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2013年10月の4件の記事

2013年10月27日 (日)

【時習26回3-7の会 0470】~「10月12(土)~14(日):西国3つの【ウッドワン・平山郁夫・大原】美術館&3つの【岩国・広島・福山】城&2つの【安芸宮島「厳島神社」・広島原爆dome】世界遺産巡りの旅‥その2‥」「『時習館創立120周年記念事業 Jishukan Open Forum 2013』に参加して」

■皆さん、お元気ですか、今泉悟です。《会報》【0470】号をお届けします。
 10日程前の台風26号に引き続き、今度は台風27号が今朝東海地方南岸に接近。一時上陸の懸念もありましたが、かなり南方を東進してくれて大過なく済み良かったです。
 昨日10月26日(土)午後1時00分から豊橋市民文化会館で居6会議室を借りて封書詰め作業を行いました。
 来年06月07(土)~08(日)に挙行する我等が「時習26回生卒号40周年記念懇親会」の『案内状』と『返信用ハガキ』の封入作業です。
 当初参加予定の井垣君【3】・鈴木さん【5】・水藤君【6】・杉原さん【9】・武野君【10】と小生の6人に、市原君【3】が加わり7人で作業を行いました。
 7人の見事な連携playで段取り良く分業で作業を行なった為、全397通の封入を丁度2時間で終えることが出来ました。
 因みに全397通とは、我等時習26回生は当時450人。死没者・住所不明者・住所掲載拒否者の53人を除いた人数です。
 終了後、小生が豊橋郵便局本局へ持ち込み投函を終了しました。
 皆さんのご自宅には明日28日(月)か遅くても明後日29日(火)に届くと思います。
 来年06月07日(土)は、京都五条の料理旅館「鶴清」にて舞妓さんと共に屹度再会しましょう!

■さて今日は、掲題・副題にある様に、去る10月12(土)~14(月)の三連休に山口・広島・岡山、西国3県にある3つの美術館、3つの城、二つの世界遺産、巡り3回seriesの第2回目(‥その2点)です。
 二日目の行程は、以下の通りである。

【13(日)】
 05時00分起床〔腹筋30分、風呂15分〕
 06時00分朝食
 ‥→・食事会場の2階大広間へ入ったらまだ配膳の最中であった。が、係の人が直ぐ食べられる様取り計らってくれたので嬉しかった。
  あとでhotelの利用案内を見たら朝食は07時00分~と書いてあった。昨日check inする時は確か朝食06時00からOKと聞いていたのだが?‥(^^;

 二日目も天気晴朗。実に清々しい朝であった。

 07時45分Hotel発 →〔32km〕岩国IC・山陽自動車道・大野IC→
 08時25分着 JR西日本「宮島口」駅近くの駐車場〔土日祝日は一律1,000円/日〕
 08時40分発→JR西日本宮島ferry→宮島→09時00分着 厳島神社
 ‥→・JR西日本ferryは、往路に厳島神社の大鳥居の前近くを右舷に見える様に航路がとってある
  Ferryは15分間隔に出航し、乗船所要時間も10分と短い
  この位の距離なら、橋をかければ直ぐ到着出来る筈だが、そうなっていない理由が乗船してみて解った
  小生がその理由を得心したことを「厳島」という図録で次の様に述べているので引用する
  「此の島は昔から神として崇(あが)められ、人も住まなかった。御社殿を海水のさしひきする所に建てたのはその為である」と

  因みに、御社殿の創建は、推古天皇即位の(593)年、現在の規模は仁安03(1168)年に平清盛が造営したもの
  平清盛は前(1167)年に太政大臣に就任している〔但し、3箇月で辞任している〕

[01]ferryから厳島神社「大鳥居」とその奥の「本殿」を望遠cameraにて望む
 01ferrycamera

------------------------[02]厳島神社・参道で「大鳥居」〔重要文化財〕をbackにして
 02back

 ‥→・ご覧の様に、訪れた時は、干潮で、大鳥居迄歩いて行けた‥ことは嬉しいが、矢張り「大鳥居」は海に浮かんでいる方がいい

 1996(平成08)年12月「厳島神社」はUNESCOの世界文化遺産に登録された
  額は、有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう(1835-95年))筆で、縦2.73m・横1.83mある
  大鳥居は厳島神社の正面入口で、現在のものは8代目(明治08年再建)、高さ16m・棟の長さ24m、主柱の根元直径3.64m、用材:樟
  木部:丹塗、屋根:桧皮葺、額は 海側:「厳島神社」・社殿側」「伊都岐島神社」と書かれている〔以上、「厳島」図録より引用〕

[03]厳島神社周辺を徘徊する鹿
 03

 ‥→・厳島神社には、鹿がいるが、野生だという‥でも奈良公園の鹿の様にとても大人く可愛い

 09時45分「厳島神社」発 →宮島→ferry→宮島口 10時20分発→〔21km‥国道2号線〔阿品より西広島bypass経由〕‥〕10時55分着 広島 原爆dome着
 我々【2637の会】の同期生の修学旅行が「上高地」だったので、小生広島の観光地は今回が初めての訪問である。
 広島の原爆domeを前にして一瞬躊躇した。
 それは、「快晴の青天の素晴らしさと」と「原爆domeという悲惨な姿を留める歴史的建造物」のcontrastが余りに鮮やかだったからだ。
 原爆dome(Atomic Bomb Dome)は、正式名称は「広島平和記念碑(Hiroshima Peace Memorial)」。1996年12月 世界文化遺産に登録された。
 当該建物は、元は広島県物産陳列館として開館、原爆投下時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。
 以下に原爆domeの外観の幾つかをご紹介する。

[04]原爆dome:東側から望む
 04dome

------------------------[05]同:南側から望む
 05dome

[06]同:西側から望む
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------------------------[07]同:北側から望む
 07dome

[08]原爆domeの石碑下段の英文解説を読む外国人女性観光客
 08dome

------------------------[09]原爆domeから南へ元安橋を渡り「平和記念公園」北側から「原爆死没者慰霊碑」越しに「広島平和記念史料館〔本館〕」を望む
 09dome

 11時55分着 広島平和記念資料館
 原爆domeを見た後、直ぐ南にある広島平和記念資料館を訪れた。
 外国人の見学者達も世界中から来ていることを確認し、原爆〔‥核兵器‥〕に対する世界的な関心の高さを改めて実感した。
 核兵器の恐ろしさ・悲惨さについて、日本人は定期的に訪問し展示されている諸資料を見て、核兵器の廃絶を世界に発信していくべきと痛感した。

【広島型原爆】‥uranium爆弾‥全長 約3m・直径 約0.7m・重量 約4t‥因みに【長崎型原爆】はplutonium爆弾
 1945年08月06日02時45分〔日本時間01時45分〕:原子爆弾を搭載したB29「エノラ・ゲイ」号が広島から1,700マイル南方の米軍基地テ二アン島を離陸
 09時09分〔同08時09分〕:目標 広島が視界に入る
 09時15分30秒〔同08時15分〕:原子爆弾投下〔←高度31,600feet≒約9,600m〕

 12時20分発 広島平和記念資料館→〔TAXI〕→12時35分着 広島城

[10]広島城天守閣前にて
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------------------------[11]広島城全景
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 広島城は、毛利輝元の築城に始まり‥→福島正則→浅野長晟(ながあきら)と続いた。

【毛利輝元の時代】〔A Look Inside Hiroshima Castleより引用〕
 毛利輝元(1553-1625)は、父・隆元(1523-63)の急逝に拠り11歳で毛利家の家督を継いだ。そして1571(元亀02)年祖父・元就が死去すると、叔父の吉川元春(1530-86)・小早川隆景(1533-1597)の補佐を受け、中国地方の大部分を治める戦国大名毛利家の基盤を引き継ぐ。〔中略〕1582(天正10)年織田信長が本能寺で討たれると、備中高松城(現・岡山市)で羽柴秀吉と講話を締結。秀吉が信長の後継者としての地位を確立すると、輝元は秀吉に臣従し、安芸・備後・周防・長門・石見・備中半国・伯耆3郡・隠岐の9箇国(‥毛利氏ではこれを8箇国と呼んだ‥) 計112万石を領した。また、輝元は1597(慶長02)年に設けられた五大老の一人として豊臣政権を補佐した。

【広島城築城】〔同上〕
 1588(天正16)年隆元は初めて上洛し、秀吉に謁見。翌89(同17)年04月着工。91(天正19)年に本丸等の主要部分が完成、輝元が入城。1599(慶長04)年落成と記録にあるが、翌1600(慶長05)年関ヶ原の戦で西軍の総大将だった輝元は敗れたことにより、徳川家康に拠り周防・長門37万石へ減封・移封となった。

【福島正則入国と改易】
 関ヶ原の戦後の同年10月、福島正則(1561-24)が尾張清洲城主24万石から、49万8,223石(1617(元和03)年時点)で広島城に入城。〔中略〕
 徳川幕府は、1615(元和元)年武家諸法度を制定、大名の居城普請は幕府への事前届出が必要とされたが、福島正則は1618(元和04)年に行われた広島城普請について事後報告で済ませようとした。
 1619(元和05)年、正則の無断普請を知った幕府は、正則の津軽への転封・蟄居を決定。その後、津軽への転封は信濃川中島(現・長野市)等4万5千石に変更された。移封後、正則は嫡男忠勝(1598-1620)に家督を譲り隠居・出家した
 1620(元和06)年忠勝が早世すると、正則は2万5千石を幕府に返上
 1624(寛永元)年死去。福島家は残り2万石も幕府に召し上げられ断絶
 1625(寛永02)年 幕府は正則の子、正利(1601-1637)を3,112石の旗本とした
 1637(寛永14)年 正利死去。彼に後継なく福島家再び断絶
 1681(天和元)年 正利の甥(忠勝の子)が2千石の旗本として福島氏を再興した

 13時10分発 →〔徒歩1km〕→原爆dome 13時30分発→府中出入口IC・広島高速2号→同1号→山陽自動車道・福山西IC→
 西瀬戸尾道IC・しまなみ海道・生口島北IC→〔114km〕15時15分着 平山郁夫美術館→〔0.8km〕向上寺三重塔→17時40分着 旅館つつ井 泊〔2日目175km〕

【浅野氏入国】〔A Look Inside Hiroshima Castleより引用〕
 1619(元和05)年06月 福島氏の改易が決定すると、徳川秀忠は、「中国の要」である広島に、紀伊和歌山城主の浅野長晟(1586-1632)を配置することとし、安芸1国と備後8郡合わせて42万6,500石を与えた。因みに長晟の正室は徳川家康の娘辰姫。
【浅野氏について】〔同上〕
 浅野氏は尾張国出身の武将。長晟の父長政(1547-1611)は、初め織田信長、次いで羽柴(豊臣)秀吉に仕え、豊臣政権では五奉行筆頭を務めた。
 浅野氏は早くから徳川家とも親交があり、関ヶ原の戦では東軍に属し、その功績に拠り、長政と長男で嫡男の幸長(よしなが(1576-1613))には紀伊国37万6千石が与えられた。1613(慶長18)年に幸長が後継なく死去した為、備中足守(現・岡山市)2万4千石の城主として別家を建てていた弟で長政の二男・長晟が家督を継いだ。
 因みに、赤穂浪士で有名な赤穂藩主浅野内匠頭長矩は、長晟の弟で長政の三男・長重の曾孫(‥長重→長直→長友→長矩(長直から3代連続長子相続))になる。

 13時15分 二ノ丸を通り徒歩で700m程南進し、原爆dome近くの駐車場に到着。所要時間は10分強であった。
 13時30分 原爆domeを出発し、一路 尾道市生口(いくち)島瀬戸田「平山郁夫美術館」〔走行距離計115km〕を目指した。
 ‥→・routeは県道→広島高速2号・1号線→山陽道〔72km〕→福山西ICを南進→松永道路→西瀬戸尾道IC→〔しまなみ海道〕→生口島北IC→一般道6.4km→
 15時30分 平山郁夫美術館着

[12]平山郁夫美術館『平山郁夫トルコの世界遺産を描く』展leaflet
 12leaflet1

------------------------[13]平山郁夫美術館入口にて
 13

[14]同美術館leaflet[表]
 14leaflet

------------------------[15]同美術館leaflet[裏]
 15leaflet

[16]平山郁夫『blue mosqueの夜』1976年
 16blue_mosque1976

------------------------[17]同『皓月 blue mosque(Istanbul)』1989年
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[18]同(上から『因島大橋』1999年)『夕陽』『向島より因島を望む』『白い橋』
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------------------------[19]同『瀬戸田町 実家のある通り』1999年
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[20]平山郁夫著『私のスケッチ技法』&『生かされて、生きる』
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 平山氏は、著書『私のスケッチ技法』の中で次の様に述べている。
「スケッチは画を描く人にとって、必要不可欠な描写力の日常訓練であるだけでなく、知識も、技術も感覚も、つまりは全人格の練磨となるものです」

 また、氏は同じく著書『生かされて、生きる』の中で、自らの思想・志をいつ持ったか明確に語ることは出来ないが、東京美術学校に入学した時から大伯父・清水南山の教えの拠って、ある基本的な姿勢を守る努力をして来た‥として以下の様に語っている。

 清水南山は、明治08年生まれで母方の祖母の兄に当たり、大正08年以来、母校の東京美術学校で彫金科の教授を務めていた人物。
 〔‥南山の強い勧めで東京美術学校に進学することになるが‥〕
 その南山が、私の美校入学に際して、こう言い聞かせたのである。
「郁夫、お前はただ絵がうまくなってはいけないよ。極端な言い方をすれば、例え絵の技術はそれ程でなくても、自分の世界を持っている画家になりなさい。しかし、自分の世界を持つということはそれ程生易しいことではない。自分の世界を持つには、高い教養が必要だ。幅広い人間としての素養を持たないで、人の胸を揺さぶる様な絵は描けない。一にも二にも高い教養を身につける様に心がけなさい」
 大伯父の説いた「幅広い人間としての素養」という言葉が、私の耳の奥に残りはしたものの、当時の私に出来ることは、文学や哲学の古典を読む進めることだった。P.16〔中略〕
 美校に入学して以来、安田靫彦先生、小林古径先生、前田青邨先生には深い教えを頂いたが、三先生から教えて頂いた最大の教訓は「古典を模写すること」であった。P.17〔中略〕
 美校に入って、まず驚いたことは、先生方から「自由に描きなさい」と言われたことである。P.19〔中略〕
「自由に描きなさい」ということの第一義は、「より早く多くの失敗を積み重ねなさい」ということだったのである。
 失敗すると、どうして先人達はうまく描いているのか、とあるpinpointに焦点を絞って学ぼうとする姿勢が身につく。そのことを繰り返しているうちに、徐々に自分の型の一部が出来ていく。P20〔以下略〕

【小生comment】
 確かに、絵に限らず、仕事でも何でも、失敗したことに拠り、それを成功に導く努力を積み重ねていくと、解決していくprocessで(‥問題解決力という点でも‥)自分の型というものを作り上げていると言っていい。
 平山氏の様なずば抜けた才能を持った人でも数多くの失敗を重ねて上達していく‥。
 それに比べると、凡人の小生の努力のあまりの少なさを何とも恥じ入る次第である。(^^;

 16時30分 平山美術館を出て、近くのしおまち商店街で土産を買った時に「向上寺に国宝・三重塔がある」ことを教えて貰い早速出かけてみた。
 17時00分 向上寺着

[21]向上寺〔国宝〕三重塔の前にて
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------------------------[22]向上寺三重塔の解説看板
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[23]平山氏がsketchした向上寺三重塔のplate 01
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------------------------[24]平山市がsketchした同じangleでの撮影01
 24sketchangle01

[25]平山氏がsketchした向上寺三重塔のplate 02
 25sketchplate_02

------------------------[26]平山市がsketchした同じangleでの撮影02
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 流石に、平山画伯の生まれ育った島である。氏がsketchした場所にその絵のplateがご覧の様に幾つか示されていた。
 17時30分 宿泊予定の旅館つつ井着

 三日目の模様は、次号《会報》をお楽しみに‥。

【後記】今日10月27日(日)は、母校時習館高校で「時習館創立120周年記念事業」の式典と「Jishukan Open Forum 2013」が開催された。
 後者は、式典の終了後の「13時20分~14時10分」と「14時30分~15時20分」の2時限の授業形式で催された。
 時習16回生~40回生のOBの代表1人が講演者である。
 我等が26回生からは、現在・関西地区の某テレビ局で部長を務めている鈴木Y君【3-8】が「三河文化の来し方行く末」という演目で講演したので、小生も聴講した。
 添付写真は、その講演授業終了後に鈴木Y君を囲んで、聴講者との全体写真である。

[27]時習館創立120周年記念式典 Jishukan Open forum 2013「鈴木Y君の授業『三河文化の来し方行く末』」にて
 27120_open_forum_2013

 ではまた‥(了)

2013年10月20日 (日)

【時習26回3-7の会 0469】~「10月12(土)~14(日):西国3つの【ウッドワン・平山郁夫・大原】美術館&3つの【岩国・広島・福山】城&2つの【安芸宮島「厳島神社」・広島原爆dome】世界遺産巡りの旅‥その1‥」

■皆さん、お元気ですか、今泉悟です。《会報》【0469】号をお届けします。
 皆さんのお宅では伊豆大島で多くの被害を出した台風26号の被害は大丈夫でしたでしょうか。
 先日の18号といい、最近は台風が大型化して来て、接近・上陸する場合は大変恐ろしいですね。
 拙宅では、10月16日(水)未明から朝にかけての暴風雨で、家の東窓に取り付けてあったshutterが開かなくなって仕舞いました。
 また、昨日・今日は豊橋祭でしたが、生憎両日共に雨天となり残念でした。
 小生は、豊橋祭どころではありませんでした。来年06月07(土)~08(日)に挙行する我等が「時習26回生卒号40周年記念懇親会」の『案内状』と『返信用ハガキ』を十数時間かけて印刷し続けていました。先刻午後04時過ぎに印刷が完了した処です。

■さて今日は、掲題・副題にある様に、去る10月12(土)~14(月)の三連休に山口・広島・岡山、西国3県にある3つの美術館、3つの城、二つの世界遺産を見て来ました。3日間の模様を1日ずつ今回から3回seriesでお届けします。今日は〔その1〕として初日12日(土)の模様をお届けします。
 因みに、全3日間で走行距離は1,350km。仮に平均時速67.5km/hで計算して20時間車を運転していたことになります。
 この三連休は、全て晴天で気温も高くもなく絶好の行楽日和でした。
 行程は以下の通りです。

【12(土)】
 03時40分発 拙宅→東名・豊川IC→伊勢湾岸→東名阪→新名神→中国自動車道・吉和IC→11時15分着〔600km〕ウッドワン美術館 12時30分発〔65km〕→
 14時20分着 岩国ropeway→ropeway→岩国城→ropeway→錦雲閣→吉川資料館→吉川広家 墓→錦帯橋→17時30分着 岩国国際観光ホテル 泊〔1日目675km①〕
【13(日)】
 07時15分発 →岩国IC・山陽自動車道・大野IC→08時20分着〔29km〕宮島口 08時40分発→JR西日本宮島ferry→宮島→09時00分着 厳島神社
 09時45分発 →宮島→ferry→宮島口 10時20分発→〔21km〕10時55分着 広島 原爆dome→広島平和記念資料館→12時20分着 広島城
 13時10分発 →〔徒歩1km〕→原爆dome 13時30分発→府中出入口IC・広島高速2号→同1号→山陽自動車道・福山西IC→
 西瀬戸尾道IC・しまなみ海道・生口島北IC→〔114km〕15時15分着 平山郁夫美術館→〔0.8km〕向上寺三重塔→17時40分着 旅館つつ井 泊〔2日目175km②〕

【14(月)】
 07時45分発 →しまなみ海道・西瀬戸尾道IC→松永道路→赤坂bypass→〔45km〕08時50分着 福山城博物館 09時40分発→福山東IC・山陽自動車道
 ・倉敷IC〔48km〕倉敷市民会館→〔徒歩0.8km〕→11時00分着 児島虎次郎記念館→〔大原家別邸〕有隣荘→大原美術館‥本館=分館=工芸・東洋館
 13時15分発 →倉敷美観地区〔散策&昼食〕14時30分発 →倉敷IC・山陽自動車道→神戸IC・中国自動車道→吹田IC・名神→新名神→東名阪→伊勢湾岸
 →東名・音羽蒲郡IC→〔407km〕〔3日目計500km③〕〔全3日間1,350㎞(①+②+③)〕

 小生、従前から日本画の名品を数多く所有している【ウッドワン美術館】と、日本画の泰斗 平山郁夫(1930-2009)の故郷、尾道生口島(いくちじま)瀬戸田に1997年開館した【平山郁夫美術館】、そして珠玉の西洋画の名品を数多く所蔵する日本を代表する美術館【大原美術館】を3つの美術館を今回、一挙に見て来ようと半年前から計画していたのである。

 それでは、今日は第1日目【12(土)】の模様を行程順にご報告する。
【12(土)】
 03時40分発 拙宅→東名・豊川IC→伊勢湾岸→東名阪→新名神→中国自動車道・吉和IC→11時15分着〔600km〕ウッドワン美術館 12時30分発〔65km〕→
 14時20分着 岩国ropeway→ropeway→岩国城→ropeway→錦雲閣→吉川資料館→吉川広家 墓→錦帯橋→17時30分着 岩国国際観光ホテル 泊〔1日目675km①〕

 拙宅を出発したのが午前03時40分。三時半を目指したが10分程予定が遅れた。
 流石は三連休である。05時45分頃東名阪に入った。渋滞こそなかったがかなりの交通量だ。
 07時前に名神・吹田ICから中国自動車道に入った処で渋滞に巻き込まれた。
 出発時点から30分余り到着予定時間を短縮していたが、此処で一挙に短縮分を吐きだして仕舞った。30分程ノロノロ運転が続いた。
 渋滞の原因は暫くして判明した。故障した大型トラックが片道1車線を塞いで仕舞っていたのだった。
 往路は、広島県廿日市市吉和ICで降りる迄、ずっと中国自動車道を走った。
 東海地方でいうと中央自動車に似ている。高低差もかなりあり最高制限速度も80kmである。
 拙宅を出発して吉和ICで降りる迄に2回のトイレ休憩を入れて所用時間7時間35分、走行距離は実に600㎞余りであった。
 吉和ICから程なく〔2.2㎞〕で【ウッドワン美術館】に到着。因みに同美術館は標高600mの高地にある。
 11時15分到着。そよ風が心地良く清々しい気分だ。自家用車の温度計は23℃を指していた。

 広島県廿日市市に本社を置く木質建材makerの東証1部上場企業 株式会社ウッドワン(英名:WOOD ONE Co. Ltd/旧社名:2002年10月(株)住建産業より社名変更)が財団を設立し1996年06月廿日市市吉和に開館。
 小生、一年程前、上京の折立ち寄った山種美術館でウッドワン美術館所蔵作品を紹介した図録見る機会があり、同美術館所蔵作品群の素晴らしさに魅せられた。
 それ以来、是非一度訪れてみたいと考えていて実現したのである。来館してみて本当に良かった。
 所蔵作品は、日本画が一番多かったが西洋画も、日本人による洋画も、皆素晴らしかった。
 因みに、当美術館の所蔵品は、絵画約500点をはじめ、マイセン(Meissen)磁器、アール・ヌーボー(Art Nouveau)のガラス作品約50点、清代の陶磁器、薩摩焼の5つの分野から成る。
 そして、当美術館の絵画部門は【本館(日本画)】と【新館(日本洋画)】に分かれている。
 訪れた時は、『花と美人』展と題された企画展が開催中であった。
 【本館】では「春~花と美女/梅と桜~14点」「春から夏へ~花と美女/うつろいの美~16点」「夏~花と美女/涼を求めて~16点」「秋から冬~花と美女/艶めく美~10点」計56点が‥「本館では、春夏秋冬、巡る季節に沿い乍ら、花や美人を描いた日本画と油彩画を一堂に展覧します。主な作品は、美人画の三大巨匠、上村松園・鏑木清方・伊東深水の作品をはじめ‥」と本展のleafletに紹介されていた。
 【新館】では「~日本洋画の美女たち~」計14点が‥「小菊を手にした愛娘を描いた岸田劉生《毛糸肩掛せる麗子肖像》を特別公開します」とこれもleafletが紹介していた。
 今日は、日本画・日本洋画70点の中からその幾つかをご紹介する。

[01]ウッドワン美術館全景〔左:新館 右:本館〕
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------------------------[02]ウッドワン美術館『花と美人』展leaflet
 02leaflet

《本館》【春~花と美女/梅と桜】
 このseriesでは、稗田一穂(1920-)『彌生』1980年 が出色であった。Postcardや図録に掲載がんくご紹介出来ないのが残念である。

《本館》【春から夏へ~花と美女/うつろいの美】
[03]山口華楊(1899-1984)『立夏』1982年
 03189919841982

------------------------[04]上村松篁(1902-2001)『白木蓮』1977年頃
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[05]徳岡神泉(1896-1972)『朝輝』1969年
 05189619721969

------------------------[06]黒田清輝(1866-1924)『木かげ』1898年
 06186619241898

 華楊、松篁、神泉の静物画は各人の個性が出ていて面白い。
 又、黒田清輝の『木かげ』は、明治31年の作品だが新鮮な若々しさが魅力的である。

《本館》【夏~花と美女/涼を求めて】
[07]小倉遊亀(1895-2000)『夏の客』1942年
 07189520001942

------------------------[08]同『蛇の目草をもつ少女』1968年
 081968

 小倉遊亀の作風は、imbalanceの中に微妙なbalance感があって見る者を捉えて離さない不思議な魅力がある。
 小生は、彼女の作品が人物画も静物画も大好きである。
 因みに、小倉は、上村松園に次いで二人目の女性の文化勲章受章者である。彼女の略歴は以下の通り。

 1895年03月01日 滋賀県大津市丸屋町生まれ。旧姓:溝上遊亀(みぞうえ ゆき)
 1913年 滋賀県立大津高等女学校(現・滋賀県立大津高等学校)入学
 1917年 奈良女子高等師範(現・奈良女子大学)卒。横浜の高等女学校で教鞭をとる傍ら1920年より安田靫彦に師事
 1926年 「胡瓜」が院展に入選
 1932年 女性として初めて日本美術院同人となる
 1936年 に山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚。以後鎌倉に住む
 1976年 日本芸術院会員
 1978年 文化功労者
 1980年 文化勲章受章
 1990年から96年まで日本美術院理事長
 2005年07月23日 満105歳の天寿を全うする

《本館》【秋から冬~花と美女/艶めく美】
[09]上村松園(1875-1949)『舞仕度(一対)』1914年
 09187519491914

 上村松園の絵は、どれをとっても優雅である。気品があって美しい。日本画の美人画の美しさを表象している。
 彼女の作品の前に立つと、「展覧会に来て良かった。品格があって美しく、心迄洗われる」といつも感じる。

《新館》【日本洋画の美女たち】

[10]岸田劉生(1891-1929)『毛糸肩掛(かたがけ)せる麗子肖像』1920年
 10189119291920

------------------------[11]山本芳翠(1850-1906)『婦人像』1892年頃
 11185019061892

[12]岡田三郎助(1869-1939)『横向きの少女』1914年
 12186919391914

------------------------[13]同『花をもてる裸婦』1903年
 131903

 岡田三郎助は、昭和12年 洋画家 藤島武二、日本画家 横山大観・竹内栖鳳と一緒に第1回文化勲章受章。
 美人画が特に巧く、作品数も圧倒的に多い。
 本展の2作も流石と見るものを唸らせる技量の確かさがある。

[14]森本草介(1937-)『ゆかた姿』1995年
 141995

 1時間程ウッドワン美術館での絵画を中心に美術品鑑賞を堪能した後、12時55分に出発。一般の国道・県道を大きくS字型にcurveし乍ら60㎞〔‥所要時間85分‥〕余り南下し、14時20分に岩国城の麓のropeway口に到着した。山口県への訪問は30数年ぶりになる。

【岩国城の歴史・沿革】
 1600(慶長05)年 関ヶ原の戦に敗れた毛利輝元(1553-1625)は112万石から長門・周防37万石に大幅に減封され、広島城から萩城へ移った。
         吉川広家(1561-1625)も、同時に米子12万石から岩国3万石に減封。
 1601(慶長06)年 広家赴任と同時に横山に岩国城(別名:横山城)築城と、山麓に平時の居館「土居」が築かれた。
 1608(慶長13)年 岩国城竣工。しかし竣工後僅か7年後の元和元(1615)年 幕府の一国一城令により岩国城は破却され廃城に
 1868(慶応04)年 因みに岩国藩は、慶応04(1868)年に独立の藩と認められる迄長州藩の陪臣として扱われた
 1885(明治18)年 居館「土居」跡が吉香公園となった。同公園の堀際に旧藩時代の櫓を模して建造された錦雲閣(きんうんかく)がある
 1962(昭和37)年 現在の岩国城が再建

 因みに、吉川広家は、『三矢の教え』で有名な毛利元就(1497-1571)の3人の息子「毛利隆元(1523-63)・吉川元春(1530-1586)・小早川隆景(1533-1597)」の次男吉川元春の三男。長男・元長(1548-87)の死後、吉川家の当主となった。
 因みに、次男・元氏(1556-1631)は既に他氏にを継いでいた(‥その後、江戸時代になり長州藩一門家老の阿川毛利家として存続した)。

[15]岩国城天守閣前にて
 15

------------------------[16]吉川資料館入口にて
 16

[17]吉川広家の墓
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------------------------[17a]吉川広家の墓 傍らのcaption
 17a_caption_2

[18]岩国城天守閣から岩国城下と錦川遠望
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------------------------[19]錦帯橋の全景〔‥[18]をzoom up!‥〕
 1918zoom_up

[20]錦帯橋の欄干にて〔‥右奥山頂に岩国城が見える‥〕
 20

------------------------[21]川瀬巴水(1883-1957)『周防錦帯橋』1924年
 21188319571924

 岩国藩第3代藩主吉川広嘉(1629-79)は、暴れ川である錦川に流れない橋を掛けることを決意。家臣・児玉九郎右衛門に架橋を命じた。
 1673(延宝元)年10月竣工。爾来276年間、老朽化に拠る補修はあったものの流失されずに来た
 1950(昭和25)年09月キジア台風で惜しくも流失
 1953(昭和28)年01月再建
 2004(平成16)年03月再建され現在に至る

 錦帯橋は、東京・日本橋、長崎市・眼鏡橋と並ぶ「日本三名橋」の一つとされ※、昔から有名であったので一度訪れてみたかった。
 確かに、一見の価値はある。
 ※「日本三名橋」は諸説ある。他に「瀬田の唐橋(大津市)」「東京皇居・二重橋」「京都・三条大橋」等。

 そして、この錦帯橋の東側から至近にある岩国国際観光ホテルに宿をとった。17時半には宿に到着。初日の行程が無事終了した。
 二日目の模様は、次号《会報》をお楽しみに‥。

【後記】昨日昼過ぎから今夕にかけて来年06月07(土)~08(日)の「時習26回生卒業40周年記念懇親会 in 京都」の『案内状』と『返信用ハガキ』の印刷が夫々400枚の印刷が終了した。あとは今週末26日(土)の午後、豊橋支部幹事会の融資の面々と封書への封入作業を残すのみとなった。
 そして、愈々来週初に時習26回生の全員宛にe-mailと封書にて『案内状』を配信・郵送する予定である。
 今日は、【2637の会】membersの皆さんだけにその『案内状』と『返信用ハガキ』の内容を特別にお知らせします。
 【2637の会】blogの方へは流石にflyingは拙いと思いますので来週以降upします。

 「40周年記念同窓会in京都」は、前回の卒業35周年記念同窓会の【2637の会】から参加者5人を是非上回る出席を期待しています。
 『案内状』を読んで、『返信用ハガキ』のアンケート(enquete)に答えて返信して下さい。
 本物の『案内状』と『返信用ハガキ』も、遅くとも今月末迄には皆さんのお手許に届くと思います。
 ご協力の程、宜しくお願い申し上げます。m(_ _)m

 ではまた‥(了)

2013年10月10日 (木)

【時習26回3-7の会 0468】~「09月22日:Bunkamura ザ・ミュージアム『レオナ―ル・フジタ』展を見て」「ポール・クルーグマン(Paul Krugman)〔山形浩生監修・大野和基訳〕『そして日本経済が世界の希望になる』を読んで」

■皆さん、お元気ですか、今泉悟です。《会報》【0468】号をお届けします。
 今週10月08日から時節は二十四節気でいう『寒露』。
 しかし乍ら台風24号が昨日09日石川県の能登半島沖で、温帯低気圧に変わったが、その結果日本列島は湿った南風が吹き、蒸し暑い一日となった。
 秋10月なのにまだ暑い‥これも地球が温暖化している証左なのであろうか?

■さて今日も、先々週・先週に引き続き、掲題・副題にある様に、09月22日上京した折に東京・渋谷にあるBunkamura ザ・ミュージアムにて10月14日迄開催中の『レオナ―ル・フジタ』展を見て来ましたのでその模様からお伝えします。

[01]Leonard Foujita(1886-1968)『横たわる裸婦』1927年〔茨城県近代美術館〕
 01leonard_foujita188619681927

------------------------[02]Amedeo Modigliani(1884-1920)『婦人像(C.D.夫人)』年〔ポーラ美術館〕
 02amedeo_modigliani18841920cd

[03]Kisling(1891-1953)『裸婦』1932年 〔ポーラ美術館〕
 03kisling189119531932

------------------------[04]ジュール・パスキン(Jules Pascin(1885-1930))『果物をもつ少女』1927年
 04jules_pascin188519301927

[05]シャイム・スーティン((Chaim Soutine)1893(4?)-1943)『青い服を着た子供の肖像』1928年〔ポーラ美術館〕
 05chaim_soutine1893419431928

------------------------[06]Leonard Foujita『ピアノと娘』1940年〔個人像〕‥本展にて初公開作品‥
 06leonard_foujita1940

[07]同『朝の買物』1962年〔ポーラ美術館〕
 07leonard_foujita1962

------------------------[08]同『誕生日』1958年〔ポーラ美術館〕
 08leonard_foujita1958

[09]談笑するFoujitaと妻・君代 1952年
 09foujita_1952

 本展は、ポーラ美術館所蔵のフジタcollectionを中心に催されたもの。
 ポーラ美術館は、西洋画・日本の洋画・日本画・彫刻・東洋陶磁、古今東西の化粧道具等、総数9500点に及ぶcollectionを所蔵する美術館として2002年09月神奈川県箱根町千石原に開館。その一大collectionは、ポーラ創業家2代目の鈴木常司(1930-2000)が一代で築き上げたもので、記念すべき第1号は、1958年春にフジタがParisで制作した『誕生日』(添付資料[08]参照)。〔中略〕鈴木が最終的に集めたフジタ作品は油彩画・版画・挿絵本を含め66点。
 2011年、ポーラ美術館はある個人collectorより106点のフジタ作品の寄託を受けた。この殆どが子供を主題とする油彩画。これに拠って当館は計172点のフジタ作品を収蔵することになり、彼の収蔵点数としては国内髄一の美術館となった。〔以上、本展図録より引用〕

【小生comment】
 小生、フジタ作品の中では矢張りエコール・ド・パリ(Ecole de Paris)(=Paris市内Seine川左岸モンパルナス(Montparnasse)を中心にParisに集まった外国人美術家達のこと)達と競い合った、フジタが初めて渡仏した1913年から1929年に帰国する迄の間の作品に惹かれる。
 この時代のフジタ作品を見に展覧会を訪れると、まず間違いなく同時代の著名な画家達の作品にも巡り合えるから、これが又いい。
 本展でも、ご覧の様にModigliani、Kisling、Pascin、Soutineの作品に出会うことが出来た。
 因みに、Ecole de Paris達はユダヤ系の外国人が大半で、この4人もユダヤ人(系)である。
 彼等の作品は、各々の個性が満ち溢れており見る者を飽きさせない魅力がある。

■続いての話題である。最近、ポール・クルーグマン(Paul Krugman)著〔山形浩生監修・大野和基訳〕『そして日本経済が世界の希望になる』を読みましたのでその中から今日は、「第2章 デフレ期待をただちに払拭せよ‥なぜデフレよりインフレが望ましいか‥」をご紹介します。

[10] ポール・クルーグマン(Paul Krugman)〔山形浩生監修・大野和基訳〕『そして日本経済が世界の希望になる』
 10_paul_krugman

------------------------[11]各国の政府純債務残高(対GDP比)‥出所:IMF-World Economic Outlook Databases(2013年04月版)P.57
 11gdpimfworld_economic_outlook_data

 〔前略〕いまだに日本では、inflationよりもdeflationが良いのではないか、という議論がある様だ。
 Inflation targetの目的はこれからmild inflationになる、と人々に信じさせることで、deflationからの脱却を図ることだ。そもそも何故、inflationの方がdeflationよりも本質的に望ましいのだろうか。
 経済を回復させるには、個人消費が十分でなければならない。それが不十分である場合、需要を刺激する為に利下げが必要になる。しかし、名目金利を下げることには限界がある。だからこそ、期待inflation率を高くして実質金利を下げることで、個人消費を促す。此処迄は良いだろう。
 Inflation率が実際に高くなると公的債務が軽減されるので、日本の場合には更に見返りがある。公的債務がこれだけあってもまだ対処が出来ているのは驚くべきことだが、今の日本が抱える借金は人類が経験したことのないlevel、という訳でもない。
 非常に巨額であることに間違いはないが、歴史を振り返れば、第二次世界大戦後の1946年、英国の抱えたGDP比238%という段階に迄は至っていない。
 更に重要なのは純債務額である。それは日本という国家が持つ巨大な負債から、同じく国家が持つ資産を差し引いたものだが、その数値は対GDP比の債務残高と比較して、それ程突出したものではない。
 例えば日本国債に対して0.5%の金利を払い、deflation率(=minusのinflation率)が1%であった場合、実質金利は1.5%になる。ところが日本国債の金利が1.5%でも、inflation率が2%になれば、実質金利はminus0.5%。借金の規模を考えても、実質金利の低下は日本の財政上の見通しをぐっと改善させるのだ。P58

【小生comment】
 1953年生まれのKrugman教授は、2008年Nobel経済学賞を受賞。1974年イェ―ル大学卒業。1977年MITIにて博士号取得。現プリンストン大学教授。
 氏は、アベノミクスの理論的支柱である為か、本書を読んでいると現在の日本経済が本当に復活して、日本が世界経済再生の模範国になる気がして来る。
 実際そうなってくれたらこんな嬉しいことはない‥。密かに期待している。

【後記】来年06月07(土)~08(日)の「時習26回生卒業40周年記念懇親会 in 京都」の案内状「豊橋支部幹事会 執行部(案)」について、現在、豊橋支部幹事会のmembersの意見を頂戴し乍ら近日中に作成を目指している。
 早めに時習26回生の皆さんに案内状を出状出来ればいいな、と思っている。
 それから、小生12(土)~14(祝月)の三日間、自家用車で中国地方の3つの『美術館〔広島県廿日市市【ウッドワン美術館】・広島県尾道市【平山郁夫美術館】・岡山県倉敷市【大原美術館】〕』と3つの『お城〔山口県岩国市【岩国城】・広島市【広島城】・広島県福山市【福山城】〕』&世界遺産を2つ‥『広島県廿日市市【安芸の宮島‥厳島神社】』『広島市【原爆dome】』‥を見て来る予定です。
 是等の模様は、次号《会報》以降をお楽しみに!!(^-')b♪

 それから、訃報が1件あります。
 時習館高校美術家教諭であられた冨安昌也先生が先週末が天寿を全うされた。先生は、大正07年生まれなので今年満95歳であった。
 以下に、在りし日の先生と、先生の代表作をお示ししつつご冥福をお祈りする。〔合掌〕

[12]在りし日の冨安昌也先生
 12

------------------------[13]冨安昌也(1918-)『モスタルの道具屋』1991年
 131991

 ではまた‥(了)

2013年10月 5日 (土)

【時習26回3-7の会 0467】~「09月22日:国立西洋美術館『ミケランジェロ展‥天才の軌跡‥』&『常設展の主要作品と【ル・コルビュジエと20世紀美術】展』を見て」「09月27~29日:『北海道石狩湾新港 視察会』に参加して

■皆さん、お元気ですか、今泉悟です。《会報》【0467】号をお届けします。
 早いものでもう10月も5日が経過しようとしています。
 「大分秋らしくなって来ました」と言いたい処ですが、10月01日は、名古屋では日中の最高気温が30度を超える『真夏日』を記録しました。
 豊橋は、名古屋より、夏は最高気温が2~3℃涼しく、冬は最低気温が2~3℃温かい、という気候には恵まれていることを嬉しく感じています。

■さて今日は、先週お知らせしました様に、掲題・副題にある様に、東京都美術館より上野駅方面に200~300m戻った所にある国立西洋美術館の模様を、『企画展』と『常設展』の二つに分けご紹介します。

※‥企画展‥『ミケランジェロ展‥天才の軌跡‥』

[00]国立西洋美術館 正面の看板前にて
 00_michelangelo

------------------------[01]国立西洋美術館『ミケランジェロ展‥天才の軌跡‥』leaflet
 01leaflet

[02]システィ―ナ礼拝堂 祭壇壁画:Michelangelo『最後の審判』‥「大塚国際美術館」(模写)部分‥
 02_2

------------------------[03]ジョルジョ・ギ―ジ『最後の審判』版画:1540年頃版刻‥1823-70年印刷
 031540182370

[03a]Michelangelo『システィ―ナ礼拝堂天井画』1508-12年
 03amichelangelo150812

------------------------[04]Michelangelo『階段の聖母』1490年頃
 04michelangelo1490

 本展について、leafletは次の様に紹介している‥

 本展覧会は、「神の如き」と称された大芸術家ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni(1475-1564))の創造の軌跡とその波紋を、彼の子孫のcollectionを引き継ぐ「カ―サ・ブオナローティ美術館」〔在Firenze〕の所蔵品〔‥Michelangeloの素描類30点強&関連作品等60点‥〕に拠って紹介するものです。中でも彼が15歳前後で制作したとされる『階段の聖母』(添付写真[04])は、初期の大理石reliefの傑作で、是迄門外不出とされ、長期間貸し出しされるのは本展が史上初の機会となります。〔後略〕

※‥常設展‥【ル・コルビュジエと20世紀美術】展とその他

[05]ル・コルビュジエ(Le Corbusier(1887.10.06-1965.08.27))(1954年)
 05le_corbusier18871006196508271954

------------------------[06]Corbusierが設計した国立西洋美術館1955-59年(上:正面/左下:1階 19世紀hall/右下:2階 展示室)
 06corbusier1955591_19hall2

[07]ジョルジュ・ブラック(Georges Braque(1882-1963))『静物』(国立西洋美術館)1910-11年頃
 07georges_braque18821963191011

------------------------[08]Pablo Picasso(1881-1973)『Postersのある風景』(国立国際美術館)1912年
 08pablo_picasso18811973posters1912

[09]ファン・グリス(Juan Gris(1887-1927))『円卓』(東京国立近代美術館)1921年
 09juan_gris188719271921

------------------------[10]フェルナン・レジェ(Fernand Leger(1881-1955))『花と女』(東京国立近代美術館)1926年
 10fernand_leger188119551926

[11]Le Corbusier『サイフォンのある静物』(Paris Corbusier財団)1928年
 11le_corbusierparis_corbusier1928

------------------------[12]同『女性のAccordion弾きとOlympic Runner』(大成建設gallery・タイセイ)1928-32年
 12accordionolympic_runnergallery192

[13]Le Corbusier『牡牛Ⅱ』(Paris Corbusier財団)1928-53年
 13le_corbusierparis_corbusier192853

 国立西洋美術館の本館を設計したLe Corbusierは、20世紀を代表する建築家・画家・彫刻家・版画家として、又tapestry、映像等、広範な分野に亘り活躍した多彩な芸術家。
 本展は、彼の作品の多くを管理所蔵するParisのLe Corbusier財団と、彼の美術作品に関して世界有数のcollectionを持つ大成建設galleryタイセイの協力で実現したと主催者があいさつで述べている。
 又本展では、彼と密接な関わりのあった同時代の画家、Picasso、ブラック(Braque)、グリス(Gris)、レジェ(Leger)等の作品も紹介している。
 本名をシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ(Charles-Edouard Jeanneret-Gris)と言い、1887年10月Swissのラ・ショ―=ド=フォン生まれた。
 1917年の春、29歳の建築家シャルル=エドアール・ジャンヌレは、故郷のSwissを離れParisへ出て、1歳年長のアメデ・オザンファン(Amedee Ozenfant(1886-1966))と出会う。
 第一次世界大戦が終結した1918年末から1925年迄の間、彼はオザンファンと連携して「ピュリスム(純粋主義)」と「レスプリ・ヌーヴォー(新精神)」を旗印に掲げ、絵画・建築・執筆・出版と多方面に亘る活動を展開。当該数年間に、ジャンヌレは国際的modernismの旗手Le Corbusierに変貌を遂げる。〔以上、本展図録より引用〕
 此処で「Purisme(純粋主義)」と「レスプリ・ヌーヴォー(L'Esprit Nouveau(新精神))」について補足する。
 JeanneretとOzenfantは共同で、1918年11月出版された『キュビスム以後(Apres le Cubisme)』を発表すると共に、翌12月Parisのトマ画廊で展覧会を開催。
 Cubismeの対象の解体に抗議して、対象の造形的要素を厳格な科学的規則に基き再構成することにより、絵画の「建築的構造美」を与えることを主張。1925年迄雑誌『L’Esprit Nouveau』を発行して彼等の思潮を展開。以後の建築・デザインに大きな影響を与えた。
 彼等に拠れば、現代生活の最たる特徴は「工業と機械と科学の精神」にあり、芸術のあるべき方向性は、科学に通じる精神を以て分析・構想し、「調和」と「秩序」を導く普遍的な法則を見出すことに努めるべきだとしている。
 この様に華々しく活動を展開した二人だが、理論先行型の主張の感は否めず、事実、後年、Corbusierはcubismeを再評価して、作風もcubismeの範疇にある。
 晩年彼は、第二次世界大戦末期以降、建築家・画科・彫刻家の連携に拠る「諸芸術の綜合」を唱え、荒廃した社会の再構築の為に「調和」の必要性を訴えた。
【小生comment】
 小生の主観で言えば、Corbusierは画家よりも建築家としての方が高い評価が与えられているのではないかと思う。
 上野にある国立西洋美術館がCorbusierの設計であるからみても頷ける。
 彼の絵画作品もそれなりに面白いのであるが、残念だが、PicassoやBraqueのcubismeを凌駕したとは言えない。
 とは言え、亜流とは言え、見ていてついつい彼の絵には引き込まれる、それだけの強い説得力はある質の高い作品だと言っていい。

 さて、CubismeやPurismeの絵は刺激的ではあるが、ずっと見続けていると正直少々
疲れる。
 矢張り、baroque以降‥即ち、rococo、新古典主義、ロマン主義、写実主義、印象派・後期印象派、象徴主義、ナビ派Les Nabis)、Fauvisme辺り迄がいい。
 其処で、今回の『常設展』cornerに展示されていた作品から5点をご覧に入れたいと思います。一服の清涼剤です。お口直しにどうぞ‥

[14]El Greco(1541-1614)『十字架のキリスト(Christ on the Cross)』制作年不詳
 14el_greco15411614christ_on_teh_cro

------------------------[15]ピーテル・ブリューゲル(子)(Pieter Brueghel,the younger(1564-1638)『鳥罠のある冬景色』17世紀前半
 15pieter_brueghel_the_younger17

[16]コルネリス・ド・へ―ム(Cornelis de Heem(1631-95)蘭)『果物籠のある静物』1654年頃
 16cornelis_de_heem1654

------------------------[17]マリー=ガブリエル・カペ(Marie-Gabrielle Capet(1761-1818))『自画像』1783年頃
 17mariegabrielle_capet1783

[18]Pierre-Auguste Renoir(1841-1919)『Algeria風のParisの女たち』1872年
 18parenoiralgeriaparis1872

■続いての話題は、09月27(金)~28(日)、仕事で『北海道石狩湾新港 視察会』に参加して来ましたのでその模様についてご報告します。

[19]『石狩湾新港』全景
 19

------------------------[20]『石狩湾新港』のlocation
 20location

[21]「石狩湾新港管理組合」発行の『Marine Press』
 21marine_press

 09月27日(金)から2泊3日で北海道石狩市にある『石狩湾新港』の視察旅行に参加した。
 11時45分、中部新国際空港発のANAで千歳へ。其処から貸切busで一路「石狩湾新港管理組合」に向かった。
 最初に小一時間、本社会議室でlectureとDVD視聴があった。
 石狩湾新港[=札幌港]は、北海道の石狩湾のほぼ中央に位置する小樽市と石狩市に跨る「重要港湾(昭和48年04月指定)」。
 当該地区には700社の企業、13千人が就業する一大産業基地を形成。
 港湾管理者は北海道、小樽市、石狩市が設立する特別地方公共団体の石狩湾新港管理組合。
 190万人都市・札幌の中心部から北へ約10~15kmと近く、総面積は3,022ha。三河港明海地区(659ha)の4.5倍と広大。
 lecture終了後、港湾の諸施設を貸切busを使って30分程視察。
 視察終了後、宿泊地の小樽市街へ向かった。
 翌日28日(土)は終日、旅行組とGolf組に分かれ懇親の一日を過ごし、二日目の夜は札幌市すすき野にあるホテルに宿泊。
 以下の添付写真〔[28]札幌時計台、[29]さっぽろテレビ塔、[30]旧・北海道庁舎〕は同日夕刻の自由時間に散策した折に撮影したもの。
 最終日29(日)は、11時55分千歳発のANAで名古屋へ。視察会は無事終了した。
 この3日間はいずれも快晴の素晴らしいお天気であった。

[22]日没前の『小樽運河』20130927
 22

------------------------[23]夜の『小樽運河』01
 2301

[24]同02
 2402

------------------------[25]同03
 2503

[26]札樽Golf場にて 20130928
 2620130928golf

------------------------[27]視察会members全体写真(後列左端が小生)
 27membera

[28]日暮れ近くの『札幌時計台』
 2820130928

------------------------[29]同『さっぽろテレビ塔』
 2901_1472m

[30]同『旧・北海道庁舎』
 30

【後記】来年06月07(土)~08(日)の「時習26回生卒業40周年記念旅行&懇親会」の案内状「豊橋支部幹事会 執行部(案)」を近日中に作成する予定である。
 通信手段は、今回、e-mail利用と郵送を予定している。
 極力通信手段の経費削減を削減すべく、同封の返信葉書ではmail配信可能な人はmailでの案内等通知に協力戴く様お願いしている。
 今回の案内状は、豊橋支部副代表幹事 水藤T詳君【3-6】が担当してくれた。
差出人名は不肖乍ら「代表幹事である小生」。
 郵送分400通の宛名印刷及び差出人印刷は、豊橋支部幹事の井垣K夫君【3-3】が担当してくれた。
 諸費用決済及び、会費入金口座は、同副代表幹事中嶋Y行君【3-2】が既に先月作成してくれている。
 みんな本当に協力的で、代表幹事として喜びに堪えない。
 水藤君、井垣君、中嶋君、本当に有難う!

【詞書】「友情の温かさ」と「『秋の声』‥朝晩の冷気や陽がめっきり短くなったと敏感に感じる秋の気配のこと‥」を最近強く感じる‥

 身に沁むや 厚き友情 秋の声  悟空

 ではまた‥(了)

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05【時習26回3-7の会】【2008年8月16日】《クラス会》於:ブラウンズ&トライ・アゲイン

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    ■2008年8月16日【時習26回3-7の会】《クラス会》を豊橋市内にある『ブラウンズ(一次会)』と『トライアゲイン(二次会)』にて開催しました。T三先生をはじめ全国から15名が集い大変楽しい5時間を過ごしました。 ■名残惜しいなか、23時すぎ、来年の再会を誓って散会しました。

101【2007年6月2~3日】■「千手院」でお会いした皆さんへ←clickでalbumへ

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    ■朝護孫子寺にて撮影した写真のほとんとを追加しました。ご高覧下さい。 ■2007年6月2~3日、「賢人会」のmember谷山・中嶋両氏と大和七福神・八宝廻りをしました。 ■七福神の一つ毘沙門天を祭る「信貴山朝護孫子寺」の宿坊【千手院】で一泊。 ■そこで、ご一緒した皆さんとの楽しかったひとときをアルバムにしました・・。      * * * ■瀬尾君、浅田さんとそのお供達の皆さんへ、「感想をお聞かせ」頂ければ幸甚です。 ▼『【時習26回3-7の会】のブログ画面』の【左上欄外】の「メール送信」を左clickして頂くと、今泉宛のmail address ~ < si886@nifty.com > ~ が開きます。 どうぞ、ご気軽に感想をmailにてお知らせください。 ▲【2637の会】のURL・・・  → URL: http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog

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