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2009年11月 8日 (日)

【時習26回3-7の会 0263】~「11月08日:『時習26回ゴルフ・コンペ』開催報告」「秋の夜長に俳句はいかが・・『四T』〔その2〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0263】号をお送りします。
 昨日、11月07日は、二十四節気でいう『立冬』。最近、朝は肌寒さを感じる程、秋も深まって来たと実感できる時節となりました。
 さてまず今日は、掲題・副題にあります様に、額田ゴルフ倶楽部で行なわれました「『時習26回ゴルフ・コンペ』開催報告」です。
 今日は、天気にも恵まれ絶好のゴルフ日和でした。参加者は先日お伝えした通りの15名。
 【2637の会】からは小生1名のみの参加でしたので、その点がちょっと寂しかったです。
 でもやっぱり同期っていいですね。大変楽しい一日を過ごすことができました。とても良かったです。
 ところで、戦績はというと、見事、壁谷(柴田)N輔君〔旧【3-5】〕が優勝しました。添付写真をご覧下さい。表彰式会場での全体写真です。
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 来年は、壁谷君が優勝幹事で、11月の14日か07日を予定しています。奮ってご参加下さい。


■さて今日の話題は、前号に続き、俳句の話題です。前号が「四S」でしたから、今回は「四T」をご紹介させて頂きます。
 森澄雄著『俳句への旅』~〔八 女流俳句の興隆〕に、次の様に紹介されています。

 昭和に入って女流俳人が多くなったが、中でも、男性の四Sに対して、所謂四T――星野立子(たつこ)(虚子の娘)、中村汀女(ていじょ)、三橋(みつはし)鷹女(たかじょ)、橋本多佳子(たかこ)――の女流作家がことに活躍した。大正時代の(長谷川)かな女、(阿部)みどり女らのしとやかで家庭的な作品に比べて、いっそう自由に、感覚も繊細に、しかも大胆になっているのが特色といえる。
 〔【小生注】森澄雄は、この後、四Tの作品を3句ずつ紹介している。「四T」について、村山古郷+山下一海編『俳句用語の基礎知識』(角川選書)にて、詳しく説明しているのでその一部をご覧に入れます。どうぞ・・〕

 四Tは山本健吉の命名による。『昭和俳句』(角川新書)に掲載された「女流俳句について」の項に《私は四Sという呼称にならって、女流俳人の四Tと呼んだことがあります》と述べている。昭和三十三年に刊行されたものである。しかし、四Sほどには、一般化されていない。〔中略〕
 昭和二年頃より「ホトトギス」婦人句会が成長、進出し始めたが、《主婦として家庭的な日常茶飯事の中に抒情の憩いを見出すといった境地である。そしてこの抒情の日常性を突き進めて、そこに清新繊細な女の感性を滲み出させたのが、星野立子と中村汀女とである》と述べている。
 〔【同注】山本健吉は〕星野立子を、虚子の娘であり、《客観写生の立場を代表し、作風はナイーブ》〔【同注】であると、そして中村汀女を、〕《女流俳句の第一人者であろう》〔【同注】と紹介している。〕〔中略〕
 橋本多佳子は、杉田久女についで、山口誓子についたが、《誓子の知的・構成的な作風の跡を追っている様であったが、次第に脱却して、独自の個性をはっきり示すに至った》と述べ、〔中略〕
 三橋鷹女は《小野蕪子(ぶし)の「鶏頭陣」の中にあって始めから個性的であった。・・・・女性としての意識を強く句の中に持ち込み、かなり大胆に官能的なものを持ち、久女の句の一面をさらに近代的に発展させている》とした。〔了〕

 それでは、四Tの作品を順次ご紹介して参ります。


 鳰がゆく水尾(みを)見えぬ程(ほど)夕ぐれぬ  星野立子(1903.11.15.-1984.03.03.)〔80歳03月〕

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【解説】〔秋元不死男『昭和秀句Ⅱ』(春秋社)より〕
 昭和12年作。句集『続立子句集』所収。〔立子34歳〕
 星野立子は高浜虚子の次女として明治36年、東京で生まれた。『ホトトギス』の婦人十句欄で腕を磨いた。あたかも虚子が花鳥諷詠を提唱した時期に当っているので、その教えに従い、写生を根底に広い幅をもって花鳥諷詠を忠実に実践した。作風は軽妙にして淡白、女性特有の繊細な感覚を駆使するところに特長がある。〔中略〕
 鳰(ニオ)はカイツブリで、鴨(カモ)より小型な冬の水鳥。湖沼等に浮かんで泳ぎ回り、長く水に潜っては魚等を巧みに捕食する。鈴をふる様な鳴き声も懐かしい。
 この句は静かな水面をニオが滑って行く景を句にした。さっきまではニオの描く水尾がはっきり見えていたが、今はあたりが暮れかかっているのでよくわからない。が、暮色はまだ濃いのではなく「水尾見えぬ程」に暮れている。その状況をさりげなく「程」と軽妙にうたいあげた。一秒毎に暮色のヴェールが沼か湖の一刻を覆うて行く様を、噛みしめる様に惜しんでいる心持が軟らかく打ち出されている。

【小生comment】
 水尾〔=澪・水脈〕とは、水の流れ。ここではニオが水面を滑っていく跡に残る水脈のこと。この句は秋元不死男氏が解説している通りである。この句は冬の句であるが、どこか今時分の秋の夕暮れにも相応しく思われるから不思議だ。


 時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ  中村汀女(1900.04.11.- 1988.09.20.)〔88歳05月〕

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【解説】〔現代の俳句6『自選自解/中村汀女句集』(白凰社)より〕
 ぐっと一押しに水をいっぱい出してくれるポンプ井戸のありがたき満足さを知らぬ人はあるまい。時雨は妙に私たちをいじけさせるが、その中の夕仕度のわびしさを、一押しずつに、どっと水を吐くポンプは打ち消しもする様だった。(昭和12年作)『汀女句集』所載〔汀女37歳〕

【小生comment】
 山本健吉は、著書『定本 現代俳句』の中村汀女の項で、次の様に紹介している。

 『ホトトギス』にはもと「婦人十句集」という欄があって、長谷川かな女や高浜家の縁者の集まりがあり、長く続いてその中から阿部みどり女、本田あふひ、杉田久女等が輩出した。昭和二年頃から『ホトトギス』婦人句会となり、それが基盤となって星野立子の『玉藻』が生まれ、汀女・立子という二人の女流俳人の名が浮かび上がってきた。〔中略〕所謂台所俳句の境地〔中略〕その様な雰囲気の中から抜きん出て女らしさの俳句の典型を示したのが汀女・立子の二人である。〔中略〕「秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸(マッチ)かな」「蜩(ひぐらし)や暗しと思ふ厨(くりや)ごと」「春暁や水ほとばしり瓦斯燃ゆる」等、気の利いた表現の典型的な主婦俳句であり、台所俳句である。だがこの様な凡人性の中に、細(こま)やかで清新な女の感性が沁み透っていることにおいて、彼女に如(し)く者はない。

 そう言う意味から言えば、この「時雨るるや・・」の作品もこの主婦俳句・台所俳句の典型である。
 井戸ポンプは、昭和30年代頃まで、小生父方の実家にあった。この句を詠んで懐かしい想い出がふと甦った。真夏の夕暮れ近く、盥(たらい)いっぱいにポンプ井戸の冷たい水を入れ確り冷した西瓜(スイカ)を従兄弟・従姉妹たちと争う様に頬張った想い出だ。井戸水は年中15度C前後なので夏は冷たく、冬は水道水よりずっと暖かく感じたものだ。
 昭和初期の頃、どこの家庭にも井戸ポンプがあり、一家の主婦はその井戸ポンプで汲み上げた井戸水で炊事・洗濯をしていた。
 時雨れると寒く、そして水は冷たい。現代の様に瞬間湯沸かし器やセントラル・ヒーティングのない時代だ。そんな悪環境の下、手押しポンプで汲み上げた井戸水が、ドッとと水を吐く勢いに、冷たい水仕事の辛さを暫し忘れさせて「元気」をくれるのだ。
 昭和30年中頃迄だったろうか、小生も厳冬に水洗いを続けると皸(あかぎれ)や霜焼(しもやけ)がよく出来たものだった。
 それにしても、現代の我々は幸せだ。科学の進歩と、日本の経済発展に感謝したい。

 勿論、汀女の俳句には、以前ご紹介した「外(と)にも出よ触るゝばかりに春の月」の「目がさめるばかり明るい抒情的作品〔山本健吉【前掲】〕」や「とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな」の「何か幼い子供時代に立ち返った様な心の弾みが出ている〔同【同】〕」という傑作がある。


 祭笛(まつりぶえ)吹くとき男佳かりける  橋本多佳子(1899.01.15.-1963.05.29.)〔63歳04月〕

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【解説】〔大岡信『百人百句』(講談社)より〕
 『紅絲(こうし)』(昭和26年)所収。日本敗戦直後〔昭和24年〔多佳子50歳〕〕の作。男達は戦後のつらい生活をしているが、祭で笛を吹いている時ばかりは、男らしいいなせな姿がよく似合う。この瞬間をとらえた多佳子には、男を意識した女の眼がある。美貌の女流俳人と評判され、絶えずそれを自覚していたのであろう多佳子が男を誉める句には、全体に艶めかしい良さがある。祭の句は多いが、この句は時と場所と心得て女が男のよさを上手くとらえた句だと思う。
 この句には前書があり、「戦後はじめて京都祇園祭を観る」とされた十句のうちの一句。〔中略〕祖父は琴の山田流の家元で、清風と号し黒田家に出仕して琴を教えていた。誇り高き家柄で美女だったこともあり、戦前から戦後亡くなってからも、抜群に人気が高く、女性俳人の人気投票が俳句雑誌で行なわれた時も、橋本多佳子は一位にランクされていた。〔以下略〕

【小生comment】
 谷口桂子『愛の俳句 愛の人生』~橋本多佳子~の中では、以下の様な紹介で始まっている。

 多佳子というと、まずその美貌が思い浮かぶ。
 実際に多佳子に会った作家、松本清張は、彼女が五十代の時に「まるで三十代の若さと美しさ」と思い、暗い部屋がぱっと輝いたような姿に「私は額に汗をにじませた」と書いている。〔中略〕
 多佳子に関して、私は背筋が伸びた人という印象を持っていた。〔中略〕いつも着物姿で、長身の立ち姿が凛としていた。それは人生への処し方にも繋がる様で、どんな境遇に陥っても毅然と相手を見つめている。

 橋本多佳子は、はじめ杉田久女に、ついで山口誓子に師事しただけあって、作風も構成力に富んだ歯切れの良さに、女性の持つ艶やかさが加わり魅力的だ。「戦後はじめて京都祇園祭を観る」とされた十句のうちの他の句に「ゆくもまたかへるも祇園囃子の中」「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣」「堪ゆることばかり朝顔日々に紺」があるが、皆秀句である。


 白露や死んでゆく日も帯締めて  三橋鷹女(1899.12.24.- 1972.04.07.)〔72歳03月〕

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【解説】〔大岡信『百人百句』(講談社)より〕
 『白骨』(昭和27年〔鷹女54歳〕)所収。女性のナルシズムの極致とも思える句である。「白露や」という冷たく透明感のある上五(かみご)もよい。「死んでゆく日も帯締めて」には、身だしなみを重んじた女性が、同時に女として死ぬときまで美しさを保つという決意を示していて、気品と寂寥の結びついた澄んだ悲しみがある。鷹女は実際に美人だった。女性俳人の中でも特別に気位の高い人としても知られ、なまくらの俳人は側(そば)に寄ることも出来ないと思われていた人だったので、その鷹女が詠んでいるからますますこの句が印象的である。鷹女ファンにとってはこたえられない句であろう。〔中略〕
 三橋家は歌人が多く出ており、兄が若山牧水に師事していたので、はじめ鷹女は牧水や与謝野晶子らに私淑して短歌を作っていた。東剣三に嫁いでから俳句に転じ、夫と共に原石鼎の「鹿火屋(かびや)」に学んだ。〔中略〕流れとしては新興俳句系統に近づいたが、この人は誰かに師事したという感じはしない。同伴者はいるにはいるが、いつでも一人ぼっちで立っている。つまりそれだけ誇りが高かったのだろう。
 一人我が道を行く態度なので、自分の生き方を絶えず俳句で表に押し立てていく。花鳥諷詠的な俳句の正反対であった。花鳥諷詠なら対象の花鳥に寄り添う訳だが、この人の場合は、花鳥でも何でも自分の個性を表現するための道具として使う。気が強い人だが、それを最後まで貫き通したのが立派である。〔以下略〕

【小生comment】
 この句は、従前【2637の会】《会報》でもご紹介している。が、三橋鷹女を紹介する作品として最適と思い、大岡信氏の名解説と共にお届けした。
 「鞦韆(しゅうせん)【注】は漕ぐべし愛は奪うべし」「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」「緑陰にわれや人の友もなく」「燕来て夫の句下手知れわたる」
 以上の句は、谷口桂子『愛の俳句 愛の人生』~三橋鷹女~の中で紹介された鷹女の句である。そして谷口氏は次の様に締め括っている。
【注】「鞦韆」=ブランコ。

 年を重ねていくと、その過程で否応なく心の襞(ひだ)に澱(よどみ)が溜まっていく。鷹女の体質はそれを受け付けなかった。よくも悪くも潔癖である彼女は、自分を大切にするあまり自らの身心を汚したくなかった。最愛の自分自身を永遠に透明に、純粋に保ちたかったのだ。
 それが鷹女の己の愛し方だったのだろう。

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (昭和16年『魚の鰭』)  〔了〕


【後記】■今日の締め括りは、『立冬』を過ぎた頃、「冬菊」を詠んだ水原秋櫻子の代表作の一つをご紹介してお別れしたい。
 この作品については、石田波郷が「秋櫻子の六千の全作品から一句あげよと言われたら、この句を選ぶ」と言い、「この句の洗練された叙法、清澄な気品」は秋櫻子の「あらゆる面に共通するもののエッセンスだからである」といっている。では、どうぞ・・

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ  秋櫻子

【解説】〔『水原秋櫻子自選自解句集』(講談社)より〕(昭和23年作)『霜林』所収。
 菊は、立冬を過ぎても咲き続けた。中菊は既に終わって小菊だけである。しかし残り少なくなる程大切にしたので、来る日の来る日も、白や黄の花が眼を楽しませてくれた。
 つい十日程前迄は、まだ鶏頭等も残っていたし、柿の木の梢には渋柿も眺められた。そういうものがお互い光を持ち、その光をかわし合って、晩秋の趣を成していたのに、今では全てが無くなって、残っているのはこの冬菊だけである。白には白の光、黄には黄の光があるけれど、それはただ自分のまとう光だけで、まことに寂しい感じである。しかし寂しい中にも、どこか凛としたところがあって、澄み透っている。私は時々庭に下りては、その一輪を剪(き)り取り、「鶴の首」と言われる白磁の瓶に活けて床の間に置いた。やがて朝毎に霜が降り、ついには霜柱さえ立つ様になったが、それでも小菊は咲き続けていた。八王子時代の良い思い出の一つである。

(了)

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