【時習26回3-7の会 0241】~「2009年【時習26回3-7の会】《クラス会》出欠確認のご案内」「斎藤茂太『モタさんの楽ラク人生術』から」「白州信哉『白州家の流儀』より」「山本健吉『芭蕉~その鑑賞と批評~』から」
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■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0241】号をお送りします。
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今日は、早速ですが、今年の【2637の会】《クラス会》を、まずmailの返信にて「出欠確認」致したく、お願いするものです。
お蔭様で、この《会報》mailは、三十人を超える【2637の会】membersの皆様にお送りさせて頂いています。
ただ、万年幹事としましては、「mailは届いているが、果たして、どれ位の皆さんに読んで頂いているか?」・・。この辺りが全く把握できていません。
なかには、毎週お送りしていますので、一読もされずにspam-mailとなってその儘ゴミ箱に入ってしまっているのも少なくないかもしれません。
そこで今回は、小生、初めての試みで、mailをお送りしている【2637の会】membersの皆さんには「2009年【2637の会】《クラス会》出欠確認のご案内」を、mailにて確認してみようと思い立ちました。
勿論、mailを未だにお送り出来ていない方々には、後日、往復はがきのご案内を出状する予定ですが・・。
従いまして、今回、この《会報》【0241】号のmailの後に、「2009年【2637の会】《クラス会》出欠確認のご案内」を送信させて頂きます。
そして、「出欠の意思表示」をmailにて返信願います。m(_ _)m
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■さて、今日お届けする話題は、まず「斎藤茂太『モタさんの楽ラク人生術』(添付写真ご参照)」から『しあわせ友好術~信頼関係の中で生きる~』の冒頭のところをご紹介します。
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【友人は人生の宝。昔の友も大切にしよう】
まず、「心豊かな人生を送りたければ、いい友達をつくろう」ということについてお話しましょう。
サラリーマンには定年退職があります。私も学校の先生をしていたことがあり、定年退職を経験しました。定年退職を間近に控えている方には「今までの友人関係を維持しなさい」と申し上げたいですね。定年になると急にお友達がいなくなって孤独になる人が多いものですが、人間は一人では生きていけません。いいお友達がいて、励まされたりして生きていくんです。ですから、できるだけ対人関係を維持しましょう。
また、学生時代のお友達というのは良しにつけ悪しきにつけ大事な存在ですから、できるだけ同窓会などにも出席するといいですね。そして、いいところを吸収しながら、昔話に花を咲かせるのもいいかもしれません。(以下略)
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【小生comment】
斎藤茂太氏(1916.03.21 - 2006.11.20)は、小生、従前より度々ご紹介させて頂いていますが、あの著名な歌人で精神科医である斎藤茂吉のご長男で、北杜夫の実兄。氏の話は、流石に精神科医らしく、非常に解り易い言葉で我々に人生を生き抜くための処方箋(=心の持ち方)を教えてくれます。「なるほど」と納得させられる、大変いい助言を与えてくれます。
今回の【友人は人生の宝。・・】も、まさに、小生が日頃から思っていることそのものです。この【2637の会】の立ち上げも、まさにこの【友人は人生の宝。・・】と思い続けて来たものです。ホント、大切にして行きたいと思いますので、これからも皆さん宜しくお願いします。m(_ _)m
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■続いては、最近、「白州信哉『白州家の流儀』(添付写真ご参照)より」という本を読み出しましたので、早速ご紹介してみたいと思います。

白州信哉氏は、父方の祖父母が、白州次郎・正子夫妻、母方の祖父が、評論家の小林秀雄。身内でないと、わからない著名人、白州次郎、正子、小林秀雄のこぼれ話を知ることが出来、興味深く読ませて頂きました。
そこで今日は、その中から、その本の一部をご紹介したいと思います。ご興味のある方は、小学館101新書〔030〕(2009年4月6日初版)ですので、書店でお求め下さい。(^^;)
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【二人の祖父の出会い】
僕(=信哉氏)の二人の祖父である白州次郎と小林秀雄が初めて出合ったのも鶴川の「武相荘」だった。前述した様に、互いに名前は知っていたが会ったことはなかった。終戦後の1946(昭和21)年、当時吉田茂のもとで働いていた次郎のところに、文芸評論家の河上徹太郎さんの紹介で、小林が訪れたのが最初だったという。河上さんは二人の祖父をよく知る共通の友人だった。
次郎と河上さんは同い年で、神戸一中の同級生だった。また、河上夫人と祖母の正子は古くからの友人で、軽井沢の河上さんの別荘と、祖父母の別荘が近かったこともあって、家族ぐるみの付き合いをしていたそうだ。(中略)
小林が訪れた用件とは、吉田満氏の著書『戦艦大和の最期』の出版許可が下りないので、GHQに頼んで欲しい、というものだった。小林は鶴川の家に上がると、暖炉の前に座っていた次郎に向かって挨拶もそこそこに、早口で事の次第を話し始めたという。
吉田氏は東大在学中に学徒動員され、海軍少尉として片道分の燃料しか積んでいない戦艦大和に乗り組み、沖縄に出撃した。このとき「大和」は撃沈されたが、吉田氏は奇跡的に生還することが出来た。彼はその体験を父親と面識のあった作家・吉川英治氏に話し、薦められる儘に書き上げた。それが『戦艦大和ノ最期』だった。小林は一読してこの本は日本のために出版すべきだと思った。それは、この本にはありの儘の戦争体験が書かれていて、本当の意味での”反省”になっていると考えたからだ。しかし、GHQが出版を許しそうにないので、次郎の力を貸して欲しいということだった。
その時の様子を正子は『白州正子自伝』(新潮社刊)にこう書いている。
「今、どうしても出版しなければならない本なのだ。よろしく頼む。――会談はそれだけで終わった。小林さんと単刀直入の話しぶりは気持ちよく、初対面の人間を全面的に信用している風に見えた。白州はそういう人間が好きだったから、話は一発できまり、必ず通してみせると胸を叩いた。あとは酒宴となり、世間話に打ち興じたが、著者の吉田満のことを小林さんが、『そりゃもうダイヤモンドみたいな眼をした男だ』と、一言で評したのを覚えている」
その後ほどなくして『戦艦大和ノ最期』は出版されたが、男の出会いとはそうしたものだろう。
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【後記】

■今日の締め括りは、「山本健吉『芭蕉~その鑑賞と批評~』(添付写真ご参照)」から、今の時節にあった季語『五月雨』を扱った句を三句お送りしてお別れしたいと思います。
山本健吉氏のこの『芭蕉~その鑑賞と批評~』は、芭蕉俳句の優れた芸術性を解り易く解説してくれている。久々にいい本に出会うことが出来た。これからの短夜にじっくり読み込んでいきたいと思う。
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五月雨に かくれぬものや 瀨田の橋 (曠野)
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元禄元(1688)年大津に滞在中の作。大づかみに掴んだ、瀬田の唐橋の大景である。其角が『雑談集』に、「八景を忘ぜし折から、此一橋を見付たる、時と云所といひ、一句に得たる景物のうごかさざる場を、いかで及ぬべきや」と言っているのに尽きる。五月雨が湖辺の風景全ても濛々と降りかくしているなかに、ただ一つの長蛇の如く、瀬田の橋が横たわっているのである。「隠れぬものや」とは、一見概念的な表現であるが、それがかえって、具象的な描写よりも利いている。大景を描くには、余計なニュアンスの伴わない裸形の言葉の方が、効果を発揮することが多い。琵琶湖それ自身が大景であるが、その中にこまごましたものは、一面の煙雨に消されて、橋だけが墨一色の景に浮かび上がっているのだ。
似た様な例に、
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五月雨の 降りのこしてや 光堂
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があり、さらに渾然とした表現に達したものに
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五月雨を 集めて早し 最上川
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がある。この三句は、中七がやや概念的な表現で大景の中核を掴み、座五に固有名詞を据えている点で、似ている。だがこれらの土地の名は、みな和歌的な情趣を引きずった歌枕ではない。中では「瀨田の橋」が一番印象に詠まれてはいるが、ここでは土地の名の持つ歴史的連想よりも、風景的・形態的連想の方が重視される。その点から言って、この句は写生的発想の句であって、芭蕉特有の歴史的意識に伴うイメージの重層化はない。あるいは、芭蕉の意識にあったとしても、この句にその表現の所を得ていない。この句の平面描写を救っているものは、結局「隠れぬものや」という、概念的であるが故に、直接的・断定的でもある、力強い把握である。この七字に、芭蕉のウィットさえ、見る人は見るであろう。(以下略)
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(了)

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