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2012年2月の4件の記事

2012年2月25日 (土)

【時習26回3-7の会 0382】~「02月16日:生誕100年記念『伊藤清永』展~華麗なる女性美の表現~を見て」」「02月23日:【新日本製鐵名古屋製鐵所】→【Linear=鉄道館】→【アサヒビール名古屋工場】視察会に参加して」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0382】号をお届けします。
 拙宅の紅白梅も「白梅が先に、そしてやゝ遅れて紅梅が咲く」という通説通り咲き出しました。でもまだご覧の通りチラホラです。見頃は来週三月初旬となりそうです。

[00a]拙宅の庭に咲いた「白梅」
 00aa1

––––––––––––––––––––––––[00b]同じく「紅梅」
 00ba1

 虚子が梅の花を詠んだ俳句に次のものがあります。

 此谷の梅の遅速を独り占む  虚子
 考へを文字に移して梅の花  虚子

【意】谷間の上下では梅の開花時期も違う。作者はその実感を時間も併せて「独り占め」にした満足感を味わっている。
【意】「梅の花」を見て思いついた句を文字にする。「考へ(=学問)」と「梅の花」は天神様〔菅原道真〕を想起させ、それがこの句に品格を与えている。
 小生も‥考へを文字に移して梅の花‥の俳句を一句つくってみました‥
【詞書】風にこそ肌を刺す冷たさが残る。が、晴れた日には、陽光が輝いて春到来を告げ、澄み切った青空を背景に紅白梅の花が風に揺らいでいる。青空というcanvasいっぱいに情景を変え乍ら美しい模様を描いている‥恰も「万華鏡」の様に‥

 青天に万華鏡の様(よう)紅白梅  悟空

 ※ ※ ※ ※ ※

 今日は、国公立大学の二次試験前期日程の第一日目です。一番下の愚息も受験しました。
 今週も時習26回や時習館高校の話題はありません。
 【2637の会】members皆さんからのお便りをお待ちしています。気軽にmailを下さい。お願いします。m(_ _)m

■さて今日の《会報》の話題は、02月16日仕事で名古屋へ出張した折見て来た、松坂屋美術館で開催中の「生誕100年記念『伊藤清永』展~華麗なる女性美の表現~」の模様についてである。まずは伊藤氏の略歴から‥
〔略歴〕
1911年 兵庫県出石郡出石町(現・豊岡市)に生まれる。生家は曹洞宗梵唱山吉祥寺
1923年 名古屋の曹洞宗第三学林〔現・愛知中学校〕に入学。母方の祖母の家〔千種区〕に下宿
1925年 美術講師野崎華年と出会い、油絵を始める
1928年 愛知中学卒業。父親の反対を押し切り、画家を目指し上京。長兄の居た柿の木坂の下宿に居候。野崎の紹介で岡田三郎助の門に入り、本郷絵画研究所に通う。川端学校にも通う
1929年 東京美術学校西洋画科に入学〔岡田教室に入る迄に二度肋膜炎を罹患し郷里で療養〕
1932年 東京美術学校岡田教室に入る
1933年 第14回帝展に『朝の路地』を初出品し初入選
1936年 01月、第13回白日会展に『秋の題』他を出品、会友奨励賞受賞し会員となる。10月、文部省美術展覧会鑑査展に『磯人』を出品し選奨受賞
1938年 06月召集され鳥取第四十連隊入隊〔翌年除隊〕
1942年 奥野千鶴子と結婚
1944年 07月再度招集され鳥取部隊に入隊
1945年 終戦により復員し生家に帰り、シベリア抑留中の次兄に代わり住職代理を務める
1947年 次兄復員。10月、第3回日展に『I夫人像』を出品し特選受賞
1948年 家族と共に東京杉並へ転居。第4回日展に『室内』を出品し特選受賞
1968年 01月、妻千鶴子没
1975年 『大勲位正装の佐藤栄作像』を制作、衆議院に収める
1976年 鈴木愛子と再婚。11月、第8回日展に『曙光』を出品、内閣総理大臣賞受賞
1977年 06月『曙光』が日本芸術院賞・恩賜賞受賞
1985年 日展洋画部審査主任となる
1986年 白日会会長就任
1996年 文化勲章受章
2001年 06月05日、急性心不全にて軽井沢病院にて没する〔享年満90歳〕

 ※ ※ ※ ※ ※

[01]伊藤清永氏
 01

––––––––––––––––––––––––[02]伊藤清永展の図録(左:『磯人』1936年)とleaflet(右:『鏡前』1949年)
 021936leaflet1949

[03]伊藤清永『太鼓櫓』1926年
 031926

––––––––––––––––––––––––[04]同『秋光』1934年
 041934

[05]同『母の肖像』1946年
 051946

––––––––––––––––––––––––[06]同『緑布に眠る裸婦』1952年
 061952

[07]同『セーヌの夜景』1962年
 071962

––––––––––––––––––––––––[08]同『赤衣のテレーズ』1962年
 081962

[09]同『曙光』1976年
 091976

––––––––––––––––––––––––[10]同『釈尊伝四部作~「涅槃」』1984年
 101984

[11]同『小憩』1988年
 111988

【小生comment】
 伊藤氏は、画家としては総じて順調な人生を全うされた人物である。
 ただ、その順調な人生に於いても、「才能を開花させた『本人自身の努力』」と「彼に油絵を始めた時それを手解きし、東京美術学校進学に際しては当時の日本洋画家の巨匠岡田三郎助を紹介してくれた中学時代の美術講師との縁、即ち『人との縁』」というものが必ずあるものだと、伊藤氏の略歴を見て実感した。『縁』は大切にしたいものだ。
 彼の画風についてだが、添付写真の絵をご覧の様に、当然乍ら中学時代のごく若い頃の絵からは後の彼の特徴は見いだせない。確立されたのは、本格的に「裸婦像」を描き出した戦後になってからである。
 また、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞した『曙光』を見ると、Renoirの裸婦像を思い出す。画法・色彩が良く似ている。

■続いては、一昨日02月23日、地元豊橋の地域研究団体主催の「新日本製鐵名古屋製鉄所→Linear=鉄道館→アサヒビール名古屋工場」視察会に参加して来ましたのでご報告させて頂きます。
 当日は、午前中は結構纏まった雨に見舞われた。小生、今回の訪問先3箇所はいずれも訪れたことがない。
【1:新日本製鐵名古屋製鐵所】
 実は小生、昭和61年04月から平成3年2月迄の銀行時代、5年間程、東京大手町にあった融資部事業調査室で産業調査manを務めていた。
 担当業種は、最初の2年が石油・石油化学・医薬品業界。真ん中の1年が鉄・非鉄金属・Non-Bank業界、最後の2年が建設・不動産業界である。
 したがって、製鉄業界は結構真剣に勉強した覚えがある。工場見学も仙台市にある東北特殊鋼の電炉は見たことがあるが、高炉はまだ見ていない。
 ここで、鉄がどの様にして造られるのかごく簡単にご説明する。ちょっと面倒ですが頭を整理するつもりで聞いて下さい。

 炭素[C]2%と鉄[Fe]98%の含有率の合金が『鋼(こう・はがね)』という鉄製品である。そして「鋼」を作ることを「製鋼」という。
 「鋼」が出来る流れは以下の通りである。

[00]【原料】鉄鉱石(=酸化鉄)・石灰石・石炭。
[01]【コークス炉】まず、石炭をコークス(coke)炉で高温燃焼し硫黄分を除去、炭素を高く含有したコークスを作る。
[02]【高炉】当該コークスにより火力がupし、「高炉(2000℃近い高温)」で鉄鉱石を還元させる。コークスは高炉内の高温化の他、炭素[C]をCOと結合させて還元する役目も担う。石灰石は、溶融した鉄鉱石に含まれるケイ酸塩等と化学反応させ『スラグ((slag)= 鉱滓(こうさい)』として高炉外に排出、鉄の純度を高める役目を果たす。この高炉内で出来た鉄の塊を「銑鉄(せんてつ(=pig iron))」といい、この製法を「製銑」という。
[03]【一次精連】この溶融している「銑鉄」を『転炉(てんろ(=converter))』に入れ、ここに酸素[O2]を加え、「銑鉄」内に残っている炭素[C]と反応させて鉄の純度を更に高める。
[04]【二次精錬】ここで最終製品の「鋼」としての成分調整を行う。
[05]【連続鋳造】この鋳造過程を経て、溶融した鋼塊を扁平(厚さ25cm)に圧延した半製品『スラブ(slab)』をつくる。
[06]【圧延】ここで、「厚板」「熱延」「冷延」という各種工程を最終製品の用途に応じて行う。
※ 新日鐵名古屋製鐵所は、『銑鋼一貫工場』であると共に、【圧延】に留まらず、「亜鉛メッキ」「錫メッキ」、鋼管をつくる「中径管」の工程迄備えている。
 我々は、以上の工程の中から、「熱延」工場の作業風景と、現在2基ある高炉のうち、2007年に建直しが行われた第1高炉の使用済の旧高炉を見学した。
 因みに、第1高炉の容積は5,443立米。日本で第5位の大きさだという。因みに日本一は新日本製鐵大分製鐵所第1高炉&第2高炉で、何れも5,775立米の容積。世界最大の高炉でもある。

[12]新日本製鐵名古屋製鐵所の鳥瞰写真
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––––––––––––––––––––––––[13]主要設備と製造工程 ‥ 以上、新日本製鐵名古屋製鐵所leafletより‥
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[14]使用済の旧第1高炉の外部
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––––––––––––––––––––––––[15]使用済の旧第1高炉の内部の模様
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【小生comment】
 本製鉄所は、昭和33年設立。現在正社員3,500人と協力会社167社の従業員10,000人、併せて13,500人が、工場は4組3交代で24時間フル稼働で働いている。
 世界最先端の技術を有する銑鋼一貫製鉄所で、年産600万t。出荷先は国内7割、輸出3割。国内向けのうち6割が地元愛知県向けという。
 実際に工場見学して話を聞いてみて、世界最先端を行く日本の製鉄技術の確かさを実感出来、「日本もまだまだ捨てたものではない」と勇気づけられた。鉄も自動車同様、「モノづくりで世界をleadする日本!」を体感出来、正直武者震いする程気持ちが良かった。正に「頑張るぞ、ニッポン!」だ。

【2:Linear=鉄道館】
 本館は、東海旅客鉄道(JR東海)が2011年3月14日に名古屋市港区金城ふ頭に開館した鉄道博物館である。今年の01月29日に入場者100万人を突破したという。
 館内の展示室には、初代0系21形式から300系323形式迄の4種類の「新幹線」をはじめ、1996年電車方式による当時の世界最高速度443㎞/hを記録した「955形式新幹線試験電車」、そして2003年山梨Linear実験線に於いて、鉄道の世界最高速度581㎞/hを記録した「超電導Linear MLX01-1」。蒸気機関車では、1954年狭軌鉄道の蒸気機関車としての世界最高速度129㎞/hを記録した「C62形式蒸気機関車」等々の名車輌を目の当たりにして、鉄道fanならずとも心が躍り、暫し童心に帰った様な心地好さを味わえた。

[16]「955形式新幹線試験電車」と「超電導Linear MLX01-1」
 16955linear_mlx011

––––––––––––––––––––––––[17a]初代0系21形式から300系323形式迄の4種類の「新幹線」
 17a021300323

[17b]同上
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【小生comment】
 そうなのだ。「夢の超特急」ひかり号で世界最速200km/hの営業運転を開始したのが昭和39年。東京五輪の年である。昭和天皇ご乗車の新幹線・試運転列車を一家四人で二川近くの陸橋迄見に行ったことを今もよく覚えている。
「1937年12月20日:首都高速道路初の開通(首都高速1号線京橋~芝浦間4.5km)」「1963年07月16日:名神高速道路全線開通」「1964年10月01日:東海道新幹線開業」「1964年10月10日:東京五輪開幕」「1969年05月26日:東名高速道路全線開通」「1970年03月14日:大阪万国博覧会開幕」。これ等は、内閣で言えば、「1960年に『所得倍増計画』を提唱した池田勇人の第二次池田内閣時代から佐藤栄作による第三次佐藤内閣に至る足掛け13年、日本の高度成長時代での晴れ晴れしい出来事であった。
 因みに「所得倍増計画」は、「1961年からの10年間で国民総生産を13兆円から26兆円に倍増する」というもので、我々が小学校入学する前の日本の経済規模は、現在の3%に満たなかったのである。日本は、この1961年~2011年迄の半世紀で30倍以上の経済成長を果たしたのである。凄い成長力である。改めて我々の先輩達の頑張りに敬意を評したい。

【3:アサヒビール名古屋工場】
 最後に訪れたアサヒビール名古屋工場は、名古屋市守山区西川原町にある。
 ここで蘊蓄ですが、beerと発泡酒、第三のbeerの違いをご存知ですか?
【Beer】麦芽の使用率が66.7%以上。麦芽、hop、水を主原料、その他政令で定める物品(麦・米等)を副原料として発酵
【発泡酒】麦芽の使用率が66.7%未満。副原料に政令で定められた以外の原料を使用
【第三のBeer】大豆等麦芽以外を主原料に使用、或いは発泡酒にliqueur等別のalcohol飲料を混ぜたbeer風味のalcohol飲料。
 本工場は、従業員数490人。24時間3交代勤務。アサヒビールはlager beerは1工場1種類のみ生産。あとは全部「生」。現在6種類を生産している。
 尚、昨日02月22日、Beer風味飲料「スーパー・ドライ・ゼロ」を新発売した。早速飲んでみたが、Non-alcoholにしてはよく出来ていると思った。因みに、これは吹田工場と茨城工場で生産している。
 工場見学終了後に、食堂でスーパー・ドライを一人三杯までserviceで飲ませてくれた。今日は「とっても美味しいっ!視察会」で締め括ることが出来、満足であった。

[18]アサヒビール名古屋工場見学会場入口
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––––––––––––––––––––––––[19]400キロリットルの醸造tankの前で説明してくれたアサヒビールの広報担当
 19400tank

 ではまた‥。(了)

2012年2月19日 (日)

【時習26回3-7の会 0381】~「01月27日:三菱一号館美術館『ルドンとその周辺‥夢見る世紀末〔岐阜県美術館〕展』」「02月11日:一宮市三岸節子記念美術館『マリー・ローランサンとその時代〔巴里に魅せられた画家たち〕展』」を見て

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0381】号をお届けします。
 今日02月19日は、二十四節気で言う『雨水』。寒さが厳しい中にも陽光が明るく春の到来をそれとなく教えてくれる。ご当地豊橋は、先週13~14日は、雪ではなく雨が降った。幾分暖かくなった様に気もする。
 さて今日も、時習26回&時習館高校関連のNewsは特段ありません。ただ先週02月16日は時習館高校の推薦入学者向け面接試験日。愚息等在校生は休校であった。そして今週末02月25日(土)&26日(日)の二日間がいよいよ国公立大学入試の二次試験〔前期日程〕である。どうなることやら‥。

 今日は、難しい話はやめにして、少し前の話になりますが、01月27日上京した折見て来た、三菱一号館美術館『ルドンとその周辺‥夢見る世紀末〔岐阜県美術館〕展』の模様と、02月11日:一宮市三岸節子記念美術館にて開催中の『マリー・ローランサンとその時代〔巴里に魅せられた画家たち〕展』」の模様をご紹介させて頂きます。

■それではまず、三菱一号館美術館『オディロン・ルドン(Odilon Redon)(1840.04.20-1916.07.06)とその周辺‥夢見る世紀末〔岐阜県美術館〕展』から‥。
 本展覧会は、Redonを中心とする象徴主義」の展覧会であり、出品作品は全て岐阜県立美術館の所蔵品である。
 先程、「難しい話は止めにして」と言ったが、Redonの話を一通りお話するとこれが結構厄介なのである。即ち、Redonは「象徴主義」の画家として著名であるが、その実彼の作風は小生にはよく理解出来ていない。彼の画歴の前半は、木炭画や石版画による「『黒』の世界」であり、後半に突然華やかな色彩に変貌するのであるが、その華麗なる変貌のbaseには「『黒』の世界」の時代に培われたRedonの特異な眼がある。図録に上手い表現があるのでそれを引用すると、「晩年のRedonの魅惑的な色彩のfantasyは、「黒」の世界で開拓された一種eccentricなモチーフ(motive)と仄暗い夢の世界を照射する超常的な光と影の対比が前提となっている」ということになる。
 ここで『象徴主義(Symbolisme)』について附言すると、「主に19世紀末のFranceとBelgieに開花した美術と文学に於ける美学的運動で、印象派や自然主義の客観描写への反動として、象徴作用と装飾形式によって想像の世界を暗示しようとする文学・芸術思潮」。その主な担い手は、ランボーを先駆とし、マラルメを中心として仏ではボードレール、ヴェルレーヌ、ヴァレリー、独ではリルケ等がいる。〔以上広辞苑〕
 小生、基本的に綺麗な、そして美しい絵が好きなので、難しい話はこれ迄にして、早速、展示作品の中から気に入った「幻想的で美しい」作品の幾つかをご紹介したい。

[01]Redon『神秘的な対話』1896年頃
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––––––––––––––––––––––––[02]同『翼のある横向きの胸像(スフィンクス)』1898-1900年頃
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[03]同『ポール・ゴビヤ―ルの肖像(Portrait de Paule Gobillard)』1900年
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––––––––––––––––––––––––[04]同『眼を閉じて(Yeux clos)』1900年以降
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[05]同『オフィーリア(Ophelie)』1901-02年頃
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––––––––––––––––––––––––[06]同『青い花瓶の花々(Fleurs dans un vase bleu)』1904年頃
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[07]同『黒い花瓶のアネモネ(Vase noir aux anemones)』1905年頃
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––––––––––––––––––––––––[08]ジョルジュ・デヴァリエ―ル(George Desvallieres)『アフロディテ(Aphrodite)』1899年‥Moreauの弟子‥
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[09]エミール・ベルナール(Emile Bernard)『ポンタヴェンの市場(Marche de Pont Aven)』1888年
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––––––––––––––––––––––––[10]モーリス・ドニ(Maurice Denis)(1870-1943)『撫子を持つ女(La jeune fille a L'oeillet)』1896年
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【小生comment】
 如何でしたでしょうか。Redonの絵も美しい絵はいいですね。同じ画家の作品でも、水木しげるのゲゲゲの奇太郎の目玉おやじの様なeccentricな絵よりずっと小生は好きである。刺激的でなくても綺麗で美しい方がいい。小生はそう確信している。(笑)

■続いては、02月11日に一宮市三岸節子記念美術館『マリー・ローランサンとその時代〔巴里に魅せられた画家たち〕展』に親父を連れて見て来ましたのでその模様をお送りします。
 本展は、Marie Laurencinを中心に、20世紀初頭から1930年代Parisの街に集まった画家達の作品に焦点を合わせ紹介している。国内にある5つの美術館〔マリー・ローランサン美術館(2011.09.30閉館:蓼科)、高梁市成羽美術館、神戸市立小磯記念美術館、ニューオータニ美術館、そして当館〕の共催という企画はuniqueで居ながらにして一挙にこれ等の美術館の名作を見ることが出来たのは有難かった。
 出展作品は絵画・挿絵額装・冊子等全113点である。うち絵画は油彩画が大半で全75点。画家(出展数)内訳は次の通り。Marie Laurencin(30)、児島虎次郎・小磯良平/各(8)、ルオー(Rouault)(5)、三岸節子・荻須高徳/各(4)、佐伯祐三・古家新・ヴラマンク(Vlaminck)・ドンゲン(Dongen)・徳永仁臣/各(2)、ドラン・ユトリロ・キスリング・(ジュザンヌ)ヴァラドン・藤田嗣治・佐分眞/各(1)。
 以下に主な作品をご紹介させて頂くが、小生が大好きな洋画家小磯良平作品を8点見ることが出来たこと、それから児島虎次郎という素晴らしい洋画家を初めて知ったこと、小生にとってこの2つが今回最大の収穫であった。
 小磯良平は、群像画と女性の肖像画を得意とする洋画家だが、これ迄写真でしか見たことがない神戸市立小磯記念美術館所蔵の8作品を眼前に出来て嬉しかった。小磯としては珍しい風景画も良かった。が、彼の真骨頂である美人画は流石に良い。これ等を見ていると、恋をしている時の様なときめきさえ覚える。
 そして、児島虎二郎(1881.04.03-1929.03.08)である。略歴は次の通り。
 彼は岡山県(現・高梁市成羽町)生まれ。1902年東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科専科入学。倉敷の実業家大原家の奨学生となり、1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持つ。1904年在学2年間で卒業。1908年欧州留学。1909年Belgieのゲント美術Academyに入学。1912年同校を首席で卒業。同年11月帰国。大原孫三郎の依頼により絵画買付の為数度渡欧。彼の収集品が後の大原美術館建設の礎となる。
 小生思うに、彼の作風は、何処となくナビ派(Les Nabis)の画家ヴュイヤール(Vuillard, Edouard:1868-1940)と雰囲気が似ている。添付写真[25]の児島の絵と同じく[33]のVuillardの絵を見比べてみて下さい。如何ですか?
 児島の作品は、本展には高梁市成羽(なりわ)美術館(7点)と岡山大学(1点)所蔵品が展示されたがいずれも魅力的な作品であった。うち3点を以下にご紹介する。
 この二人以外でも、佐伯祐三や荻須高徳、そして当館の中心的画家三岸節子の作品も大変魅力的であった。
 尾張地区にお住まいの皆さんには必見の美術展覧会だと自信をもってお薦め出来ます。是非訪れてみて下さい。

[11]Marie Laurencin
 11marie_laurencin

––––––––––––––––––––––––[12]Marie Laurencin『バラの女(Woman with Rose)』1930年
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[13]Marie Laurencin『ジュザンヌ・モロー(青い服)Suzanne Moreau in Blue』1940年
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––––––––––––––––––––––––[14]Marie Laurencin『女の顔(Face of Woman)』1940年
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[15]Marie Laurencin『マルセル・エラン(Marcel Herrand)』194345年頃
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––––––––––––––––––––––––[16]Marie Laurencin『カトリーヌ・ジッド(Catherine Gide)』1946年
 16marie_laurencincatherine_gide1946

[17]Marie Laurencin『扇を持つ若い女(Young Woman with Fan)』1950年頃
 17marie_laurencinyoung_woman_with_f

––––––––––––––––––––––––[18]Marie Laurencin『音楽(Music)』1944年頃
 18marie_laurencinmusic1944

[19]Suzanne Valadon『座る裸婦』1921年
 19suzanne_valadon1921

––––––––––––––––––––––––[20]Maurice de Vlaminck『鐘楼のある村(A Village with Bell Tower)』1925年頃
 20maurice_de_vlamincka_village_with

[21]Kees van Dongen『腰掛ける婦人(Seated Woman)』1925-30年頃
 21kees_van_dongenseated_woman192530

––––––––––––––––––––––––[22]Kees va Dongen『花(ピンクと青の紫陽花 Pink and Blue Hydrangeas)』1940年頃
 22kees_va_dongen_pink_and_blue_hy_2

◆児島虎次郎
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[23]児島虎次郎『室内』1908年頃
 231908

––––––––––––––––––––––––[24]児島虎次郎『手鏡を持つ婦人』1920年
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[25]児島虎次郎『室内』1920年
 251920

––––––––––––––––––––––––[26]佐伯祐三『リュクサンブール公園(Luxembourg Park)』1927年
 26luxembourg_park1927

[27]荻須高徳『シャルルの肖像(Portrait of Charles)』1929年
 27portrait_of_charles1929

◆小磯良平
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––––––––––––––––––––––––[28]小磯良平『ブルターニュ、ソーゾン港(Bretagne, Port de Sauzon)』1928年
 28bretagne_port_de_sauzon1928

[29]小磯良平『洋和服の二人』1933-34年
 29193334

––––––––––––––––––––––––[30]小磯良平『踊り子』1940年頃
 301940

[31]小磯良平『室内のballerina』1967年

31ballerina1967

◆三岸節子
 32
 
––––––––––––––––––––––––[32]三岸節子『花・果実』1932年
 321932


[33]ヴュイヤール(Vuillard, Edouard)『室内』‥[参考]児島虎次郎の作品と比較する為に引用‥
 33vuillard_edouard

【後記】今日のお別れは日本経済新聞の最終頁に連載中の「私の履歴書」についてである。
[34]佐久間良子
 34
––––––––––––––––––––––––[35]同上
 35

 今月は女優佐久間良子氏が書いている。女優の自分史はなかなかstraightで読む方がドギマギすることが少なくない。かつては、戦中李香蘭という中国名で知られた山口淑子氏や、著名なI監督との関係を赤裸々に綴った有馬稲子氏‥、朝から〔‥日経新聞を読むのは通常通勤途上の朝なので(笑)‥〕強い衝撃を受け乍ら読んだことを今でも鮮烈に覚えている。佐久間良子氏も有馬さんに負けてはいない。鶴田浩二氏との恋を語り、そして昨日02月18日は映画「哀愁」顔負けの記事である。題して『Londonへの愛の逃避行』。「事実は小説より奇なり」ならぬ「小説より面白い!」。ちょっとご紹介しましょう!
[36]平幹二朗
 36

––––––––––––––––––––––––[37]平岳大
 37

 「愛の逃避行」の出発点はMexicoだった。1969年、〔中略〕「私(佐久間)、New York経由でLondonに出掛けるの」。〔中略〕もう30歳になる一人前の女性である。そう深く詮索されなかった。〔中略〕
 ところが直ぐにtroubleが発生する。〔中略〕Mexicoで飛行機に乗るのは初めての体験である。〔中略〕経由地のNew Yorkでも私は困り果てる。
 私はその日のうちにLondonに行かねばならないことを身振り手振りで説明した。切羽詰った必死の思いが通じたのだろうか。その黒人〔の空港staff〕は親切にも手続きを全て代行し、London行きの飛行機に乗せてくれたのだ。俳優のMorgan Freeman(1937.06.01-)の様なあの優しい瞳の黒人を今も忘れることが出来ない。
[38]Morgan Freeman
 38morgan_freeman

––––––––––––––––––––––––[39]クロンボー城
 39denmark_kronborg_castle

[40]「哀愁」のVivien LeighとRobert Taylor
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 Londonでは平幹二朗さんが待っていた。彼は「Hamlet」の舞台であるDenmarkのクロンボー城(Kronborg Castle)に視察に来ており、「Londonで落ち合おう」と約束していたのだ。待ち合わせ場所はThames河に掛るWaterloo Bridge。大好きな洋画「哀愁」の舞台になった場所である。
 〔第一次世界大戦の〕戦時下、空襲警報が響く橋でヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh 1913.11.05-1967.07.08)が扮するdancerとロバート・テイラー(Robert Taylor 1911.08.05-1969.06.08)が扮する将校が出会う。その橋の真ん中で、私は平さんの胸の中に思いっ切り飛び込んだ。今にも踊り出しそうな心の高まりに胸が沸き立った。
「ねえ。私、ここ迄辿り着くのに大変だったのよ」。息を弾ませ乍ら、MexicoやNew Yorkでの冒険談を話すと、平さんは苦笑し乍ら耳を傾けてくれた。その瞬間、私は人生という舞台で初めて主演女優の座を掴んだ様な温かい幸福感に包まれていた。(了)

【小生comment】
 Vivien Leighは、「哀愁(Waterloo Bridge)1940年」と「風と共に去りぬ(Gone with the Wind)1939年」で一世を風靡した美人女優。晩年には、若きマーロン・ブランド(Marlon Brando)(1924.04.03-2004.07.01)と共演した「欲望という名の電車(A Streetcar Named Desire)1951年」の渋い演技も上手かった。が、流石に容色が衰えて仕舞っていたことが印象的であった。因みに、彼女の二人目の夫君(←結婚期間1940-60)が英国演劇界の大物ローレンス・オリヴィエ(Lord Laurence Olivier OM, 1907.05.22-1989.07.11)であることは皆さんもよくご存知のことと思います。
 愛する人にこう迄思われた平幹二朗の様な立場に小生も一度なってみたいものであるが、これは「夢のまた夢」‥か‥。(笑)
 でも、こんな凄くromanticなことがあった二人でも後年離婚して仕舞うのだから人生とは不思議なものだ‥。
「夢のまた夢」‥と言えば豊臣秀吉の辞世の歌を思い出す。

 露と落ち露と消えにし我が身かな 難波のことも夢のまた夢 豊臣秀吉

 百歳迄現役を標榜する小生には「辞世の歌」はまだまだ先の話である。(笑)
 Virtual realな世界の中ならば可能である。「我が身」に明るい未来が来ることを期待したいものだ‥

 五十路をば途(みち)の半ばと知る我が身 君への想ひいつか叶へむ  悟空

 ではまた‥。(了)

2012年2月12日 (日)

【時習26回3-7の会 0380】~「[01]朝日新聞2012年02月12日朝刊から「橋下大阪市長へのinterview」記事・橋下徹&堺屋太一『体制維新―大阪都』・文藝春秋2012年03月号から「予言の書『日本の自殺』再考」・曽野綾子「私の実感的教育論『絶望からの出発』を読んで」「02月10日:『泉岳寺』を訪れて」「02月10日:『相田みつを美術館』を訪れて」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0380】号をお届けします。
 暦の「二十四節気」を更に「初候・次候・末候」の3つに分けた「七十二候」では、02月09~13日を「立春・次候」‥中国で『蟄中始振(ちつちゅうはじめてふるう)』」、日本の貞享暦で『梅花乃芳(ばいいかすなわちかんばし)』という。「寒気」の中にも陽光は春の到来を感じる程に明るさを増し、この寒さももう少しの辛抱である。
 昨日02月11日、恒例の「鬼祭り」が執り行われた。この祭りが済むと漸くこの地にも「春」がやって来ると言われている。
 日本経済にも「春」が早くやって来て欲しいものだ。

 さて、先週の《会報》では、「日本は政治・経済共にお寒いNewsが続いている」。そして『ローマ人の物語』を読了した感想として「紀元前1世紀にCaesarという不世出の国家のleaderが出て、Romaという国を、領土拡大により「行き詰まった都市国家の『共和制』」から「優れた為政者の独裁による、所謂『帝政』」への移行によりを見事にPax Romanaの実現を果たした」と申し上げた。
 翻って、現代日本も何とか今のうちにchangeしないと本当に手遅れになる。それ程深刻な事態が迫りつつある。
 日本を真艫な方向に導くには、「古代Roma帝国のCaesarの様な秀でた為政者による迅速かつ的確な政策の断行」が不可欠で、今、それを行える数少ない為政者として注目を浴びているのが「大阪市長・橋下徹氏」である。
 添付写真[01]をご覧下さい。
 [01]朝日新聞2012年02月12日朝刊から「橋下大阪市長へのinterview」記事
   ・橋下徹&堺屋太一『体制維新―大阪都』
   ・文藝春秋2012年03月号から「予言の書『日本の自殺』再考」
   ・曽野綾子「私の実感的教育論『絶望からの出発』
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 いみじくも今朝2012年02月12日の朝日新聞朝刊に「橋下大阪市長へのinterview」記事が載っていた。そして、小生、先週末「橋下徹&堺屋太一『体制維新―大阪都』(文春新書)」と「文藝春秋2012年03月号「予言の書『日本の自殺』再考」」を読み、橋下氏の様な為政者が我国に必要だと感じたのである。尚、この記事と本を読むその少し前に「曽野綾子著「私の実感的教育論『絶望からの出発』(講談社文庫1975年04月刊)」も読み、共感したことがあるので併せて少しご紹介したい。
 まずは、今朝の朝日新聞の橋下氏へのinterview記事と「橋下徹&堺屋太一『体制維新―大阪都』(文春新書)」をご紹介する。ご覧下さい。

【質問】― 政治家として実現したい「日本社会」の姿を聞きたい。経済成長を追いかけるのか、身の丈に合った暮らしがいいのか?
《橋下》― 今の日本人の生活levelは世界でみたら、五つ星Hotel級の贅沢なものです。蛇口を捻れば綺麗な水が出る。教育も医療もlevelは高い。失業保険、年金もあり、最後は生活保護がある。これを享受するには、凄くcostがかかる。維持するかどうか最初に決めないといけない。〔中略〕僕は少なくとも今のlevelを維持したいんです。

【質問】― どうやって?
《橋下》― 東(南)Asiaの若者は日本の若者と同じ様な教育level、労働力になって来ました。その様な状況で、日本人が贅沢な生活を享受しようとするなら『国民総努力』が必要です。競争で勝たないと無理です。

【質問】― 競争、ですか?
《橋下》― 今の日本のlevelを維持したいなら競争です。僕は次世代の子供達に少なくとも今のlevelの日本を引き継ぎたい。今のlevelに不満のある人は多いでしょうが、世界から見るともの凄く贅沢な国です。労働集約型の製造業が海外に出ていくのは止められない。海外で稼いだお金を日本に戻す仕組みを考え、国内ではservice業等の付加価値を高める環境をつくり、民間でお金が回る税制にする。円高で生まれた輸入業の儲けを、輸出企業に回す『derivative』の様な仕組みを考えるのも国の知恵だと思う。僕が一番重視しているのは、行政serviceをuserの選択に晒すことです。医療も教育も介護もneedsに合っているものは付加価値が高い。行政が一方的に供給するものはあまり価値がない。

【質問】― そのneedsを判断するのは誰ですか?
《橋下》― Userです。僕は「選択」を凄く重視しています。Userが選択しないものは〔行政が〕基本的にやっちゃいけないんです。今の行政はuserの選択に関係なく、とにかくお金を突っ込んで供給する。

【質問】― 国民皆が有りと有らることで「選択」や「競争」を迫られるのは、結構大変ですね。
《橋下》― 国民の覚悟が必要です。その号令をかけるのが「政治」だと思います。付加価値の創出は、努力が全てだと僕は思っています。とことん能力を発揮して貰う。そこには規制は被せない。一旦は格差が生じるかもしれません。でも、所得の再配分も確りやります。また、格差を世代間で固定させない為、最高の教育を只で子供達に受けさせる。最低限の保証をすることは国の役目です。僕のやり方は事後調整型の格差是正です。社会保障では『人生一生使い切りmodel』を考えています。ある程度資産が出来た人は、老後の生活をまずそれでやって貰う。資産のある人には掛け捨て型の年金もありかなと。究極の所得の再配分です。〔中略〕

【質問】― 橋下さんは「決定出来る政治」を唱えているが、「leaderの独善」にならないか?
《橋下》― 議論はし尽くすけれども、最後は決定しなければならない。多様な価値観を認めれば認める程決定する仕組みが必要。それが『決定出来る民主主義』です。有権者が選んだ人間に決定権を与える。それが「選挙」だと思います。〔中略〕全てをmanifestoに掲げて有権者に提起するのは無理です。あんなに政策を具体的に並べて政治家の「裁量」の範囲を狭くしたら政治なんて出来ない。「選挙」では国民に大きな方向性を示して訴える。ある種の白紙委任なんですよ。

【質問】― 国政について‥
《橋下》― わかって欲しいのは、永田町や霞ヶ関だけで複雑多様化した日本全体を動かすなんて無理だということです。〔中略〕明治以来続けて来た社会systemや統治機構、即ち体制を変えない限り、政策は絶対実現出来ません。〔中略〕道州制も大阪都構想も、僕が主張しているのは、日本の統治機構、政治や行政のsystem全体を変えようという話です。これ迄出来なかった既存政党の人達、既得権益の代表者達に出来ますかね? 本当にやろうとしたら、今の体制で良い人達と大battleになりますよ。大阪市長の任期は4年。それで賞味期限切れです。自分の賞味期限すら分からない人間は、政治家をやっては駄目ですよ。

【小生comment】「自分の賞味期限すら分からない人間は政治家をやっては駄目」‥正にその通り。今の議員達は「政治家」でなく「政治屋」である。議員をやって生計を立てている。だからpopulismに陥り易い。ところが橋下氏は弁護士である。故に大阪市長を退いても生活には困らない。更に、氏は決して裕福でない家庭に育ち、苦学して早稲田大学政治経済学部を卒業して3年後に司法試験に合格という、人並み以上に苦労も経験しいる。「下々の‥」と失言した麻生元首相や、お母様から「毎月15百万円を小遣い銭」として頂いていた鳩山元首相とは、豊富な社会経験に基づく視野の広さが格段に違う。ビスマルクの名言「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」の「経験の差」がお二人とは大きく違うのである。

 ※ ※ ※ ※ ※

「橋下徹&堺屋太一『体制維新―大阪都』(文春新書)」より
▼総理大臣はもっと海外に行け
【橋下】僕はいま永田町を見ていて、とても不安に思っていることがあります。それは内閣総理大臣が内政の有りと有らゆることを一手に引き受けることから、日本の国際的なpresenceが驚く程低下していることです。
 日本は弱小な島国です。内閣総理大臣たるもの、、一年365日のうちせめて半分位は海外にいて、国際的なpresenceを高めていく必要があると思うんです。ですから、総理は180日しか日本にいませんよという前提で、色んなsystemを考えていくべきではないでしょうか。〔中略〕内政の細かいことは、それこそ地方の政治家や、自治体の首長に任せていく仕組みをつくらねばなりません。そうしないと、総理大臣は一年中国会や官邸に磔刑になって、全く海外に出られない。これでは日本は本当に駄目になる。お隣の中国では、胡錦涛国家主席と温家宝首相で役割分担をして、主席自らAfricaや中近東、India、Russia、東南Asia等に外交攻勢をかけています。〔中略〕
 一方、基礎自治体として見ると、住民service、住民とのface to faceの仕事には、大阪市は大き過ぎる。日本全国に約1,700ある基礎自治体たる市町村の、約85%が10万人未満の市町村です。260万人の人口を擁する大阪市が、住民の顔を見乍らの仕事が出来るかと言ったら、これは絶対無理です。
 僕がやろうとしている大阪都構想とは、大阪市役所の権限のうち、都市間競争に関わるものは大阪都へ、住民serviceに関することは、大阪市24区を8つに再編した特別自治区へ渡す。同じ様に大阪府庁の権限も、大阪都に任せるものと特別自治区に委ねるものとに分ける。大阪府と大阪市が今持っている権限と財源を再配置することが、大阪都構想なんです。
【堺屋】橋下さんは今、二つ重要なことを言われた。一つは国は国の仕事をするということ。国の仕事と言えば、外交、防衛、通貨発行、macro経済、高級司法等です。実際、日本の国は国の仕事が手薄です。〔中略〕
【橋下】所謂「大阪問題」というのをご存知でしょうか。残念乍ら大阪は犯罪発生率・失業率・生活保護率・離婚率等、あらゆる指標で全国worstかそれに近い状況です。
 僕は、この大阪の低迷、「大阪問題」の根本は、「教育」にあると考えて来ました。英国のAnthony Blair(前)首相も、英国再建は「教育」にあると考え、、「一に教育、二に教育、三に教育」と国民に訴えましたが、正にその通り。自分自身、親が充分な教育を施してくれたことに感謝しています。大阪に個別の政策も重要ですが、やはり「教育」に力を入れるしかないと決意したのです。
 まずは「私立高校」の授業料の無償化に取り組みました。〔中略〕年収610万円未満の世帯迄は無償、800万円未満迄は年10万円の負担で私立高校にも通うことが出来る制度を作りました。〔中略〕
▼『体制の変更は政治家の使命』
 多くの予算を削ることで財政の健全化を図り、それで作ったお金を本当に必要な施策に投入する。言ってみれば、「政治とはお金をつくり配分する」ことが仕事です。〔中略〕僕は大阪知事になった時、現行の体制を変えることが使命だと考えました。それが政治家にとって、一番大事な役割だと考えたのです。政策は専門家でもつくれる。〔中略〕行政を進めるのは役人。しかし、国・地方共に、政治行政の仕組み即ち体制、systemを変えるのは政治家にしか出来ません。
 「体制の変更」とは、既得権益を剥がしていくことです。今の権力構造を考えて、権力の再配置をする。これはもう戦争です。〔中略〕権力の再配置に関しては、話し合いでは絶対に決着がつきません。〔中略〕
 民主主義の政治にとって、話し合い、議論は大切ですが、最後は選挙によって決着をつけなければニッチをサッチもいかない、そういう局面がやってきます。〔後略〕

 ※ ※ ※ ※ ※

「文藝春秋2012年03月号「予言の書『日本の自殺』再考」」より
※ 「本稿は「文藝春秋1975年02月号に掲載された『日本の自殺』を抄録したもの」だが、全然古さを感じさせない。
▼日本没落の予感~Roma帝国滅亡との類似
 如何にしてRomaは滅亡したか?
[1] 巨大な富を集中し繁栄を謳歌したRoma市民は、次第にその欲望を肥大化させ、労働を忘れて消費と娯楽leisureに明け暮れる様になり、節度を失って放縦と堕落への衰弱の道を歩み始めた。それは正に繁栄の代償、豊かさの代償とでも呼ぶべきものであった。
[2] Roma帝国各地から繁栄を求めて流入する人口によってRoma市民の人口は適正規模を越えて膨張に膨張を続け、遂にあの強固な結束を持つ小さく纏まった市民団のcommunityを崩壊させてしまったのである。〔中略〕
[3] これらRoma市民の一部は一世紀に亘るPoeni戦争その他の理由で土地を失い経済的に没落し、事実上無産者と化して、市民権の名に於いて救済と保障を、つまりは「Civil Minimum」を要求する様になった。良く知られる「パンとサーカス(panem et circenses)」である。
[4] 市民大衆が「パンとサーカス」を要求し続ける時、経済はinflationからstagflationへと進んで行く他はない。〔中略〕
[5] 文明の没落過程では必ずと言って良い程にegoの氾濫と悪平等主義の流行が起こる。こうして民主主義はその活力を失って、一方で放縦に走り、無秩序と解体を齎し、他方で悪平等主義に走って画一化と全体主義の泥沼の中に腐敗していく。こうして擬似民主主義は没落のideologieとなり、指導者と大衆を衆愚政治(mobocracy)の腐敗の中に引き摺り込んで行く。
▼豊かさ「3つ」の代償‥日本を第二のRoma帝国として仕舞いかねない日本社会内部の自壊作用のmechanism
[1] 資源の枯渇と環境破壊の代償
[2] 大量生産・大量消費という使い捨て的な生活様式の代償
[3] 便利さの代償
▼まとめ‥『没落を阻止する為に』‥『諸文明の没落の歴史から学ぶ5つの教訓』
[1] 国民が狭い利己的な欲求の追求に没頭して、自らのegoを自制することを忘れる時、経済社会は自壊していく他ない
[2] 国際的にせよ、国内的にせよ、国民が自らのことは自らの力で解決するという自立の精神と気概を失う時、その国家社会は滅亡する他ない
[3] Eliteが精神の貴族主義を失って大衆迎合主義に走る時、その国は滅ぶ
[4] 年上の世代は、徒に年下の世代に媚び諂ってはならない‥古い世代がやたらと物わかりが良く成り過ぎると若者は精神的に「ひ弱」になる
[5] 人間の幸福や不幸というものが、決して賃金の額や、年金の多寡、物量の豊富さ等によって計れるものでない

 歴史的事実に照らして見る時、確かに第二次大戦後の日本は物質的には目覚しい発展を為し遂げたが、精神的には未だに殆ど再建されていない。道徳は荒廃し、人心は荒み切って、日本人の魂は病んでいる。日本はその個性を見失ってただ呆然と立ち尽くした儘である。〔後略〕

 ※ ※ ※ ※ ※

「曽野綾子著「私の実感的教育論『絶望からの出発』(講談社文庫1975年04月刊)」より
▼人間の予測をいつも超えてしまう教育の成果
 自分を取り巻く周囲の状況が、悪かったからこそこれ迄になったのだ、という人は世間にかなり多い。これは嫌味ではない。実感である。
 多くの人は自分に与えられた幸福にも感謝するが、同時に不幸にも感謝できるのである。教育は治療に似ている。医者は薬を与え、手術をして、患者を「癒す」という。しかし、医者の中でも謙虚な人々は「病人が自ら癒す力に、手を貸しただけだ」という。〔中略〕
 教育もそうである。教育とは、或る人間が(多くの場合、年齢の上の者が)他の人に(年若い者に)与えるものの様に考えられている。これは一面その通りなのだが、半面、そうでもない。人間は自らを教育するだけである。他人は(親・教師と言えども)それに少し力を貸すだけという言い方も出来る。〔後略〕
【小生comment】
 そうなのである。「『教育』とは自らを教育するだけ」なのである。自らを「(他人の力を借りても最終的には全て)自らの力で」今迄の自分より「多方面に亘り少しでもlevel upさせる」ことである。だから当然乍ら『教育』とは、単なる「知識の詰込み」に留まらない。全人格的に成長する為に必要な様々なものを得ることである。即ち、今日最後にご紹介する相田みつをの言葉「一生勉強 一生青春」なのである。

■さて次の話題は、赤穂浪士のお墓がある「泉岳寺」についてである。
 [02]泉岳寺「中門」
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 –––––––––––––––––––––––[03]泉岳寺「山門」
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 [04]左上:赤穂浪士47士墓所 右:同配置図 左下:泉岳寺全景〔以上泉岳寺の絵葉書より〕
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 小生、02月10日、仕事で上京した折、降りた「品川駅」で1時間程の余裕が出来たので、「そうだ品川と言えばそれ程遠くない高輪に『泉岳寺』がある」と頭に浮かんだ。まだ一度も同寺は訪れたことがない。品川駅から北へ徒歩900m程の所にあった。
 『萬松山 泉岳寺』は曹洞宗の寺院。徳川家康が少年期に凭(よ)った今川義元の菩提を弔う為、慶長17(1612)年外桜田の地に建立。
 寛永18(1641)年焼失したが、将軍家光の命により、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名が、現在の高輪の地に再建。
 元禄14(1701)年03月14日、江戸城にて「松の廊下事件」を起こした浅野内匠頭は即日切腹〔しかも大名乍ら庭先で〕。一方、吉良上野介は「咎めなし」。
 処罰撤回と赤穂藩再興がならなかった赤穂藩浪士等は大石内蔵助を頭に47士が、2年近く後の元禄15(1702)年12月14日に吉良邸に討ち入り、本懐成就。浪士等は、吉良上野介の首級を掲げ乍ら亡き主君浅野内匠頭の眠る泉岳寺へ約10kmを歩いて報告。
 浪士達は、翌元禄16(1703)年02月04日に4大名家〔細川・松平・毛利・水野〕にて切腹。浪士等の「義」「忠」は今も日本人の心を強く打つ。
 ここで、浅野内匠頭長矩と大石内蔵助の辞世の歌をご紹介する。

 風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を如何にとやせん  浅野内匠頭長矩

 あら楽し思ひははるゝ身はすつる 浮世の月にかゝる雲なし  大石内蔵助

【後記】お別れは、02月10日、上京した帰り、30分程時間があったので、早足で東京駅南口から徒歩5分程の東京フォーラムにある「相田みつを美術館」に立ち寄って来た。丁度、『金子みすゞと相田みとをの世界』をやっていた。
 [05]東京フォーラム
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 –––––––––––––––––––––––[06] 相田みつを美術館『金子みすゞと相田みつをの世界』展
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 今日は、その時入手した「相田みつを」の名言集から4つご紹介してお別れします。
 [07]
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 –––––––––––––––––––––––[08]
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 [09]
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 –––––––––––––––––––––––[10]
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【小生comment】
 相田みつをの言葉は、いつ読んでも心が温かくなる。[08]「一生勉強 一生青春」は小生の今後の生き方に正にピッタリである。
 ではまた‥。(了)

2012年2月 5日 (日)

【時習26回3-7の会 0379】~「塩野七生著『ローマ人の物語』全巻を読了して」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0379】号をお届けします。
 暦の上では、昨日02月04日は「立春」。「大寒」の次の春なんてそもそも暖かい筈がない。(笑)
 それにしても毎日本当に寒い日が続いています。風邪をひかない様、皆さんも充分気を付けましょう。
 最近は、気温だけでなく、政治を経済もお寒いNewsが続いていますね。

 「政治」と言えば、素人同様の知識しかない人を主要閣僚に任命した野田首相の手腕には失望して仕舞った。
 「主権国家が国として存立しているのは『国の安全保障』が確保されているからである」ということを野田総理はご存知だろうか?
 『国の安全保障』を担保するのは、「平時は『外交』」であり、「有事(に備えるに)は『国防』」である。
 その『国防』を担う防衛大臣の予算委員会での狼狽ぶりは目を覆うばかりであった。
 こんなことでは、「日米同盟」もままならぬし、中国に日本の領海を侵犯されても為す術もなく、北方領土4島の返還など「夢のまた夢」になってしまう。これでは日本は本当にこの先大丈夫か不安で仕方がない。
 「経済」では、多くの大手企業の2011年度第3四半期決算が発表され、通期見通しの記事が新聞を賑わし始めているが、過日ご紹介した小宮山宏氏の「人工物は飽和する」にある通り、「更新需要型産業」は新規需要がない為過当競争に陥っており、収益悪化になかなか歯止めが掛からない。
 地デジ移行迄、好調であった液晶TV大手3社の業績が急降下し、パナソニックの7,800億円欠損をはじめ3社合算で1兆3千億円近い最終損失計上見通しという。地デジ移行により、更新需要という仮需が終わり、これに海外の大手(韓国サムスンやLG、台湾)makerの攻勢が加わり、極端な供給過多となり大幅欠損を余儀なくされた。
 つい最近までgame soft業界のTop企業で好調だった任天堂も数百億円規模の赤字に転落した。
 しかし、日本経済の方は全てが駄目な訳ではない。Game soft業界の中でも、中国の安価なgame softを導入したグリーは数百億円規模の純利益計上を見込む。円高を生かし世界の資源関連投資に注力した総合商社はenergy価格の高騰の恩恵にも預かり、5社合計で史上最高の1兆5,800億円の当期純利益を計上予定であるという。電機業界でも、家電以外の、総合電気の日立・東芝・三菱電機、情報通信でも富士通などは数百億円から2千億円規模の純利益を計上見込みである。
 東日本大震災の復興需要増により足下の短期的な国内景気見通しは総じて底堅さが見られる。

■政治・経済の話はあまり面白くないのでこれ位にして、今日は別の話をしてみたい。
 小生、最近漸く、塩野七生氏著『ローマ人の物語』第43巻「ローマ世界の終演[下]」を読み終え全巻読破した。新潮文庫全43巻は単行本15巻に相当する。文庫本第1巻が発売されたのが平成14年06月01日だからあと4箇月で丸10年に及ぶlong termの読書であった。
 「最後の文庫本3巻[41][42][43]が発売されたのが昨年09月01日。読もうと思えば直ぐ読めたが、この大好きなseriesと「さよなら」するのが淋しくて今年になる迄本棚に仕舞っておいたのである。

【小生comment】「『ローマ人の物語』を読了して感想は‥?」と問われれば、小生は次の様に応える。
 古代Roma人は偉大だ。
 紀元前1世紀にはCaesarという不世出の国家のleaderが出て、領土拡大により地中海世界を治めて行く為に「行き詰まった都市国家の『共和制』」から「優れた為政者の独裁による、所謂『帝政』」への移行を見事に果たした。
 Caesarの後を引き継いだ皇帝たち、中でも初代皇帝Augustus(在位紀元前27年-紀元14年)と、2代皇帝Tiberius(14-37年)の善政は素晴らしく、Pax Romana (『Romaの平和』)は確立された。
 彼等の後を継いだ皇帝達の中でも、Vespasianus(69-79年)から五賢帝(96-180年)時代迄は、優秀な為政者が次々と生まれ、大帝国の為政者としての職責を全うすべく不断の努力に努めた。
 特に、Caesar死後、彼の後継者となった初代皇帝Augustusと彼の腹心の部下で盟友もあったAgrippa, Marcus Vipsaniusのコンビと、2代皇帝Tiberius二人の治世64年間で、Roma帝国の国防と食糧という国民生活の安全保障を盤石なものとした意義は真に大きかった。
 Infrastructureとして大規模な水道橋や浴場、通信や輸送を高度化する為の「道路網」を整備した。
 10%の消費税に相当する古代としては、極めて低い税率で属州民・被征服民の安全保障を果した。
 また、Roma市民の元老院階級に属する者達には noblesse oblige (高貴な身分の者による社会的責務を果たす)という社会的哲学が美徳として浸透していた。
 以上の様に、五賢帝時代頃迄の古代Roma帝国の政治は、現代の政治と比べても遜色ない、素晴らしいものであった。
 著者塩野七生氏が巻末に「読者へ」と題した「あとがき」から最後の処をご紹介したい。

 誕生から死までを追う所謂通史は、私には二度目だった。『海の都の物語』と題したVenezia共和国の歴史と、この『ローマ人の物語』で。だが、この二国の歴史は、一千年以上もの長命を享受したという点ならば似ていたが、同時代の他の国々やその後の時代まで甚大な影響を与えたということになると、比較しようもない位に違う。それが、『海の都の物語』は二巻で終えられたのに、『ローマ人の物語』は十五巻にもなってしまった理由である。いや、十五巻は書かなければ、ローマの歴史は書けなかった。
 この『ローマ人の物語』全十五巻は、なにより私自身が、Roma人を解りたいという想いで書いたのである。書き終えた今は心から、解った、と言える。
 そして、読者もまた読み終えた後に、「解った」と思ってくれるとしたら、私にとってはこれ以上の喜びはない。何故なら、書物とは、著者が書き、出版社が本にし、それを読者が読むことで初めて成り立つ媒体だが、この三者を繋ぐ一本の赤い糸が、「想いを共有する」ことにあるのだから。
    〔2006年・秋、Romaにて 塩野七生〕

■それでは今日は、『ローマ人の物語』の登場人物の中から、重要人物の紹介を添付写真として ending roll(【注】英語ではこういう言い方はあまりしない様だ(為念))風にご紹介してお別れしたい。

[01]塩野七生『ローマ人の物語』文庫本全43巻他
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––––––––––––––––––––––––[02]「ローマ人の物語」special guide book 表紙
 上段左 Augustus・上段中 ConstantinusⅠ【大帝】・上段右 Caesar
 中段左 Hadrianus・中段中 Juius Brutus・中段右 Ambrosius
 下段左 Marcus Aurelius・下段中 Diocletianus・下段右 Scipio Africanus
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[03]ロムルスとレムスに父を与える狼の像
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––––––––––––––––––––––––[04]カルタゴの将Hannibal (247-183B.C.)
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[05]Gaius Marius (c155-86B.C.)
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––––––––––––––––––––––––[06]Lucius Cornelius Sulla Felix (138-78B.C.)
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[07]Pompeius Magnus (106-09.29-48.09.28B.C.)
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––––––––––––––––––––––––[08]若き日のJulius Caesar (100.07.12or13-44.03.15B.C.)
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[09]第一次三頭政治「左上 Pompeius・中下 Crassus(115-53B.C.)・右上 Caesar」
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––––––––––––––––––––––––[10]caesar立像[Roma市議会議事堂]
 10caesarroma

[11]左上 オクタヴィアヌス・中下 KleopatraⅦ (69-30)・右上 Marcus Antonius (82-30)
 11_kleopatra_6930_marcus_antonius_8

––––––––––––––––––––––––[12]Augustus (63.09.23.B.C.-(在位27年B.C.)14.08.19A.D.)
 12augustus_630923bc27bc140819ad

[13]ドゥルーススとアグリッパ
 13

––––––––––––––––––––––––[14]左下 Tiberius (42.11.16B.C.-(在位14年-)37.03.16A.D.)とカプリ島のヴィラ・ヨヴィスの遺跡
 14_tiberius_421116bc14370316ad

[15]カリグラ(Gaius Ceasar, Germanicus(12(在位37年-)-41))と彼がエジプトから運ばせたオベリスク
 15gaius_ceasar_germanicus123741

––––––––––––––––––––––––[16]左 Nero Claudius Caesar (37-(在位54年-)68) 右 ClaudiusⅠ(10B.C.(在位41年-)-54)
 16_nero_claudius_caesar_375468_clau

[17]内乱時代(在位68-69年)の3皇帝[ヴィテリウス・オトー・ガルバ]
 1768693

––––––––––––––––––––––––[18]Vespasianus, Titus Flavius (09-(在位69年-)79)
 18vespasianus_titus_flavius_096979

[19]Titus (39-(在位79年-)81)
 19titus_397981

––––––––––––––––––––––––[20]Domitianus, Titus Flavius (51-(在位81年-)96)
 20domitianus_titus_flavius_518196

[21]五賢帝1 Nerva (30-(在位96年-)98)
 211_nerva_309698

––––––––––––––––––––––––[22]五賢帝2 Traianus, Marcus Ulpius (53-(在位98年-)117)
 222_traianus_marcus_ulpius_5398117

[23]五賢帝3 Hadrianus, Publius Aelius (76-(在位117年-)138)
 233_hadrianus_publius_aelius_761171

––––––––––––––––––––––––[24]五賢帝4 Antoninus Pius (86-(在位138年-)161)
 244_antoninus_pius_86138161

[25]五賢帝5 Marcus Aurelius Antoninus (121-(在位161年-)180)
 255_marcus_aurelius_antoninus_12116

––––––––––––––––––––––––[26]Commodus (161-(在位180年-)192)
 26commodus_161180192

[27]Septimius Severus(在位193(197)-211)
 27septimius_severus193197211

––––––––––––––––––––––––[28]22人の軍人皇帝時代[211~284年]01
 282221128401_2

[29]同上02
 2921128402

––––––––––––––––––––––––[30]同上03
 3021128403

[31]同上04
 3121128404

––––––––––––––––––––––––[32]Diocletianus (245-(在位284年-305)316)
 32diocletianus_245284305316

[33]Diocletianus帝退位後6名の東西正副帝による内戦を制したConstantinusⅠ(272-(在位324-)337)
 33diocletianus6constantinus27232433

––––––––––––––––––––––––[34]Constantinus1【大帝】
 34constantinus1

[35]写真中段 ConstantiusⅡ (317-(在位337年-)361)
 35_constantius_317337361

––––––––––––––––––––––––[36]Julianus, Flavius Claudius (331,2-(在位361年-)262)【背教者】の死後、ヨヴィウス7箇月、ヴァレンティニアヌス375年没の後ThodosiusⅠへ
 36julianus_flavius_claudius_3312361

[37]ThodosiusⅠ(347-(在位379年-)395)Roma帝国全土を統治した最後の皇帝
 37thodosius347379395roma

––––––––––––––––––––––––[38]右 476年西Roma帝国最後の皇帝Romulus Augustusを廃し滅亡に追いやったオドアケル(Odoacer(433-493))
 38_476romaromulus_augustusodoacer43

[39]中央 JustinianusⅠ(483-(在位527年-)565) 彼の右隣 Belisarius(505頃-565)
 39_justinianus483527565_belisarius5

【小生の追想】
 この『ローマ人の物語』の中で、「気に入った処を一つだけchoiceせよ!」と言われれば、小生は躊躇なく次のCaesarの言葉と塩野七生氏のcommentを思い出す。それは‥

【Caesarが残した言葉】

「人間ならば誰にでも、現実の全てが見える訳ではない。多くの人々は、見たいと欲する現実しか見ていない」〔第14巻12頁〕

 ルビコン川を渡ったのち、CaesarがRoma全土を掌握する迄の道程を綴った『内乱記』より。Caesarの名言の中でも最も有名なものの一つ。
〔こうは思い乍らもCaesarは、指導層の中でも才能に恵まれた人々には、見たいと欲しない現実迄見せようと試みたのではなかったか。 『内乱記』を読むだけでも、書き手の品位を損なう様な非難の言葉は使われていないに拘らず、いやそれ故にかえって、読む者をして、元老院の統治能力の衰えを認めざるを得ない想いにさせる〕〔第14巻12頁〕

 ではまた‥。(了)

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