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2014年10月の4件の記事

2014年10月25日 (土)

【時習26回3-7の会0522】~「10月11(土)~13(祝月):『出雲・松江・安来・高梁・岡山・鳥取旅行』~〔その2(完)〕12日(土)「高梁市成羽美術館〔児島虎次郎記念館〕→備中松山城→備中高松城址→仁風閣→鳥取城址〔二の丸〕→鳥取砂丘→岩井温泉〔明石家〕」を巡って」「10月04日:『大垣城跡』& 大垣市守屋多々志美術館『特別展/美しい女性/守屋が描く歴史画の女性』展を見て」「10月18日:豊橋美術博物館『ウッドワン美術館所蔵/近代日本の絵画名品展』を見て」

■皆さん、お元気ですか?
 今泉悟です。【時習26回3-7の会0522】をお届けします。
 今回、先週に引き続いて『出雲・松江・安来・高梁・岡山・鳥取旅行』の〔その2〕についてである。
 旅行二日目の12日(日)は、「高梁市成羽美術館〔児島虎次郎記念館〕→備中松山城→備中高松城址→仁風閣→鳥取城址〔二の丸〕→鳥取砂丘→岩井温泉〔明石家/泊〕」を巡った。
 以下、時系列にお伝えする。

 12日(日)05時00分起床
 08時30分 さぎの湯荘 発
 さぎの湯荘(安来(やすぎ)市古川町)から県道45号線→安来道路を経由して一旦鳥取県米子市に入った。
 そして、米子東JCTから米子自動車道を66km程南進し、落合JCTから中国自動車道を南西へ16km進路を取る。
 更に、北房JCTから岡山自動車道に入り8km余り南進すると有漢(うかん)IC。
 此処から県道49号→国道313号線と一般道路を30km程南西に移動。
 さぎの湯荘を出て総走行距離140kmを1時間50分程かけて高梁市成羽美術館に到着。

 10時20分 高梁市成羽美術館 着

 高梁市成羽町は、広島県との県境に接する岡山県西部の人口33千人余り(2014年8月1日現在)の市。
 当市は、中山間地の宿命なのか、1970年53千人から2万人も激減している。
 人口減少の主因は、満足出来る所得を得られる雇用が地方都市、特に中山間地にはないからである。
 人口減少は、小中学校の統廃合や、税収減少に拠るインフラ整備が不十分になっていく‥、即ち「住民が暮らしにくい社会になる」ことを意味する。
 地方県の中小都市がかなり以前から人口減少に悩まされていることは知っていたが、この街はその典型的な例である。

 ところで、高梁市というと、旧高梁市の武家屋敷辺りがフーテンの寅さんこと『男はつらいよ』seriesで、寅さんの妹さくらの夫 博の実家がこの街に設定されている。
 第8作(1971年12月公開/マドンナ:池内淳子)と第32作(1983年12月公開/同:竹下景子)にロケ地として出て来る。
 高梁市市成羽町は、旧高梁市街から西へ8.5km程の所に位置する。
 成羽町は、岡山県倉敷市の大原美術館の創業者大原孫三郎(1880-1943)の依頼を受け、欧州での作品収集を任された洋画家 児島虎次郎(1881-1929)の故郷である。
 その児島虎次郎の顕彰を目的として1953年に開館したのが当美術館。
 現在の建物は3代目。1994年 市指定重要文化財史跡である山崎氏御殿跡の石垣上に建築家 安藤忠雄の設計により建設されたもの。
 中々存在感あるarchitectureであった〔[02]参照〕。
 小生、この高梁市成羽美術館を訪れて最初に立ち寄ったトイレに入って吃驚した!
 〔添付写真[03][04][05]ご参照〕
 今年4月に、向井修二氏&吉備国際大学学生に拠るinstallation『記号のトイレ』が創作されたという。
 小生、こんな毳毳しいトイレを見たのは生まれて初めてだった!
 でも、とっても楽しい気分にさせて貰った。

[01]『高梁市成羽美術館』看板
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[02]高梁市成羽美術館 外観
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[03]Installation『記号のトイレ』入口看板(表面)
 03installation

[04]Installation『記号のトイレ』入口看板(裏面)/建築家 安藤忠雄さんからのmessage/向井修二氏profile案内
 04installation_messageprofile

[05]Installation『記号のトイレ』入口
 05installation

[06]同上 男子用トイレの洗面所
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[07]同上 男子用トイレの内部
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[08]高梁市成羽美術館『児島虎次郎と呉昌碩学』展leaflet
 08leaflet

[09]児島虎次郎『登校』1906年
 091906

[10]同『紫苑(シオン)と少女』1913年
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[11]同『雁来紅(がんらいこう)』1917年
 111917

[12]同『手鏡を持つ婦人』1920年
 121920

 11時10分 高梁市成羽美術館 発
 美術館前の国道313号線を高梁川の支流である成羽川に沿って東進すること6km余り、高梁川本流との合流地点を少し高梁川沿いに遡上。
 落合橋でその高梁川を渡り、国道180号線を北上すること3km弱の川端という所を右折し東進して1.5km程登る。
 11時30分「城見橋公園」駐車場に到着。
 此処からは自家用車は乗入禁止でshuttle bus〔15分間隔 @300円〕で「ふいご峠」駐車場迄更に1km程登る。
 11時40分過ぎ このふいご峠を天守閣迄の1km弱は徒歩で登る。
 12時00分 備中松山城」天守閣 着

[13]天守閣入館料を収めた際貰った備中松山城leaflet
 13leaflet

[14]同 石垣
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[15]同 石垣 前にて
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[16]同 黒門 傍の厩門跡 前にて
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[17]同 六の平櫓(左端)→南御門/五の平櫓(正面)/天守閣(右手奥)
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[18]同 天守閣前にて
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[19]同 本丸の石垣の上にて
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[20]同 本丸の石垣の上から城下町「高梁」遠望
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 備中松山城 天守閣 入場料@300円を支払って貰ったleafletには、この城について以下の様に紹介している。
 (高梁)市街地の北端に聳え、「おしろやま」の愛称で親しまれている「臥牛山(がぎゅうざん(標高約480m))。
 北から、「大(おお)松山」「天神の丸」「小(こ)松山」「前山(まえやま)」の四峰から成り、南から見た山容が、草の上に臥した老牛の姿に似ているとして、「老牛臥草山」とか「臥牛山」と呼ばれている。〔中略〕
 現在、一般に「備中松山城」と呼ばれるのは、この内の「小松山」の山頂(標高約430m)を中心に築かれた近世城郭を指し、天守の現存する山城としては日本一の高さを誇る。
 天主、二重櫓、土塀の一部が現存し、昭和25年 国の重要文化財に指定された。
 又、平成09年 本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓、土塀等が史実に基づき復元された。
 歴代城主について説明すると長くなるので省略するが、江戸時代初期、築城と作庭、茶道で著名な小堀政一(まさかず)遠州(1579-1647)が備中国奉行として治めた。
 現存する城下町高梁は遠州の都市計画に拠るもので、又、後に水谷(みずのや)氏が天和年間に改築した松山城もその原型は遠州の作である。
 小堀→池田→水谷→安藤→石川と藩主が替わり、時代は下り最後は板倉氏が収めた。
 ※ 宗家初代 板倉勝重(1545-1624)から数えて第7代 勝澄(1719-69))が1744(延享元)年から明治迄7代125年の治世
 ※ 江戸時代の石高は5万石 → 明治維新の際、朝敵となるも赦免後2万石に減封して存続
 特に備中松山藩7代(板倉宗家13代)目の板倉勝静(かつきよ(=松平定信の孫)(1823-89))は幕末 15代将軍慶喜の時、老中首座を務めている。
 廃藩置県の際、朝敵となった備中松山藩は高梁藩と名を改称した。
 藩の名前が変わったのは、ご当地豊橋(旧藩名 吉田)と同じである。
 因みに、四国伊予松山藩は松山藩の名称を認められ今日に至る。

 12時35分 備中松山城跡 天守閣 発
 12時45分 同「城見橋公園」駐車場 発
 国道484号線を東へ12km弱で岡山自動車道 賀用(かよう)IC。
 此処から南東へ20km進み、総社(そうじゃ)ICで降り、国道180号線を2.3km東進する
JR吉備線 備中高松駅の手前を左折し730m北進。
 13時30分 備中高松城址(公園) 着

[21](備中)高松城址公園 案内旗の前にて
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[22]同 清水宗治 辞世の歌碑 前にて
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[23]同 同 首塚
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[24]備中高松城 水攻の図 看板の前にて
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 清水宗治(1537-82)は、備中国の豪族。当初清水〔現 総社市〕城主。
 のち高松城主となる。
 毛利氏に臣従以降、小早川隆景(1533-97)配下の武将として中国地方平定に従軍。
 宗治は、その忠勤ぶりから、隆景はじめ毛利氏首脳陣から厚い信頼を得ていた。
 高松城の本丸跡の高松城址公園には、清水宗治の辞世の歌碑がある。

 浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して

 小生、今回の旅行では是非訪れたかった史跡の一つが此処である。
 立派な武将の最期を偲んでみたかったのである。
 人の上に立つものの責任の取り方、決着を自分の命と引き換えに部下の命を救う…
それを立派に執り行った、彼の最期は実に立派な所作であった。
 真に「人徳」と「胆力」ある者でなければ、彼の様に潔く出来るものではない。

 13時45分 備中高松城址 発
 備中高松城址公園は僅か15分の滞在であった。
 国道180号線へ出て西進→〔 高松城址公園駐車場から約3㎞ 〕→総社IC→〔岡山自動車道41㎞〕→北房IC→〔中国自動車道16㎞〕→落合JCT→〔中国自動車道58km〕→佐用JTC→〔鳥取自動車道62km〕→鳥取市 嶋→〔一般道6㎞〕→鳥取城址

 15時55分 鳥取城址 至近の鳥取県立博物館 駐車場 着
 16時00分 仁風閣 見学
 鳥取城跡は、鳥取平野を一望する久松山(標高263m)に立地する。
 その西側山麓に「二の丸」、更にその下に「仁風閣」がある。
 仁風閣は、1907(明治40)年 鳥取池田家の第14代当主池田仲博侯爵が建築。
 設計は、旧 東宮御所〔現 迎賓館〕を建築した宮内省匠頭 片山東熊(とうくま(1854-1917))工学博士。
 大変立派な建物である。

[25]仁風閣前にて
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 鳥取城と言えば、吉川(きっかわ)秀家(1547-81)の籠城の上の自刃を思い出す。
 1581(天正09)年 織田信長の命を受けた羽柴秀吉率いる中国征討軍が因幡国まで侵攻。
 毛利氏配下の鳥取城主 山名豊国(1548-1626)は織田氏に降伏しようとしたが、重臣
の反対に拠り追放された。
 毛利氏は、吉川一門で文武両道に優れた経家を鳥取城に派遣。
 4箇月間の籠城の末、自刃した。

 吉川経家の辞世の歌は‥

 武士(もののふ)の 取り伝えたる 梓弓 かえるやもとの 栖(すみか)なるらん

[26]鳥取城 二の丸 石垣1
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[27]鳥取城 二の丸 石垣2
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[28]鳥取城跡 二の丸 三階櫓跡 より鳥取市街遠望〔手前の白い館は『仁風閣』〕
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 16時15分 仁風閣 発
 16時20分 鳥取城跡 二の丸 三階櫓跡 着〔添付写真[28]参照〕
 16時30分 県立博物館 駐車場 発
 16時50分 鳥取砂丘 駐車場 着

[29][30][31]鳥取砂丘にて1-2-3
 291
 302
 313

[32]鳥取砂丘 案内map
 32_map

 明日は、台風19号が遣って来ることを考えると、その前日にしてはご覧の様に天気は良く、無風で、絶好の観光日よりであった。

 17時30分 鳥取砂丘 発
 二日目の宿、岩美町の岩井温泉「明石家(あかしや)」へ向かった。
 18時00分 明石駅 着

 岩井温泉は、1,300年の歴史がある山陰最古の温泉郷。
 明石家は、江戸時代創業で、業歴300年を数える老舗旅館。
 温泉は、「源泉掛け流し」である。
 循環式が当たり前となっている昨今の温泉旅館である。
 そんな中にあって、前日泊まった、さぎの湯温泉 さぎの湯荘 と二日続けての「源泉掛け流し」には大変満足した。

[33][34]旅館「明石絵家」1-2
 331
 342

[35]同上 玄関
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[36]「明石家」のある岩井温泉郷 map
 36_map

 大変慌ただしい二日目の観光だった。
 が、これは、明日台風19号が上陸する恐れがあるので、三日目の観光は取止め、豊中市に住む娘夫婦を陣中見舞い方々小休止するだけにした為である。
 三日目は予定通り、台風19号と競争する様な恰好で東進し、14時過ぎには無事豊橋に着いた。
 総走行距離は、実に1,502kmとなっていた。

■さて、続いての話題である。
 上記旅行の丁度一週間前の10月04日に遡る。
 前《会報》でご報告いsた『猪熊弦一郎』展を見た後、徒歩で15分程西にある『大垣城跡』と、其処から南へ数分の所にある 大垣市守屋多々志美術館『特別展/美しい女性/守屋が描く歴史画の女性』展を見て来たのでご報告したい。

 その日は、本企画展の開催日初日。訪問した時は10時過ぎ。
 開館時間は過ぎていたのだが、その日は企画展の式典があるので一般客は11時からということであった。
 其処で、仕方がないので、時間潰しに美術館から徒歩3分程の所にある『大垣城』を訪れた。
 大垣城については、昨年03月30日に訪れた。
 詳細は、会報【0440】号をご覧下さい。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/26-04400330-aa7.html

[37]大垣城公園から見た大垣城天守閣
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[38]大垣城天守閣前にて2014106
 382014106

[39]大垣城天守閣から見た西方「伊吹山(右手奥の最高峰)」
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 11時丁度に又、守屋多々志美術館に戻り、早速拝見した。
 館員の人から、「お待たせして申し訳ありませんでした」というお詫びの言葉を頂戴し、拝観料を「無料」にしてくれた。
 却って、恐縮して仕舞った。でも、嬉しい‥。^^
 以下の添付写真の絵が、主な展示作品として、post cardで売られていたものである。

[40]大垣市守屋多々志美術館 看板
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[41]特別展『美しい女性‥守屋が描く歴史画の女性』展leaflet
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[42]守屋多々志『小倉百人一首/絵札 紫式部』1983年
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[43]同『朧月夜の君』1975年頃
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[44]同『桃ひらく』制作年不詳
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[45]同『ギリシャの壷売』1963年
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[46]同『パリスの審判/ギリシャ神話』1935年
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[47]同『楊四娘』1969年
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[48]同『水艶〔すいえん〔えん:サンズイに艶〕〕』1973年
 481973

[49]同『思い出の五色酒』1994年
 491994

[50]同『Parisの川上貞奴』1993年
 50paris1993

[51]同『Wienに六段の調〔Brahmsと戸田伯爵夫人〕』1992年
 51wienbrahms1992

[52]同『人魚の愛』1992年
 521992

[53]同『萩の宿〔芭蕉/奥の細道より〕』1993年
 531993

[54]同『みだれ髪/与謝野晶子』2001年
 542001

[55]同『悔過(けか)/持統天皇』1987年
 551987

 守屋多々志は、日本画の泰斗 前田青邨に弟子入りしただけあって、歴史画を得意とする。
 守屋氏の絵はご覧の様に、女性画が圧倒的に多いのが特徴と言っていい。

 美しいものが大好きな小生‥‥
 美しい女性の絵は、何回見てもいい。
 何回見直してもいい。
 矢張り、理屈抜きで「いいものはいい!」のである。^^;

■今日最後の話題は、先週10月18日 豊橋美術博物館にて開催中の『ウッドワン美術館所蔵/近代日本の絵画名品展』を見て来たので、その模様についてご報告する。
 ウッドワン美術館は、広島県廿日市市にある。
 丁度1年前の秋の旅行で訪れた場所である。
 以下に《会報》【0469】号にてご紹介しているので以下のURLをclickしてご高覧頂きたく。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/26-046910121433.html
 本展は、同美術館所蔵品から珠玉の80点が展示されている。
 添付写真の絵は、同じ主題の日本画と洋画をpairにしてご紹介したので見比べて頂きたい。
 日本人の巨匠作品の醍醐味を少しでも堪能して頂ければ幸いである。

[56]豊橋美術博物館『ウッドワン美術館蔵 近代日本の絵画 名品展』看板
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[57]本展leaflet 絵は岸田劉生『毛糸肩掛せる麗子肖像』1920年
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[58]ウッドワン美術館所蔵『近代日本絵画の巨匠たち』図録
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[59]横山大観『霊峰不二』1950年
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[60]林武『赤富士』1967年
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[61]小野竹喬『夕空』1953年
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[62]小出楢重『枯木のある風景』1930年
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[63]平山郁夫『エジプトの少女(王家の谷 エクソール)』1994年
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[64]岡田三郎助『花をもてる裸婦』15703年
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[65]上村松園『舞仕度(二面/左面)』1914年
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[66]国吉康雄『白いシュミーズ(chemise)の女』1928年
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[67]横山操『ウォール街』1962年
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[68]須田国太郎『黄比叡』1940年
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[69]小倉遊亀『蛇の目草を持つ少女』1968年
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[70]三岸好太郎『道化』1931年
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【後記】一昨日(10月23日)の朝、時習26回同期生でFacebook仲間の榊原君【3-1】が‥
 「水溜まり/小雨の朝」というcommentと共に添付写真〔 [71]参照 〕をupしていた。
 それを見た小生、即興で一句つくったのが以下の句です。
 ご笑覧下さい。
 
 朝寒(あさざむ)の 時節を写す 水溜り  悟空

 季語:朝寒〔‥秋‥〕
 榊原君が写真をupした10月23日は、今年の二十四節気でいう「霜降」の日であった‥。

[71]榊原T君撮影「霜降」の朝‥水溜り‥20141023
 71t20141023_3

 では、また‥。(了)

2014年10月19日 (日)

【時習26回3-7の会0521】~「10月11~13日:『出雲・松江・安来・高梁・岡山・鳥取旅行』~〔その1〕11日「出雲大社→松江城跡→小泉八雲記念館→足立美術館『横山大観』展」を巡って」「10月04日:大垣市スイトピアセンター Art Gallery『猪熊弦一郎』展を見て」「私の履歴書:猪熊弦一郎『絵には勇気がいる』を読んで」「10月16日:愛知県芸術劇場concert hall『ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団』演奏会を聞いて」「10月18日:豊橋まつり『市民総踊り』に参加して

■皆さん、お元気ですか?
 今泉悟です。【時習26回3-7の会0521】をお届けします。
 小生、掲題の通り二泊三日で『出雲・松江・安来・高梁・岡山・鳥取旅行』に行って来ましたのでご報告させて戴きます。
 因みに、次号《会報》では〔その2〕12日(日)「高梁市成羽美術館〔児島虎次郎記念館〕→備中松山城跡→備中高松城址→鳥取城址公園〔仁風閣&鳥取城址二の丸〕→鳥取砂丘→岩井温泉〔明石家 泊〕」を巡って‥をお届けする予定です。

 10日(金)21時30分就寝
 11日(土)01時00分起床
 02時05分 拙宅発
 09時15分 出雲大社から南東100m程の処にある蕎麦処『かねや』着〔15分程店の前で並んでwaiting〕
 09時30分 開店と同時に入店し、「割子蕎麦(五段重ね)」を注文
 ※ 周囲の来店客の人達を見たら、小生以外は全員「割子蕎麦(三段重ね)」を食していた。^^;;
 因みにお値段は、三段重ね1,100円、四段重ね1,400円、五段重ね1,700円
 当店は、有名人達が沢山訪れており、signした色紙が沢山飾ってあった。
 大瀧秀治、仲代達也、北大路欣也、黒柳徹子、山下達郎&竹内まりや夫妻、等々‥

[01]『かねや』の店先にて
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[02]『かねや』の「割子蕎麦(五段重ね)」
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[03]山下達郎&竹内まりや夫妻のsign入り色紙
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 10時05分『かねや』発→車で出雲大社駐車場へ
 10時15分 駐車場から南東へ数分歩き、二の鳥居から神門(しんもん)通りを拝殿→本殿へ向かい歩いて行った
 ※ この拝殿で、丁度一週間前、高円宮紀子女王様が、出雲大社神官〔権宮司〕の千家国麿氏と結婚式を挙げられた。
 拝殿でお参りした後、拝殿のその又奥にある本殿前でもお参りをした。
 出雲大社の拝礼は、通常の神社の「二礼二拍一礼」に対し、「二礼四拍一礼」である。
 又、旧暦十月を「神無月」と呼ぶが、出雲国では「神在月(or神有月(かみありづき))」と呼ぶのはご存知の方も多いであろう。
 全国の八百萬の神が、旧暦10月にこの出雲国に集合するからそう呼ばれている。

[04]出雲大社「拝殿」前にて
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[05]同「本殿」を北西方面より撮影
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 11時05分 出雲大社発→松江城跡へ
 12時25分 松江城天守閣へは、島根県庁北にある千鳥橋を渡り、南口門→二ノ門→一ノ門→本丸/天守閣へ
 
[06]松江城跡の堀川と堀川を巡る連絡船をbackに1
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[07]同上2
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[08]松江城跡天守閣をbackに
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[09]同 本丸庭園と宍道湖遠望
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 松江城は、全国に12ある現存天守閣の一つ。
 平山城。
 豊臣秀吉、徳川家康に仕えた堀尾義晴(よしはる(1543-1611))が、関ヶ原合戦の戦功を認められ、出雲&隠岐24万石を拝領し慶長5(1600)年11月に入国。
 当初義晴は、代々尼子氏の居城の一つであった富田(とだ)城に入った。
 しかし、富田城は鉄砲戦に不向きであることから城を現地に移すことを考え、慶長16(1611)年正月以前竣工した。
 堀尾氏は、義晴の嫡子忠氏(1578-1604)の子 忠晴(1599-1633)に子がなく断絶した。
1634(寛永11)年 京極忠高(1593-1637)が若狭国小浜から26万4千石で入国したが37年没。
 忠高の正妻は将軍秀忠と正妻「江」の四女「初」。
1638(寛永15)年 徳川家康の次男 結城秀康の四男 松平直政(1601-66)が信濃国松本から18万6千石で入国。
 爾来、明治維新迄続く。
 余談だが、現存12天主閣は、姫路・彦根・松本・犬山の国宝4、弘前・丸岡・松江・備中松山・松山・宇和島・丸亀・高知の重文8
 今回の旅行で、松江城と備中松山城を訪れたことに拠り、未踏破は、四国の4城〔松山・宇和島・丸亀・高知〕を残すのみとなった。^^;

 13時15分 松江城→小泉八雲記念館へ
 13時40分 同記念館着

【小泉八雲(Lafcadio Hearn(1850-1904))の生涯 概略】
1850(嘉永3)年06月27日 Greeceのレフカダ島で、Ireland人の父とGreece人の母との間に生まれる
 02歳の時Irelandに移り、大叔母に引き取られる
 04歳の時、母と生き別れとなる
 07歳の時、両親が離婚、父とも生き別れとなる
 16歳の時、左眼を失明
 19歳の時、大叔母の破産も重なり、米国へ
 赤貧の生活を経て、Cincinnati、New Orleansでjournalistとして活躍し、France文学翻訳、創作活用を始め文才を認められる様になる
1890(明治23)年04月 39歳の時、ハ―パー社の特派記者として来日するが、間もなく同社との契約を解消
 帝国大学(現・東京大学)のChamberlain教授や文部省の紹介に拠り、島根尋常中学校及び師範学校の英語教師となる
 籠手田安定(こてだ やすさだ)島根県知事や千家尊紀(せんげ たかのり)出雲大社宮司等の知己を得、松江・出雲の風土・精神性をこよなく愛す
 武家の娘小泉セツと出会い、塩見縄手の侍屋敷(根岸邸)で生活を共にした
 01年03ヶ月で松江を去り、熊本・神戸・東京と移り住んだ
1894(明治27)年02月 二人は結婚、日本人小泉八雲となる
 熊本第五高等中学校、神戸クロニクル社、帝国大学、早稲田大学に勤務、この間、日本文化に関する多くの作品を残した
1904(明治37)年09月26日 狭心症の為、54歳にて逝去
 〔以上、小泉八雲記念館leafletより引用〕

【小生comment】
 彼の生涯をみてみると、実に波乱万丈の54年の生涯であった。
 ギリシャで生まれ、アイルランドで育ち、両親と生き別れ、渡米し、来日。
 日本での生活は40歳から死ぬ迄の14年間も、松江→熊本→神戸→東京と住まいが変わる。
 小生も30年近い銀行員時代、13回の転勤〔うち2回の業務出稿を含む〕、11回に及ぶ転居を経験した。
 転居が多いのは大変だったが、新しい出会いと別れがある。
 前向きに考えれば、これ等の多くの経験が、自分の人生に有形無形の貴重な財産を与えてくれている。
 旅が今も大好きなのは、是迄歩んできた転居・転勤人生が、天性の旺盛な好奇心と共鳴しているからだろう。

[10]小泉八雲記念館前にて
 10

 13時55分 記念館を出て徒歩数分の市営駐車場へ
 14時05分 同駐車場→足立美術館へ
 15時10分 足立美術館 駐車場着

【足立美術館】
 当美術館は、足立全康(1899-1990)氏が、1970(昭和45)年11月、氏誕生の地である現・安来市古川町(=当美術館所在地)に開館した。
 氏は、裸一貫から財を為した地元島根県と大阪で活躍した実業家。
 事業に拠り蓄えた富で好きな「『庭園』と横山大観を中心とした『日本画』の蒐集」を後半生の趣味とした。
 足立美術館の庭園は、外国人にいま最も有名な日本庭園として知られている。
 当美術館leafletの拠れば、当庭園には、以下の9つの鑑賞pointがある。
 1. 歓迎の庭/ 2. 茶室「寿立庵の庭」/ 3.苔庭 / 4. 枯山水庭 / 5.生の額絵/ 6. 鶴亀の滝 / 7. 池庭 / 8. 生の掛け軸 / 9. 白砂青松庭
 これ等の庭園は、いずれも借景を上手に摂り得れて絶妙な庭園美を創出して観る者を魅了する。
 又、本館2階展示室には、横山大観特別展示室の大観の絵をはじめ、竹内栖鳳・榊原紫峰・橋本関雪・川合玉堂・川端龍子・上村松園・鏑木清方・菱田春草・小林古径・安田靫彦・前田青邨・速水御舟・伊東深水・寺島紫明・土田麦僊・村上華岳 等、日本画の巨匠の名画が展示されてあった。
 以下に、当庭園の9つの鑑賞pointから3つご紹介する。

[11] 4. 枯山水庭
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[12] 7. 池庭
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[13] 9. 白砂青松庭
 13_9

 日本画の名画の中からは、以下の7点‥

[14a]横山大観(1868-1958)『紅葉』(右) 1931年〔6曲1双〕
[14b]同『同』(左) 1931年
 14a18681958_193161
 14b_1931_2

[15]同『朝嶺』(右) 1932年
 15_1932

[16]同『暮嶽』(左) 1932年
 16_1932

[17]鏑木清方(1878-1972)『潮干がり(天明頃風俗)』1950年頃
 17187819721950

[18]勝田哲(1896-1980)『夕べ』1934年
 18189619801934

[19]寺島紫明(1892-1975)『美人』1955年
 19189219751955

[20]伊東深水(1898-1972)『夢多き頃』1952年
 20189819721952

【小生comment】
 足立美術館の日本庭園は素晴らしかった。
 全てに於いて、計算された人工美が美しさを観る者に訴えかけて来た。
 ただ‥、此の時小生、熊谷守一が東京美術学校の師、藤島武二について評した言葉を思い出していた。即ち‥‥
「私は、秀才の絵だというだけで、然程感心は出来ませんでした」‥そう、足立美術館の日本庭園は秀才の絵に似ている。
 綺麗なのだが、感動しないのである‥。それは何故か‥
 小生、池泉庭園なら『桂離宮』『天龍寺』庭園、枯山水庭園なら『大徳寺大仙院』『龍安寺/石庭』、苔庭なら『西芳寺』庭園等々、本物の庭園美を見ている。
 だから厳しい言い方かもしれないが、足立美術館庭園が、いくら素晴らしいと言っても、それは優等生が作庭した亜流の庭園の域を出ていない。
 日本古来の歴史的な名勝庭園が醸し出す「本物の『美』」には矢張り太刀打ち出来ないのだと痛感した。

 16時45分 足立美術館を後にして、美術館に正に隣接したさぎの湯温泉「さぎの湯荘」へ
 16時50分 さぎの湯荘 着

[21]さぎの湯荘の宿泊部屋に隣接する中庭の枯山水庭園
 21

 さぎの湯温泉は、尼子氏治世時代の今から400年前から温泉地となっていたという。
 宿泊した「さぎの湯荘」も、今年開業105年という老舗である。
 当旅館はの温泉は「源泉かけ流し」である。満足!
 湯質は大変よく、出た後、肌がすべすべなのである。
 島根県の女性の肌が日本一上質と聞いた。
 この上質な温泉に拠る積年の効果なのであろうか!?
 こうして、旅行の初日は終わった。

■続いての話題である。
 日付が一週間程遡るが、10月04日に見て来た大垣市スイトピアセンター ArtGallery『猪熊弦一郎(1902-93)』展についてである。
 猪熊弦一郎(1902-93)氏について、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館の松村円氏の言葉を引用して紹介に替える。

 猪熊弦一郎は1902年、香川県に生まれ、学校の教員だった父の異動に伴う転居を繰り返し乍ら、旧制中学校を卒業する迄県内で育った。
 Dessinという言葉も知らない様な環境であったが、幼い頃から絵を描くことが好きだった猪熊は1922年に東京美術学校(現 東京藝術大学)に入学、3年次からは当時、人気の高かった藤島武二の教室で学ぶ。
 藤島が屡々口にする「dessinが悪い」を、上手に形にとればよいというものではない、対象の固さ柔らかさ、冷たさ温かさ、立体感等を理解して描いているかどうかだと解釈し、研鑽に励んだ。
 1926年には椅子にかけた女性を深い色調の中にもメリハリを利かせて描いた《婦人像》が帝展に入選、その後も入選を重ねていく。〔後略〕
 1938年に渡仏し、其処でマチスや、ピカソと出逢う。
 藤田嗣治とは、ドイツ軍のParis侵攻から一緒に逃避生活を送ったりした後、最後の日本への避難船「白山丸」で帰国。
 戦時中は、藤田嗣治や小磯良平等と同様、従軍画家として彼はフィリピンとビルマ(現 ミャンマー)に派遣されている。
 戦後は、渡米する1955年迄の十年間、彼の作風は具象→抽象へと徐々に変化していく〔添付写真[29][30][31]&[35]ご参照〕。
 渡米後は20年の長きに亘り、New Yorkで活動。
 以後、彼の作風は、完全な抽象画となる〔添付写真[32][33][34]ご参照〕。

[22]本展leaflet
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[23]猪熊弦一郎(1902-1993)
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[24]猪熊弦一郎『自画像』1925年
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[25]同『雪の道』1923年頃
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[26]同『パレットを持つ女』1931年
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[27]同『マドモアゼルМ』1940年
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[28]同『屋根の上 Paris』1940年
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[29]同『青い服』1949年
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[30]同『バレリーナの夢想』1950年
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[31]同『馬と道化』1955年
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[32]同『星座からの返信』1983年
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[33]同『ヴィナス二人』1990年
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[34]同『顔 ブルーの中』1992年
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[35]同『democracy』慶応義塾大学 学生hall(現 西校舎学生食堂)壁画1949年
 35democracy_hall_1949

■前《会報》【0521】で、熊谷守一の《私の履歴書》「へたも絵のうち」をご紹介したが、猪熊弦一郎も1979年1月に連載している。
 以下に、彼の《私の履歴書》から幾つかご紹介してみたい。

 「絵には勇気がいる」というとみんなが笑う。
 でもこれは本当のことだ。
 絵描きに限らず芸術家は、いつも、何か今迄になかったものがつくれないかと模索し続けている。
 それにはまず「常識」というものと闘わなければならない。
 常識は、人生を送る上では大切なもので、大概の人はそれを踏まえて生きている。
 しかし、ほんの一握りしかいないが、真摯なartistにとって、常識は敵である。
 未知なる自分の世界を拓く為には、常識を超えなければならない。
 それには、勇気がいる。〔後略〕〔P.6〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 私は、美とは畢竟balanceだと思う。
 Confusion(混乱)とOrder(秩序)は何処の世界にも絶えずあるがこれは表裏一体のものだ。
 絵も突き詰めて行けば、そういうことになるのではないかと思う。
 いい絵は、どんなに乱暴な描き方に見えてもちゃんとした秩序がある。
 色、形、重さ、軽さ。
 そういう色々なものの調和がとれている。
 具象にしても抽象にしても、絶対にそういうものがなければいけないと思う。
 ただこれは、勉強して勝ち取れるものではないのかもしれない。〔中略〕
 人間本来の感覚なのだろう。〔P.8-9〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 学校の窓から奇兵隊の様子が手に取る様に解る。
 私はその馬の美しい姿が好きで堪らなかった。
 そして馬の持っているあの独特の匂いが好きだった。
 その頃、姿の美しい馬ほどよく駆けよく跳ぶことを私は知った。
 難しく言えば、様式美と機能美は一致するのだということを目の当たりに納得したのである。〔P.29〕

 ※ ※ ※ ※ ※

 マチス(Henri Matisse(1869-1954))先生には何度か絵をみて貰った。〔中略〕
 「お前はPicassoが好きだろう」〔中略〕続いて「お前の絵は巧過ぎる」と言われた。
 のっぴきならない発言だった。
 つまり、「自分の絵になっていない」ということなのだ。
 私は本当に恥ずかしくなって仕舞った。
 Matisseにしろ、Joan Miro(ホアン・ミロ(1893-1983))にしろ、Picasso(1881-19773)にしろ、まるで子供に返った様な純なそして自分自身の世界を作っている。
 それは誰でも簡単に真似が出来そうにみえるが、とても難しいことだ。
 結局、巧く描くということは人に良く見て貰いたいと思う為に描くということに通じている。
 技術の巧拙は自然なものなのだ。
 思ったことを素直な、虚飾のない姿でcanvasにぶっつけることこそ一番大切だ。
 「絵が巧過ぎる」という先生の言葉はそんな意味だ。
 グサリと急所を一突きされた様だった。
 この言葉は私の一生を通じて、全てのことに最も大きな教訓となっている。〔後略〕〔P.75-76〕

[36]私の履歴書:猪熊弦一郎『絵には勇気がいる』
 36

■続いては、10月16日 愛知県芸術劇場concert hallにて行われた『ワレリー・ゲルギエフ指揮 マリインスキー歌劇場管弦楽団』演奏会を聞いて来たのでご紹介したい。
 本演奏会の曲目は、3曲。

1. Shchedrin(シチェドリン(1932- ))/Concerto for Orchestra No.1 "Naughty Limericks(お茶目なチャストゥーシカ)"
2. Tchaikovsky(1840-1893)/Piano Concerto No.1 in B-flat minor, Op.23
 Piano : Daniil Trifonov(ダニール・トリフォノフ(1991- ))
3. Tchakovsky/Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique(悲愴)"

 1曲目のシチェドリンの曲は初めて聴いた。
 Jazz風の面白い、ちょっと諧謔的でもある佳品である。
 演奏時間も8分程度と丁度良い。

 2曲目のTrifonovのTchaikovskyのピアノ協奏曲第1番は中々良かった。
 今年まだ23歳のRussia人の若手pianistである。
 2010年 Chopin concours 3位
 2011年 Rubinstein concours 1位
 同年 Tchaikovsky concours 1位 & grand prix受賞
 ‥と、近時注目度急上昇中の期待の新人である。
 Encoreの独奏曲は、Debussy の映像 第1集 第1番「水に映る影」であった。

 愈々、本concertの締め括りである。
 3曲目は、Tchaikovskyの遺作となった悲愴交響曲。
 指揮者Gergievは1953年5月生まれのRussianである。
 我々より2歳年長である。
 ほぼ同世代と行っていい、世界的に著名な名指揮者。
 添付写真にある様に、GergievのCDとしては、2004年にWienフィル(V.P.O)とのライブの名演奏がある。
 この日の演奏は、Tchaikovskyと同じRussianとしてのDNAが演奏に確り共鳴して実に素晴らしかった。
 終楽章の第4楽章 Finale. Adagio lamentoso - Andante のclimaxは特に感動的であった。
 悲痛な感情に満ちたfinaleで、最後は息が絶える様に音が消える様に終わる‥。
 確り数えてなかったので定かではないが、今回 Gergievは、消音後10秒~15秒、指揮棒を下ろさなかった。
 暫しの重苦しい静寂が、concert hall全体をを沈鬱な雰囲気の下に覆った。
 そして、彼がユックリと指揮棒を下ろすと、館内割れんばかりの拍手喝采であった。
 この沈痛な曲であり乍ら、ふつふつと湧いてくるこの「高揚感」とは一体何だろう!
 名曲の名演奏ってこういうことなんだろうな‥きっと!

[37]Valery Gergiev指揮 Mariinsky Orchestra演奏会 leafet & program
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[38]Gergiev&Mariinsky O Ticket & CD & Program
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【後記】昨日10月18日の夕方6時30分~20時00分迄、ご当地豊橋まつり「市民総おどり」が、豊橋駅前大通りと広小路通り1~3丁目間で開催された。
 小生の勤務先も、社長以下12名が、総踊りに参加した。
 広小路通り2丁目の蒲郡信用金庫豊橋支店前が集合場所で出発地点であった。
 踊り出した最初の頃は気恥ずかしかったが、20~30分も踊っていると楽しい気分になるから不思議である。
 曲目は、「豊橋音頭」、「新・豊橋とんとん唄」、「マツケンのええじゃないかII」の3曲。
 「マツケンのええじゃないかII」だけは確り踊れなかったけど‥。^^;;

[39]豊橋まつり「市民総踊り」に参加して1
 391

[40]同上2
 402

[41]同上3
 413

 では、また‥。(了)

2014年10月 9日 (木)

【時習26回3-7の会 0520】~、「10月01日:『東海道新幹線』開業50周年&10月10日:『東京五輪』開幕〔~24日〕50周年等を振り返って」「2014年10月01日~2024年03月31日:豊橋技術科学大学、『スーパーグローバル大学』全37校の1校に選ばる!」「09月27日:岐阜県美術館『熊谷守一‥守一のいる場所‥』展を見て」「10月08日:榊原T君【3-1】&豊川南部中学同期の皆さんと『皆既月食』観測をして」

■皆さん、今週初06日の台風18号は大丈夫だったでしょうか?
 今泉悟です。
 来週初には、新たに台風19号が遣って来ます。
 心配ですね。

 さて、今週一番のnewsは、昨日10月07日 今年のNobel物理学賞に3人の日本人の科学者が受賞したことだろう。
 その3人は、皆さんも既にnews等でご存知だと思いますが、世界初の高輝度青色発光ダイオード(diode)(=LED)の原材料 窒化Kaliumの結晶化、開発&実用化した、赤﨑勇(1929- )名城大学終身教授、天野浩(1960- )名古屋大学大学院教授、中村修二(1954- )California大学サンタバーバラ校(UCSB)教授。
 日本人のNobel賞受賞者は、これで22人、うち物理学賞受賞者は10人となった。
 実に喜ばしいことである。

 今日も【時習26回3-7の会 0520】をお送りします。

■先ず、最初の話題である‥。
 今から丁度半世紀前の1964(昭和39)年の明後日10月10日は、東京代々木の国立代々木競技場にて東京五輪開会式が挙行された記念すべき日である。
 又、それより10日前の10月01日は夢の超特急「東海道新幹線」が開業した、これも特筆すべき記念日である。
 1964年は、我等時習26回生はまだ小学校3年生。
 当時日本は、池田内閣の所得倍増計画の名の下、高度経済成長の真っ只中にあった。
 同年04月28日に日本はOECDに加盟し、名実共に先進国の仲間入りを果たした。
 世界では、2年前の1962年10月Cuba危機、翌1963年11月ケネディ米国大統領暗殺と、米ソの冷戦が続いていた。
 1964年07月 ジョンソン米国大統領が公民権法に署名。
 前《会報》にてご報告した様に‥、米国の人種差別撤廃に向けて活動していた公民権活動家3人が殺害されたのがこの1964年の6月。
 ジョンソン大統領に拠る「公民権法」署名に拠り、連邦政府levelで人種差別が正式に違法となった。
 しかし、州政府の連合体である合衆国に於いては、外交と軍事を除く内政面では、依然として州政府の権限が強かった。
 その為、当時、南部州では、奴隷あがりが大半の黒人系米国人を差別する風潮は根強く残っていた。
 John F. Kennedy米国大統領以下、公民権運動家として、又はその支援者として活動し暗殺された著名人4人を以下に記す。

 Kennedy大統領は、黒人差別撤廃に注力し実践した公民権法推進者であった。
 彼は、翌年の大統領選を控え、対立候補となる共和党の超保守派で『保守派movement』のゴールドウォーター(Barry Morris Goldwater(1909-1998))に南部諸州で全敗する危機感を抱いていた。
 其処で、当時、Johnson副大統領の地元で、南部諸州の中で唯一民主党が勝利する可能性が高く南部最大の選挙人数を抱えるTexas州を、そしてヒューストン(Houston)に次ぐ同州第2の都市Dallasを最初の遊説地として選んだのである。

 1963年11月John F. Kennedy(1917-1963)暗殺〔没地 テキサス(Texas)州ダラス(Dallas)〕
 1965年02月マルコム X (Malcolm X(1925-65))暗殺〔没地 New York州New York〕
 1968年04月Martin Luther King, Jr(1929-68)暗殺〔没地 テネシー(Tennessee)州メンフィス(Memphis)←‥人口の約6割が黒人系米国人〕
 1968年08月Robert Kennedy(1925-68)暗殺〔没地 California州Los Angeles〕

 今から当時を振り返ってみると、米国も日本も夫々に熱かった。
 Vividに生きていた時代であった。

 小生はというと、一人蚊帳の外に居たというのが正直な処である。
 実は小生、当該年の前年1963年、結核性肺門リンパ腺炎〔‥小児結核の一種‥〕を罹患して、1967(昭和42)年迄の5年間、病院に通院し、週2回、ペニシリン(penicillin)→ストレプトマイシン(streptomycin)→カナマイシン(kanamycin)という抗生物質の筋肉注射を打ち続けていたのである。
 したがって、体育は、水泳をはじめ見学が多かった。
 爾来、体育は苦手な教科になって仕舞い、現在に至っている。
 以上、余談まで‥。

■続いては、09月30日の地元新聞2紙に、又10月06日付 日経新聞に、地元の国立行政法人の単科大学 豊橋技術科学大学が、文部科学省の『Super Global大学〔SGU〕』全37校の1校に選ばれたと記事が掲載された。
 これは、本年10月から2023年度末迄、文部科学省が大学の国際化を支援するもので、<1>世界のtop100大学を目指す『top型』13校と、<2>Global化 牽引型24校が指定され、地元愛知県からは、<1>top型の名古屋大学と、<2>Global化 牽引型の豊橋技術科学大学の2校が選ばれた。
 年間予算がtop型4億20百万円、Global化 牽引型1億72百万円夫々つく。
 牽引型に選ばれた豊橋技術科学大学の構想は以下の通り‥。
 世界で活躍出来る上級技術者を育成する為の「Global技術科学architect」養成courseを全課程・専攻に新たに新設する。
 講義や試験で日本語と英語を併用する。
 同course履修生の為の全寮制寄宿舎を2017年4月を目処に建設。
 2棟200室を想定し、1部屋4人のうち1人は留学生が入居する見通し。
 寮監=house masterが常駐し生活面をsupportする。
 現在10%の留学生比率を27%に引上げるほか、外国人教員を現行の1.5倍の23%にし、全職員の30%以上が外国の機関で実務を積むとしている。
 大西隆学長は本年4月に同大学 学長に就任。
 日本学術会議の会長を務めている。
 地元豊橋の大学が世界に向かって羽ばたく雄姿にyellを送りたい。
 因みにSuper Global大学〔SGU〕37校の内訳は以下の通り‥
<1>北大・東北大・筑波大・東大・東京医科歯科大・東工大・名大・京大・阪大・広島大・九大・慶大・早大‥13校
<2>千葉・東京外大・東京藝大・長岡技科大・金沢大・豊橋技科大・京都工芸繊維大・奈良先端科学技術大学院・岡山大・熊本大・国際教養・会津・国際基督教大・芝浦工大・上智大・東洋大・法政大・明治大・立教大・創価大・国際大(‥大学院大学‥)・立命館大・関西学院大・立命館アジア太平洋大‥24校

■続いての話題は、09月27日に岐阜県美術館にて開催中の『熊谷守一‥守一のいる場所‥』展についてお伝えしたい。
 熊谷守一(1880-1977)は、現在の岐阜県中津川市付知町に生まれた。
 彼の父は、事業家兼政治家で、岐阜県議会議長や初代岐阜市長、衆議院議員を務めている。
 東京美術学校在学中に父親が急死し、実家の事業は長兄が継ぐものの、彼の生活も困窮する。
 そうした厳しい環境下に於いても、熊谷守一は「カネのない生活には何等困らない」という飄々とした性格であった。

 のちに、『熊谷様式』と呼ばれる独特な様式を確立していく。これは即ち‥
 対象物を極端に単純化し、その描いた絵の対象物を輪郭線で以て確り囲む。
 しかも、平面的な画面の構成を持つ、極めて抽象度の高い具象画という様式である。

 添付写真の絵をご覧戴きたい。
 年が経つに連れ、絵が抽象化されていくことを実感されることと思う。

 熊谷の絵は、一見するととても稚拙に見えるのだが、ジックリ見ていると、その緻密に計算された構成力と色彩の巧さに感銘を受ける。
 いみじくも彼自身がこの後episodeをご紹介する自伝『へたも絵のうち』の【展覧会】の処で次の様に述べている‥。
 ※( )内は小生補足

 私(熊谷)は上手とか下手とかいうことでは絵を見ません。
 絵を幾つか見せられて、すぐパッと目に入る上手なのが必ずあります。
 しかしじっと見ていると、段々それ程でもない様に見えて来るものです。
 むかし二科(会)で展覧会の審査を遣っていると、よくそんなことがありました。

 すぐ「あれがいいな」と目につく絵を暫く見ているうちに、次第に解らなくなって来る。
 仕舞には、誰かが「それ程でもないか」などと言い出します。
 巧いことを言うものですが、上手な絵など、いつかはそれ程でもなくなって来るものです。

 二科(会)の研究所の書生さんに「どうしらたいい絵が描けるか」と聞かれた時など、私は「自分を生かす自然な絵を描けばいい」と答えていました。
 下品な人は下品な絵を描きなさい、馬鹿な人は馬鹿な絵を描きなさい、下手な人は下手な絵を描きなさい、と、そう言って来ました。
 
 結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。
 自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ロクなことにはなりません。
 だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよと言っていました。〔以下略〕
. 
 ※ ※ ※ ※ ※
. 
 以下に、『へたも絵のうち』の中から一つご紹介する。
 因みにこの本は、昭和46年06月14日~07月12日迄日本経済新聞『私の履歴書』に掲載されたものである。
. 
  【美校時代(二)】
. 
 同級の中で山下新太郎(1881-1966)と和田三造(1883-1967)とは特に仲良く行き来しました。
 山下は根津の老舗の表具屋の長男で、たいそうお金持ちでした。
 しかし若気の至りというのか、オレは絵を描くんだから商売なんか関係ないということで廃嫡して店をそっくり弟に譲って仕舞った。〔中略〕
 山下はしかし、若くて意気盛んだから、芸術家はいい絵さえ描けばどんな悪いことをしても構わぬのだ、と言って威張っている。
 だが、豈(あに)図らんや、年をとったらそんな言い草は何処へやら、親父さんと同じ様なことを言い出す様になったのには、参って仕舞いました。
 資産家の子弟と言うものは、若い頃反抗したり、親と全然違う道に進もうとするものの様です。
 しかし自分も年をとると、自然に先祖代々の顔が出て来るので、その辺が見ていると中々面白いのです。
.
 それは兎も角、後になってから、私は山下に随分世話をかけたものです。
 のちに又触れますが、美術学校二年の夏に父が死に、その後は急転直下、私は貧乏して仕舞いました。
 山下はそれを知っていて、何かと面倒を見てくれ様とした訳です。
 家に遊びに行くと、帰りには自分の羽織なんかを、「持っていかないか」と言ってひょいとくれる。
 こっちも気軽に、戴いて帰ります。〔中略〕
.
 和田三造は青木(繁(1882-1911))とは大違いの真面目な学生で、黒田(清輝(1866-1924))さんの言うことはよく聞いていました。〔中略〕
 先生の黒田清輝は、どちらかというと政治家だから、それはそれで美術学校には随分役立ったのでしょうが、絵は然程感心しませんでした。
 青木が馬鹿にするのも、解る気がするものです。〔中略〕
 私なども生意気な方だし、あまり参考にはならぬという気持ちでした。
.
 黒田さんも、私達のそんな気持ちを感じてか、生徒に自分の描き方を押しつける様なことはしなかった様です。
 青木が(教室を)ピシャリと戸を閉めて出て行っても、別に怒りもせず、太った丸顔の表情を少しも変えず、知らぬ顔をしていました。
 その辺は黒田さんも大人なのです。
 ただ黒田さんは、私のことを常日頃随分褒めてくれました。
 青木の傲慢無礼な態度と比較して、意識して私を持ちあげたという意味もあったかもしれません。
 私は別に反抗もせず、さりとて上手なことも言わず、ただ黙って褒められる儘になっていました。
.
 藤島武二(1867-1943)さんは、みるからに秀才という感じでした。
 その頃から非常に評価が良く、描くものは周囲から褒められてばかりいました。
 しかし私は、秀才の絵だというだけで、然程感心は出来ませんでした。
.
【小生comment】
 熊谷守一は、東京美術学校(現・東京藝術大学)での評価は高かった。
 そんな彼が、美校の教授で日本人洋画家の泰斗の二人、黒田清輝と藤島武二について冷徹に評価しているのが面白い。
 又、名古屋の愛知県美術館には木村定三(1913-2003)collectionがある。
 同氏は、収集した3,000点に及ぶ膨大な作品を愛知県美術館に遺贈・寄付している。
 時価総額は400億円とも言われている。
 その中で、木村定三氏自身が「熊谷守一に始まり熊谷守一に終わる」と述べている様に、熊谷作品には特別の思いを持っている。
 この木村定三collectionのお蔭で、愛知県美術館は、現在、熊谷守一の作品を215点を所有している。
 以下に本展leafletの作品を含め23点の熊谷作品をご紹介する。
 熊谷守一の世界を暫しお楽しみ戴きたい。
.
[01]本展leaflet/左側の絵は『宵月』1966年
 01leaflet1966

[02]熊谷守一(880.04.02-1977.08.01)1977年06月21日撮影
 0288004021977080119770621

[03]熊谷守一『自画像』1904年
 031904

[04]『某夫人像』1918年
 041918

[05]『陽(よう)の死んだ日』1928年
 051928

[06]『ひまわり』1928年
 061928

[07]『長良川』1936年
 071936

[08]『麥畑』1939年【愛知県美術館「木村定三collection」】
 081939collection

[09]『五色沼』1942年
 091942

[10]『熱海』1948年
 101948

[11]『土饅頭』1954年【愛知県美術館「木村定三collection」】
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[12]『ヤキバノカエリ』1948-55年
 12194855

[13]『雨滴』1961年【愛知県美術館「木村定三collection」】
 131961collection

[14]『瓜』1965年【愛知県美術館「木村定三collection」】
 141965collection

[15]『猫』1965年【愛知県美術館「木村定三collection」】
 151965collection

[16]『坐裸女』1960年
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[17]『百日草』1958年【愛知県美術館「木村定三collection」】
 171958collection

[18]『彼岸花』1959年
 181959

[19]『はぜ紅葉』1965年
 191965

[20]『牡丹』1968年
 201968

[21]『ひがん花』1970年
 211970

[22]『ざくろ』1972年
 221972

[23]『富士山』1956年
 231956

[24]『松並木』1956年
 241956

[25]熊谷守一著『へたも絵のうち』
 25h

■今日最後の話題は、一昨日の10月08日の秋宵の『皆既月食観測会』についてである。
 小生、榊原T君【3-1】が自宅の法信寺境内にて、彼と彼の豊川南部中学時代の同期生の皆さんと『皆既月食観測会』を開催することを先月中旬、Face Bookに掲載されていた彼の記事で知った。
 其処で、何でも好奇心旺盛な小生、榊原君に参加をお願いした処快諾してくれたのである。
 勿論、豊川南部中学の同期生の皆さんの了解を停止条件にお願いしたのであるが、皆さん快諾してくれた由。
 19時半観測startということで、19時15分に彼の自宅境内に到着。
 その日は、小生を含めて10人が集った。
 うち豊川南部中学の同期生が彼を含めて7人、あとはお子さん1人と彼のお寺の檀家で英語の先生1人。
 7人の皆さんは以下の方々である。
 男性陣は、榊原君の他、峰野さんと桃井さん。
 女性陣は、小川さん、加藤さん、高橋さん、松本さん、印宮(いんぐう)さん。
 特に、峯野さんは、写真撮影が趣味ということで、皆既月食の撮影方法を丁寧に教えて下さった。
 写真教室に5年も通われていたというから撮影技術はかなりのものである。
 大変楽しい時間であった。
 皆既月食は6時過ぎから始まった様だが、生憎空は雲に覆われて中々見えなかった。
 しかし、7時半頃から雲間にorange色の満月、まるで卵黄が暗い夜空にポッカリ浮かんだ様に現れた。
 とても綺麗であった。
 300mmの望遠lensで撮影したのが添付写真の[26]~[29]の4枚である。
 皆既月食が終わったのは8時半頃だったろうか‥。
 ご覧の様に、満月も「皆既月食」と「普通の満月」とではこんなに色が違うんですね。

[26]皆既月食最中の月1
 261

[27]同上2
 272

[28]皆既月食終了後の月1
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[29]同上2
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[30]月食を観たり撮影している参加者1
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[31]同上2
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[32]皆既月食観測の合間に榊原君と
 32

 明後日午前2時に家を出発して自家用車にて、出雲大社→松江城跡→小泉八雲記念館→足立美術館→鷺の湯温泉(泊)、備中松山城跡→高梁成羽美術館→備中高松城跡→鳥取砂丘→岩井温泉(泊)、鳥取城址→鳥取市内観光→大阪府豊中市〔愚娘宅〕→帰宅、という二泊三日の旅行に行って来ます。
 したがって、変則的ですが、通常週末から日曜日にかけて配信する【2637の会】《会報》を今日お送りします。

 では、また‥。(了)


2014年10月 4日 (土)

【時習26回3-7の会 0519】~「Paul Krugman著『格差はつくられた(The Conscience of a Liberal)』を読んで」「09月27日:名都美術館『描かれる空間&二人展〔葛皓・赤塚一三〕』展&トヨタ記念館 鞍ヶ池Art Salon『日本の美‥伝統と近代』展を見て」

■皆さん、お変わりありませんでしょうか? 今泉悟です。
 今日も【時習26回3-7の会 0519】をお送りします。

 暦は月が替わり、あと三日(10月08日)で二十四節気でいう『寒露』。
 朝晩は時折肌寒さを感じる様になりました。
 日中は気持ち良い涼風に秋の到来を感じる今日この頃です。
 小生、心地良い秋風を肌に感じて名句を思い出しました‥

 石山の 石より白し 秋の風  芭蕉

 この句は、松尾芭蕉の『奥の細道』「22.小松 那谷寺(なたでら)」にある。
 芭蕉が那谷寺を訪れ、境内の一角の「奇岩 遊仙境」に臨み詠んだ句である。
 解釈は、昔から、この石山の石は、「近江〔大津〕/石山寺」の説と、「那谷寺」の説があり、前者〔近江 石山の石〕が定説とされている。

 定説〔近江 石山寺の石〕で訳すと‥
 ※ 此処那谷寺 遊仙境をの石は、(近江)石山寺の石よりも白いと言われる。
 でも、今吹いている秋風は、この那谷寺の石山よりも更に一層白く感じられるよ‥

 那谷寺 石山の石の説で訳すと‥
 ※ この那谷寺の石山の石は大変白い。
 でも、今吹いている秋風は、それよりも更に白く感じられる‥

 又、この句は「『白し』『秋』の風」とあるが、昔から「白」=「秋」と言われていることを掛けてもいる。
 文人北原白秋の「白秋」だ。
 昔から中国の四元論に拠れば、東から時計回り(東→南→西→北)に、「青龍〔青〕→朱雀〔赤〕→白虎〔白〕→玄武〔黒〕」=「青春→朱夏→白秋→玄冬」である。
 以上は、余談‥‥^^;

■さて、今日は先ず初めに、前《会報》にてupを取り止めた、Paul Krugman著『格差はつくられた(The Conscience of a Liberal)』についてをご紹介する。

[00]Paul Krugman(1953- )
 Paul_krugman1953

[01]Paul Krugman著『格差はつくられた(The Conscience of a Liberal)』
 01paul_krugmanthe_conscience_of_a_l

 先ず本書のIndexをお示しし乍らsummaryをご紹介する。
 本書は、原書が上梓されたのが2007年。
 まだオバマ大統領が誕生する前のことである。
 本書「Paul Krugman著『格差はつくられた(The Conscience of a Liberal)』」は、題名をご覧の通り、和訳した原題は『liberal(派)の良心』。
 そして、訳者が敢えて原題を『格差はつくられた』と題したのは、「〔【小生補足】‥『保守派movement』という‥〕少数派の代弁者に過ぎない共和党が、平等な中流社会を壊して格差社会を築き上げた」と本書の帯に書かれている様に‥米国の『格差社会』は正に人為的な所産であったと喝破する。
 しかも何故「少数派の代弁者に過ぎない共和党=『保守派movement』一派が格差社会を築き上げたか?」を明快に説明してくれている。
 それは、レーガン(Reagan)大統領(任1981-89)が提唱したレーガノミックス(Reaganomics)以降、『保守派movement』一派は、社会の中下位層の白人有権者に根強く残る【=人種差別=】意識に言葉巧みに訴えかけ、思惑通りに富裕層の大幅減税を実現したことがその大きな第一歩であった。
 本書で著者Krugmanが、端的に米国の格差社会へ到った変遷について説明してくれている。

【=第一章/あの時代の追憶=】
 私(Krugman)が生まれたのは1953年。〔中略〕
 いま思い起こせば、私の若き日の政治経済状況は、米国の歴史の中では例外的な一時代であり、「失われた楽園」であっと言っても過言ではないだろう。
 戦後の米国は、何にもまして『中産階級の社会』であった。
 第二次世界大戦の開始と共に始まった賃金の高騰は、私の両親を含めて、何千万という米国人を都市のslumや地方の貧困から救い、持家や、それ迄になかった快適な生活を享受させることを可能にした。
 それに対し(税率のupにより)富裕層は後退を余儀なくされていた。
 富裕層は、少数であったし、中産階級と比べて極めて裕福という訳ではなかった。
 貧困層は、富裕層より(数は)多かったが、それでもまだ相対的には少数であった。
 だから米国経済には驚く程の均質性が生まれ、殆どの米国人は似た様な生活を送り、物質的にも非常に恵まれていたと言える。
 経済が平等であったことに加えて、政治も穏健であった。
 恒にではないとしても、外交や国内政策の多くの分野で民主党と共和党の間には広いconsensusが存在していた。〔後略〕

【=第二章/長期の金ピカ時代=】
 南北戦争(American Civil War(1861-65年))終結後の1870年代以降、米国政治は、共和党が富豪と大企業と結び支配し続けた。
 では何故、大富豪の金ピカ時代(1865~93年)が長期間(=28年間)続くことが可能であったのか? それは‥‥

 先ず、当時米国の労働者の多くは事実上、公民権を奪われていたのである。即ち‥
 ①1910年に於いて、約14%の成人男性は、米国市民権を持っていない移民で、投票権を有していなかった。
 ②南部の黒人たちも、ジム・クロウ※と呼ばれる黒人差別政策に拠って公民権を剥奪されていた。
 ①移民+②黒人、双方合わせて全米国民の25%を占めていた。
 彼等(①+②)は最貧困層。
 且つ、参政権がなかったのである。〔P.28〕
 ※ ジム・クロウ法(Jim Crow law):1876~1964年、米国南部11州に存在した、黒人を中心に有色人種に対する、一般公共施設の利用を禁止制限した州法の総称。

 そして、金ピカ時代の様な状況を一変させたのが、(1929年10月の)大恐慌であった。
 その大恐慌への経済対策として第32代大統領フランクリン・D.・ルーズベルト(Franklin Delano Roosevelt(1882-1945.04.12(任1933-45))が打ち出したのが『ニューディール(New Deal)政策』である。
 Krugman氏は言う。
「遂に、真にliberalな制度を創設する政治的な志とleadershipの双方が米国に誕生する。
 Roosevelt大統領は、適時に於ける適材であった。
 彼のleadershipの下、米国社会は良い方向に向かって質的に大きく変化したのである」。〔P.33〕

【=第三章/大圧縮〔The Great Compression〕時代=】
 富裕層の富の急激な減退は、大体の場合一つのことで説明できる。
 つまり『税金』である。
 1920年代、富裕層にとっての税金は重大なことではなかった。
 最高所得税率はたったの24%。
 又最も広大な不動産に対する相続税もたった20%。
 お金持ちの名家は資産を守るのにそれ程苦労しなかった。
 とは言え、New Deal政策が開始されると〔中略〕今日の水準と比較して(かなり)高い税金を払うことになった。
 最高所得税率〔cf:現在=35%〕は、Roosevelt大統領時代、第一期63%→第二期79%へと急上昇。
 冷戦下の1950年代の半ばには、米国はその戦費調達の為、最高税率は91%に迄跳ね上がっている。
 〔【小生補足】当時の大統領は、共和党のドワイト・D.・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower(1890-1969(任:1953.01.20-61.01.20)))‥〕
 更に、法人税〔=企業収益に対する連邦税〕も、1929年14%→1955年45%以上に迄上昇。
 そしてもう一つ、富裕層はその資産を相続させることが益々困難となっていった。即ち‥
 最高不動産税は、20%→45%→60%→70%→77%に迄上昇し続けたのである。
 その結果もあって、富の集中がかなり弱まった。
 (大恐慌直前の)1929年、最も裕福だった米国人の「0.1%が国の富の20%以上を所有」が、1950年代半ばには10%に迄下落。
 つまり、〔中略〕『New Deal政策』が、富裕層の資産の多くを税金で持って行って仕舞ったのである。
 Roosevelt大統領が、彼の階層の人々から裏切り者と見られたのも不思議でない。〔P.39〕

【小生補足】勿論、この様にdrasticな富裕層への増税を可能為らしめたのは、第二次世界大戦~米ソ冷戦という戦時下に米国が置かれていたことが大きい。
 大幅な税率upを実現可能にさせたのは、戦時下(=非常時)という特異なsituationが『New Deal政策』をして議会・国民への説得力を持っていたからである。

【=第四章/福祉国家の政治=】
〔前略〕要するに1948~70年代のある時点迄、民主党も共和党も「大圧縮」時代に起こった変化を受け入れていたと言える。
 New Dealが、超党派のconsensusをかなり築いたと言えるだろう。
 最高所得者の富を制限した重い累進課税に対し、富裕層は政治的にあまりに弱過ぎて抵抗出来なかった。〔中略〕
 1960年代とは、経済の全てが巧くいった時代であったが、米国の民主主義にとっては全てが巧く行かなかった様に見えた時代でもあったのだ。〔P.58〕

【=第五章/1960年代 騒然の中の繁栄=】
「保守派movement」支配の種は1960年代に蒔かれていた。〔中略〕(具体的には‥)
 共和党が60年代の新しい文化に対し国民が描いていた敵意や恐怖を利用して、如何に選挙に勝つかということを学んだのである。
 共和党は黒人解放運動や公民権運動に対する白人の反発を利用することを学んだ。
 そのことに拠って「保守派movement」はついに政権を奪取し、議会を支配することが出来る様になったのである。

【小生補足】『New Deal』はある意味Populistの運動であり、黒人を差別から守る「公民権運動」へと進展していった。
 Rooseveltのあとを受けたトルーマン(Truman)大統領(1884-1972(任1945-53))は1947年公民権に関する委員会を設置。
 黒人を差別から守る法律を提言する様に指示。
 これにより北部諸州の黒人票を取り込むことに成功したTrumanは予想に反し大統領選に再選を果たした。
 政治的打算もあったが、第二次世界大戦での黒人兵士の働きや、ドイツのNazismの残虐さが周知の事実になると、あからさまな人種差別が出来なくなった。
 しかし、「公民権運動」が米国社会に受け入れられる様になるには、オバマが大統領に選出される迄待たねばならなかった。
 即ち、ジョンソン(Lyndon Baines Johnson(1908-1973(任1963.11.22-1969.01.20)))大統領は、1964年7月2日「公民権法」に署名。
 長年南部で続いてきた人種差別制度は全て連邦法で禁止され、公共施設での人種差別は全て撤廃された。
 しかし、Georgia、Alabama、Mississippi等 南部諸州の白人層には「人種差別」が根強く残っていた。

 1960年代、多くの白人たちは公民権の推進を憂慮すべき非常に恐ろしいものだと受け止めていたのである。
 それはかなりの米国人が、まだ新しい事態に対応出来ない人種隔離主義者であったからだ。
 あからさまな人種隔離主義を唱えた殆どは南部州の人々であった。〔P.64〕

 1964年Mississippi州Philadelphiaで公民権運動家3人が殺害された事件を取り上げたnon-fiction映画『Mississippi Burning』([02])を見ると納得出来る。
 此処に出て来るPhiladelphiaは、有名なペンシルベニア州(Commonwealth of Pennsylvania)州都ではなく、Mississippi州ネショバ郡(Neshoba County)郡庁所在地のPhiladelphia(‥人口7千人‥)である。〔為念〕
 南部諸州では、黒色系米国人は「奴隷」あがりの、白人とは異質の生き物だという「人種差別」意識が公然と残されていた。

[02]DVD『ミシシッピ・バーニング(Mississippi Burning)』1988年
 02dvdmississippi_burning1988

 北部でも〔中略〕「公民権運動」が齎していた変化に対する恐怖は隠し様がなかった。〔P.64〕
 1966年にCalifornia州知事になったReaganは『保守派movement』の先駆けの一人であった。
 彼は「福祉只乗り」に怒っていた白人有権者の代表であり、その為の道具でもあった。〔P.69〕
 福祉予算は、1966年には10年前の2倍に、更に1970年代初めには「福祉の爆発」で再度2倍以上に急上昇した。
 福祉を受ける様になった多くは黒人であった。
 換言すると、福祉の増大は公民権運動の副産物でもあった。〔P.70〕

 ※ 1960年代が生んだもの ※
 人種問題で『New Deal』を支持して来た諸勢力が分裂したことが問題であった。〔中略〕
 この人種に纏わる政治の変化が、「保守派movement」を復活させた。
「保守派movement」の最終目標は『New Deal』の成果の逆転であり、全国の選挙で勝利することであった。
 中流・低所得層の米国人でなく、少数のeliteの利益に有利に働く政策しか支持しないのにも拘らず、全国的に勝利しようと目論んだのである。〔P.75-76〕

【=第六章/「保守派movement」=】
 1960年代以降、「保守派movement」は、反組合主義に拠りbusiness界で最初の強固な支持基盤を得ることになる。
 組合に反感を持っていた経営者達がこのmovementに政治献金を援助していったからである。〔P.84〕
 大衆・経済界からの支持に続き、知識人の支持も得る様になった。
 その一つがKeynes経済学に対抗したミルトン・フリードマン(Milton Friedman(1912-2006))に代表されるChicago派economist達である。
 彼等は自由市場主義が如何に魅力的かを訴え、『New Deal』だけでなく『進歩(主義)の時代(The Progressive Era)※』の改革迄否定する様になった。〔P.86〕
 ※進歩(主義)の時代:1890年代~1920年代にかけて社会と政治の改革が著しく進んだ時代

【=第七章/大格差時代=】
 1970年代に入ると、米国経済は第二次産業が没落していくと共に労働組合の力も低下。
 一方、globalizationの時流に乗った大企業のCEOの報酬が際限なく上昇していった。
 これに拠り、米国民の一人当たり年収は増加した。
 しかしこれは、最上位の大富裕層の所得が増えただけであって、中堅層は現状維持、若しくは逆に所得の減少を余儀なくされていった。
 因みに、連邦準備制度理事会(FRB)の調査に拠ると、1970年代、102の大企業のCEOの給与は、今日のドル価値で約120万ドル。
 この水準は1930年代のCEOより少し多く、当時のfull-time労働者平均年収の「たった」40倍多かっただけである。
 これが2000年に入ると、CEOの平均報酬は900万ドル、実に労働者平均年収の367倍に跳ね上がった。〔P.102〕

【=第八章/格差拡大の政治力学=】
 ロナルド・ウィルソン・レーガン(Ronald Wilson Reagan(1911-2004(任1981.01.20-1989.01.20))が「保守派movement」の最初の大統領だった。〔P.108〕
「保守派movement」の躍進は、「人種問題」が決定的であったのである。
 これ等を使い、極右的な立場を選挙に勝利出来る戦略に変えることが出来た。
 その結果、巨額な資金が流れ込み、「保守派movement」の幾つもの「右派による巨大な陰謀」と我々が呼んでいる組織が誕生した。〔P.116〕

【=第九章/大量破壊兵器=】
 レーガン(Reagan)は1980年代の大統領選をMississippi州、Philadelphia近くの集会所で、州政府の権限についての演説で始めている。
 1964年、そのPhiladelphia近辺の町で3人の公民権運動家が殺害されていた。※
 ※【小生補足】この事件を取り上げた映画が先述した[02]DVD『ミシシッピ・バーニング(Mississippi Burning)』である。
 1988年の作品だが、それはReagan大統領施政下であったことが大変興味深い。

 其処でReaganが演説した暗黙のmessageを理解出来なかった者はいなかった。〔中略〕〔P.119〕
 米国が長年、他の先進諸国と比較して例外的である最大の理由は多分『人種的問題』にあるとHarvard大学の3人のeconomistは指摘している。〔中略〕〔P.120〕

【=第十章/平等で格差のない政治=】〔略〕
【=第十一章/緊急を要する医療保険問題=】〔略〕
【=第十二章/格差社会に立ち向かう=】〔略〕
【=第十三章/liberal派の良心=】〔略〕

【小生comment】
 著者Krugman氏が本書にて主張していることは、「『格差』は人為的につくられたものだ。
 だからこそ今からでも遅くない。
 叡智で以て格差を是正していくべきだということである。
 そのepoch-makingがオバマ大統領候補の選出〔‥【小生補足】本書原書の脱稿時点ではオバマは大統領就任前‥〕である。
「保守派movement」の金権工作も、最早(もはや)有権者に対する説得力を失っている。
 何となれば、彼等の陰謀も、これだけ格差が広がって仕舞った現代社会では嘘を覆い隠せくなっているからだ。
 米国民の「格差の一層の拡大」と、「人種差別問題への抵抗感が薄れて来た」という認識が、白人中下位層の「保守派movement」からの離反を招いた。
 更には、趨勢として、Hispanicをはじめとする非白人人口増が一層顕著になりつつある、からである。
 
 ※ ※ ※ ※ ※
 
 社会が健全に機能するには、健全な多数を占める中堅層に拠る、民主的な政治手法で規則・規範が決定されることが重要である。
 しかし、健全な多数を占める中堅層が、富の極端な配分に拠って没落しつつあるのが現状である。
 これが「〔所得&資産〕格差の拡大」である。
 この現象をこの儘放置して置くと、社会の貧困化が深刻化し治安は悪化する。
 延いては、政治は堕落し、国家財政破綻の懸念も大きくなる。
 国家財政が破綻すると、通貨は暴落し、資産を持たない多くの国民が貧困に喘ぐことになる。
 格差の拡大は、米国程極端ではないにしても、我国日本でも同様に社会問題化しつつある。
 矢張り、これ以上の格差拡大を防ぐには、所得税や資産税〔=不動産税や相続税〕について、富裕層の税率を大幅に引き上げざるを得ないだろう。
 富の富裕層への偏在を是正することが、世の中の格差拡大の是正と日本の国家財政健全化を具現化する現状に於ける最適解であると思料する。

■続いての話題である。
 小生、去る09月27日、私用で名古屋へ行く用事があったので、これからご紹介する2つの美術館と、次号《会報》にてご紹介を予定している岐阜県美術館の、全部で3つの美術館を訪れた。
※ 先ず最初は、名都美術館『描かれる空間&二人展〔葛皓・赤塚一三〕』展についてである。

 本展は、名都美術館所蔵collection。
 題材の背景に生まれる空間をkey wordにした展覧会で、その名も『描かれる空間』。
 本展展示作品は、後期期間のみの全22点。
 伊藤小坡、鏑木清方、伊東深水という上村松園を除く日本画の美人画4巨匠のうちの3人の作品([04]~[07])からご覧に入れたい。
 何れの作品も、画家の作風の違いはあれど、気品ある美人画はずっと見続けていても飽きが来ないから不思議である。
 田渕俊夫の『越中冬景』は本展前期展示なのでお目に掛かれなかった作品だが、氏の本展展示作品の大作『すぐろ野』1976年 に感じが似ていたのでご紹介する。
 徳岡神泉の『茄子』、前田青邨『山雀』はいずれも典型的な上品で洗練された花鳥風月画である。
 又、堀文子『紫の雨』は、彼女のoriginalityが面目躍如の傑作である。
 お馴染の村上華岳『観音立像』が、本展leafletの絵画として紹介されている、山中雪人(ゆきと)『初転法輪座像』と並んで展示されていた。
 尚、併設展示として、葛皓((かつら ひろし)1947- )&赤塚一三((あかつか かずみ)1956- )の二人展が本美術館2階で開催されていた。
 作風が全く異なる二人の作品も大変興味深かった〔二人の作品は、[03]本展leaflet裏面(右側)の下欄参照〕。

[03]本展leaflet
 03leaflet

[04]伊藤小坡(1877-1968)『納涼』制作年不詳
 0418771968

[05]伊東深水(1898-1972)『立秋』1960年
 05189819721960

[06]同『晩秋』1962年
 061962

[07]鏑木清方(1878-1972)『初茸』1950年頃
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[08]田渕俊夫(1941- )『越中冬景』1980年
 081941_1980

[09]徳岡神泉(1896-1972)『茄子』制作年不詳
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[10]堀文子(1918- )『紫の雨』1965年
 101918_1965

[11]前田青邨(1885-1977)『山雀(ヤマガラ)』1965-77年
 1118851977196577

[12]村上華岳(1888-1939)『観音立像』1928年頃
 12188819391928

[13]山中雪人(1920-2003)『初転法輪座像 サ―ルナ―ト(印度)』制作年不詳
 1319202003

※ 続いては、トヨタ記念館 鞍ヶ池Art Salon『日本の美‥伝統と近代』展についてである。

 本展のthemeについて、leafletに記されている言葉を引用してご紹介する。

 明治維新以降、日本美術界は、海外からの大波に晒されて来た。
 そうした状況下、日本画家達は、改めて日本画と向き合い、一方で時代に即した新たな日本画の創造を目指した。
 それは日本古来の伝統と美意識に根差し乍ら、西洋絵画の手法を取り込もうとする動きであった。
 時代の変化と共に新たな可能性を模索続ける姿勢〔‥これが日本画家達の潮流‥〕が今日迄受け継がれて来ている。
 本展は本館所蔵品の中から代表的な作品を23点紹介している。
 これ等23点は傑作揃いであり、観る者に感動を与えてくれる。
 以下に展示作品23点を列挙する。
 いつもの様にenquete(=questionnaire)を書いて提出して、展示作品2点のpost cardを頂戴した〔<03><07>〕。

[14]本展leaflet
 14leaflet

 裏面(右側)左上:<04>上村松園(1875-1949)『つれづれ』1940年頃
 同(同)左中:<01>川合玉堂(1873-1957)『深山抄秋』1930年頃

<01>川合玉堂(1873-1957)『深山抄秋』1930年頃
<02>安田靫彦(1884-1978)『豊公像』1956年
[15]<03>小林古径(1883-1957)『菊花白猫』1926年
 1503188319571926

<04>上村松園(1875-1949)『つれづれ』1940年頃
<05>福田平八郎(1892-1974)『筍』1952年
<06>同『鮎』1969年
[16]<07> 同『雉』1948年
 16071948

<08>徳岡神泉(1896-1972)『畠』1952年
<09>上村松篁(1902-2001)『燦』1989年
<10>吉岡堅二(1906-1990)『薔薇』1986年
<11>堀文子(1918- )『空に棲む鳥』2004年
<12>加藤栄三(1906-1972)『千鳥』1956年
<13>髙山辰雄(1912-2007)『朝』1996年
<14>奥田元宋(1912-2003)『遠山白雪』1994年
<15>中村正義(1924-1977)『家』1960年頃
<16>片岡球子(1905-2008)『富士』1985年頃
<17>前田青邨(1885-1977)『紅白梅』1970年頃
<18>山本丘人(1900-1986)『ある港』1960年
<19>吉田善彦(1912-2001)『霧氷』1979年
<20>堀越保二(1939- )『夏』1983年
<21>田渕俊夫(1941- )『みみなし』1976年
<22>上村淳之(1933- )『春宵』1987年
<23>松尾敏男(1926- )『富貴花(ボタン)』1982年

【小生comment】
 本galleryの学芸員の方は、相当levelの高い方だろうといつも感心し乍ら「出品目録」の解説を読む。
 添付写真の絵の解説をお読みになれば、解説者のlevelの高さを納得頂けると思うので引用する。

[15]<3>小林古径『菊花白猫』
 大正期、小林古径は一年に亘り欧州の美術を巡覧。
 西洋流の写実にも磨きがかかる。
 既に日本画壇で重きを成し乍ら、洋画の手法も抵抗なく導入。
 彼はしばしば身近な動物を凝視し乍ら描いた。
 本作の菊花の赤に対比させた白猫も、背景を排した静謐な空間で幻想的な存在感をたたえている。

[16]<7>福田平八郎『雉』
 身のまわりの風物を、純粋で造形的な視線で見つめ続けた福田。
 やがて自然の中にかたちと色彩の美を見出し、簡略化された構図に日本人として「自然の真髄を描くこと」を極めていく。
 前の2点に先立つ本作品は、簡略化に到る過渡期のもの。
 落葉の森で羽を休める雉の姿が愛らしい。

 ところで、Enqueteでは必ず、「今回の展示作品の中で一番気に入った絵は何か」と尋ねている。
 小生、今回は<15>中村正義『家』にしたが、<16>片岡球子『富士』と甲乙つけ難かった。
 実際にご覧頂くことが出来なく残念である。
 ただ、鞍ヶ池Art Salonは、豊田市内の鞍ヶ池公園の一角にあるトヨタ記念館の中にあり、拝観無料。
 お近くの方は是非一度足を運んでみて下さい。
 きっと感動しますよ。

【後記】冒頭の芭蕉の俳句に出て来る「白秋」とは好対照なのが、今日最後にご紹介する俳句に出て来る「夜半(よわ)の秋」。
 男は『大器晩成』が様(さま)になる。
 男というものは、まだまだ‥
「夜更けの秋〔‥年を取ってから=人生も仕上げに近づく頃‥〕」に
「男生かす〔‥雄々(おお)しく立派に事を成す‥〕」
 ‥ものだ。
 これ即ち、『大器晩成』という。
 小生も、かくありたい!^^;

 まだ男 生かす晩成 夜半の秋  雨宮抱星

 まだまだ、男として半人前だ!
 一人前目指して、ガンバルゾーッ! (^^;;

 では、また‥。(了)

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