【時習26回3-7の会 0374】~「12月10~11日:『大阪社員旅行での史跡巡り編』」
■今泉悟です。【2637の会】《会報》【0374】号をお届けします。
皆さん、今年は大変お世話になりました。来年も引き続き【時習26回3-7の会】の応援を宜しくお願い申し上げます。
今年一年は、大変な年でした。近年益々内憂外患の事象が増加拡大していく様で実に憂鬱です。
国内では‥
「[1]03.11東日本大震災&福島第一原発事故」
「[2]超円高定着による『外需依存型日本経済体制』崩壊懸念の顕在化」
海外では‥
「[1]Greece国家破綻懸念による欧州の財政・金融破綻懸念」
「[2]Tunisia・Egypt・Libyaの独裁体制崩壊=『Arabの春』を端とする国際政治情勢の混迷拡大」
「[3]北朝鮮・金正日総書記死去に伴う朝鮮半島の政情不安拡大」
等が挙げられます。この他にも「米軍特殊部隊によるUsama bin Ladin殺害(への報復terrorismの過激化懸念)」や「Thai国の大洪水による日本makerの生産力に甚大被害」等も大きな事件でした。
今朝12月31日の新聞が、「London外国為替市場で円高Euro安が進み、2001年6月以来の100円割れ(€1=¥99.97)の安値を更新」と報道。
これは、Greeceを始めPIIGSの国家財政破綻懸念という信用不安説が増幅され、当該国国債を大量保有する欧州主要金融機関の信用不安が一層深刻化しているという「負の連鎖」を市場関係者がこれ迄以上に懸念している証左とされる。
一方、米国も大幅な財政・貿易収支という「双子の赤字」が拡大し続け、Lehman Shock以降、米国大手金融機関救済の為に市場に放出された大量のdollarが市場に出回り、dollarの独歩安が続いた3年余りであった。
これ等の影響で、国家財政こそ破綻寸前だが、これ迄四半世紀に亘り経常収支黒字を続ける我国日本の「円」の信用力が評価され、「円買い」が一段と進み、『超円高』となっているのである。
この『超円高』は、これ迄の日本経済を「坂の上の雲」の坂の上まで押し上げて来た産業界の原動力である「電機・(輸送)機械等、輸出依存型maker群」の輸出競争〔日本国内で製造し海外へ輸出する〕『力』を事実上喪失させたのである。『超円高』回避の為、当該企業の下請け部品maker迄が海外進出を進めており、これが進行定着すれば、日本国内の雇用は一層減少。賃金という形でそこに就労する従業員の、即ち日本国民の所得〔=「国富」の一部を担う〕を減じる深刻な結果を齎す。換言すれば、これは国内GDPを組成する付加価値〔=国富〕を日本から海外へ持ち去ってしまうことであり、将来的に日本の「国富」の減退減少、即ち『日本国の衰退』へと繋がっていくのである。
一方で、現在の『超円高』はプラスの側面も大きい。即ち、総合商社をはじめ『超円高』を武器に海外企業のM&Aを推進している企業群には、将来需要拡大が期待される分野への投資を活発化している。この動きは、近未来的に間違いなく日本に所得収支の増加を齎してくれる。
更にまた、この様な動きの中で、『超円高』日本には今、海外から原材料・商品を仕入れ国内需要者向けに販売している企業群がこれまた少なからず存在し、当然乍ら彼等は、販売価格の大幅downをしていない分大儲けしているのである。こういった分野の大手企業は、今期「史上最高決算」が確実視されている。当該企業群も我国日本には数多あるのである。
その結果は、日本国内での『所得間格差の大幅な拡大』という、多くの日本国民にとっては歓迎されない『貧富の差』が大きく開いてしまう社会が顕在化しつつあるのである。この様な社会にならないよう、換言するなら、健全な中堅層が数多働く社会を現出させる為にはどうあるべきか? この正月、日本のあるべき将来について一寸真面目に考えてみたいと思う。皆さんも一度考えてみてみましょう。自分たちの子々孫々の為にも‥。(了)
■さて話変わって、小生、前《会報》にてご紹介させて頂いた「野見山暁治展」を見た翌日と翌々日の12月10(土)~11(日)の両日、勤務先の社員旅行で大阪に行って来ましたのでその模様についてご報告させて頂きます。
それにしても、最近の社員旅行って実にdryである。
小生が銀行員の駆け出しだった頃(昭和50年代)の社員旅行と言えば、完全週休二日が実施される以前で「土曜日の午後3時過ぎ〔‥当時土曜日の勤務時間は午後2時45分迄‥〕に貸切busに乗り込み、目的地の温泉地迄行き、夜は宴席で各班毎が仮装したりして発表会。翌日の昼迄観光地を見て後は只管帰るだけ」であった。
今では、こういう社員旅行は社員に受け入れられない。
今回の社員旅行は、「吉本新喜劇」観劇の為開始時間15:45分の25分前に現地・難波千日前「なんばグランド花月」に集合。観劇終了後は、なんばグランド花月至近にある道頓堀の食事会場で夕食会。午後9時過ぎに宴が終わると初日は流れ解散。宿泊所は道頓堀の北隣・宗右衛門町にあるhotel。翌朝自由解散。
この為、土日のかなりの時間を自分の自由時間とすることが出来たのである。
そこで小生、大阪は不案内ではあったが、「折角来たのだから好きな『史跡』と『美術館』巡りをしない訳にはいかない」と一念発起して、以下の通り実行に移しました。
結論から言えば、なかなか良かったmini tripになりました。ではご紹介します。
【10日(土)】
07:36 豊橋〔名鉄特急利用〕
08:39 名鉄名古屋駅〔徒歩〕
09:00 近鉄名古屋駅発〔名阪甲特急利用〕
11:07 大阪難波駅着〔徒歩‥なんばウォークとかいう地下街で結ばれている‥所要時間5分〕
11:25 山王美術館着〔JR難波駅隣・ホテルモントレ グラスミア22階〕
[01]Hotel Monterey グラスミア 22Fにある山王美術館看板
美術館の中に入って【近代洋画selection】と題された「16名の巨匠ばかり!」による「珠玉の名品」の数々にまず驚愕した。画家名と展示点数は以下の通り。
梅原龍三郎 8点、林武 5点、Renoir、小磯良平 各4点、Marie Laurencin、藤田嗣治、佐伯祐三、荻須高徳、中川一政、岸田劉生、金山平三 各3点、浅井忠、向井潤吉、安井曾太郎、岡鹿之助、坂本繁二郎 各2点、Jean-Francois Millet、藤島武二 各1点。
この他、近代陶器展として、板谷波山、富本憲吉、河井寛次郎の作品が計13点展示されていた。
「でもいったいこれ等数多くの名画の蒐集家とはどんな人物だろう? 『山美術館』は誰が実質的なownerなのだろう?」。当該美術館の母体や沿革等をInternet検索で調べても解らないのである。もし【2637の会】membersの方で『山王美術館』について詳細をご存知でしたら教えて頂ければ幸甚です。
兎も角、多くの巨匠のmasterpiecesを堪能でき、これから二日間に亘る大阪mini tripが楽しめそうな嬉しい予感がした。〔そしてそれは的中したのである!〕
11:55 山王美術館を後にした小生、「なんばウォーク」の地下街のパン屋で軽い昼食を摂り、大阪市営地下鉄「なんば」駅から御堂筋線「動物園前」まで移動。『通天閣』を目指した。
12:18 目的地『通天閣』至近の地下鉄駅「動物園前」の出口に出て、一寸吃驚してそして安心した。親切な手書きの案内図が目の前にあるではないか!
ジャンジャン横丁という賑やかな通りを抜け、案内図で示されていた『通天閣』絶景spotに行き撮影したのが添付写真[03]である。
[02]地下鉄動物園前出口1至近の新聞雑誌販売所壁にあった通天閣・動物園への案内地図
––––––––––––––––––––––––[03]通天閣絶景場所から撮影した『通天閣』
『通天閣』を初めて見たが、直感したのは「名古屋のテレビ等に似ているな、大きさも‥」ということであった。登って見たかったが待ち時間25分という案内表示を見て、時間に余裕のない小生は即座に諦めた。
12:43 そして、次の目的地である「眞田幸村終焉の地『安居神社』に到着。
由緒書を見ると、祭神は「少彦名神・菅原道真」。「天慶05(942)年菅公を合祀」「元和元(1615)年05月07日眞田信繁(幸村)戦死」「当神社の神徳を蒙った人々は昔より多く『大丸(呉服店)(=現・大丸百貨店)』業祖下村彦右衛門(1688-1748)は大きな御加護を頂き繁栄したことは有名」とあった。
この神社は小さな社であるが、この様に由緒ある神社で、歴史の厚味を感じた。
[04]安居神社の石鳥居と参道
––––––––––––––––––––––––[05]安居神社社殿
––––––––––––––––––––––––[07]眞田幸村戦死跡之碑
13:17 次に向かったのが、(藤原)家隆塚である。小倉百人一首98番目の歌「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」と歌った従二位家隆の墓だと伝えられる。彼がこの辺りに設けた「夕陽庵」がここの地名「夕陽丘」の由来と言われる。
[08]藤原家隆墓案内石碑
––––––––––––––––––––––––[09]伝 藤原家隆卿之墓
家隆の墓から数十米東には、下関条約全権の外相「陸奥宗光と彼の父伊達宗広の墓所跡」と幕末維新で活躍した薩摩藩家老「小松帯刀の墓所跡」の記念碑が建っていた。伊達宗広は紀伊藩重臣で国学者であった。彼が藤原家隆を慕いこの地に「自在庵」を建て墓所とした。
添付写真[11]にある様に、向かって右の石碑は、原敬が外務次官であった時の外相陸奥宗光を敬愛し、陸奥の10周忌建立した。
またこの墓所には、薩摩藩家老小松帯刀の墓も明治09年鹿児島へ改葬される迄あり、この地を大久保利通等が墓参に訪れている。
[10]伊達宗広・陸奥宗光墓所跡&小松帯刀墓所跡 案内板
––––––––––––––––––––––––[11]向かって右は「原敬が陸奥宗光10周忌に建立した石碑」
13:35 次に訪れたのは、この夕陽丘から南東へ数百米の所にある四天王寺。10月09日に「岸田劉生展」の帰りに立ち寄って以来2ヵ月ぶりである。
今回は、前回見落としてしまった日本画家の泰斗中村岳陵〔=日本画家中村正義の師〕の筆による金堂の壁画を見る為である。
この壁画の postcard を買い求めたがなかったのでお見せ出来ないのが大変残念であるが、中村岳陵の絵、特に女性の絵はとても上品で美しかった。必見ですヨッ。
[12]四天王寺[左:金堂][右:五重塔]
13:52 四天王寺は、北から南へ、「講堂」→「金堂」→「五重塔」→「仁王門」→「南大門」と続き、そこを更に南へ100~150m行くと超願寺がある。
ここに江戸時代の浄瑠璃太夫、初代「竹本 義太夫(1651-1714.10.18)」の墓がある。
現在の『浄瑠璃節』は、この竹本義太夫が『義太夫節』という節回しを考案し始めたものである。「竹本座」跡は道頓堀の現在の極楽商店街入口にある。
義太夫は、天王寺村(現・天王寺区茶臼山町堀越神社附近)に生まれた。功名を挙げ、生まれた場所で死す。理想的な生き方である。
近松門左衛門が天和3(1683)年、『曾我兄弟の仇討ち』の後日談を描いた『世継曾我(よつぎそが)』を宇治座で上演。翌1684年竹本義太夫が竹本座で演じ大好評を受ける。近松門左衛門と竹本義太夫は名コンビが誕生、確立される。Operaで言えば、「エレクトラ(Elektra)(1903年)」や「薔薇の騎士(Rosenkavalier)(1911年)」を世に出した作曲家Richard Straussと劇作家ホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal(1874-1929))の様な売れっ子コンビとして‥。
[13]初代 竹本義太夫の墓
小生、超願寺から南へ数百米の天王寺駅[14:20]まで歩き、地下鉄御堂筋線でなんば駅下車[14:33]。
集合時間の15時20分迄に若干時間があったので、道頓堀・戎橋の所にあるグリコの看板を見てみた。阪神tigersが優勝するとここから飛び込む熱狂的fanがいるが、「よくこんな汚い川に飛び込むもんだナ?」と改めて驚いた。
[14]道頓堀・戎橋袂からグリコの看板を写す
そして何とか集合時間に間に合い、15:45から18:30の約2時間半余りの吉本新喜劇を楽しんだ。
[15]なんばグランド花月 正面入口にて勤務先の女子社員達と
その後は、19:00~21:00まで夜宴があり、21:30には宿泊所 hotel に入り程なく就寝。
【小生comment】
旅行初日の史跡巡りは「眞田幸村」「藤原家隆」「伊達宗広・陸奥宗光」「小松帯刀」「竹本義太夫」という著名人6名の墓所〔墓所跡を含む〕巡りとなってしまった。(笑)
【11日(日)】
05:00 起床
05:05 70分腹筋
07:00 朝食
08:00 Hotel発 旅行二日目は各自自由行動ということで、小生は大阪城へ向かった。地下鉄堺筋線・日本橋駅から堺筋本町経由、同中央線・谷町四丁目駅下車。当駅を出るとこれも訪問予定先の一つである「大阪歴史博物館」がすぐ傍にあるのだが、開館時間が09:30とまだ少し早い。
大阪城本丸の開館時間は09:00である為、本丸入館を先にすることにした。小生、恥ずかし乍ら今回が大阪城初訪問である。このお城、大き過ぎて全容を一度にお示し出来ないのが残念である。
08:54 まず右手に南外堀、左手に西外堀を見乍ら「大手門」から入った。すると正面が「多聞櫓」。ここを潜ると左手に「千貫櫓」。更に歩くと本丸を囲繞する内堀のうちの三分の一に当たる南西部分の「空堀」である。ここから「桜門」を潜り抜け本丸あるareaに入る。ここには旧陸軍第四師団司令部跡の建物が「桜門」を入って右手前方にあった。
本丸は江戸時代に江戸幕府の威信をかけて再構築されたものであるが流石に大きく立派である。〔添付写真[18][19]参照〕
尚、秀吉が建てた大阪城は石山本願寺と寺内町跡地に建てられた。石山本願寺の遺構は未だ発見されていないが、大阪城公園の片隅に記念碑があった。〔添付写真[20]参照〕
[16]大阪城・大手門
––––––––––––––––––––––––[17]大阪城・桜門
09:07 大阪歴史博物館との共通入場券を買い、開門(09:00)直後の大阪城・本丸に入る。流石! 「確かに名古屋城より大きい!(笑)」
[18]大阪城・本丸「天守閣」
––––––––––––––––––––––––[19]大阪城・本丸から南西にある大阪歴史博物館からの「大阪城天守閣」遠望
次に向かったのが「難波(なにわ)宮跡」である。
10:55 難波宮着。この宮殿のあった難波京は、孝徳(596-654年)朝から天武(631(?)-686年)朝にかけての前期と聖武天皇(701-756(在位:724-749年))の御代である後期の2回都に定められた。現在では公園になっている。
[21]難波宮跡 石碑
––––––––––––––––––––––––[22]大阪歴史博物館からの『難波宮跡』遠望
11:08 大阪歴史博物館に入る。
次に向かったのが、大阪大学の前身でもある適塾〔国の重要文化財〕。地下鉄中央線谷町四丁目駅乗車、堺筋本町駅にて同堺筋線に乗り換え、北浜駅下車。途中convenience storeで昼食用のsandwichを購入、店前で食した後、徒歩7~8分で目的地に到着。
12:36 適塾である。今橋町、現在の北浜3丁目にある。適塾の塾主・緒方洪庵(1810.08.13-1863.07.25)の下で学んだ幕末維新の俊英達の中に、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介等がいる。
緒方洪庵の蘭学に於ける語学の堪能さは、福沢諭吉をして「その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家」と讃えている。
適塾の各部屋を見、幕末維新の俊英達が勉学に勤しんだ姿を思い浮かべた。‥すると、その時、清々しい一陣の風が小生の顔を撫でて行った様な気がした。
[23]史蹟 緒方洪庵舊宅 及 塾〔適塾〕
––––––––––––––––––––––––[24]適塾の一室と緒方洪庵像の画
13:08 適塾を後にして、最後の目的地、「芭蕉終焉の地」に向かう。歩いた道は欧陽菲菲が「小糠雨降る御堂筋/心変わりな夜の雨/あなた‥ あなたは何処よ/あなたを訪ねて南へ歩く」と歌いhitさせた「雨の御堂筋」で語られている『御堂筋』である。
男女立場は逆であるが、小生も欧陽菲菲の気分になって、銀杏並木の散りゆく銀杏葉が降り頻る中を、「あなた」を訪ねて(←のつもり‥(笑))南へ歩いて行った。「銀杏並木は枯葉を落とし/雨の歩道は淋しく光る」と歌詞でも歌われていた。「絵になる風景」である。
http://www.youtube.com/watch?v=1vMPkV_T4CI ←ここをclickして下さい。欧陽菲菲の『雨の御堂筋』が聴けます。
[26]銀杏並木の枯葉舞い散る御堂筋
13:25 適塾を発って十数分経ったであろうか、御堂筋の語源ともなった南北・御堂の一つ「北御堂(=浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)」に到着。
[27]北御堂・本願寺津村別院
更に南へ10分余り歩く。「南御堂(=浄土真宗大谷派難波別院)」が眼前に現れた。
13:37 南御堂の道路を挟んで東側から撮影した写真が添付写真[28]である。その写真の手前の道路緩衝帯に石碑が立っている。これが『此附近芭蕉翁終焉ノ地』石碑である。目的地の到着したのだ。
[28]南御堂(=浄土真宗大谷派難波別院)
––––––––––––––––––––––––[29]此附近芭蕉翁終焉ノ地 石碑
【後記】以上で小生の「大阪の旅」は終わった。帰りは新大阪から新幹線で豊橋迄帰った。
『史蹟巡りの旅』は「いつ行っても何処へ行ってもいい」ものである。
松尾芭蕉は、この地、御堂筋の「花屋仁左衛門」の旅宿で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の辞世の句を残して客死した。
「木曾殿の隣に」という遺言により、大津膳所「義仲寺」にある木曾義仲の墓の隣に今も葬られている。
芭蕉の辞世の句に触発されて小生も拙句を一句‥お聞き下さい。
去年今年(こぞことし)恆に時習の友とあり 悟空
明日、2012年の年頭に辺り、小生の【2637の会】への決意を表してみました。宜しく!
尚、前《会報》でお約束した通り、野見山暁治氏と同じ福岡県出身の坂本繁二郎氏のepisodeを綴った「巨匠の贈りもの ― 坂本繁二郎」をご紹介させて頂こうと思いましたが、本《会報》volumeも嵩みましたので今回upは断念し、この模様は次号《会報》にcarryします。そしてその時は、坂本繁次郎氏の作品についても合わせてご紹介します。お楽しみに。
では、良いお年をお迎え下さい‥。(了)
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