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2009年3月の5件の記事

2009年3月29日 (日)

【時習26回3-7の会 0231】~「行天豊雄『オバマ政権への期待と不安』」「イタリア旅行から『ミラノ→ヴェローナ』」「3月26日:『山口誓子』命日」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も、《会報》【2637の会0231】号をお送りします。
▼時節の移ろいは、本当に早いものですね。今週央には、新年度の4月を迎えます。
 桜花も例年になく早く、豊橋でも春彼岸が終わる頃からそこここで咲き始めました。が、ここ数日間は寒の戻りがあり、豊橋公園の桜もまだ六~七部咲きといったところでしょうか。

■さて、我等が【2637の会】《クラス会》も今年2009年で4回目を迎えます。開催予定の8月まで4ヶ月余りになりましたので、そろそろ準備を始動しようかと思います。
 【2637の会】《クラス会》は、息の長い、気楽で楽しい会として、『細~く、長~く、暖か~く』をモットーにして、『百歳迄現役!』を目標と掲げる自称万年幹事の、この不肖今泉が元気な限り続けて参ります。気軽な気持ちで参加して下さい。
 我々に残された人生は、日本人の平均で男子25年、女子30年あります。しかし、折角生きて行くのであれば、お迎えが来るまでは周りに迷惑をかけず『元気で!』と考えるのは皆さん同じだと思います。そして、例え肉体的に元気でも、男性の場合は、社会的に肩書きが取れたら『ただのオジ(イ)サン』に、女性の場合は、子育てが終わったり、旦那が定年退職したら『自由時間』を持て余し「ヒマダワ!」なんてことにならないためにも(笑)、気の置けない仲間との交流を図り、精神的にも若さを保ち続けて行きたいものです。「【2637の会】がその様な【交流の場】になればいいな」と思っています。
 そこで、今〔 【2637の会】《クラス会》2009 〕で考えていることは、以下の通りです。

1.日時 : 2009年8月15日(土) 18時00分~
2.場所 : トライアゲイン〔豊橋市駅前大通2丁目33-1 開発ビル地下1階〕
  ( ★昨年実施した《クラス会》の《二次会会場》です )
  ( ★トライアゲインでは10名以上集まると「貸切」可。一次会・二次会一緒にして会費を節約 )
3.費用 : 5,000円( ←二次会も引き続きトライアゲインを利用することにより、二次会費用をカット! )
4.参加者全員にもれなく「青春のうたPartⅣ」を贈呈。
  ( ★今回も、曲目リクエストを考えていますのでご協力下さい m(_ _)m )
5.「《クラス会》のご案内」の出状予定次期 : 2009年5月中旬

 昨年、一次会会場から二次会会場への移動に少々手間取りましたので上記の様にしてみました。「一次会と二次会は場所を変えてやりたい」という意見があるかもしれません。いろいろと皆さんから忌憚のないご意見を頂戴したいと思います。お便りをお待ちしています。m(_ _)m

■さて、今回も、小生からの一方的な情報発信で申し訳ありませんが、暫くお付合い下さい。
 昨年秋以降の景気の急速な悪化は、日本経済に深刻な不況を齎し、将来に暗い影を投げかけています。一日も早い景気回復を願うのは、経済活動で生計を立てている皆さん共通の切なる願いであると思います。そのためには、これまで世界経済を、最大消費国として牽引して来た米国経済の回復が急務です。
 そこで最初の話題は、先週3月25日。上京して、(財)国際通貨研究所 理事長 行天豊雄氏の講演会「オバマ政権への期待と不安」を聞いて来ました。そこで、その概略を纏めてみましたのでご案内申し上げます。
 尚、以下の概略は、小生が講演会の内容をtake noteしたものですので、正確に聞き取れていないかもしれないということをお含み置き願います。では、どうぞ・・

【覇権国家アメリカの弱体化】
 米国は建国以来の重大な岐路に今立っている。これは、オバマ氏が大統領就任以前から問題が露呈していた。
 即ち、第二次世界大戦後、米国は覇権国家として、経済・軍事・文化あらゆる分野で世界を牽引、その資格を持ってやって来た。19世紀の英国もそうだった。
 しかし、ここ数年、米国に覇権国家としての資格に綻びが生じて来た。その第一が、これまで米国が世界で誇っていた金融市場、この経済問題だ。かつて、米国は世界の警察国家としての役割を果たして来た。ところが、イラン・イラク、その他のテロ問題等で、世界の警察国家の米国の力が完全ではなくなった。一方、BRICs等の国々が力を蓄えて来て、米国の相対的な力の弱体化が増幅されて来ている。
【アメリカの建国精神の自信喪失】
 もう一つ大事なことは、米国内で、自分達の自信に翳りが出て来たことだ。人種の坩堝(るつぼ)と言われる米国が、何故覇権国家になれたのか。これには2つ理由がある。
〔1〕星条旗に忠誠を誓う
〔2〕英語を話す
 競争は厳しいが、努力し才能さえあればオバマの様な(【筆者注】WASPでない)人でも大統領になれる、自由と公正さが保障されている素晴らしい国アメリカ。黒人移民と白人女性との間に生まれた混血児であるオバマ新大統領。米国民が、そして世界中が、米国という国はこの様な弾力性があり、更には、稀代の名演説で米国民を魅了したオバマ自身の能力に期待している。歴史的に希に見る高い支持率(就任当時83%(現在でも60%))がそれを物語っている。
【就任後これまでの2ヶ月間の評価はまずまず】
 これまでの実績はまだ2ヶ月なので評価は難しい。が、(【同】行天氏は)まあまあ及第点と評価する。医療・環境問題等の国内問題や、イラクからの撤退表明、イランとの関係修復、対日アドバイザーの適材配置等の国際問題、いずれもよくやっていると言っていい。とは言え、最近は経済問題に綻びが出て来ているのも事実。若さゆえ手を広げ過ぎているのが気になる。
【今後の課題】
〔1〕金融の正常化
〔2〕住宅市場の正常化
〔3〕(マクロ)経済の回復
 まず〔1〕金融正常化についてである。古典的だが①十分な流動性資金の供給、②不良債権の削減、③金融機関の健全性維持、の3本柱の施策は十分やっている。①十分な流動性資金の供給については、国債の買入れ等を実施。中央銀行は何処の国でも保守的なのが一般的だが、(【筆者注】米国のオバマ政権は)中央銀行が政府や議会を勇気付けている。 ついで②不良債権の削減についても、本格的にスタートし、今の処、反応は悪くない。ただ今後どうなるかは解らない。と言うのは、こういう施策は、民間(企業)が上手い話と思わないと前進しない。一方、民間が上手いと思う話は、国民には評価されない。この二律背反を如何にバランス取るかだ。③金融機関の健全性維持については、まだ不明。と言うのは、どの位の規模で出るのかが現状解らない。将来、手を引く際の方法も決めて置く必要があるが、決まっていない。まだ道半ばだ。
 次に〔2〕住宅市場の正常化についてである。この問題はまだ手がつけられていない。サブプライム問題に端を発する不良債権問題は未解決。不良債権の更なる拡大を防ぐ手立て、例えば差押さえを防ぐ方策も道半ば。
 〔3〕景気の回復~景気対策については、減税・公共投資だが、これは使った真水が大きければ必ず効果が出て来るので回復は間違いない。株式市場は、この点を先取りして上昇している。問題は、この回復が何処まで行くか。そう言う意味から(【同】景気の先行きを判断する上で)今年後半が大事な時期になる。
 オバマ政権が、予想出来なかった点、それは議会対策。どういうことかというと、上下両院はいずれも民主党が過半数を制している。しかし、(【同】オバマ政権は)目算が外れた。野党の共和党は開き直っている。事毎に政府に盾を突く。今、難問が山積しており、大統領が仕事を抱え込む。こう言う状態がいつまで続けられるか。
【前政権から引き継いだ中長期的課題】
〔1〕これからの米国経済はどの様な成長パターンで動くのか?
 これまでは、金融緩和政策を続け株価が上昇、住宅価格も上昇。そして金融も家計にとっても優し(【同】借り易)かった。米国のGNPの7割は個人消費。耐久消費財を中心に輸入が増え、アジア中心に、中国・インドネシア等が大量生産。(【同】これ等の国々との)持ちつ持たれつの関係が続いた。だがその結果、米国は恒常的に赤字を続け、5兆ドルの対外債務を抱えるに至った。以前からこんなことがいつまでも続く訳がないと見られていたが、基軸通貨ドルへの信頼が厚く、意外と長期間このパターン(成長モデル)が維持出来ていた。
 しかし、このクラッシュでこの成長モデルが維持できないという認識が定着。米国の個人消費は減らさざるを得ず、現実に昨年第4四半期は個人消費が激減した。米国の輸入の力が強制的に修正されるということは、輸出していたアジア各国の成長パターンも強制的に変更を迫られる。
〔2〕世界の金融の大きな変化
 現在は、金融資本主義と言われる。世界のGDP総額50兆ドル。世界の貿易総額10兆ドル。これらに比べ世界の金融資産は150兆ドル。世界のGDPの3倍の規模。世に言われる「レバレッジ(梃子)を利(き)かせた」経済が世界経済の発展の原動力であった。今後は、このレバレッジを使った経済成長パターンはなくなる。即ち、「借金を使って増やすことができなくなる」→「借金を減らす動きに逆転している」。
 経済をもっと真面目にやるべきだった。アングロサクソン型経済の見直し、揺り戻し、この動きが現在の経済を厳しいものにしている。
 今回のクラッシュは、金融規制が甘過ぎたのだという認識が出て来た。これまで米国は、金融資本主義の中心にいた。今後暫くは、金融主導の考えは抑えられる。
 日本のビジネスモデルは、アングロサクソン型よりずっと穏やかで確かなもの。よって、日本はもっと自由に市場からメリットを享受する必要があると思うし、リレーションシップに則りビジネスを行なっていく動きをすべきと考える。しかし一方で、今後、保護主義という規制で締め付けられるという懸念があり、憂慮される。
〔3〕国際的通貨問題~〔 ドルの基軸通貨としての位置付け 〕
 今まで、日本はドル依存が大きかった。今後、どうなるか。(【同】この件については詳細commentはなかった)
〔4〕覇権国家としての米国の地位
 バランス・オブ・パワーの勢力に変化。即ち、中国の位置付けの重要性が増す。今世紀半ばには中国は米国と肩を並べ、更にその後は中国が世界一の国になる。そういう状況下、日本の位置付けと役割は如何に?
 (【同】その時)アジアが世界の成長の中心となり、その中で大国の地位を占める日本の役割は?
 米国がこれまで果たして来た役割は、今後も大きなものであることに変わりはない。とは言うものの、変化(【同】米国のウェイトが相対的に低下)することは避けられない。また、中国の成長により、世界で米国・中国が競い合う。その時日本は、両国とどう関わって行くのか?
 世界№1になることは間違いない中国であるが、現状ではまだ中国に、その責任感等はない。こういう状況下、中国がどの様な信念を形づくって行くのか? また、この指導国家の卵である中国と、日本はどう関わって行くか? №1をどういう立派な国に育て上げて行くか? 日本は米国と共にその役割が大きい。
 今度のG20の会議で、日本はまだ正論を言える立場にある。実体経済が落ち込んでいる今、中近東の要人と話す機会があったが、(【同】その要人は)日本の現在持っている技術力・経済力・文化等を高く評価している。これ等の力が、今後、日本が生き残る鍵になって行く。(了)

【筆者comment】
▼今世紀半ばには、中国が米国と肩を並べ、同後半には中国が世界一の国となる、と行天氏は言う。きっと、そうだろう。まず、あと十年で日本のGDPは中国に抜かれるだろう。
 中国の人口13億人。言い方は乱暴だが、中国総人口から優秀な人材を上澄み1割掬うと1億3千万人。日本の全人口(1億27百万人)を上回ってしまう、というとてつもない国だ。
 中国と日本との関係を歴史的に俯瞰すると次の様に言える。
 近現代の日本は、明治維新以後、たまたま中国の王朝・体制の衰退期(清朝→中華民国→中華人民共和国へ移行)の遭遇。そして、それに乗じてアジア市場を席巻出来たと考えるほうがむしろ自然である。中国が体制を整えたら圧倒的に強かったことは歴史が証明してくれている。往時の『漢(武帝)・唐(太宗:李世民)・明(世祖:永楽帝)・清(康熙・雍正・乾隆帝)』王朝時代の中国には、日本など足元にも及ばなかった。
 尚、時間の都合で、行天氏は詳細を述べなかったが、世界一と言っても、これはまだ経済力(GDP)についてのことで、軍事力までは言及されていない(と思う)。1機330億円もする最新鋭のジェット戦闘機F22をつくる技術水準まで、中国が米国に追いつき追い越すのは、容易いことではない。
 ところで、小生、最近の《会報》で、少しずつ雑感を述べてはいるが、現在世界第二位のGNPを誇る我国日本の将来について考えを述べてみたい。
 今後百年のビジョン(=『日本の国家百年の計』=)を、為政者達は真剣に考えて欲しいものである。
〔1〕少子化を是認、単一民族、人口数千万人規模、一人当たりGNP世界トップクラスを目指す。北欧3国・ベネルクス3国を手本とする。
〔2〕積極的に海外から労働人口を受け入れ現状の1億2千万人規模を維持、多民族国家容認、現在のGDP500兆円規模を維持。仏・独・英国を手本とする。
 皆さんは、〔1〕〔2〕どちらが将来の日本のあるべき姿だと思われますか? 
〔1〕〔2〕についてもう少し説明すると・・
〔1〕は、現在の出生率に大幅な修正を加えない比較的自然体の姿。この場合、今世紀半ばには日本人口は9千百万人を割り込み、今世紀末には5~6千万人規模になる。
【長所】過去の個人資産のストックが相応にあり、中産階級以上の家庭は当該資産を食い潰すまで比較的楽に生活出来る。例えば、一人っ子同士が結婚すると、一方の親の家に住み、一方の親が残してくれた資産は処分・換金できる。食糧自給率は〔現在〕39%→56%→85から100%に改善。
【短所】日本市場は、人口減少に連動してGNPも減少。国内市場だけで営む産業は(椅子取りゲームの様に)必然的に淘汰されて行く。営業は、海外に需要を求める企業を除き、売上が恒常的に減少。リストラ〔合併・人員削減・事業規模縮小etc.〕施策が不可避。賃金カット常態化。その結果、就業者は経営者・従業員いずれもモラル低下に陥りやすい。家庭でも、親からの相続財産費消後は、生活水準低下という高度成長期と逆の苦痛を甘受。沈滞した社会。
〔2〕は、今後も経済成長を続けて(GNP500兆円規模を維持して)いくために、海外から就労者を、従来の高度技術労働者だけでなく、単純労働者を積極的に受け入れる。ドイツがトルコから、フランスが旧植民地アルジェリアから、移民を受け入れた様に。
【長所】国内市場の規模が現状水準を維持出来る。低賃金労働者確保により企業経営が安定。経済活動が安定し、国民の生活水準も比較的安定推移。
【短所】海外からの移民者の大量受入れは、言語・教育・社会保障等の体制整備がなされないと、治安の悪化等の社会不安を拡大させる。他民族の受入れ進展により、社会階層が拡大。貧富の差が一層拡大し、これも社会不安を助長。食糧自給率は現状の40%弱から改善が見込まれず、世界的な人口増加による資源・食糧不足問題深刻化により、「資源価格・食糧価格の高騰→物価上昇→実質所得の減少」という悪循環に陥る懸念が大きい。
 【2637の会】membersの皆さんは、〔1〕〔2〕のどちらが日本の将来にとって好ましいとお考えですか? ご意見を頂戴出来れば幸甚です。

■さて話変わって、続いては、「『イタリア旅行の想い出』その1」ということで、観光初日に訪れた『ミラノ』と『ヴェローナ』についてご報告させて頂きます。
 今回の旅行は、出発当日14日の朝は雨と強風のため、予約してあった8時30分東京駅発の成田エクスプレス特急が突然運休。日暮里からの京成特急に振替え乗車。集合時間ギリギリに成田空港第一ターミナルに到着。というハプニングがありましたが、イタリアの6日間、最終日経由地アムステルダム、全て天気は良好。「晴れ男」を自称する小生、家族に面目躍如でした。(笑)
 14日は、12時05分KLMオランダ航空ボーイング747でアムステルダムを経由してイタリア・ミラノへ。宿泊地は宿賃の安価なコモ。ホテルはコモ湖近くのアルバヴィラ。ミラノ北方60km強。スイス国境至近、まさにイタリア北の外れ。
 翌15日は、朝7時半にホテルを出て、ミラノ市内へ。ミラノ市内に入ると、現地観光ガイド(・・と言っても日本人女性でしたが。イタリアという国は観光立国であり、添乗員は観光地に於いて一切観光ガイドが禁じられ、現地ガイドを観光地毎頼まなければならない決まりになっている由)が合流。
〔スフォルツェスコ城〕
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〔ミラノ・スカラ座〕
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 古城「スフォルツェスコ城」(時間に余裕あり場内も見学できた)から徒歩で→オペラ座「スカラ座」(建物の周囲を見学)
〔ヴィットリオ・エマヌエレⅡ世ガッレリア〕&〔同ガッレリア内にあるシックなマクドナルド店〕
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→ヴィットリオ・エマヌエレⅡ世のガッレリア(=英語でギャラリー、アーケードのこと:ここではマクドナルドもご覧の写真のとおり、シックな装い(笑))

〔ミラノ大聖堂〕&〔ミラノ大聖堂からミラノ市街遠望〕
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→ドゥオモ(13世紀から建設が始められ、完成が19世紀のナポレオン時代:現在、世界遺産申請に向けて、建物の清掃を完了、大変綺麗な装いに)

〔ヴェローナ・ランベルディの塔〕&〔ランベルディの塔からヴェローナ市街遠望〕&〔アレーナ〕
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 正午過ぎ、ミラノのレストランでミラノカツレツを食べた後、ヴェローナへ。ここは、シェークスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」の舞台となった街。街全体が箱庭の様に美しい古都。鐘楼「ランベルディの塔」からの街並み眺望は曇天の下でややくすんで見えたが、赤レンガ屋根がとても綺麗であった。ヴェローナでは、他に「ジュリエットの家」と「アレーナ(円形競技場:この建物は今から二千年以上昔のローマ時代の施設)」を見た。
 イタリアという国は、ローマ時代の建造物がそこ此処にあり、歴史の厚みを痛感。このヴェローナの現地ガイドだけ、イタリア人女性で、会話が英語。この時だけ、添乗員が通訳と言う形で、ガイドしてくれた。このイタリア人女性は、昨年まで中学校で英語を教えていたという初老の上品な女性。ラテン系というよりも、トリエステからオーストリア系の顔立ちをした典型的なイタリア北部の人であった。
 ヴェローナを後にした我々は、翌日の訪問地ヴェネツィア(島)に程近いヴェネツィア・メストレ地区へ。( 以下、次号・・ )

【後記】■今日の締め括りは、一昨日3月26日が命日の山口誓子(本名:山口新比古(ちかひこ)1901.11.03-1994.03.26)についてである。水原秋桜子や高野素十、阿波野青畝とともに『四S』の1人として昭和初期の俳壇を賑わせた。
 まずは、同氏の略歴からご紹介します。
【略歴】
1901(明治34)年 京都市上京区岡崎町生れ。
1917(大正06)年 京都第一中学校へ転入学。
1919(大正08)年 第三高等学校文化乙類入学。”京大三高俳句会”入会。学友日野草城の誘いにより「ホトトギス」へ投句開始。
1922(大正11)年 3月、高浜虚子と初めて出会い師事。4月、東京帝國大学法学部に入学。”東大俳句会”に参加。水原秋桜子にも出会う。
1926(大正15)年 東大卒業。大阪住友合資会社本社入社
1928(昭和03)年 10月浅井啼魚の長女波津女と結婚。
1929(昭和04)年 12月、「ホトトギス」同人に推される。
1935(昭和10)年 2月、「黄旗」出版、肋膜炎を罹患。4月、急性肺炎肺炎併発。病中「ホトトギス」を辞し、秋櫻子の「馬酔木」に加盟。
1938(昭和13)年 夏頃より病状悪化、会社欠勤数ヶ月。
1942(昭和17)年 大阪住友合資会社退社。
1948(昭和23)年 西東三鬼、橋本多佳子らの薦めに従「天狼」を創刊。10月、鈴鹿市白子町鼓ヶ浦に転居。
1953(昭和28)年 西宮市苦楽園へ転居。
1970(昭和45)年 紫綬褒章受章。
1976(昭和51)年 勲三等瑞宝章受章。
1987(昭和62)年 日本芸術院賞受賞。
1988(昭和63)年 神戸大学より名誉博士号を授与。
1992(平成04)年 文化功労者として顕彰さる。
1994(平成06)年 3月26日、死去。享年92歳。

 山口誓子の作品は、これまで「つきぬけて/天上の紺/曼珠沙華」「ピストルが/プールの硬き/面(も)にひびき」等の有名作品をご紹介して来たが、今日は、次の一句をご紹介します。

 流氷や 宗谷の門波(となみ) 荒れやまず  誓子
             大正15年作/『凍港』所収

 山本健吉は、「定本 現代俳句」の山口誓子の項の最初の句として次の様に紹介・評している。

 (前略)年譜によれば誓子は14歳にして句を作り始めているが、本格的に精進し出したのは三高に入って鈴鹿野風呂、日野草城の指導を受けてからであり、ことに大正11年東大に入って、水原秋櫻子・冨安風生・中田みづほ・山口青邨らと東大俳句会を結成してから頭角を現してきた。この会では(中略)客観写生の手法を練磨したが、そのうち秋櫻子と誓子とによって、短歌の調べや用語を取り入れ、失われていた抒情性を回復する試みがなされた。それが劃期的な四S時代を現出せしめた原動力であり、後に高野素十もこの会に加わったから、四Sのうち三人まではこの会の出身なのである。
 かくして生まれた秋櫻子の『葛飾』時代の句(と)、誓子の『凍港』前半(昭和三年頃まで)の句は、近代俳句の黎明となった。比較すれば、秋櫻子のほうがより短歌的・叙情的・詠嘆的であり、誓子のほうがより構成的・知的・即物的であるが、その調べや叙法には様々な共通点があり、ともに在来の「さび」とか「しおり(注)」といかいった古い俳句臭と訣別して、大胆に新しい近代的スタイルを樹立したものである。(中略)
 革新的意気が、四Sの中でも二人の存在を華やかなものに印象づけた。そして誓子は秋櫻子以上に大胆に特異な題材を手がけ、虚子をして「辺塞(へんさい)に武を行(や)る征夷大将軍」と言わしめたのである。(以下略)
(注)しおり:俳諧で蕉風の完成期に芭蕉が説いた美的様相の一つ。句の趣向、用語、素材があわれなものをいうのではなく、しみじみとした哀愁が句の姿に余情として表われているのをいう。(「日本国語大辞典」より)

 そして、誓子自身は、この句について、「山口誓子自選自解句集」で次の様に解説している。

 「流氷」は、春になって、海流に流される氷である。群をなしている。
 「宗谷」は、固有名詞、宗谷海峡のことだ。樺太と北海道との間の海峡である。
 「門波(となみ)」という言葉を私は『万葉集』で覚えた。海の門(と)の波だが、私はそれで海峡の波を現わそうとした。「宗谷の門波」といえば、宗谷海峡の波だ。
 私は、樺太の大泊(おおどまり)中学に入学して、四年のときに京都の一中へ転校した。
 流氷の季節に宗谷海峡を渡ったのだ。船窓から見ると海峡は白々としていた。流氷群が海峡を東から西へと移動していたのだ。船は流氷群を通り抜けようとするから、流氷は船腹にぶつかって、ガリガリ音を立てた。波はかなり高かった。
 過去のことを回想してこの句を作ったが、出来上がった句は、海峡の波の荒れていることを詠っていて、船の姿はない。空から俯瞰した大景になっている。

【筆者comment】
▼山本健吉氏の評する通り、確かに誓子氏の作風は「構成的・知的・即物的」である。一つひとつの語句は、「門波」を除けば何の変哲もないが、この句を何度も朗誦すると、「流氷群が冷たい風の吹き荒れた宗谷海峡を漂い流れて行く」、その様子が、強い構成力をもって、即物的に眼前に迫って来る。皆さんは、どう感じられましたか?

 では、また・・。(了)

2009年3月23日 (月)

【時習26回3-7の会 0230】~「『強行軍!イタリア8日間八万八千歩の旅』」「塩野七生『ローマ帝国とキリスト教』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0230】号をお送りします。
 小生、一昨日21日の夕方、無事イタリア旅行から帰って来ました。HISのツアー旅行『大満喫イタリア8日間』。とても良かったですよ。でも、体力がないと、ちょっとキツイかも・・。持って行った万歩計を見たら、全行程(現地泊6日間)8万8千歩。旅行の名前は、『大満喫!・・』から『強行軍!イタリア8日間八万八千歩の旅』に変えた方がいいかも。(笑)
 「ピサ半日観光」「カプリ島観光」「ローマ2泊、ホテル・ランクアップ」のオプションと、オイル・サーチャージ(oil surcharge)&往復の航空会社は一流(←今回は、KLMオランダ航空)を含め、一人25万円は、大変お得! 航空会社が大手(これは必須条件!)であるのは安心感ありいいのですが、強行軍の最たる事象は、最終日のホテル出発が午前2時55分。ローマ空港発午前6時10分。 凄くハードな時間繰り!(笑)
 でも、そのお蔭で、飛行機の経由地アムステルダムでの待ち時間が6時間余りあり、ちょっとしたprivate市内観光も出来きて良かったですヨッ。

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■さて、今日は、このイタリア旅行についての、概略についてご報告させて頂きます。旅行期間中に撮影した写真枚数は凡そ3千枚。これを整理するだけで1ヶ月はかかりそう。(笑) 整理出来次第、順次ご紹介させて頂きます。
 先ず今日は、このツァー旅行の行程の概略だけご紹介させて頂きます。そして、添付写真は、携帯電話のカメラで撮影したもののみからご紹介します。携帯電話のカメラですので、ピントがボケていますが、ご容赦下さい。

【14(土)】(日時はいずれも現地時間)
 12:05 成田空港発
 16:10 アムステルダム着
 20:10 ミラノ空港着
 21:20 コモ泊(スイス国境近くのコモ湖近郊)
【15(日)】
 20:30 ミラノ市内観光(スフォルツェスコ城、ミラノ・スカラ座、V・エマヌエレⅡ世ガッレリア、ドゥオモ)
 16:30 ヴェローナ市内観光(ジュリエットの家、ラベンナの鐘楼、アリーナ(円形競技場))
 19:30 ヴェネツィア郊外メストレ地区泊
【16(月)】
 11:40 世界遺産ヴェネツィア観光(サン・マルコ寺院、ヴェネツィアガラス工房)
 19:00 フィレンツェ北部郊外、カレンツァーノ泊
【17(火)】
 08:30 世界遺産フィレンツェ観光(ミケランジェロ広場、サン・クローチェ教会、ドゥオモ、シニョリア広場(ヴェッキオ宮殿、ウフィッツィ美術館))
 15:30 ピサの斜塔
 19:00 フィレンツェ北部郊外、カレンツァーノ泊(前述)
【18(水)】
 09:00 世界遺産シエナ観光(カンポ広場、ドゥオモ)
 15:00 ローマ市内観光(スペイン広場、トレビの泉、サン・ピエトロ寺院)
 19:30 ローマ中心部4つ星ホテル(Mondial Hotel)泊(←ローマ歌劇場(オペラ座)正面)
【19(木)】
 06:45 Mondial Hotel発 ホテルから直ぐ傍にある集合場所へ
 07:30 ローマ発
 11:20 カプリ島(青の洞窟)
 20:10 ローマ泊(前述)   
【20(金)】
 02:55 Mondial Hotel発
 06:10 ローマMondial Hotel発
 08:45 アムステルダム着
 11:15 (アムステルダム市内観光)ファン・ゴッホ美術館前着(ツァー行程外)
 15:15 アムステルダム発
【21(土)】
 10:05 成田空港着
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 最終日20日は、前述の様に宿泊先のホテルを午前3時前出発の強行スケジュール。でも結果的に、経由地アムステルダムの乗り換えの待ち時間有効に活用出来ました。8時45分にアムステルダム・スキポール空港に到着した後、我が家4名は待ち時間の6時間(実質4時間)を(~HISの添乗員の方はツァー客が空港内で待つことを希望。アムステルダム市内への一時出入国により予定時間に間に合わなかった場合責任が負えない旨のリスクを強調していましたが~)リスク・テイクして確り活用し、10時過ぎにスキポール空港を抜け出し、国鉄→(20分)→(アムステルダム中央駅経由)→トラム(市内電車)→(20分)→一路、ファン・ゴッホ美術館前の(ファン・ベールレストラート(Van Baerlestraat)駅下車)へ。
 小生、ファン・ゴッホ美術館の入館を試みたのですが、平日にも関わらず同美術館の前は入場券を求める人の長蛇の列。結局、入館は断念せざるを得ませんでした!(涙) そこで仕方なく(笑)、美術館の前で記念写真を撮り、再び同じ経路を戻ってスキポール空港へ。英会話が十分出来ない(涙)小生に代わり、愚娘がinformationや国鉄電車・トラム内での切符購入・行先確認の交渉をやってくれたため無事集合時間の1時間前に集合場所に戻って来れました。
 順次《会報》で、写真が整理次第ご紹介させて頂きますが、トラムの車窓から撮影したアムステルダム市街は、まさに写真で見た16~17世紀のオランダの街並。長崎オランダ村の本家本物だけあり、「感動もの」の素晴らしい景色でした。(笑)

【後記】■今日の締め括りは、「塩野七生『ローマ帝国とキリスト教』」についてお伝えしてお別れしたいと思います。一つの薀蓄としてお読み下さい。(笑)
 塩野氏は自問する。「ローマ人の物語」の『迷走する帝国』の中で、「なぜキリスト教は、イエス・キリストの死からコンスタンティヌス大帝による公認(ミラノ勅令(313年))まで、つまり、誕生から始まって無視できない勢力になるまでに、三百年という長い歳月を要したのか」と。

 イエスが十字架上で死を迎えたのは、紀元33年前後とされている。コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認するのは、紀元313年になってからである。(中略)
 三世紀にもなると、キリスト教の数は一段と増してくるのである。(中略)その三世紀でさえも、キリスト教に対する弾圧はさしたる規模ではない。またその弾圧も、皇帝が始終代わるために、継続性を欠き、一貫し徹底したものでは全くなかった。
 だから、信者の数が増え続けたのか。
 それとも、弾圧の非一貫性になどは関係なく増え続けたのだとしたら、それはどの様な要因によったのか。
 因みに、キリスト教徒への弾圧をそれまでのどのローマ皇帝よりも徹底して行ったのは、四世紀初頭のディオクレティアヌス帝である。(中略)彼が徹底して弾圧したということは、もはやキリスト教勢力が、ローマ側の「曖昧」さを許さない程に強力になっていたということである。(中略)この背景には、(中略)「((筆者注)ローマ帝国の衰亡という)三世紀の危機」があることを、頭の半分にでも置き乍ら読まれることをお願いしたい。
 そして探求は、二人のローマ史の権威の意見を検討することで進めていく。((筆者注)として、ギボンとドッズの意見を紹介した上で、塩野氏の意見を次の様に述べている)
 キリスト教の台頭には、ローマ帝国がキリスト教に歩み寄ったのではなく、キリスト教の方がローマ帝国に歩み寄ったからではないか、とする私の仮説は、次の四項に対するキリスト教側の対処に基づいて立てた推論である。
 (1)偶像崇拝
 (2)割礼
 (3)帝国の公職と軍務
 (4)グレイ・ゾーン
 それで、第一の偶像崇拝だが、これもユダヤ教では厳禁されてい乍らキリスト教では認められることになる一つである。但し、聖パウロは禁じていた様に、古代にはまだ認められていず、教会が公認するのは中世も半ば過ぎた時代になってからなのだ。しかし、ローマ時代のキリスト教徒が集まった場所の壁にはしばしば、拙(つたな)い描写力ではあってもイエスの像が描かれているのである。(中略)の一事の効用は絶大であった。人間とは、崇拝する人の顔を見たいものである。(中略)ユダヤ教同様にキリスト教も偶像崇拝を厳禁し続けていたならば、キリスト教文化も、後世に見られる様に人間的にかつ華やかに花開くこともなかったであろう。(中略)
 第二にあげた割礼についてだが、辞書はこれを、男子の陰茎の包皮を切り取る宗教的慣例、と説明している。ユダヤ教徒にとっては神との契約を結んだ証(あかし)であり、生まれてから28日目に成されると決まっていた。だがこれは嬰児ならともかく、成人の男子に行うとなると、大変な激痛と大変な出血を伴うものだという。(中略)キリスト教会は、割礼の慣習とは全く無縁の人々でも、入信を歓迎していたのだ。(中略)
 割礼をしなくてもよいとなった効果は、ローマ時代に生きていた人々にとっては、絶大なものであったに違いない。ローマ人は昔から割礼を嫌悪していた。(中略)キリスト教への入信の儀式として洗礼を考えた人は、天才であると私は思っている。割礼の様な、苦痛もなければ血も流れない。(中略)頭上に水をかけるだけという、素朴で無邪気で穏やかで、しかも安くあがるやり方だ。これならば、キリスト教の敷居も低く見えたのではないだろうか。
 ついで(3)にあげた、帝国の公職と軍務をキリスト教はどう考えていたか、についてだが、聖パウロは(中略)「権威への義務」として、次の様に言っている。
 「各人は皆、上に立つ者に従わねばならない。何故なら、我々の教えでは、神以外には何であろうと他に権威を認めないが、それ故に現実の世界に存在する各権威も、神の指示があったからこそ権威になっているのである。それらに従うことは、結局はこれら現世の各権威の上に君臨する、至高の神に従うことになるのである」(中略)ローマ帝国の如何なる権威も認めなかったユダヤ教の生き方に比べると、キリスト教の柔軟性には驚嘆するしかない。(中略)その権力の世襲さえ認める考え方が、キリスト教がいずれ権力者階級に受け容れられることになる、第一の要因であったと私は思っている。(中略)
 (4)「グレイ・ゾーン」については、(中略)キリスト教からの歩み寄りがあったとする私の仮設の結論としても良い。ローマ側とキリスト教の境界が、白と黒で明確に分れず、キリスト教側の歩み寄りによるグレイ・ゾーンを挟んでいたというのが、私の考える当時の実態なのである。
 人間とは、明確な白から黒へ移る場合、(中略)その一線を越えるには、相当な勇気と決断を要する。しかし、もしも白から続くのが、白に限りなく近いごく薄いグレイで、そのグレイも気つかない位少しずつ色を増し、気がついてみたらいつの間にか黒のゾーンに入っていたとしたら、一線を越える抵抗感も、限りなく弱くなるのではないかと思う。
 三世紀のローマ帝国とキリスト教の関係は、これと似ていたのではないだろうか。(中略)
 「ローマ人は、限りなく多くの人々の現世の生に役立つものをつくっている」と言い切っている(「大プリニウス」)。((筆者注)盛時の)ローマ人には、アイデンティティ・クライシスは存在しなかったのである。(中略)
 それが、三世紀には、答えられなくなってしまったのだ。(中略)度重なる蛮族の来襲による、殺戮と略奪と焼き討ち。
 その結果としての、農耕地帯の後輩と過疎化。(中略)キリスト教の勝利の要因は、実はただ単に、ローマ側の弱体化にあったのである。(後略)

 では、また・・。(了)

2009年3月13日 (金)

【時習26回3-7の会 0229】~「中西輝政『覇権の終焉(アメリカ衰退後の世界情勢を読み解く)』&」「塩野七生『ローマ人の物語』から〔迷走する帝国上・中・下〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0229】号をお送りします。
 今日も、引き続き最近読んだ本からご紹介します。
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 まず最初は、中西輝政『覇権の終焉(アメリカ衰退後の世界情勢を読み解く)』です。この本では、これからの世界情勢は「冷戦終結後の超大国アメリカ一極体制からアメリカ衰退による多極化の時代へ」向かうであろう、として次の様に紹介しています。

【世界の多極化は必然】
 (前略)日本という国の目指すべき国家目標、そして見え始めた世界秩序の大きな変化の方向に関心を向け、「世界の変化とアメリカの今後」を見据えておかなければならないのである。
 この時、まず我々が何よりも大きな前提とすべきは、冷戦後の世界は今後十年から二十年というタイムスパンで見れば、基本的に「多極化の時代」に入るということだ。この見方は、一つにはアメリカとそれ以外の有力国との力の差は今後縮まりこそすれ広がることはない、との見方に基づいている。いくつもの大国が、夫々一つの「極」となる。昔風に言えば「列強時代」へ向かうということになるだろう。(中略)今漸く誰の目にも見え始めてきた。中国、ロシア、EUさらにイスラム勢力も、自ら「一極」たらんとして立ち上がって来ている。(中略)
 これらはまさしく「多極」の台頭であり、それ故にアメリカがイラク戦争の泥沼化に直面しているのである。つまりイラクの泥沼の一番の背景にある要因は、この「多極化」の浮上なのであり、取り敢えずアメリカの一極指導体制が冷戦後初めて大きく揺らいでいる訳である。
 (中略)「せめぎ合う多極」という構図の中で、アメリカは中露欧印等との間に現在保持している顕著な優位を何処まで維持し得るのか。
 (中略)アメリカのような(古代ローマを除いて)類例のないケースの大国の運命を決めるのは、単なる軍事力や経済力では有り得ない。そこには、その国の歴史を動かして来た、より深い精神的・文明史的な要因を加味する必要が、どうしてもあるのである。(後略)

【ローマと同じ末路を恐れたハンチントン】
 冷戦の勝者となり、湾岸戦争でも圧倒的な力を見せつけたアメリカは、以後十年以上に亘り、急速に勢力を広げ、経済のグローバル化も進めて行った。またこれはクリントン政権の八年、ブッシュ政権のほぼ八年のアメリカ経済に、持続的で大きな好調を齎した。
 だが、(中略)歴史的に見ると、アメリカの様に世界帝国としての覇権を握っている国がグローバル化することは、長期的にはマイナスの結果を齎すことがあるのである。これを暗示するのが、まさに古代ローマ帝国である。
 一般に帝国は統治の範囲が広くなり、多くの異民族を率いる様になると、経済を始めとしる様々な人間活動を、どの地域も一つの基準で適用させるべく、自己の固有性を薄めたルールをつくり、自らの国内社会の在り方を率先して開放し、普遍化させる方向に向かおうとする。
 古代ローマ帝国も同じで、(中略)全ての異民族に市民権を与え、「ローマ市民」として扱うことが重要だと考えた。(中略)
 その結果(中略)ローマ帝国は「ローマ」というアイデンティティを失い、跡形もなく消滅してしまったのである。(中略)
 では、アメリカはどうなるのか。(中略)
 これを敏感に感じ取り、アメリカ社会に警告を鳴らしたのが、『文明の衝突』を著した政治学者のサミュエル・ハンチントンであった。今日の世界は、一極体制を維持しようとするアメリカと、それを追い上げ、アメリカとの対峙・対抗を図ろうとする多くの「極志向」の国々とのせめぎ合いと見る「ユニ・マルチ(一極・多極)論」を展開した(中略)。冷戦後の世界は文明と文明の衝突が対立の主要軸となるという点であった。そしてこれは、9・11に象徴されるイスラムとキリスト教の衝突を見事に言い当てた、と評価された。
 だが、ハンチントンがこの本で最も訴えたかったのは、「アメリカが消滅する」という危機意識だったのである。(中略)アメリカの「知性の代表」でもあるハンチントン。彼の目には、今のアメリカは「アメリカの本質」を失いつつある様に映っているのである。ヒスパニックを始めとする移民の増加や、「多様化」の名の下にアメリカ的な意味での「普遍的な価値」を否定する姿勢が、二十世紀の末に至ってWASP的な価値観をどんどん薄れさせているからである。
 この「アメリカがアメリカでなくなっていく姿」こそが、世界におけるアメリカ国家の未来を示唆していると、ハンチントンは考えた。(中略)
 つまり、各文明の衝突と共に、並存や共生を説くことで世界をよりスムーズに多極化させ、それによってアメリカを誤った普遍主義から引き離し、アメリカがより「アメリカjらしさ」を取り戻す方向へ向かわせる。これがハンチントンの『文明の衝突』の真のメッセージだったのである。
 確かに、「文明間の衝突がない世界、つまり(中略)『グローバル市民社会』が築かれ、世界政府の様なものがつくられる。ワシントンかニューヨークがその首都となり、アメリカが世界を支配する国になる」というのは、全てのアメリカ人にとっての「夢」かもしれない。
 だがそうなると、アメリカは「アメリカの本質」を失い、ローマと同じ「完全消滅への道」を歩む。それがハンチントンの真のメッセージであったと言える。

■さて、続いては、塩野七生『ローマ人の物語』から〔迷走する帝国:上・中・下(32~34巻)〕から【ゲルマン民族初めて地中海へ】の抜粋をお送りします。上述の中西氏が言っていたローマ帝国の衰退が始まった頃の事象です。

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【ゲルマン民族初めて地中海へ】
 紀元252年から始まり翌年の253年にかけて、ローマを震駭させた三十万もの蛮族の大挙進入である。それも、ドナウ河を渡って来た後は、陸地の上を南下して来るだけではなかった。この年初めて、北方の蛮族は、海にも進出して来たのである。
 これは、戦略的思考でも、蛮族が進歩しつつあることを示していた。(中略)
 平和は最上の価値だが、それに慣れすぎると平和を失うことになりかねないという「パクス・ロマーナ」の逆説的な現象が、現われ始めたのは海上だけではなかった。(中略)健全な国家と不健全な国家の違いは、その国が持っている軍事力が国の外を対象にしているか、それとも国内を向いているかを見ればわかると思っているが、ローマ帝国の軍団基地は、そのほとんどが国境に張り付いている。(中略)つまり、ローマ帝国の軍事力は、ローマ人が「リメス」と呼んでいた、帝国の防衛線の守りに向けられている。ために、軍団基地の置かれていない属州の方が多かった。都市でも、一千人の守備隊を常駐させていたのは、西ヨーロッパの要であるリヨンと、北アフリカの要であるカルタゴのみである。これ以外の都市では、属州総督の官邸に勤務する百人程度の兵しかいないのが普通だった。
 ローマ帝国は、ローマ人が支配する帝国である。「パクス・ロマーナ」は、ローマ人が望み、ローマ人によって実現した平和である。だが、このローマ帝国が支配される側にとってもさして不都合でなかったのは、支配者の存在を、一般人ならば眼にすることも少なく接する機会も少なかったからであった。だからこそ、二十万足らずの主戦力で、現代ならばアメリカ合衆国の海兵隊員の数と同程度で、広大なローマ帝国を、しかも三百年もの「平和(パクス)」を保障出来たのである。だが、それだけに、外敵に対する防衛の必要性は低いと判断された小アジア西部にもギリシア全土にも、軍団基地は置かれていなかった。そしてこの地域に、ゴート族は海から襲って来たのである。(後略)

【筆者comment】
▼圧倒的な軍事力の優位性(=「一極」)で、周辺諸国(蛮族)を抑えていた強国であるアメリカも、そしてローマ帝国も、好調(平和(パクス))が長期間続くと、周辺諸国(蛮族)も次第に進歩して、相対的に強者の優位性は衰退する。この原理は1800年前も現代も全く変わらない。歴史は現代の我々にも教訓と言う形でいろいろ教えてくれる。


【後記】■今、私は、須賀敦子の「須賀敦子全集」の、エッセイ「フィレンツェ ― 急がないで、歩く、街」を読んでいる。
 実は小生、明日14日から21日迄、休暇を貰い、銀行退職慰労と、一番下の愚息の中学卒業記念を兼ねて、イタリアに行って来ます。愚息が昨日・今日と県立高校入試(B日程)を終え、合格発表日の23日迄の隙間期間を利用。
 で、皆さんへは3月22~23日頃を目処に次号の《会報》をお送りしたいと思います。それまで暫くの間、ごきげんよう・・。

(了)

2009年3月 8日 (日)

【時習26回3-7の会 0228】~「大前研一『さらばアメリカ』を読んで」「『時実新子の だから川柳』から」

■皆さん、如何お過ごしですか。 今泉悟です。 さぁ、今日も《会報》【2637の会 0228】号をお送りします。
 風こそ肌を刺す様に冷たいですが、陽射しはとても明るく、「春の到来」を感じさせる今日この頃です。まだ玉門関には春の光は届かないかもしれませんが、大和の国には、間違いなく届いていますね。「春光」と言えば、この詩が頭に浮かびます。暖かな春の陽光をはじめ、四季折々の風情が楽しめる日本に生まれて良かったと、この齢になってつくづく感じます。

  涼州詞   王之渙

黄河遠上白雲間
一片孤城萬仭山
羌笛何須怨楊柳
春光不度玉門関

黄河遠く上る 白雲の間
一片の孤城 萬仭(ばんじん)の山
羌笛(きょうてき)何ぞ須(もち)いん 楊柳を怨むを
春光 度(わた)らず 玉門関(ぎょくもんかん)

【意】遥かに続く黄河の流れを、遠く白雲の彼方に迄遡って行くと、高い山々が聳える中、城砦が一つぽつんと目に入る。寂寥感を呼ぶ音色の羌笛で離別の笛の曲「折楊柳」を吹く様なことはやめてくれ。この最果て〔塞外〕の地には、暖かな春の陽光でさえ、玉門関を渡って来てくれないだろうから。

■今週も、先週に引き続き、場繋ぎのmailとなることをお許し下さい。【2637の会】members皆さんからのお便りをお待ちしております。m(_ _)m
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 そこで今日は、まず最近読んだ「大前研一『さらばアメリカ』」についてご紹介させて頂きます。この本は、米国を良く知る大前氏が、大変解り易くアメリカという国の本質を教えてくれています。
 大前氏がepilogueで以下の様なことを言っています。
 本書のカバーの英文タイトルに記した「So long,America! ......until you come back to yourself」は、「昔の君(=アメリカ)に戻る迄、(君とは)暫くお別れだ!」と言う意味だ。「Good-by」ではなく「So long」としたのは、自分(=大前氏)に、まだアメリカへの未練がましさがまだ残っているのだ。その理由として二つ。即ち、一つは、初めて渡米した1967年、アメリカの偉大な工業力、人材・大学のレベルの高さに圧倒されたこと、そして、ビジネスする際、顧客として外国人に対峙する往時の米国人はフェアであり、寛容さを持っていた。この性行は、日米貿易摩擦真っ盛りの1980年代でも残っていた。自分の心の底辺にはアメリカへの強い敬愛の思いがある。二つ目は、1980年代から問題提起していた、末期的な官僚政治に代表されるお粗末な日本の政治について、何も変えることが出来なかったこの(不甲斐ない)自分が、アメリカのことを批判する資格があるのか、と自戒している。
 以上を念頭に、この本を読むと、氏がこの本をなぜ『さらばアメリカ』と名付けたかが解ると思う。
 この本を読むと、アメリカが「真の世界のリーダー」から「世界の嫌われ者の親分」に変質してしまった経緯が良く理解できる。そして、新大統領オバマの実行力如何で、hurdleは高いが米国の復権も不可能ではない、と期待を寄せていることも・・。 それでは、以下に概略をご紹介します。

◆prologue◆〔 オバマ政権誕生~それでも私が悲観的にならざるをえない理由 〕
【建国以来例がない「四権分立」体制】
 (前略)(漸く「真艫(まとも)な大国」に戻ることが期待されるであろうオバマ新大統領の登場)にも拘らず、私(=大前)は今後のアメリカの行く末について、悲観的な見通ししか描くことができない。それは何故か?
 (それは)まず、リーマン・ショック(証券大手リーマン・ブラザーズの経営破綻)に見舞われた2008年9月以降のアメリカは、私たちが知っているアメリカではなくなってしまったからである。
 その象徴が、三権分立ではなく、”四権分立”になった政治体制だ。この場合、「四権分立」とは、(2009年1月迄その任に合ったH.ポールソン)財務長官を指している。(彼は)(中略)役人でありながら、金融安定化法なる”打ち出の小槌”を編み出した。
 更に、もともと金融安定化法は公的資金7,000億ドル(63兆円)で不良債権を買い取ることを目的としていたのに、それは見送って資本注入に使うという方針を表明した。その上、(中略)リーマン・ブラザーズの破綻やシティ・バンクの強引な救済等、全く個人的な好き嫌いで個別金融機関の生殺与奪を決めて行った。そういう超法規的なことを独断で次々とやっているのにも拘らず議会も手が出せない、という空恐ろしい状況になっているのである。(中略)

◆第2章◆〔 不寛容なアメリカ「終わりの始まり」 〕
【「ホームランド・セキュリティ」という欺瞞】
 (前略)(アメリカには、底流に)「一国主義」というものがあり、それが最終的には9・11後にホームランド・セキュリティ(Homeland Security=国土安全保障)という名称になり、テロ対策を統括する国土安全保障省(Department of Homeland Security=DHS)が創設された訳だ。
 (中略)アメリカが言う「ホームランド(国土)」は、狭義にはアメリカ50州のことだが、広義には、テロの危険性がある国や地域を意味し、テロリストを養成している組織があったら、世界の何処へでも出かけて行って叩く。
 つまり、アメリカにとってのホームランド・セキュリティは、アメリカの国土を脅かすもの全てに対する攻撃的防御を意味しているのだ。(中略)
 アメリカは自省しなくてはいけない。世界がアメリカをどう見ているのかということや、自分たちが(たぶん)無意識のうちに考えていること、やってしまっていること等を、一度、謙虚に自省する以外、この(”敵”が遠くアメリカまで行ってリスクの高いテロを仕掛け様とする人々が後を絶たないという)問題を解決する方法はないのだ。
【イスラエルを守ることは国是】
 そのヒントはある。
 実は狭義の「ホームランド」にはイスラエルが入っている。アメリカ人が「我々We)」と言った時は、その中にイスラエルが含まれている。(中略)
 イランが「悪の枢軸」の一つに名指しされているのは、その為だ。アメリカがイスラエルの核保有については不問に付しているのも、(中略)それはアメリカが持っているのと同じことだからだ。
 これはアメリカの政・財・官及びマスコミに圧倒的存在感を誇るユダヤ系市民の考え方そのものであるし、今ではアメリカの国際関係の基礎もこうした国内の政治基盤を中心に成り立っている。(中略)大統領選挙期間中は各候補者が何回も全米ユダヤ人組織に呼び出され、(中略)全米ユダヤ人組織に如何に貢献して来たか、といったことが首実検される。(中略)政治家は”I love Israel”と言わざるを得ない状況に追い込まれていくのだ。
 こうした状況こそ、まずは自省すべきだと思う。

◆第3章◆〔 拡大する”反米・嫌米”包囲網 〕
【国連を無視する我儘な「一国主義」】
 アメリカの狭量さは国連の存在意義をも脅かしている。9・11後のアメリカは国連を完全に切り捨てた。ホームランド・セキュリティ及び一国主義にとって、国連は邪魔だからだ。(中略)
 このアメリカ一国主義の下では、もはや国連は機能し得ないと思う。(中略)もともとアメリカは国連と相性が悪かった。分担金も滞納している。
 とは言え、最近迄は国連の主導権はアメリカが握っていた。基本的には国連協調の枠組みを尊重し、ノーブレス・オブリージュ(=高貴な者が果たすべき社会的責任・義務)の精神で譲れるところは譲っていたから、世界の国々も概ねアメリカを支持していた。だが、ブッシュ以降のアメリカはそう言う許容度と包容力を失い、気に入らなければ国連を無視して単独行動を取る、我儘で傲慢な国になってしまったのである。
【「世界の警察官」から「世界の嫌われ者」へ】
 冷戦が終焉した後、アメリカがsingle hegemonyを確立したことで、新たな抑止力が生まれた。しかし、それはPax Americana(アメリカによる平和)ではない。アフガニスタンとイラクでアメリカの通常兵器の破壊力を目の当たりにした他の国々が、誰もアメリカとは戦いたくない、アメリカに睨まれたくないと考える様になった、という意味での抑止力である。
 言い換えれば、アメリカは「世界の嫌われ者」になってしまったのだ。 (中略) かつてアメリカは「世界の警察官」を自任してしていたが、今は「世界の暴力団」と看做される様になった。(中略)”直系の舎弟”でショバ代(思いやり予算)迄貢いでいるのは日本ぐらいである。(中略)
【「テロとの戦い」という詭弁】
 (前略)ブッシュ政権は「テロとの戦い」という言葉を使っていたが、それは詭弁だ。テロリストの定義は、夫々の国によって全く違うからである。例えば、北朝鮮は韓国と日本以外にとってはテロリストではない。(中略)
【「テロリスト」と「自由の戦士」は紙一重】
 更に言えば、「terrorist」と「freedom fighter(自由の戦士)」は紙一重である。(中略)PLOの故アラファト前議長は紛れもなくテロリストだったが、パレスチナ和平交渉のprocessでアメリカのクリントン元大統領から交渉相手に選ばれ、いつの間にかfreedom fighterと呼ばれる様になった。
 (中略)チェチェン共和国のイスラム系武装勢力も、彼等の側から見れば祖国独立運動をやっている訳だからfreedom fighterだが、ロシアから見ればとんでもないterroristということになる。プーチン首相の賢いところは、チェチェンの武装勢力をterrorisutと呼び、アメリカのブッシュと同じく「テロとの戦い」を遂行しているという論理を全面に打ち出して、チェチェン弾圧に対する国際的な批判を封じ込めていることだ。
 要するに現在の国際世論では、アメリカがterooristと呼んだらterrorist、freedom fighterと認めたらfreedom fighterになってしまうのである。
【無限に生まれ続ける「反米義勇軍」】
 9・11後のアメリカ人は、自分たちが100%テロの被害者だと思い込んで、アラブ、イスラムを敵視しているが、これはボタンの掛け違いも甚だしい。オサマ・ビンラディンやアルカイダも含め、今世界で暗躍しているterroristをもともと養成したのは、紛れもなくアメリカなのである。世界中のterroristのorgin(起源)を調べたら、その大半はアメリカであり、途中から事情が変わって反米になっただけの話である。(中略)
 イスラムと言う抽象名詞で何億人ものグループがterroristと混同され、無作為に殺戮されている。それで憎悪を増幅させた人たちがジハードの義勇兵となって自爆テロを志願する。その無限連鎖になりつつある。(中略)
 こうした”憎悪のメビウスの輪(【筆者注】=憎悪を生み出す無限連鎖)”を断ち切る唯一の方法は、アメリカと旧ソ連がSTART条約の合意に達した時の様なデタント(detente=「緊張緩和」)を、オバマ政権がアラブをはじめとするイスラム世界との間で可及的速やかに試み、締結することなのだ。(中略)

◆第5章◆〔 敵国なき時代~オバマ外交の連立方程式 〕
【”第3次世界大戦”にも圧勝】
 次にオバマ外交について総括してみたい。
 アメリカは20世紀に三つの世界戦争を体験し、3戦3勝している。
 まず第1次世界大戦。(中略)次が第2次世界大戦。(中略)そして(三つ目が)、核抑止力により実際に戦うことなく終焉した冷戦と言う名の”第3次世界大戦”にも、ソ連の崩壊とともに圧勝した。
 問題は、三つの世界戦争を体験した結果、アメリカが多民族国家を維持していくために、常に「仮想敵」を必要とする体質になってしまったことである。(中略)20世紀の三つの戦争では「アメリカ的なもの」と「非アメリカ的なもの」という対立軸を持ち、それをイデオロギーに置き換えた。つまり、アメリカの信念である「自由」と「民主主義」に対立するものはこれだ、というものを必ず定義する様になったのである。(中略)
 アメリカ政府は国民にくどいほど「三度の世界戦争に勝った」と刷り込み続け(中略)自画自賛している間に、アメリカは世界で唯一の超大国だ、(中略)と驕り高ぶる様になった。
【見えない敵との戦いはエンドレス】
 (ソ連が自壊し、中国も改革開放を猛スピードで推進したことで、アメリカは、緊張による結束を維持するために不可欠な「仮想敵」が見当たらなくなってしまった)
 冷戦終結後の8年間にわたって政権の座にあったクリントン大統領は、明確な敵を作らなかった。ところが、次のブッシュ前大統領は、9・11後、「テロとの戦い」ということで「悪の枢軸」という新しい対立軸を捻り出し、イラク、イラン、北朝鮮を名指しで非難した。(中略)
【アメリカ自身が”テロリスト製造機”】
 例えば、オサマ・ビンラディンが率いるアルカイダは、前述した様に、もともとサウジアラビアとCIAが作り上げたアメリカの傀儡部隊だった。旧ソ連がアフガニスタンに侵攻した時、ソ連軍を追い出してアフガニスタンを独立させるという目的で、背後からアメリカとサウジアラビアが支援していたのである。そこで産み落とされた鬼っ子の様な連中が今、アメリカに反旗を翻しているのだ。そうなった原因は、結局、冷戦終結でアメリカとロシアが仲直りしたために、”職”を失ったアルカイダが、サウジアラビアの政府転覆を企てた時、アメリカが彼等を敵として追い込んだからである。
 要するにアメリカが、味方はサウジアラビアとイスラエルだと決めると、その結果として自ずと敵が出来てしまうのだ。アメリカが抽象名詞の中から敵を作り出して追い込んでいく。すると、その人たちがテロリスト化する。つまり、アメリカ自身が、意図せざる”テロリスト製造機”になっている訳だ。   
 (中略)
【テロ防止産業はどんどん巨大化する】
 (中略)
【セキュリティ対策はもう元に戻せない】
 テロ防止産業やセキュリティ産業は、既に数十兆円規模の巨大な産業に膨張し、それに雇われたロビー団体も出来上がっているから、もはや元に戻すことは出来ない。
  (中略)
 冷戦終結と中国の改革開放によって仮想敵を失ったアメリカは、テロリストという極めて便利な”見えない敵”を作り出した訳である。(中略)「テロとの戦い」はエンドレスなのである。
【今後のオバマ外交の課題】
 オバマは、副大統領に外交に通じたジョセフ・バイデンを選んでいる。国務長官は、ヒラリー・クリントン。彼女は、2009年1月の上院外交委員会で、軍事力だけでなく外交力、経済力、文化影響力等、アメリカの総力を結集した「スマートパワー(smart power)」を駆使して「敵をより少なくする」外交を目指すと表明した。これはオバマ大統領が進める全方位外交、国際協調路線を踏まえたものだろう。これまで私(= 大前)が本書で指摘して来た様な、軍事力にものを言わせた「不寛容なアメリカ」ではなく、「スマート(賢明)なアメリカ」を是非実現して貰いたいと思う。
 更に新しい駐日大使に、そのスマートパワー(ソフト・パワー)の発案者でもあるハーバード大学のジョセフ・ナイ教授を指名しているのも心強い。かつてアメリカは上院で最も信頼されていたマイケル・マンスフィールドや、同じハーバード大学のエドウィン・ライシャワー教授を駐日大使として派遣しているが、それに匹敵する”大物”の登場となる。(中略)
 しかし、スマートパワーというのは手段の問題であって、アメリカの外交目的が変わるものではない。(中略) あくまで、”アメリカの目的を果たすために”軍事だけでなく歴史や文化にも配慮した外交を行なうというものである。アメリカの一国主義が変わるのか、それとも変わらないのか、世界とどの様に付き合って行こうとしているのか、オバマ政権の”染色体”を見極めたい。(中略)
 最後に私(=大前)なりのアメリカに対する復活の条件とアドバイスを補足しておきたいと思う。三つある。
 (1)世界に対して謝る(①アフガニスタン攻撃とイラクの占領について、②アメリカ発の金融危機について)
 (2)世界の一員になる(G20【筆者注】でも何でもいい、国連とは別の新しい枠組みで世界の一員として謙虚に振舞う)
 (3)戦争と訣別する(戦争放棄への提言)
【筆者注】G20=米国、英国、日本、フランス、ドイツ、カナダ、イタリア(以上G7)、ブラジル、ロシア、インド、中国(以上BRICs)、豪州、アルゼンチン、メキシコ、韓国、インドネシア、サウジアラビア、南アフリカ、トルコ、以上19か国とEU。これらの国々合計のGNPは世界の85%、人口は世界の三分の二を占める。

【筆者comment】
▼大前氏は、この後も、【オバマ政権「新モンロー主義」の危険性】のところで、アメリカ国内の産業やアメリカ人の雇用を守ることを優先して、内向き・下向き・後ろ向きの「新モンロー主義」になる危険性を懸念している。
 一方で、オバマ大統領が世界のリーダーとして力を発揮するためには、彼が掲げている「グリーン・ニューディール政策」や、「2050年迄に温室効果ガスの排出量を1990年比で80%削減する」と言う目標の具体化を推進していくことを、彼の名スピーチで熱く語れば大きな効果が期待出来る、とエールを送っている。
 また、〔 第7章「属国か独立か」~日本の選択 〕のところで、日本の今後の進路について、日本はアメリカの実質的な属国に甘んじて生きて行くか、EUやASEANと連携して、アメリカと対峙して行くか、いずれその選択の時期がやって来ると、予言・提言があった。
 大前氏が最後に、アメリカ復活の条件として先に掲げた3つのアドバイスについては、実現に向けてのhurdleは高いが、オバマ大統領の力に期待したいものである。
〔雑感〕この本の面白さを簡略にお伝えしようと思い、抜粋の極小化に努めましたが、なかなか上手く行かず、長文となってしまいました。ご容赦下さい。

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【後記】▼さてさて・・今日は、話が堅くなって、面白くなかったでしょうから、お終いに、ちょっとだけ艶っぽい芸術談義で締め括りたいと思います。
 明後日3月10日は、川柳作家・エッセイストの時実新子(1929.01.23 - 2007.03.10)氏の命日。時実新子氏については、以前一度、《会報》【0121】号~ 「野田弘志展」「山田太一編『生きるかなしみ』から時実新子『私のアンドレ』」にてご紹介しておりますが、「安藤まどか+月刊『望星』編《時実新子の だから川柳》」(東海大学出版会)に掲載されている◆エッセイ◆「いくつになっても”ときめき”を忘れない」の中から、二つご紹介したいと思います。では、どうぞ・・

【そうか夫もさみしかったか旅の鈴】
 1987年、朝日新聞社から出た句集『有夫恋(ゆうふれん)』― おっとあるおんなの恋 ―がべストセラーとなり、川柳界へ女性が雪崩れ込む珍現象を生んだのも、偶然以上の必然だったのかもしれない。そうして96年の月刊『川柳大学』の出発の源ともなった。
 私は、おっとあるおんなのこい、つまあるおとこのこい、を否定しない者である。
 人が生きて、心がピチピチしている限り、どのような出会いがあるかわからない。 恋はその都度新鮮なものなのだ。いくつ何歳になっても。
 ただし、連れ合いに苦痛や悲しみを与えるのは恋の礼儀に反する。何処迄も「秘して貫くときめき」が有夫有妻の恋の基本だと思う。
 それまで罪の意識に苛(さいな)まれていた人々が『有夫恋』によって、「あ、」と自分を解放してくれたのだとしたら嬉しい。

 君は日の子 われは月の子 顔あげよ  新子

 青森県の下北半島に立つこの碑は、そんな私の願いを込めて海に向かって荒い風を受け続けている。雪はこの句を慰めるかに降り積んで、碑を埋め、春また顔を出して、歳月と共に石の彩(いろどり)を深めている。
 矛盾する様だが、私は五十八歳の再婚を微塵も後悔していない。夫婦としての形は今も揺るがず、逆転の構図の中で病む身を夫に護られている幸せ。主夫になり切っている大きな背中に手を合わせている私を知ってか知らずか、「安心せい」と言ってくれる有り難さは、夫婦ならではのものである。
 私がもしあの時六十歳に達していて、女の浅知恵でコイビトというラクな道を選んでいたとしたら、恐らく今頃は他人に戻っていただろう。

 雪こんこ人妻という手にこんこ

【いのち惜し春の野犬の目のように】
 人生の終着駅も近く、私もいささかくたびれた。介護保険の利用や有料ボランティアを薦めて下さる人も多いが、今暫くは家族の情に甘えていたい私は意気地なしだろうか。
 今、私は、神様から一番大きなご褒美を頂いている気がしている。

 この道はいつか来た道わだち照る

 (「時実新子の だから川柳」 2006年3月号掲載)

【筆者comment】
▼時実新子氏は、このエッセイの一年後、肺がんで亡くなった。享年78歳。 「有夫恋」を突き詰めてお話しようとすると、誤解されたりして、話がややこしくなりそうなので、今日は no comment にして置きます。(笑)
 では、また・・。(了)

2009年3月 1日 (日)

【時習26回3-7の会 0227】~「ほんとうの時代2009年3月号から〔松原泰道『生涯修行』〕&〔―近藤 裕―夫婦は『ひとり、ときどきふたり』がいい〕」「〔松原泰道・五木寛之『いまをどう生きるのか』〕と〔五木寛之『人間の関係』〕を読んで」「画業40年 東京藝術大学退任記念『田渕俊夫』展を観て」

■皆さん、如何お過ごしですか。 今泉悟です。 さぁ、今日も《会報》【2637の会0227】号をお送りします。
 先週は「春雨」もあり、「紅白梅」の綺麗な花々に加え、沈丁花の甘い香りが心地よい・・。春の風情を実感できる今日この頃です。
 時節は移ろい、今週3月5日は『啓蟄』。最近の暖かな陽気に、土の中での胎動どころか、這い出して来そうな勢いですね。(笑)

啓蟄の土塊(つちくれ)躍(おど)り掃かれけり  吉岡禅寺洞

【解説】土塊は、地上へ這い出て来た虫や蛙が盛り上げたのものか。土塊が生き物と一緒に春の到来を小躍りして喜んでいる。洒落た俳句である。

 さて、残念乍ら今日も【2637の会】の皆さんからのmailや話題がありませんので、小生が最近読んだ本や、観て来た展覧会の模様をお送りして場を繋ぎます。暫くお付合い下さい。
 それでは、まず最初の話題ですが、前号でお約束した様に、「ほんとうの時代2009年3月号からお届けします。なお、同じくお約束した〔必ず楽になる花粉症対策~『ヨーグルトで花粉症を改善する』〕は紙面の都合で今回は割愛させて頂きます。m(_ _)m

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(1)〔松原泰道『生涯修行』〕
 添付写真をご覧下さい。 松原泰道師(臨済宗妙心寺派)は、近時、五木寛之氏との対談集『いまをどう生きるのか』(致知出版社刊)を上梓していますので、その本と、五木寛之氏の『人間の関係』から、夫々中身の一部を抜粋してお届けします。

◆「頭白きゆえに尊からず」と「老いたるはなおうるわし」◆
 私は今、百一歳でしてね。まさに末期高齢者です。(笑)(中略)歳を重ねる毎に学んで行かなければいけない。これは、私が日頃、思っていることでもあります。
 江戸時代後期の儒者に佐藤一斎という人がいます。この一斎先生、著書の『言志四録』の中で次の様なことを仰っています。即ち「たとい視力や聴力は落ちても、見える限り、聞こえる限り、学を廃すべからず」と。(中略)本当のところ、人間は幾つになっても成長できるし、成長すべきであるとも思っています。歳を重ねたから尊い訳ではなく、歳を重ねてもなお道を求めて止まない姿勢こそが尊いのではないかと。
 こうしたことは釈尊も仰っていて、『法句経(ほっくぎょう)』の中に「頭白きゆえに尊からず」という言葉を残しています。
 さらに思い起こすのは、十九世紀末のアメリカの詩人、ウォルト・ホイットマンの詩です。彼の作品の一つに、次の詩があります。

女あり
二人行く
若きはうるわし
老いたるはなおうるわし

 如何ですか。この「若きはうるわし/老いたるはなおうるわし」がとてもいいでしょう。若い時分の天然自然の美しさとは違った、歳を重ね、真心込めて生きて、努力して初めて身につく美しさ。後者のうるわしさを身に着けるには、終生、学んで行くしかない様に思うのです。
〔【筆者注】ここの件(くだり)を「松原泰道・五木寛之『いまをどう生きるのか』」では次の様に言っています〕
 (前略)「若いうるわし」の「うるわし」という字は、漢字を当てるなら「麗」の字が相応しいと思います。「麗人」という言葉がありますが、この「麗」というのは、「生まれついてのすっきりした美しさ」(中略)。これは天の成せる「麗質」です。何もしなくても、そのままで綺麗なんですね。
 もう一方の「老いたるはなおうるわし」ですが、こちらは「美わし」という字が当たると思うんです。その「美」の方は、私に言わせれば、これは自然の美しさではなくて、丹精(丹精真心込めて努力する)の美しさです。人生の丹精、これは仏教で言えば修行ですけれども、それによって滲み出て来る美しさだと思います。
 空しく老いないためには、自分自身の丹精が欠かせません。即ち正しい法を聞き、正しい念(おも)いを深め、自分を調(ととの)えることが大切です。そして自分自身への丹精は死ぬ迄続けなければいけない。そうして初めて意味が出て来るんです。
【筆者comment】
▼松原泰道師は、【感激・工夫・希望の3Kを大切に今日一日を生きる】・・年をとったら自分で厳しくしないと堕落する。だから私は何年か前から「無理をしない」「無駄をしない」「不精をしない」という『三しない』を心がけている、と言い、【肉体的な若さを保つ秘訣は精神的な努力を欠かさないこと】とも仰っている。 
 「百歳まで現役!」を標榜する小生、矍鑠としている松原禅師を是非見習いたいと思います。(笑)
 余談ですが、この「いまをどう生きるのか」の〔第八(最終)章人間の生きる道【起こることすべてがよき人生の機縁となる】の中で、松原禅師が次の様に仰っています。
 「めぐりあわせ。ご縁ですよね。私が釈尊に帰依して仏の道に入ったのもご縁というものです。先日、五木さんのお書きになった『人間の関係』というご本も読ませて頂きましたけれど、人間というのはめぐりあわせの関係で生きている。そして人生というのはめぐりあわせの連続です。そう思わねばね、起こることすべてがよき人生の機縁になるんじゃないでしょうか」・・と。
 ホント、小生もその様に思います。【2637の会】members皆さんとの出会い、就職先、転勤先、配偶者、現在の勤務先、全て「めぐりあわせ」だと思います。そして小生、この「めぐりあわせ」を大切にして行きたいと思います。【2637の会】membersの皆さん、引き続き今後とも宜しく!(笑)
 さてそこで、小生、五木寛之氏の『人間の関係』を紐解いてみました。この本も大変勉強になりました。今日はその中からご紹介させて頂きます。

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【五木寛之『人間の関係』】
◆「思い出」がつなぐ人間の関係◆・・「夫婦は恋愛より友情」から・・
 現代社会では、「思い出」というものを、非常に後ろ向きなものと考える気配があります。(中略)
 一般に「思い出」とは、バーのカウンターの片隅で水割りか何かを傾け乍ら、「あぁ、昔は良かったなぁ」と考えている、そんな情けない感じがあるのですが、本当にそうでしょうか。(中略)
 頭の中に沢山ある思い出の抽斗に、全然手をつけず引っ張り出さないでいると、思い出の抽斗が錆びてしまいます。そして、何かを引き出そうとしても動かなくなってしまうでしょう。
 そうではなく、常に思い出の抽斗を開けて、思い出を繰り返し繰り返し咀嚼し、思い出を磨く。そういう中で思い出がより一層クリアに、くっきりと細部迄甦って来る様になるのです。
 思い出を語るということは決して後ろ向きの行為ではなく、人間が生きて行く上で大事なことです。思い出は個人の歴史であり、人間の歴史でもあるのだと、最近つくづく思う様になりました。
◆理解に基づく静かな愛情こそ◆
 その意味で「夫婦」というものを考えてみると、そこには意見の相違や、あるいは感情のすれ違いといった様々な問題があります。
 その中で、三十年、五十年、時には七十年というふうに共に生きて来た人間を繋いで行くもの。その絆は、何だろうと考えてみますと、必ずしも男と女の愛情というものだけではなさそうな気がするのです。
 乱暴な言い方をすれば、恋愛感情だけで夫婦が成り立つとはぼくは思いません。
 そういうものは若い時代に通過して、結婚してからは、伴に家庭を築き、伴に子供を育て、社会人として努力する。或いは商売をなさっている方でしたら、お店を切り盛りするために頑張る。子供が生まれてからもまた様々な苦労があるでしょう。
 一緒に共同の事業を連帯して行く同志としての絆。
 それこそが青年期を過ぎ、壮年期を過ぎ、そして初老期にあってもなお、二人の人間を繋いでいる大事なものではないかと思ってやって来ました。
 夫婦と言えども、所詮は「他人同士」なのではないか。
 恋愛感情というのは深まって行く時もあれば、冷める時もある。それを支えるのは、もっと質の高いもの、夫々の性を抱え乍らも、人間的にお互いを理解することができる関係なのかもしれない。
 夫々に相手を人間として理解し、尊敬しあい、同時にちゃんと評価をする。いいところも悪いところも解った上で、伴に生きて来た年月というものを大切にする。思い出という大事なものを共有し乍ら。それが、人間と人間の関係なのではないでしょうか。
 いつも一緒にいることだけが夫婦の道ではないと思います。夫々が別々の道を歩くこともあるし、別々に暮らすこともあっていい。
 (中略)仏教では時に「愛」についてこう教えています。
 「愛から生まれるもの、それは執着である」
 執着や欲望は、煩悩として人の心を苦しめます。独占欲も生まれて来る、嫉妬心も生まれて来る。それは人間的と言えば人間的なのですが、その苦しみから人間は抜け出さなくてはならない。
 穏やかで、透明で、永続的で、覚悟の定まった人間関係というものを、仏教の考え方は暗示していると思うのです。
 どれだけ早く、結婚前の恋愛感情から、お互いを理解し、尊重出来るヒューマンな友情に切り替え、成長して行くことが出来るか。夫婦の関係とは、この点に尽きそうな気がしてなりません。
 相手に対して、理解に基づく静かな愛情が生まれた時、それは永続的なものとなる。そして、人生のパートナーとしての相手が、そこに見出された瞬間でもあるのです。(以下略)

■続いても、定年後の夫婦二人の暮らし方、あり方についての話題です。(笑)
(2)〔「夫の自立・妻の自立のすすめ~夫婦は『ひとり、ときどきふたり』がいい」―近藤 裕―〔マリッジ・カウンセラー〕〕
◆「既婚シングル」で生きてみませんか◆
 子育てを終え、仕事も定年によって夫婦が共に過ごす時間が増えた段階で、改めて、自分のパートナーが「異星人」(異性人)であったことに気付かされ、戸惑いを感じる人が少なくない。考え方の違い、コミュニケーションの違い、性的ニーズの違い、心理的ニーズの違い、感じ方の違いなどに驚かされるのだ。中でも、コミュニケーションのギャップに戸惑い、悩む人が多い。
 心理的にも、フィジカルにも距離が広がった状態の関係を長年に亘って続けて来たカップルは、まるで異なった星の人間に変身し、語る言葉が通じなくなってしまっている。
 平均寿命が八十歳前後になった今、夫婦が二人だけで過ごす年数が二十年もある。この様な現代の状況におけるわが国の、中高年のカップルが求めている関係はどんな夫婦関係だろうか。
 べったりくっ付いた夫婦関係ではないだろう。かといって、「家庭内離婚」の様な遠い関係でもない。双方が自立し、しかも、自由、信頼、思いやりによって結ばれた夫婦関係が求められているのだと思う。
 そんなモデルとして、私は「既婚シングル」とういう夫婦像を描いている。この「既婚シングル」というモデルは、既に『既婚シングルの時代~新しい夫婦像を探る』(PHP研究所(1988年))において詳しく論じる機会を得た。二十年前のものだが、改めて読み直してみて、そこで述べ、訴えていることは今も変わらない。(中略)
 「既婚シングル」とうい関係は双方の空間に隙間があって、風通しの良い関係、かといって背中を向け合った関係ではなく、しかも、双方のニーズに応えるために関わり合うことが出来る様な距離にある夫婦関係である。
 そんな「既婚シングル」の夫婦関係を育てるのに役立つ処方箋。次の二つが基本的なもの。
〔1〕定期的に家事などの役割を交換する。また、相手の健康、仕事(趣味、ボランティア等)、状況に応じて臨機応変に対応出来る柔軟性。
〔2〕双方の趣味など別々のネットワークを持つ。二倍の豊かさ、楽しさを人生に齎す。
 この様に、双方が自分のスペース(心理的、物理的)を持ち乍ら向かい合った関係は、(中略)自己の成熟性を求めると共に、相手の成熟性を齎す関係。そのために必要なエネルギーや安らぎ、知恵を出し合い、与え合うことが出来る様な関わり。(中略)
 中高年の夫婦の最大の課題は、「夫婦関係の調整」であると言っても過言ではない。(中略)先ず、夫婦関係の実体を確りと見つめ直し、これから何処に向かおうとしているのかを語り合うことを勧めたい。
 そのためにも、自分を見つめ、自分と対話出来る心のスペースを維持しておくことが必要だと思う。つまり、定年後は「夫婦はひとり、ときどきふたり」という関係がいいのかもしれない。

【筆者comment】
▼五木寛之氏の「夫婦は恋愛より友情」、近藤裕氏の「夫婦はひとり、ときどきふたり」の話を聞いてみて、皆さんはどの様に感じられましたか?
 〔1〕夫婦関係は「友情」で・・。
 〔2〕夫婦双方の空間・時間を尊重し合い、時々は二人で共通なことを楽しむ。
 〔3〕夫も仕事から完全にリタイアしたら、家事の幾つかは公平に役割分担して受け持つ。
 小生は、夫婦関係は〔1〕〔2〕〔3〕かなぁ・・、と。 皆さんは、如何お考えですか? ご気軽にご意見を頂戴できれば幸甚です。m(_ _)m(笑)

012007
0240_20090221

■さて、今日の締め括りは、これも前号でお約束した「画業40年 東京藝術大学退任記念『田渕俊夫』展を観て」です。 展覧会の題目にもある様に、田渕俊夫氏は来月東京藝術大学副学長を退任される。同氏は、1974年から十年余り、愛知県立芸術大学美術学部教授の職にあり、地元愛知県とも縁深い。今回、縁あって、今月23日まで名古屋三越にて開催されていた『田渕俊夫』展を観る機会に接しましたので、【2637の会】membersの皆さんにもご紹介させて頂きます。現代日本画家の泰斗、平山郁夫氏も「田渕俊夫君の個展を祝して」と、祝いの言葉を寄せ、後輩の実力・業績を讃えています。それでは、まず、田渕氏の経歴からご紹介します。
03〔早春〕(1977年)
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04〔清水寺〕(1979年)
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【経歴】
1941年08月 15日、江戸川区小岩に生まれる
1961年04月 東京藝術大学美術部絵画科日本画専攻に入学
1967年03月 東京藝術大学大学院(岩橋英遠教室)を修了。修了制作「水」が大学買い上げとなる。
1970年01月 岡崎佳子と結婚。 同年12月愛知県立芸術大学美術学部(絵画専攻日本画)助手となる。
1974年03月 愛知県立芸術大学美術学部講師となる。
1979年08月 愛知県長久手町に転居。
1984年04月 愛知県立芸術大学美術学部助教授となる。
1985年07月 東京藝術大学大学院美術研究科保存修復技術助教授となる。
1995年04月 東京藝術大学大学院美術研究科教授となる。
2005年01月 中部国際空港貴賓室に「旅立ちの朝」を制作。 同年12月東京藝術大学副学長(現任)に就任。
05〔道〕(1986年)
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06〔緑風〕(1988年)
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▼続いて、平山郁夫氏による「田渕俊夫君の個展を祝して」からその抜粋をお送りします。 平山氏と田渕氏との機縁や、田渕氏の人となりがわかります。では、どうぞ・・

07〔収穫の頃〕(1988年)
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08〔木の間(奈良・当麻寺)〕(1993年)
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 2009年3月に田渕俊夫君が東京藝術大学を定年退官するという。月並みの言葉ながら誠に歳月のすぎゆくことの早さよ、と思わずにはいられない。

09〔旅の窓から 運河(アムステルダム)〕(1994年)
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10〔黒部S字峡〕(1995年)
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 1959年、私は「仏教伝来」を描くことによって画家として自分の歩むべき道を漸く見出すことができた。そして61年、秋の院展に出品した「入涅槃幻想」で日本美術院賞(大観賞)を受賞したことで、これから歩もうとしている道が誤っていないことを確認した。私は東京藝術大学の助手で31歳であった。

11〔出港(伊豆半島)〕(1996年)
111996

 さて、その院展初日のことである。まだ残暑厳しい暑い日だった。「入涅槃幻想」をじっと見入っている一人の青年が目に映った。この青年が、4月に東京藝術大学に入学したばかりの20歳の田渕君だった。

12〔京洛心象 深秋〕(1997年)
12_1997

13〔熱砂の道 アフリカ・マリ共和国〕(1999年)
131999

 縁とは実に妙なもので、あの出会いがきっかけとなって、私は田渕君を意識するようになった。
 田渕君は極めて真面目な学生で、よく研鑽を積まれ、在学中は常にトップクラスの成績を残していた。私が将来を大いに期待していた学生の一人だった。

14〔刻(ロンドンの家並から)〕(2002年)
142002

15〔爛漫〕(2003年)
152003

 1965年、東京藝術大学美術部絵画科日本画専攻を卒業した田渕君は、そのまま大学院へと進み、67年、修了した。修了制作「水」が大学買い上げとなったのは、田渕君の努力に対してといってよいだろう。
 (中略)

16〔祭りの花火(千葉市・土気)〕(2004年)
162004

17〔大地悠久 雲海富士〕(2004年)
17_2004

 田渕君の作風は初期においては、表現的にはタッチのような面で描写する力強い絵であった。やがて院展に出品するようになると、その表現は少しずつ変化して来た。察するに留学体験が純粋な日本画を自覚させたのであろう。そして徐々に、やわらかな気持ちの入った描線を主体に空間を生かし乍ら、叙情的な色彩で表現するようになった。そして、和紙の紙質を生かした透明感、清澄感を抱いた独特の世界を築いたのである。
 (中略)

19〔朝顔〕(2006年)
192006

20〔刻〕(2007年)
202007

 努力は大輪の花となって開花する。近年の田渕君は福井県にある曹洞宗大本山永平寺、続いて鎌倉の鶴岡八幡宮の襖絵を手がけている。聞けば、現在は京都智積院講堂の60面に及ぶ襖絵に取り組んでいるとか。完成、披露は2009年の初めになるという。
(中略)

21〔秋爛(北京・戒合寺)〕(2007年)
212007

22〔春もよい〕(2007年)
222007

 これからは田渕君の力量がますます円熟する時代である。また、次世代の人たちをリードする立場となり、その役割と責任は大である。田渕君の更なる発展と健勝を願うと共にこの度の個展の成功を祈念して、私のお祝いの言葉とさせて頂きたい。

23〔煌〕
23


 2008年 鎌倉にて  平山郁夫

【筆者comment】
▼添付写真は、〔01最近の田渕俊夫氏〕〔02『田渕俊夫』展図録〕〔03~23代表作の20作品〕である。

では、また・・。(了)

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