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2011年6月の4件の記事

2011年6月24日 (金)

【時習26回3-7の会 0347】~「06月19日:豊田市美術館「『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画』展を見て」「曽野綾子著『なぜ子供のままのおとなが増えたのか』から」

■皆さん、お元気ですか。今泉悟です。【時習26回3-7の会 0347】号をお届けします。
 今日も先週に引き続き、「2011年【2637の会】《クラス会》出欠表明状況(06月24日現在)」をお伝え‥、‥したかったのですが、この一週間は mail が残念乍らありませんでした。
 丁度二週間前の06月10日の夜、《会報》【0345】号にて、mail address を教えて頂いている【2637の会】classmatesの皆さん宛にご案内を配信させて頂いています。
 08月13日(土)の《クラス会》迄、countdown しますとあとあと丁度50日になりました。
 【2637の会】members の皆さん、振るってご参加下さい。
 「出欠」表明は、mailで返信して頂ければ幸甚です。
 「出欠」が決まっていない方は pending の mail を頂ければ有難いです。
 何卒、往復葉書出状省略にご協力頂います様お願い申し上げます。

■さて、今日続いての話題は、去る06月19日(日)、豊田市美術館美術館にて08月28日迄開催中の『フェルメール《地理学者》とオランダ・フランドル絵画』展を見て来ましたのでご報告させて頂きます。

[01]豊田市美術館前にて〔添付写真〕
01vermeer20110619

 この展覧会は、今春03月03日~05月22日、東京・渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムにて開催されていたものと同じです。
 主催者によれば、この展覧会の main は、「17世紀オランダ美術黄金期を代表する画家ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer,1632-1675年)。彼の作品の魅力は、繊細な光の描写や美しい色彩が放つ圧倒的な迄の作品の質の高さと、三十数点しか確認されていない希少性」。「中でも《地理学者(The Geographer)〔添付写真[02]参照〕》は僅か2点しか描かれていない男性単身像をモチーフ(motif=表現の動機)にした作品の一つで傑作とされる」一品という。
 因みに、もう一つの男性単身像はルーブル美術館所蔵の『天文学者』である〔添付写真[03]参照〕。
 
[02]フェルメール『地理学者』1669年
02vermeergeographer1669

––––––––––––––––––––––––[03]同『天文学者』1668年頃〔ルーブル(Louvre)美術館蔵〕
03vermeerastronomer1668

 本展覧会は、独・フランクフルト(Frankfurt am Main)のシュテ―デル美術館(Stadel Museum)が、同美術館が改築を行う為に実現したもので、展示作品95点全てが同美術館所蔵作品。うち90点が日本初公開。作品はオランダ・フランドル(Dutch & Flemish)絵画(殆どが17世紀の)作品である。
 今日は、展示作品の中からオランダの風景画家ロイスダール(Jacob Isaackesz, van Ruisdael(1628/9-1682))とブラバント公国(現ベルギー)の画家ヤン・ブリューゲル(父)(Jan Brueghel the Elder,1568–1625.01.13)の2作品をご紹介します。

[04]ロイスダール『2羽の白鳥のいる森の湖』1660-65年頃
042166065

––––––––––––––––––––––––[05]ヤン・ブリューゲル(父)『ガラスの花瓶に生けた花』1610-25年頃
05161025

【小生comment】
 個人的感想ですが、展示作品は殆どの作品が今から300~400年も昔のもので、黒ずんだ暗い色合いが重い雰囲気を出していました。
 尚、フェルメールの『天文学者』は今回の展覧会のものではありません(為念)。
 小生、今回初めて豊田市美術館を訪れたのですが、建物がなかなか洒落ていた〔添付写真[06]参照〕。

[06]豊田市美術館外観
06

 それから、常設展 corner を訪れてビックリした。内外の著名な画家の作品が7点〔安井曾太郎、梅原隆三郎、国吉康雄、クリムト(Gustav Klimt)、シ―レ(Egon Schiele)、ココシュカ(Oskar Kokoschka)、マグリット(Rene Magritte)〕展示されていたのだ。素晴らしかった。当美術館所蔵品一覧を見てみたが、流石にトヨタ自動車のお膝元の財政豊かな街だけあって masterpieces が数多くある。今後も所蔵品展示入替えなった時にまた訪れてみたくなった。
 ※ 豊田市美術館の Home page です ↓↓↓ ※
 http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2011/permanent/000667.html

[**]安井曾太郎『花と少女』1928年
[**]梅原龍三郎『カンヌ』1956年
[**]国吉康雄『花飾りをつけた女』1932年
[07]クリムト『オイゲニア・プリマフェージの肖像』1913/4年
07191314

––––––––––––––––––––––––[08]ココシュカ『絵筆を持つ自画像』1914年
081914

[09]シ―レ『カール・グリューンヴァルトの肖像』1917年
091917

––––––––––––––––––––––––[10]マグリット『無謀な企て(Attempting the Impossible)』1928年〔blog参照〕
10attempting_the_impossible1928


■さて今日最後の話題です。最近読んだ本から、「曽野綾子著『なぜ子供のままの大人が増えたのか』」から『幼児性』をthemeにした処をご紹介します。
【「幼児性」の特徴とは】
 「幼児性」の特徴は幾つもあるが、周囲に関心が薄いこともその一つである。自分の病気には大騒ぎするが、他人の病気は痛くも痒くもない。〔中略〕他人の痛みには全く思い至らない、という点にある。
 「幼児性」のもう一つの特徴は、人間社会の『不純』の悲しさや優しさや香(かぐわ)しさを、全く理解しないことだ。幼児的人生は全て単衣(ひとえ)で裏がない。だから、厚みもなければ強くもない。〔中略〕
 政治家が嘘をついたり、政治的理念など放置して派閥づくりに狂奔するのがいいのかという批判もあろうが、『不純』にも色々あるのだ。下世話な言い方をすると、下等の『不純』も上等の『不純』もある。『不純』というと一つの概念しか考えないのが、「幼児性」なのである。〔中略〕
 「幼児性」はものの考え方にも、一つの病状を示す様になる。「理想と現実を混同する」ことである。この混同は、自分がその場に現実に引き出されない限り、それが嘘であることが証明されない、という安全保障を持っている。
 1994年の(【小生注】Africa 東部の国)ルワンダ(Ruwanda)のフツ族の老女は、自分の娘がツチ族の男性と結婚して生んだ孫を殺した。「お前が本当にフツ族なら、ツチ族の血の入った孫を認める訳がない。もし殺さないなら、お前を殺す」と言われたからであった。
 こうした実際にあった話を前にして、自分はこういう場合にも絶対に幼児を殺すことはしない、と自信を持てるのが「幼児性」である。「もし仮に自分が‥‥であったなら」という仮定形に中々現実の意味を持たせられないのが「幼児性」なのである。
 結果的に「幼児性」は相手を軽々と裁く。これも大きな特徴の一つである。それは、人間というものは中々相手を知り得ない、という恐れさえ知らないからである。或いは自分もその立場になったら何をしでかすか分からない、という不安を持つ能力に欠けるからであろう。
 一方、「幼児性」は、社会と人間に対して『不信』を持つ勇気がない。『不信』という一種の〔中略〕防御本能の発揮によって〔中略〕私たちは『信頼』に到達出来る。しかも信じる(=『信頼』に到達する)迄に、全人的な人間解釈の機能を駆使しても長期間を要するのである。
 普通、私たちは見知らぬ人〔中略〕の生き方を信じる根拠を持っていない。しかし「幼児性」は、様々な図式によって、人を判断し、それを信じる。〔中略〕金持ちは悪人で、貧しい人は心が綺麗だ〔中略〕という具合だ。現実は、そのどれにも当て嵌まる人、当て嵌まらない人がいる、ということだけのことだ。
【不純さの中で人間は大人になる】
 「幼児性」は、all-or-nothing (全てか無か)なのである。その中間の曖昧な部分の存在の意義を認めない。或いは、差別をする人とされる人に分ける。しかしあらゆる人が、家柄、出身、姻戚関係、財産、能力、学歴、その他の要素をもとに、差別をされる立場とする立場を、時間的に繰り返して生きているのである。ただこの世で全ての人が、夫々の立場で必要で大切な存在だということが解る時だけ、人間は差別の感情などを超えるのである。
 平和は善人の間には生まれない、とあるカトリック(Catholic)の司祭が説教の時に語った。しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に充分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らず咎めず、結果として辛うじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。
 つまり、その様な『不純』さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本人はそういう教育を全く行って来なかったのである。

【後記】それにしても、今の日本の政治は狂っている。小生、どの政党がどうのこうのとは言いたくないが、一般的に言っても、「退陣表明した首相が退陣時期も明確にせず、単なる延命策としか言えない様な新しい施策を次々に打ち出す‥」という感覚が信じられない。「退陣する政府が『予算を通す』」ということは「決めるだけ決めてその執行だけを次の内閣にさせる『無責任極まりない所業』である」。議院内閣制は、国民が一国の政府指導者を直接選べないというのが短所であるが、それを今ほど痛感する時はない。
 為政者は、『徳』を持った人物がならないと国民は痛い目を見る。詐術を使い首相の座に居座る続けることが目的である低 level の『不徳』な人物が一国の指導者では、優秀な brain もどんどん去っていく‥。この様な人物に日本の将来を託さざるを得ない日本国民も哀れである。
 一人の愚者の我儘が、日本の国政の劣化を益々深刻化させていることが大変嘆かわしい。
 曽野綾子氏が言っていた『幼児性』と言う言葉が日本の首相に当て嵌まるとしたら悲劇である。
 では、また‥。(了)

2011年6月17日 (金)

【時習26回3-7の会 0346】~「2011年【2637の会】《クラス会》の出欠表明状況(06月17日現在)」「06月11日:メナード美術館『吉田善彦&林功』展を見て」「藤原正彦著『日本人の誇り』を読んで〔その2〕」

■皆さん、お元気ですか。今泉悟です。【時習26回3-7の会 0346】号をお届けします。
 今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に「2011年【2637の会】《クラス会》出欠表明状況(06月17日現在)」です。
 丁度一週間前の06月10日の夜、《会報》【0345】号にて、mail address を教えて頂いている【2637の会】classmatesの皆さん宛にご案内を配信させて頂きました。
 その結果、白井T夫君、二橋Y彦君、守田T洋君から mail を頂戴しました。
 御三方とも「欠席」のお返事でしたが、mail 文の《会報》への掲載をご了解頂いていますのでご紹介させて頂きます。

【白井君からの mail】Sent: Saturday, June 11, 2011
 何時も配信有難うございます。
貴兄の好奇心の旺盛なことと精力的な活動には感服します。
クラス会は欠席させて下さい。
基本的に人と接する事が苦手なのと、束縛されているという思いが強かった学生生活に、あまり良い思い出が無いのです。
 株式投資に関しては、リスクを減らす為にできる限り株をもつ時間を短くするというスタンスで臨んでいるので、市場の低迷は自分の運用成績とあまり関係ありません。
経験則とデータから短期の値動きが読める時しか参加しません。結果に係わらず。
 ルールに則って決済し、キャッシュポジション100%の状態で次のチャンスを待ちます。
 株で生活すると決めて20年が過ぎましたが、バブル崩壊後の状況で大きな負けも無くやってこられたのはラッキーだったと思っています。
 参加する機会が少なくなった事もありますが、投資しないストレスが無くなってきたので、このまま止めても良いと思っている今日この頃であります。〔中略〕
 また気が向いたら会いにいきます。〔白井〕

【二橋君からの mail】Sent: Monday, June 13, 2011
今泉さん お久しぶりです。
誠に申し訳ありませんが私9月に引っ越す予定であり
8月は諸々の手続きが立て込んでおり今回も欠席とさせて頂きます。
      二橋

【守田君からの mail】Sent: Tuesday, June 14, 2011
今回も都合付きませず欠席とします。 空元気でやってます~ モリタ//

 白井君、二橋君、守田君、mail でのご回答を有難うございました。
 今回は、お三方とも参加を見送られるとのことで残念です。
 【2637の会】《クラス会》は、小生が元気なうちは毎年2回を目処に開催し続ける予定ですのでその気になったらいつでも参加して下さい。
 久しぶりに communicate できて嬉しいですね。

 さて《クラス会》開催予定の08月13日まで、あと2箇月を切りました。奮ってご参加下さい。
 《クラス会》で楽しいひとときを過ごしましょう。
 ご案内は、06月10日に【2637の会】memberお一人ずつ個別に配信させて頂きました。
 その「返信 mail」でお返事を頂戴できたら幸甚です。m(_ _)m
 往復葉書の出状省略にご協力頂き度、お願い申し上げます。

■さて、今日続いての話題は、去る06月11日(土)、私用で名古屋に行く機会があり、そのついでに小牧市にあるメナード美術館にて06月19日まで開催中の「特別企画展『吉田善彦・林功』」を見て来ましたのでご報告致します。

 本展覧会は「速水御舟→吉田善彦→林功」という3代に亘る子弟の作品展でもある。
 今年見た美術展覧会の中でも1~2の best 企画展であると思う。
 吉田の師匠となる速水御舟(1894(明治27).08.02-1935(昭和10).03.20)は大正期~昭和初期の日本画家である。本名は蒔田(まきた)栄一)の精緻な日本画は文句なく素晴らしい。
 また、吉田善彦が醸し出す幻想的な風景画は、彼独特のマチエール(matiere)にある。「揉み紙と金箔」が作る『吉田様式』と呼ばれた柔らかな光を放つ日本画を生み出した。厚塗りの技法で画面全体がveilで覆われた様な繊細かつ温和な色調を以てして、品のある叙情性豊かな独特の風景表現を創出している。淡い色調乍ら、作品を眼前で見ると典雅(=優美、=上品で整っている)さに思わず惹かれる。実に素晴らしい。

 吉田([01]参照)の略歴は以下の通り。
[01]
01

【吉田善彦(1912-2001)・略歴】
1912年 東京に生まれる。本名誠二郎
1929年 速水御舟(=従兄弟吉田幸三郎の義弟)に師事
1937年 『もくれんの花』院展初入選。同年より、小林古径(1883.02.11-1957.04.03)の指導を受ける。
1940年 同年より法隆寺金堂壁画模写事業に参加。そこで橋本明治(1904.08.05-1991.03.25)の助手を務めた。
1944年 応召。
1946年 台湾から復員。再び法隆寺金堂壁画模写に従事
1949年 法隆寺金堂消失により模写事業中止
1954年 奈良から東京に戻る
1957年 第42回院展に《臼杵石仏》出品、奨励賞受賞
1964年 文部省買上げ。日本美術院同人となる。
1967年 同年より法隆寺金堂壁画再現模写にて安田靫彦班に従事
1970年 東京芸術大学教授就任
1973年 文部大臣賞受賞
1978年 日本美術院評議員就任
1981年 「飛鳥日月屏風」院展で内閣総理大臣賞受賞
1982年 毎日芸術賞、日本芸術院恩賜賞受賞。
2001年 逝去

 一方、林は、東京芸大で吉田善彦の下で学んだ。吉田と林は共に「古典絵画」模写を通じて技量を磨き、独自の精神的な世界を創造した。
 1969年大学院に進んだ林は、吉田の指導する保存修復専攻で学び「模写は絵のもつ感動を写すこと」との教えを学びとる。彼の絵には、確かな技量に裏打ちされた爽やかな雰囲気が魅力だと言えよう。彼自身が愛した中国の風景や人々の暮らしを描いた絵に佳品が多い。
 林([02]参照)の略歴は以下の通り。
[02]
02

【林功(1946.02.22-2000.11.04)・略歴】
1946年 千葉県茂原市に生まれる
1969年 第54回院展に初入選 東京芸術大学美術学部日本画科卒業
1971年 大学院保存修復技術研究室修了 日本美術院院友推挙 東京芸術大学助手 多くの文化庁模写事業に参加
1981年 第06回山種美術館賞展で「汎」が優秀賞を受賞
1990年 愛知県立芸術大学日本画講師。
1991年 法隆寺金堂壁画「飛天図」復元に携わる 第76回院展で「道」が奨励賞受賞
1992年 名古屋城本丸御殿障壁画の復元模写を開始
2000年  11月04日研修中の中国西安市郊外にて交通事故により逝去

[03]速水御舟『短夜(みじかよ)』1915年
031915

––––––––––––––––––––––––[04]速水御舟『芙蓉』1934年 blog参照
041934

[05]吉田善彦『湖映』1966年
051966

––––––––––––––––––––––––[06]吉田善彦『東大寺講堂跡』1981年 blog参照
061981

[07]吉田善彦『斑鳩春宵』1983年
071983

––––––––––––––––––––––––[08]吉田善彦『支笏立夏』1985年
081985

[09]林功『朝の光り』1978年 blog参照
091978

––––––––––––––––––––––––[10]林功『雨声・汨羅(べきら)』1982年 blog参照
101982

[11]林功『雨声・蘇州風橋)』1982年
111982

––––––––––––––––––––––––[12]林功『海の声』1987年 blog参照
121987

[13]林功『春の道』1990年
131990

––––––––––––––––––––––––[14]林功『富春江』1991年
141991

[15]林功『静謐(せいひつ)』2000年 blog参照
152000

【小生comment】
 皆さん如何でしたでしょうか。吉田善彦の作品は典雅でいいですよ。

■さて今日最後の話題です。先週ご紹介を完了した「松原久子著『驕れる白人と闘うための日本近代史』」を踏まえて、藤原正彦著『日本人の誇り』お届けします。
 藤原氏の『日本人の誇り』は、去る04月24日付《会報》【0338】号にて結論の処だけ先にご紹介しました。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/26-0338-1857-19.html
 ちょっとお浚いしてみましょう。最終章「【第8章】日本をとり戻すために」の処です。
 日本人が「誇り」を回復するには‥
 ※ 日本が敗戦後、GHQにより【罪意識扶植計画】で植えつけられた罪悪感を払拭すること。そして作為的になされた『歴史の断絶』を回復すること ※
 《具体策》
 ①戦勝国の復讐劇に過ぎない『東京裁判』を否定し、Perry来航から敗戦後のGHQ占領迄の『日本の百年戦争』が齎した、世界史における大殊勲を確り胸に刻むこと。
 ②米国に押しつけられた、日本弱体化の為の憲法を廃棄し、新たに、日本人の、日本人による日本人の為の憲法を作り上げること
 ③自らの国を自らで守ることを決意して実行すること〔‥自らの力で自国を守るだけの強力な軍事力を持った上で、米国との対等で強固な同盟を結ぶ‥〕
 これ等①②③がなされ、日本の真髄とも言える美意識と独立自尊が取り戻されて初めて、ペリー来航以来の百年戦争が真の終結を見るのである、と。
【小生comment】
 藤原氏が著書で上記の様に述べている「自主憲法制定」と「防衛軍保持」を唱えた者は全て、少し前までは「再軍備に向けて憲法改正する」=「『平和憲法』を葬り去ろうとする不届きな右翼・軍国主義者」というレッテル(letter(蘭))を貼られたことだろう。
 しかし、そう考えること自体が「GHQにより【罪意識扶植計画】で植えつけられた罪悪感」だと藤原氏は主張する。
 尖閣列島沖での中国漁船による海上保安庁巡視船体当たりとその後の中国政府の対応やRussia のメドヴェージェフ(Medvedev)大統領の国後島訪問等の示威行動を見せつけられると、「平和憲法」護持による非武装中立論が机上の空論であることを実感させられる。

 以下【第1章】~【第7章】について簡単にご紹介させて頂くこととする。

【第1章】政治もモラルもなぜ崩壊したか
 低下する政治家の質、腰の定まらぬ外交、頻発する無軌道な殺人事件、勉強しない子供達‥もはや対処療法では効果はない

 これらの問題は原因がいくつも複雑に絡み合っている為、対処療法ではなく全体を貫く機軸を変えて一気呵成に全てを解決するほうが寧ろ直し易い。
 
【第2章】すばらしき日本文明

 世界七大文明の一角を占める日本文明。江戸期に来日した外国人たちは「貧しくも幸福な社会」を目の当たりにして感銘した。人々が健康そうで礼儀正しく正直であったこと。鍵のない部屋や抽斗から何も盗まれなかったこと。街頭や農村で見た人々が子供から人足、車夫に至るまで皆、冗談を言い合っては笑い興じていたこと、等‥。「貧乏人は存在するが貧困は存在しない‥」とは大森貝塚を発掘した東大お雇い教授の米国人モース(Edward Sylvester Morse 1838.06.18-1925.12.20)の言葉である。
 英国の駐日初代総領事オールコック(Sir Rutherford Alcock KCB(=Knight Commander), 1809.05.**-1897.11.02)は、狡猾な幕府官僚との折衝等を通し封建日本を嫌い、日本を Eden の園の様に描くのは誤りと信じ、『大君の都』では忌憚なく批判をしている。それでも農村を見て「これが圧制に苦しみ、過酷な税金を取り立てられて窮乏している土地だとはとても信じ難い。欧州にはこんなに幸福で暮らし向きの良い農民はいない」と記している。
 日本をよく見て歩き十三代将軍家定に謁見迄したハリス(Townsend Harris,1804.10.03-1878.02.25)は「将軍の服装は質素で、殿中の何処にも金鍍金(メッキ)の装飾はなく、柱は白木の儘で、火鉢と私の為に用意された椅子と table の他には、どの部屋にも調度の類が見当たらなかった」「日本には富者も貧者もいない。正直と質素の黄金時代を他のどの国よりも多くここに見出す」と書いている。

【第3章】祖国への誇り
 家族愛・郷土愛・祖国愛。人間の基本を成すこの三つの愛は、なぜ戦後日本から失われたのか? その策略の中心とは何か?

 それは、GHQが占領後間もなく実施した、新聞・雑誌・放送・映画等に対する厳しい言論統制。WGIP(War Guilt Information Program = 戦争についての罪の意識を日本人に植え付ける宣伝計画)に基づいた『罪意識扶植計画』である。これは、自由と民主主義の旗手を自任する米国が、戦争責任の一切を日本とりわけ軍部に被せる為、日本人の言論の自由を封殺するという挙に出たのである。「日本対米国」の総力戦であった戦争を、「邪悪な軍国主義者と罪のない国民」との対立にすり替えたのである。
 藤原氏は言う。「約7年間(1945.08.-1952.04.28)の占領時代を通じて遂行されたGHQの日本人洗脳計画は、当時の教育・歴史学会・マスコミに徹底された為、日本国民は、東京裁判、新憲法、検閲により言論の自由を奪い洗脳を進めた米国・愛国心の擁護等への批判をしなくなったのである」。
【小生comment】特に、GHQが日本国民に「愛国心」=「軍国主義」と位置づける洗脳策は大きく奏功し現在に至るまで影響を及ぼしている。
 「公立学校教職員に国歌斉唱時の起立を義務付けた『君が代起立条例』(大阪府)」が今月13日施行されたが、その原因となった公務員教師による君が代斉唱時起立拒否事件はその典型である。

【第4章】対中戦争の真実
 「南京大虐殺」が突如、再登場したのは事件から八年半経った終戦後のことだった。証拠を捏造してまで演出した黒幕とは?

 藤原氏は言う。「『南京大虐殺』は、日本を第二次世界大戦の悪玉にする為に、米国と中国が捏造した事件だ」と。
【小生comment】南京事件は、日中戦争初期の1937(昭和12)年に日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、2箇月近くに亘り投降した中国兵、一般市民等を数万~約30万人殺したとされる事件。証拠が不十分で、その真偽や程度などが今論議されている
 藤原氏はこうも言っている。「米国は、日露戦争の終わった翌1906年辺りから、Theodore Roosevelt 大統領の指示で対日戦争計画を練り始めた。「オレンジ計画(War Plan Orange)」である。19世紀末に西海岸に達し、Hawaii(1898年併合)、Philippine(1898年統治権) を獲得した米国にとって、次の frontier としての目標は巨大市場中国であった。そして既に満州での利権を独占し、中国への道に立ちはだかるのが、強力な海軍力を持つ小癪な yellow monkey、日本だったのである」。
【小生comment】「オレンジ計画」の主旨は、①中国と組み 反日宣伝推進、②日本海軍力削減、③日本陸軍力を大陸で消耗させる、ことであり、米国の狙いは、中国に肩入れして日本の中国大陸進出を拡大させ兵力を消耗させることにあった。日中戦争(旧・日華事変)がそれである。

【第5章】「昭和史」ではわからない
 満州事変に対するリットン調査団が出した結論は極めて妥当。帝国主義時代における「侵略」を巡る国際常識を解き明かす。

 藤原氏は「侵略」について、「歴史の流れの中で『侵略』の定義自体が変わる」為に定義は難しいという。
 現代の感覚からすれば、明らかに『侵略』とされる「満州事変」も、リットン調査団の報告書では、①日本の軍事行動は自衛でなく、②満州国は地元住民の意志で建国されたものとは言い切れない、と日本を非難する一方で、③満州における日本が持つ既得権益は尊重されるべき、④満州の国情は特殊で本事件が単純な「侵略」事件と言いきれない、と日本側の主張も認めている。
【小生comment】これは「満州事変」が帝国主義時代下での出来事であり、日本の軍事行為を単純に「侵略」と認めると、欧米列強が Asia で繰り広げて来た軍事行為の多くが「侵略」とされる、日本の満州における既得権益を認めないとなると、アヘン戦争における香港割譲を始めとする欧米列強の既得権益を自己否定することになってしまうのである。

【第6章】日米戦争の語られざる本質
 列強の中核をなす白色人種にとっての悪夢は、日中の連携だった。両国間に楔を打ち込むべく米国は周到に罠をかけた‥

 【第四章】で「米国の狙いは、中国に肩入れして日本の中国大陸進出を拡大させ兵力を消耗させる」為と書いたが、更に藤原氏はこう言っている。「百万近い日本軍を中国大陸に貼りつけさせ、日中両国に膨大な犠牲を出させ疲弊させたのは、日本でも中国の意志でもなく、米英ソの意志だった」。
 また、米英が中国を支援した理由を、藤原氏は次の5つの要素であると指摘する。「①巨大市場中国の魅力、②日中が戦争をすれば、ナチス独の台頭に対抗するソ連軍も対独戦線一本に重点投入出来る、③人種問題‥有色人種、特に台頭著しい日本と世界最大の人口を有する中国の共倒れを企図、④中国の世界一流の宣伝力に動かされた米国民、⑤米国社会に深く根付いた親中・反日の精神」。

【第7章】大敗北と大殊勲と
 黒船来航から敗戦後の占領までの百年戦争は、植民地主義や人種差別に対して、日本が独立自尊の精神を貫いてきた歴史の証だ。

【小生comment】そろそろこの藤原氏の本も「纏め」になります。
 東京裁判で日本を侵略国家と断罪した MacArthur 自身が、1951年の米国上院軍事外交合同委員会で「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と述べている。
 第一次世界大戦後の1919年、Paris 講和会議で戦勝国一員である日本が、国際連盟規約に「人種差別撤廃」を入れる様に提案。採決の結果は、米英の反対にも拘らず賛成11反対05となったものの、議長の米国ウィルソン大統領(Thomas Woodrow Wilson, 1856.12.28-1924.02.03)に「全会一致でない」という理由で否決されたが‥。
 1905年日露戦争における日本の勝利に Asia は歓喜した。大航海時代の幕開けにより15世紀から始まった白色人種の世界征服に、初めて大きな制動がかけられたという点で、世界史の十大事件に入れて良い程の事件(藤原氏)であった。
 藤原氏は、「1853年のPerry の黒船来航から 1952年のSan Francisco講和条約発効迄の百年を『百年戦争』とする」が、 以上が、日本の「光」とすれば、「影」もあるとして、「日本人の価値観を高く掲げ、迫力を持って欧米を説得説教する、ということをしない、のが【日本の宿痾(しゅくあ=長年治らない病気)】だ」とも言う。
 氏は続けていう。「敗戦となった日本にとって、この百年戦争は実は日本の大勝利だった。Perry 来航以来、日本が希求していたものは、第一に「独立自尊」、第二に「Asia が連帯し白人による支配を阻止すること」である。そして日本が率先垂範する恰好で「第一」「第二」いずれも達成したのである。
 最後に、歴史家トインビー(Arnold Joseph Toynbee,1889.04.14-1975.10.22)の言葉で締め括りたい。
「日本は第二次世界大戦において、自国でなく大東亜共栄圏の他の国々に思わぬ恩恵を齎した。〔中略〕それまで二百年の長きに亘って Asia・Africa を統治していた西洋人は、無敵で神の様な存在と信じられて来たが、実際はそうでないことを日本人は全人類の面前で証明してしまったのである。それは正に歴史的業績であった」(1956.10.28付)(了)
【小生comment】
 以上で、藤原正彦氏の本書と前号以前でご紹介した松原久子氏の『驕れる白人にと闘うための日本近代史』のご紹介を終えますが、如何でしたでしょうか。
 戦後66年が経った。そろそろここらで我々日本人は真剣に将来の日本・世界・地球環境について真剣に考えて行かねばなるまい。
 地球環境を守る為に、有限な資源の有効活用には今まで以上に気遣う必要がある。‥世界人口の増加と新興諸国の所得水準上昇による消費拡大
 行き過ぎた「個人主義」を抑え、共同体での循環型社会を理想と位置づける。
 その為には極端な所得格差が現出しない様に所得分配に気配りし乍ら、そうは言っても頑張った者がそれなりに報われる社会形成の為の system が必要となる。
 個人々々が向上心を持ち、善悪の判断をキッチリと下せる様に、「家庭内や近所付合いという community 及び学校における『躾』」が子供の教育の基本となる。
 その教育の中身であるが、列挙すると以下の通り。

 ①健全な精神は健全な肉体に宿る‥から‥青少年期における肉体鍛錬
 ②日本古来からの美点である、『長幼の序』を始めとする「儒教精神」修得‥←共同体社会で秩序立って機能させる為
 ③愛国心の醸成‥←日本国民として独立自尊精神確立の為
 ④真善美の理解と尊重、探究‥←人間として正常な感性の醸成の為
 ⑤国防の為の軍事訓練 or 社会救済活動〔ex.消防訓練〕 or 社会奉仕活動〔ex.養護施設での介護活動〕を2年間程度義務付ける‥←社会の片隅に存在する「痛み」が解ってこそ共同体社会での自己責任の重さを実感出来る
 ⑥正しい歴史〔特に日本史〕の理解‥←「世界の中における日本」の立ち位置を確り自覚する為
 ⑦世界平和推進の為、日本の果たすべきことを認識し実践する‥←世界の主要国の一つとしての責任を果たし日本の存在感を示す


【後記】冒頭でご紹介させて頂いたお三方以外の皆さんも今後随時ご紹介して参りたいと思います。
 08月13日の《クラス会》の出欠につき、Pending を含め、極力 mail でのお返事を頂戴出来れば幸甚です。奮って mail を下さい。
 白井君、二橋君、守田君、mail での回答、ご協力どうも有難うございました。
 お三方以外の【2637の会】members の皆さん、宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m
 では、また‥。(了)

2011年6月10日 (金)

【時習26回3-7の会 0345】~「【2637の会】《クラス会》 in 豊橋 2011 開催に向けて」「06月05日:豊橋美術博物館『ポーランド ヨハネ・パウロⅡ世美術館所蔵作品による~canvasに描かれた女性たち』展を見て」「松原久子著『驕れる白人と闘うための日本近代史』第十章~十六章(完)」

■皆さん、お元気ですか。今泉悟です。【時習26回3-7の会 0345】号をお届けします。
 今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に「【2637の会】《クラス会》in 豊橋 2011 開催に向けて」です。
 08月のお盆まであと2箇月余りになりました。今年も【2637の会】members の皆さんと旧交を温め度、ご案内申し上げます。
 今年のお盆の土曜日は、08月13日(土)です。
 この日に target を絞り、ご案内させて頂き度思います。振るってご参加下さい。
 尚、今年も08月参加が無理な方々の為に、11月の土曜日〔‥現状、19日か26日を考えています‥〕に「PartⅡ」も企画しています。
 つきましては、「出来れば08月と11月の両方共」、それが難しい場合は「08月か11月のいずれか都合のいい一日」を【時習26会3-7会】《クラス会》で楽しいひとときを過ごしましょう。
 ご案内は、別便の mail を、今回【2637の会】memberお一人ずつ個別に配信しますので、その「返信 mail」でお返事を頂戴できたら幸甚です。m(_ _)m
 往復はがきを出す手間が省ける分、大変助かりますので‥。

■さて、今日続いての話題は、去る06月05日(日)、地元の豊橋美術博物館にて05月21日~07月10日まで開催中のポーランド・ワルシャワ(Poland Warsaw)にある『ヨハネ・パウロⅡ世(Johannes PaulusⅡ)美術館所蔵作品による~canvasに描かれた女性たち』展を見て来ましたのでご報告致します。
 本展は、Poland のという5つの theme で構成された61点の作品で構成されている、と leaflet にあります。更に leaflet の副題にある様に「『女性』の肖像画」が主題であるだけに、「優雅さ(elegance)」や「甘美(sweet)な趣」が魅力的な展覧会です。
 16世紀から今世紀初頭迄の五百年間に亘る画家達の競演だけあって、恰も美術史の time tunnel に張り込んだ様な錯覚に陥りました。
 本展に出展されている特に著名な画家を年代順に挙げますと、
[01]アンソニー・ヴァン・ダイク(蘭Anthony van Dyck;1599-1641)『エジプトへの逃避途上の休息』1637年

011637

–––––––––––––––––––––––––[02]レンブラント・ファン・レイン(蘭 Rembrandt Harmensz van Rijn)『襞襟を着けた女性の肖像』1644年
021644

[03]バルト―ロメ・エステバン・ムリーリョ(西 Bartolome Esteban Murillo;1618-1682)『聖母子』制作年不詳
03

–––––––––––––––––––––––––[04]ジャン=マルク・ナティエ(仏 Jean-Marc Nattier;1685-1766)『花の神フローラに扮する女性』1753年
041753

[05]フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(西 Francisco Jose de Goya y Lucientes;1746-1828)『水を運ぶ女性』制作年不詳
05

[**]ジャン=バティスト・カミ―ユ・コロ―(仏 Jean-Baptiste Camille Corot;1796-1875)『砂漠で罪を償うマグダラのマリア』1874年頃

–––––––––––––––––––––––––[06]ウィリアム=アドルフ・ブ(ー)グロー(仏 William Adolphe Bouguereau;1825-1905)『美しいブルネットの女性の肖像』1898年
061898

の以上です。〔[01]~[06]添付写真参照〕
【小生comment】
 著名画家の名品の数々‥、如何でしたか? レンブラント、ムリーリョ、ナティエ、ブ(ー)グロー‥、いずれも女性の美しさを夫々上手く表現していてとても素晴らしいですね。

■さて続いての話題です。先週お伝え出来なかった、連載中の「松原久子著『驕れる白人と闘うための日本近代史』第十章~十六章(完)」をお届けします。
 今日で、松原氏の作品紹介は完了です。volume が多いので、ご紹介する内容をかなり端折ます。ご理解下さい。

【第十章】通商条約の恐ろしさ:日本はなぜ欧米との「通商関係」を恐れたか
 何故日本人は近代への飛躍を急ぎ、慌ただしく実行したのだろうか。〔中略〕
 〔【小生注】それは、〕日本人の視点からすれば、世界は脅威に満ちて見えた〔【同】からである〕。
 【同】要するに、鎖国時代の日本においても、18世紀半ば以降、西洋列強諸国の Asia 進出が本格化し日本にも押し寄せて来たのである。英仏蘭は夫々三国の東インド会社から、またRussia はSiberia 東征により北方から‥。

 〔【同】松原氏は続けて以下の様に述べている‥〕Perry の黒船が現れる数十年前から、西洋の旗を掲げ、発砲準備の出来た大砲を備えた外国船が次々と日本の海岸に姿を現し、日本の港に入って来ていたのである。
 それは Russia から始まった。
 〔【同】まず、日露両国の関係は、「元文(げんぶん)の黒船(=1739年夏、牡鹿・房総半島、及び伊豆下田等に Russiaの探検船が来航した事件から始まった。そして、)女帝エカテリーナ(Ekaterina)二世の message を携えて Russia の商船が日本へやって来たのは1778年のことだった。
 以後1792年に再来後は1852年まで何度も日本にやって来た。武力行使の威嚇を以てして通商の認可を迫ったが、日本は応じなかった。この間、Russia は Siberia 全土を占領し、同国の猟師と毛皮商人は Alaska と米国西海岸に沿って今日の San Francisco に至る地域に根拠地を設けていた。Russia 帝国は樺太を占領し、中国の沿海州まで南下して来た。Russia は日本の最大の脅威国になっていたのである。
【同】この間、日本が西洋列強の Asia 進出について全く知らなかった訳ではない。
1781年 医師・経世家(経済学者)工藤平助(1734年-1801.01.24)がRussia研究書『赤蝦夷(あかえぞ)風説考』を刊行
1787年 経世家、林子平(1738.08.06-1793.07.28)がRussiaの南下政策に危機感を抱き、海防の充実を唱える為『海兵談』第1巻を刊行、1791年全16巻を刊行
【同】以上2つの文献は、我々も高校の日本史で習いました。これ等の名前をご記憶の方も少なくないと思います。
【同】このほか1853年のPerryの黒船来航までの間、外国船の渡来状況を列挙すると以下の通りですが、その数が如何に多かったが解ります。
1796年頃 英国の測量船が渡来
1803年 一隻の米国船が長崎に渡来し通商許可を要求するも、幕府は拒否
1808年 【フェートン(Phaeton)号事件】〔Napoleon時代、仏国支配下にあった〕オランダ船と偽って英国軍船が長崎港に入港し、蘭人を襲撃した事件があった。以後英国船は何度も〔1814年長崎入港、1818年・1822年浦賀入港〕来航し貿易を要求 ←幕府は海岸線の防衛施設を増強し、新しい大砲を戦略的に重要な場所に設置
1824年 英国捕鯨船団が江戸の北東150km地点に上陸 ←英国人は糧食の供給を得て立ち去った
1837年 【モリソン号事件(Morrison Incident)】米国商船 Morrison 号が江戸湾に入港し、7人の日本人漂流民の送還と通商を要求 ←幕府は砲撃して拒否
1839年 【蛮社の獄】渡辺崋山、高野長英らが、鎖国政策の幕府を批判し刑に処せられる
〔1840~42年 【アヘン戦争】〔←後述する〕〕
〔1845年 1836年 Mexico から独立宣言していたTexas が米国に併合される〕
1846年 米国小艦艇部隊が江戸湾渡来 ←幕府は退ける
〔1848年 米墨戦争により California, New Mexicoと Arizonaの大半が米国に併合される〕
1848年以降 英国が何度も来航し最後通牒の形で開国を要求、測量船が江戸湾の航海路や水深を測量
1852年 Russia が開国へ向け最後通牒

 〔【同】大航海時代以降の西欧諸国の流れを少し復習して見ると‥〕Portugal人〔【同】ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, 1469年頃 - 1524.12.24)が1497年07月リスボン(Lisbon)を発ち、1498年05月Indiaのカリカット(Calicut)に到着後、1499年09月Portugalに帰国。彼は2回目を1502年に、1524年3回目の航海の際Indiaのゴア(Goa)にて客死〕がインド洋(Indian Ocean)に出て Arab人に勝利すると、欧州の他の海洋諸国が後に続いた。英仏蘭、そして Denmark である。〔中略〕
 しかし、Orient との交易に関しては、基本的には〔【同】インド航路開拓〕以前と殆ど状況は変わらず、〔中略〕〔【同】代金決済の為に欧州の〕海洋諸国はどうしたら出来るだけ多くの金銀を手にすることが出来るか考えねばならなかった。
 英国は、ムガル(Mughal)帝国が弱体化する中、1757年「プラッシー(Plassey)の戦」や「カーナティック(Carnatic)or(カ―ナータカ(Karnatak))地方(【同】Indiaの南部で、セイロン(Ceylon)島の向かい岸にあたる地域)での戦(第1次~3次、1744~1763年)」において、英国は仏国を破り India における優勢を確立した。また、英国がMughal皇帝からBengal 州やビハール(Bihar)州の徴税権を獲得(1765年)したことは、英国による India 植民地支配の第一歩となった。

【同】余談だが、英国がIndia との「貿易」→「植民地支配」への画期(epoch-making)となったこの史実については、2006年の東大入試に以下の「設問」として出題されている。
⇒【設問】インド洋地域で、イギリスやフランスの東インド会社は、インド綿布を中心にした「貿易活動」から「植民地支配」へと進んだ。18世紀半ば頃のイギリス東インド会社によるインドの植民地化過程を、フランスとの関係に留意して4行以内で説明しなさい。

 英国の東インド会社は、その後 India 支配を強化。Bengal と Bihar 両州は、綿花栽培するだけの広大な土地と化してしまった。そして同社が次にやったことは、India における繊維生産の手工業を潰すことであった。理由は単純明快。〔中略〕英国の繊維工業の利益と発展の為にである。英国はこれにより同時に2つの目的を達成した。一つは、英国は殆ど無限にと言ってよいくらい India から原綿の供給を受けることが出来る様になった。India の繊維産業が潰されてしまったからである。もう一つは、India は、英国の織物製品を購入する一大市場となったことである。
 India 全土を軍事的に制圧した為に、英国は原綿の購入価格も綿製品の販売価格も独断で決めることが出来た。〔中略〕英国で1980年発行の歴史事典には、この時の状況が次の様な一文で簡潔に記されている。
「India の古来の繊維工業は、19世紀に欧州からやって来た「機械」織りの繊維製品によって、India にとっては都合の悪い影響を受けることとなった」。

 鎖国によって日本は、世界から遠く離れていたにも関わらず、幕府はAsia 大陸の南部で何が起こっているかについて正確な情報を収集していた。〔中略〕
 〔【同】これは、〕こういった情報を、幕府は長崎の出島にいるオランダ人と中国人から定期的に得ていた〔【同】からである〕。〔中略〕
 日本人が恐怖を覚えたのは、事が全て何事もなく始まったことであった。〔中略〕
 西から海を越えてやって来た白人たちと単に「通商条約」を持ったことから始まった。
 日本人を不安にしたのは、貿易を行っていく内にその白人たちは〔中略〕一歩一歩、影響力と権力を広げていったことだった。〔中略〕
 最初の欧州の商人が India の地を踏んでから丁度300年経って、白人は全 India を完全に手中に収めたのであった。〔後略〕

【第十一章】茶の値段:アヘンは「中国古来の風習」だと信じている欧米人
 多くの欧米人は、中国がかつてアヘン中毒の国であったことを未だに記憶している。〔中略〕
 中国では18世紀末までアヘンの悪用は、その徴候もなかった〔中略〕のに、それは何故か。

 東インド会社は既にかなり長い間、茶貿易を行っていた。
 1664年前後に時の国王CharlesⅡへの献上品が始まりという。このお茶が人気を博し、1720年前後には、英国の茶の需要は絹と木綿を抜いて、東インド会社が母国に送る商品の金額第1位になる程増大した。中国はその主要供給国となった。東インド会社は茶を広東で買わなければならなかった。〔中略〕
 しかし欧州側に、かつてと同じ困った問題が浮上して来た。英国が提供する商品には、中国人の購買意欲をそそるものは何もなかったので、英国は茶が欲しければ、銀で支払わなければならなかったのである。
 更に欧州の王侯貴族たちが、茶ばかりでなく〔中略〕絹・磁器・屏風・lamp・漆の家具等を競い合って買い求めた。その結果、銀の流出は限度を越え、東インド会社の18世紀中の支払超過は1億ポンド(pounds)という当時としては天文学的数字の金額となった。

【同】ジックリとお話したいのですが、この儘いくといつまで経っても終わりそうにないので、ここからはかなり端折ります。

 英国の東インド会社は、莫大な貿易不均衡を是正する為に、非合法販売 route を通じ、腐敗した中国の役人たちを買収しアヘン供給網を確立した。
 この経済的成果は期待以上だった。India におけるアヘン栽培は東インド会社の独占。中国におけるアヘン常習者は増加の一途を辿り、1815年からは英国の対中国の貿易収支は大幅に改善した。
 18世紀末、清国政府もアヘンを輸入禁止としたが、その後も密輸入は増え続けた。清国政府指令の下、1839年特命大臣林則徐(りんそくじょ)が広東でアヘンの密輸を取締まった。彼は、2万箱以上、売買金額にして当時、400万pounds のアヘンを廃棄させた。
 〔【同】清国政府はアヘンという非合法物資を処分したのに過ぎないのであるが、〕London では各新聞が、英国の財産を廃棄するとは卑劣なやり方だ、度を超えた野蛮な行為だと非難した。英国王室を侮辱するものだと書きたてた。
 これに対し英国艦隊は報復に出た。アヘン戦争である。三年続き、中国の降伏で終わった。
 それに続く平和条約では、中国は英国に21百万pounds の賠償金の支払いと、香港割譲、新たに5港の欧州への開港、そして、欧米列強は今後アヘンを随意に中国に輸出する権利を有すると明記された。

 江戸幕府が不安だった理由は正にここにある。アヘン戦争を江戸幕府ほど高い関心を持って注視していた政府が世界の何処にあっただろう。〔中略〕
 日本が欧州の技術を早急に取り入れた動機は、〔中略〕欧米列強の隠れた意図に対する不安にあったと言わねばならない。そしてその不安と不信感が日本人をかくも大急ぎにさせたのであった。〔後略〕

【第十二章】ゴールドラッシュの外交官:不平等条約で日本は罠に陥った
【同】江戸幕府は、通商条約締結に際し、隣国中国のアヘン戦争の教訓からアヘン輸入を阻止出来たが、別の罠を見過ごしてしまった。
 それは、金と銀との交換比率が、当時の国際基準〔金1=銀15〕と日本〔金1=銀05〕が違うことに目を付けた米国総領事ハリスは「どの通貨でお金を受け取るか決める権利を白人が持つ」とした。これにより日本は大惨事に見舞われた。欧米人が銀を持参し、日本で金に替え、その金を上海に持って行き銀に替える。この為替差益で瞬時〔上海と日本を1往復しただけで〕に富を3倍にするという gold rush が現出したのである。
 その結果、日本は初めての大きな経済危機に陥った。食料品価格を始めとして商品価格が高騰した。鎖国時代には体験したことのない貧困と悲惨が、日本全国に広がったのである。
 日本は植民地になった訳ではないが、条約から見れば、植民地として扱われたといっても過言ではない。

【第十三章】狙った値上げ:関税自主権がなかったために
 「治外法権」の撤廃と「関税自主権」の回復が明治政府の悲願だった。「関税自主権」がなかった為に、輸入関税は一律5%とされていた。この為日本は苦肉の策乍ら、流通を幾重にも重ね、それに係る cost を上乗せして輸入品の値段を引き上げ国内産業を保護したのである。

【第十四章】頬髭(ほおひげ)とブーツ(boots):欧米と対等になろうとした明治政府
 幕末から維新にかけて渡英した伊藤博文や井上馨等、のち明治政府の要人となった者たちは、産業革命を経て飛躍的な経済発展を遂げた欧米列強の強さと経済の懐の深さを痛感させられた。井上馨が提唱・実践した所謂「鹿鳴館時代」は結局失敗に終わる。これは結局の処、日本に欧米列強に伍する『軍事力』がなかったからである。

【第十五章】猿の踊り:日本が欧米から学んだ「武力の政治」
 明治新政府は、1871~73年にかけ「遣欧使節団」をして条約締結国12箇国〔米/英/仏/独/露/伊/蘭/墺/Belgie/Denmark/Sweden/Suisse〕全てを歴訪させた。しかし何の成果もなく帰国した。
 これを解決したのは結局の処『軍事力』である。
 1895年日清戦争に勝った日本は、「台湾の日本への割譲」、「巨額な賠償金獲得」、「中国に「朝鮮」を独立国として認めさせた」。
〔【同】これにより日本は「朝鮮」に自由に進出出来る様になった〕。これはその数年後、欧米列強が日本に於ける「治外法権」を撤廃することに繋がった。
 日本は更に、幕末に日本が欧米列強と結ばされた通商条約と同じものを朝鮮と締結した。日本が欧米列強の側に立って。
 更に1905年、Russia が懸命に防衛した旅順要塞の攻略、対馬沖で Russia の Baltic 艦隊の撃滅、により日本が Russia を打ち負かしたという News が世界を震撼させた。
 その後日本は、1910年朝鮮を併合し、遂に幕府が1858年通商条約を結んでから53年後の1911年関税自主権を回復した。悲願の『不平等条約撤廃』を実現したのである。〔中略〕欧米人が有史以来発達させて来た紛争の解決方法で、日本も欧米との紛争を解決しようとしたのだった。即ち、『軍事力』によって。

 広島と長崎に原子爆弾が投下され、1945年の夏、日本は無条件降伏した。〔中略〕
 突然日本は欧米から、よりによって欧米から、憲法に従って平和を愛好し、軍事的な突飛な行動を放棄せよという処方箋を頂戴した。
 新憲法は、日本は永久に陸軍も海軍も空軍も持ってはいけないと決めている。この憲法は今なお効力を持ち続けている。
 未来は平和でなければならない。〔中略〕これが日本に処方された薬であった。
 日本人は薬を飲み、直ぐに気分が良くなった。忘れてしまっていた遠い過去に返った様な安心感を味わった。

【第十六章】縦糸と横糸:今なお生きる鎖国時代の心
 相変わらず日本には、「個人主義」が定着していないと言われる。〔中略〕
 一方米国では、この「個人主義」という言葉が次第に肯定的な概念に変わっていった。〔中略〕〔【同】西部開拓時代を通じて〕生存競争に勝ち抜き、全大陸を我が物とした実績から「生存力のある人間には、自己の行動に対する尺度が心の中に備わっている」という考え方が育成されていった。
 「個人主義」者は、正邪善悪を自分自身で承知している、と言うのだ。
 しかしこの考え方も現代では行き過ぎとなった。「個人の自由」を希求することが本当に人間を幸福にしたのだろうか、という論争が米国で始まっている。
 〔【同】即ち、〕生存空間が無限にあり、資源が限りなく利用出来るという条件下に築かれた古い「個人主義」はゆっくりと消滅し、その代わりに連帯、仲間意識を求める声が湧き上がって来ている。利害・関心の共有、住民運動、teamwork、これ等は全て古い type の「個人主義」とは相容れない概念である。
 それは丁度鎖国時代の日本が、200年以上もの間体験したのと同じ状況である。何処か別の所へ出ていくことが出来ず、過密状態の中で、日本の社会は生き延びる工夫をしなければならなかった。〔中略〕
 〔【同】我が国日本には、〕もし皆が自我を全てに優先してしまったら、社会は崩壊するという鎖国時代の感覚が一貫してまだ生きているのである。
 地球上の人間はやがて100億人になるだろう。人間は生きていく空間と資源を分かち合わねばならない。例え浪費を慎み、環境を大切に扱ったとしても、いつの日か必ず限界が来る。そのことに心を留めて、今一度、日本の歴史が培って来た知恵に目を向けてみるべきではないだろうか。(了)

【小生comment】
 以上で、松原氏の『驕れる白人と闘うための日本近代史』の全文の概略をご紹介させて頂きました。
 解り易く、日本の近代史を少し違った角度から論じてくれました。
 皆さんはどう感じられましたか。
 以上を踏まえて、次号《会報》では、藤原正彦氏の『日本人の誇り』の核心に迫って参りたいと思います。(了)

 冒頭でもお伝えしました様に、今夏08月13日(土)開催予定の【2637の会】《クラス会》のご案内を、この《会報》を配信した後順次、【2637の会】membersの皆さんお一人おひとり宛に mail させて頂くつもりです。
 08月13日の《クラス会》の出欠につき、Pending を含め、極力 mail でのお返事を頂戴出来れば幸甚です。
 宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m
 では、また‥。(了)

2011年6月 5日 (日)

【時習26回3-7の会 0344】~「05月28~29日:『中嶋君&谷山君等との七尾城跡・總持寺祖院・金沢城&史跡巡り』実施報告」「05月30日:『御厨貴講演会「日本政治のゆくえ」』を聴いて」

■皆さん、お元気ですか。今泉悟です。【時習26回3-7の会 0344】号をお届けします。
 気象庁は05月27日、東海地方と関東甲信地方が梅雨入りしたとみられると発表しました。東海地方の梅雨入りは平年より12日、昨年より17日早く、統計開始以来では3番目の早さだそうです。
 時節も明日06月06日は『芒種』。旧暦五月(皐月)の節気で、稲や麦など、芒(のぎ)のある穀物の種蒔きをする頃を言います。

■さて、今日最初の話題は、前《会報》でお話した様に、掲題・副題にあります様に、05月28(土)~29(日)の両日『七尾城跡・總持寺祖院・金沢城跡と金沢市内史跡散策』を中嶋君【3-2】、谷山君【3-3】、青木さんの3人で巡って来ましたのでご報告致します。
 これは、4人で毎年春と秋の2回、1泊2日で実施している「城址・社寺仏閣・温泉巡り」の旅です。
 因みに昨春は、06月05~06日:『信州・川中島古戦場』を中心にでした〔【時習26回3-7の会 0294】ご参照〕。

【行程 一日目】
 07時00分 中嶋君が車で拙宅に迎えに来てくれた。
 途中、青木さん、谷山君宅に立ち寄り2人を pick upし、音羽蒲郡IC〔東名高速〕→米原JCT〔北陸自動車道〕→金沢西IC〔→一般道→能登有料道路〕→ ‥
 我々は、昼食休憩節約の為、おにぎりを車中で食し、その儘「七尾城跡」を目指した。
 豊橋を出発して〔‥トイレ休憩を含め‥〕約6時間半、走行距離は370kmを超えていた。
 13時25分 まず『七尾城史資料館』に立ち寄った。そして‥
 13時40分 そこから南南東へ4kmの所にある『七尾城跡』着。

[01]七尾城跡・本丸へ向かう山道にて
01_2

 ご覧の通り、城址本丸への道は整備され綺麗だった〔写真[01]参照〕。石垣が急峻な山肌に沿った形で幾重にも築かれていた〔同[02]参照〕。

[02]七尾城跡・本丸に至る野面積の石垣の前にて
02_2

 本丸跡地での記念写真です〔同[03]~[05]参照〕。

[03]七尾城跡・本丸跡の石碑前にて20110528
0320110528_2

[04]七尾城跡・本丸・情景01
0401_2

––––––––––––––––––––––––[05]七尾城跡・本丸・情景02
0502_2

 『七尾城』と言えば、まず頭に浮かぶのが戦国の名将上杉謙信作として親しまれている『九月十三夜』という漢詩である。
 この詩は、謙信が1577(天正五)年九月十三日『七尾城』を落とし、2日間兵を休息させた時に詠んだ詩である。
 『七尾城』は、能登国守護の畠山満慶(みつのり)が正長年間(1428-1429年)頃にこの地に築いたとされる。その末裔の城主畠山春王丸は同年7月に疫病で落命している。

 九月十三夜 上杉謙信

霜滿軍營秋氣淸 〔霜は軍営に満ちて 秋気(しゅうき)清し〕
數行過雁月三更 〔数行(すうこう)の過雁(かがん) 月 三更(さんこう)〕
越山幷得能州景 〔越山(えつざん) 并(あわ)せ得たり 能州(のうしゅう)の景〕
遮莫家鄕憶遠征 〔遮莫(さもあらばあれ) 家鄕(かきょう)の遠征を憶(おも)ふを〕

【意】真白い霜が陣営に降り、晩秋の気配は清々しい。
 数本の雁行(=空を飛ぶ雁の行列)に、十三夜の月(=ほゞ満月)が中天にかかっている。時は三更(=午前零時頃)である。
 越後・越中(のある我領国)の山々に加え、(今回の戦により)能登国で(名月鑑賞する)場を得て(その)情景(を味わっている)。
 郷里では(今回の)遠征を心配しているだろうが、(家族の思いは)その儘にしておこう。(今夜の能州の月は格別であり充分に味わいたい)。

【注】九月:新暦11月頃をいう。三更:初更(午後8時)、二更(午後10時)、三更(午前0時)、四更(午前2時)、五更(午前4時)。

 『七尾城』と言えば、上杉謙信の詩以外に、三橋美智也が「松風さわぐ 丘の上 / 古城よ独り 何偲ぶ ‥」と唄った『古城』〔高橋掬太郎作詩、細川潤一作曲/昭和34年作〕が有名である。
 七尾城史資料館前庭にこの詩碑があった。〔写真[06][07]参照〕

[06]高橋掬太郎 詩碑「古城」解説
06_2

––––––––––––––––––––––––[07]高橋掬太郎 詩碑「古城」
07_2


 14時20分 『七尾城跡』を出発。
 次に我々は北北西に進路を取り、更に60km先にある輪島市に向かった。
 15時30分 『總持寺祖院』着

 この寺は、「永平寺」と並ぶ曹洞宗の2大本山の一つ。
 ※ 曹洞宗には、「承陽大師・道元禅師(1200-1253年)」開創の「永平寺」と「常済大師・瑩山(けいざん)禅師(1268-1325年)」開創の「總持寺」の2大本山があり、後者「總持寺」は更に、1321年に瑩山禅師が開創した「總持寺祖院〔←今回の訪問先〕」と、1898(明治31)年、旧・總持寺が火災全焼した為1907年に横浜市鶴見に移転建立した「大本山總持寺」の2つある。

 總持寺祖院を訪れてみて感じたことは、「流石に曹洞宗の大本山だけあって伽藍が雄大だ」ということであった。 〔写真[08][09]参照〕

[08]總持寺祖院 山門
08_2

––––––––––––––––––––––––[09]總持寺祖院 襖 山岡鉄舟筆の書の前にて
09_2

 当初、本寺への訪問は豊橋から遠方すぎて無理だと諦めていたのだが、訪問出来て良かった。
 豊橋から總持寺祖院までの走行距離は実に430kmを超えていた。

 16時30分 總持寺発
 17時45分 宿泊旅館の《和倉温泉:青海荘(せいかいそう)》着
 この温泉旅館は「源泉掛け流し」の温泉で一拍二食付き9,450円の割安感が魅力で止まったのだが、旅館の人に聞くと、「今は「掛け流し」がでなくなった。代わりに、旅館から1~2分の場所に04月29日に新築 open した『総湯』の入浴券を貰い、そこで入浴した。出来たばかりの綺麗な施設で銭湯気分で入浴出来て良かった。和倉温泉『総湯』のleaflet には、「泉質はNa.Ca‐塩化物泉、古くから呼吸器系疾患に効くことで知られ、少量飲むことにより慢性消化器病に効く」とあり、小生早速飲んでみた。確かに辛く苦い。Na.とCaが含まれていることが直ぐ解った。

【行程 二日目】
 08時15分 青海荘を出発した我々は南へ75kmの金沢へ
 09時45分 予定していた【金沢市役所・美術館駐車場】着
 この駐車場から金沢城公園&兼六園まで3~4分と近くて便利。この駐車場から徒歩で以下の 史跡名勝を散策した。
 09時50分 金沢21世紀美術館〔『ミュシャ(Mucha, Alfons)展』を併せて見た〕
 この美術館は瀟洒な建造物で、建築家である谷山君が是非見てみたいと所望していた所である。実際に見て確かにカッコいい。〔写真[10a][10b]参照〕

[10a]金沢21世紀美術館
10a21_2

––––––––––––––––––––––––[10b]金沢21世紀美術館 案内看板
10b21

 開催中の『ミュシャ』展は、訪問日の前日05月28日から始まったばかりだった。彼(1860.07.24-1939.07.14)はチェコ人。アール・ヌーボー(art nouveau)の代表的画家として活躍。ご覧の様に美人画のリトグラフの poster が彼の真骨頂。〔写真[11a]~[11f]参照〕

[11a]ミュシャ展 leaflet
11a_leaflet

––––––––––––––––––––––––[11b]ミュシャ『四芸術:ダンス』1898年
11b1898

[11c]ミュシャ『羽根』1899年
11c1899

––––––––––––––––––––––––[11d]ミュシャ『桜草』1899年
11d1899

[11e]ミュシャ『一日のよっつの時:朝の目覚め』1899年
11e1899

––––––––––––––––––––––––[11f]ミュシャ『一日のよっつの時:昼の輝き』1899年
11f1899

 11時00分 金沢城公園「いもり堀」をまず見た〔写真[12]参照〕

[12]金沢城跡いもり堀
12_2

 11時06分 「真弓坂口」から【兼六園】に入る
 11時14分 『時雨亭』
 11時25分 一旦【兼六園】を出て隣接する『成巽(せいそん)閣』に正門から入館する→12:00発〔写真[13]~[15]参照〕

[13]成巽閣 中庭情景1
13_1_2

––––––––––––––––––––––––[14]成巽閣 中庭情景2
14_2_2

[15]成巽閣内・庭園を前にして
15_2

 12時10分 『唐崎松』の前にて〔写真[16]参照〕:この松は13代藩主斉泰(1822-66年)が琵琶湖の松の名所の唐崎から種子を取り寄せ育てたものという。

[16]兼六園 唐崎松の前にて
16_2

 菖蒲とサツキの花々が雨の中、凛として咲いていた。美しい。〔写真[17]blog参照〕

––––––––––––––––––––––––[17]兼六園の季節の花々
17_2

 この辺りから雨足が強くなる‥「雨の金沢かぁ、これも風流じゃぁ‥」(笑) 実際、新緑の青さが雨に濡れ際立って綺麗だった。

 12時20分 【兼六園】を「桂坂口」から出て目の前の【金沢城公園】『石川門』〔写真[18]参照〕から場内に入る

[18]金沢城公園 石川門
18_2

 12時37分 『菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓』〔写真[19]blog参照〕(‥1881年焼失したが2001(平成13)年復元‥)内部を見学

––––––––––––––––––––––––[19]菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓
19_2

 この時、雨足が一番強く、外からジックリ見ることが出来なかったのがチョッピリ残念。この為添付写真[19]が「菱櫓」「橋爪門続櫓」のどちらか不明の儘撮影。もしご存知の方、教えて頂ければ幸甚です。m(_ _)m

 13時03分 【金沢城公園】を合同庁舎前から出て「尾山神社」近くのラーメン店で昼食[13:15-13:45]をとった。
 14時00分 【長町武家屋敷跡】area に到着。[14:02]まず一番北にある『金沢市足軽資料館』→[14:05]『旧加賀藩士高田家跡』→[14:07]『長町武家屋敷休憩館』と足早に通り過ぎる
 14時10分 『武家屋敷跡野村家』に立ち寄る。
 野村家は1200石取りの御馬廻組組頭、各奉行を歴任した野村伝兵衛信貞が1583(天正11)年藩祖前田利家が金沢城に入城した時に直臣として従った。明治04年の廃藩置県まで11代に亘って前田家に使えた由緒ある家柄。
 添付写真をご覧頂くとお解りの様に、雨に濡れた中庭が楚々として何とも言えぬ上品な趣を醸し出していた。〔写真[20][21][22]参照〕

[20]長町武家屋敷 野村家 中庭1
20_1_2

––––––––––––––––––––––––[21]長町武家屋敷 野村家 中庭2
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[22]長町武家屋敷 野村家 中庭をbackに中島君と
22_back_2

 14時26分 野村家を跡にした我々は、【長町武家屋敷跡】を流れる「大野庄用水」と「土塀」の中〔写真[23][24]参照〕を散策

[23]長町武家屋敷を流れる大野庄用水と土塀
23_2

––––––––––––––––––––––––[24]長町武家屋敷の土塀をbackに
24back_2

 14時40分 〔‥当初計画通りの時間に‥〕駐車場着‥→帰途へ〔20時40分拙宅着〕
 二日目は雨に見舞われたが、「雨の金沢」も結構良く、大変有意義な二日間の旅行であった。

■さて続いての話題です。小生、05月30日、都内某所にて開催された「御厨貴(みくりや たかし)講演会『日本政治のゆくえ』」を聴いて来ましたのでその概要についてご報告させて頂きます。

[25]御厨貴氏
25

 御廚貴氏については、2011.04.24付《会報》【0338】にてご紹介していますが、東京大学先端科学技術研究センター教授で、現・東日本大震災復興構想会議・議長代理を務める。関東大震災の時、「帝都復興院」総裁を務め、災害復興に一定の成果をあげた後藤新平の研究でも知られる。
 講演会の模様は、添付資料をご覧下さい。

 以下その概略を記します。

 御厨氏による講演会の演目は『日本政治のゆくえ』ですが、氏が講演会の締め括りで「『(日本政治の)現状はこうだ』ということでお話した」とある様に、「現代の劣化した『日本の政治』について」と言ったほうが的を得ている。以下、あらすじを記す。

 小沢の献金問題、鳩山の普天間に表象される対米国策失敗で相次いで倒れた後を受け登場した菅内閣であるが、殆ど政治的命脈を絶たれ様とした正にその時(03月11日)、東日本大震災が発生し、暫時命脈が保たれた。
 自民党の長期政権が齎した政治体制の劣化。これを打破する為に政権の座に就いた民主党だが、実態は更に日本政治が劣化してしまった。
 自民・民主の二大政党制での政治の進化を期待したのだが、実際は徒に政争を繰り返しているだけの為体(ていたらく)が続いている。
 安倍晋三から歴代短命内閣が今まで続いているが、ここまで日本政治が劣化してしまったのは。若い政治家達に戦争体験がないからだ。
 人は、「戦争」や「大震災」を体験すると人生観が(時に死生観までも)変わる。〔中曽根までは「戦争」体験が人生観の底辺を形づくっていた〕
 それ故、今回の「大震災」経験により、若い世代も含め長かった『戦後』時代に終止符を打つことが出来るかもしれない。
 これまでの日本人の心に植え付けられていた「大災害は起こらない」と考える多くの日本人の(安全安心を過信するボケた)感覚や「日本国憲法第9条による平和主義日本」として、外国に軍隊(自衛隊)を出さない、と日本を縛っている(ある意味で偏狭な)平和主義という考え方が変わっていくものと思われる。
 今回の内閣不信任問題だが、私(御厨)は菅首相をよく思っていない。だが、「復興第一」である今、内閣不信任案を成立させていいかと言えば、良くない。
 かつて、後藤新平が関東大震災の後、震災復興策を推進し、「ある程度の成果を出した」と言われる。これは、後藤が「人材登用」に成功したことが大きい。今の日本も、政治的「人材」を探してくる必要がある。求めている人材は必ず何処かにいる。(了)
【小生comment】
 小生、政治的発言は差し控えさせて頂くが、「東日本大震災を一日でも早く復興させるには何が一番いいか」については国民一人ひとりが真剣に考えて行かなければならないと思います。

■今日は、かなりの volume になりましたので、連載中の「松原久子著『驕れる白人と闘うための日本近代史』第十章~」は次号に譲りたいと思います。

 では、また‥。(了)


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