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2011年4月の5件の記事

2011年4月30日 (土)

【時習26回3-7の会 0339】~「04月30日:『時習館高校サッカー部、愛知県高校総体サッカー東三河支部予選会にて決勝進出を決める!』」「04月29日:準々決勝『時習館高校 v.s. 豊橋工業高校戦観戦!』」

■今泉悟です。 皆さん如何お過ごしですか。 さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0339】号をお送りします。
 気象庁は今日04月30日、鹿児島県の奄美地方と沖縄地方が梅雨入りを発表した。同庁によると、奄美地方は平年より11日、昨年より6日夫々早く、沖縄地方は平年より9日、昨年より6日早い。4月中の梅雨入りは1998年以来13年ぶりという。
 沖縄地方は、昔から梅雨のことを『小満・芒種(すーまんぼーすー)』と呼んで来たそうである。「小満(=05月21日頃)」「芒種(=06月06日頃)」共に二十四節気で時節を表わす言葉である。例年本州より一月程早い沖縄地方の梅雨入りだが、それにしても今年は相当に早い。
 本州も梅雨入りが早くなると、心配なのは梅雨明けも早くなり暑い夏の到来が早くなることだ。東京地方の夏の節電対応が厳しくなることが懸念される。

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■さて、最初の話題です〔‥今日はこの話題だけです‥〕。
 私事ですが、小生の3人の子供のうちの一番下の愚息がいま時習館高校の3年に在学中でサッカー部員である。
 昨日04月29日、高校時代最後のサッカーの試合が母校時習館高校であるとのことで、最初で最後の彼の試合を見に行って来ました。

 添付写真をご覧下さい。
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 第65回愛知県高等学校総合体育大会サッカー東三河支部予選会が今月04月23日から始まった。
 母校時習館高校は、04月24日(日)の初戦が第2回戦であるが、対戦相手の蒲郡高校を6対0で下し勢いに乗った様だ。
 昨日は定刻の予定開始時刻午前11時00分より僅かに早く開始された。対戦相手は豊橋工業高校。
 小生11時07~08分頃から観戦したが、既に1対1。試合開始直後に豊橋工業に1点を先制されたが、レフト・サイドバックで背番号5番をつけた愚息がフリーキックを決め同点。前半のハーフを終わって1対1。後半のハーフは今度は時習館が2点目を入れリードしたが、豊橋工業もすぐ2点目を入れ返し延長戦へ。延長戦も漸く後半になって時習館が3点目を入れ、劇的な勝利を飾った。
 そして今日04月30日(日)、豊川高校との準決勝が豊川市内にある同校グラウンドにてあった。この試合は小生は見ていないが、応援に行った家人の話によると、なんと豊川高校に2対0で勝利したのである。豊川高校は昨年の東三河支部大会の優勝校である。
 これで、05月03日の決勝戦進出と、05月14日(土)の愛知県高校総体県大会〔=東三河支部上位3校が出場できる〕の出場が決定した。

 愚息の自慢話になってしまった様で恐縮ですが、高校2年になる時に受験勉強の為弓道部を退部した小生に比べ、高校3年までサッカーを続け、レギュラーのポジションを2年生の時から守り続けていることは、小生の高校時代より愚息の生き方は数段立派だと思う。「長友と同じレフト・サイドバックで背番号も同じ5番だ」がいまの彼の自慢の様だ。(笑)
 サッカーが好きで学業との両立は彼なりに大変だと思うが、時習館高校は素晴らしい教師に恵まれてもいる。
 我等時習26回【3-2】同期の飯田H祥君が、愚息と同じ時習館高校【3-1】の担任となり、愚息の数学の担当教諭となったのである。
 そして、飯田先生の最初の授業で飯田先生の学生時代の話をしてくれて、愚息曰く「とっても元気が出る話だった。頑張る意欲が湧いてきた」と喜んでいた。
 添付写真は、愚息が試合に出た04月29日、母校時習館高校第2グラウンドでの試合の模様と、試合終了後、我等旧【3-7】の教室をはじめとする直近の「時習館高校の今」の模様です。ご高覧下さい。

[09]現【3-5】の教室入口〔旧【3-6】に相当〕
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––––––––––––––––––––––––[10]現【3-6】の教室入口〔=我等の教室旧【3-7】を渡り廊下から望む〕
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[11]時習館高校本部屋上にはためく国旗と校旗
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––––––––––––––––––––––––[12]時習館高校本部前庭
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[13]時習館高校本部正面
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【後記】今日04月30日は、二十四節気でいう「穀雨」・七十二候では「牡丹華(ぼたんはなさく)」という。
 牡丹の歌と言えば、小生、関白前太政大臣藤原忠通が詠んだこの歌〔詞花和歌集(1151)〕が印象に残っている‥

 咲きしより散り果つるまで見しほどに 花の下(もと)にて二十日(はつか)経(へ)にけり

【意】咲いた時から散り終わるまで見続けていたら二十日も経ってしまった。これ程までに貴女を恋い慕っているのに、貴女は応えてくれない。

 更に追伸、昨日04月29日夜、例のトライアゲインにて、豊橋と田原在住の大学弓道部の同期と一年後輩の5人が集った。
 その中に飯田H祥君【3-2】がいた。そこでの彼と小生二人の snap-shot です。

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 では、また・・。(了)

2011年4月24日 (日)

【時習26回3-7の会 0338】~「『後藤新平』についての補足&御厨貴=編『時代の先覚者 後藤新平 1857-1929』から」「藤原正彦『日本人の誇り』から」

■皆さん、如何お過ごしですか。今泉悟です。今日も《会報》【2637の会 0338】号をお届けします。
 時節は「穀雨」。木々は若葉が大変綺麗で心まで洗われる感じがして心地良いですね。

 さて今日は、小生先週お届けした《会報》「後藤新平」について、何か不十分で生煮えの儘のご説明となってしまい、読み返してみてもよく解らない。
 これでは【2637の会】members の皆さんに対しても失礼に当たると思い、今日は若干補足させて頂こうと思います。
 『後藤新平』の件は、もう少し《会報》に掲載する volume を増やせば解り易くなるのですが、そうすると文章量が多くなり読了するのが億劫になりますし‥。小生、文章力の拙さを痛感しています。

 * * *

 前回の《会報》で申し上げたかったを簡単に言い直すと、
 「一国のリーダーたる人間は、それだけの『能力』と『経験』と『遂行力』と『徳』を備えないといけない。それと『時運』も味方にする。事を為すにはこれらが絶対必要」ということです。
 後藤新平が、傑物として大成して行く過程を彼の経歴を追って述べてみますと概ね以下の通りとなります。

 * * *

 貧しかった幼少時代、後藤が11歳であった時、胆沢県〔現岩手県の一部・旧水沢市周辺〕の給仕として採用される。利発だった後藤は、時の胆沢県大参事〔今でいう副知事〕安場一平に認められ、福島県須賀川にある医学校で勉強する様になった。安場の次女カツが16年後の後藤の妻になる。

 医術を修めた後藤は、安場の名古屋赴任に従い名古屋へ。そこで愛知医科学校の「外科医」の三等医からスタートし、そこでまた実力を発揮。〔板垣退助が刺された時彼の治療に当たった外科担当医が後藤新平である。板垣をして「〔後藤という男は〕医者にしておくには勿体ない男だ」と言わしめ、時の勤務先である愛知医科大学校長の石黒忠徳〔旧陸軍軍医総監・初代〕のメガネに適い、その石黒の推挙で愛知医科学校〔名古屋大学医学部の前身〕学校長兼病院長に24歳の若さで就任。

 その後、後藤は更に石黒の推挙で、内務省〔現総務省の前身〕の衛生局出仕となる。
 彼は内務省衛生局で日本の衛生状態を徹底的に調査〔ここで、彼が事を起こすに際し、必ず科学的調査を実施・検証する大切さを習得〕。
 彼は、衛生局でも実力を認められ、ドイツ留学から帰国後、32歳の若さで衛生局長に就任。

 1895年、彼が衛生局長だった時、日清戦争から帰国した兵士全員に検疫検査実行を進言し、児玉源太郎と初めてのコンビとなる。
 〔児玉源太郎は、後藤を上回るスケールの大きさと徳と実力を備えた傑物。彼については詳細を話すと大変な volume になってしまうので説明は別の機会に譲る〕
 児玉という強力な後ろ盾を得た後藤は、水を得た魚のように、検疫体制の準備を突貫工事で遂行。日清戦争から帰国した兵士全員の検疫と防疫を実施し「日本の先進性」をappeal、西洋新進諸国をあっと言わせた。
 この時、遺憾なく発揮された後藤のproject遂行能力の秀逸さは、児玉だけでなく伊藤博文や桂太郎の眼に止まった。
 後藤は、この時実感した筈である。事を為すには、児玉のような組織を動かせる大物の後ろ盾〔=支援〕が如何に重要であるかを。

 1898年、第四代台湾総督に児玉源太郎が就任する時に、後藤は№2の民政長官に指名されることとなった。満40歳の時のことである。
 台湾施政は、1895年に日清戦争により日本に割譲された台湾であったが、台湾総督は初代・樺山資紀〔=白州正子の祖父〕、二代・乃木希典、三代・桂太郎〔桂は首相となった為3ヶ月間というごく短期間の就任〕とエース級を投入すれども治まらず、日本政府は窮地に追い込まれた。
〔それまでの台湾統治は、現地の因習・慣習を無視し、法治国家日本の rule を現地に強要した為、現地住民の反感と抵抗に遭ったことが失敗した主因である〕
 そこで、児玉と後藤のコンビが実に1898年から1906年までの8年間という長期間台湾を治めることとなる。この間、児玉源太郎は、日露戦争を勝利に導く中心人物として陸軍参謀本部次長・満州軍参謀長・文部大臣・内務大臣等を兼務。台湾施政は実質的に、民政長官の後藤が事実上の№1として担当。
 ここで後藤は、従来の性向・現地の調査〔現状分析〕を徹底し冷静に実施し、日本の法制を現地人に無理強いすることなく「生物学的」に治め、成功する。そして若くも優秀な人材を台湾総督府に集め着実に実績を積み上げて行った。新渡戸稲造が児玉と後藤の優秀さを述べた episode が司馬遼太郎の『台湾紀行』で次の様に紹介されている。

 新渡戸稲造にも、児玉源太郎と後藤新平の両者を比較した感想がある。
 頭の宜(い)いことを言うたならば、寧ろ児玉さんの方がずっと上だと思う。例えば技術の点のことでも、港湾の修築のことでも、或は私の殊に与(あずか)って居(お)った殖産のことでも、台湾の製糖のことなどでも、藍(あい)の栽培のことに付いても、そう云うような技術的な話をしても、まあ児玉さんに話をすれば10分で分ることならば、後藤さんは矢張り20分位は掛ったようである。尤もそう云うような話を私が聞いたならば、どうしても、二時間位は掛ると思う。
〔2008年04月14日付【2637の会 0168】ご参照 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/index.html

 例えば、「当時現地で蔓延していた阿片吸飲については、直ちに禁止するのではなく、徐々に税率を引き上げて減らすという施策で半世紀近くかけて根絶を実現」するという様な現地人にとって抵抗感の少ない無理のない策を施して行ったのである。
 児玉と後藤のこのような善政が、台湾の現地人に受け入れられ、爾来、台湾の親日感情た頗る良いのである。〔今回の東日本大震災に際して、台湾では見舞金が百億円集まったと聞く〕

 日露戦争に勝利した日本は、1905年ポーツマス条約で、ロシアから遼東半島の租借と南満州鉄道の利権を獲得。
 日本政府は、満州経営を、台湾施政で成功を収めた後藤新平に白羽の矢を立て、児玉源太郎や時の総理大臣西園寺公望らの説得を受け受諾。
 1906年7月児玉の急逝後、後藤は南満州鉄道〔通商:満鉄〕の総裁に就任。
 ロシアが都市化を進めていた大連と新京〔現・長春市〕の近代都市計画を遂行。この時代に、後藤は、上下水道完備の近代的な都市を創造した。
 この後、後藤は当時の首相桂太郎から逓信大臣就任を請われ、満鉄の統率権を逓信省がとることを条件に就任。
 のち、新設された鉄道院総裁、のちの鉄道省の大臣にもなり、満州経営を推進していく。

 さらにその後、後藤は1918年外務大臣、1920年東京市長に就任。良く1921年俗にいう「東京改造八億円計画」を提唱。
 しかし、この計画は最終的に失敗に終わる。彼がこの計画を遂行するに当たり強力な支援者として頼んでいた安田善次郎〔旧安田財閥創始者〕が1921年9月に、同じく支援に前向きであった時の総理大臣・原敬も同年11月に暗殺されたのである。

 こののち、1923年09月01日関東大震災が起きた翌日、二度目の内務大臣に就任し「帝都復興」に全力を注ぐ。しかし、同年12月27日摂政宮〔のちの昭和天皇〕狙撃事件が起こり、11日後の1924年01月07日、時の山本権兵衛内閣総辞職。内相の後藤も当然辞職となり、この時も彼の総額40億円復興計画は5億円程度に大幅削減されて終息。
 台湾と満州で成功を収めた後藤も、既得権益の巣窟・大都会東京の都市改造計画は為し得なかった。

 事程左様に、大きな組織になればなるほど、為政者の実力の大きさが問われる。
 現・管内閣が醜態を晒しているが、さもありなん、である。

◆ここで御厨貴=編『時代の先覚者 後藤新平 1857-1929』から御厨貴の【後藤新平の台湾・満州経営】〔その抜粋〕についてご紹介させて頂きます。
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【台湾での業績】
 台湾における後藤新平の統治のあり方の一つは、よく言われる阿片の問題である。阿片を急に廃止せず、それを次第に止めていく緩やかな政策〔阿片漸禁策〕を採用した。
 今一つは、台湾にいた土匪(どひ)〔=ゲリラ〕対策の問題である。武力発動を極力抑え、逆に彼等への援助や話し合いという soft な政策で一貫した。統治というものは soft にやった方がいいという確信めいたものが後藤の考えの中にあった。阿片についても‥。長期的な perspective (=考え方)の中で事を捉えていく方が賢明なやり方であるという考え方が彼の発想の中にあったのだと思う。
 後藤新平は「調査」が得意と言われるが、その調査が最初はまず見ず知らずの国である台湾で行われた。彼は「知らない」ことに非常に謙虚で、それは彼が持っていた考え方、即ち、科学的な「衛生」の原理から発生している。統治の為の「調査」をキチンとやらなければいけないという発想であった。
 そしてその「調査」の上に、開発をやる。鉄道を引くことから始まって、下水道の問題〔←衛生問題を彼は非常に気にしていた〕等、台湾全体を一つの都市に見立てての「都市計画」的な発想でずっとやっていく。児玉源太郎という実力者を patron にいただきながらやっていく。彼のその後の政治や統治の原型が台湾統治で確立されたのである。

【満州での業績】
 満鉄はよく英国の東インド会社を model にしたと言われるが、単なる鉄道会社ではなく、満鉄という鉄道事業、project を中心にして、如何に満州全体を経営していくか。満州の場合は既に軍が出ているので、軍との対抗ないし連携、をの両方を見据え乍ら、如何に効率的に統治するかが最大の point でした。この場合にも、彼は満鉄というものを自由自在に使いこなすのである。

【小生comment】
「時代は見るべき人を見ている」とでもいうのだろうか。小生が後藤新平について丁度この《会報》を書いていた時、04月19日付の中日新聞の一面の column に目が止まった。「3-11から 御厨貴さん「戦後」から「災後」へ」と題して、最後の方に次の様に comment されていた。
〔因みに、御厨氏は政府の現・東日本大震災復興構想会議議長代理を務めている人物〕

 震災後、社会が変化しつつあるのに、政治は変わりませんね。当面は与野党の問題は脇に置いて、挙国一致で当たるべきでした。条件を細かく詰めないで突き進むことが政治家には必要なのに、できない。もどかしい。
 関東大震災後、帝都復興院総裁として辣腕を振るった後藤新平の様な政治家を待望する意見があります。後藤は project 型の政治を行い、震災復興だけでなく、台湾や旧満州の経営でも成功した。合理的な計画ではあったものの、今で言う「上から目線」との指摘は避けられません。そういう点で言うと「出(いで)よ後藤新平」とは、声高に言わない方がいい。
 今後、政府の復興構想会議の議論が本格化します。会議では、東日本、西日本を含めて再創造する話に持っていく必要があります。地方から出た意見を authorize し乍ら、年末までには日本の全体像を示せればと思います。国が大きな theme を示し、国民は新しい国の model を開発するぐらいの自覚を持つことが大切です。(了)

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■さて続いての話題です。04月20日に上梓された藤原正彦著『日本人の誇り』についてです。今の日本がどうして、かくも体たらくな国になってしまったのか。この本が新書版で全249頁という大変 compact な volume で核心を突いて明快に説明してくれています。
 小生、この本が余りに素晴らしかったので、家族に1冊ずつ購入し、present しました。「後日感想を聞かせて欲しい」と依頼を付して‥。
 この本は、以下の様な構成になっています。目次をご紹介します。

【第1章】政治もモラルもなぜ崩壊したか
 低下する政治家の質、腰の定まらぬ外交、頻発する無軌道な殺人事件、勉強しない子供達‥もはや対処療法では効果はない。
【第2章】すばらしき日本文明
 世界七大文明の一角を占める日本文明。江戸期に来日した外国人たちは「貧しくも幸福な社会」を目の当たりにして感銘した。
【第3章】祖国への誇り
 家族愛・郷土愛・祖国愛。人間の基本を成すこの三つの愛は、なぜ戦後日本から失われたのか? その策略の中心とは何か?
【第4章】対中戦争の真実
 「南京大虐殺」が突如、再登場したのは事件から八年半経った終戦後のことだった。証拠を捏造してまで演出した黒幕とは?
【第5章】「昭和史」ではわからない
 満州事変に対するリットン調査団が出した結論は極めて妥当。帝国主義時代における「侵略」を巡る国際常識を解き明かす。
【第6章】日米戦争の語れざる本質
 列強の中核をなす白色人種にとっての悪夢は、日中の連携だった。両国間に楔を打ち込むべく米国は周到に罠をかけた‥
【第7章】大敗北と大殊勲と
 黒船来航から敗戦後の占領までの百年戦争は、植民地主義や人種差別に対して、日本が独立自尊の精神を貫いてきた歴史の証だ。
【第8章】日本をとり戻すために
 帝国主義や新自由主義などは国民性に馴染まない。未曾有の危機を乗り切るヒントは、震災後の日本人の尊き姿に示されている。

 そして【第8章】から一つご紹介します。藤原氏は以下の様に述べています。
 尚、予め申し上げますが、ここは藤原氏の結論のところです。その前提として【第1章】~【第7章】がありますので、そこを確り読んでおかないと、この結論だけ読むと納得できない方も少なくないと思います。その点を申し添えておきます。
【「誇り」を回復するには何が必要か】
 日本人が祖国への誇りを取り戻す為の具体的道筋は何でしょうか。
 日本人は「敗戦国」をいまだに引き摺り小さくなっています。WGIP〔(GHQによる)罪意識扶植計画〕で植えつけられた罪悪感を払拭することです。そして作為的に為された「歴史の断絶」を回復することです。
 即ち、「誇り」を回復する為の必然的第一歩は、戦勝国の復讐劇に過ぎない東京裁判の断固たる否定でなければなりません。そして日本の百年戦争が齎した、世界史における大殊勲を確り胸に刻むことです。
 その上で第二は、米国に押しつけられた、日本弱体化の為の憲法を廃棄し、新たに、日本人の、日本人による日本人の為の憲法を作り上げることです。現憲法の「前文」において国家の生存が他国に委ねられているからです。独立国でなくなっているからです。そして自衛隊は明らかに憲法違反であり、「自衛隊は軍隊でない」という子供にも説明できぬ嘘を採用しなければならなくなっているからです。
 国家の主柱たる憲法に嘘があるからです。「嘘があってもいいではないか。戦後の経済発展は軍備にお金をかけず経済だけに注力したからではないか」という人もいます。これも真っ赤な嘘です。戦前のドイツ、日本、戦後の韓国や台湾、近年の中国など、毎年GDP比10%、或いはそれ以上の軍備拡大をし乍ら目覚ましい経済発展を遂げたからです。軍備費拡大とはある意味で景気刺激策とも言えますから、むしろ当然なのです。
 ついで第三は、自らの国を自らで守ることを決意して実行することです。他国に守って貰う、というのは属国の定義と言って良いものです。屈辱的状況にあっては誇りも何もないからです。少なくとも一定期間、自らの力で自国を守るだけの強力な軍事力を持った上で、米国との対等で強固な同盟を結ばねばなりません。日米中正三角形論などという偽言に惑わされてはいけないのです。この三つがなされ、日本の真髄とも言える美意識と独立自尊が取り戻されて初めて、ペリー来航以来の百年戦争が真の終結を見るのです。

【小生comment】
 本書の詳細は、皆さんが夫々各人で一度是非読んで頂くことを強く希望します。そしてその感想をこの【2637の会】《会報》にお寄せ頂きたいのです。政治的に右だとか左だとかいう level でなく、日本国が、日本人がこれから日本人としての矜持〔=誇り〕を持って世界に向かって堂々と生きて行く為にどう行動したらいいかを話し合ってみたいと思います。皆さんからのご意見をお待ちしています。
 この本については、中身が大変濃いので次回以降も複数回に分けてお伝えして行きたいと思います。

【後記】今日は、話題も重く、volume も嵩んでしまいました。最後の話題も暗い話です‥。
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 我々が学生時代の時歌謡界で一世を風靡したキャンディーズの member スーちゃんこと田中好子さんが一昨々日04月21日、乳がんで逝去されました。享年55歳(1956.04.08-2011.04.21)。
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 また、経済界ではソニーの元社長の大賀典雄氏が昨日04月23日多臓器不全の為逝去されました。享年81歳(1930.01.29-2011.04.23)。大賀氏は東京藝術大学音楽学部、ベルリン国立芸術大学を夫々卒業後、1959年ソニーの盛田昭夫の強い薦めでソニー入社。
 米国大手音楽制作会社CBSコロムビアを傘下に治めたり、CDの国際基準をクラシック音楽界の巨匠カラヤン氏と(収録時間を最大80分とすること等)相談して決めるなど、多くの業績が評価されている。
 お二人のご冥福と心よりお祈りします。(合掌)

 では、また‥(了)

2011年4月17日 (日)

【時習26回3-7の会 0337】~「04月13日:『後藤新平』命日=北岡伸一『後藤新平 外交とヴィジョン』&山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男』から」「名古屋市美術館『ゴッホ展』を見て」

■皆さん、如何お過ごしですか。今泉悟です。今日も《会報》【2637の会 0337】号をお届けします。
 早いもので今日は四月も半ばの17日。明明後日の20日は二十四節気でいう「穀雨」。春雨が降って百穀を潤すという意の時節である。

 * * *

 さて、小生最近熟々(つらつら)思うのですが、既に東日本大震災の惨禍から一ヶ月余りが経過しました。日本の将来を考えると、一日も早い経済復興を願って止みません。
 一千年に一度という大震災&津波に襲われ、第二次大戦の敗戦以来最大の国難に見舞われた我国ニッポン。
 近世以降の国難と言えば、[1]幕末「開国」と明治維新、[2]第二次世界大戦の「敗戦」の二つ。しかし、いずれの国難も叡智と努力で克服して来たニッポンである。自信を持って行こう、必ず乗り越えられる!
 ただその為には、具体的作業として[1]震災被災地復旧、[2]福島原発事故解決、[3]日本経済復興、の3つの課題を[1][2]を優先的に、そして[3]も同時並行的に着実に履行していくことが求められている。

 そこで今日は、明治維新以降において「大規模災害の復興」に尽力しそれを為し得た先人がいないか調べてみました。
 一人「それらしい人」がいました。その人物とは、《会報》前々号にて児玉源太郎をご紹介させて頂いた折、児玉と名コンビを組んだ【後藤新平】(安政04年06月04日(1857.07.24)-1929.04.13)であります。

[01]北岡伸一『後藤新平 外交とヴィジョン』&山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男』
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 因みに4日前の今月04月13日(昭和04(1929)年)が彼の命日に当たります。
 彼については、以前2008年04月14日付【2637の会 0168】《会報》で一度ご紹介していますが、彼の経歴を簡単に示すと次の通りです。
【経歴】
 1857(安政04)年 戦国末仙台藩の臣下に下り2万石を与えられた留守氏の比較的上位の家中、後藤実崇(さねたか)の子として、陸中国胆沢(いさわ)郡塩釜村(現・岩手県奥州市水沢区)に生まれた。留守氏は元々18万石だった為、家臣が多く、いずれも生活は楽ではなかった。
 1868(明治元)年 仙台藩が奥羽列藩同盟に参加し戊辰戦争に敗北し、62万石から28万石へ削封。
 1869(明治02)年 これに伴い留守家家臣は士分の儘北海道に移住するか郷里に留まり帰農するかの選択をせざるを得なくなり、後藤家は02月「帰農」を選択。〔後藤はのちに、少年時代、これほど辛いことはなかったと回想している〕
 同年08月、胆沢に胆沢県が置かれ、後藤はここで給仕に採用される。当時ここに赴任して来た新政府の大参事安場一平(のち保和)で、彼は後藤の才能に着目した。後年の明治16年には次女カツ(のち和子)と後藤は結婚する。後藤は1歳年下の斎藤實等と共に水沢の三秀才と言われた利発な少年であった。〔【小生注】後藤同様、給仕という境遇からstartした者としては、以前《会報》にてご紹介した柴五郎がいる〕
 1873(明治06)年 福島県須賀川の医学校に進む。
 1876(明治09)年 愛知県病院三等医となる。
 1877(明治10)年 09月西南戦争下、大阪・陸軍臨時病院・傭医となり、院長石黒忠徳〔軍医制度確立の最大功労者〕の知遇を得、外科医として評価される。
 1879(明治12)年 12月愛知県病院院長兼医学校長代理
 1881(明治14)年 10月同上院長兼医学校長〔24歳〕
 1883(明治16)年 01月内務省・衛生局へ勤務
 1890(明治23)年 04月ドイツ留学
 1892(明治25)年 06月帰国、11月内務省衛生局長
 1898(明治31)年 03月台湾総督府民政局長、06月同民政長官〔41歳〕
 1906(明治39)年 07月児玉源太郎死去 11月南満州鉄道総裁、台湾総督府民政長官免ぜらる・顧問就任
 1908(明治41)年 07月桂首相に対し満鉄を逓信省管轄を条件に逓相就任。12月鉄道院総裁を兼任〔51歳〕
 1911(明治44)年 08月桂内閣総辞職により逓信大臣・鉄道院総裁辞任〔54歳〕
 1916(大正05)年 10月寺内内閣内務大臣兼鉄道院総裁〔59歳〕
 1918(大正07)年 04月外務大臣
 1920(大正09)年 12月東京市会において選挙され東京市長就任
 1921(大正10)年 04月8億円計画案を市参事会に提出

【東京市長】〔北岡伸一『後藤新平 外交とヴィジョン』より〕
 何故後藤はこの地位を受けたのか。それは東京の中に、日本の直面する問題が凝縮されていたからであった。Design を欠いた儘ズルズルと膨張した市内は、およそ文明国の首都に相応しくないものであった。台湾と満州で欧米に劣らぬ都市を建設した後藤ほど、このことを痛切に感じていた者はなかったに違いない。〔中略〕
 後藤がやろうとしたこと〔中略〕は、大正10年に発表された「東京市政策要綱」〔費用が8億円かかるというので「東京市改造八億円計画」と呼ばれた〕に網羅されている。〔中略〕政府予算が15億円であった頃のことである。実に巨額で「大風呂敷」と呼ばれていた後藤の面目躍如である。
 その内容は、言わば都市改造であった。〔中略〕重要街路の新設・拡充・舗装、建築物整理、上下水道整備、屎尿・塵芥(じんかい)処理施設整備、港湾改修、河川修理、公園・広場新設改良、市庁舎・公会堂新設等がそこには含まれていた。〔中略〕そしてこれ等の実現は困難を極めた。
 その為の障害は党争と官僚化であると後藤は確信していた。〔中略〕これを突破するの後藤の手段は、大胆な人事による組織の活性化であり、有力者の強い支持を得ることであり、そして大規模で科学的な調査を行って反対論を封じ込めることであった。〔中略〕
 結局後藤のこの計画は挫折する。彼の有力な支援者であった〔安田財閥の祖〕安田善次郎が10年09月に、内閣総理大臣〔当時〕原敬も同年11月に相次いで暗殺された。後藤は常に、彼の壮大な vision を背後で支持する強力な人物探しに苦しんだが、この時は特に致命的であった。

 1923(大正12)年 04月東京市長辞職認可。09月01日関東大震災。翌02日山本権兵衛内閣内務大臣。09月06日帝都復興の議を閣議提出。

【山本(権)内閣と帝都復興】
 関東大震災の翌日の大正12年09月02日山本(権)内閣が組閣され、後藤も二度目の内相に就任。後藤は就任直後、復興に向けての指針4項目を示した。後藤の復興計画は、焦土を全部買い上げ、新しく広大な街路を建設し、区画整理を行うことを中心とする drastic なものであった。〔中略〕09月29日復興院を立ち上げそこの総裁となった後藤だが、彼の復興案は大掛かりなものであったため次々に反対に遭い予算額はどんどん縮小されていった。未開の地である台湾や満州への都市を建設する様には行かなかったのである。

 1924(大正13)年 01月07日 前年12月27日摂政宮〔のちの昭和天皇〕が狙撃された「虎ノ門事件」の責任を取り山本内閣総辞職。後藤も辞職。

【「公共の思想」は夢のままに】〔山岡淳一郎『後藤新平 日本の羅針盤となった男』より〕
 摂政宮として、未曾有の大災害に直面した昭和天皇は、関東大震災から60年後にこんな発言をしている。

「震災の色々な体験がありますが、一言だけ言っておきたいことは、復興に当たって後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てたが‥。もし、それが実行されていたら、恐らく東京の戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今更後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思います」(『陛下、お尋ね申し上げます』高橋紘著・文春文庫)〔後略〕

【小生comment】
 台湾の施政を児玉源太郎の下で成功させ、児玉亡き後は満鉄総裁として大連・長春市の近代都市化を実現した後藤新平を以てしても、東京の都市改造は成功しなかった。「既得権益を打破し新秩序を構築することが如何に難しいか」‥。
 後藤の生涯を振り返ってみて、一国のリーダーの条件というものが解りかけた様な気がした。
 即ち‥、リーダーには凡夫にない【判断力】と【徳】が必要なのである。

 ※ この【徳】には、世の中の上に立つ人に求められる本来の「徳」に留まらず、若い頃に自分の努力と才能を評価して自分を引き上げてくれる人に逢えるどうかの「運」も含まれる。

[1]歴史の史実とその人自身の経験をより多く習得・体得して、多くの正確な情報を集め分析する【調査・分析】。
[2][1]で得た情報につき、分析を基に自らが的確な判断を下す。【判断・決断】
[3][2]で決断したことを、最も強力で効率的な組織を活用して果敢に遂行する。【実行・遂行】
[4][3]の円滑な【実行】には、リーダー自らが部下から信頼される【徳】を備えることが不可欠である。そしてその【徳】は組織が大きくなればなるほど大きなものでなくてはならない。
 西郷南州翁遺訓にも「功ある者には禄を、徳のある者には地位を」とある。

 ※ 後藤新平を例にとって上記項目に当て嵌めてみると、苦学した若い時代は安場や石黒という時の実力者から才能を認められ折々に引き上げてくれて結果を出した。後藤はそれだけの能力を備えていた。そしてその後も、自らのこれまでに培ってきた経験や skill を「検疫→台湾統治→満州経営」という夫々の場で以前の経験を武器に新しい働きの場でキッチリと成果を出して来たのである。
 ※ 翻って現代ニッポンに真のリーダーがいないのは、リーダーに相応しい「数多い経験」と【徳】を持った人間がないに他ならないと、小生には思えてならない。「市民活動家」出身という skill だけでは、首相として現代の難局を乗り越えようにも情報量が圧倒的に少ないと思われる。また、マスコミから批判ばかりされているということは、人間的に【徳】があるとも言いにくい。【徳】があれば批判ではなく、逆に評価される筈である。
 イカン、イカン(笑)‥。愚痴っぽくなってしまいました。ご容赦下さい。

■さて続いての話題です。

[02]名古屋市美術館『ゴッホ展』leaflet20110410
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 小生、先週04月10日(日)、名古屋市美術館で開催されていた『ゴッホ展』を見て来ました。同展はその日が最終日。午後2時半過ぎでしたが、受付では当日券を買い求める人達が長い行列をつくっていました。小生は、前売り券を事前に購入していましたので入館は smooth でした。
 今回の展示作品は、オランダのファン・ゴッホ美術館とクレー=ミュラー美術館が所蔵するゴッホの作品69点ほか全123点が展示されていました。
 ゴッホのごく初期から晩年まで一通り時系列的に見ることができて良かったです。
 今日は、その中から小生が気に入った作品21点を up します。

[03]Gogh『曇り空の下の積み藁』1890年07月、オーヴェール=シュル=オワ―ズ
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––––––––––––––––––––––––[04]Gogh『白い帽子を被った女の頭部(ホルディーナ・デ・フロート)』1884年11月-85年05月、ニューネン
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[05]Gogh『花瓶の矢車菊(ヤグルマギク)と芥子(ケシ)』1887年夏、Paris
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––––––––––––––––––––––––[06]Gogh『雲雀の飛び立つ麦畑』1887年06月-07月中旬、Paris
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[07]Gogh『マルメロ、メロン、梨、葡萄』1887年09月-10月、Paris
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––––––––––––––––––––––––[08]Gogh『自画像』1887年03-06月、Paris
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[09]Gogh『自画像』1887年09-10月、Paris
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––––––––––––––––––––––––[10]Gogh『カフェにて(「ル・タンブラン」のアゴスディーナ・セガト―リ)』1887年01-03月、Paris
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[11]Gogh『糸杉に囲まれた果樹園』1888年04月、Arles, canvas
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––––––––––––––––––––––––[12]Gogh『サント=マリ=ド=ラ=メールの風景』1888年06月01-03日、Saint-Maries-de-la-Me, canvas
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[13]Gogh『翠の葡萄畑』1888年10月03日頃、Arles, canvas
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––––––––––––––––––––––––[14]Gogh『アルルの寝室』1888年10月、Arles,canvas
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[15]Gogh『Gauguinの椅子』1888年11月20日頃、Arles, canvas
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––––––––––––––––––––––––[16]Gogh『種蒔く人』1888年11月、Arles, canvas
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[17]Gogh『ある男の肖像』1888年12月01-15日、Arles, canvas
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––––––––––––––––––––––––[18]Gogh『玉葱の皿のある静物』1889年01月初め、Arles, canvas
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[19]Gogh『サン=レミの療養院の庭』1889年05月、Saint-Remy(サン=レミ),canvas
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––––––––––––––––––––––––[20]Gogh『渓谷の小道』1889年12月、Saint-Remy(サン=レミ),canvas
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[21]Gogh『夕暮れの松の木』1889年12月、Saint-Remy(サン=レミ),canvas
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––––––––––––––––––––––––[22]Gogh『草叢の中の幹』1890年04月後半、Saint-Remy(サン=レミ),canvas
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[23]Gogh『Irises(アイリス)』1890年05月、Saint-Remy(サン=レミ),canvas
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【小生comment】
 Paris 時代のゴッホ(Gogh)の作品の中で、今回の展覧会の leaflet を飾った《自画像》[09]と共にもう一つの《自画像》[08]が2つ並んで展示してあったが眼前でジックリと見ることが出来たのはとても感動的であった。
 尚、Goghの作風の真骨頂は、Paris から Arles(アルル)に移ってからの作品群に表れている。P. Gauguin との共同生活時代の作品をはじめ最もゴッホらしい作品群を見ることが出来て大変嬉しかった。
 こういう名作選が見られるから、小生の展覧会詣は当分止められない。(笑)

【後記】添付写真は、拙宅に咲いた「海棠」の花です。
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 そこで今日のお別れも、中唐の女流詩人薛濤(せっとう)の作品から「海棠渓」です。

【海棠渓〔薛濤〕】
春教風景駐仙霞〔 春は風景をして 仙霞を駐(とど)めしめ 〕
水面魚身総帯花〔 水面の魚身 総て花を帯ぶ 〕
人世不思霊卉異〔 人世(じんせい)思わず 霊卉(れいき)の異(い)を 〕
競将紅纈染軽沙〔 競って紅纈を将(も)って 軽沙を染む 〕
 * * *
【意】
 春は、風と光に谷一杯の花霞を送り届けさせた
 清流に泳ぐ魚が花模様を帯びたかの様に花影が水面に映っている
 巷では、この海棠の霊妙な業(わざ)に気がつない儘
 競って赤い絞りを河原の砂の上に干している
   *   *   *
◆最後は、これも拙宅の「若楓(わかかえで)」です。
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 04月12日の撮影ですが青空に映えてとても綺麗でした。そこで即興の小生の拙句を一句‥

 晴天に 眩く光る 若楓  悟空


 では、また‥(了)

2011年4月 8日 (金)

【時習26回3-7の会 0336】~「福島第一原発について」「杜牧と李白の春の詩から」「虚子忌から」

■皆さん、如何お過ごしですか。今泉悟です。今日も《会報》【2637の会 0336】号をお届けします。
 東日本大震災の被災者の皆様は本当に大変ですね。心よりお見舞い申し上げます。
 そして、今回の災害の最大の問題は、津波による、東京電力福島第一原発事故の放射能漏れが続いていることです。
 ところが、我々は一部工学部系の方々を除き、原子力発電についての知識が殆どないと思います。
 故に、我々素人には現在報道されている原発事故による放射能漏れがどの程度深刻なのかも分からない。
 そこで全く浅薄な知識乍ら調べてみました。

 〔※ ここからは、原子力の知識に疎い小生が俄か仕立てで理解した〔つもりの〕話なので間違った理解をしているかもしれません。もし間違っていたら、【2637の会】membersの皆さんの中で原子力発電の仕組み等に詳しい方がいらしたら是非とも教えて下さい。〕

 原子核反応は、核分裂反応〔=重い原子核等が分裂してより軽い元素を2つ以上つくる反応〕と核融合反応〔=軽い核種(=原子核の種類)同士が融合してより重い核種になる反応〕の2種類に大別される。
 しかし、核融合反応の利用は、具現化するにはとてつもなく高温・高圧の環境が必要である為、まだ実用段階にはない。現在原子力energyとして実用化されているのは核分裂反応のみを言う。

 原子力発電の仕組みは以下の通りである。
 http://www.radi-edu.jp/images/top/pdf3.pdf ←ここを click して下さい。
[01]高純度ウラン等で燃料物質をつくる。
[02]それ等を臨界〔=原子炉で、核分裂連鎖反応が一定の割合で維持されている〕状態になる位置に接近させて設置し核分裂反応を緩やかに発生させる。
[03]その時に核物質(燃料棒)が『核分裂反応』によって熱くなることを利用して水を沸騰させて高圧蒸気をつくる。
[04]その高圧蒸気でタービンを回転させ発電機で発電する。
 ※ この発電の際、「原子炉で発生した蒸気を再度水に戻す為」や、「使用済核燃料を冷やす為の間接的な冷却水(これを『3次冷却水』という)が大量に必要。その為、原子力発電所は海や川の近くに設置されるのが一般的。

 原子力発電の文字通り「核」となる『核分裂反応』をもう少し詳しく言うと、非常に重く不安定な核種では〔‥例えばウラン(uranium)235に中性子を衝突させると〕、質量の小さな原子核に分裂し、『巨大なエネルギーを放つ』とともに、より安定な核種〔=95Mo(モリブデン(molybdenum))と139La(ランタン(lanthanum))〕へと変化する。その際、2つの中性子を放出し、欠損した質量分のenergyが発生する。
 ウラン等、放射性物質の原子は放射線を出すことにより安定した状態へと変化する。放射性物質の量は時間が経つと共に減少するが、当該放射性物質の量が半分になるまでの時間を『半減期』という。因みにウラン235は7億380万年、ウラン238は44億68百万年、プルトニウム(plutonium)239は24千年という長期間を要する。

 放射性物質は、半減期に至るまで徐々に量を減らしつつではあるが放射能を排出し続ける。核分裂が起こった際に発生する高速中性子の速さは14,000km/秒と高速の為、減速材として「水」が使用される。だから今回の福島第一原発事故で恐ろしいのが、事後処理を誤ると半永久的に放射能が排出され続ける懸念である。 Russia のチェルノブイリ原発は放射能漏れを防ぐ為コンクリートで固めてあるがいつまで持つか保障がないのである。

 最近報道された記事では、「福島第一原発第1号機〔マーク1型〕の原子炉は冷却system等に余裕なく、地震・大規模停電になると爆発し易いという重大な欠陥がある」とあった。
 現地時間2011年03月15日の米国CNNにて福島第一原発1号機をつくったGE(ゼネラル・エレクトロニック)の元engineerが次の様に証言している。
「『マーク1』は大規模事故に耐え得る様に設計されていない。冷却systemがギリギリの容量で設計されている為、電力供給が途絶し冷却systemが停止すると(水素)爆発する危険がある。使用済核燃料貯蔵poolも最新型の様な自然冷却型でないので、停電すると直ぐ温度が上がってしまう」と。

 その結果、実際に水素爆発が起こってしまった。
 更に冷却に失敗すると「炉心溶融(meltdown)」が起こる。
 炉心溶融が起きると溶けたものが原子炉の底に落ちる。これが高温の為、原子炉の底が溶け格納容器から放射能が漏れる。
 詳細は割愛させて頂くが、今後、心配されるのが「水蒸気爆発」と「再臨界」だと原子力専門家が懸念を表明している。
 現段階は、とにかく「原子炉の格納容器に水を注入し冷やし続けて行かなければいけない」。そして、放射能が漏れないと断言できる段階にないことは確かである。

 一方、経済面を考えてみると、放射能漏れとその風評被害が入り交じり、福島県やその近隣県の観光・農業・水産業は大損害を被っている。
 東京電力も、足許は原発事故の解決が最優先ではあるが、今後、原発被害者への補償問題が同社の経営に大変重く伸し掛かって来ることは避けられないだろう。

 日本国内だけでなく、世界中の叡智を結集し、一日も早い福島第一原発事故の解決を切に望む。放射能漏れによる人体への悪影響を極小化する為に政府・東電・学会が総力を挙げて取り組むべきである。
 震災の被害だけでも甚大な日本。原発事故の放射能漏れ汚染による被害の拡大は何としても防がねばなるまい。
 今こそ政界は、挙国一致でこの戦後日本最大の国難を乗り越えて行かねばなるまい。
 その為にも、真に指導力を発揮できる豪胆かつ冷静沈着な指導者の出現を期待してやまない。


■さて、状況が状況だけに、次の話題をどうしようかと考えあぐねましたが、気分だけでも明るく振る舞いたく、以前にもご紹介した春の情景を詠んだ漢詩を二つご紹介したいと思います。

【江南春〔杜牧〕】
千里鶯啼緑映紅〔千里鶯啼いて 緑 紅に映ず〕
水村山郭酒旗風〔水村山郭 酒旗の風〕
南朝四百八十寺〔南朝 四百八十寺(はっしんじ)〕
多少楼台煙雨中〔多少の楼台 煙雨の中(うち)〕
   *   *   *
【意】
広々と連なる平野を遥かに見渡すと、あちこちから鶯の啼き声が聞こえ、草木の新緑は紅の花に映える。
水辺の村や山沿いの村には酒屋の幟(のぼり)が春風に揺れている。
〔一方、場面は変わり‥〕
かつて栄えた南朝の古都であるここ金陵には多くの寺院が建ち並んでいた。
今も残るその楼台が煙る様に降る春雨の中に霞んで見える。
   *   *   *
【小生comment】
 極めて色彩的かつ絵画的な美しい詩である。
 この詩は読み下しが極めて日本語に合っていて覚え易い。
 何回詠じても飽きることがない名詩である。

 続いては、李白が旧暦の三月〔現代では丁度四月の今頃〕、広陵〔現・江蘇省揚州市〕に赴く友人孟浩然を黄鶴楼〔=湖北省武昌の西南、揚子江に臨む景勝の地にあった楼閣〕にて送ったときの詩。

【黄鶴樓送孟浩然之廣陵〔李白〕】〔黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る〕
故人西辭黄鶴樓〔故人 西のかた黄鶴楼を辞し〕
煙火三月下揚州〔煙火三月 揚州に下る〕
孤帆遠影碧空盡〔孤帆の遠影 碧空に尽き〕
惟見長江天際流〔惟だ見る長江の天際に流るるを〕
   *   *   *
【意】
わが親しき友、孟浩然は、ここ西のかた黄鶴楼に別れを告げ、
華やかに霞み立つ三月、遠く揚州に下っていく。
ぽつんと、ただ一艘(そう)の舟、その遠ざかっていく帆影は、やがて碧空の彼方に溶け込み消えて行った。
あとにはただ雄大な長江が、遠く天空の果てへと流れ続ける。
   *   *   *
【小生comment】
 大河長江のゆったりとした流れの中を、孟浩然を乗せた一艘の小舟が碧空の彼方に溶け込んでいく。
 色彩的かつ動的な美しい情景を雄大なscaleで巧みに詠いあげた傑作である。
 この詩も大変詠い易く、つまりは覚え易い。

【後記】さて今日のお別れは高浜虚子についてである。今日04月08は、俳人高浜虚子の亡くなった日、即ち『虚子忌』である。

 咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり  虚子

【解説】この句について、虚子の孫、稲畑汀子〔現・「ホトトギス」主宰〕は次の様に述べている。
 昭和03年04月08日、虚子54歳の作である。
「四月八日。潮干句会。鎌倉稲村ヶ崎。〔中略〕会者、秋桜子、素十、みずほ、風声、花蓑、たかし、手古奈等二十五名」との詞書がある。〔中略〕
 満開の桜の花が一片の花片さえこぼすことなくしんと静まりかえった状態を平明に詠んだ句であるが、人は一読して異様な静けさを感じずにはおれないであろう。〔後略〕

 咲き満ちた桜の花が眼前にゆったりと存在している。満開の凛とした桜の花の秀麗さと静寂‥。小生にはそう感じられた。
 皆さんはこの句が表わしている世界をどの様に受け止められましたか。
 彼は、昭和34年04月08日に亡くなった。享年85歳。


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 これでは、今日は添付写真が一つもなくなっていまいますので、先日中嶋君【3-2】と訪れた湖南からの【比良の暮雪】遠望の写真と、その時立ち寄った佐川美術館の外観を4枚お届けしてお別れしたいと思います。佐川美術館は、Modern で sharp な感じを与える architecture の傑作だと思いました。
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 余談ですが、この佐川美術館をご紹介した折、佐藤忠良氏の作品をご案内したと思いますが、その佐藤氏が去る03月30日98年の生涯を全うされました。心からご冥福をお祈りします。
 小生も佐藤氏を見習って、元気に矍鑠としてPPK(ピンピンコロリ)で100歳以上まで生きようと身体を鍛えつつ今から頑張っています。(笑)

 最後の最後についでですが、小生の拙句もどうぞ‥

 仲春や比良の暮雪に栄(は)ゆる君  悟空

 毎度のことですが、お粗末様です。(笑)


 では、また‥(了)

2011年4月 3日 (日)

【時習26回3-7の会 0335】~「04月03日:《時習26会ゴルフコンペ》開催報告」「文藝春秋2011年04月『これが私たちの望んだ日本なのか』から『鹿島茂〔「面倒くさい」問題先送りの末路〕」「鹿島茂〔&聞き手・斎藤殊里〕『セックスレス亡国論』から」「03月27:メナード美術館『所蔵企画:シャガール版画展』を見て」

■皆さん、如何お過ごしですか。今泉悟です。今日も《会報》【2637の会 0335】号をお届けします。
 日付は2011年も卯月、04月に変わり、もう3日過ぎました。
 明後日04月05日は二十四節気でいう「清明」です。
 小生、この「清明」という言葉が大好きです。まず「『清』く『明』るく」という「字」が素敵です。
 そして、晩唐の詩人「杜牧」の詩に同名の傑作があり、この詩がまたいい。
 小生大変気に入っていて、この《会報》でも過去に何回かご紹介させて頂いていますのでご存知の方もいらっしゃるのではないかと思います。

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––––––––––––––––––––––––[00]我家に咲いている杏の花2010年04月02日撮影
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【清明〔杜牧〕】
清明時節雨紛紛〔清明の時節 雨紛紛(ふんぷん)〕
路上行人欲断魂〔路上の行人(こうじん) 魂(こん)を断たんと欲す〕
借問酒家何處有〔借問(しゃもん)す 酒家は何れの処にか有る〕
牧童遙指杏花村〔牧童遥かに指さす杏花(きょうか)村
 * * *
【意】
春の盛りの「清明」節に折から小糠雨がしきりに降っている。
その雨は道行く旅人の私の心をすっかり滅入らした。
「酒屋は何処にある?」と尋ねた。すると‥
(尋ねられた)牛飼いの童が指さしたその彼方に見えたのは白い杏(あんず)の花咲く村だった。
【小生comment】
 杜牧(803-853年)が彼の勤務地「揚州(=現・江蘇省:省都は南京)」の情景を詠った傑作「江南の春」にある様に、この「清明」の舞台も「江南」。時節は丁度「菜種梅雨」の小糠雨が相応しい。「降りしきる小糠雨の中、牧童が遥か彼方に指さした先には杏の白い花が咲く村が見える‥」。極めて絵画的で印象的な詩である。

■今日はまず、今日04月03日は、『第25回・時習26会ゴルフコンペ』がキャッスルヒルCCにて開催されたのでご報告させて頂きます。
 今日は04月にしては結構寒かったのですが、雨もなく昼からは寒さも緩み、まずまずの condition の下、同期の15人が集合時間の08時00分には全員集合。
 競技は、前回優勝者福井A輔君【3-9】の始球式に始まりました。
 競技結果ですが、栄えある優勝は嘉森君【3-6】が初優勝という栄誉に輝きました。嘉森君、おめでとう!

[01]競技直前の全体写真
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––––––––––––––––––––––––[02]前回優勝幹事の福井君から優勝杯を受け取る嘉森君
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[03]表彰式懇親会での全体写真
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 尚、添付写真は、[01]競技直前の全体写真、[02]前回優勝幹事の福井君から優勝杯を受け取る嘉森君、[03]表彰式懇親会での全体写真の3枚です。ご高覧下さい。〔尚、本《会報》には容量の関係から[03]のみ添付。[01][02]は【2637の会】のblogをご覧下さい〕
 次回は、今秋11月06日(日)を第一希望日、10月30日(日)を第二希望日として、額田ゴルフ倶楽部での開催を予定しています。
 【2637の会】members の皆さんも是非参加して下さい。気の置けない同期との楽しいひとときはホント楽しいですよ!

 因みに、試しに三学年時代のクラス別参加者を以下に記してみました。
 今回も残念乍ら【2637の会】members からは小生一人の参加でした。
 ご覧の通りクラス別でみると分布にかなりの偏りがありますね。08組は golf 好きが集まったのか団結力が強いのか6名も参加。参加者全体の40%を占めています。(笑)

【01】なし
【02】中嶋Y行
【03】なし
【04】なし
【05】壁谷N輔、山本A司
【06】嘉森M俊、鈴木K生
【07】今泉 悟
【08】伊藤H之、野末 T、波田野K平、福井A輔、安井K二、矢野S介
【09】酒井T夫、鈴木H彦
【10】武野S郎
〔以上、クラス順・五十音順、敬称略〕
【小生comment】
 ここだけの話ですが、このゴルフ会の懇親会の席上で某氏より報告がありました。諸般の事情からまだ公に出来ないのですが、時習26会の同期のN君が今年の正月4日に亡くなられた由。ご冥福をお祈りします。〔合掌〕

■さて続いての話題です。掲題・副題にあります様に、最近読んだ文藝春秋2011年04月号の記事の中で135人の著名人か書いた『これが私たちの望んだ日本なのか』の中から『鹿島茂〔「面倒くさい」問題先送りの末路〕』が着眼点が実に面白く気に入りましたので、その抜粋をご紹介させて頂きます。

[04]文藝春秋2011年04月号と鹿島茂著[聞き手・斎藤殊里]『セックスレス亡国論』
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【「面倒くさい」問題先送りの末路】
 編集部からの原稿依頼の手紙には、「これが私たちが望んだ日本なのか」というお尋ねがありましたが、これには「その通り、これが私たちが望んだ日本なのだ」と答えるしかありません。〔中略〕
 それは戦後日本が上から下まで、全員で「面倒くさいことは嫌いだ」と考え、それを国是として来たからです。
 例えば外交。 戦後日本にとって一番面倒くさいことは再軍備の可否を問うことでした。しかし、時々の政府はこの問題を先送りして、取り敢えずは経済優先と考えた訳ですが、それが米国からも中国からも馬鹿にされる日本の外交を齎したのです。
 例えば内政。 税制にしろ財政にしろ選挙制度にしろ、国論を二分しそうな面倒くさい問題が起きそうだと「様子を見る」というのがその時々の政府が取って来た方針です。その結果、消費税率の up はなされず、年金改革も中途半端、選挙制度も人気投票に堕するという体たらくになったのです。
 例えば経済。 戦後日本の経済的努力は面倒くさいことの省略に注がれて来ました。家電・自動車・ロボット・パソコン・携帯。或いはコンビニ・自販機・レトルト食品。全部、面倒くさいことの代行業として定義づけられると思いますが、まさにこうした代行業が日本人から刻苦勉励の精神を奪い取り、大量のオタクを生み出したのです。
 例えば教育。 戦後、文部省も日教組も効率的な受験勉強と顧客満足度の高い教育のことばかりを考えて来ました。Mark sheet、Center入試、ゆとり教育はその最たるものでしょう。
 例えば家族関係。 親が子供を叱るという面倒くさいことを避けようとした結果が引き籠り、家庭内暴力、等々を引き起こすことになったのです。〔中略〕
 例えば出産と子育て。 これが一番面倒くさいことであるのは言うまでもありません。日本がいま直面している最大の問題「少子化」こそ、「面倒くさいことは嫌いだ」の精神が辿りついた最終結論なのです。
 よって、「これが私たちの望んだ日本」なのです。

【小生comment】
 如何です、皆さん。鹿島茂氏は辛辣なもの言いですが、ある意味核心をついた comment だと思いませんか?(笑)
 因みに、略歴をご紹介すると、氏は1949年11月30日生まれ。フランス文学者・評論家・明治大学国際日本学部教授。東大文学部仏文科、同大学院博士課程修了。
 次にご紹介する書の中での氏の話もそうだが、氏の博覧強記ぶりには本当に圧倒される。
 小生、鹿島氏の comment が気に入ったので、彼の最近刊行した書物を探してみました。それが「鹿島茂〔&聞き手・斎藤殊里〕『セックスレス亡国論』〔朝日新書〕」です。本の題名が強烈なので心配な方もいらっしゃるかもしれませんが大丈夫です。大変格調高い内容となっています。(笑)

■それでは、この本から終章の「第3章 私たちはどうすればよいのか」~「1.面倒くささの克服を」の抜粋をご紹介します。
【資本主義の弊害】
〔斎藤〕面倒くさいことを回避してくれる資本主義社会に慣れてしまった私たちは、今後どうしていったらよいのでしょう?
〔鹿島〕私は、テレビのリモコンが登場した時の衝撃をいまだに覚えています。〔中略〕ほんの0.01秒の手間でも、その面倒くささを回避出来ると、人間はそちらの方に行ってしまうんです。それが人間の性(さが)です。〔中略〕
 「面倒くさいことは嫌いだ―、をやった挙句、利益よりも遥かに弊害が出て来ています。〔中略〕
 面倒くさいことは嫌いだということは、要するに、禁欲は嫌いだということに通じる。〔中略〕(人間は)ある程度禁欲を自分に強いることがないと、間違いなく堕落するんです。克己(こっき)心をなくしてしまうのです。〔中略〕しかし、資本主義の側から見ると、克己心を持たれてしまうのは最悪です。「面倒くさいものが嫌い」な人間をどんどん増やしていかない限り、自分たちの未来はない。
 そこで〔中略〕「面倒くさいことは嫌いだ」を国是にし、ついには Global standard にしたのです。ところが、その一番面倒くさい恋愛とセックスと子育てを回避する様になり、自己保存本能さえ失ってしまった。
〔斎藤〕ということは、人間は進化すればするほど、ある意味では種族絶滅の方向へ向かう‥。
〔鹿島〕その通り。〔中略〕面倒回避の vector に進み始めたが為に、進歩が退歩になってしまった。セックスレスになり、出生率が落ちる。しかし、誰もそれを止められない。〔中略〕社会の全員が面倒回避 goods の買い手であると同時につくり手でもあるからです。一家の妻と娘と息子が面倒回避 goods をせっせと買っている一方で、お父さんがその goods をつくる会社に勤めている。グルグル回っているから、この装置を止めることができないのです。〔中略〕
 色々なものが変化して、最終的にはパソコンになりました。検索をかければ、何でも直ぐに調べられるけれど、それによって人類の頭が良くなったかというと、決してそういうことはない。昔の様に、関連文献を隅から隅まで読まなくては見つからなかったという時代の方が、人間は遥かに頭を使った。〔中略〕
【日本人全員が、「ドラえもん」のいない「のび太君」】
 この現象は、モノだけでなく、全ての生活、人間対人間の生活の中にも入り込んでしまっています。
 例えば〔中略〕恋愛する、セックスする、結婚する、子供をつくる、育児をするという、種の再生産の過程こそが、一番面倒くさいことと感じられてしまっている。人間がこの地上にあるのは、種の再生産の為なのですが、それが面倒くさいことと感じられてしまっているのだから、これはもうダメだというほかない。
 昔は、相手を見つける、デートする等々の過程が面倒くさいから、「ええい、見合いして結婚してしまおう」となったのですが、今は、「面倒くさいから結婚しない」となる訳です。
〔斎藤〕婚期はますます遅くなっています。
〔鹿島〕もっと言えば、その前段階から面倒くさくなる。勉強したり、学校へ行ったり、友達と遊んだりするのも面倒くさい、となって、登校拒否、引き籠りがどんどん増えてしまう。それもまあ、当然の結果なのですよ。だって、社会全体が「面倒くさいことはやめよう」と呼びかけて、「面倒くさいことをしないことが一番幸せなんだよ」という ideologie を子供たちに吹き込んでいるのですからね。〔中略〕
 その昔、吉行淳之介の短編の中で、高熱が下がらず入院することになった少年に友人が「君は、蒲団の国へ行く訳だな。あそこはいいぞ」と語る episode が出て来ましたが、今の日本がまさにこの「お布団から出たくないよう」の状態ですよね。全てが布団の中で出来る。学校にも、勤めにも行きたくない。
〔斎藤〕そう、私の周りにもいます、そういう人。〔中略〕気力も体力もないですから、当然、収入は少ないのですが、恋人も家族も要らないから四畳半の独り暮らしで事足りてしまう。〔中略〕
〔鹿島〕だから今、日本人は全員、ドラえもんのいない「のび太君」になってしまっています。ドラえもんの代わりを親がやってあげている限りは、のび太君も何とか生きて行けるのですけれど、親がいなくなったら?〔中略〕
 身近な「面倒くさい」を、少しずつ排除していくことが重要なのです。〔後略〕
【小生comment】
 鹿島氏が、あとがきで「(面倒くさいことの代行業という性質をもった)資本主義が日本人の願望(面倒くさいことはしたくない)を汲み取って発達して来るうちに、それが全面的なセックスレスを招き寄せ、ついには亡国の危機を生ぜしめてしまったのである」と纏めているが、面白い切り口である面ではその通りだと感じた。
 ただ小生は、少子化問題はセックスレスが主因ではないと思う。
 子供を産む若い世代の夫婦にとって、日本の今の様な豊かな生活水準を維持しつつ育てられる子供の数は精々1~2人であり、この生活水準を落してまで子供をそれ以上多く産みたいとまでは考えていない。Double income の夫婦なら2人以上の子供をつくることは経済的には可能であるが、現在の様に核家族中心の世帯では、彼等に子供を安心して2人以上産める様な仕組みづくり〔即ち、保育所や育児休暇の拡充等〕を、国家がより多く推進していかない限り不可能と言わざるを得ない。
 皆さんはどのようにお考えですか?

【後記】さて今日のお別れは、先週お約束した様に03月27日に、03月05日(土)~04月17日(日)まで小牧市のメナード美術館にて開催中のシャガール版画展を見て来た模様をお届けします
 展示作品は、『ダフニスとクロエ』lithograph全42枚(1957~60年制作・61年刊行)/『アラビアンナイト』同 全12枚(1946年制作・48年刊行)/『神々の大地で』同 全10枚+序文カット図2図(1967年刊行)/『サーカス』同 全38枚中30枚出品(1967年刊行)、以上全部で94枚の日本画用語ではないが『極彩色!』の lithograph の一挙展示には圧倒された。添付写真は『ダフニスとクロエ』から2枚と『アラビアンナイト』から1枚です。
 彼の作品は、いつ見ても「ホワ~ン‥」とした幻想的な気分にさせてくれるから不思議ですね。(笑)
 添付写真の絵をご覧下さい。

[05]「シャガール版画展」のTicket『サーカス』より〔blog参照〕
05chagall

––––––––––––––––––––––––[06]『ダフニスとクロエ』[11]真昼 夏
06chagall11

[07]『ダフニスとクロエ』[36]荒らされた花々
07chagall36

––––––––––––––––––––––––[08]『アラビアンナイト』[10-12]黒檀の馬より
08chagall

 更に余談ですが、先週30日の昼、時習26回【3-8】の宮路N高君が小生を訪ねてくれた。「転勤辞令が出たので一応お別れの挨拶に来」てくれたのである。04月からは名古屋の本庁に戻るのだそうだ。宮路君とは大学時代の学部も同じ同期の仲間である。
 昼食を共にして、彼の仕事での活躍を願い、お互いの健康を祈念しつつ別れた。
 友達ってホント、いいものですね。

 では、また‥(了)

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