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2010年5月29日 (土)

【時習26回3-7の会 0292】~「05月22日:『旧【3-8】担任滝川先生による土曜講座』に参加して」「05月15日:ヤマザキマザック美術館『04月23日開館記念』展を見て〔その2〔最終回〕〕」「柴五郎〔その3〔最終回〕〕」

■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0292】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、掲題・副題にある様に、05月22日(土)10時半から正午すぎまで、豊橋西駅至近のサーラビル〔旧中部ガス本社〕2階ある社会人向け土曜講座「サーラときめきアカデミー(Academy)」で『旧【3-8】担任滝川元雄先生が講師を務める土曜講座』に参加して来ましたので、ご報告させて頂きます。
 この講座は、月2回×3箇月が=6回が1クール(cours)で、現在3cours目。あと06月05日(土)と19日(土)の2回ですが、次の4cours目もあるとのこと。
 題材は、『江戸時代の農村を中心とした社会制度』について、「江戸幕府による農民の治め方の仕組みを理解した上で、その制度がご当地、三河に於いてどの様に適用されていたか」を勉強するものである。
 村方三役〔【名主・庄屋】【組頭】【百姓代】〕、年貢額の算定方法の『検見(けみ)法』と『定免(じょうめん)法』の違い、を初め、1649(慶安02年)年に発布されたとされる「慶安の御触書」等について勉強した。この「慶安の御触書」は、32ヶ条文と奥書から成っており、微に入り細に入り、農民の生活の仕方を、質素倹約して年貢米等を確り生産出来る様に規定しているのには恐れいった。(笑) その中の一文が面白いのでご紹介する。こんなことまで指導するとはちょっとやり過ぎ・・!?(笑)

 〔前略〕女房はおはたをかせぎ、夕なべを仕(つかまつ)り、夫婦共にかせぎ申すべし。然れば、みめかたちよき女房なり共、夫の事をおろそかに存じ、大茶をのみ、物まいり、遊山ずきする女房を離別すべし、さり乍ら、子供多くこれ有りて、前簾恩をも得たる女房ならば格別なり。又みめさま悪しく候とも、夫の所帯を大切にいたす女房をば、いかにも懇(ねんごろ)に仕るべき事。

 敢えて、訳文を付けませんでしたが、如何でしたでしょうか。
 とても楽しい90分間でした。
 図々しい小生、講義が終了後、先生を交えて記念写真を撮りました。
 この講座の参加者は、生徒数9名。うち8名が〔時習26回生〕、あと一人も〔同27回生〕。添付写真は、その27回生の女性に撮って貰った先生と同期8名の記念写真(添付写真[01]参照)です。
[01]滝川先生を囲んで
0120100522

 滝川先生は、昭和10年生まれとのことで、我々より丁度20歳年上だから、今年満75歳になられる。白髪ではあるが、大変若々しくお元気でいらっしゃいました。

[02]勢川西駅店の豊橋カレーうどん
0220100522

 そして、先生と別れた〔時習26回生〕8名は、昼食を豊橋西駅至近にある「勢川西駅店」にて、豊橋カレーうどんを食べました(添付写真[02]参照)。豊橋カレーうどんは、〔①自家製麺、②丼の底にご飯、③ご飯の上にとろろ、④とろろの上にカレーうどん、⑤鶉の卵、の5つの条件さえ備えていれば後は自由〕な為、市内40ヶ店で、夫々店毎 original なカレーうどんが食べられる。
 現在、別々に5ヶ店で stamp rally すると、5万円の旅行 coupon 他が当たる、という event を実施中。関心ある方は是非ご参加下さい。

■さて続いての話題は、前号に引続き、掲題・副題にあります様に『ヤマザキマザック美術館』開館記念展〔その2〔最終回〕〕です。ご覧下さい。

[03]ヴラマンク(Vlaminck, Maurice de); ”Moulin a eau”『水車小屋』制作年不詳
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––––––––––––––––––––––––[04]ヴュイヤール(Vuillard, Edouard); La bibliotheque;『書斎にて』
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[05]ユトリロ(Utrillo, Maurice); Moulin de Sannois『サンノアの風車』1910年
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––––––––––––––––––––––––[06]ユトリロ(Utrillo, Maurice); Rue Marcadet『マルカデ通り』1910年
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[07]ボナール(Bonnard, Piere); La robe de chambre rose『薔薇色のローブを着た女』1918年
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【小生comment】
 ヤマザキマザック美術館は、前号でご紹介した山崎照幸氏が上記の「[07]ボナール(Bonnard)『薔薇色のローブを着た女』との出会いから始まる」と、無償で貸与してくれた音声 guide で説明していた。因みに model の女性は、ボナールの妻マルトである。中々いい絵だと思う。
 このほか、ヴラマンク、ヴュイヤール、ユトリロの作品も品格ある名画揃いだと思います。
 今回は容量の関係からご紹介を省略させて頂きましたが、モディリアーニ、キスリング、パスキン、デュフィ、ドラン、まだまだ名画が沢山ありました。

■続いて今日最後の話題です。《会報》前号に引き続いて「柴五郎〔その3〔最終回〕〕」~第3回:日清戦争、北清事変から日英同盟への道~をお贈りします。

 柴五郎が、明治06(1873年)年(14歳)、陸軍幼年生徒隊(幼年学校の前身)に入学したところまで前号にてお伝えした。今日はその後の彼の人生に spotlight を当てる。

【1877年以降の柴五郎の経歴と◆極東アジア( Far East )の動き】
明治10(1877)年(18歳) 陸軍士官学校に入学。
明治12(1879)年(20歳) 陸軍砲兵少尉に任官。
明治13(1880)年(21歳) 陸軍士官学校卒業。
明治17(1884)年(25歳) 参謀本部出仕を経て、陸軍中尉に昇進。中国(福州)福建省駐在を命じられる。
明治21(1888)年(29歳) 前年から北京駐在の任にあった柴は、陸路、満州から朝鮮半島を経て日本に帰国。参謀本部へ再出仕。
明治22(1889)年(30歳) 陸軍砲兵射的学校を首席卒業。
明治23(1890)年(31歳) 陸軍大尉に昇進。陸軍士官学校教官に就任。
明治24(1891)年(32歳) 中村くまゑ※と結婚。翌年、長女みつを出産後、肥立ち悪く死去。
〔※中村くまゑは元老院議官中村弘毅の遺児。彼と親交のあった谷干城(たてき)が養育していた。谷の秘書官を務めていた五郎の兄四朗の仲立ちで結婚。〕
明治26(1893)年(34歳) 参謀次長川上操六、参謀本部第一局員田村怡与郎少佐と3人で、清国・朝鮮半島視察に赴く。
明治27(1894)年(35歳) London の在英日本公使館付武官心得就任。日清戦争勃発により、至急帰国命令を受ける。陸軍少佐に昇進。大本営参謀に就任。
明治28(1895)年(36歳) 新設の台湾総督府の陸軍参謀に就任。
 ◆04月17日 下関講和条約締結〔朝鮮の清国からの独立、遼東半島、台湾、澎湖諸島の日本への割譲、賠償金2億テール(tael)(約3億円)〕
 ◆04月23日 露・独・仏による(~日本による遼東半島所有は、清国の首府(北京)を危うくし、朝鮮の独立をも有名無実にし、極東平和の妨げとなる。よって、半島領有放棄を勧告する~という)『三国干渉』。
 ◆05月04日 『三国干渉』の「勧告」を受諾し、遼東半島を清国へ返還。
明治29(1896)年(37歳) 在英日本公使館に帰任。
 ◆独、宣教師殺害を理由に膠州湾(青島)を占領。
明治31(1898)年(39歳) 米西戦争勃発。観戦武官として渡米。秋山真之海軍大尉と出会う。在英日本公使館に再帰任。
 ◆〔露〕:遼東半島南端の旅順・大連の租借&東清鉄道の支線〔ハルピン~旅順・大連〕敷設権獲得、〔仏〕:広州湾(99年租借)、〔独〕:膠州湾(=「青島」)(山東省)(99年租借)、〔英〕:九龍半島(99年租借)・威海衛(山東省)(25年租借)。
明治32(1899)年(40歳) 帰国後、参謀本部第二局。陸軍中佐に昇進。鍋島みつ〔【注】佐賀藩主鍋島直正の姪〕と再婚。「みつ」が長女の名と同じため「花」と改名。
明治33(1900)年(41歳) 北京にある在清国日本公使館付武官に就任。北清事変勃発。北京籠城。
 ◆北清事変〔=義和団事件〕:山東省を中心に、義和団という宗教団体が lead して、清国社会の底辺を形成する農民を主体とした「扶清滅洋(=清(国)を扶(たす)け(西)洋(諸国)を滅ぼす)」一大排外運動。
 ◆05月28日 義和団の暴動が北京に及び、鉄道・電信を破壊。外国人宣教師等を殺害。
 ◆06月19日 清国総理衙門(=外交・洋務を管轄(1861~1901設置))が各国公使宛に24時間以内の北京退去を求めた。
 ◆06月20日 期限延期を求め清国総理衙門へ向かった独のフォン・ケラー公使が狙撃され死亡。各国公使館死守の方針決定。清国軍攻撃開始。
 ◆06月21日 英公使マクドナルド防禦計画総指揮官に、墺トーマン海軍中佐、連合軍指揮官に。
 ◆06月22日 清国軍の射撃熾烈。墺トーマンの指揮拙く、英公使マクドナルドが指揮官に。防禦の要の場所、粛親王府の守備を柴中佐に託す。 
 ◆07月02日 清国軍の攻撃厳しく、籠城側最大の苦戦となるが持ち堪える。
 ◆08月14日 午後03時、連合国側の英国軍インド兵が突入。午後08時過ぎ、福島少将率いる歩兵第11連隊が日本公使館到着。北京開城。
明治34(1901)年(42歳) 野戦砲兵第15連隊長に就任。
明治35(1902)年(43歳) 小松宮嘉彰親王の英国派遣に随行〔添付写真[08]=前列中央が柴五郎〕し、04~08月欧州各国歴訪。12月陸軍大佐に昇進。

[08]小松宮殿下に随行し、英国王EdwardⅦ戴冠式に渡英した柴五郎
08

 ◆01月30日「日英同盟」締結。
明治37(1904)年(45歳) 野戦砲兵第15連隊長として日露戦争に出征。
 ◆02月08日 日露戦争開戦。
明治38(1905)年(46歳)
 ◆08月09日 ポーツマスで日露講和会議始まる。
 ◆09月05日 ポーツマス条約調印、日露戦争終結。
明治39(1906)年(47歳) 在英日本公使館付武官に就任。
明治40(1907)年(48歳) 陸軍少将に昇進。第12師団長、東京衛戍(えいじゅ)総督に就任。
大正02(1913)年(54歳) 陸軍中将に昇進。
大正08(1919)年(60歳) 陸軍大将に昇進。
大正12(1923)年(64歳) 予備役編入。

[09]晩年の柴五郎
09

昭和20(1945)年(86歳) 終戦後、割腹を試みるが果たせず、その傷が原因で12月13日逝去。

「諜報員になる」。これが若い五郎の夢であった。その為中国語を学んでいた。明治17(1884)年に陸軍中尉に進級し、10月清国福州(福建省)への駐在を命じられた。〔中略〕〔【小生注】福州では、軍事情報のほかに清国人の暮らし、考え方等を学び、北京で通じる官話(清代の公用語)、英語等を身につけた。柴五郎は語学に才能があり、英・仏・中国語を自由に操れた。〕
 明治20年04月、北京駐在の命を受ける。〔以上【歴史街道2010年05月号】〕北京での任務は、北京を中心とした周囲10里(約40km)を隈なく歩き、清国の軍事施設等を精緻な地図として作成することであった。〔中略〕この時の情報収集で得たものが後の日清戦争や義和団事件(北清事変)の際の北京籠城に当たって大きな力を発揮することになった。〔中略〕
 明治31(1898)年04月23日、米西戦争が勃発。英国公使館付武官として London にいた五郎に、戦況視察の為に米国に行く様命令があった。〔中略〕 05月15日Washington に到着。五郎は日本公使館で、留学中の海軍大尉・秋山真之と出会う。〔中略〕〔【注】因みに、五郎は、真之の兄・秋山好古と陸軍幼年学校・士官学校の同期であった。〕〔中略〕
 明治33(1900)年02月、清国公使館付武官に。06月20日~08月14日までの55日間が実質的な籠城期間。「北京の55日」という映画(1968年、米国映画、Charlton Heston主演)では、柴五郎役は伊丹十三が扮している。
【小生comment】ここにウッドハウス暎子著『北京燃ゆ ― 義和団事変とモリソン』という本がある。この本の中で、著者は柴五郎について次の様に評している。
〔P.フレミング著『北京籠城』より〕
「日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人と付き合う欧米人は殆どいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、皆の目に映る様になったからだ。日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである」。
〔北京籠城を経験した若い米国人女性 ポリー.C. スミス嬢の柴五郎観〕
「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占める様になったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。何故なら、第一回目(06月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。でも、今(07月02日)では、全てが変わりました。柴中佐は王府での絶え間のない激戦で怪腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、全ての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求める様になったのです」。
〔籠城中、義勇兵として柴の下に派遣され戦った英国人青年レノックス・シンプソン(pen name; パットナム・ウィール)(23歳当時)『率直な北京便り』(1907年刊)〕
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。〔中略〕各国受持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団を見た。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へと纏め込んでいた。彼は部下達を組織化し、〔中略〕前線を強化した。実のところ、彼は為すべきことは全てした。僕は自分が既にこの小男に傾倒していることを感じる(06月21日の日記)〔中略〕僕は何故か日本軍の持ち場から離れることが出来なくなってしまった。彼等の組織づくりが、それほどにも素晴らしいからだ(06月23日)」。
〔モリソンの日記〕
「王府の炎上は城壁の上からもよく見える。そこは一大活劇の scene だ。小柄できびきびした柴中佐は、必要な場所には必ずいつでもいる」。
 因みに、G. E. Morrison (1862-1920)は、動乱の北京で23年間、前半は journalistとして反露親日の世論喚起に縦横無尽の活躍をし、後半は中華民国総統府顧問として新中国の舵取りをした豪州人。
 日本人と生死を共にして戦っている間に、モリソンの心の中には、いつしか計算なしの友情が芽生えて来た。
 もともと、モリソンが積極的に日本人に approach したのは、日本をロシア討伐の先鋒として利用する為であった。つまり、日本を必要としたからであって、日本人が好きだったからではなかった。籠城初期には、モリソンの日本人を見る目は友好的とは言えなかった。06月16日、教民救出の為モリソンと行動を共にした柴五郎への comment は厳しく、「あの馬鹿は、自分が何をすべきか、分かっていないのだ」と軽蔑的である。
 ところが、籠城という限界状況の中で、モリソンは心境の変化をきたした。〔中略〕モリソンは日本人が好きになって来た。〔中略〕
 義和団の蜂起以来、全世界の耳目は北京に注がれていたが、籠城内部のことは皆目分からず〔中略〕世界中が気をもんでいた。そこへ、モリソン報告が投下されたのである。それはプロの現役報道人が体験したそのものずはりの documentary であった。皆は海綿が水を吸い込む様に、むさぼり読んだ。東の果ての小国・日本のことなど、今まで欧州人はよく知らなかったし、知ろうともしなかったが、モリソンの生き生きとした報告は彼等を開眼させた。
 そのモリソンの報道をもとに、日本宣伝の役を遺憾なく果たしてくれたのは、London Times であった。08月28日付同紙の社説を見よう。
「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している・・・列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱を免れ得たのは、ひとえに日本のお蔭である・・・日本は欧州列強の伴侶たるに相応しい国である・・・」〔中略〕
 この事件を通じて日英の絆は強まり、後の日英同盟へと発展していくのである。英紙はこぞって日本を賞賛した。〔中略〕
 08月20日付 Dairy Telegraph 紙。
「北京救助の戦功は、進軍途中の激戦時の戦功と同じく、日本皇帝陛下の兵士に帰すべきものである」
 Victoria 女王も、日本の貢献に感謝した。新任駐英公使・林董(ただす)が1900年07月10日〔中略〕拝謁した時も〔中略〕女王は如何に自分が日本の天皇に感謝しているかを長々と述べた。〔中略〕
 連合救援軍を lead した日本軍の功績を宣伝してくれたのは、London Times を初めとする英国の新聞であったが、籠城中の日本人の立派な働きぶりを外部に宣伝してくれたのも、マクドナルドやモリソン等英国人であった。
 この様にして、日本への好感を持った英国が、対露戦略の一環として「日英同盟」へと進んで行ったのも頷けるのである。
「柴中佐の武士道精神の実践」→「モリソンやマクドナルド等の対日感情の好感度の醸成」→「英国世論の日英同盟締結への機運到来」→「日英同盟締結」として結実したと言っても過言はあるまい。(了)

■さて今日は、晩春の名句をご紹介してお別れしたいと思います。

 青天や白き五弁の梨の花  原石鼎

【解説】昭和11年作。臥床することが多くなった作者が、野心の欲情もなく、触目する風物と天真に戯れている。それは一つの到り着いた境涯に違いない。〔中略〕淡白な上にも淡白な句である。晴れた空の色を back にして、そこに融け入る様な梨の花を描きだした。〔山本健吉『定本 現代俳句』〕(添付写真[10]ご参照)

[10]青天を back に咲いた梨の花
10


 春惜しむおんすがたこそとこしなへ  水原秋櫻子

【解説】「百済観音」と前書がある。〔中略〕法隆寺百済観音像に対しての感動が、素直にまたおおらかに気品高く打ち出されている。〔山本健吉『定本 現代俳句』〕
 寶瓶(ほうびょう)を持ち、ほっそりと立つ法隆寺の百済観音の姿は「とこしなへ(永久)」という言葉が相応しい。ひらがなを多様した優美さもいい。

【小生comment】名句はやはり素晴らしいですね。

 以下、次号をお楽しみに。ではまた・・(了)

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