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2008年10月の4件の記事

2008年10月26日 (日)

【時習26回3-7の会 0208】~「10月22日:<とよしん>講演会『斎藤精一郎〔どうなる?これからの日本経済=企業業績と国民生活=〕』」「25日:『上村松園・松篁・淳之』展を見て」「25日:『山下清〔東海道五十三次〕展』を見て」  【時習26回3-7の会 0209】~「10月26日:『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松阪牛』を堪能!」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0208】号をお送りします。

■さて今日は、掲題にある様に、去る10月22日、豊橋信用金庫本店で<とよしん>講演会『斎藤精一郎〔どうなる?これからの日本経済=企業業績と国民生活の行方=〕』が開催され、聴いてきましたのでご報告致します。 この講演は、今起きている「世界の株価大暴落・世界恐慌の再来」を当初から想定したものでなかったものですが、そこはその道の碩学の斎藤氏。氏の生の話が聞け、大変勉強になりました。 そこで今日は、その講演会で氏の講和内容をtake noteしてきたものを別添資料に添付しましたのでご覧下さい。参考になるのでは・・と思います。
 ボリュームはA4版2枚分ですが、全部読むのが面倒な皆様に要約を以下にご案内します。
 「081022.doc」をダウンロード
 ↑↑↑ここをclickして下さい。

【要約】今まさに世界同時不況の様相を呈している。これは100年に一度か二度の世界大不況の大事件だ。人間とは愚かなもので二世代前の愚行を繰り返していまう。日本だけは、この世界同時不況の仲間に入っていない健全な国だ。世の中は①個人消費②企業の設備投資③財政出動④輸出(外需)、この4つのエンジンで動く。しかし、現在の日本にはこの4つ全てのエンジンが利かなくなってしまっている。今やメジャーになったBRICsという言葉は2003年10月、米国の投資銀行ゴールドマンサックスがBRICs reportを上梓して以来、資源・人口大国の4ヶ国は急速に経済発展を遂げて来た。それに呼応するかの様に、米国の投資銀行は、証券ブームで投資を繰り返して来た。例えば、100億ドルの資金を投資する際に、1%の保証料率で保証をして貰う。この仕組みがデリバティブ。いまやこのCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)の資金規模は55兆ドル(5,500兆円)。この規模は世界のGDPに匹敵。日本はこのGDSに手を突っ込んでいないが、欧米や中国はやっている。今回の事態を火事に例えると、山火事だ。それも何処が火種かわからない山火事だ。米国政府は公的資金の導入を決定したが、それは日本のバブル清算とは違い担保がない。だからいくらで手仕舞いしていいか分からず損失が確定できない。今後金融機関の統合はさらに進むだろう。
 今、世界は先進国も発展途上国も躓いている。一方、日本は健全だ。が、あと3~5年経つと世界が変わる。日本は少子高齢化社会がさらに進む。日本は、人口が減少→マーケットが縮小。この環境変化を踏まえ、輸出主体に海外・相手国のマーケットを知り、何かをチャレンジすることが大切。皆さんの活躍を期待。(了)

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■続いては、昨日25日に、豊橋市内の豊橋市美術館で現在開催中の「上村松園・松篁・淳之」展と豊橋市二川本陣宿資料館にて開催中の「山下清〔東海道五十三次〕」展を見て来ましたので、その掲示作品をご紹介して、今日はお別れしたいと思います。今日も細かな解説は省略させて頂きます。
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 山下清の版画「東海道五十三次」は、見る者に、郷愁を誘い、その中に温かみや和みを内包した秀作だと思います。
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 また、彼が1961年以降、何度も訪れたヨーロッパの風景画は、作品のレベルも高く、素晴らしい。パリのエッフェル塔など、アンリ・ルソー顔負けの技量ではないかと、感心します。(笑)それでは、添付写真の作品をご覧下さい。
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それと、秋の風物詩の一つ、柘榴〔ざくろ〕の写真です。

【後記】■実は、今日は【時習26回】同期の旧【3-2】の中嶋君と、旧【3-3】の谷山君、それから両人の城巡りの会で一緒に活動中の青木さんの4人で、三重県にある「津城址」と「松阪城址」、そして松阪城址内にある「本居宣長記念会館」他を見て来ました。この模様は、《会報》【0209】号にてご案内する予定です。乞う、ご期待!

では、また・・。(了)


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【時習26回3-7の会 0209】~「10月26日:『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松阪牛』を堪能!」


■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】会報【0209】号をお送りします。
 さて、今日も、【2637の会】関連の話題がありませんので、まずは《会報》【0208】号にて予告しました様に、10月26日(日)に、旧【3-2】中嶋良行君と旧【3-3】谷山健君、小生の同期三人と、我等3人の城跡巡りの先生である青木さんと4人で、掲題・副題にある様に、「『津城址・松阪城址』巡り&『本居宣長記念館&松坂牛』を堪能!」に行って参りましたので、その模様をご報告します。

 当日は、生憎時より小雨がぱらつく曇天。秋晴れの天気予報であったので、ちょっと残念に思いましたが、まずまずのconditionであった‥ということにします。中嶋君が車で迎えに来てくれたのが午前7時半。青木さん、谷山君宅経由で、東名・音羽蒲郡IC→豊田JCT→伊勢湾岸自動車道→四日市JCT→東名阪自動車道→伊勢自動車道・津IC→津城址へ。10:30到着

[01]津城跡安麻衣看板
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-----------------------[02]津城址入口にて
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[03]藤堂高虎像
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【津城址】
 津市の古称は「安濃津(あのつ)。平安時代以降、伊勢国の政治経済の中心地として栄えた。津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558-69年)に、細野藤敦が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことが起源。
 1595(文禄04)年 秀吉の家臣、富田知高が5万5千石を与えられ入城。
 1600(慶長05)年 その子、信高は関ヶ原の戦で東軍につく。西軍毛利秀元・長宗我部盛親軍3万を、籠城し迎撃。信高軍1,300人は奮戦するが、木食上人の調停に拠り開城。この奮戦を評価され、後2万石を加増される。
 1608(慶長13)年 信高は伊予国宇和島藩に移封。代って今治藩より「藤堂高虎」が伊勢・伊賀22万石を以て入城。高虎は城の大改修に着手。輪郭式の城郭とし、城下町を整備。爾来、明治維新まで藤堂氏の居城となる。
 1615(元和元)年 大阪冬・夏の陣の功により5万石加増。
 1617(元和03)年 更に5万石加増。32万3千石の大大名に。津は江戸期、伊勢神宮参拝の宿場町として栄えた。「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭にも謡われた。
 1871(明治04)年 廃藩置県により廃城。

【筆者comment】
 昨年09月02日《会報》【0122】号にて『伊勢上野城址』巡りについてご案内しましたが、津城は藤堂高虎公の居城。伊賀上野城は藤堂藩の支城。藤堂氏は、外様大名であり乍ら家康からの信任が特に厚く、外様で唯一東海道の要衝と伊勢・伊賀国を治めた。ここで小生の拙句を一句‥

 高虎の 石垣高き 秋の伊勢  悟空

【解説】秋の伊勢路に藤堂高虎が築城した津城址を訪ねた。その城は、同じく高虎が建てた伊賀上野城址の高石垣の様に威容を誇っていた。

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[04]まるよし・松阪牛の陶樂焼き
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-----------------------[05]まるよしにて
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【まるよし・松阪牛の陶樂焼き】

 我々は、1時間余り津城址内を散策した後、国道23号線を南下し松阪市へ向かった。松阪城址に入る前に腹ごしらえを、と言うことで、「松阪と言えば『松阪牛』を食さねば来た意味がない!」ということで、「松阪牛をお値打ちに!」で探して事前予約してあった『まるよし・鎌田店』に直行。Menuは〔松阪牛の樂焼き〕一人前3,300円と『超特価!』(添付写真ご参照)。霜降りの松阪牛は確かに甘く柔らかく、絶品であった。大満足!(笑)

 13時半、「まるよし」を後にした我等一行は、松阪城址へ向かった。

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[06]松阪城跡看板
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-----------------------[07]松阪城址の石垣前にて
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[08]松阪城跡にて
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-----------------------[09]松阪城跡・天守閣跡
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【松阪城址】
 1584(天正12)年 近江国日野城6万石蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ城に入城。
 1588(天正16)年 氏郷は、現在の城地である飯高郡矢川庄の四五森(よいほのもり)に新たに築城を開始。
 1590(天正18)年 氏郷は小田原の役の軍功により陸奥国会津60万石の大封を得て会津若松城に転封。代って服部一忠が入城。
 1595(文禄04)年 服部一忠は豊臣秀次事件に連座したとして秀吉より叱責され自害。代って古田重勝が3万4千石で入城。
 1699(慶長05)年 重勝は関ヶ原の戦の軍功に拠り2万石加増。
 1619(元和05)年 古田氏は石見国浜田城に転封。南伊勢は紀州徳川藩の藩領に。松阪城には城代を設置。
 1871(明治04)年 廃藩置県に拠り廃城。

 松阪城の魅力の一つに石垣がある。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられ、「近世の先駆けとなる名城」とも呼ばれている。氏郷は、安土城の築城に加わったが、松阪城にもこの時の石垣造りが採用されている。石垣は「野面(のづら)積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法。これ等は、『穴太(あのう)衆』と呼ばれる近江国坂本の石工集団が、安土城築城の際、考案したものと言われる。
 1988(昭和63)年 ~2003(平成15)年の16年間に亘り、総事業費11億円、総面積4,580㎡に及ぶ「平成の松阪城石垣修復」が実施され現在に至る。
 城跡内は、結構広く、「さぞや立派な城であったろう」と古の威容を誇った往時に想いを馳せた。また、上記にある様に、紀伊藩は55万5千石の雄藩であるが、松阪に17万9千石、田丸に6万石の支藩を有し、この2つの支藩を合わせると79万4千石と、80万石になんなんとする大藩になる。親藩筆頭の尾張藩61万9,500石(支藩高須藩3万石を加えても64万9,500石)を大きく上回り、外様の№2の島津家77万3千石(琉球分9万4千石を加えると86万7千石)に次ぐ堂々3位の大大名となる。8代将軍吉宗以来、将軍家の出自の藩であるからか幕末まで最上級の家格を保った。

[10]本居宣長旧宅
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-----------------------[11]本居宣長旧宅・案内看板
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[12]本居宣長
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-----------------------[13]柱掛鈴(部分)
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【本居宣長記念館・鈴屋(すずのや)】
 続いて我々は、城跡内の一廓にある「本居宣長記念館」を訪れた。本居宣長が起居した『鈴屋(すずのや)』の家屋をはじめ、宣長関連の貴重な資料が沢山あり、大変勉強になった。そこで記念に購入した「松阪に生きた宣長」という冊子の中から、(1)曲解された宣長の『山ざくら』の歌」と、(2)「宣長の書斎『鈴屋』」、そして、(3)「宣長の失恋と恋の成就」をご紹介します。

(1)「曲解された宣長の『山ざくら』の歌」

 しき嶋の やまとこころを人とはば 朝日に匂ふ 山ざくら花  宣長

 実はこの歌程論争の種になり、曲解され、悪く利用された歌も珍しい、と言えます。〔中略〕
 つまりそれは、太平洋戦争で命を捨てるのは潔いことだという意味で、〔中略〕宣長のこと歌が国粋主義的に利用されたからだといいます。〔中略〕
 〔中略〕明治37年、煙草専売法が成立、発表されたタバコの名前が「敷島」「大和」「朝日」「山桜」と名付けられた、と記述されています。〔中略〕
 だから、〔中略〕本居宣長の考え方のお陰で大変な目に遭ったと。〔中略〕
 そうした曲解を何とか解こう、真の宣長の考え方を理解して貰おうと、関係者は〔中略〕努力されています。「にほふ」と言うのは、「麗しく咲いている」という意味であり、ただ素直に感動を表わしているものです。〔後略〕

(2)「宣長の書斎『鈴屋』」
 宣長は、12歳の時まで生家に住んでいましたが、同年、現在の「本居宣長旧宅跡」に移り、72歳で亡くなる迄住みました。
 53歳の時、宣長は二階の物置を改造して四畳半の書斎を作りました。鈴の好きな宣長は、この書斎に『柱掛鈴』(添付写真[14]ご参照)を掛けて、その音色を楽しみました。そして自らこの書斎を「鈴屋」と名付け、大変有名になりました。明治42年、保存と公開の為、現在の本居宣長記念館の隣に移築されました。

(3)「宣長の失恋と恋の成就」
 宝暦06(1756)年04月、京都で医者の修行をしていた宣長は、父の法事の為松阪へ帰りますが、その途中、津で学友・草深玄周の家に立ち寄ります。宿で泊る処、草深家で大いに歓迎してくれ、結局勧められて同家に泊ります。この時玄周の妹「たみ」が色々と世話をしてくれた様です。その時、宣長は「たみ」に一目惚れ。京に帰る時も、東海道と大和路があるのに、わざわざ津を通る東海道を選んで草深家を訪ね、酒・食事等で歓待されます。勿論「たみ」も御給仕をしたでしょう。しかし、この時宣長は「たみ」にproposeが出来なかったのです。
「たみ」はこの時16歳。しかし宣長はまだ医者修行の身。心を残し乍ら京へ旅立ちます。
 ところが、宣長の心を知らない「たみ」は結婚して仕舞います。しかし宣長は尚、「たみ」さんが忘れられない。事実、宣長は当時としては珍しく30歳近くになっても色々縁談話を断ったといいます。だがついに周囲に押し切られて、「みか」という人と婚約します。その直後、「たみ」の亭主が亡くなったことを知りますが、「みか」と結婚します。
 しかし〔中略〕僅か3ヶ月で離婚し、改めて「たみ」に結婚を申し入れ、一年後に結婚し、「めでたし」となります。
【「たみ」とのの恋が『源氏物語』へ】
 宣長が、当時淫らな本として儒学者から排斥されていた『源氏物語』に傾倒し、講釈を行ったことは有名ですが、実はその理由の一つとして「たみ」への失恋、そして結婚に至る恋の成就という、自身の体験が大きく影響している、という説があります。失恋の苦しみ、他人の妻になった女を忘れられない自分、そして僅か3ヶ月で結婚した相手を離縁してまでも、自分の恋を成就させたい、という男のさまを、宣長は自分自身によって知ったに違いありません。
 人間の心とはそう言うものなのだ。淫らでしどけない(=分別のない)のが人間の本性だ。とりわけ人間にとって最大の出来事である恋、男女の間のことはそうなのだ。『源氏物語』はその恋の実相(=真実の姿)を描いたものである、というのが本居宣長の体験から出たものだ、という見方。これは大野晋の説です。

【小生comment】
 宣長が鈴屋の二階の物置を改造して書斎とし勉学に勤しんだのが53歳の時。まさに現在の我々の歳である。我々もまだまだ勉強出来るぞ!(笑) また、本居宣長と言えば、堅物な学者というimageが強かったのですが、彼の「失恋から恋の成就へのprocess‥それが『源氏物語』研究へ傾倒していく」姿を知り、同性の男としての小生、宣長が微笑ましくもあり、また頼もしくも感じた次第。

 松阪城址と本居宣長記念館を訪れた時、地元のvolunteerの方々が我々観光に来た者に、無料でお茶を振る舞ってくれ、丁寧に史跡・史実について説明してくれました。我々は久し振りに日本人が本来持っている「相手を思いやる優しい心」に直接触れることが出来、大変心地良いひとときを過ごすことが出来たと思います。城址巡りの先生である青木さんも、「今日の津城址・松阪城址巡りは久し振りにいい城巡りでとても良かった」と仰っていました。

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[14]松阪商人の館の看板
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-----------------------[15]三井家発祥の地
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【松阪商人の館(小津清左衛門家住宅)・三井家発症の地】
 旅の最後に、松阪市内にある「松阪商人の館」を訪れました。このareaの一廓に「財閥三井家の発祥の地」という屋敷跡がありました。

■今日のお別れは、秋を詠んだ久保田万太郎の俳句を2つご紹介します。本居宣長は日中は医者、夜、鈴屋の二階に上がると国学者。小生も宣長の気分になって‥

 敢えて思ふ 燈火親しむべきの候  万太郎

【解説】「燈火親しむ」とは、秋の夜、書物に親しむことをいう。中唐の政治家・詩人である韓愈の「符読書城南」(全唐詩341巻)の「‥時、秋にして積雨霽(は)れ、新涼 郊墟(こうきょ)に入(い)る 燈火鞘(ようや)く親しむ可(べ)く、簡編(かんべん) 巻舒(けんじょ)す可し‥」が出典。

 灯(ひ)のともるまでのくらさや秋の暮  万太郎

【意】秋の夕暮、灯がともって、その灯の明るさ、眩しさに驚く。その程、闇の暗さが際立つ。実感出来る俳句である。

 これ等に触発され、小生も拙句を一つ‥。句またがりの一気呵成の17句。読書し乍ら想うは君のこと‥

 燈火したしみながらきみおもひけり  悟空

 ではまて‥。(了)

2008年10月20日 (月)

【時習26回3-7の会 0207】~「10月23日:『霜降』」「芭蕉『野ざらし紀行』より二句」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0207】号をお送りします。 
 日付は変わり10月20日(月)。 小生、昨日、宅建試験(←結構難しかった・・(笑))が終わりました。 合否の見通しは扨(さて)置き、当分受験勉強から解放されることとなり、久し振りに【2637の会】membersの皆さんに安心して《会報》をお送りすることができます。
 まずは、二十四節気のお話。 明々後日23日は『霜降』。 この頃より我々の周辺でも紅葉が見られる様になる。 『霜降』の「霜」というと、いつも「霜葉は二月の花よりも紅なり」という「杜牧の『山行』」をすぐ思い浮かべますが、今日は、この時節の詩としては同じく「杜牧の『泊秦淮(秦淮(しんわい)に泊す)』」をご紹介します。

 泊秦淮  杜牧
煙籠寒水月籠沙
夜泊秦淮近酒家
商女不知亡国恨
隔江猶唱後庭花  

   秦淮に泊す   杜牧
煙は寒水を籠(こ)め 月は沙(すな)を籠む
夜 秦淮に泊して酒家に近し
商女は知らず 亡国の恨み
江(こう)を隔てて猶お唱う 後庭花(こうていか)

【訳】夕靄(もや)は冷たい水の上に立ち込め、月光は白々と砂を照らし出している。
今宵、秦淮に船泊りしたのは酒家(料亭)の近く・・。
妓女達は、かつてここに都を置いた六朝最後の王国「陳」国の亡国の恨みの歌とも知らずに、
川の向こう側で、今尚「玉樹後庭花」の曲を賑やかに唱っている。

【解説】出出しが大変叙景的で美しく印象的である。 晩秋のある夜のこと・・、寒々とした水面に靄(もや)が立ち込めている。 そこに月光が砂を白々と照らし出している。 「籠(こ)め」という言葉を二度使い、その情景を強調している。 極めてしっとりとした情緒ある雰囲気が漂ってくる。
 この「起」「承」で、後半の艶美な雰囲気を上手く作り出している。 
 秦淮は、秦代に作られた運河。 金陵城内に流れ込んでいる。 両岸に妓楼があり栄えた。 向いの料亭からは、妓女が唱(うた)う亡国の歌「玉樹後庭花」が聞こえて来る。 「玉樹後庭花」とは、宮廷の宮女達を例えたもの。 六朝(呉→東晋→宋→斉→梁→陳)最後の「陳」の後主(こうしゅ:王朝の最後の君主)の作。 後主は、詩歌管弦に現を抜かしているうちに隋に滅ぼされてしまった。 作者の杜牧は、六朝最後の都「金陵(現在の南京市)」に来て、「玉樹後庭花」を聞き、昔日の情を懐かしんだのである。

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■さて、昨日、宅建試験が終った後、故あって春日井市に住む友人宅を訪ねた時のこと・・。 道端に芭蕉の句碑を見つけた。 添付写真をご覧下さい。 その句とは・・、

 來(いざ)與(とも)に 穂麦(ほむぎ)喰らわん 草枕  芭蕉

【意】さぁ、一緒に行脚しよう。 志は一つなので、例え飢えをしのいで(まだ青い大麦の)穂麦を噛む様な旅になっても面白いじゃありませんか。

【後記】■上記の俳句は、芭蕉の初の紀行文である「野ざらし紀行」に載っている。 この旅は、芭蕉41歳の貞享元(1684)年の8月から翌二年4月にかけて行われた。 この「野ざらし紀行」の中から、今日の締め括りは、秋の季語になっている『秋(の)霜』使った俳句を一つご紹介する。 因みに「霜」は冬の季語である。

 手にとらば消(きえ)ん なみだぞあつき 秋の霜  芭蕉

【訳】母の形見の白髪を手に取る・・。 あまりに儚い・・。 私の涙で「秋の霜」と霧消してしまいそうだ・・。
【解説】俳聖芭蕉をして十七文字に収め切れなかった・・、母の死後、初めて故郷を訪れ、兄から遺髪を見せられた時の慟哭の句。 破調上五が八字になって、芭蕉の心の乱れを強く印象づけている。

2008年10月13日 (月)

【時習26回3-7の会 0206】~「10月07日『三河港明海埠頭第1号岸壁改修工事〔竣工式〕』」「10月09日:『マティスとルオー展』を観て」「10月09日:ミッシャ・マイスキー『バッハ:無伴奏チェロ組曲』の夕べ」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0206】号をお送りします。
 実は小生、今はmailを書いている場合ではないのです。 来週19日(日)、予てより申し込んであった宅建試験があるため、受験勉強中なのであります。 もうジタバタしても仕方ないと思いますが・・。(笑)
 とは言え、【2637の会】《会報》については、これまでも5~7日のtime spanで出状していましたので、今日も取り急ぎ【0206】号をお送りします。
 今日の話題は、先週の地元での行事等からお届けします。 時間をかけて作成していませんので、乱文・誤字はご容赦下さい。m(_ _)m

■まずは、添付写真をご覧下さい。 最初の写真は10月08日(水)付の地元新聞「東愛知新聞」の一面記事です。
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 小生が勤務する会社(以下弊社という)が所有する三河港明海埠頭第1号岸壁改修工事が、この程完成し、10月07日、明海埠頭第1号岸壁にて「竣工式(『神事』)」が開催された記事が掲載されました。 併せて、ご紹介するのが、その式典時に入港していた自動車運搬船とそこから搬出されているVW車です。
 それにしても自動車運搬船の大きいこと! このビルの様な船で17千トン。 この船一隻で最大6千台の自動車を運べます。 添付写真にある紅白のテントが竣工式会場ですが、その背後に聳え立つのが17千トンの自動車運搬船。 その巨大さを実感頂けると思います。(笑)
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 以前にもご紹介しましたが、三河港は、弊社が管理する「明海埠頭」と、その北隣りに隣接する「神野(じんの)埠頭」から陸揚げされる外車輸入台数(11万4千トン)・金額(3500億年)((注)いずれも2007年実績)で、昨年まで15年連続日本一を誇る自動車輸入港です。 因みに自動車輸出についても、金額では、隣りのトヨタ自動車田原工場(通称『レクレサス工場』)があるため日本一。 台数は、名古屋に次ぎ第二位を占めています。
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 この明海埠頭第1号岸壁は、VGJの専用岸壁で、VW、Audi、Bentley、LamborghiniのVWグループ4社及びPorscheの日本への輸入車の100%を取り扱っており、ここから東京をはじめ全国へ配送されています。
 これも因みにですが、毎年、自動車輸入台数の4割近くが三河港から陸揚げされ、その三河港の中で、明海埠頭からの陸揚げが6割強を占めています。
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 三河港って、なかなか凄い港でしょっ!(笑)

■続いては、10月09日のお話。 掲題にある様に、小生、名古屋へ行く機会があり、今月19日まで、松坂屋美術館にて開催中の『マティスとルオー展』を観て来ましたので、その模様をお伝えします。
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 まずは、添付写真の絵をご覧下さい。 マティス(1869-1954)とルオー(1871-1958)は、マティスが二歳年長ではありますが、パリの国立美術学校で、モロー教室のclassmateでした。 ↓モロー『ヘラクレスとオムパレ』
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 添付写真「モロー教室の学生達」に写っている前列中央の枠内がルオー、左手奥の枠内がマティスです。
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 今回の展覧会の図録にある解説によれば、「マティスとルオーとは遠く離れていましたが、二年前、マティスか1021935
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らルオーに宛てた書簡がジョルジュ・ルオー財団から見つかり、
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またルオーからマティスへの手紙も保管されていることがわかり
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二人の巨匠の深い友情の絆が明らかになりました」と書いてありました。


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 今回は、小生に時間があまりありませんので、絵だけ添付させて頂きます。
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 マティスも若い頃は印象派の影響を色濃く受けていますね。
 ←左の絵は「ルオー『花束(ステンドグラス)』(1949年)」です。



【後記】■今日の締め括りは、10月09日夜、名古屋にある愛知技術劇場コンサートホールで開催された「ミッシャ・マイスキー:〔バッハ:無伴奏ヴァイオリンチェロ組曲〕の夕べ」についてご報告させて頂きます。
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彼は1948年、旧ソ連、現在のラトヴィア共和国リガ生まれ。 早くからロストロポーヴィチに師事し、現在では世界でも屈指の名チェロリストとして活躍中である。
 会場の愛知芸術劇場コンサートホールは、入場者数は千人を超えていたが、一方の演奏者は無伴奏というだけあって、マイスキーただ一人・・。
 それで、演奏が開始され一曲目の第一番ト長調の「Prelude」のメロディーが・・、チェロのえも言われぬ美しい中低音の響きが、ホール内に響き渡ると、パイプオルガンもある様な大きなホールが、チェロの響きと静寂だけに包まれる、というちょっと不思議な世界、感覚を経験した。 まるで彼と彼の奏でるチェロから発散されるオーラに圧倒されたかの様に聴衆たちは魅せられた。
 演奏曲目は、第一・三・五の三曲とアンコール三曲。 二時間足らずの演奏会であったが、充実した秋の夜のひとときであった。

 では、また・・。(了)

2008年10月 5日 (日)

【時習26回3-7の会 0205】~「東亜同文書院→愛知大学への道」「10月04日:『ジャン=フランソワ・ミレー』誕生日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0205】号をお送りします。

■さて、今週も【2637の会】の話題がありません。 世界では、米国のサブプライム問題に端を発した欧米の金融不安問題が、世界同時不況へと拡大することが懸念されています。 つい最近まで絶好調であったトヨタ自動車も、北米向けのレクサス・シリーズの販売に翳りが生じ、地元経済への影響が心配されています。 一日も早い景気回復が待たれるところですが・・。
 暗い話をしていても仕方ありません。 そこで、今日は、地元豊橋の話題を拾ってみました。
 来月予定される『豊橋市長選挙』については、ちょっと生々しいので、話題にすることは止めまして・・(笑)、一昨日の10月3日の昼、今日の掲題の副題にあります様に、「東亜同文書院時代から愛知大学へ」の歴史についての講演会がありましたので、その中から、少しご紹介しようと思います。

【 「東亜同文書院大学」から「愛知大学」へ 】
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 愛知大学の前身は、東亜同文書院。 同院は、1901(明治34)年5月26日、近衛文麿の父、近衛篤麿が会長を務めていた「東亜同文会」が中国・上海に設立した「中国との関係強化を図る日本人のための高等の教育機関」。 1921(大正10)年、専門学校令で外務省指定学校。 1939(昭和14年)12月、大学令により「東亜同文書院大学」となった。 しかし、1945年(昭和20)年8月、日本の敗戦に伴い、閉学。
 第5代院長には、篤麿の子、近衛文麿が就任している。 大学に昇格後、最後の学長「本間喜一」が、敗戦により帰国後、同大学の後身の移転先を探し、1946(昭和21)年11月15日、愛知県豊橋市に「愛知大学」が設立された。
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 講演の説明では、本間は昭和21年当時文部大臣であった田中耕太郎と東大法学部時代の同期で親密な関係にあったことが大きいという。
 即ち、愛知大学の豊橋市への設置について、昭和21年5月に文部省に申請、11月に設置が決定する、という混乱期の当時と言えども「申請から設置決定まで僅か6ヶ月という『異例の早さ』」であった。
 興味深いのは豊橋に愛知大学が誘致された経緯・・。 講演の後、大学内にある「東亜同文書院大学記念センター」の見学会の中でセンター関係者に、「何故『愛知大学』が豊橋に決まったのか」と訊いてみたところ、その理由は大きく言って三つ上げられるという。
 ①豊橋市には、陸軍15師団の広い跡地があり、誘致先として適していた。
 ②当時の豊橋市長「横田忍」氏が、大学誘致に極めて前向きで、協力的であった。
 ③豊橋市内には、さつまいもが沢山収穫され、当時の食糧事情から適していた。
【筆者comment】
 大学の候補地は、豊橋以外に、大分県別府市も有力であった、という。 もし、そうなれば大学名も「九州愛知大学」とか「別府大学」になっていたかも・・。(笑)
 上記①②③のうち、③の食糧事情が誘致に影響したというのは大変興味深い。
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 また、愛知大学は現在、笹島への統合を進めている。 豊橋校舎では、笹島への反対のプラカードにも遭遇した。(添付写真ご参照)
 「笹島移転問題」は、豊橋の有識者の間では、憂慮すべき問題として大変強い関心が寄せられている。 二三ヶ月前、現在の佐藤学長が、地元関係者を集めた講演で、この問題について説明があった。
 その時の話では、名古屋校舎の全学部(経営・法学(1・2年)現代中国学部)と、豊橋校舎の短期大学部を除く全学部(経済・文学・国際コミュニケーション)を笹島へ統合。 車道校舎は、法科・会計の大学院に、名古屋校舎は廃校、豊橋校舎には、新たに二学部新設。 新設の二学部は、現在、有識者を中心に調査・研究を重ねており、今後鋭意決めていくという。 現在、有力視されているのが、「社会学系」と「農学系」の二学部である、という。
「college1.html」をダウンロード
 いずれにしても、豊橋校舎が短期大学部だけになってしまうと、学生数2,000人ほど規模の昼間人口が豊橋から消えてしまい、豊橋の活力を一層低下させてしまうことは想像に難くない。 これからも、愛知大学の動向を注意深く見守って行きたい。

■さて、今日は、10月04日が忌日の『レンブラント』か、誕生日のミレーか、どちらをご紹介して締め括ろうかと考え、個人的に好きな『ミレー』をご紹介してお開きとさせて頂きます。(笑)

【 ジャン=フランソワ・ミレー 】
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 彼(Jean-Francois Millet, 1814.10.04 - 1875.01.20)は、19世紀のフランスの「バルビゾン派」を代表する画家。
 パリの南方、数十kmにある、フォンテーヌブロー森の片隅『バルビゾン』(村)に住み、農民の風俗や風景等、「自然」を描いた画家達の一人。
 彼等を「バルビゾン派」と称し、先駆者とされるコローや、ミレー、テオドール・ルソーらが有名。 以下に彼の略歴をご紹介する。
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1864
【略歴】
1814年(00歳) フランス、ノルマンディー地方、ラ・マンシュ県グリュシー村生まれ。
1834年(19歳) シェルブールの街で絵の勉強を始める。
1837年(22歳) パリへ。 当時の巨匠ポール・ドラローシュ(1797-1856)に師事。
1840年(26歳) 肖像画がサロン(官展)に初入選。
1841年(27歳) シェルブールで仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚。 パリに住む。
1844年(30歳) 妻を肺結核で亡くす。
1846年(32歳) 同棲中だった小間使いカトリーヌ・ルメートルとの間に第1子が誕生。
1849年(35歳) パリの南方数十キロにある、フォンテーヌブローの森、バルビゾンへ移住。以後同地で制作を続けた。
1850年(36歳) 『種まく人』をサロンへ出品。
1853年(39歳) カトリーヌ・ルメートルと正式に結婚。
1857年(43歳) 『落穂拾い』
1859年(45歳) 『晩鐘』
1864年(50歳) 『羊飼いの少女』
1867年(53歳)  パリ万博で回顧展を開催。著名となる。
1868年(54歳) レジオン・ドヌール勲章を受章
1870年(56歳) 普仏戦争に伴いシェルブールに疎開。 以後、健康を害す。
1875年(60歳)  バビルゾンにて死去。
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 それでは、代表作をご覧に入れて今日はお別れします。

 では、また・・。(了)

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