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2010年2月 7日 (日)

【時習26回3-7の会 0276】~「坂東眞理子『幸せの作法』、三浦朱門&曽野綾子『夫婦口論』、「五木寛之『人間の運命』から・・『幸福』とは・・??」

■今泉悟です。 時節は、「立春」を迎え、これから春が到来します。とは言うものの、まだとても寒いですね。(笑)
 今日も、新城CCでは、雪のため closed でした。暖かな春になるには、まだ暫く辛抱が必要な様です。
 さて、皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0276】号をお送りします。
 今回も、残念乍ら【2637の会】や【時習26回】関連の記事はございません。【2637の会】members の皆さんからのお便りをお待ちしています。
 《会報》は、皆さんの交流の場として提供しているつもりです。このところ、題材探しに正直腐心しています・・。(涙)(汗)

 グチはこれくらいにして、今日は先週、頑張って3冊の本を読みました。掲題・副題にある様に、「坂東眞理子『幸せの作法』、三浦朱門&曽野綾子『夫婦口論』、「五木寛之『人間の運命』」です。そうしたら、偶然ですが、『幸福』について、三氏の意見を見つけましたので、今日はそこのところをご紹介してみたいと思います。やゝ、こじつけの嫌(きらい)がありますが、三氏ともなかなかいいことを述べていますので、若干長文となりますが、お読み下さい。まずは、坂東眞理子氏の『幸せの作法』からです。

【坂東眞理子『幸せの作法』】
Photo_2

「はじめに ~ 「幸福」になりたいなら「幸運」を望んではいけない」

 あなたにとって、「幸福」とはどんなものでしょうか。

 幸せで豊かな家庭を築くこと。
 好きなことを仕事にして生活の糧にすること。
 子供の頃からの夢だった職業に就き成功すること。
 有名になって大きな富を得ること。
 力の限り努力して会社で高い地位につくこと。
 貧しくとも愛する男性と生涯を共にすること。
 子供たちの健やかな成長を見守ること。
 愛する家族に囲まれて笑って最期のときを迎えること。

 ・・どれも素晴らしいことです。
 しかし「幸福」を考えるときに、まず忘れてはならないのは「幸福とは非常に主観的なものだ」ということ。そしてもうひとつ、「幸運」を「幸福」と勘違いしてはいけないということです。
 例えば、「大した努力もせず、忙しい思いもせず、素敵な人と出合って愛され、子供に恵まれる」という「幸運」を「幸福」と勘違いしてはいないでしょうか。中には、そういう女性もいるかもしれません。しかし、これはただの「偶然」というものです。その女性の話をよく聞いてみたら、「幸運」でさえないかもしれません。
 どうも女性は、「幸福」よりも「幸運」を羨ましがる様です。「幸福」がとても主観的なものだと何となく解ってはいても、「ラッキー」に見える人を、「あの人は幸せよねえ」と羨んでしまうのです。
 この気持ちは捨てたほうがいいでしょう。
 自分の持っているものを喜ばず、持っていないものを欲しがっていては、決して幸せにはなれません。
「幸せ」とは、自分で少しずつつくり上げていくものです。そうすることでしか手に入らないものなのです。「幸運」が落ちていないかと周囲を見回し、落ちていない不運を嘆き、「私は不幸せだ」とうつむくほど、不幸なことはありません。〔中略〕
 人生の考え方が日々の行動に、日々の行動がその人の品格に反映するものです。パートナー、仕事、家庭、そして充実した毎日。そうした「幸福」を手にしたいと思うならば、「幸運」を願わず、まず小さな「幸福」を見つけ大事にし、自分で自分の「幸せ」をつくり上げていってください。


 続いては、三浦朱門・曽野綾子ご夫妻の『夫婦口論』からです。

【三浦朱門&曽野綾子『夫婦口論』】
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「この偉大なる矛盾」

【曽野】 私たち日本人は、実にいろんなものを与えられて生きている。でも、豊かさに慣れてくると、人間というのは手にしたものの有り難味を感じられなくなるんですね。日本の不幸は、まさにそこにあるみたいです。
 水というものは水道の蛇口を捻れば出るものだ、と思っている。しかも、その水は安心して飲める。飲める水で、お風呂に入って、トイレまで流している、という偉大な矛盾に全く気付かない。日本人に才能がないんじゃなくて、教育が悪いんですね。そういうことをきちっと教えませんから。生と死についてもちゃんと教えないから、もの凄くいい加減になっている。
 人殺しは絶対に許せないと言う一方で、中絶することについては何も言わないでしょう。〔中略〕戦後、人工的な手段で中絶された胎児の数は一億を遥かに越しています。〔中略〕考えようによれば、胎児というのは、一番抵抗できない弱者な訳ですよ。〔中略〕一番弱い者をいじめて殺して来たんです。
【三浦】 そのくせ、「一人の人間の命は地球より重い」と言うんですね。もしそうなら、死刑制度も有り得ない。交通事故死のことを思えば、車は禁止。〔中略〕
【曽野】 人間はちっとも公平でないし、平等でない。そんな当然のことすら認めない日本人が多くなって来た。
 いつか書いたことがありますが、石川遼というプロゴルファーがいるでしょう。世間は、彼のことを素晴らしいと褒めそやすけれど、彼の背後にはどれだけ悲しんでいる同年代がいるかわからない。自分は彼の様になれなかった。どうして、あの人だけが年に一億円も儲けるんだ、と思っている人もいる。ほとんどの人は彼の様になれないのだから、運命の不幸を感じる人の方がずっと多い筈ですよ。だから、あの人は希望も与えているかもしれないけれど、大きな不幸も与えている訳です。日本人は本当は賢いのに、そういう現実を直視しようとしないんですね。

「『幸福』は自分で発明する」

【曽野】 やっぱり自分で教養をつけなくてはいけない。親が悪いとか社会が悪いとか人のせいにしないで、自ら自分を育てることですね。何よりもまず自分が責任を負う。そう言うと、残酷だって非難されるけれど、自己責任を取れと言っても脱落する人は沢山いて、日本にはそれを十分に救えるだけの safety net があるんですね。日本は弱者を見捨てるとか言うけれど、世界の何処へ行っても、日本ほど脱落者に対しても勉強できる環境を整えている国はありません。だから、一人ひとりが勉強して教養を身につけ、闘って生きていくことが大切だと思いますね。
【三浦】 つまり、個々人が問題意識を持たなきゃいけないんですね。なぜ、格差が出来たのか。〔中略〕100%の safety net なんて有り得ないし、もし、完備してしまったら、問題意識も感じられなくなるってことなんですよ。
【曽野】 safety net をつくりつつも、尚も問題意識を持てということですね。日本人が一番いけないのは、全くの他力本願になったことかもしれません。食べられない人がいたら、政府が全部面倒を見ればいい、と。海外の多くの国では、個人が助けています。親戚とか友達とかが。嫌々な人もいるでしょうけど。
 皮肉なことに、社会保障が充実すればするほど、慈悲の心がなくなってしまんです。〔中略〕
【三浦】 幸福は、他人が与えてくれるものではない。国が与えてくれものでもない。自分で発明しなきゃいけないんです。
【曽野】 そう。幸福の意味は、自分で見つけるしかないんですね。〔中略〕
【三浦】 僕の八十四年近い生涯は、誰の人生とも同じ様に、波風に揉まれたものでした。ただ、その中で輝く星、この本でふれたことで言えば、「 something great 」を見つけたことで、自分の位置がわかった。それが僕の幸福の根源です。

【小生注】 三浦氏は、本文中で「 something great 」のことを次の様に解説している。
 僕風に言えば、something great と言うのは、「自分が全然わかっていないものがこの世の中にはある」という感覚だと思う。


 最後、3つ目は、五木寛之『人間の運命』からです。

【五木寛之『人間の運命』】
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「運命の人」

〔前略〕 人間の愛の形というのも様々だ。〔中略〕
「運命の人」という言葉は大袈裟だろうが、やはり自分の努力や、意志を超えた力が二人を結び付ける時があるのではないか。
 努力しても叶わないことは多い。努力や意志という、人間の営みは本当に小さいものだ。
 だから、私はやはり人生をそういうものとして受け入れ、受け止められる様に生きていきたいとふと思う。
 人は自分の人生を選んで生きている様で、何か見えない風に吹かれて生きているのではないか。
 十五世紀ルネッサンス時代のフィレンツェの大実業家、ロレンツォ・デ・メディチという人物は、こう歌ったという。
 
 春は疾(と)く過ぎ行く、楽しめ、今このひとときを
 
 〔中略〕別名「豪華王」と呼ばれたロレンツォも、〔中略〕四十三歳の若さでこの世を去った。〔中略〕
 人間の命というものは、儚く短い。
 だからこそ、その間に精一杯、人に恋し、人を愛して生きるのだろう。
「人はなぜ失われるものしか愛せないのだろう」
 という言葉を聞いたことがある。〔中略〕
 人を愛しいと思う背後には、必ず過ぎ去っていくもの、失われていくものに対する哀感があるのだと、否応なしに思うのだ。

「幸福の格差」

 私は改めて、人間の運命というものを考える。
 私達は運を求め、宝くじを買う。しかし、宝くじに当たる人がいるというのは、その他の大多数の人々が損をするからである。
 均一な幸福の中では、幸福という言葉自体が存在し得ない。不幸の存在があって幸福がある。必ずその反対にあるものと一対になって、物事は存在するからだ。〔中略〕
 成功、幸福という言葉は、最初から全員が幸福になることを前提としている言葉ではない。〔中略〕
 世に抜きん出るということは、敗者を踏み台にして自分が勝者になることを意味する。
 そんな時、私は再び親鸞の「心の善きにあらず」という言葉を思い出すのである。〔中略〕
 人生とは不条理で理不尽なものだ。
 humanism の発生以来、人間の明るい未来や、希望という言葉で、人々は人生に意味を求めてきた。
 しかし、生物が生きているということ自体が、ある意味で命をかけた競争の結果なのだ。〔中略〕
 人類の歴史は弱肉強食の物語に溢れている。〔中略〕 
 最近は、若い女性の間で戦国武将が boom だという。〔中略〕
 しかし、考えてみるまでもなく、戦国時代の武将の物語というのは、天下統一、武士道という Oblate に包まれてはいるものの、要するに強奪と殺戮の歴史であるといってもいいだろう。
 領土を広げる、と言えば聞こえはいいが、結局は侵略の物語だ。
 しかし、何故人々はそれを爽快と感じ、戦いの物語を愛読するのか。
 それは自分の心の中にある意欲、本能として背負っている闘争心などを、物語という形式で昇華しているのではないだろうか。 
 実際に行わずに、夢を託しているのだ。Shooting game や、Survival game 等にも、同じことが言える。男の子達が一番好きなのは、今も昔も戦争ごっこなのだから。
 そう考えると、人間の存在とはそもそも残酷で無残なものだと思わない訳にはいかない。

「善悪を超えて生きる」

 親鸞は最終的に、善悪を超越して人間は全て悪人である、と私達に語りかけた。
 生存そのものが罪を背負っている存在である。私達はそれを考えるとき、実に不思議な感情が湧いてくるのを抑えることができない。
 艱難辛苦に耐えて成功した人の話を、私達は美談として聞く。
 しかし、成功者というのは本質的に、不成功者、非成功者の犠牲の存在を不可欠として存在しているものなのである。
 同じ様に、どんなに貧しく、成功を求めず生きた人間とて、他の生き物の生命を奪うことなく生きてはいけない。人間全体の罪というものを否定し、他の生き物の生命を奪うことなく生きてはいけない。〔中略〕
 人間は根源的に悪を抱えた存在であり、この地球上の生物、この宇宙の全ての生物に対して人間は重いものを背負っている。人間の背負っている根源的な悪。
 その考え方が、何故今大切なのか。
 Renaissance 以来、我々は光の中で近代をつくり上げて来た。Renaissance (仏語で「再生」の意)というのは、「人間は教会と神の権威の下に、雑草や虫けらの様に扱われていたが、そうではない。人間は偉大なものなのだ」という、人間解放の意識改革から始まった。
 それは当時、闇に輝く光の様な新しい思想だったことだろう。
 しかし、19世紀、20世紀と進むにつれて、非常に傲慢な「人間中心主義」という様なものに変わっていく。地球の資源採掘や開発など、ありとあらゆることを乱暴に行う様になり、人は地上の王者の様に振舞い始めたのだ。
 現在、一転して eco. という言葉が叫ばれているが、これも悪を覆い乍ら近代を生きて来たという反省から来る現象だろう。
 Renaissance 以来数百年続いて来た humanism に対する大きな疑問と、そして人が本来抱えている「悪」というものに、今熱い視線が注がれているのだ。〔中略〕
 悪とは状況的な存在であって、普遍のものではない。それが人間が背負った、言わば本当の運命なのだ。

「最後の問い」

 親鸞の言葉は、ここで我々に最後の問いを投げかけて来る。
 他の生命や人間を犠牲にしてまで、人は生きていることに価値があるのだろうか、と。
 私は、口ごもり乍らも、やはり価値があると思いたい。〔中略〕
 人は、自分の意志とは無関係にこの世に押し出され、自分の与(あずか)り知らぬところで家族、肌の色、才能、容姿を押し付けられて生きていかなければならない。〔中略〕
 人間は、運命に流されて生きていく。
 それを認めたうえで、私は敢えてこう言いたいと思う。
 今の自分の生き方は、自分で決めている様で、実は一つの大きな手の中で導かれているのだ、と。
 そして、その私達の今日の運命に対する受け入れ方が、明日の未来の運命を左右するのではないか、と。
 過去から背負わされた運命から逃れることは出来ない。しかし、明日の運命は、今この自分にかかっている。私はそう思う。

【小生comment】
 先週、坂東眞理子氏、三浦朱門&曽野綾子ご夫妻、五木寛之氏の著作を読み重なる機会を持った。そうしたら、偶然、夫々の本文中に『幸福』について語られていることを見つけた。その『幸福』について拾ってみると以下の様になる。

 坂東眞理子氏 : 「幸福とは非常に主観的なものだ」ということ。「幸福」を手にしたいと思うならば、「幸運」を願わず、まず小さな「幸福」を見つけ大事にし、自分で自分の「幸せ」をつくり上げていってください。
 三浦朱門氏 : 「幸福は、他人が与えてくれるものではない。国が与えてくれものでもない。自分で発明しなきゃいけないんです」。
 曽野綾子氏 : 「幸福の意味は、自分で見つけるしかないんですね」。
 五木寛之氏 : 「均一な幸福の中では、幸福という言葉自体が存在し得ない。不幸の存在があって幸福がある」「成功、幸福という言葉は、最初から全員が幸福になることを前提としている言葉ではない」。

 曽野綾子氏は、「日本人に一番欠けているのは生き延びる力」でこうも言っている。

 世界のほとんどの国では、安易に、少しでも弱みを見せれば敵が入って来るというのが常態です。ヨーロッパの町は、全部丘の上ですからね。そして城壁の中で暮らしている。〔中略〕城壁に囲まれていなかったら、殺されてしまう。そういうものなんですね。私は、日本人に一番欠けているのは、そういう生き延びることに対する基本的観念、生き延びる力だと思うんです。〔中略〕
 日本というのは、奇跡の国なんですよ。ルールを守るという意味では、とってもいいんですけど、悪に対する体験がないんですね。
 日本人はまさに平和ボケだと思うけれども、「みんなが平和を望めば平和になる」などと大人でさえ信じています。〔中略〕
 今、わざと破ったジーパンを穿くのが流行っているでしょう。穴の開いた服しか着られない人達への嫌味以外の何ものでもない。大変な侮辱ですね。それ一つ見ても、貧困というものがまるで解っていない。これは、想像力の貧困ですね。満ち足りた生活の中でも架空の恐怖や不幸を想像する力こそが知性でしょう。ほんの数十年前、日本人も食べ物がなく、身体中に虱がたかる様な生活をしていた筈なのに、現代人はそういう本当の貧困を想像することもできない。

 話題は、どんどん発展して行き、五木寛之氏の「Renaissance 以来、我々は光の中で近代をつくり上げて来た。Rnaissance というのは、〔中略〕人間は偉大なものなのだ」という、人間解放の意識改革から始まった」という言葉に触発され、小生、今、塩野七生氏の『ルネサンスとは何であったのか』を読み出した。
 この世の中は、知れば知るほど、解らないことばかり出て来る。収拾がつかなくなる恐れ大であるが、これがまた好奇心を誘い、ワクワク気分を惹起させる。
 今日は、徒然なる儘に『幸福』について綴ってしまい、「それで、何をいいたいのか?!」を明確にお示しできなかったですね。(笑)(汗)
 小生なりに強いて言えば、「『幸福』とは、主観的なものであり、相対的なものでもある。そして、自分で積み重ねて創造していくものである。その結果、得られる『満足感』をいう」のではないかと思います。
 では、また・・。(了)

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