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2010年5月の5件の記事

2010年5月29日 (土)

【時習26回3-7の会 0292】~「05月22日:『旧【3-8】担任滝川先生による土曜講座』に参加して」「05月15日:ヤマザキマザック美術館『04月23日開館記念』展を見て〔その2〔最終回〕〕」「柴五郎〔その3〔最終回〕〕」

■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0292】号をお送りします。

■さて今日最初の話題は、掲題・副題にある様に、05月22日(土)10時半から正午すぎまで、豊橋西駅至近のサーラビル〔旧中部ガス本社〕2階ある社会人向け土曜講座「サーラときめきアカデミー(Academy)」で『旧【3-8】担任滝川元雄先生が講師を務める土曜講座』に参加して来ましたので、ご報告させて頂きます。
 この講座は、月2回×3箇月が=6回が1クール(cours)で、現在3cours目。あと06月05日(土)と19日(土)の2回ですが、次の4cours目もあるとのこと。
 題材は、『江戸時代の農村を中心とした社会制度』について、「江戸幕府による農民の治め方の仕組みを理解した上で、その制度がご当地、三河に於いてどの様に適用されていたか」を勉強するものである。
 村方三役〔【名主・庄屋】【組頭】【百姓代】〕、年貢額の算定方法の『検見(けみ)法』と『定免(じょうめん)法』の違い、を初め、1649(慶安02年)年に発布されたとされる「慶安の御触書」等について勉強した。この「慶安の御触書」は、32ヶ条文と奥書から成っており、微に入り細に入り、農民の生活の仕方を、質素倹約して年貢米等を確り生産出来る様に規定しているのには恐れいった。(笑) その中の一文が面白いのでご紹介する。こんなことまで指導するとはちょっとやり過ぎ・・!?(笑)

 〔前略〕女房はおはたをかせぎ、夕なべを仕(つかまつ)り、夫婦共にかせぎ申すべし。然れば、みめかたちよき女房なり共、夫の事をおろそかに存じ、大茶をのみ、物まいり、遊山ずきする女房を離別すべし、さり乍ら、子供多くこれ有りて、前簾恩をも得たる女房ならば格別なり。又みめさま悪しく候とも、夫の所帯を大切にいたす女房をば、いかにも懇(ねんごろ)に仕るべき事。

 敢えて、訳文を付けませんでしたが、如何でしたでしょうか。
 とても楽しい90分間でした。
 図々しい小生、講義が終了後、先生を交えて記念写真を撮りました。
 この講座の参加者は、生徒数9名。うち8名が〔時習26回生〕、あと一人も〔同27回生〕。添付写真は、その27回生の女性に撮って貰った先生と同期8名の記念写真(添付写真[01]参照)です。
[01]滝川先生を囲んで
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 滝川先生は、昭和10年生まれとのことで、我々より丁度20歳年上だから、今年満75歳になられる。白髪ではあるが、大変若々しくお元気でいらっしゃいました。

[02]勢川西駅店の豊橋カレーうどん
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 そして、先生と別れた〔時習26回生〕8名は、昼食を豊橋西駅至近にある「勢川西駅店」にて、豊橋カレーうどんを食べました(添付写真[02]参照)。豊橋カレーうどんは、〔①自家製麺、②丼の底にご飯、③ご飯の上にとろろ、④とろろの上にカレーうどん、⑤鶉の卵、の5つの条件さえ備えていれば後は自由〕な為、市内40ヶ店で、夫々店毎 original なカレーうどんが食べられる。
 現在、別々に5ヶ店で stamp rally すると、5万円の旅行 coupon 他が当たる、という event を実施中。関心ある方は是非ご参加下さい。

■さて続いての話題は、前号に引続き、掲題・副題にあります様に『ヤマザキマザック美術館』開館記念展〔その2〔最終回〕〕です。ご覧下さい。

[03]ヴラマンク(Vlaminck, Maurice de); ”Moulin a eau”『水車小屋』制作年不詳
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––––––––––––––––––––––––[04]ヴュイヤール(Vuillard, Edouard); La bibliotheque;『書斎にて』
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[05]ユトリロ(Utrillo, Maurice); Moulin de Sannois『サンノアの風車』1910年
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––––––––––––––––––––––––[06]ユトリロ(Utrillo, Maurice); Rue Marcadet『マルカデ通り』1910年
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[07]ボナール(Bonnard, Piere); La robe de chambre rose『薔薇色のローブを着た女』1918年
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【小生comment】
 ヤマザキマザック美術館は、前号でご紹介した山崎照幸氏が上記の「[07]ボナール(Bonnard)『薔薇色のローブを着た女』との出会いから始まる」と、無償で貸与してくれた音声 guide で説明していた。因みに model の女性は、ボナールの妻マルトである。中々いい絵だと思う。
 このほか、ヴラマンク、ヴュイヤール、ユトリロの作品も品格ある名画揃いだと思います。
 今回は容量の関係からご紹介を省略させて頂きましたが、モディリアーニ、キスリング、パスキン、デュフィ、ドラン、まだまだ名画が沢山ありました。

■続いて今日最後の話題です。《会報》前号に引き続いて「柴五郎〔その3〔最終回〕〕」~第3回:日清戦争、北清事変から日英同盟への道~をお贈りします。

 柴五郎が、明治06(1873年)年(14歳)、陸軍幼年生徒隊(幼年学校の前身)に入学したところまで前号にてお伝えした。今日はその後の彼の人生に spotlight を当てる。

【1877年以降の柴五郎の経歴と◆極東アジア( Far East )の動き】
明治10(1877)年(18歳) 陸軍士官学校に入学。
明治12(1879)年(20歳) 陸軍砲兵少尉に任官。
明治13(1880)年(21歳) 陸軍士官学校卒業。
明治17(1884)年(25歳) 参謀本部出仕を経て、陸軍中尉に昇進。中国(福州)福建省駐在を命じられる。
明治21(1888)年(29歳) 前年から北京駐在の任にあった柴は、陸路、満州から朝鮮半島を経て日本に帰国。参謀本部へ再出仕。
明治22(1889)年(30歳) 陸軍砲兵射的学校を首席卒業。
明治23(1890)年(31歳) 陸軍大尉に昇進。陸軍士官学校教官に就任。
明治24(1891)年(32歳) 中村くまゑ※と結婚。翌年、長女みつを出産後、肥立ち悪く死去。
〔※中村くまゑは元老院議官中村弘毅の遺児。彼と親交のあった谷干城(たてき)が養育していた。谷の秘書官を務めていた五郎の兄四朗の仲立ちで結婚。〕
明治26(1893)年(34歳) 参謀次長川上操六、参謀本部第一局員田村怡与郎少佐と3人で、清国・朝鮮半島視察に赴く。
明治27(1894)年(35歳) London の在英日本公使館付武官心得就任。日清戦争勃発により、至急帰国命令を受ける。陸軍少佐に昇進。大本営参謀に就任。
明治28(1895)年(36歳) 新設の台湾総督府の陸軍参謀に就任。
 ◆04月17日 下関講和条約締結〔朝鮮の清国からの独立、遼東半島、台湾、澎湖諸島の日本への割譲、賠償金2億テール(tael)(約3億円)〕
 ◆04月23日 露・独・仏による(~日本による遼東半島所有は、清国の首府(北京)を危うくし、朝鮮の独立をも有名無実にし、極東平和の妨げとなる。よって、半島領有放棄を勧告する~という)『三国干渉』。
 ◆05月04日 『三国干渉』の「勧告」を受諾し、遼東半島を清国へ返還。
明治29(1896)年(37歳) 在英日本公使館に帰任。
 ◆独、宣教師殺害を理由に膠州湾(青島)を占領。
明治31(1898)年(39歳) 米西戦争勃発。観戦武官として渡米。秋山真之海軍大尉と出会う。在英日本公使館に再帰任。
 ◆〔露〕:遼東半島南端の旅順・大連の租借&東清鉄道の支線〔ハルピン~旅順・大連〕敷設権獲得、〔仏〕:広州湾(99年租借)、〔独〕:膠州湾(=「青島」)(山東省)(99年租借)、〔英〕:九龍半島(99年租借)・威海衛(山東省)(25年租借)。
明治32(1899)年(40歳) 帰国後、参謀本部第二局。陸軍中佐に昇進。鍋島みつ〔【注】佐賀藩主鍋島直正の姪〕と再婚。「みつ」が長女の名と同じため「花」と改名。
明治33(1900)年(41歳) 北京にある在清国日本公使館付武官に就任。北清事変勃発。北京籠城。
 ◆北清事変〔=義和団事件〕:山東省を中心に、義和団という宗教団体が lead して、清国社会の底辺を形成する農民を主体とした「扶清滅洋(=清(国)を扶(たす)け(西)洋(諸国)を滅ぼす)」一大排外運動。
 ◆05月28日 義和団の暴動が北京に及び、鉄道・電信を破壊。外国人宣教師等を殺害。
 ◆06月19日 清国総理衙門(=外交・洋務を管轄(1861~1901設置))が各国公使宛に24時間以内の北京退去を求めた。
 ◆06月20日 期限延期を求め清国総理衙門へ向かった独のフォン・ケラー公使が狙撃され死亡。各国公使館死守の方針決定。清国軍攻撃開始。
 ◆06月21日 英公使マクドナルド防禦計画総指揮官に、墺トーマン海軍中佐、連合軍指揮官に。
 ◆06月22日 清国軍の射撃熾烈。墺トーマンの指揮拙く、英公使マクドナルドが指揮官に。防禦の要の場所、粛親王府の守備を柴中佐に託す。 
 ◆07月02日 清国軍の攻撃厳しく、籠城側最大の苦戦となるが持ち堪える。
 ◆08月14日 午後03時、連合国側の英国軍インド兵が突入。午後08時過ぎ、福島少将率いる歩兵第11連隊が日本公使館到着。北京開城。
明治34(1901)年(42歳) 野戦砲兵第15連隊長に就任。
明治35(1902)年(43歳) 小松宮嘉彰親王の英国派遣に随行〔添付写真[08]=前列中央が柴五郎〕し、04~08月欧州各国歴訪。12月陸軍大佐に昇進。

[08]小松宮殿下に随行し、英国王EdwardⅦ戴冠式に渡英した柴五郎
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 ◆01月30日「日英同盟」締結。
明治37(1904)年(45歳) 野戦砲兵第15連隊長として日露戦争に出征。
 ◆02月08日 日露戦争開戦。
明治38(1905)年(46歳)
 ◆08月09日 ポーツマスで日露講和会議始まる。
 ◆09月05日 ポーツマス条約調印、日露戦争終結。
明治39(1906)年(47歳) 在英日本公使館付武官に就任。
明治40(1907)年(48歳) 陸軍少将に昇進。第12師団長、東京衛戍(えいじゅ)総督に就任。
大正02(1913)年(54歳) 陸軍中将に昇進。
大正08(1919)年(60歳) 陸軍大将に昇進。
大正12(1923)年(64歳) 予備役編入。

[09]晩年の柴五郎
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昭和20(1945)年(86歳) 終戦後、割腹を試みるが果たせず、その傷が原因で12月13日逝去。

「諜報員になる」。これが若い五郎の夢であった。その為中国語を学んでいた。明治17(1884)年に陸軍中尉に進級し、10月清国福州(福建省)への駐在を命じられた。〔中略〕〔【小生注】福州では、軍事情報のほかに清国人の暮らし、考え方等を学び、北京で通じる官話(清代の公用語)、英語等を身につけた。柴五郎は語学に才能があり、英・仏・中国語を自由に操れた。〕
 明治20年04月、北京駐在の命を受ける。〔以上【歴史街道2010年05月号】〕北京での任務は、北京を中心とした周囲10里(約40km)を隈なく歩き、清国の軍事施設等を精緻な地図として作成することであった。〔中略〕この時の情報収集で得たものが後の日清戦争や義和団事件(北清事変)の際の北京籠城に当たって大きな力を発揮することになった。〔中略〕
 明治31(1898)年04月23日、米西戦争が勃発。英国公使館付武官として London にいた五郎に、戦況視察の為に米国に行く様命令があった。〔中略〕 05月15日Washington に到着。五郎は日本公使館で、留学中の海軍大尉・秋山真之と出会う。〔中略〕〔【注】因みに、五郎は、真之の兄・秋山好古と陸軍幼年学校・士官学校の同期であった。〕〔中略〕
 明治33(1900)年02月、清国公使館付武官に。06月20日~08月14日までの55日間が実質的な籠城期間。「北京の55日」という映画(1968年、米国映画、Charlton Heston主演)では、柴五郎役は伊丹十三が扮している。
【小生comment】ここにウッドハウス暎子著『北京燃ゆ ― 義和団事変とモリソン』という本がある。この本の中で、著者は柴五郎について次の様に評している。
〔P.フレミング著『北京籠城』より〕
「日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人と付き合う欧米人は殆どいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、皆の目に映る様になったからだ。日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである」。
〔北京籠城を経験した若い米国人女性 ポリー.C. スミス嬢の柴五郎観〕
「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占める様になったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。何故なら、第一回目(06月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。でも、今(07月02日)では、全てが変わりました。柴中佐は王府での絶え間のない激戦で怪腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、全ての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求める様になったのです」。
〔籠城中、義勇兵として柴の下に派遣され戦った英国人青年レノックス・シンプソン(pen name; パットナム・ウィール)(23歳当時)『率直な北京便り』(1907年刊)〕
「日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。〔中略〕各国受持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団を見た。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へと纏め込んでいた。彼は部下達を組織化し、〔中略〕前線を強化した。実のところ、彼は為すべきことは全てした。僕は自分が既にこの小男に傾倒していることを感じる(06月21日の日記)〔中略〕僕は何故か日本軍の持ち場から離れることが出来なくなってしまった。彼等の組織づくりが、それほどにも素晴らしいからだ(06月23日)」。
〔モリソンの日記〕
「王府の炎上は城壁の上からもよく見える。そこは一大活劇の scene だ。小柄できびきびした柴中佐は、必要な場所には必ずいつでもいる」。
 因みに、G. E. Morrison (1862-1920)は、動乱の北京で23年間、前半は journalistとして反露親日の世論喚起に縦横無尽の活躍をし、後半は中華民国総統府顧問として新中国の舵取りをした豪州人。
 日本人と生死を共にして戦っている間に、モリソンの心の中には、いつしか計算なしの友情が芽生えて来た。
 もともと、モリソンが積極的に日本人に approach したのは、日本をロシア討伐の先鋒として利用する為であった。つまり、日本を必要としたからであって、日本人が好きだったからではなかった。籠城初期には、モリソンの日本人を見る目は友好的とは言えなかった。06月16日、教民救出の為モリソンと行動を共にした柴五郎への comment は厳しく、「あの馬鹿は、自分が何をすべきか、分かっていないのだ」と軽蔑的である。
 ところが、籠城という限界状況の中で、モリソンは心境の変化をきたした。〔中略〕モリソンは日本人が好きになって来た。〔中略〕
 義和団の蜂起以来、全世界の耳目は北京に注がれていたが、籠城内部のことは皆目分からず〔中略〕世界中が気をもんでいた。そこへ、モリソン報告が投下されたのである。それはプロの現役報道人が体験したそのものずはりの documentary であった。皆は海綿が水を吸い込む様に、むさぼり読んだ。東の果ての小国・日本のことなど、今まで欧州人はよく知らなかったし、知ろうともしなかったが、モリソンの生き生きとした報告は彼等を開眼させた。
 そのモリソンの報道をもとに、日本宣伝の役を遺憾なく果たしてくれたのは、London Times であった。08月28日付同紙の社説を見よう。
「列国の公使館が救われたのは日本の力によるものである、と全世界は日本に感謝している・・・列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染などの屈辱を免れ得たのは、ひとえに日本のお蔭である・・・日本は欧州列強の伴侶たるに相応しい国である・・・」〔中略〕
 この事件を通じて日英の絆は強まり、後の日英同盟へと発展していくのである。英紙はこぞって日本を賞賛した。〔中略〕
 08月20日付 Dairy Telegraph 紙。
「北京救助の戦功は、進軍途中の激戦時の戦功と同じく、日本皇帝陛下の兵士に帰すべきものである」
 Victoria 女王も、日本の貢献に感謝した。新任駐英公使・林董(ただす)が1900年07月10日〔中略〕拝謁した時も〔中略〕女王は如何に自分が日本の天皇に感謝しているかを長々と述べた。〔中略〕
 連合救援軍を lead した日本軍の功績を宣伝してくれたのは、London Times を初めとする英国の新聞であったが、籠城中の日本人の立派な働きぶりを外部に宣伝してくれたのも、マクドナルドやモリソン等英国人であった。
 この様にして、日本への好感を持った英国が、対露戦略の一環として「日英同盟」へと進んで行ったのも頷けるのである。
「柴中佐の武士道精神の実践」→「モリソンやマクドナルド等の対日感情の好感度の醸成」→「英国世論の日英同盟締結への機運到来」→「日英同盟締結」として結実したと言っても過言はあるまい。(了)

■さて今日は、晩春の名句をご紹介してお別れしたいと思います。

 青天や白き五弁の梨の花  原石鼎

【解説】昭和11年作。臥床することが多くなった作者が、野心の欲情もなく、触目する風物と天真に戯れている。それは一つの到り着いた境涯に違いない。〔中略〕淡白な上にも淡白な句である。晴れた空の色を back にして、そこに融け入る様な梨の花を描きだした。〔山本健吉『定本 現代俳句』〕(添付写真[10]ご参照)

[10]青天を back に咲いた梨の花
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 春惜しむおんすがたこそとこしなへ  水原秋櫻子

【解説】「百済観音」と前書がある。〔中略〕法隆寺百済観音像に対しての感動が、素直にまたおおらかに気品高く打ち出されている。〔山本健吉『定本 現代俳句』〕
 寶瓶(ほうびょう)を持ち、ほっそりと立つ法隆寺の百済観音の姿は「とこしなへ(永久)」という言葉が相応しい。ひらがなを多様した優美さもいい。

【小生comment】名句はやはり素晴らしいですね。

 以下、次号をお楽しみに。ではまた・・(了)

2010年5月22日 (土)

【時習26回3-7の会 0291】~「05月15日:ヤマザキマザック美術館『04月23日開館記念』展を見て〔その1〕」「柴五郎〔その2〕」「孔子 人間、どこまで大きくなれるか」「外山滋比子古『「読み」の整理学』から」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0291】号をお送りします。
 昨日05月21日は二十四節気でいう『小満』。気象庁は05月06日、沖縄と奄美地方の梅雨入りを発表。沖縄で平年より2日、奄美で同4日早い。
 因みに、沖縄では梅雨のことを『小満芒種(スーマンボースー)』と言うそうだ。

[100a]ヤマザキマザック美術館展 leaflet
100aleaflet
––––––––––––––––––––––––[100b]ヤマザキマザック美術館
100b20100515

■さてまず最初の話題は、掲題・副題にあります様に、05月15日、去る04月23日名古屋市東区葵西交差点北東角に開館した『ヤマザキマザック美術館』の開館記念展を見て来ましたので、今回と次回の2回に分けてご紹介させて頂きます。

[101]ブーシェ(Boucher, L'Aurore et Cephale); L'Auroe et Cephale『アウロラとケファロス』1745年頃
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–––––––––––––––––––––––[102]ドラクロア(Delacroix)『シビュラと黄金の小枝』1838年
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[103]モネ(Monet), Claude Le port d'Amsterdam『アムステルダムの港』1874年
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–––––––––––––––––––––––[104]シスレー(Sisley), Alfred Le canal du Loing a Saint-Mammes『サン=マメのロワン運河』1885年
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[105]ピサロ(Pissarro), Camille; Quai a Rouen, soleil couchant『ルーアンの波止場・夕陽』1896年
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–––––––––––––––––––––––[106]ヴラマンク(Vlaminck), Maurice d; Bouquet de fleurs『花』制昨年不詳
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【小生comment】
 ヤマザキマザック美術館は、工作機械 maker ヤマザキマザック会長の山崎照幸氏が長年に亘り収集した rococo 時代以降、二百数十年の France 絵画、及びアール・ヌーヴォー( art nouveau )を代表するフランスのガラス工芸家、エミール・ガレ(Charles Martin Emile Galle、1846.05.04-1904.09.23)の作品群、調度品、彫刻が、数多く展示されており素晴らしかった。
 特に、絵画は「百聞は一見にしかず」です。是非皆さん自身の目で名画の醍醐味を実感してみて下さい。
 rococo 時代以降のフランス絵画なら、巨匠と称される画家が網羅されており、西洋絵画が大好きな小生、「よくぞここ迄集めて下さった」と、山崎氏に心より敬意を表します。
 次号では、ヴラマンク(Vlaminck)、ヴュイヤール(Vuillard)、ユトリロ(Utrillo)、ボナール(Bonnard)の作品をご紹介させて頂きます。お楽しみに。

■続いては、《会報》前号に引き続いて「柴五郎〔その2〕」~第2回:戊辰戦争に破れ辛酸を舐め乍ら成長していく少年時代の『柴五郎』~をお贈りします。

 柴五郎は、会津落城後、下北半島に移封され、父・兄等と共に死線を彷徨っていた頃、肥後(現・熊本県)出身で青森県大参事にあった野田豁通の給仕として召抱えられ、彼の人生が変わった。野田豁通の甥の子息に当たる作家・石光真人氏が、昭和17年当時84歳で東京・玉川上野毛に隠棲していた柴翁を訪ね、柴から、彼自身が書いた遺書の添削・訂正を頼まれた。
 石光氏が【本書の由来】で以下の様に紹介している。

 この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記憶である。〔中略〕
 翁は会津の出身、上級武士の五男として生まれ、我国に於ける最初の政治小説『佳人之奇遇』16巻の著者、柴四朗(東海散士)の実弟である。祖母、母、姉妹(【注】3人)は会津戦争の際自刃、一族に多くの犠牲者を出している。落城後、俘虜として江戸に収容、後に下北半島の火山灰地に移封され、公表を憚(はばか)る程の悲惨な飢餓生活を続けた。薩長藩閥政府が華やかに維新を飾り立てた歴史から、全く抹殺された暗黒の一節である。
 脱走、下僕、流浪の生活を経て軍界に入り、藩閥の外に在り乍ら、陸軍大将、軍事参議官の栄誉を得た逸材であり、中国問題の権威として軍界に重きをなした人である。〔中略〕
 死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵倫寺に納め、門外不出とした。会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔う為と推測される。従ってこの文書は弾劾警世を意図して綴られたものではなく、肉親、藩士一同と共に、葬り去られた歴史の一節を密かに菩提寺に葬り、いつかは翁自らも受難の時代と共に眠りに就かれることを考えておられたのではないかと思う。〔後略〕

 また石光氏は、【遺書との出会い】の処で、柴翁から遺書の校正を頼まれた理由を翁の言葉として次の様に記している。

 柴翁曰く、「私は少年時代に戊辰戦争の為勉強する機会がありませんでした。その後も下男の様な仕事をしていたので、十分な教育が得られませんでした。(【小生注】陸軍)幼年学校に入る時は、文字通りの泥縄、一夜漬けで、野田豁通閣下のお蔭で合格しました。合格してみたら、意外にも幼年学校の教官は全て France 人で、私達も France の軍服を着て、France語で France の地理、歴史、数学等を学び、正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯に於いて長い間苦しみになりました。その頃の教育は、新しい外国の学問がどんどん入って来て、小学校などは米国の教科書の翻訳でしたが、上級に進むに従って、やはり漢籍による文章の訓練が行われたのです。その様な基礎教育を充分受けられなかったので、France語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです。ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。余計な事をお願いして済みませんが、添削して下さい。書き足りない所、疑問に思う箇所についても指摘して下さい」と。

 柴翁の遺書は以下の様にして始まる・・

【血涙の辞】~ある明治人の記録~会津人柴五郎の遺書(以下「本書」という)〔石光真人著〕より~ 

 幾たびか筆とれども、胸塞がり涙先だちて綴るに絶えず、空しく年を過して齢既に八十路を越えたり。
 多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づること希なり。粗衣老躯を包むにたり、草木余生を養うに余る。有難き事なれど、故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤すれど、懊悩流涕(おうのうりゅうてい=悩み憂え悶え落涙すること)止むことなし。
 父母兄弟姉妹悉く地下にありて、余一人この世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。四季の風月雪花常の如く訪れ、多摩の流水樹間に輝きて絶えること無きも、非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影瞼に浮びて余を招くが如く、懐かしむが如く、また老衰孤独の余を憐れむが如し。
 時移りて薩長の狼藉者も、今は苔むす墓石の下に眠りて既に久し。恨みても甲斐無き繰言なれど、ああ、今は恨むにあらず、怒るにあらず、只口惜しきこと限りなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
 過ぎてはや久しきことなるかな、七十余年の昔なり。郷土会津にありて余が十歳の折り、幕府既に大政奉還を奏上し、藩公また京都守護職を辞して、会津城下に謹慎せらる。新しき時代の静かに開かるるよと教えられしに、如何なることのありしか、子供心に解らぬ儘、朝敵よ賊軍よと汚名を着せられ、会津藩民言語に絶する狼藉を被りたること、脳裏に刻まれて消えず。
 薩長の兵ども城下に殺到せりと聞き、たまたま叔父の家に仮寓せる余は、小刀を腰に帯び、戦火を逃れ来たる難民の群を掻き分けつつ、豪雨の中を走りて北御山の峠に至れば、鶴ヶ城は黒煙に包まれて見えず、城下は一望火の海にて、銃砲声耳を聾するばかりなり。
「いずれの小旦那か、何処(いずこ)に行かるるぞ、城下は見らるる通り火焔に包まれ、郭内など入るべくもなし。引返されよ」と口々に諫む。その頃既に自宅にて自害し果てたる祖母、母、姉妹のもとに馳せ行かんとせるも能わず、余は路傍に身を投げ、地を叩き、草をむしりて泣け叫びしこと、昨日の如く想わる。
 落城後、俘虜(【注】捕虜)となり、下北半島の火山灰地に移封されて後(のち)は、着の身着の儘、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね【注】=寝る時に下に敷く物)なく、耕すに鍬(くわ)なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生き永らえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消えうせて、今は知る人も希となれり。
 悲憤なりし地下の祖母、母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。

【小生comment】
 小生、柴五郎翁の言葉に只々目頭が熱くなるのみ。
 以下、陸軍幼年生徒隊に入学する迄の模様を時系列にざっとご説明する。

◆安政06(1859)年 会津藩士(280石取りの上士)柴佐多蔵の五男として生れる。
◆慶応03(1867)年(08歳) 10月14日、徳川慶喜大政奉還奏上(前日13日、岩倉具視、西郷吉之助、大久保利通等の謀議による会津討伐の密勅宣下と錦旗が薩長両藩に下さる)。
◆慶応04・明治元(1868)年(09歳) 02月22日、松平容保会津に帰藩。数え10歳となった柴五郎、藩校日新館に入学。08月21日大叔父未亡人が五郎を松茸採りに誘う。柴の遺書には「母直ちに賛成し、「学校既に閉鎖せられ、男子全て城中にあり、叔母様と共に行け」と余を促す」とある。続けて次の様に記している。 「(前略)幼心のつい誘われて、うかうかと邸を立ち出たり。これ永遠の別離とは露知らず、門前に送り出たる祖母、母に一礼して、いそいそと立ち去りたり。ああ思わざりき、祖母、母、姉妹、これが今生の別れと知りて余を送りしとは。この日迄密かに相語らいて、男子は一人なりと生き永らえ、柴家を相続せしめ、藩の汚名を天下に雪(そそ)ぐべきなりとし、戦闘に役立たぬ婦女子は徒(いたずら)に兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入と共に自害して辱めを受けざることを約しありしなり。僅か7歳の幼き妹まで懐剣を持ちて自害の時おりしとは、如何に余が幼かりしとは言え不敏(【注】才知が乏しい)にして如かず。真に慙愧に耐えず、想い起こして苦しきこと限りなし。
◆明治02(1869)年(10歳) 06月、俘虜として東京へ護送。12月土佐藩士毛利恭助の学僕(実体は下僕と同じ処遇)となる。
◆明治03(1870)年(11歳) 04月、太一郎兄に情況を相談、毛利家を去る。05月半ば、新領地、斗南へ。彼の地※(添付写真[201])で、父、太一郎夫婦、五三郎兄と極貧生活を続けた。

[201]明治4年、父、五三郎兄と共に仮住まいした落の澤新田、初五郎の家〔大正12年柴五郎本人が撮影〕
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◆明治04(1871)年(12歳) 07月、廃藩置県。斗南藩は斗南県となる。12月、斗南政府の選抜により、学問修行の為柴五郎を青森県大参事野田豁通※(添付写真[202])

[202]野田豁通(ひろみち)
202

(1844.09.06-1913.01.06)の給仕として派遣。「青森派遣の朗報に接し、どん底の一家欣然たり。父上の喜びひとかたならず」と本書にある。
「県庁にて派遣の申渡しを受け、旧藩主に代わりて山川大蔵(のち浩)※(添付写真[203])大参事より激励の言葉を給う」。
 この山川浩(会津藩国家老山川重固の長男1845.12.04-1898.02.04)と先述の野田豁通の二人が、柴五郎が陸軍幼年学校入学迄物心両面での支援者。因みに、山川浩の実弟健次郎※((添付写真[203a])1854.09.09-1931.06.26)は、東京、京都、九州、各帝国大学総長、現・九州工業大学の初代総裁を務めた。また、末妹咲子(後改名し捨松)※(添付写真[203b])1860.03.16-1919.02.18)は、津田塾大学の創始者津田梅子等と一緒に渡米留学し、帰国後大山巌の妻となり、鹿鳴館時代の一翼を担った。以上は余談まで。

[203]山川大蔵(浩)
203

––––––––––––––––––––––––[203a]山川健次郎
203a

[203b]山川(大山)捨松
203b

◆明治05(1872)年(13歳) 上京後、伝(つて)を頼りに寄宿先を探すも中々見つからない。ここで、野田豁通の紹介、山川大蔵宅への寄宿等、両氏より多くの厚情を受ける。10月中旬には野田の紹介で、後、次女が後藤新平夫人となる福島県知事安場保和の留守宅の下僕となる。
 山川宅に寄宿することとなった時、「山川母堂と常盤嬢は、余の汚れたる白地浴衣を気の毒がり、当時米国に留学中の捨松嬢(後の公爵大山元帥夫人)の薄紫の木綿地に裾模様、桃色金巾(かなきん)裏地の袷(あわせ)を取り出し、袖を短くして与え給う。その日より、この少女の着物を付けて暮らせり。
 同年11月初旬、野田の紹介にて陸軍幼年生徒隊(陸軍幼年学校の前身)の受験を勧められ兵学寮に出頭し受験する。「同じく野田の庇護下にある斎藤実(後の海軍大将、首相)も受験す」(以上本書)。
◆明治06(1873)年(14歳) 合格の時の模様を本書で次の通り述べている。
「はや03月もまさに過ぎんとする末日、嬉しきかな!入校を許可すとの報あり。洋服着用のうえ出頭すべしとのことなり。欣喜雀躍して足の踏むところを知らずとはこのことならん。言葉上擦りて雲上を踏むが如く、魂震えて額に冷汗流る。共に受験せる斎藤実は無念にも落第し、翌年海軍兵学校に入校せり。
 山川大蔵の悦び、余に優るとも劣らず。〔中略〕山川大蔵自ら、余に、前に向け、左に向けと言いつつ洋服の着方を教え、一家を挙げて喜べリ。4月01日入校、03日は神武天皇祭にて休日なれば、まず山川宅を訪ね、習い覚えたるばかりの挙手の礼して、一同に将来を祝福される。山川母堂の悦び、殊(こと)の外なり。余の両肩に手を置きて、前より後ろより眺めて流涕す。恐らく自刃して果てたる余の祖母、母上を偲び給えるなるべし。余嬉しさの余り、そのことを忘れ、斗南に今尚苦闘する父上をも忘る。申し訳なきことなり」。

[204]若き日の柴五郎
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 この後、柴五郎は、お礼に野田豁通のもとを訪れたのは言うまでもない。〔了〕

【小生comment】
 柴五郎少年が経験した辛酸を思えば、現代の我々の毎日が如何に恵まれているか多くを語る必要もあるまい。

[301]「孔子 /人間、どこまで大きくなれるか」&「外山滋比子古『「読み」の整理学』
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■【後記】今日最後の話題は、「孔子 /人間、どこまで大きくなれるか」&「外山滋比子古『「読み」の整理学』から雑感を述べたいと思います。この2冊も中々の良書だと思い、紹介させて頂きました。ではどうぞ・・

《 孔子 人間、どこまで大きくなれるか 》

 渋沢栄一は、次の様に説く。
「私が実業界に身を委ねる様になったのは、国力を充実させ、国を富ませる為には、まず農工商、中でも商工業を盛んにしなければならないと考えたからである。
〔中略〕
 そこで、会社を上手く経営するに当たって、一番必要な要素は会社を切り回す人材である。人材が得られないならば結局その会社は必ず失敗する。そこで私は、この銀行や各種会社の経営を成功させる為には、実際の運営に当たる人に、事業上だけでなく一個人として守り行うべき規範・規準がななくてはならないと考えたのである。
 この様に考える時、日常の心得を具体的に説いた『論語』は、その規準に打って付けで、どう判断して良いか悩む時には『論語』の物差しに照らせば、絶対間違いはないと確信しているのである」。〔中略〕
 例えば、商業を含む経済の場合で、契約に違反したり、暴利を貪ったりすれば、一度はそのことで利益を得るかもしれない。しかしそのことが世間に知れ渡れば、以後その人は人々から爪弾きにされ、その世界で生きて行けなくなる。
 こういう意味では、経済の世界ほど倫理や「人の道」と密着した世界はないと言ってよい。

【小生comment】
「仁義礼智信」の「『信』=信用」が、経済界に限らず人間社会を円滑に運営して行く為の基本原則であることは論を俟(ま)たない。
 普天間問題の米国への回答期限を今月末と宣言した我が国の鳩山首相は如何に対処するつもりであろうか。口頭とは言え、これは立派な二国間の契約である。回答期限の不履行は、少なくとも経済界では契約の「債務不履行」であり、「信義則」という大原則への背信行為である。
 日本が誇る明治武士道の鑑、乃木希典や東郷平八郎、柴五郎等は、鳩山首相に何と言うであろうか?

《 外山茂比古著「読み」の整理学 》~「読むこと」とは?~

【論語読みの論語】
〔前略〕Alphabet のみで組織されている欧文を読むのでもかなりの訓練を要するが、音声と意味を併せ持つ漢字を読むのは極めて高度の知識作業を必要とする。我が国では、これを素読という方法で解決しようとした。上手く行かない、つまり漢文を読める様にならない case も少なくなかったのは止むを得ない。むしろ、読める様になったことに驚くべきだろう。その時の方法というのは素読である。
 素読とは「意味を考えないで、文字だけを声を出して読むこと」(大辞林)である。Text は最高の古典。師匠が声を出して読むと、弟子は、それについて音読する。繰り返して読むことがあっても、声を出すだけで、先生は字句についての意味など一切教えない儘次へ進む。反復練習する必要があっても、尚、意味には触れない。だからこそ「素」読である。素読の教育を受けた者はいつとはなしに、音読と意味を取るとは別のことであるのを承認し、意味も解らず音読することに慣れてしまう。「巧言令色鮮矣仁」(「論語」学而第一)は「コウゲンレイショクスクナイカナジン」と言えれば、それで読めたことになる。巧言って何か、令色とはどういうことかなど気にすることはない。しても解らないが、それでよし、とするのが素読である。意味はどうするのか、と心配する人は、解る時には、解る、などという禅問答みたいな答えで満足しなければならなかった。
 本の内容を頭で理解するだけで、それを具体的に生活の中でどう生かして行くかに思い至らないのを俗に「論語読みの論語知らず」という。素読はもう一段低い「論語読みの論語知らず」であった。内容を理解したり出来ない、ただ、漢字を声に出して読むだけの「論語読み」である。「論語知らず」であるのは当然過ぎるほど当然である。素読はこう言う低次の「論語読みの論語知らず」を育てたのだが、それが日本の文化を支える基盤になったのだから複雑な思いをさせられる。
 教育としての素読が消えてからそろそろ百年になろうとしているが、素読の伝統は今も日本人の読書、読み方に色濃く影を落としている。読めるということと、理解するということが別々であるのが日本語である。読めても読めていない。それを左程気にしない。「論語読みの論語知らず」は今尚至る所にゴロゴロしていると言って良い。

【素読は人間を育てる】
〔前略〕昔の社会が、漢学の素養のある人を、ただの読書人としてばかりでなく、むしろ人間として尊敬していたのは、素読から入った読みが人間形成にも大きな影響をもっていたことを暗示している。〔中略〕明治の英学者はほとんど例外なく漢籍の知識を豊かに持っていた。
 このことが、外国の言葉を和訳するのに役立った。今から見ても、銀行、演説、会社、内閣、煙草、麦酒、硝子の様な訳語には感心させられる。漢字についての造詣がなくては、こうは行かなかったに違いない。〔中略〕欧州における Latin 語教育は漢学の素読に通じるものがある。

【テクスト信仰】
 もう一つ注意すべき点は読む text である。素読が四書五経について行われた点が重要であって、漢文の小説等ではこう言う読み方をすることは到底考えられない。欧州の Latin 語学習についても、同じで、教えられるものは極めつけの古典ばかりである。それを諳(そら)んじていれば、一生、教養人として通る。何よりも text への絶対の信頼がある。〔後略〕

【小生comment】
 外山氏は、この本で「読み」方について、こうも述べている。

「戦後、読書百遍とか暗誦とかが殆ど無くなったのは、価値が揺らいだ為である。嘗ての古典は、それを支えていた価値が動揺し、疑問視されるに及んで、色褪せ出した。それに代わる新しい価値の定立が見られないから新しい古典は現れにくい。
〔中略〕社会全体で公認する古典が明確でないなら、個人の責任で、めいめいの古典を決定するほかない。それを繰り返し繰り返し読むことによって、「未知」を読むことを可能にする。これが現代読者に残された途なのである。
 もし、その選択が誤っていて、初期の目的を達しないとすれは、それはその人の人生の失敗で、誰を恨むこともない。いくら間違った選定をしても、兎に角、これこそわが生涯の書と決めた本があって、それを絶えず読み返していれば、必ず、それなりの成果はある筈である」。

 成程、そういうことか。
 小生は、好奇心旺盛の為、これ迄同じ本を何度も読み返したことがない。これからは、繰り返し読む古典を探して実践してみようと思う。(了)

[401]豊橋カレーうどん~2010年05月19日昼 at まつや in 松葉町, 豊橋市
401_at_in_20100519

■お別れは、05月19日にある会で食した「豊橋カレーうどん」(添付写真[401])です。
 過日ご紹介した通り、鶉の卵が入ったカレーうどんで、丼の底にとろろで覆われたご飯があり、カレーうどんを食べた後、続いてカレーライスを食べたと実感できる、volume 感もある美味な一品でした。「日本3大うどん」を目指しているそうですので皆さんも是非一度召し上がってみて下さい。そして、ご感想をお寄せ頂ければ幸甚です。

 以下、次号をお楽しみに。ではまた・・(了)

2010年5月15日 (土)

【時習26回3-7の会 0290】~「05月10日:『中山君からのmail・・』」「05月08日:森arts center gallaery『Boston美術館―西洋絵画の巨匠』展を見て」「05月13日:『諏訪内晶子&バシュメットconcert』を聴いて」「白州正子&河合隼雄『縁は異なもの』から」「『柴五郎』について〔第1回〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0290】号をお送りします。

■まず最初の話題は、掲題・副題にあります様に、「タイからの『特派員報告』予告編」として、中山君から mail が届きましたので、ご紹介させて頂きます。
 中山君! mail をありがとう!
 貴君の『特派員報告』楽しみに待っています。宜しく!
 では、どうぞ・・

Sent: Monday, May 10, 2010 2:47 PM
今泉様

お久し振りです。
毎日夏バテのタイに、まだいます。
実は今週から3週間ほど、日本人がわんさか押し寄せて大変忙しくなります。
それ以降で少し余裕ができたら、また硬軟織り交ぜた特派員報告でも送らせていただきます。

            中山


■続いては、05月08日(土)に東京・六本木ヒルズ52階にある森 arts center gallery 『Boston 美術館 ― 西洋絵画の巨匠』展を見て来ましたのでご報告致します。

〔添付写真〕
[101]森 arts center gallery 入口にて
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––––––––––––––––––––––––[102]六本木ヒルズ52階展望台からの遠望
10252

 その日は、午前06時丁度に車で拙宅を出発。途中、海老名SAで小休止20分を取り、09時55分に会場入口に到着。
 15世紀後半から16世紀に活躍したエル=グレコ、ベラスケス、ムリーリョや、レンブラント等、正統派の絵画から始まり、ミレー、コロー、クールベの写実主義・Barbizon 派、テオドール・ルソー、マネを経てモネ、ルノアール、ドガ、セザンヌ、ピサロ、シスレー、ゴッホ、シニャック等の印象派・後期印象派、そしてPicasso、ラトゥール、マティス迄、本当に楽しませてくれました。
 米国でも、Washington の National Gallery、New York の Metropolitan Museum と並び称されるボストン美術館( Museum of Fine Arts, Boston )は、各分野の作品を広く収蔵していることでも有名だが、やはり何と言っても印象派の作品がいい。
 皆さんに、沢山名画をご紹介しようと思い、45枚程用意しましたが、また容量 over して添付出来なくなる懸念が大きい為、今回は、厳選した7枚だけの添付に留めました。ご了承下さい。ではどうぞ・・

[103]ベラスケス(Velazquez)『ルイス・デ・ゴンゴラ・イ・アルゴテ(Luis de Gongora y Argote)』1622年
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––––––––––––––––––––––––[104]ドガ(Edgar Degas)『男の肖像(Portrait of a Man)』1860年代
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[105]ミレー(Jean-Francois Millet)『馬鈴薯植え(Potato Planters)』1861年頃
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––––––––––––––––––––––––[106]ピサロ(Camille Pissarro)『エラ二―、自宅の窓からの眺め(View from the Artist's Window, Eragny)』1885年
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[107]同(Camille Pissarro)『ポントワ―ズ、冬のジゾールへの道(Morning Sunlight on the Snow, Eragny-sur-Epte)』1895年
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––––––––––––––––––––––––[108]シスレー(Alfred Sisley)『サン=マメスの曇りの日(Overcast Day at Saint-Mammes)』1880年
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[109]ゴッホ(Vincent van Gogh)『オーヴェールの家々(Houses at Auvers)』1890年
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【小生comment】
 名画って、本当にいいですね。

■さて続いては、05月13日(木)夜、18時45分から名古屋・愛知県芸術劇場 concert hall にて開催された:『諏訪内晶子&バシュメットconcert』についてです。
 小生、諏訪内の violin、バシュメット( Bashmet )の viola のCDは幾枚か持っていて二人共に好きな演奏家であるが、生演奏&しかも共演で聴いたのは今回が初めてであった。

[201]Bashmet & 諏訪内晶子
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 期待に違わぬ名演奏を聞かせてくれ、至福のひとときを過ごすことが出来た。
 曲目は、以下の通り。

◆ユーリー・バシュメット(Yuri Bashmet, 1953.01.24- ))(指揮 & viola)&国立ノーヴァヤ・ロシア交響楽団(State Symphony Orchestra "Novaya Rossia")

[1]ショスタコーヴィチ(Dmitrii Dmitrievich Shostakovich, 1906.09.25-1975.08.09):祝典序曲Op.96
【小生comment】演奏時間は10分に満たぬが、高らかに鳴る fanfare が彼の作品中では大変聴き易い軽快な作品。演奏会の幕開きで時々取り上げられる。グリンカ(Glinka)「ルスランとリュドミラ(Ruslan & Lyudmila)」序曲(Overture)やバーンスタイン(Bernstein)「キャンディード(Candide)」序曲(同)と雰囲気が似ている佳品。Bashmet の指揮捌きは的確で、楽団の演奏も迫力あり上手かった。

[2]同:Violin Concert No.1 in a minor Op.77※(1)
〔第1楽章〕Nocturne - Moderato
〔第2楽章〕Scherzo - Allegro
〔第3楽章〕Passacaglia - Andante
〔第4楽章〕Burlesque - Allegro con brio
※(1):violin/諏訪内晶子(1972.02.07-)、

––––––––––––––––––––––––[202]諏訪内晶子
202

 作品番号を[Op.99]とする例がある。これは、作曲が発表された1955年としたことによる。作曲が完成したのは、作品発表から遡ること7年前の1948年03月24日。現在では、作品番号を作曲年代順に修正し[Op.77]とされる。
[初演]:1955.10.29、Evgeny A. Mravinsky、指揮 Leningrad P.S.O.、violin solo : David F. Oistrakh
【小生comment】2曲目は、待望の諏訪内晶子が violin solo 演奏。この曲は難曲として有名。諏訪内は、この日は真っ赤な dress を身に纏い登場。現在38歳だが、美貌は相変わらずである。彼女は、1990年 Tchaikovsky 国際 concours において最年少(18歳(当時))で第1位受賞。彼女が弾く violin は、巨匠ハイフェッツ(Jascha Heifets)が使っていた「世界3大Stradivarius」の名器「Dolphin」(1714年製)。
 彼女の確かな技量と名器の collaboration により、演奏も期待違わぬ素晴らしいものであった。特に第3楽章パッサカリア第8変奏の後のカデンツァ(cadenza)が、J.S.Bach の無伴奏 violin sonata & partita を想起させ圧巻だった。

[3]ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz, 1803.12.11-1869.03.08):交響曲「イタリアのハロルド』(Harold en Italie)」 Op.16 ※(2)
〔第1楽章〕山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面
〔第2楽章〕夕べの祈祷を歌う巡礼の行列
〔第3楽章〕アブルッチの山人が、その愛人によせるセレナード
〔第4楽章〕山賊の共演、前後の追想
[初演]:1834年11月23日、パリ音楽院ホール(Conservatoire de Paris))。この初演には、ユゴー、デュマ、ハイネ、リスト、ショパン等が訪れたと言う。
※(2):この曲は「viola 独奏付きの4楽章からなる交響曲」と言われる。
【小生comment】英国の詩人バイロン(George Gordon Byron, sixth Baron, 1788.01.22-1824.04.19)の長編詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」物語に基づく交響曲。viola がハロルド(Harold)の theme を表わし、最後は山賊の手にかかって命を落とすところで話、つまりこの曲は終わる。Harold の theme は明るく伸びやかに、時にmelancholic に奏でられ、melody は心地よい。Bashmet の viola solo と指揮による演奏も良かった。この曲はCDで聴くより生演奏の方が聴きやすい、と感じた。
 演目の3曲の後の encore 曲は、J.Brahms のハンガリー舞曲第一番と、タンゴ(曲名は思い出せず)。至福のひとときであった。

[301]白州正子 & 河合隼雄『縁は異なもの』
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■次の話題は、「白州正子(1910.01.07-1998.12.26)&河合隼雄(1928.06.23-2007.07.19)『縁は異なもの』([001]添付写真ご参照)から『揺れる世紀末日本』」をご紹介します。
【小生comment】
 この対談は、今から13年前の1997年、白州正子氏が亡くなる前年のものであるが、現在の混迷する日本が既にこの時に顕在化していたことは二人の話を聞いていてよく分かる。
 では、どうぞ・・

《 揺れる世紀末日本 ― まず自分再生から 》
【物あふれ心さまよう】

◆Q◆ 今の世相について、どうお考えですか。〔中略〕
【河合】 欧米をお手本の先進国として、何とか追いつけ追い越せと頑張って来た。しかし、自分達は、こういう考えだから、この道を行くんだ、というのが無い。仏教や儒教が入ると、よし中国に負けない様に頑張るとか、よそのものを種にして頑張っていくのは、中々良く出来ていたんです。だから、経済的にちょっと一番みたいになった途端、心のことをどう考えるかという、もの凄い難しい問題が突きつけられ、何していいか分からなくなった。
【白州】 物が無い、少ない、貧しいから頑張ろう、ということで日本の考え方がつくられて来た。それなのに、急激に物が豊かになったでしょう。そうすると、これ程物が豊かになった時に、宗教、倫理、教育とかがどうなるかというのは、日本人の初めて経験することじゃないでしょうか。
◆Q◆ こういう心の問題というのは、何処に落とし穴があったのでしょうか。
【河合】 日本人は、物と心を分けていないのです。日本の伝統では。例えば、もったいないっていうのは、物を大切にしているだけじゃなく、心を大切にしている訳です。ごはん一粒でも大切ですよ、という言い方で心のことを教える。それから日本の伝統的な、それこそ作法なんか考えたら分かると思いますが、型から整えていったりしますよね。型が整えば心はついて来るっていう、これは日本の考え方なんです。
【白州】 そうですね。物と心が一体でしたね。
【河合】 戦後なんか物が全然無かったから、物があればもっと心の方も上手く行くと思った。ところが、我々が手本にしている欧米の方は物と心を、かっちり分けている。分けたから、自然科学も発達し、technology も出て来る。その物と心を完全に分けて、物の世界をどんどん豊かにして行くことを日本は取り入れた訳ですが、日本
の伝統が合わない訳ですよ。この難しさがね、あらゆる所に出ていると思うんです。〔中略〕

【反抗の武器ない】~【家族のことちゃんと】
◆Q◆ 「今どきの若者」ではありませんが、若い人達はどうですか。
【河合】 うーん。今の若者は特に悪いとは、あんまり思いませんけどね。〔中略〕ただ、今の若者達が難しいのは、大人に反抗していく武器が無いんです。僕等の若い頃には、例えばマルクス( Marx )主義とか合理精神で、バッと大人を攻撃出来た。この頃は、大人が皆もう合理的・科学的になっているし、それからマルクス主義は
どうも失敗みたいやったしね。で、唯一あるのがオカルト( occult )位なものです。逆になって来る訳ね。大人は理屈言うとるけど、occult で面白いことあるぞ、なんて。〔中略〕
◆Q◆ 本来、家族でやることを学校が背負い込んでて、上手く行かない。家庭が大事だってことは分かるんですが、その家庭もかなり傷んでいる。〔中略〕どういう点が問題なんでしょうか。
【河合】 それはね、今迄の日本の家は、家庭というより「家」だった訳ですよね。で、急に核家族になった訳です。しかし、核家族になったら、どうしたらいいか知らん訳ですよ。〔中略〕
◆Q◆ 最後に、今後我々日本人が21世紀に向けて、多少なりとも、いい精神状態になる為には、どういうことを一番心掛けるべきでしょうか。
【白州】 私は、その日その日をちゃんと生きて行くこと。やっぱり80幾つになったら、もう生きててもしょうがない、早く死にたいと思ったですよ、一度は。私の書いた本、皆さん親切に読んで下さったりするとね、やっぱり生きている間は自分を大事にしなくちゃと思います。
【河合】 本当に同感です。やっぱり自分のことからちゃんとする、自分の家族のこと、ちゃんとする。僕は今、好きで日本の古典を読んでるんですけど、それから仏教とか、やっぱり凄い、とこの頃想い始めたんですね。つまり昔のことであり乍ら将来に向かっての光は十分ある様に思います。
 だからこれから頑張って、それをもうちょっと勉強しようと思ってますね。それは、何も物好きの勉強じゃなくて、今生きていることに直接関係することとして意味があると思っています。(了)


■今日、最後の話題は、『柴五郎〔その1〕』についてである。
 ここに丁度一ヵ月前に入手した『歴史街道』(2010年05月号)がある。その巻頭を飾る「総力特集」に『柴五郎と北京籠城~「武士道」を世界に示した男』が全67頁に亘り載っていた。通読した小生「ここにもう一つの『坂の上の雲』があったのだ」と感動。柴五郎という人物に強い関心を持ち、早速、村上兵衛著『守城の人~明治人 柴五郎大将の生涯』、石光真人著『ある明治人の記録~会津人柴五郎の遺書』、星亮一著『会津武士道~「ならぬことはならぬ」の教え』をざっと通読して見た。
[401]柴五郎関連の書籍
401

––––––––––––––––––––––––[402]柴五郎
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 謂れ無き朝敵の汚名を着せられ、戊辰戦争では祖母・母・二人の姉と妹を自刃で失い、その後実質流刑に近い下北半島の斗南藩での極貧生活、そして給仕・下僕を経験し乍らも、会津藩士の痛みを乗り越え、情報将校の道を歩んだ柴五郎。60余日の北京籠城戦を指揮して守り抜き、その功績が事実上『日英同盟』として結実するという、正に近代日本の命運を切り開いた。彼は、朝敵とされた会津藩士出身であり乍ら陸軍大将まで上り詰めた明治のサムライである。

 小生、この柴五郎という人物の生き方に、現代日本社会の行きすぎた自由主義・拝金思想により失いかけている「人として品格のある生き方」を見出すことが出来た。
 そこで、今回から3回に分けて『柴五郎』についてご紹介させて頂きます。

 第1回:『柴五郎』の人格形成の backbone となっている【会津武士道】について
 第2回:戊辰戦争に破れ辛酸を舐め乍ら成長していく少年時代の『柴五郎』
 最終回:中国北清事変下、北京籠城戦での『柴中佐』を中心にして、その後・・

【第1回 会津武士道】
 「武士道」を世界に示した男、柴五郎という人物の人格を作り上げた backbone には、厳格な「会津武士道」の教えがある。
 それでは「会津武士道」とはどう言った教えであろうか。

 会津藩には、享和3(1803)年造営の藩校「日新館」があり、会津藩の子弟は10歳になると入学する。鶴ヶ城の西側に位置し生徒数は千人に及んだ。
 授業は朝8時から、教師二人が付き、中国古典の素読の練習から始まる。教科書は孝経、四書、小学、詩経、書経等。
 会津藩の子供は6歳から勉強を始める。午前中は近所の寺子屋で論語や大学の素読を習い、一旦家に帰り、午後一箇所に集まり、組の仲間と遊ぶのである。仲間は十人一組を意味する「什」と呼ばれる。全員集合すると、揃って八つの格言を唱和した。「什の掟」である。いうまでもなく、会津精神の基本である。

【什の掟】
一 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
二 年長者にはお辞儀をしなけれはばなりませぬ
三 虚言を言うことはなりませぬ
四 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
五 弱い者をいぢめてはなりませぬ
六 戸外で物を食べてはなりませぬ
七 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
● ならぬことはならぬものです。

 そして、日新館の生徒達は、二つの校則、
〔1〕家訓(かきん)15ヶ条
〔2〕六行(りっこう)
            及び
〔3〕日新館心得
            が定められていた。

〔1〕家訓15ヶ条
 これは、3代将軍徳川家光の異母弟藩祖保科正之(1611.06.17日-1673.02.04)が定めた藩の憲法で、会津藩は幕府と一心同体であると、基本理念に謳った。
 (因みに、会津藩は「親藩」。3代藩主正容の時代から松平の姓と葵の紋(会津葵)を使用。御三家に継ぐ家格)
 15ヶ条文と概略は以下の通り。

[01] 大君の義、一心大切に忠勤存ずべく、列国の例をもって自ら処するべからず。若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず
   〔【意】=会津藩は親藩である。幕府に対する忠節は他藩と同じであってはならない。幕府に不忠な心を持つ子孫は我が子孫ではない。従ってはならない〕
[02]武備は怠るべからず、士を選ぶに本(もと)とすべし。上下の分を乱すべからず
[03]兄を敬い弟を愛すべし
[04]婦人女子の言、一切聞くべからず
   〔【小生注】※=これは保科正之が側室に係る毒殺事件に対応したもの。特殊事情と考えた方が良い〕
[05]主を重んじ法を畏るべし
[06]家中風儀〔※=行儀作法〕を励むべし
[07]賄を行い媚を求むべからず〔※=質素倹約の励行〕
[08]面々依怙贔屓(えこひいき)すべからず
[09]士を選ぶに便辟便侫(べんぺきべんねい(※=心が偏り、口先が上手い))の者を取るべからず
[10]賞罰は家老の外これに参知すべからず。若し位を出ずる者あらば、これを厳格にすべし
[11]近侍の者をして人の善悪を告げしむべからず
[12]政事は利害を以て道理を枉(ま)げるべからず。詮議は私意を鋏み人言を拒ぐべからず。思う所を蔵せず、以てこれを争うべし。甚だ相争うといえども、我意をここに介すべからず
[13]法を犯す者宥(ゆる)すべからず
[14]社倉は民の為にこれを置く。永利の為のものなり。歳餓、則発出して、これを済(すく)うべし。これを他用すべからず
[15]若しその志を失い、遊楽を好み、驕奢を致し、士民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや、必ず上表蟄居すべし

〔2〕六行〔※=六つの行い、行儀作法のこと〕
[01]善く父母に孝なる者
[02]善く兄に事へ善く弟を愛し、長を敬し幼を恵む者
[03]善く家内及び親族に和睦なる者
[04]善く外親に至るまでを親み、本を忘れざる者
[05]友に信ありて人に任せられ、其のことを担当して久きに耐ふる者
[06]親族朋友に災厄疾病貧窮等あれば、厚く之を救恤(きゅうじゅつ)すること、己の憂に逢ふが如くする者
※六行のほか、六科、八則も定められていた(説明省略)。

〔3〕日新館の心得 〔低学年用〕
[01]毎朝早く起きて手を洗い、口をすすぎ、髪を整え、衣服を正して父母に挨拶し年齢に応じて家の掃除をしなさい。
[02]父母や目上の者には朝晩、食事の給仕をしなさい。父母と一緒に食事をする時には父母が箸を取ってから食事をしなさい。早く食事をする時は、その理由を告げなさい。
[03]父母や目上の者の出入りには必ず送迎しなさい。
[04]家を出るときは、父母に行き先を告げ、帰ったときも報告しなさい。
[05]父母や目上の人の前では立ちながら物を言ったり、立ちながら物を聞いてはならない。寒くても手を懐に入れず、暑くても扇を使ってはならない。肌を見せたり、衣のすそを上げたりしてはならない。
[06]父母や目上の言いつけは謹んで承り、呼ばれたときは、速やかに答えて走って行きなさい。
[07]父母から重ね着を命ぜられたときは、寒く感じなくてもその命に従いなさい。新しい衣服を賜ったときは好みでなくても謹んで頂きなさい。
[08]父母がいつも座る畳に座ってはならない。道の真ん中は身分の高い尊者(そんじゃ)が通る道なので片側を歩きなさい。
[09]身分の高い人に出会った時には道の傍らに控えて礼をしなさい。
[10]人を謗り、人を笑い、あるいは戯れに高いところに登ったり深いところへ行ったりしてはならない。
[11]学習する際は顔を正し、自分はへりくだり相手を敬ってその業を受けなさい。
[12]人に逢う時は不敬不遜な態度をとってはならない。どんなに親密に交わっていても言葉を崩したり野卑な言葉を使ってはならない。

【小生comment】
 藩祖保科正之が定めた『家訓15ヶ条』の第12条にある『社倉』は、後世、田原藩家老、渡辺崋山が飢饉に備えて設置した穀物収納庫『報民倉』のmodel と言われている。
 会津藩士は、若干6歳の時から「什の掟」の唱和や四書等の中国古典の素読を通じて「仁義礼智信」を初めとする倫理観を骨の髄まで叩き込み育った。高潔な人格を持った青年が多く輩出された素地がここにある、と思われる。
 柴五郎も、こうした土壌で確り育ったのである。

 以下、次号をお楽しみに。ではまた・・(了)

2010年5月 8日 (土)

【時習26回3-7の会 0289】~「金子君が中国へ単身赴任!」「偶然見つけた『1991年正月開催の時習26回同窓会での【2637の会】20名の集合写真』」「04月08日:文化勲章受章者~近代日本美術の精華〔その5〔最終回〕〕」「中西輝政『日本人として知っておきたい近代史〔明治篇〕〔その2〕』」「渋沢栄一『論語と算盤』より」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0289】号をお送りします。今日も内容が盛り沢山です。気長に読んて下さい。

■まず最初の話題は、我等【2637の会】members の話題から。
 金子T久君から、先週葉書が届き、「仕事で5月初めに中国へ赴任する」旨の連絡がありました。
 小生、彼の中国での mail address を教えて貰おうと、5月1日の夜、彼に架電して聴いて見ました。
 そうしました処、金子君は「5月4日に離日。5日から現地勤務。場所は中国江蘇省昆山市で上海から北西約50kmの所にある。単身赴任だ」ということです。
 五十路半ばでの単身赴任、大変だと思います。
 「お~い!中山ク~ン!
 海外単身組の仲間が増えたよ~っ!
 金子君に海外単身者の助言してくれますか~っ!?」。(^^;)
 中国の現地についたら、小生宛に mail をくれることを約束してくれました。
 金子君! 引き続き【2637の会】を宜しく! 呉々も身体に壊さない様にほどほどに頑張って下さい。

■さて続いての話題です。小生、このGWは「晴草除雨読」で、家の中の整理の一環で、亡母の遺品を整理していた時、偶然昔の小生の写真が何枚か出て来たのです。
 その中の一枚が添付写真「[01]時習26回同窓会【2637の会】の20名1991.01.02」です。今から19年4カ月余り前、35歳前後(当時)の写真です。
012626372019910102

 20名の級友と級友の奥様2名、お子さん2名での集合写真です。
 小生もすっかり忘れていた記念写真なので、20名のうち19名は直ぐ分ったのですが、一人だけ自信がないのです。中村H章君写ってますか?
 過去4年間の【2637の会】《クラス会》参加者は14名いらっしゃいました。
 あと6名の方々、今年8月の《クラス会》には是非参加して下さいネ。

■続いての話題は、「文化勲章受章者~近代日本美術の精華〔その5〔最終回〕〕」【洋画】10作品と【版画】1作品です。
 この作品展の紹介も今日が最終回。実はこの展覧会の当日、会場の松坂屋美術館に入って度肝を抜かれたのです。
 作品の1番と2番が[21]藤島武ニと[22]岡田三郎助の、いずれも裸婦像であったのです。
 文化勲章者は、昭和12(1937)年創設。その第1回受賞者は【日本画】竹内栖風と横山大観、【洋画】藤島武ニと岡田三郎助の4人。
 その後も毎年あった訳ではなく、第2回(昭和15(1940)年)【日本画】川合玉堂、第3回(昭和18(1943)年)【洋画】和田英作。
 その後【日本画】は第6回(昭和23(1948)年)安田靱彦(ゆきひこ)と上村松園、【洋画】に至っては第10回(昭和27(1952)年)梅原龍三郎と安井曾太郎までいない。

 【洋画】10作品と【版画】1作品の作者と作品名等は以下と通り。名画の醍醐味の一端でもご覧頂ければと思います。
〔尚、添付写真枚数が多いので画素数を従来の半分程度に落としてあります〔為念〕〕

[21] 藤島武ニ『桃花裸婦』1902年 / 文化勲章受章年:昭和12(1937)年
211902

––––––––––––––––––––––––[22] 岡田三郎助『水辺の裸婦』1935年 / 同:同12(1937)年
221935

[23] 和田英作『富士(吉田より)』1933年 / 同:同18(1943)年
231933

––––––––––––––––––––––––[24] 安井曾太郎『桃』1950年 / 同:同27(1952)年
241950

[25] 梅原龍三郎『裸婦』1936年 / 同:同27(1952)年
251936

––––––––––––––––––––––––[26] 林武『ノートルダム(部分)』1960年 / 同:同42(1967)年
26a1960

[27] 岡鹿之助『山麓』1957年 / 同:同47(1972)年
271957

––––––––––––––––––––––––[28] 中川一政『マジョリカ壺の向日葵』1968年 / 同:同50(1975)年
281968

[29] 小磯良平『ギターを弾く男』1974年 / 同:同58(1983)年
291974

––––––––––––––––––––––––[30] 荻須高徳『ヴェネツィア、大運河』1980年頃 / 同:同61(1986)年
301980

[31] 棟方志功『華狩頌』1954年 / 同:同45(1970)年
311954


■さて続いては、「中西輝政『日本人として知っておきたい近代史〔明治篇〕〔その2〕』」から『明治の三太郎と乃木希典』をご紹介します。
 ただ、『明治の三太郎〔桂太郎(1848.01.04-1913.10.10)・児玉源太郎(1852.04.14-1906.07.23)・小村寿太郎(1855.10.26-1911.11.26)〕と乃木希典(1849.12.25-1912.09.13)』をご紹介すると、volume over になっていまいますので、前者については3人を纏めてごく大まかにご説明します。

【桂太郎】
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 中西氏の説明により、小生、桂太郎は長州藩士で元老山県有朋の腰巾着・ニコポン(=にこにこして相手の肩をぽんと叩く処から、親しみを示して相手を懐柔する態度やそうする人)と揶揄されていたが見方が変わった。「予が生命は政治なり」とは桂太郎が残した言葉である。氏曰く
 (政治に於いて)大切なのは〔中略〕政治を動かす為の妥協を目指す必死の試みに打って出て、常に話し合いによってこの国を一つに束ね様とした人物こそ、桂太郎だった〔後略〕

【児玉源太郎】
33

 一方、陸相のみならず、文相、内相、台湾総督を務め、明治37年に始まった日露戦争では満州軍総参謀長としてほとんどの陸戦を指揮し、「奇跡の勝利」の立役者となった児玉源太郎は、多くの人から「桂(太郎)のあとの首相」と目されていました。それが戦後、あっけなく急逝したのは、日露戦争の作戦指導で心身共に、文字通り消耗し尽くした結果と言われます。〔中略〕(17歳で参加した戊辰戦争以降、歴戦の内戦で鬼謀(=常人では思い及ばぬ優れた謀りごと)と果敢の逸話を残した児玉は、明治19(1886)年(34歳))、ドイツ軍制導入により陸軍の近代化を図る為設置された「臨時陸軍制度審査委員会」が発足すると、委員長に任命されました。〔中略〕この頃から桂太郎(陸軍次官(当時))と親交を深めて行きました。その桂から、翌明治20年、陸軍大学校の初代校長を任されます。〔その時代に、ドイツから同国軍参謀総長モルトケの愛弟子メッケルが招聘され、外征向きの師団制に改めた~3年の日本滞在後離日するにあたり〕メッケルはわざわざ児島を評して、「将来、陸軍の児島か、児玉の陸軍か、と呼ばれる様になろう」と語ったと言われます。〔中略〕
 (児玉が政治家としても稀有な力を発揮した事例は台湾総督時代の実績が上げられる~)明治31(1898)年、児玉が第4代台湾総督に就任。〔中略〕(児玉は、民政長官に後藤新平を指名。そして)技師として新渡戸稲造の献策を容れて開始したサトウキビ栽培(製糖事業)があります。〔中略〕今も台湾が世界で一、二を争う親日国家であるのは、この(児玉・後藤の)二人が、彼の地の近代化に尽くした功績を抜きにしては語れません。〔後略〕

【小村寿太郎】
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 (次に小村寿太郎についてである。安政2(1855)年日向国飫肥(おび)藩5万石の徒士の長男として生まれた小村は、祖母熊子によって厳しく躾け育てられた。その小村が明治3年(15歳)、東京の大学南校(東京大学の前身)に入学、同8(1875)年(20歳)、第1回文部省留学生に選抜され、米国 Harvard 大学法学部に留学する)
 明治11(1878)年、Harvard 大学を最優秀で卒業、〔中略〕明治13年に帰国する迄、小村は New York で約3年間弁護士として働いてい(当代きっての米国通になり)ます。〔中略〕
 (日清戦争時代、民政官として山県有朋に従い、その占領政策に従事。その大きな胆力と確かな所作は山県や桂太郎からの信頼を得た。)
 ロシアの満州進出は続き、明治33(1900)年、「北清事変」に乗じてロシアは十数万の大軍を満州に進攻させ、事変の終結後も軍隊を留めて、事実上、満州全土を軍事占領してしまったのです。ロシアの次なる狙いが朝鮮半島の支配にあることは、当時の極東情勢からいって明白であり、ここに日本の安全は、重大な危機に晒されることになりました。
 明治34(1901)年6月、第1次桂内閣が発足したのは、まさにこうした時期でした。当初、この内閣は、元老が一人も入っていないので、国民から「二流内閣」等と軽んぜられましたが、外相に小村寿太郎(9月就任)、内相に児玉源太郎、海相に山本権兵衛等、閣僚に次代を担う ace 格を揃え、この後4年半も続く長期政権となりました。そして、この内閣の下で、日本は日英同盟締結から日露戦争の勝利に至る、あの「坂の上の雲」の時代、つまり明治日本の頂点を極めることになったのです。〔後略〕

【乃木希典】
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 (最後にご紹介するのが乃木希典である)。嘉永2年、長州の支藩・長府藩士乃木希次の三男として、麻布日ヶ窪の長府藩邸(現・六本木ヒルズ)で生まれました。(15歳で学問を目指した乃木は家を出奔し、縁続きでもあった長州・萩の玉木文之進宅へ身を寄せる。玉木は吉田松陰の叔父で、松下村塾はこの玉木が天保13(1842)年開いたもの。1864年から4年間玉木に師事し、翌1865年からは藩校「明倫館」にも通った。)
 玉木は乃木に対して松陰直筆の「士規七則」を与え、松陰の精神を伝授しようとしました。〔中略〕(こうした武人・軍人とした精神的基礎を身に付けた乃木は、17歳で幕府の第二次長州征伐に高杉晋作の下で初陣に参戦、小倉城一番乗りを果たした後、西南戦争・日清・日露戦争へと向かって行った)
 (日露戦争では、)乃木と第三軍司令部は旅順攻略にあたり専ら「肉弾」に頼り、「火力」を軽視したかの印象がありますが、これも事実ではありません。現実には、第三軍の参謀が砲弾の「補給」をいくら要求しても、児玉から「旅順は肉弾でやってくれ」と繰り返し断られる始末だったのです。そこには、そもそも半工業国の儘で日露戦争という近代戦を戦わざるを得なかった明治日本の、言わば「国としての宿命」が象徴されている様に思えます。
「情報」と「補給」の軽視 ~ 結局、乃木第三軍が置かれた苦衷の原因を求めるとすれば、この二つに尽きます。〔中略〕
 実際には、「如何なる大敵が来ても3年は持ちこたえられる」とロシア軍が豪語した旅順要塞を、第三軍は大変な砲弾不足に悩まされ乍ら、常時五万人前後の寡兵で落としたからこそ、当時の世界は「乃木とその将兵が奇跡を起こした」と震撼したのです。そして膨大な犠牲を出し乍らも、第三軍の士気が少しも衰えなかったのは、ひとえに乃木の「統率力」の賜物でありました。旅順攻囲戦を結論付ければ、その勝利は、むしろ「乃木だからこそ」」成し遂げることが出来た、とさえ言えると思います。〔後略〕

【小生comment】
「坂の上の雲」の愛読者の小生も、乃木希典 fan なるが故に、司馬史観についていつもこの「乃木愚将」論が頭を離れなかったのであるが、中西氏の乃木論を呼んで「溜飲を下ろす」ことが出来た。明治の三太郎と乃木希典の話は、もっと沢山面白いことが書いてあるのだが、volume が嵩むのでこの辺りで止めにします。ご興味ある方はこの本(PHP新書)をお読み下さい。「元気が出る」本だと思います。

【渋沢栄一〔守屋淳訳〕現代語訳『論語と算盤』】
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■さて、今日最後の話題は、「渋沢栄一〔守屋淳訳〕現代語訳『論語と算盤』(添付写真[41]ご参照)より『現代教育の得たもの、失ったもの』」です。この渋沢栄一氏の作品は、氏の講演の口述筆記90項目を一冊の本にして、大正5(1916)年に刊行されたものである。ただご覧頂けると納得頂けるが、とても100年近くも前の話だとは思えない。現代人の我々が読んでも全く違和感がないから不思議です。ご覧下さい。

【現代教育の得たもの、失ったもの】
 昔(【小生注】幕末維新の頃)の青年と今(【小生注】大正初めの頃)の青年とは、昔の社会と今の社会が異なっている様に、異なっている。私が24~5歳の頃~丁度明治維新前の青年と、現代の青年とでは、その境遇や教育が全く違っているので、どちらが劣っているといったことは一口には言えないと思うのだ。ところが一部の人達は、
「昔の青年は意気もあり、抱負もあって、今の青年より遥かに立派だった。今の青年は軽薄で元気がない」
 等と言っている。私は、一概にそうとばかりは言えないのではないかと考えている。何故かと言えば、昔の数少ない偉い青年と、今の一般の青年と比べてあれこれ言うのは間違っているからだ。今の青年の中にも立派な青年もいれば、昔の青年の中にも立派でない者もいた。
 明治維新前の「士農工商」の階級は極めて厳格なものだった。まず武士の中にも、「上士」と「下士」という階級があった。更に百姓や町人の間でも、代々その土地の資産家で村の纏め役だった様な家柄と、そうでない家柄の者とでは、自然とその気風や教育に異なる点があった。この様な状況だったので、昔の青年と言っても、武士や上流の百姓町人と一般の百姓町人とでは教育も違っていたのだ。
 昔の武士や上流の百姓町人は、多くの場合その青春時代に、中国古典の教育を受けたものだった。初めは『小学』〔中略〕、更に進むと『論語』『大学』『孟子』等を勉強した。また一方で身体を鍛えて、武士的な精神を奮い立たせたものである。〔中略〕一般の百姓町人は〔中略〕解り易い『実語教※1』とか『庭訓往来※2』〔中略〕九九等を学んだに過ぎなかった。

 ※1:経書中の格言を抄録して解り易く朗読出来る様にした子供向けの教訓書。室町末期の作という。
 ※2:室町前期の往来物。往復書簡の形式を採り、手紙文の規範とした。

 こうした違いがあった為、level の高い中国古典の教育を受けた武士は、理想も高く見識も持っていた。一方で百姓や町人は、解り易いお稽古事を身に付けたに過ぎず、無学な者がだいたいに於いて多かったのである。
 ところが今は階級のない平等な社会で、地位や収入等に関係なく、皆教育を受けている。つまり岩崎家や三井家の息子も、狭苦しい長屋住まいの息子も、皆同じ教育を受けるという状況になったのだ。だから、その多くの青年の中に、品性が下劣で、学問の出来ない青年が混じるのは、恐らく止むを得ないのだろう。だからこそ、今の一般の青年と昔の少数の武士階級の青年を比べて、あれこれ非難するのは、当を得ないことなのである。
 今でも、高等教育を受けた青年の中には、昔の青年と比較して全く遜色ない者が沢山いる。昔は少数でも良いから、偉い者を出すと言う天才教育であった。今は多数の者を平均して教え導いて行くという常識的教育になっている。〔中略〕
 『論語』にこう言う言葉がある。
「親を大切にして目上を敬う人間が、上の者に逆らうことはめったにない。上の者に逆らわない人間が組織の秩序を乱すことはあり得ない」
「君主に仕えて、その身をよく捧げる」
 つまり、親や目上をまず大切にすることを教えたのだ。更に、
「仁」― 物事を健やかに育む
「義」― みんなの為を考える
「礼」― 礼儀を見に付ける
「智」― 物事の内実を見通す
「信」― 信頼される
という五つの道徳を押し広げて行くことで、同情する心や恥の気持ちを人に抱かせ、礼儀やケジメ、勤勉で質素な生活を尊重する様教えたものだった。だから、昔の青年は自然と自分を磨いて行ったし、常に天下国家を心配していた。また、飾り気がなく真面目で恥を知り、信用や正義を重んじるという気風が盛んだった。
 これに対して、今の教育は知識を見に付けることを重視した結果、既に小学校の時代から多くの学科を学び、更に中学や大学に進んで益々沢山の知識を積む様になった。ところが精神を磨くことを等閑(なおざり)にして、心の学問に力を尽くさないから、品性の面で青年達に問題が出る様になってしまった。
 そもそも現代の青年は、学問を修める目的を間違っている。『論語』にも、
「昔の人間は、自分を向上させる為に学問をした。今の人間は、名前を売る為に学問をする」
 という嘆きが収録されている。これはその儘今の時代に当て嵌まるものだ。今の青年は、ただ学問の為の学問をしている。初めから「これだ」という目的がなく、何となく学問をした結果、実際に社会に出てから、
「自分は何の為に学問をして来たのだろう」
 という様な疑問に襲われる青年が少なくない。
「学問をすれば誰でも皆偉い人間になれる」
 という一首の迷信の為に、自分の境遇や生活の状態を顧みず、分不相応の学問をしてしまう。その結果、後悔する様なことになるのだ。
 だからこそ、ごく一般的な青年であれば、小学校を卒業したら自分の経済力に応じて、夫々の専門教育に飛び込み、実際に役立つ技術を習得すべきなのだ。また、高等教育を受ける者でも、中学時代に、
「将来は、どの様な専門学科を修めるべきなのだろう」
 という確かな目的を決めておくことが必要になって来る。
 底の浅い虚栄心の為に、学問を修める方法を間違ってしまうと、その青年自身の身の振り方を誤ってしまうだけでなく、国家の活力衰退を招くもとになってしまうのである。(了)

【小生comment】
 渋沢翁の言葉は、21世紀に生きる我々にも現実問題として少なからず耳が痛くなるほど直截的に鋭く響いて来る。
 皆さんはどの様に感じられましたでしょうか?

【後記】
■今日のお別れは、小生の余談を一つご紹介し乍らお別れしたいと思います。
 このGWは、家の中の整理もしていました。その中で、亡母の遺品を整理する機会があり、その最中のことでした。今日最初にご案内した「時習26回同窓会【2637の会】20名1991.01.02」の写真をはじめ小生の大学卒業以降の写真が20枚近くその遺品箱の中にあったのです。20~30年ぶりに見るものばかりでした。
 何故、亡母の遺品箱にあったか、今となっては全く解らないのですが、その中に、大学卒業間もない頃、大学の弓道部OB射会の時の写真が数枚出て来ました。本当に懐かしく思い、勝手乍ら【2637の会】members の皆さんにお披露目させて頂きます。大学時代の弓道部の流派は、日置(へき)流尾州竹林派。京都・三十三間堂の通し矢で、尾張藩と紀州藩が競い合った、尾張藩の流派です。小生が保有する段位は参段。まだその実力があった(と思われる)時の勇姿(笑)(添付写真[51(一番(向かって左)手前が小生)][52]ご参照)です。
 最近、久しぶりですが、また弓が牽きたくなって来ました。(笑)

[51]
51ob1980a

––––––––––––––––––––––––[52]
52ob1980b


 話は全く変わりますが、golf の石川遼君がまた大記録を樹立してくれました。1 round score 世界新記録 58 です。小生なんか half で58なんかいつものことですけど。(笑)
 あ、それから小生、今日は今から車で旧長府藩邸(乃木希典の生誕地)跡地に建設された六本木ヒルズ52階にある「森 arts center gallery」に行って来ます。その模様は来週ご報告させて頂きます。
 では、また・・。(了)

2010年5月 1日 (土)

【時習26回3-7の会 0288】~「中西輝政『日本人として知っておきたい近代史〔明治編〕』」 「斎藤茂太『なぜか人から「大切にされる人」の共通点』から」「渡辺淳一『鈍感力』から」「04月08日:『文化勲章受章― 近代日本美術の精華』から〔その4〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0288】号をお送りします。
 暦は、Golden Week に突入して、今日から五月です。小生は、最近は混雑は避けてGWは専ら晴耕雨読ならぬ、晴草除雨読です。(笑)
 皆さんは、このGWをどの様にお過ごしでしょうか?

01

■さて今日は早速、最近入手した3冊の本からご紹介させて頂きます。まず最初は、「中西輝政『日本人として知っておきたい近代史〔明治編〕』」です。
 この本は、大変読みやすくなかなかいい本だと思います。今日はその中から「最終章/日本近代史の本質とは何か ― おわりにかえて〔抜粋〕」をお贈りします。因みに、この本で取り上げている人物は、吉田松陰、伊藤博文、桂太郎、児玉源太郎、小村寿太郎です。彼等については後日折りを見てご紹介させて頂きたいと思います。それではどうぞ・・

【日本人が戦略性を発揮する時】
〔前略〕明治の日本を語るのに、なぜ、いきなり「楠木正成」が出て来るのでしょうか。その答えの一つとして、今からほんの70年程前、即ち昭和13(1938)年に当時の東京帝国大学の学生を対象に行われた「私の崇拝する人物」についての enquete 結果を見てみましょう。その1位から9位迄を順番通り紹介すると、西郷隆盛、吉田松陰、Goethe、乃木希典、楠木正成、野口英世、寺田寅彦、Louis Pasteur、Ludwig van Beethovenの順だったのです。また平成の日本人にとってはすっかり、馴染みの薄くなった乃木希典は、実はあの万博の開かれていた昭和45(1970)年頃になっても、NHKの調査「私の尊敬する人物」で、堂々4位に入る人気を保っていたのです(佐々木英昭『乃木希典』2005年)。
 これは〔中略〕明治3年日本に招かれ4年間大学南校(東京大学の前身)で教えた米国人、William E. Griffis が書き残している処でも、〔中略〕日本の歴史上、一番偉い人は誰か、と言う質問をすると、答えは決まって「楠木正成」だったということです(Griffis『ミカド ~ 日本の内なる力』)。では、なぜ今日、日本人の歴史 image の中で、楠木正成の占める位置が、こんなに小さくなってしまったのでしょうか。
 その原因は、〔中略〕GHQが、日本の学校教育で歴史、地理、修身(道徳)の三教科を教えることを禁止する命令、所謂「三教科停止命令なるものを発しました。〔中略〕その中で〔中略〕とりわけ楠木正成を扱うことを強く禁じたのです。〔中略〕
 それでは、乃木希典が1970年代迄「尊敬する人物」として高い人気を誇ったのに、何故その後、凋落して行ったのでしょうか。一つには、本書の中でも取り上げている様に、1970年代以降、一世を風靡した司馬遼太郎の『坂の上の雲』や『殉死』の影響かもしれません。しかし、もう一つ、より根本的には、戦後日本の高度成長という出来事が、前例のない程強い物質主義の風潮を、日本人の心の中に流し込んで行ったことが大きかったと言えます。「精神主義の本家」とすら言われた乃木希典を評価するには最も遠い日本、となって行ったのです。
 しかし今日、この国はほとんど”唯一の誇り”にして来た「世界第2位の経済大国」と言う地位を失い、恐らく早い時期に、3位から、4位、5位そして6位と、次々と低下して行かざるを得ない流れの中に置かれています。それ故に、いま日本人は「明治」と言う時代に、かつてない熱い視線と関心を向ける様になっているのだと思います。
 我々が歴史を読む時、一番大切な着眼点は、「歴史を動かすもの」は、物質なのか、それとも人間の精神なのか、と言う問題意識だと私は思います。「モノか心か」は、我々人間と歴史を巡る最大の theme だからです。そして日本の近代史とくに「明治」を考える時、これこそ最も重要な視点ではないかと思うのです。私が本書を書いたのも、今このことを、多くの日本人に考えて貰いたいと思うからです。

 こうした考えを踏まえ、次に、本書の内容に即して、「明治日本」を一層深く捉える視点を、私なりに示してゆきたいと思います。
 これ迄明治の代表的な人物像を大きく3つの類型に分けて語ってきました。一つ目は、大久保利通や岩倉具視の様な、270年続いた「徳川の世」を終わらせ、天皇を中心とする新しい近代国民国家を一からつくり上げた人達です。[中略]
 二つ目は、彼(大久保や岩倉)等第2の「建国の父」達の偉業を受け継ぎ、明治国家の感性に貢献した伊藤博文や私が「明治の三太郎(桂太郎・児玉源太郎・小村寿太郎)」と呼ぶ人達です。〔中略〕
 三つ目は、〔中略〕吉田松陰や乃木希典に象徴される、日本人の「こころの英雄」達です。当然、西郷隆盛もここに入るでしょう。〔中略〕
 新生明治国家は、それ迄の封建社会と打って変わり、国民に職業を選ぶ自由を保障しました。そこで秋山(真之)が選んだのが、海軍兵学校に入り、軍人として身を立てることだったのです。伊予松山藩の下級藩士の家に生まれた秋山は、もし明治維新がなければ、封建社会の中で一生大きな仕事もなく終わったかもしれません。
 確かに、それは明治の日本人に大いなる迫力を与えはしました。しかし、それだけでは、単に「上昇志向」の強い egoist を大勢生み出すだけに終わったことでしょう。そこに、周囲の人々に向ける「思いやり」や「真心」は育たなかった筈です。〔中略〕明治と言う時代を支えた根本の柱であり、今日の日本人が、あの時代をとりわけ「眩しく」感じるのも、そこ(明治の日本人が持っていた「思いやり」と「真心」)にあるのです。
 先程の秋山真之の例で言えば、彼が、あれ程清々しく明治国家の為に一生を捧げ得たのは、自然な「心の働き」によるものだったのです。そしてそれ故に、秋山は、「智謀湧くが如し」と聯合艦隊司令長官東郷平八郎も評した程の、「戦略の天才」となり得た訳です。
 この言葉は実に示唆的です。何故なら古来、日本人が、まさに「湧くが如く」、最も戦略性を発揮出来るのは、この己の「心」が澄み切った時、自然に生まれる状態、つまり「誠」を尽くしている時だからです。〔中略〕
【第一次世界大戦の敗戦国は日本】
〔前略〕私が思いだすのが、第二次世界大戦の直後、英首相 Winston Churchill が言った次の言葉です。その中で彼は、日本人には気の毒なことをした、大した罪もないのに、日本と言う国を滅茶苦茶にしてしまった、と言う意味のことを言った後、「これだけの大敗戦を経験したのだから、日本が元の真艫な国に戻るには、今後百年はかかるだろう」と喝破しています。〔中略〕
 現在の日本は、戦後唯一の誇りの源泉であった経済力を喪失し、今や精神的な拠り所を何一つ見出せないでいます。その意味では、日本人が真の復活を遂げるのは、Churchill の言う様に、もう少し時間がかかるのかもしれません。
「戦後百年」として、現在60余年が過ぎましたから、あと30数年。これを遠い先のことと思うか、歴史の一瞬の出来事と思うかは、その人の残された寿命によっても異なるでしょう。しかし、いずれにせよこの先、この国が本当に立ち直ることが出来るとするならば、それは日本人が「日本人の心」を取り戻した時でしかあり得ません。「制度改革」を繰り返せばこの国が良くなると言うのは幻想に過ぎないのです。
 そして我々が、その「心」の持ち主である人間に焦点を据えて歴史を学ぶ意義も、またそこにあるのです。(了)

【小生comment】
 何故「明治時代の偉人達」が立派で大きく見えるのか?
 それは「滅私して国の為に」という気概を彼等が皆持っていたからだろう。では、それではどうして皆が持ち得たのか?
 これは、日本人の多くが、とくに志ある士分の子弟達が、君子(=立派な人物)は如何にあるべきかについて、四書五経を幼少時から素読と言う形で身体に染み込ませて育ったことが大きいのではないかと思われる。身体に染み込まれた倫理観念は、人間が人生の岐路に差し掛かった時の判断の礎となるものである。「明治の偉人達」は、四書五経の君子のあるべき姿を、自らの精神的支柱にしていたからこそ、乃木希典や東郷平八郎が、西洋の騎士道に勝るとも劣らない日本の武士道精神を世界中に矜持を以て示し称賛を浴び得たのである。
 余談だが、この本の主な登場人物10人の生没年を、生年順に並べ、今の我々(【2637の会】members)の年齢満54歳1カ月以上生きた人に○印、それ以下の人に●印を付して見た。現在の我々の年齢より若くして没している人が7人。ここにあげた10人中で最高齢の乃木希典でも62歳の生涯である。幕末から明治にかけての偉人は、太く短い生涯を送った人の何と多いことか。自刃した西郷と乃木、斬首の吉田、暗殺された大久保を除く6名は岩倉の胃癌をはじめ病死であるが、改めて衝撃を覚えた。

 ○岩倉具視(57歳8カ月1825.10.26-1883.07.20)
 ●西郷隆盛(49歳8カ月1828.01.23-1877.09.24)
 ●吉田松陰(29歳1カ月1830.09.20-1859.10.27)
 ●大久保利通(47歳7カ月1830.09.26-1878.05.14)
 ●木戸孝允(43歳9カ月1833.08.11-1877.05.26)
 ○乃木希典(62歳8カ月1849.12.25-1912.09.13)
 ●児玉源太郎(54歳3カ月1852.04.14-1906.07.23)
 ○小村寿太郎(56歳1カ月1855.10.26-1911.11.26)
 ●夏目漱石(49歳10カ月1867.02.09-1916.12.09)
 ●秋山真之(49歳9カ月1868.04.12-1918.02.04)

■次の作品は、「斎藤茂太『なぜか人から「大切にされる人」の共通点』から」です。では、どうぞ・・

 あなたは、今、何か夢を持っているだろうか。大それた夢でなくてもいい。
「これを実現できたらなぁ」
「こんなふうにしていけたらいいな」
 と楽しみにして活動しているとしたら、それは「いい人生だ」。
 夢は、人を生き生きとさせてくれるものだ。何の夢もなく、目標もなく、ただ毎日の生活を送っているだけでは、確実につまらなくなり、
「あぁ、何か面白いことがないかなぁ」
 という落ち込んだ気分になって来る。人間というのは、何かわくわくすることがないと、人生を上手くやって行けないのである。そのわくわくが毎日の活力だ。
 夢は energy 源。〔中略〕
 これが、あまりにも実現不可能な夢では、energy 源にならない。〔中略〕
 また、人に見せる為の夢も駄目だ。〔中略〕
「トルコの大金持ちになって、素敵な絨毯の上でお酒を飲んで、周りに美女を侍らせて・・」
 これは「夢を持つ」ではない。「夢を見る」が正しい。〔中略〕何もせずに「あぁ、こうなったらいいのに・・何で俺の毎日はこうなんだ」と、ぶうたれているのは駄目。
 手に届きそうな夢を持っていて、その実現に向かって何かしら時間と energy を使っている。毎日が楽しそうで、夢を描いてわくわくしている。
 こんな人だったら、周りの人も応援したくなる。一緒にその夢を追いかけたくなる。その人が夢を持って幸せそうなので、そのわくわくを分けて貰いたくなるのだ。周りの人迄巻き込んで、幸せな気分にする、そんな夢を持つ人は大切にされる。(了)

【小生comment】
 斎藤茂太氏の仰る通りだと思う。「『夢』は『見る』ものではなく、『持つ』ものなのだ!」。・・小生もかくあるべく、【2637の会】の万年幹事を務めています(笑)・・。
 まずは、「【2637の会】があと半世紀、楽しく充実したものとして存在せしめたい」。この『夢を持ち続けたい』。←本気のつもり!(笑)

■ご紹介する3冊目の本は、「渡辺淳一『鈍感力』から「其の九/結婚生活を維持するために」」です。

 よく、結婚の幸せを口にしたり、
 老後しみじみ「あなたと一緒でよかった」等と言いますが、
 それは長い長い忍耐を経て来た結果の、呟きなのです。
 そしてその忍耐の裏側には、素敵な鈍感力が二人を支え、
 守って来たことを、忘れるべきではありません。

【一緒に棲んだから】
 結婚というのは、言うまでもなく一組の男女が、「一時の熱情に駆り立てられて一緒になり、共に狭い部屋で棲むこと」を言うのです。
 この結婚迄の過程、所謂恋愛中は、目前の楽しさに心を奪われ、結婚生活の現実を想像することはまず不可能です。
 例え互いに多少の問題は感じても、まず結婚することしか頭になく、もしその後で問題が起きたら、互いに直して行けばいいと、簡単に考えます。
 ところが、この甘さが問題で、ここから色々な trouble が生じて来ます。
 その最大の理由は、狭い部屋に二人で棲むからです。
 そんなことを言っても、結婚は一緒に棲むことだろう、と反論されそうですが、それはその通り。確かに結婚は一緒に棲むことですが、だからこそ、お互いの欠点がよく見えて来るのです。
 これ迄、恋愛中や婚約時代には、別々の家に棲んでいたお陰で、お互いの欠点が見えずに、そして見ずに済ますことが出来ました。
 ところが、結婚して一緒になった途端、互いの欠点が一気に見えて来ます。
 これも近づき過ぎたからですが、その一つの例をこれから紹介します。

【歯磨きチューブ】
 〔【小生注】ここで渡辺氏は、『歯磨き tube 』で大喧嘩した夫婦の話をする。あらすじはこうだ。・・歯磨き tube を押して出来た指の凹みの痕を、毎日キチンと埋める為、減った分だけ後ろに巻くのが几帳面な夫の習慣だった。一方の妻はこういうことには無頓着な人。だから几帳面な夫は、妻が残していった指の痕を毎日補整していたのだが、ある時ついに堪忍袋の緒が切れて妻を叱ったのである。そう言った途端、今度は妻が「それでは、貴方の嫌な処」と一気に三倍言い返されて大喧嘩になったという訳である。〕

【どうでもよいこと】
 察する処、この夫婦には、tube の押し方以外に、色々と気の合わない処があったのだと思います。
 それはこの夫婦に限らず、一般の夫婦においても同様です。〔中略〕
 男女や夫婦の間では、こうした理屈ではない、感じ方と言うか感性の問題で合わなかったり、苛々することが無数に出て来ます。
 ここでいよいよ重要になって来るのが鈍感力です。〔中略〕
 無論、鈍感も過ぎては困りますが、程好く鈍感でありたいと願っている人は多いのです。〔後略〕

【小生comment】
 流石は、渡辺淳一氏。まさにその通りと実感した小生であった。(笑)
 「『夫婦関係』とは結構『微妙』な関係だ」。
 「そうか、自分が思っているのと同じ様に配偶者も色々と自分に対して感じている、思っていることがあるのだなぁ」。
 と、改めて思った次第。
 だから夫婦は、従前にご紹介させて頂いた通り、「いつも一人、時々二人がいい」のかもしれない。(笑)

■さて次の話題は、series でお伝えしている「04月08日:『文化勲章受章 ― 近代日本美術の精華』から〔その4〕」をご報告致します。
 今回は、【日本画】の最終回[第4回目]です。平山郁夫[平成10年受章]、秋野不矩[同11年受章]、加山又造[同15年受章]、福王寺法林[同16年受章]、大山忠作[同18年受章]の5人の作品です。
 それでは、ご高覧下さい。

[16] 平山郁夫『法隆寺』1991年
161991

–––––––––––––––––––––––––[17] 秋野不矩『テラコッタの寺院』1984年
171984

[18] 加山又造『雪の渓谷』1983年
181983

–––––––––––––––––––––––––[19] 福王寺法林『ヒマラヤの朝』2007年
192007

[20] 大山忠作『夜明けの刻』2007年
202007


■今日のお別れは、添付写真[51]Barbara Bonneyが歌うMozart & Mendelssohn 歌曲集から、Goethe の詩「すみれ」です。
51barbara_bonney_3

 添付写真のCDの歌曲集を聴き乍ら《会報》を書いています。彼女は1956年04月14日生まれなので我々より一歳年下。
 彼女が録音した1990年は34歳。写真にある彼女は丁度その頃の姿ですが、とても charming ですね。歌声も透き通る様に清純な魅力を備えています。
 彼女の歌う「すみれ」を聴くと、最近読み直した Goethe の若き時代の傑作「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers)」のウェルテルを思い起こします。ウェルテルが死を選ぶ日の朝、愛するロッテに贈った手紙は次の様に始まります・・

 「こうして眼をあけるのも、これが最後です。ああ、この眼は二度と再び陽の目を見ることもない。空には物悲しい霧がかかって太陽は見られません。〔中略〕最後の朝。ロッテ、ぼくにはこの、最後の朝という言葉の意味が少しもわからない。〔後略〕」

   Das Veilchen, KV476
   〔菫(すみれ)〕

Johann Wolfgang Goethe (1749-1832)
Komp.: Wien, 8.Juni 1785

Ein Veilchen auf der Wiese stand,
〔菫が一つ牧場に生えていた〕
Gebuckt in sich und unbekannt;
〔身をかがめ、人知れず。〕
Es war ein herzig's Veilchen.
〔それは愛らしい菫だった。〕
Da kam ein' junge Schaferin
〔そこに若い羊飼いの娘がやって来た、〕
Mit leichtem Schritt und munterm Sinn
〔足取りも軽く、気持ちも朗らかに、〕
Daher, daher,
〔こちらの方へ、こちらの方へと、〕
Die Wiese her, und sang.
〔牧場をこちらへと、そして歌った。〕

Ach! Denkt das Veilchen, war ich nur
〔ああ!と、菫は思う、もしも自分が〕
Die schonste Blume der Natur,
〔自然の中で一番綺麗な花だったら、〕
Ach nur ein kleines Weilchen,
〔ああ、ほんの暫しの間でも、〕
Bis mich das Liebchen abgepfluckt
〔愛らしい人が私を摘み取って、〕
Und an dem Busen mattgedruckt,
〔胸にそっと押し当ててくれるだろうに。〕
Ach nur, ach nur
〔ああ、ほんの、ああ、ほんの〕
Ein Viertelstundchen lang!
〔四半時の間でも!〕

Ach! Aber ach! Das Madchen kam
〔ああ! でも、ああ! 乙女はやって来て〕
Und nicht in acht das Veilchen nahm,
〔菫に注意もせずに、〕
Ertrat das arme Veilchen.
〔可哀相な菫を踏みつけてしまった。〕
Es sank und starb und freut' sich noch:
〔菫は倒れ伏し、死んだが、それでもまだ喜んでいた。〕
Und sterb' ich denn, so sterb' ich doch
〔私が死んでも、それは〕
Durch sie, durch sie
〔あの人のせいで、あの人のせいで、〕
Zu ihren Fussen doch!
〔あの人の足許で死ぬんだから!〕
Das arme Veilchen! Es war ein herzig's Veilchen!
〔可哀相な菫よ! それは愛らしい菫だった!〕

【小生comment】
 菫がウェルテルで、若い羊飼いの娘がロッテの様で・・。
「純粋」は美しいが、「純粋」過ぎてもいけませんね。だから「詩」や「小説」の raison d'etreがあるのでしょうが・・。

■更に【追伸】です。前回に続き今日のお別れも、小生がつくった恋の拙歌を一首ご紹介してお別れしたいと思います。
新緑が美しい五月を image して詠んだ一首です。

【序詞】
 「三春」も「季春[季(すえ)の春]」を迎へるに「行(く)春」から芭蕉の「行く春を近江の人と惜しみける」の句を想起す。
 更に「惜しみける」ひとを想いて詠める。

 行く春も君を想ひて幾夜過ぐ
              これぞ密かな恋の道かな  悟空

 気分だけは、まだ18歳の若人のつもりです。(笑)
 では、また・・。(了)

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