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2013年7月の4件の記事

2013年7月26日 (金)

【時習26回3-7の会 0456】~「07月20日:トヨタ記念館・鞍ヶ池アートサロン『五感を澄まして/視る・聞く・かぐ・こころに触れる―それぞれの絵画』展&名都美術館『collection展/初夏の響き』を見て」「NHK取材班/『空海の風景』を旅する‥を読んで」

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0456】号をお届けします。
 今日も先ず【2637の会】「クラス会」の出欠表明状況についてからご報告します。
 朗報です。24日、井上N生君から「出席」表明のmailが届きました。

Sent: Wednesday, July 24, 2013 9:30 PM
井上N生です。今年は出席させていただきます。よろしくお願いします。

 井上君、「クラス会」への参加表明有難う! 久し振りの再会ですね。 08月10日は楽しいひとときを過ごしましょう!

 これで、「出席」表明者は、菰田君、伊東君、千賀君、井上君の4名になりました。嬉しいですね!(^-')b♪
 まだお返事を頂戴していない【2637の会】membersの皆さん、来月10日の「クラス会」の件、朗報を心よりお待ちしています。
 これ迄「クラス会」に参加されたことのない皆さんも、一度この機会に是非参加してみて下さい!

■さて今日の話題は、去る07月20日(土)に、豊田市鞍ヶ池にある「トヨタ記念館・鞍ヶ池アートサロン」と、長久手市にある「名都美術館」へ行って来ましたのでその模様をお伝えします。

※ 最初は、鞍ヶ池アートサロンで現在開催中の「五感を澄まして/視る・聞く・かぐ・こころに触れる‥‥それぞれの絵画」展である。
 以下、出品目録の内容をご紹介します。

【聴覚】
01.西村計雄((けいゆう)1909-2000)『カスタネット(castanet)の夏』1959年作02.掘 浩哉((こうさい)1947-)『風の音に』1980年作
03.ズデンカ・ティレセク(チェコ共和国(1948-))2000年作
04.アレクセイ・アレクセイヴィッチ・ハラモフ(露(1840-1925))『リュートを奏でる婦人』1900年作
05.フランシス・シドニー・ムシャンプ(英(1851-1929))『ピアノの憩い』1882年作
[01]01185119291882a

06.ジャン・ピエール・カシニョ―ル(仏(1935-))『ないしょ話』1988年作

【味覚】
07.安井曾太郎(1888-1955)『白桃』1936年作
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 安井曾太郎の絵は、小生の親父が大好きで、小生のその所為でかなり以前から好きになった画家である。
 本作品『白桃』をご覧頂けばお解り戴けると思うが、彼の絵は単純な写実ではない。彼流にデフォルメして あり、それが作品に独特の品格を与えている。
 因みに、安井曾太郎は、洋画家としては、岡田三郎助(1937年)、藤島武二(同左)、和田英作(1943年)に続き、梅原龍三郎(1952年)と共に4番目の文化勲章受章者である。

08.小磯良平(1903-1988)『静物』1960年代作
09.藤田嗣治(Leonard FUJITA(1886-1968))『forkを持つ少女』1951年作
[03]鞍ヶ池アートサロン『五感を澄まして』展leaflet/絵は「藤田嗣治『forkを持つ少女』」
 03leafletfork

 小磯良平は、小生大好きな洋画家である。肖像画、中でも群像が特に上手い。それ等に比べると静物画は今一つかな‥。
 藤田嗣治の絵はいつ見ても魅力的でいいものだ。彼の絵には、何故だか余裕の様なものを感じる。

10.梅原龍三郎(1888-1986)『静物』1940年作
11.中川一政(1893-1991)『いちぢく』1960年代作
12.宮本三郎(1905-1974)『海の幸』1958年作
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/26-0420110970-1.html ←ここをclickして下さい
 [19]宮本三郎『山下、パーシバル両司令官会見図』1942年‥←これがご覧頂けます

【触角】
13.藤田吉香(よしか(1929-1999))『伊予手毬』1979年作
14.藤田嗣治(Leonard FUJITA(1886-1968))『親子猫』1940年作
15.地主悌助(じぬし ていすけ(1889-1975))『石』1970年作

【視覚】
16.パトリック・ヒューズ(英(1939-))『BOOKS ARE LIKE PEOPLE』1990年代作
 この絵を見た途端、目線をずらすと図書館を描いた画面が動き出す摩訶不思議な絵である。
 よく見ると、立体画になっていて、目線をずらすに従い、絵も動くという仕掛けになっている。
 これは「百聞は一見に如かず」なので、是非「鞍ヶ池アートサロン」に行って御自分の眼で直接確かめてみて下さい。
 ホント、良く出来ただまし絵の様ですね。ご覧になったら必ず吃驚されますヨッ!(^^;

【嗅覚】
17.木下孝則(1894-1973)『バラ』1960年代作
 この『バラ』も素晴らしかった。非常に品があっていい。何処か安井曾太郎の『薔薇図』にも似た雰囲気を持っている‥。

18.中川一政(1893-1991)『夏花図』1960年代作
19.牧野虎雄(1890-1946)『朝顔』1940年頃作
20.上永井正(かみながい ただし(1899-1982))『アネモネ』1979年作
21.鬼頭鍋三郎(1899-1982)『洋蘭図』1960年代作

※ 続いて向かったのが、長久手市にある名都美術館である。この美術館は、日本画のcollectionで有名である。
 現在(2013年06月11日~21日)開催中の企画展は『初夏の響き』。
 展示作品は、著名な日本画家17名全25点。その内訳は‥
 伊東深水(1898-1972)『七夕』『清涼』『緑庭』『緑蔭』『竹椽』『夜会巻』『ボンボン時計』『赤と白』8点
[04]伊東深水『緑庭』
 04

 酒井三良(1897-1969)『水郷閑日』『山路』2点
 伊藤小坡(1877-1968)『青楓』
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 小倉遊亀(1895-2000)『初夏の花』
[06]名都美術館『初夏の響き』展leaflet表面/絵は「小倉遊亀『初夏の花』1972年」
 06leaflet1972

 小山硬(おやま かたし(1934-))『飛翔』
------------------------[07]名都美術館『初夏の響き』展leafletの裏面左側の2羽の鶴「飛翔」の絵
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 鏑木清方(1878-1972)『白雨』
 加山又造(1927-2004)『牡丹』
 川合玉堂(1873-1957)『水聲鳥語』
 杉山寧(1909-1993)『紫陽花』
 関主税(1919-2000)『湖』
[08]0819192000

 土田麦僊(1887-1936)『露草図』
[07] 名都美術館『初夏の響き』展leafletの裏面左下の「露草」の絵

 堂本印象(1891-1975)『新しい水』
 橋本明治(1904-1991)『カトレヤ』
 前田青邨(1885-1977)『立葵』
 まつ(=「ウ」冠に「公」、その下に「木」)本一洋(1893-1952)『蛍』
 横山大観(1868-1958)『海暾(かいとん)』
[07] 名都美術館『初夏の響き』展leafletの裏面左下の「露草」の絵の右隣の「海岸と松林」の絵

 横山操(1920-1973)『赤富士』、各1点

 本展には、併設企画として、愛知県立芸術大学日本画研究室の教授・院生・学部4年生15名全18作品と、同大学所蔵の片岡球子『松竹梅の赤富士』・田渕俊夫『青木ヶ原』の2点が特別出品されていた。
 本展出品作品の中では、小生、leaflet表面[06]小倉遊亀『初夏の花』が一番気に入っている。
 ガラスの花瓶に桃色の山躑躅の花、そして黄色い果実‥不思議と清涼感が伝わって来て気持が良い‥名画だと思う。

■さて、今日最後の話題は、NHK取材班「『空海の風景』を旅する」についてである。
[09]09nhk

 前《会報》にて「空海」が開創した「高野山」についてご報告させて頂いたが、やはり「空海」についてもう少し詳しいことを知りたくなって、以前から買い置きしていた本書を読みな直してみた。少し、ご紹介させて戴くこととする。
 因みに、小生、本著の他には、本著が上梓される源泉となっている、司馬遼太郎『空海の風景(上・下)』(1975年刊)と、陳舜臣『曼荼羅の人(空海求法伝)(上・下)』(1984年刊)も積ん読の儘となっている。これ等を通読してから纏めてご紹介しようとも思ったが近未来的には難しそうな為諦めた。(^^;
 そこで今日は、空海が入唐を決意した理由と真言密教を日本へ齎した経緯をepisodeと共にお伝えしてみたい。

 先ず、空海の略歴から‥
774(宝亀05)年 06月15日、讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現・香川県善通寺市)で生まれる
        父は郡司・佐伯直田公(さえきあたいたぎみ)
        母は、伊予親王(桓武天皇の子)の教師であった儒学者・阿刀太足(あとのおおたり)の妹(‥娘という説あり‥)
        宝亀05年06月15日は、新暦でいうと774年07月27日‥そう、1239年前の丁度明日が空海の誕生日なのである
788(延暦07)年 (15歳)平城京へ
789(延暦08)年 (16歳)阿刀太足の許で、論語・孝経・史伝・文章等を学ぶ
791(延暦10)年 (18歳)京の大学明経科に入学
793(延暦12)年 (20歳)大学に於ける勉学に飽き足らず、阿波国大瀧嶽((だいりゅうだけ)=舎心ヶ嶽)等の山林での修行を始める
804(延暦23)年 (31歳)04月 東大寺戒壇院で具足戒を受ける。「空海」を名乗り、
        05月12日第16次遣唐使の一行に加わり、難波津を出帆
        07月06日 肥前国松浦(まつら)郡田浦(たのうら)を出港、翌日より暴風雨に遭い漂流
        
 〔「『空海の風景』を旅する」を以下『空海の‥』という)‥「第五章/渡海」から‥〕
 日本から唐迄は凡そ700㎞の航路であり、記録に拠れば、最短でも約10日を要す。空海は漂着迄34日間かかった。P.143〔中略〕

 空海は生来、山岳を好み、厳しい肉体的精神的鍛錬を経て力を得た。かたちの上では私度僧乍ら、実としては都の官僧を上回る知識と実践を積んで来た自信があったことだろう。深い個の自覚と自信に支えられた空海が、いきなり人生の方針を転換して今更国家承認の僧侶になろうとする理由が見当たらない。空海の得度受戒の理由は、惟一つ、唐に渡りたいと願う何らかの理由が突如発生し、その目的を達する為の手段として行われたと考えるのが自然だ。P.148
 司馬遼太郎は、その「動機」を、空海がある経典を発見したことに拠ると考えた。
『大日経』と呼ばれる密教の根本経典の一つである。
『大日経』は、従来の仏教経典とは全く異質の新鮮さを持っていた。それ迄の経典が実在の仏陀(釈迦)が説法する形式をとるのに対し、『大日経』では、歴史上の実在人物ではない法身((ほっしん)=永遠なる宇宙の理法そのものとして捉えられた仏の在り方)の大日如来が、直接、仏の最高の悟りの知恵とは何かを説く。
 インドで成立したのは七世紀末頃と言われ、それが唐に伝えられ漢訳されたのは724~5年のことだという。〔中略〕多くの経典を読破し、山岳修行を積んで断片的な密教(【小生注】「雑密」=呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教)を次々と身に付けていた空海も、この時既にインドでは雑密を超えて『大日経』を中心に据えた新しい密教体系が成立していることは知らなかったに違いない。『大日経』は思想的年代的に当時最先端の経典だったということが出来る。P.148〔中略〕

 ※ 空海は、この(【同】『大日経』)漢訳を読むことに拠って大日経の理論は理解出来た。
 但し、空海にも解せない部分がある。大日経には、仏と交感して其処から利益(りやく)をひき出すという方法が書かれている。その部分は、秘密(=宇宙の内面の呼吸の様なもの)であるが為に、宇宙の言語である「真言」を必要とし、又交感の為には真言だけでなく「印(いん)を結ぶ(【同】=両手の指を様々に組み合わせて宗教的理念を象徴的に表現すること)」等の所作を必要とした。〔中略〕こればかりは手をとって伝授されることが必要であった。
 空海はこれが為に入唐を決意した。大日経に於ける不明の部分を解く為であった。空海の入唐目的程明解なものはない。※ p.149
 〔※~※『空海の風景』六より引用〕

804(延暦23)年  08月10日 福州長渓県赤岸鎮に漂着‥空海は大使・藤原葛野麻呂(かどのまろ)と共に第一船に乗船〔cf:最澄は第二船に乗船〕
        10月03日 福州に廻航させられる。大使・葛野麻呂の為に、福州の長官宛に上陸許可を求める書を代筆
        11月03日 福州を発って長安へ向かう

 空海を乗せた遣唐使船第一船が唐の赤岸鎮に漂着してから長安へ出発する迄の3箇月間に起きたepisodeを『空海の‥』で以下の様に述べている。

 必死の思いで浜辺に辿り着いた空海達だったが、上陸は許されなかった。〔中略〕
 運の悪いことには、第一船に乗っていた遣唐大使の藤原葛野麻呂は、国使であることを証明する書類を一切持っていなかった。葛野麻呂は、〔中略〕何度も書状を書き、地方長官に提出したが、無視された。〔中略〕
 万策尽きた葛野麻呂は、唐語に優れると評判の空海に助けを求めることになったのだ。P.168〔中略〕

 空海は、大使の代筆を引き受けた。
 その文章は『性霊集』に収められた「大使の為に福州の観察使に與うるの書」に残されている。代筆して相手に渡した筈の手紙の文章がどうして残っているのだろう。〔中略〕いずれにしても、『三教指帰(さんごうしいき)』(797年空海24歳の作)を記してからプッツリと消息を絶っていた空海の「空白」期は、この代筆書簡の執筆に拠って打ち破られるのである。P.169
 空海の手紙は、福州の地方長官を驚かせた。それは、この後、一行の扱いが急変したことで解る。船の封は解かれ、一行は正式な国使として上陸を許され、衣食住のもてなしを受けた。
 空海の手紙は、何故中国の人々の心を動かしたのだろう。
 福建省には「空海研究会」という有志の集まりがあると聞いていた。
 私達は、彼等に集まって貰い、中国人から見た空海の手紙の印象を尋ねることにした。
「空海研究会」は、現在、霞浦県役場の中にある。会員は、此処だけで50人。全国では大学の研究者を含め120人を超す。P.170
 地元の研究会を主宰者陳さん(76歳)は〔中略〕「空海大師を単に宗教者と捉えるだけでは浅いのです。空海大師は中国人にとっても優れた書家であり、文学者でした〔中略〕」という。〔中略〕
 又、研究会の重鎮である二人に「現代の中国の方が読んでもこれは優れた手紙なのでしょうか?」と尋ねてみた。P.171
「恐ろしい迄のlevelの高さです。当時、空海は31歳の青年で、しかも日本人でした。その様な人がこれを書いたとはとても信じられません。でも事実なのです。恐らく空海は子供の頃から日本の中でも飛び抜けた中国文化の中で生活して来たのではないでしょうか。私は国語の教師でしたが、こんな文章がかける中国の青年にお目にかかったことは、終にありませんでしたよ(笑)」P.172
 前述の陳さんはこうも言った。
「全国で使われている高校の教科書には、日本人の名前が3人出て来るんです。吉備真備、阿倍仲麻呂、そして空海」。
 いずれも遠い遥かな時代の遣唐使であることが、現代を生きる私(=本稿の著者鎌倉英也氏)に複雑な思いを抱かせる。P.173〔中略〕

 〔「『空海の‥』‥「第六章/長安」から‥〕
        12月24日 遣唐使第一船の空海等23人は長安入城を果たす。
 この23人の中には遣唐大使・藤原葛野麻呂をはじめ、のちに空海と共に日本三筆の一人に数えられた橘逸勢の姿もあった。

805(延暦24)年 (32歳)長安・青龍寺で「恵果(けいか)」に師事
        02月10日 大使の一行は長安を去る。空海は橘逸勢と共に長安に留まり、西明寺に入る
        06月13日 青龍寺にて阿闍梨「恵果」から『胎蔵』の灌頂を受ける
        07月上旬 同じく、『金剛界』の灌頂を受ける
        08月10日 同じく、『伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)』の灌頂を受け遍照金剛の密号を授かり、「真言密教」の『第八祖』となる
        12月15日 「恵果」入滅

 青龍寺の縁起は、隋の時代、6世紀後半に遡る。当初は霊感寺といった。その後、寺名を変え、青龍寺となったのは唐代(711年)のことである。それから凡そ60年後、恵果がこの寺に入ってから本格的な密教の道場として栄えたが、845年、唐皇帝武宗の命に拠る徹底的な廃仏の嵐を受けて青龍寺も破壊された。〔中略〕宋代、11世紀初頭を以て終に青龍寺は潰えた。〔中略〕
 かつて中国密教の聖地であったこの寺は、漸く再建の端緒に就いたばかりなのだ。
 9世紀に及ぶ間、中国に於ける密教の伝統は消えていた。青龍寺の中国人僧達も1990年代末になって漸く集まった者達で、失われた密教は改めて一から学ぶ他ない。1200年前、恵果から空海が受け継ぎ、中国から日本へ伝えられた密教の所作が、今では逆に空海の教えを引く日本の僧侶から伝えられている。〔中略〕

 果たして恵果と空海はどの様に出会い、師弟となっていったのだろうか。
 以下のことは、空海自身が書いた『御請来(ごしょうらい)目録』の文章に拠る。

 恵果は空海を見るなり笑(えみ)を含んで喜歓したというのである。

 和尚、乍(たちま)チ見テ、笑ヲ含ミ、喜歓シテ曰ク、我、先(まへ)ヨリ汝ノ来ルヲ待ツヤ久シ。
 今日相見ル、大(はなはだ)好(よ)シ、大好シ P.207

 恵果は空海に出会ってから一月も経たないうちに、最初の灌頂(【同】=密教独特の法の伝授の儀式)を行い、以後矢継早に2回目の灌頂を授け、僅か2箇月後の8月には終に密教最高位の法王(大日如来)を意味する阿闍梨(=師匠)位を譲り渡す灌頂(=伝法灌頂)を終えている。恵果は、空海に法の全てを注ぎこんだ。その様子は、恵果の弟子呉慇(ごいん)に拠れば、「瓶へ水を移すが如くであった」、という。
 恵果は齢60歳であり、実はこの時病の床にあった。
 自らの死期を悟った恵果は、空海が訪ねて来る3年前から、一千人いたという弟子の中から7人を選抜し、既に法灯を護ることを伝え灌頂も済ませていた。しかし、最後の伝法灌頂に迄は至っていなかった様である。其処に空海が入って来た。20年も修行を重ねて来た弟子の中には、異例の抜擢に反発する者もいただろうし、その様な痕跡もあるが、恵果は頑として空海への譲位の意思を曲げなかったという。P.209

【小生comment】
 『空海の‥』では、この空海の抜擢と伝法の速度が如何に異常であったかを示す証拠として「阿闍梨位」の重さを示す。
 密教は、体系的な宇宙観を持つ思想としての純粋密教として成長していく仮定で『大日経』と『金剛頂経』の2つの流派を生んだ。
 そして、夫々の法は、師から弟子へ阿闍梨位を相伝することで引き継がれて来た。
 『金剛頂経』系の法の伝授でいうと、第一祖「大日如来」→第二祖「金剛薩埵(さつた)」→第三祖「龍猛(りゅうみょう)」→第四祖「龍智」→第五祖「金剛智」→第六祖「不空」→第七祖「恵果」→第八祖「空海」となり、空海は大日如来から数えて第八代の祖師になる。
 加えて、恵果はそれ迄別々の流れの中にあった「大日経」系・「金剛頂経」系の二系統を初めて一人で受け継いだ阿闍梨だった。空海はその阿闍梨位を恵果から正式に授かったのである。

806(大同元)年 (33歳)帰国。大宰府や和泉国(現・大阪府南部)に滞在
809(大同04)年 (36歳)京、高雄山寺(=神護寺)に滞在
812(弘仁03)年 (39歳)高雄山寺で最澄等に学修灌頂(かんじょう)
818(弘仁09)年 (45歳)高野山に禅院開創
823(弘仁14)年 (50歳)東寺を根本道場に
835(承和02)年 (62歳)高野山で入定
921(延喜21)年 醍醐天皇が「弘法大師」号を贈る

【小生comment】
 空海は、唐から帰ってから、博多で一年雌伏していた時期を経て、畿内に戻り、まず和泉国「槇尾山寺」、そして「高雄山寺」。
 この間、空海が最澄の為に金剛界灌頂・胎蔵灌頂を行う。
 「東寺」、「高野山」そして、入定。
 空海の生涯の足跡を辿って行くとまだまだ沢山の話がある。
 これ等については、お話する機会があったらその時にまた‥。!(^-')b

 繰り返しますが‥、今夏の【2637の会】『クラス会』‥、皆さんからの朗報をお待ちしています。
 ではまた‥(了)

2013年7月21日 (日)

【時習26回3-7の会 0455】~「07月13(土)~14(日):『真田庵』『慈尊院』『華岡青洲の里』『高野山』を巡って」

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0455】号をお届けします。
 今回も先ず、【2637の会】「クラス会」の出欠表明状況についてのご報告から‥。
 千賀君から「出席」表明の、渡辺さんから「欠席」のmailを頂戴しました。
 先ず、千賀君からの返信mailをご紹介します。

・クラス会に参加する

  千賀 S始

千賀君へ
 昨年はお会い出来なかったので二年振りの再会ですね。楽しみにしています。

 続いては、渡辺さんからのmailです。

 クラス会の件ですが、欠席します。
 8月10日 東京支部総会があり、その後「東京不老会」の暑気払いがありますのでそちらに参加します。
 クラスの皆さんにお会いできないのは残念ですが、同級生の皆さんと友好を深めて来ます。
 来年6月の京都でお会いできたらいいですね。

渡辺さんへ
 08月10日が、時習館高校東京支部総会とbattingしたのはunluckyでした。
 残念ですが、致方ありません。
 東京不老会に参加される同期の皆さんに「来年06月07(土)~08(日)京都で開催する【時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会】」に参加頂ける様お伝え頂ければ幸甚です。
 
【2637の会】membersの皆さんへ
 来月10日の「クラス会」の件‥、皆さんからの朗報をお待ちしています。m(_ _)m

■さて今日の話題は、掲題・副題にあります様に、去る07月13日(土)~14日(日)の両日、時習26回の同期の中嶋Y行君【3-2】と谷山K君【3-3】、そしてお城跡巡りの会の先輩青木K○夫さんの4人で、春と秋の年2回実施している旅行の模様である。
 今春は、来年06月開催予定の【時習26回生卒業40周年記念旅行兼懇親会】の「下見旅行」を05月18(土)~19(日)に実施したりして日程が上手く合わなかった為、今月13・14日両日に変更となったものである。
 今回の行き先は、「『高野山』とその周辺」ということで、先ず『真田庵』『慈尊院』『華岡青洲の里』を見て『高野山』に登った。
 『高野山』は標高820mの処に東西6km、南北3kmの平坦なareaに、幼稚園から大学迄あって、人間社会として自己完結している町である。
 以下に、今回の旅行の『行程表』を示し乍ら、これに基づいて概略をご紹介したい。
 又、その解説を、司馬遼太郎著『街道をゆく9』の中の「高野みち」から一部引用する〔以下、『高野みち』という〕。

           《賢人会「『高野山』行程表」》
【13日(土)】
05時50分 中嶋宅発‥10㎞‥
06時10分 青木宅発‥0.7㎞‥
06時15分 今泉宅発‥06km‥
06時35分 谷山宅発‥245㎞/266.7km‥東名・伊勢湾岸・東名阪・西名阪〔[01]高速道路料金休日割引2000円÷4=@500円〕‥郡山IC→国道24号線他‥
11時00分 善名称院(「真田庵」)着〔[02]宝物資料館@200円/700円〕

 最初の訪問地「真田庵」には、ほぼ定刻通りに到着した。
 時節は「小暑」であり、車から降りると熱気が肌に纏付く様に凄く暑い。
 15分程度境内を散策したが、ほうほうの体(てい)で早々に次の訪問地「慈尊院」へと向かった。

【善名称(ぜんみょうしょう)院】
 当院は、真言宗寺院。慶長05(1600)年、関ヶ原の戦いで西軍に属していた真田昌幸(1547-1611)・信繁((=幸村)1567(70)-1615)父子は、女人禁制の高野山・蓮華定院(れんげじょういん)に配流となったが、二人共、妻を連れていた為、九度山(くどやま)の当院に移され蟄居生活を送った。
 のち寛保元(1741)年、九度山出身の大安上人が真田昌幸の墓所に地蔵菩薩を安置した一堂を創建。これが当院で、「真田庵」の別称で親しまれている。
 奇遇なことであるが、真田昌幸の命日は慶長16年06月04日。今の暦に直すと1611年07月13日であり、正に訪問した日が没後402年後の命日だったのである。
 〔‥以下、『高野みち』からの引用である‥〕

 九度山での真田父子は、紀州の領主浅野(【小生注】幸長((よしなが)1576-1613):浅野長政の嫡子)氏から五十石の養い料を貰っていたし、信州の伊豆守(【同】真田信之((昌幸の長男・信繁の実兄)1566-1658))からの仕送り等もあって、窮乏はしていなかったらしい。しかしそれでも畑仕事をしたり、のちに「真田紐」とよばれた信濃ふうの組紐を打ったりしていた。〔後略〕

[01]善名称院(真田庵)
 01

------------------------[02]「真田昌幸墓碑と地主権現」解説
 02

11時30分 同寺 発‥1.2km/267.9km‥
11時35分 慈尊院着‥高野山町石道「入口」&「丹生官省符神社」〔拝観無料〕‥
12時00分 同寺 発‥13km/280.9km‥j

【慈尊(じそん)院】
 当院は、弘仁07(816)年弘法大師((空海)774-835)が、高野山開創に際して、高野山の表玄関として伽藍を創建したことに始まる。2004年07月世界遺産に登録された。
 この地九度山から高野山「大塔」迄の21kmの道程に1町(109m)毎道標として180本の五輪卒塔婆石(=町石(ちょういし))が建てられている。その一番麓に当たる180番目の町石が、此処「慈尊院」から隣地『丹生官省符神社』へ向かう119段ある石段の途中「一ノ鳥居」の直ぐ下右脇にある。
 「町石」は、高野山「大塔」~高野山奥の院「弘法大師御廟」迄の約04㎞の道程にも36基あるので、全部で216基ある。以上、これは余談。

 〔‥以下、『高野みち』からの引用である‥〕
 高野山麓のこの慈尊院は、空海在世中に建立されたと言われる。『高野略記』という古い本に、この家が空海の当時から下院(げいん)と言われ、空海は厳寒の時期は降りて避寒したと言われる。
 空海の母は、讃岐の阿刀(あと)氏の出である。
『紀伊続風土記』等に拠ると、承和元(834)年に遥々空海を高野山迄訪ねて来たという。空海はこの慈尊院に住まわせた、となっている。『野山名霊集』に拠ると、空海はその母を「此所に室を構(へ)て留置(とどめおか)れ、現当の御孝養を尽され、常光といふものを御給仕に附置せ玉ひ」等とある。この母は訪ねて来た翌承和02年02月05日、83歳で「娑婆の縁尽」きて逝き、この寺が廟所となり、以後慈尊院と呼ばれる様になった。空海も、それから一ヵ月余ののち62歳で入定(【注】高僧の死をいう)する。〔後略〕

[03]「慈尊院」入口にて
 03

------------------------[04]「慈尊院」と土塀と多宝塔(1624年再建)
 041624

 〔‥以下も『高野みち』から引用する‥〕
 官省というのは奈良朝・平安朝の行政用語であることは言う迄もない。官とは太政官のことであり、省とは民部省のことである。両機関を併称する時に官省という。この社名には「符」がついている。丁寧に言うには、「官省符荘」と言わねばならない。官省符荘とは、平安期の荘園の一種(法的性格としての)である。〔中略〕 官省符荘とは「その荘園の持ち主は国家に租税を納めなくてよい」ということを太政官の官符と民部省の省符で以て認められた荘園のことである。〔中略〕
 社殿の前に立てられた由緒書を読むと、
「官省符荘二十一箇村の総氏神である」
 という旨のことが書かれている。富裕な紀ノ川流域の21箇村の荘園というのは大変な富の源泉と思われるが、官省符荘である為には、高野山がその荘園の隷民達の行政・警察権を握っていたことになる。具体的には、政所(まんどころ)である慈尊院が、江戸期の代官の様にその実務を執っていたのであろう。〔後略〕

[05]「慈尊院」境内から『丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社』拝殿への119段の「石段」と「一の鳥居」
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------------------------[06] 180町石
 06_180

[07]「二ノ鳥居」前から『丹生官省符神社』拝殿を望む
 07

 添付写真をご覧になれば、中々風情があっていい寺院と神社だということが解って頂けると思う。が、何せ猛暑の為少し歩いただけで汗がどっと出る。
 兎に角暑い。中嶋君が「暑さで眩暈がしたよ」と言っていた位だから、観光するには適しない時期であることは間違いない。

 次に向かったのは、『華岡青洲の里』である。
 華岡青洲(1760-1835)の診療所「春林軒」を見る前に腹ごしらえである。「青洲の里」には座席数50のViking restaurant「華(はな)」があり、@1,380円で美味しい手作り料理を堪能出来た。これはお薦めである。
 「春林軒」は、Restaurantから徒歩で2~3分の所にあった。
 華岡青洲と言えば、有吉佐和子(1931-1984)著『華岡青洲の妻』(1966年作)が著名である。皆さんも作品名はよくご存知のことと思います。
 青洲は、字を伯行と言い、祖父・尚政、父・直道、に続き三代目「随賢」を名乗る。外科医の家に生まれ育った。
 青洲の偉業は、朝鮮アサガオ(曼陀羅華)を主体に‥
 ①世界初の全身麻酔薬『通仙散(つうせんさん)』を約20年の動物実験・人体実験の果てに創出することに成功
 ②世界初の「乳癌」の手術に成功
 この全身麻酔薬開発の人体実験に、母・於継、妻・加恵の献身的な協力があったという訳である。
 妻・加恵は人体実験の副作用で失明する。

[08]「春林軒」入口にて
 08

------------------------[09]「春林軒」入口至近の内部と華岡青洲
 09

12時25分 (華岡)青洲の里着‥昼食〔[03]Viking@1,380円/2,080円〕〔[04]春林軒・展示室入場料@600円/2,680円〕
14時00分 同所 発‥29㎞/309.9km‥
14時50分 高野山「奥之院」前駐車場着〔駐車場料金:無料〕‥0.7㎞(徒歩)‥2本のうち東側の参道を奥の院迄散策

[10]高野山「奥之院」前駐車場から「奥之院」への参道にて
 10

------------------------[11]高野山『奥の院』への参道にて
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15時20分 弘法大師御廟着〔経蔵・燈籠堂〕
15時50分 「奥之院」発‥1.6km(徒歩)‥西側の参道を徒歩で供養塔〔豊臣家他大名墓所〕を見乍ら「一の橋」へ

[12]豊臣秀吉墓所
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------------------------[13]薩摩・島津家墓所
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 恥ずかし乍ら‥であるが、今回は、どういう訳か拙い短歌や俳句がどんどんと浮かんで来た。
 以下、先ず高野山「奥之院」参道で詠んだ拙い短歌を一首ご覧に入れたい。

【詞書】高野山「奥之院」の参道には、吉川英治(1892-1962)・山岡荘八(1907-78)・池波正太郎(1923-90)・司馬遼太郎(1923-96)等の歴史小説に登場する主人公や脇を固める戦国の名将達、そして、江戸時代三百余藩の中でも十万石以上の雄藩の大名達の供養塔や五輪塔(=五輪塔)が所狭しと並んでいた。これ等を眺め乍ら小半時も歩いていたら、無性に、人生の儚さ・虚(空)しさ・寂寥感、そして終には「無常観」を感じるに至った。

 参道に 苔むす数多(あまた)の (‥五輪‥) 塔を見て
              盛者(じょうしゃ)必衰の 理(ことわり)を知る  悟空

16時30分 「一の橋」から「奥之院」前駐車場〔‥01km‥〕迄徒歩にて戻る
16時45分 「奥之院」前駐車場着
16時50分 同駐車場発‥1.3km/311.2km‥
16時55分 宿坊「福智院」(同院駐車場)着

【14日(日)】
06時00分 朝の読経
07時00分 朝食&宿坊境内3庭園見学〔重森三玲作庭〕

[14]福智院『愛染庭』‥本庭のみ朝の読経した後の一時だけ撮影出来る‥
 14

------------------------[15]福智院『蓬莱遊仙庭』
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[16]福智院『登仙庭』
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08時20分 宿坊「福智院」発〔[05]宿泊料金@11,256円+追加料金@2,744円/16,680円〕‥0.4㎞/311.6km‥
08時25分 金剛峯寺〔の南にある〕駐車場着〔駐車場料金:無料〕
08時30分 「総本山金剛峯寺」〔[06]拝観料:@500円/17,180円〕
 ‥正門・天水桶・経蔵・鐘楼・大玄関&小玄関・大広間&持仏間・梅の間〔伝・狩野探幽筆襖絵〕
 ・柳の間〔豊臣秀次自刃の間〕 ・別殿・新別殿・蟠龍(ばんりゅう)庭・奥殿(非公開)・新書院
 ・真松庵(非公開)・阿字観道場・書院上段の間・中庭・奥書院・稚児の間・土室(つちむろ)・台所

[17]総本山「金剛峯寺」表門前にて
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------------------------[18]金剛峯寺『蟠龍庭』
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 別殿廊下から「奥殿」前に広がる『蟠龍庭』‥石庭としては我国最大(2,340㎡)の広さ。龍は四国産の青い花崗岩、雲海は京都の白川砂が使用されている

「総本山金剛峯寺」の歴史を紐解くと‥
 空海の甥と言われる真然大徳(?-891)の住坊があった所である
 天承元(1131)年 10月覚鑁(かくばん)上人(1095-1143)が鳥羽上皇の勅許を得て小伝法院を建立
 文禄02(1593)年 豊臣秀吉が亡き母の菩提を弔う為、木食応其(もくじきおうご)上人(1536-1608)に命じて建立、寺名も「剃髪寺」→「青厳寺」と変え、木食上人の寺坊になってからは、法印〔=「法印大和尚位(ほういんだいしょうい):大僧正・僧正・権僧正という僧位の最高位」〕の御坊〔=寺坊〕となった
 その後、何度も火災焼失し、現在の本殿は文久03(1863)年に再建されたものである

09時30分 同寺 発‥0.6km(徒歩)‥
09時40分 「金剛三昧(さんまい)院」着‥同院入口より入院せず国宝「多宝塔」を撮影

[19]金剛三昧院・国宝『多宝塔』前にて
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09時45分 同院 発‥01km/312.6km‥
09時50分 「高野山霊宝館」前駐車場着〔駐車料金:無料〕〔[07]@600円/17,780円〕

 丁度前日の13日より企画展「高野山の名宝」展が始まった処であった。目玉は、鎌倉時代の仏師・運慶(生没年不詳)作に拠る「八大童子」である。

10時30分 同館 発‥0.1km(徒歩)‥
10時35分 「壇上伽藍着」〔「根本大塔」&「金堂」の拝観料@200円×2=[08]@400円/17,980円‥その他は無料〕

[20]巨大な根本大塔前にて
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 ご覧の様に巨大な根本大塔。高さは16丈(約50m)ある。中嶋君・谷山君達が小さく見える。
 空海に拠って日本で初めて建てられた多宝塔で、創建当時も現在とほぼ同じ高さであった。
 現在の根本大塔は1937年に再建された。
 この壇上伽藍の大塔を見終えた処で、大粒な雨がポツリポツリと降って来た。
 遠くで雷の音が聞こえる。
 谷山君が「大雨になるかも‥かなりヤバイよ!」と警鐘を鳴らしてくれたので、まだ金堂を拝観していなかったが、観光を打ち切り、諦めて駐車場に向かった。
 駐車場に到着した途端、大雨が降りだした。この雨は、高野山をほぼ降り切る迄降り続いた。
 中嶋君が「谷山君! 素晴らしい判断だよ!」と盛んに褒め讃えていた。車の外は土砂降りの雨である。
 それ程、谷山君の判断は的確であったのだ。谷山君! 有難う!

11時25分 同伽藍発‥0.1km(徒歩)‥霊宝館前駐車場へ
11時30分 同駐車場発‥0.8㎞/313.4km‥
11時35分 「大門」着‥「大門」前にて記念撮影‥

 大雨が降り続いていたので、全員での記念撮影は諦め、急ぎ大門だけ撮影。従って、本《会報》へのupは省略する。

11時45分 同所 発‥帰路へ‥
〔昼食は帰途中に橋本市辺りの一般街道、或いは高速道路沿いのdrive-inにて食することにする〕
18時00分 谷山宅着
18時25分 今泉宅着
18時30分 青木宅着
19時00分 中嶋宅着‥287㎞/600.4㎞‥〔[09]高速道路料金2,000円÷4=@500円〕
 ‥+[10]gasoline代:150円×600㎞÷(10㎞/L)=9,000円÷4=@2,250円/=【費用概算合計】@20,730円〕

                                           以上

【後記】高野山の「奥之院」は空海が「入定」した所‥とても荘厳な感じがして良かった‥。

 緑蔭や 矢を獲(え)ては鳴る 白き的  竹下しづの女

 この時季、弓道を経験した者にとってこの名句は本当に心に迫って来る。
 小生も、「奥之院」と、この名句で詠われている「緑陰」という季語に触発されて拙句を一句‥

 緑陰が 眼前に在る 奥之院  悟空

 そして今、宿泊先の「福智院」に3つある、昭和の著名な作庭師、重森三玲作の「遊仙之庭」の前で涼んでいた時に浮かんだ一句‥。 「福智院」は涼風が心地良くホント素晴らしいかった。 !(^-')b

 炎暑下も 頬に涼風 福智院  悟空


【詞書】昭和の天才作庭師・重森三玲(しげもり みれい)は、全国500カ所の庭を実地見聞した上での作庭だからだろう‥彼が作庭した庭は、新しさの中にも古き庭の良さが滲み出ている。

 苔庭や 温故知新の 三玲かな  悟空

 以下は余談である。
 京都の東福寺「方丈庭園」、同じく東福寺塔頭・光明院「波水庭」の作庭で著名な三玲が人生の締め括りに作庭したのが此処「福智院」の「愛染庭」「蓬莱遊仙庭」「登仙庭」の3つの庭。
 中でも「愛染庭」が三玲の遺作となった庭である。昭和49年作。彼は完成を見る前に逝去。翌昭和50年に彼の弟子達が完成させたと、福智院の僧侶が説明してくれた。「愛染庭」だけは、朝06時からある読経の後の十数分のみ読経参加者宛に見ることが許されているのだそうだ。

 今回もお粗末様でした。(^^;

 繰り返しますが‥、今夏の【2637の会】『クラス会』‥、皆さんからの朗報をお待ちしています。
 ではまた‥(了)

2013年7月12日 (金)

【時習26回3-7の会 0454】~「歴史街道2013年07月号『八重と会津戦争』から‥」他を読んで

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0454】号をお届けします。
 今週は、【2637の会】「クラス会」の出欠表明状況について動きはありません。
 【2637の会】membersの皆さんからの朗報をお待ちしています。m(_ _)m

■さて今日の話題は、NHK大河ドラマ『八重の桜』についてである。今、drama前半のclimax「会津戦争」が放映されている。

[01]歴史街道2013年07月号『八重と会津戦争』&NHK大河ドラマ『八重の桜』ガイドブック2冊
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------------------------[02]同誌からsnap shots
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 掲題・副題にある様に、「歴史街道2013年07月号『八重と会津戦争』」や「NHK大河ドラマ『八重の桜』‥『完全guidebook』&『続・完全読本』」を読んでみた。
 今回の大河ドラマ『八重の桜』は、明治維新をこれ迄の勝利者である薩摩・長州から描いたものとは異なり、賊軍とされ、敗者となった会津の人達からの眼で描いており、そういう点から画期的なdramaである。
 果たして、昔から「戦争の『勝利』者が『正義』」であるのは厳然とした事実である。

 「明治維新」があったからこそ、日本が西洋的な近代国家に脱皮出来たことは誰もが認めることである。
 しかし、会津藩の人々にとっては、新政府軍が会津を賊軍と呼び攻めて来ることを「理不尽」と思ったことも又当然であると言えよう。
 藩主松平容保(1836-1893)が、一橋慶喜(1837-1913)と松平春嶽(1828-1890)からの再三の就任要請を断っていた「京都守護職」に文久02年閏08月01日(1862年09月24日)就任したことにより、会津藩の厳しい命運が定まったのである。容保が就任を受諾したのは、春嶽が「会津藩祖・保科正之(1611-1673)の〔‥会津藩たるは将軍家を守護すべき存在‥という〕『家訓』」を引き合いに出して説得したからだという。
 兎も角、松平容保以下会津藩兵1,000人は、〔‥去る05月18日時習26回生卒業40周年記念旅行&懇親会の「下見旅行」で水藤君【3-6】と訪れた‥〕京都左京区黒谷にある『金戒光明寺』に本陣を置いた。が、慶應03年12月09日(1868年01月03日)の王政復古の大号令に拠り旧職位が廃止されたことにより、「京都守護職」も5年半弱で廃止された。

 以下、戊辰戦争の流れを掻い摘んで以下にお示しする。NHK大河ドラマ『八重の桜』での「会津戦争」に至った背景を理解する一助となれば光栄である。

 ※ ※ ※ ※ ※

 王政復古の大号令から三週間余り経った慶応04年01月02日(1868年01月26日)、幕府軍艦2隻が兵庫沖に停泊中の薩摩藩軍艦に砲撃を与え、事実上の戊辰戦争が始まる。翌03日、京都の南郊外の鳥羽と伏見に於いて、薩摩藩・長州藩連合の新政府軍と旧幕府軍が戦闘状態に‥〔【鳥羽・伏見の戦】‥。これも去る05月18日卒業40周年記念の「京都下見旅行」にて「寺田屋」を訪れた際、其処から直ぐ南傍の橋の袂、伏見での「激戦地跡」の石碑を見ている‥〕

 この05年半の間、会津藩が京都で関わった歴史的事象を集めてみると‥
 ※ 文久03年08月18日(1863年09月30日)【八月十八日の政変〔堺町門の変〕】:会津藩と薩摩藩を中心として公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したCoup d'état‥〔翌08月19日:長州藩兵千余人と三条実美(1837-1891)を始めとする公卿7人が妙法院から長州へ下った「七卿落ち」〕
 ※ 元治元年07月19日(1864年08月20日)【禁門の変〔蛤御門の変・元治(げんじ)の変〕】:前年の八月十八日の変で京都を追われた長州勢力が、「京都守護職」松平容保等の排除を求めて挙兵した事件。この事件は京都市街3万戸が焼失する大被害が発生。これに拠り、長州藩が「朝敵」となり「長州征伐」へ〔‥【蛤御門】も去る05月19日「京都下見旅行」の二日目に訪れている‥以上、余談まで〕
   →・長州藩側の総大将は、長州藩支藩徳山藩主・毛利広鎮(ひろしげ(1777-1866))の六男で永代家老となった福原元僴((もとたけ)1815-1864)、元僴は「禁門の変」の責任を取り同年自刃。久坂玄瑞(1840-64)も指揮官の一人として参戦、変と同日自刃している
 ※ 元治元年07月23日(1864年08月24日)【第一次長州征討】:朝廷は【長州追討】の勅令を発した
   →・元治元年12月15日(1865年01月12日)に高杉晋作(1839-1867)が藩内保守派打倒の為(下関市長府)で起こした「功山寺(こうざんじ)挙兵」に端を発するCoup d'état‥〔元治の内乱〕
   →・慶應02年01月21日(18日・22日説もある)【薩長同盟〔の密約〕】:土佐藩の坂本竜馬(1836-1867)・中岡慎太郎(1838-1867)の仲介で、薩摩藩・西郷隆盛(1828-1877)、小松帯刀(たてわき(清廉(きよかど))(1835-1870))と長州藩・木戸孝允(1833-1877)が京都の小松邸で会見、対幕府で軍事協力する旨合意
 ※ 慶應02年06月07日【第二次長州征討】:幕府軍に拠る周防大島への砲撃で始まるが、幕府側の小倉藩敗北に拠り、幕府側の敗北が決定的となる

 話は、【鳥羽・伏見の戦】に戻る。
 慶應04年01月04日、仁和寺宮嘉彰((にんなじのみや よしあきら)後年の小松宮彰仁(こまつのみや あきひと))親王(1846-1903)を征討大将軍とし、錦旗・節刀を与え出馬する朝命が下る。これに拠り、薩長軍が正式に「官軍」に、旧幕府軍は「賊軍」とされるに到り、形勢は大きく新政府軍有利に傾いていく

 この2日後の01月06日、徳川慶喜は自軍を捨て大阪城から海路江戸へ退却。これに拠り、旧幕府軍の戦意は大いに喪失、幕府軍下の各藩は軍を引いた

 慶應04年01月17日 新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に【会津藩追討】を命じた
 同年03月02日 奥羽鎮撫総督九条道孝(1839-1906)【注】が京都をたって03月23日仙台に入る
 【注】九条道孝(みちたか)は五摂家の当主、最後の「藤氏長者」。彼の四女節子((さだこ)1884-1951)が大正天皇の皇后、貞明(ていめい)皇后
 〔‥以下も余談‥即ち、九条通孝は昭和天皇の母方の祖父、今上天皇の曽祖父に当たる‥〕

 同年04月11日(1868年05月03日)【江戸城無血開城】

 同年閏04月11日 奥羽14藩は仙台藩領の白石城にて列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書「会津藩寛典処分嘆願書」等を奥羽鎮撫総督に提出
 同年閏04月23日 新たに11藩を加えて白石盟約書調印
 同年05月03日【奥羽列藩同盟】:奥羽25藩による盟約書が調印され、太政官建白書(‥会津・庄内両藩への寛典を要望‥)を作成
 同年05月04日 新政府軍との会談が決裂した越後長岡藩が加盟
 同年05月06日 新発田藩等の北越同盟加盟5藩が加入、計31藩による【奥羽越列藩同盟】が成立

 同年05月15日(1868年07月04日)【上野戦争】彰義隊が新政府軍の新兵器・アームストロング砲により一日で壊滅

 同年07月26日「三春藩」降伏、07月28日「弘前藩」、29日「二本松藩」、08月06日「相馬中村藩」、09月04日「米沢藩」、12日「仙台藩」、15日「福島藩」「上山藩」、17日「山形藩」、18日「天童藩」、19日「会津藩」、20日「盛岡藩」、23日「庄内藩」と次々と降伏、奥羽列藩同盟は瓦解
 会津藩は、08月23日に会津城下に新政府軍が進軍後、一ヶ月近く持ち堪えたが、09月19日遂に降伏した

 〔‥此処で更に余談である‥慶應04年09月08日(1868年10月23日)に「改元の詔書」が出され、慶応4年1月1日に遡って明治元年とすると定めた。従って、戊辰戦争の回線の火蓋が切られた【慶應04年01月02日】は、同年09月08日になって【明治元年01月02日】に改められたことになる‥〕

【後記】山本八重(1845-1932)の弟の三郎(1848-1868)は慶應04年01月鳥羽・伏見の戦で負傷し海路江戸へ搬送されるが同地にて死去(享年20歳)。
 八重の父、権八(1809-1868)も、50歳以上の藩士で編成された玄武隊に所属。09月15日、会津城外へ出陣。政府軍への最後の総攻撃で戦死(享年61歳)。
 兄の山本覚馬(1828-1892)は京都にて薩摩藩に捉えられ幽閉中であった。

 会津藩士の多くが斃れていく中、明治時代になって活躍した旧会津藩士も幾人かいることを忘れてはならない。
 活躍した彼等をご紹介したい。
 小生の2010年05月22日付《会報》【0291】号をご参照頂ければ幸甚である‥
 ここをclickして下さい→【0291】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/26-029105150423.html 

 戦下の会津城に会津地方の伝統芸能「彼岸獅子」を先頭で舞わせ乍ら入城するという離れ業を演じた豪胆なleader山川大蔵(1845-1898)。
 大蔵は明治時代、陸軍軍人として少将に迄栄進して活躍。1877年の西南戦争では熊本城を守った谷干城(たに たてき(1837-1911))以下新政府軍の救援を成功せしめた。
 のち維新政府文部大臣・森有礼(1847-1889)の命により、東京高等師範学校(現・筑波大学)・女子高等師範学校(現・お茶の水大学)校長、貴族院議員を歴任。
 彼の弟には、東大・京大・九大総長となった山川健次郎(1854-1931)。
 妹には、元老・大山巌の妻となった「鹿鳴館の華」と称された大山捨松(1860-1919)がいる。
 健次郎も捨松も米国留学を経験、研鑽を積み、帰国後活躍する。
 又、西郷頼母(1830-1903)の妻女等と同じ様に、祖母・母・姉妹が自決した柴五郎(1860-1945)。
 柴は、中佐時代、北清事変で活躍し、日英同盟の礎となった。のち陸軍大将迄栄進している。
 2010年05月15日付《会報》【0290】&同年05月29日付【0292】号ご参照
 ここをclickして下さい→【0290】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/26-02900510mail.html

              →【0292】http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/26-029205220515.html 
 鳥羽・伏見の戦で祖父と父が戦死し幼くして家督を継ぎ、自身は苦学して東京帝大→外務省、外交官として活躍した林権助(はやし ごんすけ(1860-1939))。
 会津藩藩祖・保科正之の家訓は「日新館」を通して脈々と受け継がれていたのである。

[03]1928年『京都会津会‥秋季例会‥全体写真』
 031928

------------------------[04]添付写真[03]の拡大図:左端「新島八重」、2人置いて林権助、以下[03]に同じ
 0403203

 添付写真は、会津藩が本陣を構えた「金戒光明寺」の塔頭「西雲院」にて昭和03(1928)年11月17日、「京都会津会」の「秋季例会」での記念写真。
 前列左から3人目が新島(山本)八重、同じく左6人目から、林権助・松平恒雄・松平保男・山川健次郎・柴五郎。
 松平保男(1878-1944)は、松平容保の息子で第12代会津藩当主。
 松平恒雄(1877-1949)は、同じく松平容保の息子で、松平保男の実兄。学習院→一高→東京帝大法科大学→外務省、宮内大臣、戦後は参議院議長を歴任。娘節子((のち勢津子)1909-1995)は秩父宮雍仁(やすひと)親王(1902-1953)妃。
 会津の著名人達は、夫々が頑張って生き抜いて来たのである。
 彼等の生き様を知る程に、彼等の立派さを痛感する。現代日本人が如何に軟弱になって仕舞ったかも‥。
 彼等の努力に心から敬意を表して止まない。

 ※ ※ ※ ※ ※

 繰り返しますが‥、今夏08月10日(土)の【2637の会】『クラス会』‥、皆さんからの朗報をお待ちしています。
 ではまた‥(了)

2013年7月 7日 (日)

【時習26回3-7の会 0453】~「07月04日:東京station gallery『エミール・クラウス(Emile Claus)とベルギーの印象派』展」&「同日:山種美術館『生誕140周年記念‥川合玉堂―日本のふるさと・日本のこころ』展」&「同日:を見て」「07月05日:オンドレイ・レナルト指揮プラハ放送交響楽団『ボヘミアの郷愁』演奏会を聴いて」「ジェリー・ミンチントン(Jerry Minchinton)著/弓場隆訳『うまくいっている人の考え方〔完全版〕』を読んで」

■皆さんお元気ですか、今泉悟です。《会報》【0453】号をお届けします。
 先ずは、【2637の会】「クラス会」の出欠表明状況についてです。
 今日07月07日午後08時現在、菰田君と伊東君のお二人から「出席表明」を頂戴しました。
 嬉しいですね。伊東君、菰田君、『参加』表明をホント有難う!
 【2637の会】「クラス会」も2006年の06月の「プレ」を皮切りに同年08月から今年で足掛け08年連続の開催となります。
 正に「光陰矢の如し」です。
 人生は一度しかありません。
 気の置けない【2637の会】membersの皆さんとの楽しいひとときを過ごしましょう!
 08月10日【2637の会】「クラス会」での再会を楽しみにしています。
 それでは、mail到着順に先ず菰田君からご紹介します。

Sent: Monday, July 01, 2013
菰田です。今回は大丈夫そうです。

 続いて伊東君からのmailです。

'伊東M弘' Sent: 2013/07/06 (土)
 今泉様
 いつも、お世話をありがとうございます
 クラス会に参加します
     伊東 M弘
        以上

 2013年夏の【2637の会】「クラス会」参加状況は順調な滑り出しです。
 【2637の会】membersの皆さん! 繰り返しますが、「一度しかない貴重な人生」です!
 あと数年すればみんな肩書きもない【3-7】時代のみんなに戻ります。
 気の置けない仲間達としての【2637の会】membersの皆さんは素晴らしい方々ばかりです。
 年に一度の「クラス会」で、日頃のstressを発散させて身も心もrefreshしましょう!
 皆さんからの朗報を衷心からお待ちしています。

■さて今日最初の話題は、掲題・副題にある様に07月04日(木)、取引銀行2行に勤務先の平成24年度決算報告の為上京した。
 それが終わってから、今年三十路になる経理担当の部下と、東京駅丸の内構内の一角にある東京station galleryを訪れた。
 そして部下と別れた小生は、山手線「恵比寿」駅迄行き、同駅から北北東へ徒歩7~8分、広尾高校の直ぐ北にある山種美術館で開催中の山種美術館『生誕140周年記念‥川合玉堂―日本のふすさと・日本のこころ』展を見て来ましたので、その模様を続けてお届けします。
 この二つの絵画展を見た感想を一言で言えば、洋画・日本画の別関係なしに、「『名画』というのは、見る者に『美しさ』や『癒し』でけだなく、『美』に対する本源的な『感動』を与えてくれる」。
 一緒に状況した今年三十路になる部下を誘って見た東京station gallery『Emile Clausとベルギー印象派』展であったが、見終えてから部下から「絵の展覧会は中学生時代に見て以来十数年ぶりなんですが、これ〔=名画展〕っていいですね」という感想を聞いて嬉しく思った。
 彼の感想は決してお世辞ではなかった様に思う。(^^

※ 本展は、ベルギーで首都Brussels、Antwerpに次ぐ第3の都市ゲント(Ghent:人口233千人)にあるゲント美術館の協力で実現したもので、同美術館長ルック・ヴァンアッケル氏が次の様に紹介している。

 この展覧会が重要なのは、日本で初めてClausの偉業が彼と同時代のベルギー(Belgium)の印象派という枠組の中で紹介されるからだけではありません。Clausが生涯魅了され、画家として活躍した頃には、共に屡々作品を発表したFranceを中心とした輝かしい先達の画家達の作品が、Clausの作品と並びます。また、第一次世界大戦前に欧州で制作し、Ghent滞在中にClausの影響を受けた太田喜二郎と児島虎次郎の二人の日本人画家との関係から、Clausが初めて紹介されることは、興味深く思われます。

[01]東京station gallery出口付近にて
 01station_gallery

------------------------[02]Emile Claus(1849-1924)
 02emile_claus18491924

[03]同『昼休み(The Midday Rest)』1887-90年頃
 03emile_clausthe_midday_rest188790

------------------------[04]同『陽のあたる道(Sunny Lane)』1889年頃
 04emile_claussunny_lane1889

[05]同『レイエ河畔に座る少女(Girl Sitting along the River Leie)』1892年頃
 05emile_clausgirl_sitting_along_the

------------------------[06]同『野の少女達(Girls in the Field)』1892年頃
 06emile_clausgirls_in_the_field1892

[07]同『タチアオイ(Althaeas)』1895年
 07emile_clausalthaeas1895

------------------------[08]同『レイエ川の水飲み場(Drinking Place of the River Leie)』1897年
 08emile_clausdrinking_place_of_the_

[09]同『陽光(ゾンネスへイン荘の紫陽花)(Hydrangeas around Villa Zonneschijin(Sunshine))』1898年
 09emile_claushydrangeas_around_vill

------------------------[10]Henri J. G.Martin(1860-1943)『画家の家の庭(Garden of the Painter's House)』1902年
 10henri_j_gmartin18601943garden_of_

[11]児島虎次郎(1881-1929)『緑陰』1909年
 11188119291909

------------------------[12]同『婦人』制作年不詳
 12

[13]同『酒津の秋』1914年
 131914

------------------------[14]太田喜二郎(883-1951)『ロドデンドロン(Rhododendrons)』1911年
 148831951rhododendrons1911

[15]同『麦秋』1914年
 151914

【小生comment】
 Franceの印象派の画家としては、MonetやPissarro、Paul Signac等の著名画家の作品も紹介され本展を賑わせてくれる。
 児島虎次郎は、以前一度ご紹介させて頂いたことがあるが、大原美術館の創業者大原孫三郎から名画蒐集を頼まれ、現在の大原美術館の礎を気づいたことでも知られる。児島がEmile Clausに指導を受け、Belgium印象派の画風を受け継いでいることが本展を見ることで確りと理解出来た。
 この歳になっても、毎日が発見・勉強である。小生、今回初めてEmile Clausと太田喜二郎いう画家を知った。児島虎次郎が太田と共にClausの影響を受けていることも‥。新しい発見をしてとても清々しい気分になった‥。

※ 続いて向かったのが恵比寿にある山種美術館である。
 川合玉堂は、日本画家の泰斗としてこれ迄に幾度か展覧会で彼の作品を見ている。日本画としては、横山大観と竹内栖鳳についで三人目の文化勲章受賞者。
 今日は、本展で紹介された玉堂の作品の中から、主に風景画をご紹介させて頂く。

 本展の主催者が「ごあいさつ」の中で川合玉堂について次の様に紹介しているので引用する。

 愛知に生まれ、岐阜で育った玉堂は、京都の円山四条派に学び、早くからその才能を開花させました。1896(明治29)年には東京に出て橋本雅邦に入門。狩野派を本格的に学び、更に西洋絵画や琳派も研究し乍ら自身の画風を確立していきます。又、文展の審査員や東京美術学校(現・東京藝術大学)教授、帝室技芸員を務める等、画壇の中心的な存在としても活躍しています。
 玉堂は、日本の自然をこよなく愛し、身近な景色と其処に暮らす人々の姿と捉えた牧歌的な風景を一貫して描き続けました。失われつつある日本の原風景を映し出したその作品は、今尚見る者の郷愁を誘い、私達の心を癒してくれます。(後略)

[16]山種美術館『川井玉堂』展看板
 16

------------------------[17]山種美術館『川合玉堂』展Leaflet
 17leaflet

[18]川合玉堂『春風春水』1940年
 181940

------------------------[19]同『雪志末久湖畔』1942年
 191942

[20]同『早乙女』1945年
 201945

------------------------[21]同『残照』1952年
 211952

[22]同『竹(東風)』制作年不詳
 22

【小生comment】
 主催者が紹介している様に、玉堂の風景画を見ていると、彼が映し出した日本の原風景が見る者に日本人であることのidentityと強い郷愁を想起させる。
 身近な題材であり乍ら、それ等を格調高い作品に仕上げている玉堂の技量に脱帽する。
 名画は、Clausの洋画も、玉堂の日本画も、夫々にその良さがある。ホント、名画っていいものである。(嘆息)

■続いての話題である。一昨日07月05日(金)の夜、仕事終了後、愛知県芸術劇場concert hallにて夕方06時45分開演のオンドレイ・レナルト指揮プラハ放送交響楽団『ボヘミアの郷愁』演奏会を聴いた。本楽団の公演は初めて拝聴した。本演奏会も中嶋君【3-2】と一緒に聴いた。
 曲目は、添付写真のprogramにもある様に、以下の2曲。

1.スメタナ作曲/連作交響詩《わが祖国》から‥
 ①高い城 ②モルダウ ④ボヘミアの森と草原から ⑥プラニーク
2.ドボルザーク作曲/交響曲第8番 ト長調 Op.88
【encore】
 ・ドボルザーク作曲/スラブ舞曲Op.72から第10番
 ・同/同から第15番

 指揮者のオンドレイ・レナルト(Ondrej Lenárd 1942.09.09- )は、クロムパヒ(Krompachy)生まれのスロヴァキアの指揮者。
 現在、プラハ放送交響楽団の首席指揮者を務めている。

[23](オンドレイ レナルトOndrej Lenard)指揮/プラハ放送交響楽団(The Prague Radio S.O. )
 23_ondrej_lenardthe_prague_radio_so

【小生comment】
 本演奏会の副題にもある様に、『ボヘミアの郷愁』を色濃く感じることが出来る2曲〔encore曲を含めると全4曲〕であった。
 ボヘミアの音楽は、西欧とはやはり違う。Hungary人がフン族の末裔である様に、チェコ人であるスメタナとドボルザークにも、東洋的DNAが少なからず引き継がれているのかもしなない。
 前日の04日、東京の山種美術館にて川合玉堂の作品を見て感じた「郷愁」を、この日は、スメタナの「モルダウ」、ドボルザークの第8交響曲、同じくスラブ舞曲第10番Op.72を聴いて実感することが出来た。
 「名画」もいいが、「名曲」も又いい。

【後記】先日本屋で「なんにも心配ない! 人生の達人になるためのヒント100」というcoverに惹かれて「うまくいっている人の考え方《完全版》」という本を買った。所謂 how to本の一種なのだが、読み易く、解り易い本である。100項目の中から気に入った5項目をご紹介して本号のお別れとしたい。

【52】感謝の言葉や褒め言葉は直ぐに口にする〔うまくいく考え方:感謝の言葉や誠実な褒め言葉は、相手だけでなく自分も前向きな気分にする〕
【67】いい人間関係を楽しむ〔うまくいく考え方:お互いが恩恵を受けることが出来る人間関係をつくる〕
【68】友人を慎重に選ぶ〔うまくいく考え方:いい友人をつくれば、成功を分かち合って更に楽しむことが出来る〕
【75】長期的な目標を立てる〔うまくいく考え方:長期的な目標を持ち、それを達成することで、人間的に成長出来る〕
【78】耳の痛いことでも快く受け入れる〔うまくいく考え方:建設的な批判は人身攻撃とは違う。確り聞いて自分の向上に役立てる〕

 繰り返しますが‥、今夏の【2637の会】『クラス会』‥、皆さんからの朗報をお待ちしています。
 ではまた‥(了)

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