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2014年8月の5件の記事

2014年8月31日 (日)

【時習26回3-7の会0514】~「08月27日:山種美術館『水の音‥広重から千住博まで‥』展を見て」「08月27:世田谷美術館分館 向井潤吉アトリエ館『異国の空の下で』展を見て」「丹羽宇一郎著『中国の大問題』を読んで」

■皆さん、今泉悟です。
 相変わらず天候不順が続いていますが、お元気でお過ごしですか?
 今週も【時習26回3-7の会0514】をお届けします。
 明日からもう9月です。
 齢を重ねるに連れて歳月の移り変わりが幾何級数的に早く感じられる様になりました。

■さて、今日最初の話題も、美術館巡りの話から‥。
 小生、実は08月27日(水)に仕事で上京した帰り、2つの美術館を覗いて来た。
 最初にお届けするのは、山種美術館『水の音‥広重から千住博まで‥』展である。
 本展は、海や山河に恵まれ、豊かな『水』に恵まれた我国日本の風景美をthemeに歌川広重(初代)(1797-1858)から千住博(1958- )迄の日本画家の傑作選で纏めている。
 涼やかな『水の音』の絵を堪能されたい。

[01]山種美術館 入口の看板
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[02]山種美術館『水の音‥広重から千住博まで‥』本展leaflet
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[03]山本丘人(1900-86)『流転之詩』1974年
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[04]川端龍子(1885-1966)『鳴門(左隻 部分)』1929年
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[05]奥村土牛(1889-1990)『鳴門』1959年
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[06]千住博(1958- )『四季滝図』1999年
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[07a]千住博『Falling Colors』2006年
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[07b]同『同』同年
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[07c]同『同』同年
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[07d]同『同』同年
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[07e]同『同』同年
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[08]小野竹喬(1889-1979)『沖の灯』1977年
 08188919791977

[09]歌川(安藤)広重(1797-1858)『東海道五拾三次之内 庄野・白雨』1833-36年
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[10]奥村土牛『海』1981年
 101981

【小生comment】
 添付写真の絵[06]~[07e]の6枚は、千住博氏の作品。
 厳密に言うと、添付写真の絵は、本展展示作品とは違う作品である。
 しかし、大変良く似ている。
 ジックリ拝見したが、なかなか面白い作品であった。

 因みに、氏の略歴は以下の通り。
 1958年 東京生まれ
 1982年 東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業
 1987年 同大学大学院博士課程修了
 1995年 第46回Venezia Biennaleで、東洋人として初の絵画部門優秀賞受賞
 1998年 大徳寺 聚光院の襖絵制作を開始、2013年京都本院の襖絵完成
 実弟千住明は作曲家、実妹千住真理子はviolinist、父千住鎮雄は工学博士、母千住文子は教育評論家&essayist
 2007年~2013年3月 京都造形芸術大学学長
 現・New York在住

 又、添付写真の絵[10]奥村土牛『海』1981年 は、本展の展示作品ではないが、Museum shopに展示されていて気に入ったので紹介させて頂いた。

■さて、山種美術館の次に訪れたのは、世田谷美術館分館/向井潤吉アトリエ館である。

[11]世田谷美術館分館 向井潤吉アトリエ館 入口の看板
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 本館は、向井潤吉(1901.11.30-95.11.14)が存命中の1993年07月10日、氏の居宅兼atelierを「世田谷美術館分館/向井潤吉アトリエ館」として会館した。
 小生、本館は初めての訪問である。
 氏は、戦後、次第に失われつつあった日本の原風景を、丹念に絵画に残していった。その功績は大きい。
 特に1960年代以降の老境に差し掛かってからは一貫して風景画家として「日本の原風景」を求めて全国各地を巡った。
 彼は、26歳になる年の1927年10月、Siberia経由でParisへ。
 1930年01月、行きと同じくSiberia経由で帰国。
 彼は、渡欧中はルーブル美術館に通い、名画を模写する共に、自宅では、『司厨夫』の様な、ココシュカやスーチン風の絵を描いていた。

[12]向井潤吉アトリエ館『異国の空の下で』展leaflet
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[13]向井潤吉『自画像』1919年
 131919

[14]同『司厨夫』1928年
 141928

[15]同『渡月橋々畔にて(京都市右京区嵯峨)』1957年
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[16]同『妙高高原(新潟県中頸城郡妙高高原町)』1964年
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[17]同『麓(ふもと)の老樹(山梨県北巨摩郡小淵沢町)』1969年
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[18]同『六月の田園(岩手県岩手郡滝沢村)』1971年
 181971

[19]同『微雨(長野県木曽郡南木曽町妻籠)』1974年
 191974

[20]同『早春の水路(川越市下新河岸)』1982年
 201982

[21]同『遅れる春の丘より』1986年
 211986

■今日最後の話題は、最近読んだ丹羽宇一郎著『中国の大問題』についてである。

[22]丹羽宇一郎『中国の大問題』
 22

 丹羽宇一郎氏は、中国大使時代の2年半、諸問題を抱えつつも急成長しつつあった中国の国内各地を実地見聞した。
 氏は、商社マン時代は北京市、江蘇省、吉林省等の経済顧問を歴任。
 大使時代は33ある一級行政区のうち27地区を視察し、地方の政治topたる党委員会書記達と面談した。
 氏は、商社時代に培った「現場主義」を大使時代にも常に実践していたと述懐している。
 豊富な氏の中国に関する情報をもとに、本書で日本の読者向けに「中国を侮るな、しかし過剰に怯む必要もない」とadviceする。
 そして、日本がこれからも発展し続けていく為には、十年後に世界のtopに君臨する経済大国になっているであろう中国市場にbusinessの場を確保して行くことが不可欠であると述べている。

 又丹羽氏は、日本の問題は、此処20年来の教育の欠如だけでなく、日本の若者達が教育を受けて向上しようとする意欲そのものが欠如している、と警鐘を鳴らし、次の様に述べている。

 要するに、努力がカッコ悪いという風潮が蔓延して仕舞った。
 別に年収300万円だって問題ない。
 貧しくても自分はいい、それ以上の向上は求めない。
 それで何が悪い‥‥そんな若者が増えている。
 別に悪くない。
 悪くはないが、だったらどんなに貧乏しようと人に頼らないことだ。
 自分だけが恵まれていないなどと泣き言を行ってはいけない。〔P.218-219〕
 〔中略〕
 日本にいま欠けているのは「機会の均等」である。
 日本社会では階層の固定化が進み、収入の高い家庭ほど進学率が高いというdataがある。
 大学に入りたい、塾に行きたいという若者には奨学金を与える等、能力がある者、努力する者には貧富を問わず、機会を与えるsystemが必要だ。
 仕事もそうだ。たかが大学四年間の成績だけで就職先が左右され、就職出来なければ使い捨ての非正規社員になる。
 一度使い捨ての労働者になると、二度と這い上がることが出来ない。
 これは「機会の不平等」と言わざるを得ない。〔P.223〕

 そして、丹羽氏は、「おわりに‥十年後に死んでいるかもしれない人間のmessage‥」で次の様に述べて本書を締め括っている。

 かつて日本経済が世界をleadした時代、資源のない日本が唯一持っている資源は人材だった。
 その人材が優れた技術と製品を生み出し、国力を支えて来た。
 日本が唯一出来るのは、世界のどの国民よりも信頼できる国民であること、世界に対して誇れるものをつくることだ。
 それは今も昔も変わらない。
 言い換えれば、量的な成長ではなく、質的な成長を目指す社会と言っていいだろう。
 その時の質とは、安心と安全を実現する優れた技術や製品である。
 その質を上げていけば、技術の革新は進み、softはより良く改善され、人間の価値は高まる。
 政治や外交のlevelでも同様のことが言える。
 Asiaで日本の位置を維持するには、「戦争に対する認識や反省が足りない」と批判されるのではなく、「流石 立派な国民」と称賛される様にならなければならない。
 それでこそ、「農業立国(教育・人・水・光・土)」、「観光立国(教育・人・景勝・service)」、「貿易立国(教育・人・技術)」という戦略が成り立つ。
 日本は、どの国と争っても国民の為にならない。
 その意味で、日本はもっとも世界の平和を望まねばならない国なのだ。
 日中関係を始めとして、これからの日本をdesignする時に、肝に銘じなければいけないことだと私は思う。〔P.229〕

【小生comment】
 丹羽氏の最後の言葉は、我々も肝に銘じて、真剣に取り組んで行かなければならないと確信する。
 日本企業は、中国市場に於いて、質的に優位にあるもので商売を行い、利益を上げ続けるbusiness modelを確立して行かなければ生き残っていけないだろう。
 だから中国とは、敵対すべきではない。
 勿論、単純に中国に迎合する必要もないが‥。

【後記】今日のお別れは、08月27日(水)に上京した際、訪問した国土交通省の入口でのsnap shotをお示ししてお別れします。

[23]国土交通省 入口にて2014-08-27
 23_20140827

 では、また‥。(了)

2014年8月24日 (日)

【時習26回3-7の会0513】~「倉都康行著『金融史の真実 ― 資本システムの1000年 ―』を読んで」「08月15日:豊橋市美術博物館『安野光雅「旅の絵本」の世界』展を見て」「08月24日:三重県立美術館『中澤弘光』展を見て」

■皆さん、今泉悟です。
 天候不順で、蒸し暑い日が続いていますが、お元気でお過ごしですか?
 今週も【時習26回3-7の会0513】をお届けします。
 盂蘭盆も明けて、仕事も巡航速度に戻りました。
 先ずは、時習26回生関連の話題から2点お伝えします。
 一点目は、8月2日にmail便で配送した「懇親会in京都2014」の『記念DVD』に関してです。
 是迄に多くの同期の皆さんから着便確認と『記念DVD』視聴後の感想を頂戴しました。
 皆さんの感想は総じて好意的であり、制作者として「時間をかけて作った甲斐があった」と苦労が報われた思いがした。
 二点目は、最近Face Bookに実質的に参加したこと。
「実質的に」と言ったのは、Face Bookには一年以上前に参加していたからである。
 実際の処は、休眠状態にあった。
 それがこの程、杉浦H幸君【3-8】から『FB不老荘』への参加のお誘いがあったからである。
『FB不老荘』には、時習26回生の東京支部の面々が数多く参加していることが、参加してみて初めて解った。(^^;

■さて、今日最初の話題は、最近読んだ本から一つお送りします。
 それは、倉都康行著『金融史の真実―資本システムの1000年―』である。

[01]倉都康行著『金融史の真実―資本システムの1000年―』
 01system1000

 本著の作者 倉都(くらつ)氏の経歴は以下の通り。
 1955年生まれ。
 東京大学経済学部卒業後、東京銀行入行。
 東京、香港、Londonで国際資本市場業務に従事後、Bankers Trust New York Corpに勤務。
 1997年よりThe Chase Manhattan BankのManaging Director。
 現在、RP代表取締役。日本金融学会会員。

 小生、Caption描かれていた内容に惹かれて本書を購入した。
 其処には次の様に描かれている。

 ‥「経済を元に戻せ」という願望は、かなりnaiveな要請なのではないだろうか。
 歴史的にも何度も深刻な金融危機を乗り越えてきた経済構造は、そんな声を嘲笑うかの様に、むしろ「次なるbubble」とその「後(あと)処理」を必然的な宿命として待ち構えているのではないか。‥
 ※ 資本主義や資本市場など、moneyが動く舞台「資本system」。其処では、一度(ひとたび)risk計算が狂い始めると、負債が適正水準を超え、懸命に回避しようとしても危機は再燃する、その繰り返しだ。我々は、自在に変貌していくこのsystemの上で、あちこちに振り回され乍ら生きているだけではないのだろうか。12世紀Italy都市国家からの金融史を概観して、資本主義に内在するmechanismを暴き、金融metabolic syndromeを形成する今日の問題の行方を探る ※

 以下、本書について、Indexに沿ってsummaryをご紹介したい。

Prologue/姿を変える資本system

第1部/risk※(注)と金融の歴史
1. 第一期民間資本時代〔12-15世紀の民間経済時代〕
 Italy商人達が、交易の場である地中海での海難事故対策として海上「保険」というrisk概念にpricingという息吹を吹き込んだ。〔P.33〕

※(注)risk:一般的にいう「危険」に相当するのはdanger。
 一方、riskは、「危険・損害等に遭う高い可能性」or「自ら覚悟して冒す危険(冒険・挑戦)」を指す。

2. 第一期公有化時代〔15-17世紀の王室権力時代〕
 1602年 オランダの東インド会社が株式会社を設立。
「tulip球根bubble」の発生‥←王室が主導して、「負債」という「レバレッジ(=梃子:leverage)を使い、bubbleを現出〔P.51〕

3. 第二期民間資本時代〔18-19世紀の自由経済時代〕
 産業革命に拠り資本市場が進展、金融面では科学的なrisk pricingが図られ保険が進化。
 民間銀行も英米列強の帝国主義化に伴い植民地に進出して行った。〔P,61-68〕

4. 第二期公有化時代〔19-20世紀の政府支援時代〕
 大恐慌、そして経済の公有化。
 具体的には、例えば、米国のF. Roosevelt大統領が行ったNew Deal政策に代表される。〔p.72-75〕

5. 第三期民間資本時代〔1980-2006年の新自由主義時代〕
 Derivativesは、そもそも「Risk hedge」へのneedsから誕生したのである。
 具体的には、為替・金利・株価・信用をhedge(=損失を防御)することである。〔P.85-86〕
 ところが、derivativesの進展は、難易度の高いderivativesを駆使して利益を獲得した投資家達はそれを当然なものとして考えるに到った
 その為、それ〔=高度なderivativesの駆使〕が慢心に繋がり、恒常的な利益拡大欲求を増長させ、資産bubbleを齎した。
 その典型的な例がサブプライムローン(subprime lending / subprime mortgage)である。
 それが、延いてはLehman Shockに到ったのである。

6. 第三期公有化時代〔2007年以降の国有化時代〕
 政府・中央銀行の徹底介入なしに、欧米の資本systemは稼動しなくなった。
 日本でも長期デフレ傾向からの脱却が出来ず、長期低迷が続く。
 それは資本systemの一時的損傷と言うよりも、第三期の公有化時代の到来と言っていい。〔P.96〕

7. risk計算と資本system

第2部/資本市場の脆弱性〔P.119-168〕
1. 不安の源泉は銀行とsovereign
2. risk計算の行き詰まり
3. ドルしかないという弱み
4. 資産bubbleの必然性

第3部/金融の過剰
1.「大きく過ぎて潰せない」は維持不能
「Too Big to Fail(大き過ぎて潰せない)」から〔中略〕米国では、法律で銀行への公的な救済を禁止して仕舞った。
 それは、「Too Big to Save(大き過ぎて救えない)」と言われる程迄に、銀行が肥大化しているからである。〔P.182〕

2. 中央銀行も失敗する
3. 先進国の国債は救われるか
 ①「国債償却」案〔P.202〕」「
  ※「財務省が発行した『国債』勘定」と「中央銀行が保有する『国債』」を相殺する
  ‥→・相殺した『国債』金額の現金のみ市中に残る
  ‥→・その結果、「inflation」と「政府債務の減少」となり、デフレが解消する
  〔‥小生蓋し、本案は、理屈としては理解出来るが、資本systemを軽視したあまりに非現実的な策である‥〕
 ②「金融抑圧(Financial Depression)」案〔P.207-208〕
  ※「インフレ率」を下回る金利の国債を発行。その金利差相当額の実質的な国債残高削減を実現出来る
  ‥→・「増税」「歳出削減」「高成長」「default」以外に「金融抑圧(Financial Depression)」という5番目の選択肢がある
  ‥→・本案は、第二次世界大戦後の主要国が経験した高inflation下に於ける国債発行という形で現実に経験している
 ③国家の「Debt Equity Swap」案〔P.210-213〕
  ※ 国家が株式会社の株式の様に国債を返済不要の「永久債」とする
  ‥→・永久債は、混迷を脱する為の策としては決して悪い方法ではないが、一国で行おうとすると信用力低下による金利急騰が不可避となる。
  ‥→・したがって、先進諸国が「協調」し乍ら国債のequity化を進めていく、というのが唯一残された道かもしれない。

4. 成長主義の誤謬

Epilogue/本質を見抜いた二人の経済学者

【小生comment】
 倉都氏は述べている。
「『資本system』は、一度risk計算が狂い始めると、負債が適正水準を超え、懸命に回避しようとしても危機は再燃する、その繰り返しだ」。

 氏は、此処の処を Lehman Shockに至る過程を念頭に置いて、本書で更に次の様に詳述している。
「第一期の民間経済時代に生まれた海上保険の様に、保険は経済活動を支える極めて重要な概念だ。〔中略〕
 経済社会も保険なしでは成長が望めない。
 Swap(取引※1)やOption(取引※2)は、その一部の機能を担っている。
 デリバティブズ(derivatives:金融派生商品)はそうしたneedsの中で「民間経済時代」と「金融自由化時代」が交差する中で生まれた傑作であったが、便利な道具は当初の目的から外れて使われる宿命を孕んでいる。
「risk hedge」の逆は「risk take」である。新自由主義を謳歌する市場経済に慢心が蔓延する中で、Derivativesの「悪用」や「濫用」も又日常茶飯事になっていったのである」。〔P.88〕

※1. Swap取引:金融に於いて、予め決められた条件に基づいて、将来の一定期間に亘り、cash flowを交換する取引
※2. Option取引:Derivativeの一種。ある原資産について、予め決められた将来の一定の日 又は期間において、一定のrate又は価格(行使rate、行使価格)で取引する権利(Option)を付与・売買する取引

 小生、この説明を見ると、平家物語の巻頭「祇園精舎」にある「盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、‥」や「亢龍、悔いあり=【亢龍の悔い】」という言葉を思い出す。
 亢龍(こうりょう・こうりゅう)とは、易経でいう「6段階ある龍」の最上級の龍。
 上り詰めた龍であり、あとは衰退するしかない龍である。
 因みに、6段階の龍とは「潜龍→見龍→君子終日乾乾す→躍龍→飛龍→亢龍」をいう。

 Lehman Shockの直接のtriggerとなったsubprime Lendingは、Derivativesのrisk hedge機能を濫用した結果起きたと言っても過言ではない。
 慎重にrisk hedgeする為に活用されていたderivativesに拠り現出されていた利益。
 それが、更なる利益の拡大再生産を望む投資家等からの欲求に応えるべく、投資銀行はDerivativesを使い、意図的か結果的かは兎も角も、権利の濫用と言われても仕方がない derivativesを作り出していった。
 JPMorganのderivatives teamが考案したとされるCDS(Credit Default Swap)がその代表例である。
 この時点で、米国の金融工学は、「飛龍」→「亢龍」に変貌し、あとはLehman Shockへ突き進んで行ったのである。
 本書は、現在の「資本system」を金融の歴史から紐解いている。
 そして、端的に言えば、‥人間の飽くなき欲求が「bubble」と「金融恐慌」を繰り返し齎している‥と述べている。

■続いての話題である。先週08月15日(土)に、翌々日の17日(日)迄豊橋市美術博物館にて開催されていた『安野光雅「旅の絵本」の世界』展を見て来たのでその模様をお伝えしたい。

[02]豊橋市美術博物館入口『安野光雅』展看板
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[03]本展leaflet
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[04]安野光雅『繪本/歌の旅~山梨県明野町、山の中の畑や沼』
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[05]同『同/同~門司港』
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[06]同『物語の街から村へ』から01
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[07]同『同』~02
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[08]武蔵野市立第四小学校の教員時代〔前列右端が安野光雅先生〕
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 安野光雅氏の代表作の一つに『旅の絵本』がある。
 伊・英・米・Spain・Denmark・中国といった世界各国を巡る文字のない絵本である。
 Panoramaの様に展開する風景の中に、名画・文学・歴史・映画の場面等、遊び心ある仕掛けが散りばめられ、見る度に新たな発見がある。
 Seriesは、1977年から始まり2013年の日本編の刊行を以て完結。
 これを記念して日本編全23点を含む83点の『旅の絵本』原画を一堂に公開するのが本展である。

 安野氏の略歴は以下の通り。
 1926年 03月20日 島根県津和野町に生まれる
 1949年 上京し、美術教師をつとめる傍ら本の装丁等を手がける
 1961年 画業として独立
 1968年 文字のない絵本『ふしぎな絵』でdbut
 1984年 国際アンデルセン賞(国際児童図書評議会)受賞
 1988年 紫綬褒章 受章
 2008年 菊池寛賞受賞
 2012年 文化功労者

 山川MOOK『安野光雅』という本の中に数学者 藤原正彦(1843.07.09- )氏が安野氏との出会いについて随筆を寄稿しているので紹介する。

 ※ 先生は画家に、生徒は数学者に ‥ 藤原正彦 ※

 ‥校庭から富士山が見える小学校で、若い図工の先生と、授業中にあくびばかりしている転校生が出遇った〔中略〕‥

【抜群に面白い話術】
 昭和27年の春、私(藤原)は武蔵野市立第四小学校の三年生に編入した。
 この学校は中央線吉祥寺駅から歩いて15分程の所に今もある。〔中略〕
 この頃、私は学校の授業が退屈でつまらなかった。
 何もかも当たり前で、机に向かっていることは苦行にに近かった。〔中略〕
 翌年、新任の図画工作の先生が赴任して来た。〔中略〕
 安野先生があっという間に生徒達の人気者になったのは、何といっても抜群に面白い話術だった。〔中略〕

【数学者になる為のtraining】
 四年生の三学期のある日、先生が皆に仰り始めた。
「大学に入るにはねえ、進学適性検査というものを受けないといけないんだけれどね、その問題の中にこの間面白いやつを見つけたんだ。
 それはこういうやつだ。
 いいかい、よく聞くんだよ。
 太郎君と次郎君が100m競争をしました。
 そうしたら太郎君がgoal inした時、次郎君はまだgoalの10m手前にいました。
 太郎君が次郎君に10mの差を付けてgoal inしたということだよね。
 其処でもう一回競争をすることにしました。
 さっきは10mの差が付いたから、今度は太郎君がstart lineから予め10m後ろに立ってヨーイドンをしました。
 さてどちらが先にgoal in するでしょう」
 先生はそう言ってニヤニヤされた。
 10秒もしないうちに殆どの生徒が口々に、
「同時に決まっているよ。
 10mぶん早い太郎を10m後ろに下げたんだもん」と言った。
 私は皆の答えが腑に落ちなかった。
「先生、ちょっと待って。答えを言わないでね」
 私は先生に言ってから答えを考え続けた。
「皆ももう少し考えてみな」
 先生は微笑み乍ら仰った。
 2分程してから私が叫んだ。
「先生、わかった」
「ほお。どちらが勝つんだ」
「太郎君が1m勝つよ」
「どうしてだ?」
「だって太郎君が100m走ると次郎君が90m走る、というのは次郎君は太郎君の9割の速さで走るということでしょ。
 だったら太郎君が110m走れば次郎君はその9割、99mを走ることになるからだよ」
 先生は皆の前で手放しに褒めてくれた。
 こういうことが何度かあった。
 学校で褒められることのなかった私にとって新鮮な喜びだった。〔中略〕
 先生にお会いしたのは、それから何十年も経った、私が50代に入った頃だった。
 太られた以外は昔通りだったので嬉しかった。
 先生は「私は貴方を私の教え子だと勝手に自慢しているんだよ」と仰った。
 半世紀前の一生徒に過ぎない私のことを覚えていらっしゃるまい、とばかり思っていたので更に嬉しくなった。〔後略〕

【小生comment】
 この随筆は一度読んだ切りだったが、鮮明に覚えていたので、今回安野光雅氏の絵画展をupするに当たり、是非一緒に掲載しようと思っていた。
「縁」とは不思議なものである。
 小生にも、色々の人との「縁」が沢山ある。
 その「縁」の一つひとつの積み重ねにより現在の小生がある、と言ってもいい。
 だからこそ、それ等の「縁」を一つひとつ大切にしていきたい。

 安野光雅氏の絵は、いつもほのぼのとした郷愁を感じる。
 優れた感性と色彩感覚、そして絵画の構成力は流石だと思う。
 絵画の技量も卓越したものを持っていている。
 小生も、氏の様に多方面に秀でた才能を具現化していく生き方に一歩でも近づけたら‥と常々思っている。

■そして今日最後も絵画展の話題である。
 昨日08月23日、朝07時半に家を出発して、07時59分発のひかり501号で名古屋へ、そして近鉄線松阪ゆき急行で09時46分津駅に到着。
 そして、10時05分に三重県立美術館に到着した。
 09月07日迄開催中の『中澤弘光 ― 知られざる画家の軌跡 ―』展を見る為である。

 本展は、日本の洋画壇で活躍した中澤弘光(1874-1964)の画家&designerとしての軌跡に焦点を当て取り上げている。
 彼は、東京・芝の日向佐土原(さどわら)藩士の家に生まれた。
 幼い時に両親を亡くし、厳格な祖母の許で育てられた。
 1896(明治29)年 東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝(1866-1924)に師事。
 黒田から外光表現を学び、「白馬会」を中心に活動。
 第1回文展(文部省美術展覧会)から出品と受賞を重ね、洋画家としての地位を確立していく。
 1912(明治45~大正元)年に三宅克己(こっき)、杉浦非水(ひすい)等と「光風会」を結成。
 その後も、「日本水彩画会」、「白日会」を創立し、精力的に作品発表を重ねていった。
 1957(昭和32)年 文化功労者。
 彼は、designerとして手腕も発揮し、欧州のart nouveauをいち早く取り入れた。
 与謝野鉄幹&晶子の著書をはじめとする様々な本の装幀・挿絵等を手がけたのも彼である。
〔以上、本展leafletより引用〕
 以下に、本展に展示された作品の中から幾つかをご紹介する。

[09]三重県立美術館入口『中澤弘光』展看板
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[10]三重県立美術館入口付近
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[11]本展leaflet/絵は 中澤弘光『夏』1907年
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[12]中澤弘光『自画像』1900年
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[13]同『非水像』1901年
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[14]同『錦帯橋』1914年〔「新小説」19年第11巻表紙原画〕
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[15]同『舞妓の横顔〔加茂川べり春霞〕』1930年頃
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[16]同『女の顔〔文子sketch〕』1942年
 16sketch1942

[17]同『舞妓』1955年
 171955

【小生comment】
 『夏』は、師 黒田清輝から学んだ外光表現が確り表されている作品である。
 彼の確りした技量は、まだ20代の時描いた『自画像』や『非水像』をご覧頂けるとお解りの様に、肖像画によく表れている。
 小生、中澤弘光の作品を纏めて見たのは今回が初めてである。
 又新しい「美」を発見した。
 三重県津市迄、出向いた甲斐があった、というものだ。

 流石は、三重県を代表する美術館である。
 大手スーパー、イオンの前身ジャスコの創業者の岡田卓也(1925- )が寄贈した資金に拠り1980年設立された岡田文化財団が当美術館にかなり名品を寄付している。
「岡田文化財団寄贈作品集Ⅲ」を見てみたら、以下の[19]ゴヤ、[20]モネ、[21]ルノワール、の3点が掲載されていた。
 今回展示されていた内外の名作の中から幾つかをご紹介して、今日のお別れとしたい。
 Murilloは、『無原罪の御宿り』1660-65年という最も著名な傑作があるが、この『アレクサンドリアの聖カタリナ』も中々いい作品である。
 Goya、Monet、Renoir、佐伯祐三、み~んな、いいでしょ!(^^
 今度又、当美術館で気に入った企画展があったら、所蔵品展も必ず覗いて、名画と対面してみたい。

[18]ムリーリョ(Murillo(1618-82)『アレクサンドリアの聖カタリナ』1645-50年
 18murillo161882164550

[19]ゴヤ(Goya(1746-1828))『アルベルト・フォラステールの肖像』1804年
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[20]モネ(Monet(1840-1926))『橋から見たアルジャントゥイユの泊地』1874年
 20monet184019261874

[21]ルノワール(Renoir(1841-1919))『青い服を来た若い女』1876年
 21renoir184119191876

[22]佐伯祐三『サンタンヌ教会』1928年
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 では、また‥。(了)

2014年8月17日 (日)

【時習26回3-7の会0512】~「08月13日:岐阜県美術館『パスキン』展を見て」「08月14日:豊田市美術館『ジャン・フォートリエ』展を見て」「08月14日:愛知県芸術劇場concert hall『佐渡裕指揮/Siena Wind Orchestra』演奏会を聴いて」「08月16日:【時習26回3-7の会】「クラス会」開催報告」

■皆さん、お元気ですか?
 今泉悟です。【時習26回3-7の会0512】をお届けします。
 今年もあっと言う間に盂蘭盆も終わって仕舞いました。
 拙宅でも昨日16日の夕方〔‥クラス会へ行く直前‥〕、送り火を焚いて亡母の御霊を送りました。
 皆さんのお宅のお盆は如何でしたでしょうか?

 ※ ※ ※ ※ ※

■さて、今日も最初の話題は、絵画展の模様からお伝えする。
 小生、お盆休みとなった08月13日、岐阜県美術館を訪ねた。
『PASCIN(パスキン)‥生誕130周年記念‥Ecole de Paris/愛と旅の詩人‥』を見る為である。
 Ecole de Parisの中で、当時最も富と名声を得ていたと言われるPascin(1885-1930)。
 彼は、19世紀末から第一次世界大戦勃発迄のParisが繁栄した華やかなベル・エポック(Belle Époque(意:良き時代)から、レ・ザネ・フォル(Les Annees Folles『狂乱の時代』)と呼ばれる1920年代を疾風怒濤の如く生き、1930年に45歳の若さで自らの命を絶った。
 彼の生涯について、Comite Pascin副会長のローズマリー・ナポリターノ(Rosemarie Napolitano)氏は、「Pascin, MontparnasseからMontmartreへ」で紹介しているので以下にご紹介する。

〔前略〕Pascinは、1885年03月31日、Donau(Danube)川沿うBulgariaの小さな町ヴィディン(Vidin)で、裕福な穀物商の7番目の子として生まれた。
 両親はセファルディム(Sephardim:地中海沿岸のユダヤ人)。
 7歳の時、一家はBucharestに移る。
 そして、青年時代はWienに出されて勉強に出された。〔中略〕
 Pascinは、芸術と学問の都Wienで早くから芸術的な資質を顕した。
 Wienで美術館を訪れては、Egon SchieleやGustav Klimt等のWienの美術家達に魅了された。
「全てはWienのお蔭だ」と後に彼は振り返って述べている。〔中略〕
 1903年にミュンヘンのドイツ誌『ジンプリツィシムス(Simplicissimus)』の編集班に最年少で加わる。〔中略〕
 1905年Parisに移る。〔中略〕彼は『ジンプリツィシムス』の報酬のお陰で生活にゆとりがあった。〔中略〕
 いつも黒い服を着て山高帽をかぶり、白い絹のmufflerを巻いていた洒落者のPascin。
 この東方から来たprinceは、女性の身体美に敏感で、eroticismに強く惹かれていった。
 1907年、画家で細密画家のエルミーヌ・ダヴィッド(Hermine David)と知り合う。
 忠実な伴侶となるHermineと結婚するのは、1918年、米国に行ってからのことだ。
 1908年に創立されたAcademie Matisseに入門。〔中略〕
 此処で「リュシー(Lucy)」という若いmodelに惹かれた。
 生涯の恋人となるこのmodelとは、波乱に満ちた情熱的な関係を築くことになる。〔中略〕
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると〔中略〕10月英国経由で米国へ渡った
 Hermine Davidとは数ヵ月後合流する。〔中略〕
 二人は1920年Parisの芸術家村となっていたMontparnasseに帰った。
 かつて、此処にKisslingやModigliani、Soutine等がatelierを構えていた。
 Trunkを引き取ろうとかつてのatelierを再訪した処、其処にはペル・クローグ(Per Krohg)と妻のリュシー(Lucy)、3歳になる息子のギィが住んでいることが解った。
 1908年にAcademie Matisseで知り合い、束の間の関係を結んでいたmodelのLucy。
 彼女が、(Pascinの)米国滞在中に、Norwayの画家Per Krohgと結婚して〔中略〕いたのである。
 数年間離れてはいたものの、再開するや、激しく悩ましい暴れんばかりの情熱がお互いの間に生じた。
 Lucyは夫と別れることは望まなかったが、Pascinはよりを戻そうと迫り続けた。
 愛し合う二人は毎日逢い、一緒に出かけもしたが、生活を共に出来なかったことにPascinは落胆していた。
 Hermine Davidは身を引き、画家Pascinの忠実な友であり続けることにした。
 Pascinは死ぬ迄Hermineの面倒を見る。
 LucyとHermineha互いに親しみを感じ、Pascinに対する愛情に拠って結びついていた。〔中略〕

 1925年頃、Pascinの絵画的探求は頂点を迎え、揮発油を使って絵具をごく軽くcanvasに乗せる技法を確立する。
 色調はpastel colorで虹色を帯びたものとなり、後に批評家達は「真珠母色(しんじゅぼしょく)の時代」と呼ぶ様になる。〔添付写真[04]-[08]〕
 これは直ぐに成功を収める。Collectorsや画商達が作品を全て買上げ、名声は頂点に達した。〔中略〕
 1927年にはNew Yorkに戻り、既に1920年に与えられていた米国国籍を正式に取得する。〔中略〕
 PascinはLucyに、一緒に米国へ行こう誘った。
 Lucyは後で遣って来るが、母としての責任が第一にあった為、直ぐにParisに戻る。
 その上、二人の関係はかなり悪化していた。
 Pascinが行き過ぎた生活に向かい、自らの健康と仕事を妨げている様子を、Lucyは見るに堪えなかった。〔中略〕
 病気にもなり、先は長くないと感じていたPascinは、1930年06月12日、手首の静脈を切り、Montmartreのクリシー(Clichy)大通にあったatelierの窓のイスパニア錠に首をつった。
 生前、Pascinはこう言っていた。
「人間、45歳を過ぎてはならない。芸術家であればなおのことだ‥‥それ迄に力を発揮出来ていなければ、その歳で生み出すものは、もはや何もないだろう‥‥私の命が奪われる時には、Paris中の生活が止まって欲しいものだ‥‥」〔後略〕

【小生comment】
 Pascinは、本名をJulius Pincasという。
 Pincasのalphabetを入れ替えてPascinとしたことは有名な話。
 彼の一生のsummaryを上述したが、若い時から富と名声を得た者が持つだろう〔‥小生は経験したことがないので推量でしか言えない(笑)‥〕強い『自意識』が、最終的に自らの命を絶つという挙に出さ使めたと思料する。
 彼の一生を見ると、正に「事実は小説より奇なり」である。

[00]岐阜県美術館
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[01]岐阜県美術館『パスキン』展 入口看板
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[02]岐阜県美術館『パスキン』展leaflet
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[03]PASCIN(1885-1930)
 03pascin18851930

[04]Pascin『椅子に持たれる少女(Fillette appuyee sur une chaise)』1928年
 04pascinfillette_appuyee_sur_une_ch

[05]同『tableのリュシーの肖像(Portrait de Lucy a table)』1928年
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[06]同『マリエッタの肖像(Portrait de Marietta)』1928-29年
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[07]同『花輪を付けたジュヌヴィエーヴ(Genevieve a la couronne de fleurs)』1929年
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[08]同『ミレイユ(Mirelle)』1930年
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 企画展と同時開催中の常設展も覗いたが、以下の通り、名画が沢山展示されていた。
 山本芳翠の絵が他の画家より数多く数点展示されていた。
 彼は岐阜県美濃恵那郡明智村宇野志(現在の岐阜県恵那市)出身。
 当初法律家を目指し1884~93年渡仏中であった黒田清輝を、Parisで画家への転向を強く勧めた一人が山本芳翠という。

[09]山本芳翠(1850-1906)『裸婦(Nude)』1880年
 0918501906nude1880

[10]岸田劉生(1891-1929)『自画像(Self-portrait)』1914年
 1018911929selfportrait1914

[11]ヴラマンク(Maurice de Vlaminck(1876-1958))『ブレゾル(嵐の風景/冬の街)』1937年
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■続いても絵画展の話題である。
 翌08月14日、豊田市美術館で開催中の『ジャン・フォートリエ』展を見て来た。
 本展は、Jean Fautrier(1898-1964)の日本初の本格的回顧展で、本年05月24日~07月13日「東京station gallery」、07月20日~09月15日「豊田市美術館」、09月27日~12月07日「国立国際美術館」(大阪)と国内3つの美術館を巡回する。

 彼は1920年代から画業を開始。
 1930年代は世界恐慌下の不景気の中で一時制作から遠のく。
 第二次世界大戦中から取り掛かった連作『人質』を1945年に発表し、人々に衝撃を与えた。
 戦後、批評家ミシェル・タピエ(Michel Tapie)に「アンフォルメル(informel)」と命名された運動の源流にもなった。
 戦後Franceの絵画に大きな影響を与えた画家で、日本には1959年来日、東京の南画廊にて個展を開催。

 浅学の小生には、Jean Fautrierについて確り説明出来る知識を持たない。
 代わって、本展監修者でParis国立近代美術館前主任学芸員 Jean-Paul Ameline(アムリーヌ)氏と同 監修補佐 Paris第8大学博士課程 Etienne(エティエンヌ) David氏の言葉を引用する。

 Fautrierは、色彩や素描を通して潜在的に感じ取られるものを明確にする為に、単純な具象表現とは距離をとっている。
「人質」連作の展示は大きな成功を収めることもなく1945年11月17日で幕を閉じた。
 しかし乍ら、Jean Fautrierは此処で新たな内的飛躍をはっきりと示したのだ。
 容赦なく痛めつけられ、傷つけられた素材やテクスチャー(texture)に拠って、「人質」連作は戦争の残虐さに直面したひとりの芸術家の脊髄反射となっている。
 Jean fautrierは従前のあらゆる携帯を拒否し、「厚塗り」という、創造の基盤となる技法を編み出したことに拠って、芸術家としての自由を明言したのである。(Etienne David)

 Michel Tapieが1952年に世に放った「アンフォルメル(informel)」の語が、cubisme、surrealisme、幾何学的抽象に対置されるものとして提示されるとしよう。
 このことについては、Fautrier自身も立場を同じくするものであろう。
 その後、この「informel」という語は、あらゆる規則を逃れようとする絵画に当て嵌められていき、造形的な目的と合致する規則を作り出すことに執心する様な画家には相応しくない様になる。
 他方でイヴ=アラン・ボア(Yve-Alain Bois)は、1996年の展覧会catalogue『アンフォルム 無形なものの事典』で発表した論考「Informelへの否」で、ジャン・デュビュフェ(ean Dubuffet(1901.07.31-1985.05.12)、Jean Fautrier、ヴォルス(Wols(1913.05.27-51.09.01(本名:Alfred Otto Wolfgang Schulze)の3人について触れ、今後は「informel」を「かたちのない芸術」と捉えるのではなく、「かたちを作り出す芸術、もっと言うならば、かたちが立ち現れてくる芸術」、「無 差異化から差異化」への「process」と捉えることが好ましいと指摘している。
 これこそがFautrierの道行きであり、彼が達しようとした地点であることは瞭然たることである。(Jean-Paul Ameline)

[12]豊田市美術館
 12

[13]同美術館『ジャン・フォートリエ』展 leaflet
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[14]Jean Fautrier(1898-1964)
 14jean_fautrier18981964_2

[15]同『鍋に活けた花(Fleurs dans un chaudron)』1928年頃
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[16]同『飾り皿の(洋)梨(Poires dans une vasque)』1928年頃
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[17]同『林檎(Les Pommes)』1940-41年頃
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[18]同『人質の頭部(Tete d'Otage)』1944年
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[19]同『黒の青(Le bleu du noir)』1959年頃
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【小生comment】
 美術論的に論じると、上述の様になるのであろう。
 小生は、端的に言えば、基本的に美術は「美しいもの」が好きである。
 従って、抽象化された絵画でも均整のとれた、或いは色彩的に美しいもは大好きである。
 しかし乍ら、Jean Fautrierの抽象化された絵画は美しいものは少ないのであまり好きになれない。
 だから添付写真の絵で言えば、[15][16][17]の静物画の方が[18]『人質頭部』や[19]『黒の青』よりずっと好きである。(^^;

 以下は、豊田市美術館にて同時開催されていた常設展(所蔵品)cornerに展示されていたものから幾つかお示しする。
 添付写真[21]と[22]は、奇しくもPascinがWien時代に魅了された画家と紹介されていた二人である。
 一方、小堀四郎氏は、名古屋市中区南呉服町生まれ。
 1922年 東京美術学校(現 東京藝術大学)西洋画科入学。
 同期に小磯良平、荻須高徳、猪熊弦一郎等がいる。

[20]Francis Bacon(1909-92)『スフィンクス(Sphinx)』1954年
 20francis_bacon190992sphinx1954

[21]Gustav Klimt(1862-1918)『オイゲニア・プリマフェージの肖像(Portrait of Eugenia Primavesi)』1913-14年
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[22]Egon Schiele(1890-1918)『カール・グリューンヴァルトの肖像(Portrait of Karl Grunwald)』1917年
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[23]Oskar Kokoschka(1886-1980)『絵筆を持つ自画像(Self-portrait with Brush)』1914年
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[24]小堀四郎(1902-98)『高原の夕陽』1947年
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■今日3つ目の話題は、08月14日:愛知県芸術劇場concert hallにて開催された『佐渡裕指揮/Siena Wind Orchestra』演奏会についてである。
 演奏曲目は以下の通りである。

1. 伊福部昭(1914-2006)作曲/松木敏晃編曲『シンフォニア・タプカーラ』
2. 音楽のおもちゃ箱~佐渡裕のtalkと音楽~
3. ロバート・ジェイガー(1939- )作曲『シンフォニア・ノビリッシマ』
4. ジャコモ・デ=メイ作曲『カサノヴァ~celloとwind orchestraの為の~』
  cello独奏:宮田大

[25]愛知県芸術劇場concert hall『佐渡裕指揮/SIENA WIND ORCHESTRA 2014』演奏会program
 25concert_hallsiena_wind_orchestra_

【小生comment】
 伊福部氏は、怪獣映画『ゴジラ』のThema音楽の作曲者として著名である。
 今回のconcertの曲目は、小生、恥ずかし乍ら、全て初めて聞くものばかりであった。
 最後の曲は、Rchard Straussの交響詩『ドンキホーテ』のwind orchestra versionの様でなかなかの名曲だと思った。

■さて、今日のお別れは、昨日08月16日(土)18時00分~【2637の会】クラス会が開催されたことについてである。
 会場のTry Againに予定通り18時に全員集合。
 クラス会開催の直前には、渡辺S○子さんから、応援のmailまで頂戴しました。
 渡辺さん、ありがとう!
 それから、一昨日、クラス会への最後のお誘いmailを配信したら、彦坂T孔君からmailが届きました。
 今回は欠席ですが、「金沢で元気にやってます」とのことでした。
 楽しいクラス会のひとときはあっという間に3時間近くが経過し、お開きとなった。

 来年は、我々も愈々還暦を迎えます。
 還暦記念で、参加を大幅に増やしたいと思います。
 皆さんも来年は「ひとつ久し振りに参加してやるか!」という気楽な気分で是非参加して下さい。
 宜しくお願いします。

[26]【2637の会】クラス会 at Try Again 01
 262637_at_try_again_01a

[27] 同上 02
 272637_at_try_again_02a

 では、また‥。(了)

2014年8月10日 (日)

【時習26回3-7の会0511】~「08月05日:『ドイツ人高校生とVGJ(豊橋)本社工場』を見学して」「08月07日:愛知県芸術劇場concert hall『PMF(Pacific Music Festival)Orchestra 名古屋公演』を聴いて」

■皆さん、お元気ですか?
 今泉悟です。【時習26回3-7の会0511】をお届けします。
 この《会報》を書き始めた今朝8時頃、台風11号は四国へ上陸して2時間程経過した頃で、午前中は当地豊橋もかなり強い風雨でした。
 皆さんのご自宅は大丈夫でしたでしょうか?

■さて、今日最初の話題は、掲題にあります様に「08月05日:『ドイツ人高校生とVGJ(豊橋)本社工場』を見学して」からお伝えする。

 小生、現在、勤務先のCSRの一環で、或る慈善団体に加入している。
 その慈善団体の事業として、毎年、海外の学生の home stay を10日間程受け入れている。
 今年は、ドイツ連邦共和国Hessen州カッセル(Kassel)市から Raphael Mintz 君という高校生の面倒を見ることになった。
 彼は07月15日に来日し、既に東京のOlympic選手村や富士山を訪れた後、08月02日に豊橋に遣って来た。
 そして、明日08月11日(月)迄、小生が所属する団体で各会員が交替で彼の面倒をみることになった。
 Raphael君が住むKassel市は、ドイツのほぼ中央にある。
 フランクフルト・アム・マイン(Frankfurt am Main)、ヴィースバーデン(Wiesbaden)に次ぐヘッセン州第3位の都市。
 人口は約20万人。
 VW本社があるヴォルフスブルク(Wolfsburg)が属するニーダーザクセン(Land Niedersachsen)州はKassel市の北東に隣接している。
 従って、Wolfsburg市とKassel市は結構近い。
 地図で調べてみると、直線で140~150km。
 因みに、東京IC~清水ICが丁度150km。
 Raphael君の自己紹介に拠ると、年齢は19歳。
 お父さんが歯科医師、お母さんが医師という家庭。
 今夏、ギムナジウム(Gymnasium)最終年〔‥日本でいうと大学1年生の年次‥〕の記念に日本に遣って来た。
 因みに、妹さんがいて、彼女は同時期Australiaに home stayに行っているという。
 折角、豊橋という日本の地方都市を訪れるのだ。
 いい思い出を一つでも多く作って貰おうと、当団体の各会員が対応に腐心していた。
 美味しい日本食をA級からB級迄色々と取り揃え毎日堪能出来る様工夫したり、日中の訪問先も色々と知恵を絞っていた。
 小生は、勤務先の取引先フォルクスワーゲン・グループ・ジャパン(‥以下VGJという‥)に工場見学をお願いし、了解を得ていた。
 観光としては、08月03日(日)の伊良湖岬&日間賀島巡りから始まり、04日(月)は豊川稲荷を訪問した。
 そして、三日目の08月05日(火)の午後1時~3時を小生が担当した。
 VGJ〔豊橋〕本社工場見学である。
 かく言う小生自身も、同社の工場の内部迄見せて頂く見学は初めての経験である。

 折角、ドイツから遣って来るのだ。
 豊橋が日独友好の架け橋として一翼を担っていることを強く印象づけたかった。
 VGJは、VW本社の100%子会社で、登記上の本社は当地豊橋市にある。
 VW(Volkswagen)・アウディ(Audi)・ポルシェ(Porsche)・ランボルギーニ(Lamborghini)・ベントレー(Bentley)は、全てVW傘下の自動車会社。
 これ等5車種の日本への輸入は100%当地豊橋の三河港明海埠頭から陸揚げされ、日本全国に輸送されている。
 小生の勤務先も、そのVGJさんのお手伝いをさせて頂いている。
 輸入自動車に占めるVW Group車のshareは約3割(2013年度実績)で、2013年度初めて10万台を超えた。
 添付資料[00] New Car News‥※車名別輸入車新規登録台数※ご参照。
 因みに、三河港は、1993(平成05)年以降、21年連続で輸入自動車の台数・金額ともに日本一の輸入港となっている。
 又、自動車の輸出も、名古屋港に次いで全国第2位である。

 Raphael君は、聞くと、ポルシェが大好きと言う。
 眼前に、そのポルシェやランボルギーニの本物を見た時は感動のあまり大きなgestureを交え凄く興奮していた。(笑)
 きっとご満悦だったことと思う。
 遠国日本の地方都市で自国の最先端自動車を数多く眼前に見ることが出来、大変楽しく有意義な豊橋でのひとときになったと確信する。
 ただ恥ずかし乍ら、英会話が不得手な小生、ドイツ人のVGJ課長に拠る英語の説明は3割も解ったかどうか‥。(^^;;

[00]New Car News‥※車名別輸入車新規登録台数 (乗用車、貨物、バス合計)※
 「2013fy_newcarnews_.xls」をダウンロード

[01]三河港に着岸している自動車運搬船の前にてRaphael君と
 01raphael

[02]三河港のVW車専用保管yardを見学するRaphael君
 02vwyardraphael

[03]慈善団体例会で挨拶するRaphael君
 03raphael

■続いての話題である。
 時習26回生の同期で【1-4】時代のclassmateの安形S二君から、08月07日愛知県芸術劇場concert hallにて開催される『PMF(Pacific Music Festival)Orchestra 名古屋公演』を一緒に聴かないかと誘いを受けた。
 その日は、After5p.m.が空いていたので、喜んでご一緒させて頂くことにした。

[04]愛知県芸術劇場concert hall入口に掲示された PMF Orchestra 名古屋公演 看板
 04concert_hall_pmf_orchestra

[05]PMF Orchestra 名古屋公演 program
 05pmf_orchestra_program

[06]佐渡裕(1961- )
 061961

[07]セルゲイ・アントノフ(SergeyAntonov(1983- ))
 07sergeyantonov1983

演奏曲目は以下の通り。

1. Bernstein /『キャンディード』序曲〔Overture to "Candide"〕
2. Tchaikovsky / ロココの主題による変奏曲 作品33〔Variations on a Rococo Theme Op.33 〕
3. Shostakovich / 交響曲第5番ニ短調 作品47〔Symphony No.5 in d minor Op.47 〕

 Pacific Music Festivalは、20世紀を代表する指揮者&作曲家 Leonard Bernsteinに拠って1990年、我国の札幌市に創設された国際教育音楽祭。
 今年で25回記念を迎えた。
 これ迄の24年間で述べ3,000人もの優秀な音楽家を輩出して来た。
 PMFの中心は、世界を代表する音楽家を教授陣に迎え、世界各地のauditionで選抜された若手音楽家を育成する教育program「PMF Academy」。
 彼等は20代が中心。
 今年は26ヵ国&地域から122人の豊かな才能を持つPMF Academy生達が「PMF Orchestra」として7月の約1ヵ月間、教授陣から高い技術と豊富な経験を受け継ぎ、音楽を通じた国際交流、国際相互理解を深めた。〔以上、本演奏会programより引用〕

【小生comment】
 Programに、「世界top level・Asia随一のyouth orchestraとして、毎年多くの聴衆を魅了」とある様に、確かに、演奏された3曲とも高い水準の出来であった。
 1曲目のBernstein『Candide』序曲は、先月07月11日(金)に、会場は同じ愛知県芸術劇場にてLeonard Slatkin指揮『France国立Lyon管弦楽団』演奏会で聴いたばかりである。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/2605080711conce.html ←《会報》【0508】号ご参照
 名曲の聴き比べが出来たのは良かった。

 2曲目のcello独奏者、セルゲイ・アントノフ(Sergey Antonov(1983-))は、モスクワ(Moscow)生まれ。
 Moscow音楽院に学ぶ。
 ロストロポーヴィチ財団の奨学金を受けmaster classに参加。
 氏より「素晴らしいcellist」と評される。
 2007年、第13回Tchaikovsky国際concours チェロ部門優勝者。
 現在は、米国Bostonに拠点を移し、Russia、米国、欧州にて活躍中。〔以上、本演奏会programより引用〕
 最前列で聴いたので、Antonovの演奏を150cm程という至近距離で聞くことが出来た。
 卓越した技量で聴衆を魅了した。

 3曲目は、指揮者佐渡裕が、彼自らの夢「Berlinフィルを振ってみたい」を実現した時に演奏した曲目であり、popularな名曲でもあって、楽しく聴けた。
 佐渡裕の演奏は、聞く毎に円熟味が増して来ていると思う。
 当初指揮をする予定であった、ロリン・マゼール(Lorin Maazel(1930.03.06-2014.07.13)が6月に体調不良で来日が出来なくなった。
 この為、Bernstein晩年の弟子であった佐渡裕が今回代役を担当した。
 Lorin Maazel氏は、先月13日逝去。享年84歳。
 小生は、Lorin Maazelの演奏は、昨年04月12日に此処愛知県芸術劇場concert hallにて、以下の3曲をミュンヘンフィルで演奏したのが最後となった。
 《演奏曲目》
1.Respighi作曲/交響詩『ローマの噴水』
2.Paganini作曲/Violin 協奏曲第1番ニ長調〔五嶋龍Vn.〕
3.Beethoven作曲/交響曲第7番イ長調Op.92
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/26-044204120412.html ←《会報》【時習26回3-7の会 0442】
 Lorin Maazel氏のご冥福をお祈りする。

【後記】
 【2637の会】membersの皆さんへ
 来る08月16日(土)18時~トライアゲインにて開催する「クラス会」迄1週間を切りました。
 現状では、石田Y博君、伊東М弘君、林K子さん、牧野М孝君から出席表明を頂戴しました。
 水藤君【3-6】も助っ人「参加」してくれます。
 ‥ということで、現状小生を含め6人が参加予定です。
 菰田君からは、膝の調子が悪く今回は欠席される旨、連絡を頂戴しました。。
 残念です。
 が、確り療養して元気になって来年再会しましょう!

 あと6日ですが、奮ってのご参加を、朗報を、お待ちしています。
 では、また‥。(了)

2014年8月 3日 (日)

【時習26回3-7の会0510】~「07月26日:メナード美術館『きて・みて・はっけん‥なつやすみ所蔵企画展―絵画の楽しみ 素材と技法―』&名古屋市美術館『‥「日本画滅亡論」を超えて 1950~70年代の画家たち‥挑戦する日本画』展を見て」「07月27日:ライフポートとよはしconcert hall『夏休みふれあいコンサート』を聴いて」「08月02日:豊橋支部幹事会《最終回》開催報告」

■皆さん、お元気ですか?
 今泉悟です。【時習26回3-7の会0510】をお届けします。
 さて、今日最初の話題は、07月26日:メナード美術館『きて・みて・はっけん‥なつやすみ所蔵企画展―絵画の楽しみ 素材と技法―』と、名古屋市美術館『‥「日本画滅亡論」を超えて 1950~70年代の画家たち‥挑戦する日本画』展についてである。
 小生26日は、車で名古屋へ行く私用があり、開いている時間を利用して、小牧市にあるメナード美術館と、名古屋の伏見 白川公園にある名古屋市美術館にて開催中の企画展を見て来た。

※ メナード美術館『きて・みて・はっけん‥なつやすみ所蔵企画展―絵画の楽しみ素材と技法―』※

[01]本展leaflet
 01leaflet

 当美術館所蔵作品を展示し乍ら、絵画の『素材と技法』に焦点を当て、見る者に絵画の楽しさや深遠さをappealした興味深い企画であった。
 細かい話は兎も角、本展々示作品のうち、Museum Shopにて販売していたpost card 4枚を添付したのでご覧下さい。

[02]福田平八郎(1892-1974)『鮎』1950年
 02189219741950

[03]Nicolas de Stael(1914-55)『黄色い背景の静物(Still Life on Yellow Background)』1953年
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[04]熊谷守一(1880-1977)『為朝百合』1970年
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[05]松村公嗣(1948- )『ほたる』2006年
 051948_2006

 写実性、デフォルメ、の違いはあるが、いずれの作品も作者のoriginalityに溢れ、極めて洗練さたmasterpiecesである。
 小生4作品とも大好きである。

 メナード美術館の次に向かったのが、名古屋市美術館である。

※ 名古屋市美術館『‥「日本画滅亡論」を超えて 1950~70年代の画家たち‥挑戦する日本画』展 ※

[06]名古屋市美術館入口 本展 看板
 06

[07]堂本印象(1891-1975)『無疑※』1959年‥※石偏に疑
 07189119751959

[08]橋本明治(1904-91)『赤い椅子』1951年
 081904911951

[09]小倉遊亀(1895-2000)『家族達』1959年
 09189520001959

[10]中村正義(1924-76)『妓女』1962年
 101924761962

[11]髙山辰雄(1912-2007)『行人』1969年
 11191220071969

[12]広田多津(1904-90)『舞妓』1973年
 121904901973

[13]杉山寧(1909-93)『季』1974年
 131909931974

[14]加山又造(1927-2004)『黒い薔薇の裸婦‥〔部分〕‥』1976年
 14192720041976

 本展は、簡単に言うと「1950~70年代にかけて大きく変貌して再評価された『日本画』の変遷」ということだろうか。
 Leafletの解説で、本展について次の様に説明している。

「日本画」は、幕末にに欧州から移入された油彩画(=西洋画)に対して、日本古来の伝統を継承する絵画の総称として明治期に誕生した。〔中略〕
 しかし、第二次世界大戦後、激動する日本社会の現実に対応出来ない「近代の日本画」に対する批判として「日本画滅亡論」が登場した。
 この逆風の中で、意欲的な日本画家達は時代状況を踏まえ乍ら、古今東西の美術を学ぶことで、「日本画」の革新に取り組んだ。〔中略〕
 現代の日本画が創造され「現代化」されていく過程を、本展では1950~70年代に焦点を当て再検討する。

 小生、本展でいう「日本画」の「現代化」を、女性画の変遷に絞って時系列的に7点掲げてみた。
「橋本明治→小倉遊亀→中村正義→髙山辰雄→広田多津→杉山寧→加山又造」と作品が時代を下っていくに従い、「現代的」に洗練されていく様子がご覧頂けると思う。

※ 名品collection展Ⅰ(後期)~ Ecole de Paris(エコール・ド・パリ) ※

[15]Kees van Dongen(1877-1968)『corsetの女』1908年
 15kees_van_dongen18771968corset1908

[16]Marie Laurencin(1883-1956)『circusにて』1913年頃
 16marie_laurencin18831956circus1913

[17]Amedeo Modigliani(1884-1920)『おさげ髪の少女』1918年頃
 17amedeo_modigliani188419201918

[18]Kisling(1891-1953)『Portrait of Mrs. Kisling』1920年
 18kisling18911953portrait_of_mrs_ki

[19]同『Portrait of Marcelle Chantal(マルセル・シャンタル)』1935年
 19portrait_of_marcelle_chantal1935

 上記 Ecole de Paris の画家達の傑作5点は、いずれも当美術館所蔵品である。
 同じ女性像でも、「前述の『挑戦する日本画』展でご紹介した日本画比べて頂くと「『日本画』と『油彩画」の違い」がよく理解頂けると思う。
 そして、「技法や素材が異なっても、古今東西、名画は名画」であることも納得されたのではないかと思う。

■次の話題は、07月27日(日)14時00分から、ライフポート豊橋concert hallにて開催された「豊橋交響楽団/夏休み・クラシック音楽実験室 ~『スギテツ』と楽しむクラシック音楽~」についてである。

[20]本演奏会program
 20program

 入場料無料。曲目は以下の通り。

【第1部】豊響単独stage ~どこかで聴いたことのあるclassic ~
1. Rossini/歌劇『ウイリアム・テル』序曲より「スイス軍隊の行進」
2. Khachaturian/劇音楽 組曲『仮面舞踏会』~「waltz」
3.Tchaikovsky/Ballet音楽『胡桃割り人形』~「葦笛の踊り」
4. Prokofiev/Ballet音楽 組曲『ロミオとジュリエット』第3組曲~「モンテギュ―家とキャピレット家」
5. Tchaikovsky/Violin Concerto No.1 ~ 第3楽章
 violin独奏:岡田鉄平

【第2部】『スギテツ』と豊響のcollaboration stage ~ 百聞は実験に如かず ~
『スギテツ』と楽しむclassic音楽

1. 美しき青きドナウ河のさざなみ殺人事件
2. 序曲「暴れん坊将軍」~ロッシーニに捧ぐ~
 線路は続くよどこまでも(コラボ)  他
  共演:スギテツ=〔 杉浦哲郎( piano 作曲&編曲 ) & 岡田鉄平( violin )〕
 指揮:渡邉浩司
 司会:渡辺欣生(エフエム豊橋)

【小生comment】
「『スギテツ』と楽しむ‥」は、例えば、‥テレビ漫画「トムとジェリー」の音響効果を、杉浦哲郎のPianoと岡田鉄平のViolinで上手に表現する‥等、classic音楽をparody化した音楽で、確かに面白かった。
 片肘張らずに、気楽に楽しめたconcertであった。
 たまにはこういう音楽会もいいものである。

■今日最後の話題は、昨日08月02日(土)18時00分から、豊橋駅前大通2丁目開発ビル地下1階トライアゲインにて、「懇親会in京都2014」関連最後のevent「豊橋支部幹事会」の最終回を開催した。
 去る06月07(土)~08(日)に開催された「時習館高等学校卒業40周年記念 懇親会in京都2014」の「収支報告」と慰労会を兼ねた会合であった。
 収支報告は、出席幹事全員の賛成で承認された。
 手許に残った10万円は、次回「卒業45周年記念懇親会」の当番幹事である東京支部へ、支度金として譲渡するとした執行部(案)は、来年7月の豊橋祇園祭にて「時習26回生還暦祝・打上げ花火」の支度金とすることに変更して承認された。
 合わせて、当該実行委員会の委員長を杉浦弘幸君【3-8】とすることも全会一致で承認された。
 そして、会議終了後の懇親会では、小生が制作した「記念DVD」を、水藤君提供のprojectorとscreenを使って、映写会を開催して楽しいひとときを過ごした。

「懇親会in京都2014」に参加された小生を除く9人の【2637の会】membersの皆さんへのご連絡です。
 昨日、宅配のメール便でご自宅宛に発送しました。
 明日04日(月)~05日(火)にはお手許に届くと思います。
 本編27分、事前準備編18分の計55分余り。
 掲載写真総枚数650枚余り。
 収録音楽は、山下達郎、チューリップ、B'z、小田和正、Southern All Starsをはじめとするpopularな名曲等 全13曲。
 事前準備編では、2009年~2013年の5年間の【2637の会】クラス会の模様もupしてあります。

[21]豊橋支部幹事会 集合写真01
 21_01

[22]同02
 22_02

[23]「懇親会in京都2014」『記念DVD』01
 23in201401

[24]同02
 24in201403

[25]「懇親会in京都2014」『記念DVD』に添付した covering letter
 25in2014_covering_letter

【後記】
 【2637の会】membersの皆さんへ
 先週《会報》【0509】号配信の直後に、来る08月16日(土)18時~トライアゲインにて開催する「クラス会」の案内を差し上げました。
 現状では、伊東M弘くんと林K子さんから出席表明を頂戴しました。
 そして、今回は「懇親会in京都2014」の副代表幹事を務めてくれた水藤T詳君【3-6】と中嶋Y行君【3-2】も参加をお願いして、水藤君から「参加」OKを頂戴しました。
 ‥ということで、現状4人参加表明して頂いています。

 あと二週間ですが、奮ってのご参加をお待ちしています。
 既に、伊藤元弘君から「参加」表明を頂戴しています。
 開催日迄期近で、あと2週間を切りました。
 皆さんからの朗報をお待ちしています。
 
 では、また‥。(了)

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