載。
1950(昭和25)年(50歳) 『朝の旅人』を刊行。日夏耿之介、中野重治らと『日本現代詩体系』を共同編集。
1952(昭和27)年(52歳) 詩集『駱駝の瘤にまたがって』、詩論集『卓上の花』を刊行。谷川俊太郎詩集『二十億光年の孤独』の序詩を書く。吉川幸次郎と共著で『新唐詩選』を岩波書店より刊行。
1953(昭和28)年(53歳) 芸術院賞受賞。金子光晴、西脇順三郎らと『現代日本詩人全集』を共同編集。
1963(昭和38)年(63歳) 評論『萩原朔太郎』、随筆集『草上記』を刊行。
1964(昭和39)年 中野重治、伊藤信吉らと『室生犀星全集』を編纂。3月狭心症を発病。4月5日死去。享年63歳。

▼それでは、三好達治の作品から二つ「雪」「甃(いし)のうへ」(『測量船』(昭和5年刊))をご紹介します。

     

 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。



     甃のうへ

 あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音
(あしおと)空にながれ
 をりふしに瞳あげて
 翳
(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍
(いらか)みどりにうるほひ
 廂
(ひさし)々に
 風鐸
(ふうたく)のすがたしづかなれば
 ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃のうへ


【訳】
  ( 逝く春よ、過ぎ行く青春よ・・ )
 ああ花びらは流れる( 様に散りかかり、学校を卒業した )
 彼女等の髪の肩に、そして胸の辺りに散りしきり
 彼女等もしんみりと語らいながら通り過ぎてゆく
 ( 境内の石畳を踏む )
 長閑(のどか)な履物の音は晴れ上がった空に響き
 ( 咲き満ちた桜の花に ) 時々瞳を上げては( 話を続けながら )
 春日の照り亘る寺の屋根の瓦は古色蒼然と緑青色に潤い
 軒の四隅には( 黒ずんだ )
 風鐸が揺らぎもせず、しーんとしているので
 ( 街の人ごみを好かない自分は憂悶を抱き )
 一人孤独な
 我が身の黒い影が石畳の上に落ちているのを見つめながら
 うつむいているのである。

【筆者comment】▼大正15年(達治26歳、東大仏文科在学中)の作品。東京の護国寺の境内を詠んだものだが、三高時代を過ごした京都の寺々の幻想が付け加えられているという。桜の花の散りかかる晩春の頃の、大寺の境内に漂う「春愁の趣」と「過ぎ去ろうとする青春への愛惜」を詠っている。時節は、まさに今日この頃。桜の舞い散る大寺の境内・・。学校を卒業したばかりの若々しい乙女・・。確かに絵になる情景である。

【三好達治episode】
〔1〕▼はじめて三好さんの姿をみたのは、六、七年前、渋谷のとん平という居酒屋であつた。ぼくは『測量船』の詩人、三好達治とはどんなスマートな人かと想像していたが、はじめて会つた第一印象は、異様なほど茶色い顔に、古びたソフトを被つた、のんだくれの西洋乞食みたいな、甚だ風采のあがらぬ姿であつた。(中略)その時、三好さんはたまたま居合わせた詩人の大木惇夫氏に向つて烈しい罵声をつらね壮絶なからみかたをしていた。
 洋服を着ると甚だ風采のあがらぬ三好さんであるが、和服を着た三好さんは別人のように粋で美男子である。室生犀星のお通夜にかけつけ、羽織袴で霊前になきながらまいつていられた三好さんの姿は立派だつた。萩原朔太郎全集の編集の時、おたがいに朔太郎を愛する余り喧嘩別れし、そのまま生前絶交状態にあつた師犀星に対し、三好さんは無限の感慨を抱いていられたのだろう。二日続いたお通夜のあと、三好さんは家にも帰らず、とん平でいつまでも飲み続けていられた。そしてたまたま隣りの席に坐つたぼくに、自分がどの位犀星に決定的な影響を受けたか、詩人として完成したのは朔太郎だがそのそもそもは犀星の『抒情小曲集』の革命的な詩表現にあることを、何度となく繰り返し述べ、惜しい詩人を喪つたと言つては絶句し、涙をぬぐわれるのであつた。
  奥野健男「三好達治と最後に飲んだかなしさ」 (昭和39年6月)

〔2〕▼『測量船』によって詩壇には確実な地歩を築いたが、三好は依然として貧乏だった。とくに結婚して金がいる。そこで私は落合太郎先生のお口添えを得て、すでに『赤と黒』などの翻訳で知合いになっていた岩波書店で、なにか翻訳を出してはどうかと口をきいた。
 三好はフィリップの『母への手紙』を訳したいという。岩波文庫星一つの分量だ。話がほぼまとまって、最後の打合わせに三好は私といっしょにはじめて書店をたずねた。すベて話がまとまったとき、最後に三好が言った。
「それで、前借りとして、どれほどいただけますかね」
 驚きをうかべて主任が答えた。
「岩波では、どなたさまにも前借はしていただかないことになっています。店是といたしまして、どのような先生方にも、前借はいたさないことになっておりますので……」
「岩波の店是はそうかもしれない。しかし、三好家の家憲では、前借なしには、いっさい仕事はしないということになってます」
 まさに電光石火の反撃であった。そのあと私がどうとりなしたか、こまかなことは忘れたが、ともかく三好は若干の妥協をしつつも家憲を守り、そして『母への手紙』は昭和十年にたしかに刊行されている。
 彼は私が前借なしに仕事をするのを度々とがめた。もしある仕事の中途で死んだとすれば何のとくにもならない。ところが毎回前借をしておけば、死んだときに一回分か二回分の前借金だけとくになるはずだというのである。
  桑原武夫「借金の天才・三好達治」 (昭和39年10月)

〔3〕▼たしか昭和四、五年ごろの晩秋か初冬のことだったと記憶しますが、ある夜もうかなり遅くなってから、三好さんがひょっくり訪ねてみえました。そして部屋へ通るなり、オーバーの両方のポケットから一合瓶を一本づつ取出した三好さんは、さっそくその口を私にあけさせて、冷やのまま飲みだしました。何やらいらいらしている様子が、ありありと感じられましたが、そのうちに三好さんは思い余った様子で、
「中谷ッ! おれの詩は古いか。古くはないだろう。はっきりいってくれ」
 と訴えるように叫び、涙を流して泣き出しました。いままで堪えに堪えていたくやしさが堰を切ってあふれ出したようです。酒を一滴も飲まない中谷は、あきれたように黙って三好さんを見つめていましたが、三好さんが何度も同じことをくり返し訴えるので、
「どうしておれにそんなことをきくんだい。何かあったのか」
 その方を先に聞きたい様子を見せますと、
「こんどの『詩と詩論』のおれの詩、君も読んでくれただろう。萩原さんがあれを古いというんだ。いやもっとひどいことをいった。あんなものは無意味だといったよ。古くて、無意味とは、あんまりじゃないか」
 そういって三好さんは、ポタポタと涙を流し、それを平手で拭うのでしたが、拭ったあとからまた涙は溢れてくるのでした。そんな三好さんを、中谷はことばをつくして慰めたり励ましたりしていましたが、師と頼む萩原朔太郎さんの批評は、よほど三好さんにこたえたらしく、容易にきげんは直りそうもありませんでした。
  平林英子「三好さんのこと」 (昭和40年12月)

〔4〕▼三好はひどく酒が好きで、この点もウマが合って、よく一緒に呑みに行った。そんな場合、至って無策な僕とはちがって、巧みに呑み代を工面してきた。またその金をパッパッと使い果した。(中略)
 そんな三好とのつき合いで、たった一つだけウマの合わない面があつた。三好が映画ぎらいであって寄席が好きな事だった。そんな彼を無理に映画館にひっぱって行くと、終始、彼は浮かぬ顔付になり、見終ってからもむっつりと押し黙ってしまうのだった。逆に彼にひきずられて僕が寄席にはいると、坐布団や火鉢の運ばれてくるふんい気の中でキョロキョロと落ちつかない僕の耳元に、彼は生き生きとして口数が多くなり、いかにも居心地よさそうに、高座に登る芸人達について、彼一流の東西(江戸と大阪)文明比較論をささやきつづけるのだった。
 或るとき映画館の中で、彼は映画を好まない理由を釈明して、スクリーンにうつる外人の俳優を見ていると、自分の褐色をした手や顔がさびしく思えてくるからだと云った。そして「僕はやっぱり日本人なんだ」と結んだ。言葉はしょんぼりした小声だったが、我ながら意外なほどはっきりと憶えている。
  丸山薫「ウマの合った三好達治」 (昭和39年10月)

【筆者comment】▼詩人三好達治は、四季派の代表的詩人として著名だが、達治の詩は、Ⅰ期:『測量船』を中心として国民詩人、自然詩人としての立場を築き上げた時期、Ⅱ期:『捷報いたる』『寒折』『一点鐘』など、戦争詩を書いていた時期、Ⅲ期:敗戦後、『故郷の花』『砂の砦』『駱駝の瘤にまたがって』に見られる様な自嘲ともユーモアともつかぬ作品を書いていた時期、に分けられるとされる。詩人鮎川信夫は、詩人三好達治を痛烈に批判している。この辺りの話は大変興味深いが紙面の都合もあるので後日またゆっくりとしてみたいと思う。

【後記】▼昨日、仕事で上京した。目的地は渋谷の某社。駅前の桜並木は満開を過ぎ、風が吹くたびに桜吹雪となりなんとも言えず美しかった。
 仕事を済ませた後、今日も時間が出来たので、乃木坂の国立新美術館で現在開催中の「モディリアーニ展」を観て来ました。この模様については、次回ご覧に入れたいと思います。
 では、また・・。
(了)

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