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2010年3月の4件の記事

2010年3月27日 (土)

【時習26回3-7の会 0283】~「中谷巌 講演『日本経済の展望とゆくえ』を聴いて」「C.ティーレマン指揮ミュンヘンP.O. concert を聴いて」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0283】号をお送りします。

■さて、最初の話題は、04月17日開催予定の【時習26回卒業40周年記念旅行へ向けての集い〔第1回〕】のご案内の件です。今日27日22時00分現在11名の皆さんから出席表明を頂戴しました。開催日まであと3週間。 【2637の会】members の皆さんからは小生を含めて依然2名の儘です。是非ともお一人でも多くの皆さんの参加を期待しています。m(_ _)m

■続いての話題です。先週03月18日、蒲郡市民会館にて『日本経済の展望とゆくえ』と題する中谷巌の講演会が開催され、聴いて来ましたので、その内容についてご報告致します。
 尚、講演の volume が多い為、ここではその抜粋を掲載しますが、講演内容を理解し易くする為に、別添 file の全文〔 「iwao_nakatani_nihonkeizainotenbou_yukue_20100318.doc」をダウンロード 〕をご覧になることをお勧めします。
 また、中谷氏の著書『資本主義はなぜ自壊したのか』に準拠した講演内容でしたので、その本も参考までに添付します。

〔中谷巌氏〕
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 ではどうぞ・・

          【 中谷巌 講演『日本経済の展望とゆくえ』 】

 【中谷】今、この地域〔東三河〕は、何と言ってもトヨタ自動車の recall 問題が大きな関心事だ。
 米国議会は、日本の brand の image down を目論み、この問題を出来るだけ長引かせ様としている。その間に、米国自動車産業の失地回復を果たそうという魂胆だ。
 トヨタ自動車もこれまでの成長至上主義を反省している。Global 調達によりより安価な資材調達を行うという、その姿勢自体は誤りとは言えないが、従来の日本の系列下請企業群との取引関係の様な「親密な信頼関係」が今こそ求められているのだ。
(仕入は)「安ければいい」という考え方は短期的には利益増大に寄与するが、長期的に見れば問題だ。トヨタ自動車の豊田章男社長が米国下院議会の監督・政府改革委員会公聴会に呼ばれたことはある意味いい勉強になったと言えるだろう。 「顧客を裏切らない『信頼』」を取り戻せば、トヨタは、そして日本は復活すると私は確信する。
 リーマンショック( Lehman Shock )後、米国は、個人消費 style が変貌した。それまで年率05%の高成長率を続けていた。米国の過剰消費が世界経済を牽引して来たのである。
 8千億ドル/年の巨大な貿易赤字・・。米国は、これまでの「ものづくり」から「金融立国」に(経済構造の)仕組みを切り替えた。輸入で支払ったドルが米国内に還流する仕組みをつくれば問題は解消する。このため、金融工学という名の下に開発されたデリバティブ商品( derivative financial instruments )が世界中の投資家に種々拡販された。
 そして米国の金融機関は、①自己資本をかなり上回るレバレッジ( leverage = 梃子)経営、と、②グリーンスパン( Alan Greenspan )FRB(= Federal Reserve Board = 連邦準備理事会)議長(=当時)によるドル供給、この2本柱で年率05%成長を実現した。
 しかし、これは結局バブル( bubble )となり Lehman Shockにより弾けた。その結果、消費者は、借金をして消費する life style の是正を余儀なくされた。その後、現在では従前に比して家計も若干健全化し、貯蓄率は、年率4~5%の上昇を示している。
 このため個人消費は減退し、貿易赤字も Lehman Shock 直前の半分の水準に減少した。これにより、日本は輸出主導での経済成長が不可能になった。

 話を中国に転じると、( Lehman Shock 後に) 4兆元(= 53兆円( 1元 ≒ 13円))の財政支出を実施したことにより、年率10%成長に迄回復した。しかし現在の中国は危うい状況にある。即ち、これ程巨額な財政支出したお金の行き先(=発注先)は非効率な国営企業なのである。これ等の国営企業はいま無茶苦茶潤っている。また現在の上海は、万博( 2010.04.30 - 10.31)景気に沸き不動産 bubble だ。
 現在の中国社会は貧富の格差拡大が顕著になっており、net 上では、その恨み辛みが噴出しており、政府当局は検閲に躍起になっている。
 中国は、国民の不満を抑えるため年率 8%以上の成長率維持が不可欠とされ、これが将来、bubble が弾ける大きな懸念材料となっている。

 日・米・中・EU の4ヶ国( area )の現在の状況を纏めてみると、

【中国】 上海万博閉幕後に問題噴出!
【米国】 1兆4,000億ドルの財政赤字
【日本】 9百兆円の国の借金問題
【 EU 】 ギリシアの財政危機を、EUが Finance 支援出来ない火種を抱える

 事程左様に、世界的にバラ色の絵(=将来像)が描けない。
 この(講演会の)席上で、「一年後(景気は)良くなる」と言いたい処だが、中々言えない。(苦笑)

 日本の国政に話を転じると、民主党政権について今私は不安視している。
 そもそも「政治とは個人で出来ないことをやる」ことなのだが、今の民主党がやっていることは「個人にお金をばら撒くこと」。これでは政治とは言えない。
 もっと(他に)やるべきことがある。社会的な『政策』が必要なのである。
 そういうことが段々分って来た。manifesto ではばら撒きだけ(になってしまう)。
 自民党も頼りに出来ない。投票する人(= 人材)がいない。希望に満ちた話が出来ない。
         *  *  *

 しかし皆さん、私(中谷)は日本の将来は暗いとは思っていない。
 私は、「日本人の意識を少し変えるだけ(日本の未来は)で明るくなる」と考えている。では、それは何故か?
 〔中略〕
 「西洋諸国と日本の違い」。それは「歴史」の違いである。
 西洋は、民族間紛争の繰り返しであった。
 西洋は、古代ギリシアや古代ローマ帝国の時代から「戦い」により負けた民族は奴隷とされた「奴隷社会」。これは近代社会に至っても、元奴隷は社会の下層民となり、厳然とした「階級社会」を形成して来た。
 現代の欧州を見てもよく分かる。〔中略〕
 (例えば、フランスでは、)実は全人口の95%を占める庶民には brand 品は無縁なのだ。〔中略〕
 一方、日本は、階級社会ではない。3万円の brand 品を若いギャル( gal )が持って街中を歩いている。こんな風景は欧州では有り得ない。

 話変わって、「古代の日本」でのこと。〔中略〕
 日本は、民族融和で上手くやって来た。〔中略〕
 弥生人(の血)が途中で混じったものの縄文時代から1万2千年の長きに亘り同じ民族である。〔中略〕
これ(~同じ民族が1万年以上存えて来たこと~)が日本の強さなのである。
 「戦略的にやって行かないと生き残っていけない、普段から油断出来ない世知辛い社会に住んでいた(西洋諸)国」と、「長期的な付き合いが前提で、相手に信用され、相手を思いやる、という信頼関係を重視することを『生活信条』とする(日本)国」との違いなのである。
 日本の自動車の信頼性の高さには、この日本民族の生活信条が base にある。〔中略〕
 十数年前に中国人留学生から聞いた以下の様な「日米自動車比較」話がある。
 曰く「日本車は bumper の表と裏の両面綺麗にする。米国車は表だけだ。そこで、理由を日本人技術者に尋ねても『当然のこと』との回答」。
 「眼に見えないところも手を抜かない」のが「日本の美意識」なのである。
 〔中略〕
 江戸時代の江戸で流行った『裏優(うらまさ)り※』と同じ考えである。
 〔中略〕
 「合理性」も米国は短期的。日本は長期的。ここに日本の強さがある。
 また、欧米は厳然たる『階級社会』。下層の者は上流階級に上れない。この様な『諦め社会』では、向上心は生れ得ない。
 これに対し、日本には「当事者意識」がある。こういう意識があるのは、先進国では日本だけである。「欧米と日本の仕事感」の違い。これは「階層社会の有無」の違いである。
 この「当事者意識」がある社会がいつ形成されたか roots を辿ってみると、それは江戸時代に遡る。〔中略〕所謂、庶民が元気だった時代であった。確かに(士農工商の)身分制度はあった。しかし、一番元気だったのは最下層とされていた商人である。その商人が「文化」を創り出した。歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵、落語 etc. みな庶民層が「文化」をつくったのである。
 半面、武士は、商人を搾取しなかった。そういう意味から武士は偉かった。
 尚、西洋で「文化」をつくったのは宮廷であった。

 日本の総人口が3千万人の時代に於いて寺子屋は実に1万件あった。現在の総人口1億2千万人だから4万軒あるコンビニの規模に相当する。武士は朱子学を学び志を高めた。殊勝な(倫理観の高い)支配層を形成した。これ等が明治時代の「坂の上の雲」で活躍した人達を輩出した base になったのである。
 戦国時代に種子島に伝来した鉄砲を、ごく短期間に当時の世界最高水準にまで改良した優れた技術力を持っていた日本も、その後江戸時代が長らく太平な時代として続いた為、黒船を見て驚愕したのだが当然の話だ。
 そこで、幕末から明治時代にかけての日本は、強い危機感を持ち、急速に近代化(=西洋から高い技術を導入すること)に邁進した。
 1853年浦賀へのペリー( Matthew Calbraith Perry )来航から遡ること361年前の1492年コロンブス( Christopher Columbus )により新大陸発見された。この時から西洋世界による非西洋世界征服の歴史が始まった。
 〔中略〕
 この歴史の流れの延長線上に1853年日本への黒船来航がある。
 〔中略〕 
 日本は日清・日露戦争に勝利し、世界五大列強の一国になる。〔中略〕
 ところで、日露戦争に日本が何故勝てたか?
 → これは、日英同盟による処が大きい。〔中略〕
 英国は、ロシアの満州への南下が脅威と考え、日本を北米に於けるイロコワ族として使えばいいと考えた。これは、「英国は北米へ進出する際、当時原住 Indian の中で最強のイロコワ族を唆(そそのか)し、他の Indian 部族を征服させそれが終わった後、英国がイロコワ族を征服した」というやり方をいう。この考え方は、第二次世界大戦で実践された。日本が徹底的にやっつけられた。
 戦後、連合軍は日本が二度と立ち上がれない様にする為に来日したのが D.MacArthur だ。日本に7年間いたのだが、どうやって日本を洗脳したか。G.H.Q.は、radio で自虐的放送を盛んに喧伝させた。新聞の検閲をやった。Asia 侵略をした悪者の日本の image を日本国民に植え付けた。日教組は、MacArthur 史観に載せられた。公立高等学校で日本史が必須になっていないのも典型的な例である。
 「戦後の日本人は、日本の歴史を知らずに来た」→「『根無し草』になった」→「(現在の)日本の信念に迷いがある」~この(現代の日本人が抱える漠然とした)不安感の根源はここにある。
 しかし、まだ戦後60余年しか経っていない。我等は1万2千年の歴史がある。日本には強(したた)かな DNA を持っているのだ。だから、失った60余年は1万2千年からすればほんの僅かな時間だ。〔中略〕
 日本人が、西洋人と渡り合うのは正直しんどい。しかし、日本人の様に、「『裏優り』の精神」、地道で実直な姿勢、共同体での共存共栄を尊重する精神。これ等が備わっていたからこそ、戦後30~40年で復興出来たのである。「 made in Japan 」~世界の人々は、「ちょっと高いがいい製品(商品)」という image が知れ渡っている。
 西洋の経営者の戦略眼は、elite の眼。西洋の「優れた」経営者は(端的に言って、従業員等を)「切捨て出来る人」。
(換言すれば、西洋の方式は)人間性を無視した考え方だ。
 片や日本の経営は、全く違う。現場の人達に意欲の火を付ける方法が大切(と考える)。西洋式の信賞必罰式を優先すると日本では上手く行かない。日本(の方式)は庶民が動かした。日本人は、西洋人や中国人の強かさがない。現代の日本(社会)で問題なのは、若者達が欧米(=西洋)的な考え方を礼賛していることだ。
 今後も、不況は暫く続くだろう。しかし、(我国日本は、敗戦という今の不況より酷い状況下から)戦後復活できたのである。
 『市場原理』は、「階級制度」のない日本には不向きである。即ち「みんなで我慢して」という「共同体社会」での発想・・。日本は、西洋や中国とも違う、世界全体から見れば unique な国だ。だが、大いに自信を持っていい。
 今の日本には、ある種の閉塞感が漂っているが、これは MacArthur による自虐観だ。皆さん、自己認識を持って! 特に東三河の人達は、一寸「鈍臭く」ても、地道に(コツコツと)積み上げて行くことが得意だ。
 皆さんの今後のご活躍を期待して私の話を終わります。(了)

【小生comment】
 「弥生人の渡来」については、小生、一つの仮説を持っている。
 それは、「徐福=神武天皇説」である。ただ何も時代考証している訳ではない(為念)。
 それは、即ちこういうことである。

 斉国(山東省)の道教の方士・徐福は、紀元前3世紀に実在したとされる。
 弥生人の日本渡来時期と中国、秦の全国統一との時期は同じ紀元前3世紀。秦の始皇帝が徐福に不老不死の薬を求めて東海の三神山を探させたことも、中国側の発掘調査から事実と考えられるに至った。
 但し、徐福の日本上陸の場所は、日向、熊野はじめ全国に20カ所以上ある。
 また徐福伝説がある場所には、弥生遺跡・水田跡が発見されている。故に、「徐福一行の渡来」が「弥生人の渡来」とされるのである。
 この説に立つと、神武天皇は、神格化された徐福と言うことになる。
 因みに、記紀では、神武天皇は、神日本磐余彦尊(カンヤマト・イワレヒコノミコト(711B.C.-585B.C.(享年127歳)))と言う。660B.C.即位。
 尚、第10代崇神天皇以降が実在の天皇とみられ、それ以前の第2代綏靖(アンゼイ)~第9代開化天皇(585B.C.-98B.C.)迄の483年間は『欠史八代』と言われ、記紀に彼等の事跡は殆ど残されていない。
 また、徐福の脳裏に常にあった秦の始皇帝が神武天皇として記紀に記されたという説もある。
 以上の様に考えると、日本の歴史に何となく roman を感じませんか?

■次の話題です。

【C.ティーレマン指揮ミュンヘンP.O. concert を聴いて】
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 小生、一昨日の03月25日夜、名古屋の愛知県芸術劇場 concert hall にて、C.ティーレマン指揮ミュンヘンP.O. concert を聴いてきましたので簡単にご紹介させて頂きます。
 当日の program は以下の3曲。

 Richard Wagner / Overture Opera "Tanhauser"
 Johannes Brahms / Violin Concerto in D Op.77
 Ludvig van Beethoven / Symphony No.5 in c Op.67

 何れも「超」がつく程の名曲。地元ドイツの大作曲家三人の代表作品であり、当初はあまり期待していなかったのであるが、名曲って本当に聴く者を一瞬のうちに虜にしてしまう魅力があるのだ、と痛感させられた至福のひとときであった。
 また、ティーレマンの指揮によるミュンヘン・フィルの演奏は、高水準の演奏で「名曲とはこういうものだ」と教えてくれたお手本の様な演奏であった。

【後記】お別れに、今の時節に相応しい俳句を一句ご案内してお別れしたいと思います。

 春の夢 うらはづかしく 覚めにけり  冨安風生

【解説】人間の深層心理を正直に表わす「夢」。作者は、心中で恥ずかしく思う様な夢を見たのだろうか。「春の夢」は、人生の儚さの喩えられることが多い。この句に惹かれるのは歳をとった証拠かもしれない・・。
 では、また・・。(了)

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2010年3月20日 (土)

【時習26回3-7の会 0282】~「『Renoir』展〔その3〕」「3月23日:湖西市と新居町合併」「丹羽宇一郎:『鳩山さん 経済無策では国が危うい』を読んで」「『Goethe』について〔その3〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0282】号をお送りします。

■さて、最初の話題は、来る04月17日開催予定の【時習26回卒業40周年記念旅行へ向けての集い〔第1回〕】に「出席表明」して下さった方々のその後についてですが、今日20日午後06時現在も、先々週と変わりございません。
 予定日まで一ヵ月を切りました。【2637の会】members の皆さんからの多くの参加強くを期待しております。ご協力下さい。m(_ _)m

■次の話題は、先週に引続き、〔国立新美術館『Renoir』展を見て〔その3〕〕を送りします。今回は【0282】[3] 風景画&静物画 05枚 +『ボルゲーゼ美術館』展から02枚です。
 Renoir の風景画や静物画もなかなかいいですね。今日ご紹介した5品の中では、『シャトゥーのセーヌ河』(1881年)など、とても chic で感じがいい。
 尚、『ボルゲーゼ美術館』展の絵は、『Renoir』展を見た同じ日、上野にある東京都美術館にて開催されていたもの。展示された絵画の中では今日ご紹介する2品 Caravaggio『洗礼者ヨハネ』とRaffaello『一角獣を抱く貴婦人』が圧巻。
 因みに、同美術館(昭和50年開館)は、設備老朽化により平成22年04月05日(月)から約2年間、改修のため全面休館となり、暫く見納めである。
では、名画の7品をじっくりとご覧下さい。

[02]The Boat on the Seine River, a Suburb of Paris [パリ郊外、セーヌ河の洗濯船] 1871年
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–––––––––––––––––––––––––––––[08]The Seine at Chatou [シャトゥーのセーヌ河] 1881年
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[10]Place de la Trinite Paris [トリニテ広場、パリ] 1892-93年
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–––––––––––––––––––––––––––––[11]La Maison de la Poste at Cagnes
[カーニュのメゾン・ド・ラ・ポスト] 1906年
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[17]Still Life with Dahlias [ダリア] 1885-90年頃
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[21]カラヴァッジョ( Caravaggio )『St.John the Baptist(洗礼者ヨハネ)』1609-10年
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–––––––––––––––––––––––––––––[22]Raffaello Sanzio『Portrait of a Lady with a Unicorn
                             (一角獣を抱く貴婦人)』1506年頃
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[31]湖西市と新居町03月23日合併100309東愛知新聞
310323100309

■更に続いては、掲題・副題にある様に「3月23日:湖西市と新居町合併」についてです。
 湖西市と新居町は明々後日の03月23日、合併し、新「湖西市」が誕生する。
 新市人口約63,000人、世帯数23,000、面積68.6k㎡。合併後の住所表示は「浜名郡新居町」が「湖西市新居町」となる。
 人口は2010年01月末現在で、湖西市45,373人、新居町17,554人。新居町の編入合併で「浜名郡」も消える。
【小生comment】
 「 if 」 の話ですが、新「湖西市」と豊橋市が合併すると、江戸時代の吉田藩の領域とほぼ同じになるのですが・・。

■続いての話題である。文藝春秋2010年04月号に、掲題・副題にある様に「丹羽宇一郎:『鳩山さん 経済無策では国が危うい』を読んで」をお伝えしたい。
 まずは、以下の記事を読んでみて下さい。
 世界における現代日本の危機的状況が、大手総合商社会長の丹羽氏によって切々と訴えかけられている。その抜粋をご覧下さい。

【この危機に政策を誤れば「失われた十年」の再来は近い】
〔前略〕私(丹羽氏)は常々「経済成長なくして日本の再生なし」と言ってきた。
高度経済成長期から日本経済を見てきた一人として、日本には成長する可能性がまだ十分にあると信じている。ただそれには、今後の方向性を見誤らないことが条件になる。成長を諦めるのではなく、今こそ、日本再生の為の政策について提言したい。〔中略〕
 2007年に516兆円あった日本の名目GDPは、2009年には475兆円にまで落ち込んだ(7.9%減)。減少した41兆円の77%が輸出の減少に起因し、09年の名目成長率は6%減と戦後最悪の落込みを示した。〔中略〕

【「絵に描いた餅」の成長戦略】
〔前略〕今の日本に必要なのは、十年後の日本をどうするかという明確な vision を、世界に対して早急に示すことだ。〔中略〕もはや一刻の猶予も許されない。

【「Miracle-Japan」を支えた財産】
〔前略〕日本の教育はごく少数の elite を育てるのではなく、分厚く良質な中間層を生み出した。高い教育を受けた中間層は、労働者であると同時に厳格な選択眼を持った消費者でもあり、その消費者を満足させる高品質の製品が日本から世界各地へと輸出されて行った。
 この(【注】日本経済が著しい成長を遂げた1955~90年の)35年の歴史は、日本経済の成長には輸出の拡大戦略が欠かせないこと、そして「技術と人材」に、教育が如何に大切な役割を果たしているかを示している。

【日本 brand で「high-premiere 社会」を】
〔前略〕十年後0の日本社会のあるべき姿として、私は誰もが安心して暮らすことが出来る高い level の社会、「「high-premiere society」を提言したい。高い教育を受けた住民に支えられ、命や財産の危険を感じることなく誰もが住みたくなる様な社会だ。
 世界中の先進国を見ても、日本ほどこうした社会を作り上げるのに適した国はなく、また、今程こうした社会が求められている時代もない。〔中略〕今から政府が明確な目標として取り組めば、10年以内に実現出来る筈だ。新興国が日本と同じ教育 level に到達するには、あと20年はかかる。〔中略〕
 そして日本の労働者が作った高品質の製品を「日本 brand 」として世界中に輸出し、経済成長の柱とする。多少高くても、高品質の工業製品や農作物は間違いなく売れる。〔中略〕
 技術が高度化、複雑化すればする程、高い教育を受けた「人」の果たす役割は重要となってくる。〔後略〕

【鳩山政権の懸念すべき教育軽視】
〔前略〕世界では、先進国も新興国も国の未来への投資として科学技術へ大幅な予算を割く国が増えている。流れに逆行する政策を続ければ、日本は世界から取り残されてしまう。〔後略〕

【経済力なき国は世界で存在感を失う】
〔前略〕何事においても頂点を極めた時に衰退は始まる。日本も「追いつき追い越せ」の slogan の下で世界の№2の座に立った時に、目標を達成したと勘違いして倣(ごう)岸不遜になっていた可能性はないだろうか。〔中略〕 governance の重要な原則として透明性・情報開示・説明責任の三つがある。昨年夏から既に
recall 問題が米国で話題に上っていたトヨタの case も、こうした三つの原則が十分に果たされていただろうか。日本全体が世界で評価を受けた高い技術力に、胡坐をかいていたということはなかっただろうか。〔後略〕

【一刻も早く税金を再配分せよ】
〔前略〕目を向けたくない厳しい現実をあえて直視し、国民に説明する勇気を持ってこそ真の leader 足りえる。名誉や個人の評判を顧みることなく、身を捨ててこの国の為に働くという情熱を持った政治家が、今の日本には必要だ。
〔中略〕根本的に税金の再配分を行って行政を立て直さなければ、今後数年のうちに日本経済は崩壊する。〔中略〕一刻も早く、適切な経済政策を打ち出して貰いたい。〔中略〕
 日本の経済成長の鍵は輸出にある。〔中略〕
 日本の韓国も人口減少が予測されているだけに、この Asia market を取り込まない限り日本の成長はない。〔中略〕
 国内の製造業が落ち込んだ儘の米国市場は、これからも日本の輸出先としてかつて程ではないが、重要な存在であり続けるだろう。中国が低価格商品を大量に投入してくるだろうが、高品質の製品や電気自動車等「日本brand 」が通用する余地は十分にある。

【いま一度、経済原理の勉強を】
〔前略〕公共投資を削減する場合は、雇用対策費を手厚くしなければ国家は疲弊していく。日本は小泉政権時代に毎年3%ずつ公共投資を減らしてきたものの、雇用対策は殆ど取らなかった為に賃金格差が拡大したり、地方経済の崩壊を招いた。〔中略〕公共投資の持つ雇用対策機能をきちんと認め、的確に balance を取った予算編成をしなければならない。〔中略〕
 Adam Smith は『国富論( An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations = 諸国民の富の性質と原因に関する一考察 )』の中でこう書いている。
 豊かな時代の愚策は大した影響はないが、国難の時の愚策は国を滅ぼしかねない、と。
 これ程現在の日本に当て嵌まる言葉はない様に思われる。人口減少と巨額な借金という二重苦に加え、デフレ-spiral は一向に収まる気配がない。
ここで経済政策を誤れば、日本経済は浮上の可能性を完全に断ち切られることとなる。
 経済は、生産と需要とを両輪にして走っている。〔中略〕需要拡大ばかり唱えても、企業の成長なしに国の経済成長など見込める筈がない。〔後略〕

【小生comment】
 丹羽氏の指摘していることは至極尤もなことである。今の日本は、まさに戦後最大の国難に直面していると言えよう。「今の日本に必要なのは(英明な為政者によって)十年後の日本をどうするかという明確な vision を世界に
対して早急に示すことだ。もはや一国の猶予も許されない(丹羽)」のである。

【後記】さて、今日は、明日22日が命日となるゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe (1749.08.28 - 1832.03.22)) について少しご紹介させて頂きお別れしたいと思います。
〔略歴〕
1749年  08.28 ドイツ西部の自由都市 Frankfurt-am-Main に生まれた。
父は帝室顧問官。母方の祖父Johann Wolfgang テクストルは、Frnkfurt市長を1748-70年迄
務めた。
  裕福な家庭で育った Goethe は、父親からは2歳の時から外国語を、4歳で数学、博物学・地理
・歴史を、家庭教師から音楽・絵画を学んだ。特に語学力に秀で、少年時代すでに英、仏、伊、
Latin、ギリシア(希臘)語、ヘブライ(希伯来)語を習得。
1755年 (06歳)家の改築の間だけ公立学校に通学。
1756年 (07歳)ギリシア語・Latin語を学ぶ。
1763年 (14歳)●グレートヒェン(Gretchen)との初恋と離別。
1765年 (16歳)Leipzig大学にて法律を学ぶ(父親の強い勧めにより)。
1766年 (17歳)●ケートヒェンと恋愛。
1768年 (19歳)07月末喀血、09月帰郷。
1770年 (21歳)04月Strassburg(現・仏ストラスブール(Strassbourg))大学へ。10月●フリーデリケと恋愛。この大学時代、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(( Johann Gottfried von Herder )・・古典主義等に異を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へと繋がっていった革新的な文学運動であるシュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang)[=「疾風怒濤」]の立役者である・・)と出会い Goethe は人間的に大きく成長。〔添付写真[41]参照〕

[41]ストラスブール( Strassburg )時代のゲーテ( Goethe )(1770年 21歳)
41strasbourggoethe

1771年 (22歳)法学の学位を得て帰郷。『野ばら』『五月の歌』等を書く。
1772年 (23歳)ウ゛ェッツラーで法律研修。●シャルロッテ・ブッフへの恋と離別。
1773年 (24歳)『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を匿名出版し一躍有名になる。
1774年 (25歳)『若きウ゛ェルテルの悩み』刊行。
1775年 (26歳)04月 Frankfurt 屈指の資産家の娘●リリー・シェーネマンと婚約するも両家が宗派の違い もあり反目、同年秋、婚約解消。アウグスト公の招聘でヴァイマルへ。
1776年 (27歳)●シュタイン夫人との親交始まる(以後12年続く)。ヘルダー招聘。
1782年 (33歳)貴族の称号を得る。父ヨハン・カスパル死去。
1786年 (37歳)09月突然、イタリア旅行へ。「旅は旅そのものが目的だ」と語る Goethe の生涯の旅通算期間13年超、回数は百数十回に及ぶ。
1787年 (38歳)秋、ミラノの女性●マッダレーナ・リッジと恋愛。
1788年 (39歳)ヴァイマル帰着。女工●クリスティアーネ・ヴルピウス(23歳)に出会い同棲。
1794年 (45歳)シラー(Friedrich von Schiller(1759-1805))と固い友情が成る。
1796年 (47歳)『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』脱稿。
1806年 (57歳)『ファウスト第一部』脱稿。10月クリスティアーネと正式に結婚。
1806年 (57歳)08月、神聖ローマ帝国瓦解。
1808年 (59歳)母死去。09月、仏皇帝 Napoleon はエルフルトに01帝、04王、34諸侯を会し、Goethe はそこで Napoleon に謁見。
1811年 (62歳)『詩と真実』刊行。
1814年 (55歳)●マリアンネ・フォン・ヴィレマーと恋愛。
1816年 (67歳)妻クリスティアーネ死去。『イタリア旅行』刊行。
1821年 (72歳)●ウルリーケに出会う。
1823年 (74歳)エッカーマン来訪、滞在。『ゲーテとの対話』執筆開始。
1829年 (80歳)『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』完成。
1830年 (81歳)子供の中で唯一成人した長男アウグスト、ローマ旅行中に急死。
1831年 (82歳)07月『ファウスト第二部』完成、08月封印。
1832年 03月22日午前11時半死去。あの有名な・・「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最期の言葉であった。

【小生comment】
 大学で法律を学び弁護士として人生を踏出した Goethe は、政治家としてはヴァイマルの宰相を務めた。文豪・詩人の大家であり、哲学・芸術・自然科学の造詣も深い。彼のMulti-talent ぶりには驚くばかりだが、72歳という高齢で18歳の乙女ウルリーケに恋をする精神的若々しさと、豊富な女性遍歴にも脱帽。
 参考に上記年譜に登場する女性の頭に●印を付してみたら何とその数は10人にのぼった。流石だ・・。(嘆息)(笑)

 最後に、Goethe の大変美しい詩の一部をご紹介してお別れします。
 では、どうぞ・・

        MIGNON

 Kennst du das Land, wo die Zitronen bluhn,
 Im dunkeln Laub die Goldorangen gluhn,
 Ein sanfer Wind vom blauen Himmel weht,
 Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht,
 Kennst du es wohl?
   Dahin! Dahin
 Mocht' ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn!

        ミニヨン

 君や知る、レモン花咲く国、
 暗き葉蔭に黄金(こがね)のオレンジの輝き、
 和やかな風、青空より吹き、
 銀梅花(ギンバイカ( = ミルテ))は静かに、月桂樹は高く聳(そび)ゆ。
 君や知る、かの国。
           彼方へ、彼方へ!
 君と共に行かまし、あゝ、わが愛しき人よ!
 ( 以下略 )

[51]銀梅花(ギンバイカ( = Myrte))
51_myrte

–––––––––––––––––––––––––––––[52]月桂樹(Laurel ; Lorbeer)
52laurellorbeer


【小生comment】
 南欧イタリアの明るい陽射いっぱいの庭を想起する様な、美しい詩である。
 Mignon は、フランス語の C'est mignon (セ・ミニョン)「可愛い、愛らしい」から来ている。
では、また・・。(了)

2010年3月13日 (土)

【時習26回3-7の会 0281】~「02月17日:国立新美術館『ルノワール』展を見て〔その2〕」「〔03月05日:「県境を跨ぐエコ地域づくり戦略プラン研究会〕~寺島実郎氏講演『地域の自立・成長のための広域連携主体』を聴き&同氏著『世界を知る力』を読んで」「Goetheについて〔その2〕&Rilke詩集より」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】会報【0281】号をお送りします。

■さて、最初の話題は、来る04月17日開催予定の【時習26回卒業40周年記念旅行へ向けての集い〔第1回〕】に「出席表明」して下さった方々のその後についてですが、今日13日午後06時現在、先週と変わりございません。
 引続き【2637の会】members の皆さんからの参加を期待しております。

■次の話題は、先週に引続き、〔国立新美術館『Renoir』展を見て〔その2〕〕を送りします。今回は【0281】[2] 男性の肖像画& couple の肖像画 06枚です。ご覧下さい。
[03]Claude Monet,Reading [新聞を読む、モネ] 1872年
03claude_monetreading_1872

––––––––––––––––––––––––[05]Couple Reading [読書する二人] 1877年
05couple_reading_1877_2

[09]Dance at Bougival [ブージヴァルのダンス] 1883年*
09dance_at_bougival_1883

––––––––––––––––––––––––[12]Ambroise Vollard Dressed in a Toreador
[闘牛士姿のアンブロワーズ・ヴォラール] 1917年
12ambroise_vollard_dressed_in_a_tor

[13]Paul Meunier [ポール・ムーニエ] 1877年頃
13paul_meunier_1877

––––––––––––––––––––––––[15]The Young Student [本を持つ少年] 1879年
15the_young_student_1879


■更に続いては、先々週の03月05日(金)、豊橋市内のホテルにて、地元団体主催のsymposium が開かれた話題です。実はその催事の後半に、以前から何度もご紹介させて頂いている寺島実郎氏の講演があったのです。
(添付写真[21])

[21]寺島実郎氏の講演の模様
2120100305

『地域の自立・成長のための広域連携主体』という演題でしが、その中身は、氏が今年初上梓した著作『世界を知る力』(添付写真[22])と overlap する処が多かった。同書の内容もなかなか面白いので、これ等を一緒にその essence をご紹介させて頂きます。

––––––––––––––––––––––––[22]寺島実郎著『世界を知る力』
22

【注】尚、『世界を知る力』からの引用文は冒頭に『世』、講演は『講』と表す。

『講』【寺島】まず『広域連携』という key word に着目して「アジアの dynamism の中でどう生きるか?」を考えてみると、「『元気な地域』というのは「国境を越えた連携」が進んでいる」ということだ。

『世』【躍動する大中華圏の dynamism】
 〔前略〕一言で「中国」というが、大中華圏(=中国+香港+台湾+シンガポール)内部の相関が強まることによって「中国」の front がぐっと広がり、その dynamism が躍動し始めていることに、私達日本人も気付かなければならない。
 何しろ〔中略〕日本の貿易総額の三割強は大中華圏を相手にする時代(2009年)になったのである(cf.対米国=13~14%)。〔中略〕日本は大中華圏を軽視する訳にはいかなくなったのである。その時、中国本土だけ見ていては、時代の流れを見損なう。大中華圏という network に着目する時、初めて中国本土の動きが意味するものが見えて来るのである。

『講』【寺島】1989年 Berlin の壁崩壊後、産業基盤構造が急速に変貌。社会主義国が雪崩をうって解体へと追い込まれた中で、中国だけは社会主義体制を維持し乍ら経済的に成功を収めて来た。その成功の仕組みが「大中華圏」という key word で表される network 型相関にある。
  1997年の香港返還後の一国ニ体制後も香港と中国の関係は良好である。年間25百万人が中国本土から香港を訪れる。中国は、台湾・香港の資本を上手く本土に取り込んだ。
  また、住民の76%を華僑が占め政権を握るシンガポール( Singapore )は、今や、目に見えない(所謂 virtual な)財を使い「大中華圏の研究開発 center」の役割を担っている。その実力は、購買力平価に引き直した一人当たりGDPで見ると$49,000。日本の$32,000 を凌駕するに至っている。
  物流に目を転じて見ても、日本の港湾、特に太平洋側港湾の凋落( rank down )が顕著。コンテナ( container )取扱量で見た2008年の世界 ranking は、1位Singapore, 2位上海、3位香港、4位深セン、5位釜山、6位ドバイ、7位寧波、8位 広州、9位 Rotterdam, 10位青島、と東アジアの大中国圏と韓国の躍進が目覚しい。
  一方、日本の港湾は、29位横浜、39位名古屋、44位神戸、50位大阪、と大幅に後塵を拝している。
  注目すべきは釜山(韓国)のハブ( hub )化(= trans-ship の伸張)。それと共に日本海側港湾への物流がシフト( shift )。平成07年~17年迄の外国貿易コンテナ貨物取扱量年平均伸び率は全国平均 4.6%に対し、日本海沿岸11港 12.6%。

[23]「上下を逆にした世界地図で見た日本」~『世界を見る力』から~
23

【小生注】寺島氏は『世』:「上下を逆にした世界地図で見た日本」を例に出し、「日本海物流」の時代へ変貌していることを強調。氏は「北関東の群馬や栃木では、「釜山→新潟港→関越自動車道」からの方が東京・横浜港を利用するより迅速且つ安価。『釜山港で繋ぐ』流れが定着し増大しつつある。
 この背景には米中物流という大きな流れがある」と解説した。

『世』【Green New Deal はIT革命を超えるか】
  私(寺島)は、「Green New Deal」が〔中略〕IT革命の様な文明の paradigm 転換の可能性を有している様に思えてならない。〔中略〕そういう予感がする。
  成功の鍵は、再生可能 energy の Achilles 腱とされる「小規模・分散型」にある。〔中略〕
  思えば、20世紀のアメリカは「自動車」と「石油」を相関させることで、『アメリカの世紀』を創造したとも言える。T型Ford の誕生が1908年。石油を燃やして走る内燃機関系の engine を積んだ自動車を大量生産、大量消費する経済社会の始まりである。これに先んじて、1859年にペンシルバニア( Pennsylvania )で油田が発見され、1870年には John Davison Rockefeller, Sr によって Standard Oil ( of Ohio )社が設立されていた。〔中略〕
 石油資本は、安定的な石油市場確保の為に、自動車産業への支援を惜しまなかった。また、1939年の New York 万博に初めて登場したナイロン( nylon )の靴下は、瞬く間に女性を虜にし、石油化学時代の幕開けを告げる。
  こうして、「自動車」と「石油」を相関させることで、更には石油化学を通じて衣料文化さえ変えることで、アメリカは繁栄を続け、世界を lead して来た。〔中略〕
  電気自動車、〔中略〕更には「Smart grid( 次世代双方向送電線網 )」構想の様に再生可能 energy の「小規模・分散型」という特徴が、今、電気自動車やITと連動することで、新たな、そして画期的な意味を持ち始め様としているのだ。
 〔以下略〕
【小生注】寺島氏は、講演の結びに、当地区東三河の高い農業生産高に着目して、「食をつくる基盤」を広域地域連携の柱の一つに据えている今回の主催者団体の考えに賛同の意を表明。①県境を越えた地域連携、②産・学・官連携、等を積極的に推進すべきと結論付けて終えた。
  寺島氏は『世』の最後の処で、「世界を知れば知るほど、世界が不条理で満ちていることが見えて来る筈だ。〔中略〕世界の不条理に目を向け、〔中略〕行動することで問題解決に至ろうとする。そういう情念をもって世界に向き合うのでなければ世界を知っても何の意味もない」と喝破している。氏は我々に、「ただ世界を知るだけで終わるな、世界の不条理に立ち向かえ」と叱咤しているのだが・・。

【後記】
■今日の締め括りも、Goethe 〔その2〕として彼の言葉を一つ、続いて、20世紀前半ドイツ最大の詩人と言われるR.M.リルケ( Rainer Maria Rilke )がいまの時節「春」を歌った詩ニ篇をお届けしてお別れしたいと思います。では、どうぞ・・

[31]Goethe[詩と真実]他作品集&Rilke詩集
31goetherilke


 ごくありふれた草や花も我々にとって好ましい日記代りとなることができるのである。
 幸福な瞬間の思い出を呼び戻してくれるものは全て、無意味である筈がないからである。
 それ故、私は今も尚、様々な時期に描かれて残っているそうした色んなものを、価値のないものとして
 捨て去る気にはなれないのである。
 何故なら、それ等のものは、確かに悲しみの念も伴わないではないが、
 しかし、私が喜びを以て思い出すあの時代に、直接私を引き戻してくれるからである。
    *** 「『詩と真実』第二部第六章〔~岩波文庫25頁~〕」から ***

         早春 〔 Vorfruhling 〕

 すっかり冬の厳しさが消えてしまった あらわになった牧場(ば)の灰色の辺りに
 たちまち穏やかな気配が漂っている
 せせらぎがその歌声をかえる
 定かならぬやさしさが

 空からそっと大地に手をのばし
 道が遠くの田舎にのびて それを示している
 ふと私は はだかの樹に
 伸び上ろうとするその表情を見た

         春 〔 Fruhling 〕

          カタリーナ・キッペンベルクのために

 私たちがいま春とともにあると思うのは
 ほのかな新しい光がさしてきたからではない
 それはむしろ澄みわたった庭園の道のうえで
 戯れている穏やかな陰影(かげ)のせいなのだ

  陰影(かげ)は庭を私たちのものにしてくれる
 いま始まった変容のなかで
 私たちが既に予めもっと変化した自分を見出すとき
 私たちの驚きを木の葉の影がしずめてくれる     

 では、また来週・・。(了)

2010年3月 6日 (土)

【時習26回3-7の会 0280】~「02月17日:国立新美術館『ルノワール』展を見て〔その1〕」「〔稲泉連:「決断の瞬間[1]」〕~川相昌弘『僕に巨人を捨てさせた”犠牲バント”という快楽』」「ゲーテについて〔その1〕」

■今泉悟です。 今日03月06日は「啓蟄」。木々が萌え出すだけでなく、地中の生き物たちも動き出し、いよいよ活動の季節の到来です。
 午前中は残念乍ら雨。
 この時節に「雨」とくれば、《会報》【0152】号でもご案内した日野草城の名句が浮かびます。

 春暁や ひとこそ知らね 木々の雨  日野草城

【解説】春の早朝、目覚めた床で耳を澄ますと、外は雨の様だ。微かな雨音を聞き乍らまだ誰も気付かず眠っているに違いない。時節は、『雨水』→『啓蟄』→『春分』→『清明』→『穀雨』へと、『春』は次第に深まって行く・・。

 気候も大分春めいて来ました。
 さて皆さん一週間のご無沙汰です。
 今日も【2637の会】《会報》【0280】号をお送りします。


 まず最初の話題は、来る04月17日開催予定の【時習26回卒業40周年記念旅行へ向けての集い〔第1回〕】に「出席表明」して下さった方々のその後です。今日06日午前09時現在、全部で10名になりました。
〔 内訳は、[01組]01名、[02組]01名、[04組]01名、[06組]02名、 [07組]02名、[08組]02名、[09組]01名、です〕
 【2637の会】members の皆さんからの参加を期待しております。

01100217

 話題変わって、今日は、ちょっと前になりますが、先月17日に仕事で上京する機会があり、仕事の合間に国立新美術館にて開催中の『ルノワール』展を見て参りましたのでその模様についてご紹介します。
 大変著名な日本人に特に人気の高い印象派の巨匠 Renoir の展覧会で、出典数も内外の美術館の作品を合わせて計80点と多く圧巻でした。
 美しい名画が目白押しです。
 したがって、今回から以下の様に3回 series でご案内しようと思います。

 【0280】[1] 女性の肖像画 07枚 + 図録cover 01枚
 【0281】[2] 男性の肖像画& couple の肖像画 06枚
 【0282】[3] 風景画&静物画 05枚 + 『ボルゲーゼ美術館』展から02枚

 それではピエール=オーギュスト・ルノワール ( Pierre-Auguste Renoir (1841.02.25-1919.12.03)) の経歴を織り交ぜつつ〔1〕女性の肖像画について順次ご案内して参ります。どうぞ・・。

 1841年 02月25日フランス中西部、磁器産業で栄えた町リモージュに生れる。
       Renoir は、印象派の仲間では最年少。
       〔 ピサロ 1830.07.10 / ドガ 1834.07.19 / セザンヌ 1839.01.19
        シスレー 1839.10.30 / モネ 1840.11.14 / モリゾ1841.01.14 〕
 1850年頃 サン=トゥスタッシュ教会の聖歌隊に属し、歌劇「ファウスト」の
      作曲家として知られるシャルル・グノー(1818-1893)に声楽を学ぶ。
1852年 12月02日 ナポレオン三世即位、第二帝政成立
 1854年~1858年 Renoir は、パリにあるレヴィ工房に入り、磁器絵付を学ぶ。
 1860年 ルーヴル美術館にて、最初の模写の許可を得る。
 1861年 スイスの画家シャルル・グレール(1806-1874)の私立画塾で、シスレー
       (1839-1899 : 1861年入門)やクロード・モネ(1840-1926 : 62年入門)
       等と交友を深めた。
 1862年 04月01日パリ国立美術学校入学。
 1870年 (29歳) 07月19日フランスがプロイセンに宣戦布告(普仏戦争)。
       08月26日戦争に動員される。
 1871年 01月28日フランス軍、プロイセン軍に敗退。休戦協定。
       03月10日動員解除。
       05月28日パリ・コミューン壊滅。
       08月第三共和制成立。
 1876年頃 《アンリオ夫人》〔添付写真[02]〕

[02]《アンリオ夫人》
02madame_henriot_1876

 1879年 Renoir 38歳の年、サロンに《シャルパンティエ夫人と子供たち》
      (1878年)を出品、好評を博す。爾来、Renoir は画家としての地位を
      確立。名作の数々が生まれていく。
因みに、それ以前の肖像画作品の model は《アンリオ夫人》の様に
Renoir の親しい友人等に限られていた。

 1879年 《テレーズ・ベラール》〔添付写真[03]〕

[03]《テレーズ・ベラール》
03therese_berard_1879

《縫い物をする若い女》〔添付写真[04]〕

[04]《縫い物をする若い女》
04young_woman_sewing_1879

 1880年 《可愛いイレーヌ》〔添付写真[05]〕

[05]《可愛いイレーヌ》
05mademoiselle_irene_cahen_danvers_

この作品は、ユダヤ人の銀行家ルイ・カーン・ダンヴェール伯爵
(1837-1922)の長女イレーヌ(1872-1963)の肖像画。ダンヴェール
伯爵は注文主のユダヤ人の中では最も裕福な人物の一人。
 1879~80年頃 《団扇を持つ若い女》〔添付写真[06]〕

[06]《団扇を持つ若い女》
06a_girl_with_a_fan_187980

 1881年 《アルジェリアの娘》〔添付写真[07]〕

[07]《アルジェリアの娘》
07algerian_girl_1881

 1889年 《ド・ボニエール夫人の肖像》〔添付写真[08]〕

[08]《ド・ボニエール夫人の肖像》
08madame_de_bonnieres_1889

 1890年 04月14日パリ市庁舎でアリーヌ・シャリゴと結婚。
05月レジオン・ドヌール勲章を辞退。

[09]Renoir 1875年頃
09parenoir1875

 1895年 妻の生地、エッソワに家を購入するため訪問。
 1900年 08月16日レジオン・ドヌール5等勲章〔シュヴァリエ章〕を受賞。
 1910年 04~10月ヴェネツィア・ビエンナーレで Renoir の回顧展(37点出展)。
 1915年 妻アリーヌ死去(56歳)。
 1919年 12月03日カーニュで死去(78歳)。ニースの亡き妻アリーヌの隣りに仮埋葬.
 1922年 エッソワの家とアトリエの近くにある共同墓地に埋葬。

[10]川相昌弘
10

■続いての話題は、最近の週刊ポストに元巨人軍〔現中日二軍監督〕の川相昌弘氏の記事が載っていました。これがなかなかいい記事ですのでご紹介したいと思います。
 先日ご紹介した、稲盛和夫氏の「生き方」を実践した、犠牲バント世界記録保持者。
 では、どうぞ・・。

【はじめに】
 2003年 ― 犠打の世界記録〔【小生注】533本〕を達成したその年 ― 21年間在籍した巨人からの引退を撤回し、中日ドラゴンズに移籍してから既に7年が経とうとしている。〔中略〕
(落合監督から)二軍監督への就任を打診されたのは〔中略〕昨年10月24日のことだった。
「二軍としての方針は〔中略〕一軍とは〔中略〕違うと僕は思う。一軍は〔中略〕勝つことを第一目標としている場所。二軍には昨年迄高校生や大学生だった子もいる訳だから礼儀や身だしなみといった社会人としての姿勢も厳しく問われるべきです」
 例えばどれだけ創意工夫をしても、日々の練習は基本動作の繰り返しなのだから、と彼は続ける。数限りないノックを受け、走りこみ、バットを振る。1年経ち、2年経つと、その繰り返しが他の選手との小さな差となって表れて来る。
 企業組織の出世競争も同じ様なものだろう。〔中略(【小生注】基本的な動作という)〕 「続けること」の困難さと意味を、身に沁みて知っているという思いがある。何故なら、〔中略〕24年間という自らの現役時代を表現するものであったからだ。
【「自分の限界」から一歩前へ】
 岡山南高校から甲子園に2度出場した川相が、巨人軍にドラフト4位で入団したのは82年のことだ。〔中略〕
 初めて多摩川グラウンドでのキャンプに参加した時、詰め掛けるファンの多さと近さに圧倒された。〔中略〕
「そしてグラウンドに出てまず感じたのは、何から何迄自分には叶わないのではないかという気持ちでした。〔中略〕
 おれ、勝てねぇや ― 「でもそう思った時、僕は次に『じゃあ、何だったら勝てるだろう』と考えた」
 以来、その「何か」を実直に考え続けることが、巨人軍の厳しいポジション競争を戦う上での彼の『生き方』となって行く。
「懸命に考えれば、自分がアピール出来ることは見つかるんです。僕はピッチャーから野手に転向したので、肩は強かった。それからランニングにも自信があった。だからキャッチボールの時に肩の強さを見せ、ランニングでは極力、前の方を走ることを心掛けました。どうにかして目立とうとして。後は気迫。自分のところに来たボールは絶対に捕るっていう気迫を日々の練習の中で失わないこと」
 そんな中、当時の国松二軍監督や須藤コーチに、次の様な意識を教わったことを決して忘れない様にして来たという。
「とにかく全力プレーと全力疾走。ウォーニングアップから全力でいけ、と。ダッシュをしていると、ゴールの線の向こう迄走れ、って何度も言われてね」〔中略〕
 或いは ― 。
「毎日受けるノックでも〔中略〕自分の中で精一杯、股を割って捕る。それをコーチに言われなくても、自分との戦いの中で出来るかどうか」
 すると最初はそれほど感じられなかった成果が、2年目、3年目になって実感できる様になって来る。
 何も野球に限った話ではない、と彼は言う。例え派手さはなくても、自分が限界だと思うところから、ほんの一歩だけでも前に出ようとすること。足取りの重さを堪え乍ら、前へ進もうとし続けること・・。
 それを繰り返していった先にこそ、「プロ」といしての価値や組織での役割も生まれるのではないか。一つのポジションに2人も3人もライバルがいる巨人軍においては、尚更必要な資質であったに違いない。
 事実、彼はその地道な方法を貫く中で2番バッターとして犠打を積み重ね、ショートを堅く守るという居場所を得て行ったのだから。〔中略〕
【気を抜ける瞬間はなかった】
〔中略〕「失敗するのは怖いですよ。恥をかきたくないし、何度も失敗していると最後は使われなくなる。例え、それ迄どんな実績を残して来てもね」〔中略〕 「レギュラーの時と違って、代打でいきなり140㌔のボールをバントするのだから大変です。ノーアウト一、二塁でバッター川相となれば、お客さんも相手も絶対にバントやなと思う。その期待に応えるために、『この場面なら・・』『このピッチャーなら・・』とベンチにいても気を抜ける
瞬間がなかった。〔中略〕」
【頼むから決めてくれ】
〔中略〕「俺は今、これを求められているんだ。俺の特徴はこれなんだ」
 プロの世界で生きるための術を、いつもそうやって探して来たと彼は言う。〔中略〕
「巨人を飛び出そうとした時、声をかけてくれた落合監督の下で二軍監督をやらせて貰って、本当に有り難いよね。あの時一声かけてくれなければ、ドラゴンズの川相というのはなかった。だから今はね、自分はなるべきしてこうなったんだ、と思うんです。
〔中略〕」
 どんな状況下でも、自らの役割を貪欲に探し出して行くこと ― 二軍監督と言う立場になった今季、現役時代に貫き続けたその姿勢は形を変え、今も胸の裡(うち)に地続きのものとしてある。(了)

【後記】それでは、今日お別れは、今月03月22日が命日となる「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(J.W.von Goethe)(1749.08.28-1832.03.22)」の名言集から幾つかご紹介してお別れしたいと思います。

[11]ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ[60歳頃]
41jw_von_goethe60


「芸術は人生と同じ様に、深く入り込めば入り込むほど、広くなる」
 ― 『イタリア紀行』より ― 1786年10月19日夜、ボローニャにて ―
 芸術の鑑賞だけでなく、どの様な分野でも、自分は道を窮めたと思ったら、そこでその人の成長は止まってしまう。その道の達人であると言われている人程、自分はまだまだと思っている。一つの世界の奥深く迄入り込むと、その世界は際限なく広がっていることに気づく。

「芸術の品位は音楽において恐らく最も高貴に現れている。それは、音楽には取り除かれなければならない様な素材がないからである。音楽は全く形式と内容だけで、その表現する一切のものを高め、気高くする」
 ― 『格言と反省』から

  Heidenroslein
          Johann Wolfgang von Goethe

 Sah ein Knab' ein Roslein stehn,
 Roslein auf der Heiden,
 War so jung und morgenschon,
 Lief er schnell, es nah zu sehn,
 Sah's mit vielen Freuden.
 Roslein, Roslein, Roslein rot,
 Roslein auf der Heiden.

 Knabe sprach: Ich breche dich,
 Roslein auf der Heiden!
 Roslein sprach: Ich steche dich,
 Das du ewig denkst an mich,
 Und ich will's nicht leiden.
 Roslein, Roslein, Roslein rot,
 Roslein auf der Heiden.

 Und der wilde Knabe brach's
 Roslein auf der Heiden;
 Roslein wehrte sich und stach,
 Half ihm doch kein Weh und Ach,
 Must' es eben leiden.
 Roslein, Roslein,
 Roslein rot,
 Roslein auf der Heiden.

    野ばら

 童は見たり 野中のばら
 清らに咲ける その色愛でつ
 あかず眺むる 
 紅におう 野中のばら 

 手折りて行かん 野中のばら
 手折らば手折れ 思い出ぐさに
 君を刺さん  紅におう 野中のばら
 
 童は折りぬ 野中のばら
 手折りてあわれ 清らの色香
 永久にあせぬ紅におう 野中のばら
   〔 近藤朔風 訳 〕

 因みに、今日 Renoir の年譜のところで「1850年頃 サン=トゥスタッシュ教会の聖歌隊に属し、歌劇「ファウスト」の作曲家として知られるシャルル・グノー(1818-1893)に声楽を学ぶ」と記したグノーが有名な歌劇「ファウスト」の作曲者である。

 では、また・・。(了)

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05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

  • Dsc_0217
    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

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    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

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