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2015年3月の4件の記事

2015年3月28日 (土)

【時習26回3-7の会0541】~「03月14日:メナード美術館『所蔵企画/日本画名作展=近代から現代まで=~みたい! 日本画』展を見て~」「同左:古川美術館『四季暦~青春之章』展を見て」「03月15日:静岡市美術館『没後100年~小林清親』展を見て」「石平『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』&中西輝政『中国外交の大失敗~来たるべき「第二ラウンド」に日本は備えよ』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。さぁ、今日も【2637の会 0541】号をお送りします。
 03月も残す処あと03日になりました。
 年度末決算を迎える多くの会社にとっては、平成26年度はアベノミクスの経済浮揚施策の恩恵を享受出来た企業も少なくない様ですね。
 黒田日銀総裁が目指している2年で2%の穏やかな「適正inflation」迄にはまだ数値は乖離していますが、デフレ脱却は何とか出来そうな処迄来た感じです。

 適正なinflationが、個人の消費mindを高める。
 即ち、「個人消費の増加(=需要増加)」→「企業の生産増強(=供給増加)」→「企業の設備投資増加」→「企業の手元資金取り崩し」→「通貨供給量(money supply)の増加(=銀行の預金通貨の増加(=信用創造))」→「経済規模の拡大(=GDPの増加)=経済成長の顕在化」という好循環を齎す訳である。
 日本経済が一日も早くデフレから脱却して、明るい未来を実現して欲しいものである。
 因みに、適度なinflationは、将来物価が上がるので買い控えmindを抑え、値上がり前に購入しようという消費意欲を促す。
 これが需要増加を惹起するのである。
 またinflationは、現在の資産価値が時間の経過と共に減じる為、債務者にとっては実質的債務金額の減少を齎す。
 従って、莫大な借金を抱える日本政府にとって、inflationには実質的に政府債務の削減という大変有難い副次効果を齎すことを忘れてはなるまい。
 適正なinflationを上回る賃上げが実現されれば、個人消費が増え、結果的に供給者側である日本中の多くの企業も増収という形で恩恵を享受出来ることとなる。
 事程左様に、個人と企業が win win のhappyな相関関係になるのである。
 今年の春闘で、自動車産業を中心に、輸出企業が久し振りにベ・ア(Base Up)を復活させた。
 このことが、中小企業にも波及していけば実に喜ばしいことであり、そうなることを切に願って止まない。

■さて、今日最初の話題である。
 二週間前の今月14日、私用があり自家用車で名古屋へ行った際、小牧市にあるメナード美術館と名古屋池下にある古川美術館を巡って来た。
 先ず最初は、メナード美術館『所蔵企画/日本画名作展=近代から現代まで=~みたい! 日本人画』展かあご紹介する。

 本展は、メナード美術館所蔵作品37人/40点を展示。
 日本画の巨匠達の傑作選であり、いずれも素晴らしかった。
 なかでも、本展で大番好きな絵画が見ることが出来て嬉しかった。
 小倉遊亀『白椿』(1977年)である。
 又、星野真吾、大森運夫(かずお)、中村正義、平川敏夫といった豊橋・豊川出身の作品も展示され、これ等も誠に素晴らしかった。
 小倉遊亀の画風と対極にあるかの様な星野真吾の超写実画『白い一輪』(1977年)は、改めて星野氏の卓越した技量を彷彿とさせる。
 2点共に制作年が1977年と同じであるのも偶然乍ら面白い。
 中村正義の落ち着いた感じの中にも一本筋の通った品格ある『秋の山』(1959年)も実に素晴らしかった。
 Psychedelic調の絵画に変貌していく前の中村氏の作品で、氏の技量が如何に高いものであるかを改めて実感出来た。

[01]本展leaflet
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[02]小倉遊亀『白椿』1977年
 021977

[03]山本丘人『残春』1982年
 031982

[04]橋本明治『銀扇』1969年
 041969

[05]東山魁夷『曠(こう)原(ドイツ、リュ―ネブルガー・ハイデ)』1971年
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[06]杉山寧『昊(こう)』1975年
 061975

[07]吉田善彦『浅間夕映(ゆうばえ)』1978年
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[08]小川芋銭(うせん)『樹間如水人如魚(じゅかんみずのごとく ひとうおのごとし)』1923年
 081923

[09]横山大観『霊峰不二山』1933年
 091933

[10]入江波光『烏骨鶏(うこっけい)』1933年頃
 101933

[11]星野真吾『白い一輪』1977年
 111977

[12]宮廻(みやさこ)正明『協奏曲(あま)』2007年
  廻(さこ):えんにょう に 面の上部の2画をとったもの
 122007

■続いて訪れたのが、古川美術館である。
 本展は、当美術館所蔵作品から『四季暦』と題して平成27年度は4回に亘り開催する。
 今回は、その第1回目で『春』に因んだ作品を展示する。
 本展展示作品数は全部で19点。以下にお示しする5点の以外の14人とは以下の人達である。
 児玉希望、堂本印象、西村五雲、広田多津、川端玉章、津田清風、我妻碧宇、津田時子、今尾景洋、濱田観、加倉井和夫、市野龍起、牧進、奥田元宋

 因みに、春は、五行説では木=『青春』、火=『朱夏』、土=『土用』、金=『白秋』、水=『玄冬』の『青春』に当たる。
 『五行説』と『四季』で不整合にならない様に、『土用』を設け、上記の様に1年を5つに分類する。
 但し、『土用』は年4回、「『立夏』の前18日=【春の土用】」「『立秋』の前18日=【夏の土用】」「『立冬』の前18日=【秋の土用】」「『立春』の前18日=【冬の土用】」に分けられる。
 @18日×4(回)=72日。春夏秋冬が夫々72日あり、『青春』+『朱夏』+『土用』+『白秋』+『玄冬』=360日=1年 となる。
 以上、余談まで。

[13]本展leaflet
 13leaflet

[14]伊藤小坡『観桜美人図(部分)』1940年頃
 141940

[15]竹内栖鳳『松魚』制作年不詳
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[16]橋本関雪『春昼』1944年
 161944

[17]前田青孫『牡丹』制作年不詳
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[18]川合玉堂『春峡萬弦』1941年
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■次は、翌03月15日(日)にJR静岡駅前にある静岡市美術館にて03月22日迄開 催中であった、『没後100年~小林清親』についてである。
 ただその日は、私用があり、車での出発が10時近くと結構遅かった為、いつも駐車する静岡市美術館に隣接する葵ビル駐車場は満車であった。
 其処で、当美術館から北へ800m程の所にある駿府城公園近くの駐車場に車を停め、折角だからということで駿府城公園内にある「巽櫓」を見学した。
 前回は、2013年06月09日に訪れている。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-cdd3.html ←2013年06月14日付【2637の会 0450】ご参照

[19]駿府城跡「坤(ひつじさる)櫓」
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[20]駿府城公園 案内看板
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[21]駿府城跡「巽櫓」
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 小林清親(きよちか/1847-1915)は、江戸幕府御家人として江戸に生まれ15歳で家督を継いだ。
 戊辰戦争に参戦。明治維新後は徳川家に従い一時駿府に滞在。
 1876(明治09)年、江戸に戻った小林は、大きく変貌を遂つつあった東京風景を、光の陰影に工夫をした「光線画」という手法を用い木版画を発表。
 風景・花鳥・静物と幅広く題材を求め「明治の浮世絵師」として一世を風靡した。
 その後は、1894(明治27)年日清戦争が始まると戦争画を手掛けたこともあったが、木版画の衰退の潮流に抗えられなかった。
 50歳を過ぎた頃からは肉筆画に注力し、日本各地も巡ったという。
 以下に、本展展示作品から幾つかご紹介する。

[22]静岡市美術館 elevator入口
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[23]本展leaflet/右の絵は 小林清親『薩った之冨士』1881年
 23leaflet_1881

[24]小林清親『東京銀座街日報社』1876年
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[25]同『海運橋(第一銀行雪中)』1876年
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[26]同『旧本丸雪晴』明治期(制作年不詳)
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[27]同『東京両国百本杭暁之図』1879年
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[28]同『大川岸一之端遠景』1880年
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[29]同『茶の水雪』1880年
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[30]同『亀井戸藤』1881年頃
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[31]同『新橋ステンション』1881年
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【小生comment】
 「明治の浮世絵師」として明治初期に活躍した小林清親の作品を初めて見た。
 江戸時代と違った雰囲気の浮世絵を見ることが出来て楽しかった。
 ただ、明治・大正・昭和の浮世絵版画師として著名な、吉田博(1876-1950)や川瀬巴水(1883-1957)の両雄の作品と比べると、若干見劣りすると感じた。

■今日最後の話題は、最近読んだ本の中から、石平(せき へい(1962- ))『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』(2013.12刊行)と、中西輝政(1947- )『中国外交の大失敗~来たるべき「第二ラウンド」に日本は備えよ』(2015.01刊行)をご紹介する。

 今回ご紹介する2冊の本は、2013年12月と2015年01月の刊行と1年程の隔たりがあるが、いみじくも日本と中国の外交関係について歴史的観点から冷徹に分析した好書である。

 先ず、石平著『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』の論点はこういうことだ。
本書は、「日中関係は両国間に距離(=隔たり)があればある程日本は巧く行き、逆に関係が深くなる程日本は躓く」ということを、日中両国間の歴史的事実から丹念に説明している。
 そして、石平氏は、戦後日本が、対中国外交で最初に躓いたのは、中曽根首相(当時)が中国からの圧力に屈して「靖国神社参拝を中止」したことが端緒であると指摘している。
 爾来、中国政府は、いわば「歴史認識問題」で日本側に圧力をかければ、日本国の首相といえども必ず屈服することを理解した。
 つまり、「歴史問題」が日本をねじ伏せる為に有効なcardであること、そして日本という国は圧力をかければ必ず折れることを、身をもって中曽根氏は中国側に示して仕舞ったのである。(P.129)
 一方、中国は、共産党政治局常務委員の王岐山(きざん)氏が、2012年11月末、ある会議の席上で19世紀のFranceの歴史家アレクシ・ド・トクヴィルが書いた本『旧体制と大革命』の購読を薦めた。
 曰く、現在の中国国内の現状が大革命前夜のFranceのそれと類似しているからこそ、本書は中国で大きな注目を集めた、ということだ。(P.164)
 中国の場合、革命や動乱の発生はむしろ、現実味のある可能性として意識されている。
 現に、前国家主席の胡錦濤氏は2012年11月開催の党大会で「国が滅びる」ことの危険性に厳粛に言及している。
更に、この危機を受け継いだ習近平政権は民衆の不満を和らげる為、「腐敗撲滅運動」の推進に全力をあげている。
彼等はやはり、下からの反乱と革命に拠る「亡国」を恐れているのだ。
因みに共産党規律検査委員会の新しい書記として腐敗撲滅運動の先頭に立つのは、『旧体制と大革命』を推薦した王岐山氏その人である。
 腐敗の温床は共産党の敷く一党独裁の政治体制そのものであるから、「旧体制」そのものにメスを入れない限り、その蔓延は永久に止まらない。
 すると「大革命」の発生という「悪夢」は常に、この政権に付き纏う。
 とくに高度成長が止まり、失業が拡大して貧困層の生活が益々苦しくなっている。
そんな中で、数億人単位の「現代流民」が現状に我慢出来ず、何らかの形で爆発して仕舞った時には、中国という国はその儘「天下大乱」の時代を迎えて仕舞うかもしれない。
 その危険性が日々迫って来ているのだ。(P.165-166)
 そして、石平氏は、「日本という国は中国にあまり近づいてはいけない。
 日本は、「脱中国」と「中国の周辺国との連携強化」を目指していくべきだ」と提言する。
 具体的には、ASEAN諸国とインドとの連携強化である。
 正に、中国古代戦国時代の「戦国七雄」の中でも最強の国になりつつあった秦に対する他の楚・燕・斉・韓・魏・趙の6国を蘇秦(?-前317)が纏めた合従策である。

 次に、中西輝政著『中国外交の大失敗』の論点は次の通りである。
高度成長を果たして来た中国が、此処に来て成長の明らかなる鈍化と貧富格差拡大や腐敗の顕在化で社会不安が広まる様相を呈している。
確かに、鄧小平が「十六文字方針(注)」で経済成長の種を蒔き、江沢民&胡錦濤政権の20年間で驚異的な経済成長という確りとした成果を出すことに成功した。
(注) 十六文字方針:鄧小平が、中国が確り国力を蓄える迄は「十六文字方針」に従えと唱えた政治指針。具体的には以下のことである。
 【 冷静観察/沈着対応/韜光養晦(とうこうようかい)/決不当頭 】
 ※ ※ ※
 冷静観察:冷静に観察せよ
 沈着対応:冷静に対処せよ
 韜光養晦:能力を隠し好機を待て
 決不当頭:決して先頭に立つな

しかし乍ら、胡錦濤政権時代末期に、貧富格差の拡大や腐敗等、数多く抱える矛盾が顕在化しつつあった。
胡錦濤の後を引き継いだ習近平政権が、これ等の矛盾を併呑する為に大きく言って2つの外交戦略に打って出たのである。
一つは「中華民族の偉大な復興」名の下に海洋強国化に拠る版図拡大の野望を表すに到ったこと。
もう一つは、歴史問題で日本の軍国主義化・右傾化を情報戦略を駆使して世界世論に訴えかけ、いわば日本を悪者に仕立て上げることで、中国の正当性を世界に喧伝しようとしたことである。
 中西氏は、こうした中国外交に対して、第二次安倍内閣は、対中国包囲網となるべき周辺各国への積極的な平和外交の働きかけが奏功して着実に成果を上げつつある、と指摘する。

[32] 石平『なぜ中国から離れると日本はうまくいくのか』&中西輝政『中国外交の大失敗~来たるべき「第二ラウンド」に日本は備えよ』
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【小生comment】
 石平氏、中西氏の話は、現在の中国外交を歴史的観点から比較的に客観性を以て論じており、色々と勉強になった。
 日本は、東シナ海を挟んで隣国となる中国とはこの先もずっと付き合っていく運命にある。
 孫子の兵法にある通り「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」である。
 冷徹に世界の潮流を適確に読み取り、中国とは適度な距離を置いて、是々非々で対処していくべきだと思料する。

【後記】今日(03月28日)は暖かな一日だった。
が、不思議と明るい気分にならなかった。
 肉親との永久の別れや、半世紀近く前の子供の頃から高校時代の思い出が去来したからだろうか。
正に「春愁」の気分といった処だ。
 ‥と、次の名句が頭に浮かんだ‥

 あたたかに さみしきことを おもひつぐ  木下夕爾(1914-65)

 では、また‥。

2015年3月22日 (日)

【時習26回3-7の会0540】~「02月21日:神奈川県立近代美術館 葉山『金山康喜のパリ‥1950年代の日本人画家たち』展を見て」「同左:山口蓬春記念館『魅惑の蓬春コレクション~観て、感じる、立体美術館』(後期)展を見て」「長野正孝『古代史の謎は「海路」で解ける‥卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎだす‥」』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか?
 今泉悟です。さぁ、今日も【2637の会 0540】号をお送りします。
 先週末の14日(土)辺りから寒さも緩み春めいて来ました。
 今日(22日)なんか、4月の陽気と言ってもおかしくない位暖かかったですね。

 今日は名句を先ず一句ご紹介します。
 昨日21日は、彼岸の中日。格調高い写実的な名句です。

 山寺の 扉(と)に雲遊ぶ 彼岸かな  飯田蛇笏(1885-1962)

『山廬集』(1932年)所収
 山門から白雲がポッカリと浮かんでいる。寒さが残る山寺にも漸く春の到来だ。今日は彼岸だ。

 続いては、同じ彼岸を扱った俳句でも、こちらは少々艶っぽさを感じる‥^^;

 未亡人と みてうら若し 彼岸みち  上村占魚(1920-96)

 飯田蛇笏も上村占魚もホトトギス同人。
 彼岸を扱った俳句で趣が全く違うが、いずれも品があっていい。

 次の俳句も「春の雲」という季語を使い、平易な口語体で初々しい青春の恋の微笑ましさを言葉巧みに詠んでいる。

 約束は いつものところ 春の雲  土肥あき子

 我々にもこういう青春時代の心ときめく一時期があった‥のかも‥(笑)

■さて、今日最初の話題は、先週&先々週に引き続く、02月21日(土)の美術館巡りの最終回。
 目的地は、神奈川県三浦郡葉山町にある「神奈川県立近代美術館葉山」。
『金山康喜(かなやま やすき)のパリ‥1950年代の日本人画家たち』展を見る為である。

 既にお伝えした東京の3つの美術館の最後、「国立新美術館」を午後01時に出て、車を置いてある北の丸公園第二駐車場へ。
 東京メトロ(地下鉄)千代田線乃木坂駅→〔大手町〕→東西線竹橋駅→〔徒歩5分〕というrouteで所要時間は約20分。
 北の丸公園第二駐車場からは、至近の首都高速都心環状線 代官町ICに入り、谷町JCT→〔渋谷3号線〕→用賀ICへ。
 用賀IC→〔環状八号線〕→玉川IC→〔第三京浜〕→保土ヶ谷IC→〔横浜新道〕→新保土ヶ谷IC→〔横浜横須賀道〕→逗子IC→〔逗葉新道〕。
 逗葉新道の終点「南郷トンネル入口」→〔一般道1.8km〕→長柄(‥此処を南進2.2km‥)→下山橋(‥此処を右折(=北進)0.5km‥)→神奈川県立近代美術館葉山。
 北の丸公園第二駐車場からの走行距離は72km。所要時間1時間15分であった。
 因みに、下山橋交差点の西側(海寄り)が、宮内庁の「葉山御用邸」である。
 首都高速から東名高速用賀IC、環状八号線、第三京浜道路を走っていたら、東京の世田谷区給田に住んでいた昭和61~63年の頃が思い出され、懐かしかった。
 以上、余談まで。

 以下に本展展示作品の中から、幾つかをご紹介する。

[01]「神奈川県立近代美術館葉山」前の駐車場にて
 01

[02]「同美術館」東側から太平洋(=相模湾)をbackにして
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[03]本展leaflet/絵(左側)は、金山康喜『静物』1957年
 03leafletcoffee_mill1957

[04]金山康喜(1926-59)『聖ユーレリウスの器(St. Eurelius' Vessel)』1949年
 04192659st_eurelius_vessel1949

[05]同『聖ユーレリウスの器(1)(St. Eurelius' Vessel(1))』1949年
 051st_eurelius_vessel11949

[06]同『壜のある風景(Scenery with Bottles)』1950年頃〔メナード美術館所蔵〕
 06scenery_with_bottles1950

[07]同『食前の祈り(Prayer before the Meal)』1950年
 07prayer_before_the_meal1950

[08]同『静物[Coffee millと時計のある静物](Still Life[Still Life with a Coffee Mill and a Clock])』1954年
 08coffee_millstill_lifestill_life_w

[09]同『静物О[鏡の前の静物](Still Lif O [Still life in front of a Mirror])』1956年頃
 09still_lif_o_still_life_in_front_o

[10]同『静物S[ドアとテーブルの上の静物](Still Life [Still Life on a Table with Door])』1958年
 10sstill_life_still_life_on_a_table

[11]同『未完[風景画](Unfinished Work[Landscape])』制作年不詳
 11unfinished_worklandscape

[12]猪熊弦一郎(1902-93)『相模ダム(Sagami Dam)』1948年頃
 12190293sagami_dam1948

[13]同『窓(Window)』1947年
 13window1947

[14]佐野繁次郎(1900-87)『画家の肖像[死んだ画家](Portrait of Painter[Dead Painter])』1959年/1964年加筆
 14190087portrait_of_painterdead_pai

[15]藤田嗣治<レオナ―ル・フジタ(Leonard Foujita)>(1886-1968)『花を持つ少女(Girls Holding Flowers)』1952年
 15leonard_foujita18861968girls_hold

[16]田渕安一(やっせ)(1920-2009)『母子像(Mother and Child)』1952年
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[17]野見山暁治(1920- )『ベルギーのボタ山(Coal Heaps in Belgium)』1954年
 171920_coal_heaps_in_belgium1954

[18]同『落日(The Setting Sun)』1959年
 18the_setting_sun1959

[19]菅井汲(くみ)(1919-96)『犬、魚、鳥(Dog, Fish, Bird)』1953年
 19191996dog_fish_bird1953

[20]関口俊吾(1911-2002)『パリ、エコール・デ・ボザールの中庭(Inner Courtyard, Ecole des Beaux Arts, Paris)』
1939年
 2019112002inner_courtyard_ecole_des

[21]佐藤敬(1906-78)『尖塔のある風景(Landscape with a Tour)』1956年
 21190678landscape_with_a_tour1956

[22]荻須高徳(1901-86)『線路に沿った家(Apartments along the Route)』1955年
 22190186apartments_along_the_route1

[23]同『洗濯場、オーベルヴィリエ(Lavoir, in Aubervilliers)』1958年
 23lavoir_in_aubervilliers1958

[24]今井俊満(1928-2002)『蝕(Eclipse)』1962年
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[25]岡本半三(1925-2012)『パルテノン(Parthenon)』1956年
 2519252012parthenon1956

[26]同『腰をおろす[横向き](Seated Nude)』1958年
 26seated_nude1958

[27]堂本尚郎(ひさお)(1928-2013)『絵画(Painting)』1957年
 2719282013painting1957

 金山より6歳年長で、金山がParis滞在時に親交を重ねていた、昨秋文化勲章を受章した野見山暁治氏が「カナヤマ」というessayを寄稿している。
 Essayistとしても有名な野見山氏の軽妙洒脱な筆致に拠り、金山康喜のひととなりの一端を垣間見ることが出来るので、ご紹介したい。

 ※ ※ ※ ※ ※

 金山康喜とはパリであった。小学校の級長みたいな利発な顔をした小柄な男だ。
 ながい戦争の果、ようやくにも日本が国として認められたばかりの1953年初頭、これもながい船旅の先に辿り着いたパリ。ずいぶん昔の話だ。霧氷がぎらぎらと並木の枝々に凍りついた真冬。
 紹介されたときもそうだが、同じメゾン・デュ・ジャポン(日本留学生会館)で暮らすようになっても、カナヤマはぼくの顔を見なかった。いつも素知らぬふうに通りすぎる。
 ぼくに限らない、誰の顔も見なかった。路上で誰彼に道を尋ねられても、知らんぷりをして通りすぎる。耳が悪いのだろうか、ソルヴォンヌ大学に通って経済学を専攻しているというし、難しい経済学の本を訳したとも聞いていたが。
 当時のメゾンには加藤周一(1919-2008)、柳宗玄(やなぎ むねもと(1917- ))、それにサルトル(1905-80)を研究している白井浩司(1917-2004)といった人たちが住んでいて、1階のサロンで顔を会わすことが多かった。幼い顔立ちのカナヤマは、こうした面々から軽く扱われると、その言葉の端を摑まえて、どこまでも食いさがる。
 火鉢の灰に埋もれているカチ栗のように、油断していると撥ねますからね、と森有正(1911-76)がカナヤマのことを評した。森さんのいうのは本当だろう。
 撥ねるのが嬉しくて、カナヤマはその機会をいつも待っているのかもしれん。
〔中略〕
 カナヤマはこの巨匠と友達だ。フジタ(=藤田嗣治)夫妻がドライブに誘うのだが、ときにカナヤマは居留守をつかう。巨匠はその話をぼくにしながら、あいつ、人をからかうんだよ、と憎からず思っていた。たしかに、カナヤマは自分自身をも、からかっている。
 三十までは絵を描く、四十になったら推理小説、五十になったらモード・デザイナーや。
 本当にやりたいことがあるのか。カナヤマは思考実験<いや思考体験>という言葉をよくつかった。脳の内で、思うことの結末まで見えてくるらしい。しかし、現実は、どこにも突き当たらない。たいていは寂しい顔をして、ただ歩いていた。
 以前、メゾンに住んでいる時、モーター付きの自転車で走っていて、停車していたトラックのドアがいきなり開き、したたかに胸を打って、それが原因かどうか、スイス山麓のサナトリウムに一年半ほど入院していた。〔中略〕
 退院してからだと思うが、カナヤマは睡眠薬で、ぼんやりとしていることが多くなった。放心の状態になりたくて、飲んでいるようにもみえる。なまぬるい肌を持った人間のひしめくこの世がうっとうしくて、どうにもやりきれんというのが本音だろう。
 ちょっと日本に行ってくる。鍵をぼくに預けて、カナヤマはおそろしく唐突に、故国へ飛びたった。そうして次の年の夏が近づいた頃に、ふいとこの世から姿を消した。
 日本から送られてきた新聞には、不慮の死として報じられている。したたかにアルコールと睡眠剤を飲んで倒れているのを発見されたと結んであった。
 いつ死んでもおかしくはない。カナヤマを取り囲んでいるこの世は、すべて仮像(かぞう)だ。日々をどう生きてゆけばよいのか、たったひとり。
 命と引きかえの透明な美しさが、残された数少ない画面に刻印されていることに、ぼくは初めて気がついた。誰に見せるでもない、自分の世界が確認されればそれでいい。
 友人が日本に帰るための荷造りを手伝っていたカナヤマは、自分の作品を梱包用の包み紙の代用に使ったりもした。〔中略〕
 もし、カナヤマが生きていて、推理小説を頭の中で筋立てることはあっても、書きはしない。モード・デザイナーとして楽しんでも、着て歩く女はいない。独りぼっちの世界は、何をよすがに生きてゆけばよいのか。
 パリに残された作品、アトリエといわず画商の手に回った分も、ぼくは一枚残らず故国の親許に送り届けたが、カナヤマが生きていたら、なんでそんな余計なことをすると言いだしたに違いない。
 まして、カナヤマがこの世を去ってから五十数年を経た今ごろ、展覧会をもくろむことに、なんの意味があるのだろう。
 しかし遙か以前、ぼくの若かった一時期、この世を覗いたカナヤマの目の、きらびやかな光は隅々まで行き渡っていて、キャンバスに彩られたものは色も褪せずに、悲しいままだ。

 ※ ※ ※ ※ ※

【小生comment】
 金山康喜の作品をご覧になって皆さんはどう感じられましたか?
 金山の作品は、果たして「新鮮な」と言っていいのか解らないが、確かに不思議な魅力を持った具象画である。
 Unbalanceに見えるがよくみると計算されたbalance ある構図。
 そして、青色を主体とした色遣い が彼の特徴と言える。
 小生は、本展でも展示されていた添付写真の絵 [06]同『壜のある風景』1950年頃 を2年余り前メナード美術館で見て以来、彼の作品が好きになった。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/26-04261222coll.html ←2012.12.30付【2637会 0426】

 野見山暁治は、具象から抽象へと画風が大きく変遷していったが、33歳で急逝した金山康喜がもっと長生きしていたら画風はどの様になったか?
 野見山が紹介している様に、金山の死因はalcoholと大量の睡眠剤。直接的には、結核に拠る病死ではなかったのである。
 金山の死は、彼が新たな画風を模索している時期と重なる。
 限界を感じての所作なのか、今となっては解らない。

■続いて訪れたのが、山口蓬春記念館である。
 神奈川県立近代美術館を訪れる直前、「そうだ! 此処は以前(注)、中嶋君等と訪れたことがあるぞ」と思い出した。
 (注)その時(2012年12月09日(日))の模様は、《会報》【0424】号にて、山口蓬莱と彼の作品群についての詳細は同じく【0425】号にてご紹介している。
 以下のURLをご覧下さい。
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-85df.html ←2012.12.18付【2637会 0424】
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/26-042512091216.html ←2012.12.23付【2637会 0425】

 神奈川県立近代美術館 葉山 の道路を挟んで向かい側(=東側)の山側に、山口蓬春記念館はある。
 折角、此処迄来たのだから、寄らない訳にはいかない。
 時間もまだ午後03時過ぎである、遅い時間ではないので入館することにした。
 当館は、紅白梅が満開を迎えていて大変綺麗であった。
 以下、その写真と、館内に展示されていた山口蓬春の絵画を3点ご紹介する。

[28]山口蓬春記念館 入口
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[29]同記念館入口に掲示されていた開催中の「企画展」看板
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[30]同記念館前庭の梅林
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[31]同上の紅梅
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[32]同上の白梅
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[33]山口蓬春(1893-1971)『枇杷』1956年(山口蓬春記念館蔵)
 33189319711956

[34]同『瓶花(薔薇)』1965年(同上)
 341965

[35]同『新宮殿杉戸楓4分の1下絵』1967年(山種美術館蔵)
 35411967

【小生comment】
 山口蓬春記念館の邸内は、紅白梅が満開でとても綺麗だった。

■今日最後の話題は、最近読んだ長野正孝『古代史の謎は「海路」で解ける‥卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎだす‥」についてである。
 前《会報》にて中田力氏の本をご紹介したが、本書も日本の古代史について、今回は「海路」の視点で‥‥

 著者長野氏は「我国日本の古代史を『海路』というkey wordに着目して読み解いていくと、『日本民族は海洋民族』である」と述べている。
 氏は、「史実に基づき、信頼性高い文献と史跡、遺跡に基づいて傍証する努力をした。
 しかし、一次資料そのものが創作であり、記録も少なく、細部では正確さを欠き、かなりの推論した」とも述べているが、かなりの説得力を持っていると言と言っていい。
 氏の言う処の概略を示すと‥

 前漢武帝が、衛氏朝鮮を滅ぼして、朝鮮半島に楽浪をはじめ4郡を設置したのが紀元前108年。
 その頃、既に、倭人は日本海側にギリシャのポリス国家に似た小国を、朝鮮半島南部から九州、中国、近畿以東と数多く形成していた。
 当時の日本は、砂鉄から鋼を創り出す「たたら製鉄(←7世紀中葉に始まった)」が始まる前で、自ら原料の段階から鉄製品にする力を持ち合わせていなかった。
 其処で当時の日本は、専ら「鉄テイ(=金編に廷)」というingotを朝鮮半島から仕入れ、国内で鍛造して鉄製品を作っていた。
 その時、交易権を掌握していたのが丹後半島に拠点を置く、新羅系王族の子孫を王に戴く国であった。
 当時の遺跡から出土された舟の絵を見ると帆がない。当時の舟は帆船でなく手漕ぎだったのである。
 従って、海岸沿いに岩礁が多い丹後半島の沖合は舟を漕いで移動するより、陸に上げて曳いて半島の付根を東西に横切った方が余程安全だったのである。
 手漕ぎ舟は、漕ぎ手である人間が日毎に食料補給と宿泊&休息出来る港がないと沈没か漂流を意味する。即ち、成立しないのである。
 当時の日本海側の小国は、東方で多く産出された翡翠を、西方の大陸から持ち込まれた鉄テイと交換して成り立っていた。
 当該交易の覇権国が丹後王国だった時代が3世紀迄続いた。
 ところが時代が下り、4世紀の応神天皇時代になると、帆船が出現し、丹後半島を素通りして東西が交易出来る様になった。
 それにより丹後王国の衰退と新覇権国敦賀が誕生するのである。
 更に時代が下り5世紀後半頃になると、瀬戸内海を啓開(=障害を除去して水路を開くこと)した倭の五王最後の武、即ち雄略帝が登場する。
 それ迄は、瀬戸内海は干満の差が大きく、塩の流れが時と場所によっては時速20km近くにも達し、時速5km程度の手漕ぎの小舟では航行到底不可能な難所であった。
 日本の東西を結ぶ海路の主流が、この時初めて日本海側から瀬戸内海に移ったのである。

[36]長野正孝『古代史の謎は「海路」で解ける‥卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎだす‥」
 36

【小生comment】
 海路の視点で日本の古代史を見ていくと、倭人の国の定義が、大和朝廷の成立時期との兼ね合いを含め、かなり難しいことが解る。
 継体天皇の子、欽明天皇以降は間違いなく畿内に本拠を置く大和朝廷である。
 が、継体天皇以前ほ、倭国は、朝鮮半島の新羅・百済にも跨(またが)っていた数多の小国が割拠していた。
 因みに、ハングル語は、文法の形式が日本語と同じであり、歴史的に朝鮮と日本は同じ祖先を持つ民族であると言っていい。
 いずれにしても、日本の古代史を考察すると、何かロマンを感じる。

【後記】さて再び、山口蓬春記念館についてのこぼれ話を一つ‥。
 当記念館は、1991年10月15日に財団法人JR東海生涯学習財団(‥、現在は公益財団法人‥)が開館。
 山口蓬春氏の終の棲家であったもので、開館前年の1990年に蓬春未亡人春子夫人より土地・建物・美術品の寄贈を受けてstartした。
 現在の建物は、昭和初期建築と考えられ、戦時中は会社の保養施設として使用されていたという。
 蓬春氏は、1948年に彼の親友で建築として名高い吉田五十八(いそや(1894-1974))氏の助言もありこの建物を購入。
 1953年 新画室、1957年 1階の一部、夫々の増築と、1960年 表門の設計が五十八氏に拠って行われた。

[37]我家の庭に咲いた沈丁花
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 春のこの時季に漂って来る「沈丁花の香り」は、秋の木犀の花の香りに負けない位甘く強い。
 この花を見ていたら、今日の冒頭でお示しした上村占魚が沈丁花の香りについて読んだ句があった。
 この句も、上述の句同様、何処か「艷」を感じさせる‥

 沈丁の 香(か)にひたりいて 過去は過去  上村占魚

 では、また‥。

2015年3月14日 (土)

【時習26回3-7の会0539】~「02月21日:三菱一号館美術館『ワシントン・ナショナル・ギャラリー‥私の印象派‥』展を見て」「同左:国立新美術館『ルーヴル美術館』展を見て」「中田力著『日本古代史を科学する』&『科学者が読み解く日本建国史‥古事記・日本書紀の真意に迫る‥』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。さぁ、今日も【2637の会 0539】号をお送りします。
 今週半ばの10(火)~12(木)は、真冬に戻って仕舞った様な寒さでしたね。
 昨日からは、その寒さも緩み、今日は大分春めいて来ました。
 さて、今日最初の話題は、先週に引き続き、02月21日(土)に日帰りで東京の美術館3つのうち2つ目の三菱一号館美術館と国立新美術館の企画展についてお伝えします。
 先ずは、三菱一号館美術館『ワシントン・ナショナル・ギャラリー‥私の印象派‥』展からお伝えします。
 東京都美術館を発ったのが10時15分。
 東京メトロ(地下鉄)で、「上野駅→〔銀座線〕→日本橋(経由)→〔東西線〕→大手町」の所要時間が15分。
 そして徒歩7~8分で三菱一号館美術館に到着した。
 本展のsummaryについて、leafletのcommentを以下に引用する。

 ワシントン・ナショナル・ギャラリー(NGA ; The National Gallery of Arts, Washington)が、米国唯一の西洋美術を集めた国立美術館。
 12万点という驚くべき量と質を誇る収蔵品の殆どは米国市民からの寄贈に拠るものである。
 本展では、そのNGAの中で最も人気があるFrance印象派とPost-印象派のcollectionを展示する。
 このcollectionは、米国に於ける近代美術振興に大きな功績を残したAilsa(エイルサ) Mellonを中心に形成された。
 彼女は、NGAび創始者で実業家として成功(【小生注】銀行家で1929-32米国財務長官に就任‥)したAndrew W. Mellon(1855-1937)の娘である。
 彼女の繊細で洗練された感性に拠って、身近に置く為に収集された上質で上品な印象派作品群。
 纏まって館を離れることが極めて稀な作品群が、NGAの大規模改修を機に、日本初公開38点を含む計68点揃う。

 以下に本展展示作品の中から、幾つかをご紹介する。

[00a]三菱一号館美術館
 00a

[00b]三菱一号館美術館の道を隔てた東側にある三菱東京UFJ銀行本店
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[01]三菱1号館美術館への地下入口前にて
 011

[02]本展leaflet(表)/絵は、Renoir『猫を抱く婦人(Woman with a Cat)』1875年頃
 02leafletrenoirwoman_with_a_cat1875

[03]同(裏)
 03

[04]Camille Pissarro(1830-1903)『ルーヴシエンヌの花咲く果樹園(Orchard in Bloom, Louveciennes)』1872年
 04camille_pissarro18301903orchard_i

[05]ウジェーヌ・ブーダン(Eugene Boudin (1824-98))『オンフルール港の祭』1858年
 05eugene_boudin_1824981858

[06]Alfred Sisley(1839-1899)『ポール=マルリーの洪水(Flood at Port-Marly)』1872年
 06alfred_sisley18391899flood_at_por

[07]Edouard Manet(1832-1883)『競馬のレース(At the Races)』1875年
 07edouard_manet18321883at_the_races

[08]Vincent van Gogh(1853-90)『オランダの花壇(Flower Beds in Holland)』1883年
 08vincent_van_gogh185390flower_beds

[09]Odilon Redon(1840-1916)『ブルターニュの村(Breton Village)』1890年頃
 09odilon_redon18401916breton_villag

[10]Edgar Degas(1834-1917)『舞台裏の踊り子(Dancers Backstage)』1876/83年
 10edgar_degas18341917dancers_backst

[11]Pierre-Auguste Renoir(1841-1919)『アンリオ夫人(Madame Henriot)』1876年頃
 11pierreauguste_renoir18411919madam

[12]Paul Cezanne(1839-1906)『牛乳入れと果物のある静物(Still Life with Milk Jug and Fruit)』1900年頃
 12paul_cezanne18391906still_life_wi

[13]Pierre Bonnard(1867-1947)『西洋スモモ(Red Plums)』1892年
 13pierre_bonnard18671947red_plums18

[14]Edouard Vuillard(1868-1940)『マントルピースに置かれた花瓶(Vase of Flowers on a Mantlepiece)』1900年頃
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[15]同『画家の絵具箱とモスローズ(The Artist's Paint Box and Moss Roses)』1898年
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[16]Pierre Bonnard『花束(Banquet of Flowers)』1926年頃
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[17]同『画家の庭の階段(Stairs in the Artist's Garden)』1942/44年
 17stairs_in_the_artists_garden19424

【小生comment】
 三菱一号館美術館には10時40分に到着。
 ご覧頂いた様に、いずれも美しい絵画群である。
 流石は、Ailsa Mellon の審美眼に適った珠玉の傑作選である。
 その日は、最初に東京都美術館にて、点描の『新・印象派』展を見たので、線描である『印象派&Post-印象派』の作品を見たら気持ちが落ち着いた。

■次は、乃木坂にある国立新美術館へ向かうのだが、時間も正午前、三菱1号館美術館は旧・三菱本社。
 当美術館の道を挟んで東隣が三菱東京UFJ銀行本店である。
 当美術館周辺の地下街は、食堂街になっている。
 当日は土曜日で、且つ時間も11時半と昼食時間としては早かったので客足も疎らであった。
 仙台時代にちょくちょく食した「牛タン」の専門店を見つけたので、入ってみた。
 店の名前は「味の牛タン『喜助』」と言った。
 実際、牛タンも吸い物もとても美味しかった。

[18]牛タンのlunch「タレ」
 18lunch

[19]『喜助』の前にて
 19

■食事を正午に終え、最寄の東京メトロ(地下鉄)千代田線「二重橋駅」迄は徒歩数分。其処から「乃木坂」迄は一本で5駅。所要時間は10分。
 国立新美術館『ルーヴル(Louvre)美術館』展の目玉は、何と言っても、フェルメールの『天文学者』である。
 世界の大美術館であるLouvre美術館でも、フェルメール(Vermeer)の作品は、『レースを編む女』とこの『天文学者』の2点しか所有していない。
 その『天文学者』を見られると思ったら身体がゾクゾクした。

[20]本展leaflet(表)
 20leaflet

[21]同上(裏)
 21

[22] ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『鏡の前の女(La femme au miroir)』1515年頃
 22_la_femme_au_miroir1515

[23]バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『物乞いの少年(蚤をとる少年) Le jeune mendiant』1647-48年頃
 23_le_jeune_mendiant164748

[24]ヨハネス・フェルメール『天文学者(L'astronome ou L'astrologue)』1668年
 24lastronome_ou_lastrologue1668

[25]ジャン=バティスト・グルーズ『割れた水瓶(La cruche cassee)』1771年
 25la_cruche_cassee1771

【小生comment】
 本展の著名絵画の人気best3は上記[22][23][24]の3点。
 主催者側もそれを心得ていて、postcard の販売cornerも、当該3点が並んで展示してあった。
 小生は、『天文学者』が大変気に入ったので、お土産として額縁入りの作品を購入した。
 2009年に、国立西洋美術館(02.28~06.14)&京都市美術館(06月30日~9月27)に初来日した「レースを編む女」は見ていない。残念!
 小生が見て来たフェルメール作品は、2007年秋に国立新美術館にて「牛乳を注ぐ女」を見てから通算で12点(延13点)を見たことになる。

 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/26-03470619-572.html ←2011.06.24【2637の会 0347】豊田市美術館
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/26-035107230717.html ←2011.07.23【2637の会 0351】京都市美術館
 http://jishu2637.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/26-0402262012-p.html ←2012.07.14【2637の会 0402】東京都美術館

■今日最後の話題は、最近読んだ本から、中田力著『日本古代史を科学する』&『科学者が読み解く日本建国史‥古事記・日本書紀の真意に迫る‥』についてである。

[26]中田力著『日本古代史を科学する』&『科学者が読み解く日本建国史‥古事記・日本書紀の真意に迫る‥』
 26

 自然科学者が、日本の創世記時代について「科学的する」「科学者が読み解く」と題して書いた本という大変uniqueなものだったので読んでみた。
 本書2冊の趣旨は、ごく簡単に言うと次の様なことだ。

 ハプロタイプ(Haplotype)(=haploid genotype(半数体の遺伝子型)の略)という遺伝子の片方で、かつY染色体(=男)を辿っていくと、父系の遡ることが出来る。
 その結果、人類はAfricaから生まれたことが解る。
 その最初のY染色体を持った人間をAdamとすると、現在はA~S迄のハプロタイプに分類することが出来る。
 ハプロタイプ解析の結果、日本人の祖先は、D型40%(=縄文人)、О型40%(=弥生人)、その他20%に分類される。
 中国人の大半はО型に属すが、当該О型も幾つかに細分化される。
 〔‥中田氏の大胆な処は、当該ハプロタイプ解析から古代日本が建国される過程を‥中田氏なりに‥「科学的に」に論証している処で、主旨は以下の通り‥〕
 魏志倭人伝の伝える処の大半は真実である。
 宇宙考古学という静止衛星から撮影した地図を見て、原則、魏志倭人伝の記す通りに辿っていくと、邪馬台国の所在地は「宮崎県の宮崎平野=日向灘の地」となる。
 そして、神武天皇が即位するのは西暦280年頃。
 三世紀半ばの九州=日本建国の地には、既に全盛期を過ぎた国家、中国春秋時代「越」に滅ぼされた末裔が北九州博多の地に建国した倭の最初の宗主国「奴国」があった。
 その南に、新興国家「邪馬台国」と「狗奴国(=隼人=熊襲)」が覇権争いを続けていた。
 狗奴国と邪馬台国は、「徐福(注)」に連れて来られた貴族の末裔が建てた国。
 (注)秦の始皇帝時代、不老不死の薬を求めて東海へ若人3千人を引き連れていった「徐福」に連れて来られた貴族。
 この貴族とは、「周」の文王に王位を譲る為、出奔して行方知れずとなった伯父「太伯」が建国した「呉」で、その「呉」の王族の末裔。故に姓は周の文王と同じ「姫」。
 九州平定を済ませた大和朝廷は北へ向かい、出雲と対立する。
 やがて、国譲りを果たし、神武と大和朝廷は東征へと向かう(日本古代史を科学する「太伯と徐福」P.124)。
 万世一系の天皇家は、実は「神武王朝」→「崇神王朝」→「応神王朝」→「継体王朝」の4つの王朝に分かれている。
 この詳細は、実際に本書をご自身で読んで確認してみて下さい。
 真偽の程は兎も角、読み物としては大変面白く、一読の価値はあると思います。

【後記】春めいて来ると、必ず頭に浮かぶ名句がある‥

 菜の花といふ平凡を愛しけり 富安風生

 01

 では、また‥。

2015年3月 8日 (日)

【時習26回3-7の会0538】~「02月21日:東京都美術館『新印象派‥光と色のドラマ‥』展を見て」「あおぞら きりん著『3分でわかる 運のちから』を読んで」

■皆さん、お変わりありませんか? 今泉悟です。さぁ、今日も【2637の会 0538】号をお送りします。
 今日03月08日は、本格的な春到来の気配を実感した暖かな一日でした。
 5日前の03月03日は、『桃の節句』。この「桃の節句」は『上巳(じょうし/じょうみ)』とも呼ばれ、『五節句』の一つである。
 桃の節句に関連した名句を一句ご紹介したい。

 古雛(ふるひひな) をみなの道ぞ いつくしき 橋本多佳子

 【注】をみな=女、いつくし=厳し:威厳がある/厳(おごそ)かだ/端正で美しい

 橋本多佳子の作品には凛とした気品が備わっている。そして何処となくboyishな美しさを感じる。

 因みに、『五節句』は、「人日(じんじつ):01月07日」「上巳:03月03日」「端午:05月05日」「七夕:07月07日」「重陽:09月09日」。以上、余談迄。
 又、一昨日の03月06日は、二十四節気でいう『啓蟄』。
 この時期は、日々三寒四温を繰り返して暖かくなっていく。
 近所の梅が満開で綺麗である。

■さて、今日最初の話題は、02月21日(土)に日帰りで東京の美術館3つと、神奈川県三浦郡葉山町の美術館2つを見て来た。
 其処で今日は、先ず最初に訪れた東京都美術館『新印象派‥光と色のドラマ‥』展からお伝えする。
 その日は、拙宅を04時半に出て、東名・三ケ日IC→引佐JCTから→〔新東名高速道路〕→御殿場JCT→東名・海老名SA〔25分休憩〕→東名・東京(用賀)IC→〔首都高速道路〕→代官町IC→北の丸公園第2駐車場に08:30の開場時間過ぎに到着。走行距離291km。
 同駐車場を08時45分に発ち、徒歩2~3分で東京メトロ東西線竹橋駅へ。
 其処から日本橋駅で銀座線に乗り換え上野駅へ。
 同駅から徒歩10分弱で東京都美術館に到着したのが09時20分過ぎ。
 入館は出来たのだが、定時の開館時間09時30分迄の数分間は展覧会場入口前で並んで待たされた。

 ※ ※ ※ ※ ※

 本展は、昨年10月~本年初にかけての大阪 あべのハルカス美術館に続き、01月24日から当美術館にて開催されている企画展である。
 1874年の第1回から始まった「印象派展」が、最終回となる第8回印象派展を開催したのが1886年05月。
 この展覧会に、「新・印象派」の代表的な画家となるス―ラ(Georges P. Seurat(1859-91))やシニャック(Paul Signac(1863-1935))の作品が登場した。
 彼等「新・印象派」の作品は、揺れる水面や陽光の移ろいを捉えた「印象派」の作品から影響を受けている。
 点描に代表される細かい筆触で描かれた「新・印象派」の様式は、瞬く間に隣国ベルギーやオランダにも広がった。
 当該国の夫々画家達の解釈を通して独自に発展して行った。
 Seurat没後は、次第に色彩が豊かになって行った。
 そしてそのことは、マティス(Henri Matisse(1869-1954))に代表されるフォービスム(fauvism(=野獣派))誕生の源泉にもなっている。
 以下に、本展展示作品の幾つかをご紹介する。

[01]東京都美術館入口近くにて
 01

[02]本展leaflet(表)
 02leaflet

[03]同上(裏)
 03

[04]Claude Monet(1840-1926)『税関吏の小屋・荒れた海(The Cabin of Customs Examiners, Wild Sea)』1882年/日本テレビ放送網(株)
 04claude_monet1882

[05]Camille Pissarro(1830-1903)『暖をとる農婦(Peasant Girl Warming Herself)』1883年/吉野石膏美術振興財
団(山形美術館寄託)
 05camille_pissarro1883

[06]同『エラニ―の農園(A Field of Eragny)』1885年/サントリーcollection
 06a_field_of_eragny1885

[07]Berthe Morisot『ブ―ジヴァルの庭(The Garden at Bougival)』1884年/マルモッタン・モネ美術館
 07berthe_morisotthe_garden_at_bougi

[08]Paul Signac『ピエール・アレの風車、サン=ブリアック(Pierre Hale's Windmill, Saint-Briac)』1885年/個人蔵
 08paul_signac1885
 本作は、Signacがまだ点描という手法へ進んで行く前の作品

[09]Georges Seurat『セーヌ川、ク―ルブヴォワにて(The Seine at Courbevoie)』1885年/個人蔵
 09georges_seurat1885

[10]Paul Signac『鉄道の連絡駅、ボワ=コロンブ(The Railway Junction at Bois-Colombes)』1886年/Leeds Art Gallery
 10paul_signac1886
 本作は、上述の作品[07]から1年経過しただけだが完全な点描になっている
[11]マクシミリアン・リュス(Maximilien Luce(1858-1941))『モンマルトルからのパリの眺め(View of Paris from Montmartre)』1887年/プティ・パレ美術館
 111887

[12]Camille Pissarro『エラニ―の農家(Peasant's Houses, Eragny)』1887年/New South Wales州立美術館, Sidney
 12camille_pissarro1887

[13]同『花咲くプラムの木(Blooming Plum Tree)』1889年/姫路市立美術館(國富奎三collection)(本作品はあべのハルカス美術館のみの展示作品)
 13blooming_plum_tree1889

[14]ジョルジュ・レメン(Georges Lemmen(1865-1916))『ラ・ユルプのフルマリエ家(The Fourmarier Home in La Hulpe)』1888年/プティ・パレ美術館、ジュネーヴ
 141888

[15]Maximilien Luce『ルーヴルとカルーゼル橋、夜の効果(The Louvre & the Pont du Carrousel, Night Effect)』1890年/個人蔵
 15maximilien_luce1890

[16]テオ・ファン・レイセルベルへ(Theo Van Rysselberghe(1862-1926))『マリア・セート、後のアンリ・ヴァン・ヴェルド夫人(Maria Sethe, afterwards Mrs. Henry van de Velde)』1891年/アントワープ王立美術館, ベルギー
 161891

[17]Maximilien Luce『カマレの埠頭、フェニステール県(Quay at Camaret, Finistere)』1894年/ミシェル・アンド・ドナルド・ダムール美術館, Springfield, Massachusetts
 17maximilien_luce1894

[18]Theo Van Rysselberghe『オーギュスト・デカン(Auguste Deschamps, Uncle of the Artist)』1894年/プティ・パレ美術館、ジュネーヴ
 18theo_van_rysselberghe1894

[19]アンリ=エドモン・クロス 仏(Henri-Edmond Cross(1856-1910))『地中海のほとり(Mediterranean Shores)』1895年/個人蔵
 19_1895

[20]同『プロヴァンスの風景(Landscape in Provence)』1898年/ヴァルラフ・リヒャルツ美術館, ケルン
 201898

[21]Maximillien Luce『工場の煙突(Factory Chimneys)』1898-99年/個人蔵
 21maximillien_lucefactory_chimneys1

[22]Paul Signac『コンカルノー港(Port of Concarneau)』1925年/ブリヂストン美術館
 22paul_signac1925

[23]Henri Matisse(1869-1954)『ラ・ムラード(La Moulade)』1905年/個人蔵
 23henri_matisse186919541905

[24]アンドレ・ドラン(Andre Derain(1880-1954))『コリウール港の小舟(Boat at the Port of Collioure)』1905年/大阪新美術館建設準備室
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【小生comment】
 1886年05月の第08回印象派展が開催され、同年09月には、批評家フェリックス・フェネオン(1861-1944)が「テュイルリーの印象主義」と題された記事の中で『新印象主義(Neo-Impressionism)』と言う用語を使用した。
 Seuratは、点描と言う技法を用い、palette上で絵具を混ぜずに、画面に純色の小さな筆触を並べ、鑑賞者の網膜上で色彩が混ざる様に制作した。
 1884~86年にかけて彼が作成した『グランド・ジャット島の日曜日の午後』(シカゴ美術館)がそれである。
 この技法は、PissarroとSignacが直ぐに採用し、翌1887年にはベルギーにも伝播。Georges LmmenやTheo Van Rysselberghe等活躍した。
 1891年にSeuratが死去すると、同年Henri-Edmond Crossが分割描法の作品を描き始めた。
 Maximilien Luceは、anarchistで1894年に一次収監されたこともあり、労働者等社会の底層の人々を絵画の対象物として多くの作品を描いている。
 1905年、パリのサロン・ドートンヌでは、若い画家、Henri Matisse、Albert Marquet、Georges Rouault、Andre Derain、Maurice de Vlamanck等が、『新印象派』び分割描法に極めて自由な手法で朝鮮した。「フォーヴィスム(fauvisme=野獣派)」と呼ばれた画家達である。
 この様に『新印象主義』は、19世紀末から20世紀初頭にかけての西洋絵画の潮流に大きな影響を与えたのである。

■今日は、あおぞら きりん著『3分でわかる 運のちから』をご紹介して締め括りたいと思う。
 参考になる事柄について、「第5章と第6章」から幾つかご紹介したいと思う。

[25]あおぞらきりん『3分でわかる運のちから』
 25

 第5章/運体質をつくる9つの生活術
 1. 早起きで、運はグングンよくなります(P.115)
 →・健康を取り戻せる
 →・stressが解消出来る
 →・何事にも積極的人間になれ、人生に目的が出来る
 →・脳細胞が活性化され、集中力が増す

 2. プラスの言霊powerが、自分を守ってくれます(P.119)
 →・プラスの言葉は、自分の「徳」を膨らませることが出来る

 3. 些細な物事を徹底して習慣化しましょう(P.123)
 4.「笑い」は必ず福を呼び寄せてくれます(P.129)

 5. 読書を通して、先人の哲学や運を得られます(P.132)
 →・先人の知識を吸収出来る他に、教養や品性、知性といった人間性の部分迄磨ける

 6. 親孝行すると、運が大きく変わります(P.136)
 7. 縁起の良いものや場所は、幸福感を与えてくれます(P.140)

 8. 一流の文化・藝術が、豊かな心を育ててくれます(P.142)
 →・絵画や音楽‥これ等は普段の生活に輝きが生まれ、毎日が楽しく、豊かに過ごすことが出来、きっと良い運気を引き寄せてくれる

 9. 運気をupさせる風水の基本は掃除です(P.145)
 
 第6章/運が良くなる6つの気持ちの持ち方
 1. イライラ気分は、神ビリビリで浄化しましょう(P.153)
 2. challengeは、新しい出会いや環境を齎します(P.157)
 3. 一生懸命の努力の先に運が待っています(P.160)
 4.「自分は運が良い」と信じることで、本当になるのです(P.164)
 →・「自分は運が良いから」と信じることで、物事を良い方向に転換させて仕舞うことが出来る
 →・「自分が運が良い」と思っている人は、成功する迄繰り返しchallengeし続け、そして良い結果を引き寄せる

 5. 運は謙虚な人についてきます(P.167)
 6. 自分なりの「幸せ感」を持ちましょう(P.170)

【後記】
 良い習慣を身につけ、毎日を明るく元気に、心豊かに生きて行ければ、幸せな人生を全うすることが出来る。
 ‥で、小生、あと何年元気に生きていけるだろうか‥‥

 わが墓を 止まり木とせよ 春の鳥  中村苑子(そのこ)(1913-2001)

 では、また‥。

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