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2012年3月の5件の記事

2012年3月31日 (土)

【時習26回3-7の会 0387】~「劉希夷『白頭を悲しむの翁に代る』を詠んで」「『高峰秀子』大特集その5」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0387】号をお届けします。

■さて、時習館高校の話題と言えば、週刊「サンデー毎日」によると、今年2012年春の大学合格者数は、東大14(7)人・京大12人・名大53人となっていた。(【注】括弧内は現役、以下同じ)
 東大は2010年20人、2011年12人という過去の実績だそうである。
 因みに、他の公立高校の状況は以下の通り‥
全国01位:浦和39(14)人
 同02位:千葉31(16)人
 同03位:旭丘30(13)人〔愛知県下1位〕
 同04位:岡崎26(10)人〔同2位〕
 同09位:一宮16(10)人〔同3位〕
 同09位:刈谷16(07)人〔同3位〕
 同15位:時習館14(07)人〔同5位〕という順。
 今年、岡崎高校は公立高校全国1位と愛知県下1位のいずれの座も失った。

■さて、04日後の04月04日が二十四節気でいう「清明」である。前《会報》で拙宅の庭の杏花をご紹介させて頂いたが、「杏花」というと晩唐の詩人杜牧が「清明の時節雨紛紛」と詠った「清明」が特に有名である。そこで今日も‥と考えたがこれ迄幾度かご案内しているので、今日は「桃李の花」と詠った初唐の詩人劉希夷(りゅうきい)(651-680?)の「代悲白頭翁(白頭を悲しむの翁に代る)をご紹介したい。
 小生、劉希夷のこの歌が好きで、拙宅の中庭に「花桃」と「李(スモモ)」の樹を植えてある。ただ今春は寒さが厳しくまで満開に至っていない。
 今日は、桃李の満開の花を想像し乍らこの七言古詩で味わって下さい。26行182字とvolumeが嵩むが、詠み易く「年年歳歳‥」や「紅顔の美少年」と人口に膾炙した名句が並び、正に一気呵成に詠み通せる傑作中の傑作である。是非音読して見て下さい。ではどうぞ‥

 代悲白頭翁  劉希夷

洛陽城東桃李花
飛來飛去落誰家
洛陽女兒惜願色
行逢落花長嘆息
今年花落顔色改
明年花開復誰在
已見松柏摧爲薪
更聞桑田變成海
古人無復洛城東
今人還對落花風
年年歳歳花相似
歳歳年年人不同
寄言全盛紅顔子
應憐半死白頭翁
此翁白頭眞可憐
伊昔紅顔美少年
公子王孫芳樹下
清歌妙舞落花前
光祿池臺開錦繡
將軍樓閣畫神仙
一朝臥病無相識
三春行樂在誰邊
宛轉蛾眉能幾時
須臾鶴髪亂如絲
但看古來歌舞地
惟有黄昏鳥雀悲

 白頭(はくとう)を悲しむの翁(おきな)に代る

洛陽城東桃李花(らくよう じょうとう とうりのはな)
飛び来たり飛び去って誰(た)が家にか落つる
洛陽の女児(じょじ) 顔色(がんしょく)を惜しみ
行(ゆくゆ)く落花(らっか)に逢(あ)いて長嘆息(ちょうたんそく)す
今年(こんねん)花落ちて顔色(がんしょく)改まる
明年(みょうねん)花開いて復(ま)た誰(たれ)か在(あ)る
已(すで)に見る 松柏(しょうはく)の摧(くだ)かれて薪(たきぎ)と為(な)るを
更に聞く 桑田(そうでん)の変(へん)じて海と成るを
古人(こじん)復(ま)た洛城(らくじょう)の東(ひがし)に無く
今人(こんじん)還(かえ)って対す落花(らっか)の風
年年歳歳(ねんねんさいさい) 花相(はなあ)い似たり
歳歳年年(さいさいねんねん) 人同じからず
言(げん)を寄す 全盛の紅顔子(こうがんし)
応(まさ)に憐れむべし 半死(はんし)の白頭翁(はくとうおう)
此(こ)の翁(おう) 白頭(はくとう) 真(しん)に憐れむ可(べ)し
伊(こ)れ昔 紅顔の美少年
公子王孫(こうしおうそん)と芳樹(ほうじゅ)の下(もと)
清歌妙舞(せいかみょうぶ)す 落花(らっか)の前(まえ)
光祿(こうろく)の池台(ちだい) 錦繡(きんしゅう)を開き
将軍の楼閣 神仙を画(えが)く
一朝(いっちょう) 病に臥(ふ)して 相(あ)い識(し)る無し
三春(さんしゅん)の行楽 誰(た)が辺(へん)にか在(あ)る
宛転(えんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時(いくとき)ぞ
須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ)乱れて糸の如し
但(た)だ看(み)る 古来 歌舞(かぶ)の地
惟(た)だ 黄昏(こうこん) 鳥雀(ちょうじゃく)の悲しむ有るのみ

【意訳】洛陽の街の東に咲く桃とスモモの花が風に誘われてあちらこちらに散っている。
 洛陽の娘達はその美しい容貌を愛(いつく)しみ、道すがら、移ろう春に散る花を見て長いため息をもらす。
 今年花が散り春が過ぎれば人の容貌も衰えてゆく。だから明くる年再び花開く時、誰が変わらずそれを見ることが出来ようか‥。
 我々は既に見て来ている。常緑の松や柏の木がやがて薪にされて仕舞うことを。またこうも聞く。桑畑が海にさえ変わって仕舞うということを。
 昔この洛陽の東でこの花を眺めた人は既に(この世に)いない。今の世の人々がこうして風に舞う落花を眺めているのだ。
 年々歳々、花は同じ様に咲き乍ら、歳々年々、それを見る人々は変わるのだ。
 青春真っ只中にある若人達よ、思いやってくれまいか。この半死の白髪頭の老人のことを。
 この痛ましい白髪の老人も若い時代は紅顔の美少年だったのだよ。
 公子や王孫達と香しい樹々の下で遊び、舞い落ちる花の前で清らかに歌い舞ったのだった。
 前漢の九卿王根(おうこん)邸にあった池の台(うてな)の様に錦を張り巡らせた宴に臨んだり、後漢の大将軍梁冀(りょうき)の様に神仙を描いた豪勢な邸宅にも参上したのだよ。
 しかし一たび病に臥すと知る人が誰もいなくなって仕舞った。あの華やかで楽しかった日々は何処へ行って仕舞ったのか。
 なだらかで美しい(=宛転たる)眉‥その美しさもいつ迄持つだろうか。忽ち(=須臾にして)鶴の白い羽の様白髪となり糸の様に乱れる時がやって来るのだ。
 御覧なさい。昔華やかに歌い舞った辺りは、今はただ黄昏の光の中、小鳥たちが哀しく囀っているのみである‥。(了)

【小生comment】
 高校の漢文の授業みたいになって仕舞いましたね。でも、品格ある作品なので全文ご紹介させて頂きました。

 この詩は、かつて抜粋をご紹介させて頂いたことはあるが、全文は今回が初めてである。
 長詩文といっても、全文(七言×26行=)182字は、般若心経の266字に比べればかなり短い。(笑)
 暗誦するには少々長い詩文であるが、その長さを感じさせない流麗さがあり、内容も比較的解り易く、覚え易いことは確かである。

[01][02]桃花01&02
 0101_2
 0202

[03][04]李花01&02
 0301
 0402

[05]拙宅の花桃の蕾
 05

––––––––––––––––––––––––[06]拙宅の李花
 06

[07]拙宅の海棠の花
 07

 小生は、古体詩の中で最も好きな作品である。添付写真の「桃花」と「李(スモモ)花」をご覧下さい。前《会報》でご紹介した「杏花」同様、実に美しい。

「洛陽城東桃李花/飛來飛去落誰家〔美しい桃李花が舞い散っていく様子〕」を語り物語の始まりを告げ、「年年歳歳 花相い似たり/歳歳年年 人同じからず〔その美しい花々は毎年同じ様に咲いているが、その花々を見ている人々は代わっていく〕」という著名な言葉が続き、更に今眼前にいる白髪頭の哀れな翁について述べ、彼もかつては「伊れ昔 紅顔の美少年」だったと、厳然たる「時の移ろい」という『無常感』を詠う。そして、「惟だ 黄昏 鳥雀の悲しむ有るのみ〔黄昏時に小鳥達の囀りだけが聞こえて来る‥〕」と締め括っている。
 古来より愛誦され続けた詩だけあり、現代人の我々にも馴染み深い言葉が随処に鏤められている。詠いあげると、胸が熱くなる様な感動を小生は覚える。

■さて今日最後の話題。今週も『高峰秀子』大特集をお届けする。5回目の今日は、【台所のオーケストラ】をご紹介する。
 まず最初は【まえがき】を、そして【三つ葉】を続けてご高覧下さい。

[08]高峰秀子著『台所のオーケストラ』
 08

 ※ ※ ※ ※ ※

 【まえがき】
 〔前略〕食べることが大好きだから、〔中略〕せいぜい自分でmarketに足を運び、自分の気に入った材料を仕入れてきて、自分で台所に立つより仕方がない。
 〔中略〕世の中、平和でダレているせいか、本屋には料理の本が氾濫している。私はいそいそとその料理の本を抱きしめて我家へ帰り、まず、美しくて美味しいそうなcolor写真に見とれたあと、ややこしくて、酷く時間のかかりそうな製造過程を詠み進む途中でガクン! と戦意を喪失して本をブン投げてしまう。性懲りもないことである。
「手間ヒマかける時間はない。でもサ、ちょっと目先の変わったものは食べたいわ、それも買い置きの材料を使って、チョコチョコと作れるヤツを」
 そういう怠け者の情熱家の為に、私は、私の貧しいrepertoryの中から、「3分から小一時間(=1時間弱【小生注】)程」で出来上がる、私流の即席インチキ料理ばかりを書いてみた。
 ゴキブリ女房の手慰みのことだから、出来上がった料理をcolor写真にして皆さんにお目に懸ける自信は全くないし、もう一つ、料理の本にはキッチリと材料の分量が書いてあるけれど、私の即席料理はその日の気分や健康の具合で匙加減もコロコロと変わるから、大体の目安、目分量でしか紹介することが出来ない。ということは、人には夫々自分の舌があり、好みの味というものがあるのだから、あとは御自分の舌と相談し乍ら作ってみて下さい、ということである。
 ただ私の経験から言うと、料理を作る為に、3つのことだけは心掛けていたいものである。一つは極当り前のことだけれど、キュウリ1本、トマト1個と言えども材料だけは吟味すること。醤油その他の調味料や香辛料は少なめに買う様にして、小まめに新陳代謝させること、もう一つは、化学調味料の力は偉大だからこそ、効果的に使いこな熟すこと。以上のことは、常時、台所の若さを保つコツだと思っているし、大根おろし一つでも美味しく食べられることだと、私は信じている。
 てな案配で御託を並べてみたものの、この中の料理が果たして美味しいのかどうかも、無責任の様だけれど、実は私にも全然、分かっちゃいないのです。
 ま、中味の味は薄っぺらいかも知りませんが、外味の方だけは、私が日頃尊敬している、安野光雅(【小生注】あんの みつまさ(1926.03.20-)先生が飾って下さったので、『台所のオーケストラ』と言う題名も、楽しい装丁にhintを得て付けさせて頂いたと言う訳で、「馬子にも衣装、髪かたち」であります。
 この本が、平成5年の52刷以来、いまだにチビチビ売れている理由は、結婚祝いや、意外にも単身赴任のお父さんや息子さんの為に、お母さんが買って下さっていると知って、私はへえ! と驚いた。〔後略〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 【三つ葉 honewort】
 最近の野菜や果物の風味が落ちたのか、私の鼻が鈍感になったのか知らないけれど、三つ葉の香りにも、以前の様な上品さ、爽やかさが全然ない。だから、少し野暮っちい匂いだけれど、私は根三つ葉を専ら愛用している。
 Parisで藤田嗣治画伯と食べ物の話をしていた時、私が「日本の何が食べたいな、と思いますか?」と聞いたら、「根三つ葉、紫蘇の葉、茗荷、蕗の臺(ふきのとう)、柚子に筆生姜(=新生姜のこと【小生注】)に慈姑(くわゐ)に納豆、‥‥」と、たちどころに十品ばかりあげたのでビックリしたことがあった。根三つ葉を見ると、だから藤田先生を思い出す。
「Leonard F(o)ujita」なんて名前になって、すっかりフランス人になっちゃったけれど、藤田先生程「日本人」だった人はいない、と私は思っている。

 《ささみと根三つ葉の山葵醤油》
 ごく新鮮なささみを一口大にそぎ切りにしてザルに入れ、熱湯を注いで霜降りにして、よく水気を切ります。
 山葵(わさび)を下ろして醤油と混ぜて「山葵醤油」を作ります。山葵は努々(ゆめゆめ)ケチらずにたっぷりと使い、鼻にツーンとくる位の方が美味しいのです。
 山葵醤油でささみをサッと混ぜて小鉢に盛り、三つ葉の微塵切りをたっぷりと乗せ、更に焼海苔の千切りを天盛りにします。(了)

【小生comment】
 高峰秀子氏のessayは、「切れ」があり、「機知」に富み、小気味いいtouchで綴られていく。だから読んでいて爽快感がある。
 今日のお別れは、『台所のオーケストラ』の最後に乗っている《高峰風dressing》をご紹介する。小生、一度作ってみようと思い乍らまだ作ってはいないが、簡単に出来そうなので近々試してみるつもりである。

 《高峰風dressing》
 Salad Oil(cup 1杯)、大蒜(Garlic)(微塵切り4~5枚)、Tabasco(サッと1振り)、Lemon汁(Tea spoon 1杯弱) or Balsamico酢 or Wine vinegar、塩、胡椒。
 自己流の目茶苦茶dressingですが、うちの旦那はこのdressingに馴れて仕舞って、よそのSaladは絶対に食べなくなっちゃった。たまに薄口醤油を垂らしたり、玉ねぎの微塵切りをドカッと入れて、変化を付けたりします。

 皆さん、如何ですか? とても美味しそうなdressingに思えますね。一度challengeしてみて下さい。
 次回、高峰秀子series〔その6〕も楽しみにしていて下さい。 ではまた‥。(了)

2012年3月24日 (土)

【時習26回3-7の会 0386】~「03月18日:ポーラ美術館『印象派の行方展』を見て」「03月18日:『小田原城』を訪ねて」「03月20日:愛知県芸術劇場concert hall『及川浩治Trio"Bee"』演奏会を聴いて」「03月20日:愛知県美術館「所蔵品展『うつし・うつくし』から」「『高峰秀子』大特集その4」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0386】号をお届けします。

■さて、時習館高校の話題と言えば、愚息の大学受験についてですが、03月22日に合格発表がありました。結果は残念乍ら「桜散る」となりました。彼曰く、「第一希望大学に受からないなら浪人する」と言っていたので後期日程の結果に思ったより落ち込んだ様子もなく、小生の励ましの言葉に「有難う。来年頑張るヨッ」と言っていたのでひとまず安心した次第‥。
 「人生は『禍福は糾える縄の如し』であり、失敗や苦しさを経験した者程、人生を力強く切り開いていくことが出来る」。
 ‥という信念を持って、彼に今後の頑張りを期待したい。

■さて、時節は「春分」である。今年の春は訪れが遅く、拙宅の庭の樹々の花々も、つい数日前まで梅花が咲いていた。桃李の花はまだである。
 が、漸く「杏の花」が咲き出した。添付写真をご覧下さい。

[00a&b]拙宅の庭に咲いた杏の花
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 拙宅は親父の家と同じ敷地である。親父は昔から椿を丹精込めて育てていた。今日はの満開の花を10種類ご紹介する。

[00c~l]拙宅の隣地親父の家に庭に咲いた椿の花01~10
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[00m]拙宅の隣地親父の家に庭に散り落ちた椿の花
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 椿の花が地面に落ちていた。河東碧梧桐の有名な俳句が浮かんだ‥

 赤い椿白い椿と落ちにけり  河東碧梧桐

 鮮やかな椿の花を堪能して下さい。

■さて今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に、03月18日(日)家庭serviceと自分の趣味を兼て、箱根千石原にあるポーラ美術館『印象派の行方~Monet, Renoirと次世代の画家たち展』を見て来ましたので、まずその模様から‥。

 ポーラ美術館については、かつて本《会報》2010年01月に【0274】【0275】の2回seriesで御案内していますので、既にその時見た展示作品がかなりのweightを占めていました。が、流石に巨匠たちの作品ばかりで何回見てもいいものはいい。ウン!
 箱根は3月中旬はまだ寒い。09時00分の開館ピッタリに入館し、11時半まで拝観した。

[01]ポーラ美術館入口にて
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––––––––––––––––––––––––[02]ポーラ美術館leaflet01
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[03]ポーラ美術館leaflet02
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––––––––––––––––––––––––[04]ポーラ美術館leaflet03
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[04a]箱根駅伝の第5区と6区の道
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 今回、ポーラ美術館を訪ねて、発見して感動したことを一つご紹介したい。
 それは、【糸園和三郎】の作品である。
 糸園(1911.08.04-2001.06.15)氏は、大分県中津市出身。若い頃(1930年代初頭)よりsurrealismの影響を受け始め、1939年/美術文化協会の結成に参加、1943年/新人画会結成等を経て1964年以降無所属。
 館内のshopに彼の作品のpostcardや図録は置いてなかった。その為、お示し出来ないのが残念であるが、「幻想的で綺麗な色彩を背景に、themeとなる対象物を浮かび上がらせたりして注目させる様な」手法を得意とする。糸園氏の作品は、いずれも見た瞬間、「これはいい!」と唸らせる魅力を持っている。
 これから彼の作品には強い関心を以って臨みたい。

■続いて11時30分過ぎにポーラ美術館を後にして、車は小田原城へと向かった。その道が「関東学生箱根駅伝」の第5区と6区であることに途中で気がついた。あの‥今年正月に時習館高校の後輩山本修平君が駆け上がった道である。その道を今回は彼とは逆に降りて行ったことになる。

 12時過ぎに小田原城へ到着。天気は生憎雨が降り出した。腹がへったのでまずは腹ごしらえ。お城の南側の駐車場から徒歩3~400mの所にそば処「田毎(たごと)」があった。その道すがらお城と見紛う瀟洒な佇まいの建物があった。小田原市立「三の丸小学校」である。
 昼食後、田毎から程近くに赤い橋の「学橋(まなびばし)」があり、そこから小田原城「二の丸」に入った。

[05]小田原城お堀にかかる学橋(まなびばし)とその向こうに見える二の丸隅櫓
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––––––––––––––––––––––––[06]学橋から二の丸をbackに
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 二の丸広場では、少年少女たちが丁度流鏑馬を楽しんでいた。

[07]二の丸広場で流鏑馬を楽しんでいた少年少女たち
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 二の丸を通り過ぎ、常盤木門を潜り天守閣のある本丸に入った。

[08]小田原城・常盤木門
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––––––––––––––––––––––––[09]小田原城天守閣をbackに
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[10]小田原城天守閣全景〔blog参照〕
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 小田原城は、戦国時代から江戸時代にかけての平山城。戦国時代、伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)を藩祖とし、氏綱・氏康・氏政・氏直までの5代で関東地方の覇者となった後北条氏が名高い。後北条氏は1590年小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされる。
 その後の小田原城の歴史は以下の通り(西暦年号は藩主在任期間)。

【大久保家】45→65千石
 1590-1594 大久保忠世(ただよ)
 1594-1614 大久保忠隣(ただちか)〔改易〕
【阿部家】50千石
 1619-1623 阿部正次(まさつぐ)
【稲葉家】85→102千石
 1632-34 稲葉正勝(まさかつ)
 1634-83 稲葉正則(まさのり)
 1683-85 稲葉正往(まさゆき)
【大久保家】103→113千石(大久保忠世の5代子孫)
 1686-98 大久保忠朝(ただとも)以下10代忠良まで、明治維新まで続く

■続いては、03月20日、愛知県芸術劇場concert hallでの『及川浩治Trio "Bee"』演奏会の模様についてである。Leafletにある様に、この演奏会は、選曲が気に入り春分の日の祝日の午後のひとときをPiazzollaのArgentina Tangoとclassicの名曲の小品を、piano及川浩治、violin石田泰尚、cello辻本玲のtrioが14曲〔4曲のduoとencore曲を含む〕の名曲を奏でた。
 曲目は、piazzollaの「アディオス・ノニーノ」「ミケランジェロ'70」「リベルタンゴ(Libertango)」に始まり、Dovorak/スラブ舞曲ホ短調op.72-2、Brahms/ハンガリー舞曲第1番ト単調、Schubert/アヴェ・マリア、Puccine/誰も寝てはならぬ(歌劇トゥーランドット)、Mendelssohn/Piano trio No.1 in d~第1楽章、Beethoven/Piano trio in D~第1楽章、Faure/夢のあとに、Falla/スペイン舞曲第1番、Rimsky-Korsakov/熊蜂の飛行、Beethoven/Piano trio No.5 in D "幽霊(Ghost)"、そして、encore曲は、Rahmaninov/ヴォカリース、再度Piazzolla/Libertangoの1曲。
 Piazzollaに始まり、mellowな小品と伝統的な古典派のclassicで固めて、Piazzollaで締め括った、粋なconcertであった。

[11]及川宏治trio leaflet
 11trio_leaflet

■このconcert終了後、直ぐには帰らず、10階の愛知県美術館に行った。同美術館のleafletに乗っていた「川瀬巴水の版画」に誘われて‥。
 そこでは、one coin展覧会「愛知県美術館所蔵品『うつし・うつくし』展」が開催されていた。
 「うつし、うつくし」では、やはり昭和の安藤広重と言われる川瀬巴水(1883.05.18-1957.11.07)の多色刷り版画が圧巻であった。川瀬は、葛飾北斎と安藤広重の並び称される日本を代表する版画家として日本よりも海外で著名。以下の添付写真の絵を御高覧下さい。

[12]愛知県美術館所蔵品展『うつし・うつくし』leaflet coverは川瀬巴水『目黒不動堂』1931年
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––––––––––––––––––––––––[13]川瀬巴水『左)大根河岸の朝 東京二十景』1927年 『右)平泉金色堂《拙筆》』1957年
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[14]川瀬巴水『馬込の月 東京二十景』1930年
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 所蔵品cornerでは、以下の作品が今回出色であった。BonnardやErnst、Poynter、安井曾太郎の作品である。御高覧下さい。

[15]左)Bonnard『子供と猫(Enfant et chats)』1906年頃・右)Ernst『ポーランドの騎士(Polish Rider)』1954年
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––––––––––––––––––––––––[16]Poynter『世界の若かりし頃(When the World was Young)』1891年
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[17]安井曾太郎『承徳詩喇嘛廟(Shrine at Chengteh)』1938年
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【小生comment】
 名画は心にいい意味で、刺激を、安らぎを、そして感動を与えてくれる。いつ見てもいい。う~ん。

■そして今日最後の話題。今週も『高峰秀子』大特集をお届けする。4回目の今日は、前《会報》で藤田嗣治を‥?とお伝えしましたが、彼の話は次回以降にします。今回は、〔【芸術新潮/高峰秀子の旅と本棚】《まさに“食う”ように/斎藤明美》から〕をお届けします。

[18]私(高峰)は30歳になる迄辞典を持つということすら知らなかった‥
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––––––––––––––––––––––––[19]〈本がきれると禁断症状が出る程本が好き〉な高峰は、八重洲ブックセンター、数寄屋橋の旭屋書店、日本橋三越書籍売り場によく足を運んだ‥写真は夫と主に‥
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[20]自宅にて美術作品集を見ている高峰秀子
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––––––––––––––––––––––––[21]丸の内の新国際ビルに開店した骨董店にて‥中嶋誠之助氏の想い出に出ていた店‥
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[22]司馬遼太郎夫妻と高峰・松山夫妻
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 ※ ※ ※ ※ ※

 読書家であることで、まず、私は高峰を尊敬している。〔中略〕高峰は五歳から子役を始めた。〔中略〕が、家庭でも職場でも、高峰に読み書きを教えてくれる人間はいなかった。〔中略〕
 小学校に通算して二ヵ月、今の中学校にあたる文化学院に一ヵ月、これだけが、高峰秀子が86年の生涯で受けた“教育”だ。
 私が知る高峰は、読み書きは勿論、文学、美術、音楽、あらゆることに通じた、まさに博覧強記の人だった。自著は26冊に及ぶ。
 全くと言っていい程学校教育というものを受けていない彼女が、如何にしてそんな人間に成り得たのか‥。〔中略〕
 高峰が私にこんな風に言ったことがある。
「書店というものは知っていたけど、私みたいなバカが入っちゃいけない場所だと思っていたからね」
 私は痛ましさに胸が詰まった。
 同じことを、結婚してからも高峰は思っている。
 まだ新婚当時、新妻がやたらその辺の新聞や雑誌をひっくり返して見ているのを不審に思った松山善三が聞いたそうだ。
「何をしているの?」
「字を探している」
 新妻は答えた。
 つまり本を読んでいて、読めない漢字があると、それと同じ字を新聞や雑誌で探して、文章の前後関係からどう読むのか類推していたのである。
 吃驚した松山は、自分が中学校時代に使っていた辞書を与えて、引き方を教えた。
「辞書ってものがあることは勿論知っていたけど、私みたいなバカが触っちゃいけないものだと思ってた」
 そう、高峰は私に言った。〔中略〕
 高峰は、〔中略〕本当に自分のことをバカだと思っていたのだ。〔中略〕
 養母は高峰が稼いだ金を湯水のように使い贅沢の限りを尽くした人であるが、そのことよりも、高峰に教育の機会を与えなかったこと、向学心を踏みにじったことが、私には一番許せない。〔中略〕
 しかし本が、本だけが高峰の、留まることを知らない知識欲と向学心を満たして来たことだけは断言出来る。
「かあちゃん、また本を読んでるの? 少しは外に出たらどう?」
「いや」〔中略〕「いやです」
 答えはいつも同じだった。
 午後、松山家へ行くと、決まって高峰は寝室のbedで、大きな枕を背もたれにして本を読んでいた。〔中略〕
 本から目を挙げない高峰が、「嬉しい!」と言って破顔するのは、「少しだけど、本を持って来たよ」と私が言う時だけである。
 だがそれも瞬く間に読んで仕舞う。
 三冊運べば、二日後、少なくとも三日後には読了している。
「もう読んじゃったの?」
「うん」
 そして相変わらずbedの上でこちらを向きもせず、納戸の奥から、時には松山の書斎の本棚から引っ張り出して来た、既に読んだことのある本を読んでいる。〔中略〕
 一体これ程、高峰秀子はどんな本を読んでいたのか。
「小説はあんまり好きじゃない。自分が作り物の世界で仕事してたせいかな」
 読んでいたのは随筆である。
 だが、話題の小説は読んでいた。〔中略〕
 高峰が好みそうな作家とは〔中略〕真面目で、文章に品格がある、少なくともありそうな書き手。〔中略〕
 今でも、高峰のbed脇のottoman〔【小生注】長椅子の一種〕と枕元には、読んでいた本が積んである。
 その中には入れ替わることなく、常に置いてある本がある。
 英文法と英会話の本である。
 私など大学を出たなどとは恥ずかしくて言えない程、高峰は英語が達者だった。〔中略〕高峰の旅の手帖には、米国滞在の間、英語で書かれている部分が数十頁もある。
 Hawaiiにいる時など、一緒に歩いていて外国人に話しかけられ、高峰が通訳してくれたこともある。
 もう一度言うが、高峰は小学校に延べ二ヵ月も通っていない。
 司馬遼太郎氏がつくづくと高峰の顔を見乍ら言った。
「どんな教育をすれば高峰さんの様な人間が出来るんだろう」
 その感嘆にはあらゆる思いが含まれているだろう。だがその中には、学校教育を受けることなく此処迄の人間になったことへの驚きも必ずや含まれていたと私は確信する。
「そんなに本ばっかり読んで、よく飽きないねぇ」
 呆れた様に私が言うと、高峰は応えた。
「面白くないものもあるし、私なんかには解らない難しいものもある。でも、何か一つは、必ず、学ぶことがあるんだよ、本には」
 高峰にとって、読書は趣味ではなかった。
「本当に“食う”ように本を読むのね、かあちゃんは」
 私のその言い方を気に入って、自ら、
「私は食うように本を読む」
 と何度か言ったことがある。
 食うように‥。
 高峰にとって読書は、生きる糧だったのだ。
「どうしてそれ程本を読むの?」
 改めてそう聞いた時、
「劣等感ですね」
 一言そう答えた。高峰の暗く、強い眼。
 逆境を越えて尚、己が目指す自分自身に向かって直向きに努力する、その姿は眩しい程美しかった。〔後略〕(了)

【小生comment】
 「読書」って、人生を豊かにするだけでなく、「生きる糧」か‥。小生、いまだ彼女の足許にも及ばない。
 彼女の言葉の「でも、何か一つは、必ず、学ぶことがあるんだよ、本には」‥には頷かされる。
 小生も、もっともっと本を読まなければ‥。
 次回、高峰秀子series〔その5〕を乞うご期待! ではまた‥。(了)

2012年3月17日 (土)

【時習26回3-7の会 0385】~「03月12日:松坂屋美術館『メアリー・ブレア原画展』を見て」「『高峰秀子』大特集その3」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0385】号をお届けします。

■さて、時習館高校の話題と言えば、一昨日から昨日(03月15(木)~16(金))の2日間に亘り、平成24年度の入学試験がありました。
 また、愚息の大学入試の方はと言いますと、前期日程は残念乍ら希望は叶いませんでした。そこで後期日程を受験し、22日の結果待ちという状況です。「気分転換してくるヨ」と、親しい時習館の同期の仲間3人と卒業記念旅行と称して15日未明から17日朝にかけて夜行busでDisney Seaへ行って来ました。
 本人は「前期日程の希望校が駄目なら浪人」と覚悟している様子。私大は受けていない。
 愚かな父親として小生は、「失敗や挫折という経験が人間の幅を大きくする」「『禍福は糾える縄の如し』だ」と愚息を諭し、「自らの人生だ、自らの意志と責任で努力を重ね、人生を切り開いて行け」と激励した(つもりでいる)。

■今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に、03月12日(月)仕事で名古屋へ行った折り、その帰途松坂屋美術館で開催中の『メアリー・ブレア原画展』を見て来ましたので、そのご報告から‥。
 メアリー・ブレア((Mary Blair)1911-1978)は、1950年代、Disney Studioで、「シンデレラ(Cinderella)」「ふしぎの国のアリス(Alice in Wonderland)」「Peter Pan」のconcept artを手掛けた女性artistである。この展覧会を見た感想を一言でいえば【癒し(healing)】である。
 Maryの作品を紹介する前に、まず彼女の略歴から‥
【略歴】
1911年 10月21日、Oklahoma州マカリスターに双子姉妹の妹としてMary Brown Robinson誕生
1931年 Los Angelesのシュイナ―ド美術学院(Chouinard Art Institute)に入学。同学院にて水彩画とillustrationを学ぶ。夫となるLee Blairと知り合う
1934年 Lee Blairと結婚
1939年 Walt Disney Studio社に入社。
1940年 『わんわん物語』『ダンボ』他のconcept artを描く
1941年 Walt Disney社を退社後2ヵ月後復職、Walt Disney夫妻等と共に南米へ調査旅行する
1950年 Cinderellaでcolor & styling
1950年 Alice in Wonderlandで同上
1952年 Peter Pan他で同上
1978年 07月26日、脳溢血で死去(享年66歳)

 以下に彼女〔[04]は夫Lee Blair, [05]はLeeの兄Preston Blairの作品〕の作品をお示しします。
[01]『メアリー・ブレア原画展』leaflet]
 01leaflet

––––––––––––––––––––––––[02]Mary Blair
 02mary_blair

[03]Mary Blair『自画像(self portrait)』
 03mary_blairself_portrait

––––––––––––––––––––––––[04]Lee Blair『セイルフィッシュポート("Sailfish" boat)』
 04lee_blairsailfish_boat

[05]Preston Blair『夜のケーブルカー(Night street scene with cable car)』
 05preston_blairnight_street_scene_w

––––––––––––––––––––––––[06]Walt Disney等と映画調査の為の南米旅行に参加したMary & Lee Blair夫妻 1941年
 06walt_disneymary_lee_blair_1941

[07]Mary Blair『三人の騎士より「ホセ・キャリオカとブラジルの旅」(The Three Caballeros"Baia" 』concept art)
 07mary_blairthe_three_caballerosbai

––––––––––––––––––––––––[08]同『ふしぎの国のアリス(Alice in Wonderland)』concept art
 08alice_in_wonderlandconcept_art

[09]同『ギターと恋人たち(Romantic couple sitting on grass)』
 09romantic_couple_sitting_on_grass

––––––––––––––––––––––––[10]同『紫の聖母(Purple Madonna)』
 10purple_madonna

[11]同『雑誌イラスト(Illustration for magazine)』
 11illustration_for_magazine

––––––––––––––––––––––––[12]同『三頭の象(Triple Elephants)』
 12triple_elephants

【小生comment】
 「Cinderella」「ふしぎの国のアリス」「Peter Pan」等、Disney映画全盛の頃の絵の多くはMary BlairがConcept artを描いていたのですね。
 MaryはWalt Disney社を離れてからも、彼女のoriginalのIllustrationを数多く残しているが、その多くの作品が仄々とした温かな印象で見る者を魅了する。
 小生、本展は仕事の合間に見たのだが、暫し仕事のことを忘れお伽の世界に迷い込んだ様な気がした。まるでふしぎの国のアリスの様に‥。
 毎日の厳しい現実社会にいるとついstressが溜まって仕舞うが、Mary Blairの御伽の世界に一歩足を踏み込むとホッと心が救われた。こういう安らぎの場所って現代社会に生きる人々にとって大切だと思われる。

■さて続いては、今日最後の話題。今週も『高峰秀子』大特集をお届けする。三回目の今日は、上述のDisney映画「ふしぎの国のアリス」ならぬ「ふしぎの国のオギス」を‥。〔【おいしい人間 ふしぎの国のオギス】から〕

 私が初めて荻須さんに会ったのは昭和25年だったから、昭和15年にParisから一旦帰国した荻須さんが再渡仏をして間もなくの頃である。
 敗戦後、初めて東洋人の女優として「Venice映画祭」に招待されたものの、派手なお祭り騒ぎやPartyの苦手な私は、映画祭には出席せずに、7ヵ月程Parisの学生街に下宿をして気ままな毎日を送っていた。
 あるお天気の良い日、太陽の光に誘われて外に出た私が、ルクサンブ―ル公園(Le jardin du Luxembourg)の辺りをブラついていると、向こうから、小さな女の子の手を引いた背の高い男性と小柄な日本女性が歩いて来た。当時のParisには、まだ日本人観光客の入国は許されていなかったから、街で日本人を見かける、ということは殆どなかった。
「もしかしたら、荻須高徳さんでは‥‥」と、私が足をとめると同時に、彼等の顔にパッと笑みが浮かんで、真っ直ぐに私に向かって近づいて来た。やはり、荻須さんだった。
 初対面ではあったが、お互いに自己紹介だけではなんとなく別れにくく、私たちは道の真ん中でとりとめのない立ち話を続けた。〔中略〕
 荻須さんと奥さんも明るい笑顔で声を弾ませた。〔中略〕
「あ、今晩スキヤキでもしましょうよ、うちで〔中略〕ねえ、高峰さんいらして!」
 天井の高い、ガランとしたatelierの真ん中のtableを囲んで、スキヤキの夕食が始まった。他人の家にノコノコと入り込んで、しかも初対面の人にスキヤキを御馳走になるなどということは、人見知りをする私には絶対になかったことなのに、その夜ばかりは荻須家の一員の様な顔をしてrelaxしている自分が不思議だった。日本人恋しさ、というばかりではなく、荻須さんの、それこそ古武士の様に毅然とした風格と、明るく優しい美代子夫人の人柄のお陰だったのだろう。
〔中略〕
 荻須画伯は通産60年もの間、Parisに腰を据えて、只管Parisを描き続けたことになる。
 一口に60年と言うが、芸術の修羅場と言われるParisで、画業一筋に徹し切った毎日の積み重ねの60年である。「オギスは人の五倍は働く」と言われたことでも分かる様に、並大抵の努力ではなかったであろう。その間に〔中略〕仏政府からは「レジオン・ドヌ―ル勲章」を、Paris市から「メダイユ・ド・ベルメイユ勲章」を受け、(昭和)53年にはParis市の主催で滞仏50年展も開催されて、Parisや欧州での「オギス」の名声はすっかり定着した。けれど、荻須画伯が心の底から望んでいたものは、異国から与えられる勲章や名声ではなく、生まれた国、日本国からの評価だったのではないかしら?と、私は思う。
 荻須画伯は、昭和61年10月、84歳で亡くなった。亡くなって仕舞った後で、日本からどんなに立派な勲章を頂いてみたところで、それがいったい何になるというのだろう。文化勲章の受章の知らせを、「モンマルトルの墓地へ行って荻須に報告しました。当人が生きていた時だったら、どんなに喜んだことでしょう」という美代子夫人の談話を、他人の私でさえ、地団太を踏みたい程腹立たしく思った。日本という国は、ふしぎな国なのだ。ケチで、間抜けで、とんちんかんで、何ともふしぎな国なのだ。
「ふしぎな国のオギスですか?」と、細い目を和ませて苦笑いをしている荻須画伯の表情が彷彿とする様である。(了)

【小生comment】
 ここの場面を、最近復刊した高峰氏が27歳の独身時代に書いた『巴里ひとりある記』〔蚤と裸と名画〕では次の様に書いている。

[13]復刻版 高峰秀子『巴里ひとりある記』のcover
 13_cover

––––––––––––––––––––––––[13a]Paris Montparnasseの高峰秀子
 13aparis_montparnasse

[14]Louvre美術館・モナリザの前での高峰秀子
 14louvre

––––––––––––––––––––––––[15]Parisの下宿のterraceでの高峰秀子
 15paristerrace

[16]シャンゼリゼ・ボアでの高峰秀子
 16

 Parisに来て、初めてLouvreへ行きました。
 余りに大きくて、絵のところだけみたら、クタクタに疲れて仕舞いました。あの有名なモナ・リザは、大きな壁を占領していて、真ン中に収まっていました。
 全てが打ち込まれている一枚一枚の絵。
 ここも矢張り作った人たちの力みたいなものが、この大きなLouvre中に押し合いへし合い競い合っている様な、何にか圧迫を感じます。

 先頃、荻須高徳さんのatelierで、スキヤキを御馳走になりました。日本食は久し振り。Parisに来てアキラメていたせいか、別に食べたいとも思わないけれど、いざ食べてみると、美味しくって美味しくって吃驚(びっく)り。塗りのお箸や、チーンと美しい音を立てる茶碗なども懐かしくって嬉しい。(了)

【小生comment】
 余談ですが、以前にもお話した様に、荻須氏の享年は84歳、藤田嗣治82歳、梅原龍三郎97歳‥、画家は総じて長命ですね。小生も見習わなくっちゃ!(笑)
 高峰秀子氏は、著名画家との交友関係も大変広い。次回は、藤田嗣治氏についてご紹介してみようか、それとも‥?
 次回以降も、この高峰秀子seriesは〔その4〕以降もまだまだご紹介していく予定です。お楽しみに‥(笑)
 ではまた‥。(了)

2012年3月10日 (土)

【時習26回3-7の会 0384】~「03月05日:『岡本太郎記念館』を訪ねて」「『高峰秀子』大特集その2」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0384】号をお届けします。

■さて、前《会報》でご紹介した週刊現代2012年03月10日号【週現スペシャル】いまいてほしい「12人の誇れる日本人」の中から高峰秀子氏に続いて、今日は岡本太郎氏を紹介したいと思います。友人、堺屋太一氏が思い出を次の様に語っています。

【丹下健三と取っ組み合いのケンカも「芸術は力だ」岡本太郎ほどの鬼才を知らない 堺屋太一】
 通産省時代に大阪万博(Expo.'70)の企画と実施を手掛けていた私(堺屋)が、岡本太郎さんに展示producerをお願いしたのは1967年。当時の彼は無名に近く、画段と無縁の一匹狼でしたから、迎え入れるのは大変な冒険でした。
 初めてお会いした時は、小柄さと不釣り合いな程の凄まじい“目力”に驚いた記憶があります。humorのsenseもあって面白い人だとは思っていたのですが、やはり不安だった。美術界からの抵抗もありました。
 ただ、当初の展示構想は「自然と人間の調和」といったありふれたthemeでしたから、彼の言葉や発想には衝撃を受けた。それで次第に「この人に賭けよう」と決意が固まったのです。
 その後、建築producerの丹下健三さん達と打合せが始まって〔中略〕期日が迫った頃、突然“太陽の塔”を提出して皆を仰天させたのです。
 というのも、万博のsymbol towerは既に若手建築家の菊竹清訓(きくたけきよのり1928-2011)さんに依頼していた上、岡本さんの本来の仕事は、屋内展示のproduceだった。
 丹下さんは「これは展示ではなく建築じゃないか。越権行為だ!」と凄い怒り様でした。一方の岡本さんも「展示は、博覧会のconceptが観客にハッキリ伝わるものでなければならない。目立つもの、一言で伝わるものでないと」と、一歩も譲りません。
 納得のいかない丹下さんは、今度は太陽の塔を自分の設計した大屋根で囲うと言い出した。これには岡本さんも「何事だ!」と激怒し、終には事務所の床で二人は取っ組み合いを初めて仕舞いました。
 太陽の塔については、当時の通産省の大臣や局長、府知事にも「頼むから潰してくれ」と言われた。しかし岡本さんは「Eiffel塔は周りの都市計画などお構いなしに、塔だけを考えて作られた。だから良かったんだ」と、調和など気にせず、兎に角印象的なものを作ろうと考えたのです。
 岡本さんのあまりの熱意に押され、私もそれこそ命がけで周囲を説得して歩いた。結果、大屋根に直径50mの大穴を空け、太陽の塔を突き抜けさせるという案に落ち着きました。そして蓋を開けてみれば、太陽の塔は万博のみならず、20世紀の日本美術を象徴する作品となりました。
 今の日本人は、お互いの顔色を窺い、波風の立たない平凡なものばかり作っている。後世に残る創作物は、岡本さんの様に周囲を顧みない“鬼才”と、それを許容する事業調整者が揃わなければ造れません。
 岡本さんの様な才能を生かすことの出来る力と組織がある―そんな日本が甦って欲しいですね。(了)

[01]大阪万博テーマ館と太陽の塔
 01

––––––––––––––––––––––––[02]大阪万博Expo. tower
 02expotower

[03]岡本太郎記念館中庭のobjetの数々
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––––––––––––––––––––––––[04]岡本太郎記念館内2階にある太陽の塔miniature
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[05]岡本太郎絵画作品01
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––––––––––––––––––––––––[06]岡本太郎絵画作品02
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[07]館内のatelier右側
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––––––––––––––––––––––––[08]館内のatelier左側
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[09]館内のobjetの数々
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––––––––––––––––––––––––[10]館内入口付近にある売店‥書籍の多さにビックリ!
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[11]岡本一平・かの子夫妻
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––––––––––––––––––––––––[12]岡本一平の挿絵『二重虹』
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[13]従兄弟の池部良と岡本太郎
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––––––––––––––––––––––––[14]岡本一平『夏目漱石』像
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[15]かの子自署による歌と一平画の色紙
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––––––––––––––––––––––––[16]Paris留学時代の岡本太郎
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[17]Paris留学時代にLondonで一平・かの子と再会する岡本太郎
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––––––––––––––––––––––––[18]Picassoと談笑する岡本太郎
 18picasso

[19]北大路魯山人(左から5人目)・丹下健三(左から2人目)・芥川也寸志(左から4人目)に茶を点てる岡本太郎(右手前)
 1924

 実は小生、去る03月05日、仕事で上京する機会があった。最近は東京出張が毎月の様に、名古屋へは公私合わせれば毎週出かけており、正に東奔西走している。2008年09月15日に起きたLehman Shock以降、景気が悪くなってから諸情勢から俄かに忙しくなった。小生にとって今の仕事は「第二の人生」でオマケの筈だったのに、楽をさせて貰えないのはそういう星の下に生まれた運命なのだろうか。(笑)(涙)
 ならば「せめて気分転換位させてくれ!」と、出張ある度に時間の許す限り、好きな美術館や社寺等史跡巡りをすることにしている。
 今回も、仕事の約束の時間迄に一時間程余裕があったので、新幹線を品川駅で途中下車。山手線渋谷駅を経由して銀座線で1駅目の表参道で下車。そこから7分程歩き『岡本太郎記念館』を訪ねた。本記念館は、岡本太郎氏が1954年から亡くなる1996年迄自身のatelier兼住居であった所だ。
 その日は雨であったが、岡本太郎記念館についた途端、敷地内の庭に所狭しと「これが岡本太郎だッ!」と即納得出来る彼の個性的なobjetが林立していた。入館手続きをしていたら、受付嬢から「館内での撮影は自由です!」と嬉しい一言を貰い、早速写真をパチリパチリ‥!

 本記念館の現在の住所名は港区南青山6丁目1-19。戦前は青山高樹町三番地と言い、岡本太郎氏と彼の両親岡本一平&かの子一家の居宅であった。その為か、一通り見るのに15分と要しなかった。
 ここで、岡本太郎氏〔以下、敬称略〕について簡単にご紹介したい。

 太郎の母、かの子(1889-1939)は、大貫寅吉・アイの長女として東京・南青山に生まれた。大貫家は、多摩川の高津村二子に300年続く旧家。次兄大貫雪之助(晶川) (1887-1912)は府立一中・一高・東大文学部を通じ谷崎潤一郎(1886-1965)と同期で文学仲間として親交を結ぶ。この次兄の下宿から跡見女学校に通うかの子は、与謝野晶子の『明星』に短歌を投稿する文学少女になっていた。そして東京美術学校に通う岡本一平(1886-1948)と知り合う
 太郎の父、一平は、津・藤堂藩儒学者・岡本安五郎の次男の書家岡本可亭(通称:竹二郎)の長男として北海道函館に生まれた。東京美術学校西洋画科に進学。同期に藤田嗣治(1886-1968)、池部鈞(1886-1969)がいる。藤島武二に師事。美術学校時代、大貫カノ(かの子)と知り合い、1910年、美術学校教授(1903-32)和田英作(のち1932-36同校々長)の媒酌で2人は結婚。
 因みに、。池部鈞は、一平の妹コウと結婚。その息子が往年の二枚目俳優、池部良である。以上は余談‥。

 1911年 太郎、02月26日、一平・かの子の長男としてかの子の実家高津村二子で生まれる。
 1912年 一平、東京朝日新聞に入社。齣絵で夏目漱石に認められる。売れっ子の漫画家・挿絵画家となり、放蕩始まる。かの子、早大生堀切茂雄と恋愛。
 1913年 かの子、精神衰弱となり1916年迄入退院を繰り返す。かの子の恋人堀切病死。
 1917年 慶大生恒松康夫(後年、島根県知事)が岡本家に同居始める。
 1918年 太郎、慶應義塾幼稚舎に入学し、寄宿舎生活する。
 1924年 かの子、慶応病院に入院中、医師新田亀三と知り合う。
 1929年 太郎、東京美術学校に入学するが、半年後、父一平のLondon軍縮会議取材の為渡英に母かの子と共に同行。
 1930年 かの子、London滞在中に脳溢血で倒れる。太郎、両親と別れ、Parisで独り住まい始める。
 1932年 太郎、Picassoの作品に衝撃を受ける。
 1933年 かの子、再び脳溢血で倒れる。
 1938年 太郎、国際Surrealist Paris展に「痛ましき腕」を出品。Paris大学ソルボンヌ(Sorbonne)校で哲学・社会学・民俗学を学ぶ。かの子、脳溢血で倒れる。
 1939年 かの子、02月18日死去。一平、山本八重子と同棲を始める。太郎、Paris大学民俗学科卒業。
 1940年 一平が作詞した〔とんとん とんからりんと 隣組‥で有名な〕国民歌謡「隣組」放送開始。太郎、Pars陥落前Franceを離れ08月帰国。
 1941年 一平、山本八重子と結婚。
 1942年 太郎、現役初年兵として中国戦線へ出兵。
 1946年 太郎、復員。
 1948年 一平、脳出血で10月11日死去。
 1970年 太郎、大阪万博会場に「太陽の塔」等を完成し、theme館々長を務める。
 1996年 太郎、01月07日、急性呼吸不全の為死去(享年84歳)。

【小生comment】
 1930年01月Parisに着いてからの数ヶ月間こそ暗く孤独な日々を過ごした太郎だが、その後は美術学校へ通う傍らFrance語を習得。
 以後、丸10年Franceで生活し、Paris大学Sorbonne校で絵画から離れ、哲学・社会学・民俗学を学んだ。
 岡本太郎と言えば、あのカッと見開いた眼光鋭い目で両手を広げ「芸術は爆発だ!」と曰うperformanceで、「強烈な個性の塊の人」という印象が強い。が、太郎の奥さん敏子さんの言葉を借りれば「当人はまっとうな、心優しい、Paris育ちの江戸ッ子で、奇人ではない。素直で、無邪気で、humorがある、人間的に魅力ある人」。きっとそうだろう。
 彼が世間一般の人と違うのは、父一平・母かの子という著名人の家庭に育った環境が、本人をして否応なくscaleを大きくさせたのだろう。
 岡本太郎記念館を後にした小生は、地下鉄表参道駅迄の雨の途を歩き乍ら、岡本一平・かの子・太郎一家が生きた時代を想像してみた。
 岡本太郎には、これまでどちらかというと、negativeな印象を持っていた。しかし、記念館を訪れてみて、改めて彼が日本を代表する大芸術家だったのだと実感出来、畏敬の念を抱くに至った。

■続いては、今日最後の話題、『高峰秀子』大特集その2についてである。前《会報》の〔その1〕で、「高峰秀子像(愛称『カニ』)」が出来る時のepisodeをご紹介させて頂いたが、今日はその後日談になる。〔【私の渡世日記(下) 続・勲章】から〕

〔前略〕昭和50年の秋のある日、私は自宅の電話口で押し問答をしていた。キチンとした言葉遣いのその人は、
「紺綬褒章と木杯一組を、いつお届けに上がったら宜しいでしょうか?」
 と、まるでtape recorderの様に同じことを繰り返し、私は私で、
「勲章なんて要りませんたら、要りません」
 と繰り返し乍ら、少々むかっ腹をたてていた。〔中略〕納得のいかない勲章などが家の中に舞い込んで来ては始末に困る、という気持ちが先に立って慌てたのかもしれない。
 私は夫から「ゴミ出しお秀」と呼ばれる程の「整理魔」である。〔中略〕
 新婚当時12,500円の月給取りであった夫は、30歳のトウのたった新妻の私に贈ったゴマ粒程のダイヤのengagement ringの月賦を払い乍ら、尚もチョコチョコとお土産などを買って来てくれるのである。が、私にしてみれば、そういう心遣いを「嬉しい、有難い」と感謝する気持ちと「その物が好きか嫌いか」ということは全く別のことである。
 私は私の趣味に合わないそれらの反物や札入れなどをセッセとお取替えに行った。その私の頭の上に夫の雷が落ちた。初めての夫婦喧嘩であった。
「折角、ボクが選んで買って来た物を、取替えに行くよとは何事だ!」
 というのが、あちらさんの言い分で、
 ‥〔中略〕‥
 私の行動はあまりにも合理的過ぎ、夢がなさ過ぎたと思う。おまけに相手が〔中略〕新婚早々の亭主、というのが最高にマズかった様である。私は素直に自分の非を認め、全面的に陳謝し、反省した。が時既に遅し、夫は〔中略〕以後、絶対なんにも買ってくれなくなった。〔中略〕
 この事件の後、深く静かに反省した私は、到来物の始末に困り果てた時は夫に相談することに‥。〔中略〕場所ふさぎな贈物が来ると私はジッと夫の顔を見る。一言も言わなくても私の顔には「お取替え、お取替え」と書いてあるらしい。〔中略〕「取替えてもいいよ」と言われれば、私は車に荷物を運び入れ、嬉々としてお取替えに赴くのである。
 ‥〔中略〕‥
 私は目を三角にして受話器に耳を押し当てていた。勲章と木杯を受け取るハメに至ったのは、やはり私たち夫婦が蒔いた種が思わぬ実を結んで仕舞ったのであった。
 昭和49年、私は、夫の発案で我家の家宝であった梅原龍三郎画伯の「高峰秀子像」を東京国立近代美術館の梅原龍三郎cornerに寄付した。〔中略〕お返ししたと言った方が当たっている。何故なら、この肖像画は梅原画伯から只で貰ったものだからである。
 日本洋画壇に高々と君臨する梅原龍三郎画伯の履歴やその偉業について、今更私が書き綴る必要はないだろう。〔中略〕
 この「高峰秀子像」は、画伯の少ない肖像画の中でも画伯自身が気に入っている力作だった。
「私たちが死んじゃったら、この一枚の宝物は何処へ流れていっちまうんだろう。行方知れずにでもなったら、梅ゴジ(梅原ゴジラを略した愛称)に悪いねぇ」
 私たち夫婦の話題に「梅ゴジ」という名が出る度に、大切にして来た肖像画の将来が気になって仕方なかった。
 ‥〔中略〕‥
 私は、紺色のribbonのついた勲章をhandbagに入れた。丁度その夜は梅ゴジと夕食の約束があったからである。食事の途中で、私は勲章を撮み出して梅ゴジに見せた。
「あの絵が、こんなものに化けちゃったよ、先生」
「ふふうん‥‥あの絵がこんなもんになっちまったか。君に悪かったな」
 やっぱり、梅ゴジは話が分かる。たった二言の会話で、私は胸のつかえがおりた様な気がした。〔中略〕
 私は東京国立近代美術館に嫁入りさせた「高峰秀子像」を、無性に懐かしく思い出した。あの絵〔中略〕が描かれたのは昭和25年の秋。私が軽井沢で「カルメン故郷に帰る」のlocation撮影中の時だった。(了)

[20]梅原龍三郎のdessinのmodelをしている高峰秀子 1950年
 20dessinmodel_1950

【小生comment】
 高峰秀子氏の「続・勲章」のお話如何でしたでしょうか。面白いところがまだ沢山あるのですが容量の関係で大幅にcutしました。ご興味ある方は書店でお買い求め下さい。(笑)
 次回以降も、〔その3〕〔その4〕‥とドンドンご紹介していく予定です。お楽しみに‥
 ではまた‥。(了)

2012年3月 3日 (土)

【時習26回3-7の会 0383】~「『高峰秀子』大特集その1」「02月23日:山種美術館『和のよそおい―松園・清方・深水―』展から」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0383】号をお届けします。
 前《会報》でお示しした拙宅の紅白梅の花も、ご覧の通り「青天に万華鏡の様紅白梅」と詠んだ小生の拙句の様に沢山咲き出しました。綺麗でしょう!

[00ab]拙宅の白梅
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[00cde]拙宅の紅梅
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 一昨日03月01日は、東山工業高校(02月26日)と鳳来寺高校(02月27日)を除く愛知県下の公立高等学校160校39,843人の卒業式。小生の一番下の愚息も時習館高校を卒業した。第64回卒業生、小生達の38年後輩になる。換言すれば、我々は時習館高校を卒業して38年が経ったという訳である。隔世の感がある。
 尚、愚息は今月12日に開催される国公立大学入学二次試験後期日程に向け受験勉強中である。

■さて今日は、今週の週刊現代を読んだ。その中に、【週現スペシャル】いまいてほしい「12人の誇れる日本人」として、渥美清・伊東正義・向田邦子・千石正一・盛田昭夫・遠藤周作・高峰秀子・松本清張・河合隼雄・猫田勝敏・岡本太郎・立川談志の著名人のepisodeが関係者の想い出のessayという形で紹介されていた。そして小生、その中の一人、高峰秀子氏の記事に目が止まった。
 当該記事は、古美術鑑定家、中島誠之助(1938.03.05)氏による高峰秀子氏の想い出で、次の様に書かれていた‥

【日本人が失った美しい所作の人、高峰秀子】‥〔中島誠之助〕
 僕(中島)と高峰秀子さんは、有楽町にある新国際ビルで「ピッコロモンド」なる骨董屋を4年程一緒に開いたことがありました。
 1970年頃だったと思いますが、私の麻布の店に高峰さんがjaguarで乗り付け、「手伝って」と言われたんです。〔中略〕
 そう言えば一度、客が間違った講釈を垂れて来たから、僕が色をなして怒ったことがあった。客が帰った後に言われましたよ。
「誠(セイ)ちゃん、あんた顔がすうっと青くなったろ。ああいう時はね、いいこと教えて頂きました、と言っておけばいい。まだまだ修行が足りないね」
 高峰さんの言葉はstraightなんだけど、後に引かないんだよ。僕らが言ったらケンカになる様なことでもsmartに言える。そこが高峰さんの魅力だったね。
 人に渾名を付けるのが好きで、それがまた上手いんだ(笑)。仲代達矢さん=大名時計、森光子=タコ唐草、越路吹雪=Bohemian glassといった具合で。〔中略〕
 60代で「人生の店じまい」についてessayを書き、簡素な家に住んで、夫婦が使う食器だけを残して飾り家具やtrophyなんかも全部処分した。僕も手伝ったけど、その潔さったら、如何にもアネさんらしい。今の日本人が忘れかけている慎ましさを見ました。(了)

[01]24歳頃の高峰秀子1950年頃
 01241950

––––––––––––––––––––––––[02]1956年頃の高峰秀子
 021956

[03]中島誠之助氏
 03

 小生が今丁度読んでいる本の著者が彼女であったからでもあるが、当面の《会報》の話題を決めた、「ヨシ! これから暫くは高峰秀子seriesで行こう」と。

[04]芸術新潮2011年12月号「没後一周年特集~『高峰秀子の旅と本棚』」
  高峰秀子著『にんげん住所録』『人情話 川口松太郎』『おいしい人間』『コットンが好き』
 04201112

––––––––––––––––––––––––[05]高峰秀子氏の著書「わたしの渡世日記(上)(下)」「私の梅原龍三郎」「にんげんのおへそ」「台所のオーケストラ」
  【写真】梅原夫妻と松山・高峰夫妻 伊・ストレーザにて1958(昭和33)年(?)
 05_2

 実は小生、芸術新潮2011年12月号で、=没後一周年特集=「高峰秀子の旅と本棚」を読み、彼女の美貌と賢さに好感を持ち、随筆家としてもwitに富み、読み易く小気味いい文章に惹かれてずっと彼女の作品を読み継いで来たのである。
 そこで今日から【2637の会】《会報》にて複数回に分けてご紹介させて頂きたいと思います。

 彼女は大正13年03月27日生れ。2010年12月28日に肺癌にて死去。夫は脚本家・映画監督の松山善三(大正14年04月03日-)氏。
 実父・養父を幼少時に亡くし、3人目の父が東海林太郎。
 1929年映画『母』の子役でdebut。爾来、戦前・戦後を通じて日本映画界の大star。愛称「デコちゃん」。1979年に女優引退。その後はessayistとしても活動。
 本人曰く「学歴は文化学院中退」と卑下しているが、読み易く機知に富んだ彼女のessayを読むと、高い知性を感じる。単に美人の大女優に留まらないのである。父の様に慕い、夫婦で我が子の様に可愛がってくれた梅原龍三郎夫妻。渡仏すれば藤田嗣治をして「ボクの名前、これからヘチャプリでいいや、ボクも君たちをお善〔夫君松山善三氏のこと〕、お秀って呼ぶから」と言わしめる。
 文豪の谷崎潤一郎や志賀直哉にも可愛がられた。高峰の「わたしの渡世日記 鯛の目玉」には次の様にある。

 谷崎潤一郎と志賀直哉は、「谷やん、志賀やん」と呼び合う間柄だった。谷崎家へ行けば「志賀やんに」とことづてを頼まれ、志賀家へ行けば「谷やんに」と品物を託された。私は格好なmessenger girlだったらしい。

[06]谷崎潤一郎と
 06

––––––––––––––––––––––––[07]志賀直哉と1950年
 071950

 今日は、『高峰秀子』大特集その1として、彼女の著書「私の梅原龍三郎」をご紹介したいと思う。才気溢れる彼女の話を体感できるものと思います。まずは「はじめに」から‥

 今回、文春文庫から再販されることになった「私の梅原龍三郎」を、あらためて読み直した私はビックリ仰天した。
 かんじんかなめ、著書のオヘソともいうべき「なぜ、この本を作ったのか」という理由と目的がポロリと抜け落ちていたからである。
 この本を書いたのは、梅原画伯が亡くなった昭和61年からまだ一年も経たなかった時だったから、画伯への諸々の思いがこみあげる儘に、つい筆が突っ走ってしまったのかもしれないが、そんなことは言い訳にもならない。つまり、私のアタマが抜けていた、ということである。
 この本の冒頭にある様に、私たち夫婦は大きかった家を、老人向き、三間こっきりの家に建て直した。家中に溢れていた家具調度の整理処分も面倒だったが、いちばん困ったのは、長い間に溜りに溜った写真の始末だった。〔中略〕
 あれやこれやと思案投首、取り敢えず一枚ずつ眺める内に、梅原画伯と写っているsnap写真がめっぽう多いのに気がついた。それもその筈、梅原画伯とは、昭和23年から、画伯が亡くなった昭和61年迄の、40年近いお付き合いで、私が一緒に暮らした親や夫との年月より長い。
 どのsnapも、梅原画伯の招集を受けて同行させられた個展会場、party会場、restaurantや料亭等に於けるもので、cameraを向けられるchanceが多かったせいだろうか、兎に角その枚数はハンパなものではない。それらの写真を年代順に並べてみると、昔は黒々としていた画伯の頭髪が徐々に薄くなり、恰幅のよかった体躯が一回り小さくなって、と、さながら画伯の生きた歴史を見る様で、私はこれ等の貴重な写真がうやむやのうちに散じて仕舞うのが、堪らなく淋しく、残念になった。〔中略〕
 いっそ、これ等の写真に短いcaptionをつけて、一冊の本に仕立ててみようかしら? そう思いついた途端に、早くも私は、原稿用紙と鉛筆を持ち出して机に向かっていた。それが「私の梅原龍三郎」誕生の発端だった。〔後略〕1997年08月

 続いて、高峰秀子氏の言う「カニ」こと『高峰秀子嬢』誕生についてのepisodeについてである。

[08]梅原龍三郎『高峰秀子嬢〔カニ〕』1950年
 081950

––––––––––––––––––––––––[09]「カニ」のmodelを務めた高峰秀子
 09model

[10]高峰秀子『私のご贔屓・松竹梅』原稿
 10

【カニ】
 私が最初に梅原先生のmodelになったのは、昭和25年の夏だった。
 日本最初のcolor映画、木下恵介監督演出の「カルメン故郷に帰る」の長期location撮影で、私は軽井沢千ヶ滝の宿に滞在していたが、梅原先生も夏の浅間山をお描きになる為に軽井沢にいらしていた。〔中略〕
 先生の、ただでも鋭い眼がカッと見開かれ、鉛筆が素早く動いて、あッと言う間に最初のdessinが出来上がった。〔中略〕
 また来てくれますか? が何回か続いて、ついに完成した絵を見て、私は仰天した。黒くふちどられた眼窩から目玉がはみ出していたからである。真っ赤な上衣を来て眼の飛び出した私は、今迄私の見たことのない私だった。
「なんだか‥‥カニみたいだな」
「ふふーん、カニねぇ、そういや、カニみたいだ‥‥」
 以来、梅原先生と私は、この絵を「カニ」と呼ぶ様になった。〔中略〕
 私はそれから5回の引越しをしたけれど、どんな家でも「カニ」のお陰で見栄えがし、私本人よりも「カニ」のほうが主人の様なものであった。
 その後、25年経って、私は私の最も大切な「カニ」を、東京国立近代美術館に寄贈した。「カニ」は現在、近代美術館の梅原龍三郎cornerに収まっている。(了)

 添付写真[10]は、高峰秀子『私のご贔屓・松竹梅』原稿である。

【小生comment】
 高峰秀子氏については「私の渡世日記」を読むといい。5歳の子役debutから松山氏との結婚迄の波瀾万丈の半生を知ることが出来る。
 彼女は、外面的な美しさは言うに及ばず、内面的にも人格的に優れていたのであろう。各界の大御所と言われる多くの人々から可愛がられた。
 そんな魅力ある高峰秀子氏のepisodeを彼女の沢山あるessay集から選り選ってお届けして行きたいと考えています。お楽しみに!

■さて今日のお別れは、去る02月23日仕事で上京した折見て来た、山種美術館で開催中の『和のよそおい―松園・清方・深水―』展から名画をご紹介させて頂き乍ら失礼します。」

[11]山種美術館『和のよそおい』展leaflet
 11leaflet

––––––––––––––––––––––––[12]小林古径『河風』1915年
 121915

[13]上村松園『春のよそをひ』1936年
 131936

––––––––––––––––––––––––[14]上村松園『庭の雪』1948年
 141948

[15]鏑木清方『伽羅』1936年
 151936

––––––––––––––––––––––––[16]伊東深水『雪中美人』1949年頃
 161949

[17]伊東深水『春』1952年
 171952

––––––––––––––––––––––––[18]伊東深水『吉野太夫』1966年
 181966

[19]奥村土牛『舞妓』1954年
 191954

––––––––––––––––––––––––[20]橋本明治『月庭』1959年
 201959

[21]林武『立てる舞妓』1962年
 211962

––––––––––––––––––––––––[22]小倉遊亀『舞う(舞妓)』1971年
 221971

[23]小倉遊亀『舞う(芸者)』1972年
 231972

【小生comment】
 日本画の巨匠達の美人画の競演です。「美人画三巨頭の上村松園・鏑木清方・伊東深水」をはじめ、小林古径・奥村土牛・橋本明治・小倉遊亀の作品も添付しましたので見比べてみて下さい。いずれも魅力あるとても綺麗な作品ですね‥。但し、[11]林武『立てる舞妓』だけは油彩画です。美人画とは言いにくいですが味わいがあっていいですね、やはり名画だと思います。(笑)

 ではまた‥。(了)

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