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2013年7月12日 (金)

【時習26回3-7の会 0454】~「歴史街道2013年07月号『八重と会津戦争』から‥」他を読んで

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0454】号をお届けします。
 今週は、【2637の会】「クラス会」の出欠表明状況について動きはありません。
 【2637の会】membersの皆さんからの朗報をお待ちしています。m(_ _)m

■さて今日の話題は、NHK大河ドラマ『八重の桜』についてである。今、drama前半のclimax「会津戦争」が放映されている。

[01]歴史街道2013年07月号『八重と会津戦争』&NHK大河ドラマ『八重の桜』ガイドブック2冊
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------------------------[02]同誌からsnap shots
 02snap_shots

 掲題・副題にある様に、「歴史街道2013年07月号『八重と会津戦争』」や「NHK大河ドラマ『八重の桜』‥『完全guidebook』&『続・完全読本』」を読んでみた。
 今回の大河ドラマ『八重の桜』は、明治維新をこれ迄の勝利者である薩摩・長州から描いたものとは異なり、賊軍とされ、敗者となった会津の人達からの眼で描いており、そういう点から画期的なdramaである。
 果たして、昔から「戦争の『勝利』者が『正義』」であるのは厳然とした事実である。

 「明治維新」があったからこそ、日本が西洋的な近代国家に脱皮出来たことは誰もが認めることである。
 しかし、会津藩の人々にとっては、新政府軍が会津を賊軍と呼び攻めて来ることを「理不尽」と思ったことも又当然であると言えよう。
 藩主松平容保(1836-1893)が、一橋慶喜(1837-1913)と松平春嶽(1828-1890)からの再三の就任要請を断っていた「京都守護職」に文久02年閏08月01日(1862年09月24日)就任したことにより、会津藩の厳しい命運が定まったのである。容保が就任を受諾したのは、春嶽が「会津藩祖・保科正之(1611-1673)の〔‥会津藩たるは将軍家を守護すべき存在‥という〕『家訓』」を引き合いに出して説得したからだという。
 兎も角、松平容保以下会津藩兵1,000人は、〔‥去る05月18日時習26回生卒業40周年記念旅行&懇親会の「下見旅行」で水藤君【3-6】と訪れた‥〕京都左京区黒谷にある『金戒光明寺』に本陣を置いた。が、慶應03年12月09日(1868年01月03日)の王政復古の大号令に拠り旧職位が廃止されたことにより、「京都守護職」も5年半弱で廃止された。

 以下、戊辰戦争の流れを掻い摘んで以下にお示しする。NHK大河ドラマ『八重の桜』での「会津戦争」に至った背景を理解する一助となれば光栄である。

 ※ ※ ※ ※ ※

 王政復古の大号令から三週間余り経った慶応04年01月02日(1868年01月26日)、幕府軍艦2隻が兵庫沖に停泊中の薩摩藩軍艦に砲撃を与え、事実上の戊辰戦争が始まる。翌03日、京都の南郊外の鳥羽と伏見に於いて、薩摩藩・長州藩連合の新政府軍と旧幕府軍が戦闘状態に‥〔【鳥羽・伏見の戦】‥。これも去る05月18日卒業40周年記念の「京都下見旅行」にて「寺田屋」を訪れた際、其処から直ぐ南傍の橋の袂、伏見での「激戦地跡」の石碑を見ている‥〕

 この05年半の間、会津藩が京都で関わった歴史的事象を集めてみると‥
 ※ 文久03年08月18日(1863年09月30日)【八月十八日の政変〔堺町門の変〕】:会津藩と薩摩藩を中心として公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したCoup d'état‥〔翌08月19日:長州藩兵千余人と三条実美(1837-1891)を始めとする公卿7人が妙法院から長州へ下った「七卿落ち」〕
 ※ 元治元年07月19日(1864年08月20日)【禁門の変〔蛤御門の変・元治(げんじ)の変〕】:前年の八月十八日の変で京都を追われた長州勢力が、「京都守護職」松平容保等の排除を求めて挙兵した事件。この事件は京都市街3万戸が焼失する大被害が発生。これに拠り、長州藩が「朝敵」となり「長州征伐」へ〔‥【蛤御門】も去る05月19日「京都下見旅行」の二日目に訪れている‥以上、余談まで〕
   →・長州藩側の総大将は、長州藩支藩徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ(1777-1866))の六男で永代家老となった福原元僴((もとたけ)1815-1864)、元僴は「禁門の変」の責任を取り同年自刃。久坂玄瑞(1840-64)も指揮官の一人として参戦、変と同日自刃している
 ※ 元治元年07月23日(1864年08月24日)【第一次長州征討】:朝廷は【長州追討】の勅令を発した
   →・元治元年12月15日(1865年01月12日)に高杉晋作(1839-1867)が藩内保守派打倒の為(下関市長府)で起こした「功山寺(こうざんじ)挙兵」に端を発するCoup d'état‥〔元治の内乱〕
   →・慶應02年01月21日(18日・22日説もある)【薩長同盟〔の密約〕】:土佐藩の坂本竜馬(1836-1867)・中岡慎太郎(1838-1867)の仲介で、薩摩藩・西郷隆盛(1828-1877)、小松帯刀(たてわき(清廉(きよかど))(1835-1870))と長州藩・木戸孝允(1833-1877)が京都の小松邸で会見、対幕府で軍事協力する旨合意
 ※ 慶應02年06月07日【第二次長州征討】:幕府軍に拠る周防大島への砲撃で始まるが、幕府側の小倉藩敗北に拠り、幕府側の敗北が決定的となる

 話は、【鳥羽・伏見の戦】に戻る。
 慶應04年01月04日、仁和寺宮嘉彰((にんなじのみや よしあきら)後年の小松宮彰仁(こまつのみや あきひと))親王(1846-1903)を征討大将軍とし、錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下る。これに拠り、薩長軍が正式に「官軍」に、旧幕府軍は「賊軍」とされるに到り、形勢は大きく新政府軍有利に傾いていく

 この2日後の01月06日、徳川慶喜は自軍を捨て大阪城から海路江戸へ退却。これに拠り、旧幕府軍の戦意は大いに喪失、幕府軍下の各藩は軍を引いた

 慶應04年01月17日 新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に【会津藩追討】を命じた
 同年03月02日 奥羽鎮撫総督九条道孝(1839-1906)【注】が京都をたって03月23日仙台に入る
 【注】九条道孝(みちたか)は五摂家の当主、最後の「藤氏長者」。彼の四女節子((さだこ)1884-1951)が大正天皇の皇后、貞明(ていめい)皇后
 〔‥以下も余談‥即ち、九条通孝は昭和天皇の母方の祖父、今上天皇の曽祖父に当たる‥〕

 同年04月11日(1868年05月03日)【江戸城無血開城】

 同年閏04月11日 奥羽14藩は仙台藩領の白石城にて列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」等を奥羽鎮撫総督に提出
 同年閏04月23日 新たに11藩を加えて白石盟約書調印
 同年05月03日【奥羽列藩同盟】:奥羽25藩による盟約書が調印され、太政官建白書(‥会津・庄内両藩への寛典を要望‥)を作成
 同年05月04日 新政府軍との会談が決裂した越後長岡藩が加盟
 同年05月06日 新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入、計31藩による【奥羽越列藩同盟】が成立

 同年05月15日(1868年07月04日)【上野戦争】彰義隊が新政府軍の新兵器・アームストロング砲により一日で壊滅

 同年07月26日「三春藩」降伏、07月28日「弘前藩」、29日「二本松藩」、08月06日「相馬中村藩」、09月04日「米沢藩」、12日「仙台藩」、15日「福島藩」「上山藩」、17日「山形藩」、18日「天童藩」、19日「会津藩」、20日「盛岡藩」、23日「庄内藩」と次々と降伏、奥羽列藩同盟は瓦解
 会津藩は、08月23日に会津城下に新政府軍が進軍後、一ヶ月近く持ち堪えたが、09月19日遂に降伏した

 〔‥此処で更に余談である‥慶應04年09月08日(1868年10月23日)に「改元の詔書」が出され、慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。従って、戊辰戦争の回線の火蓋が切られた【慶應04年01月02日】は、同年09月08日になって【明治元年01月02日】に改められたことになる‥〕

【後記】山本八重(1845-1932)の弟の三郎(1848-1868)は慶應04年01月鳥羽・伏見の戦で負傷し海路江戸へ搬送されるが同地にて死去(享年20歳)。
 八重の父、権八(1809-1868)も、50歳以上の藩士で編成された玄武隊に所属。09月15日、会津城外へ出陣。政府軍への最後の総攻撃で戦死(享年61歳)。
 兄の山本覚馬(1828-1892)は京都にて薩摩藩に捉えられ幽閉中であった。

 会津藩士の多くが斃れていく中、明治時代になって活躍した旧会津藩士も幾人かいることを忘れてはならない。
 活躍した彼等をご紹介したい。
 小生の2010年05月22日付《会報》【0291】号をご参照頂ければ幸甚である‥
 ここをclickして下さい→【0291】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/26-029105150423.html 

 戦下の会津城に会津地方の伝統芸能「彼岸獅子」を先頭で舞わせ乍ら入城するという離れ業を演じた豪胆なleader山川大蔵(1845-1898)。
 大蔵は明治時代、陸軍軍人として少将に迄栄進して活躍。1877年の西南戦争では熊本城を守った谷干城(たに たてき(1837-1911))以下新政府軍の救援を成功せしめた。
 のち維新政府文部大臣・森有礼(1847-1889)の命により、東京高等師範学校(現・筑波大学)・女子高等師範学校(現・お茶の水大学)校長、貴族院議員を歴任。
 彼の弟には、東大・京大・九大総長となった山川健次郎(1854-1931)。
 妹には、元老・大山巌の妻となった「鹿鳴館の華」と称された大山捨松(1860-1919)がいる。
 健次郎も捨松も米国留学を経験、研鑽を積み、帰国後活躍する。
 又、西郷頼母(1830-1903)の妻女等と同じ様に、祖母・母・姉妹が自決した柴五郎(1860-1945)。
 柴は、中佐時代、北清事変で活躍し、日英同盟の礎となった。のち陸軍大将迄栄進している。
 2010年05月15日付《会報》【0290】&同年05月29日付【0292】号ご参照
 ここをclickして下さい→【0290】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/26-02900510mail.html

              →【0292】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/26-029205220515.html 
 鳥羽・伏見の戦で祖父と父が戦死し幼くして家督を継ぎ、自身は苦学して東京帝大→外務省、外交官として活躍した林権助(はやし ごんすけ(1860-1939))。
 会津藩藩祖・保科正之の家訓は「日新館」を通して脈々と受け継がれていたのである。

[03]1928年『京都会津会‥秋季例会‥全体写真』
 031928

------------------------[04]添付写真[03]の拡大図:左端「新島八重」、2人置いて林権助、以下[03]に同じ
 0403203

 添付写真は、会津藩が本陣を構えた「金戒光明寺」の塔頭「西雲院」にて昭和03(1928)年11月17日、「京都会津会」の「秋季例会」での記念写真。
 前列左から3人目が新島(山本)八重、同じく左6人目から、林権助・松平恒雄・松平保男・山川健次郎・柴五郎。
 松平保男(1878-1944)は、松平容保の息子で第12代会津藩当主。
 松平恒雄(1877-1949)は、同じく松平容保の息子で、松平保男の実兄。学習院→一高→東京帝大法科大学→外務省、宮内大臣、戦後は参議院議長を歴任。娘節子((のち勢津子)1909-1995)は秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902-1953)妃。
 会津の著名人達は、夫々が頑張って生き抜いて来たのである。
 彼等の生き様を知る程に、彼等の立派さを痛感する。現代日本人が如何に軟弱になって仕舞ったかも‥。
 彼等の努力に心から敬意を表して止まない。

 ※ ※ ※ ※ ※

 繰り返しますが‥、今夏08月10日(土)の【2637の会】『クラス会』‥、皆さんからの朗報をお待ちしています。
 ではまた‥(了)

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