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2015年2月の3件の記事

2015年2月28日 (土)

【時習26回3-7の会0537】~「02月14日:豊橋市美術博物館『ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)展』展を見て」「02月18日:日本ガイシホール『KAZUMASA ODA TOUR 2014~15~本日 小田和正~』を聴いて&見て」「浜田宏一&安達誠司著『世界が日本経済をうらやむ日』を読んで」

■ 皆さん、二週間ぶりに《会報》【0547】号をお送りします。
 今日お送りする《会報》は先週末の02月21日(土)か22日(日)にお届けする予定で20日(木)迄に準備して来たものです。
 処が実は、父が突然ですが21日(土)20時24分亡くなりました。大正13年09月07日生まれの享年満90歳05ヶ月の大往生でした。
 22日(日)通夜式、23(月)葬儀・告別式を執り行ない、今日漸く一段落したので《会報》【0537】号を配信出来ました。
 父は県立豊丘高校教職を定年退職して30年経っていること、小生も前職の銀行を離れて8年になり、夫々義理を欠くことも殆どなくなったので今回は「家族葬」にしました。
 と言うことで、父が亡くなったことは、【2637の会】members の皆さんにも今日初めてお伝えするものです。
 家族葬と言っても、父の兄弟だけで8人いるので参列者は通夜式、葬儀・告別式夫々60人近くになりました。

 この数日間、人の命の儚さを改めて噛み締めました。
 これからも限られた残りの人生を元気に明るく悔いなく生きて行ければと思います。【2637の会】members の皆さんと共に!^^;
 以下は、葬儀の日に浮かんだ拙句です。

 春めく日
  父が向かうは
  「亡母(=はは)」の許
                悟空

 それでは、以下の《会報》をご高覧下さい。
 本《会報》は、当初予定では一週間程迄の02月22日(日)に配信する予定で書き進めて来たものです。

 ※ ※ ※ ※ ※ 

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。今日も《会報》【0537】号をお届けします。
 小生、21日(土)は、日帰りで車を東京まで飛ばして5つの美術館を巡って来ました。
 都内の東京都美術館(上野)、三菱一号館美術館(丸の内)、国立新美術館(乃木坂)と、三浦郡葉山町にある神奈川県立近代美術館葉山と山口蓬春記念館です。
 この模様は、次回以降の《会報》にて複数回に亘って詳報をお伝えする予定ですのでお楽しみに!
 さて、時節は一昨々日02月19日が二十四節気でいう『雨水』。
 前《会報》でお伝えした様に、02月11日の『鬼祭』が終わり、17日(火)に降ったのは「雪」ではなく「雨」だった。
 早く本格的な「春」が遣って来て欲しいものである。

 最近のとある日の昼近く、拙宅の狭い庭での出来事‥。
 二羽のヒヨドリ(鵯)が拙宅の狭い庭に遣って来た。
 一羽は地面に舞い降りて落ちていたキンカンの実をかなり長い時間啄(つい)ばんでいた。
 そして、もう一羽は枝に止まりその「花の如く」華やかな比較的大きな鳴き方で冷たい寒気に春到来を告げていた。

 薄氷(うすごおり) ひよどり花のごとく啼く 飯田龍太

[01]ヒヨドリ
 01

 ※ ※ ※ ※ ※

 最近、書斎というには烏滸(おこ)がましい小生のちっぽけな屋根裏部屋にある本棚にあった『新川和江(1929.04.22- )詩集』をふと手に取ってみた。
 詠んでみて中々いい詩が沢山あったので数年以上前に買い置いてあったものである。
 今日は、本《会報》の巻頭と末尾で一つずつご紹介してみたい。

 ※ ※ ※ ※ ※

  ことしの花の…   新川和江

 ことしの花の下にいて
 去年のさくら おととしのさくら
 いつの世かさえさだかではない
 はるかな春の
 おとことおんなに
 散りかかっていた花びらを思う

 そのあと
 ふたりはどうしたか
 父の父の 祖父だったかもしれない
 母の母の 祖母だったかもしれない
 そのふたり

 花はいくど咲き いくど散ったろう
 ひとたちはいくど会い
 そうしていくど別れたろう
 うららかに陽は照りながら
 ひいやりとなぜか冷たい花の下に
 ことしのひとと共にいて

 ※ ※ ※ ※ ※

【小生comment】
 桜花はまだだが、梅花はもう開花時期で、なかには満開のものもある。
 この詩は、詠み方に拠っては、色々な情況を思い起させてくれる詩。
 春の明るい陽気が二人の男女を包み込むかと思いきや「うららかに陽は照り」乍ら「ひいやりとなぜか冷たい花の下に」とある。
 この最後のphraseは詠み手の想像を逞しくしてくれる。^^;

■今日最初の話題は、現在、豊橋市美術博物館にて開催中の『ジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)展』展を02月14日に見て来たのでその模様からお伝えしたい。
 本展は、国内屈指のRouault(1871.05.27-1958.02.13) collectionを誇るPanasonic 汐留 Museum 所蔵作品を紹介している。
 パナソニック汐留ミュージアム(Panasonic Shiodome Museum Rouault Gallery)は、2003年04月に開館。
 1997年より収集を開始したルオー(Rouault)の作品数は2012年04月時点で230点を数える。
 彼の作風は、皆さんもよくご存知の通り、骨太の黒色の輪郭線と鮮烈な色彩が特徴。
 1871年Parisに生まれたRouaultは、ステンドグラス(stained glass)職人として修行した後、画家を目指してFrance国立美術学校に入学。
 ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau(1826-98))の教室で学んだ。
『ゲッセマ二(Gethemani)』(添付写真[04])はその時代の作品で、Moreauの影響が色濃く出ている。
 敬虔なCatholic教徒であった彼は、『Christを中心とした宗教的題材』が多いが、circusの『道化師』・『裁判官』・『市井の人々』を扱った作品も多い。
 以下、本展の中から幾つかの作品をご紹介する。

[02]豊橋市美術博物館 入口の本展看板
 02

[03]本展leaflet/写真の絵はRouault『マドレーヌ(Madeleine)』1956年
 03leafletrouaultmadeleine1956

[04]Rouault『ゲッセマ二(Gethemani)』1892年
 04rouaultgethemani1892

[05]同『法廷(Le Tribunal)』1909年
 05le_tribunal1909

[06]同『道化師(Clown)』1909年
 06clown1909

[07]同『女曲馬師(人形の顔)(Ecuyere de cirque(Tete de poupee))』1925年頃
 07ecuyere_de_cirquetete_de_poupee19

[08]同『道化師(Pierrot)』1937or38年
 08pierrot1937or38

[09]同『冬 人物のいる風景(Hiver Paysage anime)』制作年不詳
 09_hiver_paysage_anime

[10]同『キリストと子供(Christ et enfant)』制作年不詳
 10christ_et_enfant

[11]同『避難する人達(エクソドス)(Exode La route est longue)』1948年
 11exode_la_route_est_longue1948

[12]同『マドレーヌ(Madeleine)』1956年
 12madeleine1956

【小生comment】
 従前拠り、『骨太』『濃い色』『暗っぽい』個性的な絵画というのが小生のRouault作品へのimageである。
 Rouaultの作品は、好き嫌いは兎も角、個性豊かであり、見る者に強い印象を与える絵である。

■続いては、02月18日に日本ガイシホールにて開催された『小田和正コンサート』を聴いて来たのでその模様をお伝えしたい。
 本件は、十日程前、大学弓道部時代の同期で主将だった中川君から、小田和正のコンサートに誘われたからである。
 もう少し正確に言うと、彼から大学弓道部時代の同期宛に「02月18日、日本ガイシホールでの小田和正のticketが一枚ある。誰か一緒に行ってくれないか」とmailで相談があり、その日一緒に聴いてもいいヨと返事をしたのが小生だけだったという次第である。
 小田和正(‥以下、talentということで敬称略でお伝えする‥)は、Pop. singer song writerとしては小生好きなartistの一人である。
 前から一度は聴いてみたいと思っていたこともあり、中川君のofferに応えたことが実現して嬉しかった。

 昔、笠寺のrainbow hallと呼ばれていた「日本ガイシホール」のmusic concert の収容人数は(固定席5千人+可動&移動席5千人=)1万人と聞いている。
 小田和正の名古屋コンサートは、今回02月17日(火)と18(水)の両日なので、2日間の観客総数は2万人。
 今尚、凄い人気である。
 因みに小田和正の略歴は、昭和22年09月20日、横浜市金沢区生まれ。
 聖光学園中学・高校→東北大学工学部建築学科→早稲田大学大学院理工学科(1971年入学→1976年)修了。
 オフコースは1969~1989年にかけて活動。
 結成10年目の1979年「さよなら」が大hitして以降、「Yes-No(1980年)」他人気曲を多く上梓していった。
 小田和正の声の音域は、男性として極めて高い。
 現在満67歳であのhigh toneを歌い続けても声帯をつぶさないのには驚きである。
 彼の人気曲は、melody、歌詞、そして彼の歌声が三拍子揃っていて古さを感じさせない。
 Concertに来てみて、彼の人気が衰えない理由が納得できた。
 彼の歌詞は、恋心を単刀直入に歌う平易であり乍ら品があっていい。

 1991年の人気TV drama「東京ラブストーリー」のtheme songとして一世を風靡した「ラブストーリーは突然に」から歌詞を一部引用する。

  ※ ※ ※

  今 君の心が動いた 言葉止めて 肩を寄せて
  僕は忘れないこの日を 君を誰にも渡さない

  君のためにつばさになる 君を守りつづける
  やわらかく 君をつつむ あの風になる
  あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら
  僕らは いつまでも 見知らぬ二人のまま

  誰かが甘く誘う言葉に 心揺れたりしないで
  君をつつむ あの風になる
  あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら
  僕らは いつまでも 見知らぬ二人のまま

  ※ ※ ※

[13]小田和正の新曲album『小田日和』leaflet
 13albumleaflet

[14]JR笠寺駅から小田和正コンサート会場の日本ガイシホールへ向かう人達
 14jr

【小生comment】
 人との出会いは、この歌詞「あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら / 僕らは いつまでも 見知らぬ二人の儘」の通りだ。
 彼の美声とguitarやukuleleを弾いてのperformanceを見乍ら、聴衆は、彼の歌う歌に酔っていた。
 彼が歌う歌詞(=『詩』)が伝える情景を、甘く切ない、或いはほろ苦い、そして懐かしい各人各様の思い出と重ね合わせて、共感をもって口遊(ずさ)んでいた。
 聴衆は、彼と同じ世代の団塊の世代の人達が多かった。
 18時半に開演され、encoreが終わったのが21時過ぎであった。
 小生彼の作品に詳しくないが、最近の曲もなかなかの名曲だと思った。

■今日最後の話題は、最近読んだ、浜田宏一&安達誠司著『世界が日本経済をうらやむ日』についてである。
 これも二十四節気の『雨水』と同じ日の02月19日の出来事‥。
 日経平均株価が15年振り(←2007年7月の高値18,261円を超えて)19日終値18,264円の高値に上昇した。
 翌20日の日経新聞朝刊では次の様に報じた。
「株式市場が企業の収益成長を織り込み始めた。〔中略〕
 長期のデフレと超円高、金融危機に翻弄された日本企業は地道な構造改革で「稼ぐ力」を取り戻した。
 豊富な手元資金を成長投資や賃金、配当などに使い始め、景気底上げの起点になりつつある〔後略〕」と。

 先ず、本著者の一人 浜田宏一氏の略歴から‥
 1936年生まれ。内閣官房参与。イェ―ル大学、東京大学名誉教授。経済学博士。
 1954年東京大学法学部入学
 1957年司法試験第二次試験合格
 1958年同大学経済学部に学士入学
 1965年経済学部Ph.D.取得(イェ―ル大学)→同大学助手、助教授を経て‥
 1981年東京大学経済学部教授
 1986年イェ―ル大学経済学部教授
 2001~3年内閣府経済社会総合研究所長/法と経済学会 初代会長
 『アメリカは日本経済の復活を知っている』『アベノミクスとTPPがつくる日本』等著書多数
 尚、本書は共著となっているが、全8章のうち、第7章が安達誠司氏との対談形式になっている他は全ては浜田氏の著作である(為念)。

 因みに、上記著書『アメリカは日本経済の復活を知っている』については、今から丁度2年前に本《会報》でご紹介済であり、以下のURLをご覧戴きたい。
 2013年02月23日付【時習26回3-7の会 0434】~「浜田宏一著『アメリカは日本経済の復活を知っている』を読んで」他
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-cdd3.html ←此処をclickして下さい

 2年前の《会報》【0434】号では、日経平均株価11,000円台を回復、為替1米ドル=93年迄円安に‥とある。
 その時点から比べれば、株価は7千円上昇、為替は2月20日現在1米ドル118年だから25円の円安となっている。

 本書の構成は以下の通り。
 各項目のpointを挟み込んで列挙する。

 第一章/アベノミクスはなぜうまくいったのか

  ・アベノミクスがなぜ効いたかを本当に理解している人は少数派(P.17)
  →日本の生産力(ヒト・モノ)に余力がある場合には、「金融緩和政策」に拠って市場に追加でmoney(カネ)を投入すれば、余っていたヒト・モノを稼働することが可能になる。
   そうすると、日本全体の商品・serviceの供給量が増やせるし、生産と共に利益も増えていく。
   従って、「金融緩和」に拠って、「実質GDP成長率【注1】」を「潜在成長力【注2】」迄回復させることが可能なのである。
   アベノミクスの「金融緩和政策」に拠って、日本経済が短期間で急回復を遂げつつあるのは、こういう理屈通りに現実が動いたからだ。(P.22)

   【注1】実質GDP成長率:"現在の""実際の"経済成長率のこと〔その時の実質GDP成長率を1年継続することで生み出されるGDP〈=消費と投資の合計〉が実質GDPである〕
   【注2】潜在成長力:「国の持つヒト・モノ・カネを総動員して、フル稼働した場合に達成可能な(概念上の)GDP成長率の上限」のこと(P.21)

  ・金融緩和が効かない状況もある(P.23)
  →実質GDP成長率(=実質的な経済成長率)が潜在成長力の天井に行き着くと、日本経済は中・長期的にはそれ以上成長出来なくなる。
   何故なら、その時点で働く意思のある人は目一杯雇用されており、日本の生産資源・設備(モノ)もフル稼働しているからである。
   仮にその時、無理矢理金融緩和政策を行って(=カネを大量投入して)景気を回復させようとしても、実質GDP成長率は上がらず、物価のみが上がって仕舞う。
   〔中略〕モノがカネに比べて不足するからである。(P.23)

  ・「不況には2種類ある」ことを理解しているか(P.24)
  →「日本が本来の底力を発揮出来ない」状態と「日本の底力(潜在成長力=生産能力)が低下している」状態の2種類の不況がある。(P.25)

  ・「金融緩和」「財政政策」と「成長戦略」は全く別物(P.26)
  →「金融緩和」と「財政政策」は理論通り行えば、その効果を遺憾なく発揮できる。
   が、「成長戦略」を成功させるには、政府が官僚その他の抵抗勢力を断固としてはねのける胆力(ガッツ)が必要。(P.27)

  ・景気回復のからくり(p.29)
  →世の中に循環するお金の量が増えていけば、日本全体の経済取引(=売り買い)が活性化され、景気が回復する(=実質GDP成長率が上昇する)のである。(P.32)

  ・「インフレ目標」が最も重要(P.32)

  ・銀行貸出が増えないのになぜ景気が回復したのか(P.35)
  →アベノミクスの発動に拠り、個人や企業の「デフレ予想」は、「今後は緩やかなインフレになる」という「インフレ予想」に大転換した。
   現金や預金の目減りの可能性が生まれたのである。
   その為、個人や企業は溜め込んでいた現金や預金を取り崩す形で、消費や投資を始めたのだ。
   その結果として起こっているのが、現在の「銀行貸出拡大なしの景気回復」なのである。(P.36)

  ・「財政政策」で景気は回復するのか(P.38)
  →「財政政策」に拠って、政府が内需(=公共事業)を増やす一時的な景気回復の効果はある。
   しかし、(政府が財政支出に必要な資金確保の為資金市場からmoneyを吸い上げるので)金利が上昇し、その結果内需減少を招く。
   それと共に、変動相場制の下では、金利が上がった国の通貨に海外からの資金が集まり通貨高(‥日本の金利が上がれば「円高」)になる。
   「円高」になると海外への輸出が減り、外需(=海外からの消費と投資)が減り、日本の景気にminusの影響を与える。(P.40)

  ・「成長戦略」が最も効くタイミングとは(P.41)
  ・「成長戦略」とは「規制緩和政策」である(P.43)
  ・「構造改革至上主義」が日本の不況を長引かせた(P.45)
  ・「実質GDP成長率」を上げることが最優先(P.46)
  ・小泉内閣の構造改革に欠けていたもの(P.48)

 第二章/日本の不況の原因は円高だった
  ・「金融緩和は効かない」は大間違い(P.52)
  ・デフレとは「企業間の値下げ競争」(P.58)
  ・デフレが長引くと企業が弱体化する(P.61)
  ・なぜ日本で円高が定着していたか(P.63)
  ・円高は日本に大きな不利益を与える(P.69)

  ・円高が地方を衰退させてきた(P.70)
  →「円高」は、「輸入品競合産業」に打撃を与えることで、地方の衰退も加速させてきたのである(P.71)

  ・円安が景気を回復させる(P.71)

 第三章/デフレが日本を滅ぼす
  ・デフレになるほど失業者が増える(P.90)

 第四章/なぜ日本の財政赤字はここまで膨らんだのか
  ・財政再建だけでは景気は回復しない(P.108)
  ・世界の投資家は日本の財政赤字を気にしていない(P.121)
  ・税制再建至上主義者の弊害(P.122)

 第五章/なぜこれほど金融緩和が効くのか
  ・金融緩和により円安が生じたのは明らか(P.126)
  ・銀行貸出が増えずとも、景気はよくなる(P.130)
  ・予想インフレ率が上がると、なぜ景気がよくなるのか(P.133)

  ・なぜ株価が上がると総需要が増えるのか(P.139)
  →インフレ予想を踏まえ、株式投資等に資金を振り向ける様になる。
   そして、株への投資を増やす為に投資家が資金を引き出していることは、その取引を媒介する速さ(貨幣の流通速度)が増加し、需要創出の力が増す。
   このことが経済取引の拡大、延いては経済が活性化していくことになる。(P.140)

  ・賃金上昇のカギは「完全失業率の低下」(P.148)
  ・給料はすでに上がり初めている(P.153)

 第六章/「貨幣が経済に効くか否か」には250年の歴史がある

 第七章/「歌舞と為替で稼ぐ」ことは可能なのか‥安達誠司・浜田宏一による対談‥
  ・アメリカに油揚げをさらわれた日本(P.192)
  ・アベノミクスを否定する人が債券市場関係者に多いのはなぜか(P.193)

  ・莫大な利益を得る投資の方法(P.196)
  →ソロスなど、mediaに頻繁に登場するhedge fund managerの多くは「global macro運用」という投資手法用いて収益を上げている。
   この運用方法は、世界の金融市場をmacro経済の見通しに基づいて眺め、その見直しに拠って考えられる価格から、marketが大きくかけ離れた時に集中的に投資するもの。
   典型的なのは、彼(ソロス)が大成功した英国のポンド危機の様な例である。(P.197)

  ・ヘッジファンドの投資戦略(P.199)
  ・投資で勝つ人の特徴とは(P.203)
  ・ソロスは日本の金融緩和が効くことを知っていた(P.205)
  ・株価チャートで儲けることはできるのか(P.208)
  ・儲けるには分散投資がいい?(P.212)
  ・なぜ日本の機関投資家はアベノミクスで株を売ったのか(P.215)
  ・GPIF(年金積立金 管理運用 独立行政法人)と株価との関係(P.219)
  ・マクロ経済学の専門家が殆どいない日本(P.223)
  ・アメリカ人に利益を奪われない為に(P.225)
  ・ソロスは金融政策に呼応した投資をしている(P.226)
  ・為替レートの動きを予想する(P.228)

 終 章/世界が日本をうらやむ日
  ・日本ほどいい国はない(P.234)

[15]浜田宏一&安達誠司『世界が日本経済をうらやむ日』
 15

【小生comment】
 浜田氏の真意を一言すれば、「アベノミクスは成功している/故に、これから日本経済は間違いなく成長していく」と述べている。
 心強い限りである。
 詳細は、是非本書を直接ご一読されたい。
 とても元気が出て来る良書である、と思う。

【後記】本《会報》の巻頭でご紹介した新川和江の詩をもう一つご紹介したい。

   夢のなかで   新川 和江

 夢のなかで
 道を訊かれ 教えた
 そのひとは疎林の下草を踏んで
 わたしの指さすほうへ歩いて行った

 だがその道はまちがっていた
 わたしはそこらをしばなく散策したあとで
 べつの小径を行ったのだが
 そこに朝があったからだ

 そのひとはわたしの夢のなかを
 いまだにさまよいつづけているのであろう
 疎林のむこうには
 どこまでも明けない夜がつづいていて……

 小径のはしにこうして蹲(しゃが)んで
 露に濡れながら少しのあいだ待ってみようか
 ひき返してきて
 夢の奥処(おくが)に荒々しくわたしを攫(さら)って行くかもしれぬ そのひとを

 もはやどの朝にも抜け道のない
 夢の牢に閉じこめて ひそかに末長く苛(さいな)んでやろうか
 わたし自身も踏み入ったことのない
 わたしの闇を歩きつくしてしまった そのひとを

[16]新川和江詩集『わたしを束ねないで』『それから光がきた』
 16

【小生comment】
 夢の中へ閉じ込めた恋人(=男)をを「末長く苛んでやろうか」という女の苛虐性というか、魔性が何とも魅力的な詩である。
 夢を見た女の勝手な想像(=妄想?)の所産なんだろうけど、その主観的な思い込みが魅力的、かつ印象的な作品。^^;;

 では、また‥。

2015年2月14日 (土)

【時習26回3-7の会0536】~「02月07日:高浜市やきものの里かわら美術館『画家の魂・パレットとその作品展~50人の画家の素顔と新たな魅力~』展&一宮市三岸節子記念美術館『吉田博・ふじを~世界を旅した夫婦画家~』展&名都美術館『太陽と月の調べ』展を見て」「吉田ふじを著『朱葉の記』を読んで」「伊集院静著『無頼のススメ』を読んで」

■今日は02月14日。02月は28日しかないので、もう今月も半分が過ぎる。
 正に『歳月人を待たず』である。
 一昨々日の11日に『鬼祭』が終わった。
 今年は『鬼祭』の前数日間が凄く寒かったが11日は前日迄と打って変わって温かな日和だった。
 其処で、気分が爽快になって来た小生、「久し振りに『鬼祭』でも見に行こうか」という意欲が沸々と湧いて来た。
 本当に何年振りかになるのだが、14時から始まる祭のmain event『天狗と鬼のからかい』を見に八町通三丁目にある安久美神戸(あくみかんべ)神社に市電に乗って出かけた。

[01]安久美神戸神社境内の幟(のぼり)
 01

[02]天狗
 02

[03]赤鬼scene1
 03scene1

[04]赤鬼scene2
 04scene2

[05]黒鬼
 05

 鬼祭りが終わり、これで漸く当地豊橋にも春が遣って来る。
 此処で拙句を一句お届けする

 三河路(みかわじ)の 春への関所 鬼祭  悟空

 因みにに二十四節気の『雨水』は、今年は02月19日だ。
 とは言え、彼岸の頃迄は、三寒四温が繰り返されるので、簡単には温かくはならない。
 まだまだ凄く寒い日も幾日かあるので、皆さんも風邪を召されない様ご自愛下さい。

■先ず今日最初の話題は、『鬼祭』から日付を四日程遡った02月07日(土)の出来事からお届けしたい。
 その日は小生、私用で名古屋に行くついでに、高浜市やきものの里かわら美術館『画家の魂・パレットとその作品展~50人の画家の素顔と新たな魅力~』展&一宮市三岸節子記念美術館『吉田博・ふじを~世界を旅した夫婦画家~』展&名都美術館『太陽と月の調べ~輝きに導かれ~』展と3つの美術館を巡って来た。
 以下、訪問した順にご紹介していくこととしよう。

【1高浜市やきものの里かわら美術館『画家の魂・パレットとその作品展~50人の画家の素顔と新たな魅力~』展】
 先ず、最初に著名画家達のpallet画をご覧戴きたい。

[06]高浜市やきものの里かわら美術館entrance
 06entrance

[07]本展leaflet
 07leaflet

[08]Maurice Utrillo(1883-1955)‥pallet画1933年頃
 08maurice_utrillo18831955pallet1933

[09]安井曾太郎(1888-1955)‥pallet画 制作年不詳
 0918881955pallet

[10]野口彌太郎(1899-1976)‥pallet画1964年
 1018991976pallet1964

  cf. 野口彌太郎『Veniceの風景』制作年不詳
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/26-043101302013.html

[11]東郷青児(1897-1978)‥pallet画1967年
 1118971978pallet1967

[12]林武(1896-1975)のpallet画:1967年〔本展図録表紙より〕
 1218961975pallet1967

[13]林武『三味線』1964年
 131964

[14]梅原龍三郎(1888-1986)‥pallet画1972年
 1418881986pallet1972

[15]中川一政(1893-1991)‥pallet画1962年
 1518931991pallet1962

[16]三岸節子(1905-1999)‥pallet画1967年
 1619051999pallet1967

【小生comment】
 pallet画は、東京銀座の日動画廊創業者である長谷川仁氏が画家との親交を重ねていった中で画家達から貰い受けたpalletに描かれた絵である。
 ご覧頂いた様に、実にuniqueな企画展だった。
 展示されていたpallet画は、その一つひとつがpalletの所有者だった画家の画風を確りと伝えていて面白かった。
 当該pallet画は、茨城県笠間市にある『笠間日動美術館』所蔵品である。
 同美術館は1972(昭和47)年11月に創設された。pallet画は340点余りあるという。
 添付写真の絵の他にも、これは誰々のものだとすぐ解るpallet画が幾つかあった。
 鳥海青児(1902-72)、脇田和(1908-2005)、片岡球子(1905-2008)、島田章三(1933- )等の作品がそうである。

【2一宮市三岸節子記念美術館『吉田博・ふじを~世界を旅した夫婦画家~』展】
 次に訪れた三岸節子記念美術館では『吉田博(1876-1950)・ふじを(1887-1987)』展と「三岸節子の常設展corner」を見た。
 本展は、最初に三岸節子の作品から3点を、続いて『吉田博・ふじを』展の展示作品の順にご紹介する。

◆三岸節子 常設展cornerから
[17]『小運河の家(1)』1972年
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[18]『Spainの白い町』1972年
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[19]『花』1989年
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 ※ ※ ※ ※ ※

[20]一宮市三岸節子記念美術館entrance「三岸節子銅像(左)と本展看板」
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[21]本展leaflet/上図:吉田博『養沢 西の橋』1896年(20歳 水彩)/下図:後掲
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[22]吉田博とふじを
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[23]吉田博『霧の農家』1903年(27歳 水彩)
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[24]吉田博『ポンシデレオン旅館の中庭』1906年(30歳 水彩)
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[25]吉田ふじを『ポンシデレオン・ホテルの中庭』1906年(19歳 水彩)
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[26]吉田博『ラクノ―のmosque』1931年(55歳 油彩)
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[27]吉田ふじを『ベニス』1906年(19歳 水彩)
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[28]吉田ふじを『窓辺の花』1907-16(20-29歳 水彩)
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[29]吉田ふじを『千駄木待ちの建具屋のおじいさん』1910年(23歳 水彩)
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[30]吉田博『瀬戸内海集 帆船 朝』1926年(50歳 木版)
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【小生comment】
 吉田博(1876-1950)は、明治・大正・昭和期の日本の風景画の第一人者として日本画壇で一世を風靡した泰斗である。
 卓越した技量は、水彩画・油彩画・木版画のいずれの作品でも見る者を驚かす。
 新版画(木版画)では、川瀬巴水(かわせ はすい(1883-1957)と、両巨頭として名を馳せた。
 吉田ふじを(1887-1987)一族は画家が多い。
 彼女の外祖父 晴野鴻洲は日本画家。
 父 吉田嘉三郎(1861-94)は明治初年に上京してItaly人画家フォンタネ―ジ(1818-82)が来日した1876~78年に油彩画の手解きを受け、その後福岡修猷館中学で美術科教諭を務めた。
 その折、嘉三郎の眼に留まった学生が上田博(のちの吉田博)で、博は画法の技量を見込まれ吉田家へ養子に入った。
 ふじをは、上に2人の姉と妹弟の5人兄弟姉妹の3番目で、兄弟の中で最も絵画が巧かった。
 年が11歳違う博とふじをは、最初、義兄と妹として育ち、その博から画法を厳しく仕込まれたという。
 以下、吉田博の略歴を記す。

 1893年 修猷館を卒業。京都で洋画家田村宗立に師事
 1894年 上京して小山正太郎が主催する「不同舎」に入門、この年、ふじをの父嘉三郎が1894年33歳の若さで急逝する。時に博18歳、ふじを7歳
 1899年 中川八郎と共に渡米
 1900年 ボストン美術館で中川との二人展を開催し成功を収める。同年渡欧したパリ万博にて『高山流水』が褒状を受賞
 1902年 満谷国四郎、石川寅治、中川八郎らと太平洋画会(現・太平洋美術会)結成
 1903年 2度目の渡米に義妹のふじを画家として同伴させる
 1904年 セントルイス万博に、『雨後の桜』等3点出品、銅賞碑受賞
 1906年 ふじをと共に帰国
 1907年 04月 博とふじを結婚。博、第1回文部省美術展覧会(文展)で『新月』3等賞受賞、文部省買い上げとなる
 1908年 第2回文展で『雨後の夕』が2等賞(最高賞)受賞
 1909年 第3回文展で『千古の雪』が2等賞(最高賞)を連続受賞
 1910年 第4回文展の審査員に任命される(~1913年迄務める)。その後は「無鑑査」出品
 1924年 以降、数回に亘り帝展の委員や審査員を務める
 1920年 新版画の版元の渡辺庄三郎と出会い、渡辺木版画舗から木版画の出版を開始
 1950年 4月5日 新宿区の自宅で老衰のため死去

 博の厳しい絵画の指導に対して、才能があったふじをは見事にそれに応えていった。
 博の技量の確かさは当然として、ふじをの19歳の作品である添付写真の絵[25]をご覧になれば納得されると思う。
 添付写真[24]が博が描いた同じホテルの中庭の絵である。流石だと思う。
 こういう絵を描けたら、楽しいだろうなぁ‥と羨ましく思う。

【3名都美術館『太陽と月の調べ~輝きに導かれ~』展】
 この日最後に訪れたのが名都美術館。
 展示作品から、post cardで販売されていた名画の中から幾つかをご紹介する。

[31]本展leaflet
 31leaflet

[32]鏑木清方『春の光』〔右隻〕1919年
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[33]横山大観『梅花』1929年
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[34]速水御舟『コモ湖暮色』1931年
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[35]髙山辰雄『静夜』制作年不詳
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[36]堀文子『離山凍る』1986年
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[37]岩橋英遠『茜空』1987年
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[38]加倉井和夫『斑鳩』制作年不詳
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[39]月岡榮貴『竹取物語(かぐや姫)』
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[40]野村義照『トレドの追想』
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[41]福井爽人『花と少女』
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【小生comment】
 本展は、全て日本画なのだが、展示作品夫々が、色々なvariationがあって見る者を飽きさせない。

■さて、次の話題は「吉田ふじを著『朱葉の記』を読んで」についてである。

[42]吉田ふじを『朱葉の記』
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 本書は、吉田ふじを氏が91歳を迎える1978年夏に刊行された、彼女の回想記である。
 本書の「初めての渡航」は、【「三四郎」に兄妹画家として登場】という小題で次の文章で始まっている。

 アメリカへ博と一緒に参りましたのは、明治36(1903)年の暮も押し迫った12月28日でした。私(ふじを)が十六歳の時でございます。
 私どもは帰国の翌年早々結婚することになりますが、この時はまだ兄妹として旅行した訳でございます。
 夏目漱石の「三四郎」に、次の様なくだりがあります。

 ※ ※ ※ ※ ※

 ここに長い間旅行して歩いた兄妹の画が沢山ある。双方同じ姓で、しかも一つ所に並べて描けてある。美弥子はその一枚の前に留まった。
「ヴェニスでしょう」
 これは三四郎にも解った。(中略)
 ここで黙って蒼い水と、水の左右の高い家と、倒さに映る家の影と、影の中にちらちらする赤い月とを眺めていた。
「兄さんの方が余程旨い様ですね」と美弥子が言った。

 ※ ※ ※ ※ ※

 これは私どものことをモデルになさったのですね。
「三四郎」は明治四十一年(【小生注】11月26日 東京朝日新聞 三四郎 八の十 より)の朝日新聞連載の小説ですが、私は迂闊にも当時知りませんで、あとでひとさまに伺ったような次第でした。
 とにかく、渡米は博の強い希望でございました。
 私とはまだ、特別将来の約束をしていたわけでも何でもなく、ただ私の絵の勉強のためだというのが理由でした。
 当時、ヨーロッパに比べて、アメリカへ絵の勉強に行くというのは少ない例だったと存じますが、博は前の渡米の体験から、アメリカに行くことはやはりよい勉強になると考えていたのでしょう。
 なんといっても、まだその頃の日本の洋画は、草創期といった状態でしたから、日本ではみられないようないい洋画に出会うこともできますし、色々とアメリカの方が進歩しておりました。〔後略〕

【小生comment】
 夏目漱石の小説「三四郎」の本文に載っていた「ヴェニス」の絵が、実は吉田博&ふじを兄妹(当時)の描いた絵であったなんて‥。
「三四郎」のこの「八の十」の場面は、non-fictionだったのだ。
 又、博とふじをが絵を勉強する為に上京し、「不同舎」に入門。女性で絵を習ったのはふじを一人だったとか。
 私塾「不同舎」には、中村不折、満谷国四郎、青木繁、小杉未醒、中川八郎、石川寅治がいたことや、片や、官僚派として、黒田清輝、岡田三郎助、和田英作がいて、両派が対立していたとか‥。
 はた又、青木繁が愛した福田たねも、「不同舎」に少しの期間いたとか‥。
 本書は、当事者でなければ解らないことがいっぱい綴られていて面白かった。

■今日最後の話題は、伊集院静著『無頼のススメ』についてである。

[43] 伊集院静『無頼のススメ』
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 本書の冒頭にて、伊集院氏が「無頼」の定義(らしいこと)についてこう説明している。

 無頼とは、単なる外見上の恰好や振る舞い、他人に対する無礼な態度とは違うし、人群れないoutsiderではあっても、孤立したdrop outとも違う。
 あくまで、その人の心の持ち方、生きる姿勢のことをいう。
 無頼とは読んで字のごとく、「頼るものなし」という覚悟のことです。

 本書は、伊集院氏が生きていく彼のstanceを書いたessay集と言ってもいい。
 今日は、その中から「差しのべた手にしかブドウは落ちない」~【運のかたちは様々ある】をご紹介する。

 ※ ※ ※ ※ ※

 かつて大鵬親方は樺太から引き揚げて来る際、三隻ある引揚船のうち二隻がソ連の潜水艦に攻撃されて沈没して仕舞ったという。
 親方と母親が乗っていた一隻だけが難を逃れたものの、故郷の小樽迄行く筈が、体調が悪くなって稚内で下船した。
 すると小樽へ向かう途中で、その船も沈められて仕舞います。
 彼はそれから親戚の木こりの手伝いをしたりして、貧しくて苦労の多い暮らしをしますが、身体が大きくて力があったので今度は相撲部屋に売られて仕舞った。
 だけど彼はそれが自分の運だったというのです。
 王貞治さんは、偶々犬を連れて多摩川べりを歩いていた一本足打法の恩師荒川コーチと出会ったそうだし、矢張りそれも運だろう。
 〔中略〕
 人生で何がしかのことを成し遂げた人達に共通しているのは、苦悩や不運のどん底にある様な時期でも、後から振り返って考えてみると、素晴らしい運と出会っていること。
 人の生きる姿勢であったり、進む道を決めるのは、人との出会い、或いは何ものかとの出会いだと私は思います。
 だからいつも言うのは、
「差し伸べている手の上にしかブドウは落ちて来ない」
 ということです。
 本当に欲しい、必要だと思って差し伸べている手というのは、いつか落ちて来る果実を受け止められる。
 ただ口を開けて待っているだけでは果実は落ちて来ないし、手の上に落ちて来たブドウは食べられても、地面に落ちたものは直ぐに腐って仕舞います。
 だから、無心で何かを見つけようとしている目、手を差し伸べて何かを掴もうとする姿勢が常になければ運は向いて来ないのです。

【小生comment】
 小生、この伊集院氏の言っていることはその通りだと思う。
「運」を自分で引き寄せる力こそが、自分で自らの運命を良い方向へ導いて行く原動力となる。
 何も焦る必要はないけれども、ただ単に待っているだけでは、良い「運」を自分に手繰り寄せることは出来ない。
 何となれば、将来を見通した準備や心構えが出来ていない為に的確なる二の手三の手が打てないからである。
 矢張り何事も、積極的に手を差し伸べて、そうしているうちに次の良策を考え、二の手三の出が適切に打てる様な自分でありたい、と思う。
 【2637の会】の皆さんとの繋がりも何かのご縁だと思うし、小生、このご縁を積極的に「良運」にもって行きたいと考えている。

【後記】以下に掲げた詩は、六朝時代の東晋の詩人陶淵明(365-425)の雑詩其一。

 盛年不重來
 一日難再晨
 及時當勉勵
 歳月不待人

【意】
 若い時は二度とはないし
 一日のうち朝は再びは来ない
 時を逃さないで精一杯『勉学に励む』ことだ
 歳月は人を待ってはくれないのだから

 この漢詩の訳を、小生是迄上記の様に理解していた。
 ところが、この五言絶句と思われた詩は、12句からなる五言古詩の最後の4句で、『及時當勉勵』の意味も全く反対の言葉だったのである。
 以下に全文をお示しする。

 雜詩其一  陶淵明

 人生無根蔕
 飄如陌上塵
 分散逐風轉
 此已非常身
 落地爲兄弟
 何必骨肉親
 得歡當作樂
 斗酒聚比鄰
 盛年不重來
 一日難再晨
 及時當勉勵
 歳月不待人

 人生 根蔕(こんてい)なく
 飄(ひょう)として陌上(はくじょう)の塵の如し
 分散して風を逐いて轉(てん)じ
 此(こ)れ已(すで)に常の身に非ず

 地に落ちては兄弟(けいてい)と爲る
 何ぞ必ずしも骨肉の親(しん)のみならん(や)
 歡を得なば當(まさ)に樂しみを作(な)すべし
 斗酒(としゅ) 比鄰(ひりん)を聚(あつ)む
 
 盛年(せいねん) 重ねては來たらず
 一日 再びは晨(あした=しん)なり難(がた)し
 時に及んで當(まさ)に勉勵(べんれい)すべし
 歳月 人を待たず

【意】
 人間の命は(植物の根や蔕(へた)の様な確り繋ぎと留めておくものがなく
 その様は、飄々と風に舞い散る路上の塵の如くだ
 散りぢりに風に吹かれて飛び散っていく
 これは一定不変の身ではない

 この世に生まれたからには皆兄弟だ
 肉親の間柄だけが楽しいものではない
 歓楽の機会があれば須らく楽しもう(楽しむのは当然だろう)
 一斗の酒があれば近隣の連中を集め飲もうではないか、

 若い時(=盛りの年)は二度とはないし
 一日のうち朝は再びは来ない
 時を逃さないで精一杯楽しむのだ
 歳月は人を待ってはくれないのだから

【小生comment】
 前号でお伝えした于武陵の「勧酒」では、人の一生というには別れがつきものさ〔★だからこそ、今この時を大切にしよう★〕だった。
 今回は、人の一生は無常である〔=歳月は人を待ってはくれない〕のさ〔★だからこそ、今この時を大切にしよう★〕と言っている。
 そう、生きている「今この時を大切にしよう」そして、元気に明るく精一杯生きて行きましょう、皆さん!

 では、また‥。

2015年2月 7日 (土)

【時習26回3-7の会0535】~「01月29日:愛知県芸術劇場concert hall『辻井伸行(Pf) with ヴァシリー・ペトレンコ&ロイヤル・リヴァプール・フィル』演奏会を聴いて」「02月02日:『峯田H幸君との楽しいひととき/ミニミニクラス会』&02月03日:『「難聴」対策として「補聴器」試用開始』報告」「山﨑武也:『〈人生で一番楽しい時がやってくる〉60歳からの人生の愉しみ方』を読んで」「銀行時代の同期会『53(ゴミ)の会/新年会』に参加して」

■時の移ろいは早いもので、一昨々日の02月04日は『立春』。
 4日後の02月11日には、当地豊橋の安久美神戸(あくみかんべ)神明社(八町通り3-17)では恒例の『鬼祭り』が開催される。
 Main event「赤鬼と天狗のからかい」の『赤鬼』が、現在、豊橋駅(在来線(=JR・名鉄))改札口前のconcourseに展示されている。
 昔から、「豊橋は『鬼祭り』が終わる迄『春』は到来しない」と言われている。
 暦では、『立春』は春なのだが、『大寒』の次の時節だから矢張り大変寒いことに違いないのである。^^;

[01]鬼祭りの『赤鬼』像
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 今日も、【時習26回3-7の会0535】をお送りします。

■今日最初の話題は、先週01月29日(土) 愛知県技術劇場concert hallにて開催された辻井伸行(Pf) with ヴァシリー・ペトレンコ&ロイヤル・リヴァプール・フィル』演奏会を聴いて‥からご報告したい。
 辻井伸之君のPiano演奏会は、2013年04月22(月) 愛知県芸術劇場concert hallで開催された佐渡裕指揮BBC Philharmonicの演奏会にて、Tchaikovsky(1840-93)作曲/ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 Op.23 を聞いて以来だから、約1年9箇月ぶりである。
 2013年4月26日(金)付【時習26回3-7の会 0443】
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/26-044304212620.html

 今回の演奏会のprogramは、以下の3曲と、辻井伸之君のencore 2曲、Royal Liverpool P.O.のencore 1曲だった。

 1. Dmitri Shostakovich(1906-75) : Festive Overture(祝典序曲), Op.96(約6分)
 2. Sergei Rachmaninov(1873-1943) : Piano Concerto No.3 in d minor, Op.30(約44分)
  1. Rachmaninov (辻井伸之 編曲):Paganini Rhapsody XVⅢ
     2. Paganini(Franz Liszt編曲) : La Campanella
 3. Dmitri Shostakovich : Symphony No.10 in e minor, Op.93(約46分)
  1. Johannes Brahmas : Hungarian Dance No.1 in g minor

[02]本演奏会 program
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[03] Vasily Petrenko指揮 Royal Liverpool P.O./Shostakovich : Symphony No.10のCD
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[04] Herbert von Karajan指揮 Berlin P.O. /Shostakovich : Symphony No.10のCD
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【小生comment】
 1曲目のShostakovichの祝典序曲は、1954年初演。
 Trumpetが冒頭に華やかに吹いて始まる、演奏会でも屡々取り上げられ人気ある佳品である。

 2曲目のRachmaninovのPiano Concerto No.3は、彼の全部で4曲あるPiano Concertoの中では、第2番と共に最も人気ある作品。
 本曲は、数あるPiano Concerto作品の中でも、最も難易度の高い作品として知られる。
 この難曲を、全盲である辻井君が極めて完成度の高い技量と、情感豊かな演奏ぶりに、心から胸が熱くなった。
 Orchestraの楽員達も、演奏終了後、心から敬意を表した様に慈愛に見た表情で拍手を辻井君に送っていた。
 演奏終了後もかなり長い時間、感動した客席から万雷の拍手が鳴り止まなかった。
 Handicapを背負った辻井君がこんなに素晴らしい演奏をして聴衆に感動を与えてくれる。
 そう思うと、健常者である我々に、「遣れば出来る、だから頑張って!」と無言の声援を送ってくれてるんだナ‥と背筋がシャンとした。

 3曲目のShostakovichの交響曲第10番は、小生、Shostakovichの全15曲の交響曲の中でも一番好きな曲である。
 かの名指揮者Herbert von KarajanもShostakovichの交響曲の中で唯一録音を残している曲である。
 Soviet Russiaを代表する名violinistのDavid Oistrakh(1908-1974)が、この曲をKarajanに紹介したという。
 Oistrakhは、この曲を次の様に絶賛している。
「高度の道徳的な基礎、深い人間性、偉大な愛国芸術家の誠実な感覚に貫かれている。
 そしてその力は、壮大な dramatism、鋭い葛藤、魅力的な美しさ、そして形象性の正しさの中にある」と。
 ホント、素晴らしい名曲である。
 しかし、作曲された当時はソ連国内で問題とされた曲であった。
 即ち、この曲の1曲前に作曲された交響曲は、軽妙洒脱な交響曲第9番(1945年作曲)だった。
 時の権力者Stalin(1879-1953.03.05)は、Beethovenの第九の様な大曲を期待したらしく、期待を裏切られたと思ったのか激怒したという。
 そうした経緯もあってShostakovichは、ジダ―ノフ批判((1948年02月10日~1958年05月28日)(=前衛芸術を攻撃し芸術統制))の矢面に立たされていた。
 この様に厳しい環境下だった1953年、Stalinが没した直後にこの交響曲第10番は発表された。
 全曲の演奏時間は、演奏者に拠って異なるが大凡45~52分。
 全体に重苦しい雰囲気が漂う曲で、第一楽章だけで全体の半分近い時間を占める。
 続く第二楽章は、4分余りの短いscherzoだが、「Orchestraが疾走するかのように暴れ廻るscherzo」で一度聴いたら忘れられない名曲である。
 因みに、小生はこの第二楽章が大好きである。
 最終楽章の第四楽章が終わり全曲を聞き終えると、暫くの間、頭の中が「ズ―ン」とした衝撃がジワーッと残った感じがする。
 素晴らしい名曲だと思料する。
 小生、従前よりこの感動が忘れられず、カラヤン(Karajan)指揮Berlin P.O.の1981年02月(digital)録音盤を何十回と愛聴し続けて来ている。
 が、今回 Vasily Petrenko指揮 Royal Liverpool P.O.の演奏を聴いてKarajanの演奏と比べても遜色ない大変素晴らしい演奏だと感心した。
 其処で、演奏会場で売られていたPetrenkoとRoyal Liverpool P.O.コンビのCDを購入し、帰宅後聴き直してみた。
 期待に違わぬ名演奏で、録音が良い分、Petrenkoの演奏の方に軍配を挙げるかな‥(?)。
 これで、小生の愛蔵盤が又一つ増えた。!^-^b♪

■続いての話題は、「02月02日:『峯田H幸君との楽しいひととき/ミニミニクラス会』&02月03日:『「難聴」対策として「補聴器」試用開始』報告」についてである。
 小生、個々二、三年来、肉体的な悩みがある。それは、「難聴」についてである。
 特に最近、3~4m程離れた人のボソボソ発言が聞き取れなくなり、正確なhearingが出来なくなって来たのである。
 勤務先の重要な会議等で発言者の内容が聞き取れない場合が増えて来た。
 就中(なかんずく)、発言された語尾辺りの言葉が聞き取りにくくなって来たことを痛感している。
 難聴については、2012年11月01日に、浜松医科大学耳鼻咽喉科の主任教授で【2637の会】classmateの峯田君に見て貰ったことがある。
 あれから更に聴力低下を自覚しているので、彼に連絡して再度診て貰うことにした。
 02月02日、会社を14時半に早退して浜松医科大学附属病院へ峯田君を訪ねた。
 峯田君との再会は、前回の診断して貰った時以来だから2年3箇月ぶりとなる。
 聴力検査の結果は、矢張り聴力低下が進んでいたことを裏付けてくれた。〔添付写真[05]ご参照〕
 峯田君曰く「日常生活に於ける会話を聞き取る聴力は、500ヘルツ(Hz)(低音)~2000Hz(高音)の範囲内で【0~40デシベル(dB)】に収まっていればいい。
 簡単に言うと、正常域の「0dB~40dB」では、聴力低下は自覚されないが、「40dB」(のdead line)を少しでも下回る(=40dB→50dB)と聴力低下を自覚する。
 今泉君の場合、前回(2012.11.01)検査では、右耳が高音域50dBと正常域の40dBを10dB下回っていたが、左耳はかろうじて正常値の域内に収まっていた。
 ところが、今回(2015.02.02)検査では、正常だった左耳も、前回検査の右耳と同様に高音域が(前回40dB→)50dBに低下。但し、右耳は前回と同じ水準の儘。
 従って、高音域の声が両耳共に聞き取りにくくなっている」とのこと。
 峯田君は更に「難聴は簡単に言えば『老化』だから治すことは出来ない。
 対処療法として、補聴器か集音器を試してみるかどうかだ。
 するかしないかは、今泉君の考え次第だ」とadviceしてくれた。
 其処で、仕事上で必要に迫られている小生は、即座に「補聴器試用」を決断した。
 そして、彼の紹介で、翌日(02月03日)の午前中、再び浜松医科大学附属病院を訪ね、補聴器業者のadviceに従い「補聴器」の試用を開始した。
 今の処、補聴器をつけた効果は確り出ていると言える。
 是迄、聞き取りにくかった高音域の音が、確り聞き取れる様になったからだ。
 これから半月余りの試聴期間の経過状況をみて、当該「補聴器」を購入するかを決める予定である。

[05]聴力検査結果
 05

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[06]試聴用の補聴器
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 さて、02月02日の夕刻に話は戻る。
 小生が過日、峯田君に検診のappointmentを入れた際、彼から「診断が終わったら君の『全快祝い』をやろう」と誘いを受けていたのである。
 彼が仕事を片付ける迄、彼の研究室に案内して貰って待たせて貰った。
 そして、彼の行きつけの魚料理のお店へ行った。
 添付写真[07][08]は、其処のお店でのtwo-shotsと、お店自慢の広島県竹原市にある中尾醸造の銘酒『誠鏡(せいきょう)』。
 芳醇でスッキリした味の大変美味しいお酒だった。
 お店の女将さんが、「(朝の連続drama小説)マッサンの実家の酒造のお酒よ」と紹介してくれたので写真に撮らせてもらった。
 峯田君が抱えている一升瓶が『誠鏡』である。
 帰宅してから、internetで調べてみたら、マッサンのmodelとなったニッカウヰスキー創業者竹鶴政孝の生家は「竹鶴酒造」であることが解った。
 所在地は両社とも同じ広島県竹原市にあるが、「竹鶴酒造」は本町3丁目、『誠鏡』の「中尾醸造」は中央5丁目と、町名と番地が違い、別の会社であることが解った。
 以上は余談‥。

[07]峯田H幸君とのtwo-shots in 浜松
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[08]銘酒『誠鏡』を手に取る峯田君
 08

 二人での、【2637の会】ミニミニクラス会は飛切り楽しいひとときだった。
 Classmatesの現況や昔話をはじめ、話題は多岐に亘り、18時半頃に始まったミニミニクラス会もあっと言う間に3時間半が過ぎていった。
 今回、峯田君が小生の『全快祝い』をしてくれたのは、彼が小生と同じ「大腸癌(=S状結腸癌)」を罹患、「とても他人事に思えなかった」からだそうである。
 今から3年前のことだという。症状の進度も小生と全く一緒だそうだ。彼も小生と同じくstageが軽いことを聞いて安心した。
 峯田君が「大腸癌」になってことについて、皆さんにこうしてお知らせすることは、事前に彼から了解を頂戴している(為念)。
 彼からは「我々もそういった(=(小生注)大腸癌に罹り易い)年齢になったので皆気をつけましょうね」と注意喚起の意味合いを込めて話してくれれば結構との由。
 大腸癌は、前にもお話した様に、女性の癌の№1、男性の癌の№3と、日本人が今最も罹り易い癌で、しかも毎年罹患者が増えている身近な病気である。
 大腸癌は、癌の中でも早期に切除すれば、術後5年間再発しなければ「完治する」直り易い病気でもある。
「Stress」と「喫煙」と「過度な飲酒」が、大腸癌発症の3大factorと言われている。
 皆さんも「生活習慣病予防健診」の中に「便潜血陽性検査(=所謂「検便」)」を入れることをお薦めします。
 理想を言えば、最も早期且つ確実に発見出来るので「内視鏡に拠る大腸polyp検査」をお薦めします。
 ご自愛下さい。

■さて続いての話題は、最近読んだ山﨑武也著『〈人生で一番楽しい時がやってくる〉60歳からの人生の愉しみ方』についてである。
 本屋で立ち読みをしていた中で、中々良いことが数多く書いてあったので衝動買いした本である。

[09]山﨑武也著『〈人生で一番楽しい時がやってくる〉60歳からの人生の愉しみ方』
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 著者の山﨑武也氏は、略歴に拠ると、1959年に東大法学部を卒業。Business consultantを生業とする一方、『心を打つちょっとした気の使い方93』『お金の使い方でわかる大人の「品格」』『ちょっとしたことでかわいがられる人、敬遠される人』等々の処世術のhow to本を数多く上梓している。
 今日は、本書の中から一つ『感動する心を忘れない(P.172-75)』と『自分なりの幸せの見つけ方(P.210-13)』(の抜粋)をご照会したい。

【感動する心を忘れない】
 毎日していることが何だかつまらなくなる時がある。〔中略〕
 他の人から見ると、キチンとした日々を暮らしているとしか思われないのに、本人は程度は軽いのではあるが苦しいとか悲しいとか嘆いている。
 一種の不定愁訴((ふていしゅうそ)=明確な器質的疾患がないのに、様々な自覚症状を訴えること)である。〔中略〕
 日々の生活がマンネリ化して来ているので〔中略〕其処から抜け出す為には、自分の心身に刺激を与えたり揺さぶりを掛けたりする必要がある。〔中略〕
 比較的長期間に亘って、自分が「感動」というものから縁遠くなっていたことに気付く筈だ。
 〔中略〕
 矢張り、感動とは与えられるものではなく、自分自身で探して見つけるものなのである。〔中略〕
 感動する為の材料は、自分の身近に幾らでも転がっている。
 見慣れている物でも、見る角度を変えたり異なった考え方をしたりすれば、興味の対象と成り得る。〔中略〕
 年を取って来ると時間は十分にある。
 科学的な観察力を駆使した上で、哲学的な考察をしてみるのだ。その様な前向きの姿勢には生命力が溢れて来る。

【自分なりの幸せの見つけ方】
 誰でも幸せになりたいと願っている。〔中略〕
 要は、本人が恵まれていると考えて満足していれば、それが幸せである。〔中略〕
 そもそも人生は結果でなく過程である。
 結果は一瞬のものであり、過程は持続していくものだ。
 人生の結果と言えば、究極的には「死」であり、その時点では自分というものは自分の意識の中には存在しない。〔中略〕
 一方、人生の過程こそが日々の生活であり、自分にとってはこれ以上に現実的なものはない。〔中略〕
 その過程の一つひとつを十分に感じ取ることが必要で〔中略〕人生を「味わう」という姿勢が重要になって来る。〔中略〕
 今更高望みをするなどという青臭い考え方をしないで、成熟して落ち着いた大人の視点に立って、「足るを知る(注)」考え方をする。
「理想的になるな」というのではなく、より現実的で足が地についた考え方をするべきだというのである。
 毎日の暮らしの中で〔中略〕(我々)凡人は、その様な喜怒哀楽の感情に翻弄されている。〔中略〕
 一方、この世を悟り切った人は、全ての感情を人生に於ける必然的な要素として考え、淡々と「味わう」。
「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」の世界である。〔後略〕

(注)「足るを知る→足るを知る者は富む」:分相応に満足出来る者、満足することの意義を知っている者は、生活が貧しくても心は豊かである、ということ。
 出典:老子
 Content is kingdom. 満足は王国なり

【小生comment】
 山﨑武也氏は、本書の中の『とびきりいいもに触れる(P.194-97)』の処では次の様にも語っている。

【とびきりいいもに触れる】
 季節を見計らって近くの温泉に、二、三日の小旅行を試みる。〔中略〕
 その温泉に行った時は、風呂に入るだけでなく、近所の景色を楽しんだり、様々な施設を訪れたりする。
 その中によく行く美術館がある。〔中略〕その落ち着いた佇まいが気に入っているのと、〔中略〕何より空いているのが大きな魅力である。
 ゆっくり鑑賞することが出来る。
 常設展示と一定期間の企画展示とがあるが、絵画は古今東西の一流画家のものばかりだ。
 かなり頻繁に訪れていることになるので、私達が馴染みになっている作品も少なくない。何度見ても飽きない。
 いつでも見ることが出来るので、私達の所蔵する作品の様でもある。
 大した金額でない入館料を支払って、美術館に管理保存して貰っていると考えると、至福の思いに浸ることが出来る。〔後略〕

 小生も、山﨑氏の意見に全く同感だ。
 何度も訪れている美術館〔‥メナード美術館、名都美術館、一宮市三岸節子記念美術館 等‥〕は、常設展cornerでは馴染みになっている絵画が少なくない。
 でも、一流作品は、不思議と何度見ても飽きが来ないし、見る度毎に新しい発見がある。
 そして嬉しいことは、自分の審美眼(=本質的に良いものを見出す能力)が間違いなく磨かれていくことを実感出来ることである。
 更に又、美しい「名画との再会」は、恰も愛しい「恋人との再会」に似ていて、いつも胸がときめき、自分の感性も磨かれていくと言っていいかもしれない。
 だから小生、好きな美しい絵画が見られる『美術館巡り』が止められないのである。

■今日最後の話題は、昨日02月06日(金)に、名古屋の金山の居酒屋で開催された、旧銀行時代の同期会『53(ゴミ)の会/新年会』から、記念の全体写真とsnap-shotである。
 小生達、昭和53年04月に、旧東海銀行に入行した大学卒業の同期生は151人いた。
 昭和53年入行の我々は、入行直後から不思議と同期としての結束力が強く、この年になっても、毎年、春と秋にGolfを、夏と冬に懇親会を開催している。
 この同期会についても、幹事が確りしていて、万年幹事がいる。
 現役時代から30年以上続いている。
 今回も約30人が集った。

[10]53(ゴミ)の会/新年会 in 名古屋2015-02-06 全体写真
 10_in_20150206

[11]同上 snap-shot
 11_in_20150206_snapshot

【後記】人の一生は、長くても精々100年。
 一人で生まれ、独りでこの世という舞台から去っていく。
 人の一生は、「『出会い』があれば必ず『別れ』がある」その繰り返しである。
 人生に於ける『出会いと別離』は、短くは『一期一会』から、長い付き合いの筈の『家族』にも厳然と存在する。
 井伏鱒二は、中国唐時代の于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒」に名訳をつけて次の様に詠んでいる

 コノサカズキヲ受ケテクレ
 ドウゾナミナミツガシテオクレ
 ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」って何処かで聞いたことがあるphraseですネ。
 そう、名付け親は、林芙美子である。
 以下に于武陵の「勧酒」を記して今日は締め括りとする。

 勸君金屈巵
 滿酌不須辭
 花發多風雨
 人生足別離

 君に勸む 金屈巵(きんくつし)
 滿酌 辭するを須(もち)いざれ
 花發(ひら)いて 風雨多し
 人生 別離足(た)る

【意】君に勧めよう、この美しく金色に輝く杯を
 なみなみと酌(つ)がれた酒をどうか辞退しないでくれ
 花が咲く時節には風雨が多い
 人の一生というには別れがつきものさ
〔★だからこそ、今この時を大切にしよう★〕

【注】金屈巵:把手(とって)のある黄金杯
 足(=足る):多い
 尚、もし『惜別』に力点を置く場合は〔★だからこそ、今この時を大切にしよう★〕の処は訳さない

 小生は、断然〔★‥今この時を大切に‥★〕の訳を付した方を支持したい
 即ち、【2637の会】membersの皆さんとのお付き合いも、互いの命脈が尽れば終焉を迎えるのは必然だ。
 だからこそ、決して刹那的ではなく、別れがあるからこそ、『今を大切にして生きて行きたい』と思っている。
【時習26回3-7の会】membersの皆さんとの「今」を大切にして行きたいのである。
 小生も元気な限り《会報》を頑張っていきますので、皆さん応援をお願いします。

 では、また‥。

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