【時習26回3-7の会 0209】~「10月26日:『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松阪牛』を堪能!」「明海埠頭第一号岸壁付近の航空写真」「久保田万太郎の俳句」
■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0209】号をお送りします。
さて、今回も、【2637の会】関連の話題がありませんので、まずは《会報》【0208】号で予告しました様に、10月26日(日)に、旧【3-2】中嶋良行君と旧【3-3】谷山建君、そして小生を含む三人の友人で城跡巡りの先生である青木さんと4人で、掲題の副題にある様に、自称〔賢人会〕の「『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松阪牛』を堪能!」に行って参りましたので、その模様をご報告します。
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▼当日は、あいにく、時より小雨がぱらつく曇天。秋晴れの天気予報であったので、ちょっと残念に思いましたが、まずまずのコンディションであった・・ということにします。中嶋君が車で迎えに来てくれたのが7時半。青木さん、谷山君宅経由で、東名・音羽蒲郡→豊田Jct.から伊勢湾岸→四日市Jct.→東名阪→伊勢自動車・津IC→津城址〔10時30分〕へ。



【津城址】
▼津市の古称は安濃津(あのつ)。平安時代以降、伊勢国の政治経済の中心地として栄えた。津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558-69年)に、細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことが起源。
1595(文禄04)年 秀吉の家臣、富田知高が5万5千石を与えられ入城。
1600(慶長05)年 その子、信高は関ヶ原の戦いで東軍につく。西軍毛利秀元・長宗我部盛親軍3万を籠城し迎撃。信高軍は1300人は奮戦するが、木食上人の調停により開城。この奮戦を評価され、後2万石を加増。
1608(慶長13)年 信高は伊予国宇和島藩に移封。代わって今治藩より『藤堂高虎』が伊勢・伊賀22万石をもって入城。高虎は城の大改修に着手。輪郭式の城郭とし、城下町を整備。爾来、明治維新まで藤堂氏の居城に。
1615(元和元)年 大坂冬・夏の陣の功により5万石加増。
1617(元和03)年 更に5万石加増。32万3千石の大大名に。津は江戸期、伊勢神宮参拝の宿場町として栄えた。「 伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ 」と伊勢音頭にも謡われた。
1871(明治04)年 廃藩置県により廃城。
【筆者comment】
▼昨年9月2日《会報》【0122】号で『伊賀上野城址』巡りについてご案内しましたが、津城は藤堂高虎公の居城。伊賀上野城の方が藤堂藩の支城。 外様大名でありながら家康からの信任が特に厚く、外様で唯一東海道の要衝と伊勢・伊賀国を治めた大大名。ここで、小生の拙句を一句・・
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高虎の 石垣高き 秋の伊勢 悟空
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【解説】秋の伊勢路に藤堂高虎が築城した津城址を訪ねた。その城は、同じく高虎が建てた伊賀上野城址の高石垣の様に威容を誇っていた。
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▼我々は、一時間余り津城址内を散策した後、国道23号線を南下し松阪市へ向かった。松阪城址に入る前に腹ごしらえを、と言うことで、「松阪と言えば『松阪牛』を食さねば来た意味がない!」ということで、「松坂牛をお値打ちに!」で探して事前に予約してあった『まるよし・鎌田店』に直行。メニューは〔松阪牛の陶楽焼き〕一人前3,300円と『超特価!』(添付写真ご参照)。霜降りの松阪牛は確かに甘く柔らかく、絶品であった。(大満足!(笑))
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▼13時半、「まるよし」を後にした我々一向は、松阪城址へ。



【松阪城址】
1584(天正12)年 近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城。
1588(天正16)年 氏郷は、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五百森(よいほのもり)に新たに築城を開始。
1590(天正18)年 氏郷は小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津若松城に転封。代わって服部一忠が入城。
1595(文禄04)年 服部一忠は豊臣秀次事件に連座したとして秀吉より叱責され自害。代わって古田重勝が3万4千石で入城。
1600(慶長05)年 重勝は関ヶ原の戦いの軍功により2万石加増。
1619(元和05)年 古田氏は石見国浜田城に転封。南伊勢は紀州徳川藩の藩領に。松阪城には城代を設置。
1871(明治04)年 廃藩置県により廃城。

▼松阪城の魅力に一つに石垣がある。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられ、近世の先駆けとなる名城とも。氏郷は、安土城の築城に加わったが、松阪城にもこの時の石垣作りが採用されている。石垣は「野面積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法。これらは、『穴太(あのう)衆』と呼ばれる近江国坂本の石工集団が、安土城築城の際、考案したものと言われる。
1988(昭和63)年 ~2003(平成15)年の16年間に亘り、総事業費11億円、総面積4580㎡に及ぶ「平成の松坂城石垣修復」が実施され現在に至る。
▼城跡内は、結構広く、「往時はさぞや立派な城であったろう」と古の威容を誇った往時に想いを馳せた。また、上記にある様に、紀伊藩は55万5千石の雄藩であるが、松阪に17万9千石、田丸に6万石の支藩を有し、この2つの支藩を合わせると79万4千石と、80万石になんなんとする大藩となる。親藩筆頭の尾張藩61万9500石(支藩高須藩3万石を加えても64万9500石)を大きく上回り、外様の№2の島津家77万3千石(琉球分9万4千石を加えると86万7千石)に次ぐ堂々3位の大大名となる。8代将軍吉宗以来将軍家の出自の藩であるからか幕末まで最上級の家格を保った。


▼続いて我々は、城跡内の一廓にある【本居宣長記念館】を訪れた。本居宣長が起居した『鈴屋(すずのや)』の家屋をはじめ、宣長関連の貴重な資料が沢山あり、大変勉強になった。そこで記念に購入した「松阪に生きた宣長」という冊子の中から、(1)「曲解された宣長の『山ざくら』の歌」と(2)「宣長の書斎『鈴屋(すずのや)』」、そして(3)「宣長の失恋と恋の成就」をご紹介します。
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(1))「曲解された宣長の『山ざくら』の歌」
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しき嶋の やまとこころを 人とはば 朝日に匂ふ 山ざくら花
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敷嶋の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花
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▼実はこの歌ほど論争の種になり、曲解され、悪く利用された歌も珍しい、といえます。(中略)
つまりそれは、太平洋戦争で命を捨てるのは潔いことだという意味で、(中略)宣長のこの歌が国粋主義的に利用されたからだといいます。(中略)
(中略)明治三十七年、煙草専売法が成立、発表されたタバコの名前が「敷島」「朝日」「大和」「山桜」。日露戦争の軍事費用を賄うためにこの法は成立したとか。昭和十九年十月二十日には、第一航空隊指令長・大西瀧次郎により編成された「神風特攻隊」の部隊名に「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名付けられた、と記述されています。(中略)
だから、(中略)本居宣長の考え方のおかげで大変な目に遭った、と(中略)。
そうした曲解を何とか解こう、真の宣長の考え方を理解して貰おうと、関係者は(中略)努力されています。「にほふ」と言うのは、「麗しく咲いている」という意味であり、ただ素直に感動を表しているものです。(以下略)
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(2)「宣長の書斎『鈴屋(すずのや)』」


▼宣長は12歳の時まで、生家に住んでいましたが、同年、現在の「本居宣長旧宅跡」に移り、72歳で亡くなる迄住みました。
53歳の時、宣長は二階の物置を改造して四畳半の書斎を作りました。鈴の好きな宣長は、この書斎に『柱掛鈴』(添付写真ご参照)を掛けて、その音色を楽しみました。そして自らこの書斎を「鈴屋」と名付け、大変有名になりました。明治42年、保存と公開の為、現在の本居宣長記念館の隣りに移築されました。
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(3)「宣長の失恋と恋の成就」
▼宝暦六(1756)年四月、京都で医者の修行をしていた宣長は、父の法事の為松阪へ帰りますが、その途中、津で学友・草深玄周の家に立ち寄ります。宿で泊まるところ、草深家では大いに歓迎してくれ、結局勧められて同家に泊まります。この時玄周の妹「たみ」さんが、色々世話をしてくれた様です。その時、宣長は「たみ」さんに一目惚れ。京へ帰る時も、東海道と大和路があるのに、わざわざ津を通る東海道を選んで草深家を訪ね、酒、食事などで歓待されます。勿論「たみ」さんもお給仕をしたでしょう。しかし、この時宣長は「たみ」さんにプロポーズが出来なかったのです。
「たみ」さん、この時十六歳。しかし宣長はまだ医者修行の身。心を残しながら京へ旅立ちます。
ところが、宣長の心を知らない「たみ」さんは、結婚してしまいます。しかし宣長はなお、「たみ」さんが忘れられない。事実、宣長は当時としては珍しく三十歳近くになっても色々な縁談話を断ったといいます。だがついに周囲に押し切られて、「みか」さんという人と婚約します。その直後、「たみ」さんの亭主が亡くなったことを知りますが、「みか」さんと結婚します。
しかし、(中略)僅か三ヶ月で離婚し、改めて草深たみさんに結婚を申し入れ、一年後に結婚し、「めでたし」となります。
【「たみ」さんとの恋が『源氏物語』へ】
▼宣長が、当時淫らな本として儒学者から排斥されていた『源氏物語』に傾倒し、講釈を行ったことは有名ですが、実はその理由の一つとして、「たみ」さんへの失恋、そして結婚に至る恋の成就という、自身の体験が大きく影響している、という説があります。失恋の苦しみ、他人の妻になった女を忘れられない自分、そして僅か三ヶ月で結婚した相手を離縁してまでも、自分の恋を成就させたい、という男のさまを、宣長は自分自身によって知ったに違いありません。
人間の心とはそう言うものなのだ。淫らでしどけないのが人間の本性だ。とりわけ人間にとって最大の出来事である恋、男女の間のことはそうなのだ。『源氏物語』はその恋の実相を描いたものである、というのが宣長自身の体験から出たものだ、という見方。これは大野晋の説です。
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【筆者comment】▼宣長が鈴屋の二階の物置を改造して書斎とし勉学に勤しんだのが53歳の時。まさに現在の我々歳である。我々もまだまだ勉強できるぞっ!(笑) また、本居宣長と言えば、堅物な学者というimageが強かったのですが、彼の失恋から恋の成就へのprocess、それが「源氏物語」へ傾倒していく姿を見て、同性の小生、宣長が微笑ましくもあり、頼もしくも感じた次第。
▼松阪城址と本居宣長記念館を訪れた時、地元のボランティアの方々が我々観光に訪れた者に、無料でお茶をご馳走してくれ、丁寧に史跡・史実について説明してくれました。我々は、久し振りに日本人が本来持っている「相手を思いやる優しい心」に直に触れることが出来、大変心地良いひとときを過ごすことが出来たと思います。城址巡りの先生である青木さんも、「今日の津城址・松阪城址巡りは、久し振りにいい城巡りでとても良かった」と仰っていました。
【三井家発祥の地】

添付写真をご覧下さい。
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【後記】



▼さて話題変わって、先日ご案内した小生が勤務している会社が保有する明海埠頭の改修工事竣工後の様子を撮影した航空写真がありますのでご覧下さい。白い米粒の様なものが陸揚げされたVW車です。整然と並んで綺麗です。
▼そして今日のお別れは、秋を詠んだ久保田万太郎の俳句をご紹介します。本居宣長は日中は医者、夜、鈴屋の二階に上がると国学者。自分も宣長の気分になって・・
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敢えて思ふ 燈火親しむべきの候 久保田万太郎
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【解説】「燈火親しむ」とは、秋の夜、書物に親しむことを言う。中唐の政治家・詩人、韓愈「 符読書城南 」(全唐詩341巻)の「・・ 時、秋にして積雨霽(は)れ、新涼 郊墟(こうきょ)に入(い)る。灯火稍(ようや)く親しむ可(べ)く、簡編(かんべん) 卷舒(けんじょ)す可(べ)し ・・」が出典。
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灯(ひ)のともるまでのくらさや秋の暮 久保田万太郎
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【意】秋の夕暮れ、灯がともって、その灯の明るさ、眩しさに驚く。それほど、闇の暗さが際立つ。実感できる俳句である。
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▼これらに触発され、小生も拙句を一つ・・。句またがりの一気呵成の十七句。読書しながら想うは君のこと・・
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燈火したしみながらきみおもひけり 悟空
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では、また・・。(了)
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