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2010年9月の4件の記事

2010年9月25日 (土)

【時習26回3-7の会 0309】~「09月18日:『滝川土曜講座〔最終回〕~「東三河の歴史的風土:『吉田藩7万石』を聴講して」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0309】号をお送りします。

 まずは、【2637の会】2010年《クラス会 Part2》開催のご案内関連のお話からお伝えしたいと思います。
 従前より、ご案内させて頂いています通り、今年08月14日の《クラス会》に参加出来なかった classmates の皆さんを core に、08月に参加下さった皆さんで、「今度の《クラス会 Part2》に出てもいいよ!」と賛同して下さる皆さんとの、所謂《ミニ・クラス会》の開催を、再来月の11月に開催を絞り込みつつあります。
 大変勝手ですが、今日の段階で、11月13日、20日、27日の3日〔いずれも土曜日〕に絞込みさせて頂きました。
 そして、大変嬉しいことですが、女性の方々から参加の内諾頂いております。
 開催場所は、いつもの「トライアゲイン」を予定し、開催時間は午後6時00分。
 会費は、カラオケ・ free drink 付きで、5,000円を予定しています。
 行事が何かと多い、行楽 season でもある11月の開催です。
 参加者の極大化を図りたいと思いますので、この《会報》mail とは別便にて、【2637の会】2010年《クラス会 Part2》のご案内を配信させて頂きますので、開催候補日3日間で都合のいい日に○を、複数回答にて返信下さい。
 お返事を頂戴した方々の、最も参加人数の多い日を開催日とします。
 勿論、予定日ですから、気軽に考えて本当に都合の悪い日以外は○〔場合によっては△でも結構です〕を記して返信して下さい。
 晩秋のひとときを、classmates との語らいで楽しく過ごしましょう。
 皆さんからの朗報を期待しています。


 話は、ガラリと変わりますが、時節は、一昨日23日が秋彼岸の中日。
 ついでに言うと、昨日24日は不肖小生の55歳の誕生日。(笑)
 その記念という訳ではありませんが、秋・彼岸に因んだ俳句を探してみました。

 いのちありて今年の秋も涙かな     正岡子規
 みなくぐるうゐのおくやま秋の虹    新谷ひろし
 空澄めば飛んで来て咲くよ曼珠沙華   及川 貞
 つきぬけて天上の紺曼珠沙華      山口誓子

【解説】一句目は子規の作品。彼は、自分の死期が近いと感じたからこそ生への執着も大きく、この俳句には切なさが滲み出ている。12月05日から4回Series で始まるNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲 第2部」では、香川照之扮する子規の臨終 scene があるが、そこでの迫真の演技が凄いのだそうだ。
 二句目の中にある「うゐ〔有為〕の奥山」とは、無常な世の中を脱することの困難さを深山〔=奥山〕に例えている。人間は、みな仮初(かりそめ)の儚い人生を終えるのだが、下の句にある「秋の虹」もまた儚い‥。
 三句と四句は、前者を動画、後者を静止画と思えば理解し易いだろう。「死人花」と忌み嫌われて来た彼岸花だが、最近はその赤い花の美しさを素直に愛でて人気も急上昇中。「群青の空と真紅の曼珠沙華の花」の contrast が色彩豊かなで極めて美しい。因みに、四句目の「つきぬけて‥」は小生大好きな俳句で、従前2008年09月24日付《会報》【0203】号にてご紹介した傑作である。
 これも余談だが、今年の猛暑という異常気象は、彼岸花の開花時期にも影響を及ぼしている様だ。いつも秋のお彼岸の日が近くなると、赤い花を咲かせる曼珠沙華だが、今年はまだ咲いていない所もあると聞く。
そこで一句つくってみました。拙句ですが、ご笑覧下さい。

 曼珠沙華猛暑で開花忘れけり  悟空

■さて前置きが長くなってしまいましたが、今日最初の話題は、前《会報》にて予告させて頂きました様に、09月18日(土)に開催された「『滝川土曜講座〔最終回〕~「東三河の歴史的風土:『吉田藩7万石』を聴講して」をお送りします。
 東西にお住まいの方々だけでなく、地元豊橋の皆さんも、安土桃山時代以降の豊橋の歴史をあまりご存知でないのではないかと思います。
 小生自身、吉田城主関連で知っているのは2つだけ。
 ①池田輝政が豊臣政権下の16世紀末頃、三河で15万2,000石の大大名でいたこと
 ②江戸時代の吉田藩主は、同時代中頃から、知恵伊豆と呼ばれた老中松平信綱の子孫である大河内松平家が明治維新まで続いたこと
 吉田藩のことは、以上のこと以外、殆ど知らなかった‥。(笑)
 それでは、滝川先生のお話を思い浮かべ乍ら、時代に沿ってご紹介します。

 先生曰く、「吉田藩は、江戸時代、270程ある諸藩の中でも、elite course の藩で歴代藩主は、京都所司代・寺社奉行・大坂城代・老中(但し、就任すると更なる雄藩へ移封が多かった‥)に就任。この為、藩主は目まぐるしく代わった。
 それから余談ですが、浜松藩とは兄弟の様に親しく、吉田と浜松の藩主が交代たりした。また、吉田藩が幕府から厚い信任を得ていた証拠に、元禄15年以降、それまで幕府直轄であった新居関所の管理を幕末まで任されている」。
 【小生注】因みに、新居関所のある湖西市(旧新居町と湖西市)は、政令指定都市となった浜松市の大合併にも加わっていない。新居関所の西側は、遠江であり乍ら、吉田藩との人的交流も深く、同藩との繋がりが強かったのである。
 また先生は、江戸幕府開闢以降の吉田藩の歴代藩主について、一人ひとり解説して下さった。江戸時代の265年間で、8家22代の藩主がいた。
 これ等歴代藩主の中で、記憶に留めて置くべきは、以下の3人。
【大河内松平家】
〔初代〕松平信祝(のぶとき)=【藩主在位:1712-29】松平信綱の曾孫。のち老中。
〔3代〕松平信復(のぶなお) =【同:1749-68】1752年、藩校【時習館】を創設。
〔5代〕松平信明=【同:1770-1817】1788年に老中。松平定信の寛政の改革に参画。
定信辞職後、1793年に老中首座。北方(蝦夷地)防衛問題に奔走。

 滝川先生による江戸時代の吉田藩藩主の解説に入る前に、歴史の針をもう少し前、吉田藩ではなく、吉田城主という観点で、更に約100年近く16世紀初頭に迄遡ってみた。

 それは徳川家康(天文11(1543)年12月26日(1月31日)生)が生まれる半世紀近く前、今川家(義元の父氏親)配下の牧野氏と松平家(徳川家康の高祖父松平長親)、田原城に拠点を持つ戸田氏が領有権を争っていた時代であった。

 1505(永正02)年 三河一色城主(現・豊川市牛久保町)牧野成時(しげとき(古白(古伯)))が今橋城(後の吉田城)を築城。
 1537(天文06)年 戸田宣成が牧野氏から吉田城を奪い城主に。
 1546(天文15)年 牧野氏の要請を受け、今川氏(義元(1519-1560)が1536年から家督を相続)が戸田氏を討ち、吉田城を管理下に置く。
 1565(永禄08)年 松平(徳川)家康が、桶狭間の合戦で敗れた今川氏から吉田城を奪取。酒井忠次を城代として統治させる。
 1590(天正18)年 徳川家康、関東移封後、豊臣秀吉の家臣、池田輝政(照政=池田恒興の次男)が、小田原の役の功により、渥美・宝飯・八名・設楽4郡を併せ、吉田15万2,000石の城主となる。関ヶ原の戦後1601年、播磨姫路52万石に加増移封。

【小生comment】
 ここからが滝川先生の講義の内容です。ちょっと長くなりますがご覧下さい。

【江戸時代・吉田藩藩主】

【1】《親藩》竹谷(たけのや)松平家3万石〔現・蒲郡市〕
〔1〕松平家清(いえきよ)(1566-1610【藩主期間:1602-10】) 竹谷松平家は、松平宗家3代信光の長男守家が祖。
 因みに宗家は信光の次男、親忠が〔4代〕。以後〔長親〔5代〕- 信忠〔6代〕- 清康〔7代〕〕- 広忠〔8代〕-【家康〔9代〕】まで直系にて続く。
 家清は、家康の命で、久松俊勝(家康の生母「伝通院(於大の方)」が広忠との離縁(注)後の嫁ぎ先)の息女を妻とし、1601(慶長06)年、関ヶ原の戦いでは尾張清州城の城番から2万石加増され、吉田藩に移封。1610(慶長15)年、45歳で没。

【注】広忠が於大を離縁した理由は、於大の兄、水野信元が松平家の主君今川家と絶縁して織田家に従った為、それを慮った広忠が於大を離縁。於大は、水野家へ戻った後、知多郡阿古比(阿久比)城城主久松俊勝に嫁ぎ、三男三女を儲けた。家康が織田信長と同盟後、三人の息子は松平姓を与えられた。三男定行は、久松松平伊予15万石の藩祖となり幕末まで興隆した。正岡子規や秋山兄弟の故郷伊予藩の藩祖である。

〔2〕松平忠清(1585-1612【同:1610-12】)  家清の長子・嫡子。26歳で父の後を継ぐも、28歳で急死。養子もなく所領没収。

【2】《親藩》深講(ふこうず)松平家3万石〔現・幸田町〕
〔1〕松平忠利(1582-1632【同:1612-32】) 長篠の合戦で活躍した松平家忠の嫡子として深講に生まれる。
〔2〕松平忠房(1629-1700【同:1632-32】) 忠利の長子。父忠利死後、遺領を継ぐが、吉田城の重要性を勘案、幼少の為、継承日の翌日、刈谷に移封。

【3】《譜代》水野家4万5千石
〔1〕水野忠清(1582-1647【同:1632-42】) 水野刈谷藩主。家康生母於大の方の実弟、忠重の四男。1642(寛永19)年、松本藩へ移封。

【4】《譜代》水野家4万5千石
〔1〕水野忠善(ただよし)(1582-1647【同:1642-45】) 水野忠清と同族。駿河田中藩より移封。在城3年で三河岡崎に移封。

【5】《譜代》小笠原家4万石
〔1〕小笠原忠知(ただとも)(1599-1663【同:1645-63】) 信濃守護小笠原家。豊後杵筑(きつき)より正保02年より移封。儀式・典礼に明るく、吉良上野介と交友。
〔2〕小笠原長矩(ながのり)(1624-1678【同:1663-78】) 忠知の長男。寺社奉行。半年ずつ2回吉田に居たほかは江戸在住。
〔3〕小笠原長祐(ながすけ)(1644-90【同:1678-90】)  長矩の長男。弟の長重を養子に。
〔4〕小笠原長重(ながしげ) (1650-32【同:1690-97】)  長矩の次男。当初旗本。将軍家綱の側近となる。長重の養子となり吉田藩主となるが吉田在住は一度もない。奏者番(注)・寺社奉行・京都所司代を経て、1697(元禄10)年老中になると共に岩槻藩に移封。
(注)奏者番:幕府の、江戸城中における武家の儀式・典礼を担当・管理。

【6】《譜代》久世家5万石
〔1〕久世重之(1660-1720【同:1697-1705】) 丹波亀山より移封。1702(元禄15)年、新居関番を命じられ、以後、新居関所は吉田藩の管轄下で明治維新まで続く。1704(宝永元)年寺社奉行、翌年若年寄。同年、下総の関宿藩に移封。後、将軍家継時代に老中。

【7】《譜代》牧野8万石
〔1〕牧野成春(なりはる) (1660-1720【同:1705-1707】) 前述の牧野成時(1505年今橋城築城)の末裔。将軍綱吉の寵愛を受ける。
〔2〕牧野成央(なりなか) (1699-1727【同:1707-1712】) 成春の長男。9歳で遺領を継ぎ、14歳の時、日向延岡藩に移封。

【8】《親藩》長沢・大河内松平家7万石〔本庄松平家7万石〕

 ※ 大河内松平家の出自は、額田郡大河内郷。源三位頼政の流れを汲む大河内正綱が家康の命を受け、十八松平の一家、長沢松平〔松平信光の11男、親則を祖とする〕の養子となる。爾来、長沢松平=大河内松平とされる。正綱の兄の子で正綱の養子となったのが知恵伊豆と呼ばれた松平信綱である。

 ※ また、本庄松平氏は、将軍綱吉の生母桂昌院の弟本庄宗資を祖とする家。

〔1〕松平信祝(のぶとき) (1683-1744【同:1712-1729】) 松平信綱の曾孫(信綱→輝綱→信輝→信祝)。1712(正徳02)年、下総古河藩より移封。奏者番。1729(享保14)年大阪城代となり、同年浜松藩に移封。翌1730(享保15)年老中就任。亡くなる1744年まで老中を務める。

〔2〕松平資訓(すけのり) (1700-1752【同:1729-1749】) 本庄松平家出身。3,000石の旗本佐野勝由の次男。後、浜松藩主・松平資俊の養子となり浜松藩主。信祝と入れ替わり浜松より移封。将軍吉宗に認められ、奏者番、のち1742(寛保02)年京都所司代となり、浜松藩に再入封。

〔3〕松平信復(のぶなお) (1719-1768【同:1749-1768】) 信祝の長男。庶子だがのち嫡子。浜松藩より入封。学問を好み、1752(宝暦02)年、藩校【時習館】を創設。

〔4〕松平信礼(のぶいや) (1737-1770【同:1768-1770】) 信復の長男。

〔5〕松平信明(1763-1817【同:1770-1817】) 信礼の長男。庶子。豊橋祭りの松平公はこの信明である。
 1788(天明08)年 老中、松平定信の寛政の改革に参画。
 1792(完成04)年 アダム・ラクスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫等を伴い来日。
 1793(寛政05)年 06月、ラクスマン等は、箱館に入港・上陸。松前に赴き光太夫等を日本側に引き渡した。07月松平定信辞職後、直ちに老中首座となる。
 1799(寛政11)年 東蝦夷地を幕府直轄地とす。
 1803(享和03)年 老中を辞す。
 1806(文化03)年 老中首座に復帰(文化14(1817)年死去する迄在職)。
 1807(文化04)年 西蝦夷地を幕府直轄地とす。
 1811(文化08)年 ゴローニン事件。〔※ 1811(文化08)年、ロシア軍艦ディアナ号艦長のゴローニンが日本に抑留された事件。〕
 1813(文化10)年 09月、ゴローニンは高田屋嘉兵衛との捕虜交換により解放。
 ※ 近藤重蔵、最上徳内に北方の調査を、伊能忠敬に蝦夷地測量を命じたのがこの信明である。

〔6〕松平信順(のぶのり) (1793-1844【同:1817-1842】) 信明の庶子。大田錦城に時習館で講義させ自らも聴講。奏者番・寺社奉行・大阪城代・京都所司代を務めた。水野忠邦が老中の、天保の改革の最中、大飢饉となった際、領民救済に腐心した。1837(天保08)年老中になるも2ヶ月で辞任。
〔7〕松平信宝(のぶたか) (1826-1844【同:1842-1844】) 信順の庶子。
〔8〕松平信璋(のぶあき) (1827-1849【同:1844-1849】) 同族の松平信敏の子で、信宝の死後養子に迎えられ遺領を継ぐ。
〔9〕松平信古(のぶひさ) (1829-1888【同:1850-1869】) 越前国鯖江藩主・間部詮勝の次男。信璋の跡継が定まらない為、詮勝の正室は松平信宝の娘(松平信璋の養女)であった関係から婿養子に。寺社奉行・大阪城代を歴任。

【小生comment】
 吉田藩歴代藩主の事績・経歴について申し述べましたが、如何でしたでしょうか?
 この吉田藩歴代藩主の説明の後、【藩領の変遷】【吉田藩の職制】【藩士の生活】の説明がありましたが、volume が膨大になりますので残念割愛させて頂きます。
 確かに吉田藩は、浜松藩と同様に幕閣への登竜門であったことは実感出来ました。
 それにしても藩主が、大河内松平家より前が13代、大河内松平家が9代、併せて22代。藩主の名前を覚えるだけ大変ですネ。(笑)


【後記】「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものです。
 朝晩は急に涼しさを通り越し、肌寒く感じる様になりましたね。
 今日の巻頭に「秋・彼岸」の「人生の刹那(≒短さ・儚さ)」を詠んだ俳句を紹介致しましたが、お別れは同じ「秋・彼岸」の theme でも、芭蕉が愛した「軽(かろ)み」のある俳句をお示ししてお別れしたいと思います。

 秋来ぬと合点させたる嚔(くさめ)かな  与謝蕪村
 秋来ぬと目にさや豆の太(ふと)りかな  大伴大江丸

 曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太

【解説】最初の二句ともに、藤原敏行朝臣の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」〔古今集〕を意識してつくったのであろう。 humorous な句である。【訳】は要らないと思います。
 金子兜太(1919.09.23生 - )氏は、母の実家である秩父(埼玉県比企郡小川町)で生まれた。そして氏の誕生日も秋彼岸の中日である。「秩父の子」の中には昔日の兜太少年の姿もあったのだろう。微笑ましい俳句である。
 彼岸花の写真を3枚添付します。それをご覧頂き乍らお別れしたいと思います。
1
2
3

 では、また‥。(了)

2010年9月19日 (日)

【時習26回3-7の会 0308】~「09月07日:藤巻健史講演:『日本破綻から復活のキーワード』を聴いて&同氏著『日本破綻「株・債券・円」のトリプル安が襲う』を読んで」「09月04日:『滝川土曜講座~軍都豊橋と豊川海軍工廠』を聴講して〔その2〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0308】号をお送りします。

[01]
■さて早速ですが、今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に、ちょっと前のことになりますが、09月07日、名古屋市内のホテルで開催された藤巻健史氏の講演:『日本破綻から復活のキーワード』〕を聴いてと、同氏の著作『日本破綻「株・債券・円」のトリプル安が襲う』を読みましたので、これ等の内容についてお伝えしたいと思います。
 「日本破綻」という言葉は、極めてshocking な言葉ですが、従前、2010年06月19日の《会報》【2637の会 0295】号にて「求められる『財政健全化』に向けての一考察」で小生が述べさせて頂いた考えとよく似ていると思い、ご紹介させて頂きます。

 講演内容の詳細は、添付資料「Takeshi Hujimaki_nippon hatan kara hukkatsu no key word 」ご参照下さい。
    ↓↓↓↓↓
 「takeshi_hujimaki_nippon_hatan_kara_hukkatsu_no_key_word.doc」をダウンロード

 講演内容をごく掻い摘んで申し上げると‥、
 ◆今年度末に1,000兆円近くになる日本国の借金は毎年10兆円返済しても100年かかるという到底返済できない水準までに達してしまった。
 ◆この巨額な借金を子孫に残してはならない。その解決策は、金融市場に委ねて「hyper-インフレ」を甘受すること。
 ◆その結果、国内にある金融資産と、国債(国の借金)はほぼゼロになり、国と次世代の日本国民は救われる。現世代の資産喪失という多大な犠牲を伴って。
 ◆その「hyper-インフレ」の事態が生じる確率は、例えて言えば、東海大地震と同じだ。いつ起こるか分からないが、このままではいつか必ず起こる。
 ◆では、「資産防衛策はないのか」。「いや、ある」。
 ◆それは、国内金融資産を、米ドル等の他国通貨の金融資産に振り替えることにより、資産喪失を防ぐことができる。今からその対応を打つべき。
 ◆「hyper-インフレ」発生後の日本は、数年間の crash を耐え抜けば、今と比べて大幅な「円安」で価格競争力を取り戻し、経済的に復活する。隣国の韓国の様に。

【小生comment】
 まず、添付の講演会資料に記した表と同じですが、国の借金とGDP(国内総生産)、及びその比率を以下に記しました。ご覧下さい。西暦2000年から国の借金がGDPを上回り、今年度末にはそれがGDPの2倍を超える見通しだが、こういう事態はどう考えても異常としか言いようがない危機的状況です。

【日本の〔国債及び借入金残高=B〕〔GDP=A〕〔B/A(%)〕の推移】
西暦年‥〔‥B‥〕‥ 〔‥A‥〕 ‥〔B/A〕
1996年〔343兆円〕‥〔505兆円〕‥〔 67.9%〕
1997年〔369兆円〕‥〔516兆円〕‥〔 71.5%〕
1998年〔427兆円〕‥〔505兆円〕‥〔 84.6%〕
1999年〔478兆円〕‥〔498兆円〕‥〔 96.0%〕
2000年〔522兆円〕‥【503兆円】‥【103.8%】
2001年〔585兆円〕‥〔498兆円〕‥〔117.5%〕
2002年〔643兆円〕‥〔491兆円〕‥〔131.0%〕
2003年〔670兆円〕‥〔490兆円〕‥〔136.7%〕
2004年〔750兆円〕‥〔498兆円〕‥〔150.6%〕
2005年〔813兆円〕‥〔502兆円〕‥〔162.0%〕
2006年〔832兆円〕‥〔507兆円〕‥〔164.1%〕
2007年〔838兆円〕‥〔516兆円〕‥〔162.4%〕
2008年〔846兆円〕‥〔505兆円〕‥〔167.5%〕
2009年〔872兆円〕‥〔474兆円〕‥〔184.0%〕
2010年06月末
〔904兆円〕‥〔475兆円〕‥〔190.3%〕
2011年03月(予想)【973 兆円】‥〔475兆円〕‥【204.8%】
〔注〕1.国債及び借入金残高:数値は各年12月末時点〔財務省 homepage より〕
〔注〕2.GDP出典:IMF - World Economic Outlook(2010年4月版)

 藤巻氏は、かつてモルガン銀行東京支店長として実績を残した人物。話は、(ちょっと乱暴な点もあるが、)明快で説得力もあり、大変面白い講演であった。
 また、一緒にご紹介する、「日本破綻~「株・債券・円」のトリプル安が襲う」という本は、本年2010年3月に上梓されたものであるが、言っている内容はほぼ同じである。
 ただ同書では、財政破綻を防ぐ手立ては、まず「円安」誘導。それにより時間を稼ぎ、市場主義を導入して日本経済を立て直し、真の資本主義国家に作り替えていく、という筋書きになっている。
 氏は「『分配』の政策ではなく、『拡大』のための政策」を目指せと言っている。
 また氏は、同著の「おわりに」で自身が言いたかったことを要約して述べていますので、その抜粋を紹介させて頂きます。では、どうぞ‥

 私(藤巻)は、今まで築き上げてきたものを全て失い、寒風吹き荒ぶ中、暖房もなく、ぶるぶる震える様な生活は嫌です。しかし、国にお金がなくなれば、〔中略〕この様な状態は来うるのです。〔中略〕日本国民の間に「国に金がない」という認識があまりにもないので、こ(のよ)う(に極端に)表現させて頂きました。孫・子のお金を使ってまで格差是正、全国平等の service を追求するのは正しくないと思うのです。
 巷では、「競争の激化が『殺伐とした現代社会』を生んだ」(と言っているが、そう)〔中略〕ではなく、「経済が豊かでなくなった」からこそ「社会が殺伐とした」と思うのです。〔中略〕
 日本は長年、巨額の財政赤字が続いていますが、この1~2年は更にその程度が酷くなっています。「ばら撒き」が目に余ります。国債を発行し乍ら「ばら撒く」のは「孫・子のお金」を、我々の世代に「ばら撒く」ことを意味します。これだけ赤字が蓄積されていると我々の世代で国債を返せないのは明らかだからです。
 こうした借金は、孫・子が働いて返さなければなりません。これは、孫・子からの「富の搾取」であり、「我々の世代と孫・子の世代」の「格差拡大」政策です。
 この様な事態に際し、政治が何もしなければ「市場が反乱」を起こします。「(株・債券(≒国債)・円の)triple 安」、即ち「日本売り」が起きるのです。市場が「孫・子へ『負の遺産』を残してはいけない。自分たちの世代で何とかせよ」という命令を下したと考えるべきかもしれません。これは〔中略〕我々の年金や〔中略〕預貯金が、無価値になることを意味します。
 これ等は、、極めて悲惨な副作用を伴った「 hard landing scenario 」です。
 しかし、これは市場主義を軽視して来た「ツケ」なのです。計画経済は通用しないという message なのです。
 この hard landing scenario を避ける為には、円安政策で時間を稼いでいる間に「市場主義」を早急に導入し、soft landing をさせるしか道はありません。
 今、日本が必要としているのは「市場原理による拡大」政策です。「計画経済的な分配政策」ではありません。
 もう時間はないのです。「市場の反乱」の発生は目の前に迫っています。
 国民は「日本国に金がない」ことを十分認識し、政治に「ないものねだりをしない」こと。そして今こそ、何をすべきかを真剣に考えるべきだと強く思います。(了)

■続いての話題は、09月04日(土)に開催された「『滝川土曜講座~軍都豊橋と豊川海軍工廠』を聴講して〔その2〕」です。
 今日は、『第19回 豊川海軍工廠』についてです。
 「海軍工廠」とは、海軍が使用する艦船や兵器の製造・修理を行う専門工場をいう。

1872(明治05)年 兵部省から海軍省が独立以来、横須賀・小野浜造船所が管理下に、東京築地、呉に造兵廠が設置された。

1939(昭和14)年 11月18日の勅令により、豊川海軍工廠の建設が決定 / 12月15日に開廠式
   〔建設予定地は、宝飯郡豊川町・牛久保町・八幡村に跨る200ha弱(=594,400坪)という広大な土地〕
1943(昭和18)年 10月、東条内閣は学徒出陣を決定 
   〔工廠内の建物は700棟に達し、海軍の使用する機銃・弾薬の約7割を生産。技術・規模共に東洋一を誇った〕 
1944(昭和19)年 08月23日、学徒勤労令発令。中学生以上の全員を工場に配置。学校教育は事実上停止状態に。
1945(昭和20)年 02月時点での豊川海軍工廠における学徒動員状況を以下に記すと‥総計約6,000名に及ぶ‥

 愛知県豊橋中学校【現・時習館高校】:2年240名・3年140名/愛知県豊橋第二中学校:2年210名・3年210名・5年150名
 豊橋市立商業学校:4年45名・5年150名/豊橋市立第二商業学校:4年40名
 豊橋市立工業学校:2年200名・3年135名/豊橋市立第二工業学校:2年40名・3年40名
 愛知県成章中学校:3年100名・卒業生15名/豊川中学校:2年100名・2年54名/中京商業学校:3年100名
 豊橋市立高等女学校:2年295名・3年290名・専攻科265名/豊橋市立女子商業学校:3年150名
 愛知県国府高等女学校:2年200名・3年200名・4年200名/豊川高等女学校:2年99名・3年116名・4年115名
 豊橋高等家政女学校:2年68名・3年68名・新人3年235名/愛知高等実習女学校:2年80名・3年96名・4年103名
 豊橋松操高等女学校:2年150名・3年145名/豊橋高等実践女学校:2年・3年各100名
 豊橋桜ヶ丘高等女学校:4年120名/愛知県新城高等女学校:3年90名
 鳳来寺高等家政女学校:4年39名/福江高等裁縫女学校:3年62名/名古屋緑ヶ丘高等女学校:3年150名・4年100名
 以下、国民学校高等科の1年・2年〔豊川市:牛久保・平尾・国府・八南・豊川・千両/宝飯郡:前芝・一宮東部・一宮西部・小坂井〕計564名
* 
【本土空襲の激化】
[02]爆撃機B29に搭載される250㌔爆弾〔写真中央の人の背丈を比較しても250㌔爆弾の大きさの程がうかがえよう〕
02b29250

1942(昭和17)年 06月05日、Midway 海戦に於いて日本海軍は惨敗/08月07日、米軍、ガダルカナルに上陸
1944(昭和19)年 06月16日、米軍航空母艦から発進した艦載機が北九州を爆撃/07月17日、Saipan 島の日本軍が玉砕/秋以降本土空襲が本格化
   〔東京はじめ全国206都市のうち98都市が空襲と艦砲射撃を受けた。東京は102回空襲を受け壊滅的被害を蒙った〕

[03]B29爆撃機・Guam&Saipan - 海軍工廠空爆への航空空路図
03b29guamsaipan

 昭和20年1月以降、米軍機の飛来は幾何級数的な増え方であった‥
 01月490機〔B29:490機〕/02月1,460機〔B29:460機〕/03月3,545機〔B29:1,295機〕/04月2,160機〔B29:1,930機〕/05月4,855機〔B29:2,907機〕/06月4,312機〔B29:3,270機〕/【 07月20,859機〔B29:3,666機〕】/08月7,535機〔B29:1,490機〕→15日終戦
   〔名古屋市空襲は、昭和20年03月12日/19日/25日/05月14日〔全市焦土・名古屋城焼失〕〕
   〔豊橋市空襲は、昭和20年06月20日午前00時40分~03時15分、焼夷弾攻撃を受け、市街地の90%焼失、犠牲者642人〕

[04]豊川海軍工廠被爆弾跡図=白い点が爆弾跡
04

 昭和20年 08月07日、運命の日は豊川海軍工廠も灰燼に帰し、2,400名を超す人命を奪った。その中には452名の動員学徒が含まれている。
 我等の大先輩、豊橋中学校50回(時習館高校第1回)卒4名、時習館高校第2回卒33名、計37名の尊い生命が奪われ、併せて同校職員2名が殉職している。 

◆マリアナ諸島のサイパン島イスリー基地の米空軍第20軍第58・73・313・314爆撃隊〔B29爆撃機 計131機、及び第7戦闘機司令部のP51戦闘機ムスタング104機ほか〕で編成された3個飛行中隊と硫黄島に基地を持つ2群の戦闘機隊により攻撃が開始された。
◆B29の大編隊は、熊野灘へ侵入し、志摩半島をかすめ進路を知多半島中部に向けていたが、突如機首を東へ半転し、豊川海軍工廠へ来襲した。その時、工廠では、学徒動員の学生・生徒・女子挺身隊・国民学校の児童達を含む55,000人の従業員が、昼夜を問わずの突貫作業で、この日も30度を超す暑さの下、懸命な作業に従事していた。
◆B29爆撃機は「空の要塞」と言われ、全長30m、翼長43m、重量43t、航続距離6,600km、積載量10tの米軍最強の爆撃機であった。
◆9-12機編成による12波の編隊攻撃で、午前10時13分~39分までの、僅か26分間に、250㌔爆弾3,256発を投下し、40%に当たる1,290発が(直径)1,000フィート(=300m)以内を直撃し、67%に相当する2,192発が2,000フィート(=600m)以内に着弾という正確さであった。
◆学徒動員の犠牲者452名のうち、豊橋中学校37名、豊橋市立高等女学校36名、昭和6年3月生まれの小生の亡母が高女3年(14歳)であったから14歳(当時)、今なら中学校3年生。彼等はうら若き生徒達だった‥。
◆08月07日当日、亡母の家は、小生が今勤務している会社の至近、駅前大通り2丁目にあったので、亡母の父親が、豊川海軍工廠が空爆を受け噴煙をあげているのを、家から見えたと言っていた。そして「こりゃぁ、駄目だ、助からん‥」と、亡母の死を覚悟したとも言っていたと亡母の実兄である伯父から以前聞いたことがある。

【小生comment】
 『豊川海軍工廠』の空襲の話は、以前にも《会報》2006/07/23付【040】号にて映画と石碑「早咲きの花」のところでご案内したことがあります。
 亡母が、大東亜戦争の話をすると決まってこの「『豊川海軍工廠』の大爆撃の時の悲惨な光景を思い出す」とよく聞かされたものである。
 曰く「爆撃が始まったら、咄嗟の判断で『(本宮)山へ向かって逃げなくちゃ!』と思い必死に走って逃げた。逃げている時、直ぐ傍に爆弾が落ちた。無我夢中で素早く体を地面に伏せたら、爆弾が落ちた所から私の頭上を爆弾の破片が飛び超えて私より外にいた人達が数多くやられた。海軍工廠の中の防空壕に避難した人たちは先生も生徒も多くが死んだ」と。
 戦争は、決して繰り返してはならない。

【後記】
 昨日(09月18日)は、滝川元雄先生の土曜講座の最終回「第20話:吉田藩七万石総括」を聴きました。楽しかったですよ。そして大変勉強になりました。
 この模様につきましては【2637の会】次号《会報》にてご紹介させて頂きます。
 お楽しみに‥。

 先週半ば辺りから急に朝晩が涼しく秋らしくなって参りました。
 涼しい気候はいいものですが、それまでの酷暑との gap が大き過ぎたせいか、小生、毎日の筋トレの際、体が凄く重く感じられます。
 どうも小生、夏バテの様です。(笑)
 季節の変わり目は体調を崩し易いものであると実感しています。
 皆さんも努々油断なさらぬ様にご自愛下さい。

 もう直ぐ「秋分」ですが、今日も「白露」の句を一句お届けしてお別れしたいと思います。

 白露もこぼさぬ萩のうねりかな  松尾芭蕉

【解説】枕草子〔65段 草の花は〕は、「草の花はなでしこ」‥で始まります。そして、「萩、いと色深う、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れて、なよなよとひろごりふしたる(【訳】萩は、大変色が濃く、枝もしなやかに咲いているのだが、朝露に濡れて、なよなよと広がって伏しているのがいい‥)」とある様に、萩は、枝先に紅紫色や白色の蝶形花を沢山つけ可憐な花を咲かせる。
 「風が吹くとゆらりとうねり(曲がりくねり)を見せるが、花や枝に付いている露をこぼさないほどのしなやかさだ」と、作者(芭蕉)は秋の風情を称えている。
 白露と萩の花が風に吹かれて躍動する様子が目に浮かぶ様な名句だと思う。

 では、また・・。(了)

2010年9月12日 (日)

【時習26回3-7の会 0307】~「09月11日:『時習26回卒業40周年記念旅行に向けての有志の集い〔第2回〕』開催報告」「09月04日:『滝川土曜講座~軍都豊橋と豊川海軍工廠』を聴講して〔その1〕」「09月02日:「三菱一号館美術館『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展を見て〔その2(完)〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0307】号をお送りします。
 ここ両日、猛暑も漸く緩みつつあり、とくに早朝は清々しい涼風に秋の訪れを実感できる様になりました。

■さて、最初の話題は、掲題・副題にあります様に、昨日、豊橋駅前大通り2丁目にある開発ビル地下1階「トライアゲイン」にて開催された『時習26回卒業40周年記念旅行に向けての有志の集い〔第2回〕』について開催報告をさせて頂きます。
 当日は、時習26回生22名が集い、大変楽しい3時間半を過ごすことが出来ました。参加者は以下の皆さんです。
 出席者全員の全体写真2枚をご覧下さい。〔添付写真ご参照〕
2620100911a_
2620100911b_


【参加表明者】
【1】榊原T君
【2】飯田H祥君、井澤N泰君、中嶋Y行君、森田S子さん
【3】小林R子さん
【4】岩瀬S君、黒柳(鈴川)N子さん
【5】山本A司君
【6】大谷A代さん、黒柳M利君
【7】今泉悟、林K子さん
【8】小野K美君、矢野S介君、安井K二君
【9】林k君、福井A輔君
【10】今泉H志君、伊藤A紀君、岸田(石田)Y子さん、武野S郎君 
以上22名〔うち、男子16名・女子6名〕。
〔五十音順、【 】内の数字はクラス〕

 今回は、卒業40周年記念旅行に向けて、実質的に初めて action を起こしました。添付資料「時習卒業40周年記念旅行 questionnaire」をご覧下さい。
 この questionnaire により、参加者の記念旅行への要望を聴取しようと試みました。参加者全員に懇親会に入る前に questionnaire に記入して頂きました。
 この会に参加下さった林K子さんを除く【2637の会】members の皆さんのご意見も拝聴したく、添付資料にご意見を記入して頂き、小生宛に返信して頂ければ幸甚です。
     ↓↓↓↓↓
「2640_questionnaire.doc」をダウンロード

 孤独な幹事を助けると思って、questionnaire へのご回答にご協力下さい。m(_ _)m
 今回のこの学年同期会は、平成12年の「卒業25周年記念事業」での寄付金残余金の取り扱いについて、当時の会計幹事であった井澤君【3-2】と、現・時習館高校教諭である飯田君【3-2】から、説明を頂き話し合いました。
 その後、7時過ぎから本格的な懇親会になり、参加者22名が順番に自己紹介をして頂きました。ここで司会者である小生の想定外のことが起きました。
 自己紹介が進むにつれ、自己紹介者の弁に段々と熱が入り出し、9時半の終了直前までずっと自己紹介で時間が終了してしまったのです。
 学生時代のこと、社会人になってからの苦労談、人生の裏話等々、みんな確りと五十路まで生き抜いて来ただけあって、話の内容に説得力がありました。共感を持つことが出来ました。これが時習26回生の Identity なんだな、と納得できた学年同期会になりました。

 次回の「時習26回卒業40周年記念旅行に向けての集い〔第3回〕」の開催は、添付資料のquestionnaire の4番目の質問で皆さんにお伺いしている様に、皆さんのご意向を尊重して開催したいと思います。以下にそこの処を paste します。

4. 卒業記念旅行に向けての集いについて
〔開催頻度〕
【案】
 1. 開催予定の年の1年前から(不)定期で
 2. 開催予定の年の2年前頃から(不)定期で
 3. 今の pace 〔年3回〕でよい    
 4. 今の pace を若干緩めて〔年2回〕でよい
 5. 今の pace を緩めて〔年1回〕でよい

【小生comment】
 今回の学年同期会開催に向けて、小生、実感したことがあります。
 それは、「人間というのは『洗脳され(=暗示に掛かり)易い』」ということです。
 小生、色々な本で、「洗脳」について興味を持っていましたが、自分がそれに陥ることを今回の同期会開催に向けての作業を通じて実感できました。
 それは、簡単に言えば「お前はバカだ」と百回言われると、「自分はバカだ」と思い込んでしまう、ということです。
 今回の、学年同期会の〔第3回〕目を、皆さんの意見を聞いてから決めようと思ったのも、今〔第2〕回の学年同期会の出席状況が前回より不芳で、小生の motivation が大幅に低下してしまったことです。
 ①学年同期会への開催案内は100件強配信。そのうち、約80件の返信mailを頂戴したのですが、更にそのうちの50件強が「欠席」の返事。これが1カ月余りに亘り、毎日1~2件あり、都度返信mail を配信する時の虚脱感
 ②第1回目の時には着信していた筈の mail address のうち数件が、事前連絡もなく【reject(=受信拒絶)】error で戻って来た時の失望感と虚脱感
 ③小生が個人的に宛にしていた、学年同期会への出席常連者の皆さんが、今回過半数が欠席の回答をくれたことによる、失望感と孤独感
 ④negative 情報が多い中で、【一人で】100名以上の同期に mail 発信する自己犠牲的精神への無力感 etc.
 以上の様に negative な事象が、日々重なると、豪胆な人間でない限り、精神的にかなり萎えてしまうということです。
 小生、【2637の会】の皆さんと大学弓道部の同期の仲間の幹事だけで十分!と内心思っていることから来る、被害者意識が motivation 低下の主因であると思われます。(涙)(笑)

■続いての話題は、09月04日(土)に開催された「『滝川土曜講座~軍都豊橋と豊川海軍工廠』を聴講して〔その1〕」です。
 滝川先生の土曜講座も、04日の講座を含め残す処あと2回となりました。
 今日〔その1〕でご紹介するのは、豊橋の軍都としての歴史を紐解きます。

1871(明治04)年 廃藩置県‥薩摩・長州・土佐から1万人の御親兵を組織。東京・大阪・東北(仙台)・鎮西(福岡)に4鎮台を設置。
1872(明治05)年 兵部省‥旧藩の城閣・武器を接収。御親兵を近衛兵と改称。
1873(明治06)年 徴兵令公布‥国民皆兵。名古屋・広島・(鎮西:福岡→)熊本に2鎮台増設し6鎮台へ。
1877(明治10)年 西南戦争
1882(明治15)年 軍人勅諭。歩兵14個連隊→同24個連隊へ増強
1884(明治17)年 名古屋鎮台(在名古屋城三の丸)に歩兵第十八聯隊設置
1887(明治20)年 歩兵十八聯隊、豊橋に移動完了
1894(明治27年) 08月01日 日本、清国に宣戦布告。日清戦争開戦。08月23日 歩兵第十八聯隊出征、朝鮮元山に上陸。
           従軍総数3,752名 戦傷死者1,478名(うち戦死127名、戦病死115名)
1904(明治37)年 02月10日 日本、ロシアに宣戦布告。日露戦争開戦。 04月20日 歩兵第十八聯隊宇部港出港。
         戦傷死者1,853名(うち戦死・戦病死594名)
1907(明治40)年 03月 豊橋に第十五師団の設置決定
1908(明治41)年 11月 第十五師団設置
1925(大正14)年 04月19日 第十五師団の解団式〔軍縮の中で軍近代化図る〕
1928(昭和03)年 歩兵第十八聯隊、山東省出兵(戦死者13名)
1934(昭和09)年 満州事変後の満州の治安維持(戦死者90名)
1937(昭和12)年 日中戦争‥上海戦線に派兵、3ヶ月で戦傷者3千名(戦死者1200名) 歴戦05年で戦死者2600名。南満州へ転属。
1944(昭和19)年 02月10日 大本営、在満の第十八聯隊に中部太平洋方面派遣発令
           02月29日 南大東島沖合にて米潜水艦の魚雷攻撃により輸送船崎度丸沈没。第十八聯隊の海没者1,646名。
          03月06日 生存者を中心とする部隊、サイパン島上陸。
          06月11日 米軍127,571名、サイパン島攻撃開始。
          06月15日 米軍上陸開始。
          06月17日 歩兵十八聯隊第一大隊、夜襲決行、ほぼ全滅。
          07月06日 残存将兵、最後の突撃を決行、玉砕す。
          歩兵第十八聯隊衛生隊47名は生存。
【歩兵第十八聯隊】海没者1,646名、戦死2,134名、生還122名
 戦後、旧軍施設は、文教施設に転用され、福岡小学校、時習館高校、豊橋工業高校、南部中学校、栄小学校、愛知大学、豊橋市役所、豊城中学校、豊橋商業高校、西口団地、岩西小学校、豊橋養護学校、豊橋保育大学校、豊橋福祉事業会等になった。

【後記】
 今日最後の話題は、「09月02日:「三菱一号館美術館『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展を見て〔その2(完)〕」です。
 図録の「ごあいさつ」の処で、この展覧会の開催の趣旨が述べられていますので、その一部をご紹介します。

 三菱一号館美術館開館記念展第二弾となる本展は、三菱が一世紀以上前に抱いた夢の実現の意味がこめられています。〔明治政府の御雇い外国人・英国人建築家〕ジョサイア・コンドルによる「丸の内美術館」や三菱一号館の建築図面、山本芳翠、黒田清輝、クロード・モネ、オ―ギュスト・ルノワール等、岩崎家や三菱に由来する日本と西洋の近代絵画、《四条河原遊楽図屏風》(重文)等の静嘉堂の名品、《毛詩》(国宝)等の東洋文庫所蔵の貴重な書籍類、明治から昭和にかけて、日本郵船、麒麟麦酒が制作したポスター等、様々な分野の作品120点余によって、岩崎家と三菱が育てて来た珠玉のコレクションを紹介します。〔以下略〕2010年08月

【小生comment】
 この展覧会開催の趣旨は以上ご覧の通りです。静嘉堂は、三菱第2代社長・岩崎彌之助が明治20年代に創設。約20万冊の和漢の古典籍と、6,500件を数える古美術品とを所蔵しているという。国宝7件、重文83件、重要美術品79件、という数値は、流石は三菱だ。
 前回に引き続き、名品の数々のうち以下の10点をご紹介する。

[21]坂本繁二郎『林檎と馬鈴薯』1938年
211938

––––––––––––––––––––––––[22]安井曾太郎『鵜原風景』1935年
221935

[24]梅原隆三郎『紫禁城』1940年
241940

––––––––––––––––––––––––[28]Sisley『ルーヴシェンヌの近郊』1872年
28sisley1872

[30]Pissarro『エラニ―のロックおばさんの農園』1892年
30pissarro1892

––––––––––––––––––––––––[32]Renoir『麦藁帽子の若い娘』1888-90年
32renoir188890

[33]Cezanne『静物』1879-80年
33cezanne187980

––––––––––––––––––––––––[39]マルケ(Marquet)『トリエル、晴れた日』1931年
39marquet1931

[43]Marc Chagall『サーカスの光景』1979年
43marc_chagall1979

––––––––––––––––––––––––[45]国宝‐曜変天目[稲葉天目]
45


 では、また・・。(了)

2010年9月 5日 (日)

【時習26回3-7の会 0306】~「渡部昇一『渡部昇一の昭和史(正)』→津本陽『椿と花水木~万次郎の生涯』→永国淳哉[編]『ジョン万次郎~幕末日本を通訳した男』を読んで」「三菱一号館美術館『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展を見て〔その1〕」「名フィル第372回定期演奏会~Mahler『交響曲第5番』を聴いて」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。
 今日も全国的に猛暑日となった地域が59か所。京都府京田辺市では最高気温が39.9度Cと観測史上最高気温を記録したとか‥。
 この地球はどうなってしまうのでしょうか??
 でも、ぼやいてばかりもいられません。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0306】号をお送りします。
 今週央09月08日は、二十四節気でいう「白露」。
 川端茅舎の「金剛の/露ひとつぶや/石の上」や、
 飯田蛇笏の「芋の露/連山影を/正しうす」の名句が浮かびます。
 このほか、名人の「露・白露」に関連した俳句を拾ってみると‥

 白露(しらつゆ)や茨(いばら)の刺(はり)にひとつづゝ 与謝蕪村
 露の世は露の世ながらさりながら 小林一茶
 白露に家四五軒の小村哉 正岡子規
 露草の露千万の瞳かな 冨安風生
 露の空薔薇色の朝来たりけり 川端茅舎


■さて、最初の話題は、今週末09月11日(土)18時00分から駅前開発ビル地下1階「トライアゲイン」にて開催予定の「時習26回卒業40周年記念旅行に向けての有志の集い」の参加表明状況です。
【1】組と【3】組の参加表明者がゼロであるのがちょっと寂しい‥。
【2637の会】members の皆さんの参加も welcome です。奮ってご参加下さい。

 今日09月05日正午現在で、出席のお返事を頂戴した方々は以下の18名の皆さんです。
【参加表明者】
【2】飯田H祥君、井澤N泰君、中嶋Y行君
【4】岩瀬S君、黒柳(鈴川)N子さん
【5】山本A司君
【6】大谷A代さん、黒柳M利君、水藤T詳君
【7】今泉悟、林K子さん
【8】小野K美君、矢野S介君
【9】林K君、福井A輔君
【10】今泉H志君、伊藤A紀君、武野S郎君 
〔五十音順、【 】内の数字はクラス〕以上
 明日、この学年同期会ので、今一度募集の呼び掛けをします。
 【2637の会】members の皆さんも、是非一人でも多くの参加を期待しています。

■続きましては、掲題副題にあります様に、「渡部昇一『渡部昇一の昭和史(正)』→津本陽『椿と花水木~万次郎の生涯』→永国淳哉[編]『ジョン万次郎~幕末日本を通訳した男』を読んで」をご紹介させて頂きます。前号の《会報》末尾にて渡部昇一氏の著「渡部昇一の昭和史(生)」の一部をご紹介しました。
 それは、最近、我が国「日本」が元気がないので、この本を読み、西洋文明に負けない「近代国家日本」を築き上げた先人達の力、即ち日本人(=日本民族)の力の源泉を歴史から学んでみようと考えたからである(添付写真[01]ご参照)。

[01]ジョン万次郎関連書籍
01

【渡部昇一/渡部昇一の昭和史(正)】から
〔1.世界史から見た明治維新〕

《白人支配に屈しなかった唯一のアジア国》
 1840~42年 アヘン戦争で清国は英国に屈し、半植民地化へ。
 1857年 セポイの反乱に敗れたインドは英国の直接統治下へ。
 渡部氏は言う。中国もインドも基本的には西洋に対する拒絶反応で以て白人に反抗。しかしその度に敗れ、益々白人の支配力を強めてしまう結果になった。唯一の例外が日本。日本人は卓越した西洋文明を見て、「あの知識と技術を学びたい」と思い、それを実現した。これこそが世界史における『明治維新の意義』なのである。
 確かに日本は鎖国により機械文明の発達は起こらなかった。が、それ以外の分野、例えば、「堂島米市場では西洋より早く先物取引が実施」されたり、「数学者・関孝和と彼の弟子等はライプニッツやニュートンと同時期に微積分の概念に達していた」等。

《西洋文明の力を知っていた幕末日本》

[02]晩年のジョン万次郎
02

〔【小生注】この項では、前号《会報》にてご紹介した後の処で、ジョン万次郎〔添付写真[02]ご参照〕が日本の開国前後に関わった件(くだり)を渡部氏は以下の様に述べている〕
 ジョン万次郎は、幕末に漂流して米国に渡った人という image しか一般にはないようだが、彼は単にそれだけの人ではない。彼がいたお陰で、幕末の日本は幸せな course を辿ることができたのだ。
 万次郎は土佐の貧乏漁師の息子であったが、
天保10(1841)年〔14歳〕
 万次郎、鰹船に乗って難破し、無人島の鳥島に漂着した処を米国の捕鯨船〔【小生注】ジョン・ハウランド号~万次郎は、捕鯨船の仲間から『ジョン・マン』と呼ばれたが、ジョンは、この捕鯨船の名前からついた‥〕に助けられる。〔中略〕実は、漂流して助けられた漁師は万次郎以外にも沢山いたが、万次郎が他の〔【同注】日本人漂流〕と何処が違っていたかと言えば、それは彼が人一倍の好奇心と理解力を持っていたという点である。〔【同注】14歳と若かった〕彼は、この捕鯨船で積極的に米国人の船員達の中に入り込み、彼等の言葉を覚え様とした。また、極めて目が良かったらしく、自分から進んで mast に登り、鯨を探す手伝いをして、船員達からも愛されたという。

[03]ホイットフィールド船長
03

 そして、この様子を見た船長〔【同注】ホイットフィールド[03]blogご参照〕が万次郎を大いに気に入り、自分の養子にならないかと持ちかけることになった。建国70年に満たない若々しい米国では、この様な立派な人物もいたのである。
 万次郎は大いに喜んでこの申し出を受け、船長の故郷 New England で暮らすことになった。ここでも彼は皆から愛され、また大いに学んで、
弘化元(1844)年〔17歳〕
 2月 万次郎、バートレット・アカデミーという学校に進学して航海士の勉強をする。〔中略〕
 この academy を首席で卒業後、万次郎は捕鯨船の船員になって航海中、船長が発狂した際、船員達から推挙され副船長兼一等航海士となった。〔中略〕彼は、外国で正式に高等教育を受けた最初の日本人であり、しかも米国社会において、一等航海士という非常に名誉ある地位に就いた最初の日本人でもあった。〔中略〕

《万次郎を『発見』した島津斉彬》
嘉永04(1851)年〔24歳〕
 万次郎が漸く日本に戻れたのは、漂流してから十年後の嘉永四(1851)年。〔中略〕彼は琉球に上陸する。
 勿論、当時は鎖国であるから、海外から戻って来た漂流民は罪人である。彼の身柄を押さえたのは、琉球を支配していた薩摩藩。
 (【同注】薩摩藩役人の)彼等は最初、万次郎をただの漁民だと扱っていたが、話しているうちに〔中略〕相当な学識の持ち主であることに気付いた。既に、日本近海には度々外国船が来る様になっていたから、海外の正確な情報が求められていた時代であった。そこで、琉球支配の薩摩代官が直接、万次郎から事情聴取を行うと、どんな質問にも的確な答えが返って来たので、その薩摩藩役人は大いに驚いたという。
 当時の薩摩藩藩主は、開明派として知られる島津斉彬であった。斉彬は琉球からの報告書を読んで、直接万次郎から話を聞くことにした。
 同年7月薩摩山川港入港。万次郎に話を聞いた斉彬は大変な感銘を受けた様である。薩摩藩滞在中の万次郎は真に丁寧な扱いを受けたという。〔中略〕斉彬は漂流民取調べをする幕府長崎奉行所宛に「万次郎は怪しいものではない」旨の保証書迄も送っている。
 09月29日 長崎着。長崎奉行所にて取調べ開始。
 10月01日より入牢。同月18日取調べ終了。以後翌年6月迄軟禁。
嘉永05(1852)年〔25歳〕
 08月25日 高知城下着。土佐藩取調べ開始。
 12月04日 土佐藩、万次郎を士分〔新規定小者に召抱える〕
嘉永06(1853)年〔26歳〕
 06月03日 Perry 黒船四隻裏が来航。
 06月20日 万次郎に江戸呼び出し達書。
 08月30日 万次郎、江戸着。本所江川邸に起居。
 10月末 江戸幕府に意見具申。
 11月15日 旗本直参、御普請格、中浜姓を名乗る。
安政元(1854)年〔27歳〕
 01月16日 Perry 黒船七隻で神奈川沖に再来。
 02月12日 幕府剣道指南役団野源之進の二女・鉄と結婚。
 03月03日 日米和親条約
 03月28日 吉田松陰、万次郎を見習い Perry 黒船で密航を試みるも失敗。
安政四(1857)年〔30歳〕
 06月17日 老中首座阿部正弘没(39歳)。
安政五(1858)年〔31歳〕
 09月 安政の大獄
安政六(1859)年〔32歳〕
 10月27日 吉田松陰処刑。
万延元(1860)年〔33歳〕
 01月19日 万次郎、咸臨丸に教授方通弁主務として乗船、浦賀出帆。
 02月26日 咸臨丸、米国 San Francisco 入港。
 03月03日 桜田門外の変。
 閏03月18日 6週間滞在後、咸臨丸 San Francisco 出帆。
 05月05日 浦賀着。
 08月25日 軍艦操練所教授方を免職。
文久元(1861)年〔34歳〕
 陽暦04月12日 南北戦争勃発
文久ニ(1862)年〔35歳〕
 07月21日 妻・鉄病没(24歳)。
文久三(1863)年〔36歳〕
 07月 英国艦隊、薩摩を砲撃。
元治元(1864)年〔37歳〕
 11月 薩摩藩、幕府より万次郎を借出し、薩摩開成所〔英語・航海・測量・造船等〕教授として赴任。
明治二(1869)年〔42歳〕
 明治新政府より開成学校(東大の前身)ニ等教授(翌年中博士に昇進)に任命。
明治三(1870)年〔43歳〕
 08月28日 普仏戦争視察団の林有造の通訳として横浜出帆。
 09月23日 San Francisco 入港。後、大陸横断鉄道で New Yorkへ(10月04日着)。
 10月06日 フェアヘーブンにホイットフィールド船長訪問。
 11月23日 London 着。
明治31(1898)年11月12日 脳溢血にて死去(71歳)。

 時間は遡るが、Perry が来航した嘉永六(1853)年、幕府老中首座阿部正弘は、土佐の万次郎を江戸に呼んだ。
 万次郎は、幕府首脳の会議において、米国事情について説明する。勿論、幕府も長崎のオランダ商館を通じて海外のことはある程度知っていたのだが、万次郎の話はそれを裏付けるばかりか、Perry 提督自身の履歴迄詳しく知っていたから、皆驚嘆したという。
 中でも重要だったのは、「米国には侵略の意図はなく、捕鯨船に対する補給を要求しているに過ぎない」ということを指摘したことであった。何と言っても、彼自身が捕鯨船の乗組員であったから、この情報には重みがある。
 幕府が Perry 艦隊をむやみに討ち払わなかったのには、万次郎の功績真に大であったと言えるだろう。〔中略〕
 この様に江戸末期にジョン万次郎という人物が現れたということは、真に日本にとって幸運であった訳だが、しかし、この様に幸運を幸運として成立せしめたのは、やはり日本の指導者層が有能であったことが大きい。今も見た様に、万次郎という天才的な人物が齎した情報の意味が、彼に接した島津斉彬、山内容堂、さらに幕府首脳にはちゃんと分かったのである。ここが、ほかの有色人種諸国と大いに違うところであった。〔以下略〕
【小生comment】ジョン・マンをわが子の様に可愛がり、一等航海士養成バートレット・アカデミーに迄進学させた捕鯨船船長ホイットフィールド氏の写真を blog でご覧下さい。どこか、日本の男優加藤剛の様な風貌が印象的である。
 ジョン万次郎の頭脳明晰さは、津本陽著『椿と花水木~万次郎の生涯』や永国淳哉[編]『ジョン万次郎~幕末日本を通訳した男』に詳しく説明されているので、こちらの方もご一読をお勧めする。因みに、万次郎の長男東一郎氏は、東京医学校〔東大医学部の前身〕卒で森鴎外と同期の医学博士である。
 尚、余談であるが、津本陽著『椿と花水木』に出て来るキャサリンという万次郎の新妻は fiction だという。

■次は、「三菱一号館美術館『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展を見て」です。
 小生、09月02日は、半休をとって、東京西新宿のホテルで催された、昔名古屋のホテル出向時代にお世話になったT会長(享年70歳、小生がホテル出向時代当時は社長)のお別れの会があり、お参りに行って来ました。

[04]『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展
  【左:絵】leaflet 岸田劉生「童女像〔麗子花持てる〕」1921年 & 【右:本】図録
【図録:左側】[国宝]曜変天目〔稲葉天目〕12~13世紀
【図録:右側】[重文]野々村仁清「色絵吉野山図茶壷」17世紀【右】
04leaflet

 そして、その帰途、丸の内の三菱一号館美術館で08月24日から11月03日まで開催中の『三菱が夢見た美術館~岩崎家と三菱ゆかりのコレクション』展を見て来ましたのでご報告致します。添付写真[04]のleaflet、図録、Postcardsをご覧下さい。左の「童女像」が、岸田劉生『童女像~麗子花持てる』1921年、右側図録の上にある Postcards の 左側が、国宝『曜変天目(稲葉天目)』。これは、中国宋の時代〔12~13世紀〕の作品で、世界に3品しかなく、いずれも日本にのみ存在。中でも、この「稲葉天目」は、将軍徳川家光が乳母春日局に下賜した逸品。小生、今回大変 lucky だったのは、この「稲葉天目」の展示期限が09月05日迄であったこと。死ぬ迄に是非一度は見ておきたい名品の一つであり、現物を見た瞬間、鳥肌が立つ程の感動を覚えました。凄く得した気分になりました。でも、皆さんご心配なく!
 この「稲葉天目」は、今月25日~12月05迄、世田谷区岡本にある静嘉堂文庫美術館にて「中国陶磁名品展」が開催され、そこでも展示されます。ご興味ある方は、そこで、三菱の岩崎家所蔵の名品の数々をご覧頂けます。小生も、11月に上京を予定していますので、その時には是非訪れてみたいと思います。
 さて、この展覧会に出展されている作品群は、流石は三菱というに相応しく、歴史資産としても、また芸術品としても、質の高さでは比類がない逸品ばかりで、今回だけでご紹介することができませんので今回は〔その1〕とさせて頂きます。
 尚、今回も添付写真は厳選しましたが、それでも容量 over になりますので、添付出来ないものは blog に掲載しましたので、本《会報》末尾にある URL を click して blog をご覧頂ければ幸甚です。

 [05]梅原龍三郎「読書」1911年〔blogご参照〕
051911

 ––––––––––––––––––––––––[06]岸田劉生「童女象(麗子花持てる)」1921年〔blogご参照〕
061921

 [07]藤島武二「日の出」1934年頃
071934

 ––––––––––––––––––––––––[08]安井曾太郎「菊」1936年
081936_2


■今日最後の話題は「ティエリー・フィッシャー指揮による(添付写真[09][10]blogご参照)名フィル第372回定期演奏会~Mahler『交響曲第5番』を聴いて」です。

[09]ティエリー・フィッシャー
09thierry_fischer

––––––––––––––––––––––––[10]program
10372

 小生、09月03日は、仕事で名古屋の某団体の会議に出席。そして、その後の懇親会が、名フィルの定期演奏会の鑑賞だったのです。
 曲目は、main が、Mahler の交響曲第5番嬰ハ短調。この曲は第4楽章亜ダージェット( Adagietto )が頗る有名ですね。
 この曲は、トマス・マンの小説『ヴェニスに死す』(Der Tod in Venedig)を、ヴィスコンティが映画化し、その映画の至る所で流れている mellow な曲と言えばご存知の方も多いと思います。

[11]Gustav Mahler
11gustav_mahler

 Gustav Mahler(1860.07.07-1911.05.18)〔添付写真[11]ご参照〕は、1901年秋、美貌・教養・才気に満ちたアルマ(Alma)・シントラ―(1879.08.31-1964.12.11)〔添付写真[12]ご参照[13]はblogご参照〕と出会い、翌1902年03月に結婚。Mahler 41歳、アルマ22歳。交響曲第3番の大成功の後、丁度この交響曲第5番の骨格が出来上がった頃のことである。

[12]&[13]Alma Mahler
12alma_mahler

13mahler

 因みに、Mahler が50歳で亡くなった時、アルマはまだ31歳。以後のアルマは、オーストリアの画家オスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka, 1886.03.01-1980.02.22)をはじめ、華麗な男性遍歴で知られている。添付写真[14]は、ココシュカの作品『風の花嫁』1914年であるが、model の女性が Alma であることは夙に有名な話である。

[14]Kokoschka「風の花嫁」1914年
14kokoschka1914


【後記】 昨日のSaturday School『滝川講座』に出席して来た。今回は、第18回『軍都豊橋』後篇と第19回『豊川海軍工廠』であった。是非お伝えしたい処だが、今日はvolumeも嵩んだので、この模様については、次号の《会報》に譲りたい。
 それでは、次号《会報》まで‥。(了)

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