« 【時習26回3-7の会 0290】~「05月10日:『中山君からのmail・・』」「05月08日:森arts center gallaery『Boston美術館―西洋絵画の巨匠』展を見て」「05月13日:『諏訪内晶子&バシュメットconcert』を聴いて」「白州正子&河合隼雄『縁は異なもの』から」「『柴五郎』について〔第1回〕」 | トップページ | 【時習26回3-7の会 0292】~「05月22日:『旧【3-8】担任滝川先生による土曜講座』に参加して」「05月15日:ヤマザキマザック美術館『04月23日開館記念』展を見て〔その2〔最終回〕〕」「柴五郎〔その3〔最終回〕〕」 »

2010年5月22日 (土)

【時習26回3-7の会 0291】~「05月15日:ヤマザキマザック美術館『04月23日開館記念』展を見て〔その1〕」「柴五郎〔その2〕」「孔子 人間、どこまで大きくなれるか」「外山滋比子古『「読み」の整理学』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0291】号をお送りします。
 昨日05月21日は二十四節気でいう『小満』。気象庁は05月06日、沖縄と奄美地方の梅雨入りを発表。沖縄で平年より2日、奄美で同4日早い。
 因みに、沖縄では梅雨のことを『小満芒種(スーマンボースー)』と言うそうだ。

[100a]ヤマザキマザック美術館展 leaflet
100aleaflet
––––––––––––––––––––––––[100b]ヤマザキマザック美術館
100b20100515

■さてまず最初の話題は、掲題・副題にあります様に、05月15日、去る04月23日名古屋市東区葵西交差点北東角に開館した『ヤマザキマザック美術館』の開館記念展を見て来ましたので、今回と次回の2回に分けてご紹介させて頂きます。

[101]ブーシェ(Boucher, L'Aurore et Cephale); L'Auroe et Cephale『アウロラとケファロス』1745年頃
101bucher_laurore_et_cephale_lauro

–––––––––––––––––––––––[102]ドラクロア(Delacroix)『シビュラと黄金の小枝』1838年
102delacroix183

[103]モネ(Monet), Claude Le port d'Amsterdam『アムステルダムの港』1874年
103monet_claude_le_port_damsterdam

–––––––––––––––––––––––[104]シスレー(Sisley), Alfred Le canal du Loing a Saint-Mammes『サン=マメのロワン運河』1885年
104sisley_alfred_le_canal_du_loing_

[105]ピサロ(Pissarro), Camille; Quai a Rouen, soleil couchant『ルーアンの波止場・夕陽』1896年
105pissarro_camille_quai_a_rouen_so

–––––––––––––––––––––––[106]ヴラマンク(Vlaminck), Maurice d; Bouquet de fleurs『花』制昨年不詳
106vlaminck_maurice_d_bouquet_de_fl

【小生comment】
 ヤマザキマザック美術館は、工作機械 maker ヤマザキマザック会長の山崎照幸氏が長年に亘り収集した rococo 時代以降、二百数十年の France 絵画、及びアール・ヌーヴォー( art nouveau )を代表するフランスのガラス工芸家、エミール・ガレ(Charles Martin Emile Galle、1846.05.04-1904.09.23)の作品群、調度品、彫刻が、数多く展示されており素晴らしかった。
 特に、絵画は「百聞は一見にしかず」です。是非皆さん自身の目で名画の醍醐味を実感してみて下さい。
 rococo 時代以降のフランス絵画なら、巨匠と称される画家が網羅されており、西洋絵画が大好きな小生、「よくぞここ迄集めて下さった」と、山崎氏に心より敬意を表します。
 次号では、ヴラマンク(Vlaminck)、ヴュイヤール(Vuillard)、ユトリロ(Utrillo)、ボナール(Bonnard)の作品をご紹介させて頂きます。お楽しみに。

■続いては、《会報》前号に引き続いて「柴五郎〔その2〕」~第2回:戊辰戦争に破れ辛酸を舐め乍ら成長していく少年時代の『柴五郎』~をお贈りします。

 柴五郎は、会津落城後、下北半島に移封され、父・兄等と共に死線を彷徨っていた頃、肥後(現・熊本県)出身で青森県大参事にあった野田豁通の給仕として召抱えられ、彼の人生が変わった。野田豁通の甥の子息に当たる作家・石光真人氏が、昭和17年当時84歳で東京・玉川上野毛に隠棲していた柴翁を訪ね、柴から、彼自身が書いた遺書の添削・訂正を頼まれた。
 石光氏が【本書の由来】で以下の様に紹介している。

 この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記憶である。〔中略〕
 翁は会津の出身、上級武士の五男として生まれ、我国に於ける最初の政治小説『佳人之奇遇』16巻の著者、柴四朗(東海散士)の実弟である。祖母、母、姉妹(【注】3人)は会津戦争の際自刃、一族に多くの犠牲者を出している。落城後、俘虜として江戸に収容、後に下北半島の火山灰地に移封され、公表を憚(はばか)る程の悲惨な飢餓生活を続けた。薩長藩閥政府が華やかに維新を飾り立てた歴史から、全く抹殺された暗黒の一節である。
 脱走、下僕、流浪の生活を経て軍界に入り、藩閥の外に在り乍ら、陸軍大将、軍事参議官の栄誉を得た逸材であり、中国問題の権威として軍界に重きをなした人である。〔中略〕
 死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵倫寺に納め、門外不出とした。会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔う為と推測される。従ってこの文書は弾劾警世を意図して綴られたものではなく、肉親、藩士一同と共に、葬り去られた歴史の一節を密かに菩提寺に葬り、いつかは翁自らも受難の時代と共に眠りに就かれることを考えておられたのではないかと思う。〔後略〕

 また石光氏は、【遺書との出会い】の処で、柴翁から遺書の校正を頼まれた理由を翁の言葉として次の様に記している。

 柴翁曰く、「私は少年時代に戊辰戦争の為勉強する機会がありませんでした。その後も下男の様な仕事をしていたので、十分な教育が得られませんでした。(【小生注】陸軍)幼年学校に入る時は、文字通りの泥縄、一夜漬けで、野田豁通閣下のお蔭で合格しました。合格してみたら、意外にも幼年学校の教官は全て France 人で、私達も France の軍服を着て、France語で France の地理、歴史、数学等を学び、正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯に於いて長い間苦しみになりました。その頃の教育は、新しい外国の学問がどんどん入って来て、小学校などは米国の教科書の翻訳でしたが、上級に進むに従って、やはり漢籍による文章の訓練が行われたのです。その様な基礎教育を充分受けられなかったので、France語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです。ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。余計な事をお願いして済みませんが、添削して下さい。書き足りない所、疑問に思う箇所についても指摘して下さい」と。

 柴翁の遺書は以下の様にして始まる・・

【血涙の辞】~ある明治人の記録~会津人柴五郎の遺書(以下「本書」という)〔石光真人著〕より~ 

 幾たびか筆とれども、胸塞がり涙先だちて綴るに絶えず、空しく年を過して齢既に八十路を越えたり。
 多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づること希なり。粗衣老躯を包むにたり、草木余生を養うに余る。有難き事なれど、故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤すれど、懊悩流涕(おうのうりゅうてい=悩み憂え悶え落涙すること)止むことなし。
 父母兄弟姉妹悉く地下にありて、余一人この世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。四季の風月雪花常の如く訪れ、多摩の流水樹間に輝きて絶えること無きも、非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影瞼に浮びて余を招くが如く、懐かしむが如く、また老衰孤独の余を憐れむが如し。
 時移りて薩長の狼藉者も、今は苔むす墓石の下に眠りて既に久し。恨みても甲斐無き繰言なれど、ああ、今は恨むにあらず、怒るにあらず、只口惜しきこと限りなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
 過ぎてはや久しきことなるかな、七十余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳の折り、幕府既に大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、如何なることのありしか、子供心に解らぬ儘、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず。
 薩長の兵ども城下に殺到せりと聞き、たまたま叔父の家に仮寓せる余は、小刀を腰に帯び、戦火を逃れ来たる難民の群を掻き分けつつ、豪雨の中を走りて北御山の峠に至れば、鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、城下は一望火の海にて、銃砲声耳を聾するばかりなり。
「いずれの小旦那か、何処(いずこ)に行かるるぞ、城下は見らるる通り火焔に包まれ、郭内など入るべくもなし。引返されよ」と口々に諫む。その頃既に自宅にて自害し果てたる祖母、母、姉妹のもとに馳せ行かんとせるも能わず、余は路傍に身を投げ、地を叩き、草をむしりて泣け叫びしこと、昨日の如く想わる。
 落城後、俘虜(【注】捕虜)となり、下北半島の火山灰地に移封されて後(のち)は、着の身着の儘、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね【注】=寝る時に下に敷く物)なく、耕すに鍬(くわ)なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生き永らえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消えうせて、今は知る人も希となれり。
 悲憤なりし地下の祖母、母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。

【小生comment】
 小生、柴五郎翁の言葉に只々目頭が熱くなるのみ。
 以下、陸軍幼年生徒隊に入学する迄の模様を時系列にざっとご説明する。

◆安政06(1859)年 会津藩士(280石取りの上士)柴佐多蔵の五男として生れる。
◆慶応03(1867)年(08歳) 10月14日、徳川慶喜大政奉還奏上(前日13日、岩倉具視、西郷吉之助、大久保利通等の謀議による会津討伐の密勅宣下と錦旗が薩長両藩に下さる)。
◆慶応04・明治元(1868)年(09歳) 02月22日、松平容保会津に帰藩。数え10歳となった柴五郎、藩校日新館に入学。08月21日大叔父未亡人が五郎を松茸採りに誘う。柴の遺書には「母直ちに賛成し、「学校既に閉鎖せられ、男子全て城中にあり、叔母様と共に行け」と余を促す」とある。続けて次の様に記している。 「(前略)幼心のつい誘われて、うかうかと邸を立ち出たり。これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れと知りて余を送りしとは。この日迄密かに相語らいて、男子は一人なりと生き永らえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪(そそ)ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子は徒(いたずら)に兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入と共に自害して辱めを受けざることを約しありしなり。僅か7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時おりしとは、如何に余が幼かりしとは言え不敏(【注】才知が乏しい)にして如かず。真に慙愧に耐えず、想い起こして苦しきこと限りなし。
◆明治02(1869)年(10歳) 06月、俘虜として東京へ護送。12月土佐藩士毛利恭助の学僕(実体は下僕と同じ処遇)となる。
◆明治03(1870)年(11歳) 04月、太一郎兄に情況を相談、毛利家を去る。05月半ば、新領地、斗南へ。彼の地※(添付写真[201])で、父、太一郎夫婦、五三郎兄と極貧生活を続けた。

[201]明治4年、父、五三郎兄と共に仮住まいした落の澤新田、初五郎の家〔大正12年柴五郎本人が撮影〕
2014

◆明治04(1871)年(12歳) 07月、廃藩置県。斗南藩は斗南県となる。12月、斗南政府の選抜により、学問修行の為柴五郎を青森県大参事野田豁通※(添付写真[202])

[202]野田豁通(ひろみち)
202

(1844.09.06-1913.01.06)の給仕として派遣。「青森派遣の朗報に接し、どん底の一家欣然たり。父上の喜びひとかたならず」と本書にある。
「県庁にて派遣の申渡しを受け、旧藩主に代わりて山川大蔵(のち浩)※(添付写真[203])大参事より激励の言葉を給う」。
 この山川浩(会津藩国家老山川重固の長男1845.12.04-1898.02.04)と先述の野田豁通の二人が、柴五郎が陸軍幼年学校入学迄物心両面での支援者。因みに、山川浩の実弟健次郎※((添付写真[203a])1854.09.09-1931.06.26)は、東京、京都、九州、各帝国大学総長、現・九州工業大学の初代総裁を務めた。また、末妹咲子(後改名し捨松)※(添付写真[203b])1860.03.16-1919.02.18)は、津田塾大学の創始者津田梅子等と一緒に渡米留学し、帰国後大山巌の妻となり、鹿鳴館時代の一翼を担った。以上は余談まで。

[203]山川大蔵(浩)
203

––––––––––––––––––––––––[203a]山川健次郎
203a

[203b]山川(大山)捨松
203b

◆明治05(1872)年(13歳) 上京後、伝(つて)を頼りに寄宿先を探すも中々見つからない。ここで、野田豁通の紹介、山川大蔵宅への寄宿等、両氏より多くの厚情を受ける。10月中旬には野田の紹介で、後、次女が後藤新平夫人となる福島県知事安場保和の留守宅の下僕となる。
 山川宅に寄宿することとなった時、「山川母堂と常盤嬢は、余の汚れたる白地浴衣を気の毒がり、当時米国に留学中の捨松嬢(後の公爵大山元帥夫人)の薄紫の木綿地に裾模様、桃色金巾(かなきん)裏地の袷(あわせ)を取り出し、袖を短くして与え給う。その日より、この少女の着物を付けて暮らせり。
 同年11月初旬、野田の紹介にて陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)の受験を勧められ兵学寮に出頭し受験する。「同じく野田の庇護下にある斎藤実(後の海軍大将、首相)も受験す」(以上本書)。
◆明治06(1873)年(14歳) 合格の時の模様を本書で次の通り述べている。
「はや03月もまさに過ぎんとする末日、嬉しきかな!入校を許可すとの報あり。洋服着用のうえ出頭すべしとのことなり。欣喜雀躍して足の踏むところを知らずとはこのことならん。言葉上擦りて雲上を踏むが如く、魂震えて額に冷汗流る。共に受験せる斎藤実は無念にも落第し、翌年海軍兵学校に入校せり。
 山川大蔵の悦び、余に優るとも劣らず。〔中略〕山川大蔵自ら、余に、前に向け、左に向けと言いつつ洋服の着方を教え、一家を挙げて喜べリ。4月01日入校、03日は神武天皇祭にて休日なれば、まず山川宅を訪ね、習い覚えたるばかりの挙手の礼して、一同に将来を祝福される。山川母堂の悦び、殊(こと)の外なり。余の両肩に手を置きて、前より後ろより眺めて流涕す。恐らく自刃して果てたる余の祖母、母上を偲び給えるなるべし。余嬉しさの余り、そのことを忘れ、斗南に今尚苦闘する父上をも忘る。申し訳なきことなり」。

[204]若き日の柴五郎
20401

 この後、柴五郎は、お礼に野田豁通のもとを訪れたのは言うまでもない。〔了〕

【小生comment】
 柴五郎少年が経験した辛酸を思えば、現代の我々の毎日が如何に恵まれているか多くを語る必要もあるまい。

[301]「孔子 /人間、どこまで大きくなれるか」&「外山滋比子古『「読み」の整理学』
301

■【後記】今日最後の話題は、「孔子 /人間、どこまで大きくなれるか」&「外山滋比子古『「読み」の整理学』から雑感を述べたいと思います。この2冊も中々の良書だと思い、紹介させて頂きました。ではどうぞ・・

《 孔子 人間、どこまで大きくなれるか 》

 渋沢栄一は、次の様に説く。
「私が実業界に身を委ねる様になったのは、国力を充実させ、国を富ませる為には、まず農工商、中でも商工業を盛んにしなければならないと考えたからである。
〔中略〕
 そこで、会社を上手く経営するに当たって、一番必要な要素は会社を切り回す人材である。人材が得られないならば結局その会社は必ず失敗する。そこで私は、この銀行や各種会社の経営を成功させる為には、実際の運営に当たる人に、事業上だけでなく一個人として守り行うべき規範・規準がななくてはならないと考えたのである。
 この様に考える時、日常の心得を具体的に説いた『論語』は、その規準に打って付けで、どう判断して良いか悩む時には『論語』の物差しに照らせば、絶対間違いはないと確信しているのである」。〔中略〕
 例えば、商業を含む経済の場合で、契約に違反したり、暴利を貪ったりすれば、一度はそのことで利益を得るかもしれない。しかしそのことが世間に知れ渡れば、以後その人は人々から爪弾きにされ、その世界で生きて行けなくなる。
 こういう意味では、経済の世界ほど倫理や「人の道」と密着した世界はないと言ってよい。

【小生comment】
「仁義礼智信」の「『信』=信用」が、経済界に限らず人間社会を円滑に運営して行く為の基本原則であることは論を俟(ま)たない。
 普天間問題の米国への回答期限を今月末と宣言した我が国の鳩山首相は如何に対処するつもりであろうか。口頭とは言え、これは立派な二国間の契約である。回答期限の不履行は、少なくとも経済界では契約の「債務不履行」であり、「信義則」という大原則への背信行為である。
 日本が誇る明治武士道の鑑、乃木希典や東郷平八郎、柴五郎等は、鳩山首相に何と言うであろうか?

《 外山茂比古著「読み」の整理学 》~「読むこと」とは?~

【論語読みの論語】
〔前略〕Alphabet のみで組織されている欧文を読むのでもかなりの訓練を要するが、音声と意味を併せ持つ漢字を読むのは極めて高度の知識作業を必要とする。我が国では、これを素読という方法で解決しようとした。上手く行かない、つまり漢文を読める様にならない case も少なくなかったのは止むを得ない。むしろ、読める様になったことに驚くべきだろう。その時の方法というのは素読である。
 素読とは「意味を考えないで、文字だけを声を出して読むこと」(大辞林)である。Text は最高の古典。師匠が声を出して読むと、弟子は、それについて音読する。繰り返して読むことがあっても、声を出すだけで、先生は字句についての意味など一切教えない儘次へ進む。反復練習する必要があっても、尚、意味には触れない。だからこそ「素」読である。素読の教育を受けた者はいつとはなしに、音読と意味を取るとは別のことであるのを承認し、意味も解らず音読することに慣れてしまう。「巧言令色鮮矣仁」(「論語」学而第一)は「コウゲンレイショクスクナイカナジン」と言えれば、それで読めたことになる。巧言って何か、令色とはどういうことかなど気にすることはない。しても解らないが、それでよし、とするのが素読である。意味はどうするのか、と心配する人は、解る時には、解る、などという禅問答みたいな答えで満足しなければならなかった。
 本の内容を頭で理解するだけで、それを具体的に生活の中でどう生かして行くかに思い至らないのを俗に「論語読みの論語知らず」という。素読はもう一段低い「論語読みの論語知らず」であった。内容を理解したり出来ない、ただ、漢字を声に出して読むだけの「論語読み」である。「論語知らず」であるのは当然過ぎるほど当然である。素読はこう言う低次の「論語読みの論語知らず」を育てたのだが、それが日本の文化を支える基盤になったのだから複雑な思いをさせられる。
 教育としての素読が消えてからそろそろ百年になろうとしているが、素読の伝統は今も日本人の読書、読み方に色濃く影を落としている。読めるということと、理解するということが別々であるのが日本語である。読めても読めていない。それを左程気にしない。「論語読みの論語知らず」は今尚至る所にゴロゴロしていると言って良い。

【素読は人間を育てる】
〔前略〕昔の社会が、漢学の素養のある人を、ただの読書人としてばかりでなく、むしろ人間として尊敬していたのは、素読から入った読みが人間形成にも大きな影響をもっていたことを暗示している。〔中略〕明治の英学者はほとんど例外なく漢籍の知識を豊かに持っていた。
 このことが、外国の言葉を和訳するのに役立った。今から見ても、銀行、演説、会社、内閣、煙草、麦酒、硝子の様な訳語には感心させられる。漢字についての造詣がなくては、こうは行かなかったに違いない。〔中略〕欧州における Latin 語教育は漢学の素読に通じるものがある。

【テクスト信仰】
 もう一つ注意すべき点は読む text である。素読が四書五経について行われた点が重要であって、漢文の小説等ではこう言う読み方をすることは到底考えられない。欧州の Latin 語学習についても、同じで、教えられるものは極めつけの古典ばかりである。それを諳(そら)んじていれば、一生、教養人として通る。何よりも text への絶対の信頼がある。〔後略〕

【小生comment】
 外山氏は、この本で「読み」方について、こうも述べている。

「戦後、読書百遍とか暗誦とかが殆ど無くなったのは、価値が揺らいだ為である。嘗ての古典は、それを支えていた価値が動揺し、疑問視されるに及んで、色褪せ出した。それに代わる新しい価値の定立が見られないから新しい古典は現れにくい。
〔中略〕社会全体で公認する古典が明確でないなら、個人の責任で、めいめいの古典を決定するほかない。それを繰り返し繰り返し読むことによって、「未知」を読むことを可能にする。これが現代読者に残された途なのである。
 もし、その選択が誤っていて、初期の目的を達しないとすれは、それはその人の人生の失敗で、誰を恨むこともない。いくら間違った選定をしても、兎に角、これこそわが生涯の書と決めた本があって、それを絶えず読み返していれば、必ず、それなりの成果はある筈である」。

 成程、そういうことか。
 小生は、好奇心旺盛の為、これ迄同じ本を何度も読み返したことがない。これからは、繰り返し読む古典を探して実践してみようと思う。(了)

[401]豊橋カレーうどん~2010年05月19日昼 at まつや in 松葉町, 豊橋市
401_at_in_20100519

■お別れは、05月19日にある会で食した「豊橋カレーうどん」(添付写真[401])です。
 過日ご紹介した通り、鶉の卵が入ったカレーうどんで、丼の底にとろろで覆われたご飯があり、カレーうどんを食べた後、続いてカレーライスを食べたと実感できる、volume 感もある美味な一品でした。「日本3大うどん」を目指しているそうですので皆さんも是非一度召し上がってみて下さい。そして、ご感想をお寄せ頂ければ幸甚です。

 以下、次号をお楽しみに。ではまた・・(了)

« 【時習26回3-7の会 0290】~「05月10日:『中山君からのmail・・』」「05月08日:森arts center gallaery『Boston美術館―西洋絵画の巨匠』展を見て」「05月13日:『諏訪内晶子&バシュメットconcert』を聴いて」「白州正子&河合隼雄『縁は異なもの』から」「『柴五郎』について〔第1回〕」 | トップページ | 【時習26回3-7の会 0292】~「05月22日:『旧【3-8】担任滝川先生による土曜講座』に参加して」「05月15日:ヤマザキマザック美術館『04月23日開館記念』展を見て〔その2〔最終回〕〕」「柴五郎〔その3〔最終回〕〕」 »

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 【時習26回3-7の会 0290】~「05月10日:『中山君からのmail・・』」「05月08日:森arts center gallaery『Boston美術館―西洋絵画の巨匠』展を見て」「05月13日:『諏訪内晶子&バシュメットconcert』を聴いて」「白州正子&河合隼雄『縁は異なもの』から」「『柴五郎』について〔第1回〕」 | トップページ | 【時習26回3-7の会 0292】~「05月22日:『旧【3-8】担任滝川先生による土曜講座』に参加して」「05月15日:ヤマザキマザック美術館『04月23日開館記念』展を見て〔その2〔最終回〕〕」「柴五郎〔その3〔最終回〕〕」 »

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
フォト

最近の記事

05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

  • Dsc_0217
    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

  • Cimg1428
    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

最近のコメント

無料ブログはココログ