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2014年9月18日 (木)

【時習26回3-7の会 0517】~「09月14日:浜松市美術館『デ・キリコ(1888-1978)』展を見て」「豊橋美術博物館『星野眞吾賞』展から」「相澤理著『歴史が面白くなる‥ディープな戦後史‥最難関大の入試問題で、使える歴史が身につく!!』を読んで」「時習館高等学校同窓会ヨーロッパ支部立ち上げについてのお願い」

■皆さん、今日も【時習26回3-7の回 0517】をお送りします。
 本来なら《会報》は週末に配信するのですが、今週は明日19日から21日迄の三日間、勤務先の港の自治会の視察旅行がある為、土日配信が出来ません。
 其処で、ちょっと早いですが、今日《会報》【0517】号をお送りします。
 最近、メッキリ秋らしくなって参りました。
 昔から「暑さ寒さも彼岸迄」とは言い得て妙です。
 あと数日で秋彼岸の中日〔=秋分の日=〕です。
 ついでに言うと、秋分の日の翌24日は、小生の59歳の誕生日。
 もう既に今年になって数えで六十路を迎えているのですね‥。
 自分が六十路だと知ると一寸寂しい感じがします。

■さて、今日も最初は、美術館巡りの話題からお届けする。
 09月14日(日)に、現在浜松市美術館にて開催中の『デ・キリコ』展を見て来ましたのでその話題から‥。
 本展について、本展leafletから引用してご紹介する。

[01]浜松美術館入口『デ・キリコ』展看板
 01

[02]本展leaflet
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 Italyを代表する画家、ジョルジュ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico(1888-1978))は、一見関連性のないmotifを歪んだ遠近感に拠って描くなど、目に見えるものの裏側に潜む神秘や謎を表現した画家として有名である。
 この表現は「形而上絵画」と呼ばれ、後のsurrealism(超現実主義)絵画にも大きな影響を与えた。
 第一次世界大戦後、renaissanceやbaroqueの画家達の影響を受けたde Chiricoの絵画は古典主義へと回帰し、更に晩年には、新たな形而上絵画を創造する等発展を続けた。
 本展は、Paris市立近代美術館に寄贈されたChiricoの妻イザベッラ・デ・キリコの旧蔵品を中心に、Italy各地の美術館・個人、日本国内所蔵作品から、画家の各時代の代表的作品を紹介する。〔後略〕

[03]Giorgio de Chirico『福音的な静物』1916年
 03giorgio_de_chirico1916

[04]同『謎めいた憂愁』1919年
 041919

 画面ほぼ中央奥に姿を見せるのはHermes像。
 Hermesは、Zeusとnymph Maiaとの子。
 幸運・富裕の神。
 商売・盗み・競技・旅人の保護者。
 霊魂を冥界に導く役目も果たした神。
 本作でのHermes像の役割は謎に包まれている。
 が、本作完成の前年に他界した、友人で擁護者でもあった小説家&美術批評家のアポリネール(1880-1918)への追悼を込めたとも言われている。
 本作は、1910年代に追求していた形而上絵画の締め括りとなる作品。

[05]同『母親のいる自画像1921年
 051921

[06]同『赤と黄色の布をつけた座る裸婦』制作年不詳
 06

[07]同『イーザとジョルジョ(Isa et George)』制作年不詳
 07isa_et_george

[08]同『自画像(Autoportrait)』1949年
 08autoportrait1949

[09]同『田園風景の中の静物』1943-48年頃
 09194348

[10]同『ヴェネツィア、パラッツォ・ドゥカーレ(Venise, le Palais ducal)』1957年
 10venise_le_palais_ducal1957
 本作は、古典主義への回帰時代を経て、新形而上絵画(Neometafisica)へ移行する過渡期の作品。
 極めてrealで美しいVeneziaの風景画である。
 彼が求めていた美しいmatiereが強調され、写実性に幻想的な雰囲気を併せ持った傑作となっている。
 小生は、輝いた美しさの為か、この絵の前に来て一瞬釘付けになった。

[11]同『吟遊詩人(Le Troubadour)』1955年
 11le_troubadour1955
 De Chiricoを代表するシュ―ルな絵と言えば、先ずこの『吟遊詩人』だろう。
「吟遊詩人(Le Troubadour(トルバドゥ―ル))」とは、11~13世紀に欧州各地を巡り活躍した詩人達をいう。
「吟遊詩人」は、de Chiricoの作品の中に1910年代の若い時代からよく登場している。
 ノッペラボウのmannequinは、de Chiricoの絵を特徴づける、「静寂」「沈黙」「孤独」といった雰囲気をよく表現している。

[12]同『ユピテルの頭部のある形而上的構図(Composition metaphysique avec tere de Jupiter)』1970年頃
 12composition_metaphysique_avec_t_2

[13]同『古代的な純愛の詩(Idylle antique)』1970年頃
 13idylle_antique1970

[14]同『燃え尽きた太陽のあるItalia広場、神秘的な広場』1971年
 14italia1971

【小生comment】
 半世紀近く前に遡るが、小生は上記[11]『吟遊詩人』の絵を初めてTVで見たことがあった。
 そしてその絵を見た瞬間、「デ・キリコ」と「シュルレアリスム(Surrealisme)」という言葉が強烈に頭に焼き付いた記憶を今でも昨日の様に覚えている。
 小生にとっては、それ程衝撃的で大変印象深い絵だったのである。
 美術館を出た後、直ぐ傍にある、浜松城天守閣を見てみたくなって立ち寄った処、09月30日迄改修工事中であった。

[15]浜松城天守閣
 15

■続いては、09月15日(日) 豊橋美術博物館で09月21日迄開催中の『星野眞吾賞』展を見て来た。
 本展は、正式には《トリエンナーレ豊橋/星野眞吾賞展》という。
 日本画の可能性を探究し続け、戦後の日本画壇に大きな足跡を残した地元出身の日本画家・星野眞吾(1923~1997)。
 その星野が、その晩年、「後進の支援と育成」を願って豊橋市へ私財を寄附したことに本賞は由来する。
 若手の日本画家の育成を目的に「明日の日本画を求めて」をthemeにする公募展である。
 1999年の第1回から数え、今年で第6回目になる。
 今年の大賞は、[16]の本展看板にも掲載されている、漆原夏樹氏の『彼女の風景』。
 漆原氏は、1977年神奈川県生まれ。東京藝術大学大学院修了。

[16]豊橋美術館入口『星野眞吾賞』展看板
 16

[17]星野眞吾
 17

■今日最後の話題は、相澤理『歴史が面白くなる‥ディープな戦後史』からご紹介する。
 本書は、実際に出題された一橋大学「日本史」の入試問題である。
 著者の相澤氏が「はじめに」で2つの動機から本書を書いたと述べている。それは‥
 「戦後史を〈今〉に直結する形で掘り下げたい」
 「東大日本史とは違った意味で面白い一橋大日本史こそ、世に知られるべき」‥だ。
 そして又、「はじめに」の末尾で、「本書ばかりは本当に二度読んで頂かないと内容を正しく理解出来ないと思います」とも書いている。

 まずindexのsummaryを記すのでご覧戴きたい。

第一部/占領下の日本
 1.日本国憲法は「押しつけ」なのか?(2001年度・Ⅲ)
 2.冷戦は日本にどの様な影響を与えたのか?(1983年度・Ⅲ)
 3.San Francisco講和条約を巡る争点とは?(1995年度・Ⅲ)
 4.財閥解体は成功したのか?(1995年度・Ⅱ)
第二部/保守政権の誕生
 5.自由民主党の結党理念とは?(1994年度・Ⅲ)
 6.安保闘争は何故盛り上がりを見せたのか?(1997年度・Ⅲ)
第三部/高度成長期の内政と外交
 7.高度成長が達成出来たのは何故か?(1999年度・Ⅲ)
 8.沖縄返還の背景にあったものは?(2004年度・Ⅲ)
 9.田中角栄内閣が掲げた内外の政策とは?(2008年度・Ⅲ)
 補講 「戦時体制」から「戦後体制」へ?(2003年度・Ⅱ)

 今日は、この中から「3.San Francisco講和条約を巡る争点とは?(1995年度・Ⅲ)」をご紹介してみたい。〔本文P.63-84〕
 先ずは問題文をご覧戴きたい。

【問題3】1951年9月8日に調印されたSan Francisco講和条約について、次の問いに答えよ。(問1~問3合わせて400字)
※問1.この講和条約は、日本にとって『寛大な講和』という一面を持っていたと言われるが、その『寛大』さの内容を具体的に説明せよ。
    又、そうした性格の講和が実現した背景について、当時の国際情勢との関連に留意し乍ら、具体的に説明せよ。
※問2.この講和条約が調印された会議には、有力な交戦国の一つが招請されていない。
    その国と日本との間の「戦後処理」は、その後、どの様な形でなされたか、具体的に説明せよ。
※問3.この講和条約の締結を巡って、日本国内では国論を二分する講和論争が起こることになる。
    その講和の方式や講和後の安全保障のあり方などを中心にし乍ら、その論争の争点を具体的に説明せよ。

 本書では、解答に到るprocessとして以下の様な解説を加えている。
《寛大な講和》
〔前略〕
 1950(昭和25)年6月に朝鮮戦争(~1953年7月23日停戦)が勃発。
 すると、米国は日本を西側陣営に組み込み、「反共の防波堤」とすべく講和を急いだ。〔中略〕
 その間にも、朝鮮半島では、中国人民義勇軍の支援を受けた北朝鮮軍と、米国が指揮する国連軍とが一進一退の攻防を繰り広げていた。
 日本に軍事的空白をつくらない為にも、米軍の駐留を認めることが講和の条件であった。
 こうして結ばれたSan Francisco平和条約では、交戦国に拠る日本の『賠償責任』が著しく軽減され、多くの国が賠償請求権を放棄した。
 それは、日本の経済復興を優先するという米国の意向に拠るものだ。〔中略〕
 この条約を基に東南Asia諸国に支払われた賠償3,600億円(準賠償を含めれは1兆円)は、「役務及び生産物の供与に拠る」とされた。
 要するに、単に金銭を支払うのではなく、発電所や港湾施設の建設や、船舶やtruckの提供する形をとったのである。
 それを請け負ったのは、技術力を持つ日本企業。
 こうして、日本企業の東南Asia市場進出の足掛かりの役割を十分に果たしたのである。〔後略〕

《2つの中国との関係》
 問2で問われている、講和会議に招聘されなかった「有力な交戦国」とは、「2つの中国」。
 韓国も招請されなかったが、それは同国が「交戦国」に当たらないからである。〔中略〕
 故に、日韓国交正常化は1965(昭和40)年の日韓基本条約を待たねばならなかった。
〔中略〕
 当時「2つの中国」のどちらを講和の相手とするかについて、会議の主催国である米英の間で意見が対立した。
 既に中華人民共和国を承認していた英国は、毛沢東政権を代表とし、台湾の返還も条約に盛り込む様主張。
 一方、朝鮮戦争に於いて北朝鮮を支援する中国人民義勇軍と交戦状態にあった米国は、中華民国の蒋介石政権を代表とすることを求めたのである。
 結局、「2つの中国」の招聘は見送られ、どちらと講和するかについては独立回復後の日本の判断に委ねられることになった。
 以上の経緯から、台湾の帰属についても、平和条約では第2条に日本の領土権の放棄が記されるのみで、明確にはされなかった。
 だが、講和の相手は自ずから決まっていた。
 1952(昭和27)年4月28日、平和条約が発効して独立を回復したその日に、日本は日華平和条約を中華民国と結んだ。
 これは、対中敵視政策をとる米国に追随したからだ。〔中略〕
 この後、1972(昭和47)年に日中共同声明を発表して中華人民共和国との国交を正常化(‥「日華平和条約」は破棄‥)。
 1978(昭和53)年に「日中平和友好条約」を締結した。〔中略〕

《米国に寄り添って生きる道》
 問3は「国論を二分する講和論争について問うている。
「単独講話」と「全面講和」という言葉が思い浮かんだ読者の方も多いと思う。
 しかし、「講和後の『安全保障』の在り方」も問われているので、それだけでは物足らない。〔中略〕
「単独講和」とは、米国の西側陣営とのみ講話する形式である。
 これは、これを批判する「全面講和」の立場からは「片面講和」と呼ばれた。〔中略〕
「全面講和」とは、東側陣営を含む全ての交戦国と講和する形式を言う。
 それは、日本が西側陣営に属さず中立の立場を選ぶことを意味する。
 当然、日米安保体制など認めらない。〔中略〕
 尚、条約調印後の1951年10月、講和形式を巡って社会党が左右両派に分裂した。〔中略〕
 吉田首相を筆頭に保守派の政治家は、朝鮮戦争が行われている状況では米国の軍事力に依存せざるを得ないと考えていた。
 現実的には「単独講和」しかない訳だ。
 そもそも、これだけ早く「講和=占領状態の終了」に道が開けたのも、『冷戦の激化』に拠るもの処が大きい。〔中略〕
 吉田は、「全面講和」を主張した東大の南原総長を『曲学阿世の徒』と批判している。
 曲学阿世とは、自らの学問を曲げて迄世間に媚びへつらうことで〔【小生補足】‥当時流行語にもなった‥〕ある。
 理想を語るだけの平和主義には耳を貸さず、冷戦という現実に従ったのが吉田(茂)であった。
 こうした事情を、学校用教科書『詳説日本史』(山川出版社)は、「第3次吉田内閣は、独立・講和の時期を巡る問題は米軍基地にあると考え、再軍備の負担を避けて経済復興に全力を注ぐ為にも西側諸国のみとの講和に拠って独立を回復し、施設提供の見返りに独立後の安全保障を米国に依存する道を選択した」(P.382~83)と端的に指摘している。〔後略〕

《吉田(茂)が託した<宿題〉》
〔前略〕
 吉田茂はプレシディオ国立公園内の陸軍下士官室〔【小生補足】‥←将校クラブでない、「下士官」室という処に日本への侮蔑の色が滲み出ている‥〕で、独り日米安全保障条約〔旧 安全保障条約〕の調印に望んでいる。〔中略〕
 旧・日米安全保障条約第1条に「米国の陸軍・空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許与し、米国は、これを受諾する」とある様に、米国の〈権利〉が書かれているのみで、日本を防衛する〈義務〉は明記されていない。
 戦勝国と敗戦国の関係を反映した、片務的な内容であった。〔中略〕
 正に「米国が駐留してやる」という態度で貫かれていた条約だったのである。〔中略〕
 吉田は、旧安保条約の調印に同行した池田勇人蔵相に対して、「この条約はあまり評判がよくない。君の経歴に傷がつくといけないので、私だけが署名する」と言って、独り署名した。
 苦渋の決断を迫られた吉田は、条約が様々な問題を孕むことを十分に承知の上で、その責任を一身に背負ったのだった。〔後略〕

【解答例】
問1/東西冷戦下、東アジアでは中華人民共和国が成立すると共に、講和の前年には朝鮮戦争が勃発。
   其処で、日本を西側陣営に組み込み『反共の防波堤』としたい米国は、日本の経済復興を優先させる意向だった。
   それを受け多くの国が賠償請求権を放棄した。(115字)

問2/「2つの中国」は講和会議に招請されなかった。
   が、中共敵視政策をとる米国に追随して翌'52年に台湾の中華民国政府と日華平和条約を結んだ。
   だが、中華人民共和国との間では政経分離を原則に貿易が行われた。
   '72年のニクソン訪中に次いで田中首相も訪中して日中共同声明で国交正常化。
   '78年に日中平和友好条約が結ばれた。(154字)

問3/吉田茂内閣や保守派は軍事的・経済的に米国に依存する現状に於いて西側陣営との単独講話もやむを得ないとの立場だった。
   これに対し、革新勢力や知識人層は再軍備に反対し独立回復後の中立堅持を求める立場にあった。
   その立場から東側陣営を含む全ての交戦国との全面講和を主張した。(131字)(計400字)

[18]相沢理『歴史が面白くなる‥ディープな戦後史』
 18

【小生comment】
 一橋大の日本史の入試問題は如何でしたでしょうか?
 ちょっと重かったですネ‥。
 でも、日本がこれから、複雑化する世界の政治情勢の中で地に足をつけて前進していくには、歴史を確り学び摂らねばなるまい。
 ドイツ帝国宰相Bismarck(1815-1898)の格言でも、「愚者は『経験』に学び、賢者は『歴史』に学ぶ」とある。
 正しい歴史認識を基に、最適解を導き出していくことが、国の行く末を正しい方向に持っていく為に極めて重要であることは間違いない。

【後記】今日のお別れは、最近、手に入れた、飯吉光夫 訳&解説『世界の名詩を読み返す』からお贈りします。
 今日は、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse(1877.07.02-1962.08.09)の『霧の中』です。

    霧の中

 霧の中をさすらうのは不思議!
 どの藪も 石も 孤独
 どの樹木も ほかの樹木は見えない
 それぞれが ひとりぼっち

 ぼくの人生がまだ明るかったころ
 この世の中は友だちでいっぱいだった‥‥
 いま 霧があたりに立ち込めると
 もう誰ひとり見あたらない

 あらゆる人間と自分とを
 どうしようもなく隔てる
 暗闇を知らない者は
 本当に賢いとはいえない

 霧の中をさすらうのは不思議!
 生きるとは 孤独でいること
 誰も 他人を知らない
 それぞれが ひとりぼっち

 ※ ※ ※ ※ ※

  Im Nebel

Seltsam, im Nebel zu wandern!
Einsam ist jeder Busch und Stein,
Kein Baum sieht den anderen,
Jeder ist allein.

Voll von Freunden war mir die Welt,
Als noch mein Leben licht war;
Nun, da der Nebel fällt,
Ist keiner mehr sichtbar.

Wahrlich, keiner ist weise,
Der nicht das Dunkel kennt,
Das unentrinnbar und leise
Von allem ihn trennt.

Seltsam, im Nebel zu wandern!
Leben ist Einsamsein.
Kein Mensch kennt den andern,
Jeder ist allein.

【小生comment】
 人生は、結局最後は自分ひとりで「霧の中」を歩いてゆくのと同じだ‥
 一度しかない人生だ、孤独・艱難辛苦という「暗闇」を知ってこそ毎日が映えてくる
 そう覚悟すれば、大概のことは、楽しいものとして受け入れることができるのだ
 そうやって僕も賢く人生を全うしたい‥

《急告》
 以下の添付写真をご覧下さい。
 時習館高校同窓会 副会長 福井英輔君【3-9】から依頼を受けましたので、皆さんにお知らせとお願いがあります。
 この程、母校時習館高校同窓会は、ヨーロッパ支部を立ち上げることになり、Europeに現在在住又は駐在している人を紹介して欲しいという依頼です。
 小生、先頃迄、時習26回生卒業40周年記念懇親会の代表幹事を務めていましたが、該当者を存じ上げません。
【2637の会】membersの皆さんの中で、欧州在住か駐在の仲間をご存知でしたら、小生にお知らせ頂ければ幸甚です。
 取り急ぎ‥。

[19]時習館高校同窓会ヨーロッパ支部設立の伴う準備会〔London〕に向けての緊急願い
 19london

 では、また‥。(了)

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