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2011年12月31日 (土)

【時習26回3-7の会 0374】~「12月10~11日:『大阪社員旅行での史跡巡り編』」

■今泉悟です。【2637の会】《会報》【0374】号をお届けします。
 皆さん、今年は大変お世話になりました。来年も引き続き【時習26回3-7の会】の応援を宜しくお願い申し上げます。
 今年一年は、大変な年でした。近年益々内憂外患の事象が増加拡大していく様で実に憂鬱です。

 国内では‥
 「[1]03.11東日本大震災&福島第一原発事故」
 「[2]超円高定着による『外需依存型日本経済体制』崩壊懸念の顕在化」
 海外では‥
 「[1]Greece国家破綻懸念による欧州の財政・金融破綻懸念」
 「[2]Tunisia・Egypt・Libyaの独裁体制崩壊=『Arabの春』を端とする国際政治情勢の混迷拡大」
 「[3]北朝鮮・金正日総書記死去に伴う朝鮮半島の政情不安拡大」
 等が挙げられます。この他にも「米軍特殊部隊によるUsama bin Ladin殺害(への報復terrorismの過激化懸念)」や「Thai国の大洪水による日本makerの生産力に甚大被害」等も大きな事件でした。

 今朝12月31日の新聞が、「London外国為替市場で円高Euro安が進み、2001年6月以来の100円割れ(€1=¥99.97)の安値を更新」と報道。
 これは、Greeceを始めPIIGSの国家財政破綻懸念という信用不安説が増幅され、当該国国債を大量保有する欧州主要金融機関の信用不安が一層深刻化しているという「負の連鎖」を市場関係者がこれ迄以上に懸念している証左とされる。
 一方、米国も大幅な財政・貿易収支という「双子の赤字」が拡大し続け、Lehman Shock以降、米国大手金融機関救済の為に市場に放出された大量のdollarが市場に出回り、dollarの独歩安が続いた3年余りであった。
 これ等の影響で、国家財政こそ破綻寸前だが、これ迄四半世紀に亘り経常収支黒字を続ける我国日本の「円」の信用力が評価され、「円買い」が一段と進み、『超円高』となっているのである。

 この『超円高』は、これ迄の日本経済を「坂の上の雲」の坂の上まで押し上げて来た産業界の原動力である「電機・(輸送)機械等、輸出依存型maker群」の輸出競争〔日本国内で製造し海外へ輸出する〕『力』を事実上喪失させたのである。『超円高』回避の為、当該企業の下請け部品maker迄が海外進出を進めており、これが進行定着すれば、日本国内の雇用は一層減少。賃金という形でそこに就労する従業員の、即ち日本国民の所得〔=「国富」の一部を担う〕を減じる深刻な結果を齎す。換言すれば、これは国内GDPを組成する付加価値〔=国富〕を日本から海外へ持ち去ってしまうことであり、将来的に日本の「国富」の減退減少、即ち『日本国の衰退』へと繋がっていくのである。

 一方で、現在の『超円高』はプラスの側面も大きい。即ち、総合商社をはじめ『超円高』を武器に海外企業のM&Aを推進している企業群には、将来需要拡大が期待される分野への投資を活発化している。この動きは、近未来的に間違いなく日本に所得収支の増加を齎してくれる。
 更にまた、この様な動きの中で、『超円高』日本には今、海外から原材料・商品を仕入れ国内需要者向けに販売している企業群がこれまた少なからず存在し、当然乍ら彼等は、販売価格の大幅downをしていない分大儲けしているのである。こういった分野の大手企業は、今期「史上最高決算」が確実視されている。当該企業群も我国日本には数多あるのである。

 その結果は、日本国内での『所得間格差の大幅な拡大』という、多くの日本国民にとっては歓迎されない『貧富の差』が大きく開いてしまう社会が顕在化しつつあるのである。この様な社会にならないよう、換言するなら、健全な中堅層が数多働く社会を現出させる為にはどうあるべきか? この正月、日本のあるべき将来について一寸真面目に考えてみたいと思う。皆さんも一度考えてみてみましょう。自分たちの子々孫々の為にも‥。(了)

■さて話変わって、小生、前《会報》にてご紹介させて頂いた「野見山暁治展」を見た翌日と翌々日の12月10(土)~11(日)の両日、勤務先の社員旅行で大阪に行って来ましたのでその模様についてご報告させて頂きます。
 それにしても、最近の社員旅行って実にdryである。
 小生が銀行員の駆け出しだった頃(昭和50年代)の社員旅行と言えば、完全週休二日が実施される以前で「土曜日の午後3時過ぎ〔‥当時土曜日の勤務時間は午後2時45分迄‥〕に貸切busに乗り込み、目的地の温泉地迄行き、夜は宴席で各班毎が仮装したりして発表会。翌日の昼迄観光地を見て後は只管帰るだけ」であった。
 今では、こういう社員旅行は社員に受け入れられない。
 今回の社員旅行は、「吉本新喜劇」観劇の為開始時間15:45分の25分前に現地・難波千日前「なんばグランド花月」に集合。観劇終了後は、なんばグランド花月至近にある道頓堀の食事会場で夕食会。午後9時過ぎに宴が終わると初日は流れ解散。宿泊所は道頓堀の北隣・宗右衛門町にあるhotel。翌朝自由解散。
 この為、土日のかなりの時間を自分の自由時間とすることが出来たのである。
 そこで小生、大阪は不案内ではあったが、「折角来たのだから好きな『史跡』と『美術館』巡りをしない訳にはいかない」と一念発起して、以下の通り実行に移しました。
 結論から言えば、なかなか良かったmini tripになりました。ではご紹介します。

【10日(土)】
07:36 豊橋〔名鉄特急利用〕
08:39 名鉄名古屋駅〔徒歩〕
09:00 近鉄名古屋駅発〔名阪甲特急利用〕
11:07 大阪難波駅着〔徒歩‥なんばウォークとかいう地下街で結ばれている‥所要時間5分〕
11:25 山王美術館着〔JR難波駅隣・ホテルモントレ グラスミア22階〕
[01]Hotel Monterey グラスミア 22Fにある山王美術館看板
 01hotel_monterey_22f

 美術館の中に入って【近代洋画selection】と題された「16名の巨匠ばかり!」による「珠玉の名品」の数々にまず驚愕した。画家名と展示点数は以下の通り。
 梅原龍三郎 8点、林武 5点、Renoir、小磯良平 各4点、Marie Laurencin、藤田嗣治、佐伯祐三、荻須高徳、中川一政、岸田劉生、金山平三 各3点、浅井忠、向井潤吉、安井曾太郎、岡鹿之助、坂本繁二郎 各2点、Jean-Francois Millet、藤島武二 各1点。
 この他、近代陶器展として、板谷波山、富本憲吉、河井寛次郎の作品が計13点展示されていた。
「でもいったいこれ等数多くの名画の蒐集家とはどんな人物だろう? 『山美術館』は誰が実質的なownerなのだろう?」。当該美術館の母体や沿革等をInternet検索で調べても解らないのである。もし【2637の会】membersの方で『山王美術館』について詳細をご存知でしたら教えて頂ければ幸甚です。
 兎も角、多くの巨匠のmasterpiecesを堪能でき、これから二日間に亘る大阪mini tripが楽しめそうな嬉しい予感がした。〔そしてそれは的中したのである!〕
11:55 山王美術館を後にした小生、「なんばウォーク」の地下街のパン屋で軽い昼食を摂り、大阪市営地下鉄「なんば」駅から御堂筋線「動物園前」まで移動。『通天閣』を目指した。
12:18 目的地『通天閣』至近の地下鉄駅「動物園前」の出口に出て、一寸吃驚してそして安心した。親切な手書きの案内図が目の前にあるではないか!
 ジャンジャン横丁という賑やかな通りを抜け、案内図で示されていた『通天閣』絶景spotに行き撮影したのが添付写真[03]である。
[02]地下鉄動物園前出口1至近の新聞雑誌販売所壁にあった通天閣・動物園への案内地図
 021_2

––––––––––––––––––––––––[03]通天閣絶景場所から撮影した『通天閣』
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 『通天閣』を初めて見たが、直感したのは「名古屋のテレビ等に似ているな、大きさも‥」ということであった。登って見たかったが待ち時間25分という案内表示を見て、時間に余裕のない小生は即座に諦めた。

12:43 そして、次の目的地である「眞田幸村終焉の地『安居神社』に到着。
 由緒書を見ると、祭神は「少彦名神・菅原道真」。「天慶05(942)年菅公を合祀」「元和元(1615)年05月07日眞田信繁(幸村)戦死」「当神社の神徳を蒙った人々は昔より多く『大丸(呉服店)(=現・大丸百貨店)』業祖下村彦右衛門(1688-1748)は大きな御加護を頂き繁栄したことは有名」とあった。
 この神社は小さな社であるが、この様に由緒ある神社で、歴史の厚味を感じた。
[04]安居神社の石鳥居と参道
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––––––––––––––––––––––––[05]安居神社社殿
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[06]眞田幸村像
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––––––––––––––––––––––––[07]眞田幸村戦死跡之碑
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13:17 次に向かったのが、(藤原)家隆塚である。小倉百人一首98番目の歌「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」と歌った従二位家隆の墓だと伝えられる。彼がこの辺りに設けた「夕陽庵」がここの地名「夕陽丘」の由来と言われる。
[08]藤原家隆墓案内石碑
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––––––––––––––––––––––––[09]伝 藤原家隆卿之墓
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 家隆の墓から数十米東には、下関条約全権の外相「陸奥宗光と彼の父伊達宗広の墓所跡」と幕末維新で活躍した薩摩藩家老「小松帯刀の墓所跡」の記念碑が建っていた。伊達宗広は紀伊藩重臣で国学者であった。彼が藤原家隆を慕いこの地に「自在庵」を建て墓所とした。
 添付写真[11]にある様に、向かって右の石碑は、原敬が外務次官であった時の外相陸奥宗光を敬愛し、陸奥の10周忌建立した。
 またこの墓所には、薩摩藩家老小松帯刀の墓も明治09年鹿児島へ改葬される迄あり、この地を大久保利通等が墓参に訪れている。
[10]伊達宗広・陸奥宗光墓所跡&小松帯刀墓所跡 案内板
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––––––––––––––––––––––––[11]向かって右は「原敬が陸奥宗光10周忌に建立した石碑」
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13:35 次に訪れたのは、この夕陽丘から南東へ数百米の所にある四天王寺。10月09日に「岸田劉生展」の帰りに立ち寄って以来2ヵ月ぶりである。
 今回は、前回見落としてしまった日本画家の泰斗中村岳陵〔=日本画家中村正義の師〕の筆による金堂の壁画を見る為である。
 この壁画の postcard を買い求めたがなかったのでお見せ出来ないのが大変残念であるが、中村岳陵の絵、特に女性の絵はとても上品で美しかった。必見ですヨッ。
[12]四天王寺[左:金堂][右:五重塔]
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13:52 四天王寺は、北から南へ、「講堂」→「金堂」→「五重塔」→「仁王門」→「南大門」と続き、そこを更に南へ100~150m行くと超願寺がある。
 ここに江戸時代の浄瑠璃太夫、初代「竹本 義太夫(1651-1714.10.18)」の墓がある。
 現在の『浄瑠璃節』は、この竹本義太夫が『義太夫節』という節回しを考案し始めたものである。「竹本座」跡は道頓堀の現在の極楽商店街入口にある。
 義太夫は、天王寺村(現・天王寺区茶臼山町堀越神社附近)に生まれた。功名を挙げ、生まれた場所で死す。理想的な生き方である。
 近松門左衛門が天和3(1683)年、『曾我兄弟の仇討ち』の後日談を描いた『世継曾我(よつぎそが)』を宇治座で上演。翌1684年竹本義太夫が竹本座で演じ大好評を受ける。近松門左衛門と竹本義太夫は名コンビが誕生、確立される。Operaで言えば、「エレクトラ(Elektra)(1903年)」や「薔薇の騎士(Rosenkavalier)(1911年)」を世に出した作曲家Richard Straussと劇作家ホーフマンスタール(Hugo von Hofmannsthal(1874-1929))の様な売れっ子コンビとして‥。
[13]初代 竹本義太夫の墓
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 小生、超願寺から南へ数百米の天王寺駅[14:20]まで歩き、地下鉄御堂筋線でなんば駅下車[14:33]。
 集合時間の15時20分迄に若干時間があったので、道頓堀・戎橋の所にあるグリコの看板を見てみた。阪神tigersが優勝するとここから飛び込む熱狂的fanがいるが、「よくこんな汚い川に飛び込むもんだナ?」と改めて驚いた。
[14]道頓堀・戎橋袂からグリコの看板を写す
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 そして何とか集合時間に間に合い、15:45から18:30の約2時間半余りの吉本新喜劇を楽しんだ。
[15]なんばグランド花月 正面入口にて勤務先の女子社員達と
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 その後は、19:00~21:00まで夜宴があり、21:30には宿泊所 hotel に入り程なく就寝。
【小生comment】
 旅行初日の史跡巡りは「眞田幸村」「藤原家隆」「伊達宗広・陸奥宗光」「小松帯刀」「竹本義太夫」という著名人6名の墓所〔墓所跡を含む〕巡りとなってしまった。(笑)

【11日(日)】
05:00 起床
05:05 70分腹筋
07:00 朝食
08:00 Hotel発 旅行二日目は各自自由行動ということで、小生は大阪城へ向かった。地下鉄堺筋線・日本橋駅から堺筋本町経由、同中央線・谷町四丁目駅下車。当駅を出るとこれも訪問予定先の一つである「大阪歴史博物館」がすぐ傍にあるのだが、開館時間が09:30とまだ少し早い。
 大阪城本丸の開館時間は09:00である為、本丸入館を先にすることにした。小生、恥ずかし乍ら今回が大阪城初訪問である。このお城、大き過ぎて全容を一度にお示し出来ないのが残念である。
08:54 まず右手に南外堀、左手に西外堀を見乍ら「大手門」から入った。すると正面が「多聞櫓」。ここを潜ると左手に「千貫櫓」。更に歩くと本丸を囲繞する内堀のうちの三分の一に当たる南西部分の「空堀」である。ここから「桜門」を潜り抜け本丸あるareaに入る。ここには旧陸軍第四師団司令部跡の建物が「桜門」を入って右手前方にあった。
 本丸は江戸時代に江戸幕府の威信をかけて再構築されたものであるが流石に大きく立派である。〔添付写真[18][19]参照〕
 尚、秀吉が建てた大阪城は石山本願寺と寺内町跡地に建てられた。石山本願寺の遺構は未だ発見されていないが、大阪城公園の片隅に記念碑があった。〔添付写真[20]参照〕
[16]大阪城・大手門
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––––––––––––––––––––––––[17]大阪城・桜門
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09:07 大阪歴史博物館との共通入場券を買い、開門(09:00)直後の大阪城・本丸に入る。流石! 「確かに名古屋城より大きい!(笑)」
[18]大阪城・本丸「天守閣」
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––––––––––––––––––––––––[19]大阪城・本丸から南西にある大阪歴史博物館からの「大阪城天守閣」遠望
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[20]石山本願寺跡記念碑
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 次に向かったのが「難波(なにわ)宮跡」である。
10:55 難波宮着。この宮殿のあった難波京は、孝徳(596-654年)朝から天武(631(?)-686年)朝にかけての前期と聖武天皇(701-756(在位:724-749年))の御代である後期の2回都に定められた。現在では公園になっている。
[21]難波宮跡 石碑
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––––––––––––––––––––––––[22]大阪歴史博物館からの『難波宮跡』遠望
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11:08 大阪歴史博物館に入る。
 次に向かったのが、大阪大学の前身でもある適塾〔国の重要文化財〕。地下鉄中央線谷町四丁目駅乗車、堺筋本町駅にて同堺筋線に乗り換え、北浜駅下車。途中convenience storeで昼食用のsandwichを購入、店前で食した後、徒歩7~8分で目的地に到着。
12:36 適塾である。今橋町、現在の北浜3丁目にある。適塾の塾主・緒方洪庵(1810.08.13-1863.07.25)の下で学んだ幕末維新の俊英達の中に、大村益次郎、福沢諭吉、大鳥圭介等がいる。
 緒方洪庵の蘭学に於ける語学の堪能さは、福沢諭吉をして「その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家」と讃えている。
 適塾の各部屋を見、幕末維新の俊英達が勉学に勤しんだ姿を思い浮かべた。‥すると、その時、清々しい一陣の風が小生の顔を撫でて行った様な気がした。
[23]史蹟 緒方洪庵舊宅 及 塾〔適塾〕
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––––––––––––––––––––––––[24]適塾の一室と緒方洪庵像の画
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[25]適塾・塾生の大部屋
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13:08 適塾を後にして、最後の目的地、「芭蕉終焉の地」に向かう。歩いた道は欧陽菲菲が「小糠雨降る御堂筋/心変わりな夜の雨/あなた‥ あなたは何処よ/あなたを訪ねて南へ歩く」と歌いhitさせた「雨の御堂筋」で語られている『御堂筋』である。
 男女立場は逆であるが、小生も欧陽菲菲の気分になって、銀杏並木の散りゆく銀杏葉が降り頻る中を、「あなた」を訪ねて(←のつもり‥(笑))南へ歩いて行った。「銀杏並木は枯葉を落とし/雨の歩道は淋しく光る」と歌詞でも歌われていた。「絵になる風景」である。
 http://www.youtube.com/watch?v=1vMPkV_T4CI ←ここをclickして下さい。欧陽菲菲の『雨の御堂筋』が聴けます。
[26]銀杏並木の枯葉舞い散る御堂筋
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13:25 適塾を発って十数分経ったであろうか、御堂筋の語源ともなった南北・御堂の一つ「北御堂(=浄土真宗本願寺派本願寺津村別院)」に到着。
[27]北御堂・本願寺津村別院
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 更に南へ10分余り歩く。「南御堂(=浄土真宗大谷派難波別院)」が眼前に現れた。
13:37 南御堂の道路を挟んで東側から撮影した写真が添付写真[28]である。その写真の手前の道路緩衝帯に石碑が立っている。これが『此附近芭蕉翁終焉ノ地』石碑である。目的地の到着したのだ。
[28]南御堂(=浄土真宗大谷派難波別院)
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––––––––––––––––––––––––[29]此附近芭蕉翁終焉ノ地 石碑
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【後記】以上で小生の「大阪の旅」は終わった。帰りは新大阪から新幹線で豊橋迄帰った。
 『史蹟巡りの旅』は「いつ行っても何処へ行ってもいい」ものである。
 松尾芭蕉は、この地、御堂筋の「花屋仁左衛門」の旅宿で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の辞世の句を残して客死した。
 「木曾殿の隣に」という遺言により、大津膳所「義仲寺」にある木曾義仲の墓の隣に今も葬られている。
 芭蕉の辞世の句に触発されて小生も拙句を一句‥お聞き下さい。

 去年今年(こぞことし)恆に時習の友とあり 悟空

 明日、2012年の年頭に辺り、小生の【2637の会】への決意を表してみました。宜しく!

 尚、前《会報》でお約束した通り、野見山暁治氏と同じ福岡県出身の坂本繁二郎氏のepisodeを綴った「巨匠の贈りもの ― 坂本繁二郎」をご紹介させて頂こうと思いましたが、本《会報》volumeも嵩みましたので今回upは断念し、この模様は次号《会報》にcarryします。そしてその時は、坂本繁次郎氏の作品についても合わせてご紹介します。お楽しみに。
 では、良いお年をお迎え下さい‥。(了)

2011年12月24日 (土)

【時習26回3-7の会 0373】~「12月09日:『野見山暁治展』を見て」「野見山暁治『四百字のデッサン』から随筆集『2. うわの空~履歴書』より」「伊藤裕『臓器は若返る』『腸! いい話』を読んで」

■今泉悟です。【2637の会】《会報》【0373】号をお届けします。
 まず今週は、2012年春の【時習館高校】大学受験情報についてです。

 小生には上から男女男と3人子供いるが、そのうち一番下〔既会報で時習館高校soccer部員である旨既報〕の愚息が現在高校三で、来月01月14(土)~15(日)にcenter入試を受ける予定でいる。
 この会報の場を借りて、最近の大学受験に対する時習館高校の取組姿勢に敬意を評したい。
 実は、昨日12月23日から来月01月09日迄の半月余り時習館高校は冬季休暇に入るのだが、12月29日~01月01日迄の4日間を除き全日冬季講習を一日中実施してくれるのである。我々が高三の時はその様なことはなかったと記憶している。
 更に、01月10日の三学期始業当日は不明であるが、翌11日からcenter入試前日の01月13日迄連日受験対策講習を実施くれるそうだ。

 時習館高校の文科系・理科系別の進学希望者のweightは最近は理科系の方が多いという。確か小生等が高三の時も理科系志望が多かったと思う。
 また、母校時習館高校の大学受験へのstanceは昔からそうだが、国公立重視の傾向が強いと聞く。
 愚息の場合、今春5月迄部活に注力していたので当然乍ら今回現役で合格する可能性は正直言って相当低い。
 であるのに、その愚息が旧国立一期校を第一希望に掲げても、学校側は「思いっ切りchallengeしろ!」と励ましてくれるのだ。
 最近あった時習館高校での父兄面談で、試験慣れの為に私立大学受験することの是非を担任の先生に質した処、先生は即座に、「今年は例年より3~4日center入試と二次試験の間が長い。これは断然現役に有利だ。更に言えば、私立大学受験による肉体的及び時間的損失も少なくない。故に浪人する覚悟があるのなら第一希望の旧国立大学合格に向けて全力を傾注する方が得策」とadviceされた由。これも確かに理であるが‥。愚息は担任の先生のadviceに従うという。
 いずれにしても、center入試まであと3週間となった。愚息を含め、時習館高校の受験生皆さんの健闘を祈る。

■さて話変わって、今日は、半月程前の12月09日に仕事で上京した帰途、ブリヂストン美術館にて開催中の『野見山暁治展』を見て来ましたので、その模様についてご報告致します。

[01]ブリヂストン美術館の野見山暁治展signboard
 01signboard

––––––––––––––––––––––––[02]ブリヂストン美術館入口の野見山暁治展signboard
 02isignboard

[03]野見山暁治氏
 03

 抽象画が主体の氏の作品は「具象から抽象へ」と変遷して行く過程を、彼の作品一つひとつを、見ていくうちに不思議な魅力に取り付かれていった。氏の作品に曰く言い難い『哲学』めいたものを感じたのである。そこで本展覧会の図録を読んでみると、本(2011)年初夏執筆である氏のessay『歳月』の中に記されていた次のparagraphが目に留った。
 〔前略〕
 すべては具象かもしれない。すべての命は移ろうものだ。やがて消える。ぼくは存在の不信を、画面にぶっつけ始めた。周辺に散らばった痕跡から、逆に元の形体を探ってゆくのが、正体に近づけると察してのことだ。
 いや、これはこじつけだ。何を言おうとしているのか、自分でもよく分からない。ぼくは疑い深くなった。自然は美しさを装っている。この美しさの背後にはdemon〔悪魔〕が潜んでいると、これもいつ頃からか疑う様になった。恐ろしいものが隠れているから、雲間も、木陰も、少女も、美しく輝いている。〔後略〕

 野見山氏は、確かに筆が立つ。
 そこで今回は、まず、野見山氏の『略歴』をご紹介するが、氏の著書『四百字のデッサン』の中から随筆【履歴書】を、以下に記した【略歴】の後にご紹介させて頂くこととする。因みに本著書は、1978年「essayist club賞」を受賞している。

【略歴】
1920(大正09)年 12月17日(戸籍上は1921年01月01日)、福岡県穂波村(現・飯塚市)に生まれる。実家は農家の旧家
1933(昭和08)年 03月、飯塚尋常小学校卒業 04月、福岡県嘉穂中学校(現・福岡県立嘉穂高等学校)入学 1年生の2学期、東京美術学校師範科を卒業して赴任して来た鳥飼龍海先生の影響を受ける。東京美術学校進学の為、氏の父佐一を説得したのも鳥飼先生である
1938(昭和13)年 03月、嘉穂中学校卒業 04月東京美術学校(現・東京藝術大学)油画科予科入学 この時油画科入学したのは38名。当時の本科の教授は、藤島武二、岡田三郎助、小林萬吾、南薫造の4人
 余談だが、母校時習館高校美術科教諭冨安昌也先生(1918年生)は卒業年次(昭和16年卒)で野見山氏(昭和18年卒)の2年先輩に当たる
1943(昭和18)年 09月 卒業制作展に『妹の像(添付写真[05])』出品。11月 徴兵。満洲へ。12月10日肋膜に水が溜り入院
1944(昭和19)年 02月 内地送還、大阪陸軍病院に入院
1945(昭和20)年 09月 前月傷痍軍人福岡療養所にて終戦を迎えた氏は実家に帰る
1946(昭和21)年 10月 坂本繁二郎等によって前年11月結成された西部美術協会の公募展に出品した《塔》で福岡県知事賞受賞
1948(昭和23)年 11月 妹和子の同級生で福岡市在住の内藤陽子と結婚
1952(昭和27)年 12月 仏政府私費留学生として渡仏
1953(昭和28)年 01月 Paris在住
1955(昭和30)年 10月 陽子夫人Paris着、夫人とParisで暮らす
1956(昭和31)年 10月 陽子婦人、癌の為死去(29歳)
1958(昭和33)年 09月 本人Paris在住の儘、ブリヂストン美術館にて「渡欧作品による野見山曉治展」開催 11月 『岩上の人』で第2回安井賞受賞
1964(昭和39)年 06月 Paris発ち帰国
1968(昭和43)年 10月 東京藝術大学助教授(美術学部絵画科)に就任
1971(昭和46)年 08月 福岡市在住の武富京子と結婚
1972(昭和47)年 04月 東京藝術大学教授に就任
1978(昭和53)年 01月 『四百字のデッサン』出版 07月 同書で第26回日本essayist club賞を受賞
1981(昭和56)年 03月 東京藝術大学定年退官、その儘客員教授就任
1986(昭和61)年 06月 同大学名誉教授となる
1988(昭和63)年 03月 同大学客員教授退く
2000(平成12)年 11月 文化功労者となる

 以上の氏の略歴も、『四百字のデッサン』では以下の様になる‥。(笑)

【履歴書】
 何かのことで履歴書が必要になるたびに、私は後ろめたい気持になり、いつも目をつむって一気に書く。
 ××年、小学校卒、同年中学校入学。××年、中学校卒業、同年、美術学校入学。
 表ヅラはうまく整っている。内訳はこうだ。中学に行きたい希望者として手を上げさせた生徒の中に私を見て受け持ちの先生はおどろく。ビリ近くで合格。だから中学に入ってからは、もう何が何やらさっぱり解らず、見事な落第候補者となる。思いあまって、日ごろからお世話になっている図画の先生に頼み込む。
 急ぐことはない、一年二年違っても人生たいした遅れではない。お寺出身の先生はのんびりしたことをおっしゃった。それでも先生は気になるとみえ、期末試験のときは私の教室の担当官になる機会をつくり、XやYについての答え、英語のspell等を、級長の考案どおり私の机の上に、指でそれとなく書いて下さるという有難さであった。
 美術学校入学、straightで入ったというのでよく賞められるが、なにしろ戦争に向かって日本全体がナダレ現象を起こしているときだ、これは親不孝モノばかりのよせ集めで、日本全国からはせ参じたのが二百人とは居なかった。最初の一学期の成績はビリから二番目。ビリの奴が、そんな親切なことを私に教えてくれたのだが、夏休みが終わったとき、肺病で亡くなり、そのビリは学校へ戻ってこなかった。
 それでしばらくたった三年のとき私は落第する。かなり侘しい気持であったが、結局、同級生たちは私より一年先に卒業し、一年早く戦地に征くという憂目にあう。卒業するまで徴兵は延期してくれる。私は味をしめて、もっと落第したかったが、自分から落ちてゆく勇気なく卒業。
 それは賢明だった。私より下の学生は学徒出陣という命令で、卒業を待たず一網打尽出征することになったからだ。しかし私の学年もそうのんびりさせられたわけではなく、半年早く前年の秋に卒業させられた。はからずも、全くはからずも、入学から卒業までの年次は落第したにもかかわらず、だからピッタリと合う。
 同年、西部××部隊に入隊。××年、終戦となり実家に帰る。
 この内訳は次の様なことになる。ソ連国境近くで一ヵ月とたたないうちに肋膜に水が溜まり入院。何ヵ月かを国境の病院で過ごして旅順陸軍病院送りとなる。旅順の近くまで来て、bedは満員と断られ、やむなく釜山の病院に向かう。釜山の病院でも断られ、やむなく船に乗って内地の病院へ。
 日本の軍隊が次々に敗けている最中、私は合法的に内地に舞い戻ったのだ。国運とは逆に私の病状は回復し、八月に終戦を迎えてから一ヵ月たったころ、退院。
 誰の目にもそれは、戦いに敗れて日本へ引き揚げてくる兵士たちの一人に見えた。日本を統治したMacArthurは、傷痍軍人制度を廃止する為に、一時金として私にも大量の金をくれた。親父は世間に恥じて、このことは誰にもいうなと忠告をした。私の履歴書はこれらの事実をすべて隠している。〔了〕

 以下に氏の展示作品の幾つかをご紹介する。

[04]野見山曉治『渋谷風景』1938年
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––––––––––––––––––––––––[05]野見山曉治『妹の像』1943年
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[06]野見山曉治『港風景』1951年
 061951

––––––––––––––––––––––––[07]野見山曉治『廃坑』1951年
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    ※ ※ ※

[08]パリ時代の野見山氏
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    ※ ※ ※

[09]野見山曉治『ベルギーのボタ山』1954年
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––––––––––––––––––––––––[10]野見山曉治『丘(クレーン)』1957年
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[11]野見山曉治『ブラッセルの女』1957年
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––––––––––––––––––––––––[12]野見山曉治『アニタ(Ⅰ)』1955年
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[13]野見山曉治『岩上の人』1958年
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––––––––––––––––––––––––[14]野見山曉治『落日』1959年
 141959

[15]野見山曉治『人間』1961年
 151961

––––––––––––––––––––––––[16]野見山曉治『虚空』1962年頃
 161962

[17]野見山曉治『アンダルシア』1964年
 171964

––––––––––––––––––––––––[18]野見山曉治『蔵王』1966年
 181966

[19]野見山曉治『ある日』1982年
 191982

––––––––––––––––––––––––[20]野見山曉治Book design『四百字のデッサン』文庫本カバー装画 1982年
 20book_design_1982

[21]野見山曉治著『四百字のデッサン』 1982年
 21_1982

––––––––––––––––––––––––[22]野見山曉治Book design『新潮3月号』表紙絵(気やすめの場所) 1983年
 22book_design3_1983

[23]野見山曉治『そら耳』1999年
 231999

––––––––––––––––––––––––[24]野見山曉治Book design『しま』原画(ゆうひがうみの階段をおりていく) 1999年
 24book_design_1999

[25]野0見山曉治『待ちぼうけ』2000年
 2502000

––––––––––––––––––––––––[26]野見山曉治『もっと遠く』2004年
 262004

[27]野見山曉治print『いたずらな部屋』2004年
 27print2004

––––––––––––––––––––––––[28]野見山曉治print『短い夜』2006年〔blog参照〕
 28print2006

[29]野見山曉治print『足音がする』2006年〔blog参照〕
 29print2006

––––––––––––––––––––––––[30]野見山曉治print『見たような景色』2009年〔blog参照〕
 30print2009

[31]野見山曉治『かけがえのない空』2011年
 312011

【小生comment】
 野見山氏の作品を時系列に並べて見ましたが、皆さんはどの様な感想をお持ちになりましたか?
 「具象から抽象へ」の流れが実感出来たのではないでしょうか。
 Cubism の影響を受けていた頃の[07]『廃坑』1951年や、「具象から抽象」への過渡期である「[14]『落日』1959年」や「[16]『虚空』1962年頃」は傑作だと思いますし、「[17]『アンダルシア』1964年」は三岸節子の作品を想起させ、氏の筆の確かさに感服させられますネ。
 それにしても野見山氏は、勿論、実力あってのことであることに相違ないとは言え、何と強運の持ち主だろう。満洲北方迄征って入院してい乍ら無事日本に戻って来られた上、東京美術学校卒業時の席次が35名中23位であったのにも拘らず、後年、東京藝術大学の教授に就任している。
 そして今月17日で満91歳となる迄、現役の画家として矍鑠として活躍されている。

 以上の作品のほか、野見山氏の筆が立つ証左として、「巨匠の贈りもの ― 坂本繁二郎」や「法隆寺の壁 ― 和田英作」等はよく出来ている。
 そこで、《会報》次号では野見山氏と同じ福岡県出身の「巨匠の贈りもの ― 坂本繁二郎」をご紹介させて頂きます。お楽しみに‥。

【後記】今日のお別れは、久しぶりに anti-aging関連のお話です。小生最近、慶應義塾大学医学部教授 伊藤裕氏の著作『臓器は若返る』と『腸! いい話』を読みました。そして健康長寿の秘訣の一端を理解した様な気持になりましたのでその辺りのお話を少しだけさせて頂きお別れしたいと思います。

[32]伊東裕『臓器は若返る』『腸! いい話』より
 32

 生物は、生きる活力をリン酸基の結合として貯め込んでおく。この結合の代表がATP(アデノ三リン酸)で、これを多量に獲得することを、我々生物は、細胞中に存在する『ミトコンドリア(mitochondria)』という物体を獲得することで実現したのである。
 「生きること」は、食べ物を探して動き回り、そしてそれを食べることであった。いわば『食べることは真核生物の宿命』。つまり(我々は)【食べる為に生きる】のである。
 『老化』は「mitochondriaの衰え」と捉えてもいい。
 「新陳代謝がいい ― よく食べ、よく動いている、威勢のいい奴」の方が長生き出来る様だ。つまり、「太く長く生きられる」。
 「長生き」するには「mitochondriaを鍛えれ」ばいい。その為には「運動」するのがいい。これにより全身にenergyが漲って来る。
 「mitochondriaを鍛える」為に理想的なのは「ちょいきつめの運動を出来るだけ長く続ける」ことが望ましい。
 繰り返すが、「体を鍛える」というのは、「mitochondriaを元気にする」こと。
 血管拡張hormonは、mitochondriaの燃料の酸素を沢山運ぶ為に血管を広げる作用をするだけでなく、mitochondriaそのものを元気にしてくれる。
 だから運動をして血の巡りを良くすると、血管拡張hormonが沢山分泌されて筋肉のmitochondriaが元気になるのである。

 要は、「よく運動してmitochondriaを鍛えれば若さを保持出来る」ということである。尚、「カロリー(calorie)は低めに抑えた食生活を!」を言い添えて起きます。〔為念〕

 では、また‥。(了)

2011年12月20日 (火)

【時習26回3-7の会 0372】~「12月03(土)~04(日):『吉野山&奈良〔西ノ京・当尾・柳生街道・高畑〕旅行』〔その2〕」

■今泉悟です。【2637の会】《会報》【0372】号をお届けします。
 今日(12月19日)のNewsで、隣国北朝鮮の金正日総書記が一昨日12月17日(土)朝、国内視察の為、移動中の列車において心筋梗塞で死去したと報じられた。金総書記の後継者は20代後半と言われる同氏の三男正恩氏だが、この儘平穏に権力承継が進んで行くかどうか予断は許されない。当面、朝鮮半島の政治・軍事動向から目を離せなくなってしまった。
 欧州の金融危機と極東の政治不安。それに加えて、来(2012)年はRussia大統領選(03月04日)・米国大統領選(11月予定)・中国国家主席交替(10~11月)の超大国元首交替が行われる(or交替の可能性ある)年でもある。日本の国益を守る為にも注視して行くことが肝要な一年である。

■さて今日は、前《会報》にてお約束した通り旅行2日目(12月04日)『吉野山&奈良〔西ノ京・当尾・柳生街道・高畑〕旅行』〔その2〕の模様をお送りします。
【12月04日(日)】
 我々が今回宿泊所に選んだのは、吉野山・新吉野温泉 辰巳屋。
 食事は夕食・朝食とも立派で美味しかった。宿泊料金もreasonable。
 女将や仲居さん達の対応は大変親切で感じがとても良かった。
 久しぶりに本物の「日本の温泉旅館」に出会えたと感じた。
 旅行初日の夜は、青木さんと中嶋君が囲碁対決している最中に小生は一足先21時前に就寝。
 二日目は一人04時20分に起床し布団の上で06時過ぎ迄100分間の腹筋。
06:30露天風呂で入浴
07:00朝食
 辰巳屋の朝食は通常07時30分からであるが、出発時間の関係から30分繰り上げて貰った。
 出立の準備をしていた時、一眼レフ(reflex)cameraを誤って床に落として仕舞い、28-80mm zoom lensを壊してしまった。
 その為、2日目の写真は70-300mm zoom lens での撮影となり満足した angle からの撮影が確り出来なくなったことが悔やまれる。
07:45 check outし、一路48km北上。
 我々が最初に向かったのは、奈良《西ノ京》の3つの社寺「喜光寺」→「菅原天満宮」→「西大寺」。
09:30喜光寺着[拝観料500円]
 本寺は、行基が721(養老5)年に創建。彼が東大寺大仏殿建立の際に当寺本堂を参考にしたと伝承され、今も本堂は「試みの大仏殿」と呼ばれる。
 本尊は阿弥陀如来像〔平安時代の作〕。
 本寺の拝観受付で対応してくれた美しい女性の対応が大変親切で心地良かった。我々が次に向かう菅原天満宮への道順を尋ねると、一旦退出した我々に喜光寺境内への再入場を勧め本坊脇の門まで誘導してくれたのである。
 奈良の女性は、吉野山・辰巳屋の女将といい、この女性といい、親切で温かい人柄に感銘を受けた。
 [01]喜光寺本堂
 01

 喜光寺の東側にある道を北へ100m程行くと‥
09:52菅原天満宮がある。
 [02]菅原天満宮の前にて
 02

 菅原道真の誕生の地であり、菅原家発祥の地である。祭神は天穂日命(あめのほひのみこと)、野見宿禰(のみのすくね)、菅原道真の3柱である。
 「菅公の生誕の地がここなのかぁ‥」と感慨一入(ひとしお)であった。
 ここから車で1km少し行くと西大寺である。
10:08西大寺着[拝観料:本堂400円・四王堂300円・愛染堂300円]
 本寺は、真言律宗総本山。天平宝字08(764)年09月、孝謙上皇(同年10月重祚し称徳天皇)が恵美押勝の乱平定を祈願、金銅四天王像造立を発願。
 翌天平神護元(765)年、西大寺が創建され、造立された当該四天王像は今も西大寺四王堂に安置されている。但し、各像は後世の作のもので、足許に踏みつけられている邪鬼だけが創建当時のものである。
 本寺は、平安時代に一時衰退したが、鎌倉時代になり叡尊(1201-90)により復興された。
[03]西大寺本堂
 03

 10:35西大寺を後にした我等が次に向かったのが、京都の南東端・当尾(とうの)の岩船寺(がんせんじ)である。因みに、岩船寺もその次に行く浄瑠璃寺、そして二日目最後の訪問地の白毫寺の3寺はいずれも西大寺を総本山とする真言律宗である。
 車は途中、平城京跡の最南端を東進。移動中11:00丁度に車窓から捉えた平城京朱雀門(1998年復元)が見えた。
[04]平城京朱雀門
 04

 西大寺から奈良市街を横断した後、車は北東へ向かった。走行距離15km程になる。京都と奈良の県境に位置し、住所は京都府木津川市加茂町。
11:30岩船寺着[拝観料300円]
 本寺は、天平元(729)年、聖武天皇の勅願、行基が創建。本尊の阿弥陀如来座像・三重塔(嘉吉02(1442)年建立)・十三重石塔(正和03(1314)年造立)等、国の重要文化財が数多くある。本寺は別名アジサイ寺とも。
[05]岩船寺・三重塔の前にて
 05

 岩船寺から次の目的地まで2km余りなので時間に余裕があれば徒歩で当尾の石仏群を3つ「一願不動(不動明王立像)」「笑い仏」「藪の中の三尊」を見たかったのだが全て見ることは諦め、岩船寺から300mと最も近い「一願不動」だけ徒歩で見に行った。
11:55一願不動(不動明王立像)着
[06]一願不動
 06
 06a

 踵を返して岩船寺に戻った我々は、車で浄瑠璃寺へ。
12:25浄瑠璃寺着[拝観料300円]
 本寺は、水原秋桜子が「馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺」と詠んだ北側に位置する『山門』を入ると、『浄土式庭園』の世界が広がる。
 西側が『西方浄土=【彼岸】』の世界を表わしている。正面の宝池を挟んで、右手(西側)に西の本尊である国宝・九体阿弥陀仏のある国宝・本堂〔=阿弥陀堂〕(嘉承02(1107)年建立)、左手(東側)に東の本尊である重文・薬師如来(=秘仏)が安置されている国宝・三重塔(治承02(1178)年京都一条大宮より移建)がある。
 九体阿弥陀仏の真ん中「中尊」の右手隣にある厨子の中に重文・吉祥天女立像(=秘仏)がある。この像は、写真家土門拳をして「最も美しい仏像」と言わしめた傑作である。流記(るき)によると建暦02(1212)年頃の作とされる。確かに写真を見ると凛とした気品ある天女像で美しい。
 残念乍ら、この天女像は三重塔の薬師如来座像と同様「秘仏」で、訪れた日は非公開の日であった。ただ「秘仏」と言っても、公開期間は、毎年01月01日~15日、03月21日~05月20日、10月01日~11月30日と04カ月半あるので、いつの日にか是非御尊顔を拝したいものである。
 岩船寺の阿弥陀如来に続いて、浄瑠璃寺本堂の九体阿弥陀仏の尊顔を配した小生、程なく一首が浮かんで来た‥

 ゆく秋の当尾 岩船 浄瑠璃寺 阿弥陀如来の慈悲数多(あまた)充つ  悟空

[07]浄瑠璃寺境内案内図
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––––––––––––––––––––––––[08]浄瑠璃寺山門
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[09]宝池と本堂(九体阿弥陀堂)
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––––––––––––––––––––––––[10]九体阿弥陀仏01
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[11]九体阿弥陀仏02
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––––––––––––––––––––––––[12]吉祥天女立像
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[13]浄瑠璃寺・三重塔
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 当初予定では、浄瑠璃寺を見た後、本寺入口付近にある食事処で昼食の予定であったが、この後の訪問地を当初予定通り見られる様時間を節約。
 小生から同行者3人に昼食を暫く我慢する様頼み、浄瑠璃寺から南東へ10km余りの所にある次の訪問地円成寺(えんじょうじ)へと車を進めた。
 車の移動中にconvenience storeに立ち寄り弁当等を買うこととしたが、そのコンビニは結局1軒もなかったのである。(笑)

13:15円成寺着[拝観料400円]
 円成寺は、柳生と奈良を結ぶ《柳生街道》のほぼ中間地点にある。ここは運慶20代の(安元元(1175)年)作とされる国宝・大日如来座像が本寺の仏像彫刻の白眉である。中嶋君が是非見てみたいと言っていたが頷けた。
 本寺にも浄土庭園が広がり、浄瑠璃寺とはまた違った荘厳な雰囲気で訪れた者を魅了してくれた。
[14]円成寺庭園
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––––––––––––––––––––––––[15]国宝・大日如来像
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 円成寺から奈良市街南部である《高畑》に向かう為、車を西南西へ約13km進めた。今回の旅行も大詰め、最後のareaである。
 訪問予定地の「志賀直哉旧居」「新薬師寺」「白豪寺」は、小生の希望で行程に入れさせて貰ったものである。

14:23新薬師寺
 行程表通り、まず志賀直哉旧居へ向かったが近くに駐車場がないので「新薬師寺」に先に向かった。
 本寺は、聖武天皇眼病平癒祈願の為、光明皇后により天平19(747)年勅願によって建立。「新薬師寺」の「新」は「あたらしい」ではなく、「あらたかな(=「灼」:神仏の霊験や薬の効き目が著しいこと)」薬師寺という意味である。
 本寺は、本堂、薬師如来座像、十二神将像11体が国宝〔ハイラ大将(昭和6年補作)を除く〕。
 奈良時代作という最古最大の十二神将が本尊・薬師如来座像を囲繞(いじょう)する姿は実に壮観である。
[16]バサラ大将
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––––––––––––––––––––––––[17]バサラ大将〔CG復元画像〕
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[18]本尊・薬師如来座像を囲繞する十二神将
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 新薬師寺から北へ数百米歩いて行くと志賀直哉旧居である。志賀邸へ至る道は詩情があって落ち着いた雰囲気が大変心地良かった。
14:50志賀直哉旧居着[拝観料350円]
 文豪志賀直哉(1883.02.20-1971.10.21)が昭和04(1929)年04月から13(1938)年04月(46歳~55歳)迄9年間住んだ家で、志賀自身が設計した和洋折衷の当時としてはmodernな high senseな建物である。彼はここで9年間放置されていた有名な著作『暗夜行路』を仕上げた。
 志賀の日記に次の様に記されている。

 昭和十二年三月一日 月「暗夜行路」五十三枚とうとう書上げた、
 三月四日 木「暗夜行路」清書出来る、八分の通りの出来、夜明けの描写割によく、満足する、夜不ニ木 加納 松田来て麻雀、文藝春秋の柳澤来る

 余談だが、添付写真[20]は志賀直哉55歳当時の写真。ハッキリ言ってとても handsomeである。
 また武者小路実篤(1885-1976)は志賀の奈良・高畑の書斎で原稿を書いている。

 奈良の志賀さんに会ひに、小林秀雄(1902-1983)君とぼく(=【注】武者小路実篤)と、二人で行った。上高畑の土塀の所の、例の中の口の戸開けて入ると、「仕事中面会謝絶」の貼紙の字に向いて、ぼくは一寸ためらつた。上がつて行くと、裏庭の方から志賀さんは「おう」とぼくらを見て、そして、南向の椅子の部屋で三人は向き合つた。(後略)

 小林秀雄も『志賀直哉論』(昭和13年)において「暗夜行路」について、敬愛しているこの作家の世界を次の様に語っている。

 「暗夜行路」は、傑(すぐ)れた恋愛小説である。通読して幾年ぶりでほんとうの恋愛小説に出会ったろうと思ったが、それほど現代では恋愛小説と呼ぶ事の出来るものが払底している。〔中略〕
 「暗夜行路」には、恋愛の戯画に類する様なものの片鱗さえない。登場する男女の間に、心理上の駈引なぞ一切見られない。〔中略〕恋愛とは、何を置いても行為であり、意志である。〔中略〕だから、恋愛小説の傑作の美しさ、真実さは、例外なく男女が自分等の幸福を実現しようとする誓言に基づくのである。〔中略〕
 そこから「暗夜行路」の強い倫理的色彩が発する。〔中略〕生活の何んたるかを生活によって識(し)った者には、誰にでも備わった智慧だ。「暗夜行路」は、この確かな智慧だけで書かれている。〔中略〕この主人公〔=時任謙作〕の掴んだものは、恐らく深い叡智だが、その根は一般生活人の智慧のうちにある。〔後略〕

[19]新薬師寺から志賀直哉旧居へ向かう道にて
 19_2

––––––––––––––––––––––––[20]「暗夜行路」最終章を執筆の頃(55歳)志賀直哉」
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[21]晩年の志賀直哉
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––––––––––––––––––––––––[22]志賀直哉旧居「表門から玄関へ」
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[23]同「1階書斎」
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––––––––––––––––––––––––[24]同「2階書斎」
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15:20志賀直哉旧居を後にして程なく我々は、流石に空腹となり喫茶店風の店でcurry & riceを注文し遅い昼食を摂った。
 一休憩を終えた我々は再び新薬師寺へ歩いて戻った。
 そして今度は車で更に南へ1.4km程行くと白毫寺である。

16:30白毫寺(びゃくごうじ)着[拝観料400円]
 陽が釣瓶落しの様に西に大分傾き、日没間近となった。流石に晩秋である。日が短い。
 本寺は、関西「花の寺」25霊場18番で、「もう少し前だと、萩の花が咲き大変綺麗だ」と拝観受付の女性が言っていた。
 本寺は、霊亀元(715)年、天智天皇の第7皇子の志貴皇子(しきのみこ)の没後、勅願により皇子の山荘跡を寺にしたのが始まりと伝えられる。
 因みに志貴皇子は、万葉集の名歌「石走(いわばし)る垂水の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも」の作者である。
 そして、志貴皇子の第6皇子白壁王が桓武天皇の父、弘仁天皇である。
 境内から西を遠望すると、空が燃える様に真っ赤に奈良盆地が一望出来た。最高に美しい晩秋の夕暮れであった‥。
 その絶景を前にして、次の様な恋歌が小生の脳裏に浮かんだ。拙歌ですがどうぞ‥

 茜さす君思ほゆや白毫寺(びゃくごうじ) 深紅に燃ゆる晩秋の暮  悟空

[25]白毫寺から見た深紅の夕焼けと奈良盆地遠望
 25_2

––––––––––––––––––––––––[26]紅白の萩の花が咲き乱れる白毫寺参道
 26
 
17:00に白毫寺を発ち、我等は200km近くを約5時間かけて家路を急いだ。帰宅時間は最終の中嶋君が22時半を廻っていたと思う。〔了〕

■今日も、文中で詠んだ俳句と短歌を再度纏めてお示ししてお別れしたいと思います。

 馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺 水原秋櫻子 '  石走る垂水の上のさわらびの萌えいづる春になりにけるかも  志貴皇子 '  ゆく秋の当尾 岩船 浄瑠璃寺 阿弥陀如来の慈悲数多充つ  悟空 '  茜さす君思ほゆや白毫寺 深紅に燃ゆる晩秋の暮  悟空

 では、また‥。(了)

2011年12月 8日 (木)

【時習26回3-7の会 0371】~「12月03(土)~04(日):『吉野山&奈良〔西ノ京・当尾・柳生街道・高畑〕旅行』〔その1〕」

■今泉悟です。【2637の会】《会報》【0371】号をお届けします。
 明日12月09日は終日東京出張。明後日と明明後日(12月10~11日)は、社員旅行で大阪へ。
 週末に《会報》を作成する時間がありませんので、今日08日に配信させて頂きます。
 まずは、12月02日(金)18時半から豊川市内にて執り行われた故山田H則君【3-1】の通夜式についてです。
 通夜式には、時習26回同期の飯田H祥君【3-2】の車で、水藤T詳君【3-6】の3人で行って来ました。
 山田君が学校の先生であった関係から、豊川市内の学校の先生達が大勢お参りに来ていました。
 そして、その中に山田君同様に豊川市内で教職に就いている澤井T樹君【3-6】の姿もありました。
 後日水藤君から聞いた処によると、翌日の葬儀告別式には、通夜式に参列した飯田君と水藤君、澤井君のほか、宮田T康君【3-2】、鈴木T昌君【3-8】が参列された由。
 小生、山田君とは高校1~2年同じクラスで仲良しでした。そんな彼との懐かしい想い出の断片を「不老荘掲示板」に掲載しました。以下にその一部をお示しします。ご覧下さい。
  ※ ※ ※
 小生、山田H則君とは、【1-4】【2-8】でclassmateでした。
 「おいっ、HM(←小生の渾名)さん! 何やっとるだん! チャッと(←急いでという意味)やりん!」。
 昭和46~47年高校1~2年当時の、メガネの奧から光る優しい目の山田君の笑顔と、三河弁丸出しの明るく大きな声が今も忘れられない。
 時習館卒業後も、【3-2】のI君や【3-6】のS君等と、ワイド周遊切符で旅行に行ったり、彼の車に載せて貰って遠州灘にdriveに行ったりと、懐かしい想い出が脳裏を今よぎる。
 その当時から、彼は健康には気を付けていたと思ったが‥。
 我々heavy smokers(当時)が、彼の車の中で煙草を吸おうとすると、「おい、コラッ、これが見えんだかん!? 車内禁煙ダニ!」と禁煙stickerを貼った灰皿を示して彼の大声が車内に響いた‥。
 これ等の懐かしい思い出も、今は昔のこととなってしまった‥。〔後略〕
  ※ ※ ※
 改めて、故山田裕則君のご冥福をお祈りします。〔合掌〕

■さて、気分一新、次の話題です。本《会報》のmainは、前《会報》にてお知らせした様に、「12月03(土)~04(日):『吉野山&奈良〔西ノ京・当尾・柳生街道・高畑〕旅行』〔その1〕」です。
 谷山K君【3-3】・中嶋Y行君【3-2】等との一泊二日旅行としては、今春06月05日付《会報》【0344】にてご報告した「05月28~29日:『七尾城跡・總持寺祖院・金沢城&史跡巡り』以来である。谷山君、中嶋君、そして、両氏と同じ「城跡巡りの会」memberである青木さん、そして小生の4人full membersが参加。
 今回の旅行は、「金峯山寺を中心とする吉野山と、奈良〔西ノ京:西大寺、当尾:岩船寺&浄瑠璃寺、柳生街道:円成寺〕を入れてくれ」という3人からの希望をもとに、小生が希望する奈良〔高畑:志賀直哉旧居・新薬師寺・白毫寺〕を加え、行程表を作成。
 内容が大変 fruitfulですので、今日は初日の模様を、次号で〔その2〕として二日目の模様をご報告させて頂きます。
【12月03日(土)】
05:35中嶋宅発/06:00今泉宅発/06:05青木宅発/06:25谷山宅発
〔東名・東名阪・名阪国道経由 谷山宅から吉野神社迄215km、約5時間の旅である〕
10:25吉野神社着
11:13金峯(きんぷ)神社着
 金峯神社は関白藤原道長も参詣。創建は奈良時代以前の説もある古社。
 水墨画の様に幻想的な境内を奥へ100m程下って行くと兄頼朝に追われた義経が隠れた塔『義経隠れ塔』があった。
11:15義経隠れ塔着
[01]義経隠れ塔
 01

––––––––––––––––––––––––[02]金峯神社周辺の水墨画の様な樹林
 02

 金峯神社から西行庵までの距離約700mの道程は起伏あり道幅も極端に狭く徒歩でしか行けず、予想以上に遠く感じられた。
11:40西行庵着
[03]西行庵前にて
 03

 この庵は、西行が俗世を避けて3年間幽居した場所と伝えられる。
 奥深い山中の庵であり、こんな所で3年間も一人で生活したら気が狂いそう。(笑)
 再び徒歩で金峯神社まで戻り、車で1.6km程移動。
12:15吉野水分(みくまり)神社着
[04]吉野水分神社境内
 04

 本殿は、来春の祭り迄改修中であった。
 当初予定では竹林院へ行く予定だったが、腹が減った我等は北北西へ2.8kmの金峯山寺蔵王堂前にある食事処「やっこ」へ。
12:43柿の葉寿司 やっこ着
 昼食は、黒胡麻麺と柿の葉寿司と葛餅のsetで1,300円、美味だった。
[05]黒胡麻めんセット
 05

13:20金峯山寺着[拝観400円]
 道路を挟んだ正面が金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂〔蔵王堂〕である。今回の吉野旅行のmainの一つがこの蔵王堂をこの目で確かめることである。実に大きい建物である。
 昼食後最初に訪れジックリ鑑賞した。
 この蔵王堂【国宝】は室町時代(1592(天正19)年)の再建。木造古建築では東大寺大仏殿に次ぎ日本第2位の高さ(34m)を誇る。
 金峰山修験本宗〔=修験道〕の本山。本尊:蔵王権現。開基は役小角(634-701(えんのおづぬ)=通称:役行者(えんのぎょうじゃ))。
 『吉野山』:金峯山寺をはじめ当地区社寺が点在する山地を包括した名称。
 『金峯山』:吉野山(吉野町)から南の山上ヶ岳(さんじょうがたけ(天川村))にかけての山岳霊場の包括名称である。
 『大峰山(おおみねさん)』:狭義には「山上ヶ岳」、広義には八経ヶ岳を最高峰とする紀伊山地の脊梁「大峰山脈」を指す。
 『八経堂ヶ岳(はちきょうがたけ)』:天川村と上北山村の境にある近畿地方の最高峰(標高1,915 m)。
[06]奈良県市町村一覧
 06

––––––––––––––––––––––––[07]金峯山寺蔵王堂
 07

[08]金峯山寺蔵王堂前にて
 08

 車は1.7km踵を返し竹林院へ。
14:07竹林院着[拝観300円]
 本院は、寺伝によれば、聖徳太子が開創し椿山寺と称し、その後弘仁年間(810~24年)空海が入り常泉寺と称した。1385年に竹林院に改称。
 戦国時代の飲酒尊祐は弓道に優れ一派をなした。余談であるが、この一派が尾州竹林派、小生の大学時代の弓道部の流派である。
 また本院の庭園「竹林院『群芳園』」は、「当麻寺(當麻寺)の塔頭「中の坊」の『香藕(こうぐう)園』」、「大和郡山市小泉の『慈光院』庭園」と並ぶ、大和三庭園の一つ。寺伝によると、千利休の作で、細川幽斎が改修したという。落ち着いた雰囲気の名園である。
[09]竹林院庭園01
 0901

––––––––––––––––––––––––[10]竹林院庭園02
 1002

14:40櫻本坊(さくらもとぼう)着
14:50大日寺着
15:05如意輪寺着
[11]楠木正行が書いたと伝えられる辞世の句を見入る谷山君と中嶋君
 11

––––––––––––––––––––––––[12]後醍醐天皇陵
 12

15:50東南院着
15:55吉水神社着[書院拝観400円]
 通常は神社は拝観料を取らない筈なのに、ここ吉水神社は書院拝観料400円を払わされた。
 「どうして?」という疑問は書院に入った途端氷解した。ここは南朝の皇居だったのだ。
 本神社は、3柱いる主神のうち2柱が後醍醐天皇と楠木正成。書院には後醍醐天皇の玉間がある。

[13]後醍醐天皇の玉座
 13

16:20吉野山駅着
 車をお土産屋の駐車場に置き、そこから徒歩で距離にして約400mの【七曲り坂】を下った。
16:37千本口駅着
16:50千本口駅のcable carに乗り吉野山駅へ3分の旅を楽しむ。
【cable car(ropeway)】http://www.yoshino-oomine-ke-buru.com/time.html
16:58吉野山駅着
17:05辰巳屋着〔宿泊〕‥旅行初日の模様はこれにて終了。以下次号《会報》を乞うご期待!(笑)

■今日のお別れは、歌と俳句で参ります‥。
 先にご報告した通り、吉野山の如意輪寺には後醍醐天皇陵がある。同寺には、楠木正成の長男、正行(まさつら)が足利尊氏の側近高師直との合戦『四條畷の戦』に死を覚悟して赴く前、同寺の扉に書いた有名な辞世の句がある。
 1346(正平02)年12月、楠木正行がに出陣する折、一族郎党と共に如意輪寺にある後醍醐天皇陵に詣でた。
 その時、本堂の扉に鏃で刻んで次の辞世の歌を詠んだ‥

 かへらじとかねて思へば梓弓(あずさゆみ) なき数(かず)に入(い)る名をぞとどむる
【意】梓弓で放たれた矢の様に、私は生きて帰らず死者の仲間入る。が、我が名は残すぞ。
【補足】帰らじと予て思へば梓弓 亡き数に入る名をぞ留むる
     なき数=亡き者の数=鬼籍に入った人々 梓弓:「いる=入る≒射る」の枕詞
     「弓」という武具を用いて歌の詠み手が武人であることを表わしている

 その338年後、松尾芭蕉もこの如意輪寺を訪れている。芭蕉の「野ざらし紀行」に次の様にある。

 山を昇り坂を下るに、秋の日既斜になれば、名ある所々見残して、先後醍醐帝御廟を拝む〔野ざらし紀行/1684(貞享元)年秋〕

 御廟(ごびょう)年(とし)經て忍(しのぶ)は何をしのぶ草(ぐさ) 芭蕉
【意】長い歳月を経た後醍醐天皇の御陵(みささぎ)の傍にしのぶ草が育っている。が、いったい何を忍んでいるのだろう。

 それから更に327年経った本(2011)年12月03日同寺を訪れたのが我等4人。
 小生、如意輪寺にある後醍醐天皇御陵をお参りした後、天皇を偲び一首を、
 そしてvirtual realな世界であるが、続けて頭に浮かんだ恋歌をもう一首、続けて詠んだ。
 拙歌ですがご高覧下さい。

 南朝の悲哀も既に幾百年 吉野の山にただ埋(うず)もれぬ  悟空
 幾百年後(のち)になりても君想ふ 熱き心は煌めき続けむ  悟空

 では、また‥。(了)

2011年12月 1日 (木)

【時習26回3-7の会 0370】~「【訃報】昨日11月30日:時習26回同期生:故山田H則君逝去」「11月17日: 国立西洋美術館『プラド美術館所蔵~ゴヤ 光と影』展を見て」「11月27日:愛知県美術館『生誕100年 ジャクソン・ポロック展』を見て」「11月27日:大谷正人指揮伊勢管弦楽団『G.Mahler作曲交響曲第九番』」を聴いて」「11月29日:『フィルハーモニック・ヴィルトゥオーゾ・ベルリン with 川久保賜紀』演奏会を聴いて」

■今泉悟です。【2637の会】《会報》【0370】号をお届けします。
 まずは、【時習26回同期生の訃報】をお伝えします。掲題・副題に記しました様に、時習26回の同期生の山田H則君【3-1】が昨日午後03時亡くなられました。
 彼は02月生まれなので、まだ55歳。若過ぎる死です。

 通夜式は明日12月02日18時30分から、告別式は翌12月03日(土)09時00分から、いずれも豊川市内にある「東海典礼中央会館」にて執り行われます。
 念の為、住所と電話番号を記します。
 住所:愛知県豊川市中野川町1丁目3-1
 電話:0533-84-6861
 小生、山田H則君とは、【1-4】【2-8】でclassmateでした。
 実は、去る11月20日(日)の午後、飯田H祥君【3-2】とお見舞いに行って来た処でした。明晩の通夜式には伺う予定です。
 故人のご冥福を心よりお祈りします。〔合掌〕

■さて、訃報の後楽しい話をするのは心苦しいのですが、でも仕方ありません。本当のことですから‥。
 その楽しかった《クラス会 Part2》が終わってもう一週間が経とうとしています。
 時間が経過する感覚は、嬉しいこと楽しいことが、「過ぎ去るのはとても早く」、逆に「迎えるものはとても遅く」感じられますね。
 来年の【2637の会】《クラス会 2012年夏》まで、あと9カ月半ですが、大変待ち遠しく思います。
 さて、本《会報》はいつもより2日程早く配信させて頂きました。
 実は明後日と明明後日の両日、時習26回の同期の谷山君【3-3】と中嶋君【3-7】の二人と、このお二人と城跡巡りの会の仲間である青木さんと小生の4人で「城跡・社寺仏閣・芸術文化史跡巡り」に行って来るのです。但し、今回は城跡巡りはありません。(笑)
 この旅行の模様は次回の会報にてご報告の予定です。

■さて続いての話題です。掲題・副題にあります様に、11月17日仕事で上京し仕事を終えた後最初に立ち寄った、国立西洋美術館にて開催中のプラド美術館所蔵『ゴヤ(Goya) 光と影』展についてまずご報告させて頂きます。
 本展覧会の目玉は、leafletにある様に勿論ゴヤの『着衣のマハ』である。
 ミゲル・スガサ プラド美術館長はGoyaを次の様に表している。
 「私はGoyaを『最後の古典的画家』であり、『最初の近代的画家』だと位置づけている。旧体制から新しい時代への転換期を生き抜いた画家が抱えていた複雑さを、作品を通して知って頂きたい」。
 Goyaは、スガサ館長が言っていた様に、18世紀後半から19世紀にかけてFrance革命前後に 主にSpainの宮廷画家として活躍。彼のことを話し出すと、それだけでかなり長文になってしまうので、「Goyaが仕えたカルロス4世(CharlesⅣ)夫妻と宰相ゴドイ(Godoy)と『着衣のマハ(Maja)と裸のマハ』の関係」辺りをお話したいのですが、この話はまたの機会とさせて頂き、今日は敢えて彼の油彩画、それも美しい作品に限定してご紹介します。早速ご高覧下さい。
 これ等のGoyaの油彩画は、文句なく「綺麗だ!」と言えるものばかりで、画家としての彼の天賦の才が遺憾なく発揮されています。

 [01]『プラド美術館所蔵「ゴヤ」展』leaflet
 01leaflet

 ––––––––––––––––––––––––[02] Goya(1746-1828)『自画像』1815年
 02goya17460330182804161815

 [03]『日傘』1777年
 03goya1777

 ––––––––––––––––––––––––[04]『木登りをする少年たち』1791-92年
 04goya179192

 [05]『目隠し鬼』1788年
 05goya1788

 ––––––––––––––––––––––––[06]『着衣のマハ』1800-1807年
 06goya18001807

 [07]【参考】『裸のマハ』1797-1800年頃
 07goya17971800

 ––––––––––––––––––––––––[08]『スペイン王子 フランシスコ・デ・パウラ・アントニオの肖像』1800年
 08goya_1800

 [09]『ガスパール・メルチョール・デ・ホべリャーノスの肖像』1798年
 09goya1798

 ––––––––––––––––––––––––[10]『レオカディア・ソリーリャ(?)』1812-14年
 10goya181214

 [11]『アブランテス公爵夫人』1816年
 11goya1816

■続いては現代絵画である。愛知県美術館にて来年01月22日迄開催中の『生誕100年ジャクソン・ポロック展』の模様をお伝えします。
 本展leafletに描かれている絵は添付写真[19]『インディアンレッドの壁画』1950年〔テヘラン現代美術館〕である。
 この作品はポーリング※1([14]参照)で描いた作品で、Pollockが絶頂期にあった最高傑作の一つとされる作品である。
 ※1 ポーリング(pouring):床に広げた支持体※2に、流動性の塗料を流し込んで描く技法のこと
 ※2 支持体:(写真用語) 乾板・film・印画紙で、観光層が塗布されているglass・plastic・film・紙等のこと

 [12] Jackson Pollock
 12jackson_pollock

 ––––––––––––––––––––––––[13] ポロック展leaflet
 13leaflet

 [14] pouringという技法で制作に励むPollock
 14pouringpollock

 ––––––––––––––––––––––––[15]『コンポジション(Composition)』1938-41年頃
 15composition193841

 [16]『ポーリングのある構成Ⅱ(Composition with pouring Ⅱ)』1943年
 16composition_with_pouring_1943

 ––––––––––––––––––––––––[17]『無題(Untitled)』1946年
 17untitled1946

 [18]『無題(Untitled)』1949年
 18untitled1949

 ––––––––––––––––––––––––[19]『インディアンレッドの壁画』1950年
 191950

 [20]『カット・アウト(Cut Out)』1948-58年
 20cut_out194858

【小生comment】
 Pollockは、1956年08月11日夜、自動車事故を起こし、死去。1912年01月12日生まれの彼は享年44歳という短過ぎる生涯であった。
 因みに作品[16]は、未完の儘残されていたものを、妻のリー・クラズナ―が、彼女の判断によって別のPollock作品を裏から貼り付けて現在の形に完成させた。
 Pouringという技法を用いた作品は、添付写真の絵で言えば[12]~[16]がそうだが、それ以前は[11]の様にPicasso(1881-1973)のcubismeやKandinsky(1866-1944)の抽象絵画の影響を見ることが出来る。
 本展leaflet に副題として「ピカソを越えた男」とありますが、皆さんはどう感じられますか?
 彼のpouringの技法を用いた作品群は、確かに刺激的な絵ではあるが、小生は普通の抽象画に見えた。小生にはそれ以上でも、それ以下のものでもない。
 Pollockの作品を見た後で見た、愛知県美術館にて同時開催中であった所蔵品展の作品群の方が清楚で新鮮な感覚で小生の眼には心地良かった。

■続いては、ポロック展を見た後、同じ愛知芸術文化Center Building 4階にある愛知県芸術劇場Concert Hallにて、伊勢管弦楽団によるMahler作曲交響曲第九番ニ長調の演奏会があり、聴いて来ました。
 Mahlerの交響曲第九番と言えば、学術的に音楽史上で考えてみても、交響曲という枠組みの最後を飾る最高傑作と誰もが認める名曲、しかも演奏時間が全4楽章で90分程かかる大曲である。

 [21]伊勢管弦楽団
 21

 ––––––––––––––––––––––––[22]大谷正人氏〔blog参照〕
 221

 小生、大変失礼であるが、伊勢管弦楽団という地方都市の楽団が演奏するので、どの程度の演奏技術levelなのか訝ったのが正直な処であった。
 が、実際に聴いてみて、それが如何に偏見に満ちた失礼な先入観であったを実感し、そう思った自分を恥じている。
 指揮者の大谷正人氏もprogramの略歴紹介で初めて知った。それによると次の様にある。

 松坂市生まれ。三重県立伊勢高等学校、東京藝術大学音楽学部楽理科を経て、三重大学医学部卒業。
 1983年より1年2箇月、ミュンヘンにドイツ政府給費留学生として渡独。
 指揮を小林和裕、故山田一雄、チェロを河野文昭の各氏に師事。
 1981年の伊勢管弦楽団結成以来の音楽監督兼常任指揮者として活躍中。
 当初十数名でstartした同楽団をMahlerの大曲を何曲も演奏することが出来る水準に迄育てたことに関して、楽団の内外から高い評価を得ている。〔中略〕
 現在、三重大学教育学部教授、精神科医師。

 実際に聴いて見たが、確かに上手かった。percussionのtimpani奏者や8管編成のhornのうち半数の4名いずれも女性奏者。そして大変上手な演奏を聞かせてくれた。木管楽器のbassoon(fagotto)、oboe、clarinet、fluteもみんな綺麗な音が良く聞こえて来た。
 大谷先生の指揮者としての手腕が相当高いlevelにあるということを実感出来た。

 この日の演奏会は、「名古屋Mahler音楽祭~地域音楽文化の展開~」と題して、Mahlerの全交響曲を中心に一年余に亘り、名古屋市周辺地域のamateur orchestraが連帯し、多くの合唱団の競演も得乍ら公演、Mahler生誕150周年記念企画である。
 小生は、中嶋君【3-2】の代わりに聴かせて貰ったことを彼に感謝申し上げたい。
 因みに、「名古屋Mahler音楽祭」絡みでは、彼と一緒に、去る本年04月24日(日)に黒岩英臣指揮名古屋ムジークフェライン管弦楽団の演奏によるMahlerの交響曲第三番を一度聴いている。これもなかなか良かったことを覚えている。
 因みに、名古屋ムジークフェライン管弦楽団は、1985年秋に名古屋大学交響楽団のOBが中心となり結成された。

■今日最後の話題は、これも演奏会ですがずっと小規模なstrings ensembleです。一昨日11月29日の夜、これも愛知県芸術劇場Concert Hallで開催された『フィルハーモニック・ヴィルトゥオーゾ・ベルリン with 川久保賜紀』演奏会の模様です。

 [23] 『フィルハーモニック・ヴィルトゥオーゾ・ベルリン with 川久保賜紀』ticket
 23_with_ticket

 ––––––––––––––––––––––––[24]同上program
 24program

 フィルハーモニック・ヴィルトゥオーゾ・ベルリン(Philharmonic Virtuosi Berlin)は、昔ベルリン・フィル合奏団と呼ばれていた様に、世界最高のorchestra、Berlin P.O.のmembersを中心とした弦楽ensemble。
 彼等が得意とする演奏genreは、古典派・ロマン派に加え、SchonbergやBartokの作品で、演奏曲目は以下の6曲であった。

 [01] C.P.E.Bach : Sinfonia No.3 in C major Wq.182-3
 [02] Vivaldi : Violin Concerto "From Four Seasons"から「夏」&「冬」
 [03] J.S.Bach : Concerto for 2Violins in d minor BWV.1043
 [04] G.Rossini : 歌劇「泥棒かささぎ」序曲("La Gazza Ladra" Overture)
 [05] O.Respighi : リュートの為の古風な舞曲とアリア第3組曲(Antiche Danze ed Arie per Liuto, 3 Suite)
 [06] G.Rossini : Sonata for Strings No.6 in D major
 [encore] Karl Jenkins : Palladio
 
【小生comment】僅か数人のstringsを中心としたensembleだったが、良かった!
 中でも小生が「いいな!」と感じた曲は、4曲目のG.Rossini作曲の歌劇「泥棒かささぎ」序曲。このorchestra編成の曲を、たった5人〔第1&第2violinとviola、violoncello、contrabass各1名〕の弦楽五重奏の様な形式で演奏し「上手い!」と感じさせるのだから、各演奏者の技術水準が如何に高いことか。
 一昨日の夜のひととき‥、十分に癒され帰途についた。

【後記】昨日迄の小春日和ののどかな陽気から一変、寒くなって来ました。そして所によっては時折冷たい雨も降って来ました。「初時雨」です‥。
 今日お別れに、故山田裕則君を偲び拙句を一句‥

 逝く友を偲び泣く様な初時雨  悟空

 では、また‥。(了)

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