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2009年11月22日 (日)

【時習26回3-7の会 0265】~「11月13日:『古代ローマ帝国の遺産展』『冷泉家〔王朝の和歌守(うたもり)〕展』『安井曾太郎の肖像画展』を見て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0265】号をお送りします。
 今回は【2637の会】関連の話題はございません。
 そこで今日は、前号の《会報》にてお約束した11月13日の上京の際見てきました、上野にある[1]国立西洋美術館にて開催中の『古代ローマ帝国の遺産』展、同じく上野にある[2]東京都美術館にて開催中の『冷泉家〔王朝の和歌守(うたもり)〕』展、そして、八重洲にある[3]ブリヂストン美術館にて開催中の『安井曾太郎の肖像画』展、の3つの展覧会についてご報告致します。
 3つの美術館を山手線の往復時間を入れて1時間半で見て来ましたので、「見た」というより「駆け抜けて来た」という感じです。〔笑〕
 それでは、順を追ってご覧に入れます。

【古代ローマ帝国の遺産展】
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〔1〕雑感
 小生は、今、塩野七生著『ローマ人の物語』の《最後の努力》〔文庫本でいうと第35巻~37巻〕を読んでいる。〔添付写真ご参照〕
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 ディオクレティアヌス帝〔紀元284~305年〕とコンスタンティヌス帝〔紀元306~337年〕の時代についてである。
 さしものローマ帝国も、五賢帝時代〔紀元96~180年〕を過ぎると衰退へと向かう。
 最後の五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの後を継いだ彼の息子コモドゥス〔紀元180~193年〕暗殺後は、北アフリカ出身で騎士階級(エクィテス)出身のセプティミウス・セウェルス〔紀元193~211年〕とその一族〔セウェルス朝〕の時代が235年まで続く。
 その後、紀元284年に上述のディオクレティアヌスが帝位に就くまでの半世紀は、20人に及ぶ軍人が帝位に就く所謂『軍人皇帝時代』が続く。度重なる北方蛮族の侵入やパルティア(Parthia, 紀元前247年頃 - 228年)を滅ぼし帝国の東国境を脅かす存在となったササン朝ペルシア〔紀元226~651年〕に対処する為に軍事的能力に長けた軍人達が暗殺やクーデター〔coup d' Etat〕という手段により次々と帝位簒奪を繰り返した。
 その軍人皇帝時代に終止符を打ったのがディオクレス、のちのディオクレティアヌス帝である。ここら辺りの事柄は後日またじっくりお話したい。

 それではまず、国立西洋美術館長青柳正規氏の記した「アウグストゥスのローマ帝国~アウグストゥスの権力基盤」(抜粋)からどうぞ・・

〔2〕アウグストゥスの権力基盤
 〔前略〕
 アウグストゥスは、カエサル暗殺が共和政を否定するような独裁官政治に起因していたことをよく承知していた。その一方で、権力の集中なくしては、再び混乱の時代が到来することであろうことも十分承知していた。相反する二つの条件を満たすには自らの専政を共和政のしきたりと制度によって覆い隠さねばならなかった。紀元前31年から紀元前23年まで執政官職に毎年就任したのは、自らの強大な実権を共和政の公職制によって隠蔽するためであった。しかも、決して王になる石のないことを表明する為、プリンケプス〔第一人者、元首〕でありプリンケプスでしかない、と機会ある毎に宣言した。
 プリンケプスの名称は共和政時代、元老院議員名簿の筆頭に記される「元老院の第一人者」としてしばしば使用されており、その慣例に従って紀元前28年、アウグストゥスに贈られた慣用的な尊称に過ぎなかった。しかし、「元老院の第一人者」ではなくただ単に「第一人者」と称することによって、ひろくローマ市民全体の第一人者である印象を与えることができた。プリンケプスという尊称をアウグストゥス自身が多用したので、アウグストゥスの体制を元首政〔プリンキパトゥス〕と呼び、その時代を元首政時代と称する。〔以下略〕

【小生comment】
 この「古代ローマ帝国の遺産」展は、ローマ帝国の機構が確立し、芸術・文化の面で新たな傾向が現れたアウグストゥス時代の古代ローマ文明の全体像を紹介するもので、国立西洋美術館に続き、 愛知県美術館でも〔2010/01/06-03/22〕開催されますので、ご興味ある方はご覧下さい。
 人類史上最も長い間〔建国(紀元前753年)から西ローマ帝国の滅亡(紀元476年)まで1229年、東ローマ帝国の滅亡(紀元1453年)まで2206年〕、輝かしい文明国家として繁栄したローマ帝国。
 東洋では隣国中国も古代ローマに匹敵する文明大国を成したが、1000年を超える統一国家は存在していない。最長の王朝「周」(紀元前1046年頃~紀元前256年)でも1000年に満たない。
 日本ではまだ弥生時代という国家形成以前の原始時代に当たる時に、この様な高度な文明を形づくった古代ローマ帝国は感歎の一語に尽きる。

【冷泉家〔王朝の和歌守(うたもり)〕展】


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 さて、古代西洋文明の紹介に続いては、打って変わって、「純和風」、国文学の世界へご案内したい。
 「冷泉家」は、藤原定家の孫、為相〔ためすけ〕に始まる。
 まず、以下の系譜をご覧頂きたい。
 藤原道長―長家―忠家―俊忠―俊成〔1114-1204年(90歳)〕―定家〔1162-1241年(79歳)〕―為家〔1198-1275年(77歳)〕―為相〔1263-1328年(65歳)〕
 「この世をばわが世ぞと思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠った道長の玄孫に当たり勅撰和歌集の「千載和歌集」を編纂した俊成、同じく「新古今和歌集」を編纂した定家、いずれも数えで90歳、79歳と、同時としては超長寿を全う。定家の子為家、同孫為相もこれまた当時としては77歳、65歳と長寿。
 事程左様に、歌詠みは、感性が豊かで脳を刺激続けるのが健康・長寿を齎す様だ。《会報》【0262】号のところで俳人が長生きであるとお話したが、歌詠みも俳人も同様な精神的環境下で生きていることがいいのかもしれない。
 さて、『明月記』についてである。図録、〔第二章/明月記〕では以下の様に説明している。

 『明月記』とは藤原定家の日記である。定家の青年期である治承年間〔1177-1181年〕に欠き始められ、80歳でなくなる直前まで書き継がれたと考えられている。ただし、日記の記述内容が現存するのは、治承四〔1180〕年二月の19歳の時から、嘉禎元〔1235〕年十二月の74歳までの足掛け56年間である。
 冷泉家時雨亭文庫には、建久三〔1192〕年31歳から天福元〔1233〕年72歳までの定家自筆本が残されている。これらは〔中略〕国の重要文化財に指定されていたが、平成12〔2000〕年〔中略〕国宝に格上げされた。〔中略〕ただし、自筆本といっても、全てが狭い意味での自筆本ではない。多くの部分が、定家の後半生に家人等を動員して清書・編纂されている。『明月記』は定家個人の日記ではなく、定家の家の日記として子孫、構成に伝えられることを目的とし、そのために家の「事業」としてつくられた記録だったからである。〔中略〕
 なお、一般には「めいげつき」として知られているが、冷泉家では「めいげっき」と呼びならわしている。


【安井曾太郎の肖像画展】


                          〔安井曾太郎〕
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 以下に、展覧会に展示された安井曾太郎作品を添付する。ご覧下さい。
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 安井自身「肖像画」の表し方について次の様に語っている。貝塚健「安井曾太郎の肖像画―リアリズムと絵画的美しさ~6.リアリズムと「絵画的美しさ」」から引用する。

 「安井のレアリズムについて語る時、必ずと言って良いほど引用される文章が、以下の1922(昭和8)年に書かれた論述である。《金蓉》と《玉蟲先生像》を描く前年のものだ。「安井曾太郎『私のレアリズム』(1933年1月)」
 自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンヴァスにはりつけたい。〔中略〕人ならば、話、動き、生活する人を描きたい。その人の性格、場合によって職業までも充分現したい。〔中略〕
 素朴なリアリズム観ともいうことができるが〔中略〕
 一方で安井は、肖像画を描く際のデフォルメ〔【小生注】対象や素材となる自然の形を表現者の主観によって変えて表現する技法をデフォルマシオンといい、この技法により自然の形を表現すること〕、省略、強調、単純化についても、繰り返し述べている。〔中略〕例えば、こんな具合だ。

 肖像画は、どうしてもその肖像画が画面に現されていなければいけないので、それが「他人であってはいけない」というところに、他の人物画とは違う束縛がありますし、面白さがあると思います。ですから、肖像画を描くのは、充分なデッサンの力が必要なのは勿論ですが、描くにあたっては、何よりもまず、その肖像主をよく観察して、その性格を充分に写しとらなくてはなりません。
 その方法としては、その人の特徴をよく見出して、それを写しとる、ということや、その人の習慣的なポーズを見つけるということも大切だと思いますし、またその人の部屋で写すということも、その人の生活の自然さなども現し得るので、一つの方法でしょう。
 しかし、それは色つき写真であってはならないのです。それは充分絵画的美しさを持たねばならないのです。絵画的画面構成のうちに、必要なものだけを現すことが大切なのです。つまり、最も単化された形のよい組み立てや色のよい配置のうちに肖像主を現すことなのです。

 《坐像》          《女の顔》
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 《金蓉》       〔写真はモデルの小田切峯子〕
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 《玉蟲先生像》
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 モデルの玉蟲一郎一(たまむしいちろういち)は、1868(明治元)年4月、仙台に生まれた。仙台第二高等中学校本科、東京帝国大学英文科卒。松山中学校勤務を経て、第二高等学校教授、同8代学校長を務める。1942年没。  
 肖像画制作(1937年)17年後の安井は思い出を以下のように語っている。

 私は1914年フランスから帰朝直後〔中略〕少し大きめなものでは玉蟲一郎一氏(30号)の像が最初である。それは玉蟲さんが仙台の二高の校長を辞められた記念に学校から送られるものだった。小宮豊隆君の紹介だったが、何しろ仙台だったので、東京から行くのが億劫で尻が重かった。然し仙台には小宮君、児島喜久雄君、太田正雄君等の友人が居たので行く勇気が出たものだったらしい。
 仙台では、仙台ホテルに泊り、玉蟲さんの御宅に通った。滞在時間を短くする為に一日中ポーズをして貰ったが、玉蟲さんは実にきちんと座られてほとんど動かれなかった。玉蟲さんという人は実に硬骨な様な方だった。お父さんが仙台藩の家老だったが維新の時に佐幕派だったので藩と意見があはず、切腹された様で、その血筋を引かれたのか古武士の様なところがあった。〔中略〕 肖像が仕上ってお送りしたら、学校の小使が荷をほどきながら見て、げらげら笑ったさうであるが、その後二科展評で児島君が非常に誉めてくれ学校側も安心したさうである。〔以下略〕

 《本多光太郎肖像画》      
              《仕事中の本多先生》
                             《少女像》
                                    《深井英五氏像》

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 《F婦人像》
                      《長與又郎(ながよまたろう)博士像》
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                                                            《松原氏像》

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 《安倍能成(よししげ)像》
             《安倍能成氏像》
                          《安倍能成君像》
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 《大観先生像》
                        《徳川圀順(くにゆき)氏肖像画》
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 《小坂氏像》                 
                         《小宮豊隆氏肖像画》
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 《大内兵衛像》
                         《大原總一郎像》
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【小生comment】
 安井曾太郎の人物画は、写真の様に実物そっくりな絵ではない。彼自身がいみじくも述べている「それは色つき写真であってはならないのです」。
 だから、安井曾太郎の人物画は、「絵画的美しさを持たねばならない」のであって、観る者を絵の中引き込む魅力を持っているのだと思う。
 私事、余談であるが、西洋絵画が好きな小生の親父はこの安井曾太郎の人物画が一番好きだと常々言っていた。小生、実際にこの「人物画展」を見て親父が言っていたことが納得できた。
 親父にこの展覧会の図録を見せたら早速「一週間程貸してくれ」と言ったので今貸してある。
 そして、「東京八重洲のブリヂストン美術館でやっているが見に行くか?」と訊くと「行ってもいい」というので、小生は二度目になるが来月26~27日に一緒に見に行くことにした。まぁ、親孝行のつもりで・・。〔笑〕

【後記】
 実は小生、昨日と今日、春日井市にある大学の弓道部時代親友の一周忌があり、昨日は同期11名でご仏前とお墓にお参りした。その後、同期会を名駅前の中華料理店で開催した。同期会だけの参加者も含めると今連絡がとれる同期全18名のうちの15名が参加して暫し懐かしく楽しいひとときを過ごすことができた。
 そして、今日は本当の彼の一周忌に友人代表で参加させて頂いた。
 昨年11月は、2日に菅沼R雄君〔旧【3-5】〕が逝去され、22日にこの彼と、小生にとって大切な二人の友人を失った。
 彼の葬儀の日は、斎場に行く頃から時雨れてきて肌寒かった。その時、ふとできた俳句が次のものである。

 逝きし友別れ哀しき初時雨  悟空

 では、また・・。

(了)

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