« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2011年9月の4件の記事

2011年9月24日 (土)

【時習26回3-7の会 0360】~「【2637の会】《クラス会 Part2》開催に向けて」「09月11日:『岡崎史跡巡り〔その1〕北西篇〔後編〕』実施報告」

■昔から「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったものです。
 台風15号も漸く日本列島から遠ざかり秋のお彼岸に相応しい涼しい週末となりましたが、皆さんは如何お過ごしですか?
 今泉悟です。今日も【2637の会】《会報》【0360】号をお送りします。
 前号の「時習26回ミニミニ同期会」開催報告の中で【2637の会】《クラス会 Part2》開催日程について、11月の下旬〔19日(土)か26日(土)〕に開催したい旨提案しました。もうあと2箇月となりましたので、昨年参加して下さった皆さんはじめ【2637の会】members の皆さんに8月の《クラス会》のご案内同様、個別に mail を配信しようと思います。今年も振るってご参加下さい。
 因みに、小生の希望は、第一候補日11月26日、第二希望日11月19日です。ご参考までに。m(_ _)m

■さて今日も、前《会報》に引き続き、「細川氏&徳川氏の故郷【岡崎巡り北西篇】」の後編の模様をお届けします。行動範囲は岡崎市内なので狭いのですが、訪問箇所が多いので今日の《会報》も結構な volume になってしまいました。ではどうぞ‥

 当初予定訪問地【百々城址】が見つからなかった為、我等4人が訪れた5つ目の史跡が【大樹(だいじゅ)寺】である。
 文明07(1475)年、松平四代親忠(ちかただ)が、勢誉愚(せいよぐ)上人を開山に創建した、松平家と徳川将軍家菩提寺である。
 境内に入り、「本堂前から後ろを振り返ると「山門→総門」越しに『岡崎城』が見える」と言われていたので、実際にそうしてみたらその通りお城が見えた。〔添付写真[02]参照〕
 本堂から墓地を通り抜け北に行った所に『松平八代廟所』がある。
 先述の四代親忠が大樹寺創建時に先祖三代〔[1]親氏 [2]泰親 [3]信光〕を移祭したのが始まり。
 徳川二代将軍秀忠が、家康公一周忌に〔[4]親忠 [5]長親 [6]信忠 [7]清康 [8]広忠、の墓を加え〕先祖松平八代の廟所を再建。
 昭和44年、岡崎市民により家康公の遺品を納めた墓と顕彰碑が建立された。
 また、境内の南西方角に大樹寺の中で最も古く品格ある建物『多宝塔』(天文04(1532)年清康が建立)がある。
【小生 comment】
 松平八代廟所の石塔は、初代親氏から三代信光が「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」、四代親忠から七代信忠が「五輪塔」、八代広忠が「無縫塔」の三種類に分かれていたのが面白かった。
 今回は本堂の中は拝観しなかったが、そこには家康から14代家茂までの歴代将軍の等身大の位牌が祀られている。次回は是非見てみたい。

 [01]大樹寺山門[11時32分]
01

 ––––––––––––––––––––––––[02]本堂前から山門→総門越しに見える岡崎城
02

 [03]大樹寺本堂前にて
03

 ––––––––––––––––––––––––[04]松平八代廟所〔向かって右端が初代親氏墓〕
04

 [05]松平八代の墓前にて
05

 ––––––––––––––––––––––––[06]多宝塔〔国 重文〕
06

 次に向かったのが、大樹寺から国道248号線を南へ約1.4㎞、車で05分程の〔岡崎市井田町城山『城山公園』〕にある【井田(いだ)城址】。徳川四天王筆頭【酒井忠次生誕地】である。
 酒井氏と忠次について前会報でもお伝えしたが、「岡崎史跡と文化財めぐり」(同左編集委員会編)で次の様に説明している。

 松平初代親氏は、松平太郎左衛門信重の女(むすめ)婿になる前に酒井広親をもうけ、酒井家はそれ以来松平氏・徳川家の最も古い譜代となった。広親の子より「左衛門尉家」「歌楽頭」の二流にわかれ、「左衛門尉家」は三代信光の岩津進出と共に、広親の子氏忠・忠勝・康忠・忠親、更に家康四天王の忠次まで五代の居城となった。
 忠次は大永07(1527)年井田城内で出生、松平広忠の妹碓井(うすい)姫を妻とし、家康の惣先手(そうさきて)大将として武勇を轟かせた。慶長元(1596)年京都で没した。〔後略〕

 [07]徳川四天王
07

 ––––––––––––––––––––––––[08]「酒井忠次生誕地」石碑の前にて[12時00分]
08

 この日7つ目の訪問地は、井田城址から南へ0.6km、車で約03分の所にある【伊賀八幡宮】。
 ここも「岡崎史跡と文化財めぐり」の言葉を借りる。

 社伝によれば、後土御門天皇の文明02(1470)年、松平四代親忠が松平家の氏神として、武運長久、子孫繁栄を祈願する為、社を伊賀より三河国額田郡井田村(現在地)へ移したのに始まる。伊賀に因み伊賀八幡宮と呼び、地名を伊賀と改めた。
 永禄09(1566)年家康は、徳川復姓の許しと三河守に任ぜられたことを喜び、社殿を造営し、神殿の戸帳にその姓名を自筆して献納した。〔中略〕寛永13(1636)年、三代将軍家光が〔中略〕造営したのが今の社殿である。〔後略〕
【小生 comment】
 後日解ったことだが、伊賀八幡宮に国の重要文化財が多いのに驚かされた。本殿をはじめ、幣殿、拝殿、附宮殿1基、棟札4枚、透塀、御供所、随身門、神橋、鳥居等々。これ等の重文を一つひとつ確認出来なかったのがちょっと残念であった。

 [09]神橋(【注】石造りの橋)→随身門を背景に〔石鳥居下から撮影〕
09

 ––––––––––––––––––––––––[10]拝殿を望む
10

 次8つ目の訪問地は、伊賀八幡宮から南へ1.4kmの所にある【松應(しょうおう)寺】である。
 「岡崎史跡と文化財めぐり」の説明では以下の通りである。

 松平八代広忠は、天文18(1549)年、岡崎城内で岩松八弥(はちや)に殺された後その遺体を密葬された場所が能見原の月光院(【松應寺】)であると伝えられる。この年の11月、家康は、今川方の人質として熱田から駿府へ赴く途中、父の墓を拝し、墓の所在を示す為小松を植えた。
 永禄03(1560)年、桶狭間の戦の後、家康は岡崎城主となり、父の菩提の為墓の近くに寺を建立し、手植えの松が念願通り茂ったこと、人質の身であった自分が今独立して三河の地に再び帰ったことを喜び、寺号を松應寺と名付けたという。

 写真は、その家康が手植えした松の何代か後の松である(と思われる)。綺麗に手入れされていた松と、崩れかけた土塀の unmatched さが面白い。

 [11]松應寺へと続く商店街 arcade
11_arcade

 ––––––––––––––––––––––––[12]家康手植えの松の末裔(?)
12

 [13]崩れかけた土塀
13

 次が松応寺から更に南下すること1.1kmの所にある【大林(だいりん)寺】。ここには、松平七代清康(1511.09.28-1535.12.29)と八代広忠(1526.06.09-1549.04.03)、そして清康夫人春姫の墓がある。清康・広忠の生没年を記してみたが、二人共20代半ばに暗殺された悲運な城主である。
 訪れて感じたのは、嘗ては木造建築であった筈の寺院が鉄筋コンクリート造の為か無味乾燥な建物としか言い様がなく残念に思われた。
 清康・広忠・春姫の墓についてもそうである。境内墓地の片隅にあり手入れをされていることははっきり解ったが、歴史上名のある人物の墓が一般住宅を背景に立っていたのには情緒もなく興醒めした。
 
 [14]大林寺
14

 ––––––––––––––––––––––––[15]松平清康(中)・広忠(向かって左)・春姫(同右)の墓
15

 その日10番目の訪問地は、大林寺から西南西へ1.1㎞の所にある【八丁味噌の郷《カクキュー「史料館」》】。
 時計も13時を回っていたので、我等4人も流石に腹ペコである。
 史料館見学は後回しにして、史料館に近接している restaurant で昼食を摂った。小生以外の3人は味噌煮込うどん〔650円〕、小生はマーボ豆腐定食〔600円〕。勿論、カクキューの八丁味噌入りである。
 食した4人全員が、「味噌煮込うどん、マーボ豆腐いずれも上手かった」「値段も手頃」と納得の昼飯だった。
 史料館見学は、10時から00分と30分 start で30分間隔で行われており、我々が参加したのは14時00分の course であった。
 案内係のおばさんの説明は、年季が入っているのか大変上手であった。
 ここカクキューは、宮崎あおい主演のNHK朝の連続テレビ小説「純情きらり」([第74作]平成18年度前期)の舞台になったところとしても有名である。
 【八丁味噌とは?】
 皆さん、八丁味噌の名の由来をご存知ですか? これは、徳川家康誕生の「岡崎城より西へ八丁※の所(旧 八丁村(現 岡崎市八帖町))」ことから来ている。
 ※ 丁(ちょう)とは、1丁=109m ∴109m×8(丁)=872m
 製法は、大豆と塩のみを用いて大きな木桶に仕込み、代々使い続けて来た川石(丸石)を山の様に積み上げ重石とし、二夏二冬以上の間人の手を入れることなく只管(ひたすら)八丁の地の気候風土の中で熟成させてつくる。
 他の味噌と比べ、硬く、大豆の旨味を凝縮した味噌で、味は、少々の酸味と渋味、苦味ある濃厚な風味が特徴。
 岡崎市八帖町。この街区に八丁味噌 maker の老舗は「カクキュー」と「まるや」の2社。両社の創業は17世紀で、国内味噌 maker としても最も古い歴史を持つ。
 以下に添付写真を記すが、味噌工場敷地内を歩くと昔の日本の原風景があり、time slip した様な錯覚に陥った。

 [16]カクキュー「八丁味噌の郷」看板
16

 ––––––––––––––––––––––––[17]八丁味噌工場&史料館敷地内の一情景
17

 [18]味噌蔵入口見える八丁味噌樽群[14時32分]
18

 カクキューを後にした我々は、矢作橋を渡り西へ1.3㎞の所にある【矢作神社】へ。今日11番目の訪問地である。
 この神社の由来は、第12代景行天皇の御代日本武尊(やまとたけるのみこと)の東夷征伐(315年頃)に遡る。神社本殿前に置いてあった leaflet によると次の様にある。

 伝承では、地元民から賊の退治を依頼された日本武尊は矢作部(やはぎべ(=矢作り職人))達に矢作りを命じるも、材料の竹は急流の川の中州にあり採取出来ずにいた。するとそこへ一匹の蝶が現れ人の姿となり竹を切り取ってきた。矢作部達はこの竹で1万本の矢を作り、日本武尊は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祀り、賊を退治したという。この矢竹の一部が矢作神社にある矢竹の竹藪で、当該故事が矢作神社呼称の紀元とされる。
 また、建武02年11月25-27日(=1336.01.08-10)))に亘り、後醍醐天皇の命をうけた新田義貞が、足利尊氏旗下の足利直義・高師泰と戦った矢作川の戦で戦勝祈願を行った。その時、神社前にあった石が唸り、新田義貞が勝利を収めたと伝えられる。これが「うなり石」である。
 我々も新田義貞の勝利に肖(あやか)って勝利の V sign!(笑)〔添付写真[20]参照〕
 因みに、徳川家康は関東移封後新田源氏の末裔であると喧伝。更にその後、家康は「源氏長者と征夷大将軍」の地位を得て天下統一を実現していく。以上余談まで。

 [19]正一位矢作神社前にて
19

 ––––––––––––––––––––––––[20]「うなり石」の前にて[15時10分]
20_2

 12番目は、矢作神社から西へ0.8㎞の【誓願(せいがん)寺】である。この寺は、『浄瑠璃姫物語』の主人公浄瑠璃姫が生れた寺で墓もある。あらずじはこうだ。
【浄瑠璃姫伝説】
 年老いて子供のなかった矢作の長者兼高夫婦が、日頃から信仰していた鳳来寺の薬師瑠璃光如来にお願いし授かった子と言われ、浄瑠璃姫と名付けられ美しく育った。
 承安04(1174)年03月、源義経は奥州藤原秀衡を頼り旅を続ける途中、この寺に十日余り泊った。ある日美しい琴の音が聞こえ、持っていた名笛「薄墨」で吹き合わせた。いつしか二人に愛が芽生えたが、義経はその「薄墨」を形見に授け奥州へ旅立った。義経を想う心は高まり後を追いかけるも叶わず、浄瑠璃姫は失意の余り菅生川に身を投げ17年の短い一生を終えた。

 日本の伝統芸能『浄瑠璃』の roots が岡崎のこのお寺にあったというのには驚かされた。
【『浄瑠璃』の由来】
 この伝説は「浄瑠璃十二段草子」として書かれ、語り物として人気を博した。
 室町中期以降、この節回しが他の物語にも用いられる様になり、この種の語り物を以後『浄瑠璃』と呼ぶようになった。
 さらに余談である。
 江戸時代初期、この『浄瑠璃』と『人形操り』、三味線の演奏が結合したのが『古浄瑠璃(こじょうるり)』。
 そして、貞享元(1684)年、竹本義太夫が大阪道頓堀に竹本座を旗揚げし、【「義太夫節」による人『形浄瑠璃』】が確立。
 更に、江戸時代後期に『人形浄瑠璃』を蘇らせた三世植村文楽軒(うえむら ぶんらくけん)が、明治05年に創った劇場の名前が大阪「文楽座」。そこから【文楽】が『人形浄瑠璃』の代名詞となった。

 [21]誓願寺・本堂
21_2

 今日13番目の訪問地は【六所(ろくしょ)神社】。誓願寺からは東へ3.5km、名鉄東岡崎駅から南東へ0.3kmの所にある。
 この神社見どころは勿論「社殿〔本殿・拝殿・幣殿〕」である。慶長07(1602)年09月家康が社殿を造らせ、寛永11(1634)年三代将軍家光が社殿改築を命じた。この時再建されたものが現在の社殿である。
 そもそも松平氏の産土神(うぶすながみ=鎮守神)としての崇敬は、松平初代親氏の東賀茂六所明神が始まり。その後、松平氏の勢力拡大と共に七代清康が安祥城より岡崎城に入城後の頃とみられる。
 社殿は、その多くが国の重文となっており、壮観な佇まいである。

 [22]六所神社「楼門」前にて
22

 ––––––––––––––––––––––––[23]楼門から拝殿を望む[15時52分]
23

 さぁ、岡崎史跡巡りもいよいよ大詰めである。我等4人が最後に向かったのは六所神社から北西へ1.5kmの「岡崎公園」内にある【三河武士のやかた家康館】と【岡崎城天守閣】。これで全部で15箇所訪問したことになる。
 【三河武士のやかた家康館】は館内撮影禁止の為ご紹介できないのは残念である。
 最後に、本多平八郎忠勝の銅像と岡崎城天守閣、そして東照公産湯の井戸をご紹介して今回は終了とする。

 [24]本多平八郎忠勝の銅像前にて[16時29分]
24

 ––––––––––––––––––––––––[25]岡崎城天守閣
25

 [26]東照公産湯井
26

【小生 comment】
 岡崎史跡巡り〔その1〕北西篇〔後編〕如何でしたでしょうか。
 ご覧の様に岡崎は史跡の宝庫です。
 但し、歴史の厚みという点では、松平・徳川氏が活躍した戦国以降、遡っても足利氏が三河国の守護になった鎌倉時代というのが難点かもしれないが‥。260余年という長きに亘って太平の時代を築いた家康の故郷「岡崎」。その昔に思いを馳せることが出来た至福の一日であった。

【後記】■今日最後の話題です。
 今日09月24日は不肖小生の誕生日である。「百歳迄現役!」を標榜する小生にとって56回目の誕生日は「通過点に過ぎない」と自分に言い聞かせている。あと44年、「介護不要で元気な毎日」を過ごせる様頑張るつもりである。
 それでは皆さん、近々11月の【2637の会】《クラス会 Part2》のご案内 mail をお一人おひとりに配信させて頂きます。
 お返事の mail をお待ちしています。
 では、また‥。(了)

2011年9月18日 (日)

【時習26回3-7の会 0359】~「09月09日:『子規庵』を訪ねて」「09月09日:金谷年展講演『環境・energy問題からみた我国の方向性について』を聴いて」「09月11日:『岡崎史跡巡り〔前編〕』実施報告」「09月17日:『時習26回ミニミニ同期会』開催報告」

■前《会報》で朝晩涼しくなって来たと言った直後から再び残暑がぶり返し、大変暑い日が今日09月18日(日)まで続いていますが、皆さんお変わりありませんか?
 今泉悟です。さて、今日【2637の会】《会報》【0359】号は話題豊富です。(笑)

■さてまず最初の話題です。小生、09月09日(金)に仕事で東京出張した際、仕事の合間を縫ってまず山手線鶯谷駅から北西へ徒歩数分の所にある「子規庵」に立ち寄って来ましたのでその模様から‥。
 山手線鶯谷駅を出て「子規庵」迄の徒歩約5分の道程を歩き出して程なく驚愕した。所謂 love hotel群が続いているのである。
 ま、それは兎も角、「子規庵」に到着した小生、早速庵の中に入った。
 兎に角、蒸し暑い日であった。No necktieとは言えこの暑さで背広姿は堪える。ハンカチで拭けども迸出る汗、汗、汗‥。(溜息)
 「子規庵」について leaflet は次の様に紹介している。

 子規庵の建物は、旧前田侯の御家人の二軒長屋の一つであった。明治25(1892)年、そのうちの一軒、陸羯南(くがかつなん)(1857-1907)の西隣の88番地に住んだのが根岸の里への縁で、27年には陸氏の東隣の82番地に移る。ここに母と妹を呼び寄せ、書斎、病室と句会歌会等の場とし、ついには終生の地となる。子規生前には夏目漱石、森鴎外(以上文豪)、中村不折(画家・書家)、浅井忠(画家)、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪(以上俳人)、香取秀真(ほつま)(鋳金工芸作家・歌人)、岡麓(歌人・書家)、伊藤左千夫、長塚節(以上歌人・小説家)、与謝野鉄幹(歌人)、島崎藤村(詩人・小説家)、会津八一(歌人)等、友人、門弟等が訪れ、近代文学の原点の一つとなった。子規没後、母堂、妹が住み、ひき続いて句会、歌会の世話をしていた。〔中略〕
 昭和20年04月14日、空襲で子規庵は焼失したが、幸い蔵のみ残る。〔中略〕昭和26年再建。27年11月03日、子規庵が東京都文化史跡の指定を受ける。〔後略〕

 以下添付写真をご高覧下さい。

[01]子規庵入口
0120110909

––––––––––––––––––––––––[02]子規庵入口案内板
02

[03]子規庵 leaflet 裏面
03_leaflet

––––––––––––––––––––––––[04]leaflet ある子規の書斎と机、そこから庭の棚に実る糸瓜と庭に咲く鶏頭の花ほか
04leaflet

[05]子規庵中庭から庵を観る
0520110909

––––––––––––––––––––––––[06]明治32(1899)年12月24日『蕪村忌』に集まった子規と門人・友人達〔1.正岡子規 2.高浜虚子 3.河東碧梧桐〕
0632189912241_2_3

[07]正岡子規絶筆三句〔子規の直筆による〕
07

【小生 comment 】
 子規庵は、小生従前から一度訪れてみたかった場所である。こぢんまりとした普通の日本の木造家屋である。子規が活用した書斎机は彼の左足がカリエスで曲がった儘の為、ご覧の通り机の左側一部が切り取られているのが印象的であった。

 子規は、明治35(1902)年09月19日午前01時頃この子規庵にて永眠。09月19日を『糸瓜忌』或いは『獺祭(だっさい)忌』という。
 正に、109年前の今晩深夜未明とことである!!
 死の前日09月18日(109年前の今日!)に河東碧梧桐と妹の律に助けられ乍ら筆をとり有名な絶筆三句を書いた。

 河東碧梧桐の「君が絶筆」によると‥曰く、「先ず中央に

   糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな

 と書き、咳をして痰が切れてから(【小生注】向かって左側に)

   痰一斗 糸瓜の水も 間に合わず

 と書き、また咳をする。
 さらに間を置いて(【同】向かって右側に)

   をとヽひの へちまの水も 取らざりき

 の句を少し斜めに書き、筆をやはり投げ捨てた」。〔後略〕

 そう、明日、正確に言うと今晩未明19日が『糸瓜忌』なのである。偶然であるが小生、この時期に子規庵を訪れることが出来たのも何かの縁かもしれない‥。(了)

■続いては、同日東京某所にて開催された慶應義塾大学大学院政策メディア研究科教授金谷年展氏の講演『環境・energy問題からみた我国の方向性について』を聴いて来ました。
 詳細は別添 file をご覧頂くとして、以下に概略を示します。

[08]金谷年展氏
08

「t_kanaya.docx」をダウンロード

【smart house】
 省エネ面で、太陽光・風・庭の緑・水を上手く活用して、例えば夏には冷房を使わずに自動的に風が家の中を流れ、涼感を実現させる。また、Robot が sensor で感知して、住人に色々と advise する system を開発した。→消費電力を現状の半分程度に大幅削減可能に。
【地中熱】
 地中50m程掘り、その地中の安定した energy を使い消費量を節約。掘削事業は、土木関係者の雇用も創出。
【太陽光】
 屋根の賃貸借で business が可能(ex.数百戸単位で売電)に。
【蓄電池】
 『家の太陽光発電』で得た電力を自宅の『電気自動車』に蓄電し、夜、当該『電気自動車』に蓄電した電力を家庭内へ供給。
【シェール・ガス】
 従来のgas田ではない場所から産出される非在来型天然 gas 資源。
【LNG】
 産業部門では、炭素含有量の少ない LNG が石油石炭を代替する余地は大きい。
【コジェネ政策】
 内燃・外燃機関の排熱利用で動力・温熱・冷熱を取り出し、「総合 energy効率」を高める供給 system の一つ。
【今後の「モビリティ(移動手段・環境の整備)」】
 これからの社会は、garage にある電気自動車が家庭用「蓄電池」の役割を担う。 mobility の適材適所は極めて重要となる。
 つまり内燃機関自動車から電気自動車への潮流が続くが、今後は、むしと内燃機関自動車の役割が高まる。

【小生 comment】
 環境に配慮した energy を有効活用した近未来社会の一端を垣間見た様に気がした。

 ところで小生、今年04月神奈川県知事選で初当選した黒岩祐治知事が、選挙運動中も solar panel を持ち、『太陽光発電を県内200万世帯に設置』と訴えた news を聞いたことがある。その為に補助金に加え、低利融資制度の導入と売電による返済 scheme組合せにより、太陽光発電設置者の初期 cost 負担大幅低減を目指しているという。黒岩知事は、県内200万戸という大量需要が maker 側に販売価格低廉化を促しているとも言っていた。

 【2637の会】members で、神奈川県民である、今井さん、二橋君、渡辺さん(以上五十音順)への質問です。
 黒岩県政の『太陽光発電200万世帯設置』動きは現在どんな感じですか?
 Mail でご意見を頂戴出来れば幸甚です。m(_ _)m

■さて続いては、09月11日、前《会報》にて予告しました「細川氏&徳川氏の故郷【岡崎巡り〔その1〕北西篇】」の模様をお届けします。ただ内容が豊富なので本《会報》〔前編〕と次号〔後篇〕の2回に分けてご報告させて頂きます。ではどうぞ‥

 我等4人がまず向かったのが、細川氏発祥地【細川御前田城址】である。
 東名・豊田豊田東ICを降り、国道248号線を岡崎方面へ、矢作川に架かる葵大橋を渡り最初の信号交差点が「細川」である。
 この交差点を通り過ぎ程なく右手の土手に「細川御前田城址」と刻まれた石碑が見える。ここが城址であるが遺構は残っていない。
 鎌倉時代、幕府の有力御家人足利三代当主義氏が三河国守護になったことから、足利家支流の足利義季(よしすえ)が三河国額田郡細川郷〔岡崎市細川町〕に土着。細川氏の祖となった。
 [09] 「細川御前田城址」石碑の傍らにて[09時31分]
09

 次に向かったのが、「細川御前田城址」から西南西へ約3㎞、車で10分程の〔豊田市上郷町藪間〕にある【上野上村(うえのかみむら)城址】。徳川四天王の一人【榊原康政生誕地】として知られる。現在の上野上村城址は、上郷護国神社となっている。城址の一角には「城山稲荷社」もある。
 [10]「榊原康政生誕地」石碑の前にて[09時57分]
10

 榊原氏は三河・伊勢・伊賀守護を務めた仁木義長の子孫。松平氏譜代家臣で上野上村城主酒井忠尚(酒井忠次の叔父)に仕える陪臣。
 天文17(1548)年、榊原長政の次男として三河国上野郷(現・豊田市上郷町)に生まれる。康政は幼くして松平元康(後の家康)の小姓となる。三河一向一揆平定に従軍、家康から武功を賞されて「康」の字を与えらる。
 永禄9年(1566)年、19歳で元服。同年の本多忠勝と共に旗本先手役に抜擢される。以後家康の側近にあり、旗本部隊の将として活躍。姉川、三方ヶ原、長篠と幾多の合戦で戦功を上げた。
 天正10(1582)年 本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行。
 天正12(1584)年 小牧長久手の戦で秀吉の甥秀次の軍勢をほぼ壊滅に、森長可、池田恒興を討死させた。
 天正18(1590)年 小田原の役で徳川軍の先手を務め、同年、家康が関東に移封に伴い上野国館林城(群馬県館林市)に入り、本多忠勝と共に家臣中第2位の10万石を与えられる。
 慶長05(1600)年 関ヶ原の戦では主力徳川秀忠軍に軍監として従軍。
 慶長11(1606)年 05月14日に館林にて死去。家督は三男康勝が継ぐ。

 同日3つ目の史跡は、【酒井氏発祥地】である。場所は岩津小学校の東隣。そこに酒井広親石宝塔がある。
 [11]「酒井氏の祖」酒井広親石宝塔の前にて[10時33分]
11

 現地を訪れてみて驚きそしてやや失望したのは、岡崎市の史跡が鬱蒼とした雑草や薄で埋まりかけいたことだ。
 それはさて置き、石宝塔の傍らにあった岡崎市史跡指定文化財の案内板には、次の様に記されてあった。

 広親は、松平氏の始祖親氏の子とされている人物で、松平(徳川)家の重臣酒井氏の祖となった。
 松平八代のうち、この当時の事跡については伝説化しており、異説多く実証資料が乏しい中で、この石宝塔の銘文は、広親が長禄三(1459)年に没したことを明らかにすることが出来る重要な資料である。
 《銘文》には、
 「長禄三年八月十二日/酒井與四郎/源廣親墓」とある。

 酒井氏の祖は、松平第2代当主泰親の弟が広親とされ、徳川家にとって最も由緒ある家臣団筆頭の一族である。
 因みに、広親の長男とされる酒井氏忠(親忠)の家系は代々左衛門尉を名乗り【左衛門尉(さえもんのじょう)家】。氏忠から数えて5代目が酒井忠次である。
 一方、広親の次男とされる酒井家忠の家系は代々雅楽助(のち雅楽頭)を名乗り【雅楽頭家(うたのかみ)家】。家忠から数えて同じく5代目が酒井正親。その長子重忠は関東で武蔵国川越1万石→厩橋(のち前橋に改名)藩3万3千石。重忠の長子忠世は前橋藩主、老中・大老。また忠世の孫忠清も大老となり、幕政において影響力を持った。忠世の子孫は前橋藩第9代酒井忠恭(ただずみ)が老中首座時代の1749年、播磨姫路藩15万石の藩主となった(のち大老)。
 また、重忠の弟の忠利は別家して取り立てられ、川越藩主、老中。そして忠利の子の忠勝(のち老中・大老)は小浜藩11万3千石の藩主に。
 酒井氏の大名家は9家を数え、全て譜代大名(扱いは親藩格)。2家が改易されたが7家が明治に至り華族に。うち庄内(左衛門尉家)、姫路(歌楽頭家)、小浜(同左)の3家は伯爵、その他の家は子爵を授爵。この様に酒井氏は多くが栄えた。

 4つ目の史跡は、西に向かい県道39号線を左折し南進。西蔵前町峠にある民家の庭。
 徳川四天王の一人【本多平八郎忠勝誕生地碑〔西蔵前城跡〕】である。
 本当に民家の庭に一角に石碑が立ててあった。
 石碑の近くで可愛い番犬がワンワンと吠え、また民家の若奥さん(と思しき女性が)が草取りをしていた。
 その女性に記念写真撮影の了解を頂戴して撮った写真が以下のものである。
[12]本多平八郎忠勝誕生地石碑前にて〔10時50分〕
12

 石碑傍らの岡崎市史跡指定文化財の案内板には、次の様に記されてあった。〔昭和37年06月15日指定〕

 本多氏は松平二代康親(ママ)に仕えて以来、代々殊功をあげた。祖父忠豊、父忠高の時代には蔵前に居住し、天文17(1548)年ここで生まれたとされている。
 〔中略〕生涯で57回の合戦に出陣したが、ただの一度も負傷しなかったといわれている。家康の家臣の中でも抜群の戦上手であり、桶狭間の合戦から大阪冬の陣まで家康と共に全ての戦を戦い抜き、開幕時には桑名10万石が与えられた。以後子孫は、姫路藩、浜田藩等を経て、明和06(1769)年、岡崎藩に封じられ、明治維新まで岡崎藩主として祖先の地を治めた。

 我々が次にその日5つ目の史跡として向かったのが東京の青山通りにその名が残る青山氏生誕地。
 県道239号線を南進すること1.1km。「百々西町南」交差点を左折し七所神社西側にあるとされる【百々(どうどう)城跡】である。
 しかし、あるべき所を探し回ること20分余り、ついに分からず断念。
 次の目的地、松平氏八代と家康の墓がある【大樹(だいじゅ)寺】へと車を進めた。
 《以下、次号をお楽しみに》

【小生 comment】
 細川護煕元首相の祖先の地が岡崎市細川町。徳川四天王のうちの榊原康政と本多平八郎忠勝の誕生地‥。
 そして、明治維新を迎える迄の約100年近くは本多平八郎忠勝の子孫が岡崎5万石の藩主であった訳だ。
 岡崎公園に本多平八郎忠勝坐像があるのはその為だろうか‥。
 遥か昔の鎌倉時代から戦国時代の歴史的傑物達が往時に生きていた場所を実際に訪ねてみてその当時のことを想像してみた。
 三河国は昔から豊かな国であったのだろう。日本国を動かした傑物を次々に排出した打出小槌の様な国として‥。
 因みに、徳川四天王の筆頭酒井忠次の生誕地、【井田城址】については、次号《会報》にて【大樹寺】に続いてご案内します。お楽しみに‥。(了)

■続いての話題です。今日は、話題が豊富でしょう!(笑)
 実は、昨日09月17日(土)、《クラス会》の定例開催場所《トライアゲイン》にて谷山君・林(K)さん・中嶋君・今泉4人による【時習26回ミニミニ同期会】を開催しましたのでご報告致します。
 先月08月13日の【2637の会】《クラス会》は盛況でしたが、紅一点の林恭子さんと殆ど話す機会がなく残念に思っていたのですが、城跡巡りの会「賢人会」の谷山・中嶋両氏に相談すると、「4人でミニ同期会をやろう!」ということになり、同日18時00分から定刻通り開宴となりました。
 十数名の《クラス会》と比べ、4人の宴は話題がバラけることもなく、ホント楽しいひとときを過ごすことが出来ました。
 気が付けば、あっと言う間に時計は午後10時になっていました。
 この【ミニミニ同期会】では、次回【2637の会】《クラス会 Part2》を11月の下旬〔19日(土)か26日(土)〕に開催したい旨提案しました。林さんは前向きに検討して頂けるそうです。万年幹事として大変心強い yell を頂戴しました。
 添付写真は、その【ミニミニ同期会】での Try Again のママに撮って貰った4人の snap shot です。御高覧下さい。
[13]時習26回ミニミニ同期会 at try again 20110917
1326_at_try_again_20110917aaa

【後記】
■実は、日付は前後しますが、まず09月09日(金)は、夕刻東京広尾にある山種美術館の閉館間際に間に合ったので、「日本画どうぶつえん」展を見て来ました。
 その中で、速水御舟(1894.08.02-1935.03.20.[本名]蒔田栄一)の『炎舞』(国の重要文化財)がとても良かったのでご紹介させて頂きます。それと、同じく速水御舟の水彩画の sketch を一枚も併せて‥。後者は初めて見たのですが、日本画家としてではない御舟の新しい一面を知った思いがして良かったです。なかなかいいでしょ‥。
[14]山種美術館『日本画どうぶつえん』展Ticket
14ticket

––––––––––––––––––––––––[15]速水御舟(1894.08.02-1935.03.20)
15

[16]速水御舟『炎舞』1925年
161925

––––––––––––––––––––––––[17]同『ベルラヂオ(写生)』(部分)1930年
171930

 そしてもう一つ‥。翌9月10日(土)、小生の愚息(長男)の結婚式・披露宴が名古屋で催されました。
 新郎新婦の snap-shot を添付します。御高覧頂ければ幸いです。愚息(長男)は小生に似ていますか??(汗)(笑)
[18]愚息の結婚20110910
1820110910__2

 では、また‥。(了)

2011年9月 8日 (木)

【時習26回3-7の会 0358】~「宮城谷昌光『古城の風景Ⅱ』から『四天王の一人・本多平八郎忠勝』について」「JR名古屋タカシマヤ『中川一政展』を見て」「松坂屋美術館『川合玉堂展』を見て」

■前《会報》をお届けした時にお話した『白露』〔←今年は今日09月08日〕の声を聞いた途端、朝晩急に涼しくなって来ました。
 今泉悟です。さて、今日も【2637の会】《会報》【0358】号をお送りします。

■それではまず最初の話題です。
 まずは、宮城谷昌光氏著『古城の風景Ⅱ』の中の「本多平八郎忠勝」からお届けします。

     ※ ※ ※

 武田の武人もそ〔本多平八郎忠勝〕の戦いぶりに感心し、〔武田〕信玄の近習である小杉右近助は、
「家康に過たる物は二つあり唐(から)の頭に本多平八」
 と詠み、その歌を見附坂に立てた、と『甲陽軍鑑』にある。見附(みつけ)はのちに東海道〔五十三次28番目の〕宿場となる。〔中略〕
 忠勝は伊勢の桑名十万石を領し、慶長15(1610)年10月18日に亡くなった。享年は63であり、50余度の合戦で一度も創(きず)を被らなかったと言われる。誇張でなく、事実であろう。 (了)

 実は小生、従前、我等時習15回卒の先輩でもある作家、宮城谷昌光氏著の『古城の風景Ⅱ』を読んでからというもの、是非岡崎方市内にある徳川氏関連の史跡巡りをいたいと思い続けていたのである。
 上記の本に魅せられた小生、過日時習26回同期の谷山君【3-3】と中嶋君【3-2】と城巡りの先輩青木さんの4人に提案した処全員の賛同を得、明々後日の09月11日、「細川氏&徳川氏の故郷【岡崎巡り〔その1〕北西篇】」と銘打って作成した以下に記した日帰りの【行程】に従い諸史跡を巡って来る予定です。
 因みに、徳川四天王〔酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政〕のうち遠江国井伊谷の井伊直政を除く3人の生誕地はいずれも近くにあることに流石は「岡崎」だと感じ入った次第である。
 この模様は、次回の《会報》にてジックリご報告します。お楽しみに!

【行程】
07:30 中嶋宅発 → 08:00 今泉宅発 → 08:10 青木宅発 → 08:30 谷山宅発
〔計41.3km 55分〕
〔国道1号線→東名・音羽蒲郡IC→伊勢湾岸・豊田東IC→国道248号線〕
09:25 [01]【細川御前田城址〔細川氏発祥地〕】着
〔国道248号線→県道239号線を上郷町藪間へ〕
09:45 [02]【上野上村(うえのかみむら)城址〔徳川四天王の一人 榊原康政生誕地〕】着〔3.6km 09分〕
〔県道239号線を東へで岩津小学校西に隣接する〔酒井広親石宝塔〕へ〕
10:00 [03]【酒井雅楽頭家の発祥の地〔酒井広親石宝塔〕】着〔1.3km 05分〕
〔西に向かい県道39号線を左折し南へ 青木橋バス停辺りから西へ入る〕
10:10 [04]【徳川四天王の一人 本多平八郎忠勝誕生地碑〔西蔵前城跡〕】着〔1.1km 04分〕
〔県道239号線を南進し、「百々西町南」交差点を左折し七所神社の参道へ〕
10:25 [05]【百々(どうどう)城跡】東京の青山通りで有名な、青山氏の居城
〔百々城跡から西へ600mで国道248号線、そこを南進600m「大樹寺3丁目」交差点を200m東進〕
10:45 [06]【大樹(だいじゅ)寺】着〔見どころ:松平八代の墓ほか多数〕〔1.4km 05分〕
〔国道248号線迄戻り南進700m「井田新町」交差点を300m東進し「井田公園」へ〕
11:20 [07]【井田城跡〔徳川四天王の一人 酒井忠次生誕地〕】着
11:45 [08]【伊賀八幡宮】着〔1.4km 03分〕
12:05 [09]【松応(しょうおう)寺〔伝 松平広忠密葬場所〕】
12:25 [10]【大林(だいりん)寺〔松平清康・広忠・清康夫人春姫の墓〕】〔1.1km 03分〕
12:45 [11]【八丁味噌『カクキュー』】着※ 史料館見学〔30分〕 & 昼食休憩〔60分〕〔1.3km 10分〕
14:25 [12]【矢作(やはぎ)神社】〔見どころ:日本武尊伝説と「うなり石」〕〔800m 04分〕
14:40 [13]【誓願(せいがん)寺と花の撓(とう)】〔見どころ:浄瑠璃姫物語関連〕〔3.5km 11分〕
15:20 [14]【六所(ろくしょ)神社〔明大寺城跡〕】〔1.6km 04分〕
15:45 [15]【三河武士のやかた家康館】〔見どころ:東照公産湯の井戸〔岡崎公園内・家康館傍〕〕〔300m 01分〕
16:17 [16]【岡崎城天守閣】本多平八郎忠勝像〔岡崎公園内〕
17:00 同所発 → 帰宅へ

■続いての話題です。
 小生、今週は06日に仕事で名古屋へ行く機会があり、その帰途上、掲題・副題にある様に二つの美術館巡りをして来ましたので、ご報告致します。
 まずは、JR名古屋タカシマヤで09月12日迄開催中の『中川一政展』についてである。

 彼の略歴から記す。
1893(明治26)年 02月14日 東京市本郷区駒込西片町に生まれる
1902(明治35)年 06月母スワ(享年33)死去
1907(明治40)年 神田錦町の錦城中学校入学
1908(明治41)年 06月与謝野晶子編『白光』(新潮社)に歌三首が選ばれる
1910(明治43)年 02月『スバル』に短歌が掲載される。若山牧水主宰『創作』に短歌投稿、掲載される
1911(明治45)年 03月 錦城中学校卒業
1913(大正02)年 03月 中村星湖の推薦で「早稲田文学」に短歌「逝春」18首を発表
1914(大正03)年 芦屋の深江で処女作「酒倉」を描く 10月「巽画会第14回展」で「酒倉(芦屋深江)」が岸田劉生の推薦で初入選
1915(大正04)年 10月 第2作「春光」(添付写真[03])が「二科会第2回展」にて入選
1975(昭和50)年 11月 文化功労者となり、文化勲章受章
1991(平成03)年 02月 湯河原厚生年金病院にて心不全の為永眠 享年97

[01]『中川一政展』leaflet
01leaflet_20110906_2

––––––––––––––––––––––––[02]中川一政 1982年
02_1982

[03]『春光』1915年
03_1915

––––––––––––––––––––––––[04]『野娘(エチュード)』1917年
04_1917

[05]『自画像』1919年
05_1919

––––––––––––––––––––––––[06]『静物(びん・白布)』1921年
06_1921

[07]『冬日路傍』1924年
071924

––––––––––––––––––––––––[08]『漁舟帰ル時』1952年
081952

[09]『福浦風景』1962年
091962

––––––––––––––––––––––––[10]『真鶴の海』1969年
101969

[11]『椿と果実』1963年
111963

––––––––––––––––––––––––[12]『長崎の夕暮』1957年
121957

[13]『桜島』1966年
131966

––––––––––––––––––––––––[14]『鯛』1986年
  ~我のみや 夜船は漕ぐと 思へれば 沖べの方に 櫂をおとすなり(遣新羅使人『万葉
集』15巻3624)
141986_153624

[15]『駒ヶ岳』1975年
151975

––––––––––––––––––––––––[16]『駒ヶ岳』1980年
161980

[17]『マジョリカ壺の薔薇とりんご』1973年
171973

––––––––––––––––––––––––[18]『二つの壺の薔薇』1986年
181986

[19]『薔薇』1985年
191985

––––––––––––––––––––––––[20]『向日葵』1976年
201976

[21]『向日葵』1987年
211987

【小生 comment 】
 中川一政(かずまさ 通称:いっせい)は、全て独学で、「洋画・水墨画・版画・陶芸・詩作・短歌・随筆・書」と実に多彩な作品を制作した。自らは「在野派」と称したが、洒脱な文章でも知られた。
 彼が才能を開花し始めたのは錦城中学入学して間もなくからの十代半ばで、毎年の様に作品を発表。
 そうした中で彼は、短歌を中村星湖、洋画(しかも処女作)を岸田劉生という当時の斯分野の有力者・実力者の推薦を貰い認められていく「実力+強運」の持ち主でもあった。
 添付写真のご覧頂くとお解りの様に、彼の作品はどれも見る者を魅了する「何か」を持っている。「酒倉(芦屋深江)」や「春光」(以上前掲)等は、岸田劉生が推薦しただけあって、作風もよく似ており魅力的である。「春光」(1915年作)は最近の《会報》【0356】号にてご紹介した「岸田劉生『道と電信柱』1914年」と比べてみて下さい。雰囲気が良く似ているでしょう!?
 また「春光」という絵画と同名の詩もあるのでご覧に入れたい。いい詩である。

   春 光

 空に逝く雲ゆるゝと見てしは
 いとなつかしき地震(なゐ)なり
 王宮をいでたる王子
 ほのかに歌をこそ思へ
 ひるのひかりみちみち
 逝く雲のいろをうつして
 そのあたり草花さけり
 王宮をいでたる王子
 ふと春はかなしくなれり  (1913)

 1950年代以降の中川の作風は、絵の対象物を極端に deformer したものが目立つ様になる。が、実に不思議である。それ等の絵から発散される魅力は見る者を捕えて放さない。微妙な構図の balance と鮮やかな色彩が織り成す綾(あや)が実に見事なのである。
 作品[12]『長崎の夕暮』1957年と[13]『桜島』1966年を梅原龍三郎の作品〔《会報》【0356】号『桜島の朝』1935年〕と比較してみても面白い。両氏は deformer の達人であるが、夫々 originality が確り発揮されていて見る者を飽きさせないから流石だ。
 今回の展覧会を見て、中川一政は、実に多方面に才気あふれる芸術家であることを改めて実感させられた。水墨画や陶芸、書も味があって実に素晴らしい。中川氏の97年の生涯は充実した素晴らしい人生だったことは想像に難くない。
 尚、今日は容量の関係もありご紹介は絵画だけにさせて頂くことをご了解下さい。

■さて続いては、松坂屋美術館にて10月10日迄開催中の『川合玉堂展』についてである。

[22]『川合玉堂展』leaflet
22leaflet

––––––––––––––––––––––––[23]川合玉堂 1951年頃
23_1951

 川合玉堂については、今回は容量の関係もあり多くを語らない。まずは絵をご高覧下さい。

[24]『焚火』1903年
241903

––––––––––––––––––––––––[25]『深山濃霧』1918年
251918

[26]『石楠花(しゃくなげ)』1930年
261930

––––––––––––––––––––––––[27]『鵜飼』1933年
271933

[28]『田植』1940年
281940

––––––––––––––––––––––––[29]『古城春夕』1942年
291942

[30]『山雨一過』1943年
301943

––––––––––––––––––––––––[31]『五月晴』1947年
311947

[32]『吹雪』1950年
321950

––––––––––––––––––––––––[33]『小春』1953年
331953

【小生 comment】
 川合玉堂は、1873(明治06)年 愛知県葉栗郡外割田村(現・一宮市木曽川町)に生まれる。本名芳三郎。尋常小学校卒業後14歳で京都の画家望月玉泉に入門。玉泉より「玉舟」の号を貰う。
 1890(明治23)年 17歳の時、第3回内国勧業博覧会出展作品が入選。この時「玉堂」に改める。
 1940(昭和15)年 文化勲章を受章。日本画では竹内栖鳳と横山大観に続き3人目の受賞。
 1957(昭和32)年 06月30日永眠。享年83
 彼は、17歳で円山四条派の幸野楳嶺の画塾に入門、22歳で上京し狩野派の橋本雅邦に師事。円山四条派と狩野派を融合。生涯を通して郷愁溢れる風景画で名を馳せた。大変解り易く馴染み易い絵だと思う。

【後記】■1991年に97歳で亡くなる直前迄衰えることを知らなかった中川一政の創造への energy は、絵画だけでなく多岐に亘った。
 彼の言葉を幾つかご紹介してお別れしたいと思います。

 若い時の勉強は、何でもとり入れ貯めることである。
 老年の仕事は、いらないものをすてていくことである。
 すて去りすて去りして、純粋になっていくことである。
 若い時の仕事を一歩も出ず、くりかえしの仕事をしていては長生きの甲斐がない。

     ※ ※ ※

 90年も生きているといろんな事をしている。
 短歌・詩・随筆・画・書・篆刻・陶器いろんな方面に及ぶ。
 凝ったもの、相撲・ボクシング見物・万葉集・一休・古墨蹟〔=【小生注】臨済を主とする禅宗僧侶の筆跡〕・老荘・金冬心〔【小生注】=清代の画家〕、自分の好きなところに及ぶ。

     ※ ※ ※

 中川一政氏は到底及ばぬものの、小生もいろんなことに挑戦して行きたいと思っている。
 では、また‥。(了)

2011年9月 4日 (日)

【時習26回3-7の会 0357】~「増田悦佐『日本と世界を揺り動かす物凄いこと』から」「清家篤氏講演『生涯現役社会の条件』を聴いて」

■時速10kmと速度の遅い台風12号は、今日(09月04日)の午後漸く日本海へ抜けましたが、まだ(午後10時)現在も強風と断続的な強雨が収まりません。そうこうしているうちに台風13号が日本列島の東側に接近。台風12号にやや遅れて並走する恰好で北上する模様で、日本列島は明日も早いうちは台風の影響から脱することが難しそうです。皆さんのおうちは大丈夫でしょうか?
 東海地方が台風12号の影響を受け出したのが先週半ばの09月01日。この日は所謂「二百十日」である。この「二百十日」は、「立春」を初日にして210日目に当たり、「二百二十日」と共に古来、台風がやって来る「農業の厄日」と言い伝えられて来ている。
 今泉悟です。さて、今日も【2637の会】《会報》【0357】号をお送りします。

■それではまず最初の話題から‥。
 一昨日(09月02日)、野田内閣が発足した。
 「鳩・菅」内閣の後、どうなるか心配されたが、首相就任前に自民・公明両党との大連立を唱えていた氏だけあって、野党に対して低姿勢であるだけでなく、民主党内でも、挙党体制確立に向け小沢氏側近で党参議院議員会長の興石東氏を党幹事長に三顧の礼で迎える等、気配りが信条の「ドジョウ内閣」としてまずまずの船出をしたと、小生は総じて好感を持った。
 今朝の新聞各紙も、世論調査で支持率が67%(日本経済新聞&テレビ東京調査)と高かったことを受け、押並べて好意的な論調である。
 ただ、日本が抱える問題は山積しており、「菅前首相が06月初旬の辞任表明から実際に辞める迄の3箇月間は国政が空転」していた機会的損失は大きく、喫緊のものだけでも「東日本大震災・原発事故・TPP・超円高」の諸問題があり前途多難であることに変わりないことも事実である。

 日本の将来を少しでも明るい方向に導いて欲しいと思うのは、日本国民の総意であると思う。
 野田新首相の政治的手腕に大きく期待したい。

■続いての話題です。
01

 最近の日本が、財政破綻懸念・円高不況・企業の海外進出による国内市場縮小と雇用減少等々、暗い話ばかりだったので、明るいことを書いてある本を読んでみましたので、一冊ご紹介させて頂きます。
 それは、掲題・副題にある様に増田悦佐著『日本と世界を揺り動かす物凄いこと』です。
 小生この本を読んで、全て納得出来た訳ではないが、いくつか共感出来る点がありましたので、そこの処を一部ご紹介したいと思います。ではどうぞ‥

 氏が、この著作を通じて主張しているのは、日本の政府の無能さに比べ国民が確りしているので、西欧先進諸国に伍していく処か「日本が世界を lead して行く」という点。
 その証左が日本の中間財・資本財が世界経済に不可欠な存在で、この超円高な現在も貿易黒字と所得黒字が続いていることだという。
 そして将来、日本以外の国で日本と同様に研究開発投資に注力し続ける寡占企業数社が切磋琢磨する様な製造業を育てる国民経済が出現することに懐疑的で日本の優位性は将来も不変であると指摘する。日本型の産業構造を育てつつあった韓国も、Asia通貨危機以降、IMFの介入で各産業に独占企業1社を残すだけという米国型産業構造に変えられて仕舞い、研究開発投資の return が悪化していると述べている。
 この他の国々は推して知るべしで、欧米諸国における知的 elite 支配は、大衆との間に大きな知的能力格差を確立しているので、今後はなかなか経済発展が望みにくい。
 むしろ、知的 elite と大衆との能力格差が余りない発展途上国の方が発展する可能性が高い。
 今後は一層、世界貿易の中心地が欧米圏から、Asia 圏に移行する。
 故に、日本を取り巻く経済環境は、悪化するどころか好転する可能性の方が高いと主張する。
 また氏は、デフレの merit を享受していることをもっと日本国民は認識すべきだといい、それに至る過程で、世界経済史上、40年以上に亘り一貫して自国通貨が上昇し続けたにも拘らず、貿易黒字体質がビクともしなかったのは日本だけであり、これがどれ程の偉業か認識すべきだという。
 少なくとも、円高により輸入品価格は下落しており、物価は安定し、国民の実質所得はその分増加していることは間違いない。
 「特許出願件数・今後の成長分野でも日本は世界一であり、日本の将来は明るい」と締め括っている。
【小生 comment 】
 氏の主張は、日本をかなり高く評価しており、全ての点で共感できるとは言えない。が、悲観的になりがちな昨今、こういう本を読んでみるのは気分転換するにはいいものである。(笑)

■続いての話題です。小生、一昨日の09月02日、掲題・副題にある様に慶応技術大学塾長、清家篤氏の講演会を聴いて来ましたので、その概略をお伝えしたいと思います。

02

 この講演会は、豊橋三田会が、「同会80周年記念講演会」を地元の産学官関係者にも開放したもので、小生も縁あって聴講したものである。
 演目は『生涯現役社会の条件』。講演内容の概略は以下の通りである。

 我国日本は、世界に類のない世界一の高齢化社会を現出している。
 昨(2010)年09月時点における、全人口に占める65歳以上人口比率は23.1%で世界一。
 この高齢化は、speed でも世界一を独走しており、2030年に同33%、2050年には40%になると予想されている。
 65歳時点での平均余命も、現時点で女:23.97歳、男:18.88歳。実に、女は89歳、男も84歳近くになると予想されている。

 一般的に、「長寿者が多いということはその国が豊かである」ことを表象していると言われる。
 換言すれば、我国の著しい高齢化は、我国が経済的に成功し、経済成長した(=「豊かな社会を成し遂げた」)結果である。
 具体的には、昭和22~24年生れの所謂「団塊の世代」が、戦後の[1]栄養状態の良化(食生活の改善)、[2]衛生状態の改善、[3]医療の発達、等により殆ど死なずに現在に至っ(=高齢化し)たことが主因。
 一方出生率は、純経済的にみると、我国の様な雇用者(工業化)社会では、子供は生産力の担い手としての役割が大きく減殺。
 この少子化が、我国の高齢化の速度を一層早めている。出生率(一人の女性が一生のうちに産む子供の数)は、昭和24年4.3人から1970年代半ばに2.0人を切り、最低は2005年の1.24人迄下落。その後やや持ち直したものの、現在でも1.39人という低水準
 この儘では、我国の年金制度は破綻が避けられない。我国で国民皆保険制度が確立したのは1961(昭和36)年。当時の保険開始年齢60歳時点での平均余命は、男:05年、女10年と短かった。
 本来、余命が判ればそれ迄は「貯金」で対応し、予想外に長寿化した risk へは「保険」で対応すべきなのである。
 現行の年金制度を破綻させない為には、将来的に年金支給年齢の引上げで対応すべきである。例えば「年金70歳支給」とし、「70歳まで現役!=働く意思と能力ある人が働く社会」を実現させていくことが必要である。
 幸い、60~64歳男子における「働く意思ある率」は、日本は77%と世界一。
 因みに、同2位は韓国70%弱。第3・4位が米・英の各々同60%。仏に至っては20%に満たない。
【小生 comment 】
 清家氏は、添付写真の leaflet の略歴に、1978年慶應義塾大学経済学部とある。
 ということは、【2637の会】member の二橋Y彦君と同窓同期であるのですね。ね、二橋君!

【後記】■さて、今日の締め括りは、今週08日(木)が二十四節気でいう『白露』ですが、「露」を theme にした名句を2句ご紹介したいと思います。
 まずは、ホトトギス派の代表的俳人の一人、富安風生(1885-1979)氏が次の様に述べている。

 蛇笏の遺した大きな句業績のうちから、強いて一句を挙げねばならぬとしたら

  芋の露 連山影を正しうす  蛇笏

 とすることに、何人も異存はないであろうし、全く頭の下がる一代の秀句(大正03年作)である。〔中略〕
 わたしは蛇笏と同庚(どうこう=同い年)であり、私が僅かに十日早く生まれているだけである。
 飯田蛇笏。明治18年4月、山梨県生。昭和37年病歿。77歳。
〔【小生注】「大正秀句」執筆時、風生氏は80歳。1979年没、享年94歳。

 2つ目は、絵画的でもあり宗教的でもある名句である‥。

  金剛の 露ひとつぶや 石の上  川端茅舎

 俳人草間時彦氏が『俳句十二か月』の中で、茅舎のこの作品を次の様に紹介している。
 石の上の一粒の露の玉を凝視した茅舎は、その露が朝日を受けて光るのを、宝玉の如くに見た。その光が千里を照らす様に観たのである。金剛は梵語から転じた仏教語で、金剛界の諸仏に冠する語である。また、「堅固で破れない」という意もあり、金剛不壊((ふえ)=極めて堅固で壊れない様)という言葉がある。もっとも儚い散り易い「露」の玉を金剛不壊と見た茅舎の眼にはその露が生きているものの様に見えたのだった。

 ついでに『白露(はくろ)』を詠んだ小生の拙句をご覧下さい。

  涼風に 移ろひをみる 白露かな  悟空

 毎度お粗末様です。(笑)
 では、また‥。(了)

« 2011年8月 | トップページ | 2011年10月 »

2017年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
フォト

最近の記事

05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

  • Dsc_0217
    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

  • Cimg1428
    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

最近のコメント

無料ブログはココログ