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2012年5月の4件の記事

2012年5月25日 (金)

時習26回3-7の会 0395】~「05月20日:砺波市美術館『梅原龍三郎 花と名峰』展を見て」「05月20日:高岡山瑞龍寺・雨晴海岸を巡って他」

皆さん、今泉悟です。《会報》【0395】号をお届けします。
 今週も週末ではありますが金曜日に配信させて頂きます。
 と申しますのは、時習26回の同期生、谷山K君【3-3】・中嶋Y行君【3-2】等と明日から一泊二日で京都〔洛南・山科・東山〕旅行の為、明朝早朝出発する為です。毎年春と秋に定期的に挙行している小生等の年中行事です。宿泊先は京都三条京阪にある「いろは旅館」。ここは再来年に計画している【時習26回卒業40周年記念旅行&懇親会】の宿泊&懇親会場候補先として試宿する所です。
 明日明後日の旅行の模様は次回《会報》でご報告します。お楽しみに!
 それでは、今日もその美術館巡りのお話から‥

■小生、掲題・副題にあります様に、小生05月20日(日)に日帰りで、家人と車でtulipで有名な富山県砺波市にある砺波市美術館にて06月03日まで開催中の『梅原龍三郎 花と名峰』展を見て来ましたので、今日はまずその模様をお伝えします。
 砺波市は、富山県の西部にある『tulipの花』と「防風林で囲まれた家々が広大な田畑に点在する『散居村(さんきょそん)』」で有名な街。人口は5万人弱。

[00a]富山県の地図と県下市町村
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––––––––––––––––––––––––[00b]砺波市野村島付近の航空写真
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[00c]南砺市閑乗寺公園から砺波平野の散居村遠望
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 隣接市町村としては、東隣:富山市(人口42万人)、北隣:高岡市(同17万人)、南隣:世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」と演劇祭で世界的に有名な旧利賀(とが)村を擁する南砺(なんと)市(同5万人)、西隣:小矢部(おやべ)市(同3万人)等がある。
 拙宅から砺波市美術館迄の距離は290㎞。1週間前行った拙宅⇔東京丸の内北公園間とほぼ同距離である。
 往路は、東名・豊川ICから入り、名神・一宮JCTを経由して東海北陸自動車道・小矢部砺波JCT経由・北陸自動車道・砺波ICを、復路は、砺波ICから入り、東海北陸自動車道・岐阜関JCTを経由して東海環状道路・土岐南JCTを経て東名・豊田JCT→東名・豊川ICというrouteを走った。
 navigationが、荘川IC~白川郷IC間はまだ開通前という3年前のdataで誘導した為に一般道を走る羽目に。(笑)
 しかし結果的に、世界遺産の「白川郷の合掌造りの家々」を車窓から眺めることが出来luckyであった。

 06時丁度に拙宅を出発。09時45分砺波市美術館到着。当館は有名な砺波チューリップ公園内にある。その日は残念乍ら美しいtulipの花々を見れなかった。が、当館と周辺の佇まいは静かで落ち着いた風情と新緑の美しさが相俟って、とてもいい雰囲気を醸し出していた。

 それではまず、梅原龍三郎氏の略歴から‥
《略歴》
1888(明治21)年 03月09日 京都府京都市下京区に生まれる 生家は染物問屋
1903(明治36)年 京都府立第二中学校(現・京都府立鳥羽高等学校)中退
        伊藤快彦の画塾「鍾美会」で学んだ後、浅井忠主催の「聖護院洋画研究所(現・関西美術院)」入る
        此処で同時期に安井曾太郎も学ぶ
1908(明治41)年 田中喜作(後に美術史家)と共に渡仏留学。Parisに滞在しAcademy Julianに通う
1909(明治42)年 Renoirを師とし、彼の指導を受ける
1913(大正02)年 帰国 東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を白樺社主催で開催
        此処で白樺社同人、武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦等との知遇を得る
1914(大正03)年 二科会の設立に関わる
1920(大正09)年 再び渡仏
1922(大正11)年 春陽会の設立に参加
1935(昭和10)年 帝国美術院会員
1937(昭和12)年 帝国芸術院(現・日本芸術院)会員となる
1944(昭和19)年 帝室技芸員、東京美術学校(現・東京芸術大学)教授就任
1952(昭和27)年 東京芸術大学教授を辞任 渡欧しVenezia biennaleの国際審査員を務める 文化勲章受章
1953(昭和28)年 軽井沢にatelierを設ける
1957(昭和32)年 日本芸術院会員辞任~安井曽太郎と共に洋画界の頂点を極める~
1986(昭和61)年 死去 享年97歳

 以下に砺波市美術館及び本展覧会展示作品の幾つかをご紹介します。ご高覧下さい。

[01]砺波市美術館
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––––––––––––––––––––––––[02]同美術館入口『梅原龍三郎 花と名峰展』看板と小生
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[03]同美術館『梅原龍三郎 花と名峰展』leaflet
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––––––––––––––––––––––––[04]梅原龍三郎
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[05渡仏時の梅原[左]1908年‥田中喜作[右]と
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––––––––––––––––––––––––[06]Paris時代の梅原1912年
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[07]同『薔薇図』1940年 油彩/岩絵具/紙〔東京国立近代美術館蔵〕
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––––––––––––––––––––––––[08]同『牡丹』1965年 油彩/canvas
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[09]同『アネモネ』1965年 油彩/canvas
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––––––––––––––––––––––––[10]同『薔薇』1966年 油彩/canvas
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[11]同『ひまわり』1975年 油彩/canvas
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––––––––––––––––––––––––[12]同『チューリップ』1976年 油彩/canvas
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[13]同『白椿』1976年 油彩/canvas
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––––––––––––––––––––––––[14]同『牡丹』1978年 油彩/金板
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[15]同『薔薇』lithograph
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––––––––––––––––––––––––[16]同『富士山図』1945年 デトランプ/紙
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[17]同『噴煙』1950-53年 デトランプ/紙〔東京国立近代美術館蔵〕
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––––––––––––––––––––––––[18]同『大仁富士』1982年 silk screen
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[19]同『浅間』1983年 silk screen
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––––––––––––––––––––––––[20]同『パリスの審判』1978年 油彩/canvas
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[21]同『裸婦』lithograph
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––––––––––––––––––––––––[22]同『自画像』1976年 油彩/金板
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【小生comment】
 梅原龍三郎(1888.03.09-1986.01.16)は、1908年、渡仏してRenoirの知遇を得てその指導を受け、その画風を日本に齎した。
 彼の曾孫にあたる嶋田華子氏は、同氏の編著『梅原龍三郎とルノワール』の《はじめに》で、「『華麗な色彩と剛放な筆捌き』で独自の画境を拓いた」と評している。

「君は色彩を持つ、デッサンは勉強で補ふことが出来るものだが、色彩はタンぺラマン(=temp(e)rament【仏】:気質)に拠るものだ、それのあるのが甚だいヽ」。

 この言葉は、初めて梅原の作品を見た時のRenoirの言葉である。この師の言葉を胸に、梅原は画業に専心し、生涯Renoirへの尊敬の念を抱いていた。〔以上、前掲『梅原龍三郎とルノワール』より〕

 小生思うに、絵画は、①デッサン(dessin)、②構図(composition)、③色彩(color)、の三要素が不可欠であるが、上記の様に、巨匠Renoirが梅原の天性の「色彩」感覚を褒めている。
 添付写真の絵では、matiere の詳細までは解らないと思いますが、彼の絵をご覧になって皆さんはどの様に感じられましたか。
 一見稚拙に見える絵が、じっと見ていると、綿密に計算された(と思われる)絶妙な「構図」と見る者を魅了する素晴らしい「色彩」、そして太く豪放な筆捌きで風景画・静物画・人物画いずれも見る者を唸らせる「デッサン」、絵画の三要素いずれも卓越した作品に仕上げている。
 また、1911(明治44)年、志賀直哉(1883-1971)や武者小路実篤(1885-1976)らの同人誌『白樺』に参加した梅原の友人で(劇)作家・評論家の長與善郎(1888-1861)は梅原の画風を「何でもふんだんに、豊かに、温かく、豪華であることを人一倍好むことがその作品の上に色となり、形となり、線となり、コクとなつて出てゐる」と評している。言い得て妙である。
 
■『梅原龍三郎 花と名峰』展を見終えた小生、興奮冷めやらぬ儘、更に車を北東高岡市へ向けた。あと北へ20㎞程行けば富山湾、日本海が見えるのである。
 因みに、高岡市は人口17万人。富山市(人口42万人)に次ぐ富山県下第2位の都市である。富山市同様、路面電車が走っていた。豊橋より広い道を交通量も少ない為、車が皆ゆったりと走っている様に見えた。

[23]高岡市内を走るトラム「万葉線」
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 高岡市内の最初の訪問地は、曹洞宗高岡山『瑞龍寺(ずいりゅうじ)』(拝観料500円)である。この寺は、加賀藩二代藩主前田利長(1562-1614)の菩提寺として三代藩主前田利常(1594-1658)が建立。
 偶然の話だが、当日(05月20日)は、その前田利長侯の命日(慶長19年05月20日(=1614.06.27))だったのである。
 国宝「法堂」に入る時、受付で12時半からの前田利長侯の法要に続き、13時00分から燭光(しょっこう)能がある(=観覧料金1千円)という。年1回の行事である。折角だから見てみることにした。高岡能楽会が燭光能『藤戸』を奉納。所要時間は27分であった。
 利長忌の燭光能は1646(正保03)年、利長侯の33回忌に三代代藩主利常が金沢の能楽師を招き能を奉納したことが始まりとされ、1984(昭和59)年以降、国宝瑞龍寺保存会が再現・継承しているもの。
 利長は、前田利家と(正妻)まつの嫡男。利常は異母弟。

 1598(慶長03)年(36歳) 利家の隠居で家督相続
 1599(慶長04)年(37歳) 利家死去、豊臣家五大老就任
 1601(慶長06)年(38歳) 戦功により加増、約120万石領有
 1605(慶長10)年(42歳) 06月28日 隠居(利常11歳)

 此処迄、利長について書いて来てふと思った。前田家は加賀藩初代藩主利長もさること乍ら、二代藩主利常が立派だから『瑞龍寺』が出来たのだ‥と。

 1619(元和05)年(利長51歳・利常25歳) 利長死去
 1634(寛永11)年 加賀・能登・越中三国計119万2760石を領有‥幕府より謀反の疑いをかけられないよう腐心
 1639(寛永16)年 家督を嫡男光高に譲り隠居 次男利次を越中国富山藩10万石 三男利治を加賀国大聖寺藩7万石に分封
 1645(正保02)年 光高(1616-1645)の急死後、孫綱紀(1643-1724)が03歳で家督を継ぐと後見として藩政に復帰
 1658(万治元)年 07月利常は、綱紀を将軍家光の異母弟保科正之の娘と妻わせる 同年10月死去

 因みに綱紀の治世は、江戸時代前期の名君として叔父徳川光圀や池田光政らと並び称せられている。

 話は戻って、利長忌の法要は荘厳な響きで、今迄聞いたことがない、素晴らしく上品な読経の中で進められた。
 それに続いて演じられた燭光能『藤戸』は、『平家物語 巻10 藤戸』の話をその儘受け継ぎ、後日談として構想されたもの。梗概は次の通り。

 源平合戦の備前藤戸の合戦で源氏の武将佐々木盛綱は先陣の功を上げ、その近くの領主となる。
 入府してきた盛綱の前に、1人の老婆(=盛綱に殺された男(漁師)の母)が現れ、非情を責める。
 老婆は、憤り、子を失った悲しみ、遺された寂しさを切々と訴え、「息子と同様に殺してくれ」と盛綱に迫る。
 盛綱は前非を悔い、老婆を慰め自宅迄送る。
 そして漁師を弔うべく法要を行い、自らも読経する。
 すると、漁師の亡霊が現れ、「邪悪な龍神になって恨みをはらそうと思い遣って来たが、思いがけない回向を受け成仏の身となった」と喜びを告げ、消え去った。(了)

 瑞龍寺の伽藍は、総門・山門・仏殿・法堂が一直線に配列され、左右に禅堂と大庫裏、四周を回廊で結ばれている。三門・仏殿・法堂は全て国宝。
 添付写真ごご覧下さい。

[24]高岡山瑞龍寺・燭光能『藤戸』の一場面20120520〔北国新聞の記事より〕
 2420120520

––––––––––––––––––––––––[25]瑞龍寺の門前にて
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[26]総門から「山門」【国宝】を望む
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––––––––––––––––––––––––[27]山門から【国宝】仏殿を望む
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[28]仏殿から【国宝】法堂(はっとう)を望む
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––––––––––––––––––––––––[29]回廊にて
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■瑞龍寺の次は、高岡古城公園である。ここは城は残っていなくて城址公園となって広く市民に利用されている。お堀が往時を偲ばせる。

[30]高岡城跡のお堀
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■この日最後の訪問地は「雨晴(あまはらし)海岸」である。
 雨晴海岸は、瑞龍寺から北へ13km車を進めた所にある。1187(文治03)年、源義経と弁慶が、山伏姿に身を窶(やつ)して奥州へ落ち延びる途中、俄雨の晴れるのを待ったという岩(=義経岩)がある。地名「雨晴」の由来という。

[31]雨晴海岸の義経岩をbackに
 31back

––––––––––––––––––––––––[32]つまま公園のタブノキと大伴家持の歌碑
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 海岸沿いにある鉄道の線路は、JR西日本・氷見線のもの。義経岩近くの道路沿いに大伴家持の歌碑があった。

【後記】今日は、大伴家持(718(養老02年)頃-延暦04年08月28日(785.10.05)の歌でお別れしたいと思います。
 雨晴海岸・義経岩が見える街道沿いに越中国国司として赴任していた大伴家持の歌碑があった。
 家持は、746(天平18)年03月に宮内少輔、07月に越中守に任ぜられ、751(天平勝宝03)年迄(28歳~31歳)赴任。この間に220余首の歌を詠んだと言う。
 萬葉集第19巻 4159番は次の詞書が添えられている。

 季春(きしゅん)三月九日に、出挙(すいこ)の政(まつりごと)に拠りて旧江(ふるえの)村に行き、道の上(ほとり)にして物花(ぶつか)を属目(しょくもく)せる詠(うた) 幷(あわ)せて興中に作りし所の歌 渋谿(しぶたに)の崎を過ぎて巌(いはほ)の上の樹を見たる歌一首 樹の名はつままなり

【訳】晩春三月九日に「出挙(=春に稲を貸与し秋に利息つきで返済させる制度)」の仕事の為に「旧江村(=現在の富山県高岡市と氷見市に跨がる標高274mの二上山の北方にある村)」に行き、途中「風景(=物花)」を「目にした(=属目せる)」歌 そして感じた儘に作った歌 「渋谿の崎(=二上山の東北ある地名)」を通り、岩上の樹を見た歌 樹の名をつままという

 磯の上の 都萬朝(つまま)を見れば 根を延(は)へて 年深からし 神さびにけり
       大伴家持〔萬葉集第19巻 4159番〕

 【意】磯の上のつまま(タブノキ(クスノキ科)の古名)を見ると、根をのばして歳月を深く経ているらしい、なんと神々しいことだろう。

 因みに、高岡市内を走るトラム(路面電車)は万葉線という。
 ではまた‥。(了)

2012年5月18日 (金)

【時習26回3-7の会 0394】~「05月13日:東京国立近代美術館『所蔵品展「近代日本の美術」』&東京芸術大学美術館『高橋由一展』を見て」「05月15日:愛知県藝術劇場concert hall『ギャリック・オールソン piano recital』を聴いて」

 皆さん、今泉悟です。《会報》【0394】号をお届けします。
 先週に引き続き今週も時習26回関連の記事はありません。
 そこでまた、美術館巡りのお話から‥

■さて、掲題・副題にあります様に、小生05月13日(日)に日帰りで、親父を車に乗せて東京の2つの美術館巡りをして来ました。
 2012年4月14日に開通した新東名高速道路「三ケ日JCT~御殿場JCT間(約157.4㎞)」を初めて走りました。
 東名と新東名を結ぶ三ケ日JCTは、豊川IC~三ケ日IC間にあるので、行きは豊川ICから乗り、帰りは三ケ日ICで降りてみました。
 休日割引料金は、豊川IC~東京(3,150円)、東京~三ケ日IC(3,050円)。
 拙宅を午前06時丁度に出発。目的地の東京国立近代美術館がある北の丸公園内の駐車場に到着したのが09時半。走行距離は300㎞に僅かに足りない297km。
 添付写真をご覧下さい。美術館入口から外(南方向)を見ると平川濠越しに皇居が見える。話には聞いていたが、joggingしている人々の多いのに驚いた。
 写真右手の門は「北桔橋門(きたはねばしもん)」。
 車を美術館の北側にある駐車場に駐めた時に驚いた。4時間弱駐車して500円。驚きの安さだ。
 10時の開館と同時に入館。この美術館のいい処は、受付に申出れば「所蔵品cornerではflashや三脚を使わなければcamera撮影可(一部の撮影禁止作品を除く)」という点。以前「兵庫県立美術館」で経験して以来2度目の経験だが粋な計らいである。
 当館が保有する(寄託作品01点を含む)13点の国の重要文化財のうち今回展示している全5点〔油彩画4点、彫刻1点(★印:油彩画[04][10][14][16]&bronze[11])〕をcameraに収めることが出来、望外な嬉しさで年甲斐もなく興奮して仕舞った。
 以下に小生が撮影した絵画と彫刻をご高覧下さい。

[01]東京国立近代美術館入口にて父と
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––––––––––––––––––––––––[02]美術館前から左手〔東〕に見える「紀伊国坂&首都高速一ッ橋入口の看板」
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[03]美術館前の皇居「北桔橋門」前をjoggingする多くの人々
 03jogging

––––––––––––––––––––––––[04]萬鉄五郎(Yorozu, Tetsugoro)『裸体美人(Nude Beauty)』1912年[重文]★
 04yorozu_tetsugoronude_beauty1912

[05]Rousseau(ルソー), Henri『第22回アンデパンダン展に参加する様芸術家達を導く自由の女神(Liberty nviting
Artists to Take Part in the 22nd Exhibition of the Societe des Artistes Independants)』1906年Paris
 05rousseau_henri22liberty_nviting_a

––––––––––––––––––––––––[06]和田三造(Wada Sanzo)『南風(South Wind)』1907年
 061907

[07]黒田清輝(Kuroda, Seiki)『落葉(Dead Leaves)』1891年
 07kuroda_seikidead_leaves1891

––––––––––––––––––––––––[08]藤島武二『匂い(Perfume)』1915年
 081915

[09]南薫造(Minami, Kunzo)『スコットランド老人(Old Scots)』1908年
 09minami_kunzoold_scots1908

––––––––––––––––––––––––[10]原田直次郎(Harada, Naojiro)『騎龍観音(Kannon Bodhisattva Riding the Dragon)』1890年[重文]★(護国寺蔵=寄託作品)
 10harada_naojirokannon_bodhisattva_

[11]新海竹太郎(Shinkai, Taketaro)『あゆみ』(bronze)1907年[重文]★
 11shinkai_taketarobronze1907

––––––––––––––––––––––––[12]荻原守衛(Ogiwara, Morie)『おんな』(bronze)1910年
 12ogiwara_moriebronze1910

[13]荻原守衛『文覚』(bronze)1908年
 13bronze1908

––––––––––––––––––––––––[14]中村彜(Nakamura, Tsune)『エロシェンコ氏の像(Portrait of Vasilii Yaroshenko)』1920年[重文]★
 141920

[15]岸田劉生(Kishida, Ryusei)『麗子肖像(麗子五歳之像(Reiko, Five Years Old))』1918年
 15kishida_ryuseireiko_five_years_ol

––––––––––––––––––––––––[16]岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生(Road Cut through a Hill))』1915年[重文]★
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[17]木村荘八(Kimura, Shohachi)『虎の門付近(Near Toranomon)』1912年
 17kimura_shohachinear_toranomon1912

––––––––––––––––––––––––[18]高村光太郎(Takamura, Kotaro)『手(Hand)』(bronze)1918年頃
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[19]長谷川利行(Hasekawa, Toshiyuki)『カフェ・パウリスタ(Café Paulista)』1928年
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––––––––––––––––––––––––[20]東郷青児『サルタンバンク(Street Performers)』1926年
 20street_performers1926

[21]Klee(クレー), Paul『花ひらく木をめぐる抽象(Abstraction with Reference to a Flowering Tree)』1925年
 21klee_paulabstraction_with_referen

––––––––––––––––––––––––[22]Matisse(マチス), Henri『ルネ、緑のハーモニー(Renee, Green Harmony)』1923年
 22matisse_henrirenee_green_harmony1

[23]Gris, Juan(グリス, ホアン)『円宅(The Gueridon)』1921年
 23gris_juan_the_gueridon1921

––––––––––––––––––––––––[24]Braque, Georges(ブラック, ジョルジュ)『女のトルソ(Female Torso)』1910-11年
 24braque_georges_female_torso191011

[25]児島善三郎(Kojima, Zenzaburo)『無衣の女(Undressed Woman)』1932年
 25kojima_zenzaburoundressed_woman19

––––––––––––––––––––––––[26]小磯良平(Koiso, Ryohei)『肩掛けの女(Woman with a Shawl)』1929年
 26koiso_ryoheiwoman_with_a_shawl192

[27]岸田劉生『村嬢於松(おまつ)之坐像(Portrait of Sittting Omatsu, a Village Girl)』(水彩・鉛筆)1920年
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––––––––––––––––––––––––[28]加山又造(Kayama, Matazo)『悲しき鹿(Pathetic Deer)』1954年
28kayama_matazopathetic_deer1954_2

[29]岩橋英遠(Iwahashi, Eien)『蝕(Erosion)』1959年
 29iwahashi_eienerosion_2

––––––––––––––––––––––––[30]藤田嗣治(Fujita, Tsuguharu)『ソロモン海域に於ける米兵の末路(The Enemy's Fate in the Battle of Solomon)』1943年
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[31]国吉康雄(Kuniyoshi, Yasuo)『誰かが私のポスターを破った(Somebody Tore My Poster)』1943年(寄託作品)
 311943

––––––––––––––––––––––––[32]国吉康雄『二つの世界(Between Two Worlds)』1939年(寄託作品)
 32between_two_worlds1939

[33]岡本太郎(Okamoto, Taro)『燃える人(Men Aflame)』1955年
 33okamoto_taromen_aflame1955

■続いては、上野にある東京藝術大学・美術館で開催中の『高橋由一展』についてである。芸大美術館周辺には大規模駐車場がなく、親父の足腰が弱っているので公共交通機関を利用しての徒歩も無理な為、当美術館と東京国立近代美術館の移動はtaxiで往復した。休日の為都内主要道路も空いていて15分程で移動出来た。
 『高橋由一(ゆいち)(1828.03.30-1894.07.06)』は、佐倉堀田藩の支藩佐野藩藩士高橋源十郎の嫡子として文政11年2月5日江戸に生まれる。20代半ばに洋画を志し、、慶応02(1866)年、横浜在住の英国イギリス人ワーグマンに、明治維新後の明治09(1876)年から2年間は工部美術学校御雇教師伊人画家アントニオ・フォンタネージに師事。彼が日本人の本格的洋画家第1号である。
 因みに、彼の弟子に、上記[重文]「龍騎観音」を描いた原田直次郎がいる(添付写真[36]参照)。更にその原田の弟子に洋画家和田英作等がいる。
 以下、主な展示作品をご高覧下さい。
 [重文]の『鮭』は、よく美術の教科書に静物画の代表的作品として掲載されている。皆さんもご覧になったことがあると思います。小生も今回「この絵見たさ」に当館を訪れたのである。
 父も「高橋由一の作品で『鮭』が一番良かった」と言っていた。

[34]東京藝術大学美術館入口『高橋由一展』看板前にて父と
 34

––––––––––––––––––––––––[35]高橋由一『丁髷姿の自画像(Self-Portrait with Chonmage Hairstyle)』(1866-67年頃)
 35selfportrait_with_chonmage_hairst

[36]原田直次郎『高橋由一像(Portrait of Takahashi Yuichi)』1893年
 36portrait_of_takahashi_yuichi1893

––––––––––––––––––––––––[37]高橋由一『花魁(おいらん)(Courtesan)』1972年
 37courtesan1972

[38]同『岩倉具視像(Portrait of Iwakura Tomomi)』1889-90年
 38portrait_of_iwakura_tomomi188990

––––––––––––––––––––––––[39]同『西周像(Nishi Amane)』1893年
 39nishi_amane1893

[40]同『真崎の渡(The Ferry at Masaki)』1874年以降:真崎=現・荒川区南千住辺り
 40the_ferry_at_masaki1874

––––––––––––––––––––––––[41]同『墨水桜花輝耀の景(Cherry Blossoms by the Sumida River)』1874年
 41cherry_blossoms_by_the_sumida_riv

[42]同『墨堤桜花(Cherry Blossomes on the Bank of the Sumida River)』1878年頃
 42cherry_blossomes_on_the_bank_of_t

––––––––––––––––––––––––[43]同『本牧(ほんもく)海岸(Honmoku Seacoast)』1877年頃:本牧=横浜市中区、根岸の辺り
 43honmoku_seacoast1877

[44]同『不忍池(Shinobazu Pond)』1880年頃
 44shinobazu_pond1880

––––––––––––––––––––––––[45]同『鮭(Salmon)』1877年頃[重文]★
 45salmon1877

[46]同『鮭(Salmon)』山縣美術館寄託
 46salmon

––––––––––––––––––––––––[47]同『鮭図(Salmon)』笠間日動美術館
 47salmon

【小生comment】
 高橋由一の画風について、東京藝術大学美術館の古田亮氏は図録【6-物意のrealism】の処で次の様に評している。

 描かれた対象が何であれ由一の絵画世界には共通する、ある傾向が認められる。それは「時間が存在しない」、ということだ。魚でも人でも風景でも、そこに描かれたものたちは動きを止めている。写真で捉えたsnap shot的な静止画とも違う。本来あった時間を瞬間的に止めた映像的な静止ではなく、時間そのものを奪い去り、物自体が凝固したかの様な印象を与えるのが由一画の特徴と言える。

 確かに、高橋由一の絵は、静物画でも人物画でも微妙な違和感を感じるのは「物自体が凝固した」雰囲気が齎しているのだろう。そう言われれば、彼の風景画も「凝固した絵」に見えて来る。
 由一が洋画普及に注力したのは、彼が生きた時代の「真を写す」技術力については天然色で表現出来るという点で「写真」より「洋画(=油彩画)」に優位性を感じていたことが大きい。

【後記】今日のお別れは、05月15日(火)夜、名古屋の愛知県芸術劇場concert hallにて開催されたギャリック・オールソン(Garrick Ohlsson)のPiano Recitalの模様です。
 この日のconcertは、時習26回同期の中嶋良行君【3-2】と共に聴いた。曲目は以下の通りである。

【1】Beethoven / Piano Sonata No.8 in c minor「Pathetique(悲愴)」op.13
【2】同 / 同 No.23 in f minor「Appassionata(熱情)」op.57
【3】Chopin / Barcarolle(舟歌) op.60
http://www.youtube.com/watch?v=KU-5u2dmXdM ←clickして下さい。演奏者はZimmermannとOhlssonとは違いますが舟歌の名演奏が聴けます。9分弱の曲ですがmellowなhealing musicを堪能してみて下さい。(;^-')b
【4】同 / Mazurka(マズルカ) No.32 in C-sharp minor op.50-3
【5】同 / Piano Sonata No.3 in b minor op.58
《encore》
【6】同 / Mazurka No.6 in a minor op.7-2
【7】同 / Waltz No.5 in A Flat Major op.42

[48] Garrick OhlssonのPiano Recital leaflet and his signiture
 48_garrick_ohlssonpiano_recital_lea

【小生comment】
 G.Ohlssonは、1970年のChopin国際piano concours優勝以来、卓越したtechnicで常に第一線で活躍を続けて来た米国人pianist。
 今回、小生は彼の生演奏を初めて聴いたが期待していた以上に上手い演奏に感動した!
 曲目は、Beethovenの「悲愴」「熱情」の所謂三大sonataのうちの2曲と、Chopinのencoreを含めた5曲は何れも聴き易い名曲中の名曲という心憎い選曲で聴衆を魅了した。
 この日の彼の演奏は完璧であり、至福の2時間を過ごすことが出来た。
 演奏会後に「サイン会がある」とのannounceに従い、彼の素晴らしい演奏に感動した余韻が残る中programにサインを貰った。
 小生、恥ずかしいので小さな声で"Thank you very much."と一言お礼を言ったら、Ohlssonは人懐っこい満面の笑顔で応えてくれたので、感動が更に深まった。
 Programに【オールソンからの皆様へのmessage】が載っていましたので、その一部をご紹介させて頂いてお別れしたいと思います。

 ※ ※ ※ ※ ※

 1972年に始めて日本を訪れて以来、1975、1983、1985、1988、1999、2004年と来日していますが、私は、日本の人達のclassic音楽に対する態度に、いつも心から敬意を感じて来ました。深く聴くことの重要さを真に理解している聴衆であり、きちんと評価して下さる人達です。日本では、音楽が単なるentertainmentとしてだけでなく、巨大な広さを持つ芸術として真摯に受け入れられている事をいつも感じています。

 私は日本や日本の人達を少しだけでも知る事が出来る来日の機会を、宝の様に思って来ました。そして回を重ねるに従い、その知識を深める事が出来ています。今回の来日でも限られた時間の中で、出来得る限り日本の芸術やurban life、文化等を体験し、楽しみたいと思っています。

 BeethovenとChopinは、私が最も深く、最も長い間関わって来た作曲家です。〔以下略〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 如何でしたでしょうか。彼の暖かな、そしてgentleな人柄を髣髴とさせる言葉ですね。
 ではまた‥。(了)

2012年5月12日 (土)

【時習26回3-7の会 0393】~「05月06日:岡崎市美術博物館『巨匠たちの英国水彩画展』を見て」「ライフポートとよはし『Valentina Igoshina Piano Recital』を聴いて」「豊橋市美術博物館『新収蔵品展』から」「金谷俊一郎『日本人の美徳を育てた「修身」の教科書』他から」

 皆さん、今泉悟です。《会報》【0393】号をお届けします。
 皆さんは、このGolden Weekは如何お過ごしでしたでしょうか?
 小生はと言いますと、外出は前回と今回の《会報》でお伝えした(する)美術館巡り5つのみ。
 あとは専ら拙宅の庭の除草や小生の屋根裏部屋兼書斎に足の踏み場もない程に山積された書籍類の整理で終わって仕舞いました。
 ただ「整理・整頓」は出来たのですが、その為に設置した回転式本棚8本が狭い屋根裏部屋に林立した為に、入口から机の所まで、種田山頭火の俳句「分け入っても分け入っても青い山」ならぬ、「分け入っても分け入っても見えぬ卓」になって仕舞いました。(笑)

■さて今日最初の話題は、掲題・副題にあります様に、GW最終日の05月06日(日)に、岡崎市美術博物館にて開催中の『巨匠たちの英国水彩画展』を見て来ましたのでその模様をご報告します。
 本展覧会は、英国ウィットワ―ス美術館(The Whitworth Art Gallery)が所有する4,500点の水彩画&素描の中からchoiceした約70人の画家による作品150点を、同美術館設備拡張工事の期間を利用して、岡崎市美術博物館を皮切りに日本の4美術館を1年近くかけて巡回するものである。
 本展では、「英国水彩画の父」と言われるポール・サンドビ―(Paul Sandby)をはじめ英国風景画の大家J.M.W.ターナー(Turner)やラファエル前派の代表的画家John Everett Millaisの作品等、見応えある傑作が沢山ありました。
 ただ100年以上前の水彩画であることから、水彩画の特筆に経年劣化が加わって油彩画に比べると色調は全体的に暗く感じられました。
 以下に展示作品の幾つかをご紹介します。ご覧下さい。

[01]岡崎市美術博物館入口前にて
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––––––––––––––––––––––––[02]岡崎市美術博物館『巨匠たちの英国水彩画展』leaflet
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[03]Paul Sandby(1725-1809)『南西の方角から望むコンウェイ城(Conway Castle from the South-West)』1802年
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––––––––––––––––––––––––[04]John Glover(1767-1849)『エイヴォン川から望むウォリック城(Warwick Castle from the River Avon)』
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[05]Thomas Hearne(ハーン)(1744-1817)『ワイ川畔のシモンズ・ヤット、ヘレフォードシャー(Symonds Yat on the River Wye, Herefordshire)』
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––––––––––––––––––––––––[06]John Robert Cozens(カズンズ)(1752-97)『ヴィラ・ボルゲーゼからサン・ピエトロ大聖堂を望む(St. Peter's from the villa Borghese, Rome)』
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[07]Samuel Prout(プラウト)(1783-1852)『ヴェネツィアの運河のカプリッチョ(A Capriccio Canal Scene in Venice)』
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––––––––––––––––––––––––[08]J.M.W. Turner(1775-1851)『修道院の池(The Abbey Pool)』1800-01年
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[09]J.M.W. Turner(1775-1851)『シャモニー渓谷、彼方にモンブランを望む(Valley of Chamonix, France, Mont Blanc in the Distance)』1809年
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––––––––––––––––––––––––[10]J.M.W. Turner(1775-1851)『アップナー城、ケント(Upnor Castle, Kent)』1831-02年
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[11]Samuel Palmer(1805-81)『カリュプソの島、オデュッセウスの船出(Calypso's Island, Departure of Ulysses, or Farewell to Calypso)』1848-49年
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––––––––––––––––––––––––[12]John Everett Millais(1829-1896)『ブラック・ブランズウィッカー(The Black Brunswicker)』1867年
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[13]Charles West Cope(1811-90)『黒板を持つ少女(Girl with Slate)』
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––––––––––––––––––––––––[14]Frederick Walker(1840-75)『不意の来客(The Unexpected Visitor)』
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[15]Andrew Nicholl(1804-86)『北アイルランドの海岸に咲くヒナゲシとダンルース城(Poppies and wild flowers on the Northern Irish coastline, with Dunluce Castle beyond)』
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■続いては‥、昨日05月11日(金)夜、ライフポートとよはしにてRussia人ヴァレンティーナ・イゴシナ(Valentina Igoshina)のPiano Recitalがあり聴いて来ました。
 曲目は、ショパン(Chopin)の作品から「polonaise No.6 in A flat-major op.53「英雄(Heroique)」」「nocturne in c minor」「waltz 3曲」「舟歌(Barcarolle Op.60)」「scherzo No.3 in C sharp-major op.39」そして終曲がムソルグスキー(Mussorgsky)の「展覧会の絵(Picture at an Exhibition)」。
 当初programに載っていたChopinの幻想即興曲(Fantasie Impromptu)は何故か演奏されなかった。
 演奏曲目が進むに従い出来栄えは良くなり、最後の3曲「舟歌」「スケルツォ第3番」「展覧会の絵」は素晴らしかった。
 イゴシナは、1993年アルトゥール・ルービンシュタイン国際青年piano concours/1997年ラフマニノフ国際piano concoursに優勝という経歴の持ち主だけあって確かな技量とslenderな女性には似つかわしくないpowerfulな演奏で観客を魅了した。
 残念だったのは、観客数が500人に届かない少なさであったこと。
 余りに少なく、世界のbig title取得経験者の演奏者に対して失礼だと感じた。
 【豊橋市民愛市憲章】の5つ目には「教養をたかめ文化の町をつくりましょう」があるが、今日のconcertへの参加人数から我が街豊橋は「文化の町」には程遠いと感じられた。

[16]ヴァレンティーナ・イゴシア piano recital
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■続いての話題である。小生は今日05月12日午前中に豊橋市美術博物館へ行って来た。添付写真は豊橋市美術博物館のhomepageのtopである。
 現在、当美術博物館の『新収蔵品展』が開催されていたので見て来た。
 中村正義『女人』の下絵や、味岡伸太郎の初期作品《Fig Drawing》・北川民次《かまどと働く人々》・野島青茲《少女(ゆき)》等、地元を代表、或い地元に縁のある画家たちの新・収蔵品の公開展である。
 入場無料なのでご興味ある方は是非訪ねてみて下さい。

[17]豊橋美術博物館『新収蔵品展』
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■今日最後の話題である。
 最近辞めた内閣総理大臣「たち(←敢えて複数であることを強調)」や多くの政治家等、日本を代表する者たちから我々一般人に至る多くの「大人」たちの精神のlevel低下が著しい。これは単なる戦後60年余り続いている「平和ボケ」が理由ではない。日本人の精神の根っこの処が腐って来ているのである、と小生は思う。
 ということで、戦前の「修身」ではどういう教育がなされていたかを記した本が出ていることを知り「金谷俊一郎『日本人の美徳を育てた「修身」の教科書』2012年05月刊」と「小池松次=編『修身の教科書』2005年08月刊」の2冊を手に入れ読んでみた。
 なかなかいいことが書いてある。
 今日は「金谷俊一郎『日本人の美徳を育てた「修身」の教科書』の沢山ある項目の中から小学四年生の最後の授業の処をご紹介する。
 【 よい日本人 】
 家にあっては、父母に孝行を尽くし、兄弟は互いに仲良くしなければいけません。
 父母に孝行を尽くすことは、日本人として大切な道であります。
 人と交わる際には、よく礼儀を守り、自らを謙遜して寛大な心を持ち、名誉を重んじることが大切です。
 また、自分の生まれた故郷を愛し、社会全体の利益の為に力を尽くし、全ての人を平等に愛する気持ちを持つことも大切な義務であるといえます。
 常に規律を正しくして、身体の健康に留意し、一生懸命学問に精を出し、ものの道理をよく弁えて、迷信に囚われず、工夫して発明に努めることが大切です。
 また、我儘な気持ちを抑制し、よい習慣を養い、進んで自らの志を立てて、その志を自らの手で実現していく為の方法を模索し、たとえ困難に直面したとしても、冷静沈着に、自らがやるべきことを忠実に成し遂げて行かなくてはいけません。
 私たちは、以上に述べた心得を胸に抱いて、よい日本人になろうと努めなければなりません。
 真心を以って、それを実行することが大切です。
 真心から出た行いでなければ、たとえ良い行いの様に見えても、その行いは、生気のない造花の様なものなのです。
    〔昭和12年 四年生 第27〕
【講義ノート〔小生注:著者金谷氏の解説である〕】
 四年生の修身の授業も、これで最終回となります。最終講義は、今まで学んで来たことのまとめとなっています。
「よい日本人」が少なくなったことが、今の社会の停滞を齎している様な気がします。「よい日本人」とは、決して「お国の為に命を捧げる」といった日本人ではありません。自分が生まれて来たことの意味を理解し、自分が社会で果たすべき役割を懸命に果たすことで、社会全体の発展に寄与する人こそが、「よい日本人」と言えるのではないでしょうか。
「真心を以って、「よい日本人」になるべく日々を過ごして貰いたい。
 この言葉を最後に皆さんに贈って、四年生の授業を終わりに致します。(了)

[18] 2冊の「修身」の教科書
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【小生comment】「修身」の授業は、小・中学校にて1890(明治23)年から1945(昭和20)年までの55年間続いた。
 金谷氏の本では、四~六年生の内容を紹介している。
 上記のほか、五年生の最後の授業では「日本人の美徳」を、六年生のそれは「自利と利他」を示している。
 これ等「修身」の授業を読むと、背筋がシャンと伸び、適度の緊張感を感じ、熱い矜持が胸に湧く。
 皆さんもご一読されることをお薦めします。
 尚、これ等2冊の本には極端な天皇崇拝や軍国主義に繋がる事柄は捨象されているのでご安心下さい。

【後記】お別れは、美しい羽を持った蛾(moth)をご覧に入れてお別れします。05月06日の午後04時過ぎ、外出から帰って来た時、拙宅の勝手口の網戸で羽を休めていました。体長は4cm程度と大きくありませんが、とても綺麗な蛾でした。名前を調べてみた。ウスキツバメエダシャクという。

[19]ウスキツバメエダシャク
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 ではまた‥。(了)

2012年5月 4日 (金)

【時習26回3-7の会 0392】~「04月29日:4つの美術館~メナード美術館『田渕俊夫展』&名都美術館『日本画に描かれる動物たち・後期展』&豊田市美術館『James Ensor展』&鞍ヶ池art salon『花咲くとき 希望のとき展』を見て」「曽野綾子『人間の基本』を詠んで」「私の履歴書『桂三枝』2012.05.04から」

■皆さん、今泉悟です。《会報》【0392】号をお届けします。
 毎週【2637の会】《会報》をお送りして痛切に感じます。先週も申し上げましたが『月日の移ろいは本当に早い』ということを。
 先週2012年04月が終わると申し上げたのに、今日はもうGWが明後日で終わって仕舞うというこの『時の速さ』です。こうやって一生が終わっていくのかと思うと堪らなく寂寥感を感じます。
 因みに、明日05月05日は二十四節気でいう『立夏』。暦の上ではもう「夏」になるんですね。
 だからという訳ではありませんが、小生の勤務先ではGW明けの05月07日からCool Bizで no necktieです。
 「Cool Biz」とは、coolとbusinessの短縮形(biz)を合わせた和製英語。2005年環境省公募で選ばれたという。以上余談まで。
 皆さんは、このGWをどの様に過ごされましたか?
 小生は、前《会報》でお予約した大好きな名画鑑賞4つのうちの3つを去る04月29日親父を車に乗せて日帰りで見て来ました。
 残り一つの岡崎市美術博物館『巨匠たちの英国水彩画展』明後日06日に見て来る予定です。その模様は次号《会報》をお楽しみに!

■それでは早速そのご報告から。まず最初はメナード美術館『田渕俊夫展~技のひみつ』です。
 拙宅から200m程東にある小生の妹夫婦宅に寝泊りしている親父を迎えに豊橋の家を出たのが朝の08時10分。小牧市内にあるメナード美術館に10時00分開館の数分前に到着。
 開館時間と同時に入館し田渕俊夫の作品を40分程観覧。
 彼の作品は気品があって美しい。小生はこの頃とくに好きになった日本画家の一人である。
 それでは展示作品の中から主なものを幾つかご紹介します。御高覧下さい。

[01]メナード美術館『田渕俊夫』展leaflet〔絵は『ballerina』2009年〕
 01leaflet_2

––––––––––––––––––––––––[02]メナード美術館&名古屋市美術館『田渕俊夫』展同時開催・観覧用ticket
 02ticket

[03]田渕俊夫『春爛漫』
 03

––––––––––––––––––––––––[04]田渕俊夫『秋はぜる』
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[05]田渕俊夫『遠い花火』
 05

––––––––––––––––––––––––[06]田渕俊夫『雲海富士』
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[07]田渕俊夫『小牧心象 祥雲』
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––––––––––––––––––––––––[08]田渕俊夫『深深』
 08

■次に訪れたのは、長久手市にある名都美術館。
 長久手町が市になったのは今年2012年01月04日である。我々が高三の頃(1978年)はまだ人口1万人強の小さな町だったのだが、名古屋市東郊外のbed townとして成長を続け、現在では5万人強の街に成長している。以上これも余談。

 さて、名都美術館については《会報》【0387】号でご紹介した様に、03月31日に『日本画に描かれた動物たち』[前期]展を見ている。が、殆ど作品を入れ替えると聞いていたので今回再び訪れてみた。ホント、9割は入れ替わっていた。早速作品をご覧下さい。但し、本《会報》では容量の関係でかなり割愛しましたので是非blog〔‥末尾記載URLをclick願います‥〕を御高覧下さい。
 名都美術館は、中京地区の【山種美術館】の如く日本画の宝庫である。ご興味ある方は一度訪れてみて下さい。小生はこれからも出来る限りここの企画展を見続けて行きたい。

[09]杉山寧『鯉』
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––––––––––––––––––––––––[10]上村松篁『雪月花三題[花]』1981年
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[11]上村松篁『兎Ⅰ』1987年
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––––––––––––––––––––––––[12]上村松篁『丹頂[一対]1977年
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[13]上村松篁『月夜』1939年
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––––––––––––––––––––––––[14]小山硬『海鵜』2001年
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[15]徳岡神泉『鯉』
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––––––––––––––––––––––––[16]前田青邨『山雀』昭和40年代
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■続いては、豊田市美術館『ジェームズ・アンソール展 ―写実と幻想の系譜―』についてである。添付写真のleafletをご覧下さい。
 James Enosor(1860.04.14-1949.11.19)はベルギーの画家。生没年から言えば、Parisを中心に興隆した印象派の影響があるかと思う処であるが、彼は全く影響を受けていない。そして、今世紀に入り所謂grotesqueな絵が彼の真骨頂となっていく。
 その代表作が添付写真leafletにある様な仮装行列で見る様な作品群なのである。
 極めて印象的であり、小生にとってJames Ensorは忘れ得ない巨匠となった訳であるが、「好きか?」と問われれば「否」と即座に応える。小生は基本的に「芸術性の高さ」より「美しさ」を重視するのであるからして‥。vocabulary貧困な小生、後に続く言葉が見つからない。

[17]豊田市美術館『James Ensor-写実と幻想の系譜-』展leaflet
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■4つ目は鞍ヶ池art salonである。これも《会報》【0387】号でご紹介した様に03月31日に訪れている。今回は、親父を連れているので「品格ある作品群なら親父もきっと喜ぶだろう!」と思い、再訪したのである。
 結果、訪問して良かった。親父曰く「今日見た4つの美術館の中でコレ〔=鞍ヶ池art salon〕が一番良かった。前回もそうだったなぁ‥」。
 確かに、親父は保守的だが、審美眼は87歳になっても確かのものを維持していると、小生も共感出来た。
 添付写真の絵は、これもenqueteに応えると無料で貰えたpost cartである。
 今回発見したことがある。それは、前回訪問した時と貰えたpost cardの絵の種類が違うのである。【0387】号の絵と比べてみて下さい。

[18]テオデュール・リボ『花瓶と果物のある静物』
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■続いては、最近小生、曽野綾子氏の著書『人間の基本』を読んだ。その中で「第六章 ほんとうの教養~世間の機微を知る」という処が面白かったのでご紹介させて頂きます。

〔前略〕エステやanti-agingに一生懸命な奥様方は沢山います。けれど、どれだけお肌の手入れに熱中しても、年は必ず取りますから見た目の若さでは、いつか必ず無理になるでしょうね。〔中略〕中年以後に台所も食卓もcommunicationも出鱈目では、若さの代わりになるものを何も用意していないことになります。月に一冊の本も読まないのでは、近い将来、馬鹿みたいな老人になることは目に見えています。
 何も博識になりなさい、というのではありません。ただ、人間、食べて生きているだけで、魂に食料を与えないと駄目なんですね。〔中略〕
 教養というのは、かつての旧制高校の様に多くの本を読み談論風発することでも、芸術や古典の知識に秀でることだけでもありません。人間の営みの総合としての世間、人の心の機微を知っていることだと私は思います。機微というのは、あらゆる人のあらゆる端っこや出っ張りを削除して形作られて来た、ある意味での人間の知恵なのです。〔中略〕
 かつては学者や教師でなくても、折りに触れて世間というものを教えてくれる人達がいました。近頃は大人が若者に奢らない世の中になりましたが、本当は大人はもっともっと奢らなくてはなりません。(了)

[19]曽野綾子『人間の基本』
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【小生comment】
 確かに、最近は昔より若者たちへ「奢る」機会が減ったことは否めない。小生も反省しなければ‥。
曽野氏が言っていた。「年長者が年少者に、上役が部下に、仕事に限らず様々な話をすることで世間の機微を伝えていくのは、人間社会にとって大事なこと」だと。正にその通りだと自戒した。

■さて今日最後の話題です。今月の日経新聞朝刊「私の履歴書」は桂三枝氏である。今日がその第4回目。なかなかググッとくる一文がありましたのでご紹介させて頂きます。ご覧下さい。

〔2012年07月、師匠の名「六代 桂文枝」を襲名予定。本名、河村静也。1943年07月16日大阪府堺市生れ。父は野村銀行〔大和(現・りそな)銀行の前身〕行員で静也1歳の時病没。以後、母と二人の母子家庭で育つ。ジェーン台風の翌年、1951年12月04日に遭遇した火事は脳裏に焼き付いている。〔中略〕小学校2年生だった。〔中略〕〕
 家諸共焼け出された為、ランドセルも教科書も、一切燃えてなくなった。母一人子一人、ゼロからの再出発だった。
 母は大正区新千歳に住む長兄の美光一(ひこいち)伯父を頼った。焼け出された寮から10分の家に住んでいた。〔中略〕
 美光一夫妻は妻の母親と同居している上に、弟の娘も引き取っていた。そこへ流石に我々母子共世話になる訳にはいかない。母は私だけ預けて、自分はより都心部にある北区中崎町の料理旅館に住み込みの仲居として働きに出た。母とは毎週土日だけ水入らずで会う暮らしが始まった。
 実直な伯父は私と姪に、分け隔てなく接してくれた。それでもこちらは居候故の気兼ねがあった。教室でも教科書や鉛筆を借り乍ら、肩身の狭い思いをした。
 そんな私を母は週末、大阪の繁華街、梅田・新地を中心としたキタや、心斎橋・難波を中心としたミナミに連れ出した。制服制帽に革靴。母も髪を整えよそ行きの服装で、映画を見たり、気の張る洋食店で食事したりする。随分と背伸びした外出だった。
 引っ込み思案になりがちな一人っ子を、物怖じしない性格に育て上げようと奮発したのだろう。或いは都会派だった亡き父と過ごせた筈の日々を、息子に重ねて取り戻そうとしていたのかも。
 母は行儀作法にもうるさかった。食事の時はやれ肘を突くな、やれ足を崩すな、箸を舐めるな、食べ物を零すなと、叩かれ乍ら躾られた。
「大きうなったら、天皇陛下とお食事する様なこともあるかもしれへんやろ」が母の言い分。何を大袈裟な。躾には閉口したが、週に一度、母と水入らずで目にする都心部の賑わいは眩しかった。(了)

[20]桂三枝氏「私の履歴書」から
 20

【小生comment】
 桂三枝氏の「私の履歴書」を読み出して直ぐ思った。彼は「筆が立つ」と。
 そして今日ご紹介させて頂いた一文を読んでこうも思った。「日本人の健全な庶民生活は、正に桂三枝氏の幼少時代のお母さんと彼との遣り取りに表象されている」と。
 我家の、亡き母の小生への躾も三枝氏のお母さんの躾とよく似ていた。それ故か彼の「私の履歴書」は共感するものも多い。
 彼の文を読んで、戦後間もない日本人は皆、物質的には貧しくても、精神的には決して貧しくない「凛とした」矜持ある人間として育っていったのだ。戦後の昭和時代の日本人は‥。
「こういう多くの日本人の健気な生き様がその後の日本を世界に冠たる経済大国にしたに違いない」と思い、少し良い気分になった。
 ここで小生の拙歌が浮かんだ。ご笑覧下さい。(汗)

 爽やかな昭和の息吹垣間見ゆ 世の一隅(いちぐう)に在る麗しさ  悟空

 ではまた‥。(了)

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05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

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    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

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    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

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