【時習26回3-7の会 0205】~「東亜同文書院→愛知大学への道」「10月04日:『ジャン=フランソワ・ミレー』誕生日」
■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0205】号をお送りします。
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■さて、今週も【2637の会】の話題がありません。 世界では、米国のサブプライム問題に端を発した欧米の金融不安問題が、世界同時不況へと拡大することが懸念されています。 つい最近まで絶好調であったトヨタ自動車も、北米向けのレクサス・シリーズの販売に翳りが生じ、地元経済への影響が心配されています。 一日も早い景気回復が待たれるところですが・・。
暗い話をしていても仕方ありません。 そこで、今日は、地元豊橋の話題を拾ってみました。
来月予定される『豊橋市長選挙』については、ちょっと生々しいので、話題にすることは止めまして・・(笑)、一昨日の10月3日の昼、今日の掲題の副題にあります様に、「東亜同文書院時代から愛知大学へ」の歴史についての講演会がありましたので、その中から、少しご紹介しようと思います。
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【 「東亜同文書院大学」から「愛知大学」へ 】

愛知大学の前身は、東亜同文書院。 同院は、1901(明治34)年5月26日、近衛文麿の父、近衛篤麿が会長を務めていた「東亜同文会」が中国・上海に設立した「中国との関係強化を図る日本人のための高等の教育機関」。 1921(大正10)年、専門学校令で外務省指定学校。 1939(昭和14年)12月、大学令により「東亜同文書院大学」となった。 しかし、1945年(昭和20)年8月、日本の敗戦に伴い、閉学。
第5代院長には、篤麿の子、近衛文麿が就任している。 大学に昇格後、最後の学長「本間喜一」が、敗戦により帰国後、同大学の後身の移転先を探し、1946(昭和21)年11月15日、愛知県豊橋市に「愛知大学」が設立された。

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講演の説明では、本間は昭和21年当時文部大臣であった田中耕太郎と東大法学部時代の同期で親密な関係にあったことが大きいという。
即ち、愛知大学の豊橋市への設置について、昭和21年5月に文部省に申請、11月に設置が決定する、という混乱期の当時と言えども「申請から設置決定まで僅か6ヶ月という『異例の早さ』」であった。
興味深いのは豊橋に愛知大学が誘致された経緯・・。 講演の後、大学内にある「東亜同文書院大学記念センター」の見学会の中でセンター関係者に、「何故『愛知大学』が豊橋に決まったのか」と訊いてみたところ、その理由は大きく言って三つ上げられるという。
①豊橋市には、陸軍15師団の広い跡地があり、誘致先として適していた。
②当時の豊橋市長「横田忍」氏が、大学誘致に極めて前向きで、協力的であった。
③豊橋市内には、さつまいもが沢山収穫され、当時の食糧事情から適していた。
【筆者comment】
大学の候補地は、豊橋以外に、大分県別府市も有力であった、という。 もし、そうなれば大学名も「九州愛知大学」とか「別府大学」になっていたかも・・。(笑)
上記①②③のうち、③の食糧事情が誘致に影響したというのは大変興味深い。

また、愛知大学は現在、笹島への統合を進めている。 豊橋校舎では、笹島への反対のプラカードにも遭遇した。(添付写真ご参照)
「笹島移転問題」は、豊橋の有識者の間では、憂慮すべき問題として大変強い関心が寄せられている。 二三ヶ月前、現在の佐藤学長が、地元関係者を集めた講演で、この問題について説明があった。
その時の話では、名古屋校舎の全学部(経営・法学(1・2年)現代中国学部)と、豊橋校舎の短期大学部を除く全学部(経済・文学・国際コミュニケーション)を笹島へ統合。 車道校舎は、法科・会計の大学院に、名古屋校舎は廃校、豊橋校舎には、新たに二学部新設。 新設の二学部は、現在、有識者を中心に調査・研究を重ねており、今後鋭意決めていくという。 現在、有力視されているのが、「社会学系」と「農学系」の二学部である、という。
「college1.html」をダウンロード
いずれにしても、豊橋校舎が短期大学部だけになってしまうと、学生数2,000人ほど規模の昼間人口が豊橋から消えてしまい、豊橋の活力を一層低下させてしまうことは想像に難くない。 これからも、愛知大学の動向を注意深く見守って行きたい。
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■さて、今日は、10月04日が忌日の『レンブラント』か、誕生日のミレーか、どちらをご紹介して締め括ろうかと考え、個人的に好きな『ミレー』をご紹介してお開きとさせて頂きます。(笑)
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【 ジャン=フランソワ・ミレー 】


彼(Jean-Francois Millet, 1814.10.04 - 1875.01.20)は、19世紀のフランスの「バルビゾン派」を代表する画家。
パリの南方、数十kmにある、フォンテーヌブロー森の片隅『バルビゾン』(村)に住み、農民の風俗や風景等、「自然」を描いた画家達の一人。
彼等を「バルビゾン派」と称し、先駆者とされるコローや、ミレー、テオドール・ルソーらが有名。 以下に彼の略歴をご紹介する。


【略歴】
1814年(00歳) フランス、ノルマンディー地方、ラ・マンシュ県グリュシー村生まれ。
1834年(19歳) シェルブールの街で絵の勉強を始める。
1837年(22歳) パリへ。 当時の巨匠ポール・ドラローシュ(1797-1856)に師事。
1840年(26歳) 肖像画がサロン(官展)に初入選。
1841年(27歳) シェルブールで仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚。 パリに住む。
1844年(30歳) 妻を肺結核で亡くす。
1846年(32歳) 同棲中だった小間使いカトリーヌ・ルメートルとの間に第1子が誕生。
1849年(35歳) パリの南方数十キロにある、フォンテーヌブローの森、バルビゾンへ移住。以後同地で制作を続けた。
1850年(36歳) 『種まく人』をサロンへ出品。
1853年(39歳) カトリーヌ・ルメートルと正式に結婚。
1857年(43歳) 『落穂拾い』
1859年(45歳) 『晩鐘』
1864年(50歳) 『羊飼いの少女』
1867年(53歳) パリ万博で回顧展を開催。著名となる。
1868年(54歳) レジオン・ドヌール勲章を受章
1870年(56歳) 普仏戦争に伴いシェルブールに疎開。 以後、健康を害す。
1875年(60歳) バビルゾンにて死去。


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それでは、代表作をご覧に入れて今日はお別れします。
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では、また・・。(了)

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