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2010年12月の4件の記事

2010年12月25日 (土)

【時習26回3-7の会 0322】~「言わずに死ねるか!~安藤忠雄『米国式にわか民主主義が愛情・責任・礼儀を失わせた』〔週刊ポスト〕」「曽野綾子『老いの才覚』を読んで」「12月18日:メナード美術館『コレクション名作展』を見て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0322】号をお送りします。
 昨日から今日にかけては、Christmas Eve とChristmas を皆さん、各家庭各様に過ごされてたことと思います。
 我国日本に於いて、この一連の X'mas Event は、年中行事としてほぼ完全に日本人に受け入れられていますね。
 そこで拙句を一句‥

 年の瀬に思ひ思ひのクリスマス  悟空

 今日のは特につまらない一句でした。ご容赦下さい。(笑)

■さて、今週の《会報》は、掲題・副題にあります様に最近読んだ週刊誌の記事と新書から一つずつご紹介させて頂きます。
 週刊ポスト2011年01月01&07日合併号の記事、言わずに死ねるか!〔迎春特別版〕の中で、著名な建築家である安藤忠雄(1941.09.13- )氏が『米国式にわか民主主義が愛情・責任・礼儀を失わせた』と題して述べられていることが、《会報》前号でご紹介した「加賀乙彦著『不幸な国の幸福論』」の趣旨とよく似ていたのでここでご紹介したいと思います。
 そこで安藤氏が述べていることを要約してみますと‥

 1980年代以降に生まれた大学生たちは、右肩上がりの経済成長し続けると誤信した親達に育てられた為、まるで自立心がない。彼等は、一流大学を目指す受験勉強に精力を使い果たしている為「責任ある自立した『個』人」に成長出来ていない。
 世界では、「日本民族は level が高く、歴史上、二度の奇跡を起こした」として、〔1〕幕末・維新の日本人は、明治の近代国家をごく短期間に造り上げたこと、〔2〕第二次世界大戦の敗戦後、これもごく短期間に驚異的な経済復興を遂げたこと、を評価している。

 世界に認められた、これ等日本の凄さの原点は、『教育』だと安藤氏はいう。

 まず、〔1〕幕末・維新‥の前提は、士族には、江戸三百余藩の教育体制、松下村塾・適塾等の私塾が、庶民には寺子屋が全国にあり識字率7割以上という教育水準の高さ。この教育こそが礼儀正しく責任感ある個人を多く排出し、西洋近代化を受け入れて明治という全く新しい時代を築き上げた。〔2〕第二次世界大戦敗戦後、戦地から帰還した二十歳前後の若人達も然りである。彼等が戦後の日本の経済復興に貢献したのである。彼等には戦前教育の柱の一つであった論語に代表される儒教の考え方が身体に染み付いており、この考え方が愛情・責任・礼儀の行動の根本を形成している。
 France の詩人で、1921年から6年間、駐日大使を務めたポール・クローデル( Paul Claudel (1868-1955))は、第二次世界大戦で日本の敗戦が濃厚となった頃、同じく詩人で友人のポール・ヴァレリー( Paul-Ambroise Valery (1871-1945))に「私がこの民族だけは滅びてほしくないと願う民族がある。それは日本民族だ」と言い、また「命あるものへの愛情(=仁愛)、家族や地域社会への、そして自国の国民に対する愛情が、日本人は傑出していて、こんな国は見たことがない」とも言い、『心の中に希望がある国』と日本人を絶賛した。彼が言った様に、焼跡の中でも人々の顔は輝き、子供は親の意見をよく聞き、礼儀正しく、そしてよく学んだ。
 しかし、そうした「愛情」「責任」「礼儀」という、世界の有識者を驚嘆させた『美徳』を、我々日本人は、戦後の【=米国の俄か民主主義教育】の下、経済成長と共に次第に失って来たのだ。

 最近、尖閣列島や北方領土の問題で揉めているのも、国家の顔が見えないからだ。人に存在感がないから国の存在もないのだ。
 戦後教育は、米国式の俄か民主主義教育にとって代わられ、平均的に level の高い人間はつくって来たが、責任ある突出した『個』というものは誰もつくらなかった。
 自立した『個』がなければ自分に対する愛情も責任も持てず、まして社会や国に責任を持てる筈がない。
 だいたい最近の日本人には迫力がない。迫力あるのは70、80歳の老人ばかり。彼等がこの世を引退したら日本は相当に困るだろう。
 今の日本に必要なのは「夢」と「希望」だ。個人が、企業が、そして政府が目標を確りと定めて、夫々為すべきことは何かを、真剣に考えなければいけない。そこで生じる責任感が『生きる力』を生み出すのである。 自分で出来ることを自分でとことん考えて実行すること。そして、カネでなく心で勝負する気概、そして表面的でない愛情と礼儀を、何とか日本人が今からでも取り戻せるといい。

【小生comment】
 安藤忠雄氏も言っている様に、日本が世界で認められた凄さの源泉は『教育』にあった。その教育が、戦後教育の拙さから、今、世界で存在感失わせしめているのである。
 敢て言うが、今現場で懸命に奮闘されている教職員の方々のことを申し上げているのではない。
 現場を指導する立場にある、政府・文部省の為政者に、「戦後教育」の在り方を洞察する力が欠落していた、というか彼等が「愛情」「責任」「礼儀」について真剣に考えることを避けて来たのである。
 占領政策による、〔日本人の愛国心=軍国主義〕として排除・洗脳した戦後教育。これが現代の日本人の精神構造をダメにしたのだ。我々自身、学生時代に「愛国心」を授業で習ったことも議論したことも記憶にない。そうした結果が、今の日本の政治家達の存在感のなさに繋がっているのではないか。
 新渡戸稲造が言っている。「日本人には、キリスト教に代わる『武士道』という『倫理規範』がある」と。
 そして、その武士道の倫理規範の根底には、論語に代表される『儒教精神』がある。思うに、戦中派と言われる昭和一桁の人達、つまり我々の親の世代までは、その『儒教精神』の核となる「仁・義・礼・智・信」や「仁・儀・礼・智・忠・信・孝・悌」等の『徳目』を幼少時代から、親から子への躾として、学校の授業で、そして一般社会に於いても、至るところで『教育』され、自然に骨の髄にまで染み込ませて来た結果、「愛情」「責任」「礼儀」の観念が備わったのである。
 繰り返すが、それを我々は確り学んで来なかった。家庭教育で少しは常識として鍛えられた程度である。学校では、「四書」「五経」は言うに及ばず、『論語』でさえも、ほんのさわりだけを、高校の『世界史』でその言葉を暗記という形で、また『漢文』の授業で読み方を学んだ程度である。『倫理』『道徳』としては学んでいない。〔長嘆息〕

■続いての話題は、掲題・副題「曽野綾子『老いの才覚』を読んで」です。安藤忠雄氏に続いて、また日本人のあるべき論〔と言ってもこちらは『老人』についてですが〕が続きます。曽野氏の言うのも納得できる話なのでお付き合い下さい。(笑)
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【第1章 なぜ老人は才覚を失ってしまったのか】
◆基本的な苦悩がなくなってしまった時代が、老いる力を弱くした
 → よく「日本は経済大国なのに、どうして豊かさを感じられないのだろうか」と言われますが、答えは簡単です。貧しさを知らないから豊かさが解らないのです。〔中略〕食べ物があって当然。水道の栓をひねれば、水が飲める。飲める水を使ってお風呂に入り、トイレを流している。昔は日本人も水を汲みに行ったり薪を取りに行ったりしましたが、今ではそういう生活が当たり前になった。もともと人間が生きるということはどういうことかを全然知らない。お目出度い老人が増えたのです。
◆戦後の教育思想が貧困な精神を作った
 → 教育の問題も大きいですね。戦後、日教組が、何かにつけて、「人権」「権利」「平等」を主張する様になりました。その教育を受けた人達が老人世代に入って来て、ツケが回って来たのだと思います。〔中略〕
 昔の老人には「遠慮」という美しい言葉がありました。〔中略〕
 しかし今では、誰もが「それをする権利がある」と言う。〔中略〕そもそも人間はがめついのです。〔中略〕そういう強欲さ‥本能を control することが「遠慮」なんですね。〔中略〕
 かつては、損の出来る人間を育てるのが、教育の一つでした。〔中略〕老年も、いくつになっても損をすることが出来る気力と体力を保つということを目標にするべきです。〔後略〕
◆老人の使う言葉が極度に貧困になった
 → 何でもかんでも権利だとか平等とか、極端な考え方がまかり通る世の中になってしまったのは、言葉が極度に貧困になったせいもあると私〔曽野〕は思います。言語的に複雑になれない人間は、思考も単純なのです。
 原因の一つは、読書をしなくなったからです。私達は、生活の真っ只中で苦労して生きることによって、様々なことを学びます。読書をすれば、それより更に広く自分が経験出来ないことを学ぶ訳です。〔中略〕
 読書の習慣があれば、表現も自然と豊かになりますし、基礎的な知識だけではなく教養も身につきます。何より人間関係を恐れなくなります。言語という穏やかな武器がありますからね。
 漫画や internet の情報だけでは、知的人間にはなれません。internet で引き出した答えより、本を読んで自分で考えて導き出す方が、独創的な答えが生まれます。だから他人と意見が違うことを恐れなくなる。それが自由な行動と結びつく訳です。昔は、人と同じことをしていたのでは出世しない、とよく言われました。出世がいいかどうかはわかりませんが、少なくとも本を読まない様な人が総理大臣になったら、世も末だと思います。
 もう一つ、言語が貧困になった原因は、作文教育がきちんとなされて来なかったからです。自分の心の中にあるものを整理して、書き写すという技術がないと、表現力が豊かにならないばかりか、確固とした自分という人間を作って行けない気がします。〔中略〕
 読まない、書かないから、微妙な考え方や話し方が出来ない人が多くなりました。〔中略〕
 今すぐにでも徹底して、読み書きの訓練をしないと、日本は滅びると思います。

【第2章 老いの基本は「自立」と「自律」】
◆高齢者に与えられた権利は、放棄した方がいい
 → 老人は、もう少し自ら遠慮するべきだと思います。〔中略〕
 勿論、国の制度や医師の論理では、どんな人も平等です。だからこそ、高齢者が自分から辞退した方が綺麗ですね。〔中略〕高齢者が自由意志で、自らの美学として、自ら遠慮した方がいい。
 昔の日本では、それが当たり前のこととして出来ていました。言葉にしなくても、誰もが解っていました。年を重ねて備えている筈の賢さを、社会の中で充分に発揮していたから、老人は尊敬を払われていた訳です。〔後略〕
◆健康を保つ鍵は、食べ過ぎない、夜遊びしない
◆性悪説に立てば、人と付き合っても感動することばかり

【第3章 人間は死ぬまで働かなくてはいけない】
◆老人が健康に暮らす秘訣は、目的・目標を持つこと
◆「何をして貰うか」ではなく「何ができるか」を考える
 → 〔前略〕「何ができるか」を考えて、その任務をただ遂行する。それが「老人」というものの高貴な魂だと思います。
 老齢になっても、掃除なんてくだらないとかつまらないとか、そういう眼力しか養えていなかったとしたら、情けないですね。老年はむしろ、くだらない、つまらないと社会から軽視される様なことにこそ、甘んじて働くのが美しい。〔後略〕
 
【第4章 晩年になったら夫婦や親子との付き合い方も変える】〔略〕 
【第5章 一文無しになってもお金に困らない生き方】〔略〕 
【第6章 孤独と付き合い、人生をおもしろがるコツ】〔略〕 
【第7章 老い、病気、死と馴れ親しむ】〔略〕 

【第8章 神様の視点を持てば、人生と世界が理解できる】
◆嫌いな人でも嫌いな儘で、「理性の愛」
 → 〔前略〕聖書の「愛」には、親子の愛、性的な関心、友愛、それから「敵を愛しなさい」(ルカによる福音書6章27~36節)という時の苦痛に満ちた「アガペー( agape )」という本物の愛があります。これは、嫌いな人に対してでも、努力して、心から愛しているのと同じ様な行動を取る「理性の愛」のこと。
 解り易く言えば、〔中略〕嫌いな嫁がいたら、嫌いなままでよろしい、しかし自分の娘に対してするのと同じことをやりなさい、ということです。〔後略〕
◆引き算の不幸ではなく、足し算の幸福を
 → 私はキリスト教の信仰から、失ったものを数え上げずに、持っているものを思うことを子供時代から習慣づけられました。〔中略〕
 生まれた時は、皆ゼロです。それを考えたら、僅かなものでもあれば有難いと思う。ああ、こんなこともして頂いた〔中略〕、という足し算で考えれば不満の持ちようがありません。
 でも、あって当然、貰って当然と思っていると、僅かでも手に入らなければマイナスに感じて、不服や不満を言い始める。これを、引き算の不幸と言います。
 今の日本は皆の意識が「引き算型」になっている気がします。豊かさであれ、安全であれ、全て世の中が与えてくれるのが当たり前、と百点満点を基準にして望むから、不満ばかり募って、どんどん不幸になっていく訳です。〔中略〕様々なものを失っていく晩年こそ、自分の得ているもので幸福を作り出す才覚が必要だと思います。
* 
【小生comment】
 曽野綾子氏は、昭和06年09月生まれなので我々の丁度親の世代の人。彼女の話は、何か親から説教されているみたいに感じる。が、確かに勉強になる。(笑)
 曽野氏も、前述の安藤氏同様、日本の戦後「教育」に問題があったことを指摘している。
 「今すぐにでも徹底して、読み書きの訓練をしないと、日本は滅びる」とまで言っている。
 では、我々が日本復活に貢献するには、何をしたらいいのか? 
 勿論、今、自分が勤務している会社の企業活動を通じて、日本社会・経済の発展に微力乍ら役立っていることは一つ言える。
 が、それ以外で、日本を変えて行くには、政治を変えていくしかないか‥。ではどうやって‥。???
 年末から正月にかけてジックリ考えてみることにしたい。
 

■さて今日最後の話題は、先週末の12月18日(土)、私用で名古屋へ行く機会があり、その帰途、小牧市内にあるメナード美術館にて開催中の『コレクション名作展』を見て参りましたので、ご紹介させて頂きます。
 小生は、メナード美術館の展覧会を訪問したのは、2010年06月に行ったメナード美術館『パスキンとパリを愛した画家たち』展〔同年06月19日付《会報》【0295】号〕以来、一年半ぶりです。
 メナード美術館は、1987(昭和62)年10月開館、2009年04月 renewal 開館。日本メナード化粧品(株)創業者、野々川大介氏夫妻の収集作品を中心に、印象派以降の西洋画、明治時代以降の日本人画家による洋画・日本画、それに版画・彫刻・工芸品等の近現代・古美術等を1,400点余りを所蔵。
 今回小生が見ることが出来た collection 展は、西洋絵画21点、日本画20点、日本洋画24点、彫刻06点、工芸07点、計78点の傑作選であった。
 展示作品は、そのいずれもが見る者を魅了する「何か」を持っていた。今日は、展示作品78点のうち、西洋絵画06点、日本画02点、日本洋画02点、計10点をご紹介させて頂きます。

[01]Matisse「ヴェールをかぶった女」1942年
01matisse_woman_with_a_veil_1942

––––––––––––––––––––––––[02]Denis[ドニ]「ダンス」1905年頃
02denis_dance_c1905_2

[03]Rouault Female Circus Rider[女曲馬師] 1927
03rouault_female_circus_rider_1927

––––––––––––––––––––––––[04]Picasso「静物=ローソク・パレットと牡牛の頭」1938年〔blog 参照〕
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[05]Braque「青いテーブルクロス」1938年〔blog 参照〕
05braque_the_blue_tablecloth_1938

––––––––––––––––––––––––[06]Chagall「夏=収穫と落穂拾い」1975年〔blog 参照〕
06chagall_1975_summerharvest_and_gl

[07]小倉遊亀「白椿」1977年
07_1977

––––––––––––––––––––––––[08]加山又造「音」1972年〔blog 参照〕
08_1972

[09]熊谷守一「斑猫」1962年〔blog 参照〕
09_1962

––––––––––––––––––––––––[10]梅原隆三郎『浅間山』1950年
10_1950


 一週間後は、もう2011年の元旦ですね。
 年の瀬の俳句で、芭蕉の作品にこういうのがありました

 煤掃(すすはき)は己(おの)が棚吊る大工かな 芭蕉

 【解説】旧歴12月13日は煤掃の日。この日はどの家庭も忙しい。日雇いの大工職人も、自分の家の煤掃で忙しく仕事に出かけなかった位だから。

 今年一年、【時習26回3-7の会】を応援下さいまして有難うございます。
 来年が、皆さんとご家族にとって幸多い年でありますように。
 そして、我国ニッポン、頑張れ! 再生してくれ!
 でも、菅政権は、来年度予算でまた、2年連続で44兆円を超える国債の大増発だ。「責任」を本当に感じているのか? ウーム!
 では、また‥。(了)

2010年12月19日 (日)

【時習26回3-7の会 0321】~「加賀乙彦著『不幸な国の幸福論』を読んで」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0321】号をお送りします。
 時の移ろいは、本当に早いもので来週22日は『冬至』。今年も残すところ僅かとなった‥。
 とは言っても、昔日の様に、年の暮の年中行事もやらなくなってしまった。
 ま、男という生き物は、基本的にこういうことは苦手である。(笑)
 このことは、江戸時代でも同じだった様だ。

 ともかくもあなたまかせの年の暮  小林一茶

■さて、今週の《会報》は、掲題・副題にあります様に最近読んだ「加賀乙彦著『不幸な国の幸福論』を読んで」をご案内させて頂きます。〔添付写真[01]参照〕

01

 加賀氏をご存じない方の為に、氏の略歴をご紹介しますと、
 1929年東京生まれ。
 東京大学医学部医学科卒業。
 東京拘置所医務技官。
 精神医学・犯罪学研究の為仏留学。
 東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を経て、日本芸術院会員。
 「小説家が読むドストエフスキー「悪魔のささやき」ほか著書多数。
 と言った具合で、頭脳明晰な精神科医というだけでなく、小説家であるというところが氏の著書の長所であると思う。
 即ち、氏の説明が論理的で大変解り易く、また氏の大変深い教養に裏打ちされた見識により読み手を魅了する。

 最近、小生は「そもそも何故今の日本がこんなに衰退してしまったのだろう? そして、これからどうやって生きていったら、未来が明るくなるのだろう?」と自問自答することが度々ある。そうした中、本書に巡り合ってかなり納得できるところがあったのだ。
 詳細は、本書〔集英社新書〕を購読して頂くとして、今日は、本書の中から【第二章 「不幸増幅装置」ニッポンをつくったもの】と【第三章 幸福は「しなやか」な生に宿る】の中から幾つかをご紹介させて頂きます。
 ちょっと、長い文章となりますが、全体像を理解し易い様に配慮した結果ですのでご容赦下さい。
 では、どうぞ‥

【第二章 「不幸増幅装置」ニッポンをつくったもの ~ 流され続けた日本人】
《戦前・戦中とよく似た郵政選挙の庶民心理》
 「郵政民営化に賛成か、反対か。国民に問いたい」――そう言って、当時の小泉首相が衆議院を解散してから投票日までの約一ヶ月、思い起こせば日本中がお祭り騒ぎでした。
 あの一連の騒動と、選挙で誕生した「小泉チルドレン」の姿を興味本位で追う雑誌やテレビを見乍ら、そして「数の力」で重要法案が通る度、この国の生き辛さが増して行くのを感じ乍ら、私は何とも複雑な気持ちになりました。少年時代に目の当たりにした光景とよく似ていたからです。
 1940年09月に日独伊三国軍事同盟が締結された時、東京の街は「ヒトラー万歳! ムッソリーニ万歳!」と叫び乍ら提灯行列をする庶民の姿で溢れ、お祭りさながらでした。当時すでにヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発しており、ドイツと手を組めば米国や英国と戦わなくてはならなくなるということはわかっていたのです。
 にも拘わらず、日本が参戦したら自分達の生活はどうなるかと深く考えもせず、同盟締結を喜び、浮かれ騒いだ。〔中略〕
 やがて戦況が悪化して〔中略〕国民も、〔中略〕B29による空襲に日夜さらされる様になり、漸く自分達が如何に安易に愚かな選択をしてしまったかを痛感した訳ですが、時すでに遅し‥‥。
 当時、多くの人が時代の空気に流されていった様に、敗戦から60年目の郵政選挙でも同様のことが起きていたのではないでしょうか。かつても今も日本人の本質は変わっていない。〔中略〕
 今は〔中略〕その気になれば、様々な情報を自由に入手し多角的に検討することができる時代なのに、時の権力がメディアを利用して垂れ流す単純明快なスローガンや、「郵政造反組 vs 刺客」というテレビ的対立構造に飛びついてしまったのです〔後略〕。

《マッカーサーと韓流スターと日本人気質》
 なぜ日本人は流され易いのか。それについて考えようとすると、必ず思い出す光景があります。あれは、1947年のこと。〔中略〕GHQ本部となっていた第一生命ビル前が黒山の人だかり。みんなビルの玄関を見つめています。〔中略〕
 いったい何事かと思い、暫く眺めていたら〔中略〕連合国軍最高司令官マッカーサーが昼食に出かける姿を一目見ようと「出待ち」だったのです。〔中略〕その熱狂ぶりは今で言うならハリウッドスターや韓流スターを見ようと空港やホテルの前に押し寄せる人達さながらでした。
 敗戦後すぐに昨日までの日本を全否定し、誰もが「民主主義、民主主義」と浮かれる姿に愕然としたものですが、この時は更に唖然呆然。と同時に、日本人の流され易さの根底にあるものが垣間見えた様な気がしました。
 その【一つ】は、【日本人というのは非常に好奇心旺盛な国民だ】ということです。
 幕末から明治初期にかけて来日した欧米人〔中略〕の誰もが口を揃えていたのが日本人の好奇心の強さでした。〔中略〕
 また、徳川幕府と通商条約を結ぶ為にやって来た欧米の使節団は、次々と沿道に溢れ出て大はしゃぎで追走して来る見物人の数、更に異人を一目見ようと入浴中の男女が一糸まとわず飛び出してくる情景に仰天させられたそうです。〔後略〕

《物見高さの代償》
 〔前略〕その旺盛な好奇心の故に、古来、日本人は他国の文化や慣習に興味を持ち、柔軟かつ巧みに取り入れることが出来たのだと思います。
 しかし一方で、目の前に現れた珍しいもの、新しいもの、より面白そうなことにひょいと飛びつきがちな性向を、時の権力者達に巧い具合に利用されても来ました。〔中略〕
 大物政治家と企業の贈収賄、官製談合、官僚OBが「わたり」を繰り返す天下りルート、政・官・業の癒着と怠慢が拡大させて薬害エイズやアスベスト禍の様に健康被害‥‥そういったことが、これまでにいったい何十回、いや何百回、問題になったことか。そのたびにみんな憤るのだけれど、通り魔殺人や有名人のスキャンダル等が起こると、ワイドショーはその話題一色に染まり、人々の関心も移ってしまう。そして疑惑は疑惑の儘消え、誰も責任を取らない儘同様の汚職や怠慢や無駄遣いが続けられました。〔後略〕

《「わからない」「興味がない」が不幸な国をつくる》
 流され易い【二つ目】の要因は、第一章で述べた【日本人の集団主義的傾向や、「個」を主張しにくい社会にある】のでしょう。自分の所属する集団から外されたり、浮き上がることを恐れていれば、どうしても、その場の空気や世の趨勢に流されていまうものです。
 そして【三つ目】にして最大の要因は、【「考えない」が習慣化している人が多いことだ】と思います。第一章で、考えない人ほど自分で自分を不幸に追いやってしまいがちだという話をしましたが、同じことが社会全体にも言えるのではないでしょうか。〔中略〕
 長期的ビジョンを示さないリーダー達が運転する行き先不明のバスに、国民の多くが文句を言い乍らも乗り続けて来たのです。

《刷り込まれた「考えない」いう習性》
 政治について人任せで来たという点においては、現代日本人も江戸時代の庶民と、そう変わらないのかもしれません。
 徳川の治世、幕藩体制が固まるまでには島原の乱をはじめいくつもの一揆がおこりましたが、それ等が厳しく弾圧されると、人々は唯々諾々と「お上」に従う道を選びました。人間というものは、「どうせ無理」「長いものには巻かれろ」といった気持が強まると、それについて考えること自体をやめてしまう傾向があるものです。〔中略〕
 そもそも、人と上手くやっていくことを第一に考える日本の様な社会では、考える力が育ちにくい。一人ひとりが「私はこう思う」と自分の意見を主張し、対等な立場で論じ合ってこそ、互いの考えを深めていくことが出来るのですから。そういう日本人の性向は、265年に及ぶ世界に例を見ない江戸の平和の中で更に強まり、「考える」という知性が少しずつ骨抜きにされていった様な気がします。
 江戸が明治に変わっても、富国強兵を第一とする政府によって、庶民は政治や社会について考えないこと、勤勉で命じられた通りに行動する兵士や労働者であることを強いられました。〔中略〕
 戦後、民主主義社会になりましたが、それは旧体制と戦って自分達で勝ち取ったものではありません。かつて日本中が軍国主義に染まっていった様に、新たな時代の風に流されて米国から与えられたものを、ただ受け入れたにすぎない。
 言うなれば、権力者から頂いた民主主義社会なのですから、長い時をかけ日本人の中に刷り込まれた「社会について考え、国を動かしていくのはお上の仕事」という意識が、そう簡単に消える筈はありません。

《日本にはまだ「市民」がいない!?》
 1990年代の半ばに話題になった『人間を幸福にしない日本というシステム』〔著者:カレル・ヴァン・ウォルフレン、彼は日本滞在30年近くのオランダのジャーナリスト〕という本の中で、ウォルフレン氏はこう指摘しています。ざっと要約すると―。
 
 他の先進諸国では、〔中略〕中産階級が政治を変えて来た。日本にも経済的な面だけで考えれば、戦前から中産階級が存在し、戦後の経済成長で殆どの国民が自分は中産階級に属すると考えるまでになった。しかし、政治に影響力を持つ中産階級は、ほぼ完全に欠落している。

 更に、政治に影響力を持つには「国民」や「臣民」ではなく「市民」であろうとすることが肝要だとし、次の様に記しています。

 市民とは、自分の周りの世界がどう組織されているかは自分の行動にかかっていると、折に触れて自ら言いきかせる人間である。〔中略〕市民は、時に不正に対して憤り、何とかしなくてはいけないと思い至って、社会に関わっていく。受け身の姿勢では、市民としての立場を失うことになる。

 残念乍ら、私達は政治家や官僚が不正をしたと言っては怒り、無能だと嘆きはしても、自分達の未来に不安を抱くだけで、ウォルフレンの言う「市民としての立場」を持とうとしませんでした。それは、全く信頼していない者の手に自分の幸せを委ね切っておき乍ら、幸せにしてくれないのは酷いと文句を言っているに等しいのかもしれません。〔後略〕

《自己否定感の強い中高生》
 こうあって欲しい社会の在り方や国の未来像だけでなく、幸福というものについても、私達は自分の頭で考えることなく、流されて来たのでしょう。いい学校を出て、いい会社に入ることが幸せに繋がるという価値観が、長いこと日本を支配していました。
 そして、多くの人が何の疑問も抱くことなく、世間の勧める「幸福」行きの電車に乗りたいと願い、そのレールから外れたら不幸になってしまうと、自分を、また我が子を駆り立てて来た。そこには、「みんながこの道を行くから私も、うちの子も」という、日本人的な他者志向も働いていたのだと思います。
 その結果、受験戦争が過熱し、日本人は子供時代からストレスに晒される様になりました。同時に、受験用の暗記式教育によって「考える力」が更に弱まってしまった。また、勉強さえしていれば家の手伝いはしなくていいという親が増える中、子供本来の持つ「生きる力」も衰えて行った様な気がします。〔中略〕
 2008年秋に日本青少年研究所が行った国際比較調査の結果は、〔中略〕考えさせられるものでした。「自分がダメな人間と思うか」という問いに対し、中学生の約56%、高校生の約66%が、「とてもそう思う」「まあそう思う」と答えていたのです。

《日本の子供は不幸を背負っている》
 経済力が落ちて来たとは言え、日本は今でも物質的には非常に豊かで、恵まれた国だ思います。戦争で命を失う心配もありません。
 しかし、中学生の二人に一人、高校生の三人に二人が「自分がダメな人間だ」と感じてしまう国が、幸せな筈がない。貧しくても、自分に誇りを持ち、未来に夢を描いて目を輝かせている子供の多い国の方が、遥かに幸せなのではないでしょうか。
 私〔加賀〕には、今の日本の子供達が不幸を背負わされている様に思えてなりません。コンクリートで覆われた国土で、ろくなセーフティネットもない儘、一千兆円を超える借金と膨大な数の老人を抱えて生きて行かなければならないのですから。〔中略〕
 そんな社会を変えて行くには、何が必要なのか。日本が希望を描き易い国に変わるまでの間、蔓延する不安や不幸に呑み込まれることなく生きて行くにはどうすればいいのか。それを次の章から考えて行きたいと思います。

【第三章 幸福は「しなやか」な生に宿る】
《みんなが損をしない持続可能な社会へ》
 〔前略〕思えば、米国のサブプライムローンも低所得者が対象でした。こちらは、ローンを組む者も組ませる者も、その債権を金融商品にして売る者も買う者も、住宅価格が値上がりし続ける等というあり得ないことを前提に欲の皮を突っ張らせた挙句、世界的金融危機を引き起こしてしまった。
 誰もが自分の最大利益を追求しようとすれば、結局、誰も幸せにはなれません。地球という限られた世界の中で、受け取るパイは限られているのです。それを自覚し、みんなで少しずつ我慢し合って、持続可能な、環境に優しい社会に変えて行く。一握りの人間だけが得をし、その一握りを目指して競い合う社会から、大きな得はなくても、みんなが大きな損をせずに済む社会に変えて行く。経済成長至上社会から国民の暮らしを優先する社会へと舵を切る様、国に求めて行く。
 そういう社会であれば、その時々の状況の変化によって簡単に消えてしまうことのない、持続可能な幸せを築いていけるのだと思います。

《希望の種は探せばどこにでもある》
 人間が生きて行く上で最も大切なものは何か。そう問われたら〔中略〕私〔加賀〕なら「希望」と答えます。希望さえあれば、どんなに辛い状況にあっても何とか歩き続けて行ける。苦しくても、貧しくても、孤独でも、病に冒されても、そう簡単に挫けない。〔中略〕
 誰もが希望を失ってしまいそうな時代だからこそ、希望を持つことが大切なのだと思います。但し、戦後の様に苦しくても未来の明るい展望があった時代と現在とでは、希望というものへの対し方も違ってしかるべきでしょう。〔中略〕私達は今、出口の見えない暗いトンネルの中にいます。そもそも日本という国自体が資本主義国家としてはピークを過ぎ、今後何十年かは人口が減り長い下り坂を下って行くだろうことがわかっている。
 そんな中〔中略〕嘆いていても〔中略〕更に気持ちが沈むだけ。〔中略〕だから、社会が良くなることや誰かが希望を与えてくれるのを待つのではなく、自分から積極的に見つけようとした方がいい。と同時に、希望とは何かについても認識を新たにする必要があるのではないでしょうか。〔後略〕

《幸福の源泉は「しなやか」な精神》
 抱いた希望〔夢〕に対する姿勢も「しなやか」でありたい。
 私は絶対こうなるんだとか、その為にはこうでなくてはならないとか、○○になれなければおしまいだ等と決めつけず、もっと気楽に構えてみてはどうでしょう。
 例えば、挫折したら自分を鍛えるチャンスだと喜び、その経験を生かして違う方向に進んでみる。それまで好きだったA以上に興味をひかれるBを見つけたなら、Bへと舵を切って行く。夢は変更可能なものですし、自分が本当に好きなことや向いていることが最初からわかっている人などそうはいません。だから、進む道を臨機応変に変えて行けばいいのです。
 そしてまた、夢が成就するか否かについても「しなやか」でありたい。
 自分の望んだ通りの人生を送れる人など、ごく一握りに過ぎません。願望を達成することが人生の幸福だと考えるならば、殆どの人が不幸にならざるを得ない。だから、成就出来れば嬉しい、その為に努力はするけれど、成就しなくても致し方ないという位の「しなやか」な構えでいるのが丁度いい様に思います。
 大事なのは、夢の中身でも、それを達成出来るかどうかでもない。自分なりの夢を持つことで未来への意志を掻き立てること。そして、その夢に向かって昨日より今日、今日より明日、少しでも自己の水準を上げようと人生を歩んで行くことなのではないでしょうか。そうすることで希望が生まれる。
 〔中略〕私自身は〔中略〕希望とは単に〈願い望むこと〉というより、未来を見据え乍ら歩いて行く過程でふっと心に浮かぶもの―そんな感じがするのです。
 だから〔中略〕棚ぼたの様に希望が落ちて来る様なことはありません。希望を持つには、まず人間の側の働きかけが、何かを目指して行くという姿勢が必要なのです。
 それさえ忘れなければ、希望はいつだってそこにある。社会や自分の状況が悪化して希望が消えてしまったとしても、不運を嘆くのはほどほどにして心を切り替え、〔中略〕「しなやか」に新たな目的を見つけ、歩み出せばいい。そうすれば、また心に希望の灯がともるでしょう。
 そうして常に希望を胸に抱き歩き続けて行ける人は幸福である、と私〔加賀〕は思います。夢に向かい努力するという行為自体が強力なエンジンとなって絶えず前へ前へと人間を進ませ、例えその夢は実らなくても生きがいや喜びを生み出して行く。
 そういう意味では、周囲の環境や運ではなく、その人が世界とどう関わって行くかという、人間の生きる姿勢が幸福をつくるのだと思います。〔中略〕
 これがなければ幸福になれないという思い込みを捨てること。自分を不幸だと決めつけず、身の周りにある小さな幸せに目を向けて行くこと。「今、ここ」にとらわれず、場を広げ、人生というロングスパンで自分の置かれている状況を見ようとすること。挫折も幸福になる為の要件だと考えること。今の混乱をチャンスと考え、これまで自分達を縛っていた価値観を見直し、人にも環境にも優しい生き方を模索していくこと‥‥。
 そう、スープル(仏語 souple 「しなやか」「柔軟な」という意)な精神こそが幸福の源泉である。しなやかな生にこそ希望があるのです。〔了〕

【小生 comment】
 「柔軟な」頭を保つことが大切だということが良く解った。ただ「老化」が始まると、「柔軟な」から「頑固な」に変わり易いということを心すべきとも加賀氏は言っている。【第四章 幸せに生きるための「老い」と「死」】~《「老い」を受け入れる》の冒頭で次の様に述べている。

 ここで大切なのは、加齢によって自分が怒りっぽくなっている可能性があるのを認識しておくことです。そうすれば、カッとなった時「ちょっと待てよ。昔はこの程度のことじゃカッカしなかったぞ。そんなに怒る様なことなのか」と自分の怒りを引いて見ることが出来る。〔中略〕
 そんなふうに、まず自分の「老い」を受け入れ、認めることが、老いというものと上手く付き合って行くコツなのではないでしょうか。

 そう、小生も最近、家族から「気が短くなった」と叱責されることが何回かある。反省しなければ‥。(汗)(笑)

 では、また‥。〔了〕

2010年12月11日 (土)

【時習26回3-7の会 0320】~「12月04~05日:「中嶋君【3-2】との『湖北の旅~竹生島と五寺の十一面観音像参詣』報告」

■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0320】号をお送りします。
 時節は12月07日が二十四節気でいう『大雪(たいせつ)』。
 ここのところ比較的穏やかな日が続いていますね。ここで拙句が浮かびました‥

 「大雪(たいせつ)」の寒さ忘るる師走かな  悟空

■さて今日は、掲題・副題にあります様に、12月04(土)~05日(日)の両日、中嶋君【3-2】と『湖北の旅~竹生島と五寺の十一面観音像巡り』に行って来ましたのでご報告させて頂きます。
 毎年、この時期は、谷山君【3-3】と青木さんと4人で、城址・社寺・史蹟名勝巡りをしていることは、既に《会報》にて何度かご紹介させて頂いています。因みに一年前は、中嶋君と青木さんの3人で「福知山城・出石城跡・城之崎温泉・伊根の船屋・天橋立」巡りでした。
 今年は、谷山・青木両氏が日程的に合わず、中嶋君との二人旅となった次第。
 行き先は、昨年「天橋立」の後、立ち寄ったが日没後の為見ることが出来なかった賤ヶ岳古戦場をはじめとする『湖北の旅』です。
 行程を以下に記すと‥

【04日】
 09時00分 拙宅に中嶋君が車で迎えに来てくれて出発
 09時20分 東名・豊川IC→名神・小牧IC→北陸・米原IC→長浜IC
 11時25分 長浜港・フェリー発着所〔ホテルで lunch〕
 12時45分 竹生島ゆきフェリーに乗船、出港
 13時15分 竹生島着→竹生島神社&弁才天参拝
  [01]竹生島に着いた時のsnap-shot〔blog参照〕
01snapshot

  ––––––––––––––––––––––––[02]竹生島の弁才天と竹生島神社の標識〔blog参照〕
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  [03]竹生島港出港前の中嶋君と小生の two-shot
03_twoshot

 14時40分 竹生島出港
  [04]出港後、竹生島を振り返って〔blog参照〕
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【竹生島について〔その1〕~白州正子著『近江山河抄』~〔近江路〕より】
 〔前略〕昔はここ〔=海津〕まで船で来て、海津から先は徒歩(かち)で北陸へ抜けた。お天気のいい日には、湖水を隔てて伊吹山も望まれ、漫(そぞ)ろに古人の旅情が偲ばれる。都をはなれた彼等にとって、竹生島は一つの心のより所となったであろう。

   この蟹や いづくの蟹 百伝(ももづた)ふ 角鹿(つぬが)の蟹 横去らふ 何処に至る 伊地遅(いちぢ)島 美(み)島に着き 鳰(にほ)の 潜(かづ)き息づき しなだゆふ 佐々那美路(さざなみじ)を すくすくと 我が行きませば‥‥〔古事記〕

 これは応神天皇が、矢河枝比売(やかわえひめ)に送った相聞歌であるが、伊知遅島は竹生島の古名で、美島は美称である。角鹿(今の敦賀で応神天皇の都)に名物の蟹を連想し、横に這うことから、竹生島の姿を思い浮かべた。鳰鳥はカイツブリのことで、その鳥が沢山いる琵琶湖を、後世「鳰(にほ)の海」とも呼んだ。しなだゆふは佐々那美路、つまり近江路の枕詞で、坂道が多いことの形容と聞くが、そういう固定した景色ではなく、うねうねと続く丘陵の起伏に、小波が打ち寄せる様な動きを感じ、そこで「すくすく‥‥」という足取りが生きて来る。佐々那美は後に「楽浪」と書いて、「志賀」の枕詞に転じ、多くの優れた歌を生んだ。〔後略〕

【竹生島について〔その2〕~白州正子著『西国巡礼』~〔第三十番 竹生島〕より】
 竹生島へは、大津からも長浜・彦根からも遊覧船が出ているが、湖北から行くのが一番近い。〔中略〕
 さて、その長い歴史を秘めた島が、どこから一番美しく見えるかといえば、私(=白洲正子)は海津の浦からと答えたい。海津は大崎の鼻を回った入江にあり、『勧進帳』等で有名な泊りだが、今はうらぶれた漁村である。そこに小さな松原があり、湖水の畔まで出ると、伊吹山を背にした竹生島が眺められる。〔中略〕伊吹を抜きにした竹生島は魅力がない。〔中略〕ひたひたと寄せるさざ波の他、物音一つしない浜辺に立って、私は長い間見とれていた。浄土の夢を見ている想いであった。
 後を振り返ると、丁度比良の嶺に、夕日が落ちるところで、頂上に残るはだら〔=濃い色と薄い色が混じって斑(まだら)の模様を現す様〕雪が茜色に染まっていた。〔了〕

 15時05分 長浜港着
 16時30分 国民宿舎 つつらお荘着
  [05]国民宿舎 つづらお荘〔blog参照〕
05

  ––––––––––––––––––––––––[06]つづらお荘の宿泊部屋からの竹生島遠望20101204-16時25分〔blog参照〕
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【05日】
  [07]つづらお荘の宿泊部屋からの竹生島遠望20101205早朝07時20分
07201012050720

 08時15分 つづらお荘発、同荘の勧めで【須賀神社】と【菅浦(すがうら)】の海岸と集落を散策。菅浦は湖北にあり乍ら雪は殆ど降らないという。

【菅浦と淳仁天皇〔淡路廃帝〕について~白州正子著『かくれ里』~〔湖北 菅浦〕より】
  [08]「菅浦」晩秋旅情01〔blog参照〕
0801

  ––––––––––––––––––––––––[09]「菅浦」晩秋旅情02〔blog参照〕
0902

  [10]「菅浦」晩秋旅情03〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[11]「菅浦」晩秋旅情04〔blog参照〕
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  [12]「菅浦」晩秋旅情05〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[13]「菅浦」晩秋旅情06〔blog参照〕
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 〔前略〕祖神として祀られる人々には、必ず哀れな伝説が付き纏う。淳仁天皇〔【小生注】733-765(第47代:在位758-764)〕も、その例をもれず、不幸な生涯を送った天皇である。天平勝宝08(756)年、聖武天皇の崩御と共に、平城京には不穏な空気が流れ始めた。〔中略〕皇太子も廃され、代わって大炊(おおい)王が立つ。天武天皇の孫〔=舎人親王の子〕で、時に25歳、これが後の淳仁(じゅんにん)天皇である。予てから藤原仲麻呂〔恵美押勝〕と親交があり、翌年に孝謙天皇が譲位して、仲麻呂は天皇から、恵美押勝の美称を給わる。が、〔中略〕天皇は傀儡に過ぎず、〔中略〕〔天平宝字04(760)年後ろ盾だった光明皇太后が崩御すると〕押勝の立場も危うくなって行く。
 新しく造った近江の保良(ほら)の宮〔=現・大津市瀬田の付近〕で、〔淳仁〕天皇が〔孝謙〕上皇と道鏡の間柄を、厳しく詰問されたのは有名な話である。そのことから、事態は急速に悪化した。〔中略〕押勝の乱が起こったのは、それから間もなくのことである。〔中略〕
 さしもの権勢を誇った恵美押勝が、近江の高島で壊滅すると同時に、天皇も淡路に流され、「淡路廃帝」と称されることになる。その後日譚は、太平記に載っており、【菅浦】の伝説も、恐らくこれが元になっていたと思われる。
 〔中略〕〔天皇は淡路脱出を試みるも失敗し、殺されたいうのが有力説であるが〕菅浦の言い伝えでは、その淡路は淡海の誤りで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、【須賀神社】という社があるが、明治までは保良神社と称し、大山咋命(おおやまぐいのみこと)・大山祇命(おおやまつみのみこと)が祭神であった。が、本当の祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている。保良神社と言ったのも、そこが保良の宮跡だからで、また葛篭(つづら)尾崎の名称も、帝の遺体を奪って、高島からつづらに入れて運んだことから名づけた、と伝えている。〔以下略〕

 09時50分 【善隆寺〔和藏(わくら)堂〕】「十一面観音像」と「阿弥陀仏頭」を拝む。二体共、国の重文。
  [14]善隆寺〔和蔵堂〕〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[15]和蔵堂・十一面観音像
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 10時45分 余呉湖到着。車で半周程走り、
 10時50分 同湖畔にある国民宿舎「余呉湖荘」に入る。
 11時00分 同荘にて、昼食〔近江牛丼〕をとる。
 11時40分 余呉湖荘発、徒歩で賤ヶ岳山頂までの1,500mを35分で登る。大変暖かな日で汗が出た。山頂から南側に琵琶湖、北側に余呉湖。陽射しに反射する琵琶湖が特に美しかった。
  [16]賤ヶ竹古戦場石碑〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[17]賤ヶ岳から余呉湖を望む〔blog参照〕
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  [18]賤ヶ岳から琵琶湖・竹生島遠望〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[19]賤ヶ岳から琵琶湖遠望の絵画的瞬間〔blog参照〕
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  [20]賤ヶ岳山頂から琵琶湖をバックに中嶋君と
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 賤ヶ岳山頂の滞在時間は20分程で下山開始。帰途は15分程で余呉湖荘に戻れた。
 13時30分 余呉湖荘発。
 14時00分【己高(ここう)閣・世代(よしろ)閣】着。今日二つ目の「十一面観音像」参拝となる。この二つの閣は、與志漏(よしろ)神社境内にある収蔵庫。己高閣には、同神社至近にある「鶏足寺(けいそくじ)」の本尊であった「十一面観音立像」を安置してある。この観音様は実に上品で smart な立ち姿をされている。美しい。この観音様の右足親指先をご覧下さい。ここだけ上を向いている。これは次にご紹介する「石道寺(しゃくどうじ)」の「十一面間の立像」と同じく、右足親指先が上を向いた pose をしている。このお姿は、「衆生を救う為、観音様が今にも足を踏み出そうとしている姿」を現しているのだという。
  [21]己高閣(鶏足寺)十一面観音像〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[22]己高閣(鶏足寺)十一面観音像・頭部
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  [23]己高閣・世代閣付近にて〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[24]鶏足寺から石道寺に至る道の紅葉の風景〔その1〕〔blog参照〕
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  [25]鶏足寺から石道寺に至る道の紅葉の風景〔その2〕〔blog参照〕
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  ––––––––––––––––––––––––[26]鶏足寺から石道寺に至る道の紅葉の風景〔その3〕〔blog参照〕
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 14時53分【石道寺】着。この「十一面観音像」は実に美しい。これも、白州正子氏の言葉を借りる。〔後述【石道寺】参照〕
  [27]石道寺・十一面観音像
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 15時37分【向源寺〔渡岸寺〕】着。ここの「十一面観音像」は国宝である。流石に素晴らしく、見る者にえも言われぬ流麗な美しさで迫って来る。実は、この観音様は、4年前の10月15日《会報》【0054】号にて見て来たことをご紹介済ですが、現物は撮影禁止なので、お寺で販売されていた写真集からご紹介させて頂きます。
  [28]渡岸寺(向源寺)・国宝 十一面観音像 頭部
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  ––––––––––––––––––––––––[29]渡岸寺(向源寺)・国宝 十一面観音像
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 16時26分【大平観音堂】着。これまでご紹介して来た4体の「十一面観音像」は、全て現・長浜市にある。※
 一方、この大平観音堂は米原市にある。伊吹山麓にあると言ってもいい。現地に到着したのは16時をかなり回っており、入り口も施錠されていた為、「拝観叶わずか」と諦めかけた処、【大平観音堂】の向かいに、そのお堂拝観の受付を担当している「伊吹山文化資料館」がまだ開いていたので、そこにいた受付の女性に、「我々二人は、遠路・愛知県から遥々、円空作『十一面観音立像』を見に来た。許されるのであれば10分でいいので是非拝観させていただけないかと伝えて欲しい」と頼み込んだ。そうしたら、その女性は快く応じてくれ、2~3分したらお堂を管理しているおばさん、続いておじさんがやって来て、快く見せてくれた。しかも写真撮影もOKということで。
  [30]太平観音堂・円空作 十一面観音像 頭部
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  ––––––––––––––––––––––––[31]太平観音堂・円空作 十一面観音像
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 この円空の「十一面観音立像」は、先日11月21日(日)まで滋賀県立近代美術館で開催されていた『生誕100年特別展 白州正子~神と仏、自然への祈り展』に展示されていたものである。小生、丁度2週間ぶりの再会を果たした。嬉しく思った。中嶋君も同展を小生より先に見ている〔というより同展開催を小生に紹介してくれたのは彼である〕。17世紀前半に活躍した円空の作風は、文字通り荒削りである。が、その日見た全部で5つの「十一面観音立像」の中で、この円空の作品が見るものに最も斬新な清々しさを与えてくれた、と小生は感じる。

 ※余談であるが、長浜市は平成22(2010)年01月01日、旧長浜市、東浅井郡虎姫町、東浅井郡湖北町、伊香郡高月町、伊香郡木之本町、伊香郡余呉町、伊香郡西浅井町の1市6町が合併して誕生。旧長浜市と湖北地方一帯が大・長浜市になった。

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 それでは、以上の4体の「十一面観音立像」について、白州正子著の『近江山河抄』~〔伊吹のあらぶる神〕、及び同著『十一面観音巡礼』~〔湖北の旅〕より著者の話をご紹介したい。尚、『近江山河抄』は昭和47年8月から10回に亘り芸術新潮に連載〔白洲正子62歳〕、『十一面観音巡礼』は、昭和49年01月から一年半芸術新潮に連載〔同64歳〕された。我々が【3-7】の現役時代、卒業間近の昭和49年01月に上梓されたのである。何か感慨深いものを感じる。

【己高閣】〔『十一面観音巡礼』~〔湖北の旅〕より〕
 〔前略〕古橋という集落の高台に、與志漏(よしろ)神社が建っている。その裏手に新しい収蔵庫があって、もと己高(こたかみ)山にあった鶏足寺(けいそくじ)の仏像が集まっている。己高閣とも呼ばれ、本尊は平安初期の十一面観音で、渡岸寺の観音とはまた別な趣がある。いかにも田舎の仏らしく、おっとりとした風貌で、ほのかな彩色が残っているのが美しい。〔後略〕

【石道寺】〔同じく『十一面観音巡礼』より〕
 鶏石寺から石道寺へ、雑木林の中を縫って行く小道には、湖北らしいしっとりとした趣がある。〔中略〕落葉を踏んで行くと、やがてその麓の山あいに、石道(いしみち)の集落が見え〔中略〕お堂は、そこから少し登った丘の上の、桜並木の奥にあり、ここにも平安時代の可憐な十一面観音が、村の人々に守られて鎮まっている。「一木造り等身大の藤原彫刻は、まことに古様で、美しい。微笑を含んだお顔もさること乍ら、ゆるやかに流れる朱(あけ)の裳裾(もすそ)の下から、ほんの少し右の親指をそらし気味に、一歩踏み出そうとする足の動きには魅力がある。法華寺や室生寺の十一面観音も、同じ様に親指をそらせているが、多くの人々の心をとらえるのは、あの爪先の微妙な表現によるのではないか」
 と、『近江山河抄』の中に私は書いているが、今度気がつくと、鶏足寺の観音も、足の親指をそらせており、当時の彫刻家が、十一面観音の「遊び足」の表現に、夫々苦心したことが窺える。〔後略〕

【渡岸寺〔向源寺〕】〔同じく『十一面観音巡礼』より〕
 土地ではドガンジ、若しくはドウガンジと呼んでいるが、実は寺ではなく、ささやかなお堂の中に、村の人々が、貞観時代〔【小生注】859-877年(清和・陽成天皇の御代)〕の美しい十一面観音をお守りしている。私が初めて行った頃は、無住の寺で、よほど前からお願いしておかないと、拝観することも出来なかった。茫々とした草原の中に、雑木林を背景にして、うらぶれたお堂が建っていたことを思い出す。それから四、五へんお参りしただろうか。その度毎に境内は少しずつ整備され、案内人もいる様になって、最近は収蔵庫も建った。〔中略〕
 お堂へ入ると、丈高い観音様が、剥き出しの儘立っておられた。野菜や果物は供えてあるが、その他の装飾は一切ない。〔中略〕湖水の上を渡るそよ風の様に、優しく、なよやかなその姿は、今迄多くの人々に讃えられ、私も何度か書いたことがある。が、一年以上も十一面観音ばかり拝んで廻っている間に、私はまた新しい魅力を覚える様になった。〔中略〕
 渡岸寺の観音〔中略〕は近江だけでなく、日本の中でも優れた仏像の一つであろう。〔後略〕

【大平観音堂】
 〔前略〕円空(【小生注】(寛永09(1632)年-元禄08(1695)年08.24)も多くの彫像を残した。かつて伊吹村で、円空作の十一面観音に出会った時の感動が、私には忘れられない。それまで私は、世間の人が騒ぐ程、円空に興味を持っていなかった。が、美濃や飛騨の山奥を歩いていると、至る所で彼の作品に出会う。そして、言わば円空信仰とも言うべきものが、ブームになるより遥か以前から、地方に行渡っていたことを知ったのである。〔中略〕
 〔伊吹村の十一面観音は〕もと伊吹山の太平寺に祀ってあった仏像で、最近麓の村へ移されたという。それは作者の息遣いが直に伝わって来る様な、迫力に充ちた仏像であった。円空の彫刻には、誰でもそういうことを感じるが、時には表に出過ぎて、内面的な力に欠ける場合もある。が、この観音様は違っていた。恐らく素材に制約されたのであろう。窮屈そうに肩をすぼめて、宝瓶(ほうびょう)を握りしめ、鱗形の天衣を纏った長身からは、鬱勃として精気がほとばしる様であった。悲しい様な、寂しい様な微笑を浮かべた表情にも、孤独な人の魂が感じられる。腰を捻った恰好は、当人は「遊び足」のつもりだったかも知れないが、私には自然の樹木のよじれの様に見え、十一面観音が誕生する以前の、「立木観音」を彷彿とさせる。〔後略〕

 17時02分 大平観音堂を後にした我々は、中嶋君の発案で、これも以前の2007年12月05日付《会報》【0139】号にてご紹介させて頂いたことがある、須賀谷温泉へ立ち寄り、源泉かけ流しの温泉を小一時間程堪能して、それから帰途についた。

【小生 comment】
 歴史には色々浪漫がある。二日間で、【竹生島】【菅浦と淡路廃帝(はいたい)の逸話】【余呉湖】【賤ヶ岳古戦場】【善隆寺・己高閣(鶏足寺)・石道寺・渡岸寺(向源寺)・太平観音堂の5つの『十一面観音像』】を見て回った。限られた時間ではあったが「古を思ほゆ」ことが出来た素晴らしい旅行となった。
 竹生島のお土産屋のおばさんとの楽しい会話や、5つの『十一面観音』を観光客に説明してくれた、ご住職や係員の方々。志賀・湖北の人々の温かな心遣いにも感動した旅行でもあった。
 湖北・琵琶湖の旅情に魅せられた二人は、「次回の旅行も、琵琶湖関連で『湖南三山』なんかいいね」とも語りあった。

■さてさて、今日は、やはり【近江・琵琶湖】づくしで締め括り、お別れしたいと思います。白洲正子が愛した様に、【近江・琵琶湖】をこよなく愛した著名な俳人として江戸時代では松尾芭蕉、現代では去今年08月18日に満91歳で天寿を全うした森澄雄がいますのでご紹介します。

 昔から松尾芭蕉が近江の国を愛していたのは有名な話である。
 「五月雨に 鳰(にほ)※の浮巣を 見に行かむ(貞享04(1687)年)」と琵琶湖への思いを語り、「行く春を 近江の人と 惜しみける(元禄03(1690)年)」では、琵琶湖に船を浮かべ、近江国の風雅を解する人々と、過ぎ行く春の名残を惜しんだ。
 また芭蕉は、【近江八景】の地も上手く詠んでいる。因みに、近江八景とは、「矢橋(やばせ)の帰帆・三井の晩鐘・瀬田の夕照(せきしょう)・石山の秋月・粟津の晴嵐・唐崎の夜雨・堅田の落雁・比良の暮雪」をいう。

 ※「鳰」とはカイツブリのこと。古来、琵琶湖にはカイツブリが多く生息しており、琵琶湖は別名「鳰の海」とも呼ばれている。

 「比良三上(みかみ) 雪指(さ)しわたせ 鷺の橋(元禄03(1690)年)」
 【解説】琵琶湖上を渡って行く鷺よ、湖西の比良山と湖東の三上山をお前の様に真っ白な雪の橋を架けてくれ。

 「石山の石にたばしるあられ哉(かな)(元禄03(1690)年)」
 【解説】石山寺の白く晒された石山に、白い霰が音を立てて激しく飛び散り壮観な眺めだ。白さと冷気を感じる。

 「三井寺の 門敲かばや 今日(けふ)の月(元禄04(1691)年)」
 【解説】謡曲「融」の場面。三井寺を訪ね、「月下の門」を敲き、古人と心を通わせたい。

 「錠明けて 月さし入れよ 浮御堂(元禄04(1691)年)」
 【解説】堅田・満月寺の浮御堂の錠前を開けて月光を射し込めよ。阿弥陀千体仏を輝かせたい。

 「名月は ふたつ過ぎても 瀬田の月(元禄04(1691)年)」
 【解説】閏八月があり「中秋(=08月15日)の名月」を二度楽しめた。それを過ぎても、この瀬田の月の美しさは格別である。

 更に因みに、【琵琶湖八景】というのもある。これは昭和25年、琵琶湖国定公園が定められた際、選定されたもの。室町時代に選定された【近江八景】に比べ、現代感覚で琵琶湖周辺の『風景美』を示したものと言える。

〔月明(げつめい) 彦根の古城〕
〔涼風 雄松崎(おまつざき)の白汀(はくてい=白い砂州)
〔新雪 賤ヶ岳の大観〕
〔煙雨 比叡の樹林〕
〔深緑 竹生島の沈影〕
〔夕陽 瀬田・石山の清流〕
〔暁霧 海津大崎(かいづおおさき)の岩礁〕
〔春色 安土・八幡の水郷〕

 また、森澄雄(1919.02.28-2010.08.18)が琵琶湖・近江について詠んだ俳句について、山本健吉は「定本 現代俳句」の中でこの様に紹介している。

 雁の数渡りて空に水尾(みを)もなし

 昭和47年07月~08月、氏は(【小生注】氏の師である加藤)楸邨夫妻らとシルクロードの旅に出た。〔中略〕その旅の一夜に、ふと芭蕉の「行春を近江の人とおしみける」が心に浮かび、深い思いに誘われた。帰国して一息入れると近江に出かけ、それから季節を問わず、何十回となく近江を訪れている。〔中略〕氏は言う。「事実春を惜しんでいるのは近江の人々であり、またひろやかな湖水をもつ近江の風土感を詠いこめ乍ら、それらを遥かに越えて、この一句のもつやさしと懐かしさは、古来、春を愛し、行く春を惜しんできた日本人の心の、これからも続く遥かな思いであろう。〔中略〕」
 氏は続いて、近江の旅でつくった句をいくつか揚げている。そして10月堅田夜泊で〔中略〕その時出来たのが、上記の句と共に以下の句である。

 羽づかふ見えて淡海(あふみ)を雁渡る
 秋の淡海かすみて誰にもたよりせず

 そして、不肖小生も【琵琶湖】の魅力に惹かれ続けている一人だ。今日ご紹介した添付写真にある様に、賤ヶ岳から見た琵琶湖の湖面の輝きは実に美しく、その超自然的な『美』を見つめていると、いつの間にか virtual real な世界に引き込まれて行く。
 今日最後も、白洲正子の言葉を借りよう。『近江山河抄』から〔近江路〕の一節である。

 〔前略〕西国巡礼の取材をした時‥岩間、石山、三井寺を経て‥若狭から再び竹生島、長命寺、観音正寺を巡っているうちに、私(白洲正子)はえたいの知れぬ魅力にとりつかれてしまった。それが何であるか、はっきりとは言えない。言えないから書いてみる気にもなった訳で、ともすれば私の足は近江へ向かい、茫漠たる湖を望んで、人麿の歌を口ずさむこともあった。

 淡海(あふみ)の海 夕浪千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしぬに 古へおもほゆ
 【解説】「心もしぬに」は「心もしのに」とも。胸がせつなくなる程にの意。「古(いにしへ)思ほゆ」は、近江朝を懐かしんでいう。「近江の海の 夕浪千鳥よ おまえが鳴くと 胸ががせつなくなるほど 昔のことが偲ばれるよ」。

 この歌は、わずか五年にして滅びた大津の京への挽歌であるとともに、私(白洲正子)自身の憶いでもあった。優れた詩歌は人に共感を強いるものらしい。〔後略〕

 そして小生もこの人麿の歌に惹かれ、三十数年前の学生時代を「古思ほゆ」、即ち、憶い起こしていたら、幻想的な雰囲気な下、以下の歌が浮かんだ。

 さざなみや淡海に佇む君を想ひ つくる歌こそ我が青春の碑  悟空

 そして更に、今回の「湖北への旅」の中で、輝く湖面に浮かぶ竹生島を見ながら詠んだ拙歌が次の一首である。

 竹生島 寄せ来る浪に 誘はれて 憶ひ起こすは 君の御(み)姿  悟空

 【琵琶湖】は、いつも小生に『浪漫( roman )』を与えてくれる素晴らしい湖だ。
 では、また‥。〔了〕

2010年12月 1日 (水)

【時習26回3-7の会 0319】~「11月27日:【2637の会】《クラス会 Part2》開催報告」「11月21日:京都国立近代美術館『上村松園』展&青蓮院門跡庭園の紅葉&滋賀県立近代美術館『生誕100年特別展 白州正子~神と仏、自然への祈り展』を見て」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0319】号をお送りします。
 本来なら明々後日に配信する予定でしたが、明日と明後日は夜予定があり、また、04日(土)~05日(日)両日は、賢人会旅行の為、配信する時間が取れないことから、今晩配信させて頂くことにしました。
 というよりも、11月27日に開催した【2637の会】《クラス会 Part2》の模様を早くご報告させて頂きたいと思う気持ちのほうが強かったのが本心です。

 11月27日(土)は、夕方6時、ほぼ定刻に参加予定者の9人全員が会場トライアゲイン集合して開催されました。
 みんなとっても元気で、すぐ和やかな、大変楽しい《クラス会》でした。
 鈴木Y次君と犬飼(石田)R子さんが、2006年から5年連続開催されている【2637の会】《クラス会》に初めて参加してくれました。
 Y次君は、確りと貫禄がついて、素晴らしい福耳と共に、膨よかな仏様の様な姿が印象的でした。
 犬飼さんとは、小生は、2006年の春、浜松で峯田君と3人で会ったことがあるのですが、それ以来4年半ぶりの再会です。
 【2637の】《クラス会》へは初めての参加ですが、若かりし頃の面影が確り残っていて、店に入って来た時、すぐ犬飼さんだと判りました。
 山中(高木)さんは、昨年は欠席でしたので、2年ぶりの再会です。
 石田君、菰田君、千賀君、林恭子さん、牧野君は、小生と共に今年08月の《クラス会》にも参加してくれました。
 みんなのお陰で総勢9名の《クラス会》となりました。参加して下さった8名の皆さん、有難う!
 会を進め乍ら、みんな納得し合ったのは、九名位の人数が、みんなの話題が一つに纏まって非常に良かったことです。
 この位の人数だと、自己紹介などという改まった催しをせずに、誰とはなしに、話題の catch ball が smooth に行われて良かったです。
 それから、話題は自ずと「健康」の話が多かったですが、それ以外にも、《クラス会》に参加していない classmates の仲間の昔懐かしい話や近況等にも及びました。
 更に、小生が最近《会報》でしばしば取り上げている、現代の日本や世界の政治経済にまで話が及び、難い話乍ら、みんな面白かったという感想を頂戴しました。
 その為、トライアゲインのママは、「話題が結構真面目な話なのに、みんな結構楽しんでいたみたいね。だからカラオケを用意していたのにだ~れも歌わなかったし。でも、こういう《クラス会》もあったっていいんじゃない?」と話してくれました。
 そうなんです。6時から始まった《クラス会 Part2》なのですが、あっと言う間に、9時半を回り、そこで《クラス会》の定番になった寄書をジャンケンで決め、千賀君が get しました。
 そして、その後、参加者全員で記念撮影しました。
 皆さんご覧になって如何ですか? みんな「いい顔」してるでしょう!
 本当に楽しいあっという間の4時間でした。

 添付写真は‥
[01]全体写真
0101101127

––––––––––––––––––––––––[02]クラス会参加者9人の寄書
02_part2_9_20101127aa

[03]寄書を get した千賀君、です。
03_part2_20101127

 帰り際に、万年幹事の小生が、今後も毎年、08月の旧盆の《クラス会》と、11月の《クラス会 Part2》を開催することを宣言しました。
 そして、協力できる方は両方の《クラス会》に参加してくれる様お願いしました。
 今回の《クラス会 Part2》に参加されなかった【2637の会】members の皆さん、来年も、08月か11月、或いはその両方の《クラス会》に是非参加して下さい。心よりお待ちしています。

■さて、続いての話題です。
 《クラス会》開催日の6日前の11月21日(日)。早朝06時過ぎに豊橋の拙宅を出発し、東名・伊勢湾岸・東名阪・新名神・名神高速と乗り継ぎ、9時半に京都・岡崎公園南にある京都国立近代美術館を訪れました。「上村松園展」を見る為です。
 松園は、鏑木清方や伊東深水と共に日本画の大家として著名なことは皆さんもよくご存知だと思います。
 彼女の作品は、いずれも気品があり、何回見ても飽きが来ない名品が多い、と小生は思います。
 今回の展示作品の中では、『序の舞』昭和11(1936)年と『焔(ほのお)』大正07(1915)年が素晴らしい。
 『焔』(190.9cm×91.8cm)も大きいが、『序の舞』(233.0cm×141.3cm)の大きさには圧倒された。
 彼女の名品の数々のうちのいくつかをご紹介させて頂きます。

[21]「よそほい」 明治35(1902)年頃
21_351902a

––––––––––––––––––––––––[22]「蛍」大正02(1913)年
22021913

[23]「花がたみ」大正04(1915)年
23041915

––––––––––––––––––––––––[24]「焔」大正07(1915)年
24071915

[25]「序の舞」昭和11(1936)年
25111936

––––––––––––––––––––––––[26]「新蛍」昭和19(1944)年
26191944


 続いて訪れたのは、京都国立近代美術館から南へ徒歩数分の所にある「青蓮院門跡」。ここは、現天皇家の祖、光格天皇の仮御所にもなった所である。その庭園の紅葉をご覧に入れます。

[31]青蓮院門跡庭園
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––––––––––––––––––––––––[32]青蓮院門跡庭園の紅葉
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[33]京都国立近代美術館近くの橋にて
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 12時過ぎに京都を後にして、その日の最後の訪問先である滋賀県立近代美術館へ。当日が開催最終日であった『生誕100年特別展 白州正子~神と仏、自然への祈り展』を見て来ました。
 今週末、賢人会の中嶋君と「湖北と白洲正子の世界」を旅して、この展覧会の復習をして来る予定です。

[41]滋賀県立近「代美術館「白洲正子」展の看板の前にて
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––––––––––––––––––––––––[42]滋賀県立近代美術館庭園20101121
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[43]白洲正子展図録
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■そこで今日は、白洲正子著『近江山河抄』から、その巻頭の文章ほかをご紹介しつつお別れしたいと思います。

【近江路】
 子供の頃から関西へ行くことの多かった私にとって、近江は極めて親しい国であった。岐阜を過ぎてほどなく汽車は山の中に入る。やがて関ヶ原のあたりで、右手の方に伊吹山が姿を現すと、私の胸はおどった。関西へ来た、という実感がわいたからである。大和絵のような丘の間を縫って、平野に出ると、霞のあなたに琵琶湖が見えつかくれつし、そして、京都。何十ぺん、いや何百ぺんとなく見た風景であったが、それは汽車の窓から横目で見てすぎただけのことで、近江は長い間未知の国にひとしかった。〔中略〕
 近江は約六分の一が湖水で占められ、古くは「淡海(あわうみ)の国」といった。遠江の浜名湖を「遠つ淡海」と呼んだのに対して、都に近い琵琶湖は「近つ淡海」といい、近江の字を当てたのは、元明天皇の頃と聞く。琵琶湖と称するようになったのは、それより後のことで、竹生島の弁才天を祀ったために、琵琶を連想したのではなかろうか。そう思ってみれば、琵琶の形に似なくもないが、「さざなみ」という枕言葉に、琵琶の音色を感じ、そこから弁才天が誕生したと考えた方が、古代人には相応しい。〔後略〕

 この後は、次号以下の《会報》をお楽しみに! 

 では、また‥。〔了〕


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