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2012年6月の5件の記事

2012年6月29日 (金)

【時習26回3-7の会 0400】~「【時習26回3-7の会】《2012年 クラス会 Part1》「出欠」表明状況〔その1〕」」「姜尚中著『悩む力』を読んで」「植森美緒著『腹だけ痩せる技術』を読んで」

皆さん、今泉悟です。《会報》【0400】号をお届けします。
 
 小生がまだ銀行員時代だった2006年01月19日、【2637の会】members14人(当時)の皆さんに【「時習26回3年7組の会(仮称)」を立ち上げませんか?】と題して本【2637の会】《会報》を開始して以来、お陰様で回を重ねて今回で【400】号を迎えました〔‥初期の段階では別途45本の号外号あり‥〕。
 振り返ってみると6年5箇月という長い歳月が経ちました。正に「光陰矢の如し」です。
 今後も、小生が元気な限り、原則毎週《会報》をお届けしますので、引き続き応援の程宜しくお願い申し上げます。

■さて今日は、まず先週ご案内申し上げました今年08月に開催予定の【2637の会】《2012年 クラス会 Part1》「出欠」表明状況〔その1〕をお伝えします。
 今日は「吉報」があります。
 今回、「出席」表明第1号は、横田Y成君です。
 横田君はこの7年間では初参加です。
 だから万年幹事の小生、嬉しさも一入です。
 横田君へ、年ぶりかの再会を楽しみにしています!
 それでは早速、横田君からの「出席」表明mailをご紹介します。

 Sent: Monday, June 25, 2012
 こんにちは
 いつも定期メールをありがとうございます。
 2012年08月11日(土)《クラス会》に
 ・出席させていただきます。
 それでは また

 そして、もうお一人、渡辺S○子さんから「参加」表明を頂戴しました。

 ■ 2012年08月11日(土)《クラス会》に
  出席します。
  2年ぶりに皆さんとお会いできることを楽しみにしています。
  渡辺S○子

 渡辺さん、「参加」表明ありがとうございます。

【卒業40周年記念旅行についてのご意見】
 渡辺さんからは、「卒業40周年記念旅行」について一つ貴重なご意見を頂戴しました。それは‥
 「京都旅行するなら、宿泊旅館はもう少しgrade upして欲しい」とのこと。
 このご意見は、重く受け止めて真摯に対応したいと思います。
 本件については、相談相手の中嶋君からも予てより渡辺さんと全く同じ意見を頂戴しています。
 ①卒業記念旅行への【参加者数】の極大化=参加費用の低廉化
 ②卒業記念旅行【参加者の満足度】の極大化=宿泊旅館を含めた旅行内容の高付加価値化
 ∴①≠② ‥ ①と②は ambivalentな関係にあります。
 考え方を「集合」で言うならば、「和集合〔①U②〕」が理想ですが、不可能なので「共通部分【①⋂②】」の極大化を図るしかありません。
 以上のご意見は、旅行の核心部分の一つでもあります。今後、豊橋支部の幹部候補の皆さんとの協議の場で詰めて参ります。

 繰り返しになりますが、念の為、開催要領を以下に記します。

【開催要領】
1.日時:2012年08月11日(土) 18:00~
2.場所:トライアゲイン〔予定〕‥今回は皆さんのご希望があれば一次会を別の場所でも考えます
3.会費:一次会・二次会合算で5~6千円程度〔金額はまだ未確定です〕

 出欠確認のmailを本《会報》とは別便のe-mailにて配信しますので、早目に返信を頂戴出来れば幸甚です。
 極力往復葉書での出状を減らしたいと思いますので、ご協力の程宜しくお願い申し上げます。
 今年も、懐かしく楽しいひとときを豊橋駅前で過ごしましょう! 皆さんからの朗報をお待ちしています。

■さて、続いての話題である。小生、最近書店で「姜尚中(カン サンジュン)1950.08.12-)著『続・悩む力』」を買った。姜氏は、日本の政治学者。国際基督教大学準教授、東京大学社会情報研究所教授等を経て、現・東京大学大学院情報学環教授、東京大学現代韓国研究センター長。熊本県熊本市出身。国籍は韓国、日本名は、永野鉄男。
 この本は2008年05月の上梓され、小生その直後に買った儘であったが、『続・悩む力』を読む前に読まなくては‥と思い、今回一気呵成に読んでみた。なかなかいい本である。氏の頭脳明晰な論理展開が非常に読者に解り易く平易な言葉で説明してくれている。
 氏は本書で、19世紀末から20世紀初頭の「近代の幕開け」にかけてほぼ同時期に生きた日独二人の「炯眼(けいがん)の持ち主」夏目漱石(1867-1916)とMax Weber(1864-1920)にspotlightを当てる。
 そしてこう述べている。漱石の趣意は、「文明が進む程に人の『孤独感』が増し、救われ難くなっていく」。また、Weberは「西洋近代文明の根本原理を「合理化」に置き、それによって人間の社会が解体され、個人が剥き出しになり、価値観や知のあり方が分化していく過程を解き明かした‥それは、漱石が描いている世界と同じく、文明が進む程に人間が救い難く孤立していくことを示していた」と。

 では、本著の中から、第四章「青春」は美しいか の抜粋をご紹介します。

【三四郎と私】
〔前略〕
 自分の青春を考える時、いつも懐かしく重ねて思うのは、漱石の『三四郎』です。三四郎は私と同じく熊本から上京した大学生で、帝都東京の喧騒の最中(さなか)に放り出されて、右往左往します。都会の華やかさに惹かれ乍らも馴染めず、美禰子(みねこ)という美しい女性に恋をし乍ら為す術を知らず、恐れと不安と憧れの入り交じった状態で立ち竦んでいます。上京したての頃の私は三四郎にそっくりでした。
 一般に、『三四郎』は青春小説と言われ、私も最初のうちはそう思って読んでいました。しかし、今は少し違うのではないかと思っています。軽妙な筆運びで書かれているので気付きにくいのですが、例えば、登場人物を見ても青春小説の華やいだ雰囲気は感じられません。自らの将来に青雲の志を持ったり、国家の発展の為に積極的に参画していこうといった人間は出て来ません。小説が書かれた(【小生注】1908年)のは、日本が日露戦争で勝利し、「一等国になった」と騒いでいた時代です。本来ならもう少し時代に対する希望の様なものが現れても良さそうなものですが、それがないのです。
〔中略〕「時代は不幸な方向に向かっている。その流れを変えることは出来ない。自分も所詮はこの中で生きていくしかない。そうは言っても、どうしたらいいのかわからない」といった思いです。私は、漱石文学の登場人物の中に、不満と不安の様なものを抱えて、何か非常に「彷徨っている」imageを感じるのです。
 因みに、三四郎は美禰子から「stray sheep」という言葉を突然囁かれますが、それは恋に奥手であるという意味だけではないと思います。
〔中略〕
 大学時代の私はWeberに夢中になり、四苦八苦し乍ら難解な著作と格闘していたのですが、それ等の中に私の思いと通底するものを感じました。Weber自身が『それから』の代助を地で行った様な人だったこともあるでしょうが、読み込んでいるうちに、生きづらい世界の中人間はどう生きていくのかを、Weberがもがき乍ら必死に問いかけているのが伝わって来ました。私は彼の知への渇望の様なものに共感したのです。
 Weberも漱石も、その青春時代の生き様を見ると、マッチョ的な男らしさというよりも、答えの出ない問いに苦しみ続ける「青白い苦悩」といった様なものを感じます。報われることはないと薄々分かっている青春を、多少の空しさと共に生き、それでもどうしても意味を問わずにはいられない欲求に揺り動かされていた―。ちょっと抽象的ですが、「宙ぶらりんな青春」と言うのでしょうか。「実存的空虚さ」といった処です。そのことに、当時の私は「私だけではない、この人達もそうなのだ」と、励まされる様な思いを抱いたのです。

【青春は年齢ではない】
 私が今も三四郎という青年を愛し続けているのは、未熟だけれど、不器用だけれど、非常に純に何かを求めて彷徨っているからです。〔中略〕
 他人とは浅く無難に繋がり、出来るだけriskを抱え込まない様にする、世の中で起きていることにあまり囚われず、何事にもこだわりのない様に行動する、そんな「要領のいい」若さは、情念の様なものが予め切り落とされた、或いは最初から脱色されている青春ではないでしょうか。
 そして、脱色されている分だけ、その裏返しとして、ふいに妙に凶暴なものや醜いもの、過度にエロティックなものが逆噴射することになりかねません。最近頻繁に起こる深刻な事件や、net上の仮想空間を眺め乍ら、私はしきりにそう思うのです。
 そしてもう一つ、私が青春に関して最近感じていることがあります。それは、「青春というのは年齢ではないのではないか」ということです。
 私は若い頃から悩み多い人間でしたが、中年になっても変わらず、事ある毎に立ち止まっては考え込んでいました。
 だからでしょうか、私は人から「若い」と言われることが多いのです。同窓会などに行くと、必ず同級生がそう言いますし、母親からも「鉄男は若かね」とよく言われました。それは、見た目ではなく、恐らく、青春の時の要素を未だに持っているからでしょう。「老成」していないからでしょう。幼稚ということでもあるのですが、私はそれでいいじゃないかと自らを慰めています。
 人間が「成長する」ということは「老成する」ことだと思いますが、その場合、極端に言うと二つの形があると思います。ぎこちない表現ですが、「表層的に老成する」か、「青春的に老成する」か、そのどちらかです。
 漱石とWeberは言うまでもなく、後者です。彼等程優れた人でも、一生「青春の蹉跌」みたいなものを繰り返していた様な気がします。ですから、彼等も青春的に老成していたと言えるのではないでしょうか。
 私は青春の頃から自分への問いかけを続けて来て、「結局、解は見つからない」と分かりました。と言うより、「解は見つからないけれども、自分が行けるところ迄行くしかないのだ」という解が見つかりました。そして、気が楽になりました。何が何だか分からなくても、行けるところ迄行くしかない。今も相変わらずそう思っています。
 氷の上を滑る様に物事の表面を滑っていたら、結局、豊かなものは何も得られないと思います。青春は挫折があるからいいのだし、失敗があるからいいのです。
 年齢を重ねても、どこかで青春の香を忘れたくないですね。

  しかし われらの手遅れの美女神たちの発明も
  この病弱の種族をして 深い敬慕を
  青春に 捧げる邪魔にはならないだろう、
  ――姿は素朴、額はやさしく、
  眼は水の流れるように 透明で また清らかで、
  大空の青さの如く 小鳥の如く 花の如く
  無関心でありながら、全てのものに 薫と歌と
  快い熱とを灑(そそ)ぐ 神聖な青春に。
   〔ボオドレール(【小生注】1821-1867)「人間の裸体時代の回想を‥‥」〕

 言い様のない倦怠と突き上げる様な情念に引き裂かれ、進むことも退くことも出来ない青春時代の無残を持て余していた頃、独り下宿の暗がりの中で何度も口ずさんでいた詩の一節です。今でも、時折口ずさむことがあります。

[01] 姜尚中著『悩む力』
 01

【小生comment】
 姜尚中氏は1950年08月生れだから我等より5歳年長。小生も氏と同様に高校・大学の学生時代に夏目漱石とMax Weberには色々と感化された。漱石の著名作品は殆ど読んだし、Weberの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は齧った程度であるが読んだことがある。自分なりに『青春』を謳歌した一時代だった。勿論、氏の様に深く迄掘り下げて読んでいないので、今では殆ど忘れてしまったが‥。(笑)
 氏は、漱石とWeberが生きた時代と我々が生きている現代の相似性について、第二章 世の中すべて「金(カネ)」なのか の中で次の様に述べている。実に言い得て妙である。

【たかが金、されど金】
〔前略〕登場人物の中で必ずと言っていい程「鼻持ちならない俗物の資産家」が出て来るのが、漱石文学の特徴と言えます。『吾輩は猫である』の金田さんはかなり戯画化されたcharacterですが、『それから』の代助の父親や、『行人』の一郎の父親等は、思想的に許し難い人種の様に描かれています。〔後略〕

【「成りあがり」が時代を創る】
 しかし、それこそが、漱石の時代を読む批評眼でもあるのです。19世紀から20世紀のとば口(=【小生注】入口)にかけて資本主義が質的に変容し、日本だけでなく世界中で露骨に本性を現しつつありました。漱石はその様相に眼を凝らしていたのです。
 同じ頃、ドイツのWeberも資本主義の行方に熱い視線を注ぎ、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」をはじめとする著作をものにしました。
〔中略〕日本とドイツのどちらもが、ある種の「後発国家」でした。〔中略〕(両国とも)「追いつき追い越せ」と必死になっていました。
「国家が成りあがっていく」ということは、その過程で「国家の中に無数の成りあがりを生み出す」ことを意味します。〔中略〕所謂「新興bourgeoisie」の出現です。〔中略〕(ごりごりの拝金主義者である)そういう人達が実質的に国家を興隆へと導いた訳ですから、勢い、彼等の価値観が世の中を動かして行く様な状況になります。これがlatecomer(=【小生注】新参者)の悲しい処です。
 そして何だかんだ言っても金の力は侮り難く、古い権威や価値観を丸ごと引っ繰り返して仕舞うimpactを持っています。
 時代の転換を担った彼等の心の中には、「自分達が新時代を創ったのだ」という自負があります。しかし、彼等がやったことは、見方を変えれば節操のない行為とも言えます。〔中略〕
 漱石が活躍した明治30~40年代は、正にそうした新興bourgeoisieが跋扈していた時代であり、だからこそ漱石は彼等をいけ好かない奴等だと忌み嫌い、小説に登場させたのです。〔中略〕
 Weberは(新興bourgeoisieの典型である)父親のお陰で何不自由なく育ち、一流の教育を受けることが出来ました。〔中略〕
 これは、働かずに金持ちの親に寄生(parasite)して生きている『それから』の代助と同じ状況であり、面白いですね。
 Weber〔中略〕が、父親と対立しつつも、その父親の財力に依存しているというambivalent(=【小生注】両面価値的)な感情も、『それから』の主人公、代助を髣髴とさせます。〔後略〕

【末流意識という「あきらめ」】
「世代間対立」という言葉がある様に、同じ時代を生きていても、〔中略〕親子でも〔中略〕考え方が相容れないことはよくあります。日本の場合〔中略〕、明治国家の建設にゼロから関わった世代と、既に拡大路線を驀進している中で生まれ育った時代とでは、その意識もかなり違って来ざるを得なかった筈です。
 同じことは、戦前と戦後でも言える筈です。〔中略〕
 時代をゼロから創って行った世代は、「俺達が頑張ったから、この国は発展したのだ」という満足感の様なものがあります。〔中略〕
 しかし、既に出来上がって仕舞っている時代の中で生まれた者には、その様な充実感はありません。むしろ、世の中の矛盾ばかり目につき、それを創った世代に対して不満を感じます。世代を創造した人達の様な「何が何でも生き抜いてやる」といった前向きな気持ちはあまり生まれません。そして、「頑張っても何も変わらないさ」的に、何処か虚無的になりがちです。前者を「創造者意識」と呼ぶとすれば、後者の方は「末流意識」とでも呼ぶことが出来るでしょうか。
 漱石もまた、明治国家の誕生〔中略〕後の時代を生きた人間でした〔中略〕から、「末流意識」を持って時代の中を生きる人々を描いた、ということが出来ると思います。

【小生comment】
 この後を要約すると‥漱石の小説の主人公はいずれも、時代に対して何がしかの不満を持ち、資本主義に疑いの眼を向け乍らも、時代の趨勢として甘受している諦観が見てとれる。そして、現代の日本に生きる若者達が正に「漱石が描いた小説の主人公たち」と重なり合う。
 漱石やWeber後は「帝国主義→保護主義→世界戦争→崩壊→再生」へ。
 そしてその後は、「冷戦時代→超大国米国G1の覇権&先進国G7時代→先進国&新興諸国G20時代〔=現在〕」と変遷して行った。
「『愚者』は『経験』に学ぶ」で行けば、「(悲惨な)歴史は繰り返す」ことになるが、叡智を結集して「『賢者』は『歴史』に学ぶ」にある様に、明るい未来を具現化して行きたいものである。

■上記『続・悩む力』と同時に気分転換の意味もあって、「植森美緒(1965-)著『腹だけ痩せる技術』」も購入して読んでみたが、なかなか面白い‥というか、「これなら『腹を凹ませる』ことができるかも‥」と期待感を持たせてくれるreasonableな説明だった。そこでそのessenceをご紹介したい。

[02]植森美緒著『腹だけ痩せる技術』
 02

–––––––––––––––––––––––[03]基本のドローイン
 03

[04]カキッと腹を横に割る「3段階腹筋」
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–––––––––––––––––––––––[05]凄い肩と胸板を作る「3段階腕立て伏せ」
 053

◆腹の形を早く変えるコツは?
①基本のドローイン〔=腹の凹ませ方〕
 (1)背筋(せすじ)を伸ばす
 (2)(両)肩を後ろに引く
 (3)お腹を凹ませる(ドローインする)

◆カッコよく腹を割るなら‥
②カキッと腹を横に割る
 (1)膝を立てて仰向けに寝る
 (2)上半身を丸目乍ら30度目安で持ち上げ10秒間停止→更に30度(累計60度)上げ10秒間停止
  〔腹筋の割れ目に力を込める〕
 (3)最後は下腹に力が入る位置(累計90度少し手前)で10秒間停止〔お腹を凹ませ乍ら行えば効果倍増〕
  〔起き上がるにつれ「腹直筋」の上部から下部へと、使われている場所が変わっていく感じ〕

◆一日1分でメリハリボディに‥
③上半身をカッコよくする腕立て伏せ
 (1)腕立て伏せの姿勢を取り、最も高い位置でドローインして5秒間静止する
 (2)肘を曲げて身体を下げて行く途中で静止し、5秒間ドローイン
 (3)これ以上曲げられない所で静止し、5秒間ドローイン。キツイ人は膝をついてもよい
  〔コツは、フロントブリッジと同様、身体を棒の様に固定した状態で、肘だけを曲げて身体を上下させること〕

【小生comment】
 小生、まだこれ等は試していない。明朝から早速実践してみたいと思う。

【後記】今日は、姜尚中氏の『悩む力』が長文のご紹介となって仕舞いました。ご容赦下さい。
 実は、小生明晩、名古屋で大学弓道部の同期±1期生のミニ同窓会を開催します。同期10名と先輩1名、後輩3名の計14名が集います。
 その中には【時習26回 3-1】の飯田H祥君もいます。
 我等が同期の主将だったN君が今春3月末を以て定年前退官し、家業の住職に専念したので「御苦労さん会」を兼て小生が幹事となって開催するものです。
 同期の仲間って、いつまで経ってもいいものですね。

 さて今日も、お別れは俳句で‥。
「同窓会」を詠んだ名句にこういうのがある。勿論、鞦韆(しゅうせん)とはブランコのこと。
「鞦韆の月」という言葉で、同窓会が終わる夜の小学校の校庭と、遠い昔に過ぎ去った歳月が重層的に表現されている、名句だと思う‥。

 鞦韆の月に散じぬ同窓会 芝不器男(1903-1930)

 芝不器男の名句に触発されて、小生も即席で《クラス会》の句を作ってみました。
 無季の句になって仕舞いましたが、「白鬢」を人生の「晩秋」に見立て季語としてimageしました。

 白鬢(はくびん)や 笑顔の友に 歳月(とし)を見ゆ 悟空

 ではまた‥。(了)

2012年6月24日 (日)

【時習26回3-7の会 0399】~「【時習26回3-7の会】《2012年 クラス会 Part1》開催のご案内」「石原慎太郎&石原結實:対談『老いを生きる自信』を読んで」「06月21日:松坂屋美術館「風邪の画家 中島潔が描く『生命(いのち)の無常と輝き』」展を見て」

皆さん、今泉悟です。《会報》【0399】号をお届けします。
 先週は、19(月)~20日(水)にかけての台風4号到来や、21日(木)・22日(金)と小生の勤務先とその子会社の株主総会があり忙しい一週間でした。皆さんの所は、台風4号到来は大丈夫でしたでしょうか。
 今日も【時習26回3-7の会 0399】号をお届け致します。

■さて今日は、まず今年08月に開催予定の【2637の会】《2012年 クラス会 Part1》開催のご案内からです。
 我々時習26回・旧【3-7】のクラス会も2006年から再開して今年で7年連続の開催となります。
 「もう7年も経って仕舞ったのか」と自称万年幹事の小生、感慨も一入です。
 その開催予定日08月の旧盆まであと1箇月半程になりましたので、今年も皆さんの積極的な参加を期待しています。今年の開催日は、08月11日(土)とさせて頂きます。

【開催要領】
1.日時:2012年08月11日(土) 18:00~
2.場所:トライアゲイン〔予定〕‥今回は皆さんのご希望があれば一次会を別の場所でも考えます
3.会費:一次会・二次会合算で5~6千円程度〔金額はまだ未確定です〕

 出欠確認のmailを本《会報》とは別便のe-mailにて配信しますので、早目に返信を頂戴出来れば幸甚です。
 極力往復葉書での出状を減らしたいと思いますので、ご協力の程宜しくお願い申し上げます。
 今年も、懐かしく楽しいひとときを豊橋駅前で過ごしましょう! 皆さんからの朗報をお待ちしています。
 ※ 尚、08月11日は、日中に【2637の会】《クラス会》とは関係ありませんが、時習26回の同期生(【1-4】【2-8】【3-1】)で昨年暮に亡くなられた故山田裕典君の墓参をする予定です。もしご希望の方は小生にご連絡下さい。因みに小生は、【1-4】【2-8】で彼とclassmateでした。

■さて、続いての話題である。小生、最近「石原慎太郎&石原結實:対談『老いを生きる自信』」を読んだ。大変面白く参考になると思いますので、幾つかの項をご紹介します。御高覧下さい。

[01]石原慎太郎&石原結實:対談『老いを生きる自信』
 01

 石原慎太郎(1932.09.30-)氏は、東京都知事という激職に就いて居乍ら今年80歳になるが吃驚する位若々しい。氏との対談相手である石原結實(ゆうみ)(1948-)氏については、石原慎太郎氏がこう述べている。
 私(慎太郎)がこの対談相手の石原結實先生においている信頼の所以は、石原医師が西洋医学医師の資格に安住せずに、多くの現代医学徒にとっては未知の、あるいは迷信としか思えぬ、西洋医学とは対照的な東洋医学にも精通し、東西両者の利点を捉え合わせて治療に邁進している処にある。〔後略〕

【石原慎太郎の独白―肉体につくられた精神が、肉体を助けるとき】
「健康な肉体にこそ健全な精神が宿る」とは真理でしょう。若い自分に究極的に肉体を追い詰めた経験をした人は、私も含めてそう思うのではないでしょうか。しかしそれから長い時を経ると「逆もまた真なり」で、健全な精神こそが肉体の老いを援護してくれるんですね。
 ある年齢を過ぎると、人は自分の肉体がかつてと異なることに気づかされる。抗(あらが)うことの出来ない肉体的の衰えを支えるのが「気力」。「健全な精神」とは崇高な理念を掲げるなどということではなく、まず気力を保つということなのです。
 私が週に二、三回は1千m泳ぎ、時間を見つけてはwalkingをしているというと、人は驚きますが、私にとってはごく普通のことです。「責任を担うには健康管理も仕事のうちだから」「体を動かすのが好きなのか」と、「何故、そうまでして?」とよく質されますが。当り前にやっていることなので改めて考えることもなかったが、自問してみると、結局は「自分の為」としか言い様がない。
 個人的な経験からすれば、体を動かしていないと発想力がなくなると思う。「気のせい」などと言った観念的なfeelingの範疇ではなく、明らかに発想力が低下する。
 物書きの頃は仕事に行き詰まって来ると、気持ちを切り替えて現状打破する為に歩きに出かけたものですが、〔中略〕歩いている最中はただ歩いているだけでも、いくら仕事のことを考えようとしても考えることが出来なくなる。
 そうして暫く仕事から切り離された時間を過ごして家に戻って来ると、何か脳の中の循環が変わった様な、さっぱりとした心持ちになってね。その後の効果は抜群で、仕事の結果にも歴然として違いが現れて来る。
 政治家であれ小説家であれ仕事を続ける為には、どんなに忙しくても、いや、忙しい時こそ体を動かして発想力に活を入れなくてはならないと思います。どんな仕事でも、仕事というのは自己表現であり、自分の発想や思考といった内面を出してこそ成り立つものだから。

【石原結實―老化を食い止めるのは「筋肉」】
 肉体的反復は我々の見えない脳幹を鍛えると同時に、当然乍ら筋肉にも作用します。〔中略〕強い筋肉は若さと健康の条件ですから、どんどん筋肉を鍛えて欲しいと思います。
 人体最大の臓器は肝臓〔中略〕。もっと大きい器官が〔中略〕筋肉です。
 正常体重の男性では体重の45%が、女性では36%が筋肉。〔中略〕
 前身の筋肉の70%が腰から下にあります。〔中略〕老化や病気で生命力が低下すると足の筋肉や筋力が顕著に衰えていきますが、逆に足が細くなる・冷えるのは、老化や病気の予兆と言えます。
〔中略〕
 筋肉は人体最大の「発熱器官」でもあります。体温が一度上がると免疫力は一時的に五倍にもなり、病気にならない体をつくることが出来るのです。体を動かして「うっすら汗をかいた」状態が体熱が一度上昇した時。免疫力が五倍にupした時です。よって一日に一回は、うっすら汗をかく程度の筋肉労働や運動をすることが、病気を防ぐ最も手軽な方法と言えるでしょう。
 因みにガン細胞は35度Cで一番増殖し、39.6度Cになると死滅するとされています。〔中略〕
 また、筋肉を動かすと筋肉の中を走っている毛細血管が収縮・拡張するmilking action(乳搾り効果)が生じます。〔中略〕milking actionで全身の血行が促進されると、心臓の負担が減って血圧も自然と下がります。つまり、筋肉を動かすことで心臓病や高血圧の予防、改善が出来る訳です。更に、筋肉運動によって脳の血行も促進される為、記憶中枢の海馬も刺激され記憶力促進やボケ予防になることもわかっています。

【石原慎太郎―「我慢」を体感させない教育は教育でない】
 子供の時に肉体的な苦痛を味わうこと、つまり我慢をすることで脳幹が鍛えられる〔中略〕。喉の渇きを我慢するといった些細なことでいい。同様に、精神的な苦痛も人間の脳幹を鍛えてくれます。
 私たちが中学高校時代は、悪いことをすると職員室に立たされたものです。叱られて立たされるのは勿論恥ずかしい。でも我慢しなくてはいけない。些細ではありますが一つの屈辱に耐えることで、少しずつ人間の耐性が養われていく。
〔中略〕
 教師というのは子供を叱る為に存在する筈だ。叱られない子供は強くなれない。叱られることによって芽生えた悔しさ、悲しさ、或いは発奮といった様々な情動によって、脳幹は更なる刺激を受け発達していく。叱らずしてどうやって人間を向上させることが出来るのか、どうやって教育出来るというのだろうか。
 叱られない子供の脳幹が鍛えられる筈はなく、そんな子供の脳幹は「脳幹」ではなく、「NO幹」でしかない。脳幹は生きる力の根源。そして、生きる力というのは「我慢」です。
 当節我慢なんてバカバカしいという風潮が蔓延しているが、「我慢」は重く湿っぽいばかりではない。誰かを好きになる、愛する時にも「我慢」は必要なのだ。「我慢」を覚えてこそ、人生を豊かにするのです。

【小生comment】
 今日ご紹介した上記の両石原氏の言葉は小生100%共感出来る。最近の若人達に「新・鬱病」が流行っていると聞く。が、畢竟彼等に耐性が備わっていないということだ。Bubble全盛時代という我国歴史上で最も幸福な時代に物心ついた彼等は今20歳代後半。何不自由なく育ち、逆に昨今の閉塞感に苛まれる環境下、Gesellschaft(利益社会)の中で、相対的に弱者と看做された一群は皆一様に「『我慢』出来ずに精神的に参って仕舞い」、「『鬱病』になる」か、「精神的に制御が効かなくなり(=切れて)、人を殺せば死刑にしてくれるだろう等、という信じられない『軽挙妄動に走る』」のである。
 曽野綾子氏も言っていた、「物心がつくかつかない頃の必要に応じた体罰は不可欠である」と。これも全く同感である。

■今日最後の話題は、小生、06月21日に勤務先の株主総会終了後、名古屋に仕事で出張した帰り、松坂屋美術館で開催中の「風邪の画家 中島潔(1943.04.26-)が描く『生命の無常と輝き』」展を見て来ましたのでその模様を少しご紹介します。
 掲題副題にある様に、中島潔(なかしま きよし)氏は日本画家で絵本作家・illustrator。郷愁や愁いの漂う童画や女性画が真骨頂。世間一般に『風の画家』と言われ独特の境地を確立している。
 本展覧会のleafletに次の様に紹介されている。

 風の画家と呼ばれる中島潔の作品は、NHKの番組「みんなのうた」に取り上げられたのをきっかけに多くの人に親しまれて来ました。1943年満洲で生まれた中島潔は独学で絵を学び、18歳で、故郷の佐賀を飛び出し、仕事をする傍ら絵を書き続け、28歳の時に単身Parisへ渡り、画家になる決心をします。その後、41年間、制作を続け、2010年(4月)には清水寺成就院の襖絵46面を完成させ(奉納す)る等、多くの作品を生み出して来ました。本展はその画業を辿る代表作と共に、完成した清水寺成就院襖絵を併せ約100点を展示し、中島潔の優しく切ない世界をご紹介します。

 また、中島潔氏自身が「ごあいさつ」の中で述べている印象的なphraseをご紹介します。

〔前略〕私の画家人生全てをかけた絵をここ(清水寺)に描きたい‥。そしてついに清水寺にお願いにあがり、幸運にも描く機会を頂きました。その時の嬉しさと身の引き締まる様な緊張感を、生涯忘れることはないでしょう。
〔中略〕
 今思いますと、私が清水寺を歩いていて絵を納めさせて頂きたいと思ったこと、それから自分の絵を描けばいいのではないかと思ったこと、その時初めて自分の生命が救われた様な気がしたこと、全てが〈生きる〉証をこの清水寺に残したいという私の想いに繋がります。
 自然に生かされ、巡っては消えていく儚い生命の無常。その一瞬を慈しむ心。弱いからこそ輝き生きようとする強さ。そして生命が消えていく悲しさは未来へと繋がっていくこと。作品に込めたそんな想いを、観て下さる方の心に少しでも届けることが出来れば、そんな祈る様な気持ちでおります。〔後略〕

[02]中島潔『生命の無常と輝き』展leaflet
 02leaflet

–––––––––––––––––––––––[03]清水寺成就院襖絵:第二室「右上:風の故郷‥花別れ」「右下:同‥にわか雨」「左上:同‥向日葵」、第三室「左下:同‥紅葉」
 03

[04]第一室「かぐや姫」2010年
 042010

–––––––––––––––––––––––[05]右上:4雨音 1981年 右下:5けんかのあと 同年 左上:6夢少女 1984年 左下:7夏のバス停 1985年
 054_19815_6_19847_1985

[06]右上:8あじさい坂 1986年 右下:9風物語 1988年 左上:10雪の音 同年 左下:11野路菊 1989年
 068_19869_198810_11_1989

–––––––––––––––––––––––[07]右上:12想い雪 1990年 右下:13待ちぼうけ 同年 左上:14夏の色 同年 左下:15秋桜 1994年
 0712_199013_14_15_1994

[08]右上:22里の秋 1996年 右下:23絵日傘 同年 左上:24通りゃんせ 同年 左下:25夢みる頃 1997年
 0822_199623_24_25_1997

–––––––––––––––––––––––[09]中島潔「かぐや姫」制作風景
 09

【後記】今日のお別れは、【2637の会】《クラス会》に向けての気持ちを拙歌に託して一首‥

 今年又旧盆の夜に再会す 達者な友の姿を見むと  悟空

 ではまた‥。(了)

2012年6月15日 (金)

【時習26回3-7の会 0398】~「『時習26回生卒業40周年記念旅行&懇親会』についての一考」「05月18日:ドイツLiedの巨星ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ&05月22日:『音楽のたのしみの吉田秀和』の死去」

皆さん、今泉悟です。《会報》【0398】号をお届けします。
 今月は、小生の勤務先も株主総会がありその準備等で何かと気忙しい毎日を過ごしています。
 早く株主総会が終わって欲しいものです。(笑)

■さて今回は、再来年に予定している【時習26回生卒業40周年記念旅行&懇親会】の〔会場兼宿泊所〕候補先として、前号&前々号の「京都旅行〔洛北・山科・東山編〕」の中でご紹介した『いろは旅館』を中心に予算面ついて今少し考えてみたいと思います。

 毎日が忙しく過ぎ去っていく‥。まさにこの世の中は無常である。
 『時習26回生卒業40周年記念旅行&懇親会』も参加する身でみれば待ち遠しい行事だが、それを主催する側に立つとそういう楽しい気分には程遠い。段々と焦燥感が募って来る。(汗)
 十人十色の考えを持っている時習26回生同期生の一人でも多くが喜んで参加してくれる『卒業記念旅行と懇親会』をどうやって企画するか?
 京都は人気度の極めて高い観光地なので旅行先としての選択は間違っていないと考えます。

[01]いろは旅館正面玄関
 01

––––––––––––––––––––––––[02]いろは旅館地下1階restaurant〔Viking形式〕
 02viking_2

【考察1:『いろは旅館』を宿泊所とするmeritとdemerit】
 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%8C%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E6%9D%B1%E5%85%A5%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E7%94%BA%EF%BC%98%EF%BC%94&lat=35.00898615&lon=135.77393120&ei=utf-8&v=2&sc=3&datum=wgs&gov=26105.48.84
 《merit》
 ①抜群の立地の良さ〔京都一の繁華街「三条京阪」にあり地下鉄「京阪鴨東(おうとう)線『三条駅:出入口3』」から東へ40m〕
 ②立地の良さに比して宿泊料金が格安:一泊朝食付で一人8,400円〔税金・service料金込み〕
 《demerit》
 ①修学旅行生徒優先。1年超前からの一般客(団体)向けの受付はしていない。
 ②常に修学旅行の申込を優先し、1年前になって空室ある場合に漸く一般客(団体)の予約に応じる。
 ※したがって、例えば「2014年05月17日(土)~18日(日)」を80名で予約しようとする場合、一般団体は2013年05月17日になって初めて予約出来る。
 しかし、既に修学旅行客の予約が入っていれば当然予約出来ない。宿泊予定日まで1年以内になった日で80名分空いている日を探して予約することとなる。
 即ち、卒業記念旅行日は1年以上前から確定することが出来ないということになる。
 ③修学旅行生の団体がいると時間帯によっては風呂場やrestaurantが若干騒がしくなることは覚悟しておいた方が良い。

【考察2:旅費の試算】〔[1]のみ現時点での確定数値〕
[1]宿泊費:『いろは旅館』一泊朝食付〔税・サ込〕8,400円‥①
[2]宴会費:6,300円‥②〔①+②=14,700円〕
[3]初日昼食代:2,500円‥③〔①+②+③=17,200円〕
[4]二日目観光&昼食代:7,000円‥④〔①+②+③+④=24,200円〕

[5A]懇親会会場現地集合の場合〔二日目の移動代金3,000円〕:3,000円‥⑤a〔①+②+④+⑤a=24,700円〕
[5B]豊橋~京都間貸切bus料金:10,000円‥⑤a〔①+②+③+④+⑤b=34,200円([参考]名古屋乗車組:32,700円)〕
[5C]東京~米原間新幹線往復:24,120円+米原~京都間貸切bus料金※:3,000円※程度‥⑤c〔①+②+③+④+⑤c=京都懇親会会場へ直行する[5D]の料金+③が同料金より割安になる様に米原~京都間貸切bus料金※を設定する〕
[5D]東京~京都間新幹線往復料金:27,040円‥⑤d〔①+②+④+⑤d=46,740円〕

 あくまでも概算だが、【京都『いろは旅館』現地集合組[5A] 28,000円】、【貸切bus利用組[5B] 33,000~35,000円】、【米原から貸切busに合流する東京組49,000円】、【京都懇親会場へ直行する東京組 47,500円(←但し、初日の昼食代は当日自己負担)】程度になる模様。
 因みに、米原駅で合流する東京組は、今日現在のdiagram〔列車運行表〕によると、ひかり503号(東京07時33分発→米原09時48分着)利用が良さそうである。
 一方、新大阪から米原駅で合流しようとすると、同じく、ひかり514号(新大阪09時13分発→米原09時49分着/往復運賃:9,620円)が丁度良い。
 そしてこの米原駅09時50分に間に合う様に、豊橋&名古屋貸切bus組が出発する時間は、名古屋組が名古屋市営地下鉄東山線 本郷駅08時40分発、豊橋組が豊橋駅07時30分発となる。出発時間としてはまずまずだと思われる。

 尚、先日、お話したoptional tourは今回棚上げした。理由は貸切busをmainに行程を考えると、懇親会開始時間まであまり時間がなく良い企画が作れない為である。
 その代わり、東京組・関西組も出来るだけ米原で合流して貰い、貸切busの旅を満喫して頂こうと思っている。
 参加者の同窓同期の親睦を図るにはbus旅行は相応に効果が期待出来るとみている。
 貸切busで何処を巡るかは、これからジックリ検討していくが、今日は初日の行程を考えてみた。
 10時00分発で、米原を起点とし京都三条京阪「いろは旅館」16時過ぎ到着で、大型bus2台で行ける様々なrouteを検証していくつもりである。
 Bus2台なので、希望者の分散次第では1台ずつ別routeを巡るという選択肢もあり得る。
 《例1》琵琶湖一周course〔彦根城→菅浦→比叡山延暦寺→大原・三千院→いろは旅館〕
 《例2》湖東・大津course〔彦根城→石山寺→園城寺(三井寺)→日吉大社→比叡山延暦寺or大原・三千院→いろは旅館〕
 《例3》湖東三山・近江商人の町course〔彦根城→湖東三山・西明寺→同・金剛輪寺→同・百済寺→近江八幡市の水郷と近江商人街→いろは旅館〕
 《例4》ちょっと京都〔東福寺の新緑〕course〔東福寺→先斗町ほか自由散策(加茂川をどり歌舞練場他)〕
 以上、ざっと思いつく儘観光routeを上げてみました。【2637の会】membersの皆さんも積極的な御意見を頂戴出来れば幸甚の至りです。

■今日は、小生の趣味の世界のお話をしてお別れしたいと思います。少々お付き合い下さい。
 classic音楽fanの小生、仕事が忙しくお話出来ませんでしたが、先月05月は二人の斯業界の重鎮が亡くなられた。
 一人は、18日に86歳で亡くなったドイツのbaritone歌手ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ((1925.05.28-2-12.05.18)Dietrich Fischer-Dieskau)。
 そしてもう一人は、その4日後の05月22日98歳で亡くなった日本の音楽評論家で随筆家の吉田秀和(1913.09.23-2012.05.22)である。

[03]Dietrich Fischer-Dieskau
 03dietrich_fischerdieskau

 フィッシャー=ディースカウ氏は、baritoneのドイツlied(リート=ドイツ語による抒情的独唱用歌曲)の第一人者である。
 Schubertの三大歌曲(「冬の旅」「美しき水車小屋の娘」「白鳥の歌」)をはじめ、有名な「魔王」「野薔薇」「死と乙女」「鱒」等は、classic音楽fanでなくても皆さんよくご存知の曲である。

[04]吉田秀和氏
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––––––––––––––––––––––––[05]吉田秀和『マーラー』
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 吉田秀和氏は、飄々とした語り口が懐かしい。この人にMozartを語らせたら我国でこの人の右に出る人がいないくらい詳しい。英・独・仏の三国語に通じ、1960年代から西欧の音楽情報を我々一般のclassic音楽fanにup-to-dateな情報や貴重な歴史的文献を日本語に翻訳して教えてくれた人物である。
 小生も、1970年の中学三年時代からclassic音楽fanになったのであるが、当時のNHK-FMのclassic音楽番組で吉田氏が解説をしている『名曲のたのしみ』を放送が開始された1971年04月からずっと聞いていた。因みに、この番組は既にかなり沢山収録されており、吉田氏の逝去後も、今年一杯は放送される予定であるという。

 さてここで彼の真骨頂である評論を一つご紹介したい。
 小生が「一番好きな交響曲は?」と問われたら、躊躇なく「マーラーの交響曲第9番」と答える。それも、「何楽章が一番好き?」と問われれば、これも「第4楽章だ!」と答える。
 それ程の名曲であることを、吉田秀和氏は彼の著書『マーラー』(河出文庫 2011.03.20所版発行)の「表現主義的ネオ・バロック 交響曲第九番」の項で次の様に表現してくれている。

 〔前略〕《第九交響曲》といえば、私も、いろいろマーラーを聴いていて、《若人の歌》や《第四交響曲》に懐かしみを覚え、《大地の歌》は言うに及ばず、「最後の歌曲集」の中の《リュッケルトの歌》《第七交響曲》なども大変面白い曲だと考えているけれども、少なくとも今のところでは、《第九》がいちばん、私の関心をそそるのである。それにマーラーという作曲家は、《大地の歌》と、それから特に、《第九》にいたって、真の大家、巨匠に数えられる域に達した、というのが、目下の私の考えである。その《第九》では、バルビロ―リがベルリン・フィルハーモニーを指揮したレコードで聴いた演奏が、私のこの感想を決定するのに力があった。
 〔中略〕
 マーラーのオーケストラは膨大だといわれ、事実この最後の交響曲も、四管編成にハープや各種の打楽器を加えたうえに、弦は非常にしばしば、ソロにして使う。また、長大な第一楽章の再現部に当たる部分では、「突然速度を落として」と指示された木管も金管も弦も、それぞれ独奏で幾重にも絡み合いつつカデンツァ(伊:cadenza【小生注】独奏協奏曲等で、楽章が終止部(伊:coda)に入る直前に独奏者の技巧を示す為に挿入される、華麗で装飾的な楽句)を奏する個所があり、さもなくとも何重かの対位法(【小生注】音楽で、夫々独立して進行する二つ以上の旋律を同時に組み合わせて楽曲を構成する作曲技法)的な書法が細かい網目を張り巡らす。それから終楽章のアダージョ(Adagio)は、弦楽合奏が主体になり、そこに木管、金管が、あるいは独奏的に、あるいは合奏的に時折付け加わるといった編成法がとられている。だから、これはもう、極度に合奏に長じたとびきり優秀な交響楽団であって、しかも随所に出て来る独奏的な処理に十分に対応できる名手の揃ったものでないと、一応完全な演奏はできない難曲なのである。マーラーは、ここでオーケストラのための協奏曲に非常に近寄っているといってよい。そのうえ、巧緻を極めたポリフォニック(【小生注】各声部が独立した旋律とrhythmを持ち乍ら、調和を保つ多声様式の音楽)な書法と、調性(【小生注】ハ長調とかイ短調の様に一つの主音・主和音を基に音程関係を秩序づくっているもの)音楽の限界をゆく複雑な和声処理、音楽的な洗練と、リズムの錯綜が加わる。〔中略〕それに、編成こそ膨大だが、細かく見てくると、いつも管弦楽全体を使いきっているのではなく、むしろその時その時でみると、手段を最小限度に止めようと留意していることがありありとわかる。それほどの透明度と合理性に裏付けられた管弦楽曲なのである。
 〔中略〕
 エルヴィン・シュタイン※(注)は「マーラーの音楽はたしかにロマン派に根ざし、そこから生まれたものに違いないが、晩年にいたって、彼はその複雑で分裂した感情のうえの出来事を少しも裏切らないままに、これを音楽のフォルムの形成の働きに移すのに完全に成功するにいたった」と言っているが、私は、この考え方に賛成する。主観的なものが芸術の中で客観化される。表現が形式を形作る。ロマン主義の内面を歩きながらのロマン主義の克服である。
 〔後略〕
 ※(注) エルヴィン・シュタイン(Erwin Stein(1885-1958)は、ウィーン出身の作曲家・著述家。シェーンベルク(Arnold Schönberg(1874年-1951)の友人且つ門人として著名。1906~10年迄その薫陶を受ける。Schönbergの「私的演奏協会」結成における主要な助手の一人。

【小生comment】
 吉田氏の上記評論は、Mahlerの《第九》を良く評していると思う。蓋し名文である。

 ※ ※ ※ ※ ※

 【詞書】もうじき「夏至」である。この時季は「梅雨」の時節でもある。またvirtual realな世界で一句‥

 短夜(みじかよ)や 愛しき貴女 慈雨の如(ごと)  悟空

 ではまた‥。(了)

2012年6月 9日 (土)

【時習26回3-7の会 0397】~「05月26(土)~27(日):『京都旅行〔洛南・山科・東山編〕』〔後編〕」「05月28日:国立新美術館『大エルミタージュ美術館~世紀の顔・西洋絵画の400年』を見て〔後編〕」「06月03日:ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団演奏会を聴いて」

皆さん、今泉悟です。《会報》【0397】号をお届けします。
 今回は前号に続いて、「京都旅行〔洛北・山科・東山編〕」&「国立新美術館『大エルミタージュ美術館展~世紀の顔・西洋絵画の400年』を見て」のいずれも〔後編〕他をお伝えします。

■最初の話題『京都旅行〔洛北・山科・東山編〕』の〔後編〕です。
 今日はまず、以下に京都旅行の〔後編〕として、二日目の行程をお示しした上で、旅行の内容についてご報告させて頂きます。

『旅行行程表』〔27日(日)〕

08:10発 いろは旅館→一般道路2.4km〔‥道すがら、朝の【祇園】を車で散策‥〕
08:25着 【豊国神社】《豊国神社駐車場》料金:@150円/30分→7時間以内=2,000円
     住所:京都市東山区茶屋町
    ‥【国宝】「唐門」⇒伏見城の遺構=桃山期の逸品
08:43発 徒歩10m内外‥同じ境内と見紛う如く隣接している為「徒歩で移動する」という実感すら湧かない
08:45着 【方広寺】住所:京都市東山区大和大路通七条上ル茶屋町
    ‥「梵鐘」‥豊臣氏を滅亡へと追い遣った「国家安康 君臣豊楽」が見える!
08:50発 徒歩0.8km
09:02着 【六波羅蜜寺】住所:東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町
    ‥拝観時間:08:30~「空也上人像」「伝・平清盛像」他‥
09:25発 徒歩1.7km
09:50着 【蓮華王院(三十三間堂)】住所:京都市東山区三十三間堂廻町
    ‥拝観時間:08:00~【国宝】本堂・木造千手観音坐像(湛慶作)・木造千手観音立像(1,001躯)」他多数
10:45発 徒歩0.3km
10:50着 【養源院】住所:京都市東山区三十三間堂廻町
    ‥「本堂:血天井/鴬張廊下」[重文]俵屋宗達筆:着色杉戸絵「唐獅子・白象図」「金地着色松図」
11:20発 徒歩0.8km
11:25着 【麺処:山城】〔豊国神社入口正面〕にて「昼食」
12:08発 TAXIで一般道路2.4km
12:15着 【光明院】住所:京都府東山区本町15丁目
    ‥昭和の作庭師重森三玲作:枯山水庭園「波心庭」の苔と庭石が必見
12:32発 徒歩0.1km
12:35着 【東福寺】住所:京都市東山区本町16丁目
    ‥【国宝】三門(現存日本最古)→〔「東司」→「禅堂」〕→「本堂(仏殿・法堂)」→「方丈八相庭園」→「通天橋」→「開山堂」→「日下門」
13:45発 徒歩80m
13:47着 【芬陀(ふんだ)院(雪舟寺)】住所:京都府京都市東山区本町15丁目
    ‥雪舟作の枯山水庭園に「鶴亀の岩」(昭和12年 重森三玲が復元)
14:00発 TAXIで一般道路1.5km
14:06着 【泉涌寺(せんにゅうじ)】住所:京都市東山区泉涌寺山内町
    ‥「楊貴妃観音堂(‥楊貴妃観音‥)」[重文]大門・仏殿、御座所・御座所庭園
15:15発 TAXIで1.0㎞
15:25着 【瀧尾神社】住所:京都市東山区本町11丁目
14:30発 TAXIで1.6km
15:40着 【豊国神社・駐車場】
16:00発 《豊国神社駐車場→東名・音羽蒲郡IC=173.3km経由→今泉宅 累計450km》
20:15着 谷山宅
20:30着 青木宅
20:35着 今泉宅
21:00着 中嶋宅〔了〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 08時過ぎに「いろは旅館」を出発した我々は、2.4km南にある『豊国神社駐車場』を目指した。
 出発して程なく、誰かが「『祇園』ってどんな所だろう?」と呟いた。
 すると、driverの中嶋君が「途中にあるから行って見よう!」と車のhandleを左に切って東進を始めた。
 そうなのである。祇園は四条通の東にある八坂神社の西側一帯にある。
 流石に京都に永年住んで、活用もしていた(だろう?)中嶋君である「ここが『一力茶屋』で‥」「ここが○×▲‥」と次々に料亭・茶屋の名前が出て来たのには恐れ入った。(笑)
 「死ぬまでに一度位はこういう『一見さんお断り!』という高級料亭の宴席の経験もいいかナ」とふと思ったが、小生、銀行の秘書室時代に名古屋で、高級料亭の「河文」や「加茂免」での夜宴接待のsettingをした(平成5~7年)頃を思い出し思い直した。「所詮、我々一般人には縁遠い場所である‥」と。(笑)

[01]車窓から朝8時過ぎの「一力茶屋」‥写真右端に「祇園町南側 花見小路」の石碑
 01

【豊国神社】
 豊国(とよくに)神社は豊臣秀吉を祀る。彼の縁の地、大阪城公園、滋賀県長浜市、石川県金沢市、名古屋市中村区にも同名の神社がある。
 1599(慶長04)年 後陽成天皇(1571-1617)から正一位の神階と豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)の神号が贈られる
 1868(明治01)年 明治天皇が大阪に行幸の折、秀吉を天下統一し乍ら幕府を開かなかった尊皇の功臣として豊国神社再興を布告
 1873(明治06)年 別格官幣社(注)に列格
         (注)旧社格の一つ。大社・中社・小社・別格官幣社の4区分。官幣小社と同様の待遇。多く功臣を祀る
 1880(明治13)年 方広寺大仏殿跡地(現在地)に社殿が完成、遷座

[02]豊国神社【国宝】唐門‥伏見城の遺構
 02

【方広寺】
 当寺は、天台宗山門派。豊臣秀吉により建立。
 1586(天正14)年 大仏殿造営開始
 1595(文禄04)年 10月完成、大仏の高さ18m
 1596(慶長元)年 慶長伏見地震により倒壊、のち豊臣秀頼により再建
 1614(慶長19)年 「梵鐘」(添付写真[02][03])京都三条釜座の名越(名護屋)三昌により鋳造、高さ4.2m/重量82.7トン[重文]
 1798(寛政10)年 落雷による火災により焼失
 方広寺の「梵鐘」は、刻まれた銘文「国家安康 君臣豊楽〔南禅寺の禅僧「文英清韓(1568-1621)」作〕」が「家康の家と康を分断、豊臣を君主」とし徳川を冒涜すると、大坂夏の陣のtriggerになったことで有名。
 大きな「梵鐘」である。そして「国家安康 君臣豊楽」の文字がペンキか漆喰だろうか白く縁取られて確かに見えるではないか! 感動した!
 「これが昔日本史でならった方広寺の「梵鐘」かぁ‥、流石は黒衣の宰相金地院崇伝(1569-1633)、策士だよな‥」なんて思い返したりした。

[03]方広寺の「梵鐘」
 03

–––––––––––––––––––––––––[04]「梵鐘」の銘文『国家安康 君臣豊楽』の文字
 04

 ここからは暫く徒歩での寺社巡りである。京都中心部では駐車場満車のriskがあり、これから巡る「六波羅蜜寺」「蓮華王院(三十三間堂)」「養源院」は距離的にも近いので歩いて回ることにした。まず豊国神社・方広寺から北へ0.8㎞の所にある六波羅蜜寺を目指した。

【六波羅蜜寺】
 真言宗智山派の寺院。本尊は[秘仏]【国宝】十一面観世音菩薩立像。12年に一度辰の年に開帳される。今年11月03日~12月05日がその開帳時に当たる。是非見てみたいものだ。開基は空也。西国三十三箇所第17番札所。
 951(天暦05)年 空也が造立した十一面観音を本尊とする 当寺は当初西光寺と称した
 977(貞元02)年 比叡山の僧・中信が六波羅蜜寺と改称し、天台別院とする
 桃山時代に真言宗智積院の末寺になった。
 小生、以前からずっと「空也上人像」と「伝・平清盛像」(いずれも[重文])を見たくて訪れたのであるが、宝物館で対面出来た時は感動した。
 お寺の人に対面出来た喜びと感謝の言葉を申し上げたら「空也上人像の目が輝くことはご存知ですか?」と尋ねられ、「いえ、知らないです」と答えると、「空也上人像前で腰を屈めて下から目をご覧になってみて下さい」と言う。その通りにやったら本当にキラリと目が輝くではないか! これは水晶の玉が入っているからだそうだが、また一つ感動を体験出来、嬉しさが増幅された。
 六波羅蜜寺の説明では、空也上人は醍醐天皇の第二皇子とされるが、調べてみると「落胤説」はあるが確かではない様だ。以上余談まで。

[05]六波羅蜜寺の入口にて
 05

–––––––––––––––––––––––––[06]「空也上人像」と「伝・平清盛像」のposter
 06poster

【蓮華王院(三十三間堂)】
 六波羅蜜寺を出て、先程来た道を戻り、豊国神社の前を通り過ぎ、左手に京都国立博物館を見乍ら南進すると「七条通り」。
 これを横断するとそこが「三十三間堂」である。豊国神社から南へ400m程と距離は僅かである。
 到着は09時50分。ここは修学旅行生が沢山いた。ここは1,001躯の「千手観音立像」をはじめ【国宝】級文化財の宝庫であり、世界遺産「京都」の中でも人気spotの一つである。
 修学旅行等で京都を訪れたことがない小生、恥ずかし乍ら、今回の京都旅行の訪問先は全て初めての訪問なのである。
 当寺の正式名称は、【蓮華王院本堂】。当寺から北東400mの所にある「妙法院(天台五門跡の一つ)」の境外仏堂。
 「妙法院」と言えば、幕末の文久03年08月18日(1863.09.30)、当時尊皇攘夷派が勢い盛んであった京都で、会津藩・薩摩藩中心の公武合体派が長州藩中心の尊皇攘夷派を京都から追放したCoup d'étatが(「八月十八日の政変」=「文久の変」=「堺町門の変」)思い出される。三条実美以下七卿が都落ちする際、集まった所がこの「妙法院」である。‥これも余談。
 蓮華王院は、元は後白河上皇が自身の離宮内に平清盛に資材協力を命じて創建したもの。創建当時は五重塔もあった。
 【国宝】だらけの当寺だからという理由もさること乍ら‥、実は小生、違った角度から以前からずっと是非一度この寺を訪れてみたかったのである。
 それは‥【三十三間堂の『通し矢(とおしや)』】の場所‥をである。
 これは江戸時代盛んだった「初夏の夕刻から翌日の同時刻の一昼夜かけて、西外側の広縁で、南端に坐し北端迄の415尺(125m強)を強弓で射通す『大矢数(おおやかず)』という競技」。
 この『通し矢』、1,000本以上通した者149人。うち最高は1669(寛文09)年、尾張藩士 星野勘左衛門で、総矢数10,542本、通し矢8,000本〔成功率75.9%〕。彼は後人の励みの為と称して余力を残したという。この尾張藩弓道の流派が、小生の大学弓道部の流派である日置(へき)流尾洲竹林派である。竹林派は大和国吉野の「竹林院」が発祥の地である。これも余談‥。
 因みに、通し矢数の最高記録は、1686(貞享03)年、紀州藩士 和佐大八郎が、総矢数13,053本、通し矢8,133本〔成功率62.3%〕。彼の流派も日置流紀州竹林派。
 両人とも、礼射系の小笠原流でなく、武射系の日置流の斜面打起(うちおこ)しである。『射法八説』でいう「弓構え」から「離れ」迄の時間が短いのだから「言わずもがな」である。もう少し詳しく説明すると‥小笠原流は弓を射る時、「弓構え」→「打起し」→「大三」となるが、日置流は、「弓構え」→「打起し=大三」と、1手順省略されている。所謂実戦向きなのである。‥これも余談。
 小生、『通し矢』の広縁を見ていたら、また弓が引きたくなってきた‥。(笑)

[07]三十三間堂本堂の前にて
 07

–––––––––––––––––––––––––[08]『通し矢』の射手が坐した広縁の南端から北端を見通す
 08

[09]千手観音立像
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 三十三間堂の直ぐ東隣が【養源院】なのだが、拝観出入口が北にしかない為三十三間堂をぐるっと半周しなければならなく手間取った。(笑)

【養源院】
 当院は、豊臣秀吉の側室淀殿が父浅井長政追善の為建立。1594(文禄03)年、長政の院号を以て寺号とした。その後火災に遭い、1621(元和07)年、将軍徳川秀忠夫人お江〔崇源院〕の願いにより伏見城の遺構(秀吉の殿舎)を移建したのが現存する本堂である。ここに歴代徳川将軍の位牌が収められている。
 『血天井』‥本堂の左右と正面三方の廊下の天井。これは、関ヶ原の戦の前哨戦である伏見城洛城の際、鳥居元忠以下400人弱が自刃して果てた板の間を天井にし、その御霊を祀ったもの。
 この他、俵谷宗達筆の『襖絵・杉戸絵〔白象・唐獅子・麒麟ほか〕』‥これ等は[重文]
 本堂の『鴬張廊下』は、日光東照宮「眠り猫」や、園城寺(三井寺)の「閼伽井屋(おかいや)の龍」等の作者として知られる江戸時代初期の伝説的彫り師、左甚五郎の作と伝えられる。
 ‥静かに歩こうとすると「キュッ、キュッ」という音が余計大きく鳴るから不思議だ。足踏みしてこの音を聞いていたら何故か愉快な気分になった(笑)‥

[10]養源院本堂前にて
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 我等4人は再び『豊国神社駐車場』に戻った。合理的にTAXIを利用するのなら、養源院からTAXIに乗り、次の訪問先【東福寺】を目指すのだが‥。
 戻った理由は、『豊国神社駐車場』前の「めん処 山城」に寄る為である。今回の旅行の行程表を策定中に、この二日目の車を何処に駐めるのがいいか悩んだ時、この「山城」に電話を入れ、『豊国神社駐車場』は止め易いか尋ねてみたのだ。この店の主人曰く「いつでも止められるヨ」。そして小生が「お店の自慢料理は?」と尋ねると「よもぎ山かけうどんがお薦めだよ」という。「じゃぁ、4人で食べに行くよ」と約束したのである。
 蓬うどんは、一見茶蕎麦の様に見えた。が、食してみると腰が確りある「冷やし」たうどんである。とても美味であった。
 食後、TAXIに乗り【東福寺】へ向かった。
 このTAXIの運転手がとてもいい人だった。
 「東福寺の三門・仏殿(本堂)・方丈・通天橋・開山堂と、二つの塔頭「芬陀院」と「光明院」を効率よく歩いて回るにはどう行くのが効率的か? それからそれ等を見た後、【泉涌寺】へも連れて行ってくれる?」と頼んだら‥、

 「お客さんゴメンなぁ、01時に予約が入っているんや、そやさかい【泉涌寺】は勘弁して。代わりに東福寺の歩く順をこの車で教えるんで。料金もここからはええですワァ」と、東福寺に着いてからは気前よく〔meter不倒〕にしてくれて車に乗った儘我々はこれから歩く予定の境内のroute全部を回ってくれたのである。感謝感激である!
 運転手曰く、「まず一番南の『光明院』でっしゃろ→直ぐ北に「六波羅門」ここから入って左手が「東司(とうす)(=便所)」、そして右手、これが【国宝】「三門」→「本堂(仏殿・法堂)」→「方丈」‥ここ(方丈八相庭園)見るんと「「通天橋」渡って「開山堂」行くんで別々に料金が要ります→「開山堂」から戻ったら最後が「日下門」から出て直ぐ左手、黒い車が止まっていまっしゃろ、それが『芬陀院(雪舟寺)』の入口ですワ」と。いやぁ‥、助かった。(感謝!)

【光明院】
 当寺は【東福寺】の塔頭の一つである。ここは何と言っても『波心庭』が圧巻である。
 昭和の庭づくり名人重森三玲(しげもりみれい)(1896-1975))作の枯山水庭園。「苔・石・白砂」の織り成す造形美が、昭和という「現代感覚」と「深み」「侘び」といった枯山水が持つ「歴史的な奥床しさ」と相俟って絶妙な調和を魅せてくれる。
 丁度この日は、京都産業大学茶道部がお茶会を催していた。このことも京都の風情と奥床しさを実感させてくれた。実に心地良い。

[11]光明院「波心庭」01
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–––––––––––––––––––––––––[12]同「同」02
 1202

【東福寺】
 光明院から北へ100m程の所に東福寺「六波羅門」が見えた。この門を潜ると眼前に日本最古の三門【国宝】「三門(←足利義持によって応永年間(1394-1428)に再建)」がデーンと建っていた。
 臨済宗大本山【東福寺】は、1236(嘉禎02)年、先の関白九條道家が氏寺法性寺内に伽藍建立を発願したことに始まる。
 寺名は奈良の東大寺と興福寺から一字ずつ取ったもの。開山は聖一(しょういち)国師(円爾弁円)で1243(寛元01)年に招聘。
 『方丈八相庭園』は、光明院『波心庭』と同じ重森三玲の代表作。方丈の四周が庭園なのは東福寺だけだという。
 「方丈」の次に向かったのが「通天橋」。ここの紅葉の素晴らしさは衆知の事実であるが、新緑の美しさも格別で、秋とはまた違った趣で見る者を魅了する。
 とは言うものの、小生まだ秋の素晴らしさを体験していない。死ぬ迄には紅葉で絶景の「通天橋」を是非見てみようと心に誓った。
 通天橋を渡ると開山堂〔常楽庵〕がある。

[13]東福寺【国宝】「三門」をbackに
 13back

–––––––––––––––––––––––––[14]方丈八相庭園の一つ「南庭」より方丈を望む
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[15]通天橋の欄干にて
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–––––––––––––––––––––––––[16]開山堂と普門院庭園
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[17]新緑の楓に覆われ煙るが如くの通天橋
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【芬陀院(雪舟寺)】
 「通天橋」を戻って「本堂」手前右手に見える「鐘楼」を超え右折すると「日下門」。そこを直進して80m行くと左手に東福寺の塔頭『芬陀院(雪舟寺)』がある。
 当院の南庭の「禅院式枯山水庭園」は画聖雪舟(1420-1506)築造とされ、1939(昭和14)年、重森三玲が復元修理し往時の面影を再現している。南庭に向かって左手が折鶴、右手が亀を表している。

[18]方丈より南庭を望む
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–––––––––––––––––––––––––[19]茶室「図南亭」から東庭を望む
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 芬陀院を後にして次はいよいよ今回の京都旅行も大詰め、最後の訪問地【泉涌寺】である。
 泉涌寺に向かうTAXIの車窓から左手〔東福寺からは北方〕を見ると「京都五山 萬壽禅寺」の石碑とその向こうに寺院の門が見えた。
 そうなのだ。これが京都五山の第5位『萬壽寺』なのである。現在では東福寺の塔頭になって非公開である。
 別格(最上位)「南禅寺」・第1位「天龍寺」・第2位「相国寺」・第3位「建仁寺」・第4位「東福寺」に次ぐ由緒ある臨済宗の寺院なのだ。しかし、東福寺までの上位5つの寺院の知名度の高さに比べると当寺の衰退ぶりは著しい。

[20]東福寺塔頭・萬壽(まんじゅ)(禅)寺
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【泉涌寺(せんにゅうじ)】
 当寺は、855(斉衡02)年、左大臣藤原緒嗣が建立した法輪寺に由来する。
 1218(建保06)年、開山の月輪(がちりん)大師(1166-1227)が大伽藍の造営を志し、1226(嘉禄02)年に主要伽藍が完成。
 泉涌寺の寺名は、寺地の一角から清泉が湧き出したこと由来し、現在も涌き続けている。
 1242(仁治03)年、四条天皇崩御の葬儀が当寺で営まれ、山陵が造営された。
 爾来、南北朝~幕末の孝明天皇に至る歴代天皇・皇后のご葬儀が当寺で執り行われた。
 これが当寺が【御寺(みてら)】と尊称される所以である。
 尚、当寺の「観音堂」には通称『楊貴妃観音』と言われる観音菩薩坐像が安置されている。この観音は1230(寛喜02)年、当寺僧・湛海によって中国の宋より将来された。唐の玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈り造像したと伝承される。
 解説していた若い僧侶が、「この観音堂にお参りした俳優の石田純一(1954.01-)氏が程なく、女子プロgolfer東尾理子(1975.11-)さんとの結婚が発表されたことから一層有名になった」と話していた。勿論、以上は余談。(笑)

[21]泉涌寺・仏殿[重文]
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–––––––––––––––––––––––––[22]御座所「庭園」
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[23]楊貴妃観音
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【龍尾神社】
 御寺・泉涌寺を出て乗ったTAXIの運転手が「今年は辰年。直ぐ近くにある【瀧尾神社】の龍が素晴らしいから寄って行きませんか?」と誘われ「じゃぁ、行こう!」ということに。案内には当社は昭和59年京都市指定有形文化財指定とあった。

[24]瀧尾神社の龍
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 この後TAXIで豊国神社駐車場に戻り帰途へ‥。楽しい二日間があっという間に過ぎた。
 ‥と「大団円」なる筈がそうならないのが小生の間抜けた処‥。(笑)
 駐車場についた小生、旅行の会計係も担当しているので、駐車場の目の前にある豊国神社社務所前でTAXIを降り精算をしていた時気がついた。「あっ、図録や絵葉書等のお土産を入れた袋をTAXIに入れた儘だ!」と。僅か2~3分のことだが、気がついた時にはTAXIは去った後だった。「しまった‥!」(汗)(' . ';;)
 同行の皆の協力を得て、仲間とみられる別のTAXIの運転手がいた涌泉寺のTAXI乗り場迄戻ってみたがその仲間と思しきTAXIも既にいなかった。
 仕方がないので再び豊国神社駐車場の社務所に戻り、「もし見つかったら連絡して下さい」と、小生の連絡先の住所・氏名・携帯電話番号を伝え帰途に。
 そうしたら、出発して二時間近く経った頃、携帯電話が鳴り豊国神社社務所から「忘れ物ですが参詣者が見つけてくれて届けてくれました」と連絡があった。「良かった!」と明るい気分に戻り帰途についた。
 後日談だが、当該忘れ物の土産類は翌々日着払いの宅配便で自宅に戻って来た。
 到着後、豊国神社社務所宛に御礼の手紙とお菓子を送ったが「日本もまだまだ捨てたものではない」と大変気持ちがいい気分になった。(了)

■続いては、国立新美術館にて07月16日まで開催中の『エルミタージュ美術館~世紀の顔』展の前《会報》の「後編」の模様をお伝えします。

[25]Pierre-Auguste Renoir『黒い服を着た婦人(Woman in Black)』1876年
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–––––––––––––––––––––––––[26]Paul Cezanne『カーテンのある静物(Still Life with a Curtain)』1894-95年
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[27]Paul Signac『マルセイユ港(Port of Marseilles)』1906-07年
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–––––––––––––––––––––––––[28]Henri Matisse『少女とチューリップ(Girl with Tulips)』1910年
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[29]Henri Matisse『赤い部屋(赤のハーモニー)(Red Room(Harmony in Red))』1908年
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–––––––––––––––––––––––––[30]Raoul Dufy『ドーヴィル港のヨット(Sailing-Boats in Deauville Harbour))』1936年頃
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【小生comment】
 前回と今回を比較すると、やはり今回の印象派以降の絵の方が明るく鮮やかな色彩が光っている。小生には今回の方が好きである。

■今日最後の話題は、「06月03日:ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団演奏会を聴いて」である。
 06月03日(日)の昼下がり、名古屋の愛知県芸術劇場concert hallにてパーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Jarvi)指揮フランクフルト放送交響楽団演奏会があり、【時習26回】の中嶋Y行君【3-2】と聴いて来ましたのでその模様を少しだけご紹介させて頂きます。
 曲目は、日系ドイツ人pianist アリス=紗良=オット(Alice Sara Ott)のpiano独奏で
 [1] リスト作曲 ピアノ協奏曲第1番変 歩長調 そして‥
 [2] マーラー作曲 交響曲第5番 嬰ハ短調 以上の2曲であった。
 Encore曲は、オットはベートーベン作曲の小品エリーゼの為に、楽団の方はブラームス作曲 Hungary舞曲第6番であった。
 いずれも見事な演奏であったが、出色は、マーラーの第5symphonyであった。
 特に第一楽章の冒頭のtrumpetの独奏から、第三楽章のスケルツォを中心に随所で聞かれる第1hornの名演が聴衆を魅了した。

[31]Alic Sara Ott & Paavo Jarvi & Frankfurt Radio Symphony Orchestra
 31alic_sara_ott_paavo_jarvi_frankfu

【小生comment】
 マーラーの交響曲第5番と言えば、第4楽章のアダージェットが映画「ベニスに死す」のBGMに使われて以来popular曲の様に有名になっているが、今日の第5symphonyは今迄聴いたことがない様な金管主導の骨太な作品であった。
 中嶋君共々「今日のマーラーの第五は最高の演奏だったネッ!」と興奮し乍ら帰途についた。

【後記】今日は、京都旅行の二日目の訪問地【東福寺】で詠んだ小生の拙い恋歌をご紹介してお別れします。

 【詞書】新緑が目に沁みる様に美しい【東福寺】の『通天橋』に佇むと、ふと愛しい女性のことが思い浮んだ‥

 新緑がいとど目に沁む通天橋 想ひ浮かべむ麗しき君  悟空

 ではまた‥。(了)

2012年6月 2日 (土)

【時習26回3-7の会 0396】~「05月26(土)~27(日):『京都旅行〔洛南・山科・東山編〕』〔前編〕」「05月28日:国立新美術館『大エルミタージュ美術館展~世紀の顔・西洋絵画の400年』を見て〔前編〕」

皆さん、今泉悟です。《会報》【0396】号をお届けします。
 今回は内容が豊富で添付写真も沢山なので、「京都旅行〔洛北・山科・東山編〕」&「国立新美術館『大エルミタージュ美術館展~世紀の顔・西洋絵画の400年』を見て」の2つ共に今回と次回の2回に分けてお伝えします。

■まず最初の話題『京都旅行〔洛北・山科・東山編〕』の〔前編〕です。
 前《会報》で予告しました様に、先週05月26日(金)~27日(日)の両日、時習26回の同期生、谷山K君【3-3】・中嶋Y行君【3-2】、そして彼等と城巡りの会の仲間で我等3人の城址巡りの師である青木さんと4人で、一泊二日の『京都旅行〔洛南・山科・東山編〕』に行って来ました。
 そこで今日はまず、以下に旅行二日間のうち初日26日(土)の行程をお示しした上で、その詳細の模様をご報告させて頂きます。

『旅行行程表』〔26日(土)〕
05:45発 中嶋宅
06:10発 今泉宅
06:15発 青木宅
06:30発 谷山宅
06:40発 東名・音羽蒲郡IC入
    伊勢湾岸自動車道〔経由〕
    東名阪自動車道〔経由〕
    新名神高速道路〔経由〕
    京滋bypass〔経由〕
    第二京阪道路・八幡IC出
    一般道路8.3km《今泉宅→酬恩庵=計204㎞》
09:30着 【酬恩庵(一休寺)】住所:京田辺市薪里ノ内102
10:20発 一般道路19.8km
11:05着 【伏見桃山城擬似天守閣】住所:京都市伏見区桃山町大蔵45
11:10発 一般道路4.9km
11:25着 【醍醐寺】京都市伏見区醍醐東大路町22
    ‥「昼食」【甘味 手打ち蕎麦しも村】
    ‥【上・下醍醐】のうち【下醍醐】五重塔・金堂・三宝院
13:00発 一般道路0.9km
13:05着 【醍醐天皇陵】住所:京都市伏見区醍醐古道
13:10発 一般道路0.7km
13:15着 【随心院】住所:京都市山科区小野御霊町35
13:50発 一般道路1.0km
13:55着 【勧修寺】住所:京都市山科区勧修寺仁王堂町27-6
14:30発 一般道路5.6km
14:50着 【石峰寺】住所:京都市伏見区深草石峰寺山町26
15:15発 一般道路1.1km
15:25着 【伏見稲荷大社】住所:京都市伏見区深草藪之内町68
16:05発 一般道路9.2km
16:30着 【毘沙門堂】住所:京都市山科区安朱稲荷山町18
17:00発 一般道路6.4km
17:35着 【いろは旅館】住所:京都市東山区三条通大橋東入大橋町84
    ‥「夕食」=外食‥3,500円

 ※ ※ ※ ※ ※

【酬恩庵(しゅうおんあん(一休寺))】
 当寺は京田辺市にある臨済宗大徳寺派寺院。
 正応年間(1288-1293)に南浦紹明(なんぽじょうみょう)が開山した妙勝寺が前身。本堂(法堂)は1429-41年にかけて将軍足利義教が建立。
 一休禅師が63歳の1456(康正02)年から88歳で死去する1481(文明13)年11月21日迄住んだ。
 この間、81歳で京都・大徳寺住職となった時もこの寺から通った。その時乗った輿が残されている。(添付写真[02])
 1650(慶安03)年に加賀藩三代藩主前田利常の寄進により、方丈を再建、庫裏・東司を新築、浴室・鐘楼を修復。
 その経緯を紐解くと‥、前田利常が1615(慶長20)年大坂夏の陣の際、大坂に向かう途中当寺に参詣。彼は一休禅師の筆なる多くの制法を見て感歎、崇敬の念を起こすと共に寺の荒廃を嘆き、利常36歳の時、当寺再興に乗り出した。
【小生comment】
 一休禅師は後小松天皇((1377-1433)北朝最後の第6代、歴代第100代天皇(在位:1382-1412))の皇子[宗純王]。この為、彼の墓は皇族として宮内庁管理となっており、扉にある紋章も皇室を示す菊花である(添付写真[01])。
 前田利常は、《会報》前号にてご紹介した加賀・越中・能登120万石藩主。彼のこうした振舞いを見ても彼が名君であることの一端が解る。
 この方丈には一休禅師が臨終の年に彫らせた自身の木造(添付写真[03])が安置されている。

[01]一休禅師のお墓の前にて
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––––––––––––––––––––––––[02]一休禅師が大徳寺との往復に利用した輿
 02

[03]一休禅師の木像
 03

––––––––––––––––––––––––[04]方丈の縁側にて
 04

[05]方丈庭園の一部
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––––––––––––––––––––––––[06]新緑が大変綺麗な参道
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【伏見桃山城擬似天守閣】
《伏見城の歴史》
 1592(文禄元)年 09月03日着工決定、豊臣秀吉が隠居城として指月の丘に初代伏見城「指月伏見城」を築城
 1596(慶長元)年 07月12~13日の大地震により倒壊。07月15日から二代目伏見城「木幡山伏見城」着工
 1597(慶長02)年 05月天守閣と殿舎竣工と同時に秀吉入城
 1598(慶長03)年 08月18日秀吉、この伏見城で死去
 1599(慶長04)年 正月豊臣秀頼大坂城へ移る 03月03日前田利家病死 03月10日石田三成を佐和山城へ追放
         03月13日徳川家康入城 09月徳川家康大阪城へ
 1600(慶長05)年 06月関ヶ原の戦の前哨戦で、西軍4万は伏見城に籠る鳥居元忠以下1800人を攻め08月01日に落城
         ‥鳥居元忠が切腹した床が翌日訪れる養源院の「地天井」
 1601(慶長06)年 03月徳川家康伏見城入城
 1602(慶長07)年 06月家康の命を受け藤堂高虎が普請奉行となり年末にはほぼ再建が成る
 1619(元和05)年 一国一城令に則り伏見城廃城決定
 1623(元和09)年 07月16日徳川家光が三代将軍宣下を最後に廃城
         遺構は二条城ほかに移築された‥翌日訪れた豊国神社「唐門」もその遺構の一つ
 1912(大正元)年 09月13日明治天皇09月14日に「木幡山伏見城」本丸跡地に埋葬‥「伏見桃山御陵」という
 1964(昭和39)年 伏見城花畑跡に遊園地「伏見桃山城castle land」が建設
         5重6階の大天守・4重5階の小天守他が作られた
 2003(平成15)年 経営母体近鉄が「伏見桃山castle land」を閉園の際、京都市に寄贈
         当該地区一帯を「伏見桃山城運動公園」として整備され現在に至る

[07]伏見桃山城疑似天守閣の前にて
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【小生comment】
 添付写真[07]の「伏見城疑似大・小天守閣」は、東京五輪が開催された1964年、近鉄が「伏見桃山castle land」という所謂theme parkをつくった際、その名の通りmain objetとして建てられたものである。
 伏見城疑似天守閣から南東300m程の所が「木幡山・伏見城本丸跡」であるが、そこは「明治天皇・昭憲皇太后」両陛下の御陵になっている為、当然陵内立入禁止となっている。
 因みに、平安京遷都をした桓武天皇の陵〔柏原陵〕が「伏見城疑似大小天守閣」の西方程近くにある。但し、桓武天皇柏原陵が真正の桓武天皇陵であるかどうか確認出来ていない。
 浅学な小生、恥ずかし乍ら、明治天皇・昭憲皇太后・桓武天皇の御陵がこの地にあることを旅行の後初めて知った。

【醍醐寺】
 3つ目の訪問先は【醍醐寺】である。
 参拝する前にまずは腹ごしらえということで、事前に調べておいたお寺のほぼ正面にある蕎麦屋【甘味 手打ち蕎麦しも村】に入った。
 今回の旅行は、同伴の3人の了解を得た上で食事代を節約、要はケチッたのである。(笑)
 京都の社寺仏閣は、その訪問件数も多く、拝観と駐車料金が嵩むことから旅費総額を抑えんが為である。
 当寺は、京都市伏見区醍醐東大路町に所在する真言宗醍醐派総本山。874(貞観16)年創建で、空海の孫弟子、理源大師聖宝が醍醐山を寺域(「上醍醐」)として開山。
 のち醍醐(885-930)・朱雀(923-952)・村上天皇(926-967)の天皇親政を美化した「延喜天暦の治(901-956)」の御代に大いに栄え、醍醐山麓一帯に大伽藍を形成(「下醍醐」と呼ぶ)。
 その後は、応仁の乱等で荒廃したが、1598年、秀吉が『醍醐の花見』を催した後再興され現在に至る。
 【国宝】『五重塔』は951(天暦05)年建立。
 また【国宝】唐門と【国宝】表書院がある『三宝院』の庭園は、国の特別史跡・特別名勝で豊臣秀吉が『醍醐の花見』に際し自ら設計。素晴らしい庭園である。また、奥宸殿には、修学院離宮・霞棚、桂離宮・桂棚と並び「天下の三大名棚」と称される『醍醐棚』がある。但し、今は非公開の為現物を見られなかったのは残念であった。
 今回の旅行では時間も限られている為、【上・下醍醐】のうち【下醍醐】のみの見学となった。上記以外の【国宝】としては『金堂』を見た。

[08]三方院庭園(撮影禁止の為図録より)
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––––––––––––––––––––––––[09]【国宝】三宝院・唐門
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[10]【国宝】五重塔をbackに
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––––––––––––––––––––––––[11]【国宝】金堂をbackに
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[12]林泉・弁天堂をbackに
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【醍醐天皇/後山科陵】
 次に我々は醍醐寺から北へ1km弱の所にある醍醐天皇陵に向かった。
 醍醐天皇は宇多天皇(867-931)の第一皇子。父の宇多天皇は「寛平(かんぴょう)の治」という天皇親政を布いた。宇多天皇は、臣籍降下した自分を践祚(887年)させた関白藤原基経が死んだ891(寛平03)年から摂関を置かず、菅原道真等を重用。菅原道真進言による遣唐使廃止は894(寛平06)年のことである。彼に続く醍醐天皇の御代も、醍醐天皇の二人の皇子(朱雀・村上両天皇)の御代と合わせ、前述の様に延喜天暦の治と後世から理想視されているが、実際は菅原道真が藤原時平に貶められた昌泰(しょうたい)の変(901(昌泰04)年))がある等、道真の怨霊に悩まされつつも藤原氏が摂関政治へ着々と足場固めていった時代である。以上は余談。

[13]醍醐天皇 後山科陵
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【随心院】
 醍醐天皇陵から西へ3~400m程の所に、百人一首で有名な小野小町縁(ゆかり)の寺『随心院』がある。
 当寺は、真言宗善通寺派大本山。空海より八代目の弟子、仁海僧正が開基。
 住所は京都市山科区、その名も『小野御霊町』という。
 系図集『尊卑分脈』によれば小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とも、また篁の娘という説もあるが定かでない。
 百人一首で言うと‥

  [11] わたの原八十島かけてこぎいでぬと 人にはつげよあまのつり舟  小野篁(802-853)

  [09] 花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに  小野小町

[14]随心院本堂から庭園を望む
 14

【勧修寺】
 随心院から西北西へ1km行くと『勧修寺(「かじゅうじ」と読む)』がある。
 当寺は、真言宗山階派大本山。開基は醍醐天皇。醍醐天皇が生母藤原胤子追善の為、胤子の異母兄弟藤原定方に命じて建立。
 定方と胤子の父は藤原高藤(838-900)。高藤は藤原北家藤原冬嗣(775-826)の孫、良門の次男。高藤の諡号をとって勧修寺と号した。
 また高藤と宮道列子のromanceが『今昔物語』にあり、概略は次の通り。
 ※※
 高藤は、鷹狩りが好きで山科に来ていた折、雨宿りした家の娘、宮道列子に一目惚れ。一夜の契を結んだ。6年後二人は再会を果たすが、その際、二人の娘胤子を知る。後年この娘が宇多天皇の女御となり醍醐天皇の生母となった。
 ※※
[15]勧修寺庭園と観音堂
 15

  [25] 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな  三条右大臣(藤原定方(872-932))

【石峰寺】
 勧修寺から更に西へ数キロ行くと、『石峰寺(せきほうじ)』である。
 百丈山石峰寺は、宝永年間(1704-11)黄檗宗第六世賜紫千呆(せんがい)禅師により建立。
 また当寺は、鶏画では彼の右に出る者はいないと言われた江戸中期の画家「伊藤若冲(1716-1800)」が晩年草庵を結んだ。彼の墓と裏山の竹林に彼が下絵を描いた五百羅漢がある。
 本堂の写真(添付写真[16])にある勾欄(こうらん(手すり))や扉にある『卍崩し』は、龍宮門と共に黄檗宗独特のもの)

[16]石峰寺本堂と本尊の薬師如来像
 16

––––––––––––––––––––––––[17]伊藤若冲が下絵を書き石工に彫らせた石仏群「五百羅漢」
 17

【伏見稲荷大社】
 石峰寺から北西へ1km行った所に伏見稲荷大社がある。
 いつでも行ける、いつかは訪れたいと思い、これまで一度も訪ねたことがなかった神社である。
 和銅年間(708-715)に始まる秦氏縁の神社。主祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)。
 稲荷神を祀る日本全国4万社の稲荷神社の総本宮。
 有名な「千本鳥居」は今も毎年増え続けており5千本を下らないという。全部見ると2時間かかるというので途中で引き返した。

[18]本殿前にて(向かって右手は外拝殿の柵)
 18

––––––––––––––––––––––––[19]千本鳥居にて
 19

【毘沙門堂】
 さて、京都旅行初日の最後の訪問地は『毘沙門堂』である。
 16時半に到着。17:00閉門なので何とか間に合った。(笑)
 当寺は、青蓮院・三千院・妙法院・曼殊院と並ぶ、天台宗五門跡(=京都五箇室門跡)の一つ。因みに「門跡寺院」とは、皇族・摂関家の貴族が住職を務める特定の寺院。即ち寺の格式が極めて高い。
 創建は大宝03(703)年文武天皇の勅願で僧行基が開山。
 当寺は、山科第一の名刹で『勅使坂』の紅葉はJR東海『そうだ 京都 行こう』」で一躍有名になった。
 ある意味ミーハーである小生、2009年11月23日に訪れた『光明寺』(【2637の会 0266】参照)同様、是非訪れて見たかった寺院であり、それが実現出来てとても嬉しかった。(笑) こうなると秋の紅葉の『勅使坂』も見てみたいものである。
 回遊式庭園「晩翠園」も落ち着いた佇まいで美しかった。

[20]晩翠園
 20

––––––––––––––––––––––––[21]『勅使坂』の新緑の楓をbackに
 21back

 17時10分過ぎに毘沙門堂を後にした我等は、一般道路を西へ6~7km走り、三条京阪にある『いろは旅館』へ。
【いろは旅館】
 17時半少し前に到着。

[22]いろは旅館の正面玄関
 22

 この旅館は、修学旅行中心に営業している為、三条京阪という京都のド真ん中にあっても、宿泊料金は、一泊朝食付で@8,400円という格安料金である。因みに夕食を付けると7000円upとなって仕舞うが‥。
 旅館に隣接して駐車場があり、『駐車料金』は一泊翌日10時迄の出庫で2,500円。この他、旅館から徒歩5分の所に24時間1,500円の契約駐車場がある。
 食事代を節約したい我等4人は、安価な居酒屋を探しに三条京阪の街に繰り出した‥。(了)

■続いては、05月28日東京出張の帰り、国立新美術館にて07月16日まで開催中の『大エルミタージュ美術館(State Hermitage Museum)展~世紀の顔』展を見て来ましたので、その模様をお伝えします。
 いい絵が沢山あるので、《会報》では今回=前編〔印象派より前]と次回=後編〔印象派以降〕の2回に分けてご紹介します。
 帝政Russiaの首都サンクトペテルブルク(St.Petersburg)にある当美術館は、総数300万点を超える所蔵品を誇る世界有数の美術館である。本展では、その所蔵絵画から16世紀~20世紀を代表する西洋絵画の秀作を紹介している。
 因みに、東京展の後、07月28日~09月30日:名古屋市美術館、10月10日~12月06日:京都市美術館で開催されます。
 早速そのmasterpiecesの幾つかをご覧下さい。

[23]ルーベンス(Rubens)『虹のある風景(Landscape with a Rainbow)』1632-35年
 23rubenslandscape_with_a_rainbow163

––––––––––––––––––––––––[24]アンソニー ヴァン ダイク(Anthony van Dyck)『自画像』1622-23年
 24_anthony_van_dyck162223

[25]エリザベト=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(Elisabeth-Louise Vigee-Lebrun)『自画像(Self=Portrait)』1800年
 25elisabethlouise_vigeelebrunselfpo

––––––––––––––––––––––––[26]アンゲリカ・カウフマン(Angelica Kauffman)『自画像(Self-Portrait)』1780-1787年
 26angelica_kauffmanselfportrait1780

【後記】今日は、谷山君・中嶋君等との『京都旅行』で立ち寄った、山科・毘沙門堂「勅使坂」で詠んだ俳句をご紹介してお別れしたいと思います。

【詞書】山科・毘沙門堂「勅使坂」の若楓の新緑の美しさは紅葉に負けない位の美しさであった。その美しさに感動して詠める‥

 山科に君爽やかや若楓  悟空

 ではまた‥。(了)

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