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2013年6月の4件の記事

2013年6月30日 (日)

【時習26回3-7の会 0452】~「06月23日:三岸節子記念美術館『宮脇綾子/アプリケに綴る愛』展」&「同日:杉本美術館『若き日の杉本健吉』展を見て」「同日:源義朝終焉の地‥『野間大坊』を訪れて」「06月22日:Suisse Theater Basel《W.A.Mozart作曲『フィガロの結婚(Le Nozze Di Figaro)』》演奏会を観て聴いて」「06月28日:名豊gallery『「収蔵品展」郷土の画家たち③』~冨安昌也・野田弘志・朝倉勝治~展を見て」

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0452】号をお届けします。
 今週も小生、仕事の忙しさは変わらない。
 19日は勤務先の、21日は子会社の、そして一昨日28日は関連会社の株主総会があり夫々全て出席した。
 ま、忙しいだけ仕事があることはないよりましだと思って頑張るしかない。(^^;
 「忙しくなればなる程、『余暇を充実した時間で過ごしたい』」という欲求にかられる。

■そこで今日最初の話題は、掲題・副題にある様に23日(日)の模様を3つ続けてお届けします。
※ 拙宅を朝の07時40分に出発。一宮市三岸節子記念美術館へ向かった。同美術館には09時過ぎに到着。
 小生、知人から同美術館で開催中の『宮脇綾子』の招待券を貰ったので見て来ようと思った次第である。
 小生、アプリケ(applique)作家である宮脇綾子を恥ずかし乍ら知らなかった。
 Appliqueは「手芸」であり女性が担い手になる分野であり、小生にはあまり関係ないと思っていたのが正直な処である。
 訪問しようと思ったのは、①無料招待券があったことは勿論であるが、②会場が「三岸節子記念美術館」であるから、大好きな洋画家、三岸節子の常設展cornerが見られること、久し振りに、車で足を伸ばして知多半島の美浜町にある③杉本美術館『若き日の杉本健吉』展を見て、更に南へ3km程行くと④源義朝終焉の地‥『野間大坊』を訪れること、が半日程度で出来ると計算出来たからである。
 それでは先ず「三岸節子記念美術館『宮脇綾子』展」の模様から‥

 本店について主催者が《ごあいさつ》で次の様に紹介している。

 「宮脇綾子(1905-1995)は、東京田端に父門田永太郎、母ツタの長女として生まれました。父の事業の失敗により、女学校入学するも月謝等の問題で退学する等、若い頃は貧しい生活を強いられました。1927(昭和02)年、名古屋市工芸学校で教鞭を執っていた洋画家の宮脇晴と長年の文通を経て結婚、名古屋に移り住みました。戦時中は苦しい生活の中、家事と3人の子供の育児に追われていましたが、戦争が終わると防空壕に入っていた時間が空き、「この儘何もせずに死んではつまらない」と考え、40歳を過ぎて古い布の切れ端を使ってappliqueに拠る作品を作り始めました。野菜や花、魚等身近なものを愛情豊かな視線で生き生きと表現した作品は、やがて個展等を通して多くの人に親しまれました。又、作品の制作や日常の思いを綴ったessay等に拠り、その主婦として女性としての姿は、魅力的な作品世界と併せて人々の共感を呼びました」。

【小生comment】
 彼女の作品群をご覧下さい。掛け値なしに「楽しめる」作品展であることは納得頂けると思います。
 小生も見る前は、「appliqueかぁ‥女性の作品だよなぁ‥」という中途半端な気分で作品を見出したのであるが、彼女の作品を数点見ていて「これは『いい!』」と真剣に魅せられたのである。
 日常の主婦が扱う食材や草花を題材に宮脇綾子のappliqueのhumorousな心温まる世界が繰り広げられている。
 見て何か一寸得した気分になった小半時であった。
 企画展cornerの後は三岸節子の常設展cornerへ。
 三岸節子の作品はいつ見ても新しい発見をする。
 宮脇綾子の作品以上に大胆にdeformerした作品であり乍ら、色彩と構成力の卓越さが作品を気品あるものに仕上げている。
 今日は、以下の[08][09][10]の3点をご紹介する。

[01]三岸節子記念美術館入口前にて
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------------------------[02]宮脇綾子
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[03]三岸節子記念美術『宮脇綾子』展leaflet 左の作品は宮脇綾子『さしみを取ったあとのかれい』1970年
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------------------------[04]宮脇綾子『たこと並ぶ魚たち』1957年
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[05]同『しゃけ』1973年
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------------------------[06]同『ひなげし』1969年
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[07]同『夫婦冬瓜』1975年
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 ※ ※ ※ ※ ※

[08]三岸節子『とうもろこしと魚』1963年
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------------------------[09]同『花(黄色)』1971年
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[10]同『作品Ⅱ』1992年
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※ 三岸節子記念美術館を後にした小生、次に向かったのは知多半島の美浜町にある杉本美術館。
 11時丁度に同美術館到着。小生は2回目の訪問である。前回は名鉄電車だったが今回は車。
 同美術館は名古屋鉄道が昭和62年に開館。
 久し振りに杉本健吉作品を堪能した。

[11]杉本美術館前にて
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------------------------[12]杉本健吉『犬山城雪景』1938年
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[13]同『大仏殿興福寺塔』1944年
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------------------------[14]杉本健吉‥新平家絵物語屏風‥『読み人知らず(‥平忠度都落ち~藤原俊成宅門前にて‥)』1994年
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 杉本氏は、1925年京都にて岸田劉生門下に入る。1929年、岸田が亡くなった後は梅原龍三郎にも私淑。彼は、岸田・梅原の影響を受けつつ画家として成長していった。
 1950年からは、吉川英治作「新・平家物語」の挿絵を担当。爾来、平家物語は杉本のlife workになった。〔作品[14]参照〕

※ 23日の最後の訪問地は、杉本美術館から更に南へ3km程行った所にある「野間大坊(のまだいぼう)」である。
 中学校時代だっただろうか、昔日本史を習った時、源義朝が湯殿で殺された場所であると教えられていたが、この歳になる迄一度も訪れたことがなかったのである。
 最近何故か急に訪れたくなった史跡である。

 「野間大坊」について歴史を紐解くと、当寺は真言宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。山号は鶴林山。
 『大御堂寺縁起』には、天武天皇時代に役行者が建立。聖武天皇の時代に行基に拠り再興されたと伝えられる。その後、空海が知多半島を訪れた時、一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったとされる。
 寺に伝わる室町時代の天文03(1534)年の再興勧進帳に記載された縁起に拠ると、承暦年間(1077-1081年)に白河天皇(1053-1129(在位1072-1086))の勅願寺となり、この時「大御堂寺」と称せられたという。しかし、この伝承には確証はない。
【源義朝の最期】
 平時元(1159)年、平治の乱に敗れて東海道を下って来た源義朝は、随行していた鎌田政清(かまた まさきよ)の舅・長田忠致(おさだ ただむね)の許に身を寄せる。が、忠致・景致(かげむね)父子は平家からの恩賞を目当てに義朝を湯殿で入浴中に斬殺。この時、義朝は「我に木太刀の一本なりともあれば‥」と無念を叫んだとされる。
 この故事に因み義朝の御廟には、縦40cm、幅3cm程の木刀が沢山供えられている。
 御廟前の受付でよく見ると、一本500円で、「願い事を書いて備えれば叶う」と書いてあった。

[15]『野間大坊』案内図
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------------------------[16]大御堂寺前にて
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[17]源義朝公御廟所入口にて
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■続いては日付は一日遡るが、06月22日(土)に、愛知県芸術劇場concert hallにて夕方05時に開宴されたスイス・Basel歌劇場(Suisse Theater Basel)に拠る《W.A.Mozart作曲『フィガロの結婚(Le Nozze De Figaro)』》演奏会の模様をお伝えします。

 今回の《フィガロの結婚》は、新進気鋭のエルマー・ゲールデン((Elmar Goerden)1963-)演出に拠る。
 本Operaのprogramの中で、Goerden氏が以下の通り述べている。
 「ダ・ポンテとMozartが描いた様々な人間模様、彼等の世界をどうやったら現代社会の舞台上に表現出来るかが最重要課題でした。この原作は革命前夜の時代背景の中で、当時の貴族社会を風刺する作品として生まれたけれど、Mozartは革命精神にそれ程興味を持っていた訳ではないことは、彼自身の手紙等からも読み取ることが出来ます。彼の描きたかった人間模様は、より普遍的で根本的な人間の生き様な筈。其処で現代の私達が身近に感じられる背景に移し替えた方が、当時の時代設定に忠実に再現するよりも、より正確に物語を表現出来ると確信していました。伯爵の称号を、現代社会の特権階級と言える大都市の富裕層に置き換え、Los Angelesの高級住宅を舞台に選びました。とは言え、それはLondonでも、New Yorkでも、経済的に何の不自由もない住人が、少しも幸せを感じられず、常に何らかの欠乏感に襲われている様子を描ければ何処でも良かったのです。〔中略〕
 Goerden氏が《フィガロの結婚》を通じて日本の観客に伝えたいのは、「感情、活力、継続すると危険な無秩序、活気、人間の多彩さ、人間の生彩、心の深淵、矛盾、そして『愛情はdiamondの様で、美しくもあるが、鋭く、危険な面もあるということ』だという。この物語は喜劇の範疇に数えられるが、根底に不幸感、絶望がある。それは音楽からも聴き取れるので、その部分も舞台上で表現されなければならない」とも語る。「このOperaを観て、恋がしたくなったり、新しい人と出会いたくなったり、手紙を書きたくなったら嬉しい」と演出家が願う、壮大な人間の愛のdramaを是非疑似体験して欲しい。人間という存在が愛おしくなるだろう。

【小生comment】
 最近、時代もののOperaを、現代に舞台を移して上演する演出が結構多い。が、それ等の演出が必ずしも成功しているとは言えない。
 そんな中にあって、本Operaは大変面白く観劇出来た。
 Goerden氏の演出家としての手腕が秀でている証左であろう。
 ある意味で、普遍的な人間模様とはかくなるものであるという、従来の《フィガロの結婚》とは全く異なる視点から表現した新しい「歌劇《フィガロの結婚》」を見させて貰い、大変勉強になった。

[18]Suisse・Theater Basel:W.A.Mozart『フィガロの結婚(Le Nozze Di Figaro)』全4幕
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【後記】一昨日の06月28日は朝から夕方迄仕事に追われていたが、その仕事の合間に20分程時間がポッカリと空いたので、名豊galleryへ『「収蔵品展」郷土の画家たち③』展を見て来た。
 その日は展覧会の最終日。展示作品数は、冨安昌也先生17点、朝倉勝治先生8点、野田弘志氏11点の計35点。
 Postcardや図録はなかったので、展示作品をお示しすることが出来ないのは残念である。
 冨安先生の作品の中では、我等が母校時習館高校校内、南門近くある山茶花を描いた「1.『立春』」や、軽く膝を立てて横向きに座っている金髪の女性を描いた「2.『ラ・アルベルカの路地』」も素晴らしかったが、個人的には、まるで白黒の写真の様に精緻にmonotoneで描かれた「3.『アルベロベッロの昼下がり』」が一番気に入った。
 朝倉先生の作品は、大作「17.『朝の市場』」がいい。これ以外は全て風景画であった。油彩画は何処となく荻須高徳の絵を少しdeformerした感じの作風だと感じた。
 野田弘志氏の作品は、冨安昌也先生の水彩画の弟子でもある勇叔父が、2008年から09年にかけて愛知県美術館で開催された『アンドリュー・ワイエス』展に同道し、その時、直接先生から聞いた話として‥
 (【小生注】精緻な画法で有名なワイエスの絵を見乍ら先生は叔父に‥)「これ位の絵がかけなきゃぁ駄目だ」
 「時習館の教え子の中で俺を(【小生注】技術的に)超えたのは、野田弘志だけだ」と言わしめた。
 野田氏の作品は、ホント、写真と見紛う程の精緻さである。展示作品11点のうち、9点が静物画、あとは風景画「34.『風蓮川』」とportrait「35.『和香子』」であった。
 名豊galleryは、本展の様に地味ではあるが、貴重な展覧会を開催してくれる。有難いことである。

[19]名豊gallery『「収蔵品展」郷土の画家たち③』~冨安昌也・野田弘志・朝倉勝治~
 19gallery

 今夏の【2637の会】『クラス会』の出欠案内を別便のmailでお送りします。
 皆さんからの朗報をお待ちしています。先週もお話しましたが、開催日は08月10日(土)を考えています。
 ではまた‥(了)

2013年6月22日 (土)

【時習26回3-7の会 0451】~「06月15日:時習26回【1-4】クラス会開催報告」「06月13日:名古屋ボストン美術館『アートに生きた女たち』展を見て」「06月16日:松坂屋美術館『-悠久なる刻(とき)を求めて-杉山寧』展を見て」「06月16日:D.ハーディング指揮『Mahler Chamber Orchestra』演奏会を聴いて』

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0451】号をお届けします。
 最近、小生、兎に角仕事が忙しい。
 一昨々日の19日は小生の勤務先の、そして昨日20日はその子会社の株主総会であった。
 勤務先の役員数を減員した為、小生の業務上の守備範囲が大幅に増えて仕舞った。
 更に来週は、27日が関連会社の株主総会が控えている。こちらは新しい仕事である。
 仕事は増える一方‥だから〔‥前《会報》でも書いたが‥〕、stressがかなり溜まっている。
 その所為か、血圧がまだ正常値迄下がらない。気になる処だ。
 ただ、積極的な気分転換が効いた所為か、欝的なblueな気分は大分収まって来た様に感じる。
 人間とは、mentalな生き物だと痛感する。(^^;
 適度な運動〔‥筋トレと有酸素運動‥〕と趣味に没頭〔‥絵画とclassic音楽『鑑賞三昧』‥〕するという積極的な気分転換が身体いいことを確信出来た。

■さて、先ずは06月15日(土)に、時習26回【1-4】「クラス会」を最近【2637の会】クラス会会場になっているトライアゲインにて開催したことからご報告申し上げる。
 この【1-4】「クラス会」は、ある意味偶発的に挙行されたと言っていいかもしれない。
 何故なら、当初は【1-4】の「クラス会」を開催するつもりはなかったからである。
 事の発端は、「先月05月18(土)~19(日)に挙行された「時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会」に向けての「京都下見旅行」後の活動をどうするか?」を考えていたことに始まる。
 「豊橋支部幹事会」は現状22名いるが、都度、招集するには人数が多過ぎる。
 運営は数名の執行部が行い「案」をつくり、決議を「幹事会」で行うのが合理的かつ効率的であることは間違いない。
 「幹事会」membersの何人かからも助言を貰っていたので、「そうしよう!」と、小生の最大協力者である水藤君【3-6】と中嶋君【3-2】に相談を持ち掛け、一度会って打合せをしようということになったのである。
 此処で小生、問題にぶち当たった。即ち、執行部の人選は男性陣は心当たりがあるのだが、「女性陣をどうするか?」である。
 其処で、水藤君と中嶋君に相談しようと考えた。と、その時閃いたのが時習26回生【1-4】のkey wordである。我等3人は【1-4】のclassmatesだったのである。
 「豊橋支部幹事会」membersの中にも、あと飯田君【3-2】と林K子さん【3-7】が【1-4】のclassmatesである。
 「じゃあ、この5人で集まろう」と思った時、一年前の07月07日に「中嶋君を除く4人と安形S二君【3-1】と宮田T康君【3-2】の6人」が【1-4】ミニミニクラス会を開催したことを思い出した。其処で早速、安形・宮田両君に連絡した処、安形君は日程的に都合がつかなかったが、宮田君が参加を表明してくれた。
 此処から、話が拡大していったのである‥。
 中嶋君のsuggestion等で、岩瀬敏君【3-4】、波田野K平君【3-8】、鈴木H男君【3-9】、竹下(相楽)K志君【3-10】の総数10人に迄拡大。
 結果的に、当日accident等で飯田君と水藤君は欠席となったが、8人が何年振りかに一堂に会した懐かしい【1-4】のクラス会となったのである。
 「何故【1-4】が開催出来るのか?」との疑問には、「岩瀬S君【3-4】の尽力が大きい」とお答えする。
 即ち、【1-4】クラス会は、岩瀬君が高校卒業以来十数年間ずっと「勝手!」幹事を引き受けてくれて【1-4】クラス会を開催して来たからである。
 【2637の会】membersの渡辺さんも、ちょくちょく参加してくれていたと思う。
 そんなこんなで、06時丁度に始まった【1-4】クラス会は、修了予定の08時を30分以上もoverして散会となった。
 後日、岩瀬君が「まあ,よく,あんなに長く堅い話ができたものですね.これからもちょくちょくやりましょう.」という感想を述べていたが、そういうクラス会でした‥。(^^;

[00a][00b]時習26回【1-4】クラス会20130615
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■続いては、06月13日(木)に仕事で名古屋へ行った折、名古屋ボストン美術館にて現在開催中の『Sisters in Art アートに生きた女たち Women Painters & Designers』展を見て来ましたので、その模様についてご紹介します。
 19~20世紀にかけて活躍した女性画家の作品を、ご紹介します。
 先ずは、作品群をご覧下さい。

[01]本展leaflet 絵は[02]ルブラン『若い女の肖像』1979年頃
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------------------------[01a] マリー・ルイーズ・エリザベス・ヴィジェ=ルブラン
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[01b]自画像1782年
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------------------------[01c]自画像1790年
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 ルブランは、彼女自身卓越した腕前の女流画家であったが、ご覧の様に美女でもあったことでも有名。これは余談‥(^^;

[02]マリー・ルイーズ・エリザベス・ヴィジェ=ルブラン(仏1755-1842)『若い女の肖像(ウォロンゾフ伯爵夫人?)』1797年頃
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------------------------[03]エレン・デイ・へ―ル(米1855-1940)『自画像』1885年
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[04]ベルト・モリゾ(仏1841-1895)『器の中の白い花』1885年
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------------------------[05]メアリ・スティーブンソン・カサット(米1844-1926)『縞模様のソファで読書するデュフェ夫人』1876年
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[06]リサ・キャボット・ベリー(米1848-1933)『野外音楽会』1890年
 リサ・キャボット・ベリーについて
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 彼女は、夫トマス・サージェント・ペリーが慶應義塾大学の英文学の教授として招かれたのに合わせ、1898年から3年間、3人の娘と共に日本で暮らした。
 トマスは、ハーヴァード大学出身の学者であり、日本を開国させたマシュー・ペリー提督の甥の子にあたる。また、トマスの姉は岡倉天心と親しかったジョン・ラファージと結婚していた。〔中略〕末娘のアリスは1932-41年に米国大使夫人として再び日本に滞在している。〔中略〕
 20代で結婚。3人の娘を出産後に絵を描き始め、40代に仏のジヴェルニーでクロード・モネと親交を結び、そして50代初めに日本に滞在し、帰国後も制作活動を続けた。〔後略〕
 〔‥以上、当該絵画captionより‥〕
[07]ジョージア・オキーフ(米1887-1986)『赤い木、黄色い空』1952年
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■続いては、06月16日(日)に、この後ご紹介する:D.ハーディング指揮『Mahler Chamber Orchestra』演奏会を聴くべく愛知県芸術劇場concert hallに向かう前に、松坂屋美術館で15日(土)から開催中であった『―悠久なる刻(とき)を求めて―杉山寧』展を見て来ましたのでその模様をご紹介します。
 本展は、本年2013年で没後20年になる戦後日本を代表する日本画家・杉山寧(すぎやまやすし(1909-1993))の回顧展である。
 先ずは略歴から‥
【略歴】
明治42(1909)年 10月20日 東京市浅草区の文房具店に生まれる
昭和02(1927)年 03月 東京府立第三中学校(現・都立両国高校)卒業
        同月東京美術学校日本画科を受験するが失敗
        その後、同校助教授小泉勝爾に絵の手解きを受ける
昭和03(1928)年 04月 東京美術学校日本画科入学
昭和06(1931)年 10月 第12回帝展に『水辺』を出展し入選
昭和07(1932)年 10月 第13回帝展に『磯』を出展し特選
        ‥入選2回目で特選、第一部の中で最年少が話題となる
昭和08(1933)年 03月 東京美術学校日本画科卒業、卒業制作『野』が首席に
        卒業後、松岡映丘の「木之華社」に参加
昭和09(1934)年 10月 第15回帝展に『海女』を出品し再び特選
昭和33(1958)年 03月 社団法人日展が発足し会員
        04月 日展評議員 06月 日展審査員(昭和31年より度々委嘱される)
昭和37(1962)年 11月 翌年02月迄Egyptを中心に欧州各地を訪ねる
昭和45(1970)年 12月 日本芸術院会員に任命される
昭和46(1971)年 03月 日展常務理事となる
昭和49(1974)年 11月 文化勲章受章、文化功労者となる
昭和51(1976)年 05月 日展退任後、顧問就任
平成05(1993)年 10月20日 没(享年84歳)

[08]本展leaflet 絵は杉山寧『こう(土篇に光)』1980年
 08leaflet_1980

------------------------[09]杉山寧
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[10]杉山寧『海女』1934年
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------------------------[11]同『エウロペ』1951年〔←本展非展示作品〕
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[12]同『耿(こう)』1957年
 121957

------------------------[13]同『悠』1963年
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[14]同『こう(土篇に光)』1980年
 141980

------------------------[15]同『生』1971年
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[16]同『暦』1972年
 161972

------------------------[17]同『鯉』1970年
 171970

[18]同『しょう(爿篇に女)』1981年
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 杉山寧は、素描力と構成力共に優れている。
 【略歴】の処でご紹介した通り、東京美術学校在学中の昭和06年第12回帝展で『水辺』が初入選した翌昭和07年、第13回帝展で『磯』が特選。
 2年連続且つ入選2回目で特選に選ばれ、しかも第一部の中で最年少。翌昭和08年03月東京美術学校卒業の卒業制作『野』が首席となり、同年の第14回帝展には『翠蔭』無鑑査出品。更に翌昭和09年第15回帝展で『海女』が二度目の特選となる。
 事程左様に、杉山は若い時から日本画家として華々しいstartを切っている。
 杉山寧が、本展のleafletのcaptionに「日本画を超えた日本画家」と謳っている様になったのは、昭和26(1951)年第07回日展に巨牛に腰かけた裸婦を描いた大作『エウロペ』の発表がepoch-makingなdebut作だと言われている。それには2つ理由がある。
 以下、金原宏行氏の「杉山寧の人と芸術」から引用する。

 第一に、題材を「ギリシャ神話」という日本画では嘗てなかった主題であり、且つ、重厚な描写とsimpleな画面構成に拠ってmodernで新鮮な感覚、modernity(新しい造形性)が盛り込まれた。
 第二には、日本画の材料と質の問題を杉山が解決したこと。(彼が)modernな新しい秩序を画面に作り出(した)。〔中略〕杉山は日本画特有の「岩絵具」のキラキラと輝く美を生かし、豊富な色彩を用意。光に反映して粒子が輝き、顔料の質を引き立てて、日本画特有の美しさを発揮。〔中略〕
 Motif(【小生補足】=表現の中心的な動機)〔中略〕にmodernism(【同】=常に新しさを求める傾向)を採り入れ〔中略〕従来の日本画の花鳥諷詠の世界から前進。〔中略〕
 (『エウロペ』は、)旧来の線描主義から脱却して、色面を主体とした新表現〔‥洋画から出発した山口逢春等が大胆なフォルムで実験的な作品を見せる等の動きがあったが‥〕を一層推し進めた理知的なmodernism絵画であった。

【小生comment】
 添付写真の[10]『海女』と[11]『エウロペ』以降の絵を比較してご覧願いたい。「線描主義から色面を主体とした『新表現』」への変貌を納得頂けると思う。
 そして杉山は、昭和32(1957)年の『耿』から抽象傾向が顕著となった。
 画面も「和紙」から「canvas」に替え、堅固な画肌(matiere)に象徴的に描くmodernな作風へと画境を深化させていくのである。
 こうした流れの最中に杉山は、1962年に念願のEgypt旅行と合わせギリシャ・伊・Swiss・西・仏と欧州を旅行する。([13]『悠』参照)
 次に、杉山が改組された日展の理事に就任した1969年『晶』を発表。1974年『季』迄の「人体・裸婦」の時代が続く。([15]『生』・[16]『暦』参照)
 また、杉山の長い画業の中で静物画や花鳥画も1956年日本芸術院賞を受賞した『孔雀』〔東京国立近代美術館蔵〕をはじめ傑作・秀作が数多い。([17]『鯉』・[18]『しょう(爿篇に女)』参照)
 因みに、杉山康の長女遥子が三島由紀夫(本名平岡公威(ひらおかきみたけ)1925-1970)の妻である。以上、余談まで。

■今日最後の話題は、松坂屋美術館から北北東へ徒歩10分程にある愛知県芸術劇場concert hallにて開催された D.ハーディング指揮『Mahler Chamber Orchestra(MCO)』演奏会を聴いて来た模様についてご報告した。本演奏会は、同劇場で待ち合わせた中嶋君【3-2】と一緒に聴いた。

[19] D.ハーディング指揮『Mahler Chamber Orchestra(MCO)』
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 当楽団は、Gustav Mahler Jugend Orchestraの旧member有志に拠って1997年結成。
 45人の正団員は、日本を含む20の国籍からなる多彩な顔ぶれ。
 今回の指揮者、Daniel Hardingは、1975年英国生まれ。高校時代からサイモン・ラトルのassistantを務め、1994年、19歳でBirmingham市交響楽団を指揮してプロ・debut。1996年にはBerlin P.O.とのdebutを果たしている。
 現在は、Sweden放送交響楽団の音楽監督、London Symphony Orchestraの主席客演指揮者を努める。
 この品の演奏曲目は以下の2曲。

1.シューマン 交響曲第3番 変ホ長調「ライン」Op.97
2.ドボルザーク 今日居局第9番 ホ短調「新世界から」Op.95
[encore] ドボルザーク スラブ舞曲第4番

【小生comment】
 当楽団の演奏を小生初めて聴いた。今日の指揮者Hardingは、MCOの主席指揮者を1998~2011年迄務めた(現在は桂冠指揮者)だけあってとても息があった名演を聴かせてくれた。
 小生、今年はドボルザークの新世界交響曲を、04月22日に佐渡裕指揮BBC交響楽団で聞いて以来2回目である。
 大変popularな名曲であるが、名曲中の名曲であり、今回も最初から最後まで心地よく聴かせて貰った。癒された日曜日の午後のひとときであった。
 聴衆も、本演奏会に大変満足した様で、演奏終了後盛大な拍手がいつまでも鳴り響いていた。

 ではまた‥(了)

2013年6月14日 (金)

【時習26回3-7の会 0450】~『名古屋市・街中と静岡市・駿府城公園とその周辺』逍遥~「06月08日:古川美術館『水と光の表情』&徳川美術館『備前刀の系譜』&ヤマザキマザック美術館『フランスの美しい風景』&三菱東京UFJ銀行『貨幣資料館』&愛知県芸術劇場concert hall『チョン・キョンファ(鄭 京和)Violin Recital』」「06月09日:静岡市美術館『レオナ―ル・フジタとパリ 1913-1931』&『駿府城公園』&『浅間神社』」を見て&聴いて

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0450】号をお届けします。
 最近、小生、仕事が忙しい。
 今月は、勤務先とその子会社、関連会社は何れも3月決算なので、株主総会が控えている。
 04月・05月と、決算役員会、株主総会招集の為の役員会が続き、当該会社は2年に一度の取締役の改選期でもある。
 総会に関する諸事が、大事から小事まであってstressが結構溜まっている。
 その所為か、最近血圧が高目でもある。
 身体は疲労気味ではあるが、家の中でゴロゴロしているだけでは勿体ない。
 こういう時こそ、「好きなことをやって気分転換! 心を癒すのが一番」だ。
 ということで、06月08(土)と09(日)の両日、好きな「絵画」と「classic音楽」を『鑑賞三昧』することにした。(^^;
 掲題・副題にある様に「目白押し」なので、今回は時系列的にごく簡単にご紹介していく。暫しお付き合い下さい。

■06月08日(土):「名古屋市・街中」逍遥
【1】古川美術館『水と光の表情』
※ この日は、朝07時半に拙宅を出発。10時に松坂屋へ野暮用で寄った後、地下鉄(栄経由)で向かったのは地下鉄池下駅から東へ300mの所にある古川美術館。
 本展では、明治時代以降の名画を「水・光」とthemeを分け、日本画29点、油彩画6点、その他(金工、漆・蒔絵他)6点の計41点を展示。
 展示作品の中から以下3点をご紹介する。
 余談であるが、4人の日本画家の名前の横の生没年をご覧になって驚かれるでしょう!
 奥田元宋と東山魁夷が90歳、上村松篁98歳、片岡球子103歳!(何れも満年齢) 吃驚である!

[01]古川美術館『水と光の表情』leaflet 添付写真(下)は 奥田元宋(1912-2003)『秋耀』
 01leaflet_19122003_2

------------------------[02]東山魁夷(1908-1999)『若葉の渓』1986年
 02190819991986

[03]上村松篁(1902-2001)『野月』
 0319022001

------------------------[04]片岡球子(1905-2008)『桜咲く富士』
 0419052008

※ 古川美術館を出て南方に100m程坂道を登る途中に、古川美術館 分館『為三郎記念館』があるので立ち寄った。
 日本ヘラルドの創業者で当美術館初代館長、古川為三郎(1890-1993)氏の終の棲家である。数寄屋建築の「為春亭」は雁行形に配置され、凝に凝った建物である。
 同記念館の売店で、ジュディ・オング倩玉作の記念館の版画と、季節の花「紫陽花」を描いた、森田りえ子の絵をご紹介する。
 ジュディ・オング倩玉は、俳優・歌手のジュディ・オング氏の版画家名である。
 また、森田りえ子氏は、我々と同い年。1978年 京都市立芸術大学日本画科、1980年 同大学院修了の日本画家。

[05] ジュディ・オング倩玉(1950-)『華堂初夏』
 05_1950

------------------------[06]森田りえ子(1955-)『紫陽花・宙』
 061955

※ 為三郎記念館を後にして、地下鉄池下駅から(‥栄で名鉄瀬戸線乗り換え‥)森下駅を下車。
 次に向かったのが東区大曽根商店街にある薬膳・中華料理店「陣屋」。此処のラーメンは兎に角美味しい。(^^
 2010年 Vancouver Olympic 銀メダリストの浅田真央(1990-)ちゃんも此処で食したことがある。その証拠に「陣屋さんへ」という色紙が壁に貼ってある。
 食後、「陣屋」より南へ500m程歩くと、徳川美術館がある。

【2】徳川美術館『備前刀の系譜』
 小生、当館に於ける刀剣の企画展は、平成20年05月~07月にかけて開催された、矢張り備前刀を扱った『備前刀の華人/一文字』展を見て以来である。
 「刀」の魅力は、本物を手にとってみないと正直解らない。
 鞘から刀を抜き、「刀」を鑑賞する。古い油を拭い、打粉をかけて軽くポンポンと叩き拭う、そして新しい(椿)油を塗布し、鞘へ納める。
 「真剣」なので緊張感があって気持が良い。
 http://www.tokensibata.co.jp/teire/index.html ←「刀」の手入れ方法

 小生も、比較的最近迄、「刀剣」には正直な処興味がなかったのであるが、一昨年2011年の春、親父から突然「俺が特攻隊(=特別操縦見習士官第4期生)へ入隊する時、祖母から出生祝いとして買って貰った軍刀がある。当時のお金で2千円と米俵30俵したというからかなり高価なものだった」という。
 「刀剣」を趣味にしている遠戚の人から聞いた話では、親父の軍刀は「通称『関の孫六』と言われる『兼元』という名刀」だという。
 小生、この話を聞いて後、未済であった刀剣登録を済ませてからというもの、俄かに「刀剣」の中でも「名刀」に興味を持つ様になった。
 親父の「刀」は惜しむらくは「無銘」。そして、所謂「古刀」ではあるものの、室町~江戸時代にかけて六代続いた『関の孫六』のうち、一番有名な二代目でもないことも確かな様だ。
 勿論、『関の孫六』の特徴である【三本杉】の刃文がある。この刃文が見る者を魅了する。添付写真[08][09]を参照下さい。【三本杉】の刃文があるでしょう!?
 『関の孫六』でも末期の江戸時代になると、刃文がはっきり出過ぎて品格を減じて仕舞うが、親父の刀は刃文がはっきりとは出過ぎておらず、二代目の作風に近い品格が備わっているという。
 因みに刀は、製作年代により「【古刀】室町時代以前」「【新刀】慶長元(1596)年~」「【新々刀】明和元(1764)年~」「【現代刀】明治09(1876)年の廃刀令~」に4区分される。

[07]徳川美術館『備前刀の系譜』leaflet
 07leaflet

------------------------[08]我家の家宝:父の軍刀
 08

[09]父の軍刀にある「関の孫六『三本杉』の刃文」(拡大図)
 09

※ 徳川美術館を後にした小生、同美術館から西へ500m程の所にあるN歯科医院に向かった。
 小生、平成05年に旧銀行時代の社宅住まいだった時から定期的に診て貰っているからもう20年通院していることになる。
※ その次に向かったのは、N歯科医院から南東へ700m程(赤塚交差点の南西直ぐ)の所にある「三菱東京UFJ銀行・貨幣資料館」である。

【3】三菱東京UFJ銀行『貨幣資料館』
 昔は、旧・東海銀行本店の錦通りを挟んで北錦正面にあったが、2009年04月からこの地(東区赤塚町)にて開館している。
 昔と違い、土日も営業していて、利用し易くなった。因みに、営業時間は09:00-16:00である。入館料は昔から無料。
 国内外の古今東西の貨幣があるのが、この資料館の特徴で、ギリシャ・古代ローマや、殷時代以降の古代中国、暫く前まで日本最古の通貨と言われた「和同開珎」(‥日本最古の通貨について、まじない銭と言われた「富本銭」と論争中‥)や、大変希少な、現存する世界最大の金貨である「天正長大判(てんしょうながおおばん(長径約17㎝ 重量165g))」等があり、この日は「和同開珎」こそ見落としたが、古代ローマ帝国時代の皇帝 (ネロ、ハドリアヌス、マルクス・アウレリウス等) の横顔がreliefされた通貨を直接見ることが出来、楽しかった。
 また、企画展「安藤広重の版画展『広重/名所江戸百景』」も見ることが出来た。

[10]三菱東京UFJ銀行・貨幣資料館
 10ufj

------------------------[11]同資料館leafletより
 11leaflet

※ 続いて、向かったのが、「貨幣資料館」から国道19号線沿いに南下すること1.5㎞、葵町西交差点の北東直ぐの所にある「ヤマザキマザック美術館」。
 同美術館では、企画展『フランスの美しい風景~ロココからバルビゾン派、印象派へ』が開催されていた。

【4】ヤマザキマザック美術館『フランスの美しい風景』
 本展は、ヤマザキマザック美術館が、開館3周年を記念して、バルビゾン派を中心に、ロココから印象派まで以下に示した画家達による風景画23点、版画61点が展示されている。
 ◆ロココ:ヴァト―(1684-1721)、ランクレ(1690-1743)、ブーシェ(1703-1770)。
 ◆バルビゾン派:【バルビゾン派の先駆け】コロ―(1796-1875)、【バルビゾンの七星(=プレアデス星団(les Pleiades de Barbizon))】ディアス・ド・ラ・ペーニャ(1807-1876)、トロワイヨン(1810-1865)、デュプレ(1811-1889)、テオドール・ルソー(1812-1867)、ジャック(1813-1894)、ミレー(1814-1875)、ド―ビニ―(1817-1878)。
 ◆写実主義:クールベ(1819-1877)。
 ◆印象派:ピサロ(1830-1903)、シスレー(1839-1899)、モネ(1840-1926)
 Barbizon派と写実主義者達の作品なので、どちらかというと色彩が深緑色と茶色系統で明るくない。
 それ迄minorな絵であった風景画を、歴史的風景画による初のローマ大賞受賞者としてローマ留学を果たしたのがアシル=エトナ・ミシャロン(1796-1822)。
 そのミシャロンに学んだコロ―(Corot)。彼は26歳の時、Parisから南東へ60㎞の所にあるフォンテーヌブローの森を訪れた。この森の北西端に接する村がBarbizon村。
 Corotを魁として、この風景画の写生に適した村に集まったのが、ペーニャ、トロワイヨン、デュプレ、テオドール・ルソー、ジャック、ミレー、ド―ビニ―等、Barbizon派と言われる人達である。
 Barbizon派の後に、色彩豊かな印象派が出現するのであるが、本展で展示された作品のうち、Sisleyの『サン=マメのロワン運河』1885年を除く、ピサロ、モネの作品は何故か明るさが欠落していた。

[12]コロ―『ヴィル・ダヴレー 森をぬけてコロ―家へ向かう池沿いの道』1873年
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------------------------[13]トロワイヨン『草を食む牛』1856年
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[14]テオドール・ルソー『Barbizonの農場』1850-55年
 14barbizon185055

------------------------[15]ミレー『鵞鳥番の少女』1866-67年
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[16]ド―ビニー『川辺の風景』1874年
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------------------------[17]Sisley『サン=マメのロワン運河』1885年
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※ ヤマザキマザック美術館の次に訪れたのが、同美術館から錦通りを西へ900mの所にある、愛知県芸術劇場concert hallである。
 本演奏会は、中嶋君【3-2】とconcert会場で待合せて一緒に聞いた。

【5】愛知県芸術劇場concert hall『チョン・キョンファ(Kyung-Wha CHUNG / 鄭 京和)Violin Recital』」
 演奏曲目は、以下の4曲。

[1] W.A.Mozart(1756-1791) Sonata for Piano & Violin No.28 in e minor K.304 [2] J.Brahms(1833-1897) Violin Sonata No.1 in G major Op.78「雨の歌」
[3] J.S.Bach(1685-1750) シャコンヌ(無伴奏violinパルティ―タNo.2 BWV1004より終曲)
[4] C.A.Franck(1822-1890) Violin Sonata in A major [encore] F.Schubert(1797-1828) Violin Sonatina No.1 in D major から第1&2楽章

[18]チョン・キョンファ(左 vn)とケヴィン・ケナー(右 pf)
 18_vn_pf

 チョン・キョンファの生演奏を聴いたのは今回が初めてである。
 今回、彼女のrecitalを聞いて本当に感動した。卓越した技量と高い芸術性に感服したのである。
 近年聞いたviolin soloistsの中で、文句無しのNo.1と言って過言でない!
 同席した中嶋君も、痛く感銘して、「(鄭京和の)バッハのシャコンヌを聴いたら、他のviolinistの演奏会を聴く気がなくなって仕舞ったヨ」と嘆息していた。
 今回のrecitalは、曲目が4曲とも素晴らしい上、チョン・キョンファの名演奏で、standing ovationこそなかったが、何回も「bravo!!」の声が挙がり、聴衆も大満足の様子であった。
 小生は、彼女のCDを何枚か持っており、昔から上手いviolin奏者であり、好きな演奏家であったが、矢張り生演奏に勝るものはなく、今日は聴きに来て本当に良かったと確信した。

■翌06月09日は、08時に家を出て、車で東名高速道路を利用し、JR静岡駅前にある静岡市美術館に10時丁度に到着。
 06月23日迄開催中の『レオナ―ル・フジタとパリ 1913-1931』と『駿府城公園』『静岡 浅間神社』を見て来たのでご報告したい。

【1】静岡市美術館『レオナ―ル・フジタとパリ 1913-1931』

[19] レオナ―ル・フジタとパリ 1913-1931』展leaflet
 19_19131931leaflet

 主催者に拠る「ごあいさつ」で、本展開催の趣旨を次の様に説明している。

 Parisを愛しParisに愛された画家・藤田嗣治(レオナ―ル=ツグハル・フジタ(1886-1968))が1913年に初めてParisに渡って、2013年で100周年を迎えます。この節目を記念して開催される本展は、画家が渡仏してのちLatin Americaへ旅立つ迄の1913年から1931年迄の時期に焦点を当て、最初の充実期であるParis時代の作品を軸に構成する初めての展覧会となります。Modern artの華やかなりし時代の姿を浮かび上がらせ乍ら、藤田が画家としてのidentityをどの様に確立していったかを探るものです。

 また、France鑑定家協会Paris memberで、元Montparnasse美術館代表学芸員のシルヴィー・ビュイッソンが寄稿した「藤田とパリ、夢を叶える都~なぜParisなのか?」の中でこう述べている。

 〔前略〕彼の成功は〔中略〕Parisで、彼の個人的なやり方に従うことで達成することになる。彼は外国の近代美術において、№1の日本人画家となる。〔中略〕
 彼は東京美術学校で学んだことを全て忘れる覚悟で〔中略〕Parisへ飛び込んだ。〔中略〕〔そしてそのParisの画家としてstartした‥〕
 始めの頃の出会いは夫々に衝撃的で豊かなものであった。Picassoとcubisme(キュビスム)、税官吏Henri Rousseau(アンリ・ルソー 1844-1910)、サロン・ド―トンヌ(Salon d'automne)やアンデパンダン(indepandant 独立美術家協会)展の芸術家達、コレット(Collettes【注】)でのRenoir、Louvreでの古代美術等との出会いが、彼を成層圏に、即ち異なる次元へと押しやることになる。〔中略〕
 【注】Renoir(1841-1919)は、1907年(66歳)、ニース(Nice)の西隣町、カーニュ・シュル・メール(Cagnes-sur-Mer)の、中世の街並みが残る旧市街から少し離れたCollettesと呼ばれる丘に終の棲家を構えた。

 自ら望んで祖国を離れた藤田は、他の人達と同じ様に、成功という夢に自由に生きることが出来た。
 彼の友情と愛の物語は、一般的な「MontparnasseのBohemian」のそれと同じ様に、美術と新聞の歴史に火をつけた。其処にはそれだけの価値があった。読者とcollectorが伝説の形成に関わった。Modigliani(1884-1920)やSoutine(1894-1943)、Pascin(1885-1930)、Kisling(1891-1953)、Dongen(1877-1968)、Picasso(1881-1973)、Rivera(1886-1957)、Derain(ドラン 1880-1954)、そして藤田といったMontparnasseの役者達は強烈なcharisma性を放っていた為、彼等と出会い、彼等を写真に収めるだけで、伝説を提供することになった。〔後略〕

[20]藤田嗣治『自画像』1910年
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 この自画像は、藤田が東京美術学校西洋画科の卒業に際して描いた23歳の時の自画像である。

[21]藤田嗣治『ペッチ=ブルント伯爵と伯爵夫人、その子供達 Le Comte et la Comtesse Pecci-Blunt et leurs enfants』1923年
 21_le_comte_et_la_comtesse_pecciblu

------------------------[22]同『violinを持つ子供 L'Enfant au violon』1923年
 22violin_lenfant_au_violon1923

[23]同『横たわる女 Femme allongee』1923年
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------------------------[24]同『裸婦 Nu』1923年
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[25]同『ロジ―タ・ド・ガネ伯爵夫人の肖像 Portrait de la Comtesse Rosita de Ganay』1923年
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------------------------[26]同『五人の裸婦 Cinq Nus』1923年
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[27]同『自画像 Autoportait』1929年
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------------------------[28]坂東敏雄(1895-1973)『フジタの肖像』1923年
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【小生comment】
 藤田は、1919年11月のSalon d'automneに油彩画2点、水彩画4点を出品し全て入選を果たし、会員に推挙された。
 爾来、彼はEcole de Parisの寵児としてマドレーヌ・ルク―と一緒にParisを離れる迄一世を風靡した。
 上記絵画を見ると、いずれの作品の真骨頂である「フジタの『乳白色』の肌」の美しさが際立っている。
 彼は矢張り画家の天才である。

※ 静岡市美術館を後にした小生は、車で北西へ2~3分の所にある、駿府城公園に向かった。公園の西側にある市立静岡病院に隣接する立体駐車場に車を止め、それからはずっと歩くことにした。

【2】『駿府城公園』
 駿府城の歴史を紐解くと‥
 建武04(1337)年 今川範国、駿河守護就任
 天正14(1586)年 徳川家康、駿府へ入国
 天正17(1589)年 天守閣・二ノ丸迄完成〔家康は翌年関東移封〕
 慶長13(1608)年 本丸御殿完成
 慶長15(1610)年 天守閣完成
 元和02(1616)年 家康逝去、久能山東照宮に埋葬さる
 寛永12(1635)年 城下より出火、天守閣・御殿・櫓等大半焼失
 寛永15(1638)年 天守閣以外を再建
 平成元(1989)年 復元巽櫓完成

[29]駿府城公園内から巽櫓を望む
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------------------------[30]東御門橋と東御門
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[31]天守閣跡に立つ徳川家康の銅像
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【小生comment】
 駿府城は、江戸時代以降、城主となったのは、徳川家康の他は後に紀伊和歌山城主となった徳川頼宣と、三代将軍家光の実弟、忠長、そして幕末徳川宗家を継いだ徳川家達(いえさと(1863-1940))の3人だけで、江戸時代は幕府直轄領として、駿府城代が置かれた。
 巽櫓は拝観料200円で見られる。中に入ったらvolunteerの40歳前後(‥だと思う‥)の女性が居て、説明してくれるというのでお願いしてみた。
 中々詳しい説明で勉強になった。彼女に‥
 「駿府城公園へ来たら、一度公園から直ぐ西の所に『静岡 浅間(せんげん)神社』があり、その本殿は通常見れないのですけど、社務所で拝観料500円を奉納すれば見せて貰えます」と言われ、実際やってみた。

【3】『浅間神社』
 市立静岡病院前直ぐの所にある赤鳥居を潜り、浅間通りという一本道を500m北西に進むと其処が『静岡 浅間神社』である。
 早速、社務所に行き、「浅間神社の本殿を拝ませて欲しい」旨お願いして500円差し出すと、「ほんの少し前お一人希望者があって出かけたばかりなのでご一緒に説明を聞いて下さい」と社務所の方が案内してくれて目的地の『本殿』に連れていってくれた。
 本殿には、初老の案内人〔←この方もvolunteer〕と見学者の女性が一人居た。
 お参りを済ませてからは、この案内人の先導で約1時間に亘る「静岡浅間神社」内の『七社参り』が始まった。
 『七社』とは、
 ①浅間(あさま(‥この本殿だけは「あさま」と呼び、その他は「せんげん」と呼ぶ‥))神社
  ・延喜元(901)年、醍醐天皇の勅願に拠って、現在の富士宮の「富士山本宮」のご分霊を勧請「富士新宮」として祀った
  ・「浅間(せんげん)神社」本殿は同じ境内の中に、この①「浅間(あさま)神社」と②「神部神社」の2の神社がある
  ・①②の本殿の前に「大拝殿(二階拝殿)」→「舞殿」→「楼門」と並んでいる
 
 ②神部(かんべ)神社
  ・登呂遺跡時代からのこの地方では最古の神社
 ③麓山(はやま)神社
 ④少彦名(すくなひこな)神社
 ⑤八千戈(やちほこ)神社
 ⑥玉鉾(たまぼこ)神社
 ⑦大歳御祖(おおとしみおや)神社

[32]八千戈神社の前にて
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------------------------[33]浅間神社「大拝殿」の前にて
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 33a_2

------------------------[34]浅間神社「楼門」から「舞殿」→「大拝殿」を望む
 34_2

[35]全部廻って押印した浅間神社『七参り ご朱印札』
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【後記】「静岡 浅間神社」は、初めて訪れたが、大きな、そして由緒ある神社で、勉強になった。
 神社を後にして、往路と同じ「浅間通り」を歩いていたら、B1gourmetで有名になったご当地名物「静岡おでん」を売っている店を見つけた。
 まだ食べたことがなかったので、3本買って食してみた。1本80円。美味であった。写真は皿に乗った「はんべん」「こんにゃく」「ゴボウ巻き」と店で売っていた「静岡おでん」。
 旅に出ると、新たな発見があって、実に楽しいものである。

------------------------[36]小生が注文した「静岡おでん」
 36

[37]店で売っていた「静岡おでん」
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 又、明晩は、時習26回【1-4】のクラス会をトライアゲインで開催します。9名が何年かぶりに再会します。この模様は次回《会報》をお楽しみに!
 ではまた‥(了)

2013年6月 7日 (金)

【時習26回3-7の会 0449】~「05月28日:豊橋市美術博物館『木村荘八』展を見て」「池田清彦『人間、このタガの外れた生き物』を読んで」

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0449】号をお届けします。
 気象庁は、28日、「近畿地方と東海地方で」、29日、「関東甲信越地方で、梅雨入りしたと見られる」と発表。近畿・東海地方は平年より11日、関東甲信越地方は10早い梅雨入りである。近畿・東海地方の5月の梅雨入りは2011年以来、関東甲信越地方は2008年以来、過去3番目に早い梅雨入りということである。
 ところが、梅雨入り以降、雨が降らない‥と言っていたら、今晩は東海地方は大雨注意報が出ている。(笑)
 拙宅では、当節の花、紫陽花が蕾を膨らませ、開花を待っている。
 アジサイは、ユキノシタ科の落葉低木。日本特産の園芸種。伊豆や房総半島の海岸沿いに自生するガクアジサイが原種という。
 紫陽花を詠んだ古今の名句を探してみた。

 紫陽花や 藪を小庭(こにわ)の 別屋敷  松尾芭蕉(1644-94)

 鍛冶の火を 浴びて四葩(よひら)の 静かなり  富安風生(1885-1979)
 ※ 四葩(よひら)=紫陽花のこと。手毬花(てまりばな)、七変化(しちへんげ)とも呼ばれる

 紫陽花の 浅黄(あさぎ)のままの 月夜かな  鈴木花蓑(はなみの)(1881-1942)
 ※ http://www.color-sample.com/colors/163/ (←浅葱色(あさぎいろ))
   http://www.colordic.org/colorsample/2093.html (同上)
【意】薄明るい月夜である。紫陽花の花が月光を浴びて、浅葱色した手毬の様に浮かんで見える。

 これ等三句の中では、鈴木花蓑の作品が一番好きだ。非常に絵画的で情緒がある。何処か神秘的な不思議な美しさを感じる。
 小生もこの絵画的な作品に触発されて拙句を一句‥

[00a]&[00b]浅葱色した紫陽花の花
 00a
 00b

【詞書】どんよりとした梅雨空の下、拙宅の中庭にある紫陽花が浅葱色した大輪の花を咲かせている
 湿気を帯びたやゝ薄暗い空間に、鮮やかな light blueの紫陽花の花が、圧倒的な存在感を以て迫って来る

 曇天に 浅葱が栄(は)ゆる 四葩(よひら)かな  悟空

 今回(の作品)も、いまひとつだなぁ‥(^^;

■さて話変わって‥、去る05月28日(火)の昼休みに、会社から自転車で10分弱と所にある豊橋市美術博物館で05月25日から開催中の『木村荘八(しょうはち)』展を見て来たのでご紹介したい。
 なかなか良い展覧会であった。

[01]豊橋市美術博物館『木村荘八』展leaflet
 01leaflet_1936

 木村荘八(1893.08.21-1958.11.18)について、田中淳氏が『木村荘八‥‥わたしは東京を呼吸してい生きてゐる』にて解り易く説明している。

【はじめに】
 木村荘八は、実に多芸多才で多面的である。というのも、洋画家、小説の挿絵画家というばかりでなく、翻訳、文藝、風俗、演芸等に亘る旺盛な文筆活動、更に新派等演劇・映画の美術考証から小唄、三味線等、仕事か趣味なのか境目もはっきりしない儘、多岐に亘る活動をしたからである。その多面性は、東京と言う都市で育まれたものであり、同時に芸術家木村荘八の本質を形成している。〔後略〕

【1 荘八の「明治」‥江戸と東京の間】
 荘八は、1893(明治26)年08月、東京市日本橋区吉川町一番地の牛肉店(‥牛鍋屋‥)「いろは」第8支店に、木村荘平の第8子として生まれた。母は鈴木ふく。父荘平は、最も盛んな時は市内の20あまりの「いろは」を経営。夫々の支店には、女性を経営者に置き、またその女性達にも荘平の子供達があり、荘八は母親の違う兄弟姉妹が30人居たという。〔中略〕

 1910年 03月 京華中学卒業 稼業の帳場をつとめる傍ら、暁星中学校夜間部で仏語を習う この頃より白馬会の葵橋洋画研究所でdessinを学ぶ
 1911年 04月 東京美術学校を受験するが不合格となる 12月05日 葵橋研究所に学んでいた岸田劉生と出会う

 荘八は、岸田劉生ととの出会いを次の様に回想している。

 「僕は『人体部の岸田といふヒト』と話さなかつたけれども、或る日、研究所の帰りに、日比谷公園で花壇の写生をしてゐると‥‥僕は研究所の行き帰りには毎日日比谷公園の門あたりの写生をしてゐた‥‥いつ迄も僕の絵をかいてゐるうしろに立つて、貧乏ゆすりをしながら肩の絵の具箱をガタガタ云わせて見てゐる『研究所の人』がある。これが岸田で、その帰り道に連れ立つて、口をきいたのが、相識るはじめであつた〔後略〕」

 青年荘八は、岸田劉生、萬鉄五郎の二人から画家として成長して行く中で決定的な影響を受けることになる。〔後略〕

 1912年 01月17日 萬鉄五郎のatelierを訪ねる 04月 東京美術学校の受験に再度失敗 09月 岸田劉生から誘われ、高村光太郎、萬鉄五郎等も参加してヒユウザン会が発足 10月15日~11月03日 第1回展(会場:東京京橋・読売新聞社)に《風景(虎門附近)》他9点出品 12月 フュウザン会(‥仏語の描画用の木炭fusain‥)に改名

[02]ヒユウザン会第1回展 1912(大正元)年頃(岸田劉生(左下)と木村荘八(右))
 021_1912

【2 荘八の1912年‥‥post印象派、Italy未来派】
 〔前略〕荘八の美術界へのdebutは、フュウザン会に始まる。彼はpost印象派絵画から主観性の強い個性の表現だった。

[03]草土社第5回展覧会写真 1917(大正06)年12月15日
 035_1917061215
 後列左:木村荘八
 中列左より:横堀角次郎(1897-1978)、中川一政(1893-1991)、椿貞雄(1896-1957)
 前列左:河野通勢(こうのみちせい(1895-1950))

【3 荘八の「大正」‥草土社時代】
 フュウザン会は、翌1913(大正02)年03月の第2回展開催を最後に解散したものの、1915(大正04)年10月には、現代の美術社主催の第1回美術展が、やはり読売新聞社を会場に開催された。この展覧会が第1回『草土社展』になったことはよく知られている。『草土社』は、1922(大正11)年の第9回展迄続けられるが、この会の主導者は岸田劉生であり、劉生の強烈な個性と、劉生が志向する擬古典的な写実表現が、同会のcolorとなって行った。〔中略〕
 荘八が(劉生と)互角に、そして真摯に写実表現に集中していることが解る。こうした荘八の自画像が描かれる程、劉生という個人の存在が大きかったことを物語るであろう。今回の展覧会では、『草土社』の同人達の作品も出品されているが、高須光治(みつじ)の『自画像』も、やはり劉生なくしては描かれなかったものである。それ程に、同会は劉生に惹かれ、また劉生を慕う青年画家達に拠る、劉生中心の集団だったのである。

[04]木村荘八『自画像』1913年
 041913

------------------------[05]同『自画像』1914年
 051914

[06]同『自画像』1918年頃
 061918

------------------------[07]高須光治(1897-1990)『自画像』1915年
 07189719901915

[08]中川一政『静物』1921年
 081921

 しかし『草土社』は、『春陽会』の創立(1922年01月)に伴い、これに合流することで、同年終焉を迎え、また荘八は劉生と決別することになる。〔中略〕
 強烈な個性の劉生が、他会員との不協和音を生じ、1925年に脱会した。フュウザン会結成以前から同道して来た同志でもあった荘八は、そうした劉生と別れ、『春陽会』に残ったのである。〔後略〕

[09]同『壷を持つ女』1915年
 091915_2

------------------------[10]同『樹の下に遊んでいる子供』1915年
 101915_2

[11]同『牛肉店帳場』1932年
 111932

------------------------[12]木村荘八『浅草寺の春』1936年 [13]同『三番叟』1938年
 121936_2
 
[13]木村荘八『三番叟』1938年
 131938

------------------------[14]自宅での木村荘八 1949年頃
 141949

【小生comment】岸田劉生は強烈な個性の人である。が、劉生にも負けず劣らず木村荘八も強烈な個性と多彩な才能を持った人物である。
 小生、木村荘八の生涯を網羅した展覧会を今回初めて見たが、感動した。
 以前にもご紹介したが、高須光治氏は、ご当地豊橋市出身で、書籍店の老舗『豊川堂』の創業者一族である。以上は余談‥。

■さて、今日二つ目で最後の話題は、最近読んだ池田清彦著『人間、このタガの外れた生き物』についてである。

[15]池田清彦『人間、このタガの外れた生き物』
 15

 本書は、生物学観点から、「『人間』はこういう生き物なのだ」と教えてくれ、清々しい読了感を持った。大変面白く勉強になった。
 主なIndexをご紹介したいと思う。

◆第1章/生物学からヒトを見れば
 ①戦争をする静物 ②あっという間に世界中に拡散した人間という種 ③ホモ属からホモ・サピエンスへ ④人間というのは自然破壊をする動物である ⑥タガが外れた種 ⑦家畜は人間化する ⑧感染症がなくならない訳 ⑩外国語能力を決める遺伝子

◆第2章/人間の家族、動物の家族
 ③人類は「父親」を誕生させた ④chimpanzeeには父親はいない ⑤「弱肉強食」という言葉は今は使わない ⑦energyが世界を支配している ⑧日本は社会主義国だ

◆第3章/ruleを守れば幸せになる権利があるか
 ⑩compliance至上主義は不便を齎す

◆第4章/生物の世界に会社はない
 ②「人生80年」時代の中年の生き方 ③「自分だけが不幸を背負いこんでいる」は幻想 ④年金問題は解決できる、時間さえかければ ⑤働くアリと喰うだけのアリ ⑥ミツツボアリという生き方

◆第5章/死ぬ迄にどんなふうに生きるのが幸せか
 ①老人はたいていガンになっている ③病気と死とが非日常的になり過ぎた ④寿命は何処迄伸びるか ⑤老化は自然現象だ ⑥IPS細胞が開く未来 ⑦なぜ人間は長生きか ⑧裸のサルになった訳 ⑨生き易い環境に進出する ⑩サバからマグロをつくる ⑪ヒトの性を決める遺伝子

 以上のindexの中から「第5章/死ぬ迄にどんなふうに生きるのが幸せか~⑦なぜ人間は長生きか」をご紹介したい。P.170
 では、どうぞ‥

 生物というのは、基本的に子孫を残したら死ぬものだ。逆に言えば、普通の生物というのは死ぬ迄繁殖能力がある。人間のメスは特異的で、死ぬ30年も前から繁殖能力がなくなる。女の人は50歳位で子供を産めなくなるから、その後、37年も生きていることになる。そんな生物は他にはいない。Chimpanzeeもgorillaも、子供を産めなくなった年齢と寿命というのは、だいたいparallelだ。
 人間の男と女の平均寿命の差があるのは、まず間違いなく男性ホルモン(hormone)の所為だと思う。男性hormoneが老化の原因になる。男性hormoneに拠って色々な所が活発になる。それだけ活性酸素がいっぱい出るということだから、老化が進む。活発になって代謝が激しくなるということは、その分、mitochondriaを使ってenergyを出している訳だから活性酸素が出る。活性酸素は、free radicalといって、他の分子にくっついて、その分子の働きを駄目にする。それで老化が進んでいく。
 男性hormoneが出る人は、一時的に元気だけど、老化が進む。人間の場合は去勢した人の方が長生きすると思う。中国は宦官(去勢した人)制度があったから、調べれば宦官の寿命は普通の男の人より長いことが分かる筈だ。哺乳類だって去勢した方がオスは長生きするというのはだいたい分かっている。

【小生補足】
 2012年09月26日付msn産経ニュースで【宦官は長寿 男性hormoneが短命の原因?】で次の様に述べている。

 多くの生物種でオスは短命な傾向があり、男性hormoneの影響とみられている。少年の頃に去勢を施された宦官は、同時代の男性に比べて14~19歳寿命が長く、100歳以上も3人いたことが分かった。韓国の仁荷大学(Inha University)の生物学者ミン・ギョンジン率いる研究teamは『Current Biology』誌に09月25日付で発表した論文の中で、「男性hormoneが男性の寿命を短くしているとの主張を裏付ける」と述べている。

 http://sankei.jp.msn.com/wired/news/120926/wir12092612470004-n1.htm ←ここをclick願います

 また、宦官と言えば、明の世祖永楽帝の時の軍人の臣下に南海へ7回の大航海を指揮したことで有名な鄭和(1371-1434)がいる。彼も73歳迄生きたから当時としては長寿である。以上、余談まで‥。

 女の人は男性hormoneが出ないから、男の人より長生きする。〔中略〕男より遥かに平均寿命が長くなったのは、安全に子供が産める様になってからだ。〔中略〕
 男の方が寿命が短い理由を、僕(池田)は最初、染色体の長さの所為じゃないか、と思っていた。〔中略〕(男が持っている)Y染色体には、SRYという小さな遺伝子があって、それが性を決めているのだけれど、それ以外はあんまり大した遺伝子は乗っていない。X染色体に大事な遺伝子がいっぱい乗っている。例えば、X上に病気の遺伝子が一つあるとする。大抵の病気の遺伝子は劣性ホモ【注】で発現する。XXの双方に同じ遺伝子が乗っていないと、女の人の場合はその病気は発症しないけれど、男の場合Xが一つなので一つの病因遺伝子で発症する。〔中略〕男の方が、遺伝的な疾患は女の人より多くなる。血友病もそうだし、筋ジストロフィー(dystrophy)も男の人の方が圧倒的に多い。

【注】ホモ(Homo):復相の個体で、ある遺伝子が二つとも同じ場合、その遺伝子についてホモという。染色体が優性がA、劣性aとした場合、「劣性のホモ」=「aa」。

 因みに、「優性ホモ」=「AA」、「ヘテロ(hetero接合型)」=「Aa」。

 人間の女の人が長生きするのは『孫の面倒を見る為』という話も有力で、自分の子供の面倒を見るよりも、孫の面倒を見ることに拠って、自分の遺伝子を孫という形で残していった方が、自分がriskを冒して出産するよりも、有利だという説だ。〔中略〕
 男の人が長生きするのは次世代の人の面倒を見る為だという説もある。社会が複雑になって来ると、物事を調停する必要がある。若い奴が調停すると、調停者が例えば性的なrivalになったりしてややこしい。〔中略〕爺さんが出て来た方が、上手くいくことが多い。様々な技術の伝承や、恐ろしい経験を覚えていて伝えることも出来る。〔中略〕『年寄りの知恵』というのが昔は大切だったのだろう。そういうことで、人間は長生きを始めたのではないか。年寄りが居るか居ないかで集団の利益が違う。年を取るということが、集団にとってplusの意味がある。そう言うことで人間の寿命は他の霊長類と比べて伸びたのではないかという説だ。
 だいたい寿命は体の大きさに比例する。其処から測ると人間は精々50歳位の寿命が妥当な処だ。実際は倍は生きている。Gorillaは人間より大きいから、もっと生きても良さそうなのに、50歳位までしか生きない。Chimpanzeeは40歳位。そう言うことを考えると、人間は霊長類の中でも特異的に長生きする動物だと言うことになる。「年寄りがいる理由」というのが、きっとあるのだと思う。

【後記】06月02日(日)、小生の銀行時代の同期の仲間達23人に拠るゴルフコンペが三重県北勢市の京ヶ野ゴルフ倶楽部であり、その表彰式・懇親会修了時に撮影した全体写真をご覧に入れてお別れします。小生は後列右端。
 我々旧銀行時代の同期は、幹事が確りしているので結束力が固い。年2回、ゴルフを春秋に、飲み会を01月と07月にこれも年2回行っている。
 入行して今年で35周年。お互い結構歳をとったが気分だけは新人であった20代のつもりで旧交を温め合っている。

[16]53の会Golf Competition in 京ヶ野GC 20130602
 1653golf_competition_in_gc_20130602

 ではまた‥(了)

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