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2009年9月の4件の記事

2009年9月28日 (月)

【時習26回3-7の会 0257】~「寺島実郎『脳力』の中から」「冨安風生『大正秀句』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0257】号をお送りします。
 時節は、「秋分」。彼岸も過ぎ、朝夕は本当に涼しくなって参りましたが、皆さんお元気でお暮らしですか?
 「一週間位じゃ変わらん!」・・そう、毎日大きな変化がないことは幸せなことかもしれませんね。
 世界、日本国内に眼を転じて見ると、それなりに大きな事象が起きています。
 今月に入ってから、主だったニュースを振り返って見ますと、

9月13日:
◆マリナーズのイチロー選手、レンジャースとのダブルヘッダー第2戦、2回の第2打席で遊撃へ内野安打を放ち、メジャー史上初となる9年連続200安打を達成。因みにイチロー選手は1973年10月22日生まれ。まさに我等【2637の会】が【3-7】現役時代の昭和48年10月生まれなんですね。そして、身長180cm、体重77kgとのこと。
9月24日:〔 因みに、この日は、小生54歳の誕生日。←こんなこと、どうでもいい・・。〔笑〕 〕
◆〔1〕鳩山首相、国連で演説。最近の日本の首相の国連演説の中では、内容が簡潔で解り易くなかなか良かった。首相の英語も大変聞き取り易く、小生は、好印象を持った。以下にその関連記事を添付しましたので、ご興味ある方はご覧下さい。

http://www.asahi.com/politics/update/0925/TKY200909240356.html 

◆〔2〕経営不振に陥った日本航空の再建問題がヤマ場を迎えた。銀行団とともに前原誠司国土交通相と24日面談した日航の西松社長は、政府に公的資金を使った資本注入を要請。
【小生comment】
■自民党政権の瓦解、日本航空の公的資金要請。 両者は、今迄、日本国をリードして来た政権、National Flag Carrier である。日本という国が今、旧体制から新体制へ、パラダイム〔 paradigm 〕が大きな変革を求められている。

■さて今日は、【2637の会】関連のニュースはありませんので、上記に関連したことで、小生が今読んでいる本からご紹介させて頂きます。
 その本の名は、寺島実郎著『脳力(のうりき)のレッスン〔正気の時代のために〕』です。
 実は小生、今月16日、名古屋であった寺島実郎氏の講演を聞いて来ました。
 氏の記事は、文藝春秋2009年10月号にも載っていますので、お読みになられた方も少なくないと思います。
 寺島氏は、正確なdataに基づいた鋭い政治・経済の分析で有名ですね。現在、日本総合研究所会長、多摩大学学長、三井物産戦略研究所会長。
 氏の講演がなかなか良かったので【2637の会】《会報》でご紹介したかったのですが、精緻なdataに基づく鋭い分析で、声も低音でサッサと早めに進んで行く語り口に小生の耳と手、即ち take note がついて行けず、その講演内容をお伝えできませんでした。そこで、氏の最近の著作を探していましたら、少し前の著作ですが『脳力のレッスン』&『脳力のレッスンⅡ』を見つけました。
[01]寺島実郎著『脳力のレッスン』
            [02]寺島実郎氏のサイン
01
02sign

 今日は、そのうち、『脳力のレッスン』〔添付写真[01]&[02]ご参照〕の中から、ごく一部の essence をお伝えします。では、どうぞ・・

〔はじめに〕
 狂気に満ちた時代に正気を保つことは容易ではない。個人ではどうすることもできない時代の空気のようなものがある。後で冷静に考えれば、何故あのような流れを拒否できなかったのか不思議に思える様な流行病に冒される時がある。
 ナチの台頭を許したワイマールのドイツにおいても、馬鹿馬鹿しいほど単純化されたヒトラーの攻撃的メッセージを冷笑しているうちに、抑えがたい潮流に多くの知性が身を沈めることとなった。真珠湾に向かった時代の日本もそうだった。理性的判断を打ち砕く狂気が蔓延していくことを抑制することはいかに困難か、歴史の教訓が語りかけてくる。
 九・一一から三年の世界を覆い尽くした空気、とりわけそれを受け止めた日本の選択は、正に「思考停止」とでもいうべき状態であった。襲いかかったテロへの恐怖心が「力の論理」に結びつきアフガン攻撃からイラク戦争へと突き進む米国に対して、二一世紀の世界秩序のために条理を尽くして向き合うのではなく、「この国を守ってくれるのはアメリカだけだ」という貧困な固定観念の中で、「他に選択肢はない。仕方ないじゃないか」と自ら言い聞かせアメリカを支持して自衛隊をイラクに派遣するという選択をしてしまった。〔以下略〕

〔Ⅳ 文化と歴史の波間に 〕
 不条理に満ち溢れた時代にこそ文化が問われ、歴史への視界が求められる。それこそが我々の思考の重心を下げ、心を静かにするからである。〔中略〕
 生身の人間として時代と向き合うとき、こころに文化の花束を抱くことなく、さらに歴史を振り返って道筋を辿ることなくして元気に生き抜けるものではない。生きているとはそういうことなのである。〔←【小生注】全く同感である。そして、この章の巻頭に紹介されている「魯迅と藤野先生」を、《会報》にて今回から〔1〕魯迅「藤野先生」再読、〔2〕藤野先生の足跡を訪ねて、〔3〕「脳力」について――現代における教養、以上3回シリーズにてご紹介します〕

〔魯迅と藤野先生 ― なぜ日本人は脳力を失ったのか ―〕
〔1〕魯迅「藤野先生」再読
 岩波文庫から『魯迅選集』が出版されたのは、意外なほど早く、1935年(昭和10年)の6月である。つまり、真珠湾攻撃の六年も前に、魯迅の文学は日本に紹介されていたことになる。魯迅が上海で死去したのが1936年であるから、その一年前のことである。詩人の佐藤春夫と中国文学者増田渉が翻訳にあたり、魯迅に手紙を書いて、どの作品を収めるべきか問い合わせたところ、「『藤野先生』だけは入れてほしい」と返事があったという。
 魯迅の「藤野先生」は心を打つ短編であり、日本人として考えさせられる作品である。この作品には魯迅が作家になることを決意した若き日の原点の様なものが語られている。1904年から翌年にかけて、魯迅はその本名である周樹人として、仙台の医科専門学校に留学していた。丁度、日露戦争期であり、魯迅の日本での生活は悲しい思い出に満ちたものとなった。日清・日露戦争を通じた民族意識の高揚が、中国人への蔑視となって魯迅にのしかかった。その中で、仙台医科専門学校の解剖学の藤野厳九郎という先生が寄せた配慮が魯迅の日本留学にとってキラリと輝きを放つものとなった。魯迅の日本語が覚束ないのをみてとった藤野先生は、「講義ノートを持ってくるように」と指示し、授業の度に魯迅のノートに朱筆を入れて添削してくれたというのである。
 ある日、日露戦争の写真を幻灯で見る集会があり、ロシアのスパイという嫌疑をかけられた中国人が群集の前で銃殺されるシーンに、魯迅は衝撃を受けた。同胞が辱められているという思いだけでなく、銃殺を見世物の様に見つめる中国人の虚ろな表情に深い悲しみを覚えたのである。そうした気持ちが、次第に魯迅の気持ちを「医学でなく、文学運動を通じた中国の覚醒」へと向かわせる。「あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことでない様な気がした。愚弱な国民は、体格が如何に健全であろうとも、如何に長生きしようとも、結局くだらない見せしめの材料と見物人になるだけではないか」と魯迅は述べている。
 仙台を去ることを決意した魯迅に、藤野先生は「惜別 藤野 謹呈 周君」と書いた自分の写真を贈る。この写真を、魯迅は中国に帰ってからも机の前に貼って、終生手放さなかった。「夜ごと、仕事に倦(う)んで怠けたくなる時、仰いで灯火の中に、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚の酷い口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる」と魯迅は書いている。
 魯迅が藤野先生を書いたのは、1926年であり45歳になってからのことであった。したがって、「藤野先生」の話は、正確な事実というよりも、魯迅の作家としての脚色も加わったものであろう。しかし、「藤野先生」という作品は、魯迅が現実に巡り合った一人の誠実で生真面目な日本人の存在を際立たせ、今日においても日中両国における高校の教科書に採用されることを通じて、百万回の「日中友好」のスローガンよりも心を熱くする素材となり続けているのである。魯迅は、日本の中国への侵攻を批判し、中国の覚醒と「抗日運動」をリードする存在であったが、終生の友人であった上海の日本書籍店主、内山完造には、「日本の全部を排斥しても、あの真面目という薬だけは買わねばならぬ」と語っていたという。その時、魯迅の脳裏をよぎっていたのは藤野厳九郎の表情だったことは想像に難くない。
 藤野厳九郎について、私は何回か新聞・雑誌に書いてきたが、関心を惹かれるのは、藤野厳九郎が「市井の人」だということである。彼は歴史に名を残した偉人ではない。41歳の時に、仙台の医科専門学校が東北帝国大学の医科となり、愛知医学校しか出ていなかった藤野は教授に認定されず、やむなく故郷福井に帰り、一生を村医者として送った人である。そして、終戦の年の1945年夏、往診の途中で倒れ、71歳の生涯を終えた市井の人である。そんな人が、一人の中国人留学生に示した配慮が日中間の温もりとなって残っているのである。1998年秋に来日した、江沢民国家主席はあえて仙台を訪問し、東北大学医学部に残る古い教室に立って、魯迅と藤野先生を偲んだ。
 魯迅と藤野厳九郎の話を追いながら、北京や上海の魯迅博物館にも足を運んだが、絶えず気持ちの中にあった疑問は、何故「藤野厳九郎は藤野先生になったのか」ということであった。つまり、どうして市井の人が、日常性の中で一人の中国人に温かい思いやりを示す人物たりえたのかという疑問であった。
〔 以下《会報》次号に つづく 〕

【後記】■今日の締め括りは、《会報》前号でご紹介した飯田蛇笏の作品「芋の露連山影を正しうす」についての続きである。
 小生の愛読書である「新版 日本秀句」シリーズの中に「6 大正秀句〔冨安風生著〕」というのがある(添付写真[03]ご参照)。
[03]冨安風生著『大正秀句』 
             [04]冨安風生    [05]飯田蛇笏
03
04
05

 冨安風生氏は、【2637の会】《会報》【0163】号〔2008.03.20掲載〕他で何回かご紹介している、我等が母校時習館〔旧制愛知四中、豊橋中学校第4回〔明治36(1903)年卒〕〕の大先輩。本名冨安謙次。1929年「ホトトギス」同人。時習館高校美術科教諭であった冨安昌也先生のお祖父上の末弟にあたる。
 この本で風生氏は、「飯田蛇笏」のところで、「俳句作家が〔【小生注】芥川龍之介という〕文学の専門家からこれほどの理解をもたれる例はザラにはない」と讃えた後、次の様に述べている。

 蛇笏の遺した大きな句業績のうちから、強いて一句を挙げねばならぬとしたら

  芋の露 連山影を正しうす  蛇笏

とすることに、何人も異存はないであろうし、全く頭の下がる一代の秀句である。あたかもそれは大正三年の作でもある。〔中略〕
 蛇笏は明治37年、19歳の時、志を文学に立てて早稲田の文科に入学した。学問を捨てて郷里に帰ったのは24歳の時である。遊学中早稲田においては高田蝶衣の後を受けて早稲田吟社の首脳であったが、詩も熱心であったし、小説にも関心があった。一口に言って思想的に当時の自然主義の影響の下にある一文学青年だったのである。〔中略〕〔【小生注】・・と紹介して次の様に締め括る・・〕
 ――わたしは蛇笏と同庚〔(どうこう)=おないどし〕であり、わたしがわずかに十日早く生まれているだけである。
 飯田蛇笏。明治18年4月、山梨県生。昭和37年病歿。77歳。
〔【小生注】「大正秀句」執筆時、風生氏は80歳〔昭和39年刊行〕。風生(1885-1979)氏享年94歳。冨安昌也(1918年生)先生も今年御歳91歳、ご壮健でいらっしゃる。〕

では、また・・。(了)

2009年9月21日 (月)

【時習26回3-7の会 0256】~「9月18日:『時習26回卒業35周年記念旅行』~渡辺さんから『記念DVD集』の感想を頂戴しました・・」「9月18日:『アンドレ・ワッツ、ピアノ・リサイタル』を聴いて」「飯田蛇笏&原石鼎の『露』の句」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0256】号をお送りします。
 今日は、小生にとってまずは大変嬉しいニュースを一つお伝えします。
 実は、9月18日夜、【2637の会】memberの渡辺S○子さんから、去る6月13~14日に挙行された『時習26回卒業35周年記念旅行』の『記念DVD集』について、ご覧頂いた感想mailを頂戴しました。
 それでは、早速ですが、渡辺さんからのmailをご紹介させて頂きます。

 渡辺さんへ
 感想mailをありがとうございます。
 DVD制作者として、報われた気持ちで嬉しく思います。
 〔 尚、この記事をアップすることについて、渡辺さんのご了解を得ております〔為念〕 〕

 Sent: Friday, September 18, 2009 11:08 PM
 Subject: 感動しました

 今日拝見させていただきました。
 素晴らしいですね。
 想像してたのと全く違ってビックリです。
 どうやったらあんな風に写真が次から次へと変わっていくのですか?
 凄いですね。
 かなりパソコンの腕も上がりましたね。
 特に良かったのが、2部で、解説付きで分かりやすかったです。

 新居の関所は以前から近くを通ることはあるのですが、まだ行ったことがないのです。
 吉田藩の管轄になっていたなんて知りませんでした。
 三ケ日では新城方面からお嫁に来た人が多いと聞いた事があります。
 関所が絡んでいたんですね。
 そうそう、「お食事処『魚あら』」に行って来ました。
 「活海老天丼」食べました。
 美味しいですね。

 それにしてもあんなに沢山の写真撮ってたら、食べる時間無いのも分かります。
 みんなの笑顔良かったですね。
 ご苦労様でした。
            ・・渡辺・・
【小生comment】
 渡辺さん、本当にありがとう。
 折角の『卒業記念旅行』ですから、いい想い出にしたいと思って、『DVD制作』、拘ってみました。〔笑〕
 渡辺さんが・・
 「どうやったらあんな風に写真が次から次へと変わっていくのですか? 凄いですね。」
 ・・のところは、今は、とても便利なDVD作成ソフトがあるのですよ。
 基本的には、それを活用させて頂いただけなんですけど・・。
 折角なので、旅情や郷愁を呼び起こす様に工夫はしてみました。
 それが、渡辺さんが次の様に仰っていた・・
 「特に良かったのが、2部で、解説付きで分かりやすかった」のところの・・「walking course 旧東海道をゆく~『舞坂宿から新居宿へ』」です。
 これについては、従前よりこの【2637の会】《会報》でちょくちょくご紹介させて頂いています・・、谷山君〔旧【3-3】〕と中嶋君〔旧【3-2】〕とでやっている、分不相応に『賢人会』〔=かみさん等は『変人会』と=〕と称している「『城址&史跡&温泉巡り』の会」の模様と同じ感覚でご紹介させて頂きました。小生が創った俳句「夏霞 舞坂を発ち 新居宿 」を挿入したりして・・。〔笑〕
 「そうそう、「お食事処『魚あら』」に行って来ました。 活海老天丼食べました。 美味しいですね。」
 ・・『魚あら』の天丼・・これは本当に美味しい天丼でしたネッ。
 【【2637の会】membersの皆さんへ】
 舞阪に行かれたら、是非お立ち寄り下さい。〔笑〕
 菰田君、竹内君は、『魚あら』の天丼の味は如何でした?

 そして・・、
【豊橋市内と豊橋近郊にお住まいの【2637の会】membersの皆さんへのお願い】・・です。 
 5年後の次回は、豊橋組で小生が取纏め役の幹事を仰せつかっていますので、【2637の会】membersの皆さんで、是非とも豊橋と豊橋近郊にお住まいの方々にお手伝い頂きたいと思います。 その時期が近づいた時は、改めてお願いしますので、宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m

01piano_recital_program_090918

■さて続いては、小生、先週末18日の夜、名古屋にある愛知県芸術劇場コンサートホールで開催された「アンドレ・ワッツ『ピアノ・リサイタル』」に行って来ましたので、その模様をお伝えします。
 その日購入したprogramに掲載されている萩谷由喜子氏のessay「連鎖の中のアンドレ・ワッツ」が印象的でしたので、その抜粋をご紹介します。

 1963年1月31日、ニューヨーク・フィルハーモニックのサーズディ・イブニング・コンサートには、絶頂期のグレン・グールドの出演が予定されていた。
 ところが、当日になって「急病につき出演不能!」との連絡が入る。けれども、ニューヨーク・フィルの音楽監督レナード・バーンスタインは些かも慌てなかった。彼の頭には、一人の精悍な少年の顔が浮かんだからである。二週間前、バーンスタインは自ら企画している「青少年の為のコンサート」のsolisteにその少年を抜擢したばかりで、その時から、彼が将来、世界のTop pianist10指に入る存在になることを確信していたのだ。
 「よし、彼を呼ぼう!」
 〔中略〕
 開演間際に駆けつけて来た少年こそ、16歳7ヶ月のアンドレ・ワッツ。〔中略〕 ワッツ少年は、目の覚める様なリストのピアノ協奏曲1番の演奏でorchestra 、聴衆を圧倒する。〔中略〕 彼はこの日を境に「世界のヴィルトゥオーゾ」の階段を上がって行く。
 〔中略〕
 今から10年前、1999年にもこんな話がある。
 舞台はシカゴ交響楽団の夏の本拠地、シカゴ近郊ハイランドのラヴィ二ア公園。
 この野外コンサート・ラヴィ二ア音楽祭の或る日、音楽監督クリストフ・エッシェンバッハのもとに17歳の中国人少年が audition を受けにやって来た。人なつこい童顔のその中国少年は、古典から近代まで難曲を次々と鮮やかに弾き、エッシェンバッハを瞠目させた。〔【小生注】その中国人少年が弾ける協奏曲数は30曲。うち20曲は暗譜しているという。そして、高熱で倒れたピアニストの代役をエッシェンバッハがこの中国人少年に頼んだのである。〕
 〔中略〕
 それからの24時間は Cinderella story そのものだった。チャイコフスキーの協奏曲を快演したその少年ラン・ランは、演奏が終わるや、3万人の聴衆の standing ovation を受ける。〔中略〕〔【小生注】その演奏会終了後の partyで、エッシェンバッハはラン・ランに J.S.Bach の『ゴルトベルク協奏曲』を request した。この曲と言えば・・〕あのグレン・グールドの代名詞。そして、そのグレン・グールドの pinch hitter を務めたことから国際的な career が始まった pianist こそ、今夜、急病に倒れたアンドレ・ワッツだったのだ。
 〔中略〕
 4年後の2003年、かつてホロヴィッツが愛奏した古いピアノを弾いていたラン・ランは、薄くなった鍵盤をいつもより力を込めて打鍵していたところ、指の腱を損傷して、医者から1ヶ月間の安静を命じられてしまった。
 無念のコンサート・キャンセル。打ちひしがれた彼のもとに一本の電話が入った。
 「君の代役を頼まれた。今度は君の代わりを務める番だ。十分に養生してくれたまえ!」
 受話器から聞こえてきたのは、あの伝説的代演から40年間に亘って、しなやかなヴィルトゥオジティと独特の elegance で世界を魅了し続ける巨匠アンドレ・ワッツ〔 Andre Watts 〕の温かな励ましだった。〔了〕

【筆者comment】
 添付写真の program 〔曲目一覧〕をご覧下さい。
02piano_recital_090918

*
 モーツァルト ロンド二長調K.485 & イ短調K.511
 シューベルト 楽興の時 第5番、2番、3番
 シューベルト 幻想曲ハ長調「さすらい人[ Wandererfantasie ]」
      ◇ 〔休憩〕 ◇
 リスト 巡礼の年 第3年 から 「エステ荘の噴水」
 リスト 3つの演奏会用練習曲 から 第3番変ニ長調「溜息」
 ショパン 練習曲 op.10-9、op.25-7、op25-1「エオリンハープ」、op.25-12「革命」
 ショパン バラード第1番 ト短調 op.23

 今回の演奏会は、まずアンドレ・ワッツ〔 Andre Watts 〕の選曲の良さに魅せられた。
 彼は、確かな技術力を base に、骨太の演奏を見せてくれ、ピアノの名曲を堪能出来た。
 まず最初の2曲、W.A.Mozart の生演奏は、 《会報》【0222】号でご案内した「2009年1月23日:愛知県芸術劇場『ランラン・ピアノリサイタル』以来であったが、ワッツの演奏は、名曲の聴き所を確りと聴衆に伝えてくれて素晴らしかった。
 そして、続いての曲・・、大変有名な Schubert の小品「楽興の時 第3番」や幻想曲「さすらい人」を聴き、暫し夢見心地に・・。〔笑〕
 更に、recital 後半の曲目は全て名曲ばかりで、印象派音楽の先駆けとなった、まさに Debussy や Ravel の曲を彷彿とさせる Liszt の「エステ荘の噴水」。そして、同じく Liszt の練習曲第3番「溜息」。この「溜息」を聴いてこちらも感動して思わず「溜息」を漏らした。・・〔笑〕
 続いての Chopin の練習曲も「エオリアのハープ」「革命」で感動し、終曲は同じく Chopin の究めつけの名曲「バラード[ Ballade ]第1番」。
 この日は、ワッツによる、至れり尽くせりの数々の名曲の生演奏を、彼の演奏する piano から7~8mの至近距離で聴けたため、会場を後にしても暫くの間、感動を胸に載せた儘帰ることが出来た。〔笑〕

【後記】■さて今日の締め括りは、前号にてご紹介した『露』を theme にした第二弾。飯田蛇笏〔1885-1962〕と原石鼎〔せきてい〕〔1886-1951〕の作品をご紹介する。2作とも溜息が出るほどの名句である。

 芋の露 連山影を正しうす  飯田蛇笏

【解説】山本健吉は、著書『定本 現代俳句』で次の様に述べている。
 大正3年作。作者が数え年三十歳の時の句である。
 現代の俳人の中で堂々たるタテ句を作る作者は、蛇笏をもって最とすると、誰かが書いていたのを読んだことがあるが、そのことは、何よりもまず氏の句の格調の高さ、格調の正しさについて言えることである。
〔中略〕
 この句は初期の代表作であるが、若年にして確乎たる蛇笏調を打ち立てているのを見るのである。里芋の畑は近景であり連山は遠景である。爽やかな秋天の下、遠くくっきりと山脈の起伏が、形をくずさず正しく連なっている。倒影する山脈の姿も正しく起伏を描き出しているのであるが、「影」はまた「姿」にも通ずるのである。澄み切った秋空に、連山が姿を正すかの様に、はっきりと、いささかの晦冥〔かいめい(【小生注】くらがり)〕さをとどめず、浮かび上がっているのである。「芋の露」は眼前の平地の光景であり、かなりの拡がりを持った眺めである。広葉の露に、秋の季節の爽涼を感じ取ったのである。
 秋の山容を表現して遺憾がないと言うべきであろう。「影を正しうす」とは、また彼自身の心の姿でもあったのである。

【小生comment】
 この句は、本当に格調が高い名句である、と思う。眼前に見える里芋の広葉の上の「露」と、遠くにくっきりと晴れ上がった秋空の下に姿を見せる連山との巧みな contrast。この絵画的な色調の美しさと、遠近感を間近に実感できる立体感の妙。そして、秋の季節の爽涼感を感じた作者自身の凛とした心境・・。詠み手に「俳句の素晴らしさとはかくなるものぞ」と教えてくれる。

 蔓〔つる〕踏んで 一山〔いちざん〕の露 動きけり  原石鼎

【解説】水原秋櫻子著『近代の俳句』では、次の様に紹介している。
 暁まだ暗いうちに山に登りはじめた。提灯も持たず、薄明かりに細道を求めながら辿ってゆくのである。山気〔(さんき)【小生注】山中特有の冷えびえとして冷たい空気〕が非常に冷えているのは、恐らく木々にも草にも一面に露が降りているためであろう。あたりは実にひそかで鳥の鳴く音も聞こえない。それでも木の間を透かして見える空が次第に白んで来て、今日も好い天気になるらしい。
 一つの蔓を踏んだだけで山全体の露が動く――ということは、考えようによっては大なる誇張と見られるかもしれぬ。しかし私はこれを誇張とは感じない。それは作者が本当に受けた感動をそのままに詠んでいるからで、作者としては微塵も嘘はなかったのである。
 これだけの小さな事から、秋山全体の鼓動を聞き得るところに俳句の面白さがある。簡素ながら大きな力を持つ句で、当時の俳壇に強い感銘を与えたであろうと思われる。

【小生comment】
 大正2年作。吉野山時代の句で、作者はその時数え27~8歳。俳壇に屹立した水原秋櫻子の言葉であるからではないが、この句も、僅か十七文字で、「蔓を踏む」という些事から「一山の露〔の全て〕が動く」と表現して、詠む者に不思議な共感を与える、俳句が持つ面白さを素直に表した秀句である、と思う。
 それにしても、蛇笏といい、石鼎といい、大正2~3年の、まだ数え年で若干30歳、27~8歳の頃の作品だと知り、やはり著名な俳人は若い時分から名作を世に出しているのだなぁ、と感心した次第・・。
 では、また・・。(了)

2009年9月13日 (日)

【時習26回3-7の会 0255】~「『時習26回卒業35周年記念旅行』記念DVD集配送完了のご報告」「【2637の会】《クラス会》会計報告」「『時習館高校数学選手権日本一、二連覇!』」「白露の時節に合う露の俳人『川端茅舎』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0255】号をお送りします。
 今日最初の話題は、掲題・副題にあります通り「『時習26回卒業35周年記念旅行』記念DVD集配送完了のご報告」です。名古屋幹事の黒柳M利君から、昨日〔9月12日〕夕方小生宛に、同日昼、DVD配送完了した旨の連絡mailが来ました。「卒業35周年記念旅行」に参加された、菰田君、竹内君、山中(高木)さん、渡辺さん、大変お待たせしました。
 皆さんのご自宅には、先週お伝えした様に14(月)~16(水)に届く予定です。
 到着したら是非一度はご覧頂いて感想を下さい。お願いします。m(_ _)m

 以下に、「記念DVD集」発送の件で、時習26回生掲示板「不老荘」に本日アップした内容を転記します。ご覧下さい。

◆◇◆時習26回卒業35周年記念旅行参加者79名の皆様へ◆◇◆

 私は「記念DVD集」の制作者です。
 昨日、去る6月13~14日にかけて舘山寺山水館欣龍他にて開催された「卒業記念旅行&懇親会」につきまして、名古屋幹事のK柳君〔旧【3-6】〕から連絡があり、掲題の通り「記念DVD集」を出席者全員の皆様宛に配送手続きが完了した旨連絡を頂戴しました。
 参加者の皆様のお手許には、早い方で明日9月14日(月)、遅い方でも16日(水)には届く予定です。
 制作者の独断により、撮影・編集させて頂いた全900枚強のsnap shotsと、名古屋幹事の諸氏からお預かりした写真を編集し、重複分を含め、950枚強のsnap shots、そして、青春時代の名曲14曲をBGMとして全五章形式に編成しました。総収録時間は56分強になります。
 1時間近い時間も、名曲と皆さんの笑顔等を見聞きしているうちにあっと言う間に過ぎ去ること受け合いと思われます。〔笑〕〔汗〕
 当初は、第四章形式にて編集しましたので第四章が終了すると一度〔完〕の案内が出ます。
 しかし、名古屋幹事の皆さんに、先月8月初旬に視聴して頂いた際、追加でいいから二日目の模様を第五章に入れて欲しい旨依頼があり、
 ~〔DVD制作者の私は、所用があり二日目の早朝には帰宅させて頂き、同日のsnap
shotsを撮影しておりませんでした〕~
 第五章〔追補〕を追加させて頂きましたので、第四章が終わっても、引続いてご覧下さい。因みに、Indexは以下の通りです。
〔01〕最近の時習館高校と我等が卒業アルバムから〔05分〕
〔02〕optional course / walking course / 旧東海道をゆく~『舞坂宿から新居宿へ』〔16分〕
〔03〕懇親会~一次会&二次会〔13分〕
〔04〕懇親会~三次会〔15分〕
〔05〕記念旅行二日目~奥山半僧坊&旅行初日のバドミントン組&みんなの笑顔〔07分〕

 尚、「記念DVD集」の説明書にも記しましたが、このDVDは、DVD-R仕様のDVDデッキか、パソコンを使用〔=再生〕願います。また、たまに第三章が終了した段階で最初のIndex画面に戻ってしまう場合があります。
 ~〔巻頭のIndexは、全五章のうちの第01・02・03しかdisplayされていません。〕~
 その場合は、巻頭のIndexの第三章をクリックした後、〔>>|〕ボタンで第四章まで進んで下さい。あとは自動的に最後の第五章まで進みます。
 それから、
 【今回の卒業記念旅行に参加されていない時習26回の皆さんへのお知らせ】です・・
 この「DVD集」を欲しい方は、名古屋幹事のK君〔旧【3-6】〕までご一報下さい。
 ~〔K君に了解をとってありますので〕~
 準備ができ次第、可及的速やかにご希望の皆さんのご自宅にお送りさせて頂く様、記念DVD制作者が増刷でも何でもしてしかるべく対応させて頂きます。
 さて、添付写真3枚は・・
〔左〕「記念DVD集」巻頭のIndex
 ※「記念DVD集」の本物でこの場面が出てきましたら、一番左の窓〔001〕をクリックして下さい。「記念DVD集」がstartします。
〔中〕第四章の終わり近くに表れる Ending roll です。
〔右〕第五章〔追補〕:記念旅行二日目~巻頭の画面です。
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 ※この「記念DVD集」では、懇親会参加者79名のお顔の直ぐ側にご芳名を記してありますので、参加者全員の皆さんの顔と名前が即座に解ります。楽しみにしていて下さい。
◇◆◇「記念DVD集」をご覧になられた方々へのお願い◇◆◇
 ※是非、感想をお寄せ下さい。この不老荘へのアップで・・
  お待ちしております・・m(_ _)m

■さて、今日続いての話題は、掲題・副題にあります様に先月開催した【時習26回3-7の会】《クラス会》の会計報告です。
 厳密に言いますと、参加者皆さんにお送りする予定の写真DVD〔or CD〕集をまだ制作&送付しておりませんので、仮の会計報告となりますが・・。(笑)

   〔 詳細は省略させて頂きます 〕
〔1〕収入の部 ******円 〔①〕 < 〔2〕支出の部 ******円 〔②〕
 以上の様に、会費は使い切りました。 ∴繰越金額はゼロ円です。(^o^)/

■続いては、「『時習館高校数学選手権日本一、二連覇!』」のニュースです。
2009

8月19日、21日、27日に開催された〔全国数学選手権大会の団体戦『マスバトル部門』」で時習館高校SSH数学部が大会第一回目の昨年に引き続き連続優勝を成し遂げた、と9月5日付の地元新聞に掲載されました。
 ホント、凄いですねぇ・・。 我等が後輩の奮闘に心より敬意を表したいと思います。我等の後輩達の栄えある姿を添付写真でご覧下さい。





【後記】
■さて今日は、「露」をthemeにした俳人の話をお伝えして締め括りとしたいと思います。
 このところ、朝晩、めっきり涼しくなって来ました。時節の移ろいの確かさ、速さを感じます。
 暦の上では、5日前の9月7日が二十四節気でいう『白露』。 通勤途上、清々しい秋風に誘われて空を見上げると、羊雲やうろこ雲が浮かんでいる・・。その情景は、まるで青く澄み切った大きなカンバス〔canvas〕に描かれたセザンヌやピサロの絵の様だ。
 一方、道端のススキの葉先に眼を転じると、「露の玉」が一つ・・。
 秋の風物詩となる「露」は、二十四節気には『白露』と『寒露』と二度も出て来る秋の季語の定番である。
 そして、この「露」で思い浮かべる俳人と言えば、「川端茅舎(ぼうしゃ)(1897.08.14-1941.07.17)」。齢43歳でこの世を去ったが、ホトトギス派の同人として、高浜虚子からも愛された風流人〔添付写真ご参照〕。以下に彼の略歴を記す。
Photo

【略歴】
1897(明治30)年 8月14日、東京都日本橋蛎殻町に生まれる。本名は信一(のぶかず)。異母兄は画家川端龍子〔りゅうし〕。父は紀州藩下級武士。
1903(明治36)年 (06歳)私立有隣代用小学校入学。
1909(明治42)年 (12歳)独逸学協会学校〔後の独協中学校〕入学。
1914(大正03)年 (17歳)この頃より自らの俳号を「茅舎」と名乗る。俳句雑誌『キララ(後の『雲母』)』に度々投稿を始める。西洋絵画も始める。
1916(大正05)年 (19歳)武者小路実篤の「新しき村」の第二種(村外)会員となり、白樺派にも接する。同派の関係から岸田劉生と知り合い、劉生の絵に感動して師事するが、病気の為画業を断念、俳句一本に絞る。
1924(大正13)年 (27歳)11月「ホトトギス」雑詠の巻頭となる。当時、「ホトトギス」の巻頭欄は大変な権威があった。この頃より、京都東福寺正覚庵に参禅し東洋思想を探求。
1934(昭和09)年 (37歳)「ホトトギス」同人となる。同年第一句集『川端茅舎句集』刊行。
1939(昭和14)年 (42歳)『華厳』刊行。この句集の序で、虚子から「花鳥諷詠真骨頂漢」と評され、茅舎の異名となった。この頃より左肺に苦痛を覚える。
1940(昭和15)年 (43歳)09月に新潟医大で検診。同医大には当時高野素十(すじゅう)がいた。
1941(昭和16)年 (43歳11ヵ月)『白痴』刊行。7月17日、東京大森にて病没。

 43歳という早過ぎる死。しかし、その歳にして老成した句を作り得たのは、やはり病気を通じて自分の行方を見つめ続けていたため〔大岡信『百人百句』〕、という。
 話を「露」に戻そう。山本健吉『定本 現代俳句』の川端茅舎の項では次の様に紹介している。

 金剛の 露ひとつぶや 石の上  川端茅舎

 茅舎の処女句集である『川端茅舎句集』は四季別に編纂され、秋の部を最初に据えているが、冒頭露の句二十六がずらりと並んで、まず偉容を呈する。茅舎は生涯にわたって多数の露の句を詠み、露は最も愛着した句材でもあったが、『茅舎句集』の巻頭に秋の部を持ってきたのも言わば開巻露の句を並べたかったからと思え、『猿蓑』における時雨と同じく、露はこの句集の美目を為している。
 岸田劉生門の画家として、彼は静物にじっと見入る眼の忍耐を獲得した。何かとの配合においてものを見るのではなく、ものそのものの形・色・光・重み・位置・大きさ等への凝視が深い感動を導き出すのである。〔中略〕
 茅舎も露の一粒一粒に赤子の姿を見た。茅舎は比喩の天才と言われているが、それはありきたりのものではない。人には見えぬものを見る心眼が彼に比喩を吐かせるのであって、言わば林檎〔【小生注】=の実〕に赤子を見てしまう無垢の眼を持っているだけの話だ。〔中略〕彼は石の上に置いた一粒の大きな露の玉を見つめる。何か造化〔【小生注】天地間の万物が生滅変転して、無窮に〔=果てし無く〕存在していくこと〕の精錬の力が一粒の露に凝集されている様であり、露は渾身の力を以ってその存在に耐えている。露はもはや生まれたばかりの赤子である。「金剛の粒」という比喩がぴったりと言い出され、さらに「露ひとつぶや」と強調され具象化される。石上に凝ったたった一粒の露の玉が豊かな浄土世界を現出する。露と言い石と言い、茅舎が創り出すものは木思石語〔【小生注】=もくし せきご=木が思いを廻らし石が語る汎神論(の世界)・・〕の摩訶不思議の世界だ。〔以下略〕

 草間時彦『俳句十二か月』では、茅舎のこの作品を次の様に紹介している。
 〔前略〕石の上の一粒の露の玉を凝視した茅舎は、その露が朝日を受けて光るのを、宝玉のごとくに見た。その光りが千里を照らす様に観たのである。金剛は梵語から転じた仏教語で、金剛界の諸仏に冠する語である。また、「堅固で破れない」という意もあり、金剛不壊(ふえ)という言葉がある。もっとも果敢(はか)ない散り易い露の玉を金剛不壊と見た茅舎の眼にはその露が生きているものの様に見えたのだった。天地の生命が凝って、露の玉になった様に見えた。それを支えるのは石であり、石も茅舎の好きな題材。露が生きて動くものの象徴であれば、石は不動の象徴。〔中略〕
 石田波郷はこの句の短冊を書斎の柱に掛け「時に心迷ふとき、この短冊を見てゐると、迷の雲はうちはれてくる思ひがする」と述べている。

【小生comment】
▼茅舎の物を見る眼の確かさは、天賦の才であるに違いない。それに加えて、彼が病弱であったこととも無縁ではあるまい。
 実は小生も、茅舎が罹患した結核に良く似た病気である、結核性肺門リンパ腺炎を小学二年のとき患い、以後数年自宅療養と通院とを続けたことがある。身体中がだるく、空咳を繰り返し、一日の大半を寝たきりで何日も過ごしていると、眼力や聴力が異常に鋭敏になり、例えて言えば、寝ている布団のすぐ横の畳の上にとまっている蝿が顔を前足で擦る様子や、家の窓の外を飛び回る雀の囀りが異常に大きく耳元に響いて来たりする。
 そういう敏感になった感覚で物を見て、感じた気持ちを俳句に表現したのかもしれない・・。
 いずれにしても、名句であることに違いはない。 では、また・・。 

(了)

2009年9月 6日 (日)

【時習26回3-7の会 0254】~「9月4日:『レオナール・フジタ』展を観て」「9月4日:『名古屋平成中村座』公演初日を観て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0254】号をお送りします。
 まず、今日最初の話題は、去る6月13(土)~14(日)に開催された「時習26回卒業35周年記念旅行」関連のニュースから・・。
 今回の名古屋幹事の黒柳M利君〔旧【3-6】〕に連絡をとり、先月20日、黒柳君に手交した「記念DVD集」がいつ頃出状されるか確認しました。
 彼曰く「今、送付状を揃えて、準備も佳境。今週末までには発送する予定。送付状には「記念旅行も終わり3ヶ月経ちました・・」という書き出しにしてある」との由。記念旅行参加者全員宛に「記念DVD集」のほか、参加者の最新の「住所録」や、各人の名前入りの「全体写真」も同封されると聞いています。
 【 菰田君、竹内君、山中(高木)さん、渡辺さんへ 】
 「卒業記念旅行・懇親会」に参加された皆さんのご自宅には来週早々〔9月15(月)~16(火)〕には「記念DVD集」が到着すると思います。お楽しみに・・。それから、
 【 先日の【2637の会】《クラス会》に参加された皆さんへ 】
 会計報告は、もう少しお待ち下さい。 小生、最近、結構忙しくて、なかなかこのブログを週一回のペースで配信することも大変・・。(笑)
 次号か次々号にて報告させて頂く予定です。(汗)
 それから、「記念DVD集」や「青春のうた Part4」は如何でしたでしょうか? 石田(Y)君以外の皆さんからもご感想を頂戴できると嬉しいです。m(_ _)m

■さて今日は、掲題・副題にあります様に、先週末4日に、名古屋へ行く機会があり、松坂屋本店南館7階で13日まで開催中の『レオナール・フジタ』展を観て来ましたので、早速ご報告させて頂きます。

〔01〕レオナール・フジタ展 
・・・・・・・・・・・・・・・〔02〕藤田嗣治『裸婦と猫』〔1923年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔03〕藤田嗣治『二人の友達』〔1926年〕
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 まずは、図録巻頭の「ごあいさつ」の抜粋をお届けして、今回の展覧会の目的等をご紹介します。








〔04〕藤田嗣治1927年
・・・・・・・・・・・・・・・〔05〕藤田嗣治『[ライオンのいる構図〔部分〕』〔1928年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔06〕藤田嗣治『犬のいる構図〔部分〕』〔1928年〕
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051928
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 藤田嗣治〔洗礼名:レオナール・フジタ〕は、20世紀初頭、フランス・パリで活躍し、当時から同国絵画界で高い評価を得ていました。小生が好きな画家であるモディリアーニは、フジタとの親交が厚く、「フジタの肖像」〔1919年〕を残しています。







〔07〕藤田嗣治『争闘Ⅰ〔部分〕』〔1928年〕
・・・・・・・・・・・・・・・〔08〕藤田嗣治『争闘Ⅱ〔部分〕』〔1928年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔09〕藤田嗣治『仰臥裸婦』〔1931年〕
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081928
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 「 渡仏した藤田は様々な芸術家と出会い、交遊を結んでいる。とりわけモディリアーニとは「最後の日迄私は交際して居った」と語るほど、親密な間柄にあった。」と言います。 ではどうぞ・・






〔10〕藤田嗣治『野あそび』〔1936年〕
・・・・・・・・・・・・・・・〔11〕藤田嗣治『ノルマンディーの春』〔1936年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔12〕藤田嗣治『優美神』〔1946-48年〕
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〔13〕藤田嗣治『アージュ・メカニック』〔1958-59年〕
・・・・・・・・・・・・・・・〔14〕藤田嗣治『ヴィリエ=ル=バクルの私たちの家』〔1960年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔15〕藤田嗣治・君代夫妻の終の棲家『ヴィリエ=ル=バクルのラ・メゾン=アトリエ・フジタ』
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〔16〕ヴィリエ=ル=バクル最上階にあるフジタのアトリエ
・・・・・・・・・・・・・・・〔17〕ヴィリエ=ル=バクル~暖炉のあるリビング
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔18〕ヴィリエ=ル=バクル~古いスペイン製家具で統一されたダイニング
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〔19〕晩年の藤田夫妻
・・・・・・・・・・・・・・・〔20〕藤田嗣治『花の洗礼』〔1959年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔21〕藤田嗣治『イヴ』〔1959年〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔22〕藤田嗣治『「平和の聖母礼拝堂」フレスコ壁画:磔刑』
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 《ごあいさつ》
 1992年、フランス・オルリー空港近くの倉庫で発見された、縦横3mの大作4点「構図」と「争闘」。それらは一部が1929年に日本で公開されたものの、その後所在が不明になっていた、レオナール・フジタ〔藤田嗣治1886-1968〕の幻の作品です。この4点はフジタが晩年を過ごしたアトリエの建物とともにエソンヌ県の所蔵となり、フランス第一級の修復チームによる本格的な修復作業が6年の歳月をかけて行われました。〔中略〕本展覧会は、〔中略〕これらの大作群を中心に据え、新たに今まで纏まった形で紹介されることのなかったフジタの「壁画」をキーワードに、この類稀なる世紀の天才画家の実像を再検証しようとするものです。
 〔中略〕
 本展は、画家の最初のフランス時代(1913-1931)の集大成である「構図」と「争闘」、その後の日本における壁画の制作を経て、最後のフランス時代(1950-1968)の帰結である「平和の聖母礼拝堂」を軸に、貴重な作品と資料で藤田嗣治=レオナール・フジタの画業を展覧するものです。〔以下略〕

 以下に藤田嗣治の経歴をご紹介します。

1886(明治19)年 11月27日、東京府牛込区(現新宿区)に、陸軍軍医の父嗣章、母政の間に、四人姉弟の末っ子として生まれる。
1893(明治23)年 東京高等師範附属尋常小学校入学
1900(明治33)年 (14歳)同附属中学校入学
1905(明治38)年 (19歳)4月、東京美術学校予備科入学。9月、西洋画科本科入学。黒田清輝に師事。
1910(明治43)年 (24歳)10月、最初の妻となる鴇田とみと結納。
1913(大正02)年 (27歳)6月18日、門司出航の日本郵船三島丸で渡仏。
1915(大正04)年 (29歳)鴇田とみと離婚。
1917(大正06)年 (31歳)3月27日、フェルナンド・バレーと結婚。
1918(大正07)年 (32歳)春、スボロフスキー、スーチン、モディリアーニと共にカーニュで過ごし、ルノワールを訪問。
1919(大正08)年 (33歳)サロン・ドートンヌに初出品し、6点全て入選。サロン・ドートンヌ会員に推薦される。「モンパルナスのキキ」と呼ばれたアリス・プランやキスリングとの交遊が始まる。
1923(大正12)年 (37歳)サロン・デ・チュイルリーの招待作家に選ばれ、2点出品。会員となる。
1924(大正13)年 (38歳)別居中のフェルナンド・バレーと離婚。リュシー・バドゥー〔ユキ〕と結婚。日本不在の儘帝展委員に。
1925(大正14)年 (39歳)フランス、ベルギーから叙勲。岡鹿之助等、この前後に渡仏した日本人と交流。
1926(大正15)年 (40歳)「アミティエ(友情)」がフランス政府買い上げ、リュクサンブール美術館に収められる。
1927(昭和02)年 (41歳)11月、ルーブル美術館銅版画室に、銅版画1点収蔵される。
1929(昭和04)年 (43歳)9月28日、16年ぶりにユキを伴い帰国。
1930(昭和05)年 (44歳)1月、横浜から出航し、米国経由しパリへ帰る。
1931(昭和06)年 (45歳)秋、ユキと別れ、マドレーヌ・ルクーと共に10月より南米へ。
1933(昭和08)年 (47歳)11月17日、マドレーヌを伴い日本へ帰国。
1936(昭和11)年 (50歳)6月ジャン・コクトー来日し、帝国ホテルで再会。6月29日、マドレーヌ急死。12月、堀内君代と結婚。
1937(昭和12)年 (51歳)《自画像》〔1928年〕がパリ国立近代美術館収蔵となる。
1938(昭和13)年 (52歳)10月、海軍省嘱託として中国中部に派遣される。漢口攻略戦に従軍。
1940(昭和15)年 (54歳)前年9月に第二次世界大戦勃発したため、渡米、渡仏を繰り返し、5月23日陥落寸前のパリを脱出。マルセイユから最後の帰国船であった伏見丸で地中海を通り、7月7日に日本帰国。9月、陸軍省嘱託として新京に向かい、ノモンハンに取材する。10月帰国。
1942(昭和17)年 (56歳)3月、戦争記録画制作のため、陸軍省よりシンガポールに、海軍省よりインドネシアに派遣される。
1945(昭和20)年 (59歳)8月、疎開先で終戦。自分の戦争画や資料を自ら焼く。 
1947(昭和22)年 (61歳)2月、正式に戦争容疑が晴れる。
1950(昭和25)年 (64歳)1月 渡仏の許可が下りる。ニューヨークから出航、英国経由、アーブル入港、パリへ。
1951(昭和26)年 (65歳)3月、ポール・ペトリデス画廊で帰国後初の個展を開き、出点50品全品売約。
1954(昭和29)年 (68歳)10月、14区教会にて君代夫人と結婚式を挙げる
1955(昭和30)年 (69歳)2月28日、藤田夫妻フランスに帰化し国籍取得。5月日本国籍を抜く。
1957(昭和32)年 (71歳)オフィシェ・ド・ラ・レジオン・ドヌール勲章受章。
1959(昭和34)年 (73歳)10月14日、ランス大聖堂にて君代夫人と共にカトリックの洗礼を受ける。洗礼名:レオナール。君代夫人:マリー・アンジュ・クレール。
1961(昭和36)年 (75歳)11月、パリ郊外ヴィリエ・ル・バクルに農家を購入し改造、住まい兼アトリエとする。〔添付写真№14~18ご参照〕
1966(昭和41)年 (80歳)2年の準備を費やし自ら設計した「平和の聖母礼拝堂」着工(2月)。6~8月、フレスコ画を仕上げる。〔添付写真№22ご参照〕10月、礼拝堂がランス市に献呈される。
1968(昭和43)年 (81歳2ヵ月)1月29日、チューリッヒ州立病院にて死去。「平和の聖母礼拝堂」に眠る。
2009(平成21)年 4月2日、君代夫人永眠(98歳)。フジタと共に「平和の礼拝堂」に眠る。

【小生comment】
 以上の様に、経歴を眺めただけで、レオナール・フジタの波瀾万丈の人生が、衝撃波の様に迫って来ます。
 レオナール・フジタ関連の添付写真全〔22枚〕をご覧頂いて、皆さんはどの様に感じられましたか?
 フジタが描く女性像は、彼のオリジナリティーが良く表れていると、小生は思います。   
 彼の画風は、観る側にとって評価が二分される画家ではないかと思います。天才画家が持つオリジナリティーという面では、日本の西洋画家では彼を凌駕する者はいないと言って過言ではありません。 フジタの「乳白色」は、最初のフランス時代から大変有名ですね。
 一方、藤田の作品は、感覚的に肌に合わないと感じる方もいると思います。
 でも、blogに添付した、藤田嗣治・君代夫妻の終の棲家『ヴィリエ=ル=バクルのラ・メゾン=アトリエ・フジタ』なんかをみると、小生もこの様なアトリエで絵が描けたらいいな、と羨望の眼で写真を眺めました。古風なスペイン製の家具で揃えたダイニングや、落ち着いた雰囲気のリビング等も、観る者に安らぎを与えます。


■続いては、同じく9月4日の夜、名古屋城内でその4日を初日として9月26日まで開催される『名古屋平成中村座』公演を見て来ました。
〔23〕名古屋平成中村坐090904
・・・・・・・・・・・・・・・〔24〕名古屋平成中村座すじがき01
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔25〕名古屋平成中村座すじがき02
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔26〕名古屋平成中村座『演題』
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〔27〕中村勘三郎
・・・・・・・・・・・・・・・〔28〕中村橋之助
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔29〕中村勘太郎
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〔30〕中村七之助
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 小生、急遽この公演を見ることができなくなった方からチケットを譲り受けたもので、「歌舞伎」というものを実際見たのは、今回が初めてでした。
 「歌舞伎」は、ある意味オペラに似ている様に思います。
 日本語でありながら、解説をイヤホンで聞かないと、筋書きそのものは勿論、見せ場などがよくわからない。
 逆に言えば、イヤホンで解説を聞いていると、非常に解り易い。
 舞台が綺麗で、謡や囃が聞ける。浄瑠璃・義太夫が身近に感じる。
 イヤホン解説があれば、謡の歌詞まで説明してくれるのでありがたい。
 そして、歌舞伎俳優である、勘太郎や七之助の出で立ちがまた恰好よく、美しい。
 「歌舞伎」は、総合的にみて、まさに、日本の伝統芸能の極致であると言えまいか。
 また、ミーハー的ではありますが、我々と同年の中村勘三郎を中心に中村橋之助や、勘三郎の二人の息子である、勘太郎、七之助を、すぐ近くに観ることが出来たのは、何か儲けた様な気になりました。(笑)
 添付写真は、会場入口の『名古屋平成中村座』公演の看板と、あらすじ、演目一覧、そして、勘三郎、橋之助、勘太郎、七之助の横顔、を添付しました。
 因みに、演目は「①極付〔いわめつき〕 幡随長兵衛〔ばんずいちょうべえ〕「公平法問諍〔きんぴらほうもんあらそい〕」 ②傾城反魂香〔けいせいはんごんこう〕 ③元禄花見踊」ですが、実際の演目の順番は、演目一覧の①と②が入れ替わっていました。(笑)
 以下に勘三郎、橋之助、勘太郎、七之助の生年月日を記しました。
 勘三郎〔1955年5月30日生〕、橋之助〔1965年8月31日生〕、勘太郎〔1981年10月31日生〕、七之助〔1983年5月18日生〕。
 当然と言えば当然ですが、我等と同じ年の勘三郎の二人の息子、勘太郎、七之助は、まさに我等の子供たちの世代。
 二人は実に若々しく、そして、プロの芸人としての矜持を彼等の演技から感じることが出来ました。爽快な気分になれた4時間でした。
 それにしても、観客の7割は女性。ご年配の女性はわかりますが、若い女性も沢山いました。勘太郎や七之助がお目当てかも・・。(笑)

 では、また来週・・。

(了)

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