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2012年12月の4件の記事

2012年12月30日 (日)

【時習26回3-7の会 0426】~「12月22日:メナード美術館『collection名作展Ⅰ』を見て」「12月22日:『小牧山と小牧市歴史館〔小牧(山)城〕』に訪れて」「12月26日:documentary映画『父をめぐる旅‥異才の日本画家・中村正義の生涯‥』&12月29日:豊橋市美術博物館所蔵品展『中村正義をめぐって』を見て」

■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0426】号をお送りします。
 明日は大晦日。2012年もあっと言う間に過ぎ去ろうとしています。一年経つのが年を追う毎に本当に早く感じられますね。
 ここ二三日は寒さが緩み過ごし易い日が続いていますが、明日辺りからまた寒波がやって来る様ですので、ご自愛下さい。

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■さて2012年最後の話題も絵画展を中心にお届けした今年を締め括りたいと思います。
 まず最初は、掲題副題の通り、去る12月22日、メナード美術館『collection名作展Ⅰ』を見て来ましたのでその模様から‥。

[01]メナード美術館『collection名作展Ⅰ』leaflet
 01collectionleaflet

 日本画家20名25点、日本洋画家15名15点、彫刻・工芸06名07点、そして、特集展示「島田章三(11点)と島田鮎子(07点)‥二人で歩んだ50年‥」の全65点が並んだ。
 その中から幾つかをご紹介する。

[02]橋本明治『銀扇』1969年
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––––––––––––––––––––––––[03]片岡球子『面構十三人衆内・日蓮上人』1978年
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[04]東山魁夷『叢篁』1957年
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––––––––––––––––––––––––[05]東山魁夷『雲立つ嶺』1976年
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[06]杉山寧『昊(こう)』1975年
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––––––––––––––––––––––––[07]吉田善彦『斑鳩春宵』1983年
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[08]『白い襟のある』1980年
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––––––––––––––––––––––––[09]平川敏夫『春秋』1975年
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[10]平山郁夫『紫宮観望』1976年
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––––––––––––––––––––––––[11]中島千波(1945-)『神代櫻』1986年
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[12]山口薫『鳥と娘と矢羽の譜』1960年
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––––––––––––––––––––––––[13]金山康喜(1926-1959)『壜のある風景』1950年頃
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[14]島田章三『カフェにて』1969年
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––––––––––––––––––––––––[15]島田鮎子『ユリ』2007年
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【小生comment】
 名画は同じものを何回見てもいつも魅せられる。そして、いつも新しい発見や感動がある。ときめきすら感じる時がある、恰も初恋の様な‥。
 今回の新しい発見の一つは、33歳という若さで亡くなった金山康喜((かなやま やすき)1926-1959)の添付写真[13]『壜のある風景』である。彼の作品は具象画と抽象画の微妙な混じり具合が高く評価されている。確かに写実的である様でない様な、でも抽象画でもない。それでいて見る者を虜にする。
 金山康喜は大阪生れ。1945年、東京帝国大学経済学部に入学後、猪熊弦一郎の純粋美術研究所で絵画を学ぶ。1950年の新制作協会展示作品で新作家賞受章。1951年渡仏。サロン・ドートンヌ等に出品し1953年、パリ国立近代美術館に作品が買い上げられる等、日仏両国でその才能を嘱望されたが、帰国後急逝。
 また添付写真[09]の平川敏夫(1924-2006)は、豊川市小坂井町生れの郷土を代表する日本画家。後述する中村正義(1924-1977)との出会いによって本格的に日本画制作を開始。

■続いては、メナード美術館から西へ数百米行くと、戦国時代の1584(天正12)年に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた小牧・長久手(長湫)の合戦で徳川・織田側の居城となった小牧(山)城がある。小生、まだ一度も登ったことがなかったので訪れてみた。
 史跡「小牧山」の歴史について、小牧市歴史館〔現・小牧(山)城〕leafletに次の様に紹介されている。因みに、小牧山は標高86m。

 1563(永禄06)年、織田信長は小牧山に築城し、清州から居城を移した。小牧山が城として利用されるのはこの時が初めてである。〔中略〕
 1567(永禄10)年、信長は美濃稲葉山城を攻略して岐阜城と名を改め居城を移した。これにより小牧山城は廃城となった。
 1584(天正12)年、小牧長久手の合戦が起こると、徳川家康と織田信雄(のぶかつ)の軍勢は、信長の城跡に大規模な改修を行った。〔中略〕
 江戸時代は尾張藩、明治時代は尾張徳川家の手厚い保護を受け、昭和05年徳川家から小牧市へ寄贈され現在に至っている。
 更に、現在の小牧城は、名古屋市在住の実業家、平松茂氏が私財を投じて1967年建築、小牧市へ寄贈されたものである。

[16]小牧山城と小牧市歴史館leaflet
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––––––––––––––––––––––––[17]小牧(山)城(小牧市歴史館)
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[18]小牧(山)城から長久手古戦場遠望(写真ほぼ中央)
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■今年の《会報》は、郷土豊橋が生んだ日本画の鬼才「中村正義」で締め括りたいと思います。ここ数日間に中村正義のdocumentary映画『父をめぐる旅‥異才の日本画家・中村正義の生涯‥』と豊橋市美術博物館所蔵品展『中村正義をめぐって』を見て来ましたのでその模様を作品をご覧に入れ乍らご紹介したいと思います。
 尚、2011年に名古屋市美術館にて開催された「中村正義展」については、《会報》【0366】&【0367】号にて詳細をご紹介していますので以下のURLをclickしてご覧下さい。

 【0366】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/26-03662637-par.html
 【0367】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/26-03672637-par.html

[19]中村正義documentary映画『父をめぐる旅』leaflet
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 映画『父をめぐる旅』は、中村正義氏の長女中村倫子さんが、数奇な日本画家としての52年という短い人生を正に燃え尽くす様に駆け抜けた父「中村正義」が歩んだ軌跡を訪ねるdocumentaryである。
 20代で結核を患い、後年癌を発症。彼の52年の生涯は、日本画の旧勢力からの圧迫・妨害との闘いでもあった。自らの信念を曲げず、死と向き合い乍ら「真の創造」を探求し続けた男であった。
 今回の豊橋市美術博物館で開催中の「中村正義展」の展示作品は総て同館所蔵品である。

[20]中村正義の長女中村倫子さん
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 中村倫子さんは、現在、川崎市麻生区在住で、「中村正義の美術館」を経営している。昭和31年生れなので、我々より一つ下。中村正義は大正13年生れ。丁度、小生の親父と同い年である。
 尚、12月26日の映画は、昼の部14時00分と夜の部19時00分からの上映であった。
 小生は夜の部を見た。
 映写直前に、豊橋市美術博物館友の会会長宮田正人氏、本映画の共同監督の近藤正典氏、武重邦夫氏、そして中村倫子氏の4人が挨拶に立った。

[21]中村正義の絵画をめぐる旅‥1初期作品1940~50年代前半
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 作品は上段中央左から時計回りに「自画像1940年」「豊橋の街1947年」「華1951年」「谿泉(けいせん)1950年」「斜陽1946年」
 「斜陽」は、戦後間もなく(1946年)中村正義が22歳の時、日本画の泰斗中村岳陵の画塾に入門すると、直ぐ様頭角を現し、同年本作を「日展」に初出品し初入選を果たす。以後1952年迄ほぼ毎年入選。1950年「谿泉」、1952年「女人」では特選に選ばれている。

[22]中村正義の絵画をめぐる旅‥2作家としての確立1950年代後半
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 上段:「建築中の家1957年」、下段左より「女(赤い舞妓)1957年」「舞妓(白い舞妓)1958年」「舞子(黒い舞妓)1959年」
 1952年より結核による長い療養生活を余儀なくされた。
 1957年、健康を回復すると「舞妓三部作」を世に出し、新進気鋭の日本画家として注目を集める。

[23]中村正義の絵画をめぐる旅‥3新たな日本画への挑戦1960年代
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 1961年、中村岳陵の画塾、日展から脱退。以後、新たな日本画への挑戦を始める。
 日展の古い体質を批判。爾来、師、中村岳陵から手痛い仕打ちを受け、不遇な時代を続ける。
 左上「舞妓1963年」、左上の右隣「戦1964年」、左下「瀟湘八景1964年」
 右上「男と女1963年」、右下左「三島由紀夫像1968年」、右下右「薔薇1968年」

[24]中村正義の絵画を巡る旅‥4太陽と月のseries1969年&5更なる絵画研究1970年代前半
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––––––––––––––––––––––––[25]中村正義の絵画をめぐる旅‥5更なる絵画研究1970年代前半(その2)
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 奇抜な色彩と図柄の絵が多く作り出される中で、1969年に銀座三越で開催された個展「太陽と月のシリーズ」では、極めてrealな写真的表現で終始された風景画が披露された。
 開催二日間で出品作品が完売となる盛況となり、これにより中村正義は不遇時代を脱した。しかし、以後正義は何故かこのstyleを封印して仕舞う。
 この銀座三越での個展について、今月市内のとある会で同席したN(1930-)さんは、この時の模様を次の様に小生に語ってくれた。
 「中村正義は、実力のない人物の絵を師匠の中村岳陵が日展入選させるべく賛成票を入れる様強要することに反発し、画塾や日展を脱退した」
 「その後は、中村岳陵から彼の息の掛かる画商等に中村正義の絵を買わない様に徹底されたので、正義は本当に生活に困っていた」
 「そこで、画廊に伝(つて)のある私は、銀座三越での個展を開ける様尽力してあげたら大盛況、彼は本当に喜んでいたワ」。
 「太陽と月series」の絵は実に素晴らしい風景画である。中村正義の天才画家としての実力の程が窺われる。
 左上「雪景色1969年」、左下「樹間1969年」
 1967年、直腸癌を手術する。爾来、中村正義は「死」を意識した絵を描き続ける。表現は内省の度合いを強めていく。
 中「舞妓之画1968年」、右上「舞妓1973年」、右下「舞妓の画1973年」

[26]中村正義の絵画をめぐる旅‥6晩年1974~77年
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 1975年、癌の再発により体調悪化。正義は最期迄絵筆を執り続けた。「ピエロ」「うしろの人」は晩年の代表作。
 左「何処へいく1974年」、中上「ピエロ1975年」、中下「おそれB1974-75年」、右上「うしろの人1972-77年」

 ※ ※ ※ ※ ※

[27]豊橋美術博物館収蔵品展『中村正義をめぐって』leaflet
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––––––––––––––––––––––––[28]中村正義・星野眞吾・高畑郁子
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 星野眞吾(1923-1997)と中村正義は生涯の親友。星野が中学校の帰り道、自転車の荷台に油絵具を見た中村正義が「絵を見てくれ」と言って星野に墨絵を差し出したことが二人の出会いとなり、以来交流が続いたという。
 星野と高畑郁子は夫婦。高畑(1929-)は、豊橋高等女学校で小生の亡母(1931-2004)や先述のNさんと同期同窓。
 父が終戦により復員後間もなくの頃、新美術家協会という画家の団体に一時期加盟していた頃のepisodeを以下にご紹介する。
 1946年の日展で入選した「斜陽」を展示。親父も2点出品したという。
 その時の想い出を今日語ってくれた。親父曰く‥
 「中村正義は着流しの和服にボロの鞄を肩から下げて颯爽と現れた」。
 「その作品展では、当時豊橋高等女学校から豊橋東高校に変わり同校三年の在校生だった高畑郁子の作品「薔薇」が展示会で入選したのだが、彼女の高校の美術家教師であった石川新一の作品が選から漏れたってことが印象的な記憶として残っている」。

[29]森緑翠・大森運夫(かずお)・平川敏夫
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––––––––––––––––––––––––[30]中村岳陵『流紋』1939年
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[31]我妻碧宇((あづまへきう)1904-70)『山ゆたかに』1943年
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 我妻は、中村岳陵の画塾蒼野社塾頭を務めた日本画の実力派。1961年に森緑翠、中村正義と共に蒼野社を
退き、日展からも離脱した。以後、白士会を結成。

[32]森緑翠(1917-99)『こども』1947年
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––––––––––––––––––––––––[33]大森運夫(おおもり かずお(1917-))『蘭春』1979年
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[34]星野眞吾『終曲』1975年
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––––––––––––––––––––––––[35]星野眞吾『白い一輪』1977年〔←本作品はメナード美術館所蔵品〕
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[36]高畑郁子『浄界』1978年
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 ※ ※ ※ ※ ※

 余談になるが、豊橋市美術博物館所蔵作品集をみていたら、我々が高校時代にお世話になった、美術科の朝倉勝治先生や朝倉先生の前任の美術科教師冨安昌也先生の作品も掲載されていたのでご紹介した。いずれの絵も流石に上手ですね‥。(^^
 更には、小生の大好きな三岸節子の作品も掲載されていたので併せてご紹介する。
 そして、最後は余興ですが、親父が終戦復員後、新美術家協会時代(‥と思われる‥)に描いた自画像(sizeは8号/油彩画)をご紹介してお別れします。

[37]朝倉勝治『小路にて』1976年
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––––––––––––––––––––––––[38]冨安昌也(1918-)『モスタルの道具屋』1991年
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[39]三岸節子(1905-99)『グァディスの家』1988年
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––––––––––––––––––––––––[40]父「讓」のportrait1946年頃
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 それでは皆さん、良いお年をお迎え下さい。また来年‥!(^-')b‥ (了)

2012年12月23日 (日)

【時習26回3-7の会 0425】~「12月09日:山口蓬春記念館『山口蓬春が辿った日本画の世界』展を見て」「12月16日:『時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会関連~豊橋支部・情報&会計幹事引継』について」

■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0425】号をお送りします。
 二三日温かい日があったかと思えば急に寒さの厳しい日が続く今日この頃、全国的にノロウィルスも流行しています。
 皆さんお変わりありませんでしょうか。精々御自愛下さい。

■さて今日最初の話題は、掲題副題の通り、前《会報》にてご報告した12月08(土)~09(日)にかけて『山中城址&三浦半島の歴史文化遺産巡り』した二日目結果的に最後の訪問地となった三浦郡葉山町にある山口蓬春記念館の『山口蓬春が辿った日本画の世界』展についてご報告致します。
 山口蓬春記念館がある葉山町は、鎌倉市から南へ10㎞弱の所に位置する。県道207号線を挟んで南側(‥一色海岸寄り‥)に神奈川県立近代美術館葉山館、北側の大峰山(標高148m)の南山麓に山口蓬春記念館が在る。因みに、同記念館から県道207号線沿いに東南東へ800m程行くと葉山御用邸が在る。

 山口蓬春の略歴を以下に記す。
【略歴】
1893(明治26)年 10月15日北海道松前郡松城町(現・松前市)に生まれる(本名は山口三郎)
1903(明治33)年 (07歳)父(=日本銀行社員)の勤務に伴い上京
1913(大正02)年 (20歳)03月高輪中学校卒業
1914(大正03)年 (21歳)10月父死去
1915(大正04)年 (22歳)04月東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科入学、10月《晩春》第09回文展にて二等首席
1918(大正07)年 (25歳)09月同校日本画科へ転科〔専科→入学後、本科へ〕
1923(大正12)年 (30歳)03月同科を首席で卒業
1924(大正13)年 (31歳)04月師・松岡映丘主宰の第04回新興大和絵会展~10回展迄出品〔同会は1031(昭和06)年02月に解散〕
1926(大正15)年 (33歳)11月《三熊野の那智の御山》が第07回帝展(=帝国美術院展覧会)で特選・帝国美術院賞受賞=宮内庁買上げ、12月斎藤春子と結婚
1929(昭和04)年 (36歳)09月第10回帝展審査員〔‥この頃、師・松岡映丘と袂を分かつ‥〕
1930(昭和05)年 (37歳)07月福田平八郎、中村岳陵、木村荘八、中川紀元、牧野虎雄、横川毅一郎、外狩顕章らと六潮(りくちょう)会を結成
1935(昭和10)年 (42歳)06月帝展・参与、09月松岡映丘を盟主とする国画院が創立、同人として参加、12月帝展・参与を辞退、国画院からも脱退
1938(昭和13)年 (45歳)03月師・松岡映丘死去
1946(昭和21)年 (53歳)09月第2回日展(=日本美術展覧会)の審査員〔以後、毎年の様に日展審査員を務める〕
1948(昭和23)年 (55歳)03月神奈川県葉山町一色三ヶ岡〔現・山口蓬春記念館所在地〕に転居
1950(昭和25)年 (57歳)日展運営会参事、12月日本芸術院会員
1954(昭和29)年 (61歳)05月日展運営会理事
1958(昭和33)年 (65歳)03月日展常務理事
1965(昭和40)年 (72歳)文化勲章受章、文化功労者
1969(昭和44)年 (76歳)日展顧問
1971(昭和46)年 (77歳)05月31日、肝臓障害の為逝去、06月09日築地本願寺にて告別式〔葬儀委員長:吉田五十八〕

【小生comment】
 山口蓬春は、小生が最も好きな日本画家の一人である。
 何故彼の作品が大好きかというと、彼の絵は、日本画と西洋画の良い点が昇華している様に小生には見えるからだ。
 小生が好きな彼の作品は、戦後の昭和22年の作品『山湖』以降の作品である。
 その頃の作品群の中では、『榻上(とうじょう)の花』1949年、『夏の印象』1940年、『青沼新秋』1954年、『紫陽花』1959年等は実に素晴らしい。
 「西洋画の様な明るさと色彩」「同じく西洋画が持つ現代的な感覚が迸(ほとばし)る様に訴えかけて来る構図の巧みさ」に、「東洋的な神秘性」が程良くblendされ、
「洗練されたmodernism」が融合して高貴な香しい香りを放っている。実に素晴らしい作品群であると思う。
 この山口蓬春のoriginalityが『蓬春モダニズム(modernism)』として世に知られている。
 以下、その『蓬春modernism』の代表作の幾つかをご紹介したいと思う。ご覧下さい。
 尚、今回は「大和絵」画家としての作品群は割愛した。

[01]山口蓬春‥葉山の画室にて
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––––––––––––––––––––––––[02]『結婚した頃の山口蓬春(左)・春子夫人(右)』1926年頃
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[03]伊豆にて(前列右から加藤栄三、山口春子、山口蓬春、加藤夫人、橋本夫人、髙山夫人、東山夫人、後列右
から橋本明治、髙山辰雄、東山魁夷、杉山寧、入江相政、杉山夫人)1955年
 031955

––––––––––––––––––––––––[04]同『榻上の花』1949年
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[05]同『果子』1949年
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––––––––––––––––––––––––[06]同『夏の印象』1950年
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[07]同『浜』1950年
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––––––––––––––––––––––––[08]同『秋茄子』1951年
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[09]同『卓上』1952年
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––––––––––––––––––––––––[10]同『望郷』1953年
 101953

[11]同『青沼新秋』1954年
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––––––––––––––––––––––––[12]同『盤中濤』1955年
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[13]同『まり藻と花』1955年
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––––––––––––––––––––––––[14]同『鰊とピーマン』1955年
 141955

[15]同『冬菜』1955年
 151955

––––––––––––––––––––––––[16]同『向日葵』1955年
 161955

[17]同『枇杷』1956年
 171956

––––––––––––––––––––––––[18]同『籠中春花』1956年
 181956

[19]同『遼三彩鉢と果物』1956年
 191956

––––––––––––––––––––––––[20]同『梅』1956年
 201956

[21]同『オランダ皿の静物』1957年
 211957

––––––––––––––––––––––––[22]同『百合』1957年
 221957

[23]同『芍薬』1957年
 231957

––––––––––––––––––––––––[24]同『紫陽花』1959年
 241959

[25]同『静物』1961年
 251961

––––––––––––––––––––––––[26]同『洩るヽ陽』1961年
 261961

[27]同『花菖蒲』1962年
 271962

––––––––––––––––––––––––[28]同『新冬』1962年
 281962

[29]同『夏影』1963年
 291963

––––––––––––––––––––––––[30]同『夏』1965年
 301965

[31]同『瓶花』1965年
 311965

––––––––––––––––––––––––[32]同『庭』1965年
 321965

[33]同『菊花』1966年
 331966

––––––––––––––––––––––––[34]同『瓶花』1967年
 341967

[35]同『楓(皇居新宮殿(4分の1下絵))』1967年
 35411967

––––––––––––––––––––––––[36]同『首夏』1967年
 361967

[37]同『瓶花』1969年
 371969

––––––––––––––––––––––––[38]同『陽に展(ひら)く』1968年
 381968

[39]同『瓶花』1970年
 391970

––––––––––––––––––––––––[40]同『静物』1971年
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■続いては、今週初の12月16日13時00分から【2637の会】《クラス会》の会場となっているトライアゲインにて『時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会関連~豊橋支部・情報&会計幹事引継』を開催しましたので、その模様についてご報告致します。
 出席予定者の四人〔新・情報&会計担当幹事の水藤T詳君【3-6】、旧・同左の黒柳M利君【3-6】、そして、中嶋Y行君【3-2】と小生〕がほぼ定刻に集合。
終了予定時間の15時20分迄、忌憚のない引継等の歓談を行いました。

 前任の黒柳君【名古屋支部幹事】から後任の水藤君への引継は、まず黒柳君が保持している学年同期会に関する各種の「情報」の伝達を彼のPCからUBSにcopyして水藤君に渡して形式的には終了した。
 が、その中身は、一つひとつ引継をするとそれだけで何日も要して仕舞う程多いのに吃驚した。
 それから「会計」については、黒柳君の話に拠ると、前回の卒業35周年記念旅行では、実務的には名古屋支部幹事の平田N子さん【3-5】が中心となって切り盛りしてくれたという。
 また、情報発信は、e-mailがある人にはe-mailで、ない人には郵送で案内を出状したが、その案内状の文面は大谷A代さん【3-6】が具体的に考えてくれた。
 この様に、名古屋支部&豊橋支部幹事の面々〔‥とくに有力な女性陣‥〕が協力し合って準備していった過程を色々教えて貰った。
 今回の卒業40周年記念旅行兼懇親会についても、豊橋支部幹事の有力女性陣に色々教えて貰い乍ら進めて行きたい。
 そこで、01月26日の『豊橋四分幹事会』の前に、12月16日の「引継」membersに、平田さんと大谷さんを加えた6人で今一度事前の打合せの会を開催しようと思っている。

[41]トライアゲインに集まった4人の記念写真01
 4120121206264001

––––––––––––––––––––––––[42]同上02
 4220121206264002

 ではまた‥。(了)

2012年12月16日 (日)

【時習26回3-7の会 0424】~「12月08~09日:『変人会2012秋季旅行‥山中城跡&三浦半島の歴史文化遺産巡り』実施報告」

■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0424】号をお送りします。
 今年は時節通りの気候ですね。今正に時節は『大雪』。地元豊橋でも10日は雪がちらつきました。
 皆さんお元気でお暮らしでしょうか。

■さて今日最初の話題は、掲題副題の通り、先週末の12月08(土)~09(日)にかけて、中嶋良行君【3-2】、谷山健君【3-3】と城巡りの仲間で先生でもある青木さんと4人で2012年秋期旅行『山中城址&三浦半島の歴史文化遺産巡り』をして来ましたのでご報告致します。
 先ずは、二日間の「行程表」をご覧下さい。

【初日】12月08日(土)
05時45分 中嶋宅発→11.1km〔移動時間20分〕
06時05分 青木〔中岩田3丁目〕宅発→1.7km〔同05分〕
06時10分 今泉宅発→9.5km〔同20分〕t
06時30分 谷山宅発→9.5km〔同20分〕
06時50分 東名高速・豊川IC→新東名178㎞〔長泉沼津IC経由高速道路料金(‥休日特別割引‥1,950円÷4(人)=@500円〕‥@費用累計@500円‥〔移動時間02時間30分(含む15分のトイレ休憩)〕

[01]東名高速道路「由比ヶ浜PA」から見た富士山
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 天気は快晴。空気も澄んでいるが風が肌を切る様に冷たい。
 添付写真の通り、富士山は山頂付近が雲に隠れて見えず残念であった。
 地上から見ても山頂付近の雲が結構早く動いているのが見えたので、風がかなり強いことが窺えた。

09時10分 山中城址着〔散策45分〕
09時55分 同上発→98㎞〔移動時間1時間30分〕〔小田原厚木道路・箱根口IC~横浜横須賀道路・堀口能見台IC高速道路料金(‥休日特別割引‥)1,250円÷4(人)=@315円〕‥@費用累計815円

[02]『山中城址』全景の案内看板
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––––––––––––––––––––––––[03]障子掘りをbackに01
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[04]障子掘りをbackに02
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 北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。永禄年間年間(1558-70年)に北条氏康により築城。北条氏の居城小田原城の西の防衛を担う最重要拠点。北条氏政の代に改修。1590(天正18)年、小田原征伐で豊臣軍7万が北条軍4千を半日で落とした。合戦後、廃城。
 1930(昭和05)年、国史跡に指定。1973(昭和48)年より三島市が公園として整備を開始。2006(平成18)年、日本100名城に選定された。
 小生以外の3人は、過去に1~3回見た経験がある。が、今回訪れて「これ程整備され立派な公園になったとは知らなかった」と感想を述べていた。
 「障子掘り」というお堀りがなかなか立派であった。

11時25分 神奈川県立『金沢文庫』〔滞在時間15分:入館料@250円(但し駐車料金無料)〕‥@費用累計1,065円‥
11時40分 同上発→〔徒歩01分〕→『称名寺』着〔散策20分(仁王門・庭園)拝観料無料:但し本堂拝観不可〕
12時00分 同上発→10㎞〔移動時間25分〕

 二番目の訪問地は、金沢文庫である。
 これは、鎌倉幕府有力御家人北条(金澤)実時が建てた私的図書館。実時は、第2代執権北条義時の五男(‥金澤流北条氏の祖‥)実泰の嫡男。
 第3代顕時、第4代顕貞、第5代貞将(さだゆき)と続く。4代顕時はごく短期だが第15代執権にも就いている。
 金沢文庫に隣接した寺院が「称名寺」。金澤流北条氏の菩提寺である。
 同寺には、国宝・金澤北条氏〔実時・顕時・顕貞・貞将〕の肖像画がある。
 訪れた日の丁度一週間前迄、金沢文庫でその企画展が催されていた。見られなかったのは大変残念である。
 称名寺の「本堂」「〔浄土式〕庭園」「仁王門」の佇まいはとても美しかった。

[05]神奈川県立金澤文庫入口にて
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––––––––––––––––––––––––[06]「金沢文庫」から「称名寺」へ入った処‥浄土式庭園と本堂をbackに
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[07]称名寺「庭園」と「本堂」の前にて
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––––––––––––––––––––––––[08]本堂前から「仁王門」の前にて
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 次に向かった史跡は、横須賀市内塚山公園にある「按針塚」。近くを通っている京浜急行電鉄本線に同名の駅まであるので直ぐに見つかると近く迄行ったのだが、結局見つからなかった。
 「按針」とは、勿論、三浦按針(William Adams(1564-1620))のこと。英国人で徳川家康の外交顧問を務めた。没したのはこの地ではなく、平戸である。

12時25分 県立塚山公園・三浦按針塚〔滞在(写真撮影等)05分〕
12時30分 同上発→7.3km〔移動時間20分〕

 当初予定時間を過ぎて仕舞ったので、「按針塚」探索を切り上げ、昼食場所への向かった。

12時50分 リパーク横須賀中央〔=駐車場〕着〔200円/30分‥90分以内〕‥600円÷4(人)=@150円〕‥@費用累計1,215円
12時55分 同上発→0.4㎞〔徒歩:移動時間10分〕

 駐車場として予定していたリパーク横須賀中央には停まらず、(恐らくその近くであろう)駐車場に車を停め、そこから徒歩で数分の「三笠商店街」にある「中華:オ―ダ―式 食べ放題朝廷 横須賀中央店」に入った。
 Lunchの麻婆豆腐(=小生@680円)と回鍋肉(ホイコーロー(=青木・谷山・青木@780円))を食べた。
 食した全員が「これは美味い!」と絶賛!

[09]昼食の麻婆豆腐
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13時05分 「中華:オ―ダ―式 食べ放題朝廷 横須賀中央店」着〔滞在時間55分:昼食代@1,000円〕‥@費用累計2,215円‥

 駐車場に戻り、そこから1km弱の所にある「記念館三笠」がある三笠公園へ向かった。
 公園は、米軍横須賀基地の南東に隣接して在る。
 「記念館三笠」は、1905年05月27日、帝国Russiaとの日本海大会戦に勝利した連合艦隊旗艦、戦艦「三笠(15,140トン)」を大正1926年11月記念館として現地に保存。因みに、戦艦「三笠」は英国製。1898年に発注、1900年進水。1902年05月横須賀港着。1903年12月連合艦隊旗艦〔司令長官中将東郷平八郎〕。
 記念館「三笠」に実際に乗船〔‥と言っても、横須賀港の海岸沿いの陸地に埋め込まれているのであるが‥〕してみて感じたことは、思ったより小さいことだ。
 この旗艦「三笠」に乗ると、当時Asiaの弱小国であった日本が日本海大会戦で記録的大勝利を収め世界の一等国になったという矜持が湧いて来た。
 中嶋君は、「今回の旅行は此処へ来ただけでも大きな意義がある。45分程度の観覧時間ではとても見切れない。また必ず見に来るよ!」と感動による興奮を隠せない様子だった。

14時00分 同上発→0.9㎞〔移動時間05分〕
14時05分 三笠公園着(駐車場料金400円/60分+200円/30分‥400円÷4(人)=@100円‥①)→記念館「三笠」観覧:料金@500円②〔滞在時間40分〕‥①②込‥@費用累計2,815円‥

[10]記念館「三笠」全景 
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––––––––––––––––––––––––[11]「三笠」上甲板の「東城征太郎『「三笠」艦橋の図』の絵をbackに
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[12]上甲板・艦首側の主砲
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14時45分 同上発→9.1km〔移動時間25分〕
15時10分 久里浜:ヤマダ電機・テックランド久里浜店駐車場〔駐車料金:利用者無料〕着→0.4km〔徒歩移動時間05分〕
15時15分 ベリー公園着→「ペリー記念館・記念碑」観覧:料金無料〔滞在時間20分:閉館16時30分〕

 「記念館三笠」を後にした我々は、同じ横須賀市になる久里浜の「ペリー公園」内にある『ペリー記念館』訪れた。
 「ペリー記念館」は、ペリー来航と開国の歴史を広く伝える為に横須賀市市制80周年を記念して1987年建設。
 「ペリー公園」には、この他「ペリー上陸記念碑」(1901年米友協会が建立)がある。
 1953年07月08日(嘉永06年06月03日)浦賀沖にペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794.04.10–1858.03.4)提督率いる四隻の黒船が突然姿を現した。
 因みに四隻の名前は、「サスケハナ」「ミシシッピー」「プリマス」「サラトガ」。
 ペリー提督一行は、07月14日、この地「久里浜」に上陸した。
 そして、翌1854(嘉永07)年日米和親条約が締結され、215年間の鎖国時代は終わった。

 太平の 眠ねむりをさます じょうきせん たった四(し)はいで 夜も寝られず

【解説】4隻の黒船(うち2隻が「蒸気船」)に民衆は大変驚き、上喜撰(お茶の銘柄)にかけた当時の狂歌

[13]ペリー記念館の前にて
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––––––––––––––––––––––––[14]ペリー上陸記念碑の前にて
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 ペリー公園を後にした我等は東北東に進路を取り、少し「記念館三笠」ほぼ行程表通りに浦賀港へ向かった。
 浦賀には1720年浦賀奉行所が設置された。1853年のペリー来航地はこの浦賀とされる。
 1860年には咸臨丸がこの浦賀港より出港し、太平洋を横断した。

15時35分 同上発→0.4km〔徒歩移動時間05分〕
15時40分 ヤマダ電機・テックスランド久里浜店発→2.4km〔移動時間05分〕
15時45分 浦賀病院前着→徒歩50m〔滞在時間10分:浦賀湾撮影〕
 
[15]浦賀病院前から浦賀港を望む
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 浦賀奉行所跡は、この浦賀病院から程近い所にある筈だが、探している時間もなかった為諦め、次の訪問地「観音崎灯台」へ車を進めた。

15時55分 同上発→5.4km〔移動時間15分〕
16時10分 観音崎灯台着〔駐車場料金520円÷4(人)=@130円①、灯台@150円②〕〔滞在時間30分〕‥①②込‥@費用累計3,095円‥

 観音崎灯台のある観音崎公園は、浦賀港から更に5km余り北東にある。
 時計は行程表とほぼ同じ16時15分過ぎであった。
 公園駐車場から徒歩15分程歩き、灯台に着いたのが丁度16時半。
 灯台の観覧時間(16時00分)を疾(と)うに過ぎており、残念乍ら内部の様子は見られなかった。
 この灯台は「おいら岬の灯台守は‥」の歌で知られる。日本で建てられた最初の西洋式灯台。
 明治新政府はFrance人技師に依頼し、1869(明治02)年正月元旦に点灯の初日を迎えた。
 初代灯台は老朽化により1922年に取り壊し、翌1923年03月2代目の灯台が再建されたが同年09月の関東大震災で崩壊。
 その後3代目の灯台が建築され、1925年06月より今日迄使用されている。但し、1989年05月より遠隔監視に切換えられ無人化された。

[16]観音崎灯台の前にて
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 師走だけあって日が短い。灯台を後にした16時40分過ぎにはかなり夕闇が迫って来た。
 灯台を後にした我等は、宿泊予定地の「ホテル京急油壺観潮荘」へ向かった。
 観音崎からは西北西へ24km、三浦半島を横断する恰好になる。
 そしてホテル京急油壺観潮荘は、北に小網代(こあじろ)湾、南に油壺湾に挟まれた半島の中程に在る。

16時40分 同上発→25km〔移動時間45分〕
17時25分 ホテル京急油壺観潮荘着〔宿泊〕

[17]ホテル京急観潮荘の夕食「マグロづくし」
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【二日目】12月09日(日)
〔宿泊料金@13,800(税・サ込)〕‥@費用累計16,895円‥

[18]大浴場にある野天風呂‥正面が小網代湾:撮影時間が午前05時50分と日の出01時間前の為真っ暗‥
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––––––––––––––––––––––––[19]ホテル宴会場からは小網代湾が一望出来る
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[20]ホテル宴会場での朝食‥渡り蟹の汁は絶品!‥
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09時10分 ホテル発→1.0㎞〔移動時間02分〕
09時15分 永昌寺着〔滞在時間10分〕

 三浦半島は、古代『日本書紀』では「御浦」と記されている。
 中世には頼朝の挙兵に従った桓武平氏平良文の末裔三浦氏の領国であった。三浦氏は北条時頼の時代の1247(宝治元)年「宝治(ほうじ)合戦」により宗家は滅亡。以後半島北部の街道沿いは北条氏の領地となり、北条氏側に付き三浦の家名を継承した傍系(佐原氏)は、後に戦国時代に小大名化。扇谷上杉氏の被官となるが、伊豆の(後・)北条早雲が相模国に勢力を拡大して、1516年に三浦氏を攻めるために玉縄城を築き、籠城した三浦義同(よしあつ(1451?-1516))・三浦義意(よしおき(1496-1516))父子を住吉城から新井城に攻めて滅亡させた。
 因みに、爾来、三浦半島は後北条氏の領地の後、江戸時代は天領。徳川吉宗の時代に浦賀奉行所を設置。
 永昌寺は、三浦義同が開基。荒廃していた康安寺を1504年再建。義同の法名から永昌寺とした。
 現存する永昌寺は後世の建築で歴史的価値は乏しく、実際に同寺を訪れたが、外から見た同寺は何の変哲もない様に見えた。
 そこで我々は、直ぐに次の目的地城ケ島へ向かった。

10時00分 同上発→4.4㎞〔移動時間10分〕
10時00分 城ケ島・白秋記念館着〔記念館(10:00開館、駐車場&入館料無料)&城ケ島海岸散策60分〕

 昨日から三浦半島は風が強かったが、城ケ島の風の強さは半端でなかった。天候は晴れなのだが、正に暴風である。
 城ケ島に到着した我等は、白秋記念館近くの無料駐車場へ向かうつもりだったが、navigatorの小生が誤ってcar navigationの目的地に「(県立)城ケ島公園」を設定した為に440円の駐車料金を支払う羽目に‥。
 公園の門を潜ると暫く防風林の松林が続き、その先に展望台があった。其処から太平洋を眺望したが、此処の風が正に暴風である。
 小生、この『疾風怒濤』を前にして、正に『Strum und Drang(シュトルム・ウント・ドランク)』という言葉を思い出した。18世紀後半、ゲーテやシラーを中心に起こった文学上の革新運動のことだが、これは丁度明治30~40年代の我国文学界でも当て嵌ると思う。勿論、白秋もその活躍した文学青年の一人であることは言うまでもない。
 記念写真を撮ったがご覧の通り、横殴りの暴風の為皆立っているのがやっとという状態であった。

[21]県立城ケ島公園内の展望台にて‥凄い暴風であった‥
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––––––––––––––––––––––––[22]白波が岩礁にぶつかる様が迫力満点の城ケ島海岸
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 城ケ島公園駐車場を後にして数百m北へ戻った。「(北原)白秋記念館」は城ケ島大橋の袂にあった。
 詩人・北原白秋(1885.01.25-1942.11.02)は、この島を歌った「城ケ島の雨」の歌を以下のURLで聴いてみて下さい。
 詩に出て来る「利休鼠」とは「抹茶色が加わった灰色」で、実際はこんな色である。

[23]利休鼠
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  城ヶ島の雨

 雨がふるふる 城ケ島の磯に
 利休鼠の雨がふる
 雨は眞珠か 夜明の霧か
 それともわたしの忍び泣き

 船はゆくゆく通り矢のはなを
 濡れて帆あげたぬしの船

 ええ、舟は櫓でやる 櫓は唄でやる
 唄は船頭さんの心意氣

 雨はふるふる 日はうす曇る

 舟はゆくゆく 帆がかすむ

 利休鼠(色)は、抹茶色が入った鼠色(=灰色)。
 流石は白秋、「利休鼠色した雨が降っている‥」という言い方は上手い‥。

 http://www.youtube.com/watch?v=cyWTy-Y081s ←ここをclickして下さい。
 因みに作曲は梁田貞(やなだ ただし(てい))1885.07.03-1959.05.09)である。

1909(明治42)年(24歳) 01月『スバル』創刊に参加。03月処女詩集『邪宗門』刊。年末に実家が破産、一時帰郷

 どくだみの 花のにほひを 思ふとき 青みて迫る 君のまなざし〔『スバル』1909年〕

1910(明治43)年(25歳) 02月牛込新小川町に転居。『屋上庭園』二号発禁、廃刊に。松下俊子の隣家に転居
1911(明治44)年(26歳) 06月第二詩集『思ひ出』刊、一躍文名は高まる。10月小田原に転居。11月『朱欒(ザンボア)』創刊
1912(明治45)年(27歳) 02月母と弟妹を東京に呼び寄せ浅草聖天横町に同居。05月京橋越前堀に転居。06月三木露風と『朱欒』を特集。松下俊子との苦恋絶頂に至る。07月俊子の(別居中の)夫から告訴され、市ヶ谷未決監に二週間収監される。08月無罪免訴される。年末に父長太郎上京
 以下の歌は、白秋が俊子との関係が深まる直前に詠まれたと言われるが、上記の様に「スバル」に酷似した歌が既につくられていた。
 「どくだみの花が放つ独特の臭みある匂ひ」と「青みて迫る君の眼差し」の連関が尋常でない男女の恋愛であることを容易に想像出来る。

 どくだみの 花のにほひを 思ふとき 青みて迫る 君がまなざし〔『桐の花』1913年〕

1913(大正02)年(28歳) 01月02日、自殺も考え公田連太郎を訪ねて三浦半島の三崎町へ渡り二週間滞在。処女歌集『桐の花』刊。04月前夫を離婚した福島俊子と結婚。05月俊子と三崎向ケ崎に転居。07月詩集『東京景物詩及其他』刊。父と弟が事業に失敗し白秋夫婦を残して東京へ転居。『城ヶ島の雨』はこの頃の作品。『朱欒』廃刊。因みに、萩原朔太郎、室生犀星の詩壇debutは『朱欒』に負う処が大きい

 ― 白秋の城ヶ島 ― と言われる程、城ヶ島は白秋によってその総てが歌われ、その名を天下に響かせた。「城ヶ島の雨」はその中でも代表作である。〔中略〕この舟歌の作曲者に指定された梁田貞(やなだただし(てい))が、白秋からの詩の到着を待っている。〔中略〕〔‥野上飛雲『北原白秋/その三崎時代(抄)』より‥〕
 10月28日詩が完成。10月30日東京有楽座音楽会にて作曲者梁田貞の独唱で発表された。

1914(大正03)年(29歳) 肺結核に罹患した俊子療養為に小笠原父島に移住するが程無く帰京。父母と同居するが俊子折合い悪く離婚。09月『地上巡礼』創刊。『真珠抄』刊。12月『白金之独楽』刊。また『地上巡礼』創刊。
1915(大正04)年(30歳) 01月前橋に萩原朔太郎を訪う。04月弟鉄雄と阿蘭陀書房を創立、雑誌『ARS』を創刊。05月『わすれなぐさ』、08月歌集『雲母(きらら)集』刊。
1916(大正05)年(31歳) 05月江口章子(あやこ)と結婚、千葉県葛飾群真間(まま)に転居。07月南葛飾郡小岩村三谷(さんや)に転居。10月『白秋小品』刊。
1917(大正06)年(32歳) 阿蘭陀書房を手放した後再び弟鉄雄と出版社アルス創立。妹家子、画家山本鼎と結婚
1920(大正09)年(35歳) 妻章子と離婚
1921(大正10)年(36歳) 佐藤菊子と結婚
1942(昭和17)年(57歳) 02月腎臓病・糖尿病が悪化し慶応病院に入院。11月02日逝去。12月多摩墓地に埋骨

[24]明治37年10月:早稲田の同級生「三水(左より射水(白秋の雅号)、中村蘇水、若山牧水)」
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––––––––––––––––––––––––[25]北原白州自らが筆を染めた『城ヶ島の雨』の一節‥詩碑より‥
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[26]左上:白秋詩碑と富士山、左下:『雲母(きらら)集』函装幀画、右:池内義豊画『「城ヶ島の雨」原曲表紙(1921年刊)
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––––––––––––––––––––––––[27]左右共に‥北原白秋『雲母集』自筆による挿絵
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[28]1915(大正04)年01月13日、萩原朔太郎(左)の招きに応じて前橋を訪れた白秋(中)、右:尾山 篤二郎(おやま とくじろう 1889-1963)
 281915040113_18891963

––––––––––––––––––––––––[29]白秋の「城ヶ島の雨」詩碑にて
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 ここで我等一行にhappeningが起こった。
 この「城ヶ島の雨」詩碑で記念撮影をしようとした時、谷山君が折からの強風に煽られて転倒。仰向けに転び腰の上の背中を岩に強打して仕舞ったのだ。
 彼は暫く起き上がれなかった。その後起き上がってからは苦痛と戦っている様子で、医者の中嶋君が色々と問診の様なことをずっと続け乍らの旅となった。

11時00分 白秋記念館発→20㎞〔移動時間35分〕
11時35分 葉山町・蕎麦処『成穂』〔神奈川県三浦郡葉山町木古庭243〕〔lunch平均@1,250円〕‥@費用累計18,145円‥

 ほぼ予定通り『成穂』にて昼食の十割蕎麦を食した。美味であった。

[30]『成穂』‥当店自慢の「十割蕎麦」
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12時25分 同上発→8.1km〔移動時間25分〕

 山口蓬春記念館は、神奈川県立近代美術館のからほど近く、道路を隔たてた北側の山の斜面を7~80m登った所にあった。
 一色海岸もこの日は波が大変荒く、恰も東山魁夷の唐招提寺壁画の様な美しい波濤を見せてくれた。

[31]山口蓬春記念館近くの一色海岸の波濤
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––––––––––––––––––––––––[32]山口蓬春記念館二階の旧画室
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[33]同じく旧画室外の廊下から一色海岸遠望
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––––––––––––––––––––––––[34]山口蓬春記念館の庭にて中嶋君と
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 当記念館は、山口蓬春が昭和23年から昭和46年に亡くなる迄の23年間、この葉山の地を終の棲家として画業に励んだという。
 背中が痛い谷山君は、「駐車場で待っている」ということで3人で記念館を訪れた。
 当記念館は、平成02年JR東海〔‥JR東日本ではない(為念)‥〕生涯学習財団が山口家より所蔵作品の提供を受け、翌平成03年10月「山口蓬春記念館」として開館し今日に至っている。
 二階の居室〔=旧画室〕からは一色海岸がよく見える。

12時50分 山口蓬春記念館着〔滞在時間50分〕〔『山口蓬春が辿った日本画の世界』展、入館料@500円〕‥@費用累計18,645円‥
13時40分 同上発→8.6km〔移動時間25分〕
14時05分 鎌倉駅駐車場〔東急ストア駐車場:300円/30分‥→1,200円÷4(人)=@300円〕‥@費用累計18,945円‥

 ここからTAXIか江ノ島電鉄で由比ヶ浜迄乗り「鎌倉文学館」を目指そうとしたが、谷山君が苦痛な様子で歩けないという。
 同行した3人も「今回の旅行はここまで!」と、帰宅することを即決した。近くの薬屋で痛み止めの経口剤と湿布薬を買い、医師中嶋君の指示に従い応急手当をして家路を急いだ。
 鎌倉での観光名所の訪問をしなかったが、結局豊橋へ戻った時間は当初予定時間と殆ど変わらなかった。
 費用も当初計画した予算額に、これも初日のhappening〔‥小田原厚木道路で制限速度70km/hの処、94km/hの24km超のspeed違反で、反則金15,000円を4人で分担した3,750円‥〕による負担増が想定外であったこと位であった。

14時17分 「鎌倉駅(鎌4:鎌倉山ゆき)」発→〔TAXI(1.6km)710円‥@180〕‥@費用累計19,125円‥
14時35分 鎌倉文学館着〔企画展『生誕820年/源実朝~くりかえしよみがえる歌』展:入館料@400円:滞在時間50分〕‥@費用累計19,525円‥
15時25分 同上発→徒歩04分→‥
15時36分 「長谷」駅発→〔江ノ島電鉄(3駅)@190円〕→‥@費用累計19,715円‥
15時46分 「鎌倉駅」着→徒歩03分→‥
15時55分 鎌倉東急駐車場発→256km〔移動時間04時間30分(含む:15分トイレ休憩&35分の夕食時間)〕
〔新湘南bypass・藤沢IC~東名高速道路・豊川IC高速道路料金(‥休日特別割引料金‥)2,850円÷4(人)=@715円〕‥@費用累計@20,430円‥〕
〔‥夕食代は各自負担‥〕
〔‥gasoline代‥総走行距離600km÷10㎞/L=60L×@150円=9,000円÷4(人)=2,250円〕‥【 @費用総計22,680円 】‥
20時30分 東名高速道路・豊川IC着
20時45分 谷山宅着
20時50分 青木〔瓦町〕宅着
20時55分 今泉宅着
21時15分 中嶋宅着〔了〕

【小生comment】
 後日談であるが、谷山君の怪我は本人に確認した処、経過も良好で日常生活に支障がなくなったと聞き、一安心した。

 尚、容量の関係で添付写真は、[04][08][11][13][16][22][28][34][35]以外は割愛した。割愛した絵は、末尾記載のURLをclickして是非blogをご覧下さい。

【後記】山口蓬春記念館の絵画の模様については、次号《会報》にてご紹介させて頂く予定です。お楽しみに‥。

 昨日12月15日に、次男が通っている河合塾豊橋校にて父兄との三者面談に行って来た。いよいよ来月19(土)~20(日)がセンター入試である。
 その面談を廊下で待っていた時、掲示板に我等が母校、時習館高等学校の案内が掲示してあった。
 その中の一角に、平成25年04月から採用される新しい制服が紹介されていた。
 咄嗟に、スマホのcameraにて撮影した写真が以下の添付写真である。

[35]時習館高等学校の新制服〔平成25年04月より〕
 352504

 対象写真が小さかったからか、何回撮影してもどうしてもpintが合わず綺麗に撮れなかった。
 女子生徒の制服は、現行とあまり変わっていない様に感じた。男子生徒は女子生徒と同じ色の濃紺のsuitである。
 パッと見て、「なかなかいい感じだ」というのが小生の正直な感想であった。
 皆さんはどう思われますか?

 ではまた‥。(了)

2012年12月 7日 (金)

【時習26回3-7の会 0423】~「12月01~02日:時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会『pre-現地視察‥京都旅行』実施報告」「12月01日:京都市美術館『須田国太郎展/没後50周年に顧みる』を見て」「菊池真『円安恐慌』を読んで」

■今泉悟です。皆さん如何お過ごしですか。さぁ、今日も【2637の会】《会報》【0423】号をお送りします。

 今日12月07日は『大雪(たいせつ)』。
 今週初からめっきり冬らしく寒さが厳しくなって来ました。
 皆さんお変わりございませんか。

■さて今日最初の話題は、掲題副題の通り、先週末の12月01(土)~02(日)にかけて、中嶋Y行君【3-2】と:「時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会『pre-現地視察‥京都旅行』」に入って来ました。
 今日は、その実施報告からお伝えします。
 先ず、二日間の「行程表」をご覧下さい。

〔初日〕
07時00分 中嶋宅発→11.1㎞〔移動時間20分〕 
07時20分 今泉宅発→195㎞〔03時間30分(含むトイレ休憩20分)〕・〔東名→新名神→名神〕高速道路料金@2,400円÷2=1,200円/@費用累計1,200円
 〔新名神高速道路の「四日市JCT~鈴鹿IC」の渋滞の為、当初予定より40分程度行程が遅れた〕

11時05分 金閣寺着〔駐車料金500円÷2=@250円・拝観料@400円・拝観時間09時00分~/滞在時間予定45分(実際は20分)〕@費用累計1,850円
●[01]金閣寺(「舎利殿」)をbackに‥中嶋君‥
 01back

11時25分 同上発→7.2km〔移動時間20分〕

11時45分 岡崎公園駐車場着
11時50分 同上発→徒歩〔移動時間02分〕
12時30分 京都市美術館〔須田国太郎展:拝観料@1,000円・滞在時間予定45分(実際40分)〕@費用累計2,850円
●[02]京都市美術館の前にて‥小生‥
 02

12時35分 同上発→徒歩〔移動時間02分〕

12時40分 平安神宮着〔〔神苑拝観料@600円〕滞在時間予定30分(実際25分)〕@費用累計3,450円
●[03]平安神宮境内から『応天門』遠望‥小生‥
 03

13時05分 同上発→徒歩〔移動時間02分〕
 〔40分の遅れを、京都市美術館と平安神宮で調整、『菊水』には予定時間に到着〕
13時10分 岡崎公園駐車場着〔駐車料金(02時間以内:900円÷2=@450円)〕/発→0.8km〔移動時間03分〕@3,900円

13時15分 料理・旅館『菊水』着〔食事料金@3,500円/滞在時間60分〕@7,400円
●[04]料理旅館『菊水』入口
 04

14時15分 同上発→2.7km〔移動時間10分〕

14時20分 高台寺着〔拝観料@600円/駐車料金@500円/60分÷2=@250円〕〔滞在時間45分〕@累計費用8,250円
●[05]紅葉に染まる『高台寺』庭園
 05

15時05分 高台寺発→2.2km〔移動時間07分〕

15時20分 清水五条駅周辺駐車場〔タイムズ京阪清水五条駅前駐車場〕着
15時25分 清水五条駅着〔15:32,42,52〕発
15時32分 同上発→3.5km〔料金@150円/移動時間03分〕@費用合計8,400円

15時35分 京阪本線・東福寺駅着
15時45分 東福寺・日下門着→通天橋へ〔拝観料@400円←16時00分拝観受付終了〕
〔滞在時間予定60分(実際25分)〕@費用累計8,800円
●[06]東福寺『通天橋』をbackに‥小生‥
 06back

 ここで一句‥
' 
 小雪(しょうせつ)に
  紅葉(もみじ)輝く
   通天橋(つうてんきょう)
'
        悟空

【意】時節は冬‥『小雪』である‥しかし‥
 ここ東福寺『通天橋』では紅葉が山肌を真っ赤な絨毯の如く覆い尽くして輝いていた‥

16時10分 東福寺発→徒歩0.1㎞〔移動時間02分〕
16時15分 東福寺塔頭『光明院』着〔滞在時間35分〕
●[07]東福寺塔頭『光明院』森重三玲作庭の庭園をbackに‥中嶋君‥
 07back

16時50分 同上発→徒歩07分
16時53分 東福寺駅発〔16時30分:東福寺閉門〕

16時43分 京阪本線・東福寺〔16:33,43,53, 17:03〕発→3.5km〔料金@150円/移動時間03分〕@費用累計8,950円
16時46分 清水五条駅着〔タイムズ京阪清水五条駅前駐車場@200円/30分(→2時間以内)‥800円÷2=@400円〕@費用累計9,350円
16時55分 料理・旅館『鶴清』着&宿泊〔駐車場20台/無料〕

〔二日目〕
〔料理・旅館『鶴清』宿泊料金@19,000円(但し、酒代は含まず)〕@費用累計28,350

●[08]料理旅館『鶴清』宴会場‥舞台‥
 08

––––––––––––––––––––––––●[09]料理旅館『鶴清』宴会場‥下座‥
 09

07時45分 『鶴清』発→10.5㎞〔移動時間30分〕

08時20分 天龍寺・駐車場着/発→0.2㎞〔移動時間05分〕〔駐車場料金1,000円÷2=@500円〕@費用累計28,850円
08時30分 天龍寺着〔開門:08時30分/拝観料(本堂&庭園)@600円/滞在時間40分〕@費用累計29,450円
●[10]天龍寺「庭園」をbackに‥中嶋君‥

10back

 09時10分 天龍寺発→TAXI1.6km〔移動時間05分/710円÷2=@355円〕@費用累計29,805円

09時15分 大覚寺着〔拝観料@500円〕〔滞在時間40分〕@費用累計30,305円
●[11]大覚寺・五大堂から白・桃・黄・朱色の花の「嵯峨菊」越しに初冬の『大沢の池』を見る
 11

 ここで小生、先週ご紹介した藤原公任の短歌を想い出し、本歌取りの一首が浮かんだ。

 滝の音は名こそ流れて聞こゆると 想ひ浮かびぬ大澤の池  悟空

【意】昔この有名な滝があり、その名だけは今でもずっと流れ伝わって来ている‥という大納言公任(きんとう)の歌を想い出した
 正にこの大覚寺の大澤の池をみて‥

09時55分 同上発→徒歩2.3km〔移動時間40分〕

10時35分 渡月橋着〔散策20分〕
11時00分 渡月亭・松風着〔昼食開店:11時00分~ 昼食料金〔(3780円+3,150円)÷2=@3,465円〕@費用累計33,770円
●[12]渡月亭「松風閣」‥窓の外は「桂川(保津川)と船のりば」
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––––––––––––––––––––––––●[13]渡月亭「日帰りランチ」3,150円(税込)
 133150

      ‥渡月亭は「松風」「秀山」「碧川」と3舎あるが、「松風」からの眺望がbest‥
11時50分 渡月亭発→〔移動時間30分〕
12時20分 タイムズ京阪清水五条駅駐車場着/発→徒歩1.0km〔移動時間20分〕

12時40分 六波羅蜜寺着〔拝観料〔宝物館@500円(境内のみは無料)〕/滞在時間30分〕@費用累計34,270円
●[14]六波羅蜜寺・国宝:本尊『観世音菩薩尊像』
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 本尊の国宝『観世音菩薩尊像』は、通常は秘仏で、12年に一度、辰年の秋の一ヶ月だけ開帳される。
 本年11月03日~12月05日が、その開帳期間であり、その尊像を今回拝むことが出来た。嬉しいことである。

13時10分 同上発→徒歩〔移動時間20分〕

13時30分 タイムズ京阪清水五条駐車場着〔駐車料金200円/30分‥600円÷2=@300円〕・発/@費用累計34,570円
13時35分 京都リッチホテル着
13時45分 同上発→〔移動時間02分〕
13時50分 ホテルサンルート京都着
14時00分 同上発→190km〔移動時間03時間30分(含むトイレ休憩20分)〕
      ・〔名神→東名〕高速道路料金@2,400円÷2=1,200円/【 @費用累計35,770円 】
17時10分 今泉宅着
17時30分 中島宅着

【小生comment】
 天候にも恵まれ、『pre-現地視察‥京都旅行』は収穫が多く成功裏に終わった。
 この二日間で得た諸々の情報を分析して、来月に開催を予定している「時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会」『豊橋支部幹事会』に諮るつもりである。
 当該支部幹事会では、具体的に「行程表」も提示して、幹事各氏から意見を頂戴して「幹事案」を取り纏めたいと思っている。
 そして、「案」が固まったら、来年の5月中~下旬に、豊橋支部幹事と目的地『京都』がお膝元となる関西支部の有志の皆さんと、具体的に『現地視察‥京都旅行』を敢行するつもりでいる。勿論、その時は、大人数ではないので、貸切busではなく自家用車2~3台での旅行をimageしている。

 尚、要領の関係で添付写真は、[01][04][05][06][08][10][12]以外は割愛した。割愛した絵は、末尾記載のURLをclickして是非blogをご覧下さい。

■続いては、掲題・副題にある様に12月01日、旅行の最中に、京都市美術館にて開催中であった『須田国太郎』展を見て来ましたので、その模様をお伝えします。
 洋画家須田国太郎(1891-1961)は、京都帝国大学で美学・美術史を学び、並行して関西美術院でdessinを学んだ。その後、Spainに留学し、Venezia派の色彩理論や、baroque絵画の明暗法を研究している。同時にまた、欧州各地を訪ね歩き、西洋絵画の底に流れるrealismの表現の研究に努め、更に、最新の芸術思潮を吸収することにも積極的であった。
 帰国後は、西洋絵画を基礎にし乍ら、日本独自の油彩画を生み出そうと努力を重ね、その成果は独立美術協会展を中心に発表されていった。
 〔以上、主催者「あいさつ」より抜粋〕

【小生comment】
 小生、比較的最近知ったことであるが、須田国太郎氏の長男が須田寛(1931-)JR東海現相談役(初代社長・前会長)である。
 その須田寛氏が、「追憶」と題して本展図録に寄稿している。その一部を紹介してみたい。

 〔前略〕子供乍ら気がついたことは、父の作品制作には長い時間がかかること、しかもその過程は画くことと消すことの繰り返しだということでした。父は大変な蔵書家でした。しかも専門の美術書だけでなく、生物学、解剖学、鉱物学、化学、哲学、歴史文学等、広い分野に及んでいました。制作に当たってまずこの中から関係の書物を捲り始めます。メモをとったり図版を写したりして参考資料を整えるのです。
 その上で現地でsketchして来た下絵やsketch bookを座右に並べてから絵筆をとるのです。例えば動植物の絵を描くにも動物園、植物園に行って何冊もsketch bookに下絵を描くと共に生物学の本を読み、その図録を開いてそれ等を見つめ乍ら描き進めるのです。更に私達素人が見るとほぼ完成と思われる様になった絵(そこ迄何日もかかって描いて来た)を、突然黒絵具を布に染み込ませて塗り付け、消し潰して仕舞うのです。原形を留めない程塗り潰された様な画布に向かい合って又絵筆を取り直し少しずつ元の前の絵の上に新しく描き起こしていきました。気に入らぬと又黒や青で消し直すこともありました。この様にして〔中略〕何度か絵具を塗り重ねる様にして漸く出来上がるのです。従って30~50号の絵になると完成に一月位かかることもありました。最初の明るい色調の絵が暗い重い色調の絵になっていきました。〔後略〕

 須田国太郎の作品は、確かに茶色と黒が主体で全体的に暗いので、小生も初めて彼の作品を見た時は好きになれなかった。
 が、何回も彼の作品を見る様になると、構図・dessinの素晴らしさに魅了される。それから、色調(color)もジックリ見ていると、深遠な味わいが作品から匂い立つ様に見えて来るから不思議である。
 以下、幾つかの作品をご紹介したい。

 ただ要領の関係で[24][35]以外は全てblogをご覧下さい。

[15]南禅寺草川町の画室の須田国太郎
 15

––––––––––––––––––––––––[16]須田国太郎『八坂の塔』1915年
 161915

[17]須田国太郎『ルイザ・バルバラ(Ruisa Barbara)』1922年
 17ruisa_barbara1922

––––––––––––––––––––––––[18]須田国太郎『愛宕山頂より』1934年
 181934

[19]須田国太郎『三輪の山なみ』1935-61年
 19193561

––––––––––––––––––––––––[20]須田国太郎『風景(浜田)』1953年頃
 201953

[21]須田国太郎『夜桜』1941年
 211941

––––––––––––––––––––––––[22]須田国太郎『冬の空』1942年
 221942

[23]須田国太郎『工場地帯』1936年
 231936

––––––––––––––––––––––––[24]須田国太郎『紅薔薇』1942年
 241942

[25]須田国太郎『鷲』1943年
 251943

––––––––––––––––––––––––[26]須田国太郎『麦』1947年
 261947

[27]須田国太郎『黒鶴』1948年
 271948

––––––––––––––––––––––––[28]須田国太郎『犬』1950年
 281950

[29]須田国太郎『バラとアザミ』1951年
 291951

––––––––––––––––––––––––[30]須田国太郎『るりみつどり』1956年
 301956

[31]須田国太郎『偶感』1958年
 311958

––––––––––––––––––––––––[32]須田国太郎『東山トンネル』1934年
 321934

[33]須田国太郎『安芸竹原頼氏遺邸』1946年
 331946

––––––––––––––––––––––––[34]須田国太郎『校倉(甲)』1943年
 341943

[35]須田国太郎『魚市場』1957年
 351957

■今日最後の話題は、
 菊池真『円安恐慌』を読んでである。

[36]菊池真『円安恐慌』
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 今日ご紹介する本『円安恐慌』は、厳しい日本の近未来を予測している警句であると言える。
 先ず著者の菊池氏は、「はじめに」でこう述べている。

 俯瞰的視点で「日本の財政問題」「円安、inflation問題」を見ると、「これまでは円高、deflationだったから日本で財政問題が表面化しなかった。しかし、円安とそれによるinflation(←‥これは輸入物価等の費用(=cost)上昇による、即ち「cost push inflation」であり好ましくないinflation‥)は日本の財政問題を表面化させる」という結論になる。

 そして菊池氏は、「円高、デフレ(deflation)は今後そう長くは続かず、遠からず円安にならざるを得ない」と予測する。その根拠として、1980年代初頭以降黒字続きだった貿易収支が、2011年に30年ぶりに赤字に転落。しかもこの貿易収支の赤字がこれから恒常的に続き、遠からず経常収支も赤字に転落し、その経常収支の赤字が続いていくからだという。勿論、経常収支を構成する4つの収支のうちの3つ「貿易」「service」「経常移転」が全て赤字でも「所得収支」が大幅に黒字である現時点では経常収支の赤字定着が近未来的には起こらないという意見もあるが、菊池氏はそれは楽観的過ぎると警鐘を鳴らしている。
 日本の経常収支が赤字に転落し恒常的な経常収支赤字国となる懸念の最大要因は、『社会保障費の大幅増加』である。
 そして、それが『国家財政破綻危機』を齎し、『円安』と『悪性インフレ(=cost push inflation)』を齎すという。至極尤もな解説であると思う。
 もう少し詳しく説明すると以下の様になる‥。

〔‥→・団塊世代を中心に高齢化が今後急速に進み、医療費等の社会保障費が大幅に増加する〕
〔‥→・団塊世代の高齢化と少子化により、生産年齢人口比率は年を追って減少する〕
〔‥→・税収不足は国家財政収支の更なる悪化を齎し、社会保障費を賄う為に毎年国債増発を余儀なくされる〕
〔‥→・現在1500兆円近くある個人資産も、毎年増え続ける国債発行を買う余力がなくなる〕
〔‥→・三菱UFJモルガン・スタンレー証券の試算ではその時期を2017年Ⅳ期と試算している〕
〔‥→・日本国債を日本国内で消化〔=国内完結〕出来なくなると、国外の投資家に調達先を求めざるを得なくなる〕
〔‥→・日本国債の信用格付けはS&P社によると中国と同じ「AA-」であり、中国国債と同rateとなると現行の10年物国債0.7~0.8%→3%台へ跳ね上がる〕
〔‥→・日本の財政収支は、国債金利の暴騰で、更なる大幅な赤字となり、国債発行を更に増やさなければならない‥という悪循環が続く〕

 「デフレ(Deflation)は、コスト・プッシュ・インフレ(cost push inflation)よりまし」であることを我々は肝に銘ずる必要がある。
 最近の失われた10年は、新興諸国の台頭により、世界的規模で言えば需要増加による資源価格の高騰(←‥・需要増加によるinflationを「デマンド・プル・インフレ(demand pull inflation)」という‥)を齎したが、これは日本国単独でみれば〔‥日本国内での需要は増加していないので、単純にcostが上昇しただけの‥〕cost push inflationという悪性のinflationであったのだが、日本は幸いなことに円高が進んだことにより、輸入価格の上昇を抑えることが出来て来た。この円高の恩恵を我々は忘れてはならない。

 自国通貨を安く(‥即ち「円安」‥)して、輸出競争力を回復させ景気回復すべきだという考え方が、自民党の安倍総裁が近時発表した大幅な金融緩和による円安誘導策であるが、有識者は危険な考え方であると警鐘を鳴らしている。
 2012年11月27日付日経新聞は、隣国韓国を例にとり、自国通貨安政策の危険性を以下の様に述べている。

 韓国では2008年以降のウォン安が外需主導の景気を支えて来たと言われている。実際2012年7~9月期の韓国の実質GDPは、5年前の同時期に比べて14.8%増大した。同期間に日本の実質GDPは1.4%減少しており、その差は歴然だ。
 また、同期間に韓国の賃金は10.4%上昇した。しかし、この間消費者物価は17.3%上昇し、賃金は実質的には大きく低下した。これに対し、日本では同期間に賃金(=現金給与総額)は4.5%減少したが、消費者物価も1.4%下落した。結果的に、日本の実質賃金は韓国程下がっていない。
 結局、通貨安は自国の賃金水準を相対的に下げることで輸出競争力を回復させても、働く人々の生活水準の改善には繋がりにくい。〔後略〕

【小生comment】
 菊池氏と日経新聞の記事から言えることは以下の様なことである。
 日本はこれまでモノづくりという産業技術立国で外貨を稼いで国富を積み上げて来た。
〔‥→・その結果、円高となったが、その都度cost削減に努め円高を克服して来た〕
〔‥→・それが、更なる円高を齎し現在に至るのだが、二次産業を中心に多くの国内企業が不採算な国内生産を諦め海外生産にshiftした〕
〔‥→・新興国の伸長と海外生産により安価な製品が日本国内に流入し、日本国内産業の衰退が始まった(‥1980年代の米国の如く‥)〕
〔‥→・その結果、日本は〔‥不可逆的な‥〕輸出減少と輸入増加が定着し、30年間続いった貿易収支黒字から赤字に転落した〕
〔‥→・資源等を持たない日本は、経常収支の赤字定着が「円安」を齎す〕
〔‥→・高齢化の急速な進展と国内産業の衰微により、遠からず〔‥数年後という試算もある‥〕経常収支も赤字に転落し赤字が定着する見通し〕
〔‥→・その結果、国内にある個人の金融資産が減少し続け、政府が新たに発行する国債を国内完結で消化出来なくなる〕
〔‥→・これにより日本は、現在の米国の様に海外投資家に日本国債購入を依存せざる得なくなる〕
〔‥→・その結果、超低金利の現行国債の金利上昇が、一層の「円安」を齎す〕
〔‥→・日本は既に「円安」になる懸念を内包している為、安倍自民党総裁が唱える大幅な金融緩和を実行すると急激な「円安」を齎す懸念が大きい‥〕
 ということになる。
 皆さんは、どうお考えですか?

【後記】一昨日の12月05日、歌舞伎俳優中村勘三郎氏(1955.05.30-2012.12.05)が急性呼吸窮迫症候群(acute respiratory distress syndrome, ARDS)の為亡くなった。享年満57歳。正に我々と同い歳である。
 今年06月18日に「初期の食道がん」で、「(2012)年内は治療に専念する」と公表後、半年も経たない急逝である。
 これも我々と同い歳の桑田佳祐氏(1956.02.26-)が、2010年08月、勘三郎氏同じ初期の食道がん手術を受けているが、現在は確り音楽活動に復帰、活躍中である。
 その桑田佳祐氏と同じ執刀医による手術だと聞いていたので、こんなに早く亡くなるとは予想だにしていなかった。
 これは、正に「運命」としか言いようがない。(合掌)

[37]故・中村勘三郎氏
 Photo


 ではまた‥。(了)

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