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2008年9月の6件の記事

2008年9月29日 (月)

【時習26回3-7の会 0204】~「9月26日『ジャン・テオドール・ジェリコー』誕生日」「天高く馬肥ゆる秋・・」

■今泉悟です。 ここ二三日で急に涼しさ、というか朝晩は肌寒さを感じる様になり、秋本番の到来ですね。 まさに「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉通りですが、皆さん如何お過ごしですか。 油断して窓を開けた儘で寝ると風邪をひくかも・・。 ご自愛下さい。
 さぁ、今日も【2637の会】会報【0204】号をお送りします。

■さて今日は、【2637の会】関係の話題がありませんので、副題にある様に、一昨日昨日9月26日が誕生日であるフランスの古典派の著名画家『ジャン・テオドール・ジェリコー』についてご紹介したいと思います。
 ジェリコー(Theodore Gericault, 1791.09.26 - 1824.01.26)は、19世紀前半に活躍したフランス人画家。 彼の名を一躍有名にしたのは、同時代に実際に起きた凄惨な船舶遭難事件を取り上げた『メデューズ号の筏』。 この作品は高校時代、美術を専攻した皆さんならよくご存知の作品。 彼より7歳後輩に当たるドラクロワなどにも大きな影響を与えている。 ロマン主義絵画の先駆者とも・・。 若干32歳の早すぎる生涯は、彼が残した数点の作品の完成度の高さを見れば誰もが納得できる。
 彼の作風は、古典主義に根差しながらも、ダヴィッドやアングルとは違い、古代神話や史実、宗教画は好まず、(当時の)現実社会を題材に取り上げることを好んだ画家である。 「徹底した写実」が彼の真骨頂と言ってもいい。 この姿勢が、後のドラクロワ(ロマン主義)やクールベ(写実主義)、更にはドガらの印象派へと、19世紀欧州の主だった画風の先駆けなったと言えなくもない。 それ程存在感の大きな画家である。 以下に彼の略歴を付す。
【略歴】
1791年 09月26日、北フランス、ルーアンの裕福な家庭に生また。
1796年 この頃、家族と共にパリに移住。 父は弁護士。
1808年 画家カルル・ヴェルネに弟子入り。 彼は馬に強い関心を持ち、彼の作品に馬はよく取り上げられている。
1810年 画家ピエール・ナルシス・ゲランに師事。
1812年 『突撃する突撃する近衛猟騎兵士官』(添付資料ご参照)をサロンに出品、金賞受賞。
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1814年 『戦場から去る負傷した胸甲騎兵士官』(添付資料ご参照)を出品。
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1816年 この年から翌年にかけ絵画の勉強のためイタリアに滞在。 中でもミケランジェロの表現力に強く感銘し影響を受けた。
1819年 サロンに『メデューズ号の筏』(添付資料ご参照)を出品。 賛否両論を巻き起こした。
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1820年 この年から1822年までイギリスに滞在。
1821年 イギリス滞在中に『エプソンの競馬』(添付資料ご参照)を描く。
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1823年 落馬、馬車の事故等が原因で持病の脊椎結核が悪化。
1824年 1月26日、死去(享年32歳)。 最期の言葉は「まだ、何もしていない。」とか・・。
【筆者comment】
▼「『秋』本番の到来」・・と来ると、「天高く馬肥ゆる秋」。 『馬』の話題づくりで【0204】号を仕立てようと思っていたところ、いい題材がありました。
 『ジェリコー』といえば、『メデューズ号の筏』も有名ですが、『エブソンの競馬』もとても有名ですね。 駆ける抜ける競馬馬の疾走する一瞬を画面一杯に描いた躍動感は素晴らしい。 この作品は、よく「印象派のドガを先取りするもの」と評されている。 でも、皆さん、『エブソンの競馬』の馬の四本の足をよ~くご覧下さい。 「どこか変?」。 「はい、ちょっとおかしいですね。」。(笑) これも馬の疾走する姿をコマ取りした写真(以下『疾走馬の分解写真』という)を探して来ましたのでご覧になって比較してみて下さい。(添付写真ご参照)
 『エブソンの競馬』の馬の四本足は、「前足2本が揃って前へ、後足2本が揃って後へ」と描かれていますが、実際の『疾走馬の分解写真』を見ると、「『後ろ足2本』が後へ揃って蹴られている時、前足は、一本しか前に出ていない」のです。 「卓越した写実力を持つ『ジェリコー』のこと、その点を十分知っていて、躍動感を強調するために、敢えてあの様な疾走形にした。」ということにして置きたいと思います。 真実は『ジェリコー』だけが知っている・・。(笑)


【後記】■今日の締め括りは、『馬』で締めましょう。(笑)

 牧の馬肥えにけり早も雪や来ん  高浜虚子

【意】放牧された馬が肥えた頃、山里ではもう冬の到来を告げる雪が・・。

 馬肥えぬ叩きめぐりて二三人  橋本鶏二

【意】抜ける様な真青な秋空の下、馬市が開かれている。 夏の間に肉置(ししお)き(【筆者注】肉付き)が豊になった馬を、すれ違いの人々が親しみをこめて叩いて行く。 爽やかな秋風が心地良い。 昔日の農村の一風景。

 馬の子の故郷(こきょう)離るる秋の雨  小林一茶

【解説】『享和句帖』所収(享和3年作)。 乳離れした子馬が他郷に売られて行く。 秋の雨の中を、馴れた故郷から曳かれて去って行くところである。 この馬の子に、かつて14歳で故郷を離れた作者一茶の少年の日の悲哀を重ね合わせている。 その表現が、詠む者に静かな感動を与え、この作品を秀逸なものにしている。

 皆さんのお便りをお待ちしております。m(_ _)m
 では、また・・。(了)

2008年9月24日 (水)

【時習26回3-7の会 0203】~「9月23日:『秋分の日』~『曼珠沙華』」「9月24日:『加山又造』誕生日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0203】号をお送りします。
 《会報》【2637の会】も、何とか200回を超えることが出来ましたが、これも「皆さんからの応援あってこそ」と感謝しております。 前【0202】号で、【2637の会】の話題が途切れたと申し上げたところ、早速、J司君から応援mailを頂戴しました。 J司君の暖かい心遣いに深謝致します。 これからも【2637の会】membersの皆さんの交流の場として少しでもお役に立てればと願っています。 ですから、皆さんも気軽にお便り・mailを頂戴出来れば幸甚です。

■さて、今日は9月24日。昨日が秋彼岸の中日。 我が家でも父と家族を連れて、亡き母の墓参りに行って来ました。 昨日は、天候にも恵まれ、無事お墓参りを済ませることが出来ました。
 さて、『彼岸』について調べてみました。 お彼岸は、秋分の日を中日として前後三日ずつありますので、明後日までお彼岸です。
 『彼岸』という言葉は、梵語の〔波羅蜜多(はらみった)〕の訳語である「到彼岸」から出た言葉で、「解脱」、即ち、生死を超越した理想の境地・悟りの境地をいいます。「涅槃」とも。
 いつも小生、『秋彼岸』というと、「曼珠沙華」を思い出します。 そこで、「曼珠沙華」に因んだ俳句を拾ってみると・・
 曼珠沙華抱くほどとれど母恋し  中村汀女
【解説】真っ赤な曼珠沙華の花を見る度に、昔日の母と過ごした懐かしく切ない少女時代を鮮明に思い出す。
 曼珠沙華落暉も蘂をひろげたり  中村草田男
【解説】落暉(らっき):夕日。蘂(しべ):おしべとめしべ。 入日で茜色に染まった川辺だろうか、赤く蘂をひろげた曼珠沙華の花の群落・・。妖艶なほど美しい。
 でも・・、『曼珠沙華』を読んだ名句は数あれど、究めつけは「断然、これっ!」 ・・ 小生、いつもこの俳句が頭に浮かびます。

 つきぬけて天上の紺曼珠沙華  山口誓子

01_2▼この句は、いつ詠んでもす~っと頭に詠んだ通りのimageがくっきりと浮かぶ。 添付写真をご覧下さい。 まさにこの写真の様に真っ赤な曼珠沙華がすっくと真っ青な澄んだ空に向かって突き抜ける様(さま)が印象的で大変美しい句である。 一度詠んだら忘れない名句であると思う。
 この句について、山口誓子自身が評しているので、ご紹介する。

【解説】「曼珠沙華(まんじしゅしゃげ)」の句である。 まんじゅしゃげは、彼岸花とも、死人花(しびとばな)ともいう。 死人に関係ある花だから、縁起のいい花ではない。 人々は、その花を忌むべき花と考えていた。 俳句の世界では、紅蘂(しべ)のその花を美しとして、愛した。
 戦後、まんじゅしゃげは、アメリカなどに輸出され、その紅蘂がアメリカ人の気に入って、美しい花、愛すべき花とされた。 日本の人々は、それを見て、やっとまんじゅしゃげに一目置くようになった。
「つきぬけて天上の紺」は、くっつけて読む。 つきぬけるような青天とは、昔からいう。 それを私は「つきぬけて天上の紺」といったのだ。
 そんな青天に、まんじゅしゃげは、紅い蘂を張って、すっくと立っている。
    昭和16年作『七曜』所収 ~ 『山口誓子自選自解句集』(講談社)
【筆者comment】▼山口誓子の俳句は、切れがあり、小気味好い。 飯田龍太とはまた違った「切れ味」があり、男性的な俳句が詠む人を魅了する。 「つきぬけて天上の紺曼珠沙華」とともに、大変有名な俳句に次の作品がある。 これも作者本人のcommentをご紹介する。 本人の言葉なので当然だが「なるほど」明解な説明である。
 ピストルプール硬き面(も)ひびき  山口誓子
【解説】プールでの、競泳の句である。
「硬き面」は、硬き水面である。 水面は水の面(おも)であるから、「硬い面」を「かたきおも」と詠みたいが、字数の関係で、「かたきも」と読ましている。
 競泳のスタートである。  泳者はみな自分のラインを目の前にして、ピストルの鳴るのをいまかいまかと待っている。
 鳴った。 その音は、たあんという短かくて硬い音だった。 その音が硬い音なのか、それともプールの平らな水面が、鉱物性の硬さを持っていて、それにひびいたから硬い音に聞こえたのか。
 私は、「プールの硬き面にひびき」と詠(うた)った。 プールの水面が鉱物性の硬さを持っていると感じたから。(NHKの「二十の扉」では、水は鉱物に分類されていた。)
    昭和11年作『炎昼』所収 ~ 『山口誓子自選自解句集』(講談社)
011954a021970a031978a■さて続いては、小生と同じ誕生日の日本画家・版画家『加山又造』(1927.09.24 - 2004.04.06)についてである。
041979a051983a 彼は、1927(昭和2)年、京都市西陣織に図案家の家に生まれた。京都市立美術工芸学校、東京美術学校卒業。 東京芸術大学名誉教授。 日本画の伝統的な様式美と現代的画風を融合させ新境地を開いた。 前【0202】号でご紹介した菱田春草に比べ極めて現代的な日本画・版画である。
061983a071985a081986a 彼の作品を添付写真の幾つかの絵をご覧になって体感してみて下さい。 これまでの日本画が持っている『伝統美』に、今を生きる人々に受け入れられ易い『現代美』を上手く融合させて、作品に昇華させている。
091987a10kaki1990a11a そう言う観点から言えば、東山魁夷の作風とも一脈通じるものがある、とも言えなくもない。 加山の作品は、我々にも受け入れやすい日本画である、と思います。 以下に加山又造の経歴をご紹介します。

【経歴】
1927年 京都市に生まれる。
1949年 東京美術学校卒業。山本丘人に師事。創造美術展に初出品。
1950年 第2回創造美術春季展で研究会賞受賞。
1951年 第15回新制作展で新作家賞受賞。
1992年 日本中国文化交流協会常任理事に就任。新東京国際航空に陶板壁画「日月四季」完成。
2003年 文化勲章受章。
2004年 4月6日、死去。
【後記】■今日は、「つきぬけて天井の紺『曼珠沙華』」と、『加山又造』の絵でお終いとします。添付の写真と絵をご覧になって心を落ち着けて下さい。
 ついでに、小生もついに53歳か・・。(嘆息)(笑)
 話はまた変わりますが、昨日のニュースで日本プロ野球界、ソフトバンク・ホークスの王監督が今季限りで14年間に亘る監督を辞任する、と報道されていましたネ。 王監督は、まさに日本野球界の鑑である、と思います。 胃癌手術後も直ぐに監督に復帰し活躍されていたが、最近、顔色も悪く調子が良くなさそうだと思っていた矢先のニュースなので、「王監督、全快されるまでゆっくり静養して下さい!」と申し上げ、《会報》【0203】号を終わります。
では、また・・。(了)

2008年9月19日 (金)

【時習26回3-7の会 0202】~「9月17日:『若山牧水』と『菱田春草』命日」「大島清『もの忘れをなくす50の生活習慣』から」「今日の俳句:『秋の七草』→『撫子』→『小林一茶』→『露の世』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0202】号をお送りします。
 【2637の会】関係のお話は、残念ながら今日はお休み。 そこで、せめて地元の話題でも・・ということで、一昨昨日16日夜、地元の産・学・官交流の集いに月例で参加している中でのちょっとした話題を一つ・・。
Photo_2 実は、その集いの会場は、先月までは原則、豊橋グランドホテルであったのですが、同ホテルが今月4日から『ホテル・アークリッシュ豊橋( HOTE ARC RICHE TOYOHASHI )』、即ち、(中略)旧豊橋西武百貨店跡地に建設竣工した『ココラフロント』に変更され、そこでの宴会場に初めて足を運びました。(中略)
 豊橋駅前再開発の先鞭をつけた恰好になる『ココラフロント』。 これに続く駅前再開発で、豊橋の街中の活性化が進展して行くか、今後強い関心が寄せられる。 

■さて今日9月19日は、明治期の俳人・歌人の巨匠『正岡子規』の命日である。 が、正岡子規については、話題が大きすぎて、何処から取り上げようか頭の中が全く整理出来ていない。 早い話が、彼については、小生準備不足のため今日取り上げられない。 また後日ということで・・。(笑)(汗)
 そこで今日は、まず副題にある様に、歌壇から『若山牧水』、日本画壇から『菱田春草』を取り上げます。 二人とも子規の命日の二日前、即ち一昨日9月17日が命日。 若山が享年43歳、菱田が同36歳。 いずれも早すぎる死である。

44033 ▼まず『若山牧水(1885.08.24 – 1928.09.17)』についてである。歌人。本名,繁(しげる)。
 まず、彼の『略歴』からご紹介する。
【略歴】
1885(明治18)年 8月、宮崎県東臼杵郡東郷村(現日向市)の医師、若山立蔵の長男として生まれる。
1899(明治32)年 宮崎県立延岡中学校に入学。短歌と俳句を開始。
1903(明治36)年 18歳。号を『牧水』に。
1904(明治37)年 早稲田大学文学科入学。同級生に北原白秋がいる。
1908(明治41)年 早大英文学科卒業。7月、処女歌集『海の声』出版。
1909(明治42)年 中央新聞社に入社。 僅か数ヶ月で退社。
1911(明治44)年 「創作社」創設。 詩歌雑誌「創作」主宰。
1912(明治45)年 友人「石川啄木」の臨終に立ち合う。 同年、喜志子と結婚。
1920(大正09)年 沼津に転居。
1926(大正15)年 詩歌総合雑誌「詩歌時代」を創刊。
1927(昭和02)年 妻貴志子と共に朝鮮揮毫旅行。
1928(昭和03)年 夏頃より病臥。9月、自宅で死去。享年43歳。

 牧水の人となりについて、嵐山光三郎氏は著書『追悼の達人』「若山牧水~アル中患者を成仏させる」で次の様に紹介している。

 牧水と言えば

 白玉の歯にしみとほる
  秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ

『路上』
 の歌がまず頭に浮かぶ。 牧水は酒と旅を愛した歌人というイメージがあるが、実際はどうだったのか。(中略)牧水が酒を本格的に飲み始めたのは二十三歳あたりからである。(中略)
 牧水の飲みっぷりは、全盛時は一日二升五合であったから並ではない。 連日、一日二升五合飲んだ。 飲みすぎて肝臓を悪くして(【筆者注】病名「肝硬変」)数え年四十四歳で死んだ。(中略)
 牧水の旅の実態は、よく揮毫した、
*
 幾山川(いくやまかわ)越へされ行かば寂しさの
             (は)てなむ国ぞ今日も旅ゆく

*
 とはまるで違ったものとなった。 一枚書くたびにいくら、いくらと牧水は計算したはずである。 そこには「みなかみ紀行」のときの様な、煌めく放浪詩人としての牧水はいない。(中略)
 躰(からだ)はアルコールにむしばまれ、手がブルブルと震えて筆が持てない。 震えを抑えるために、また酒を飲む、という悪循環のなかで、牧水は死んだのである。(中略)
 牧水の最後の歌は、
*
 酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ
            庭草をぬくこの庭草を

*
 であった。(以下略)

▼北原白秋が牧水について語った文章があるのでご紹介する。
 若山君位酒の好きな人はあるまい。 彼こそ本当の酒仙であらう。 酒に酔ふと、たわいもなく眠りこけて了ふが、朗々と得意の吟声をきかせる。 歌の議論など真つ平と云ふ風である。 而して傍から何かと議論でも吹つかけると――「どうでもしなはれ、わしや知らぬ」とごろりと寝てお了ひになる。
 ともすると、非常に陰欝になつて、黙つてチビリチビリとやつてゐる。 さう云ふ時は、妙にどす黒い重い感じである。
 若山君位また旅の好きな人もあるまい。 フラリと行つてはフラリと帰つて来る。 彼は全く旅に出なくてはならなくなつて旅に出る、それは酒を飲まずにはゐられなくて飲むのとおんなじである。 酒の牧水、旅の牧水ほど牧水の真骨頂をあらはしたものはない。 酒は彼を活気づけ、旅は彼を洗ひそゝぐ。
        〔 北原白秋、大正8年5月 〕

01▼続いては【菱田春草】についてである。 彼は、横山大観、下村観山と共に明治時代の日本画界を代表する巨匠。 そこでまず彼の経歴を付す。
【経歴】
1874(明治07)年 長野県飯田(現飯田市)生まれ。本名は三男治(みおじ)。
1890(明治23)年 東京美術学校入学。美校の1年先輩に横山大観、下村観山がいる。美術学校での師は狩野派末裔の橋本雅邦。
1903(明治36)年 大観とともにインドへ渡航。
1904(明治37)年 岡倉天心、大観と共に渡米。 欧州経由で翌年帰国。
1911(明治44)年 病死。享年37歳。

021902031907 今日は、菱田春草の代表作4点をご紹介する。 _1909_2 _1909_3 いずれも国の《重要文化財》に指定されている傑作である。『王昭君(1902年)』『賢首菩薩(1907年)』『落葉(1909年)』『黒き猫(1910年)』をご覧下さい。 いずれの作品も傑作である。

061910


【筆者comment】▼若山牧水(享年43歳)も菱田春草(同36歳)も、三十路、四十路という人生半ばで生涯を閉じた。 でもその短い生涯の中で、二人は夫々の世界においてエネルギーを燃焼し尽し、立派な実績を残した。 所謂「太く短い」人生だ。 二人は、自らの命と引き換えに名を残した訳である。 これもまた立派な人生の送り方である、と思う。


50■続いては、健康オタクの小生、また健康 How to 本を買ってしまいました。 「大島清著『もの忘れをなくす50の生活習慣』」です。(笑)
 内容は、本の題名の通りのものですが、なかなかいい本です。 参考になりました。 そこで今日は、その中から ・・ [22]老いてこそ純粋な勉強ができる。人が学ぶのは、そこに感動があるからだ。・・ の一部をご紹介します。

(前略)本来、人はなぜ学ぶ必要があるのか。 脳の仕組みから言えば、それは感動するためなのである。 ステータスのためでも、社会的な地位のためでも、将来的な安定のためでもない。 脳が喜ぶためにするのである。 今まで知らなかったことを知っていく過程は、まことに楽しいことだ。 例えば、鳥の鳴き声が聞こえてきて、双眼鏡でその鳥の姿をはっきり見たときや、図書館で動物図鑑を広げて、その鳥の名前がわかったときなどがそうだ。 それが、ずっと知りたくてわからなかったことであれば、快感さえともなうときがある。 まさに、「遊びをせんやと生まれけむ、戯れせんやと生まれけむ」(『梁塵秘抄』)である。
 私の旧制三高時代の恩師である桑原武夫先生は、「未知なるものに好奇心を抱き、感動するものでなければ人間と呼べない」と言っていた。 つまり、謎が感動とともに解けたとき、人は本当にその対象を理解したのである。(中略)
 恋愛や夫婦の間柄もそうではないだろうか。 相手の異性のことはわかったつもりでいるつもりでいるけれど、ときには予想もしなかった言動をとる連れ合いを見て驚く。 そして、突然「わたしのことをわかっているの?」などと言われるのだ。(中略)あなたは、自分の心が動くほど、相手を理解しようと努めたことがあるだろうか。 こんな努力は、夫婦の間でも意外にないものだ。
 わかったつもりになっていることには、感動が伴わない。 感動がないのなら、それは本当に理解していないと疑ったほうがいい。 それはまだ、発展途上のプロセスの段階なのである。 感動するまで、未知なる異性に好奇心を抱き続けること。 これが恋愛の鉄則であり、夫婦生活をマンネリ化させないコツなのである。 
 (中略)現代は情報に溢れている。 しかし、理解に伴う感動は、逆に少なくなっている。(中略)私が学生時代の方が感動が多かった。 一つひとつ体験できたからである。(中略)海水がしょっぱいことを知っていても、海の怖さや多くの幸を齎す偉大さを、今の子供は実感として知らない。
 大人でもそうだ。(中略)電子レンジやテレビの仕組みも知らない。 そうやって周囲を見渡すと、わかったつもりのものだらけだったことに気づく。 それらを感動するまで理解できたら、どれだけ楽しいことだろう。 これが知的好奇心であり、興味なのだ。 そして、それが脳のあらゆる部位を総動員させるきっかけとなるし、感動を生む源ともなるのだ。 これは人間にしかできない。(以下略)


【後記】■今日の締め括りは、今、新聞紙上でも『秋の七草』を話題のとりあげている記事をよく見かける。 今日も連想形式で短歌と句を楽しみましょう・・。(笑)
 以前にもご紹介したが、『秋の七草』を語呂合わせ短歌で言うと・・

 桔梗 女郎花藤袴
      
尾花撫子 秋の七草


Photo 意外に覚え易いでしょう。 そこで、撫子で一句・・
*
 露の世や 露のなでしこ 小なでしこ  小林一茶
            『七番日記』
 でも、一茶で『露の世』と言うと、以下の句が有名ですね・・
*
 露の世露の世ながら さりながら  一茶
            『おらが春』
【解説】人生は露の様に儚い。それは分かっているが、辛い・・。 一茶は最愛の娘「さと」を疱瘡で失った。その悲しみを読んだ哀切な句。

 おしまいに【小生のまた仮想現実の世界】へ、ようこそ・・(笑)
*
伴侶へ・・ 〕
 露の世知りたるは 縁(えにし)かな  悟空
【筆者comment】・・ノー・コメント・・(笑)
*
では、また・・。(了)

2008年9月14日 (日)

【時習26回3-7の会 0201】~「渡辺さんからの『中山君からのお礼mail』の答礼mail」「9月13日:『棟方志功』命日」「草野心平『わだばゴッホになる』」「孟郊『登科後』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0201】号をお送りします。

■さて、今日は9月14日。 今日は大変嬉しいお知らせがあります。 渡辺さんからmailが届きました。 中山君からのお礼への答礼です。
 前【0200】号でも申し上げましたが、【2637の会】《会報》が、この様な形で交流の場になっていくことを、自称万年幹事の小生、この上ない喜びと感じます。
 今回の渡辺さんからのmailで、ギリシャ旅行の模様がさらに詳しく解りました。 「ロバの背に揺られてのんびりとゆく・・」。 悠久の時の一端を実感できた至福のひとときだったことでしょう、S○子さん! 羨ましいですね・・(嘆息)。 それでは、S○子さん宜しく・・

【渡辺S○子さん】
200号配信おめでとうございます。
毎回読み応えのある内容で、それを200回も続けてるなんて頭が下がります。
これからも適度に続けて下さいね。

中山君が壁紙として使ってくださってるとは嬉しい限りです。
実は我が家も同じのを壁紙にしています。
あの写真はギリシャ本土から高速船で4時間のサントリーニ島、イアの街の風景です。

この島は断崖絶壁の火山島なので、大きな港が無く、大型客船でエーゲ海クルーズを楽しんでいる人たちは小船に乗換え島に上陸し、580段の階段をロバに乗って街まで上って来ます。
ドンキーベルの音が今でも耳に残ってます。
そうそう、ロバ使いの人たちはマリオのモデルなのかな?
あの口ひげと帽子はそっくりです。
もう一つミコノス島にも行きました。
ここは狭い迷路の続いている街で面白かったですよ。

今日は横浜までコーラスの練習に行きました。
11月12日の定期演奏会に向け頑張ってます。
女声合唱で、アルト歌ってます。

26-37の会がますます発展し、300回、400回と続きますように。

【筆者comment】
▼渡辺さんへ、【2637の会】へのyell、本当に有難うございます。 今後とも応援、宜しくお願いします。 
 【2637の会】membersの皆さんへ・・渡辺さんからmailを頂戴しましたので、渡辺さんからのofferはありませんでしたが、小生、「青春のうたPart3」をお送りさせて頂きました。 渡辺さん、小生の勝手をお赦し下さい。(汗)(笑)
 それから、11月12日の定期演奏会に向けて頑張っていらっしゃる由、合唱(歌うこと)は身体に本当にいいそうです。 豊橋からyellをお送りします。


Photo_201■さて続いては、昨日9月13日は、日本を代表する版画家の巨匠『棟方志功』の命日です。 今日は、棟方自身の手による著書『板極道(ばんごくどう)』を中心にお届けします。 この本を読み進んでゆくと、棟方志功の極貧の幼少時代から「世界のムナカタ」へと進んでゆく『立志伝』を実感でき、心地良いひとときを過ごしました。 
 彼の版画に登場するものたちは、『素朴さ』と『純粋さ』、そして『可笑しさ』を併せ持つものが多い、と小生は思います。 そして彼の真骨頂『菩薩像』・・この豊満な肢体の女体は、「健全な!『eroticism』」を感じさせる。
 また、この本には沢山の人物が登場する。 「多くの人から愛されてやまない棟方志功の人柄の良さ」を彷彿とさせるものがある。 この本に出て来る人物は、例えば・・、「序」を描いた谷崎潤一郎、あとがきの「解説」を描いた草野心平。 
1938Photo_3_ そこでまず草野心平【 解説 ― 棟方志功その人と芸術 】から一部ごご紹介します・・。

「(中略)(そして最後に見たのは慈恵医大の病室でだった)
02031968「わだばゴッホになる」という詩を私(【筆者注】草野心平)が書いて発表したことがある。 それを鎌倉の自家にかけたいから筆で書いてくれという言伝てがあった。 私は出来る丈け大きめな字に書いて見舞いかたがた病院に持っていった。 その詩というのは次のようなものである
*

 わだばゴッホになる」 草野心平
*
  鍛冶屋の息子は
  相槌の火花を散らしながら
*
  わだばゴッホになる
*
  裁判所の給仕をやり
  (むじな)の仲間と徒党を組んで
*
  
わだばゴッホになる
*
  とわめいた
*
  ゴッホになろうとして上京した貧乏青年はしかし
  ゴッホにならずに

  世界の
  Munakata になった
*
  古稀の彼は
  つないだ和紙で鉢巻をし
  板にすれすれ独眼の
  そして近視の眼鏡をぎらつかせ
  彫る
  棟方志功を彫り続ける

*
Photo_4Photo_5Photo_6それを紙入れからとりだしてひろげると、彼はベッドから降りてきて両掌を合わしてよろこんでくれた。 けれどもその手のなんと痩せたことだろう。 (中略) 今度一緒にだす本のこと、題は「天竺」はどうだろうと言うと「いい、いい」と彼は言い、字はたのむよというと、「ああ、書く、書く」と彼ははずんだ。 話が一寸とぎれると、彼は机に向かい色紙に何か描き出した。 何を描いているのだか分からないが、色がほどこされると男が現われ蓮の花がパッと咲いた。 そして今度は草野心平蛙と遊ぶ図と書いた。(以下略)

 続いて、【 太宰治 】については・・
Photo_7Photo_8Photo_9「その太宰氏が、わたくしの油絵を、氏の学生時代にすでに認めてくださっていたことを書いた随筆があります。 青森市の寺町に豊田という呉服屋があって、その主人が氏の叔父様にあたる人だったので、氏はここへ寄食して旧制の青森中学へ通っていました。 氏はこの、ひどく人がよくって、甘やかしてくれた”おどさ(お父さん)”にたのんで、学校の隣にあるアンデレ教会のそのまた隣の花屋に飾ってあったわたくしの油絵を、二円で買うはなしであります。 そのところをここで引いておきましょう。

Photo_10Photo_11 ― 私が中学の二年生の頃、寺町の小さい花屋に洋画が、五、六枚飾られてゐて、私は子供心にも、その画に感心しました。 そのうちの一枚を、二円で買ひました。 この画はいまにきつと高くなりますと、生意気な事を言って、豊田の「おどさ」にあげました。・・・あの画は今も豊田様の家にあると思ひます。 いまでは百円でも安すぎるでせう。 棟方志功氏の、初期の傑作でした。 棟方志功氏の姿は東京で時折、見かけますがあんまり颯爽と歩いてゐるので、私はいつでも知らぬ振りをしてゐます。・・・もう二十年ちかく昔の話になりました。 豊田様のお家の、あの画が、もつとうんと、高くなつてくれたらいいと思つて居ります。―」

 次は、【 棟方志功氏が成功するきっかけになった帝展初入選の時の模様 】です・・
 その翌年の秋になって、(中略)描いた絵がまた落選―。 (中略)そのうち父は死にましたが、誓いだから帰ることができないので、心の中で泣き続けました。 これでは何時になったら父母の墓におわび出来るのだろうか、何年たったら青森と青森のなつかしい人たちに会えるだろうかと、私の心の底から噴き出してくるやるせない悔恨の想いが、身ごころをすくめたのでした。
 昭和三年の年を迎えました。 わたくしは二十六歳になっていました。 今年こそ、なんとしても帝展に入選しなければならない。 死んでも死に切れない。 ただ描いてみよう。 先輩の橋本花子氏がいうように、わたくしの絵には、デッサンというモノが無いのだろうか。 この大事だという、デッサンとういものについて、どうすれば本当のモノが把握できるものだろうか。
 それからは、ただ無性に描きました。 朝も昼も夜も、夜中に目がさめると手を動かしていました。 知らず識らずに、宙に浮いた手が円を描き、三角を描いているのでした。
 そして、その秋、次に出した、青森郊外の渋谷悠蔵さんの友人、船水氏の果樹園を、去年につづき想像で描いた『雑園』を出しました。
 二十五号に、松木氏が作ってくれた、友情の純金箔の額縁に飾られ、大好きな昼顔と、撫子(なでしこ)、カンナと、トリトマの花と葉と、枯れた葡萄棚に少しの実のついているのと、野菊が咲いている―そんな絵でした。
 いよいよ発表の日です。 胸をはずませて今か今かと待っていました。 すると、
「『雑園』、ムナカタ・シコウ」
 わたくしは、空気がなくなってしまったような心持になりました。 腰も無くなったように、メタメタとなって、あの美術館のわらびのようにまくられている鉄柵をにぎっていた手の力も無くなってしまいました。 そこにくずれてしまいました。 べったりと土にすわったまま、わたくしは父母に挨拶しました。 婆サに礼をしました。 「帝展に入選しました」・・・。 そして、わたくしに返って、書道博物館のギリシア女神に、「先生!おかげさまで入選しました。 ありがとうございました」とお礼をのべました。
 全世界が明るくなったようでした。(中略)
 その頃の帝展入選は、今の特選以上にさわがれたものです。 各新聞社からインタビューにくる、フラッシュをあびせられる。 落選と入選とは、これほどにも人生を染め分けるものかと驚いたものでした。(中略)
 その晩、そのままの恰好で、すぐ青森行の汽車に乗りました。 青森駅からまっすぐ父母の墓へ行って、約束どおり帝展へ入選しました、と報告しました。 どっと涙があふれて、立つこともすわることも出来なく、くたくたに、わたくしは、そこにくずおれてしまったのでした。

ご参考に、棟方志功氏の略歴を記します。
【略歴】
1903(明治36)年 9月5日、青森県青森市大町一丁目一番地にて、累代の鍛冶屋、棟方幸吉、さだの三男として生まれる。
1916(大正05)年 青森市立長嶋尋常小学校卒業。 大正09年まで家にあって鍛冶屋を手伝う。 この頃、凧絵とネブタに惹かれ絵を描く。
1920(大正09)年 青森地方裁判所に弁護士控所給仕として出仕。 この間友人たちと「青光社」を組織し、春秋二期展覧会を開く。
1921(大正10)年 ゴッホを知り感動し、画家を志す。
1924(大正13)年 9月、画家を志し初めて上京する。
1925(大正14)年 油絵『清水谷静景』が白日会に入選。
1926(大正15)年 版画家川上澄生の作品を見て感動し版画を志すきっかけに。
1928(昭和03)年 同郷の先輩下沢木鉢郎氏と版画家平塚運一氏を訪ね、初めて版画の道に。 油絵『雑園』が第9回帝展に初入選。
1929(昭和04)年 春陽会に木版画7点を出品、うち4点が入選。
1930(昭和05)年 赤城チヤコと結婚。 国画会第5回展に『貴女行路』など版画4点を出品、その後昭和28年同会脱退まで続く。
1931(昭和06)年 油絵『荘園』が帝展に入選。
1936(昭和11)年 国画会に「大和し美し版画巻」を出品。これを契機に柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎に逢う。 京都の夏河井寛次郎氏宅を訪れ、40日間経典の講義を受ける。
1938(昭和13)年 『善知鳥(うとう)』31枚の版画により帝展特選となる。 倉敷の大原孫三郎氏邸の本邸の襖に『五智菩薩』を描く。
1945(昭和20)年 5月25日、東京代々木山谷の自宅が空襲で消失。戦前の作品や板木のほとんどを喪う。
1952(昭和27)年 第2回ルガノ国際版画展(スイス)で日本人初優勝賞を受賞。
1953(昭和28)年 吉井勇の歌31首を版画にし、『流離抄』と題して国展に出典。
1955(昭和30)年 7月1日、第3回サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展で『釈迦十大弟子』により版画部門最高(一等)賞を受賞。
1956(昭和31)年 7月、第28回ヴェネツイア・ビエンナーレ国際美術展で『柳緑花紅の柵』他十点により国際版画大賞を受賞。
1957(昭和32)年 5月、東京の国際版画ビエンナーレ展に大作『群生の柵』を出品。 この年『谷崎潤一郎全集』の装幀をする。
1958(昭和33)年 日展会員となる。
1959(昭和34)年 1月、ロックフェラー夫人の招きにより渡米。東京国立近代美術館で『ヨーロッパ巡回棟方志功展国内展示』を開催。 8月、9月にかけオランダ、フランス、スペイン、イタリアを旅行。
1960(昭和35)年 3月、日展評議員になる。 アメリカ各地で個展開催日展評議員となる 患っていた眼病が悪化、左目がほとんど失明。
1965(昭和40)年 朝日賞(文化賞)を受賞。
1967(昭和42)年 アメリカ各地で個展開催。
1970(昭和45)年 文化勲章受賞。
1975(昭和50)年 日展常任理事となる。 9月13日、肝臓癌のため東京都杉並区の自宅で死去。 享年72歳。

【後記】■今日の締め括りは、中唐の詩人「孟郊」の『登科後』である。
 棟方志功氏が帝展初入選した時の喜びと比較してみるのも興味深いと思い、取り上げてみた。 この漢詩は、進士に合格した喜びを歌ったもの。 孟郊は、何度も落第して、及第した時は既に五十歳に近かった。 故にこの様な手放しの喜びようが分かるというもの。
 「進士」合格者は、発表の当日、馬に乗って無礼講でどんな富豪の家でも入り込んで、花(当時、長安の王侯貴族は牡丹の花を競っていた)を見て良い、という習わしがあった。 また都の曲江の畔りで催される天子の招宴に列席し、慈恩寺(じおんじ)の大雁塔(だいがんとう)に名を刻んで記念とした。 これを「雁塔題名(がんとうだいめい)」という。 晴れがましい一日であった、という。
 しかし、孟郊は「進士」の試験に合格後は不遇で、地方官のまま間もなく死んでしまう。 人生、何が幸福か不幸かよく分からない・・。 儚い人生、これもまた『人生』か・・。

 登科後  孟郊
昔日齷齪不足誇
今朝放蕩思無涯
春風得意馬蹄疾
一日看盡長安花


昔日の齷齪(あくせく) 誇るに足らず
今朝(こんちょう)放蕩して思い涯(はて)無し
春風 意を得て 馬蹄疾(はや)し
一日 看尽くす 長安の花


【意】昔のあくせくしていた時のことは、どうも自慢にならないが、今朝は合格の発表、心のびのびと嬉しさは極まりない。春風をうけて得意満面、馬の蹄(ひづめ)も軽く、一日で都中の花の名所を見尽くしてしまう。

では、また・・(了)

2008年9月 9日 (火)

【時習26回3-7の会 0200】~〔 《会報》200号特別記念大特集! 〕「中山君からの『青春のうた』お礼mail」「9月9日:『重陽の節句』=【登高】から〔杜甫『登高』〕〔高浜虚子と冨安風生の季題【登高】の句〕」「冨安昌也先生による『内藤K○子先生の思い出』」「曽野綾子『引退しない人生』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日は、【2637の会】《会報》『記念大特集!』【0200】号をお送りします。
 まず、一昨日9月7日夜、中山君からmailが届きましたのでご紹介します。
 実は小生、中山君から今年の《クラス会》の「欠席」連絡のmailを頂戴した際、彼が「青春のうた」の題目を見て懐かしがられていましたので、日頃、タイ国から何回もmailを頂戴し、その都度【2637の会】《会報》を盛り上げてくれたことへの感謝の気持ちも込めまして、「青春のうた」シリーズをお送りさせて頂いたという次第です。 今回は、それに対するお礼のmailになります。 では、中山君、お願いします・・

夏休みの宿題(「青春のうた」感想文)

今泉君
中山です。

返事が遅くなりましたが、「青春のうた」ありがとうございました。
中身も無事届きました。搬送中に揺れると、曲順が入替わってしまうんじゃないかと心配しましたが、貴君の記載どおりの順番でした。

懐かしい歌が色々とありました。思い出したことを2,3レポートします。

まず最初は、入学してすぐの頃だったと思いますが、新入生と上級生との交歓会のようなものがなかったでしょうか?
『戦争を知らない子供たち』を歌ったような記憶があるような、ないような。
唯一つ覚えているのは、クラスの寸劇で、選ばれて女子生徒役をやりました(やらされました)。
確か3人です。女子の制服を着て(スカートを穿いて)、ステージに立った覚えがあります。
恥ずかしかった。

2つ目は『結婚しようよ』です。
2年生での就学旅行の時、バスの中・歩きながら・旅館の中と絶えず「結婚しようよ~~、フムム~~」と歌っている人がいました。 T三先生でした。
先生はすでに結婚していたはずですが・・・

3つ目は『太陽がくれた季節』です。
毎週日曜はテレビを見ながら泪をこらえていました。
また、酒井和歌子の「河野先生、私、教師としてそういう態度は許せないと思います」という、美女のキリッとした言葉に何となくクラッと来ました。
結局今では女房から同じように、あれやこれやでピシッと言われています。

4つ目は『さよならをするために』です。
これもテレビドラマの主題歌で、浅丘ルリ子に何となく惹かれていました。
ついでに言うと、女房は痩せています。

以上、私の人生に影響を及ぼした青春の歌でした。

【筆者comment】▼中山君へ、いつもタイ国からmailをありがとう! 嬉しいです。 「青春のうた」は、昔日の思い出が一杯詰まっていますね。
 中山君からは、この記事を《会報》に掲載させて頂くことにつき、ご了解のmailを頂戴した際、「渡辺さんからのギリシャの写真をパソコンの壁紙で使わせてもらっています」ということで、渡辺さんにお礼を申し上げて欲しい旨依頼されました。 そこで、先刻別便mailにて渡辺さんにはお礼をお伝えさせて頂きました。 併せて、この《会報》の紙面を利用させて頂いて皆さんにお伝えさせて頂きます。 この様な形で、この【2637の会】《会報》が交流の場になれば、小生、この上ない光栄に思います。m(_ _)m
 あっ、そうそう! 因みに、中山君がPCの壁紙に使った渡辺さんからの写真は「渡辺さんが写っていない『家並みの写真』」だそうです。 これはきっと彼の奥様への配慮かな?(為念)(笑)


PhotoPhoto_2■さて今日は、九月九日。 この日は『重陽の節句』。 「九」は一桁の数字のうち陽数(奇数)の最大のものであり、それが重なるので「重陽」という。 六朝時代以来の習俗として、この日、小高い丘に登り(『登高』)、茱萸(しゅゆ)(添付写真ご参照)の枝を髪や冠にかざし、菊酒を飲んで厄除けする(「辟邪」)、という行事が行われた。 故に『菊の節句』とも言います。 因みに正確に言うと、重陽の節句は、旧暦の九月九日であるため、新暦で言うと、十月上旬~中旬となります。 
 七言律詩の最高傑作として名高い、杜甫の「登高」をまずお贈りします。 前にもご紹介した作品ですが、いいものは何度読み返していい。 では、どうぞ・・

 登高   杜甫 

風急天高猿嘯哀
渚淸沙白鳥飛廻
無邊落木蕭蕭下
不盡長江滾滾來
萬里悲秋常作客
百年多病獨登臺
艱難苦恨繁霜鬢
潦倒新停濁酒杯


風 急に 天 高くして 猿嘯哀し
渚(なぎさ) 淸く 沙(すな) 白くして 鳥 飛び廻(めぐ)る
無邊の落木 蕭蕭(しょうしょう)として 下(くだ)り
不尽の長江は 滾々(こんこん)として来(きた)る
万里 悲秋 常に 客(かく)と作(な)り
百年 多病 独り 台に登る
艱難 苦(はなは)だ 恨む 繁霜の鬢(びん)
潦倒(ろうとう) 新たに停(とど)む 濁酒の杯


【意】▼風は激しく吹き寄せ、天は高く澄み、野猿がしきりに哀しげに鳴く。 川辺の水は清く、砂は白く、辺りには鳥が飛び廻る。 果てもなく続く落葉の木々は、嘯々として物寂しげに枯葉を散らし、尽きることなき長江の水は、滾々と湧き返る様に流れて来る。 万里遠く故郷を離れ、この悲しみを誘う秋景色の中で、私は常に旅人の生活を続けて来た。 来る年も来る年も、絶えず病気がちであった我が身は、今只一人高台に登っている。 耐え難い様々な苦しみ、めっきり白くなった鬢の毛が嘆かわしい。 老い衰えたこの頃は、心を楽しませる濁酒さえ、もはやその杯を断つことになってしまった。
【解説】▼この詩は、大暦二年(767年)、杜甫56歳の秋、九月九日夔(き)州(四川省奉節県)での作。 漢詩の泰斗、石川忠久氏は「漢詩をよむ 秋の詩100選」で、この詩を次の様に評している。
 「 前半の叙景は、もはや単なる秋景色ではない。 風も、空も、葉を落とす木々も、湧き返る長江も、限りなく悲壮な大自然の鳴動である。
 後半は、この景より導きだされる心境の表白となる。 全対格(ぜんついかく:四聯合とも対句)という技巧を意識させない高まりが全篇を覆い、胸を打つ。 ことに最後の句に至っては、思わずその哀切さに涙を溢さずにはいられない。 明(みん)の胡応麟(こおうりん)はこの詩を、「万丈(=【筆者注】非常に高いことの形容)の光と千鈞(【筆者注】=極めて重い)の重みをもつ古今七律の第一」と賞賛したが、まことにもっともである。」

■さて、今日の話題は、連想ゲーム方式で参ります。(笑)(*^_^*) この『登高』は、日本の俳句でも「高きに登る」「登高」として季語となっている。

 一足の 石の高きに 登りけり  高浜虚子

 しかし、ご覧の通り、高浜虚子のに至っては、大石に一歩登っただけ。(笑)
 同じく、虚子のホトトギス門下の、冨安風生は、

 行く道の ままに高きに 登りけり  冨安風生

【意】秋に高い空気の澄んだ山へ登るということ自体が日本の季節感と合っている。 師の虚子をして「静かに歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成せる芸術品を打成するのに志してゐる人」(第一句集『草の花』序)と言わしめた、現代俳句の最も保守的な部分を体現した人の作品。 それだけに、この句は、あまりに屈託のない自然なつくりが洗練さを感じさせる。

■冨安風生と高浜虚子の子弟関係が極めて良好であったepisodeを、虚子の俳句(稲畑汀子『虚子百句』)から拾ってみると・・

 風生と 死の話して 涼しさよ  高浜虚子

 昭和32年7月31日、虚子83歳の作である。『地元句会。山中湖畔、山廬』という詞書(ことばがき)がある。 風生は冨安風生。(中略)
 この句については清崎敏郎のインタビューに対して風生自身が答えて語った言葉が有斐閣の『虚子物語』の中に出ている(中略)。
「山中湖畔の稽古会で作られた句ですよ。 私(冨安風生)は、その時分、神経衰弱かなんかだったんですね。 それで、身体のことか何か、愚痴を言ったんですよ。 そうすると虚子先生が、掛けて居られた籐椅子から身を乗り出されて、我々の話に加わった。 僕が死が怖いとか何とか言ったんでしょう。 そうすると、医者の俳人が、それがノイローゼだとか何とか言いましてね。 それに対して、先生がどういうことを言われたか、今は全て覚えていませんがね。 そのあとで、句会があって、この句が回ってきたわけでね。 勿論、これは先生の句だということはわかった。 先生の句だと思って採った人も多かったが、僕は採らなかった。 というのが、何処が面白いのか、よくわからなかった。 僕と死の話をして、どうして涼しかったのか、その心境が、未だによくわからない。 それで採らなかった。 が、この句は、どの句集にも載っていて、それでやや有名になったんですがね。 やはり、その時のほんとうの心境を吐露されているんで、自信がおありだったんでしょう。 老いた一弟子(【筆者注】風生は1885年4月16日生まれなので当時72歳)がやって来て、その死生観を訴えた。 それに対して、僕なんか想像し得ない高い処から見ておられる、そういう面白さなんでしょうか。」
 (中略)風生の不安に対応していたのはおそらく「けんちゃん先生」こと田中憲二郎であろう。 当時の脳神経外科の泰斗(【筆者注】その道の最高権威者)である。 二人とも合理主義者思考の権化のような人である。 これら二人の話に割って入った虚子が何を言ったか残念だが定かではない。 しかし風生が即座に腑に落ちて納得するような答えでなかったことは確かである。 しかし同時にそれが自分達とは次元の違う高い次元の死生観として聴いたことも確かである。(以下略)

■さて続いては、「冨安風生」とくれば、氏の長兄の孫、「冨安昌也」先生についてである。 風生氏と昌也先生の続柄については《会報》【0163号】にてご紹介済です。 久し振りに冨安昌也先生の著書「続 草木虫魚」を読み返してみました。 するとその本の中に、副題にお示ししました様に「内藤K○子先生を悼む」という随筆に目が留まりました。 懐かしく思い、ご紹介させて頂きます。
 内藤K○子先生(通称『ポケット』先生・・失礼しました!(笑))は、我々も、芸術を「音楽」専攻した者は全員お世話になった方ですね。 平成12年5月、時習第1回卒と26回卒合同幹事による時習館高校同窓会総会の時は、大変お元気でいらしたことを覚えています。 その当時の記憶が間違っていなければ、確か、内藤先生の指揮、【2637の会】member林K子さんのピアノ伴奏で、校歌他を合唱したと思います。 その同窓会総会の二年後の春4月に内藤先生はご逝去されたのですね・・。 小生、当時は地元に居なかったので先生の訃報を知ったのは、それから三年後、豊橋に戻って来てからでした。
 それでは、冨安昌也先生の随筆「内藤K○子先生を悼む」をご覧下さい・・

 内藤K○子先生が(【筆者注】平成十四年)四月三日に亡くなられた。
 時習館の音楽教師として、43年間も勤められたから、教え子はじめ知人は多い。
 私は54年の長い付合いで、本当に惜しい人を亡くしたと思っている。
 私が、時習館の前身豊橋中学校へ赴任したのは昭和22年だった。
 音楽の教師が退職した直後で、学校長は私を美術担当として採用すると同時に、音楽の教師を探してくるようにと示唆があった。
 当時は教育委員会などはなく、教師の補充は学校長の責任でやったのだろうか。
 何れにしても私はそのことが常に頭にあり、各方面に口をかけていた。 そして或る日、当時豊橋音楽教会の会長をしていたドクターの鈴木博先生から、いい人を紹介するというご連絡があった。
 そこではじめて内藤さんにお目にかかった。
 率直に豊橋中学の音楽教師としてのお願いをしたら、言下に断られた。
 その筈で当時の世情は戦争直後で今と全く異なり男女は画然と区別され、特に男子中学校は女人禁制の感があった。 今では想像できない事で職員でも女性は一人も居なかった。 そこへの話だから断るのは当然のこと。
 私は再三再四お願いに上がった。 鈴木先生も「女だから勤まる、きっと勤まる」と強く促され、内藤さんも大決心で遂に腰を上げた。
 校長も喜び直ちに音楽の教師を迎える準備にかかった。 戦後のことでピアノも中々見当らず、岡崎の楽器店に立型が一台あることをつきとめ、現金をバッグに入れ、トラックに乗って受け取りに行った。 教室の黒板も五線譜が書けるように塗り替え、五月初めから出勤することに決った。
 その日は大変だった。 内藤さんが銘仙(【筆者注】熨斗(のし)糸、玉糸、絹諸撚糸系または紡績絹糸で織った絹織物)の着物に紺の袴を腰高にしめて校門を入ってくると、既に待ち構えていた生徒達が、本館二階の窓という窓に鈴なりになってわいわいの大騒ぎ。 開闢以来の歓迎だろう。 授業になると更に大変。 廊下は勿論、教室の外も一杯の有様。 黒板に譜を書いて生徒に背を向ければ、後の方から焼薯(やきいも)が飛んでくる。
 この日のことを後で「来るんじゃなかった」と述懐されたが、これも束の間、生徒達の珍しがりも時は過ぎた。
 内藤さんは躾は厳しい方で、気も強い性格だったから、生徒の掌握は早かった。 合唱指導で、男子生徒が小さい声で歌おうものなら、
「明日からスカートを履いてらっしゃい」ときつく注意する程になった。
 よい家庭に育ったという雰囲気は常にあり、身の廻りの好みも何となく品があった。
 女性でありながら、ぐずぐず云ったり、挙措(きょそ:【筆者注】立ち居振る舞い)不明瞭な態度は大嫌いで、善悪ははっきりし、昔風の律儀なところがあった。
 入院して亡くなるまでの間の小康を得た日に、諸々のことを澤山メモして残された。 親戚縁者は少なく、全くの一人住まいで、後々のことは全くメモによってその通りにした。
 残った物の行先や、法要、追悼音楽会のことまで書いてあり、頭の下がる思いであった。
             (平成14.04.15  豊橋文化)
【筆者comment】
▼我々が内藤先生にお世話になったのは高校1・2年の時だから、昭和46年4月~48年3月。 今から35~6年も昔のことになるのですね・・。(合掌)


Photo_3【後記】■今日、お終いにお贈りするのは・・ 最近曽野綾子著『引退しない人生』(海竜社)(添付写真ご参照)を読んだ。 曽野綾子の随筆は味があって小生は好きだ。 今日はその中から「すばらしい贈り物」「すべて自分を育てる肥料」「会った人間の数だけ賢くなる」をご紹介する。 とにかくご覧下さい。(笑)

【すばらしい贈り物】
 私に言わせれば、四十代、五十代は、満開の花の時代で、六十代だって私の体験からするとかなりすばらしい。 体力は確実に落ちているけれど、人生を見る目は確実に深くなっている。 だから四十歳から六十五歳までの四分の一世紀間、もし大きな病気もせず普通の生活ができたなら、それはすばらしい贈り物を受けたことになる。『中年以後』
【すべて自分を育てる肥料】
 中年は許しの時である。 老年と違って、体力も気力も充分に持ち合わせる中で、過去を許し、自分を傷つけた境遇や人を許す。
 かつて自分を傷つける凶器だと感じた運命を、自分を育てる肥料だったとさえ認識できる強さを持つのが、中年以後である。『中年以後』
【会った人間の数だけ賢くなる】
 時間というものは、厳しいものだ。 どんなに急いでも、時間だけは操作ができない。 心がけで時間を濃縮して、テープやビデオの早回しのように急いで人の倍も体験するというわけにはいかない。 当然のことだが、若い時には何と言っても、まだ多くの人に会っていないのだ。 そして人は、会った人間の数だけ賢くなる。『中年以後』

【おまけ・・(仮想現実の世界)・・】▼『登高』に関連して・・、 明るく穏やかな秋の日、貫ける様に澄み切った青空を眺めていたら、ときめきの女性が・・

 天高し 秀麗な君 秋麗(あきうらら)  悟空

 「秀麗」と「秋麗」と韻を踏んだつもり・・。 お粗末さま・・。(笑)(汗)
では、また・・。
(了)

2008年9月 4日 (木)

【時習26回3-7の会 0199】~「時節は『白露』」「稲沢市荻須美術館『荻須高徳』展を観て」「坂東眞理子『凛とした「女性の基礎力」』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0199】号をお送りします。
 さて、今日は9月4日。明々後日9月7日は時節が変わり、二十四節気でいう『白露』。 陰暦八月の節。 読んで字のごとく露が白く結び、漸く秋らしくなる頃である。

 ひとつづづ 山暮れてゆく 白露かな  黛 執


0102■さて、最近、名画鑑賞に嵌っている小生、先週の土曜日(8月30日)、先日ご紹介した小磯良平と東京美術学校で同期生の荻須高徳の故郷、稲沢市にある「稲沢市荻須記念美術館」に彼の作品を見に雨の中を行って来ました。 そこで今日は、まずその『荻須高徳』についてご紹介します(最初の 添付写真は雨に濡れる「稲沢市荻須記念美術館」入口)。
* 
011961▼荻須高徳(おぎす たかのり、1901.11.30 - 1986.10.14 )は、大正・昭和期の洋画家。 愛知県稲沢市生まれ。 東京美術学校、藤島教室で同期生に先程ご紹介した様に小磯良平がいる。
021930031930 荻須は画家人生の大半をフランスのパリで過ごした。 初期の作品は佐伯祐三と同様、ヴラマンクやユトリロの影響を受ける。 パリの街角や、店先等のオブジェを荒いタッチで描いた。 故に、佐伯祐三の作品と見紛うほどよく似ていた。( 小生は、佐伯祐三も大好きな画家である ) その後、1930年代半ば頃より、より精緻でかつ穏やかなタッチで構成力も確りした「都市風景画」を描くようになった。
051930041930 作風が確立した彼の絵は、『確りとした堅固な構成力』と『詩情漂う静謐さある作風』により、『風景画とはかくあるべし』」と、観る者に、何処か「ホッ」とさせる安心感と説得力で迫って来る。 彼は、生涯パリの下町風景を中心に描き続けた。 フランス前大統領シラク氏をして「最もフランス的な日本人」と彼を評しているが、頷ける言葉である。 ご参考に氏の【略歴】を以下にお示しします。

061930

0719320819341901(明治34)年 11月30日、愛知県中島郡稲沢町(現稲沢市)に生まれる。
1916(大正05)年 愛知県立第三中(現・愛知県立津島高等学校)入学。
1921(大正10)年 上京、小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事。
1019540919531119581922(大正11)年 東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。
1927(昭和02)年 同校を卒業、09月に渡仏。 
1928(昭和03)年 佐伯祐三らとモラン写生旅行を行い、佐伯の死にも立ちあう。 同年サロン・ドートンヌ入選。 これが、荻須の画家としての最初の成功という。 以来、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・パンダンに毎年出品。
121960131962_2141964_21934(昭和09)年 最初の個展をジュネーヴで開催。 彼の作風も、佐伯とよく似ている初期のものから、次第に色調も含め静謐なものへと変化。
1936(昭和11)年 サロン・ドートンヌ会員に推挙される。 フランスでの地位を確立。
1940(昭和15)年 第二次世界大戦の戦況悪化のため一時帰国。 この時サロン・ドートンヌ出品作がパリ市買上げとなった。 帰国後は新制作派協会の会員に。
1519681619701719721948(昭和23)年 日本人画家として戦後初めてフランス入国を許可され再び渡仏。 爾来、生涯パリで制作活動を続ける。
1956(昭和31)年  レジオン・ドヌール勲章受章
1972(昭和47)年  勲三等旭日中綬章受章、中日文化賞受賞
1974(昭和49)年  メダイユ・ド・ヴェルメイユ受賞
181975191976201980831981(昭和56)年 文化功労賞者受賞。
1982(昭和57)年 フランス国立造幣局において荻須高徳の肖像を浮彫にしたメダイユが発行。
1986(昭和61)年 10月14日、パリのアトリエで死去。 文化勲章受章(没時追贈)。 墓はパリのモンマルトル墓地にある。
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2425尚、稲沢市荻須記念美術館では、11月22日~12月14日まで企画展が予定されている。 添付写真の絵は彼の代表作の幾つかをご紹介したものである。


Photo■続いては、これも小生、最近読んだ「坂東眞理子著『凛とした「女性の基礎力」』(暮しの手帖社刊)」から「第8章 いかに老いるか、いかに死ぬか」~「貯人のすすめ」をご紹介します。 
女性向けに書かれた本ですが、男性諸兄にも参考になると思いご紹介させて頂きます。

▼沢山の方から暑中・残暑見舞を頂く年は、(中略)こちらから暑中見舞を出した年です。(中略)このささやかな経験を通して、コミュニケーションとはこちらから声をかけることから生まれるのだと実感しました。
 まずこちらの発信に対して返事があって、コミュニケーションは生まれるのです。 相手から声がかかるのを待っているだけでは、コミュニケーションは生まれません。(中略)私たちは人とコミュニケーションをとろう、とりたいという気持ちを失いつつあるのではないでしょうか。
 テレビや新聞、雑誌などのメディアを通じたコミュニケーションには、随分時間を費やし、沢山の情報を得ているのですが、こちらから発信はしない、これは、受身のコミュニケーションは楽だが、それに慣れて発信する面倒さが嫌になってしまったのか、あるいは職場や仕事では役に立たない、リターンが期待できないようなことに関心を失ってしまった表れの様に思えるのです。(中略)
 年賀状や暑中見舞でも、社用の決まり文句のものは男性が殆どでしたが、最近では女性も増えています。 こうした社用、ビジネス用のコミュニケーションを除くと、純粋に個人のネットワークは殆ど持たないという人も多く、こういう人は長い人生、仕事から引退したらどうなるのだろうと、人ごと乍ら心配になります。
 老後の生活に備えるために貯金をする人は多いけれど、本当に必要なのは貯人です。 人間的交流のできる相手とどれだけ出会えるかが、人生の豊かさを決める大きな要因になるのです。 どの組織に属しているか、その中で認められているかどうかというだけでなく、人間としてどれだけの価値があるかどうかがポイントです。
 そのためには、まず自分から発信する、或いは発信された情報に誠実に応えるということから始めるべきでしょう。 私は、貯金を増やすよりも、貯人を増やす様に努めたいのです。
【筆者comment】
▼坂東女史と仰る通りですね。 「本当の『人生の豊かさ』とは何か?」。 浅薄な考えで恐縮ですが、それは、「衣食足りて礼節を知る」程度の金銭的余裕さえあれば、後は、「如何に自分からコミュニケーションに努め(=人に働きかけて)、現在のゲゼルシャフト(利益社会)からゲマインシャフト(共同社会)へ回帰して行くべきで、その為には、自分の人生・生きがいに役立つ人材をどれだけ沢山持つことができるか?」である、と小生は思います。 現代のゲゼルシャフトの中でも、『貯人』は出来、この『貯人』を多く持っている者がより『人生を豊か』に生きている。 小生は【2637の会】members皆さんという素晴らしい財産を『貯人』として沢山持っていることを実感しています。 そして、これからも皆さんと一層親交を図って行きたいと思いますので、引き続き宜しくお願いします。m(_ _)m (笑)


【後記】■夏の盛りにはあれほど煩く泣いていた蝉の声も、時折、涼しい秋風が吹くこの頃では、流石にまばらになっていることに気付く。 ツクツクボウシやヒグラシの声には哀愁が漂う。 今日の締め括りは、その秋蝉(しゅうせん)を詠んだ飯田蛇笏の作品をご紹介してお別れします。

 秋蝉の なきしづみたる 雲の中  飯田蛇笏

【意】うるさいほど鳴き誇っていた蝉も、その鳴き声は、今では寂し気で、何処となく沈んでいる。 その鳴き声が雲間から聞こえて来る。

では、また・・。
(了)

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