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2009年10月の4件の記事

2009年10月25日 (日)

【時習26回3-7の会 0261】~「寺島実郎『われら戦後世代の「坂の上の雲」を読んで』」「ほんとうの時代2009年11月号~小川有里『〔ストレスをためずに仲良く暮らすコツ〕夫婦は”ひとり遊び”ときどき”ふたり遊び”』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0261】号をお送りします。

 さて今日皆さんにお届けするのは、先週に引続き「坂の上の雲」についてである。しかもこの「坂の上ノ雲」は、最近ずっとご紹介させて頂いている寺島実郎氏の著書「われら戦後世代の『坂の上の雲』」である。
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 それでは早速ご紹介する。

「【第二章】 一九八〇年五月――社会参加して十年の団塊の世代として 『われら戦後世代の「坂の上の雲」』」~

 【二、戦後世代を形成したもの ◆――戦後民主教育について】
 戦後の急激な「社会的価値転換」によって教科書に墨を塗ることから始まった戦後教育は、昭和二十二年の教育基本法によって「民主主義教育」の原則を宣言している。その第一章は、教育の目的として「教育は、人格の形成を目指し、平和的な国家および社会の形成者として、心理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行なわなければならない」ことを定めている。
 戦後世代は、共通与件として戦後民主教育を受けて育ったのであり、それは、戦前の「教育勅語」を基軸にした教育とは様々な意味で異なる教育効果を戦後世代に与えたといえる。それは、私自身の体験の中で、二つの意味として残っている。
 一つは、「歴史」と「価値」に対して、できる限り距離をとろうとする姿勢である。戦後教育においては、戦前から戦争〔=【小生注】第二次世界大戦〕にかけての歴史においては、戦争の悲惨な思い出を意識するあまり、歴史自体を倫理的に検討することを拒否するという姿勢がとられ、歴史を直視し、継続性の中で歴史を止揚〔=【小生注】低い次元で矛盾対立する二つの概念や事物を、一層高次の段階に高め、新しい調和と秩序の下に統一すること〕し乍ら進むということは許されなかった。私の記憶の中で、教育の現場で、戦争をを挟んだ日本現代史に関し、自分の思索と言葉で責任ある伝承をしようとした教師は、あまりにも少ない。
 そうした中で、戦後世代は、一つの時代を支配する「社会的価値」なるものが如何に相対的なものであり、与件の変更によって「国家主義から民主主義へ」と如何に巧妙に変化するものであるかを大人達の生活態度に見て取り、社会的価値そのものを「胡散(うさん)臭いもの」として拒否し、冷笑することへと傾いていった。つまり、戦後民主教育の所産は、まずそれが何かを形成したからではなく、何ものも形成し得なかったことにおいて、相対感覚を戦後世代に残したのである。
 二つは「平等主義」「平和主義」を選好する姿勢である。私が小学生の高学年の頃、在学した学校では、「級長その他各委員のバッジの廃止」が実施された。「特権意識を持たせない」ための措置だとの説明があった。その頃から運動会も入賞賞品を出さなくなり、参加賞方式へと移り始めた。「乏しきを憂えず、等しからざるを憂う」という価値が重視されていった。それは、「機会の均等」から更に「結果の平等」を求める方向へと進み、所得、門地、家柄、性別、能力による「差別」を後退させると同時に、「区別」さえ不当なものとする土壌が形成されていったのである。
 この様に、区別のメルクマール〔=【小生注】目印〕が次々と不明確になっていく中で、即ち、「平等化」の背後で、むしろ陰湿な形で「差をつける」という志向が生まれていったという面も忘れてはならいない。平等化志向の戦後教育の「誰もが機会均等に教育を受けられる」という原則が、全般的富裕化を背景にしていつの間にか「誰もが高等教育を受けられる」という現象を生み、激烈な「受験戦争」を現出し、友情を裏切っても何らかの形で「差をつけよう」とする傾向を齎しているのである。いや、正確に言えば、「差をつける」ことさえ本人の主体的意図ではなく、「○○を買って差をつけよう」といったCMに象徴される様なファッションの一環としての行動であり、それほどまでに「平等化」という名の下での平準化、均質化、画一化が進んでいるのかもしれない。〔以下略〕

「【終章】 二〇〇六年三月――団塊世代の正念場」~

 【◆――最後に想うこと――結局、われわれの「坂の上の雲」とは】
 結局、戦後世代の「坂の上の雲」とは何だったのだろうか。〔中略〕
 昭和25年生まれの畏友残間里江子が『それでいいのか蕎麦打ち男』〔2005年、新潮社〕と題する本を出版した。老け込み気味の団塊男に活を入れる手厳しい内容であるが、考えさせられた。確かに、我々の周りには、定年を前にして、蕎麦打ちや陶芸に打ち込んだり、急に家庭的な生き方に回帰する人間が増えた。悪いこととは思わないし、内省から生まれるものへの期待もある。だが、私生活主義から一歩も出ない老成ならば問題である。団塊の世代が「笠の雪」となって後代世代にのしかかるのか、社会を支える側に回るのかによって高齢化社会の様相が変わるといっても過言ではない。
 それを「新しい公共」と呼ぶべきだろうが、国家や権力による強制ではなく、主体的参画によって公的分野を支える行動を志向することが鍵となろう。官対民という構図だけで議論することが多いが、実は如何なる社会においても、官と民の間の「公共」という分野を誰かが支えないと、人間社会は成り立たない。団塊の世代が、地域社会の文化・教育・福祉から地球環境まで、もう一度眼を向け直して、自らの関心と適性を判断して、何らかの形で公共という分野で汗を流す方向に向かうならば、高齢化社会は暗い展望に引き込まれる必要はない。カセギ〔社会的安定〕とツトメ〔貢献〕は大人が大人である要件であり、そのことを担う団塊の世代の最後の転機における覚悟が問われている。

【小生comment】
 この作品の【終章】が執筆された2006年03月時点では、寺島氏〔昭和22年8月生〕は58歳。サラリーマンでは言えば確かに定年間際の歳である。
 団塊世代とは、一般的に狭義では昭和22年~24年に、広義では昭和21年~昭和29年に生まれた人達〔フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』〕を言うが、我等昭和30年04月~31年03月生まれの世代は団塊世代の直ぐ後の世代であり、あと数年で還暦となる。
 寺島氏が最後のところで述べている様に「官と民の間の「公共」という分野を誰かが支えないと、人間社会は成り立たない」という言葉はまさにその通りであるし、「団塊の世代が「笠の雪」となって後代世代にのしかかるのか、社会を支える側に回るのかによって高齢化社会の様相が変わるといっても過言ではない」のは、「団塊の世代」を「我々の世代」と読み替えても全く同じである。
 氏の言葉を重く受け止め、「公共」で役立てる様に、今から準備をしておきたいと思う。

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【後記】■今日の締め括りは、掲題の二つ目の話題。「ほんとうの時代2009年11月号~小川有里『〔ストレスをためずに仲良く暮らすコツ〕夫婦は”ひとり遊び”ときどき”ふたり遊び”』」をご紹介してお別れしたいと思います。では、どうぞ・・

〔まえがき〕
◆妻が遊びに出かけると夫は不機嫌、一方、妻の外出に一緒に行きたがる夫に妻は不機嫌――夫と妻、そのどちらもが楽しい時間を過ごすにはどうすればいいのでしょうか。
 【どちらかが出かければ「おうちでひとり」が楽しめる】
 定年後の夫をもつ妻たちに「あなたが一番嬉しいことは?」と質問すると異口同音にこういう答えが返って来る。
 「夫の外出!」
 定年後の夫たちは基本的に家にいる。テレビの前から動かない「置物タイプ」でも、家の中を繕ったり、片付けたりとマメに働く「独楽鼠(コマネズミ)タイプ」でも一日中「家にいる」という点では同じだ。夫と一日中顔を合わせ続ける日々。どういうことになるのだろうか。
 ある妻は「ああ、週に一日でいい。何処かへ行ってくれないかしら」と夫の留守を切に願っていた。或る日、夫に言われた。
 「おまえ、一週間くらい一人で何処かへ行ったらどうだ?」
 失礼よね、と彼女は怒るが、聞いて思わず笑ってしまった。夫のほうも妻と同じ心境だったのだ。
 別のある夫婦。一日、妻の行動を眺めては「それはこうしたほうが早い」「それは効率が悪い」等と言う監視夫に或る日、とうとう妻が切れた。
 「あなたがいつも家にいてうるさく言うから私はストレスがたまってイライラする」と。
 はっきりこう言われてショックだったのだろう。夫はぷいと家を出て行き、夜まで帰って来なかった。帰宅した後も夫婦は数日間口をきかなかった。
 〔中略〕
 いつも家に二人でいるとイライラや冷戦を誘発する場合が多く、互いの精神衛生によくないのだ。どうしたらいいのだろうか。
 夫婦が夫々別々な時間を持って顔を合わせる時間を減らす。これに限る。自由時間は喜びの時間でもある。定年後、夫婦はどんな遊び方をしているのか、友人・知人十組の夫婦に聞いてみた。
 夫――水泳、筋トレ、ウォーキング、テニス。元の会社仲間とゴルフ。畑を借りて野菜づくり。尺八、日本舞踊、陶芸等の公民館活動。因みに我が家の夫は複数の公民館ダンスクラブに所属して、社交ダンス三昧である。
 妻――水泳、体操、ヨガ等。友人達との旅行。料理、陶芸、コーラス等の公民館活動。幾つもの講座やクラブに入って「家にいるより公民館にいるほうが多い」という人もいる。
 どんな遊び方をするにしてもポイントは「夫と妻が時間をずらすこと」。同じスポーツクラブ、公民館等に通う場合にも時間をずらす、違う曜日にすることだ。〔中略〕
 別々に遊ぶメリットはまだある。夫婦でいると緊張感も刺激もお洒落心もなくなるが、別々に他の人達と関われば、これ等を持ち続けることが出来る。つまり、若々しさを保てるのである。更に夫婦の会話の材料も増える。「今日はこんなことがあったよ」「私のほうはね」と。
 【ときどきは二人遊びで親睦を図るべし】
 定年後、夫婦にとって夫、妻、夫々が自由時間を楽しむことは「いつも一緒」の摩擦を避けるために絶対必要なことだ。かと言って年がら年中別々、すれ違いではいけない。すれ違い過ぎると互いに無関心になり、夫婦の絆が弱まるのである。〔中略〕
 基本的は夫婦夫々ひとり遊び。でも、時々は二人遊び。これこそ定年後、夫婦がストレスを溜めずに仲良く暮らすコツだと信じている。

【筆者comment】
 小川有里氏のいうのも尤もである。〔笑〕
 人生の先輩の助言を十分活用させて頂き、所謂、老後においてはストレスを溜めない様に上手に生きてiいきたいものである。〔笑〕
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【追伸】
 〔お別れ~【その2】〕
 先週末、気分転換に長篠城跡に行って来ました。その情景を早速スケッチしてみました。下手ですが、写真の見比べて見て下さい。
 これから相当修練する必要があるなぁ、と実感しました。でも、「気分は爽快!」。気分転換としては最高なひとときでした。〔笑〕 
 では、また・・。(了)

2009年10月18日 (日)

【時習26回3-7の会 0260】~「いよいよ「司馬遼太郎『坂之上の雲』」が11月29日(日)より放映される・・」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0260】号をお送りします。
 今日は、小生、個人的に疲労気味です。〔笑〕
 そのため、今日の《会報》のお話も、来月11月29日から12月27日までの5週連続〔午後8時00分から9時30分までの90分間〕放映されるNHKスペシャルドラマ「司馬遼太郎『坂の上の雲』」についての《お知らせ》1点にさせて頂きます。
 司馬遼太郎著『坂の上の雲』は、既にお読みになった方々には説明するまでもないほど有名な、司馬氏の作品の中でも最高傑作の一つと言われている作品。
 言うまでもなく、この作品は、時を同じくして四国松山から青雲の志を胸に上京した三人の青年、正岡子規、秋山好古、秋山真之が日露戦争に勝利するまでの半生を描いた作品である。
 最近、時を同じくして、文藝春秋社から「文藝春秋12月臨時増刊号〔特別企画〕『坂の上の雲』と司馬遼太郎」、そして、新人物往来社から「『坂の上の雲』への招待~秋山好古・真之兄弟と正岡子規らが生きた時代~日露戦争と明治の青春群像〔100年前の日本人の姿〕」が出ましたので、これらをご紹介したいと思います。
 まずは、添付写真をご覧下さい。〔01〕~〔11〕までお示しします。
 詳細をお知りになりたい方は、是非書店にてお求め下さい。前者1,000円、後者1,890円〔いずれも税込み〕。二冊とも永久保存版にして置きたいいい本です。ハイ。〔笑〕

〔01〕文藝春秋12月臨時増刊号
            〔02〕新人物往来社「坂の上の雲」への招待
                       〔03〕石川県テーマパークに実物大で建造された戦艦三笠と秋山真之役の本木雅弘
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〔04〕「坂の上の雲」への招待巻頭写真~左から「真之」「子規」「好古」
            〔05〕陸軍騎兵少尉時代の秋山好古〔明治12~16年頃〕
                        〔06〕日露戦争時代の秋山真之〔海軍中佐〕
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〔07〕真之役の本木雅弘〔上〕と好古役の阿部寛
            〔08〕子規役の香川照之と子規の妹律役の菅野美穂
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〔09〕64年ぶりに開放された要塞都市『旅順』
            〔10〕28センチ榴弾砲と日本兵
                        〔11〕旅順の乃木希典大将と幕僚達
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 因みに、〔10〕〔11〕のカラー写真は、白黒写真を当時の日本の技術で着色して天然色としたものである。
 当時から日本は、こういう細かい技術力には素晴らしいものがあったのですね。

 現代人の中で、司馬氏の『坂の上の雲』を好む人が多いのは、この作品には、今では稀有となった正真正銘の大人(=大人物)が沢山いることが大きな魅力となっているからだと思う。そういう大人を尊敬し、かくありたいと思うのは、いつの時代になっても人間の本源的な欲求でもある。
 明治維新初期の戊辰戦争、西南の役、佐賀の乱等の波乱が一段落し、日本が欧米の列強に追いつこうとして、富国強兵に注力し、近代化に邁進した時代・・。まさにその時代に「日本人かくあるべし」と、強い意思と責任感を胸に、日本国を背負って立った人達が、子規、秋山兄弟だけでなく、綺羅、星のごとくいたのである。
 先にご紹介した文藝春秋〔特別企画〕~大特集『阪の上の雲』~私はこう読んだ~の中で、最近ご紹介している寺島実郎氏が『常に心を刺激し続ける作品』と題して、次の様に述べているので、今回もご紹介したいと思います。

1.最も好きな登場人物
 ワシントンで六年間仕事をした頃、私のオフィスは、ホワイトハウスの斜め前にあって、目の前に大統領府が入るオールドエグゼクティブ・ビルが立っていた。秋山真之がワシントンで活動していた頃は海軍省のビルであった。このビルの三階にあった海軍文庫に秋山は通いつめ、古今東西の海軍戦略・戦術に関する文献を読破した。
 「海上権力史論(1890年)」を書いたマハン大佐をニューヨークに訪ねたり、米国勤務時代の真之の行動力は驚くべきものがある。「自分が一日怠ければ、日本が一日遅れる」という言葉を彼は残している。こんな言葉が言える人間が、今いるだろうか。私は残業で疲れた時、灯りがともる海軍文庫があった向かいのビルの三階を見つめたものである。〔以下略〕
2.最も印象に残った言葉
 何故、秋山真之はかくも集中し、頑張れたのか。国家の命運を担うことが迷いなく個人の人生目標と一致していた時代ということもできる。だが、心に背負っていたものの深さと重さを描ききったのが「坂の上の雲」の価値だと思う。真之の親友、正岡子規が病床に伏せりながら、海外に国運を担って展開した真之に詠んだ二つの俳句が紹介されているが、胸を打つ。死の病に伏す同郷の親友の思いが真之の心にあったのだと思う。
 「暑い日は思ひ出(いだ)せよふじの山」
 「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」

〔小生注〕寺島氏は、次の様に述べて締め括っている。

 「無目標社会」といわれる現在、国家の呪縛から解放され、「自分のためだけに生きてよい」という自由を手に入れた戦後なる時代を生きてきた我々は、これからの日本をどう創造していくのか。司馬遼太郎という人は、途方もない重いテーマを設定していったものである。〔以下略〕

 また、NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で秋山真之役を演じる本木雅弘氏は「三年間、秋山真之の役に打ち込んでいます」と題して次の様に述べている。

 秋山真之を演じませんかと誘われたのは、今から五年ほど前になります。真之には明敏で豪放磊落な軍人というイメージがあったので、「自分には向いていないのではないか」と迷いました。ところが司馬さんの原作などを読むと、真之には繊細な一面もある。戦艦上で兵の死に直面するたび、真之は深く傷つき、人の生の儚さについて考えるのです。既製の器からはみ出すわんぱくさと、軍人とは思えない多感さとの矛盾という、真之の人間らしさに惹かれました。〔中略〕
 「坂の上の雲」の面白さは、人間を描く一方、日本という国の資質と魅力を、再認識出来るところにあります。世界史の大きなうねりの中で、大国を相手に真之達も、国と兵一人ひとりの命を預かりながら、純粋に、勇ましく、且つ労わりを持って立ち振る舞います。きっと誰もが、物語のそこここに、かくありたいと思う日本人像を発見することでしょう。〔中略〕
 スタッフの力による、見事なセットは勿論、約九割がロケなので、眩しい明治の時代を想わせる、穏やかな日本の空気や光が、映像の中にぎゅっと凝縮されています。そんなところもぜひ見て頂きたいですね。

【後記】■このNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』は、今年、来年、再来年と三年間に亘り続く long run の大河ドラマです。しかも一回の放送時間が通常の大河ドラマの二回分あり、一回毎映画を見る感じですね。
 それにしても、モッ君の秋山真之、阿部寛の秋山好古、香川照之の正岡子規、実際、本人によく似た俳優さんを選んだものです。
 小生、『坂の上の雲』は大好きな作品で、【2637の会】《会報》でも以前にご紹介させて頂いています。
 来月29日が大変楽しみです。
 あ、それから別件ですが、小生、今日宅建の試験を済ませました。これで合否の結果はともかく、暫く受験勉強から離れ、今迄やりたくてやれなかったこと、さしあたり「スケッチ&水彩画」を始めようと思っています。
 では、また・・。

(了)

2009年10月11日 (日)

【時習26回3-7の会 0259】~「10月6日:『小林研一郎指揮名フィル・コンサート』を聴いて」「寺島実郎『脳力のレッスン』から「脳力」について――現代における教養」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0259】号をお送りします。
 10月08日の台風18号は、何十年ぶりかの非常に強い「風」台風でしたね。「八日未明、知多半島に上陸」〔・・「台風の目」の直ぐ東側が一番強い風が吹く・・〕という、東三河にとっては最悪のケース。潮位も名古屋港で08時18分が満潮という、これまた最悪のタイミング。
 拙宅も、07日夜遅くから相当な強風に見舞われ、08日未明、何年ぶりかの停電を経験。復旧したのは午前10時半。
 停電については、豊橋市内ではエリア毎かなりばらつきがあり、例えば自宅近くの西岩田町では停電はなかったそうだが、東田坂上辺りでは08日夕刻まで停電が続いたという。また停電は、我が家に思わぬ不便を齎した。オール電化でなかったので炊事用のガスは使えたが、浴室の制御装置やトイレのウォシュレットは使用不能。普段、電気があるのが当たり前の毎日を過ごしている我々にとって、停電の不便さが身に沁みた一日となった。
 さて、08日の朝小生は、暴風警報の中を会社へは毎日使っている自転車ではなく、緊急避難的に自家用車で出向いたのであるが、交差点は国道1号線の信号が2~3箇所ランプがついた他はほとんど停電の儘。恐るおそる前後左右を確認しながら微速前進というスタイルで何とか会社に到着。
 駅前近くの会社のビル及びその周辺一帯は停電もなく無事であったが、港事務所のある三河港方面は、建物の床下浸水や商用車が何台か海水に浸る等、物的被害が少なくなかった。でも、人的被害がゼロであったのが不幸中の幸いであったと
positive に解釈したい。
 皆さんのお宅は大丈夫でしたしょうか。

■さて話変わって、日にちは前後しますが・・。
 小生、10月06日夜、仕事の関係で社長の名代で名古屋へ。そして小林研一郎指揮名フィル・コンサートを聴く機会を得ました。添付写真〔01〕〔02〕をご覧下さい。
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 曲目は、ハンガリーの作曲家コダーイ作曲「ガランタ組曲」、フランク作曲「交響的変奏曲」、リムスキー・コルサコフ作曲「交響組曲『シェエラザード』」、そしてアンコール曲は、指揮者小林研一郎のピアノ伴奏、コンサートマスターのヴァイオリニスト日比浩一のデュエットでモンティ作曲「チャルダーシュ」。
 中でも圧巻は、曲目第三曲目の『シェエラザード』であった。
 名フィルの演奏は、小生昭和50年代に聴いて以来三十有余年間聞いていなかった。その頃の名フィルの演奏と言えば、正直なところ技術的にも今一つだった。当時は、ヴァイオリン合奏等を聴いていると、音がこもってしまい、いつもレコードでウィーンフィルやベルリンフィルの素晴らしい音色に聞き慣れていた小生には、お世辞にも上手いと感じることはなかった。
 しかし、三十年以上の歳月でこうも演奏技術が変わるものだろうかと感心するくらい各段に level up していた。
 現在の名フィルは、一流の演奏家集団であると断言できる。
 この交響組曲『シェエラザード』という曲は、指揮者コバ・ケン自身も言っていましたが、オーケストレーションの巧みな作曲家リムスキー・コルサコフの面目躍如たる名曲で、全ての楽器奏者が独奏者となって曲を奏でると言っても過言でないくらいの難曲である。それをこの日の名フィルのメンバー達は確りと見せて、いや、魅せてくれた。
 聴いた席が、二階席5列目のほぼ中央であったため、全ての楽器奏者の演奏が手に取る様に見え、そして聞こえた。
 久し振りに心から感動できた演奏会であった。
 リムスキー・コルサコフの交響組曲『シェエラザード』が如何に素晴らしい曲であるかは、ご存知の方には説明するまでもないが、もし、【2637の会】membersの皆さんでまだ聴いたことがない方がいらっしゃったら是非一度聴いてみて下さい。
 参考までに、You Tubeからヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮による『シェエラザード』を添付しますので、聞いてみて下さい。
 四楽章形式の全曲の演奏時間が45分程かかりますが、その長さを感じないほど素晴らしい曲です。
 でも、長い曲が嫌だという方には第三楽章〔4/6〕「若い王子と王女」だけでもお聞き下さい。←小生のおススメ!〔笑〕
 何か映画音楽を聴いているみたいな名曲です。カラヤンの演奏では〔4/6〕のところです。

〔1/6〕http://www.youtube.com/watch?v=FR36PRgBFzA&feature=related 第一楽章〔海とシンドバッドの船〕
〔2/6〕http://www.youtube.com/watch?v=58U1cwPivbM&feature=related 第二楽章〔カランダール王子の物語〕
〔3/6〕http://www.youtube.com/watch?v=cNAdQpM8TNg&feature=related

◆◇◆〔4/6〕http://www.youtube.com/watch?v=IdBmgCXktZQ&feature=related 第三楽章〔若い王子と王女〕◆◇◆
  ↑↑↑▲△▲ここをclickして下さい!▲△▲↑↑↑
  ※第三楽章〔若い王子と王女〕の美しい調べが聴こえてきます。
  ※〔1/6〕~〔6/6〕を順番に聴いていくと交響組曲『シェエラザード』の全曲をお楽しむことができます。
   ホント、素晴らしい名曲をどうぞ・・

〔5/6〕http://www.youtube.com/watch?v=yBQEpFfVIXQ&feature=related 第四楽章〔バクダッドの祭り、青銅の闘士のある岩で難破、終曲〕
〔6/6〕http://www.youtube.com/watch?v=_Ct7S6zGGzs&feature=related

【後記】■さて今日の締め括りは、お約束の寺島実郎「魯迅と藤野先生〔―なぜ日本人は脳力を失ったのか―〕」から第三弾〔最終回〕「脳力」について――現代における教養」をお送りします。ご覧下さい。

 「脳力」について――現代における教養」

 「脳力(のうりき)」という言葉がある。物事の本質を考え抜く力という意味である。米国で10年以上の生活を終えて帰国し、幾つかの大学で講座を持った。印象づけられたのは、日本の学生がいかに幼稚かであった。パソコンや携帯電話を駆使した意思疎通の密度など、我々の学生時代にはない優れた部分もあるが、思考を纏めさせたり、事象への判断を求めると、あきれるほど幼稚な反応しかない。つまり、脳力が決定的に弱いのである。
 それでいて、「自分らしく」とか「自分なりに」という言葉が好きで、とても自分へのこだわりを語りうる程の自己を練磨しているとも思えない人間が自己を主張する。「パンが好きかクレープが好きか」程度のことを個性だと思い込み、ささやかなライフスタイルへのこだわりが重大事であるかの錯覚の中に生きている。そんなことにこだわることのできる恵まれた自分を取り巻く環境がどう成り立っているのかに問題意識が向かわない。つまり、自分が相対化できていないのである。
 衝撃的な資料がある。日本青年研究所の「日本・米国・中国の高校生の規範意識」の調査結果である。一目瞭然なのは日本の高校生の規範意識の極端な欠如である。「先生に反抗すること」「親に反抗すること」「学校をずる休みすること」「パソコンで性的画面をみること」等の項目で、実に七割以上の日本の高校生が「本人の自由でよい」という判断を示し、米国、中国の高校生において二割以下なのと比較し、際立った差異があるということである。
 こうした日本の現実をどう評価すればよいのか。若者の目線で考えてみれば、大人社会の規範を共有できないということであり、つまるところ大人社会を尊敬できないということである。学生達と話して気づくのは、これまでの人生で圧倒される様な大人に出会っていないということである。親兄弟・親類や先生、隣人を含めて、自分が目指したいと思える様な厳粛な大人に巡り合っていない。その結果が、自分を一角(ひとかど)の存在と誤認した「大人社会をなめきった若者」の姿に象徴される。
 しかし、これを若者の問題とするのは早計である。また、学校教育の現場の問題とするのも本質を捉えていない。本質は、日本の大人社会が、若者にとって目指したいモデルを提示する力を失っているということである。そういう大人になりたいと思うモデルがないのである。他方、なりたくないと思うモデルだけは沢山存在しているのである。人間が自らの未熟さを悟り、克己心(【注】こっきしん=自制心)を持って頑張ろうとする契機は、圧倒されるほどの先達との出会いである。その瞬間、若者は謙虚な気持ちになり、大人の言葉に耳を傾け、自分を磨かねばと覚醒するのである。
 〔中略〕
 立花隆は、その著『東大生はバカになったか』で、「教養」について次の様に定義する。「教養とは何かを象徴的に論ずるならば、それは『人類社会の遺産相続』の問題であるということができます。そして大学の使命というのは、その様な遺産相続を時間をかけて育てることであり、学生の側からすれば、その遺産を相続するに足りる資格を大学の教育を通じて得るということです。」彼の指摘は正しいであろう。ただ、現実的に「知的な遺産相続」とは、生身の人間として生身の人間に出会うことによって触発されるものである。誰と出会うかが決定的なのである。
 教養とは、知の断片化を避け、体系的・総合的知性を身につけることだと、象徴的に論ずるのもいい。「和漢洋のバランスのとれた知性」を身につけることの必要を主張するのも重要である。しかし、最も大切なのは、体系的教養を身につけたとする大人が、現実に生きている社会の現場で如何なる存在感を持っているかということであり、重要な意思決定の局面で体系化された知性を凝縮して、如何なる判断と行動選択をしているかである。
 機会は急にありという。いざ判断を迫られる局面で、蓄積した教養を凝縮し、脳力を振り絞って、どう行動するのか。直近では、同時多発テロという衝撃を受け、この国の社会科学の学者が、対案提示力の欠落を露呈し、時代の空気に迎合して米国の軍事行動支持の路線に吸収されていくのを目撃した。脳力に収斂しない知性など、何程の意味もないことを示したのである。〔中略〕
 この半世紀の日本は、如何なる地域紛争にも武力介入したことはない。また、植民地主義を放棄したことによって、近隣の中国や朝鮮半島から民族独立闘争のターゲットとされることも、憎悪と敵対を受けることもなく、国造りに専心できた。このことの幸福を大切に踏み固めなければならない。間違っても、大国主義的問題解決にのめり込む米国の思惑で、この基軸を歪めてはならないのであり、新しい世紀に相応しい日本の主体性の回復に問題意識を研ぎ澄ますべきなのである。「馬々虎々(いいかげんさ)」を拒否する、それこそが魯迅を読む者が少なくとも共有すべき気概である。
 つい、現在進行中の熱いテーマに引き込まれがちとなるが、改めて確認しておきたいことは、藤野厳九郎という市井の人が存在し、彼のごく自然な日常的判断が、一人の中国人留学生の心を支えたという事実の重さである。本人の記憶にも残らない程の些細な配慮なのであるが、そうした些細な判断に、民族の理性や品格が滲み出るのであり、それを民族の脳力、つまり民力というのである。〔了〕

【小生comment】
 寺島実郎氏は、別の著書「二十世紀から何を学ぶか」の中でも魯迅を取り上げ、次の様にも述べている。

 魯迅には四歳違いの弟周作人と、七歳下の三弟周建人がいた。〔中略〕とくに周作人は、兄魯迅に続いて日本に留学、辛亥革命後に帰国し、中国の新文化運動の旗手として活躍した。1917年以後は北京大学の教授として、海外文学の翻訳や随筆に冴えをみせた。〔中略〕
 魯迅は、夏目漱石を意識していた様で、仙台から東京に戻ってから、ある期間、本郷西片町十番地の夏目漱石旧宅に周作人等五人と住んでいる。魯迅はこの家を伍舎と名付け、和服での生活を続けた。不幸にして「抗日運動」の側の思想的リーダーとなっていった魯迅であるが、日本人の良い面も最期まで評価していた。また内山書店の内山完造等日本人の友人を大切にし、「日本の全部を排斥しても、あの真面目という薬だけは買わねばならぬ」と魯迅は内山に語っていたという。

 我々も歳だけで言えば、五十路半ばになる立派な大人である。が、情けないことに小生はまさに、寺島氏が嘆いてられた「頼りない大人」の代表である。しかし、今からでも遅くはない。若者達から「手本」となる様な立派な大人になるべく、研鑽と鍛錬を重ねて行きたい、と今日改めて心に誓った。〔←「本当かなぁ・・?〕
 では、また・・。(了)

2009年10月 4日 (日)

【時習26回3-7の会 0258】~「10月03日:黄檗宗『萬福寺』にて」「寺島実郎『脳力』から第二回目」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0258】号をお送りします。
 まずは添付写真〔01〕〔02〕の2枚をご覧下さい。

〔03〕我が家の彼岸花
             〔02〕我が家の白彼岸花[090922撮影]
01090922_2
02090924_2

 ちょっと前ですが、我が家の庭に咲いた彼岸花です。〔9月22日撮影〕
 白い彼岸花もなかなかいいでしょ・・。

■さて、今日は掲題・副題にあります様に、黄檗宗『萬福寺』についてご案内させて頂きます。
 実は、小生、勤務先の社内旅行が10月03~04日にかけてあり、京都へ行って参りました。
 と言っても、小生自身は今月10月18日にある宅建試験の事前模試が今日ありましたので、夕食の途中に一人だけ中座して帰って来ましたが・・。
 今回の社員旅行の目的は、第一は、「美味しい『松茸料理』を堪能すること」でしたので、その模様につきましては《会報》の次号に譲ることにして、今日はその旅行のうち最初に訪れた『萬福寺』についてお伝えします。

〔03〕萬福寺「総門」
             〔04〕「総門」前にて社員のみんなと
03091003_2
04091003_2

 この寺院は、承応三(1654)年に中国明から弟子20人を連れてやって来た禅僧「隠元禅師」が開いた寺。禅師はその時既に63歳。
 禅師が中国から持ち込んだものの中には、新しい仏教だけでなく、新しい音楽や、普茶〔ふちゃ〕と呼ばれる精進料理がある。木魚〔もくぎょ〕もそうだ〔添付写真06〕。

〔05〕萬福寺「大雄寶殿」 
             〔06〕開版(木魚の原形) 
                         〔07〕弥勒菩薩(布袋)坐像
05091003_3
06091003
07091003

 また、皆さんよくご存知のインゲンマメがそうである。
 ところで、この寺の弥勒菩薩は、布袋様〔添付写真07〕である。なかなかユニークですね。
 隠元禅師が渡来された17世紀中葉と言えば、明が清に滅ぼされた直後で、中国が混乱していた時代である。




【後記】■今日も【2637の会】関連のニュースはありませんので、これにて締め括りたいと思います。
 今日お届けするのは、前回お約束していた「寺島実郎『脳力』から第二回目・・魯迅と藤野先生〔― なぜ日本人は脳力を失ったか ―〕・・【藤野先生の足跡を訪ねて】」です。では、どうぞ・・

【藤野先生の足跡を訪ねて】

 その疑問に解答を見出す経験をした。福井県芦原〔あわら〕町を訪れ、この地で生涯を終えた藤田厳九郎の足跡と人物の全体像を確認することができたのである。藤野厳九郎記念館は、芦原温泉の町はずれの丘にひっそりと存在していた。記念館の隣には、診療所を兼ねた藤野厳九郎の旧居が移築されていた。〔中略〕気持のこもった管理がなされていることがよく分った。それでも、福井の気質というべきなのか、地元はこの記念館を観光資源として利用するでもなく、関心のある人にしか、その存在すら分からないだろうと思われるほど地味な記念館で、それがいかにもこの土地らしく微笑ましかった。
 今回の訪問では、〔中略〕藤野厳九郎の研究者である泉彪之助氏、藤野厳九郎の親戚で少年時代に厳九郎宅の隣に居住していたという藤野恒男氏とも面談することができた。〔中略〕
 泉彪之助氏が北京の魯迅博物館の許可を得て撮影して来た仙台留学時代の魯迅のノート〔魯迅医学筆記〕の写真を見て、まず驚いた。六冊に装丁されたノートの記述の緻密さは驚嘆すべきものであり、藤野先生が添削したという赤ペンの記述も、若干の加筆修正程度のものではなく、相当な時間を費やして書き入れたものだということがよく分った。また、内臓や器官等のスケッチが数多く描かれているのだが、その図の詳細さは、この分野での魯迅の才能を示していた。〔中略〕
 藤野厳九郎記念館の展示で、とりわけ印象づけられたのは、医者であった藤野がいかに深い漢籍への造詣を有していたかである。1874(明治7)年生まれの藤野は、八歳の頃から旧福井藩士だった野坂源三郎の私塾に通い、漢籍、算術、習字を習ったという。野坂源三郎の墓が残っていたが、側に門弟一同が恩師への謝意を込めた顕彰碑を建てていた。日本の田舎には、こうした教育システムが機能していたのである。1936年、魯迅逝去の報を受け、インタビューを受けた藤野厳九郎は、「何故、若き魯迅のノートを添削してあげたのか」を聞かれ「少年時代に野坂源三郎から教えを受けた漢学によって、中国文化への尊敬と中国人への親しみを持つ様になり、それを魯迅が親切と感じたのだろう」と答えている。
 実際に藤野厳九郎と親交のあった人達の回想を読むと、厳九郎の人となりについて、一様に「気難しく頑固、偏屈」という表現が目につき、患者に対しても厳しく叱責していた姿が浮かぶ。決して温厚で篤実な人という訳ではなかった様だが、それでも貧乏な患者からは診療費をとらなかったという。雨の中を「笠とゴザを着て往診の途中に倒れて、翌朝になくなった」という話が、この人の人生を象徴するものだと思う。かつて日本には、こういう人物が数多く存在していた。「一隅を照らすもの、国の宝なり」という。こういう大人が若者の前に屹立していた。

【小生comment】
■「一隅を照らすもの、国の宝なり」とは、伝教大師最澄の言葉である。古来より日本人の心に脈々と受け継がれてきた美徳である、と思う。
 それでは次号「「脳力」について ― 現代における教養」をお楽しみに。
  *  *  *
 それから、訃報をお伝えします。
 昨年から《クラス会》会場として利用している「トライアゲイン」のママの息子さん純君が一昨日の10月02日亡くなった。若すぎる29歳の突然の訃報である。先程、通夜式に参列して帰ってきたところだ。心からご冥福をお祈りする。(合掌)
 また、TVでは、中川昭一元財務大臣〔56歳〕も今朝自宅で亡くなっていた、と報道していた。(合掌)
 人生、やはり一寸先は闇だろうか・・。
 みなさんもお身体を大事に毎日を生きて参りましょう。
 では、また・・。(了)

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