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2010年11月の4件の記事

2010年11月26日 (金)

【時習26回3-7の会 0318】~「明日(11月27日)《クラス会 Part2》は宜しく!」「11月12日:銀座ナカジマアート『堀文子』展&損保ジャパン東郷青児美術館『ウフィツィ美術館~自画像コレクション』を見て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0318】号をお送りします。
 明日は、夕方18時00分から、いよいよ【2637の会】《クラス会 Part2》が開催されます。
 その模様は、次号【0319】号にて詳細をご報告させて頂くとして、今日は、《クラス会 Part2》への出欠状況について、頂戴した mail と電話についてご報告させて頂きます。
 前号の《会報》以降、石田君・伊東君・伊庭さん・鈴木Y次君・竹内君(以上、五十音順)から mail を頂戴しました。
 mail を下さった皆さん、有難うございます。m(_ _)m
 そして、石田君とY次君から「参加表明」を頂戴しました。有難うございます。
 更に、電話ですが、犬飼(石田)さんと牧野君から「出席表明」を頂戴しました。
 これで27日(土)《クラス会 Part2》の出席表明者は〔石田・犬飼・今泉・菰田・鈴木(雄)・千賀・林(K)・牧野・山中 (以上五十音順、敬称略、以下同じ)の〕9名になりました。
 今年2010年の【2637の会】《クラス会》は、08月14日の《クラス会 Part1》に鉄三先生と11名〔石田・市川・今泉・菰田・千賀・林(K)・原田・彦坂・牧野・峯田・渡辺 (以上 同上)〕が参加。うち〔石田・今泉・菰田・千賀・林(K)・牧野(以上 同上)の〕6名が今回の《クラス会 Part2》にも参加してくれたので、今年は〕(先生を含めず)14名〔延べ20名〕が参加してくれたことになります。
 幹事として、【2637の会】members 皆さんが積極的に参加下さった心意気に対して本当に嬉しく思います。
 そして、幹事をやらせて頂いた満足感を心から実感しています。皆さん、本当に有難う!

 ところで、新たに本 mail でご紹介させて頂いた《Part2》「出席表明者」4名〔石田・犬飼・雄次・牧野・各氏〕のうち、犬飼さんとY次君は、2006年に始めた【2637の会】《クラス会》では初めての参加となります。
 「新しい仲間が《クラス会》に加わってくれる」‥。幹事として、これに勝る喜びはありません(感涙)!
 それでは、折角ですから mail でお返事をくれた5名の皆さん全員の mail と、犬飼さん&牧野君の電話での comment をご紹介させて頂きます。
 
【石田君】
「 今泉 悟 様
前略
いつも大変にお世話になります。
クラス会に何度もお誘いいただいているのに、今日までお返事ができなくて申し訳ありません。
都合がつきましたので、クラス会に参加させて頂きます。
よろしくお願い致します。
                              草々
                              石田 Y博 」

【伊東君】
「 いつもお世話になります。
 同窓会の件ですが、出席できなくなりました。
 ご案内有り難うございました。
 11月22日 伊東M弘 」

【伊庭さん】
「 今泉 悟様
いつもご連絡をありがとうございます。
27日のクラス会の件ですが、やはり翌日の行事の関係で落ち着かず、残念ですが、
欠席とさせていただきます。
(昼でしたら、何とかなるのですが…)
出席される皆さんに「伊庭は、細々と仕事を続けております。また、皆さんと明るい
60代を目指して語り合いたいと思っています。」とお伝えください。
では、よろしくお願いいたします。 」

【鈴木(Y)君】
「 今泉悟様
鈴木Y次です。
【2637の会】のメール配信、及びクラス会のお誘い有難う御座います。
幹事泣かせの沈黙(返信の遅れ)、申し訳ありませんでした。
朗報です。今回11/27のクラス会、出席させていただきます。
ハゲ親父が当日うろうろすると思いますがよろしくお願いします。 」

【竹内君】
「 今泉悟様
せっかくのお誘いですが、残念ながら出席できません。
少ないメンバーでも楽しくやってください。
         竹内T也 」

 それから電話でお話した【犬飼さん】からは、以下のお話を頂戴しました。
「 林(K)さんから《クラス会》へのお誘いの電話を貰い出席することにしました。
豊橋は久しぶりですが、楽しみにしています。宜しく!」
 同じく電話でお話した【牧野君】からは、以下のお話を頂戴しました。
「 《クラス会》に出られる様になりました。今から〔‥【小生注】11月26日午後19時02分‥〕でもいいかなぁ?」
 どうぞ、どうぞ、こんなに嬉しいことはありません。牧野君、ありがとう!

 それでは皆さん! 今日、11月27日(土)午後6時00分より
 「トライアゲイン〔住所:豊橋市駅前大通2丁目33-1 B1F〕」にてお待ちしています。
 楽しいひとときを過ごしましょう。

■続いての話題です。
 今日は、これも11月12日(金)に上京した折り、仕事が終わってから、銀座西五番街にあるナカジマアートで開催していた『堀文子』展と、西新宿にある損保ジャパン東郷青児美術館にて開催中の『ウフィツィ美術館~自画像コレクション~巨匠たちの秘めた素顔』展を見て来ましたので、ご紹介させて頂きます。
 忙中閑というか、仕事を終えた後、美術館を訪れるのは、小生にとって stress 発散になり大変よい。

[20]ナカジマアートがある銀座・西五番街
20

 今日ご紹介する2つの展覧会のうちの第一弾は、『堀文子』展である。
 会場の銀座のナカジマアートでの『堀文子』展は、従前、2008年12月の《会報》【0218】号でもご紹介させて頂いたことがあります。
 今回は、そのナカジマアートから、『堀文子』の2010年の新作発表を兼ねての展覧会であった。
 展示作品のうち、postcard になったものを全6枚を添付します。ご覧下さい。
 今回は、「ミロに学ぶ」と題した作品が3点ほか、全6枚ご紹介します。
 堀文子氏は1918年07月生まれ。現在満92歳の現役の日本画家である。が、作品は純日本画も数多いが、今回の「ミロに学ぶ」にある様に、日本画の枠に捉われない modern で斬新な作品も多く、見る者に新鮮さを与えてくれる。

[21]「ニューロンは考える」
21_2010

––––––––––––––––––––––––[22]「アリゾナの岩絵」 2010年
22_2010_2

[23]「ミロに学ぶ」[01] 2010年
2301_2010

––––––––––––––––––––––––[24]「落日」 2010年
24_2010

[25]「ミロに学ぶ」[02] 2010年
2502_2010

––––––––––––––––––––––––[26]「ミロに学ぶ」[03] 2010年
2603_2010


 続いて第二弾は、損保ジャパン東郷青児美術館で11月14日まで開催されていた『ウフィツィ美術館~自画像コレクション~巨匠たちの秘めた素顔』展についてである。
[01]a
01a

 「ウフィツィ美術館」と言えば、ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』(1485年頃)や、ラファエロ『ヒワの聖母』(1505-06年)をはじめ、イタリア・フィレンツェの富豪メディチ家が所蔵したルネッサンス絵画をすぐ思い浮かべる。
 が、今回の展覧会は、ちょっと趣が異なるのである。
 「ウフィツィ美術館( Galleria degli Uffizi )」の Uffizi はイタリア語で事務所( Office )を意味し、1581年に第2代トスカナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチが政庁館(= Uffizi)に一族の収集品を陳列したことに由来する。
 その中で、第5代大公の弟レオポルドが1664年に創始した著名な画家の「自画像コレクション」は今日までに1,700点を超える規模となった。
 今回の展覧会はその「自画像コレクション」の中から現代までの78点を選び展示したものである。
 実に様々な著名画家たちの自画像を見ることができ楽しかった。
 今日は、その中から小生の好みで選んだ全14点添付します。ご覧下さい。

[01]b『マリー・アントワネットを描くヴィジェ=ル・ブラン1790年
01b_1790

––––––––––––––––––––––––[02]『モーリス・ドニ』1916年
02_1916

[03]『シャガール』1959-68年
03_195968

––––––––––––––––––––––––[04]『レンブラント』1655年頃
04_1655

[05]『デ・キリコ』1938-39年
05_19389

––––––––––––––––––––––––[06]『藤田嗣治』1926年
06_1926

[07]『ジャコモ・バッラ』1928年
07_1928

––––––––––––––––––––––––[08]『アンナ・ピアットリ・バケリーニ』1744年
08_174450

[09]『ローザ・ボヌール』1860-65年
09_18605

––––––––––––––––––––––––[10]『フレデリック・レイトン』1880年
10_1880

[11]『ウォルター・クレイン』1912年
11_1912

––––––––––––––––––––––––[12]『エミール・クラウス』1913-14年
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[13]『レナート・グットゥーゾ』1940年
13_1940

––––––––––––––––––––––––[14]『ジャンニ・カッチャリーニ』2000-02年
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■今日のお別れは、木田元著「一日一文 英知のことば」〔岩波書店〕から11月29日【エピクロス(前341年~前270年頃)】の『教説と手紙』よりをお届けします。

 若者がではなくて、美しく生を送って来た老人こそが、祝福されていると考うべきである。というのは、男盛りの若者は、考えが定まらず、運によって、激しく弄(もてあそ)ばれるが、老人は、かつては期待することすら難しかった善いことどもを、損われることなく安全に感謝の念によって包み、老齢を、あたかも泊り場として、そこに憩うているからである。

【小生 comment】
 我々は、まだ老境とまではいかないが、若人の浅薄な考えに対してそれを諭すことができる程度の豊富な経験が培った advantage はある。その我等が率先垂範して今の沈滞した日本を変えて行かなければいけない責務がある、と思う。
 現代日本の厳しい現実社会も、俯瞰して考え行動する心構えを持ってすれば、きっといい解決策が見出されると確信するというのは言い過ぎだろうか。
 明日の《クラス会 Part2》で、参加してくれる classmates の意見を聴いてみたいものである。

 《クラス会》の様な気の置けない親しい同期の仲間との集いって、本当にいいもんですね。
 次号では、明日開催の【2637の会】《クラス会 Part2》の開催報告をお贈りします。楽しみに‥。
 では、また‥。〔了〕

2010年11月20日 (土)

【時習26回3-7の会 0317】~「11月07日:『鎌倉逍遥』」「11月14日『時習26会第24回ゴルフ・コンペ』開催報告」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0317】号をお送りします。
 今日、J-league の名古屋グランパスが湘南ベルマーレに勝ち、league 初優勝を飾りました。
 今年は、中日ドラゴンズと併せ、二大プロスポーツの覇者を名古屋が独占。嬉しいことです。が、何故か嬉しさがこみ上げて来ない。
 景気がよくないせいか? 自分が年をとったからなのか? よくわからない‥。

 時節を見れば、明後日11月22日は二十四節気でいう『小雪』。昨今、「小雪」が舞うほど寒さが厳しくないとは言え、早朝など時折、急に寒さを実感できる今日この頃です。皆さん、ご自愛下さい。

■さて、今日最初の話題は、一週間後に迫った【2637の会】《クラス会 Part2》の出欠状況です。
 先日、守田君から「欠席」のmail を頂戴しました。守田君へ、mail 連絡ありがとう! また、timing が合ったら是非出席して下さい。
 今日11月20日20時現在、5名の皆さんから参加表明を頂戴しています。出席者は、ここ2週間ほど変わりありません。
 11月27日(土)午後6時00分~「トライアゲイン〔住所:豊橋市駅前大通2丁目33-1 B1F〕」です。
 楽しいひとときを過ごしましょう。

■続いての話題です。
 今週一週間は、会社の routine work しかありませんでしたので、先週の話題から‥。

 前《会報》にて、去る11月06(土)~07(日)に、社員旅行で『横浜&鎌倉』へ入って来たことはお伝えしました。
 そこで今日は、二日目の07日は、個人行動の一日でしたので、小生『鎌倉逍遥〔鎌倉五山と十一面観音像巡り他〕』をご紹介致します。
 但し、日本史に興味がない人はつまらないと思いますので、読み飛ばして下さい。m(_ _)m

 因みに、社員旅行初日06日は、団体行動でしたが、鎌倉は「鶴岡八幡宮」と「高徳院〔長谷の大仏〕」のお決まりの course を見ました。
 二日目は、宿泊先の横浜の伊勢佐木町のワシントン・ホテルを朝07時半に出発。
 JR京浜東北・根岸線「関内」駅から「横浜」〔東海道本線〕→「戸塚」〔JR湘南新宿ライン〕と乗り継ぎ、08時過ぎ「北鎌倉」駅に到着。

【円覚寺】〔08時27分~09時00分〕
 まず、最初に向かったのが「北鎌倉」駅そのものが境内にあるという「円覚寺」。この寺は、鎌倉五山第二位。正式名称「瑞鹿山円覚興聖(こうしょう)禅寺」。臨済宗円覚寺派大本山。拝観時間が08時00分と早かったのは時間を有効に活用でき有難かった。
 弘安05(1282)年、鎌倉幕府八代執権北条時宗(1251-1284)が、宋の無学祖元(1226-1286)を招聘。元寇〔文永11(1274)年、弘安04(1281)年〕で亡くなった日本・元両軍の死者を慰霊する為、時宗が祖元を開山(かいさん=初代住職)に創建。当時の伽藍は焼失し、現在ある七堂伽藍は室町から江戸時代のもの。17の塔頭(たっちゅう:大寺に所属する小寺院)を従え、荘厳な趣は流石である。円覚寺には「舎利殿」と「洪鐘(おおがね)(=正安03(1301)年北条貞時(1271~1311)寄進)」の二つの国宝〔添付写真[01]国宝『円覚寺舎利殿』[02]国宝『洪鐘』ご参照〕がある。

[01]
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‥〔 200m ※ 〕‥累計 200m ※:道路ナビで寺院間の距離を計測試算してみました‥

【東慶寺】〔09時05分~09時30分〕
北鎌倉駅の踏切を渡り数分歩くと、東慶寺に着く。正式名称「松岡山東慶総持禅寺」。臨済宗円覚寺派。縁切寺・駆込寺として有名。創建〔第一世〕は、北条時宗夫人の覚山志道尼(北条貞時の母)。第五世は、後醍醐天皇(1288-1339, 在位1318-1339)皇女、用堂尼。建武の中興の立役者、大塔宮(おおとうのみや)護良(もりなが( or もりよし))親王(1308-1335)の姉に当たる。時代は下り、第二十世は、豊臣秀頼息女、奈阿(なあ)姫。剃髪後、天秀尼。
 この寺には、今ご紹介した3人以外にも、西田幾多郎、鈴木大拙(=仏教学者)、和辻哲郎、小林秀雄ら明治以降の著名な文人・文化人の墓が沢山ある。〔添付写真[03]東慶寺を示す石碑 [04]東慶寺・参道 ご参照〕

[03]
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‥〔 300m 〕‥累計 500m

【浄智寺】〔09時33分~09時45分〕
 東慶寺から更に南東へ2~3分歩くと、浄智寺である。鎌倉五山第四位。臨済宗円覚寺派。1281年北条時頼三男宗政の菩提を弔う為に創建。
 現在は、三門、唐様鐘楼門、曇華殿、方丈、客殿等が伽藍をなしており、深緑に抱かれつつ往時を偲ばせてくれる。〔添付写真[05]浄智寺前の観光標識 [06]浄智寺・唐様鐘楼門 ご参照〕

[05]
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‥〔 1,100m 〕‥累計 1,600m

【建長寺】〔09時55分~10時25分〕
 次に向かったのは建長寺である。鎌倉五山第一位。臨済宗建長寺派大本山。山号「巨福山(こふくさん)」。正式名称「建長興国禅寺」。 鎌倉時代の建長5(1253)年創建。開基は鎌倉幕府第5代執権北条時頼(1227-1263)。開山は南宋の禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)。 我国初の禅宗道場。庭園は夢想礎石作。 因みに、建長寺の国宝は、三門右手の鐘楼に「梵鐘」(1255年作)、「絹本淡彩蘭渓道隆像」、「大覚禅師墨蹟 法語規則」の3つ。実際に見ることができたのは「梵鐘」だけだった。この「梵鐘」は、先程ご紹介した円覚寺の「洪鐘」と、大船の常楽寺の鐘と共に「鎌倉の三名鐘」と称されるそうだ。更に、仏殿の前庭には蘭渓道隆が宋から伝えたとされる柏槇(びゃくしん)の古木7本が750年の歳月を生き抜き威容を示してくれている。
〔添付写真[07] ]建長寺・重文『三門』[08] 柏槇の古木 [09]国宝・建長寺『梵鐘』 ご参照〕

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[09]
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‥〔 800m 〕‥累計 2,400m

【明月院】〔10時32分~10時57分〕
 建長寺を後にした小生、明月院を訪れることを忘れていることに気付き、踵を返すこと徒歩7~8分。
「あじさい寺」という愛称でもよく知られるこの寺は、文永05(1269)年、執権北条時宗が蘭渓道隆を開山に禅興寺を創建。康暦02(1380)、関東管領上杉憲方(のりかた)が寺域を拡大し、それ迄の「明月庵」から「明月院」と改名され、同寺塔頭〔=支院〕の第一位に。更に室町幕府三代将軍足利義満の時代に禅興寺は鎌倉五山に次ぐ関東十刹の第一位となった。しかし、明治初年の神仏分離で禅興寺は廃絶し、明月院だけが今日迄残った。
 庭園内は至る所に紫陽花が植えられており、6月の満開の時節には壮観な美しさであろうことが容易に想像出来た。添付写真[11]は、本堂から池を望む。簡素だが洗練された美しさが印象的だった。〔添付写真[10]明月院・鎌倉幕府第五代執権「北条時頼」の墓 [11] 本堂から池を望む ご参照〕

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‥〔 3,100m 〕‥累計 5,500m

【壽福寺】〔11時30分~12時00分〕
 鎌倉五山第三位。正式名称「亀谷山(きこくさん)金剛壽福禅寺」。臨済宗建長寺派。開山:栄西、開基:北条政子。墓地には政子と息子実朝の墓がある。尚、高濱虚子、星野立子、大佛(おさらぎ)次郎の墓もここにある。
 平安時代、検非違使、平直方が鎌倉に居を構えて以来、この地は桓武平氏の東国における拠点。その直方の娘婿となったのが源頼義(988-1075)。ここで頼儀の嫡男、源義家(1039-1106)が生まれた。以後、鎌倉と源氏の縁が始まる。義家の嫡子は四男源義忠(1083-1109)。義忠の養子が為義(1096-1156)。為義の嫡男が源義朝(1123-1160)。その義朝が館を構えた鎌倉・亀ヶ谷(かめがやつ)が正にここである。
 山門から中門に至る参道の敷石は風情があっていい。仏殿を右手に見乍ら墓地へ向かった。政子・実朝の墓と虚子の墓を拝む為である。〔添付写真[12]壽福寺・山門から中門へ至る参道 [13]北条政子の墓 ご参照〕

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 壽福寺を後にして、東へJRの踏切を渡り1~2分歩くと、そこはもう鶴岡八幡宮の参道・若宮大路。三の鳥居、舞殿、本宮が望める。
 この若宮大路にあるラーメン屋で昼食を済ませ、そこから更に東へ2キロ弱の所にある、鎌倉五山第五位の浄妙寺を目指した。
 ところが、もう少しで浄妙寺という所で、杉本寺が目に留まった。「そう言えば、ここは坂東三十三観音霊場の第一番札所だ」と思い出し立ち寄った。

‥〔 2,600m 〕‥累計 8,100m

【杉本寺】〔12時41分~12時54分〕
 正式名称「大蔵山(だいぞうざん)杉本寺観音院。天台宗。開基:光明皇后、開山:行基、創建は天平06(734)年と伝えられる。本尊の三体の十一面観音像は向かって右:恵心僧都・源信(942-1017)作、中:慈覚大師・円仁(794-864)作、左:行基(668-749)作と言われる。この事実を知ったのは後日のこと‥。
 そそっかしい小生は、本尊お前立ちの十一面観音像を本尊だと思い違いをした為、三体の本尊をジックリ拝まなかったのが残念であった。(笑)
 因みに、お前立ち・十一面観音像は運慶作で源頼朝寄進と伝えられる。なかなかいいお顔立ちの像であった。〔添付写真[14]杉本寺・本堂 ご参照〕

[14]
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‥〔 500m 〕‥累計 8,600m

【浄妙寺】〔12時58分~13時13分〕
 杉本寺から東へ数分歩くと浄妙寺である。
 この寺は、鎌倉五山第五位。臨済宗建長寺派。開基は、源頼朝の家臣、足利義兼(よしかね)。1188年創建。開山:退耕行勇(たいこうぎょうゆう)律師。正式名称「稲荷山浄妙禅寺」。代々足利氏の菩提寺。創建時は密教系で「極楽寺」と称したが、建長寺開山蘭渓道隆の弟子、月峯了然(げっぽうりょうねん)が住職となり、禅刹となる。寺名もこの時(1257~59年)浄妙寺とした。〔添付写真[15]浄妙寺・入口 ご参照〕

[15]
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‥『鎌倉駅』まで〔 2,900m 〕‥累計 11,500m

 まだ帰りの新幹線の時間に間に合う。「長谷寺の十一面観音も見てみたい」と思い立ち、再び徒歩で鎌倉駅まで歩く。その距離2.9キロを30分を要した。朝08時過ぎから歩き詰めなので結構しんどい。

‥『長谷駅』から〔 300m 〕‥累計 11,800m

【長谷寺】〔14時05分~14時30分〕
 江ノ電に乗り、3つ目の駅「長谷」下車し北上。前日訪れた「長谷の大仏」へ向かう道を数分歩き、途中で西へ左折し、長谷観音へ。正式名称「海光山(かいこうざん)慈照院長谷寺」。浄土宗。藤原不比等の次男(藤原北家の始祖である)藤原房前が開基。天平08(736)年創建。宗派は、創建時は真言律宗だったともされるが、江戸時代初期には浄土宗に。坂東三十三観音霊場の第四番札所である。本尊の十一面観音像の制作年代については未詳だが、室町時代に順ずるものた確かと長谷寺のhomepage にある。
 それにしても総高 9.18m のお姿は壮観である。〔添付写真[16]長谷寺・総門 [17]長谷寺・十一面観音像 ご参照〕

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‥〔 700m 〕‥累計 12,500m

【鎌倉文学館】〔14時40分~15時15分〕
 体力的にかなり疲れて来たが、ここまで来たら前から一度訪れたいと思っていた「鎌倉文学館」へ。
 この建物は、旧前田侯爵の別邸として建築されたもので、現存するのは1936年建築のもの。
 1983年前田家より鎌倉市に寄贈。 1985年 10月31日『鎌倉文学館』として開館。
「川端康成と三島由紀夫~伝統へ、世界へ」という企画展が開催されていた。
 鎌倉ゆかりの文学者は、優に300人を超える。各文人の居所(だった所も含む)を赤い seal でplot してある鎌倉市の地図が関内にあったが、その地図が真っ赤に染まった様に見える程、街中に文人が住んでいる(或いは、住んでいた)。〔添付写真[18]鎌倉文学館となっている旧前田侯爵邸 [19]鎌倉文学館企画展『川端康成と三島由紀夫』展〔‥blogご参照‥〕 ご参照〕

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‥『長谷駅』まで〔700m 〕‥累計 13,200m


■今日のお別れは、去る11月14日(日)に開催された「第24回・時習26会ゴルフコンペ開催報告」についてです。
 当日は、サン・ベルグラビアCCにて、08時45分の start で催されました。
 今回の参加者数は13名。
 天候は、快晴とまではいきませんでしたが、強風もなく、condition は良好。
 同期の仲間との和気藹藹の大変楽しい一日を・u梔゚ごすことが出来ました。
 今回の優勝者は、福井英輔君【3-9】が第12回以来の2回目の優勝。
 最近は、年1回のtime span での開催が続きましたが、「やっぱり春と秋の年2回開催しよう!」ということになり、次回第25回大会は、来春、キャッスル・ヒルCCで開催する運びとなりました。
 幹事の中嶋君【3-2】や安井君【3-8】からも、「Golf をやる時習26回生にもっと声をかけて賑やかにやろう!」と皆さんの積極的な参加を期待しています。
 添付写真[20]写真は、参加者全員の記念写真です。みんな、とっても元気な姿で写っています。
2026_in_20101114

 こうした同期の集いって、本当にいいもんですね。
 来週は、いよいよ【2637の会】《クラス会 Part2》です。楽しみですね‥。
 では、また‥。〔了〕

2010年11月13日 (土)

【時習26回3-7の会 0316】~「11月08日:吉川洋講演会『日本経済の現状と課題』を聴いて」「11月08日:横浜美術館『ドガ展』を観て」「11月12日:『【2637の会】ミニミニクラス会開催報告』」

■今泉悟です。
 豊橋市内の街路樹の銀杏も最近漸く黄色く色づきはじめ、「秋」を実感できる様になりました。皆さん、如何お過ごしですか。
 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0316】号をお送りします。
 小生、先週土日から今日13日(土)までの一週間は多忙でした。
 まず、11月06(土)~07(日)は、勤務先の年に一度の社員旅行。行き先は「鎌倉&横浜」。11月08(月)と12(金)は、仕事で東京出張。11月09(火)は、仕事終了後、名古屋へと結構 hard schedule で正直疲れました。

■さて、最初の話題は、11月27日に開催予定の【2637の会】《クラス会 Part2》の出欠状況ですが、一週間前と状況は変わっていません。皆さんのご参加を心よりお待ちしています。

■続いての話題は、掲題・副題にあります様に、「11月08日:吉川洋講演会『日本経済の現状と課題』を聴いて」です。
01 吉川洋氏
 01

 この講演で、吉川氏が言いたかったことをざっと纏めると以下の通りです。尚、詳細は、添付資料の講演会録をご覧下さい。
 〔吉川洋氏講演会内容〕
 「hiroshi_yosikawa_nipponkeizai_no_genjou_kadai_20101108.doc」をダウンロード

 日本は Lehman Shock 後、輸出依存度が大きかったが為に、世界経済の縮小の煽りを最も大きく受け景気が落ち込んだ。だが今、日本経済は拡大基調にある。
 ところが日本は、所得格差が拡大しつつあると国民の多くが思う様になり、国中に閉塞感が蔓延している。
 が、この所得格差拡大の最大要因は実は高齢化なのである。
 高齢化の進展は、社会保障関連費を毎年1兆円ずつ増加させることになる。
 そして、その財源となる国家財政は大幅な歳入欠陥を生じている為、財政健全化に向け、「経済成長による歳入増加」が喫緊の課題とされる。
 「少子高齢化により人口減少が避けられない為、経済成長は無理だ」という意見が多く聞かれ、日本中に閉塞感が漂っているのも事実。
 しかし、私(吉川)はそうは思わない。我国の高度成長時代もGDP成長率に占める労働人口の増加の寄与度はほんの僅かだった訳で、大半が技術革新による労働生産性向上による伸びだったのである。人口減少は経済成長を減速させる力としては極めて弱いと考えてよい。恐れることはないのである。
 財政悪化についても、数年先を展望して徐々に国の借財が減って行けば、国家財政が破綻することはない。
 であるから、今後の日本経済が成長すべく、全力を傾注していくべきだ。兎に角「経済成長」が日本の問題解決の要諦である。

【小生comment】
 講義内容は、少々難しかったが、吉川教授が言いたかったことは、「高い技術力を持ったニッポンよ、その技術力で経済成長に全力を傾注せよ! そうすれば必ず復活できる! 頑張れニッポン!」という yell であったと感じた。

■今日二つ目の話題は、掲題・副題にある様に、「横浜美術館『ドガ展』を観て」である。吉川氏の講演会の後、向かったのが横浜美術館である。

02 エドガー・ドガ( Edgar Degas )1895年頃
02

 図録の表紙にもなっている Degas の「エトワール( L'Etoile ( Ballet(The Star)))」を是非見たくて訪れてみた。
 因みに「エトワール」とは、パリ、オペラ座で主役を務める踊り子の中でも特に花形にだけ与えられる称号のこと。
 ドガの確かな技量に裏打ちされた名作の数々の作品全11枚をじっくりご覧下さい。

03 イレ―ル・ドガ( Hilaire Degas )1857年=ドガの祖父
03_hilaire_degas_1857

––––––––––––––––––––––––04 ジョヴァンナ・ベレッリの肖像〈習作〉1858-9年頃=ドガの姪
0418589

05 エドモンド・モルビッリ夫妻1865年=ドガの妹テレーズ夫妻
051865

––––––––––––––––––––––––06 画家の従姉妹の肖像[カミーユ&エレナ・モンテジャジ=チチェラーレ]1865-8年
0618658

07 綿花取引所の人々(New Orleans)1873年
07new_orleans1873

––––––––––––––––––––––––08 女性の肖像1876-80年
08187680

09 バレエの授業(La classe de danse)1873-6年
09la_classe_de_danse18736

––––––––––––––––––––––––10 エトワール(Ballet dit aussi L'Etoile)1876-7年
10ballet_dit_aussi_letoile18767

11 薔薇色の踊り子(Danseuses rose saluant)1878年
11danseuses_rose_saluant1878

––––––––––––––––––––––––12 チェロ奏者ぴレ1868-69年
12186869

13 ロレンソ・パガン&オーギュスト・ド・ガス1871-2年
1318712

■今日最後の話題は、掲題・副題にあります様に『【2637の会】ミニミニクラス会開催報告』です。
 小生、昨日12日も仕事で上京しました。そして、仕事を片付けてから、【2637の会】東京のmembers である二橋君と原田君と3人で久しぶりに一杯やりました。原田君とは今年8月以来の3ヶ月ぶり、二橋君とは2007年8月11日のクラス会以来の3年3ヶ月ぶりの再会でした。お二人ともお元気でしたよ。
 6時に東京駅で待ち合わせ、原田君の推薦で神田へ。焼き鳥屋でしたが落ち着いた感じのいい店でした。3人での記念写真も撮りました。添付写真をご覧下さい。

14 二橋君・原田君との記念写真
14_20101112_in

 いろいろと【2637の会】《会報》について貴重な advice も頂戴したりして、大変楽しく、有意義な3時間余りを過ごしました。小生は東京駅21時半の新幹線で帰る為、二人より一足先に失礼させて頂きました。二人は何時までいたのかな‥。(笑)

【後記】さて、今日最後は、11月07日(日)社員旅行二日目の話から‥。
 社員の皆と別れた小生、「鎌倉五山と東慶寺(かけこみ寺)・明月院(あじさい寺)・杉本寺(十一面観音)・長谷寺(十一面観音)・鎌倉文学館(旧・前田侯邸)」の10か所を徒歩(多分‥2万歩余り‥)と江ノ電で踏破して来たのですが、5つ目に訪れた「明月院」の境内で見つけた季節外れのアジサイの花をご覧に入れ乍らお別れしたいと思います。

15 明月院〔あじさい寺〕掲題脇に季節外れに咲いたアジサイの花
15a

––––––––––––––––––––––––16 季節外れに咲いたアジサイの花の拡大図
1620101107

 「ここはアジサイ寺だよ‥」と初めて訪れた小生を、ここに墓がある往時の鎌倉幕府第五代執権・北条時頼が快く出迎えてくれた‥、そんなふうに感じられ、大変嬉しく思われた。
 その時、次の一句がふと、浮かんだ‥

 あじさい花(か) 立冬の陽(ひ)に 映えわたり  悟空

 では、また・・。(了)


2010年11月 5日 (金)

【時習26回3-7の会 0315】~「『現代日本が何故衰退しつつあるか』‥を近代日本史から考察してみると‥〔猪瀬直樹:『東京の副知事になってみたら』〕〔同:『昭和16年夏の敗戦』〕〔太田文雄:『日本人は戦略・情報に疎いのか』〕〔渡部昇一:『渡部昇一の昭和史(正)』〕〔同:『「昭和の大戦」への道』を読んで〕」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0315】号をお送りします。
 時節は明後日11月07日が「立冬」。朝晩めっきり寒さを感じる様になりました。皆さん、お変わりありませんでしょうか。

 さて今日もまず、【2637の会】2010年《クラス会 Part2》開催のご案内関連のお話からお伝えしたいと思います。
 今日は嬉しいお話を一つ‥。
 先日参加を検討してくれると約束してくれた千賀君から正式に「出席表明」の返信mailが届きました。
 ご紹介します。

 お返事 遅くなりました
 〔○〕参加する
 1.名  千賀S始
 2.近況報告  楽しみにしています

 千賀君へ
 「出席表明」有難うございます。これで《クラス会 Part2》参加表明者も 5名となり、段々格好がついて参りました。
 08月以来の再会、こちらこそ楽しいひとときを過ごしましょう。

 さて《クラス会 Part2》開催日(11月27日)まで3週間となりました。引き続き、皆さんからの朗報を期待しています。
 今日現在の出欠状況を以下に記します。
 一人でも多くの皆さんからの朗報をお待ちしています。m(_ _)m

 【参加】菰田君、千賀君、林(K)さん、山中さん、今泉〔05名〕
 【欠席】市川君、今井(土方)さん、二橋君、原田君、峯田君、山田君、渡辺さん〔07名〕
 【調整中】伊庭さん、石田君、伊東君、犬飼(石田)さん、牧野君〔05名〕

■さて今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に、「『現代日本が何故衰退しつつあるか』‥を近代日本史から考察してみると‥」と題してお送りします。
 1980年代、Ezra F. Vogel氏の「Japan as №1」とまで言われ経済大国になった我国日本が、何故ここまで衰退してしまったのか。
 「賢者は歴史から学び、愚者は(‥自らの‥)経験から学ぶ」とは、プロイセンの宰相ビスマルクの言葉ですが、その原因を最近読んだ5冊の本をご紹介し乍ら近代日本史を紐解いて考えてみたいと思います。その5冊の本とは以下の通りです。〔添付写真[01]ご参照〕
[01]
01_2

 ただ5冊の本を一挙にご紹介するとなると、思い切って割愛する処となりますので、組立が疎漏となりますことご容赦願います。

 〔1〕猪瀬直樹:『東京の副知事になってみたら』
 〔2〕猪瀬直樹:『昭和16年夏の敗戦』
 〔3〕太田文雄:『日本人は戦略・情報に疎いのか』
 〔4〕渡部昇一:『渡部昇一の昭和史(正)』
 〔5〕渡部昇一:『「昭和の大戦」への道』

 余談ですが、何故これ等の本を読んだかというと、小生、最近、猪瀬直樹氏〔添付写真[02]ご参照〕の講演 tape を聴いたことが発端です。現代の日本経済が沈滞化しているが、やり方によっては十分復活出来る力を日本はまだ十分持っている、その一つの例が「水 business 」だ、なんて話でした。が、この話の詳細は次回以降に譲りたいと思います。

[02]猪瀬直樹氏
02194104_2

 まずは、その講演 tape の元ネタ本が最初にご紹介する、猪瀬直樹著『東京の副知事になってみたら』です。氏は、同著の「終章 成熟国家ニッポンの未来」で次の様に述べています。ご高覧下さい。

【東京の副知事になってみたら = 成熟国家ニッポンの未来 = 】
 〔前略〕日本の近代化は、欧州の近代化を model として、19世紀後半から開始された。司法、立法、行政の model を借りてきた。株式会社のつくり方も、あの伝統のミカドさえ、近代国家においてはドイツや英国を model とした。軍隊はフランスやドイツを model とした。1894年の日清戦争も、1904~05年の日露戦争も近代化の process の中で、国民国家を維持する為に不可避であった。帝国主義も欧米を model とした。
 その過程で日本は、model とした欧州に対して近代化の過程で【3つの別の特徴】を持つに至った。
 まず【第一】は、先行の国家 model を copy する為に優秀な官僚が必要だったこと。急いで idea を考えるよりも、今存在する司法、立法、行政の model を翻案(‥前人の行った事柄の大筋を真似、細部を変えて作り直すこと‥)して日本風に置き換えて吸収する為に必要な、上意下達が smooth な組織が効率的であった。
 したがって初期の官僚には使命感があり、軍隊もまた官僚機構であるから、短期間に近代国家の骨格がつくられ、軍事的にも強国になった。〔中略〕

 そして、【第二】の特徴は、軽装備で第二次世界大戦に加わり、米帝国に宣戦布告してしまったことである。
 日本は日露戦争に勝利した。そのほぼ10年後、1914年に第一次世界大戦が勃発した。欧州では〔中略〕この総力戦で6,500万人の兵士が動員され、死者じつに1,000万人、負傷者2,000万人、捕虜650万人を数えた。飛行機や戦車等大量殺戮用の新兵器が初めて導入された。機関銃、手榴弾、毒ガスが塹壕の兵士を襲った。
 日本は〔中略〕第一次大戦の実態を全く知らないで過ごした。その後、日露戦争の兵備の儘中国大陸へ侵攻していった。1941年、日本は米国に宣戦布告して Pearl Harbor を奇襲する。海軍は巨大な最新鋭の戦艦と戦闘能力の高い戦闘機を保有していたが、陸軍の兵士は日露戦争の時に開発された連発式でない銃剣で武装していたのである。1905年~1941年の間、〔中略〕19世紀の近代化 model を copy し終えた官僚機構は、その後に起きた悲惨な事態について input する必要がなかった。〔中略〕官僚機構は肥大化、自己増殖するのみで、情報を独占していたので政治家や国民が判断する余地がなく、〔中略〕ずるずると破滅へと傾斜して行った。
 【第三】の特徴。江戸時代という戦争も内乱も何一つ起きない平和な時代が17世紀初頭から19世紀後半まで、実に270年も続いた。〔中略〕荒海に囲まれた日本には、国防という概念や国境という概念がほとんど浸透していなかった。
 日露戦争後の日本人が、悲惨な第一次世界大戦についての情報について疎かったのは、270年の閉じた時代の記憶が深層意識を支配していた為でもあった。〔中略〕
 米国の Perry 提督による黒船艦隊の登場により、270年の平和の時代は終わり日本は弱肉強食の世界史に組み込まれ、近代化を急ぐことになった。
 第二次世界大戦の敗戦後、冷戦による平和の中で日本は再び江戸時代の様に只管(ひたすら)精密技術を磨くことに邁進した。冷戦が終わり、曲がり角になると官僚機構がまたもや思考停止の状態を肥大化させている。だが日本は独自に江戸時代に少子高齢化時代という成熟を経験している。女性の平均寿命85歳、男性の平均寿命80歳、世界一の長寿を達成している処に、西欧近代化以前の成熟の経験が生きているのではないか。
 欧州でもなく、Asia にあり乍ら唯一の成熟国家の日本には、もともと右とか左等という概念がない。冷戦の崩壊も、価値観としては本質的な衝撃ではなかった。伝統の井戸を掘り乍ら智恵を探し、それを未来の技術と融合させ、世界史の例外が世界史の中で独自の役割を果たせればよい。

 まず必要なことは歴史認識で、自分の位置を、この国の居場所を掴むことである。そうすれば何を自分がしたらよいのか、わかる。結局、みな政治家の悪口を言って溜飲を下げているのだ。あれがダメ、これがダメ、と。そうではないと僕は思う。
 僕は作家として、作家だから出来ることを考えた。直感の力、記録し伝える力、という武器を駆使した。Businessman なら、Engineer なら、公務員なら、中小企業の経営者なら、Sportsman なら、男でなく女だから、夫々が出来ることを提案し、提案するだけでなく実行すればよい。意見を言うなら、言った分をやってみよう。事実に基づいてやろう。形容詞で語ることは避けよう。〔中略〕
 この頃政治家の言葉が軽い。政治家だけではない。一国の運命を決める場面で、国民一人ひとりが短い報告一つにどれ程真剣に向き合ったか。今欠けているのはその realism ではないかと思う。(了)

【昭和16年夏の敗戦】
[03]総力戦研究所の書院&第一期研究生1941年04月
03194104_1

《Prologue》
 〔前略〕昭和16年12月08日の開戦より僅か四ヵ月前の08月16日、平均年齢33歳の「内閣総力戦研究所〔添付写真〔03〕ご参照〕」研究生で組織された模擬内閣〔昭和16年07月12日組閣〕は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていたのである。ある秘められた国家目的の為全国各地から、「最良にして最も聡明な逸材」(Best & Brightest)が、緊急に招集されていた。
 日米開戦へと潮鳴りの様に響きを立てていた時代。いかにも厳めしい総力戦研究所という名の機関は、何だったのか。三十歳代の”学生”等は、いったいどういういきさつから模擬内閣の閣僚を演じることになったのか。〔中略〕

《第一章》
 総力戦研究所が、具体的に内閣の中に設置される方向に煮詰まったのは、昭和15年08月16日の閣議決定によってであった。〔中略〕
 関東軍参謀長飯村穣中将が総力戦研究所長に決まるのは16年01月10日である。〔中略〕飯村は石原莞爾と同期の陸士12期生だが、のち東京外語大に員外学生として在籍し卒業した経緯があり、語学に堪能でとくにロシア語とフランス語が得意だった。トルコ駐在武官時代に、請われてトルコ陸軍大学でフランス語の講義をしたという伝説の持ち主でもあった。〔添付写真〔04〕ご参照〕

[04]初代総力戦研究所長 飯村穣陸軍中将
04

《近衛内閣総辞職から東条内閣組閣、開戦へ向かう頃の内外情勢〔昭和16年〕》
 06月22日独、ソ連侵攻
 07月02日御前会議で「対英米戦を辞せず」を決定
 07月16日第二次近衛内閣総辞職〔松岡外相事実上更迭〕
 07月18日第三次近衛内閣組閣
 07月25日米国、在米日本資産凍結令公布
 07月28日日本軍南部仏印進駐
 08月01日米国、発動機燃料、航空機用潤滑油の対日禁輸
 09月02日翼賛議員同盟結成
 09月06日御前会議で「10月下旬を目途に対英米戦」を決意
 10月02日独軍モスクワを攻撃→12月08日モスクワ攻撃挫折
 10月16日第三次近衛内閣総辞職
 10月18日東條内閣成立
 11月05日御前会議で「12月01日米国交渉不成立の場合、12月初頭に武力発動」を決定
 11月26日ハル・ノート(Hull Note)を提議
 12月01日御前会議で「対米英蘭開戦」を決定
 12月08日対米英戦の詔書 日本軍 Malay 上陸 Pearl Harbor 空爆
 12月10日Malay 沖海戦、英戦艦2隻撃沈

《第二章》
 〔前略〕総力研究所では研究生が「青国政府〔模擬内閣〕」を構成し、研究所員(教官)側が演習〔simulation〕全体を指揮監督する「統監部」を名乗った。同時に「統監部」は《統帥部》の機能を受け持った。〔中略〕
 当時我国の国家意思は「統帥(大本営)」と、「国務(政府)」の双方の会議により発動されていた。〔中略〕統帥部は政府と別個に作戦を発動できたのである。軍部独走の素地はここにあるのだが、旧憲法の制度上の欠陥を補う為に、統帥部と政府の双方の会議は、「大本営・政府連絡会議」でなされた。〔中略〕

【小生注】模擬内閣〔=「青国政府」〕は、現状の内外情勢に沿って simulation を繰り返して行った。例えば‥〔Q:対米、英、蘭印(Indonesia)戦に入る場合「青国政府」の戦争遂行能力は?〕と言った具合だ。そして、模擬内閣が至った結論は「開戦できません。そういう結論です」である。

 模擬内閣で〈外務大臣〉を担当した千葉は「そう〔=日米開戦と〕なると長期戦になるだろう。問題はいつ講和の時期を掴むかだ。しかし、どの国も米英と独伊に分かれてしまうと、有力な第三国が調停に関わることが不可能になる。そうすると、短期決戦で緒戦に勝利して講和に持ち込むという作戦は虫がよすぎることになる」と、的確に洞察している。
 同じく〈商工大臣〉を担当した野見山は、「戦争すべきでないというより以前に、これは出来ないということを、軍需省や商工省の Technocrat なら誰でも知っていた。〔中略〕(総力戦研究所の)研究生ならば答えは当然否であった」。〔中略〕
 しかし、これでは演習継続が出来ない。模擬政府は、開戦したという想定で simulation を続けた。〔中略〕
 不承不承だが、模擬内閣も「日米開戦」に踏み切った。米国と戦争をやって何処まで持つか。〔中略〕
 とにかく蘭印(Indonesia)占領で石油や鉄鋼等の資源が供給される見通しが出て来た。〔中略〕しかし、果たして旨く行くか?
 模擬内閣の経済閣僚が懸念したのが、「sea lane 確保」が不可能、という点だった。占領して物資を船積みしても、本国に届かなければ、全く意味がない。〔中略〕(実際には)昭和17年度89万t、18年度167万t。そして19年度369万tで日本商船隊は全滅している。〔中略〕
 総力戦は単に武力戦だけではなく、経済力を含めた国力の差によって決定することになるからモノについての数字が key point となるのだ。〔中略〕
 中国大陸での戦線がドロ沼化している中で、米英と戦端を開き、その上ソ連参戦が迫っている。
 「ソ連参戦」を座して待つか、もはや石油備蓄も底をついた。〔中略〕
 
 ところで、総力戦研究所には陸・海軍出身の研究生が5人いたが、elite 軍人の彼等ですら、正確な石油備蓄量の data を入手出来ない程で、軍隊内部でもほんの一握りの関係者しか知らない。それ程重要な機密に属した。
 第二次世界大戦は資源戦争だったといってよい。中でも石油は最も重要な戦略物資であった。〔中略〕
 昭和16年06月22日ドイツが突如、独ソ不可侵条約を破ってソ連領土に進撃を開始していた。Hitler は「6週間でソ連をやっつける」と豪語していたが、その目的は石油にあった。〔中略〕この大戦における軍需輸送物資の40%は石油であったとさえ言われている。
【小生comment】
 以上の様に、日本の若き識者達は、対米・英と戦端を開くことは必敗となると見通していたのに、何故日本は戦争に突入せざるを得なかったのか? これについては、渡部昇一著の2冊に詳しいのでご紹介する。2冊はほぼ同じ内容なので一括してご紹介する。氏の考え方を右派とみる向きも少なくないが、ここで述べていることは理に適っていると思うのでご紹介したい。

【昭和の大戦への道】【渡部昇一の昭和史(正)】~《シナ大陸切り取り競争に参加した米国》
 日露戦争に勝利を収めた日本は、朝鮮半島に触手を伸ばすロシアの意図を挫くことが出来た。明治38(1905)年09月05日、Portsmouth 条約が調印され、ロシアは韓国や南満州から手を引くことになった。
 この Portsmouth 条約締結に当たって仲介者となったのは、米国のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)大統領であった訳だが、日本がロシアに勝ったのを見た米国が考えたのは、「これはシナ大陸に米国の利権を得る chance だ」ということであった。〔中略〕
 日露間の講和の仲介者になることが出来た機会を活かして、シナ大陸の切り取り競争に参加したいと、彼等は考えた。Portsmouth 条約が結ばれた年の秋に、米国の鉄道王ハリマン(Edward Henry Harriman(1848-1909))が来日したのは、その最初の試みであったと言えよう。〔中略〕
 その Harriman が桂太郎首相や元老・井上馨等と面会し、Portsmouth 条約によって日本が経営することになった南満州鉄道に資金を提供し、日米 syndicate を作りたいと申し入れたのである。
 最初、Harriman の提案を日本側が了承し、予備協定の覚書も交わされた。明治38(1905)年10月12日のことであった。桂も井上も、また財界を代表する渋沢栄一も賛成したのは、一つには日露戦争を終えたばかりで、財政的に苦しい日本が独力で南満州鉄道を維持するには負担が大きすぎるという判断があったからだとも言われる。
 満州の北にはまだロシア軍の勢力がいるのだから、それを日本一国で守るのは大変な負担である。日本の首脳部が米国の参加を許したのは、現実的な判断であった。
 だが、これに徹底的に反対する人物が現れた。それは Portsmouth 条約を纏めて帰国し、この年の10月15日に外務大臣に復職した小村寿太郎である。自分に何の相談もなく、桂・Harriman 覚書が結ばれたことを知り、小村は激怒する。直ちに彼は、桂や井上達のもとに行き、「日本の将兵の血によって手に入れた満州を米国に売り飛ばす様なことは出来ない」と猛烈な反対運動を始めたのである。
 結局、一度結ばれた覚書を、日本政府が一方的に破棄するということになった。明治38(1905)年10月23日のことである。〔中略〕これが20世紀前半の日米関係を左右することになるのだ。

 この合意がその儘実行に移されていたら〔中略〕その後の日米関係はどう変わっていたであろうか。〔中略〕この当時の米国は、シナ大陸における植民地戦争に自分も加わりたいと熱望していたのである。〔中略〕米国は1890年、「Frontier の消滅」を宣言する。〔中略〕
 もはや米国国内には、彼等の開拓欲を満たす土地がなくなった。米国という国は、開拓精神で出来た様な国である。〔中略〕それまで「西へ西へ」と進んできた彼等にとって、太平洋の西方にあるハワイ(Hawaii)やシナ大陸は「新たなる Frontier」に見えた。そして実際、1898(明治31)年に Hawaii を吸収、Philippines のマニラ(Manila)を占領した。後はシナ大陸への進出あるのみであった。〔中略〕

 〔【小生注】1890年頃より日本人による米国移民が始まったが、総じて勤勉に働き西海岸の土地を所有していくにつれ、白人達の日本人排斥の力が強まって行った。1922(大正11)年米国最高裁は「白人と、米国土着人及びアフリカ人の子孫」だけが米国に帰化出来、「黄色人種は帰化不能外国人であり、帰化権はない」という判決を出した。そして翌1923(大正12)年には、移民に関する憲法修正案が上院に提出された。その内容とは、即ち、日本移民の子供にも絶対、米国籍を与えないというものであった。更に翌1924(大正13)年05月に成立した「絶対的排日移民法〔=帰化不能外国人移民法〕」が制定された。これは従来の州法ではなく連邦法である。この法律誕生により日米関係は、それまで協調路線にあった日本人識者層にも反米感情を醸成させ、悪化させていくこととなる。〕

 米国は、日英同盟を解消させ、更には日米開戦前、ABCD包囲陣を作って日本を経済封鎖し、鉄鉱石一つ、石油一滴入れない様にした。〔中略〕これは(当時の)日本に「死ね」と言っているに等しい。
 実際、これによって日本は瀕死の状態に陥った。〔中略〕
 更に米国は日本に追い撃ちをかける様に、「Hull Note」を突き付けて来た。これはそれまでの日米交渉の process を一切無視し、日本政府が呑める訳がない要求ばかりを書き連ねて来たものであって、実質的な最後通牒と言ってもいい。事実、米国の首脳の間ではそういう認識があった。〔中略〕

【後記】今日のお別れは、今日ご紹介する5冊目の本、太田文雄著『日本人は戦略・情報に疎いのか』から、《結びにかえて》の一部をご紹介します。
 太田氏は、防衛大学校安全保障・危機管理教育センター長。同大学校14期生。

 私(太田)が防衛大学校の学生であった昭和40年代前半、私は、またとない二人の師に恵まれました。〔中略〕もう一人の師は元陸大校長であった飯村穣元陸軍中将で、〔中略〕「信長はジンギスカンに匹敵し、秀吉はナポレオンに優り、家康はフレデリック〔=フリードリヒ(2世)大王〕に優るとかねてから思っていた」と言っていました。
 飯村中将は決して、井の中の蛙の様な国粋主義者ではありません。現役の時はトルコの武官を経験しており、土浦のご自宅にお伺いした時でもフランス語でNATOの軍事機関紙を読みこなす程の語学力を持ち、ロシア語も英語も達者な国際派でした。また、総力戦研究所〔【小生注】‥上述‥〕の所長であった開戦直前の昭和16年08月に、「もし日本が南方に油を取りに行ったらどうなるか?」という simulation を行い、戦争開始後2年間は戦えるが、4年後には国力を使い果たし、最後にはソ連の参戦を誘発して終戦、という実際の結果とほぼ同じ結果を出し、東條陸軍大臣もその simulation をほとんど毎日見学して結末を知っていた、という経歴の人でもあります。

【小生comment】
 時代の流れは、理論や理屈で解っていても、その様にならないことのほうがむしろ多い。
 「少なからずの識者が第二次世界大戦は負ける」と解っていたにも拘わらず、戦争に突入して行ってしまった「ニッポン」。
 「財政再建が喫緊の課題だ」と少なからずの日本人が認識し出した今日この頃ではあるが、その認識が majority にならない限り、小沢一郎氏の選挙策の様に、票取り施策が政治を動かす。まさに今の「衆愚政治」が跋扈する「ニッポン」と、大戦に突入して行ってしまった第二次大戦前夜の「ニッポン」が overlapすると感じるのは小生だけであろうか‥。

 では、また‥。(了)

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05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

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    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

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    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

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