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2009年11月の5件の記事

2009年11月29日 (日)

【時習26回3-7の会 0266】~「京都の紅葉『長岡京~光明寺』」と「奈良・西ノ京『唐招提寺』&『薬師寺』」を訪れて

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0266】号をお送りします。
***先週26日は大変失礼しました。今日はその《会報》【0266】号の正式のものです。ご査収下さい。m(_ _)m ~(^_^;)~***

 さて、今日最初の話題は、掲題・副題にある様に、「京都の紅葉『長岡京~光明寺』」の模様をご覧に入れたいと思います。

【長岡京~『光明寺』】
 時節は、11月22日に『小雪』を迎えた。流石にこの時期になると朝晩も確り冷え込み、晩秋を感じさせる。自宅の周りの落葉樹もかなり色付いて来た。そこで小生、23日(月)に、久しぶりに京都の紅葉を見に行きたくなり、自家用車で朝5時に拙宅を発ち「東名高速→伊勢湾岸道路→新名神高速→名神高速」を経て、京都南ICで降り、一路長岡京市内にある『光明寺』を目指した。
[01]「そうだ、京都、行こう」~〔長岡京~『光明寺』〕
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 この寺は、JR東海の東海道新幹線の写真広告「そうだ、京都、行こう」〔添付写真[01]ご参照〕で一躍有名になりましたね。
 かく言う小生も、この真っ赤に紅葉した美しい写真に魅せられ、引寄せられる様に訪れた次第。(笑)
 自宅から『光明寺』までは、ナビで調べると207キロ。所要時間2時間15分。7時15分に到着。しかし、開門が9時00分からという訳で、この時節に臨時駐車場となったところで1時間余りwaiting。開門時間30分前に門前に行ったが、既に開門待ちの人々が30mばかり並んでいた。開門時間の9時には、人の列は100m程になった。このwaitingの30分間に大型観光バス数台、TAXIも10台位観光客を乗せてやって来た。一大boomと言っていい程の盛況ぶりであった。
 開門と同時に観光客は、順路に従い、真っ赤に紅葉して綺麗な表参道を本堂に向かい歩き出した。が、臍(へそ)曲がりの小生、途中からまだ参詣客のまばらな帰路に当たる「薬医門」に直行。この薬医門の前の参道である「もみじ参道」が、「そうだ、京都へ行こう」の写真のところだ。やはり期待に違(たが)わず美しかった。添付写真〔[02]~[06]〕をご覧下さい。
[02]
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                        [04]
                                    [05]
                                                [06]薬医門~もみじ参道
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 『光明寺』の素晴らしい紅葉を30分程堪能した後は、一路、車を奈良・西ノ京へ。


【奈良・西ノ京『唐招提寺』】〔添付写真[08]~[11]ご参照〕
 二つ目の訪問地『唐招提寺』である。小生、学生時代に訪れて以来の三十有余年ぶりの訪問であった。
 過日、《会報》【0162】号にてご案内した會津八一の短歌を思い出した。

 おほてらの まろきはしらの つきかげを
     つちにふみつつ ものをこそ おもへ  會津八一
(大寺の円き柱の月影を土に踏みつつものをこそ思へ)

【解説】唐招提寺のエンタシスの円い列柱が春の月の光で、大地にくっきりと影を落としている、その影を踏みながら、深い物思いに耽っている。
  (原田清著『會津八一鹿鳴集評釈』)

 小生、『唐招提寺』を訪れた翌日、書店で芸術新潮2009年12月号「金堂平成大修理記念特集『唐招提寺』よみがえる天平の甍」〔添付写真[07]ご参照〕を見つけた。
[07]芸術新潮2009年12月号
             [08]唐招提寺・金堂前にて
                         [09]唐招提寺・金堂・列柱廊の柱の前にて
                                       [10]薬師如来像台座の葡萄唐草文様
                                                    [11]苔生す唐招提寺の庭
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 そして知った。平城京に創建後1250年。天平文化の面影を伝える金堂が約十年に及ぶ解体修理を終え、今月1日、落慶法要が営まれたことを。
 この解体修理は、一旦更地にして原状回復したもので、建物を構成する木製部材2万点超、屋根瓦4万4千枚の一大 jigsaw puzzle である。
 添付写真〔[08]~[11]〕をご覧下さい。
 芸術新潮の中に井上章一国際日本文化研究センター教授著「唐招提寺から見えること、見えないこと」という面白いessayがあったので一部をご紹介する。

 〔前略〕所謂古建築の修復は、〔中略〕今日〔中略〕小屋組〔注1〕を根本的に変えたりはしない筈である。
 19世紀に始まる修復は、その点で今と違っていた。建物の外観を整えるためなら、内側の構造を変えてもいい。場合によっては、西洋のトラス〔注2〕を持ち込むことも許される。〔中略〕唐招提寺金堂のキングポストトラス〔注3〕は、その大胆さにおいて際立つが。
 1891年の濃尾地震〔中略〕で多くの古建築が倒壊した。その光景も、様式工法への傾斜を強めた様な気がする。〔中略〕
 百年前には理に適っていると看做されたトラスだが、万全な解決策ではなかったらしい。〔中略〕
 唐招提寺の金堂には、列柱廊がついている。建物の正面に吹きさらしの空間があり、そこには八本の柱が並べられた。ちょっと、ギリシアやローマの神殿風に、見えないこともない。
 そのせいだろう。ここの柱を、エンタシスのあるそれとして紹介する解説が、沢山ある。〔【小生注】上述の短歌「おほてらの まろきはしらの つきかげを・・」の原田清著『會津八一鹿鳴集評釈』はまさにそれだ。〕
 エンタシスは、中程がやや膨らんだ柱の形状を指す言葉である。アルカイック期のギリシア建築に、この形でできた柱をよく見る。それと同じ柱は唐招提寺の金堂にもあると記した本が、少なくない。
 しかし、このよくある話は間違っている。ここの柱に、エンタシスと呼べる程の膨らみはない。並んでいるのはただの円柱である。
 法隆寺の中門と金堂には、鮮やかなエンタシス状の柱がある。そんな法隆寺の柱と、唐招提寺のそれを、一緒には括れない。両者の形状は、はっきり違っている。にも拘らず、唐招提寺にもエンタシスがあると言いたがる人はなくならない。
 19世紀末以後、法隆寺にはヘレニズムの文明が届いていると、しばしば語られた。地中海の古代文明が、アレクサンダー大王の遠征で、インドのガンダーラ経由の仏教伝来で、飛鳥にも伝わったとされてきた。法隆寺のエンタシスもその証として取り沙汰されることがある。
 この話には、しかし、全く根拠がない。今では、考古学者や建築史家から、顧みられなくなっている。実際、文化伝播の中継地となっているガンダーラの遺跡に、エンタシスの柱はまだ見つかっていない。法隆寺の膨らんだ柱は、ギリシアとは関りなく、東アジアで芽生えている。ギリシアからの伝来説は間違っていたのである。〔以下略〕
【小生comment】
 小生、唐招提寺の明治の改修で、西洋建築工法が使われていたことを初めて知った。それから唐招提寺金堂の柱がエンタシスの様に柱の中程が膨らんでいないということも。
 確かに写真をよく見るとただの円柱の様だ〔添付写真[09]の列柱をご参照下さい〕。
 また井上氏は、「19世紀の日本が、西洋に憧れ、その勢いが余って、自分達の歴史にも、舶来の文物があったと思い込む、思いたがる。そんな心の動きが、法隆寺にもヘレニズムは届いたとする物語を紡ぎあげた。文明開化の延長線上に、ギリシア文明の伝来を幻視した言うしかない」と手厳しい。
 そう言えなくもないが、果たして本当にそうだろうか。であれば、この後にご紹介する『薬師寺』~『薬師如来像台座』(添付写真[10]ご参照)〔国宝・白鳳時代〕~に描かれている葡萄〔=添付写真上部の帯状の図柄〕は西域、ヘレニズムの影響ではないのか? 浅学の小生にはよく解らない。
 ただ、我々が「唐招提寺のエンタシスの列柱」や「ヘレニズム〔Hellenism〕が飛鳥時代の日本に届いた」と、高校の日本史で習ったことが、研究が進み否定されることに何処となく新鮮さを感じた。何か新しい発見をした様な・・。 

〔注1〕【小屋組(こやぐみ)】 屋根を支える骨組み構造で、和風小屋組と洋風小屋組がある。
〔注2〕【トラス】木造屋根や鉄骨屋根の架設に使われる部材の節点がピン接合になる三角形が基本単位の構造骨組みのこと。
〔注3〕【キングポストトラス】中央に真束〔注4〕のある山形トラス。
〔注4〕【真束(しんづか)】洋小屋の棟木の下に位置する束〔注5〕で、陸梁を吊る関係で引張応力を受けること。
〔注5〕【束(つか)】横架材を支えるため垂直にはめ込む短い角材のこと。吊り束・真束・小屋束・床束など。
〔注6〕【切妻造】住宅建築に用いられる本を開いて伏せたような形の屋根形式。
〔注7〕【入母屋造】屋根の構造形式の一つ。上部は二方へ(切妻造)、下部は四方へ(寄棟造)勾配をもつもの。寺院などの造りに多く見られる。
〔注8〕【寄棟造】四方向の勾配屋根で棟のある屋根。ちなみに勾配が一点に集まり棟がない形は方形という。
〔注9〕【棟(むね)】屋根の最も高い部分、屋根面が交差する部分のこと。大棟、降棟、稚児棟、隅棟などの部位がある。
〔注10〕【大棟(おおむね)】屋根の頂部の水平な棟で、切妻、寄棟(よせむね)、入母屋(いりもや)等。


 続いて3つ目の訪問地『薬師寺』についてである。

【奈良・西ノ京『薬師寺』】〔添付写真[12]~[16]〕
 『薬師寺』というと、《会報》【0128】号にてご紹介した佐々木信綱の短歌「ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一片の雲」をすぐ思い出す。
 その薬師寺の東塔を見たくて今回の訪問地の殿〔しんがり〕に入れた。唐招提寺から南に程近い〔車で2~3分〕ことも大きな理由だが。
 『薬師寺』について、少しだけ日本史の復習をしてみよう。
 大海人皇子は壬申の乱の戦に勝利を収め、飛鳥浄御原宮〔あすかきよみがはらのみや〕にて第40代天武天皇として即位。
 そして、天武9〔680〕年、皇后の病気平癒を祈願し、藤原京にて建立を発願したのが薬師寺の始まり。
 それから7年後、天武天皇崩御の後は、亡夫の遺志を継ぎ即位した皇后〔第41代持統天皇〕は、薬師寺七堂伽藍を文武2〔698〕年に完成させた。
 その後、平城遷都に伴い、養老2〔718〕年に現在地に移った。
 その後幾度かの盛衰を繰り返し、享禄元〔1528〕年9月、東塔を除くほとんど全ての建物が灰燼に帰した。

[12]薬師寺・西塔 [13]薬師寺西塔の前にて
                       [14]薬師寺・金堂   [15]薬師寺・大講堂
                                                [16]解体修検査理中の東塔
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 時代は下り、昭和42〔1967〕年に高田好胤和上が住職に就任後、写経勧進運動を全国に展開。昭和51年に金堂〔添付写真[14]〕、昭和56年に西塔〔添付写真[12]〕、昭和59年に中門、平成7年に回廊の一部、そして平成15年に大講堂〔添付写真[15]〕を次々に再建。現在の大伽藍にまで回復した。
 そして現在、添付写真にある様に東塔の解体修理のための検査を行なっている〔添付写真[16]ご参照〕、という状況である。
 因みに、薬師寺は平成10〔1998〕年12月に世界文化遺産に登録された。
【小生comment】
 三十有余年ぶりの薬師寺であったので、大変懐かしかった。薬師三尊〔薬師如来、日光菩薩、月光菩薩〕に再会できたのは嬉しかった。
 しかし、東塔が解体修理中で、写真でご覧の通り仮設資材に囲まれていたのはとても残念であった。仕方のないことではあるが。
 また、再建された建造物が伽藍の多数を占め、朱・緑・白に彩られた煌びやかな世界となっていたことは大変結構なことであるが、半面、古都の鄙びた情緒が失われていまい、少々残念ではある。


【後記】■今日は、先程21時20分、城址巡りの会『賢人会』の旅行から帰って来たところです。今回は、「福知山城」→「出石城址」→「兵庫県立コウノトリの郷公園」→「城崎温泉〔泊〕」→「丹後半島~『丹後松島』&『伊根の舟屋』」→「天橋立」のcourseです。この詳細は次号の《会報》にてお伝えします。お楽しみに。
 では、また・・。

(了)

2009年11月22日 (日)

【時習26回3-7の会 0265】~「11月13日:『古代ローマ帝国の遺産展』『冷泉家〔王朝の和歌守(うたもり)〕展』『安井曾太郎の肖像画展』を見て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0265】号をお送りします。
 今回は【2637の会】関連の話題はございません。
 そこで今日は、前号の《会報》にてお約束した11月13日の上京の際見てきました、上野にある[1]国立西洋美術館にて開催中の『古代ローマ帝国の遺産』展、同じく上野にある[2]東京都美術館にて開催中の『冷泉家〔王朝の和歌守(うたもり)〕』展、そして、八重洲にある[3]ブリヂストン美術館にて開催中の『安井曾太郎の肖像画』展、の3つの展覧会についてご報告致します。
 3つの美術館を山手線の往復時間を入れて1時間半で見て来ましたので、「見た」というより「駆け抜けて来た」という感じです。〔笑〕
 それでは、順を追ってご覧に入れます。

【古代ローマ帝国の遺産展】
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〔1〕雑感
 小生は、今、塩野七生著『ローマ人の物語』の《最後の努力》〔文庫本でいうと第35巻~37巻〕を読んでいる。〔添付写真ご参照〕
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 ディオクレティアヌス帝〔紀元284~305年〕とコンスタンティヌス帝〔紀元306~337年〕の時代についてである。
 さしものローマ帝国も、五賢帝時代〔紀元96~180年〕を過ぎると衰退へと向かう。
 最後の五賢帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの後を継いだ彼の息子コモドゥス〔紀元180~193年〕暗殺後は、北アフリカ出身で騎士階級(エクィテス)出身のセプティミウス・セウェルス〔紀元193~211年〕とその一族〔セウェルス朝〕の時代が235年まで続く。
 その後、紀元284年に上述のディオクレティアヌスが帝位に就くまでの半世紀は、20人に及ぶ軍人が帝位に就く所謂『軍人皇帝時代』が続く。度重なる北方蛮族の侵入やパルティア(Parthia, 紀元前247年頃 - 228年)を滅ぼし帝国の東国境を脅かす存在となったササン朝ペルシア〔紀元226~651年〕に対処する為に軍事的能力に長けた軍人達が暗殺やクーデター〔coup d' Etat〕という手段により次々と帝位簒奪を繰り返した。
 その軍人皇帝時代に終止符を打ったのがディオクレス、のちのディオクレティアヌス帝である。ここら辺りの事柄は後日またじっくりお話したい。

 それではまず、国立西洋美術館長青柳正規氏の記した「アウグストゥスのローマ帝国~アウグストゥスの権力基盤」(抜粋)からどうぞ・・

〔2〕アウグストゥスの権力基盤
 〔前略〕
 アウグストゥスは、カエサル暗殺が共和政を否定するような独裁官政治に起因していたことをよく承知していた。その一方で、権力の集中なくしては、再び混乱の時代が到来することであろうことも十分承知していた。相反する二つの条件を満たすには自らの専政を共和政のしきたりと制度によって覆い隠さねばならなかった。紀元前31年から紀元前23年まで執政官職に毎年就任したのは、自らの強大な実権を共和政の公職制によって隠蔽するためであった。しかも、決して王になる石のないことを表明する為、プリンケプス〔第一人者、元首〕でありプリンケプスでしかない、と機会ある毎に宣言した。
 プリンケプスの名称は共和政時代、元老院議員名簿の筆頭に記される「元老院の第一人者」としてしばしば使用されており、その慣例に従って紀元前28年、アウグストゥスに贈られた慣用的な尊称に過ぎなかった。しかし、「元老院の第一人者」ではなくただ単に「第一人者」と称することによって、ひろくローマ市民全体の第一人者である印象を与えることができた。プリンケプスという尊称をアウグストゥス自身が多用したので、アウグストゥスの体制を元首政〔プリンキパトゥス〕と呼び、その時代を元首政時代と称する。〔以下略〕

【小生comment】
 この「古代ローマ帝国の遺産」展は、ローマ帝国の機構が確立し、芸術・文化の面で新たな傾向が現れたアウグストゥス時代の古代ローマ文明の全体像を紹介するもので、国立西洋美術館に続き、 愛知県美術館でも〔2010/01/06-03/22〕開催されますので、ご興味ある方はご覧下さい。
 人類史上最も長い間〔建国(紀元前753年)から西ローマ帝国の滅亡(紀元476年)まで1229年、東ローマ帝国の滅亡(紀元1453年)まで2206年〕、輝かしい文明国家として繁栄したローマ帝国。
 東洋では隣国中国も古代ローマに匹敵する文明大国を成したが、1000年を超える統一国家は存在していない。最長の王朝「周」(紀元前1046年頃~紀元前256年)でも1000年に満たない。
 日本ではまだ弥生時代という国家形成以前の原始時代に当たる時に、この様な高度な文明を形づくった古代ローマ帝国は感歎の一語に尽きる。

【冷泉家〔王朝の和歌守(うたもり)〕展】


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 さて、古代西洋文明の紹介に続いては、打って変わって、「純和風」、国文学の世界へご案内したい。
 「冷泉家」は、藤原定家の孫、為相〔ためすけ〕に始まる。
 まず、以下の系譜をご覧頂きたい。
 藤原道長―長家―忠家―俊忠―俊成〔1114-1204年(90歳)〕―定家〔1162-1241年(79歳)〕―為家〔1198-1275年(77歳)〕―為相〔1263-1328年(65歳)〕
 「この世をばわが世ぞと思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と詠った道長の玄孫に当たり勅撰和歌集の「千載和歌集」を編纂した俊成、同じく「新古今和歌集」を編纂した定家、いずれも数えで90歳、79歳と、同時としては超長寿を全う。定家の子為家、同孫為相もこれまた当時としては77歳、65歳と長寿。
 事程左様に、歌詠みは、感性が豊かで脳を刺激続けるのが健康・長寿を齎す様だ。《会報》【0262】号のところで俳人が長生きであるとお話したが、歌詠みも俳人も同様な精神的環境下で生きていることがいいのかもしれない。
 さて、『明月記』についてである。図録、〔第二章/明月記〕では以下の様に説明している。

 『明月記』とは藤原定家の日記である。定家の青年期である治承年間〔1177-1181年〕に欠き始められ、80歳でなくなる直前まで書き継がれたと考えられている。ただし、日記の記述内容が現存するのは、治承四〔1180〕年二月の19歳の時から、嘉禎元〔1235〕年十二月の74歳までの足掛け56年間である。
 冷泉家時雨亭文庫には、建久三〔1192〕年31歳から天福元〔1233〕年72歳までの定家自筆本が残されている。これらは〔中略〕国の重要文化財に指定されていたが、平成12〔2000〕年〔中略〕国宝に格上げされた。〔中略〕ただし、自筆本といっても、全てが狭い意味での自筆本ではない。多くの部分が、定家の後半生に家人等を動員して清書・編纂されている。『明月記』は定家個人の日記ではなく、定家の家の日記として子孫、構成に伝えられることを目的とし、そのために家の「事業」としてつくられた記録だったからである。〔中略〕
 なお、一般には「めいげつき」として知られているが、冷泉家では「めいげっき」と呼びならわしている。


【安井曾太郎の肖像画展】


                          〔安井曾太郎〕
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 以下に、展覧会に展示された安井曾太郎作品を添付する。ご覧下さい。
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 安井自身「肖像画」の表し方について次の様に語っている。貝塚健「安井曾太郎の肖像画―リアリズムと絵画的美しさ~6.リアリズムと「絵画的美しさ」」から引用する。

 「安井のレアリズムについて語る時、必ずと言って良いほど引用される文章が、以下の1922(昭和8)年に書かれた論述である。《金蓉》と《玉蟲先生像》を描く前年のものだ。「安井曾太郎『私のレアリズム』(1933年1月)」
 自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンヴァスにはりつけたい。〔中略〕人ならば、話、動き、生活する人を描きたい。その人の性格、場合によって職業までも充分現したい。〔中略〕
 素朴なリアリズム観ともいうことができるが〔中略〕
 一方で安井は、肖像画を描く際のデフォルメ〔【小生注】対象や素材となる自然の形を表現者の主観によって変えて表現する技法をデフォルマシオンといい、この技法により自然の形を表現すること〕、省略、強調、単純化についても、繰り返し述べている。〔中略〕例えば、こんな具合だ。

 肖像画は、どうしてもその肖像画が画面に現されていなければいけないので、それが「他人であってはいけない」というところに、他の人物画とは違う束縛がありますし、面白さがあると思います。ですから、肖像画を描くのは、充分なデッサンの力が必要なのは勿論ですが、描くにあたっては、何よりもまず、その肖像主をよく観察して、その性格を充分に写しとらなくてはなりません。
 その方法としては、その人の特徴をよく見出して、それを写しとる、ということや、その人の習慣的なポーズを見つけるということも大切だと思いますし、またその人の部屋で写すということも、その人の生活の自然さなども現し得るので、一つの方法でしょう。
 しかし、それは色つき写真であってはならないのです。それは充分絵画的美しさを持たねばならないのです。絵画的画面構成のうちに、必要なものだけを現すことが大切なのです。つまり、最も単化された形のよい組み立てや色のよい配置のうちに肖像主を現すことなのです。

 《坐像》          《女の顔》
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 《金蓉》       〔写真はモデルの小田切峯子〕
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 《玉蟲先生像》
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 モデルの玉蟲一郎一(たまむしいちろういち)は、1868(明治元)年4月、仙台に生まれた。仙台第二高等中学校本科、東京帝国大学英文科卒。松山中学校勤務を経て、第二高等学校教授、同8代学校長を務める。1942年没。  
 肖像画制作(1937年)17年後の安井は思い出を以下のように語っている。

 私は1914年フランスから帰朝直後〔中略〕少し大きめなものでは玉蟲一郎一氏(30号)の像が最初である。それは玉蟲さんが仙台の二高の校長を辞められた記念に学校から送られるものだった。小宮豊隆君の紹介だったが、何しろ仙台だったので、東京から行くのが億劫で尻が重かった。然し仙台には小宮君、児島喜久雄君、太田正雄君等の友人が居たので行く勇気が出たものだったらしい。
 仙台では、仙台ホテルに泊り、玉蟲さんの御宅に通った。滞在時間を短くする為に一日中ポーズをして貰ったが、玉蟲さんは実にきちんと座られてほとんど動かれなかった。玉蟲さんという人は実に硬骨な様な方だった。お父さんが仙台藩の家老だったが維新の時に佐幕派だったので藩と意見があはず、切腹された様で、その血筋を引かれたのか古武士の様なところがあった。〔中略〕 肖像が仕上ってお送りしたら、学校の小使が荷をほどきながら見て、げらげら笑ったさうであるが、その後二科展評で児島君が非常に誉めてくれ学校側も安心したさうである。〔以下略〕

 《本多光太郎肖像画》      
              《仕事中の本多先生》
                             《少女像》
                                    《深井英五氏像》

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 《F婦人像》
                      《長與又郎(ながよまたろう)博士像》
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                                                            《松原氏像》

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 《安倍能成(よししげ)像》
             《安倍能成氏像》
                          《安倍能成君像》
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 《大観先生像》
                        《徳川圀順(くにゆき)氏肖像画》
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 《小坂氏像》                 
                         《小宮豊隆氏肖像画》
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 《大内兵衛像》
                         《大原總一郎像》
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【小生comment】
 安井曾太郎の人物画は、写真の様に実物そっくりな絵ではない。彼自身がいみじくも述べている「それは色つき写真であってはならないのです」。
 だから、安井曾太郎の人物画は、「絵画的美しさを持たねばならない」のであって、観る者を絵の中引き込む魅力を持っているのだと思う。
 私事、余談であるが、西洋絵画が好きな小生の親父はこの安井曾太郎の人物画が一番好きだと常々言っていた。小生、実際にこの「人物画展」を見て親父が言っていたことが納得できた。
 親父にこの展覧会の図録を見せたら早速「一週間程貸してくれ」と言ったので今貸してある。
 そして、「東京八重洲のブリヂストン美術館でやっているが見に行くか?」と訊くと「行ってもいい」というので、小生は二度目になるが来月26~27日に一緒に見に行くことにした。まぁ、親孝行のつもりで・・。〔笑〕

【後記】
 実は小生、昨日と今日、春日井市にある大学の弓道部時代親友の一周忌があり、昨日は同期11名でご仏前とお墓にお参りした。その後、同期会を名駅前の中華料理店で開催した。同期会だけの参加者も含めると今連絡がとれる同期全18名のうちの15名が参加して暫し懐かしく楽しいひとときを過ごすことができた。
 そして、今日は本当の彼の一周忌に友人代表で参加させて頂いた。
 昨年11月は、2日に菅沼R雄君〔旧【3-5】〕が逝去され、22日にこの彼と、小生にとって大切な二人の友人を失った。
 彼の葬儀の日は、斎場に行く頃から時雨れてきて肌寒かった。その時、ふとできた俳句が次のものである。

 逝きし友別れ哀しき初時雨  悟空

 では、また・・。

(了)

2009年11月15日 (日)

【時習26回3-7の会 0264】~「11月13日:『原田君との再会 in Tokyo-Yaesu』」「11月16日:『リヒャルト・ニコラウス・栄次郎・クーデンホーフ=カレルギーの誕生日』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0264】号をお送りします。
 今日は、まず先週末11月13日の出来事からご報告します。

 その日は、小生、仕事で終日上京。その後、18時まで90分の時間が空いたので、上野にある[1]国立西洋美術館にて開催中の『古代ローマ帝国の遺産』展、同じく上野にある[2]東京都美術館にて開催中の『冷泉家〔王朝の和歌守(うたもり)〕』展、八重洲にある[3]ブリヂストン美術館にて開催中の『安井曾太郎の肖像画』展、の3つの展覧会を矢継ぎ早に見て来ました。
 これ等の模様は、来週以降にご報告致したいと思います。(笑)
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 実は今日は、これ等展覧会を見た後、18時00分から21時10分までの3時間余り、掲題・副題にある通り、【2637の会】memberの原田M史君と8月のクラス会以来の再会を果たし、大変楽しいひとときを過ごしましたので、その報告をします。
 彼は、外国特許に関する expert として活躍されており、毎月「外国特許トピックス」を執筆されている。先月で丸五年が経過したとのこと。毎月 theme の選定に腐心されているとのことですが、5年間も欠かさず執筆続けられているとは流石ですね。
 もし、外国特許関係で知りたいことがありましたら、原田君にお尋ね下さい。
 ご参考までに、原田君が執筆されている「外国特許トピックス」は以下のURLをご覧下さい。

           ↓↓↓
 http://www.shigapatent.com/jp/office/index.html

 因みに、2009年10月号の「外国特許トピックス」の theme は、「1.タイ PCT(特許協力条約)への加入決定」他です。
 尚、当該 report には pass word がかかっていますのでご覧になりたい方は、小生か原田君に直接お問い合わせ下さい。
 それから話題は変わりますが、原田君は極めて健康的な食生活を送ってられることをご報告します。いろいろ話聞いた中でも「黄粉の効用」は大変参考になりました。また、魚料理が得意で自身で料理される由。小生、スパゲッティと味噌汁くらいはつくりますが、魚料理は最近全くつくったことがありません。原田君を見習って今度やってみようかな、と思った次第です。(笑)
 楽しいひとときの3時間はあっという間に過ぎ去り、またの再会を約束して別れました。


■さて続いての話題。先日、鹿島建設の広報誌『鹿島200910』を読む機会があり、またも寺島実郎氏〔添付写真ご参照〕が執筆された essay に眼がとまった。そこで、その冒頭を引用する・・
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 パッチワークのように細かく複雑に彩られたヨーロッパの地図を見ていると、私はクーデンホーフ=カレルギー(【小生注】1894.11.16 - 1972.07.27)の名を思い浮かべる。私が新聞の記事で彼の存在を知ったのは、札幌の高校一年生の頃。もう46年も前のことである。「ヨーロッパ統合」を提唱し、地域統合が平和に繋がるという見方が実に新鮮だったのを覚えている。
 当時、クーデンホーフの著作の多くは、鹿島出版会から出されており、厚顔にも私は、鹿島出版会を主催する鹿島守之助氏に、高額な本には手が出ないので「お古でもよいから送って欲しい」という手紙を書いた。驚いたことに、何週間か経って、私の元に『パン・ヨーロッパ』『ヨーロッパ国民』『実践的理想主義』等、クーデンホーフ著作の本が詰まった箱が送られてきた。
 これらの本から私は、20世紀に2度の戦禍に見舞われた欧州に粘り強く地域統合を進めようという考えが存在すること、その主唱者クーデンホーフはかつて欧州を広域支配したハプスブルク帝国の伯爵家の血筋であること、彼の母が青山光子という日本女性だったことなど、興味深い事実を知った。〔以下略〕


■実は小生、かつて昭和48年〔~というから、まさに我等【2637の会】が【3年7組】の現役時代~〕吉永小百合がナレーターと青山光子役に扮して放映されたNHKのドキュメンタリー・ドラマ『国境のない伝記』を見た記憶があり、シュミット村木眞寿美氏の遍訳「クーデンホーフ光子の手記」と同氏著「ミツコと七人の子供たち」を読んだことがある。そこで、今日は「ミツコと七人の子供たち」の中から「プロローグ」の一部をご紹介します。ご覧下さい。

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 光子をテーマにしたものは、これまでにも多くの本が出版され、テレビ番組でや演劇にもなった。吉永小百合や吉行和子や大地真央らが演じたことで知られているかもしれない。数年前テレビ番組の再放送があり、遺品展が行なわれた。
 なぜ、こんなにも「ミツコ」が話題になり続けるのだろうか。その第一点は、一種の「シンデレラ物語」としてであろう。明治初期に東京の庶民の家に生まれた青山みつが、オーストリア・ハンガリー(【小生注】帝国)の外交官ハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵に見初められ、日本人初の「伯爵夫人」としてヨーロッパに渡り、ハプスブルク帝国末期のウィーン社交界で「黒い瞳の貴婦人」として活躍したという出世物語である。それはさらに、「かの有名な香水の名前までなった」という伝説さえ呼ぶ。
 第二点は、彼女の次男リヒャルトが欧州統一の礎となった「パン・ヨーロッパ運動」を提唱・推進したことによる。リヒャルトの母である光子は、やがて「パン・ヨーロッパの母」と呼ばれるようになり、夫の死後、幼い七人の子供を夫々立派に育て上げた母親として語り継がれることとなる。
 しかし、こうした今迄の「光子像」は、出版物の多い次男リヒャルトの情報をもとに、時代の風潮に合わせて脚色が加えられてきたもののようだ。私(【注】シュミット村木眞寿美)は光子自身の手記のほか、他の子供たちが伝える母の情報をも加え、光子の実像に近づいてみたいと思った。
 本当の光子はどこにいるのだろう。私は、忘れられた人たち――第二次世界大戦後にボヘミアの故郷を追われたドイツ系住民を探し、光子終焉の地メードリンクで思い出を聞き、ハインリッヒの忠実な従僕バービックの曾々孫さんにプラハで会い、光子の姪菅原京子さんを湯河原に訪ねた。これから描こうとするものは、そうした旅の十年が輪郭を作ってくれた私の「ミツコと七人の子供たち」である。

【小生comment】
 シュミット・村木眞寿美氏が、取材を元に読者に紹介した光子は、「クーデンホーフ光子の手記」で自らが語った夫ハインリッヒから受け続けた愛も七人の子宝に生まれたが13年間で終焉。彼女は31歳で未亡人となった。
 その後の彼女は、幸福な一生を過ごしたとはどうも言い難い。彼女は渡欧後一度も故郷日本に帰らず一生を終えた。そして、七人の子宝に恵まれた筈の彼女だが、彼女は、日本で生まれた光太郎と栄次郎という日本名を持つ二人の息子〔=長男ハンスと次男リヒャルト〕しか愛さなかったという。未亡人となった光子は夫から相続した財産を全部処分しウィーンに移住。爾来、次女オルガが自らの一生を犠牲にして献身的に母光子に尽くす。光子の最期を見届けたのもこのオルガである。彼女は母に尽くすことにより、自分は生涯独身を貫き、最後はドイツで貧しく孤独な76年の生涯を終えた。吉永小百合が光子に扮して放映されたドキュメント・ドラマの3年後のことという。
 光子は年を経る毎に頑固になって行った。これは、異郷における異邦人としてみられた孤独の所産であろう。本来、光子に残された数少ない精神的支えになる筈であった子供たちも光子と精神的隔たりを感じ次第に離れていって戻って来なかった。
 「人間の一生とはいったいなんだろう」「何が幸せで何が不幸?」
 シュミット村木眞寿美氏の著作と遍訳を再読し、光子クーデンホーフ=カレルギーの一生を考えてみたが、「わからない」というのが現状における小生の暫定的な答えだ。
 今日は、《会報》の編集時間がなく、消化不良のご紹介になってしまいました。ご容赦を・・。(汗)
 では、また・・。

(了)

2009年11月 8日 (日)

【時習26回3-7の会 0263】~「11月08日:『時習26回ゴルフ・コンペ』開催報告」「秋の夜長に俳句はいかが・・『四T』〔その2〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0263】号をお送りします。
 昨日、11月07日は、二十四節気でいう『立冬』。最近、朝は肌寒さを感じる程、秋も深まって来たと実感できる時節となりました。
 さてまず今日は、掲題・副題にあります様に、額田ゴルフ倶楽部で行なわれました「『時習26回ゴルフ・コンペ』開催報告」です。
 今日は、天気にも恵まれ絶好のゴルフ日和でした。参加者は先日お伝えした通りの15名。
 【2637の会】からは小生1名のみの参加でしたので、その点がちょっと寂しかったです。
 でもやっぱり同期っていいですね。大変楽しい一日を過ごすことができました。とても良かったです。
 ところで、戦績はというと、見事、壁谷(柴田)N輔君〔旧【3-5】〕が優勝しました。添付写真をご覧下さい。表彰式会場での全体写真です。
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 来年は、壁谷君が優勝幹事で、11月の14日か07日を予定しています。奮ってご参加下さい。


■さて今日の話題は、前号に続き、俳句の話題です。前号が「四S」でしたから、今回は「四T」をご紹介させて頂きます。
 森澄雄著『俳句への旅』~〔八 女流俳句の興隆〕に、次の様に紹介されています。

 昭和に入って女流俳人が多くなったが、中でも、男性の四Sに対して、所謂四T――星野立子(たつこ)(虚子の娘)、中村汀女(ていじょ)、三橋(みつはし)鷹女(たかじょ)、橋本多佳子(たかこ)――の女流作家がことに活躍した。大正時代の(長谷川)かな女、(阿部)みどり女らのしとやかで家庭的な作品に比べて、いっそう自由に、感覚も繊細に、しかも大胆になっているのが特色といえる。
 〔【小生注】森澄雄は、この後、四Tの作品を3句ずつ紹介している。「四T」について、村山古郷+山下一海編『俳句用語の基礎知識』(角川選書)にて、詳しく説明しているのでその一部をご覧に入れます。どうぞ・・〕

 四Tは山本健吉の命名による。『昭和俳句』(角川新書)に掲載された「女流俳句について」の項に《私は四Sという呼称にならって、女流俳人の四Tと呼んだことがあります》と述べている。昭和三十三年に刊行されたものである。しかし、四Sほどには、一般化されていない。〔中略〕
 昭和二年頃より「ホトトギス」婦人句会が成長、進出し始めたが、《主婦として家庭的な日常茶飯事の中に抒情の憩いを見出すといった境地である。そしてこの抒情の日常性を突き進めて、そこに清新繊細な女の感性を滲み出させたのが、星野立子と中村汀女とである》と述べている。
 〔【同注】山本健吉は〕星野立子を、虚子の娘であり、《客観写生の立場を代表し、作風はナイーブ》〔【同注】であると、そして中村汀女を、〕《女流俳句の第一人者であろう》〔【同注】と紹介している。〕〔中略〕
 橋本多佳子は、杉田久女についで、山口誓子についたが、《誓子の知的・構成的な作風の跡を追っている様であったが、次第に脱却して、独自の個性をはっきり示すに至った》と述べ、〔中略〕
 三橋鷹女は《小野蕪子(ぶし)の「鶏頭陣」の中にあって始めから個性的であった。・・・・女性としての意識を強く句の中に持ち込み、かなり大胆に官能的なものを持ち、久女の句の一面をさらに近代的に発展させている》とした。〔了〕

 それでは、四Tの作品を順次ご紹介して参ります。


 鳰がゆく水尾(みを)見えぬ程(ほど)夕ぐれぬ  星野立子(1903.11.15.-1984.03.03.)〔80歳03月〕

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【解説】〔秋元不死男『昭和秀句Ⅱ』(春秋社)より〕
 昭和12年作。句集『続立子句集』所収。〔立子34歳〕
 星野立子は高浜虚子の次女として明治36年、東京で生まれた。『ホトトギス』の婦人十句欄で腕を磨いた。あたかも虚子が花鳥諷詠を提唱した時期に当っているので、その教えに従い、写生を根底に広い幅をもって花鳥諷詠を忠実に実践した。作風は軽妙にして淡白、女性特有の繊細な感覚を駆使するところに特長がある。〔中略〕
 鳰(ニオ)はカイツブリで、鴨(カモ)より小型な冬の水鳥。湖沼等に浮かんで泳ぎ回り、長く水に潜っては魚等を巧みに捕食する。鈴をふる様な鳴き声も懐かしい。
 この句は静かな水面をニオが滑って行く景を句にした。さっきまではニオの描く水尾がはっきり見えていたが、今はあたりが暮れかかっているのでよくわからない。が、暮色はまだ濃いのではなく「水尾見えぬ程」に暮れている。その状況をさりげなく「程」と軽妙にうたいあげた。一秒毎に暮色のヴェールが沼か湖の一刻を覆うて行く様を、噛みしめる様に惜しんでいる心持が軟らかく打ち出されている。

【小生comment】
 水尾〔=澪・水脈〕とは、水の流れ。ここではニオが水面を滑っていく跡に残る水脈のこと。この句は秋元不死男氏が解説している通りである。この句は冬の句であるが、どこか今時分の秋の夕暮れにも相応しく思われるから不思議だ。


 時雨るるや水をゆたかに井戸ポンプ  中村汀女(1900.04.11.- 1988.09.20.)〔88歳05月〕

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【解説】〔現代の俳句6『自選自解/中村汀女句集』(白凰社)より〕
 ぐっと一押しに水をいっぱい出してくれるポンプ井戸のありがたき満足さを知らぬ人はあるまい。時雨は妙に私たちをいじけさせるが、その中の夕仕度のわびしさを、一押しずつに、どっと水を吐くポンプは打ち消しもする様だった。(昭和12年作)『汀女句集』所載〔汀女37歳〕

【小生comment】
 山本健吉は、著書『定本 現代俳句』の中村汀女の項で、次の様に紹介している。

 『ホトトギス』にはもと「婦人十句集」という欄があって、長谷川かな女や高浜家の縁者の集まりがあり、長く続いてその中から阿部みどり女、本田あふひ、杉田久女等が輩出した。昭和二年頃から『ホトトギス』婦人句会となり、それが基盤となって星野立子の『玉藻』が生まれ、汀女・立子という二人の女流俳人の名が浮かび上がってきた。〔中略〕所謂台所俳句の境地〔中略〕その様な雰囲気の中から抜きん出て女らしさの俳句の典型を示したのが汀女・立子の二人である。〔中略〕「秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸(マッチ)かな」「蜩(ひぐらし)や暗しと思ふ厨(くりや)ごと」「春暁や水ほとばしり瓦斯燃ゆる」等、気の利いた表現の典型的な主婦俳句であり、台所俳句である。だがこの様な凡人性の中に、細(こま)やかで清新な女の感性が沁み透っていることにおいて、彼女に如(し)く者はない。

 そう言う意味から言えば、この「時雨るるや・・」の作品もこの主婦俳句・台所俳句の典型である。
 井戸ポンプは、昭和30年代頃まで、小生父方の実家にあった。この句を詠んで懐かしい想い出がふと甦った。真夏の夕暮れ近く、盥(たらい)いっぱいにポンプ井戸の冷たい水を入れ確り冷した西瓜(スイカ)を従兄弟・従姉妹たちと争う様に頬張った想い出だ。井戸水は年中15度C前後なので夏は冷たく、冬は水道水よりずっと暖かく感じたものだ。
 昭和初期の頃、どこの家庭にも井戸ポンプがあり、一家の主婦はその井戸ポンプで汲み上げた井戸水で炊事・洗濯をしていた。
 時雨れると寒く、そして水は冷たい。現代の様に瞬間湯沸かし器やセントラル・ヒーティングのない時代だ。そんな悪環境の下、手押しポンプで汲み上げた井戸水が、ドッとと水を吐く勢いに、冷たい水仕事の辛さを暫し忘れさせて「元気」をくれるのだ。
 昭和30年中頃迄だったろうか、小生も厳冬に水洗いを続けると皸(あかぎれ)や霜焼(しもやけ)がよく出来たものだった。
 それにしても、現代の我々は幸せだ。科学の進歩と、日本の経済発展に感謝したい。

 勿論、汀女の俳句には、以前ご紹介した「外(と)にも出よ触るゝばかりに春の月」の「目がさめるばかり明るい抒情的作品〔山本健吉【前掲】〕」や「とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな」の「何か幼い子供時代に立ち返った様な心の弾みが出ている〔同【同】〕」という傑作がある。


 祭笛(まつりぶえ)吹くとき男佳かりける  橋本多佳子(1899.01.15.-1963.05.29.)〔63歳04月〕

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【解説】〔大岡信『百人百句』(講談社)より〕
 『紅絲(こうし)』(昭和26年)所収。日本敗戦直後〔昭和24年〔多佳子50歳〕〕の作。男達は戦後のつらい生活をしているが、祭で笛を吹いている時ばかりは、男らしいいなせな姿がよく似合う。この瞬間をとらえた多佳子には、男を意識した女の眼がある。美貌の女流俳人と評判され、絶えずそれを自覚していたのであろう多佳子が男を誉める句には、全体に艶めかしい良さがある。祭の句は多いが、この句は時と場所と心得て女が男のよさを上手くとらえた句だと思う。
 この句には前書があり、「戦後はじめて京都祇園祭を観る」とされた十句のうちの一句。〔中略〕祖父は琴の山田流の家元で、清風と号し黒田家に出仕して琴を教えていた。誇り高き家柄で美女だったこともあり、戦前から戦後亡くなってからも、抜群に人気が高く、女性俳人の人気投票が俳句雑誌で行なわれた時も、橋本多佳子は一位にランクされていた。〔以下略〕

【小生comment】
 谷口桂子『愛の俳句 愛の人生』~橋本多佳子~の中では、以下の様な紹介で始まっている。

 多佳子というと、まずその美貌が思い浮かぶ。
 実際に多佳子に会った作家、松本清張は、彼女が五十代の時に「まるで三十代の若さと美しさ」と思い、暗い部屋がぱっと輝いたような姿に「私は額に汗をにじませた」と書いている。〔中略〕
 多佳子に関して、私は背筋が伸びた人という印象を持っていた。〔中略〕いつも着物姿で、長身の立ち姿が凛としていた。それは人生への処し方にも繋がる様で、どんな境遇に陥っても毅然と相手を見つめている。

 橋本多佳子は、はじめ杉田久女に、ついで山口誓子に師事しただけあって、作風も構成力に富んだ歯切れの良さに、女性の持つ艶やかさが加わり魅力的だ。「戦後はじめて京都祇園祭を観る」とされた十句のうちの他の句に「ゆくもまたかへるも祇園囃子の中」「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣」「堪ゆることばかり朝顔日々に紺」があるが、皆秀句である。


 白露や死んでゆく日も帯締めて  三橋鷹女(1899.12.24.- 1972.04.07.)〔72歳03月〕

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【解説】〔大岡信『百人百句』(講談社)より〕
 『白骨』(昭和27年〔鷹女54歳〕)所収。女性のナルシズムの極致とも思える句である。「白露や」という冷たく透明感のある上五(かみご)もよい。「死んでゆく日も帯締めて」には、身だしなみを重んじた女性が、同時に女として死ぬときまで美しさを保つという決意を示していて、気品と寂寥の結びついた澄んだ悲しみがある。鷹女は実際に美人だった。女性俳人の中でも特別に気位の高い人としても知られ、なまくらの俳人は側(そば)に寄ることも出来ないと思われていた人だったので、その鷹女が詠んでいるからますますこの句が印象的である。鷹女ファンにとってはこたえられない句であろう。〔中略〕
 三橋家は歌人が多く出ており、兄が若山牧水に師事していたので、はじめ鷹女は牧水や与謝野晶子らに私淑して短歌を作っていた。東剣三に嫁いでから俳句に転じ、夫と共に原石鼎の「鹿火屋(かびや)」に学んだ。〔中略〕流れとしては新興俳句系統に近づいたが、この人は誰かに師事したという感じはしない。同伴者はいるにはいるが、いつでも一人ぼっちで立っている。つまりそれだけ誇りが高かったのだろう。
 一人我が道を行く態度なので、自分の生き方を絶えず俳句で表に押し立てていく。花鳥諷詠的な俳句の正反対であった。花鳥諷詠なら対象の花鳥に寄り添う訳だが、この人の場合は、花鳥でも何でも自分の個性を表現するための道具として使う。気が強い人だが、それを最後まで貫き通したのが立派である。〔以下略〕

【小生comment】
 この句は、従前【2637の会】《会報》でもご紹介している。が、三橋鷹女を紹介する作品として最適と思い、大岡信氏の名解説と共にお届けした。
 「鞦韆(しゅうせん)【注】は漕ぐべし愛は奪うべし」「夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり」「緑陰にわれや人の友もなく」「燕来て夫の句下手知れわたる」
 以上の句は、谷口桂子『愛の俳句 愛の人生』~三橋鷹女~の中で紹介された鷹女の句である。そして谷口氏は次の様に締め括っている。
【注】「鞦韆」=ブランコ。

 年を重ねていくと、その過程で否応なく心の襞(ひだ)に澱(よどみ)が溜まっていく。鷹女の体質はそれを受け付けなかった。よくも悪くも潔癖である彼女は、自分を大切にするあまり自らの身心を汚したくなかった。最愛の自分自身を永遠に透明に、純粋に保ちたかったのだ。
 それが鷹女の己の愛し方だったのだろう。

 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉 (昭和16年『魚の鰭』)  〔了〕


【後記】■今日の締め括りは、『立冬』を過ぎた頃、「冬菊」を詠んだ水原秋櫻子の代表作の一つをご紹介してお別れしたい。
 この作品については、石田波郷が「秋櫻子の六千の全作品から一句あげよと言われたら、この句を選ぶ」と言い、「この句の洗練された叙法、清澄な気品」は秋櫻子の「あらゆる面に共通するもののエッセンスだからである」といっている。では、どうぞ・・

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ  秋櫻子

【解説】〔『水原秋櫻子自選自解句集』(講談社)より〕(昭和23年作)『霜林』所収。
 菊は、立冬を過ぎても咲き続けた。中菊は既に終わって小菊だけである。しかし残り少なくなる程大切にしたので、来る日の来る日も、白や黄の花が眼を楽しませてくれた。
 つい十日程前迄は、まだ鶏頭等も残っていたし、柿の木の梢には渋柿も眺められた。そういうものがお互い光を持ち、その光をかわし合って、晩秋の趣を成していたのに、今では全てが無くなって、残っているのはこの冬菊だけである。白には白の光、黄には黄の光があるけれど、それはただ自分のまとう光だけで、まことに寂しい感じである。しかし寂しい中にも、どこか凛としたところがあって、澄み透っている。私は時々庭に下りては、その一輪を剪(き)り取り、「鶴の首」と言われる白磁の瓶に活けて床の間に置いた。やがて朝毎に霜が降り、ついには霜柱さえ立つ様になったが、それでも小菊は咲き続けていた。八王子時代の良い思い出の一つである。

(了)

2009年11月 1日 (日)

【時習26回3-7の会 0262】~「秋の夜長に俳句はいかが・・」


 今泉悟です。 大分日が短くなり秋も深まって参りましたが、皆さん如何お過ごしですか。
 当地豊橋は、10月08日に東三河地方を襲った台風18号の影響で、街中(なか)のポプラ、銀杏等、いつもは紅葉が美しい街路樹の葉が塩害で茶色に枯れてしまい、改めて台風の凄さを感じています。
 さぁ、今日も【2637の会】会報【0262】号をお送りします。
 今日も【2637の会】関連のニュースはありません。
 ただ【時習26回】関連のニュースを二つお伝えします。

 〔1〕最初の話題は、【時習26回ゴルフコンペ(時習26会)】開催のご案内です。
 関係者には既にご案内済ですが、毎年秋に年1回の定例開催となっていますゴルフ・コンペのご案内です。
 来る11月08日(日)09時03分から、岡崎市額田町にある額田ゴルフ倶楽部西コースにて、現状参加予定者4組15名で開催する運びです。
 あと1名の空き枠がありますので、もしご興味ある方は、小生宛にご連絡下さい。

 〔2〕二つ目の話題は、先週10月28日の新聞各紙朝刊に、日本郵政の新役員人事が発表されましたが、その社外取締役の一人に、我等が同期神野T子さん〔旧【3-9】〕の弟、神野吾郎氏〔中部ガス(株)代表取締役、(株)サーラコーポレーション代表取締役社長〕が就任することが27日ほぼ固まったと報じられました。「人選は郵政事業の公共性に配慮。電力や電話、ガスといった公共性の高い業種の出身者や、中小企業や地域経済の実情に詳しい人材を中心に選んだ。」として、九州電力会長等と共に選ばれた様です。
    ↓ ↓ ↓ 
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=90920018&sid=ay8ZOwvcGPtY ←ここをクリック願います。

             *   *   *

 さて、話題はかわって、昨年10月31日【時習26会3-7の会 0209】号では、以下の様に紹介させて頂いてました。


 敢えて思ふ 燈火親しむべきの候  久保田万太郎〔添付写真〔01〕ご参照〕

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【解説】「燈火親しむ」とは、秋の夜、書物に親しむことを言う。中唐の政治家・詩人、韓愈「 符読書城南 」(全唐詩341巻)の「・・ 時、秋にして積雨霽(は)れ、新涼郊墟(こうきょ)に入(い)る。灯火稍(ようや)く親しむ可(べ)く、簡編(かんべん) 卷舒(けんじょ)す可(べ)し ・・」が出典。

 灯(ひ)のともるまでのくらさや秋の暮  久保田万太郎

【意】秋の夕暮れ、灯がともって、その灯の明るさ、眩しさに驚く。それほど、闇の暗さが際立つ。実感できる俳句である。

 これらに触発され、小生も拙句を一つ・・。句またがりの一気呵成の十七句。読書しながら想うは君のこと・・

 燈火したしみながらきみおもひけり  悟空


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 流石に現代では燈火ではないが、デスクの蛍光灯の灯りの下で、小生は今、俳人森澄雄著「俳句への旅」〔角川選書〕〔添付写真〔02〕ご参照〕を読んでいる。
 そしてまず、今日ここでご紹介する7名の高名な俳人の生年・没年〔森澄雄氏は今もご壮健である(為念)〕をご覧下さい。
 長命順に並べてみたが、驚く勿れ、7名中5名が卒寿以上。最短命の高野素十〔以下、敬称略〕でも満83歳。
 俳人は現代の画家同様、極めて長命な人が多い。因みに、青邨、風生、誓子、秋櫻子、素十は東大俳句会出身。
 秋櫻子、素十は医者。青邨は大学教授。澄雄は高校教諭。風生は郵政事務次官。
 青畝は幼少時、難聴を煩い進学を断念した銀行員。妻を二度亡くしている。
 誓子は大学卒業後、住友合資に17年勤めるも胸部疾患の病状悪化で退職し、以後文筆活動に専念。
 7人は、7人夫々の一生を送った(送っている)が、花鳥諷詠のごとく、身辺での出来事の機微を逃さず十七文字に纏めうたい上げていく日々が、老いを遠ざけているのであろう。
 小生も、立派な先人達を見習い、俳句を勉強して元気に長生きしたいものである。〔笑〕


 山口青邨 〔 1892.05.10.- 1988.12.15.〕(96歳07月)〔添付写真〔03〕〕
 03

 阿波野青畝〔 1899.02.10.- 1992.12.22.〕(93歳10月12日)〔同〔04〕〕
04

 冨安風生〔 1885.04.16.- 1979.02.22.〕(93歳10月06日)〔同〔05〕〕
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 山口誓子〔 1901.11.03.- 1994.03.16.〕(92歳04月)〔同〔06〕〕
06









 森澄雄〔 1919.02.28.- 〕(90歳08月)〔2009.11.01.現在〕〔同〔07〕〕
07

 水原秋櫻子〔 1892.10.09.- 1981.07.17.〕(88歳09月)〔同〔08〕〕
08

 高野素十〔 1893.03.13.- 1976.10.04.〕(83歳06月)〔同〔09〕〕
09


 それでは、「俳句への旅」の中から一つ「七 四Sの台頭――抒情の回復と近代的素材」をご紹介します。では、どうぞ・・

 〔七〕 四Sの台頭――抒情の回復と近代的素材

 「客観写生」の主張の下に、暫く沈滞していた『ホトトギス』は四Sの台頭によって、昭和初期再び黄金期を迎える。四Sとは、東の水原秋櫻子、高野素十、西の山口誓子、阿波野青畝の四作家の俳号の発音から、山口青邨がつけた呼称である。大正初めの飯田蛇笏、前田普羅たちによる第一期の興隆期が、聳え立つ山脈の時代とすれば、この四Sの時代は、平原の時代と言えよう。そこに咲くとりどりの草花、またそこに立った都市の近代的風物に新しい光を当てた時代である。
 水原秋櫻子は初め窪田空穂に短歌を学び、万葉風の言葉や調べを取り入れて、今迄の「わび」「さび」といった、やや暗い室内的芸術から俳句を明るい外光の中に引き出し、絵画で言えば印象派風の明るい叙情句を、そして山口誓子は、今迄俳句に詠まれることのなかったスポーツや都市の風物に素材を広げ、虚子より「辺境に鉾を進める征夷大将軍」と呼ばれた。
 高野素十は虚子の「客観写生」「花鳥諷詠」の使徒としてそれを守りつつも、自然の機微に触れる的確な作風を形成し、阿波野青畝は庶民的で温かく、品位のある自在な詠風を開いた。このふたりも共に調べを大切にしたことは言うまでもない。『ホトトギス』の客観写生の歴史の中で、四Sの時代もまたある意味で主観の高揚期であったと言えよう。
 【小生注】以下四Sの代表作を5句ずつ森澄雄は紹介しているが、ここでは夫々1句ずつ、代表作とされる以下の4句をご紹介する。
 そして、全作品とも、自選自解の解説、或いは山本健吉の「定本/現代俳句」での解説をご紹介する。森澄雄の四Sの評価は蓋し的確で、彼の述べた特長がその代表作によく表れている。その妙を堪能して見て下さい。

 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋櫻子

【解説】〔「水原秋櫻子自選自解句集」より〕
 翌日の正午近く、大洞を出発して、敷島口から下りることにした。上越線の敷島駅に達する道で、六里ほどある。
 昨日と同じく麗しい日和であった。前橋口との別れ路に近く、大きな水楢(みずなら)が立っていたので、その樹蔭に休憩した。附近の木に啄木鳥(きつつき)が来ていて、幹を叩く音が静かな山気の中でよくきこえた。
 その時は、詠んでみる気もなくて捨てておいたのだが、翌年の夏のことと思う。ふと、それを詠みたくなって、なんの苦もなく詠みあげた。苦労がなかったので、自分でも特に気にとめていなかったが、後にいろいろ褒めてくれる人があったので、次第に愛着を覚える様になった。明治時代の俳句と違って、明るい外光を採り入れたのがよかったのであろう。印象派風の油彩画が好きで、展覧会を見ては勉強していた効果が、「桑の葉の」の句や、この句に至って現れた訳である。どこも推敲していないから、すらすら読むことの出来るのも気持がよい。〔昭和二年作『葛飾』所収〕
【小生comment】
 「印象画風の油彩画」とはよくこの作品の妙を言い当てていると思う。ピサロやシスレー、ゴッホの風景画を思い浮かべこの句を詠むと、場所は晩秋の上州の落葉樹林。風が吹くたびに紅葉した樹々の葉がはらはらと落ちていく。そのとき啄木鳥のコンコンコンと樹を叩く音が聞こえて来る。これ等の情景が、まるで額縁の中で動く印象派油彩画の様に輝いて見える。極めて明るい絵画的な秀句である、と思う。

【解説】〔山本健吉「定本 現代俳句」より〕
 秋櫻子の代表句の一つとして知られている。赤城山での五句連句の一。「コスモスを離れし蝶に峪(たに)落し」「白樺に月照りつゝも馬柵(ませ)の霧」「月明や山彦湖をかえし来る」「二の湖に鷹まい澄める紅葉(もみぢ)かな」が同時の作である。
 これ等の句を見ても感じられるのは、彼の作品が在来の俳句的情緒から抜け出て如何に斬新な明るい西洋絵画風な境地を開いているかと言うことだ。これ等の新鮮な感触に満ちた風景画が、それ以後の俳句の近代化に一つの方向を齎したことは、特筆しておかなければならない。在来の寂び・しほり〔(しおり)【小生注】蕉風俳諧の根本理念の一。人間や自然を哀憐を以って眺める心から流露したものが自ずから句の姿に現れたもの〕では捉えられない高原地帯の風光を印象画風に描き出したのは彼であった。これは一つの変革であって、影響するところは単なる風景俳句の問題ではなかったのである。
 この句の感触には、いつまでも色褪(あ)せない瑞々しさがある。このような句で「牧」と言うと、日本流の牧場よりも西洋流の meadow といった印象を受けるから不思議である。高爽な清澄な晩秋の空気さながらに美しい風景句として現出する。「落葉をいそぐ」というのも美しい言葉だ。葉を落とした樹肌(きはだ)に、啄木鳥が叩いている姿が露(あらわ)なのである。

 スケートの紐(ひも)むすぶ間も逸(はや)りつつ  山口誓子

【解説】〔「山口誓子自選自解句集」より〕
 天然のスケート場ではない。大阪のアサヒビルの屋上にあったスケートリンクである。小学生の私は樺太の豊原で下駄スケートを得意としていたから、靴スケートはすぐうまくなった。
 私の勤めている住友ビルからアサヒビルはすぐ近くだった。勤めが終ると、その足でよくスケートに行った。
 ロッカーに預けてあるスケート靴を取り出し、長椅子に腰を卸して靴を穿(は)くのである。足にぴったり合っているその靴を穿いて、きっちり紐を結ぶ。そのときすでに、こころは氷上にあって、はずんでいる。まるで少年のようだ。私は昔の少年に帰ったようだ。〔昭和七年作『凍港』所収〕
【小生comment】
 詠み手の心情を素直に表現した現代俳句と言えば山口誓子の真骨頂である。十七文字の中からはち切れんばかりに逸る気持ちが読み手に伝わって来る。極めて口語的だが、俳句としての品格を備えているから素晴らしい。

 方丈の大庇(おおひさし)より春の蝶  高野素十

【解説】〔山本健吉「定本 現代俳句」より〕
 彼の代表作として喧伝(けんでん)されるものであり、4Sの一人として彼の地位を確実にした作品。石庭で名高い龍安寺での作と言う。
 恐らく作者は方丈の前の廊下にあって庭を眺める位置にあったのだろう。庭に突き出た深い庇の上から、ひらひらと小さな蝶が下りて来た。蝶は春の季物である。この場合何故作者はわざわざ「春の蝶」と言わねばならなかったか。春先の小形の蝶だろうなぞと言ってみても始まらぬ。だがこの「春の蝶」の語は不思議によく利いているのである。言ってみようなら、それは大庇の上に麗(うら)らかな春の空を想い浮かばせる。蝶の来(こ)し方であり、蝶が今そこから庇へ下りて来たところの春の空である。ひっそりと静まった冷たい庭に、それは一点麗かな大空の気を運んで来る。
「より」と言い「春の」と言った曲節に伸びやかな調べがある。春でなければならない調べである。
 以上は「春の蝶」の不思議な効果をちょっと敷衍(ふえん【小生注】押し広げること)してみたまでだ。「大庇より春の蝶」――読者は夫々この美しい措辞(そじ【同注】ことばの使い方)を百誦して、独自の感動を受け取ったらよかろう。
【小生comment】
 この句を読むと、版画で描かれた、「龍安寺の石庭と大庇、そこから舞い出る蝶」をふっと思い浮かべる。極めて絵画風な詩である。しかも前述した秋櫻子の作品が印象派油彩画風に対して、素十のほうは純和風で対照的である。花鳥諷詠を標榜した虚子が「一番!」と褒め称える気持ちがよく解る。蛇足だが、素十の句には蝶だとか、虫や蛙、草花が具体的によく詠まれている。

 緋連雀(ひれんじゃく)一斉に立ってもれもなし  阿波野青畝

【解説】〔「阿波野青畝自選自解句集」より〕
 悪性感冒が全国に大流行した。医者は手を下す術もなかった。死んだ医者もあるほどの悪い年であった。京都にいた私は忽ち兄二人を喪(うしな)ったので、郷里高取に呼び戻された。
 京を離れるとなれば名残がある。落柿舎辺りを歩いてみたく、ただぶらぶらと細い藪のみちを拾う。そして誰にもあわぬ孤独をしみじみ味わった。つめたく熟れた烏瓜を引きちぎった。そのとき小鳥が忙しく渡っていった。目の前に一群の緋連雀が来た。敏捷な挙動をとりながら統率がとれている。赤い冠毛がとても可憐だ。しかし、次の一瞬には一羽もいなくなった。掃き捨てたように本当に見えない。この句がいいのかどうか、自身がわからない初心者である。ただ勢いの感じられるところが他の句よりも良いかなと思う程度だった。〔(1918年作)『万両』所載〕

【解説】〔山本健吉「定本 現代俳句」より〕

 しかし、虚子が客観写生を遵守する高野素十を称揚したため、予てから「客観写生」「花鳥諷詠」に飽き足らなさを感じていた秋櫻子は、素十の「甘草(かんぞう)の芽のとびとびのひとならび」等の俳句を瑣末〔さまつ【小生注】取るに足らないこと〕主義的な「草の芽俳句」と称し、昭和六年、主宰誌『馬酔木(あしび)』に「自然の真」はそのままではまだ掘り出された儘の鉱(あらがね)で、その鉱を頭の中で鍛錬し、加工して、個性の表現としての「文芸上の真」に到達しなければならない、と説き、客観写生の『ホトトギス』に反旗を翻して独立、やがて山口誓子も『馬酔木』に加盟するに至った。ここに大きく俳壇は分裂し、以後俳壇は秋櫻子、誓子らを中心として動き、彼等の新しい俳句の革新によって、現代俳句はここから出発することになった。
 一方、虚子の『ホトトギス』も依然として強い勢力を保ち乍ら、次の様な作家が以後の『ホトトギス』を支えることになった。松本たかし、川端茅舎、冨安風生、山口青邨といった作家達である。〔以下略〕

【後記】
 何か、高校現代国語の俳句の授業の様になってしまいましたネ。〔笑〕
 でも、『ホトトギス』から『馬酔木』が分離独立した辺りの俳壇の歴史的流れが森澄雄の解説でよくお解りになったと思います。
 因みに、今日、最初のほうでご案内した久保田万太郎〔1889.11.07.- 1963.05.06.〕の寿命は(73歳06月)です。
 尚、先ほどご紹介した山口青邨はじめ7人は確かに長命ですが、俳人には、正岡子規〔1867.10.14.-1902.09.19.〕(34歳11月)、川端茅舎〔1897.08.17.-1941.7.17.〕(43歳11月)、石田波郷〔1913.03.18.-1969.11.21.〕(56歳08月)等の様に結核で(比較的)短い生涯を終えた人達も勿論いますので、必ずしも、俳人が全て長命でないことは言うまでもないことです。
 が、いずれの俳人も人生の幕を下ろす直前まで、俳句をつくっており、所謂老人性痴呆症とは無縁の方々であったと思います。
 いずれにせよ、健康は自分自身の毎日の管理の積み重ねです。
 その健康維持・増進のため、俳句も一つの有力な tool となるものと確信しました。
 ところで、最近のニュースでは、新型インフルエンザの患者総数が百万人を超えたとか・・。
 皆さんも、外出や人ごみの中でのマスク着用、外出から帰った際の、うがい、手のアルコール消毒の励行等に心掛け注意して参りましょう。
 では、また・・。(了)

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