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2010年10月30日 (土)

【時習26回3-7の会 0314】~「磯田道史:『龍馬史』を読んで」「10月28日:松坂屋美術館『古代カルタゴとローマ展』を観て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0314】号をお送りします。
 時節は「霜降」も半ば。七十二(しちじゅうに)候では10月28日~11月01日を次候『霎時施(しぐれときどきほどこす)』という。
 『時雨』というと次の俳句が浮かびます‥

  旅人と我名(わがな)よばれん初しぐれ  芭蕉

【解説】貞享四(1687)年、芭蕉44歳の作。『笈の小文』の旅の出立吟。
【意】今年初めての時雨模様の日、こういう日こそ自分の旅立ちに相応しい。行先を定めない漂泊の「旅人」と呼ばれたいものだ。

 さて今日もまず、【2637の会】2010年《クラス会 Part2》開催のご案内関連のお話からお伝えしたいと思います。
 今日は(10月30日)は、大変残念なお話から一つ‥。
 先週、《クラス会 Part2》参加を検討してくれていました今井さんから「欠席」のmail が届きました。

「(日程上)都合がつかないので(今回は)出席できません。次回には参加したいと思っています」 今井

 大変残念ですが、次回の「参加」を大いに期待しています。今井さん、宜しく!
 さて引き続き、皆さんからの朗報を期待しています。出欠状況を以下に記します。
 一人でも多くの皆さんからの朗報をお待ちしています。m(_ _)m

 【参加】菰田君、林(K)さん、山中さん、今泉〔04名〕
 【欠席】市川君、今井(土方)さん、二橋君、原田君、峯田君、山田君、渡辺さん〔07名〕
 【調整中】伊庭さん、石田君、伊東君、犬飼(石田)さん、千賀君、牧野君〔06名〕

01

■さて今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に、「磯田道史:『龍馬史』を読んで」をお届けします。
02

 人気のNHK大河ドラマ『龍馬伝』も11月いっぱいで最終回。「『龍馬暗殺』の刺客は誰か?」に対しての明確なる「龍馬暗殺に最終結論くだる」という大変面白い本が最近上梓されました。
 その「結論」をご紹介する前に、坂本龍馬という人間が登場して、歴史に大きく名を残し得た背景・土壌について、この本に従い、概略をご説明します。

 龍馬が生まれた坂本家は、高知城下でも有数の富商、才谷(さいたに)屋から分家した郷士の家柄であった。坂本家は、近江国(滋賀県)坂本の出身。
 土佐に移住した坂本家は、四代目、八兵衛門守之の時代に高知城下・上町に進出。質屋業を皮切に酒造業・呉服業へと事業を拡大。寛文年間(1661-73)には、高知城下屈指の豪商に迄成長。
 龍馬が生まれた坂本家の屋敷の広さは約500坪。これは五百石classの上級藩士の武家屋敷に匹敵する。因みに、土佐藩24万石には五百石取りの上級藩士は数十名しかいない。龍馬はそれ程の金持ちの家の次男坊として生まれたのである。後年、龍馬が亀山社中や海援隊で所謂 business を行い得たのも、豪商としての DNA が彼をしてそうさせたに違いない。
【経歴】
◆天保06(1835)年 11月15日、高知城下上町に生まれる。
◆嘉永06(1853)年 (18歳)03月、剣術修行の為、江戸京橋桶町の北辰一刀流「千葉定吉道場」に入門。06月ペリー、浦賀来航。12月佐久間象山に砲術を学ぶ。
◆安政01(1854)年 (19歳)01月、ペリー、再び来航。06月江戸より土佐に帰国。絵師・河田小龍【注1】と出会う。

 【注1】河田小龍は土佐藩士。米国より帰国した中浜(ジョン)万次郎を取り調べたが、万次郎と意気投合。米国事情を自ら描いた挿絵を入れ「漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)」5巻を表した。龍馬の姉乙女の夫、藩御用格医師、岡上樹庵と小龍は親しい間柄であり、龍馬は小龍から大船を使い、「『貿易』によって異国に追いつくこと」が日本のとるべき道だ〔=『海運立国』〕と教えられたという。

◆安政03(1856)年 (21歳)08月、再度、剣術修行の為江戸へ。
◆安政05(1858)年 (23歳)01月、千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」を授かる。04月井伊直弼が大老に就任。09月「安政の大獄」始まる。同月土佐に帰国。
◆文久01(1861)年 (26歳)09月、龍馬は武市半平太率いる土佐勤王党に加盟。この時より、龍馬の人生が大きく飛躍する。
◆文久02(1862)年 (27歳)01月、龍馬は武市半平太の命で、長州萩に久坂玄瑞を尋ねる。03月24日脱藩。08月江戸に入府した龍馬は、経緯は不明だが福井藩主松平慶永〔春嶽〕(添付写真[03]ご参照)に拝謁することが出来、大阪近郊の海防策などを語ったという。春嶽は、龍馬の話を聞き、思う処があってか自らの政治顧問である横井小楠と、幕府軍艦奉行並、勝海舟への紹介状を認めてやる。紹介状を貰った龍馬は10月勝海舟に会い直ぐ弟子入りしたという。【注2】
[03]松平慶永〔春嶽〕
03

【注2】勝海舟は彼の著『追賛一話』で龍馬についてこう評している。
「坂本氏かつて剣客千葉重太郎と伴ひ、余を氷川の僑居に訪へり。時に半夜、余ために我邦海軍の興起せざる所以(ゆえん)を談じ、娓々(びび)(=【意】ずっと)止まず。氏大いに会する所あるが如く、余に語りて曰く「今宵の事秘かに期する処あり。もし公の説明如何によりては敢て公を刺さんと決したり。今や公の説を聞き大いに余の固陋(=【意】見識が狭く頑固なこと)を恥づ。請(こ)ふ、これよりして公の門下生とならん」と。爾来、氏意を海軍に致す、寧日(=【意】平穏無事な日)なし‥

◆文久03(1863)年 (28歳)02月、勝海舟の執成で脱藩罪赦免に。05月16日勝海舟の命により、神戸海軍操練所(=「私塾・神戸海軍塾」)の運営資金援助懇請の為、越前福井・松平春嶽を尋ねる。この時、旧知の横井小楠を訪ねた【注3】。同月長州藩、下関海峡で米国船を砲撃。07月薩英戦争勃発。10月神戸生田海軍塾塾頭に。12月土佐藩の帰国命令に応じず、再び脱藩。

【注3】福井を訪れた龍馬は、小楠とともに三岡八郎(=『五箇条の御誓文』起草者の一人「由利公正(きみまさ)」)邸に向かう。その時の模様を三岡がこう述べている。
「小楠邸と拙宅は足羽川を隔て向いにあった。ある日宴会で遅く帰った処、夜中に大声で戸を叩く者がある。みると小楠が坂本と一緒に小舟に棹差て来た。そこで三人は炉を抱えて飲み始めた。そして、坂本が愉快極まり歌ったが、その声が頗る妙であった」と。その歌とは‥

 君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行末  〔坂本龍馬〕

◆元治(1864)01年 (29歳)06月、京都にて池田屋騒動【注4】。07月禁門の変。08月お龍と内祝言。勝の使者として西郷隆盛に面会。08月、第一次長州征伐。

 【注4】池田屋騒動:元治01年6月5日(1864年7月8日)、京都三条木屋町の旅館・池田屋で新撰組が、潜伏中の長州藩・土佐藩等の尊皇攘夷派を襲撃した事件。

◆慶応01(1865)年 (30歳)05月、長崎にて「亀山社中」設立。08月、英国商人Gloverより薩摩藩名義にて小銃を買い付け、長州に運ぶ。11月、第二次長州征伐。
◆慶応02(1866)年 (31歳)01月、22日薩長同盟成立。23日京都伏見・寺田屋で幕吏の襲撃を受ける。03月妻お龍と薩摩に新婚旅行。07月亀山社中解散。12月徳川慶喜、第15代将軍に。孝明天皇崩御。
◆慶応03(1867)年 01月、長崎で土佐参政・後藤象二郎と面会。04月、脱藩罪が赦され、土佐藩海援隊隊長に任命される。04月23日「いろは丸」沈没事件起きる。後に紀州藩より賠償金7万両を勝ち取る。06月、後藤象二郎等と「船中八策」を作成。京都にて薩土盟約を成立させる。10月14日大政奉還。10月30日福井で三岡八郎と新政府の財源について話し合い。11月05日帰京。11月10日永井玄蕃と接触開始。11月15日京都・近江屋で刺客に襲われ、中岡慎太郎(添付写真[04]ご参照)と共に絶命。
[04]中岡慎太郎
04

––––––––––––––––––––––––[05]龍馬暗殺関連京都地図
05

 それでは、龍馬を襲ったのはいったい誰であったか?
 結論から先に述べよう。
 龍馬暗殺〔襲撃〕の立案者は、京都守護職会津藩公用人、手代木勝任(てしろぎかつとう)。実行犯の長は、勝任の実弟、佐々木只三郎である。手代木は、嘉永六年、藩主・松平容保の側近として仕えた。文久03(1863)年、藩主・容保が京都守護職を拝命すると勝任は会津藩公用人として上洛し、渉外関係や不逞浪士逮捕の任を任され、(会津)藩士は勿論、新撰組や京都所司代、町奉行所の指揮を執った。手代木が明治37(1904)年、死の直前それまで隠していた龍馬暗殺について話し始めたのである。家族たちはそれを『手代木直右衛門伝』に纏め出版。詳細は、本書を読んで頂くとして「坂本(龍馬)を殺したるは実弟只三郎なり」と手代木が語ったという。因みに、只三郎は京都見廻組で、従前、浪士組の長、清河八郎も斬っている。
 龍馬暗殺は、本書では手代木勝任と佐々木只三郎兄弟が謀り、京都守護職松平容保の命令が出て実行されたものであろう、という。只三郎指揮下で、渡辺篤、今井信郎ら数名。容保から今井信郎に長刀と褒状が出ていることからも、彼が承認した可能性が高い。現在判っている資料からは、龍馬暗殺は会津藩が見回り組に命じて行った、政治的暗殺であった。(了)

【小生 comment】
 一介の脱藩浪士でしかない龍馬が、遠縁の武市半平太はともかく、吉田東洋、後藤象二郎、松平春嶽、勝海舟、横井小楠、久坂玄瑞、桂小五郎〔木戸孝允〕、西郷隆盛、大久保利通、Glover等、錚々たる人物達と太い関係を構築できる力の源泉は何処にあるのであろうか? 本書の著者磯田氏はこう述べている。
「龍馬の手紙の顕著な特徴は、家族に、政治活動の内容、自分が知った様々な内幕等を全部喋ってしまうことである。〔中略〕このお喋りな性格は、龍馬暗殺に大きく関係している。今何処にいて何をしているかを直ぐ手紙に書いてしまう。だから、龍馬の居場所等の情報は直ぐ外部に漏れる。龍馬が人並み外れた求心力を持ち、数々の大胆な周旋を可能にしたのも、この公明正大さ、明るさ、警戒心のなさ、無邪気さによるところが大きいのは間違いない。ただ、しばしば、最大の長所が最大の欠点になる様に、結局彼の長所が彼の命を奪うことにもなった」と。
 NHK大河ドラマ「龍馬伝」も第4部に突入して、最大のクライマックス龍馬暗殺が秒読みになってきた。暗殺シーンは、来月11月28日放送の最終回の予定だ。
 ドラマでは誰が龍馬暗殺の真犯人とされるのか‥! 注目して見てみたい。

06leaflet_20101028

■幕末の「日本史」に続いては、「世界史」の話題です。10月28日に仕事で名古屋に出かけた帰り道、松坂屋美術館で開催中の『古代カルタゴとローマ展』を見て来ましたのでご紹介させて頂きます。
 「カルタゴ(Carthage)」と言えば、フェニキア人。
 前1200-1100年 フェニキア(Phoenicia)人は、フェニキア地方(現・レバノン(Lebanon))の都市を基点に盛んな海上交易を行った。
 前1050年頃 アルファベット(alphabet)の原型、フェニキア文字が誕生。
 前264-241年 第1次ポエニ戦争(First Punic War) 前241年ローマが最終的に勝利し、カルタゴはシチリアを失う。
 前218-201年 第2次ポエニ戦争(Second Punic War)
〔前216年 カンネ―(Cannae)の戦でハンニバル(Hannibal Barca 前247-前183年)率いるカルタゴ軍の大勝利。〕
〔前202年 ザマの戦(Battle of Zama)でスキピオ(Publius Cornelius Scipio Africanus Major)率いるローマ軍ががハンニバルのカルタゴ軍を殲滅。〕
 前149-146年 第3次ポエニ戦争(Third Punic War) ローマ軍カルタゴを3年間包囲し壊滅。
 前29年 皇帝アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus)、カルタゴ植民市に入植者募集。
 帝政ローマ以降3世紀末頃 カルタゴはローマ・アレクサンドリアに次ぐ地中海世界の大都市として隆盛。
 310年 コンスタンティヌス1世と覇権を争っていたマクセンティウスがカルタゴを荒らす。
 430年 ヴァンダル族、アフリカ州北部を侵略。
 533年 ビザンティン軍、ヴァンダル王国を破り、カルタゴは東ローマ帝国の支配下に入る。
 647年 イスラム教徒のアラブ軍、カルタゴを征服、カルタゴに代わってチュニスが誕生。

《添付資料》
[07]カルタゴ遺跡01
0701

––––––––––––––––––––––––[08]展示作品を示した leaflet〔左上〕現存する唯一のハンニバル軍関連の『鎧』 〔右上〕金銀自然合金製のコイン
08leaflet_electrum_coin_264bc241bc

[09]カルタゴ遺跡02
0902

––––––––––––––––––––––––[10]ハドリアヌス帝像東部119年
10119

[11]マルクス・アウレリウス帝像東部2世紀末
112


【後記】今日のお別れは、今日の《会報》冒頭でご紹介した芭蕉の俳句から、「初時雨」をtheme にもう一句ご紹介してお別れしたいと思います。

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(なり)  芭蕉

【解説】元禄二(1689)年『猿蓑』の巻頭の俳句。伊賀越えの山中の景。
【意】山路に初時雨が降りかかる。その時雨に濡れて猿がいるのが見える。猿はこちらを向いて小蓑を欲しがっている。そんな顔に見えるのだ。〔山口誓子『芭蕉秀句』より〕

 時の移ろいは本当に早いものです。猛暑だと思っていたら、もう晩秋の様な冷え込みを感じる今日この頃ですね。風邪をひかぬ様ご自愛下さい。
 では、また‥。(了)

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