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2012年3月10日 (土)

【時習26回3-7の会 0384】~「03月05日:『岡本太郎記念館』を訪ねて」「『高峰秀子』大特集その2」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0384】号をお届けします。

■さて、前《会報》でご紹介した週刊現代2012年03月10日号【週現スペシャル】いまいてほしい「12人の誇れる日本人」の中から高峰秀子氏に続いて、今日は岡本太郎氏を紹介したいと思います。友人、堺屋太一氏が思い出を次の様に語っています。

【丹下健三と取っ組み合いのケンカも「芸術は力だ」岡本太郎ほどの鬼才を知らない 堺屋太一】
 通産省時代に大阪万博(Expo.'70)の企画と実施を手掛けていた私(堺屋)が、岡本太郎さんに展示producerをお願いしたのは1967年。当時の彼は無名に近く、画段と無縁の一匹狼でしたから、迎え入れるのは大変な冒険でした。
 初めてお会いした時は、小柄さと不釣り合いな程の凄まじい“目力”に驚いた記憶があります。humorのsenseもあって面白い人だとは思っていたのですが、やはり不安だった。美術界からの抵抗もありました。
 ただ、当初の展示構想は「自然と人間の調和」といったありふれたthemeでしたから、彼の言葉や発想には衝撃を受けた。それで次第に「この人に賭けよう」と決意が固まったのです。
 その後、建築producerの丹下健三さん達と打合せが始まって〔中略〕期日が迫った頃、突然“太陽の塔”を提出して皆を仰天させたのです。
 というのも、万博のsymbol towerは既に若手建築家の菊竹清訓(きくたけきよのり1928-2011)さんに依頼していた上、岡本さんの本来の仕事は、屋内展示のproduceだった。
 丹下さんは「これは展示ではなく建築じゃないか。越権行為だ!」と凄い怒り様でした。一方の岡本さんも「展示は、博覧会のconceptが観客にハッキリ伝わるものでなければならない。目立つもの、一言で伝わるものでないと」と、一歩も譲りません。
 納得のいかない丹下さんは、今度は太陽の塔を自分の設計した大屋根で囲うと言い出した。これには岡本さんも「何事だ!」と激怒し、終には事務所の床で二人は取っ組み合いを初めて仕舞いました。
 太陽の塔については、当時の通産省の大臣や局長、府知事にも「頼むから潰してくれ」と言われた。しかし岡本さんは「Eiffel塔は周りの都市計画などお構いなしに、塔だけを考えて作られた。だから良かったんだ」と、調和など気にせず、兎に角印象的なものを作ろうと考えたのです。
 岡本さんのあまりの熱意に押され、私もそれこそ命がけで周囲を説得して歩いた。結果、大屋根に直径50mの大穴を空け、太陽の塔を突き抜けさせるという案に落ち着きました。そして蓋を開けてみれば、太陽の塔は万博のみならず、20世紀の日本美術を象徴する作品となりました。
 今の日本人は、お互いの顔色を窺い、波風の立たない平凡なものばかり作っている。後世に残る創作物は、岡本さんの様に周囲を顧みない“鬼才”と、それを許容する事業調整者が揃わなければ造れません。
 岡本さんの様な才能を生かすことの出来る力と組織がある―そんな日本が甦って欲しいですね。(了)

[01]大阪万博テーマ館と太陽の塔
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––––––––––––––––––––––––[02]大阪万博Expo. tower
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[03]岡本太郎記念館中庭のobjetの数々
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––––––––––––––––––––––––[04]岡本太郎記念館内2階にある太陽の塔miniature
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[05]岡本太郎絵画作品01
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––––––––––––––––––––––––[06]岡本太郎絵画作品02
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[07]館内のatelier右側
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––––––––––––––––––––––––[08]館内のatelier左側
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[09]館内のobjetの数々
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––––––––––––––––––––––––[10]館内入口付近にある売店‥書籍の多さにビックリ!
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[11]岡本一平・かの子夫妻
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––––––––––––––––––––––––[12]岡本一平の挿絵『二重虹』
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[13]従兄弟の池部良と岡本太郎
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––––––––––––––––––––––––[14]岡本一平『夏目漱石』像
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[15]かの子自署による歌と一平画の色紙
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––––––––––––––––––––––––[16]Paris留学時代の岡本太郎
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[17]Paris留学時代にLondonで一平・かの子と再会する岡本太郎
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––––––––––––––––––––––––[18]Picassoと談笑する岡本太郎
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[19]北大路魯山人(左から5人目)・丹下健三(左から2人目)・芥川也寸志(左から4人目)に茶を点てる岡本太郎(右手前)
 1924

 実は小生、去る03月05日、仕事で上京する機会があった。最近は東京出張が毎月の様に、名古屋へは公私合わせれば毎週出かけており、正に東奔西走している。2008年09月15日に起きたLehman Shock以降、景気が悪くなってから諸情勢から俄かに忙しくなった。小生にとって今の仕事は「第二の人生」でオマケの筈だったのに、楽をさせて貰えないのはそういう星の下に生まれた運命なのだろうか。(笑)(涙)
 ならば「せめて気分転換位させてくれ!」と、出張ある度に時間の許す限り、好きな美術館や社寺等史跡巡りをすることにしている。
 今回も、仕事の約束の時間迄に一時間程余裕があったので、新幹線を品川駅で途中下車。山手線渋谷駅を経由して銀座線で1駅目の表参道で下車。そこから7分程歩き『岡本太郎記念館』を訪ねた。本記念館は、岡本太郎氏が1954年から亡くなる1996年迄自身のatelier兼住居であった所だ。
 その日は雨であったが、岡本太郎記念館についた途端、敷地内の庭に所狭しと「これが岡本太郎だッ!」と即納得出来る彼の個性的なobjetが林立していた。入館手続きをしていたら、受付嬢から「館内での撮影は自由です!」と嬉しい一言を貰い、早速写真をパチリパチリ‥!

 本記念館の現在の住所名は港区南青山6丁目1-19。戦前は青山高樹町三番地と言い、岡本太郎氏と彼の両親岡本一平&かの子一家の居宅であった。その為か、一通り見るのに15分と要しなかった。
 ここで、岡本太郎氏〔以下、敬称略〕について簡単にご紹介したい。

 太郎の母、かの子(1889-1939)は、大貫寅吉・アイの長女として東京・南青山に生まれた。大貫家は、多摩川の高津村二子に300年続く旧家。次兄大貫雪之助(晶川) (1887-1912)は府立一中・一高・東大文学部を通じ谷崎潤一郎(1886-1965)と同期で文学仲間として親交を結ぶ。この次兄の下宿から跡見女学校に通うかの子は、与謝野晶子の『明星』に短歌を投稿する文学少女になっていた。そして東京美術学校に通う岡本一平(1886-1948)と知り合う
 太郎の父、一平は、津・藤堂藩儒学者・岡本安五郎の次男の書家岡本可亭(通称:竹二郎)の長男として北海道函館に生まれた。東京美術学校西洋画科に進学。同期に藤田嗣治(1886-1968)、池部鈞(1886-1969)がいる。藤島武二に師事。美術学校時代、大貫カノ(かの子)と知り合い、1910年、美術学校教授(1903-32)和田英作(のち1932-36同校々長)の媒酌で2人は結婚。
 因みに、。池部鈞は、一平の妹コウと結婚。その息子が往年の二枚目俳優、池部良である。以上は余談‥。

 1911年 太郎、02月26日、一平・かの子の長男としてかの子の実家高津村二子で生まれる。
 1912年 一平、東京朝日新聞に入社。齣絵で夏目漱石に認められる。売れっ子の漫画家・挿絵画家となり、放蕩始まる。かの子、早大生堀切茂雄と恋愛。
 1913年 かの子、精神衰弱となり1916年迄入退院を繰り返す。かの子の恋人堀切病死。
 1917年 慶大生恒松康夫(後年、島根県知事)が岡本家に同居始める。
 1918年 太郎、慶應義塾幼稚舎に入学し、寄宿舎生活する。
 1924年 かの子、慶応病院に入院中、医師新田亀三と知り合う。
 1929年 太郎、東京美術学校に入学するが、半年後、父一平のLondon軍縮会議取材の為渡英に母かの子と共に同行。
 1930年 かの子、London滞在中に脳溢血で倒れる。太郎、両親と別れ、Parisで独り住まい始める。
 1932年 太郎、Picassoの作品に衝撃を受ける。
 1933年 かの子、再び脳溢血で倒れる。
 1938年 太郎、国際Surrealist Paris展に「痛ましき腕」を出品。Paris大学ソルボンヌ(Sorbonne)校で哲学・社会学・民俗学を学ぶ。かの子、脳溢血で倒れる。
 1939年 かの子、02月18日死去。一平、山本八重子と同棲を始める。太郎、Paris大学民俗学科卒業。
 1940年 一平が作詞した〔とんとん とんからりんと 隣組‥で有名な〕国民歌謡「隣組」放送開始。太郎、Pars陥落前Franceを離れ08月帰国。
 1941年 一平、山本八重子と結婚。
 1942年 太郎、現役初年兵として中国戦線へ出兵。
 1946年 太郎、復員。
 1948年 一平、脳出血で10月11日死去。
 1970年 太郎、大阪万博会場に「太陽の塔」等を完成し、theme館々長を務める。
 1996年 太郎、01月07日、急性呼吸不全の為死去(享年84歳)。

【小生comment】
 1930年01月Parisに着いてからの数ヶ月間こそ暗く孤独な日々を過ごした太郎だが、その後は美術学校へ通う傍らFrance語を習得。
 以後、丸10年Franceで生活し、Paris大学Sorbonne校で絵画から離れ、哲学・社会学・民俗学を学んだ。
 岡本太郎と言えば、あのカッと見開いた眼光鋭い目で両手を広げ「芸術は爆発だ!」と曰うperformanceで、「強烈な個性の塊の人」という印象が強い。が、太郎の奥さん敏子さんの言葉を借りれば「当人はまっとうな、心優しい、Paris育ちの江戸ッ子で、奇人ではない。素直で、無邪気で、humorがある、人間的に魅力ある人」。きっとそうだろう。
 彼が世間一般の人と違うのは、父一平・母かの子という著名人の家庭に育った環境が、本人をして否応なくscaleを大きくさせたのだろう。
 岡本太郎記念館を後にした小生は、地下鉄表参道駅迄の雨の途を歩き乍ら、岡本一平・かの子・太郎一家が生きた時代を想像してみた。
 岡本太郎には、これまでどちらかというと、negativeな印象を持っていた。しかし、記念館を訪れてみて、改めて彼が日本を代表する大芸術家だったのだと実感出来、畏敬の念を抱くに至った。

■続いては、今日最後の話題、『高峰秀子』大特集その2についてである。前《会報》の〔その1〕で、「高峰秀子像(愛称『カニ』)」が出来る時のepisodeをご紹介させて頂いたが、今日はその後日談になる。〔【私の渡世日記(下) 続・勲章】から〕

〔前略〕昭和50年の秋のある日、私は自宅の電話口で押し問答をしていた。キチンとした言葉遣いのその人は、
「紺綬褒章と木杯一組を、いつお届けに上がったら宜しいでしょうか?」
 と、まるでtape recorderの様に同じことを繰り返し、私は私で、
「勲章なんて要りませんたら、要りません」
 と繰り返し乍ら、少々むかっ腹をたてていた。〔中略〕納得のいかない勲章などが家の中に舞い込んで来ては始末に困る、という気持ちが先に立って慌てたのかもしれない。
 私は夫から「ゴミ出しお秀」と呼ばれる程の「整理魔」である。〔中略〕
 新婚当時12,500円の月給取りであった夫は、30歳のトウのたった新妻の私に贈ったゴマ粒程のダイヤのengagement ringの月賦を払い乍ら、尚もチョコチョコとお土産などを買って来てくれるのである。が、私にしてみれば、そういう心遣いを「嬉しい、有難い」と感謝する気持ちと「その物が好きか嫌いか」ということは全く別のことである。
 私は私の趣味に合わないそれらの反物や札入れなどをセッセとお取替えに行った。その私の頭の上に夫の雷が落ちた。初めての夫婦喧嘩であった。
「折角、ボクが選んで買って来た物を、取替えに行くよとは何事だ!」
 というのが、あちらさんの言い分で、
 ‥〔中略〕‥
 私の行動はあまりにも合理的過ぎ、夢がなさ過ぎたと思う。おまけに相手が〔中略〕新婚早々の亭主、というのが最高にマズかった様である。私は素直に自分の非を認め、全面的に陳謝し、反省した。が時既に遅し、夫は〔中略〕以後、絶対なんにも買ってくれなくなった。〔中略〕
 この事件の後、深く静かに反省した私は、到来物の始末に困り果てた時は夫に相談することに‥。〔中略〕場所ふさぎな贈物が来ると私はジッと夫の顔を見る。一言も言わなくても私の顔には「お取替え、お取替え」と書いてあるらしい。〔中略〕「取替えてもいいよ」と言われれば、私は車に荷物を運び入れ、嬉々としてお取替えに赴くのである。
 ‥〔中略〕‥
 私は目を三角にして受話器に耳を押し当てていた。勲章と木杯を受け取るハメに至ったのは、やはり私たち夫婦が蒔いた種が思わぬ実を結んで仕舞ったのであった。
 昭和49年、私は、夫の発案で我家の家宝であった梅原龍三郎画伯の「高峰秀子像」を東京国立近代美術館の梅原龍三郎cornerに寄付した。〔中略〕お返ししたと言った方が当たっている。何故なら、この肖像画は梅原画伯から只で貰ったものだからである。
 日本洋画壇に高々と君臨する梅原龍三郎画伯の履歴やその偉業について、今更私が書き綴る必要はないだろう。〔中略〕
 この「高峰秀子像」は、画伯の少ない肖像画の中でも画伯自身が気に入っている力作だった。
「私たちが死んじゃったら、この一枚の宝物は何処へ流れていっちまうんだろう。行方知れずにでもなったら、梅ゴジ(梅原ゴジラを略した愛称)に悪いねぇ」
 私たち夫婦の話題に「梅ゴジ」という名が出る度に、大切にして来た肖像画の将来が気になって仕方なかった。
 ‥〔中略〕‥
 私は、紺色のribbonのついた勲章をhandbagに入れた。丁度その夜は梅ゴジと夕食の約束があったからである。食事の途中で、私は勲章を撮み出して梅ゴジに見せた。
「あの絵が、こんなものに化けちゃったよ、先生」
「ふふうん‥‥あの絵がこんなもんになっちまったか。君に悪かったな」
 やっぱり、梅ゴジは話が分かる。たった二言の会話で、私は胸のつかえがおりた様な気がした。〔中略〕
 私は東京国立近代美術館に嫁入りさせた「高峰秀子像」を、無性に懐かしく思い出した。あの絵〔中略〕が描かれたのは昭和25年の秋。私が軽井沢で「カルメン故郷に帰る」のlocation撮影中の時だった。(了)

[20]梅原龍三郎のdessinのmodelをしている高峰秀子 1950年
 20dessinmodel_1950

【小生comment】
 高峰秀子氏の「続・勲章」のお話如何でしたでしょうか。面白いところがまだ沢山あるのですが容量の関係で大幅にcutしました。ご興味ある方は書店でお買い求め下さい。(笑)
 次回以降も、〔その3〕〔その4〕‥とドンドンご紹介していく予定です。お楽しみに‥
 ではまた‥。(了)

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