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2009年12月の4件の記事

2009年12月27日 (日)

【時習26回3-7の会 0270】~「12月19日:『彦坂君からのmail』」「J.ミンチントン『心の持ち方』とR.テンプラー『人生のルール』の中から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0270】号をお送りします。
 さて今日は、【2637の会】《会報》前号にてお約束しました通り、久し振りに彦坂君からmailを頂戴しましたのでご紹介させて頂きます。
 ではどうぞ・・
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2009/12/19
今泉 悟様
                  千葉県  彦 坂
 こんばんは。久しぶりにメールをいただきましたが,お元気ですか。
 ずいぶん古い新聞記事を覚えていてくれて,どうもありがとうございます。
 自分で出した結論ですから,間違ってはいないと信じたいところですが,先日の最高裁の決定でこれが認められてほっとしております。
 今日では裁判員裁判も始まりましたし,昭和40年代の刑事手続きとは異なるところも少しありますが,それでも誤判が少しでもなくなるように刑事システムのチェックが常に必要ではあると思います。

 会報も260号を超えて,更に快調に続いていますが,なによりも高校の同級生の近況を手軽に知ることができるのはいいことだと思います。
また,紀行物あり(この夏奈良を観光してみましたが,薬師寺の東塔の存在感はあの境内で格別でした。),美術館巡りあり(私もたまに行きますが,悟君の熱心さにはとてもかなわないですね。),その他今泉ワールドを楽しませてもらっています(興味のある部分を拾い読みですけど。)。前にも同じようなことを書いたかもしれませんけど。
引き続き,新しいネタを仕入れて,会報で紹介して下さい。

 (近況報告)私も遅まきながらこの12月から裁判員裁判を経験することとなりました。裁判官3名,裁判員6名,補充裁判員(裁判員が都合が悪くなった場合に交代する人)2~3名という10人を超える人が,ミーティングをして,限られた時間で結論を出すわけですけど,メンバー全員が限られた時間で事件の内容を理解して意見を出し合うことができるようにするのは結構大変ですね。裁判員制度が始まる前に準備はしてきましたが,これからも苦労が続きそうです。裁判員を経験した人がいましたら,守秘義務に反しない限度で,感想や意見を聞かせて下さい。
 それでは,お元気で。さようなら。

【小生comment】
 彦坂君、mailをありがとうございます。
 そして【2637の会】《会報》の応援、大変嬉しく思います。
 そう、『裁判員制度』は、積極的とまで行かなくてもせめて「前向きに」捉え、関与しなければならないと思います。裁判員に指名されたらそれは「国民の義務」であると心得るべきであると思います。
 彦坂君から依頼がありました。
「裁判員を経験した人がいましたら,守秘義務に反しない限度で,感想や意見を聞かせて下さい」と。
 【2637の会】membersの皆さんで、「裁判員」になられたら、その模様についてご感想を是非教えて下さい。
 宜しくお願いします。


■さて、続いての話題です。
 最近、まだまだ人間としての魅力に乏しい小生、反省の意味を込め、2冊の本を買い読んでみた。それが「J.ミンチントン『心の持ち方』とR.テンプラー『人生のルール』」という本だ。
 これ等の本は、前者が50項目、後者が100項目に亘り、人生立派な人間として生きていく為の処方を教えてくれている。
 そこで今日は、これら150項目の中から、三つご紹介します。

【48 いい友人になるように努める】〔~J.ミンチントン『心の持ち方』〔Discover21〕より~〕
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◆◇いい友人がほしいと思うなら、まず自分がいい友人になることを心がける◇◆

 誰でも、いい友人がほしいと思っているが、自分がいい友人になるよう努力しているとは限らない。いい友人になりたいなら、次の条件を肝に銘じよう。
●自分とは異なる価値観を尊重する。・・・人はみな、考え方が違う。友人が何かを大切にする時、あなたはその友人の気持ちを大切にしているだろうか?
●友人の人生と幸福に関心を寄せる。・・・あなたは友人の関心事を自分の関心事として捉えることができるだろうか?
●信頼できる人間になる。・・・信頼のない友情は、もはや友情ではない。真の友人は、信頼の大切さを知っている。
●誠実である。・・・相手が正しいと思った時に相手を擁護できるか? 相手が間違っていると思った時相手にそれを伝えることができるか?
●妥協する。・・・重要な問題については妥協すべきではないが、些細な問題については妥協する必要がある。
●幸せを分かち合う。・・・喜びは、それを分かち合う友人がいて初めて完全になる。
●正直である。・・・友人には絶対にうそをついてはいけない。

 もし仮に、友人になることが簡単なら、恐らく誰もが何万人もの友人を持つことができるであろう。しかし、友人になるためには以上の条件を満たさなければならない。まず、自分自身がいい友人になることから始めよう。


【50 愛を表現する】〔~J.ミンチントン『心の持ち方』〔Discover21〕より~〕

◆◇愛を感じているのに内に秘めてはいけない。 愛を表現する習慣を身につけよう◇◆

 世の中全体が愛に飢えている。
 私たちは「愛されていないと感じているのは自分だけだ」と思っているが、そんなことはない。これは殆どの人を悩ませている問題なのだ。もしもっと頻繁にに愛を感じて、そのことを表現すれば、私たちが人生で直面する問題は少なくなる筈だ(少なくとも、余り問題を感じなくなるだろう)。
 私たちが愛を感じていない訳ではない。問題は、愛を感じているのに、それを内に秘めてしまうことだ。しかし、それはよくない。
 そろそろ、やり方を変えてみてはどうだろうか。誰かに愛を感じている時は、それを何らかの方法で示すのだ。例えば、愛を言葉で表現することに抵抗がなければ、「君が好きだ」「愛している」等の言葉で愛を伝えるといい。自分で愛を表現する以上に、世の中に愛を増やす、よい方法があるだろうか。 ここで、愛に関する事実を覚えておこう。

 1 本物の愛は温かくて優しい感情であり、相手に見返りを求めない
 2 愛の貯蔵庫はいつも一杯だから、愛をいくら与えても尽きることはない
 3 誰かを愛することは、愛されることと同じように喜びに満ちている
 4 愛は貴いものであり、誰にも気付かれないように秘めておく必要はない
 5 人に愛を与えれば与えるほど、人に愛される存在になる 


【Rule44 いつも若々しくいる】〔~R.テンプラー『人生のルール』〔Discover21〕より~〕
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◆◇新しい趣味を始めたり、行ったことのない場所に出かけたり、新しい服装を試したりする。それが若さである。◇◆

 老いは避けられない。それなのに、このルールがあるのは何故か?
 肉体的に歳を取るのは避けられないことで、美容整形を受けて歳をごまかしても無駄なことだ。ここでいう若さとは、気持ちのことを言っている。
 心の中は21歳の儘だと入っている60代の女性を知っている。彼女の心の中身は表にも現れ、それが若さを保っている。
 若さとは、ぶつぶつ小言を言ったり、同じことを何度も繰り返し話したりせず、新しいことにチャレンジすることでもある。安全な選択肢を選ばず、今、起こっている出来事に遅れないで付いて行くことだ。歳を取り過ぎているからと言って、サイクリングすることを諦めたりしないことである。
 保守的になったり、多くのことを否定したり、過去に満足してしまわないことだ。(ここは私も、もう一度読んで自戒せねばならない)。常に若々しくいるとは、世の中を常に新鮮な目で眺め、興味を抱き、刺戟を受け、意欲を起こし、冒険的であることなのである。
 永遠の若さとは、心の状態である。
 あなたがまだ若ければ、このルールは必要ないかもしれない。しかし、あなたもいつかこのルールが必要になる時が訪れるだろう。

【小生comment】
 上記の三つの教えは、全くその通りであると思う。
「いつも若々しくい」て、「愛情を持」ち、「いい友人になるように努め」ていれば、これからの、残された人生も楽しく有意義に生きて行けるだろう。


【後記】
 今日のお別れは、何か閉塞感のある現在の我が国日本を現している記事を3件お贈りします。

〔1〕雑誌「選択」の2010年01月号の巻頭を飾る「巻頭インタビュー」から「エズラ・ヴォーゲル~『対等な日米関係』は所詮無理」
◆Q〔今年は日米安保条約改定五十周年という節目。日米関係はどうなるでしょう。〕
 【ヴォーゲル】 日米同盟関係を再確認するいい機会だ。鳩山首相も日米同盟関係は大事だし、深化させると言っている。私は、日米関係の今後については楽観視している。但し、「対等な日米関係」については懐疑的だ。そして、米国側はライシャワー(元駐日大使、元ハーバード大学日本研究所所長)時代以来「日米関係はずっと対等だ」と言っている。しかし、学者としての立場から言えば、日米が「対等な関係」になるなどというのは所詮無理だと思っている。米国の軍事力は世界最強だし、核兵器も持っている。さらに、現在の日米安保条約では、米国は日本を保護するが、日本が米国を保護する責任はない。〔中略〕
◆Q〔日本の存在感が希薄になっていると言われていますが、どうですか。〕
 【ヴォーゲル】 中国との比較で言えば、相対的に日本の存在感は希薄になっているかもしれない。中国は(経済力でも軍事力でも)強くなっている。現在の国際問題を考えるとき、米国が同盟、友好国の日本よりも、中国と話さなくてはならないケースは避けられない。中国はその際、諸問題を日本より迅速に処理している。そして一度合意した事項については(日本より)早急に実現する。この点を日本は見習うべきだろう。在沖縄海兵隊再編問題は、十年以上前に日米合意されたことにもかかわらず何も実現していない。
◆Q〔米知日家の中には、「日本に失望した」という人もいます。〕
 【ヴォーゲル】 私自身は今迄日本に失望したことは一度もない。確かに、かつての様な経済成長はもはや望むべくもないが、国民総生産(GNP)や国民生活の水準も変わっていない。しかも全世界といい関係を保っている。日本の企業は一生懸命やってきたし、これからもやるだろう。但し、米国で勉強したいという若者が少なくなっているのは気になる。ハーバードにやってくる日本人留学生の数は、四十年前に比べると減った。
◆Q〔民主党政権はいかがでしょう。また、日本の政治家はどうあるべきと考えますか。〕
 【ヴォーゲル】 政権を樹立したものの、経験不足。知識不足のために何をやったらいいのか、分かっていない。もっとプラグマティック(【小生注】実践的、実利的)な政策をやるべきだ。鳩山首相の言う「東アジア共同体」構想にしても理想としてはいいが、共同体そのものを十年、二十年以内に実現させるのは不可能だ。鳩山首相は人柄はいいようだが、世界に通用する政治家としてはまだまだ未成熟。〔中略〕 民主党政権は、官僚叩きを「錦の御旗」に事務次官制度の廃止等いろいろ言っているが、官僚は上手く使うことが肝要。幸か不幸か日本には、これ程のシンクタンクは他にない。官僚打倒も結構だが、ならば、中曽根さんや太平さん(故人、正芳元総理大臣)が知恵袋として使った佐藤誠三郎さん(故人、元東大教授)達の様な優秀な学者グループを作ってブレーントラスト〔【小生注】顧問団〕にすべきだ。
 【小生注】ヴォーゲル氏は、1980年代の日本の経済成長神話を世界に知らしめた「ジャパン・アズ・№1」の著者として著名。元ハーバード大学教授。

〔2〕今日の日経新聞1面記事「2010年 日本と世界[1]~「福井俊彦〔前日銀総裁〕~『大国の衣を脱いで闘え』」
◆Q〔2010年の世界経済は回復への正念場になりそうです〕 
 「危機後の安定的かつ持続的な成長に向けた地ならしの年になる。特に新興国・地域の台頭に伴う世界のガバナンス(統治)の変化に向け、責任感の面で新たな芽が出ることが大事だ」
 「新興国・地域は世界経済での比重が高まり、危機後もいち早く回復に転じたが、貧困解消や経済開発といった課題は大きい。世界全体によかれという考えで行動できるかが鍵を握る。地球温暖化を巡る議論でも、その難しさが表れた」
◆Q〔中国が焦点となります〕 
 「振れが大きくなってきた世界経済の安定運営を目指すなら、需給の円滑な調整や資源の最適な配分が欠かせない。市場の機能をフルに活用せずに、責任を果たせるのかという根本的な問題にどうしてもぶつかる。世界経済への責任という意識が強まるほど、人民元を固定的に考えることとの矛盾が深まる。世界中から柔軟な為替相場の動きを求める『ピアプレッシャー(【小生注】= peer pressure 「同僚がまだ仕事をしているのに先に帰っていいのだろうか・・という様な~」仲間から受ける圧力のこと)』が強まるだろう」
◆Q〔日本はどうすべきでしょうか〕
 「日本は世界第2位の経済大国という『美しい衣』を身に纏い、快適な環境に置かれてきた。だが地球上の生存競争は益々厳しくなる。その点をちょっと軽く受け止めていないだろうか。美しい衣を纏っても、本当は裸で闘っている筈だ。その衣も、もうすぐ(中国に)譲る段階が来るが、それも歴史の通過点に過ぎない。闘争心に少しでも陰りがあるとすれば、不利になる」
 「高い潜在成長力を持つアジアが傍にあるのは有利だ。日本とアジアを一体市場と捉え、お互いに鍛え合い、日本が成長の果実を得る要件を整える。来年がその初年度という位の意識が必要だ。まず企業は原点に返ったマーケティングと顧客ニーズに合った製品づくり、地を這う様な地道なセールス。戦後の復興期もそうだった」 
◆Q〔人口減少や少子高齢化が障害です〕 
 「厳しい戦いに挑むにしても、若年層の比重が落ちるのは不利だ。経済規模との比較で、とてつもない規模に膨らんだ公的債務残高の問題も大きい。民間が生むキャッシュフローを使い、健全なところまで減らす必要がある。将来の設計図をきちんと描き、政策体系を民間の意思に揃えて築き上げ、着実に履行しなければならない」
 〔以下略〕

〔3〕同じく今日の日経新聞「春秋」
 NHKの「紅白歌合戦」は1962年に80%を超す視聴率を記録した。目玉は人気絶頂の吉永小百合さん初出場だったという。曲は~北風吹きぬく・・と始まる「寒い朝」だ。切なくも明るいあの歌は高度成長期の心情そのものだろう。
 世の中はまだまだ貧しく格差に満ちていた。それでも経済は伸び続け、若者が希望を持てた時代だ。小百合さんはそんな季節の若者群像を体現して幅広い人気を得たのだと、社会学者の橋本健二さんが「『格差』の戦後史」で説いている。紅白歌合戦もまた、直向(ひたむき)に歩む日本人の年越しの宴だったに違いない。
 「紅白」は生き永らえて今年で60回目を迎えるが、視聴率は平成に入った頃にガクンと下がった儘低迷している。何とか挽回しようとNHKは〔中略〕お笑い芸人を集合させたりと話題づくりに忙しい。こうなると何でもありのバラエティー番組という気がする。
 これはこれで楽しいとしても、夢と熱気をなくした時代の何処か寂しい光景である。「国民的番組」の成功体験が忘れられず「紅白」になお拘(こだわ)る放送局と、それを高ぶりもなく眺める私たち。競い合う裏番組にも力がない。~望みに胸を元気に張って・・と歌った「寒い朝」の景色は何処へ消えたのだろう。

【小生comment】
 最近注目する記事は、みなこの様な日本人にとって耳が痛くなるものが多い。日本という国が高度成長期から成熟期を過ぎ、人生で言うと、現在の我々の世代に差し掛かっているのであろう。福井氏が「若年層の比重が落ちるのは不利」と言っていたが、そうであれば、中年層が若年層を、老年層が中年層をカバーしていくしかないのであろう。
 我々五十路世代も三十代位の気分で若返り、日本国の再生にもう一働きしましょうか・・。〔笑〕
 ま、それはともかく、今年2009年もあと4日を残すのみとなりました。次の《会報》【0271】号は1月3日を予定しています。
 それでは【2637の会】membersの皆さん、良い2010年をお迎え下さい。〔了〕

2009年12月20日 (日)

【時習26回3-7の会 0269】~「12月10日:『絵画と写真の交差』展を見て」「12月14日:『時習26回ミニ同期会』開催報告」「12月15日:『ベルギー近代絵画のあゆみ』展を見て」「12月16日:『布川事件再審請求確定』について」「12月20日:日経新聞「美の美」~『小磯良平が描いた人々(中)』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0269】号をお送りします。
 先週一週間は小生、滅茶苦茶忙しかったです、ハイ。〔笑〕〔汗〕
 そこで、文章は短く、話題は多くというstanceで今回はご案内させて頂こうと思いましたが、やはり長文になってしまった様です。
 読みにくくなってしまいましたことをお詫び申し上げます。それはともかく、ま、どうぞ・・〔笑〕

 まず、掲題・副題にある様に、先々週10日(木)に仕事で名古屋出張があり、その帰途、伏見にある名古屋市美術館にて現在開催中の「絵画と写真の交差」展を見て来ましたので、これについてご報告致します。添付写真[01]~[08]をご覧下さい。この展覧会は19世紀に始まった写真撮影技術と当時の絵画の関係を、「光」をthemeに分析した絵画展である。
[01]絵画と写真の交差091210
*********************[02]ブーダン『ヴェネツィア、大運河』1895年
*****************************************[03]モネ『ノルマンディーの田舎道』1868年
****************************************************************[04]ピサロ『ロンドン、ハイドパーク』1890年

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[05]モネ『海辺の船』1881年
********************[06]モネ『プールヴィルの断崖』1882年
*****************************************[07]ルノアール『赤い服の女』1892年
***************************************************************[08]ロワゾー『ヴォードルイユの農家』1900-03年
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 小生は、その様な難しい解釈にはほとんど関心を示さず、この展覧会の主な展示品を提供している八王子市にある「東京富士美術館」所蔵の19世紀から20世紀初頭の絵画を確り堪能した。
 やはりmainは印象派である。ブーダン、ピサロ、ルノアール、モネ、ロワゾー等はやはり素晴らしかった。




[09]時習26回ミニ同期会091204c111
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■さて、続いては、12月14日夜6時半から、【2637の会】《クラス会》会場でお馴染みの「トライアゲイン」にて開催した【時習26回ミニ同期会】についてご報告させて頂きます。
 この日は、小生のほか、【2637の会】から林K子さん、旧【3-2】中嶋Y行君、旧【3-3】谷山K君、旧【3-6】嘉森M俊君、旧【3-9】杉原(小林)K○子さん、【3-10】武野S郎君、の計7名が集まり、五年後に開催予定の【時習26回卒業40周年記念旅行】に向けての最初のスタッフ顔合わせを展望して懇親を図る同期会と位置づけ開催したものある。〔添付写真[09]ご参照〕
 同期って、本当にいいものですね。男性諸君にとっては、60歳を過ぎて社会の第一線を退いたら・・、女性陣にとっては、子供たちが巣立ち主婦&母親の責務から解放されたら・・、その後に残された人生四半世紀以上を如何に充実して生きて行くか?
 その力強い見方、道標が【同期】のみんなだと最近つくづく思うのである。
 次回開催予定のこの同期会は、来春4月を予定しています。来春2月に、ご当地の東三河と遠州にお住まいの【2637の会】membersの皆さん中心にご案内を差し上げる予定です。奮ってご参加の程、宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m

■続いては、翌12月15日も名古屋に行く用事があり、それを済ませた後、松坂屋美術館にて12月12日より始まった『ベルギー近代絵画のあゆみ』展を見て来ましたので、これについても簡単にご報告させて頂きます。
 この展覧会は、ベルギー王立美術館所蔵の名画約2万点の中から、レアリスム〔写実主義〕から印象派、リュミニスム〔光輝主義〕、フォーヴィスム〔野獣派〕に至る十九世紀中葉から二十世紀初頭の作品を紹介している。
 理屈なしに名画の素晴らしさを堪能して下さい。〔添付写真[10]~[15]ご参照〕

[10]ベルギー王立美術館コレクション『ベルギー近代絵画の歩み』~ボナール『逆光の中の裸婦』1908年頃~松坂屋美術館091215
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[11]シスレー『ルーヴシェンヌの道』1873-74年
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[12]アンソール『バラの花』1892年
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[13]ゴーギャン『野原での語らい、ポン=タヴァン』1888年
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[14]クラウス『ロンドン、テムズ川の実習船』1916年
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[15]ワウテルス『造花』1913年
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■続いては、添付写真[16]をご覧下さい。掲題・副題にもある様に「12月16日、主要新聞各紙で『布川(ふかわ)事件再審請求確定』について」報道があった。

[16]布川事件の再審確定報道する新聞各紙朝刊091216
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 最近では、足利事件以来の死刑・無期懲役判決レベルの「再審確定判決」である。「冤罪」問題は、我が国の裁判制度に大きな課題を提起している。
 ここで【2637の会】membersの皆さんにご紹介したいのは、この布川事件の『再審請求確定』の口火を切ったのが、2005年9月に水戸地方裁判所土浦支部裁判長であった我等がclassmate彦坂君であるということである。
〔添付ファイル『朝日新聞2005年09月21日』ご参照〕
* ↓↓↓↓↓
 「asahisinbun20090921.doc」をダウンロード

 彼の判決が、今回の最高裁における『再審請求確定』の先鞭をつけたのである。
 流石、彦坂君!日本の安寧秩序護持の為日夜活躍してくれている。
 これからも彦坂君が、身体に留意され活躍されることを切に願っています。
 本件につき、事前に彦坂君にこの《会報》に掲載させて頂くことをご了解頂いた。
 尚、その時頂戴した、彦坂君からのmailについては、《会報》次号【0270】号にてご紹介させて頂きますのでお楽しみに。(^o^)/

【後記】
■今回のご報告は以上である。ここで一つ小生関連の些事をご報告すると、16日小生の親父が脊柱管狭窄症と椎間板ヘルニアを併発し、歩行困難になり、豊橋市民病院にて手術を受けた。満85歳での手術・・、何分高齢の為心配したが、術後の経過は概ね順調であり、一安心しているところである。手術前、整形外科医である嘉森君に「執刀医がY先生である」旨伝えると、「彼は僕の後輩で確りしたヤツだ。安心しろ!」と太鼓判を押してくれた。心強く感じたものだ。今日(12月20日)も午前中、市民病院へ行き数時間付き添い看護をしたが、その時親父がこんなことを呟いた。
「こんな85歳の老いぼれが手術をして長生きしていいのだろうか?」と。
「本人が生きたいという意欲を持ち、自立できる限りは当然生きるべきだよ」と小生は即座に応えたが、 「複雑な気持ちだ・・」と親父はさらに呟いた。

■最近の経済不況は、小生の勤務先も直撃している。その為、先週も17日、在京の某取引先に交渉に行った。厳しい交渉であった。最近の日本経済は、従来の「景気循環」では説明のつかない、paradigm が大きく変貌しつつある様な気がしてならない。とにかく、不況の為に仕事が大変忙しくなった。素直には喜べないが、「仕事がなくて動けないよりいい」と思うより仕方あるまい。〔汗〕

[17]ポール・サミュエルソン氏逝去20091213 in New York
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■更にまた、新聞報道によると、近代経済学の巨星、ポール・サミュエルソン氏が12月13日亡くなった。享年94歳だった。 大学で法学専攻だった小生も、一般教養でポール・サミュエルソン教授の近代経済学について、都留重人氏の名訳の著書「経済学」を使い勉強したことを「小生の数少ない!(笑)」大学時代の勉学の記憶として覚えている。氏の冥福をお祈りしたい。〔添付写真[17]ご参照〕〔合掌〕
          ↓ ↓ ↓       
http://www.asahi.com/international/update/1214/TKY200912130169.html ←「サミュエルソン氏の訃報記事」はここをクリックして下さい。



■さて、今日も最後の最後の話題‥ 今日12月20日の日経新聞「美の美」に先週に引続き『小磯良平が描いた人々(中)』が掲載されていた。

[18]日本経済新聞「美の美」から「小磯良平が描いた人々(注)」091220
**********************[19]「1942年戦争画制作のため南洋に向かう船上の藤田嗣治・小磯良平ら」
******************************************[20]小磯良平『娘子関(じょうしかん)を征(ゆ)く』1941年
***************************************************************[21]小磯良平『斉唱』1941年
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 この記事〔添付写真[18]ご参照〕では、小生が大好きな作品『斉唱』(1941年)が載っているほか、戦争画家として藤田嗣治等と共に南洋に向かう小磯良平〔添付写真[19]ご参照~〔写真向かって左から2人目が藤田嗣治、同じく右端が小磯良平〕〕のsnap shotや、『娘子関(じょうしかん)を征(ゆ)く』(1941年)〔添付写真[20]ご参照〕が印象的である。
 新聞の解説で次の様に説明している。
「この作品は2度目の従軍をもとに制作した小磯の戦争画の代表作だ。疲れた人馬の行軍を200号のカンバスに描き切った。所謂戦争画らしい勇ましさは見られない。〔中略〕画面全体から発散する深い哀愁は小磯の戦争画に常につきまとっている」。
 また『斉唱』〔添付写真[21]ご参照〕について次の様に述べている。
「神戸市立小磯記念美術館の学芸員、廣田生馬は『斉唱』のモデル、松岡峯を神戸の老人ホームに訪ねたことがある。彫りの深い顔立ちに160cmと当時としては長身の体躯。「画中の9人のうち8人は私がモデルです」と松岡は教えてくれた。確かに右端以外の少女の顔はどれも似通っている。小磯は濃紺のワンピースを用意し、松岡に着用させた。それは神戸の松蔭高等女学校の制服だった。〔中略〕
 『斉唱』の制作時、描かれた制服は松蔭で使用されていなかった。全国の学校で「統一服」の使用が義務化されたためだ。徐々に強くなる戦時色、戦地で見た兵士たちの姿、漠然とした将来への不安。本当に自分が描きたい絵は何なのだろうか。そんな思いを秘め乍ら、小磯は楽しかった日々を思い、画家としての矜持をかけ、2度と帰らぬ過去への追憶の歌として『斉唱』を描いたのではないか。だからこそ、この絵は小磯の戦争画と同じく哀愁と呼ぶべき詩情が色濃く立ち込めている」。

【小生comment】 今、同じく日経新聞「私の履歴書」で作家津本陽が、戦時中の学徒動員時代、米軍のB29空襲にあった時の悲惨さを書いていた。本当に平和の尊さ、有り難さを大切にしたい。

 では、また・・。(了)

2009年12月13日 (日)

【時習26回3-7の会 0268】~「11月28~29日:賢人会旅行『福知山城&出石城跡、城崎温泉、丹後松島、伊根の舟屋、天橋立』から〔その2〕」「12月04日:サントリー美術館『鏑木清方』展&国立新美術館『THEハプスブルク』展を見て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0268】号をお送りします。
 今日ご紹介したい写真は全部で64枚。じっくりご覧頂ければ幸甚です。
 さて今日は、「城崎温泉&天橋立旅行」の〔その2〕をお伝えします。ではどうぞ・・

 前日の就寝時間が早かったせいか、小生、翌朝5時過ぎには目覚めた。宿泊旅館「山しろや」のsales pointでもある「『源泉かけ流し』内湯」に入った。城崎温泉は、前日入った外湯の『地蔵湯』同様、湯質が良いのに感心した。朝風呂に2回入ったが、こんなことが出来るのは温泉宿ならではの贅沢である。
 9時過ぎに旅館を後にした我等三人は、次の目的地へ行く前に、「京都の奥座敷」と言われ由緒ある温泉街を散策してみることにした。
 温泉街の真ん中を流れる大谿川(おおたにがわ)には、緋鯉が泳いでいたほか、マガモの番(つがい)やアオサギがいて旅愁を誘う。

[01]城崎温泉街を流れる大谿川と旅館街
–––––––––––––––––––– [02]城崎温泉街を歩く浴衣姿の女性たち
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––– [03]大谿川河畔で羽を休めるアオサギ
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––– [04]城崎温泉街の一風景
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 大谿川を挟んで柳並木と旅館街、そこを歩く浴衣姿の若い女性たち、これらもまた情緒があっていい。〔添付写真[01]~[04]ご参照。
【小生注】尚、若い女性達4名の浴衣姿は彼女等の了解を得た上で撮影させて頂いたものである(為念)〕




[05]城崎温泉街の旅館「三木屋」
––––––––––––––––––– [06]城崎温泉街の旅館「つたや」

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 城崎温泉というと、志賀直哉が泊った「三木屋」が有名だが、明治維新で活躍した桂小五郎〔後の木戸孝允〕が泊った「つたや」もあった。〔添付写真[05]~[06]を blog にてご覧下さい〕
 「志賀直哉&城崎温泉」と言えば、小説『城崎にて』が大変有名である。ご存知の方も多いと思うが「あらすじ」を紹介するとこうだ。

 志賀直哉は、電車に跳ねられ怪我をし、城の崎温泉治療に来た。交通事故を踏まえ、死について考える。ある朝、蜂の屍骸を、そしてある日は、小川で首に串を刺されて逃げ回るネズミを見、そしてまたある夕べには、小川にイモリを見つけ驚かすつもりで投げた石が偶々当たり殺してしまう。これ等の死を目撃した自分は感じた。「生と死については、両極にあるのではなく、左程差がないのだ」と。

 とまぁ、こんが具合の story である。この歳になると、死というものが左程遠い存在でない様な気がして来る。これは、親や同期の友人等、自分に近い者の死に直面する機会が増えて来るからであろう。

 城崎温泉を後にした我等は、天橋立へ行く前に当初の計画にはなかったが「~今後も多分訪れることもないであろうから~丹後半島を一周してみよう~」ということで意見が一致。そこでまず目指したのは、丹後半島の景勝地の一つ「丹後松島」。

[07]丹後松島の辺りの海岸線
––––––––––––––––––– [08] ––––––––––––––– [09] ––––––––––––––– [10] ––––––––––––––– [11]
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 結局、丹後松島が何処にあるか正確には判らなかったのであるが、地図に示されていた辺りの海岸線の景色は大変綺麗であった。〔添付写真[07]~[11]ご参照〕

 その後、「伊根の舟屋」へ行ってみた。中嶋君の話では、ここ(伊根の舟屋は)今回の旅行を欠席した谷山君が「いいところだ」と言っていたところだ。舟屋が建ち並ぶ姿は壮観である。〔添付写真[12]~[17]ご参照〕
 因みに、「舟屋」とは「船の garage」のこと。周囲5km程の湾に沿って230軒余りあるという。

[12]伊根町の看板 [13]伊根の舟屋01 [14]伊根の舟屋02
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––– [15]伊根の舟屋03 [16]伊根の舟屋04 [17]伊根の舟屋の街道筋

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 小生、この「舟屋」群と舟、コバルトブルーの海を見て、今年3月にイタリアで見たヴェネツィアの海を思い出した。「ここは日本のヴェニスみたいだ」と。

 続いての訪問地は、日本三景の一つ「天橋立」である。小生、恥ずかし乍ら、「天橋立」は今回初めて訪れた。
 「天橋立」というと、「百人一首」60首目にある小式部内侍の歌が思い浮かぶ。彼女の母は歌人として著名な和泉式部である。

 大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立

【解説】
 歌人として著名な母親和泉式部が夫の任地の丹後へ引越した為、娘の小式部内侍は都に残されてしまった。
 そうしたある日、小式部は歌合の選手に選ばれた。そこで有名な歌人であった藤原定頼は「こんな若輩娘に真艫な歌など詠める筈ない。母親に代作を頼むのだろう」と思い、「使いの者は(代作してくれた)母親の手紙を持って戻って来たかな?」と揶揄した。
 が、聡明な小式部は上記歌を即座に歌い「大江山から生野を通って丹後へ至る道程は遠く、行った事がない。天橋立を踏んだこともないし、母から手紙も貰っていないワッ」と、見事な短歌で応えた。
 これ程の秀歌を即興でつくる見事さに驚き、定頼は恥ずかしくなり逃げ去った。この一件で、小式部内侍の歌人としての名声は高まったのである。

【筆者comment】
 学生時代の古文の授業みたいになってしまいましたね。(笑)
 「天橋立」の風景を添付写真[20をご覧下さい。][18]&[19]は blog にてご覧下さい。

[18]天橋立にて  [19]天橋立遠望 [20]天橋立のバックにsnap-shot
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【後記】
 今日のお別れは、先々週の12月04日に仕事で上京した折り、帰りがけに立ち寄った「サントリー美術館『鏑木清方』展」と「国際新美術館『THEハプスブルク』展」の作品から幾つかご覧れたいと思います。これ等も添付写真の多くは blog にてご鑑賞下さい。

 さてまず、『鏑木清方』展からである。鏑木は、『東の鏑木清方、西の上村松園』と並称される日本画の美人画の巨匠。
 鏑木清方の略歴を以下に記す。
【略歴】
 1878(明治11)年 08月31日、東京市神田に生まれる。
 1891(明治24)年 浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門。
 1927(昭和02)年 第2回帝展にて『築地明石町』が帝国美術院賞受賞。
 1954(昭和29)年 文化勲章受賞
 1972(昭和47)年 03月02日逝去。享年93歳06月。
【小生comment】
 鏑木も93歳06月と02日と長寿を全う。ここのところ何度も申し上げている通り「画家と俳人」は、ホント長寿者が多い。〔感歎〕
 また、上村松園については《会報》【0170】号にてご紹介させて頂いた。
http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/26_017026_part1_d650.html ← 【0170】号がご覧頂けます。 

 彼の美しい作品群〔添付写真は[22]初夏の化粧&[27]二人美人図。〔[21]~[39]の全19枚を添付しました。ご覧下さい〕

[21]秋宵(1903年) [22]初夏の化粧(1916年頃)
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[23]遊女(1918年)
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[24]秋の夜(1919年) [25]薫風(1919年) [26]初時雨(1921年)
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[27]二人美人図(昭和初期) 
–––––––––––––‐––––––––[28]春宵(1931年) [29]草双紙見る女(1933年)
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[30]娘(1934年) [31]慶喜恭順(1936年) [32]口紅(1939年)
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[33]一葉(1940年) [34]蛍(1940年) -‐-[35]春雪(1946年)
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––ー––––––––––[36]草花スケッチ風景(1947年)
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[37]洋燈(1947年) - [38]肌寒(1949年)
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361947
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[39]若葉(1953年)
‐––––––––––––––––––––[40]東京ミッドランドのillumination 01
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[41]同上 02 ––––– [42]同上 03 –––––– [43]同上 04

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【小生・・こぼれ話】
 サントリー美術館の入っている東京ミッドランドを出たところ、丁度 illumination が点燈された。綺麗だった。〔添付写真[40]~[43]ご参照〕

 続いては、『THEハプスブルク』展についてある。〔添付写真を全28枚[44]~[61]ご参照〕

[44]『国立新美術館THEハプスブルク展』看板
–––––––––––––––––––––[45]THEハプスブルク展図録「ベラスケス『白衣の王女マルガリータ・テレサ』1656年頃」
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[46]ハプスブルク家系譜
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[47]オーストリアの画家『金羊毛騎士団勲章をつけた神聖ローマ皇帝カール6世〔女帝マリア・テレジアの父〕』1720年頃
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[48]メラー『11歳の女帝マリア・テレジア』1727年
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[49]ヒッケル『軽騎兵連帯の軍服姿の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世』1785年頃

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[50]ランピ(子)『オーストリア皇帝フランツ1世』1804年頃
––––––––––––––––––––[51]シュロッツベルク『オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世』1865-70年頃
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[52]ヴィンターハルター『オーストリア皇妃エリザベート』1865年

–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[53]ラファエロ『若い男の肖像』1503年頃
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[54]ティツィアーノ『イル・ブラーヴォ』1515‐20年頃
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[55]ティツィアーノ『イザベッラ・デステ』1534‐36年頃
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[56]デューラー『青年の肖像』1500-10年頃
––––––––––––––––––––[57]ルーベンス『悔悛のマグダラのマリアと姉マルタ』1620年頃
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[58]ヴァン・ダイク〔疑〕『男の肖像』1617‐18年頃
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[59]エル・グレコ『受胎告知』1600年頃
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[60]ムリーリョ『悪魔を奈落に突き落とす大天使ミカエル』1665-1668年頃
––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[61]ゴヤ『カバレーロ侯ホセ・アントニオの肖像』1807年
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 サントリー美術館に程近い、千代田線乃木坂駅近くにある国立新美術館を訪れた。

 フリードリヒ3世(1440-93在位)からフランツ2世(1792-1806)までの間で16人の神聖ローマ帝国皇帝を輩出した欧州王族の名家中の名家。
 ちょっと世界史のおさらいをし乍ら、blog の添付写真をご覧下さい。女帝「マリア・テレジア」の父、カール6世から、オーストリア・ハンガリー帝国終焉近くまで皇帝であった「フランツ・ヨーゼフ2世」までの歴代国王の肖像画である。
 ハプスブルク家に対しては、美術史上でも貴重な作品を16世紀から19世紀にかけ多くの著名画家達が描いている。 このblogに掲載した画家の名をあげると、ラファエロ、ティツィアーノ、デューラー、ルーベンス、ヴァン・ダイク、エル・グレコ、ベラスケス、ムリーリョ、ゴヤ等、綺羅、星の如くである。とてもいい美術史の勉強ができた小一時間であった。

 それから最後の最後、今朝の日経新聞の「美の美」で、小生が大好きな日本人西洋画家「小磯良平が描いた人々[上]」が紹介されていた。
 しかも最初に紹介されていた絵が、これまた小生が最も好きな絵の一つである《会報》【0222】号でご紹介させて頂いた「T嬢の像」である。〔添付写真[62]~[64]ご参照〕

[62]日経新聞「美の美」~「小磯良平が描いた人々[上]」の記事~紹介されている絵は「T嬢の像」
––––––––––––––––––––[63]婦人像(1960年)
–––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––[64]化粧する舞妓(1958年)
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 名画は、いつの時代においても見る者の心を捉えて放さない。いいものである。

http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/26-0222-23123-0.html ← 【0222】号がご覧頂けます。

 それでは、また来週までごきげんよう。(了)

2009年12月 6日 (日)

【時習26回3-7の会 0267】~「11月28~29日:賢人会旅行『福知山城&出石城跡、城崎温泉、丹後松島、伊根の舟屋、天橋立』から〔その1〕「上野千鶴子『男おひとりさま道』を読んで」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0267】号をお送りします。

 さて、今日最初の話題は、掲題・副題にある様に、いつもの城巡りの仲間と秋の一泊二日の旅行に来ました。
 秋の行楽シーズンなので、交通渋滞を覚悟して行きましたが、朝の出発時間が早かったこともあり、伊勢湾岸自動車道と新名神高速道路を結ぶ東名阪自動車道の「四日市JCT~亀山JCT」のところを除き、全て順調に移動できました。
 中嶋良行君〔旧【3-2】〕の運転により全行程距離は880kmに及びます。その模様をご覧下さい。

 11月28日(土)午前6時過ぎ、中嶋君が我が家まで迎えに来てくれ、小生を pick up。その後、車で数尾分の所にお住まいの、城廻りの仲間で先輩にあたる青木さんを pick up し三人で出発。今回は、常連の谷山健君〔旧【3-3】〕が仕事の都合で欠席だったのがちょっと残念。 車は、東名・音羽蒲郡ICから乗り、伊勢湾岸自動車道→東名阪→新名神→名神→中国自動車道→舞鶴若狭自動車道・福知山IC→福知山城まで、一回休憩しただけで午前11時半に到着。〔添付写真[01]~[06]ご参照〕

[01]福知山城    [02]         [03]         [04]          [05]          [06]
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 【福知山城の歴史】
 福知山城は、室町時代後期、塩見頼勝が同地に築城した横山城という掻上城【注】であった。
 【小生注】掻揚城(かきあげのしろ):掻上城とも書く。土を掻き揚げただけの城。堀を掘った時、その土を盛上げて土居を築いた堀と土居だけで成る城をいう。
 1579(天正07)年 丹波国を平定した明智光秀が、この城を福智山城と改名。近世城郭へと大修築。
 1600(慶長05)年 有馬豊氏が6万石で遠江横須賀より入封。
 1620(元和06)年 閏12月豊氏が筑後久留米に21万石で転封。
 1621(元和07)年 岡部長盛が5万石で丹波亀山より入封。
 1624(寛永元)年 長盛が美濃大垣藩5万石へ移封。同年稲葉紀通が4万5千石で摂津中島より入封。
 1648(慶安元)年 08月紀通が城内で鉄砲自殺。
 1649(慶安02)年 松平忠房が三河国刈谷藩より入封。因みに忠房は刈谷藩主の前第02代三河国吉田藩主であった。
 1669(寛文09)年 忠房が肥前国島原藩7万石に移封。同年09月、朽木稙昌(くつきたねまさ)が3万2千石で常陸土浦から入封。以後、朽木氏が明治維新まで続く。【注】
 【小生注】五代目藩主朽木玄綱(とうつな)が「福智山」から「福知山」に改称。玄綱は美濃岩村藩主松平乗紀(のりただ)の五男。母が朽木t稙昌の娘。四代藩主朽木稙治の養子となり五代藩主となる。
 1985(昭和60)年 天守を復元、現在に至る。 

 城跡を見た後、その入口近くにある地元京都府福知山市出身の日本画家で文化勲章受章者「佐藤太清〔たいせい〕記念美術館」を訪れた。
 氏は、花鳥画と風景画を融合させた独自の「花鳥風景画」を確立したとされる。添付写真は、その美術館で購入した絵葉書の一部である。いずれの作品も落ち着いた感じで、見るものに安心感を与える秀画である。〔添付写真[07]~[12]ご参照〕
 佐藤太清〔1913.11.10-2004.11.06〕氏の略歴を以下に記す。

[07a]佐藤太清    [07]バラ      [08]最果の旅1983年
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[09] 雪つばき(1994)
            [10] 行雲帰鳥(1992)
                        [11] 紅葉 
                                    [12]佐田岬(1993)
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101992
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【略歴】
 1913〔大正02〕年 11月10日京都府福知山市に生れる。本名實(みのる)。
 1931〔昭和06〕年 福知山実践商業学校を卒業。絵の道を目指し親戚を頼り上京。
 1933〔昭和08〕年 児玉希望熟入熟。 
 1943〔昭和18〕年 第6回新文展に『かすみ網』が初入選。
 1966〔昭和41〕年 第9回新日展出品作品『風騒』文部大臣賞受賞。翌1967年同じ作品で日本芸術院賞受賞。
 1980〔昭和55〕年 日本芸術院会員。
 1988〔昭和63〕年 文化功労者。 
 1992〔平成04〕年 文化勲章を受章。
 1993〔平成05〕年 福知山市名誉市民。 
 2004〔平成16〕年 11月06日逝去〔90歳11月〕。
 名画鑑賞は心が洗われた様な心地よい気分になる。いいものだ。
 佐藤氏も90歳11月の長寿を全う。画家は本当に長寿が多いと、確信した。

 さて続いて向かったのは、出石城跡。午後01時10分過ぎに福知山城を後にして、国道426号線を北西に進路を取り42km程進んだ。
 出石〔兵庫県豊岡市出石町〕到着は午後02時過ぎ。流石に空腹を感じた我等三人は、当地で有名な「出石蕎麦」を食することで意見が一致。早速、観光マップで推薦していた『甚兵衛』〔添付写真[13a]ご参照〕に立ち寄った。

[13a]

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 【出石そばの由来】
 江戸時代中期の宝永3(1706)年、信濃国上田藩から但馬国出石藩に国替えとなった仙石政明が、蕎麦職人を連れてきたことに由来。幕末頃より割り子蕎麦の形式となった。持ち運びが便利な手塩皿に蕎麦を盛って出したことに始まる。昭和30年代に『出石皿蕎麦』と称されるように至ったという。我々が食した『皿蕎麦』を実際に添付写真でご覧に入れる。〔添付写真[13][14][15]ご参照〕実に美味しかった。(笑)

[13] 出石皿蕎麦 [14] [15]

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 人口1万人の出石町内に蕎麦屋は50軒近くあると言われる。添付写真にある街の佇まいも、古風な日本の街並で落ち着いた風情がとてもよい。 その街の中央に『出石城跡』はある。城跡周辺の様子を添付写真〔[16]~[34]〕でご覧に入れたい。では、どうぞ・・

【出石城跡周辺の紅葉】[16]~[21]

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【出石城跡周辺の紅葉】[22]~[27]

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【出石城跡周辺の紅葉】[28]~[32]

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[33]辰鼓楼(しんころう)
           [34]出石城下町

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【出石城跡の歴史】
 山名氏の最盛期、但馬国守護山名時義が出石神社北側に城を築いたことに始まる。
 現存する城跡について略歴を記すと以下の通り。
 1604(慶長09)年 城主小出吉英が築城。一国一城令により但馬国唯一の城郭となる。
 1696(元禄09)年 小出氏が無嗣改易になる。
 1697(元禄10)年 藤井松平家、松平忠周(ただちか)が入封。
 1706(宝永03)年 仙石政明(まさあきら)が信濃国上田より入封。以後、明治維新まで続く。

 出石城跡を見た後、我等が向かったのは「兵庫県立コウノトリの郷公園」である〔午後04時過ぎ到着〕。


 【兵庫県立コウノトリの郷公園】

[35][36]

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 コウノトリは、トキ、アホウドリ、タンチョウ、ライチョウ、メグロ等と共に日本の特別天然記念物に指定されている。
 国内繁殖野生個体群は絶滅したが、人工繁殖では100羽を達成している。ただ依然として絶滅の危機に瀕していることに変わりはない。
 尚、添付写真〔[35][36]〕にある様にアオサギが一緒にいたが、アオサギより確かに大きい。

[37]城崎温泉「山しろや」 
           [38]「山しろや」から『地蔵湯』を望む
                       [39]『地蔵湯』の版画  
                                   [40]「木屋町通」版画

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 「兵庫県立コウノトリの郷公園」を後にした我等三人は午後05時丁度、宿泊予定地の城崎温泉に到着した。
 この温泉は、京都の奥座敷として知られる。7つある外湯に浸かろうかとも思ったが、宿泊旅館「山しろや」〔添付写真[37]ご参照〕は、明治時代からの老舗旅館で「原泉かけ流し」の内湯があるので、外湯は「山しろや」から目と鼻の先にある『地蔵湯』〔添付写真[38][39]ご参照〕1か所に止めた。
 ということで、午後5時20分に旅館を出て徒歩1分で地蔵湯へ。温泉の質はなかなか良く身体もよく温まった。
 午後6時から待望の夕食である。大型の越前蟹の鍋料理であった。大きな蟹のハサミに「これはタラバガニか??」と一瞬目を疑ったくらい立派な越前蟹〔=ズワイガニ〕であった。思わず三人はニンマリ。素晴らしい蟹料理であった。
 写真?、カニ料理の素晴らしさ・美味さにすっかり我を忘れ、写真撮影を撮り忘れてしまった。それ程美味かった。〔笑〕
 沢山の蟹を食べ過ぎた中嶋君と小生は、午後08時過ぎには布団に入って寝てしまった。青木さんは、その後、一人で9時過ぎに内湯に入られ
たという。 こうして城崎温泉の初日はあっと言う間に終わってしまった。〔以下次号〕

 文章が長くなってしまうので、二日目の模様は次号に譲りたい。 


 さて、今日二つ目の話題は、最近読んだ「上野千鶴子著『男おひとりさま道』」〔添付写真[41]ご参照〕の中から一部をご紹介します。
[41]
41


 まず最初は、〔第4章●ひとりで暮らせるか〕~〔友人は人間関係の上級編〕のところの essence のいくつかをご紹介します。
 ここのところで上野氏が述べていることは、切り口が unique であり、「家族ゲーム」等は一面恐ろしさをも感じさせるものがある。
 では、どうぞ・・

 友人づくりは、家族づくりより、もっと難しいかもしれないと私は思っている。 何故って、家族には役割や定型があるけれど、友人にはないからだ。

 【愛がなくても「家族ゲーム」はできる】
 家族には、夫らしさ、妻らしさ、親らしさ、子供らしさがあるから、「らしく」振舞ってさえいれば、それっぽく見える。だからこそ、「家族を演じる」とか「家族ゲーム」とかいう表現があるくらいだ。
 誰かと「付き合いたい」と思えば、「恋人らしく」振舞えば良い。デートスポットを選んでマニュアル通りに振舞えば、誰の目にもそれっぽく映るだけでなく、何より自分達が「恋人気分」になれる。
 「マニュアル付きの恋愛なんて」とバカにする人もいるが、実はこれって恋かしら? と感じる時には、実際の体験を味わう前に、とっくに小説やドラマで「恋ってこんなもの」と予習しているものだ。人間はそうやって人生をフィクションの中で予習しているからこそ、それを参照し乍ら、「これがきっと恋ってものなのね」とか、「家族ってこんなものなのかなあ」と一々確認していくのだ。
 予めモデルを知っているからこそ、現実の家族を見て、「うちの夫はヘンじゃないかしら」とか、「少しは母親らしくしてよね」という注文も出る。
 「らしさ」が昂(こう)じると「ロボット」になる、と言ったのは〔中略〕精神科医の斎藤学(さとる)さん。「父親ロボット」「母親ロボット」「子供ロボット」が寄り集まって家族になると、その中で一番心の弱い子供が壊れる。人間はロボットではないからだ。
 だが、斎藤さんの指摘には、逆説的な真理がある。心がなくてもロボットの様に振舞ってさえいれば、一応「家族」の体裁は維持できるからだ。愛情がなくてもセックスできるし、愛し合わなくても子供はつくれる。残念乍らそれが現実だということくらい、誰でも知っている。

 【友人と知人を使い分ける】
 だが、友人はそうはいかない。「友人らしさ」ってどんなものか、想像できるだろうか。どう振舞えば「友人らしい」か、解るだろうか。
 〔中略〕
 「本当の友達とは何か」等と考え始めたら、迷路に入る。
 つまり定義できないものは、定義しないでいい。
 幸いなことに、夫婦や恋人と違って、友人はお互いに友人契約等は結ばなくていいし、契約違反を咎められることもない。
 旧友の深澤真紀さんによると、「友人」カテゴリーと「知人」カテゴリーとを上手に使い分けて、特定の人を「友人」から「知人」へと勝手に降格したり、その逆をやったりしているのだという。それだって、一々相手に申告しなくてもいい。「友達なのに・・・」と考えて苦しむよりは、「もう友達ではなくなった、知人なんだ」と自分の中でカテゴリー変更する方が、精神衛生にずっと良い。
 一緒にいて気分のいい相手。しょっちゅう会いたい相手、時々会いたい相手、たまに会いたい相手、困った時に助けて貰いたい相手、助けてあげたい相手、気になる相手、気にかけてくれる相手・・・が、多様に自分の身の周りに取り囲んでいれば良いのだ。それをセーフティネットともいう。

 【気の合う仲間を探すには?】
 友人のネットワークをつくるには”一本釣り”もあるが、もっと効率の良い方法がある。選択縁の仲間に入れて貰うことである。
 選択縁は文字通り選べる縁。志や教養、趣味、思想信条、ライフスタイル、学歴や経済水準等で、予めスクーリングされているから、打率が高い。〔中略〕気の合う相手を選べば良い。ライフスタイルが似ていることや、経済的ゆとりの程度が共通していることも大事。相手の懐具合を気にして、行きたい所に気安く誘えないのは困るし、自分から奢るのも度重なれば続かない。
 それに、何か共通の目標があって活動している仲間だと、ただのお楽しみの集まりと違って、その人の責任感や誠実さ、仕事ぶりや対人関係等が良く観察できる。社内恋愛が多いのは、仕事の上の振舞い方をちゃんと見ていれば、為人(ひととなり)が良く解るから。
 但し、選択縁が社縁と違うのは、上下関係がないところ。地位や収入を報酬にすることができないので、骨惜しみしない人柄や、腰の低さが良く見える。

 最後に、〔第4章●ひとりで暮らせるか〕~〔有り余る時間をどう潰すか〕の中から一つご紹介する・・
 【男性に多い「学校縁」】
 時間待ち・時間貧乏の調査では、「誰と時間を潰すか?」という相手を、人間関係によって、血縁・地縁だけでなく、職場縁・学校縁・選択縁と分類して尋ねてみた。
 男性で意外に多いのが学校縁。オレ・オマエの学校時代の関係を長期に亘って維持している。その反対に職場縁は、仕事の切れ目が縁の切れ目。現役で残った後輩との関係は、向こうにとっても相手をどう扱ってよいかわからず、困惑するだけだということはわきまえておこう。 女性は職場縁に巻き込まれない分、女縁という名の選択縁を積極的につくり出してきたが、男縁が女縁ほどは発達せず、また男性の交友関係の中で10代に遡る学校縁が大きな比重を占めているところをみると、逆に、10代以降に利害関係のない人間関係を新たにつくり出すことが、それほど難しかったのだろうか、という思いになる。
 「親友? 高校時代にラグビーの部活を共にした友人ですね」とか、「学生時代につくった友人が生涯の友人となるんだから、大事にしなさい」とかいうアドバイスを耳にすると、天邪鬼な私などは、このひと、オトナになってからはお友だちをつくれなかったのね、可哀想に、と思ってしまう。
 【小生comment】
 上野氏がいう「学校縁」こそ、小生が今実践している【2637の会】の活動そのものだ。
 「逆に、10代以降に利害関係のない人間関係を新たにつくり出すことが、それほど難しかったのだろうか、という思いになる」という上野氏の指摘はご尤もなことで、職場縁では、自分の出世等、利害関係が直接に絡むことが多く、新たに利害関係のない人間関係をつくりにくい。
 また、職場縁を大事にする人ほど、自分の自由時間を犠牲にするので、職場以外で新たな選択縁をつくり出し長く続けることは、これまた難しい。転勤族となれば一層その傾向が顕著だ。
 小生の実体験を言えば、銀行に入行した①昭和53年の名古屋勤務を皮切りに、②昭和57年仙台、③昭和61年東京〔自宅は東京から途中より埼玉県狭山市へ〕、④平成3年再び名古屋、⑤平成7年再び東京、⑥平成10年三度名古屋〔平成12年から2年間は業務出向でホテルマン〕、⑦平成14年豊田、⑧平成17年田原、⑨平成19年豊橋と、30年間の銀行員生活のうち9回勤務地が変わっている。この様な状況では、職場縁以外で、利害関係のない生涯の友人を持ち続けることは至難の技だ。
 勿論、沢山の素晴らしい知人・友人は出来た。がしかし、今でも続いているのは年賀状の遣り取りくらいである。でも、ふとした機会で再会を果たすと大変懐かしく嬉しい思いをすることが多いのも事実ではあるが。

【後記】
■わが国日本画壇の泰斗、平山郁夫氏が一昨昨日の12月02日正午過ぎ、脳梗塞の為亡くなった。享年79歳だった。
 新聞報道によれば、平山氏は、
 1930年 06月15日広島県生まれ。
 1945年、08月06日広島市で被爆。
 1952年、東京美術学校〔現東京藝術大学〕日本画科を卒業。日本画家前田青邨に師事。
 1959年 院展出品作品「家路」が高く評価され、
 1961年 第46回院展で『入涅槃幻想』が日本美術院賞(大観賞)を受賞。
 1962年 第47回院展で『受胎霊夢』『出現』が日本美術院賞(大観賞)を受賞。
 爾来、各章受賞を重ね、泰斗の道を歩んだ。 シルクロードを主題にした作品や法隆寺や宇治の平等院鳳凰堂等、仏教に関する作品も数多く手がけた。
 小生は、彼の作品というと、すぐシルクロード関連の作品群を思い浮かべる。中でも、ブルーモスク〔添付写真[42]ご参照〕は印象的だ。

[42]
4201a

 また東京丸の内のM銀行を訪れ、同行の玄関に入るたびにお目にかかる、巨大な「宇治平等院鳳凰堂」の絵は圧巻だ。平山氏のご冥福をお祈りする。〔合掌〕
 では、また・・。(了)

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